証言・南樺太 最後の十七日間 :藤村建雄

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サハリン島と言えば、いまは揺るぎもしないロシアの領土になってしまっているが、その
サハリン島は昔は日本では樺太島と呼んでいてその南半分(南樺太)は、1905年の日
露戦争の講和条約締結以降1945年までは日本の領土であった。
それが1945年8月の終戦間際のドサクサに紛れてソ連が突然日本に宣戦布告し、一方
的に攻め込み占領してしまったのだ。
ひときわ悲劇だったのは、恵須取町にあった太平炭鉱病院の婦長以下二十三人の若い看護
婦たちの集団自決だった。ソ連兵からの凌辱を恐れての集団自決だった。幸いにも周囲に
いた人達が気づいて救護に向い、自決を図った二十三名のうち絶命したのは六名だったよ
うだ。集団自決を図ったのはすでに終戦後となった八月十七日未明だったようだ。なんと
も残念な出来事と言うしかない。
しかし、悲劇はこれだけではなかった。真岡郵便電信局では、電話交換手だった十二人の
若い女性たちが、ソ連兵が郵便局に向かっ来るのを目の当たりにして、「乙女のまま清く
死にます」という言葉を残して青酸カリを呷り集団自決した。これもまたソ連兵からの凌
辱を恐れての自決だった。
このできごとは「真岡郵便電信局事件」として今でも語り継がれており、1979年には
樺太1945年夏 氷雪の門」として映画化されており、また2008年には「霧の火
樺太・真岡郵便局に散った九人の乙女たち
」というタイトルでテレビドラマにもなってい
る。
さらに悲劇は続いた。樺太から北海道へこぼれんばかりに避難民を乗せた緊急疎開船をソ
連の潜水艦が砲雷攻撃をして二隻は沈没、一隻は船体に大穴があき傾きながらも辛うじて
沈没をまぬがれて、やっとの思いで留萌港に入港するという「三船殉難事件」と呼ばれる
悲劇が起こった。
この他に、このソ連軍に南樺太侵攻時には、ソ連軍機やソ連兵による虐民間人の虐殺や女
性へのレイプなどがあちこちで行なわれたようだ。現代の戦争には戦闘員も非戦闘員も区
別はないと言われるが、既に終戦となり、白旗をかかげ安心している者に対してこのよう
な非人道的な殺戮行為は、いったいどのように解釈したらよいのだろうか。

2022年2月24日にロシアが突然一方的にウクライナに軍事侵攻を始めた。それから
もう三カ月近くが過ぎようとしているが、ウクライナとロシアの戦争は終わる気配はまっ
たくない。そして、この戦争においても、ロシア軍による民間人への虐殺やレイプが行な
われているという。
このようなロシア軍による残虐行為は今の始まったこではなく、シリアやチェチェンなど
での戦争においても行なわれたと言われており、これはロシア軍の悪しき伝統になってい
ると言えるのではないだろうか。
このロシアによるウクライナへの軍事侵攻では、ウクライナからの大量の避難民が発生し
ている。このウクライナの避難民たちは、この本で描かれている南樺太でソ連軍の突然の
侵攻によりで避難民となった日本人たちと同じような、たいへんな思いをしているのだろ
うと思うと、なんともやるせない気持になってくる。早くウクライナに平和が訪れてほし
いと願いばかりである。


はじめに
・昭和二十年七月、連合国は日本に対し、ポツダム宣言を発して降伏を迫ってきた。第二
 次世界大戦は誰の目にも連合国の勝利は明らかで、それに抗っていたのは、日本だけだ
 った。
・当時、日本の本土の一部である沖縄が陥落し、中規模以上の都市はほとんどB29によ
 る空襲で焼きつくされながらも本土決戦に最後の望みをかけていたが、同時に藁にもす
 がる気持ちで、中立条約を結んでいたソ連に連合国との和平仲介を依頼していた。ソ連
 は日本の要望を聞きながらも、米英両国にその内容と和平仲介の意思のないことを通報
 していた上、対日戦に備えて、ドイツを降伏させた部隊をシベリア鉄道で極東地域に輸
 送していた。
・日本側もソ連軍の動きを把握し、ソ連参戦時期の判断の違いはあっても、対日参戦その
 ものを疑う軍人はいなかった。それだけに、日本側がソ連の対日参戦意図に気付いてい
 るとソ連軍に悟られることが、逆に戦争を誘発すると考え、日ソ関係が極度の緊張状態
 にあることを民間人には一切知らせず、満州にいたってはソ連参戦直前まで開拓団を国
 境付近に送り込んでいた。
・樺太防衛は昭和二十年二月に編成された第八十八師団に託されていた。
・樺太はこれまで一度も空襲を受けたことがなく、東京をはじめ、日本各地の空襲で焼け
 出された人達が疎開して来ていた。またソ連と国境を接しながらも、民間人はソ連軍が
 対日参戦準備をしているとは思わず、日ソ中立条約の有効期限があと一年残っているか
 らまだ大丈夫と思う人が多かった。
・その樺太が八月九日、国境地帯でのソ連軍の砲撃によって、沖縄に続き日本国内で二番
 目の住民を巻き込んだ戦場となったのである。
・八月十五日に日本軍はソ連軍以外の連合国軍との戦闘が終了したが、樺太では民間人を
 も巻き込んだ戦闘が激化し、日ソ間に停戦交渉が成立したのは、八月二十二日。日本軍
 とソ連軍以外の連合国軍との戦闘終了から遅れること一週間である。民間人の死傷者は
 この一週間に集中している。
・しかし、ソ連軍は停戦協定成立後も軍事行動を継続し、それはソ連軍が大泊を占領する
 八月二十五日まで続いた。
・樺太でも沖縄戦と同様に十五歳から六十歳の男性、十七歳から四十歳の女性からなる国
 民義勇戦闘隊が編成され、恵須取ではソ連軍と直接戦闘が行なわれた。
・沖縄戦では疎開船である対馬丸が撃沈されたが、樺太戦では、樺太から北海道へ避難す
 る老幼婦女子を満載した緊急疎開船三隻が、北海道留萌沖でソ連潜水艦の砲雷撃を受け、
 二隻が撃沈、一隻が大破して1708名以上が命を落とすという痛ましい事件(三船殉
 難事件
)も起きた。
・偶然にも、対馬丸が撃沈されたのは昭和十九年八月二十二日、三船殉難事件が起きたの
 は昭和二十年八月二十二日と一年違いの同月同日である。ただ、この二つの事件には決
 定的な違いがある。対馬丸が撃沈されたのは「戦争中」であり、三船殉難事件が起きた
 のは、ポツダム宣言受諾後、とまり私たち日本人にとっての「戦後」である。
・八月十五日以降に自分たちの故郷から避難する人々の行列にソ連機による空襲が行なわ
 れたり、地上戦に巻き込まれた民間人による集団自決は、沖縄同様に樺太各地でも起き
 ている。
・北部国境地帯から着の身着のままで、はるばる樺太南部の豊原まで避難し、豊原駅前広
 場に集まっていた老幼婦女子に対し、ソ連軍機が銃爆撃を行ない、多くの死傷者を出し
 たのも「戦後」、それもソ連との停戦協定成立後である。

日ソ国境地域での戦闘
・日ソ国境から南に四キロ離れた半田集落は駅逓がある開拓地であった。駅逓とは北海道
 や樺太のような開拓地で宿泊、運送、郵便業務を担当する、半官半民の施設であった。
・当時、北樺太のオハでは、日ソ基本条約により日本の石油採掘権が認められたことによ
 り設立された、北樺太石油会社が油田開発を行ない、石油を日本国内に送っていた。
・樺太の警察は他の都道府県の警察とは違い、国境警備も担当していたため、軍隊と同じ
 重機関銃(重機)や小銃も装備しており、六名の警察官がいる半田の派出所にも配備さ
 れていた。
・また、警察だけでなく、陸軍の歩兵一個小隊約四十名の将兵も配備され、彼等と速射砲
(対戦車砲)一門、重機一門を収容する陣地(半田陣地)も築城されていた。
・昭和二十年八月九日、ソ連参戦の報とともに、小林連隊長から「この小隊は攻撃を受け
 ても一歩たりとも退いてはならぬ」との命令が半田陣地に届いた。
・命令を受けた兵士達は緊張のあまり、誰も便所に駆け込んだが、緊張で尿道が収縮して
 しまったのか、出るべき小便が一滴も出ない。 
・玉砕必至の半田陣地防衛である。一個小隊が守る半田陣地は「2〜3時間でも食い止め
 られればよいと思っていた」くらいの小規模な陣地であった。
・樺太の日ソ国境から侵攻を開始したソ連軍部隊は第56狙撃軍団1、狙撃旅団1、砲兵
 旅団1、戦車旅団1,独立戦車大隊2であった。(ソ連軍では歩兵のことを狙撃兵と呼
 んでいた)
・戦車3〜4両を伴った一個中隊が4〜5門の火砲の支援の下での攻撃で、半田陣地の正
 面突破を目指した。
・これに対する日本側は泉澤・大国両小隊と警察隊会わせて約百名であった。
・速射砲分隊は的確な射撃をしながらも、その砲弾をソ連軍戦車は、はじき返した。そこ
 で速射砲分隊は死角から境内に手榴弾を投げ込まれるのを恐れ、速射砲を壕の中から軍
 道上に進出させ、現実的な処置をとった。砲弾を対戦車用の徹甲弾から対人用の榴散弾
 に変えて、肉薄してくるソ連兵に対して砲撃を行なったのだ。このような守備隊の防戦
 に対し、ソ連軍は空から戦闘機による機銃掃射で反撃した。
・午後五時には、大国小隊は完全に包囲され、それでも小隊は肉薄攻撃、奇襲、猛射を行
 ない、ソ連軍を阻止すべく努めたが、機関銃までも破壊され、戦況は悪化するばかりで
 あった。
・この急場を救ったのは半田陣地より南西方向、八方山の聯隊主陣地の一角にある北斗山
 の山砲陣地からの砲撃であった。
・夜になると大国小隊長は夜陰にまぎれて、四方から押し寄せる敵に対し斬り込みを敢行
 し、戦場の露と消えた。
・しかし、半田をめぐる戦闘はまだ終わってはいなかった。大国少尉戦死後、泉澤小隊の
 滝内軍曹が両小隊の指揮を取り、再度態勢を整え、ソ連軍に斬り込みを敢行したが失敗。
 八方山の聯隊主陣地に撤収帰着した。
・なお、ソ連側戦史には十二日の攻撃で日本軍を全滅させ、陣地を占領したという趣旨で
 書かれているが、現実には無人の陣地を占領しただけであった。
・半田陣地がソ連軍の手中に落ちた八月十二日はまだ、民間人の北海道への避難である緊
 急疎開が始まっていない。緊急疎開が始まったのは八月十三日からであり、それ以前に
 居住地を捨てて、自主的に避難することはできなかった。
・半田陣地から中央軍道を南下すると亜界川が流れ、その亜界川の橋梁から、さらに南方
 約1.4キロ地点に師走陣地が築城されていた。
・日本軍は北樺太のソ連軍が南下する際、その主力部隊は中央軍道を使用すると予測して
 おり、師走陣地はそれを迎撃し、南下を阻む任務を帯びていた。
・半田陣地を占領したソ連軍は逐次南下し、師走陣地方面に進出してきた。
・ソ連軍は猛烈な火力を師走陣地に叩きつけ、その弾幕を利用して戦車、自走砲が随伴の
 歩兵に守られながら亜界川橋を渡って来た。ソ連軍の得意とする戦術である。歩兵は、
 自動小銃の腰だめ射撃でゆるやかな速度ではあるが、足並みを揃えて確実にせまった。
・満を持して徹甲弾を連続発射。しかし、半田陣地での戦闘同様に速射砲の放つ徹甲弾を
 一発残さずはじき返した。 
・ソ連軍戦車を撃破するには、もはや急造爆雷を抱いて戦車に体当たりをする肉弾攻撃
 (肉攻)しかなく、兵士は森林、草むらに潜んだ。そして戦車が接近するや、一人、ま
 た一人と飛び出して行くが、それらの多くは戦車からの機銃掃射や随伴するソ連兵の銃
 撃により、次々と途中で崩れ落ちていった。
・この激戦の中でもソ連軍は夕方になると戦闘をやめ、鉄条網で囲まれ歩哨と軍用犬に守
 られた陣地で、休息をとり、楽器を奏でたり、歌声が聞えて来たという。
・速射砲中隊に配備されていた速射砲は九四式三十七ミリ速射砲で、昭和十四年のノモン
 ハン戦でソ連軍戦車を相手に活躍した砲であった。しかし、今回のソ連軍戦車はノモン
 ハンの戦車ではなかった。独ソ戦におけるソ連軍勝利の立役者、T34だった
・T34を前に速射砲は全く歯が立たず、命中させても砲弾は音を立てて弾き返され、逆
 に速射砲の場所を確認した戦車砲によって次々と破壊されていった。
・かくして第四中隊をはじめとする第一大隊の生き残りの将兵は師走陣地を脱出し、北極
 山を経て主陣地の八方山に到着。予備隊として第一線を離れ、兵舎で休息がとれる古屯
 に隊列を組んで南下していった。その様子は、無精ひげをはやし、血の滲む包帯を頭に
 巻き、蒼白な顔をして、ある者は戦友の肩を借り、またある者は自らの足を引きずるよ
 うにし、憔悴しきった下士官・兵からは生気が感じられなかった。
古屯は、日ソ国境の北緯五十線から南に約十六キロのところにある村で、日本国内最北
 の駅があった。同時に、国境地帯の兵站拠点であり、国境方面からの三つの道路が合流
 する交通の要衝でもあった。
・ソ連参戦直後、古屯には輜重兵第二大隊、第三百一特設警備工兵隊、豊原地区第七特設
 警備隊、警察隊一個分隊、憲兵古屯分遺隊、そしてツンドラ地帯の道路建設に当たって
 いた栗山組の作業員などが集められ、警備・兵站を担当していた。
・八月十二日の午後、ソ連軍狙撃兵一個大隊が突如古屯に出現し、八方山にある主陣地へ
 移送前の物資もとろも古屯駅を占領した。
・国境地帯最大の激戦地である古屯での戦闘は、装備と兵力の劣る日本軍だけでなく、ソ
 連軍にとっても損害が大きかった。
・近代的な戦闘力は皆無と言っても過言ではない部隊がソ連軍に反撃を行なった。それに
 対するソ連兵は自動小銃を装備し、森林内には百五十ミリりゅう弾砲まで控えていた。
・ソ連軍は、森林での戦闘訓練を受けたか、実戦経験がある部隊だったようで、互いに鋭
 い口笛で合図を送り、よく連携のとりながら暴風雨のような自動小銃の弾丸を浴びせか
 けた。その上、森林内からは日本軍にはない百五十ミリ榴弾砲による、強力な砲撃で反
 撃したため、日本軍側は市街地より後方の屯田川まで後退させることにした。
・戦力的に明らかに劣勢であった為、日本軍の損害は少なくなかったが、執拗に攻撃を加
 えた結果、ソ連軍に精神的圧力をかけることは出来たようで、ソ連軍の行動は緩慢にな
 った。
・そして迎えた八月十五日、玉音放送により、内地だけでなく、中国大陸、アジア各地の
 日本人に戦争の終結が伝えられた日である。ソ連軍以外の連合軍は同日正午をもって、
 戦闘行動を停止した。
・昨夜以来雨も止み、立ち込めていた霧の中から次第に青空が見えだし、その合間から森
 林や兵舎を夏の日差し照らし始めた頃、ソ連軍の銃弾が、大隊本部の大隊長室の窓ガラ
 スを貫き、戦闘は開始された。
・攻撃したのは、第179狙撃隊を中心とする数千の部隊で、南北から古屯兵舎を挟み撃
 ちにするものであった。その部隊には火砲は百五十ミリ榴弾砲他十数門、戦車は五十両
 で、その中にはT34が三十数両も含まれており、師走陣地の戦いで傷つき疲れ切った
 第一大隊の勝てる相手ではなかった。
・ソ連兵の攻撃は緩慢ではあったが、自動小銃で装備された兵士の疎林、湿地地帯、市街
 地全域にわたる歩調を整えた進撃での腰だめ射撃による弾幕は、堰を切った洪水のよう
 で、日本兵の頭を上げさせなかった。
・午前十一時頃には古屯部落内に展開するソ連軍戦車約十五両が猛烈砲撃を開始した。そ
 の砲撃は至近距離からの水平射撃で、発射音と炸裂音は同時で、砲口の移動は目視でき
 るだけに恐怖心を湧き起こした。
・そのうち、急に霧が立ち込めてきたときには、急遽斬り込み隊を募り、ソ連軍に突撃し
 ようとする下士官もいたが、周囲の兵士の中には「頭がいたい」「腹が痛い」と言い出
 すものもいた。
・また、小銃をもたない兵士が肉攻班に指名され、戦車に向って飛び込んでいったが、中
 には戦車が近づくとおびえ足がすくむ者、いつの間にか姿を消す者もいた。これも生死
 をかけた戦場で起こった真実である。
・十六日の朝、ソ連軍の攻撃が開始されたのは午前五時頃のようである。戦車砲、榴弾砲、
 迫撃砲による間断のない砲撃。その砲撃の援護の下、ソ連兵は自動小銃を乱射しながら
 円形陣地に向けて前進を開始。明るくなると木のすぐ上をかすめるように飛来した戦闘
 機による機銃掃射と、それと入れ替るように飛来した爆撃機で陸と空からの攻撃はあた
 かも暴風雨のようであったという。
・かくして、八月十六日夕刻、古屯はソ連軍の手中に帰したのである。
・古屯で戦闘が始まった十二日、日ソ両軍の陣地はかなり近接していたようだ。敵が砲を
 撃ったあとの薬莢が、古屯川の川原の石にぶつかって、「ガラン、ゴロン、ガラガラガ
 ラ・・・」と甲高い音を立てて転がる様子が手に取るようにわかるくらい大きく聞えた。
 敵弾は日本陣地を飛び越え、古屯北方二キロにある幌見峠の中腹で盛んに炸裂していた。
・当時、聯隊内では、ソ連兵は突撃の際にウォッカを引っ掛けてくるという噂が流れてい
 たが、それは本当だったようである。突然、数十メートル先から元気な赤く若い顔をし
 てソ連兵が飛び出してきて、日本兵が籠もるタコ壺陣地に「バラバラ」と自動小銃を乱
 射して、反対側の斜め後方の林に一目散に駆け抜けていった。
・小林大隊長は酒に酔い気味で、第一大隊将兵や周囲の兵達をあつめて訓示をした。小林
 大隊長は、シベリア出兵に従軍しただけでなく、ノモンハン事変の際もソ連軍と戦った
 経験を持っていた。
・ソ連軍が古屯に投入した戦車はT26ともT34とも言われていたが、当時攻撃を加え
 てきたソ連戦車は主にT34/76だった。
・いくら聯隊砲が七十五ミリ砲であるからといっても、最大装甲厚四十五ミリの装甲版を
 貫通させることはできない。そこで、戦車の砲塔の回転部の付け根を狙って砲撃した。
 ここはかなりの隙間があり、これを狙えば爆風で中の人間はやられてしまうと教育され
 ていた。
・十五日朝、昨夜来の雨が上がり、霧も次第に流れ去り、青空が見え始めた頃、ソ連軍の
 攻撃が古屯各所で始まり、古屯橋南岸への最初の攻撃はなんとか撃退できた。しかし、
 二回目の攻撃はそうはいかなかった。
・今度はT34を伴う攻撃であった。至近距離からの戦車砲の水平射撃は、発射音と炸裂
 音は同時で、日本軍兵士は、その砲口の移動が目視できるため、恐怖心から逃れること
 はできなかった。そのためノモンハン事件当時のソ連軍戦車の三倍以上の厚さの装甲版
 を持つT34には全く歯が立たなかった。
・ただ面白いことに、ソ連軍はこの日の昼間のような激しい攻撃をして撃退された日でも、
 夕方になるとピタっと攻撃をやめ、日本軍のような夜襲はかけて来なかった。 
・日本軍の主陣地である八方山から古屯に至る途中に幌見峠があった。ここは元々日本軍
 が北樺太へ進撃する際、その拠点となるべく多数の鉄筋コンクリートのトーチカから成
 り立つ陣地があったが、戦局の悪化により八方山に樺太北部国境防衛のための主陣地が
 つくられ、幌見峠の陣地は放置された。そして、ソ連参戦後、ほとんど配兵されなかっ
 た。
・その幌見峠から古屯にかけての地帯をソ連軍は日本軍の主陣地と誤認していた。その幌
 見峠に対しても、ソ連軍は古屯攻撃と同日の八月十六日に攻撃を開始した。
・十五日の夜、無線第六分隊長の山本正幸伍長から以下の重要な知らせがもとらされた。
 山本伍長は本部の予備無線分隊として本部壕内で開設、受信態勢をとっていたが、時刻
 調節のために無線機の周波数をラジオ放送に同調して、午後七時の時報を傍受したとこ
 ろ突然、天皇陛下による終戦詔書の渙発と阿南陸軍大臣のこれに関係しての割腹自殺の
 ニュースを聞き、驚いて報告に来たとの事。
・連隊長は直ちに第2大隊長渡辺辰夫少佐、第3大隊長小笠原裕少佐を招致し、長時間の
 協議の結果、何らかの師団命令を持つことに決し、終戦情報によって直ちに連隊として
 は、停戦交渉に入ることはせず、作戦を変更することなく戦闘を継続することになった。
・大日本帝国憲法では、軍の統帥権は政府から独立したものであり、軍に対して、政府が
 命令することができなかった。政府と軍は並列する存在であり、軍に命令できるのは、
 政府の長である天皇陛下ではなく、大元帥閣下の名で発せられた停戦命令が必要である。
 これが当時の軍人としての正しい考え方であるから、停戦命令が発せられない以上、戦
 闘継続は、間違った判断でもなければ、上級司令部の命令を無視して勝手な行動を取っ
 たとも言えない。
・天皇陛下が軍隊を統率しているが、その統率は、天皇陛下の命令により編成された作戦
 軍内における、各撫隊上下関係に基づいて行なわれている。従って作戦命令は作戦軍内
 の直属系統の上意下達によるものとされていた。
・このことを前提に考えると、玉音放送は大元帥たる天皇陛下の命令ではなく、勅語であ
 り、直ちに作戦行動に影響を及ぼすものではないと考えられる。つまり、同聯隊は大元
 帥陛下の名で大本営陸軍部から発せられた停戦命令を直接上下関係にある第八十八師団
 より受けていないので、以前から受けていた戦闘命令が依然有効であると判断するのが、
 法的に妥当である。
・そのため、樺太に限らず各地で戦っていた日本軍が矛を収め、停戦交渉に入るのは大本
 営より同日夜「積極進攻作戦中止」を、翌十六日午後の「即時戦闘停止」の命令が出さ
 れ、それが各部隊に届いた後である。
・開戦時、日ソ両国は北方少数民族を使い、互いにスパイを送り込んでいた。特にソ連側
 は日本軍の事情をよく把握していたようだが、肝心な情報、つまり中央軍道沿いにある
 八方山が日本側の主陣地であったことは、最後まで気づいていなかった。
・八月十七日に終戦に関する最初の命令が届いた。ただ、どのような方法でこの命令がも
 たらされたのかは、不明である。この命令は、内容からすると八月十六日に出された自
 衛戦闘命令と思われる。この命令を受けて、小林聯隊長は聯隊主力による攻勢転移を取
 りやめ、自衛戦闘に転移したのであった。
・一方ソ連軍は日本政府がポツダム宣言を受諾したことを知らぬように、十七日も朝から
 八方山、北極山、七星山に対する攻撃を継続した。
・十八日午前二時に「戦闘中止命令」を受けたとある。これもどのような方法で八方山に
 命令がもたらされたかは具体的には書かれていない。
・この時、ちょっとした問題が起きた。それは軍使が持つ「白旗」がなかったのである。
 窮余の一策として、洗濯済みの清潔な「ふんどし」を集めて、縫工兵がそれを縫い合わ
 せて、白旗を完成させたという。
・この「白旗」を掲げて軍使一行は八方山を下山。日本側が大きく白旗を振ると、ソ連側
 も戦車の上から白旗を振り、それが合図であるかのように軍使一行は進み、ソ連軍と接
 触した。
・十八日午後二時、ソ連軍の誘導の下、半田警察署にてソ連軍司令官ビアクノフ少将と会
 見し、局地停戦交渉にあたった。ビアクノフ少将は降伏を求めるのに対し、小笠原少佐
 はあくまでも停戦を主張したため、交渉は平行線となった。
・そして十九日午前零時戦闘中止、同六時自ら武装解除という内容で交渉を成立させた。
・停戦命令を伝えられた将兵には大きな動揺と混乱が発生した。というのも「同日の午後
 三時三十分に出された、十九日黎明を期しての連隊全員の一斉突撃、即ち玉砕に通ずる
 命令から一転した停戦のための武装解除、陣地の撤収命令は十五日の和平のための大詔
 渙発」は知らされていなかったからである。八方山の各所から悲憤慷慨刷する者、戦闘
 継続を呼びかける叫ぶ者、涙する者等、様々な光景がみられた。
・下山して中央軍道にたどり着くまでの道にソ連兵が二列に並び、その間を日本兵は通っ
 た。それは決して日本兵の健闘を称え、ソ連兵が整列したのではない。日本兵が持つ万
 年筆や時計を奪うために並んだのである。その中には女性のソ連兵もいたそうで、それ
 に抵抗したものは射殺されたという。
・八方山での局地停戦協定が結ばれたが、ソ連軍は南下を続けた。
・その頃、八方山から南方約八十キロ離れた敷香では停戦協定成立に先立ち、老幼婦女子
 の緊急疎開が開始され、国境地帯から避難してきた人々の多くは敷香から緊急疎開列車
 で次々と大泊を目指した。
 
恵須取方面の戦闘
・沿海州を望む樺太西海岸最大の町、恵須取町は、昭和十六年の時点では樺太全島で最も
 人口が多く、昭和二十年十月には市制に以降する予定であった。
・製紙業と炭鉱で栄え、隣町の塔路町とともに、樺太北西部の産業の中心地であり、恵須
 取町には支庁もおかれ、この地域の行政の中心地でもあった。
・町の重要性を認識しつつも、兵力配置が出来たのは、八月九日のソ連参戦後であった。
・ソ連軍機は対日参戦前から領空侵犯事件を起こし、北緯五十度線からはるか南の真岡市
 街地でさえ、高速で飛行する姿が目撃されていた。
・また、鵜城南方の古丹沖や恵須取沖には潜水艦の浮上が相次ぎ、海も空も完全にソ連軍
 に押さえられたかの印象を与え、住民の心を動揺と不安の暗闇に陥れた。
・恵須取への空襲は、九日の夜の焼夷弾攻撃と銃撃から始まったが、十二日は激しく、執
 拗な波状的空襲が夜まで延々と続き、空襲警報のサイレンを鳴らす必要がないと思われ
 たくらいであった。
・焼夷弾で木造建築が中心の市街地はたちまち炎に包まれ、逃げまどう人々に対してソ連
 機は機銃掃射まで加えた。
・また、浜辺の倉庫付近にあった重油ドラム缶がソ連機の攻撃により、誘爆して、三百本
 ほどのドラム缶が空中に舞い上がり、火を吹いて落下する情景は凄惨そのものであった。
・このような中、ソ連軍は十三日未明に駆逐艦1〜2隻と潜水艦2〜3隻の小規模艦隊に
 よる恵須取への艦砲射撃を実施、上陸用舟艇2〜3隻で兵員を上陸させようとした。
・十三日のソ連軍の上陸を阻むことができたが、この日の攻撃で、市街地は灰塵と化した。
・樺太各地で国民義勇戦闘隊が編成されたが、戦闘に参加したのは、恵須取の国民義勇戦
 闘隊だけである。
・国民義勇戦闘隊とは、昭和二十年六月に成立・施行された義勇兵役法により、従来の国
 民義勇隊を基礎として編成された民兵組織である。その対象とされたのは、男性は十五
 歳から六十歳。女性は十七歳から四十歳である。
・国民義勇隊員の中核となるのは在郷軍人や警防団員だったが、組織ができただけで、肝
 心の訓練すら満足にできておらず、その装備を猟銃や先祖伝来の日本刀、それすらもな
 いものは竹やりというように、「自己調達」せざるを得なかった。
・ソ連軍が恵須取への上陸を試みた十三日、隣町の塔路でもソ連機は空襲を行なった。中
 でも一度も飛行機の離発着が行なわれたことのない浜塔路飛行場は激しい攻撃を受けた。
 そこにはソ連軍の目を欺くためにべニヤ板製のオトリ飛行機が「配備」されており、ソ
 連機はそれを執拗に狙った。
塔路町の阿部町長は、同町に残っていた二万数千名の老幼婦女子を恵須取町の太平炭鉱
 に避難させることにした。塔路町内の三菱炭鉱の坑内には、約千四百名の婦女子が避難
 した。 
・三菱炭鉱ではソ連軍上陸の際は、三菱炭鉱義勇戦闘隊は同坑内に避難した約千四百名を
 殺して、自らはソ連軍に斬り込むという決定をしており、坑口に土嚢をつんで封鎖し、
 坑内への通風管にダイナマイトを仕掛ける作業まで進められていた。だが、実際に爆破
 命令も出された際、爆破スイッチを押す職員が、自らの手で、約千四百名の婦女子を殺
 すことに、ためらい、躊躇した。そこへソ連軍上陸の報は誤報とわかり、大規模集団自
 決の悲劇は、危うく回避された。
・ソ連軍の上陸が誤報とわかったことにより、三菱塔路炭鉱での集団自決を防ぐことがで
 きたが、逆に自決した人も出た。それが竹田文雄博士だった。竹田医師は斬り込み隊に
 加わって出発する寸前、残していく妻と幼子らを思い、帰宅して次々と服毒させたあと
 家を出たが、やがてソ連軍上陸が誤報であったことがわかった。同医師は妻子のあとを
 追った。
・太平炭鉱病院は、病室ベッド数は五十、看護婦は婦長以下二十三名といった、島内でも
 有数の病院であった。しかし、戦局の悪化に伴い、医師は院長以下、次々と出征し、内
 地から招聘した医師ですら、八月になると全員退職してしまい、恵須取市街の病院の医
 師や開業医が交代で診察に来ていた。
・空襲後、手術室や処置室では叫び声、うめき声で溢れかえる中、看護婦達は必至に手当
 てしているところへ、太平市街の開業医の佐田医師が駆け付け、手術に取りかかった。
・佐田医師や看護婦達は空襲による負傷者だけでなく、塔路方面からの避難民の中の負傷
 者への手当てにも忙殺されているところに、鉱業所から彼女達に避難を促すために職員
 が来た。
・これに高橋ふみ子婦長(三十三歳)は毅然とした態度で「今朝入った負傷者の繃帯交換
 や入院患者の処置も残っているので私達はこの患者達を捨てて避難する訳にはゆかない
 からここに残る」と言い切って残った。
・その一方で、ソ連軍の空襲が終わった後、鉱業所の命令により同炭鉱の婦女子達は既に
 内路方面への避難を開始しており、多くの住民・避難民は町をあとにしていた。特に炭
 鉱関係者の住宅街では、婦女子の姿はほとんど見られなくなっていた。そればかりか、
 神社山に踏みとどまっていた義勇戦闘隊も警察の指示で解散し避難を開始していたとい
 う。
・ところが、同じ神社山をくりぬいた横穴防空壕で炭鉱病院の八人の重傷患者を守ってい
 た看護婦長以下、二十三人の看護婦達はそのことを知らされていなかった。
・町から逃れる人の中には、地元出身の看護婦の家族もおり、彼女を一緒につれて避難す
 るために病院まで迎えて来る者もいた。
・午後、佐田医師が帰った後、太平にとどまっていた男性炭鉱職員から高橋婦長は、ソ連
 軍が同日朝、塔路に上陸したことを聞かされた。
・さらに患者達は、若い看護婦達にソ連軍が到着したときに起きるであろう悲劇から守る
 ために、すぐにでも逃げるようにしきりに勧めていた。男性職員が事務所に戻り、病院
 にいる健康な人間が看護婦である自分達だけになってしまった。つまり、若い女性だけ
 になってしまったのである。彼女たちは看護婦としての使命感と女性としての恐怖の板
 挟みにあった。
・結局、彼女達が太平を脱出した時は、鉱業所から避難を促しに来た職員が帰ってから大
 分たっており、夜道を南に二十キロ以上離れた上恵須取を目指して歩いた。ただただ、
 安全な場所へ逃げる事のみを考えながら歩いた。
・当時17歳の看護婦だった今谷徳子さんは、高橋婦長は「ソ連で日本人慰留民らが虐殺
 された尼港事件の惨劇について語った。多くの女性が凌辱されたという。話を終えた婦
 長は静かに「最後を共にしましょう」と言ったと振り返っている。
尼港事件とはシベリア出兵に抵抗する革命政府側パルチザンによって、沿海州のニコラ
 イエフスク(尼港)にいた日本人居留民、守備隊員七百三十余名全員が虐殺された事件
 のことである。
・片山副婦長は自身が自決を決意した理由について「死を選んだのは、辱めを受けたくな
 いという日本女性としての自覚からでした」と語っている。
・二十三名の看護婦全員が、自決を決意したのち、自分達の荷物を武道沢にあった佐野農
 場の事務所前にある空地にまとめ、死地を求めて、婦長を先頭に歩き回った。
・誰からともなく櫛で髪を直し、同僚の髪にも櫛を当てた。その後、彼女達は「君が代」
 を歌い、「海ゆかば」も歌った。その後、星空の下で思い出すままに静かに「山桜」と
 いう歌を口ずさんだという。
・歌い終わると、二人の副婦長はソ連軍にみつからないようにするためか、風呂敷で光が
 漏れないようにろうそくを覆ってから灯を灯した。そのわずかな光を頼りに、自決の準
 備をすすめた。高橋婦長は自決に追いこまれたことを、自らの責任としてわびたという。
・そしてニレの木のまわりに身を横たえ、それぞれが自決用に所持していた劇薬を、ある
 者は注射し、またある者はあおいだ。しかし避難中に、劇薬のビンが割れてしまい、全
 員の致死量に足りないことがわかっていたため、婦長は出血死を併せることにした。そ
 こで各自は自らカミソリの刃を自分の手首にあて、切ることとなったが、どうしても思
 いきれない看護婦もいた。そういう看護婦達は婦長のところへ行き、手首を切ってもら
 い血だらけになって元いた場所に戻った。そのうち婦長は注射薬が効いてきて自らが力
 を失い、倒れる体を気力で起こして、カミソリを握っていたという。
・彼女達が自決を図っていたころ、丘の麓から心配そうに見つめる一人の老婆がいた。彼
 女の孫娘が看護婦の一人で心配のあまり、太平炭鉱病院の防空壕から脱出した時からず
 っと後をつけてきたのであった。そして丘の上で何かが起きているのを感じ、麓をうろ
 うろしていたところ、近隣の佐野造材部の人たちが老婆をいぶかって声をかけた。老婆
 から事情を聞いた造材部の人達が駆けつけ、救助した。
・自決をはかった二十三名のうち絶命したのは、十八歳から三十三歳までの婦長以下六名
 だけだった。彼女だちはニレの木の下に埋葬された。
・そして助かった者達が看護を受けている間の八月二十二日、日ソ間で停戦協定が結ばれ、
 翌二十三日にソ連軍先遺隊が豊原に到着。樺太の主人は日本人からソ連人に代わった。
・二十三日に、療養中の看護婦達に太平洋炭鉱病院から帰還命令が出された。二十七日に
 は重体者五名とその看護者を除き、片山副婦長以下十名が太平炭鉱病院に戻った。
・看護婦達の自決から三週間ほどたった九月六日、武道沢にて六人は荼毘に付され、簡単
 な葬式も行なわれた。その席には婦長の父親が同席し、「私の娘が死んでくれて本当に
 よかった。責任者として生きていて欲しくなかった」と涙ぐみながら挨拶し、看護婦達
 も肩を震わせて泣いたという。
・生き残った看護婦達が手首に白い包帯を巻いている姿はソ連兵をも感動させたという。
・阿部町長は、塔路飛行場にいた特警小隊とも連絡が取れず、住民保護のためには成否に
 疑問を持ちながらも、自ら白旗を作り、これを掲げながらソ連軍部隊に向った。
・ソ連軍に抑留された阿部町長がその後どのような処遇を受けたのかはわからない。しか
 し、町民を太平に避難させ、十七日に帰朝した新沼助役と同町の大熊住職らは、塔路ー
 太平の山道の入口付近まで下がってきたとき、道端に阿部町長、山口団長が撃たれ、血
 まみれで死んでいるのを発見した。自動小銃で射殺されていたのはこの二人だけでなく、
 警防団常備の四名で、なぜ阿部町長ら六名がソ連兵に射殺されたのか、未だ謎である。
・塔路港への上陸作戦は、ソ連軍史上初の渡洋作戦であり、上陸用の艦艇や装備はなかっ
 た。そのため、上陸用舟艇の代わりに魚雷艇を使用したと思われるが、同時に、魚雷艇
 は高速力を出せる点から、万が一、作戦に失敗した際、速やかに撤退できる点も考慮に
 入れていたと推測する。
・ソ連機は午前中は上陸部隊の近接航空支援を行なっていたが午後になると、攻撃目標を
 恵須取に変え王子製紙工場の爆撃を行なった。
・パレス陣地には、大勢の義勇戦闘隊員が集結して、四斗樽の鏡を抜き、酒をあおって、
 ある者は命を懸けて戦わねばならない恐怖心と戦い、ある者はこのあと始まるソ連軍と
 の戦闘に臨もうと士気を高揚させ、竹槍を手に横穴壕の中で目を血走らせ、またある者
 は、壕の中で火炎瓶作りを進めていた。
・町の上空ではソ連機が爆音を耳障りなくらい鳴り響かせており、この日は延べ二百機と
 も思われるソ連機が銃爆撃をくり返し、動くものとみると、人一人でも執拗に機銃弾を
 あびせかけた。ソ連機の行動は女子監視哨員が双眼鏡から目を離さずしっかり監視し、
 「七機編隊のソ連機、王子工場を爆撃中」という彼女たちの叫び声も鳴り響いていた。
・ソ連参戦以来、各地で国民義勇戦闘隊が組織されたが、日本軍と共に、組織的に戦闘に
 参加したのは、恵須取地区だけである。しかも、ろくな装備もない寄せ集め部隊が、地
 形と反撃のタイミングを活かして、数と装備に勝るソ連軍を撃退したのである。
・硝煙に包まれた銃弾、爆弾が降り注ぐ町内で、恵須取女子監視隊は対空・対海上監視業
 務にあたっていた。恵須取には本部のほかに四つの陣地があり、男性は副隊長と兵隊だ
 けで、あとは女子隊員が八十四人であった。
・女子隊員は白鉢巻にカーキ色の制服、足はゲートルに地下足袋といういでたちで、ソ連
 軍の初空襲の際、家族と水杯で別れ、任務についた。
・その頃、監視隊の本部壕には、六キロ北の入泊にソ連軍が上陸したという報告が入り、
 その後を追うように、パレス陣地から五、六百メートルの時点にソ連軍が進出し、特設
 警備隊・国民義勇戦闘部隊が交戦中との報告も入り、女子隊員には自決用の手榴弾が渡
 された。どの隊員の顔にも恐怖と緊張で青ざめ、体力も限界に近づいていたが、使命感
 から来る気力で自らを支えていた。
・恵須取から脱出した人々は、約二十四キロ離れた上恵須取に逃れ、そこから東海岸経由
 で大泊方面への脱出を考える者は内恵道路を使って、樺太の屋根と呼ばれた樺太山脈を
 徒歩で超え、樺太東線の駅のある内路に辿り着いた。真岡・本斗方面への脱出を選んだ
 者は珍恵道路を歩いた。そして珍内に辿り着いた者は、さらに南で国鉄樺太西線起点で
 ある久春内まで約五十キロ歩き、同地から汽車に乗り、真岡・本斗を目指し、船で北海
 道を目指した。避難民にとって、内恵道路、珍恵道路、どちらも地獄の如き避難路であ
 った。
・住民の避難誘導は在郷軍人や役場職員が行ない、秩序正しく避難していくことになって
 いたが、現実には疲労のため、自分と自分の家族のことで精一杯で、他人のことを構う
 余裕がなくなってしまっていた。
・避難民が歩く道端には、脱落してしまった者、家族の血の吐くような判断で置いていか
 れた者、周囲に、特に家族に迷惑をかけたくないという理由で自決に等しい決断をし、
 自ら内恵道路周辺に残留した者が出た。
・避難民は馬車、牛車、リヤカーに積めるだけの荷物や幼子、老人、病人を乗せ、歩ける
 者は背負えるだけの荷物を背負い、両手に持てるだけの荷物を持ち、あるいは、子供の
 手をしっかりと握って歩いた。中には、子供を紐で数珠つなぎに繋ぎ、紐のはしを自分
 の腰にしっかりと巻きつける母親もいた。
・暑さと疲労で、誰一人、口をきかず、足を引きずるように歩いている避難民に、昼間は
 ソ連機が低空で機銃掃射を浴びせかけた。不運にも機銃弾で母親が殺され、その母親に
 縋り付いて泣く幼児や子供。逆に子供を失い、そのショックで気が触れてしまった母親。
・避難民の中には、ソ連機が去り再び歩き出そうにも、これ以上歩けないという者もおり、
 彼らは家族に迷惑をかけられないと自らその場に残り、死の訪れを待つ老人や病人もい
 た。避難民の集団から取り残されるかもしれない不安から足手まといな幼子を崖から突
 き落としたり、死を持つばかりの嬰児を草むらに捨て、わずかなミルクを残していく
 母親などもいた。
・また、夜に赤子が泣き出すと「ソ連機に聞えるから、すぐ子供を静かにさせるか、殺せ」
 と母親に迫る者もいた。冷静に考えれば、航空機に乗っているパイロットに地上の赤子
 の声など聞える訳がない。しかし、正常な判断力を奪い、神経質にさせるほど、人々の
 心は追い詰められていた。
・このような避難行に心身ともに疲れ果てた人々の中から、自決用の手榴弾や劇薬を用い
 て一家自決が相次いだ。
・このように死に物狂いで内路に辿り着いた避難民の苦難はまだまだ続いた。内路の街は、
 十六日頃から西海岸の恵須取方面から内恵道路を踏破して来た多数の緊急疎開者でごっ
 た返していたが、大泊方面を目指す汽車も北部国境地帯からの避難民であふれかえり、
 内路駅からの乗車は困難であった。乗車出来た者も、大部分は大泊や豊原にたどり着い
 たものの、乗船には至らなかったようであった。
・内路や久春内にたどり着いた者は避難民を満載した汽車にしがみつくように乗車した。
 乗車できない者は線路沿いに歩いた。ひたすら歩いた。久春内に辿り着いた者は「真夏
 の熱い日差しと夜の凍える寒さに耐えた者」「自力で歩ける者」「徒歩での避難を助け
 てくれる者がいる者」であり、ソ連機の低空からの無差別攻撃から逃れ得た「幸運」な
 者であった。少なくとも、この段階では。

真岡方面の戦闘
真岡町は樺太西海岸のニシン魚をはじめとする漁業の中心地であり、製紙業でも栄えた
 人口一万九千人の町でニシン漁の最盛期には七千人〜八千人のヤン衆と呼ばれる季節労
 働者が訪れる活況をみせ、一時は「大泊を凌駕する勢い」があった。
・大泊という町は、樺太南部最大の港湾都市で、北海道の稚内との間を連絡船が八時間で
 結ぶ流通の拠点でもあり、まさに樺太表玄関であった。また、真岡同様に漁業と製紙業
 の町としても栄えていた。
・真岡港は三千トンの船が同時に四隻接岸できる日本最北にして樺太唯一の不凍港であっ
 たため、生活物資、開発資材の荷役港として問屋や倉庫業も発達していた。
・真岡住民及び北部からの避難民は身にまといつくような深い霧の中、八月二十日、運命
 の朝を迎えた。
・北海道への緊急疎開船は当初、前日に出港する予定だったが一日遅れ、この日、避難民
 を乗せて出港することになっていた。
・ソ連艦隊が突如、その姿を現したのは午前五時四十分のことであった。
・当時、真岡にいた人々は、軍民問わず誰もが大詔渙発から五日も過ぎ、ソ連軍が攻撃し
 てこないだろうという安心感を招き、ソ連艦艇の見物にでており、中には、物珍しさか
 ら海岸に家族を呼んで見物する者さえいた。
・真岡港に入ってきたソ連艦艇三隻は高速で「ダダダダダ」と銃を乱射しながら、疎開船
 の列に並ぶ人めがけて銃撃を加えて来たため、並んでいた人々は次々と倒れ、港は混乱
 状態に陥った。さらに甲板の上では銃を構えた将兵で一杯のソ連艦艇が埠頭に接近し、
 接岸するや否や、ソ連兵は銃を乱射しながら上陸してきた。
・どの家も、役場の指示に従い、降伏の意を示す白旗を掲げてあった。
・真岡警察署では午前五時頃、「ソ連軍が湾内に入る」との報により非常招集がかけられ
 ていたが全員そろうほどの時間は残されていなかった。真岡警察署署長は、非常招集に
 より集まった幹部署員を前に「われわれだけでも港にいって、ソ連軍を出迎えて平和交
 渉をなし、町内の安全をはかろう」と檄を飛ばしていた。そして署長を先頭に白旗を掲
 げ、歓迎のため署の裏口から出ようとしたとき、真岡港から上陸してきたとおもわれる
 ソ連兵の銃の乱射を受けた。
・当時、真岡の建物は官民問わず、役場の指示に従い、降伏の意を示す白旗が掲げてあっ
 た。にもかかわらず、早朝の静かな街にはソ連軍の砲声がとどろいた。ソ連軍は嵐のよ
 うな砲弾や銃弾を避難列車に、市街地に、港に、そして逃げ惑う住民に撃ち込み、防空
 壕には手榴弾を投げ込み、女性を見かけると、その場で強姦した。ソ連兵を恐れで、汲
 み取り式のトイレの肥し溜めの中に親子で三日間も隠れ、生き延びた母子もいた。夫は
 警防団としての任務を優先し、住民の避難誘導にあたろうとしたが、ソ連軍に拘束され、
 射殺された。それをしらない妻は懐に出刃包丁を忍ばせ、子供達と三日間も臭気に耐え
 た。彼女が懐に忍ばせた出刃包丁はその後、三度、ソ連兵から彼女の身を守ってくれた
 という。
・真岡郵便電信局(真岡郵便局)の十二人の電話交換手達は、ソ連艦隊接近の報を接して
 も持ち場を離れず、冷静に業務を遂行していた。彼女たちはお互いを「決死隊」と呼び
 合い、町民の避難完了後、師団通信隊にその業務を引き継ぐことになっており、それま
 で通信業務を維持する任務を課せられていたという。
・八月二十日早朝、真岡郵便局から約二百メートル離れた分室で就寝中だった上田豊蔵真
 岡郵便局長のもとに、五時四十分、電話主事補高石ミキより緊急連絡が入った。
・分室を出た上田局長は急ぎ足で局に向いながら構内を見ると、大きい軍艦二隻と駆逐艦
 程度の船二隻が港内に侵入して来るのが見えた。それぞれ甲板には兵隊が並んでいた。
・それから一、二分、ちょうど局まであと五十メートルほどの栄町二丁目の角にかかった
 とき、突如、地軸を揺るがすような砲声が響き、追いかけるように機銃がいっせいに火
 を吹いた。
・上田局長は左手に貫通銃創を負った。上田局長は十字街で動けないままソ連軍の捕虜と
 なり、郵便局の裏の庁立病院に収容された。
・ソ連兵は郵便局の正面の岸壁から上陸し、そのまま市街地に突入し、木造二階建ての郵
 便局にも流れ弾が飛び込んできた。
・郵便業務は一階で行なわれていたが、一階にいた人々は長い棒に白いシーツを結び付け
 て、窓の外に出した。この内、部屋の奥の押し入れまで這って入った人は助かったが、
 防空壕に入ろうと外に飛び出した人は殉職した。
・一方、電話交換業務は二階で十二名の電話交換手が遂行していた。気丈に業務遂行に当
 たっていた彼女達であったが、ソ連兵が郵便局の近くまで迫って来た。
・窓から見えるソ連兵の姿は彼女たちに「死」の選択をさせる後押しになったのではなか
 ろうか。
・真岡郵便局から止まり泊居郵便局に「今、みんなで自決します」という電話がかかって
 来たのは、午前六時半ごろだったという。所局長は、電話をかけてきた交換手に「絶対
 毒を飲んではいけない。白い手拭いでもよいから入り口に出しておけ」と、必至になっ
 て叫んだ。しかし、電話の向こうから「高橋さんはもう死んでしまった。交換台にお弾
 丸が飛んできたし、もうどうにもならない。永々御世話になりました」と言われたとき
 には、みんなで泣いてしまったそうである。
・最初に青酸カリを服毒したのは、電話主事補高石ミキであった。それまで交換台につい
 ていた交換手達は、後に続くように各自、紙包みにいれてあった青酸カリを口に入れ、
 やかんから湯呑に注いだ水で一気に飲みほした。そのため、彼女達の青酸カリを飲んだ
 口から、叫び声、うめき声が上がり、その声は部屋を埋め尽くした。
・ソ連艦隊の砲撃が始まり、最初に青酸カリを仰いだのは、高石ミキであった。それに誘
 発されたのか、五名の交換手が次々と青酸カリを飲み、高石の後を追った。しかし、毒
 を飲まなかった者もいた。ある交換手が、その場にいた他の五名の交換手に、豊原郵便
 局に指示を仰ぐことを提案した。そして、豊原郵便局電話交換室に真岡郵便局から電話
 がかかってきた。既に六名が自決したこと等を報告し「指示を求めた」という。その声
 はすごく早口で切羽詰まった口調だった。それに対して電話主事補ら複数の交換手達は、
 代わる代わる、必死に自決を翻意させようとした。
・真岡郵便局の交換手は泊居郵便局にも三回電話をしていた。
・一回目の時刻は六時半頃だった。真岡はソ連艦隊の攻撃を受けているという報告で、い
 まから避難するという言葉を最後に電話が切れた。それからしばらくして、二回目の電
 話が真岡よりかかって来た。電話をかけてきたのは、一人の交換手だった。彼女は局の
 裏側にある下水溝に隠れていたのだが、銃撃を隙をついて再び交換室に戻ったのだ。し
 かしそこには、自分以外の交換手達が自決を遂げており、泊居郵便局に電話をかけて来
 たのであった。泊居郵便局の交換手は彼女を懸命に励ましたが、彼女も泊居郵便局の交
 換手に別れを告げたのち服毒した。この後、どれくらいたったのか不明であるが、三回
 目の電話がかかってきた。真岡郵便局の状況は緊迫しており「銃を持ったソ連兵が、局
 の周りを行ったり来たりしています」「やがて交換室にもソ連兵がやってきそうです」
 という状況を伝えて来た。この時、交換室には、電話をかけてきた人物を含め六名がい
 た。泊居郵便局の交換手達は豊原動揺に、代わる代わる、真岡の交換手に生きるよう涙
 を流して説得した。しかし、ついに真岡の交換手は「もうみなさん死んでいます。わた
 しも乙女のまま清く死にます。泊居のみなさん、さようなら」という言葉を最後に、交
 信が途絶えた。
・それでも電話線を切らずに、彼女たちの返事を期待して真岡局の呼び出しレバーを押し
 続けた。ところが、突如交換手の耳に聞えてきたのは「アロ、アロ」というロシア語の
 男性の声だった。この時、泊居局の交換手は真岡局の同僚の死を確信したのだった。
・なお、真岡郵便局員でこの日、殉職したのは彼女たちだけでなく、戦闘のさなか回線の
 修理業務を行なっていた技師をはじめ、合計十九名に上った。なお、電話交換室でも奇
 蹟的に三名が命を取り留めた。
・他にも真岡中学校の軍事教練助教官江村孝三郎少尉がその妻子四人と隣家の平野太郎体
 育教諭の妻子二人の計六名を江村家仏間にて首を落とした後、隣室で割腹。鴨志田英語
 教諭は妻子四名を殺害した後、カミソリ自刃している。元陸軍軍曹長であった真岡第二
 国民学校の佐藤源一郎教諭も、家族全員の首を落とした後、自決した。また、真岡神社
 の湖山博氏は白装束に着替え、ご神体を抱いて本殿のそばで胸を包丁で一突きして坐っ
 たまま亡くなっていた。
・逃げ遅れた人や、逃げることを潔しとしない人々の自決が多発した。 
・また、幼子をつれて防空壕に逃げ込んだものの、子供が泣き出したがために、周囲の人
 からソ連兵から皆が見つからないよう、防空壕から銃弾飛び交う外に出るか、子供を殺
 すよう迫られた母親。逃げ切れないと思い、家族全員死のうとし、我が子を己の手で殺
 し、自分も死のうとしたが、死にきれず己を責め続ける者等々、地獄絵図そのものだっ
 た。
・これは自決した人々が民間人とは言え、「生きて虜囚の辱めを受けず」という教えに縛
 られていたというわけではない。むしろ、恵須取方面での数多くの自決の際に語られた、
 シベリア出兵のさなかに起きた尼港事件で赤軍パルチザンが日本人を虐殺したことが再
 現される恐怖。特に婦女子は凌辱された上に惨たらしい方法で殺されることを恐れてい
 たからである。太平炭鉱病院看護婦の集団自決と同じ原因であり、樺太に住む人々の共
 通認識と言っても過言ではないだろう。
・この日の夕方、真岡高等女学校の寄宿舎にいた女学生と、三人の先生とその三家族の全
 部で二十五名くらいが小野宅に逃げて来た。大人の男性は港に連れて行かれ、女子供だ
 けだったため、ソ連兵の乱暴狼藉を恐れ、屋根裏に小野氏のお姉さんと四、五人の女学
 生を隠した。
・作りかけの壕に隠れていた池端氏の眼前に突如ソ連兵の顔が現われた。茶褐色の軍服を
 着たソ連兵は自動小銃を持っており、ロシア語で何かを言った後、万年筆と腕時計を強
 奪され、拘束された。ソ連兵に意見を言っていた僧侶や警防団長は射殺されたという。
・ソ連兵は、捕らえた十六歳以上の男子を道路上に二列に坐らせ、その中から国民服、警
 防団服および戦闘帽、カーキ色の服などを着ていた者を否応なく「あなたは兵隊」と一
 方的に抜き出して真岡港岸壁に立たせては、機関銃掃射を浴びせ、射殺した。
・戦闘員・非戦闘員に関係なく、非武装で捕えた者をいきなり射殺する行為は、虐殺以外
 の何ものでもなく、決して許される行為ではない。
・当時ソ連軍狙撃団の一員として真岡戦に従軍していたクーツォフ・アレクセイ氏は、
 NHKに取材に応じ、当時のソ連兵の様子を以下のように語っている。
 「身を守るために動くものは何でも発砲した。他の兵士達が放火をしたり、逃げ遅れた
 日本人の女性を強姦していた」 
・真岡郊外の荒貝沢にいた歩兵第二十五聯隊第一大隊長仲川義夫少佐は、既に終戦後終日
 を経過したので、いよいよソ連軍が平和進駐するであろうと判断し、軍使ら派遣を考慮
 していた。軍使には信頼する大隊副官の村田徳兵中尉を選び、少しロシア語のできる軍
 曹を通訳とし、それに随員、護衛など十三人の人選も済ませていた。
・八月二十日朝、仲川大隊長は真岡方面から聞えてる砲声、銃声からソ連軍の上陸を理解
 し、軍使村田徳兵中尉の派遣を決定。訓示のあと決別の水さかずきをかわし、これを送
 り出した。
・村田軍使一行は、豊真山道お真岡方面へ降りて行った。避難民の群が長蛇の列をなして
 逃げてくる。この群をかきわけるようにして、やった町に入り、鉄道の踏切のところま
 で来た。霧はもうすっかり晴れていた。踏切の向こうに一隊のソ連兵がいて、こちらの
 白旗をはっきり認め「とまれ」と命じたので、通訳が軍使であるむねを告げ、二言、三
 言やりとりしたと思ったら、いきなりソ連兵は自動小銃を乱射、村田中尉以下なぎ倒さ
 れるように殺されたという。
・ソ連軍が荒貝沢の第一大隊の前に姿を現したのは、二十日午後三時半頃であった。避難
 民の豊原方面への避難路を確保していた第一大隊とソ連軍との間で、小規模の戦闘が発
 生した。ソ連軍主力は真岡市街地から動かなかったが、ソ連軍機は終日、真岡、逢坂に
 対し、間欠的に爆撃を繰り返した。
・この夜、日本軍は軍使が殺害された踏切の少し手前にある橋を爆撃し、ソ連軍の進撃を
 遅らせようとした。
・ソ連軍が真岡に上陸した後、山澤聯隊長は真岡住民の豊原方面への避難を円滑に進める
 ため、可能な限りの兵力を熊笹峠に集結させることにした。
・ソ連軍は第一大隊の一部を追うように熊笹峠に接近し、既に、航空機による攻撃回数は
 増えていた。そしてソ連軍が攻撃を加えて来たのは、夕闇せまる午後七時三十分過ぎで
 あったという。
・熊笹峠を死守しようとする日本軍は、機関銃分隊や衛生隊に至るまで白兵突撃に投入し、
 陣地を守り抜こうとした。
・約六百名のソ連兵が稜線を越えて攻め寄せ、二百メートルまで接近したが、待ち構えて
 いたように国島聯隊砲中隊が直接標準で砲撃を開始。ソ連兵の集団に十数発の砲弾を叩
 き込み、さらに日本軍に全重機関銃も襲いかかったため、ソ連兵は急に陣形を崩し、叫
 び声をあげながら、後退していった。
・戦場には多数の避難民が紛れ込んでおり、ソ連兵に見つからないように、熊笹の茂みの
 中を移動したり、崖を登ったりしていたが、その多くはソ連兵に射殺された。それは子
 供だろうが、老人であろうが、婦女子であろうが無差別に射殺された。
・ソ連軍は兵力五百〜六百の海兵隊に砲数門をつけ、豊原に向かい、真岡町手井から豊真
 線上を進撃した。
・この豊真線は、樺太唯一の不凍港であり西海岸の有力な港町である真岡と樺太の首府で
 ある豊原の間に横たわる山岳地帯を這うように敷設された鉄道であり、同時に東海岸と
 西海岸を結ぶ唯一の鉄道でもあった。
・ソ連軍は夜になると、スピーカーを用いて「もう戦争は終わった。直ちに停戦を結ぼう」
 「平和な社会を作ろう」などと宣伝戦を続けた」
・午前五時三十分、日本軍陣地をめがけて猛烈な銃砲撃が開始された。ソ連軍は日本軍陣
 地より高地の正面第一線に観測所を持ち、その砲撃は正確であった。
・午後四時三十分になると正面と左右より喚声をあげ、銃剣を振りかざし、手榴弾を投げ
 つけながらソ連兵は突撃をし、白兵戦となった。
 第一線が突破された後の戦場は熊笹の藪の中となったが、その藪の深さに敵味方誤認が
 起きても不思議でないくらいの混戦となり、夕方まで激しい白兵戦が続いた。 
・日本軍の必死の抵抗により、ソ連軍を撃退できたが、藤田大隊長も右肩に負傷するほど
 の激戦で損害も大きかった。
・八月二十二日夕刻、歩兵第二十五聯隊長は師団からの「俘虜となるも停戦せよ」命令を
 受領した。
・ソ連軍に派遣する軍使に第一大隊村山康男中尉を選び、午後八時二十分頃、逢坂を出発
 させた。それにあたり、軍使一行の自動車上に大白旗を立てての出発であった。しかし、
 村山軍使は田村軍使のように逢坂西方の道路の屈曲付近にて車上でソ連軍に射殺された。
・村山中尉ら三人が射殺され、二人が助かった。そのうちの一人はソ連軍のメモを持って
 きた。それには「午前零時、ラッパを吹かせながら連隊長自らが峠に向かってくるよう
 に」と書かれていたそうだ。
・ソ連側はあくまでも「連隊長自ら来れ」とのことだったので、聯隊長自身が交渉に向か
 い、直接停戦交渉を行なった。
・こうしてようやく、二十三日午前二時に停戦は成立した。 

日ソ停戦協定成立と豊原空襲
・国境線を越えて南下してきたソ連軍は、十八日、八方山にて局地停戦協定を成立させた
 ものの、ソ連軍の南下を続いた。
・第八十八師団は大本営からの指導を受け、気屯、上敷香で樺太島内での日ソ全軍の戦闘
 停止を目指した停戦交渉を試みたが、大泊にむけての南下を主張するソ連軍相手に、交
 渉は成立しなかった。
・ひたすら南下を急ぐソ連軍は、北部国境地帯の中心都市である敷香を通過して、樺太東
 線沿いに南下を続け、民間人が多く居住する南部地区に迫った。そして、敷香から緊急
 疎開列車の折り返し駅であり、豊原方面への乗換駅になった知取町に迫った。
知取町は樺太中部の東海岸に位置する人口約一万八千人の町で、製紙業と炭鉱業で栄え、
 王子製紙の工場があった。
・南樺太の行政の中心地である豊原市内は樺太庁からの命により、至る所に大きな白旗が
 翻っていた。豊原駅もその例外でなく、駅の屋根に、三本立てられていた。大詔渙発後、
 樺太庁ではソ連軍に抵抗することなく、迎える方針を決めていた。
豊原は人口が約三万七千人の南樺太で唯一「市制」が敷かれた町で、市内は札幌のよう
 に碁盤の目状に設計され、豊原駅はその町の西側に位置していた。
・八月二十二日、豊原にある樺太神社では、例年より一日繰り上げて例大祭が行なわれた。
 この日も気温三十度を超える暑い日で、豊原の住民は家の窓を開け、涼しい恰好で過ご
 していた。
・その一方で駅前の避難民は着られるだけの服、それも晴れ着を重ね着して、故郷の町か
 ら真夏の熱い日差しの中を避難して来た者も少なくなく、その着物が放つ臭気と暑さか
 ら倒れる者もいた。
・そして事件は起きた。この日、ソ連機九機が停戦協定成立後に豊原駅及び周辺にいる民
 間人、及び民間地域に対し、無差別攻撃をくわえてきたのである。そしてこの豊原駅空
 襲の死者は百八名と言われている。
・一般の人々は「終戦」から一週間たち、町中には白旗が翻り、しかも前日の落合駅前空
 襲を知らず、危険が迫っているということは全く考えになかった。そして駅前には一刻
 も早く列車に乗り、北海道へ避難しようと座り込む人も大勢集まっていた。
・50キロ爆弾が、駅前にたくさんある防空壕中程のアスファルトに落とされ駅や北海屋
 ホテル等の壁には無数の穴が開き、多数の死傷者が出た。子供を抱いて死んだ母親、手・
 足・頭等に負傷した人びと、防空壕の入口で死んでいる人など、さながら生地獄の様相
 で、その悲惨さに愕然としたという。機関車に爆弾が直撃し、機関士達は即死した。
・ソ連軍が攻撃したのは豊原駅及び駅前広場だけではない。駅前広場の南側の商店と住宅
 地が混在したエリアもそうである。このエリアはこの時の空襲による焼夷弾攻撃で焼け
 野原となった。
・現代の戦争には戦闘員も非戦闘員も区別はないとはいえ、白旗をかかげ安心している者
 に不意打ちをくわせるとは・・・どう解釈したらよいか。
・この豊原空襲の犠牲者は百八名となっているが、その根拠は不明である。生存者の中に
 は犠牲者数はもっと多かったという人々もいる。

樺太から北海道へ(三船殉難事件
・緊急疎開のために、大泊港には合計十五隻の軍民の艦船が終結を命じられ、本斗港には
 稚斗連絡船の樺太丸と他に三十隻の大型発動機船が動員された他、大宝丸、第十八春日
 丸等も動員された。その中には、海上警備隊の駆潜艇北竜丸も含まれていた。
・八月十三日の緊急疎開第一船は、空席のある状態での出航であった。住民の北海道への
 避難が本格化するのは八月十五日を過ぎてからであった。十五日以降、緊急疎開船内の
 混雑ぶりは酷くなり、甲板、船倉はおろか、船長をはじめとする乗組員の船室等、避難
 民が立つことが可能なありとあらゆる場所に可能なかぎり乗せた。
・列車で次々と大泊港の到着した人々は、大泊港並びにその周辺の倉庫に映画館や港から
 離れた学校など、ありとあらゆる施設、空き家に収容された。
・大泊の婦人会の人々は、飲まず食わずで大泊港にたどり着いた避難民のために炊出しを
 行ない、心のこもったおにぎりや湯茶を振る舞った。しかし命からがら、全てを捨てて
 大泊にたどり着いた避難民達の間では、おにぎりの奪い合いが発生することもあった。
・乗船をめぐるトラブルは避難民の間だけに起きたわけではなかった。船の責任者と埠頭
 で乗船者整理をしている軍人が乗船者の数を巡って口論になったり、樺太内における自
 らの立場を利用して、自分の家族や同僚の家族を強引に乗船させようとする者と、それ
 を阻止しようとする現場責任者とのいざこざも起きた。命からがら大泊港に辿り着き、
 何日も乗船の順番が来るのを待っていた避難民は、一刻も早く乗船しようと、割り込み
 も各所で発生した。
・乗船できない人、待ち切れない人の中には兵士の制止を振り切って、無理矢理乗船しよ
 うとする者もおり、乗船を取り仕切る埠頭の将兵や船員が、混乱を鎮めるためやむを得
 ず上空に向けて拳銃や小銃で威嚇射撃を行なうこともあった。
・船が定員を超え、出航する際、岸壁と船を結ぶ網はしごはそのままで、無理に船に掴ま
 り、なんとか乗船を試みるも失敗して海に落ちる人、無理だとわかっていても、何とか
 乗船しよう埠頭から船に飛び移ろうとして失敗し、滑り落ちる人、乗船しようと後ろか
 ら前を押してくる力により、埠頭から海に落下する人もいたという。当時の大泊港の海
 面には子供や老人の遺体が、あちこちに浮かんでいたという証言もある。
・樺太から北海道へ渡った避難民の数を正確に把握するのは、当時も今も不可能である。
 なぜなら、北海道への脱出は緊急疎開船による公式のものと、漁船で自らの家族、親類
 縁者、あるいは、有料で希望者を運んだ私的なものがあるからである。しかも、公式な
 ものと言っても、正確な乗船者数を示す記録(乗船名簿)はとられていない。避難民は
 あらゆる手段を講じて、乗れるだけ乗ったからである。
・自力脱出は安全なものではなかった。ソ連機の銃撃を受けたり、海岸から砲撃を受けて
 沈められる船もあった。中には、知取沖であったように、ソ連軍戦車の砲撃で自力脱出
 中の漁船が撃沈されたこともあった。
・昭和二十年八月二十二日午前四時頃から十時頃まで、避難民を満載した小笠原丸、第二
 新興丸、泰東丸の三隻がソ連潜水艦により砲雷撃を受け、小笠原丸、泰東丸は沈没。第
 二新興丸は大破し、その犠牲者は1708名以上と言われている。
・この三隻を攻撃したのはソ連太平洋艦隊所属の潜水艦、L12、L19の二隻である。
小笠原丸は逓信省所属の敷設船で、船尾には大砲一門、十三ミリ機銃一挺、潜水艦攻撃
 用爆雷十個を装備していた。 
・その頃、大泊港の岸壁で小笠原丸の到着を待っていたのは二、三万人とも言われる群衆
 であった。小笠原丸が接岸していた埠頭は、乗船を今か今かと待ちかねる避難民で溢れ
 かえり、その中から男たちの怒号、女子供の悲鳴や泣き声が乱れ飛び、混乱を極めてい
 た。
・小笠原丸は避難民を乗せられるだけ乗せて桟橋を離れた。出航後、同船はソ連艦隊との
 接触はなかったものの、雨が降り荒れた宗谷海峡を無事に横断し、翌日に稚内港に入港。
 小笠原丸は来た防波堤に接岸したが、そこにある稚内桟橋駅は列車を待つ人で溢れかえ
 っていた。稚内で下船したのは約九百名の避難民で、その中には、後に昭和の名横綱と
 呼ばれた「大鵬」こと、当時五歳の納屋幸喜氏もいた。
・避難民達は小笠原丸が小樽に向かうことを知っており、乗組員らのマイクによる下船の
 呼びかけにも関わらず、約六百名が残った。この時の判断が、乗船者の生死を決めた。
・最初に、異変に気づいたのは、留萌防空監視哨員であった。「増毛沖を航行中の汽船の
 あとに、潜水艦らしきものが、見えるのです」と報告したのが、午前四時すぎであった。
・ようやく白みかけた波間に、黒い船体がムクムクと浮かび上がってきた。潜水艦と気付
 き、雷撃を避けるためか、汽船は急激に方向転換した。それは長い時間ではなかった。
・浮上した潜水艦のハッチから、数人の乗組員が走り出し、機関銃に取りついたのとほと
 んど同時に、発射された魚雷が汽船に命中し、瞬時にして、大爆発が起こったのである。
・小笠原丸に雷撃を加えたのは、ソ連潜水艦L12であった。小笠原丸が船首を空中高く
 突き出してそのままほとんど垂直のかたちでものすごいスピードでゴーッという水音を
 たてながら船尾から沈んで行った。たった一分半後の出来事だった。
・小笠原丸の轟沈を確認したL12は浮上し、浪間に漂い、助けを求める人々に情け容赦
 ない機銃掃射を加えた。 
・生存者が上陸できたのは、増毛町別苅海岸であった。 
・増毛町役場に第一報が入ったのは午前九時、「小笠原のシナ人が上陸した」という内容
 だった。何か重大なことが起きたと感じた尾崎清四郎町長は自ら二十人ほどの職員を連
 れて、現地に走った。
・そこで「小笠原のシナ人」というのは「小笠原丸の避難民」という事実がわかった。そ
 して、彼らが目にしたのは、海岸に女子供の遺体、あるいは遺体の部位が多く漂流物と
 ともに流れ着き、その中に、半死半生の生存者が助けを求めている悲惨な姿であった。
・増毛町役場に残されている「戦時災害報告書」によると、生存者六十二名を救助した他、
 溺死者二十九体を収容した。
第二新興丸は特設砲艦兼敷設艦で、元々東亜海運に所属し、海軍に徴用されるまで新興
 丸と呼ばれていた貨物船である。  
・玉音放送が流れた時、第二新興丸は千島列島の松輪島へ物資輸送の途上で、ちょうど、
 稚内と松輪島の中間地点を航行していたが、対潜警戒行動を取り止め、稚内に文字通り
 直行した。稚内には翌十六日についてが、船が岸壁に接岸するなり、大工が一斉に甲板
 に駆け上がり、両舷に仮設トイレを作り始め、それは出港直前まで続いたという。
・最初に樺太についたのは十七日であった。そして即日稚内に向けて出港、翌日、避難民
 を降ろすと休む間もなく大泊港に戻り、最短時間で避難民を乗せて稚内と大泊を往復し、
 三度目の大泊港接岸は二十日であった。
・この日の港は騒然とし、岸壁は避難民で長蛇の列ができ、生理現象のためにひとたび列
 を離れようものなら、二度と元の位置に戻れなくなる状況であった。炎天下、倒れる者
 も出たが、それでも、ただただ、自分の順番を待ち続けた。
・そしていよいよ出航という時になり、この船の運命を変えた出来事が発生した。船と岸
 壁を繋ぐもやい網がスクリューに絡みついてしまったのだ。このため、二十日夕方に大
 泊港出航のはずが、翌二十一日午前九時頃まで延びてしまった。その上、船は稚内へ最
 短コースを選んだわけではなかった。二十日に真岡を襲ったソ連艦隊が大泊に向かって
 いるという未確認情報が流れたため、万が一に備え、進路を亜庭湾東海岸の中知床半島
 に向け、亜庭湾を東回りに航行して稚内を目指した。そして正午頃、輸送司令部より稚
 内の受け入れ能力が限界に達しているので、入港先を稚内から小樽に変更せよとの通信
 が入り、船首を小樽へ向けた。
・午前五時すぎにソ連潜水艦L19は第二新興丸を魚雷の射程圏内におさめていた。
・第二新興丸では、轟音とともにもの凄く高く上がった水柱が甲板に降り注ぎ、その水の
 力で、甲板にいた山口さんは右舷舷側に弾き飛ばされた。何が何だかわからないままよ
 ろめき、立ち上がったところ、また同じことが起き、再び弾き飛ばされた。まさか戦争
 が終わっているのに魚雷攻撃を受けたとは思わず、「どうしたんだろうね」と話してい
 たという。
・船がだいぶ傾いていたので、あちこち掴まりながら、皆で船首に向かって歩いた。一番
 船倉にいた緊急疎開者を三・四船倉へ誘導をしていた池田兵長は、右舷のボートのとこ
 ろに走った。そこで池田兵長が見たのは、ボートからこぼれ落ちんばかりに乗った避難
 民の姿であった。池田は現状では重すぎてボートを降ろせないこと。また、ボートを降
 ろすための要員が七名必要なことを説明し、自ら降りるよう求めたが、動く者はいなか
 った。その時であった。どこからともなく士官が駆け寄り、ボートに向かって何か叫ん
 だが、何の反応もないので、突然、軍刀を抜いてボート後部のロープを切った。ロープ
 を切られたボートは、たちまち前方を上にぶら下がる形になり悲鳴と共にボートに乗っ
 ていた人々は海中に投げ出された。
・今度は潜水艦が浮上して来た。その潜水艦からは水兵が飛び出して来て、その帽子を見
 た周囲の大人達は「ロスケの船だ!ロスケの船だ!」と騒ぎ出した。
・その時であった。突然、総員戦闘配置のラッパが鳴り、拡声器は「総員配置につけ、右
 舷三十度、国籍不明の潜水艦」と怒鳴った。
・池田曹長は二分とかからず、持ち場の左舷側連装機銃に行き、覆いを外した。ところが
 来るはずの弾倉が来ないので、弾薬庫に行くと、なんと鍵がかかったままではないか。
 そこでやむなくカギを壊し、弾薬を運び出した。
・池田兵長は機銃弾倉を抱えて階段を駆け上がり、機銃に装填して「装填よし」の報告を
 すませた。他の水兵たちも緊急疎開者とその荷物で埋まった甲板を走って配置についた。
 一番砲、二番砲のカバーをはずし、弾丸を込め、右舷に銃口を向けた。他の機銃も一斉
 に銃口を右舷の海面に向けた。船橋から敵の推定方位が示され、砲術長の命令が下った。
 海中に潜む見えない敵に対し、一斉に威嚇射撃を始めたのである。
・この時、船尾の爆雷投射筒も装填が完了し、水雷科の将兵はいつでも投射できる態勢に
 あったが、船倉から流れ出したり、甲板から海中に投げ出された避難民が爆雷の爆発に
 巻き込まれることを避けるため、泣く泣く、爆雷投射を諦めた。
・万が一に備え、船を陸地に向け、必要ならいつでも浅瀬に乗り上げて船を座礁させ、一
 人でも多くの人を救えるよう、あらゆる手配りをしながら、留萌港に進路をとっていた。
・この時、艦は五ノット位で留萌港を目指しており、救助に当たっている将兵以外の乗組
 員は皆、潜水艦を警戒し、海上を睨み付けていた。と、その時、左三十度の方向、距離
 五、六十メートルの海上に肉眼でも潜水艦の潜望鏡と判断できる黒いものを発見、それ
 を見たのは乗組員だけでなく、緊急避難者も気がつき指をさして騒ぎ出しているうちに、
 潜望鏡は後方に消えていった。
・それからどのくらい時間がたってからであろうか。今度は右舷百二十メートルの海上に
 潜水艦が浮上し始めているのを発見。甲板が海面から顔を出すか出さないかのうちに、
 今度は第二新興丸の甲板に向けて機銃掃射が始まった。目標となっている甲板には緊急
 疎開者や救助活動にあたっている水兵達がおり、犠牲者は増えていった。
・潜水艦の方では上甲板にある十センチ砲に向かって水兵が走って行くのが池田兵長の目
 に映った。 
・と、その時である。萱場艦長が「撃て」の命令を発すると同時の第二新興丸の十二セン
 チ単装砲二基と機銃が一斉に火を吹き、砲弾銃弾は潜水艦に吸い込まれていった。初弾
 が命中すると同時に、水しぶきと火薬の煙が同時に空高く吹きあがり、煙が消えると、
 そこには潜水艦の姿はなかった。
・その後、拡声器で「艦の機関部に故障がないので、このまま見える北海道に着く」との
 知らせが聞え、それまで鬼鹿海岸に向かっていた船は、この後、沖に出て進路を留萌港
 に向け、傾きながらゆっくりと航行したとのことである。
・満身創痍で留萌港を目指す第二新興丸を発見した漁船の知らせで、留萌港の岸壁には警
 察官、医師、警防団員、町職員、町内会の人々が第二新興丸の入港を今や遅しと待ち構
 えていた。船体前部に多くの海水が侵入し、前のめりで大穴のある右側に傾いていた第
 二新興丸が着岸したのは、午後九時頃であり、タラップが降ろされるやいなや、救護処
 置や遺体収容作業が始められた。
・生存者は小学校やお寺だけでなく、一般家庭にも収容された。港から収容先まで歩いて
 いった。留萌は坂の多い町である。体中から最後の体力と気力を振り絞って歩いた。
泰東丸が終戦を迎えたのは、留萌港であった。そこで、空具との大泊港へ回航するよう
 にとの命令が下り出航した。当時、避難民の急増で食糧事情がさらに悪化することを懸
 念した北海道庁の要請で、緊急疎開船で樺太に備蓄されていた米等を輸送する予定だっ
 た。当時、日本中が飢えており、一年分の米は常に備蓄していると言われていた樺太の
 備蓄米は必要とされていた。
・泰東丸も千トンの米を船倉に満載し、大泊港で急遽、避難民を乗船させることになり、
 小樽港に向けて出港したのは八月二十一日であった。
・小樽港まであと二時間位だったそうだ。甲板にいた避難民達は海面の漂流物を見て異変
 を感じていた。海面にリュックや荷造りした箱をはじめとするおびただしい数の浮遊物
 を発見した避難民達が騒ぎ始めた。一斉に海面を見つける人々の目には遺体が流されて
 くるのも映った。それも一人や二人ではない。
・それを見た大脇鉄夫一等航海士は、浮遊機雷により被害を受けた船が出たと判断し、左
 右の見張りを厳重にすると同時に、万が一のために、陸寄りを航海するよう命じた。大
 脇はこの朝、通信士より正体不明の船のSOSを受信したとの報告を受けていたからだ。
 誰もが不安になりつつも、もう少しで小樽に着くという事実で不安を打ち消そうとした。
 それに、船は大分陸地寄りを航行しており、増毛連山の山々の緑はおろか、海岸沿いに
 立つ家の屋根の色まではっきり見えていた。
・突然、他の見張員から「右舷斜め後方より本船にむかって来る魚雷の航跡を発見」との
 報告が入り、船橋に伝声管を使って至急報告したが、船橋ではもう戦争は終わっている
 のだから魚雷なんか来るはずはないと信用されなかったという。
・「魚雷の航跡を発見」の方向をじっと見つめているとキセルのがん首のような潜望鏡が
 飛び込んできた。再び「潜水艦だ」と、怒鳴っていると潜望鏡は船の右舷斜め後方より
 接近して来た。そして突然黒い大きな物体が浮上した。
・浮上したばかりのソ連潜水艦L19の甲板からはまだ海水が流れ落ちているのに、船橋
 付近から二、三人の水兵がとび出し、艦首の砲に取りついて間もなく轟音、泰東丸の前
 方に水柱三本上がった。普通に考えると、これは威嚇射撃であり、その意味するところ
 は停船命令である。事実、大脇一等航海士や貫井船長も「威嚇射撃」と判断し、船長は
 エンジン停止と白旗の掲揚を命じたため、泰東丸の船員たちは食堂のテーブルクロスや
 白いシーツを必死に振り回し降伏の意思表示をした。
・泰東丸は停船し、白旗を振って、射撃もできないようにして泰東丸は無抵抗で降伏の意
 を表した。しかし、L19は砲撃と機関銃弾を浴びせ続けた。戦争が終わってちょうど
 一週間。白旗を掲揚した無抵抗の民間船に無抵抗の民間人、それも女子供が甲板に溢れ
 んばかりに乗っているのを至近距離から確認していながらである。まるで白旗が見えな
 いかのように、停船して射撃がしやすくなった「静止目標」に十センチ砲弾と四十ミリ
 機銃弾を一斉に撃ち込んだ。
・L19の攻撃は船体だけでなく、疎開者も狙い撃ちしたため、疎開者で溢れかえってい
 た甲板はたちまち阿鼻叫喚の地獄と化した。
・甲板から海に飛び込む者もいたが、船がどんどん傾いて来たため、滑り落ちる者も増え
 てきた。 
・泰東丸は砲撃を受ける右舷に傾きながらもなかなか沈まなかったが、ついに左舷の赤い
 船腹が見えだし、それまで立てなかった負傷者まで走るように海に飛び込んだという。
・そして九時五十五分、ついに泰東丸は右舷に大傾斜して沈没した。
・海上に取り残された生存者は浮遊物に必死につかまり、助けを待ったが、力尽きて、多
 くの人が水底に姿を消していき、生存者は海流に流され、陸地から遠ざかっていった。
・この泰東丸がL19に攻撃される様子は陸地から目撃された。
・ところで、この三船殉難事件を戦時国際法で見るとどうであろう。まず、日ソ両国間の
 意識としてだが、日本はポツダム宣言を受諾し、戦争は終わったという認識でいたのに
 対し、ソ連は、日本軍は戦闘を継続しているという認識でいた。
・小笠原丸と第二新興丸については、ソ連潜水艦からの電撃で始まっており、降伏の意図
 は表明する余裕がなかった。この二隻については、この時期での潜水艦の民間船舶に対
 する攻撃が合法か違法かというレベルの話であり、慣習法として認められて来た。
・ただし、泰東丸は別である。ソ連潜水艦は砲雷撃を加える前に浮上している。これに対
 し、泰東丸は白旗を掲揚し、機関停止している。その上、搭載されていた大砲にはカバ
 ーがかけられたままで、戦闘を行なう意図がないことも明確にしている。この状態で泰
 東丸や同船への攻撃で海上に投げ出された人々へ銃砲撃を加えるのは、明らかに戦時国
 際法違反である。
・そうであるにもかかわらず、三船殉難事件がソ連海軍により引き起こされたことが判明
 して以来、いまだ日露両政府間ではこれらの事実について公式に確認されていない。樺
 太引揚三船遭難遺族会は事件の真相究明を日本外務省に繰り返しもとめているが、いま
 だに回答はない。

ソ連軍政下の樺太を生き抜いた一人の日本人
・八月二十三日、ソ連軍は日本人の島外への移動を禁じたが、決死の覚悟で同日深夜、大
 泊港から最後の緊急疎開船が稚内に向けて出港した。それでも、大泊の町は避難民であ
 ふれたままで、北部からは豊原に次々と流入し続けた。
・南樺太全土で遺された日本人の数は、約三十万人にのぼった。
・ソ連軍は八月二十四日に樺太の首府である豊原市に進駐し、翌二十五日には大泊を占領。
 かくして、樺太島内主要都市は全てソ連軍の占領下に入った。
・そして樺太庁にかわり軍政を始めたソ連軍は、日本の軍人、憲兵、警察官などは段階を
 踏んで逮捕する一方で、樺太各地ではソ連兵による略奪、婦女暴行が頻発し、治安は短
 期間で悪化した。
・ソ連軍は市民に対して八月二十七日に「即刻職場に復帰し生産の増加を図れ」との命令
 を布告した。これを知った避難民たちは、苦労して避難してきた道を故郷に向けて戻り
 始めたが、戦場になった地域には、戻っても住む家がなかったり、先に戻った者達に占
 拠されていることも多々あった。
・しかし、米英壕の占領地と違い、ソ連占領地に住む日本軍人、日本人は戦犯に指名され
 逮捕されるか否か関係なく「日本」への引揚げがいつ始まるかもわからず、日を追って
 不安が増し、日本人の心を蝕んでいった。
・しばらくすると、ソ連軍とドイツ軍の戦闘により、町という町が灰塵帰したウクライナ
 地方からは多くのソ連人が移住してきたり、樺太を占領するソ連軍人がその家族を呼び
 出し、日本人とソ連人の共同生活が始まった。職場においても、当初は日本人が運営し
 ていたところに、ソ連人が送り込まれ、役割を交代していき、様々な悲哀劇が見られた。
・昭和二十二年八月になると、ウクライナからコルホーズの団体で二十家族が村に移住し
 て来た。工藤家は彼らのために、家の半分の二階を提供し、二家族が入った。彼らは押
 し入れをベッドにして、カーテンを引いていたという。
・日本人もウクライナ人達と一緒に働いたが、彼らは時間が来ると、仕事がちょっとだけ
 残っていても、止めてしまい、父親はそれを見て、よく笑っていた。それでもコルホー
 ズの人との共同生活は仲良くでき、変な人にはぶつからなかったと言う。
・ウクライナ人達と一緒に医者も来たが、医者は医者でも獣医だった。
・引き揚げの知らせはハイジャンと呼ばれるコルホーズ長が、日本人宅を一軒一軒まわっ
 て言葉と身振り手振りで行なった。
・コルホーズのウクライナ人はビスケットも焼いてくれて、何日かかるかわからないから
 最後に食べるようにと言って、渡してくれた。
  
あとがき
・戦後、日本のメディアや引揚者の中には、樺太での八月十五日以降の悲劇を日本軍が対
 ソ戦を強行したから起きたと考える人達がいるが、はたしてそうであろうか。
・八月十五日以降、日本軍が停戦命令が届くまで戦い続け、国境から十六キロ地点で踏み
 とどまったおかげで、民間人が避難する時間を稼ぐことができた。
・三度軍使を派遣して樺太全土での停戦協定が成立したのが、八月二十二日である。日ソ
 停戦に至るまで、三度も軍使を派遣せざるを得なかったのは、ソ連軍が停戦を拒んだた
 めである。
・八月二十日に真岡に上陸したソ連軍にいたっては、二度にわたり現地部隊が派遣した軍
 使を射殺している。 
・なぜ、こうした樺太での悲劇は知られていないのであろう。
・しかも同じ北海道以北に位置する島で、千島列島の占守島での対ソ戦はしばしば取り上
 げられているのに、樺太が取り上げられないのは、不可解の一言に尽きる。
・樺太では戦闘があったということ自体が知られておらず、日本国内で最後の地上戦が行
 なわれたにもかかわらず、慰霊の日がないばかりか、マスコミにも取り上げられないの
 は何故だろうか。