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核兵器とICBMの開発にひた走る北朝鮮。世界中からの非難や制裁にも、怯むことを知
らない。まもなく米国本土に届くICBMの完成を目前にして、米国としてもこのまま放
置しておくことはできないだろう。朝鮮半島有事の危機が、現実のものとなりつつある昨
今である。
しかし、そもそも、どうして朝鮮半島が南北に分断されることになったのか。また、かつ
て起こった「朝鮮戦争」とはどのようなものだったのか。そのあたりの歴史的背景を再度
確認したくて、いろいろ本を探したが、この朝鮮戦争に関する本は、意外なほど少なく、
やっと本書を見つけた。本書は、今から52年前の1966年に書かれたものであるが、
朝鮮半島の分断とそれに続く朝鮮戦争の歴史的経緯を知る上では、良書であると思う。
本書を見ると、朝鮮半島が南北に分断されたのは、当時のソ連の世界戦略と米国の朝鮮半
島の戦後処理のまずさを窺い知ることができる。米国は当初、朝鮮半島については、ほと
んど関心を持っていなかった。そこには、日本の植民地支配から解放さえすれば、朝鮮民
族は、自らの力で独立していくであろうという米国の甘い考えもあったように思えるし、
またアメリカにとっては、当初から朝鮮半島問題はお荷物であったようだ。
歴史的にみて、朝鮮半島は、昔は中国に支配され続け、そして近代になっても日本に植民
地支配されていたためか、日本の植民地支配から解放されても、朝鮮民族として自らの力
でまとまり統一するという力が弱かったのではないのか。それは、今の韓国の政治状況を
見ても、そんなことを感じてしまう民族である。当初は南北統一の動きもあったようだが、
結局はソ連や米国、そして国連の思惑の中で翻弄されてしまうという悲しい歴史的経緯を
経て、今に至っている。
それにしても、この朝鮮戦争からも明らかなのは、いつの時代も戦争は「平和」の名のも
とに始められ、一旦始まるとなかなか止められないということである。勝つことを使命と
する現地の軍幹部は、ブレーキがきかないクルマのごとく前に突き進もうとし、アメリカ
でさえもシビリアンコントロールがきかなくなる。軍部が暴走するのは、かつての日本軍
だけではないのだ。安倍首相は、自分の信念である憲法九条を改正して憲法に自衛隊を明
記して、この国を戦争ができる国にしようとしているが、一旦戦争をはじめると、シビリ
アンコントロールがきかなくなる危険性があることを、肝に銘じておく必要ある。軍隊が
暴走すれば、もう誰にも止められない。
さらにつけ加えるならば、韓国という国は、この朝鮮戦争当時においても、現代において
も、近年の日韓関係における「慰安婦問題」にも見るように、いつまでも「駄々をこねる
子供」のような、どうしようもない国であり続けていると言えるのではないのかと言うこ
とだ。

まえがき
・1950年(昭和25年)6月から3年あまり続いた朝鮮戦争は、南北朝鮮の分断とい
 う悲劇的状態を決定的なものにするとともに、戦後日本経済に蘇生と発展の機会をもた
 らし、日米安保体制を促進して国際社会における日本の基本的姿勢を決定づけた。とこ
 ろが、わが国ではこれまで朝鮮戦争についてまとまったものが書かれていない。その理
 由は、一つには、もともと開戦から戦争の最盛期までを過ぎるまでわが国は引き続き占
 領体制下にあり、新聞報道関係もきびしく検閲と制限のもとのおかれていた。
・当時われわれは国際情勢一般についてもそうであったが、とりわけ主な占領担当国であ
 るアメリカが一方の立役者になった朝鮮戦争については、きわめてかぎられた情報しか
 あたえられておらず、十分な資料をもとに自分の頭で突っ込んで考えるところまではと
 てもいかなかったのである。
・現在係争中の緊張した国際問題に微妙で重大な関連をもっているため、朝鮮戦争につい
 ての直接的な資料はかならずしも豊富に公表されていない。ことにソ連・中国はほとん
 どそれらしい資料を出していない。  
・わが国では今日でも、朝鮮戦争はアメリカの意図に出た韓国から北朝鮮への侵略である
 というイメージがひろくもたれている。ひところは、北から南への大規模な攻撃が戦争
 勃発の真相などと言おうものなら、白眼視されかねない空気さえあった。 
 
開戦前史
・1945年8月、太平洋戦争の終結に際して、朝鮮は北緯38度線を境として米ソ両軍
 によって分割占領され、同じ民族が南北に分かれてまったく異なった道を歩きはじめた。
 大戦後の朝鮮処理に関する連合国の構想がはじめて公にされたのは、1943年11月
 の「カイロ宣言」においてである。のちのスターリンもこの宣言を認め、朝鮮の独立と
 いう究極的目標が四大国の統一目的として定められるに至った。しかしながら、問題は、
 「しかるべき順序を経て」という曖昧な一句の具体的内容について、太平洋戦争の主役
 であるアメリカが、まとまったプランを用意しないまま戦争終結を迎えたことであった。
ヤルタ会談(米・英・ソ首脳会議、1945年2月)の際、ソ連は植民地問題について
 提案を行い、朝鮮の処理についても意見を交換するよう要請したが、米英はそれを回避
 した。
・太平洋戦争は、アメリカの戦後アジア構想がまだほとんど固まらないうちに、意外に早
 く終結したのであった。日本の降伏とともに、連合軍最高司令官一般命令によって、朝
 鮮は38度線以北はソ連軍が、以南ではアメリカ軍がそれぞれ日本軍の武装解除にあた
 ることとなった。  
・1945年8月11日に統合参謀本部がバーンズ国務長官に送った報告によれば、極東
 にあるアメリカ軍の配置および輸送力の現状では、朝鮮半島へ陸づたいに着々と南下し
 つつあるソ連軍のスピードに到底対抗できない、もしまともに競争するとすれば、アメ
 リカ軍は釜山に橋頭堡を獲得するのが精一杯という状況であった。
・対日侵攻の戦略から占領と武装解除の政略へ急に切り替えをせまられたアメリカにとっ
 ては、朝鮮占領の方法について選択の余地はほとんどなかった。
・アメリカの朝鮮占領政策は、当初から失敗続きであった。朝鮮処理の基本方針としては
 漠然たる信託統治案があっただけであり、アメリカ政府のどの部門にも、朝鮮問題につ
 いて詳細の準備をしているところはなかった。
・ソ連が戦後構想の第一においていた意図は、ヨーロッパ、アジアの両面において、自国
 の周辺にみずからの安全に寄与する体制を樹立することであった。戦後ソ連の極東政策
 の骨格は、ヤルタ協定においてうかがい知ることができる。それは、朝鮮については直
 接なにも触れていないかれども、詳しく検討すれば、その対朝鮮構想がアメリカの場合
 に比べてはるかに現実性に富んでいたことがわかる。
・ソ連は、朝鮮半島の北半分を勢力圏に入れることによって、自国の安全保障度を高める
 とともに、ヤルタで承認された満州における権益をいっそう安泰にしようと考えていた
 といってよいであろう。ソ連は原爆第一号によって戦局の帰趨を見極めた。そして、北
 朝鮮のソビエト体制化を着々と推進し、はやくも1946年2月には朝鮮民主主義人民
 共和国の前身である北朝鮮臨時人民委員会(委員長=金日成)を発足させるにいたる。
 これにくらべて、南朝鮮のアメリカ体制化は後手にまわっていた。
・ソ連の北朝鮮堅持の意図が明確化するにつれて、アメリカとしては南朝鮮に留まるか、
 撤退するかを選択しなければならなくなった。留まるとすれば、当然南朝鮮の復興と再
 編という重圧を引き受けねばならない。けれども、朝鮮問題を戦後の重要問題とは考え
 ず、なんの具体策も容易していなかったアメリカにとって、それはあまりにも重荷であ
 った。より経済観念の富むアメリカの議会人は、朝鮮問題についていっそう消極的な姿
 勢を示した。 
・アメリカの国防省は、朝鮮に軍隊や基地を維持することは合衆国にとってほとんど軍事
 的利益にならないと結論した。アメリカの軍事的目標は朝鮮の軍事的中立化を確保する
 ことのおかれるべきであり、したがって、@アメリカの即時撤退、Aアメリカ軍による
 無期限占領、Bソ連軍とアメリカ軍の同時撤退、の三案のうち、B案を勧告したのであ
 った。    
・アメリカ軍が朝鮮から撤退する結果、ソ連が日本侵攻に乗り出すことができるほどの軍
 事力を南朝鮮に設定するならばとにかく、そうでないかぎり、撤退のよってアメリカ極
 東軍の軍事的中立がそこなわれることはないであろうと考えた。
・南朝鮮では、臨時朝鮮委員会の国外撤去をもとめて労働者のゼネストが行われ、平壌で
 南朝鮮代表240名を含み545名が出席して南北連席会議が開かれ、統一政府の樹立
 と全占領軍の撤退を決議するなど、統一への動きがもりあがっていた。
・1948年15日に大韓民国(韓国)が独立宣言した。そして北朝鮮も、同年8月25
 日に朝鮮民主主義人民共和国の成立を宣言した。
・北朝鮮政府は、成立後ただちに米ソ両国政府に対して「朝鮮からの即時かつ同時の撤兵」
 を要求した。ソ連は受諾を回答し、同年末までに全面的撤兵を行うと公表した。アメリ
 カは基本的には撤兵に応ずる考えを持ちながらも、国連での駆け引きにひとまず力点を
 移した。
・南朝鮮では、韓国政府成立後も政治的・社会的・経済的不安はつのる一方であった。 
・国連第三回総会は、ソ連の反対を押し切って、韓国政府を、国連臨時朝鮮委員会監視下
 の自由選挙にもとづく、唯一の合法政府であると宣言した。
・ソ連は、すでに1945年10月19日から撤兵を開始していた。アメリカの撤兵計画
 がはじめて公にされたのは、同年12月28日の歩兵一個師団撤退の発表であった。二
 日後、モスクワ法相はソ連の撤兵完了を報じた・翌年6月8日アメリカは正式に撤兵を
 発表し、同月29日、約500名の軍事顧問団を残して撤兵を終了した。しかし、38
 度線では南北両朝鮮軍の小ぜり合いが絶えなかった。
・1949年の夏は、過去半世紀以来、朝鮮半島に朝鮮人だけがいた最初の夏であったが、
 南北朝鮮の境界には不穏なものがただよっていたのである。
・1949年10月、北朝鮮政府は国連に次のような手紙を送った。「朝鮮民民主主義人
 民共和国政府は、以下のことを宣言する必要があると考える。すなわち、国連が少数の
 反逆者や裏切者の利己的な利益だけを考慮して、将来とも朝鮮人民の意思と努力を無視
 するならば、朝鮮人民は闘争を放棄せず、国連朝鮮委員会を廃止し、みずからの軍隊に
 よって朝鮮を統一・民主国家へと最終的に統合するための闘争を、みずからの欲する手
 段によって継続する権利を保留するものである。」
・北朝鮮は、あらたに祖国統一民主主義戦線を結成して態勢を固め、かさねて次のような
 に警告を発した。「わが国は、朝鮮人民の主権にとって脅威となるような、招かざる客
 のための場所はない。わが国民の力は大きく、統一と独立への熱望はゆるぎない。外国
 帝国主義者の威嚇も、それを止めることはできない。われわれは、朝鮮を統一・独立を
 もたらしめるであろう。
・韓国軍の整備は、いきおい進捗しなかった。アメリカ軍事顧問団の判断では、韓国の軍
 隊は1950年6月現在、まだ大隊段階の訓練さえも完了しておらず、その完了目標日
 は7月末に、つぎの連隊段階の訓練完了目標日は10月末に延期されるおとになった。
 軍事顧問団は「韓国は中国にふりかかったと同じ悲運に脅かされている」とワシントン
 に警告したが、アメリカは、朝鮮内戦を切迫した問題とは考えないことで行かんが一致
 していたのであった。アメリカの対韓軍事援助および韓国軍の実情は、1950年6月
 に朝鮮で戦争を引き起こすだけの準備をかったく欠いていたと言ってよい。
・1950年1月に米国の国務長官がアジア問題に関する有名な演説を行った。これより
 さきの1949年12月、アメリカ国家安全保障会議は、もし共産側の武力侵入が行な
 われてもアメリカは朝鮮へ地上軍を派遣しないと決定したが、この国務長官の演説は、
 さらに朝鮮防衛に対するアメリカの消極的態度を内外に公然と示したのであった。この
 演説で国務長官は、西太平洋におけるアメリカの防衛線はアリューシャン〜日本〜沖縄
 〜フィリピンを結ぶ線であるとし、台湾とともに韓国をそれから除外した。そして、ア
 メリカはこの防衛線については防衛の直接的責任を負うが、その他の地域については特
 別の義務を持たず、「まず攻撃を受けた国民の抵抗に待ち、つぎに国連憲章のもとにお
 ける全文明世界の援助に依存しなければならない」と述べたのである。この演説は、そ
 の一週間前にトルーマン大統領が台湾政策について行なった言明、「合衆国政府は中国
 の内紛に巻き込まれるような道をもとめない」と、明らかに同じ調子のものであった。
 国務長官の演説は、北朝鮮からの攻撃に対して、韓国軍の抵抗力がなく、国連の措置も
 効果がない場合には、韓国の放棄もやむなしというアメリカ政府の基本的見解を公式に
 示唆した。この演説は、のちに議会筋、特に共和党によって、北から南への進攻をみち
 びく原因になったものとして激しく非難されることになった。
・1949年にアメリカにおける屈指の中国研究者が、国務省の委嘱を受けて対韓政策に
 ついて意見書を提出したが、それは、「韓国はアメリカの利益と政策にとって資産であ
 るよるも負債である。現在の韓国政府がどの程度永続するかは疑問であるから、アメリ
 カはそれに深入りしないほうがよい」との結論を述べていた。
・アメリカの対韓援助が不活発であったことにくわえて、一連の公式・非公式発言から、
 北朝鮮およびソ連が、この時期に韓国に対して武力統一行動を起こしてもアメリカは地
 上軍を派遣してまで韓国を守ろうとはしないであろうとの見通しを持ったとしても、決
 して不思議ではない。  
・前年における中国共産党の大陸制覇に大きな刺戟と激励を受けながら、この見通しをも
 とに北から南に対して民族改葬戦争として開始されたのが、まさに朝鮮戦争であった。
・当時の韓国軍には、北に対して大規模な攻撃を行うだけの装備がなかったことは明らか
 である。これに反して、開戦決定の経緯に関する決定的な資料はまだ公表されていない
 けれども、開戦後の北朝鮮軍が飛行機・戦車などの攻撃用銃装備を駆使してきわめて急
 速に南下した事実は、その攻撃が「十分計画され整備された全面的な韓国侵攻」を意図
 したものであったこを物語るといわねばなるまい。   
・ここで注意すべきことは、1948年頃からアジアの諸地域で、共産党がいっせいに武
 力蜂起を行なったという事実である。大戦中も戦後も、アメリカの世界政策は一貫して
 ヨーロッパ第一主義をとり、共産主義封じ込めについても西ヨーロッパの反共的再編成
 に全力をあげていた。中国本土・台湾・朝鮮に対するアメリカの消極的態度も、その投
 影にほかならなかった。
・1945年から50年までの間、ソ連は、占領国および同盟国として北朝鮮に数々の指
 導や統制、助言や協力を行い、北朝鮮をほとんど衛星国化していた。占領中はもとより、
 北朝鮮政府の成立後も、平壌のソ連大使館は軍事・文化経済などに関する専門家を含む
 大規模なものであった上に、別にソ連使節団が常駐し、内閣・国家計画委員会・民族保
 衛省(国防省)を含む政府各機関に顧問をおいていた。
・北朝鮮の対外貿易中、ソ連の占める比率は圧倒的であったし、北朝鮮軍の装備および訓
 練も、朝鮮戦争で活躍したヤク、ミグ戦闘機やT−34戦車が示すように、圧倒的にソ
 連製であった。その他、北朝鮮の各レベルにはソ連軍撤退後もソ連人顧問が配置される
 など、ソ連は北朝鮮軍に強大な支配力をふるうことができた。こういう状況にあったの
 であるから、平壌のいかなる決定も、事実上モスクワとの事前協議なくして行われたと
 は解しにくい。1950年6月の開戦決定も、おそらくはソ連の助言ないし勧告を得た
 上での決定であろう。つまり、北朝鮮がリードをとった形で、実質的にはソ連との共同
 決定に近いものではなかったかと推定されるのである。   
・これにくらべ、中国は、共産政権成立以前はもとより、その後も北朝鮮に対してソ連よ
 りもはるかに小さい影響力しかもっていなかった。朝鮮労働党(共産党)で実権を握っ
 ていたのは、金日成らモスクワ仕込みの人々であり、朝鮮独立同盟を組織してきた中国
 帰りの共産主義者は、その風下に立たされていた。北朝鮮が中国にはじめて外交使節を
 送ったのはソ連やチェコよりも遅い1950年1月のことであり、中国から北朝鮮への
 外交使節はもっとおくれ、初代の大使が金日成に信任状を提出したのは8月、朝鮮戦争
 開始後のことであった。これらのことから判断しても、朝鮮戦争の計画や準備について、
 中国がソ連ほど参画したとはいえないようである。中国も開戦をあらかじめ知らされて
 いたかと思わせる事実はあるだろう。しかし、少なくとも、中国がこの戦争に直接まき
 込まれることまで予期したとは、どうしても思えない。当時の中国にとっては、主要軍
 事目標は台湾とチベットの「解放」であり、中国中・南部の「平定」であったからであ
 る。もちろん、朝鮮における武力統一戦争が成功すれば、それは中国の目標にとっても
 大いに寄与することになるはずであった。この意味で、中国は1950年6月の攻撃に
 大きな関心を持っていただろう。しかし、その開始および結果については、ソ連と異な
 って直接の責任を持たない立場であったと考えられる。
 
「解放」と「統一」
・戦争の勃発を知らせる最初の公電が韓国からアメリカ国務省へ入ったのは、6月24日
 である。国務省はただちに週末を家族訪問のために郷里に滞在していたトルーマン大統
 領
に電話で報告するとともに、国連安全保障理事会の緊急招集を要請するよう提案して
 大統領の同意を得た。そして、この日の午後、国連安保理事会が開かれた。このときま
 でに、韓国政府より安保理事会への援助要請が到着していた。同理事会はアメリカ提出
 の決議案を採択した。それは、北朝鮮軍の行動を「平和の侵犯と侵略行為」であると宣
 告し、即時停戦と北朝鮮軍の撤退を呼びかけ、国連加盟各国に「あらゆる援助を提供す
 る」よう要請するものであった。決議は可決されたが、ソ連は欠席、ユーゴは棄権した。
・疑問として残るのは、ソ連がなぜ欠席したのかという政策上の問題である。結果的に言
 えば、ソ連が6月遺構の安保理事会に出席して拒否権を行使したとしても、それのよっ
 てアメリカが出兵を思いとどまったとは思えない。おそらく、アメリカは国連の枠を出
 て単独ででも出兵したであろう。けれども、この場合には国連軍という錦の旗を飾るこ
 とができなかったはずである。それは、名目的なものに近かったとはいえ、15カ国の
 参加を得て国連旗をかざし、「国連軍司令官」のもとで戦うことができたその後の事態
 とは著しく異なる状況であり、アメリカは、国連においても国際世論との関係において
 も苦しい立場に追い込まれることになったと思われる。なぜソ連はボイコットを続けて、
 結果的にアメリカを助けるようなことをしたのであろうか。当時の米ソ、中ソ関係から
 見ても、これはたいへんいい気な政策上の誤りではなかったであろうか。
・6月26日、事態はますます緊迫の度を加えた。極東軍司令部の派遣した軍事調査団は、
 急速に悪化しつつある情勢にかんがみて、朝鮮に向かう途中から呼び戻された。韓国軍
 は決然たる北朝鮮軍の攻撃に抵抗することができない。その全面的崩壊は目前に迫って
 る。   
・トルーマン大統領は、軍事的対決の決意をいよいよ固めることになった。国防長官に命
 じて、米人引き揚げの掩護ばかりでなく「韓国支援のために」もアメリカ海空軍を38
 度線以南で用いるよう、および第七艦隊を台湾海峡に急派するようマッカーサーあてに
 至急電話させた。  
・6月27日早朝、国連朝鮮委員会から、北朝鮮の進攻は「十分計画され整備された、全
 面的規模のものである」という報告が到着した。同日、トルーマン大統領は声明を発表
 した。「私は合衆国海空軍に対し、韓国軍に掩護と支援と支持を与えるように命令した。
 韓国に対する攻撃は、疑いもなく、共産主義が独立国を征服するのに政府転覆の手段を
 用いる段階をこえて、いまや武力侵略と戦争の手段を用いようとするに至ったことを明
 らかにしている。かかる状況において、台湾が共産軍によって占領されるようなことが
 あれば、太平洋地域の安全に対し、また、その地域で合法かつ必要な機能を果たしつつ
 あるアメリカ軍に対し、直接の脅威となるであろう。したがって、私は第七艦隊に、台
 湾に対するいかなる攻撃をも阻止するよう命令した。」
・アメリカの国内政治の手続き上からも、この参戦決定の経緯は問題になった。政府の決
 定が議会の承認に先行していたからである。もっとも、軍事介入の最初からそれが問題
 になったわけではない。与党はもちろん、野党である共和党の多くも介入を支持し、議
 会の同意を得ないで大統領が出兵を下命したことについても、あえてそれを問おうとは
 しなかった。   
・しかしながら、のちに戦争がアメリカ国民に不評になるにつれて、共和党は、この参戦
 の経緯を政府および民主党を非難する材料として取り上げるようになった。トルーマン
 の次に大統領になった共和党のアイゼンハワーは、議会の事前の同意を得ることなく軍
 事力の行使をしないことを公約し、その次のジョンソン大統領も、ベトナム戦争につい
 て動揺の態度を取った。
・6月29日、トルーマン大統領は再び国家安全保障会議を召集した。アメリカ政府の首
 脳がいまや当面している問題は、いかにして北朝鮮の急進撃を止めるかであった。「私
 は北朝鮮軍を38度線の向こうへ押し返すのに必要な、あらゆる措置をとりたい。けれ
 ども、われわれが朝鮮に深く介入するあまり、朝鮮以外にも起こりかもしれない同様の
 事態を扱いかねることにならないように、ということを確認しておきたい。38度線以
 北での作戦は、軍需品の集積地を破壊するためにのみ企てられるべきであろう。なせな
 ら、われわれの朝鮮における作戦は、そこに平和を回復し、(南朝鮮の)境界を回復する
 ために企てられたものであることを、明瞭に理解させたいからである。」
・アメリカ政府の戦争目的は朝鮮戦争の全期間を通じて一貫していない。そこに大きな問
 題があった。それにもかかわらず、彼らの戦争指導方針は、それを全面戦争化しないと
 いう点で、また、それに深入りしすぎなるあまり他の地域、ことヨーロッパで同様の事
 態(冷戦の熱戦化)が生じた場合の対応能力を失わないという点で、さらに、ヨーロッ
 パの同盟国(朝鮮派兵国)との一致を保つという点で、一貫したということができる。
・アメリカとしては、ヨーロッパ防衛体制の強化こそがなによりも重要な当面の課題でな
 ければならない。したがって、トルーマン政府としては、朝鮮戦争に断乎として参戦し
 ながらそれをあくまでも局地戦争として終えるという、二重の要請にこたえなければな
 らなかったのである。そういうわけで、アメリカが当初からもっともおそれ、警戒した
 のは、朝鮮への中国よりもソ連が介入することであり、また朝鮮への直接介入だけでな
 く、ヨーロッパにおける間接介入であった。アメリカは介入決定と同時に、朝鮮での戦
 闘にソ連が参加する兆候にとくに注意するような軍情報機関に対して指令を発し、トル
 ーマン大統領は、ユーゴ、ブルガリアおよび北ヨーロッパの周辺におけるソ連の活動に
 は格別の注意をはらうよう指示していた。
・戦線を8時間にわたって視察したのち東京に帰ったマッカーサーは、ただちに国防省に
 戦況を報告した。報告は絶望的なものであった。韓国軍は「支離滅裂になり全面的敗走
 状態にある。」もはや統一ある行動はできない、「アメリカ地上軍だけが北朝鮮の進撃
 をくいとめることができる」
・6月30日の首脳会議でまず問題になったのは、蒋介石〜の地上軍派遣の申し出をどう
 するかであった。蒋介石は台湾の最精鋭地上軍3万3千名の提供を申し出たのであった。
 トルーマン大統領自身はこの受託にかなり積極的であったが、出席者の他の全員がそれ
 に反対した。それが中国の介入をまねいたり、国府軍は大砲その他の重装備を持たず、
 その質も疑わしいから朝鮮ではほとんど役に立たないであろうというのが、その見解で
 あった。また、台湾から朝鮮へ兵力を割くのは台湾を手薄にし、大陸からの攻撃からの
 攻撃を招くおそれのあることを付言した。大統領はついで議会の幹部と会談し、事態の
 重大性を離して地上軍派遣の決定を伝えた。6月30日のこの決定こそ、まさにアメリ
 カの参戦を決定的にしたものであった。海空軍だけの段階ならともかく、地上軍の派遣
 に踏み切ったからには、もはや自発的撤退は不可能である。何カ月か後にちには、これ
 が36万人をこえる在朝鮮アメリカ軍にまでふくれあがった。
・アメリカの立場は、国連安保理事会によってまたも追認される。決議にしたがって兵力
 を提供する諸国に対して、アメリカの統率下に統合司令部を設置するよう勧告し、アメ
 リカに国連軍最高司令官を任命するよう要請した。このポストに当然マッカーサーが任
 命され、ここに挑戦派遣のアメリカ軍は国連軍の呼称をとなえることになった。ただし、
 実態は、マッカーサーは国連軍最高司令官に任命される約二週間前からアメリカ軍司令
 官として戦争を指揮していたのである。
・こうして、アメリカは朝鮮戦争に軍事介入を行うに至った。この決定は、朝鮮をアメリ
 カの直接的防衛ラインの外においた、戦争勃発前の決定に反するものであった。軍の指
 導者たちは、長いあいだ朝鮮の戦略的価値を認めず、ソ連からの攻撃に対しては維持で
 きないと考えて、半島からの撤兵を主張してきた。彼らは、主要な敵であるソ連との大
 戦争を戦う場所として、朝鮮半島は絶対に「誤った場所」であると考えていた。いいか
 えれば、アメリカは、朝鮮に軍事的に介入するのは謝りであるとの確信にもかかわらず、
 その政策を変更したのである。その理由について、「北朝鮮からの攻撃は極東だけでな
 く、世界のあらゆる場所における集団安全保障の全体系に対する挑戦であった。それは、
 あらたに独立したすべての国に対する脅威であった。これは、かかる武力の誇示によっ
 て他の国も脅かされるかどうかを決する試金石であった。朝鮮で力には力で対抗すると
 いう決定は、不可欠であった。大統領の政治的・軍事的助言者一同は、それが正しい政
 策であるとの見解において一致していた。」と後に証言された。
・戦後のアメリカ外交は、ソ連圏の拡大および強化に対して防戦一方であった。ヨーロッ
 パでようやく封じこめた政策の第一歩を踏み出した矢先に、アジアでは、日本に代わっ
 て戦後極東国際政治の核になると考えていた中国が共産化した。中国は手遅れとして断
 念したとしても、いままた朝鮮の併呑を見過ごすことは同様の連鎖反応を起こさせる原
 因となり、また、NATO諸国に対する共同防衛の約束も不信感を招くことになる。こ
 うなっては、自由陣営全体、アメリカ世界政策全体の破綻である。これ以上は譲らぬと
 いう決意を朝鮮で実力をもって示すこと、これこそが封じ込め政策の確立のために必要
 である、とアメリカの指導者たちは考えたのである。この意味で、当時まだそういう表
 現はなかったけれども、朝鮮戦争における軍事介入を決意したワシントンの人々の頭に
 は「ドミノ理論」があったといってよい。そして軍事的にも政治的にも悪戦苦闘のすえ、
 ともかくも韓国というドミノの駒が倒れるのを防ぐのに成功した経験が、今日のアメリ
 カに、アジアにおけるいま一つの駒である南ベトナムに執着させているとみることがで
 きるであろう。この意味で、ベトナム戦争はアメリカにとって第二の朝鮮戦争なのであ
 る。
・朝鮮戦争におけるアメリカの戦争目的は、最初は明確に限定的なものであった。国連は、
 「韓国に北からの侵略以前の地位を回復するためにのみ」朝鮮で戦っているのであると
 述べている。アメリカの参戦目的が当初いわゆる「戦前状態」の回復であったことは、
 疑いのないところである。にもかかわらず、アメリカ(と国連)はやがてその目的から
 逸脱し、38度線をこえて北進することになる。それによって、朝鮮戦争はいっそう悲
 劇的なものになったのである。
・戦争が始まったとき日本にいたアメリカ軍は、定員に達しない四個師団からなる第八軍
 であった。しかもそれは、士気や装備のすぐれた北朝鮮軍と拮抗するためには再編成と
 再訓練と再装備とを必要とする状態にあった。彼らは、よもや戦争に巻き込まれようと
 は思っていなかった。北朝鮮の攻撃開始を聞いたとき、マッカーサーさえもまた、大規
 模な偵察行動だくらいに思っていたという。  
・北朝鮮軍最高司令官の金日成は、「祖国の栄誉と自由と独立を守るための、正義の戦い
 に決起したわが全朝鮮人民は、アメリカ帝国主義の侵略に反対して決死的に戦い、勝利
 を勝ち取るまでやまないであろう。英雄的な人民軍は、わが祖国の領土からアメリカ帝
 国主義の掠奪者どもを十分に駆逐しうるし、また必ず駆逐しないではおかないであろう
 ことを示した。祖国の栄誉と自由と独立を尊ぶ者ならば、ひとしく一致団結して、アメ
 リカ帝国主義どもの武力侵略に反対する祖国解放のための神聖な戦争に立ち上がらねば
 ならない。」とラジオで放送した。
・7月はじめにアメリカ政府はイギリス政府と協議を行い、朝鮮での戦争をきっかけにし
 て全面戦争を引き起こすおそれにつき討議し、あらゆる代償をはらってでも全面戦争を
 避けること、そのためにソ連や中国をこれ以上挑発しないことが、ワシントンの意向で
 あり、またロンドンの要望だったのである。    
・戦争について基本的に考えかたを異にするマッカーサーは、この種の戦術的拘束に次第
 に強い不満をいだくようになり、戦争指導方針についてやがて本国政府と激しく対立す
 るようになる。いわゆる「トルーマン−マッカーサー抗争」がこれであり、その結果、
 1951年4月にマッカーサー解任となった。二人の考えが具体的にもっとも対立した
 のは、中国および台湾に対する政策についてである。そして、それが最初に表面化した
 のは、マッカーサーの台湾訪問事件であった。 
・アメリカ国家安全保障会議は、統合参謀本部に勧告をいれて、台湾の防衛強化のために
 国府に軍事援助を認めることに同意した。これは、台湾へ逃れてから国府に与えられる
 ことになったはじめての軍事援助である。この際、マッカーサー司令部は、国府軍が必
 要とする物質について査察をおこなうよう命ぜられた。この命令に関して国務省は、マ
 ッカーサー自身の台湾訪問を好まなかったが、マッカーサーはこれを蒋介石に最初の対
 面の機会にしようと考え、台北に飛んだのである。東京に帰還したマッカーサーは声明
 を発表して、台湾が攻撃された場合におけるアメリカ・国府両軍の効果的協力のための
 取決めが完了したと述べ、蒋介石の反共の「不屈の決意」は「アメリカ国民の共通の関
 心と目的に合致する」と結んだ。
・5年におよぶに日本統治のあいだ、マッカーサーは、五つ星の将軍としての機能と極東
 における最高司令官としての役割を兼ねてきた。その意味では、彼に「政治的問題を扱
 う」資格がなかったとはいえないかもしれない。ただ、その程度と、「純粋に軍事的な」
 勧告という装いのもとに政治的争点を支配しようとしたことが問題であろう。
・国連におけるアメリカの同盟諸国は、朝鮮で行われている「警察行動」が極東における
 反共十字軍に転じ、さらには第三次世界戦争を招くのではないかとの危惧を、ますます
 強めるにいたった。アメリカ政府は、台湾「中立化」を中国領土に対する「武力侵略」
 であり、国連憲章違反であるとした中国およびソ連の非難にこたえるため、台湾問題が
 国連で検討されるのを歓迎するという立場を再確認した。その矢先に、マッカーサーが
 これとまったく矛盾する見解を示したのであるから、衝撃はいっそう大きかった。
・金日成は8月15日、朝鮮解放五周年記念日にあたり、「アメリカ軍は、わが共和国南
 半部戦域の約8パーセントを維持しているにすぎない。わが祖国の全域がアメリカの武
 力干渉者どもから完全に解放され、自由と独立の旗が全朝鮮の津々浦々にいたるまでひ
 るがえる日もそう遠くないであろう。われわれは、短時日のうちに祖国の領土からアメ
 リカ侵略者どもを駆逐しうるし、またかならず駆逐しなければならない」と揚言し、ま
 た、「祖国の独立と自由ろ栄誉を守る正義の解放戦争」において「いまやわれわれは、
 敵をわが領土の最後の地域から追い払う戦いの、きびしい決定的な段階に直面した」と
 演説して、「拍手」、「熱烈な拍手」、「われるような拍手」を浴びている。北朝鮮の
 攻撃が武力解放をめざす計画的なものであったことは、これらの発言からも察せられる
 と思う。
・9月8日、第10軍団は仁川への奇襲上陸に成功した。もともと空軍力を欠くという致
 命的弱点があったところへ、いまや背後の補給路を断たれるにおよんで、こんどは北朝
 鮮に敗走の番がまわってきた。上陸作戦後二週間のうちに、アメリカ軍はソウルを含む
 韓国のほぼ全部の地域を回復した。ただし、釜山、仁川両方面から挟撃されて、袋のネ
 ズミになりそうだった北朝鮮軍主力を、アメリカ軍は捕捉できずに逃がしてしまった。
 これなどは、成功のかげにかくれた小さくない失敗だったといえよう。
・ともかく、マッカーサーの大バクチはもののみごとに成功した。綜合参謀本部の強い反
 対を押し切って行われたこのであっただけに、マッカーサーの得意や思うべしである。
 もともと強かった彼の自信と自負がさらに倍加したことは、容易に理解できるだろう。
 戦争指導に関するワシントンとの対立において、その後彼がますます非妥協的になる一
 因は、ここにもあった。しかし、あまりにも容易でめざましい成功に酔ったあとで、マ
 ッサーサーには高いツケがまわってくることになる。
・戦前状態への復帰がほぼ実現したこの段階で、国連軍の「警察行動」はその目的を達成
 したことになる。アメリカおよび国連の再三表明した目的は、「(北朝鮮の)武力攻撃
 を撃退し、国際平和とその地域(韓国)の安全を回復する」ことであり、「平和を回復
 し、(南朝鮮の)境界を回復する」ことにあったからである。ところが、アメリカは戦
 局の主導権を握るにつれて、最初の戦争目的を逸脱してそれを拡大した。戦争遂行過程
 における戦争目的の動揺は、戦争指導上もっとも望ましくないことの一つであるが、ア
 メリカは朝鮮戦争でそれを行った。戦争を38度線以北に拡大したのである。
・反共十字軍論者であるマッカーサーにとっては、もともと、本国政府流の限定戦争は、
 甚だあきたらぬものであった。彼はその種の戦争を原理的に理解できず、また理解しよ
 うともしなかった。マッカーサーは、「私は北朝鮮軍を追い返すのではなく、撃滅しよ
 うと思う。それには全北朝鮮を占領する必要があるかもしれない」と語っていたという。
・マッカーサーは、仁川上陸作戦を考えていたことから、38度線をこえて北進する場合
 のことを考えていた。彼が仁川作戦は「(敵に)決定的打撃を与える機会をつくり出す
 ただ一つの望みである」といったとき、「決定的打撃」とは北進を含む意図であったと言
 ってよいであろう。      
・もし北朝鮮政権の打倒と朝鮮の統一が新たな戦争目的とされるならば、それは当然北朝
 鮮と境を接する中国の戦争に対する関心を高めずにはおかない。これまで、北朝鮮はも
 っぱらソ連の援助だけを受けてきた。しかし、8月20日、中国周恩来は、「中国国民
 は朝鮮問題の解決にもっとも深い関心を持たざるを得ない」と述べた。
・トルーマン大統領は、「マッカーサー将軍は、北朝鮮軍を38度線以北へ追いやるため
 にも、またそれを壊滅させるためにも、必要な軍事作戦をとらねばならなかった。国家
 安全保障会議は、もしソ連や中国の軍隊が介入する兆候あるいは脅威がないならば、マ
 ッカーサー将軍は作戦を38度線の北へ拡大し、北朝鮮占領の計画を作成してよい。け
 れども、ソ連や中国が介入する際には、地上作戦を38度線の北に行ってはならない。」
 という意見を勧告した。
・ここにみられるトルーマン政府の戦争最高指導方針には、重大な欠陥があると言わねば
 ならない。開戦直後の基本目的を一擲して、38度線以北への進軍と北朝鮮の占領に許
 可を与えながら、ソ連軍や中国軍の介入がない限りという条件をつけ、その条件につい
 ての認定を自らは下していない。ということは、その決定をマッカーサーの責任に転嫁
 していることである。戦争目的の根本的変更を行う以上、それに伴うべき諸結果につい
 て検討し、準備すべきは、現地軍司令官ではなくて本国政府であり、大統領であろう。
 それは当然高度に政治的な決定の問題であって、軍事的決定にゆだねるべき問題ではな
 いのである。 
・マッカーサーが中国軍の介入可能性なしと考えた情勢判断の誤りは、むしろ二次的な誤
 りであろう。彼が罷免後、ワシントンから明確な政策上の指令を得られなかったことに
 不満を表明したのは、まったく呼なしとしないのである。
・9月30日、周恩来は北京放送を通じて、中国はアメリカ軍の38度線突破を「いたず
 らに許容できない。」中国は「隣国が帝国主義者に侵略されるのを傍観しないであろう」
 と述べた。
・アメリカ政府は、いわばウヤムヤのうちに38度線をこえようとしていたわけである。
 これはまことに無定見であり、思慮の欠く態度であったといわねばならない。トルーマ
 ン大統領は、38度線問題に際して、明らかに「決定」を回避し、「責任」を転嫁しと
 したと言わざるを得ない。
・10月1日、マッカーサーは北朝鮮軍司令官に無条件降伏の勧告を行ったが、これは、
 38度線突破のための口実をつくる意図であったと思われる。北朝鮮は、9月30日あ
 るいはそれ以前になされた中国の「黙認せず」という発言に支えられて、これを黙殺し
 た。この日、マッカーサー指揮下の韓国軍がはじめて38度線を突破した。
・10月3日、中国は、国連軍が38度線をこえたならば「中国は北朝鮮を守るため派兵
 するであろう」ただし、「韓国軍だけが越境する場合には派兵しない」と語った。しか
 し、アメリカ政府は、この中国の警告を額面どおりに評価しなかった。その理由は、朝
 鮮戦争に関する国連の新しい決議が迫っているから、中国は介入の威嚇によって、それ
 への圧力を狙っているだろう、というものであった。
・国連内でも、国連軍が38度線に近づくにつれて、越境についての賛否両論が交錯した。
 しかし、アメリカからの働きかけによって、朝鮮派兵諸国をはじめとする多数の国々は、
 いまこそ朝鮮の分割状態を解消し、禍根を断つことによって、国連が道義的リーダーシ
 ップと実行力を示す絶好のチャンスであると考えるようになった。アメリカは、このよ
 うな国連諸国の動向によっても勇気づけられたのであった。
・10月7日、国連総会はイギリス、オーストラリア、その他六カ国の提案になる決議案
 を可決した。この決議は、国連の朝鮮に関する「本来の目的が統一。独立。民主朝鮮の
 樹立であったことを想起し」韓国ばかりでなく「全朝鮮に安定の諸条件を確保するため
 あらゆる適切な措置がとられるべきこと」を勧告した。アメリカはこの決議案の提案国
 にはならなかったけれども、それは単に技術的な問題で、実際は文章そのものからして
 アメリカ製であったことはいうまでもない。すなわち、この国連決議はトルーマン大統
 領の「決定」であった。この日、韓国軍以外の国連軍も38度線を越えて北進した。
・こうしてアメリカは、参戦のときと同様、すでに実施に踏み切っていた38度線突破に
 ついて国連の追認を得た。ただし、こおときの「国連」とは、安保理事会ではなくて総
 会であった。朝鮮戦争の拡大について安保理事会に訴えても、ソ連の拒否権がある以上
 無意味である。そこで総会が舞台に選ばれたのである。国連のとる強制措置は、安保理
 事会の決議によってなされるのが本来の建前である。それを勧告という形で総会に肩代
 わりさせることによって、アメリカは引き続き自国の政策に国連の衣をきせようとした
 のであった。
・こうして、アメリカは38度線以北へ進撃という軍事的措置をとっただけでなく、統一・
 民主朝鮮の樹立という新しい戦争目的を設定するに至った。この目的は、アメリカ外交
 にとっては久しく、平和的手段によってのみ追求すべき第二次的目的であった。それは、
 軍事的手段を用いてまでも追及すべき重要目的では決してなかった。朝鮮戦争が始まる
 まで、トルーマン大統領が朝鮮の統一をそれほど切実な目的と考えたことは一度もなか
 った。それがいま、戦前状態への復帰に代わって新しい戦争目的になったのである。
・参戦当初アメリカは、軍事的勝利よりも政治的勝利を優先的に顧慮していた。ところが、
 ここに至って、軍事的勝利によってのみ政治的勝利がもたらされるとされたわけである、
・アメリカの国内にも、仁川勝利の頃、このような戦争目的の変更が結局は墓穴を掘る所
 以であることを主張した少数の人々がいた。もしアメリカが「旧境界線(38度線)で
 自発的に停止したならば、彼らは自ら勝利者であることを主張することができ、それを
 世界中から認められることもできたはずである」と述べているのは、正しいポイントを
 ついているというべきであろう。
・マッカーサー軍はしばらく快調に北進を続けた。国連の10月7日決議の翌日、彼は北
 朝鮮にふたたび宣言を発し、降伏について「朝鮮における統一・独立・民主政府の樹立
 について国連と協力する」ことを勧告し、これが受け入れられないならば「国連の命令
 を実施する必要な軍事行動をただちに着手する」と威嚇した。
・10月9日北京放送は、38度線突破を許した国連総会の決議は違法であり、世界の人
 民の多数によって反対されている。アメリカ軍の北朝鮮進入は中国の安全に対する重大
 な脅威である。「われわれは黙って見逃せない。中国人民は平和を愛するが、しかし、
 平和を守るためには侵略戦争に対抗することを決して恐れないであろう」と重ねて警告
 した。それにもかかわらず、ワシントンの支配的な見解は依然として、中国の軍事介入
 は理論的には可能であっても現実性のあることではない、というものであった。
・トルーマンとマッカーサーとのウェイク島会談は、こうした状況の中で行われた。トル
 ーマンにしてみれば、ソ連や中国の参戦を回避することは、戦争が朝鮮以外に波及する
 のを回避すると同様、参戦以来もっとも心を用いてきたことであるだけに、助言者たち
 の支配的な考え方に同調しながらも、たぶかさなる中国の警告を簡単に無視できなかっ
 た。ことに、マッサーサーが彼を信頼しないと同様、彼もマッカーサーを信頼しきれな
 くなっていたので、この際マッカーサーと個人的に会うことを望むようになっていた。
・両者のウェイク島会談は10月15日に行われた。マッカーサーは軍随一の長老であっ
 た。第二次世界大戦におけるもっとも偉大な軍事的英雄とみなされていたアイゼンハワ
 ーでさえも、マッカーサーが中将のときようやく少佐に昇進したにすぎなかった事実か
 らしても、その軍歴と威信において、トルーマンの総合参謀本部の面々はマッカーサー
 ととても肩を並べられなかった。その上、彼が総合参謀本部の強い反対を説得して敢行
 した仁川上陸作戦の成功は、日本占領政策の予期いじょうの進捗とあいまって、下り坂
 気味があったこの老将軍の威信を、再び高めたのであった。これに対してトルーマンは
 どうか。彼は、ルーズベルト大統領が任期半ばに死ななかったとすれば、大統領には到
 底なれなかったであろうような人物である。もともと、枯れの目標は生涯を通じて上院
 議員たること以上にには出なかったし、大統領になるまでの彼の政治生活中にも、国民
 的話題になるほどのものはほとんどなかった。こういう経歴からいっても、彼はマッカ
 ーサーほど威信とリーダーシップを持っていなかったのである。
・トルーマン大統領は中国参戦の可能性についてマッカーサーに意見をただした。マッカ
 ーサーは、「ほとんどない。中国がもし朝鮮戦争の最初の一、二カ月のうちに介入して
 いたら、それは決定的であっただろう。われわらはもう中国の介入をおそれない。中国
 は満州に30万の兵力をもっている。そのうち鴨緑江を渡ってこられるのはせいぜい5,
 6万だろう。彼らは空軍を持っていない。われわれが朝鮮に空軍基地をもっている以上、
 もし中国が平壌まで南下しようとすれば、最大の殺戮にみまわれるだけだろう。」と答
 えた。ソ連の介入する可能性についても、マッサーサーはそれをあり得ないとした。
 マッカーサーにはこの会談の目的がわからなかったが、後になってはじめておkの「ウ
 ェイク島の謎」はとけた。「疑いもなく、ウェイク島での政府の戦略は、はじめからマ
 ッカーサーを政治の手駒として使うつもりだった」二週間後に中間選挙をひかえて、大
 統領と民主党は、仁川上陸作戦の成功を政治的に利用し、マッカーサーの栄光を横取り
 しようと企てた。後にトルーマンがマッカーサーは中国介入の可能性について彼を誤り
 に導いたと「おどろくべき非難」をあびせたのは、「狡猾な政治的伏兵」にほかならな
 い。     
・マッカーサーが中国軍介入の可能性について判断を誤っていたことは、その後の彼の作
 戦指導からいっても否定できない。ただし、CIAも中国の軍事介入は「1950年中
 にはあり得ない」と最終的に結論していたことは事実のようである。
・東京もワシントンも中朝国境沿いに中国軍の大部隊が集まっている情報はキャッチして
 いた。しかし、その「軍事的能力」と「意図」を区別するという立場から、介入の意図
 なしと判断したのである。
・結局、ウェイク島会談によってトルーマンは朝鮮統一達成の日は近いと誤った裏づけを
 与えられたばかりでなく、マッサーサーとの個人的な関係においても、溝を深めこそす
 れ埋めることはできなかったのである。

「まったく新しい戦争」
・マッカーサーの作戦は継続した。10月19日は第8軍は平壌を陥れ、第10軍は10
 月26日には元山に 上陸した。しかし、この第8軍と第10軍の分離は、のちに中国
 軍の大規模な攻撃を受けたとき、アメリカ軍に非常な混乱と損失をもたらした作戦上の
 失敗であった。統合参謀本部は両軍団の統合を継続するようマッカーサーに提案してが、
 命令を下すまでには至らなかったので、マッカーサーはこの提案を取り上げなかったの
 である。 
・マッカーサーは10月14日、国防省の許可を得ないで、韓国軍以外の国連軍も北朝鮮
 のどの地域を占領してもかなわないと指令し、「全速力で、あらゆる戦力を全面的に用
 いて前進」するよう命令した。統合参謀本部は、マッカーサーに対して、彼のこの指令
 は韓国軍だけが中国やソ連との国境に近づいてよいというこれまでの「指示と一致しな
 い」と申し送り、その独断専行をとがめた。ところがマッカーサーは、全軍の国境接近
 を認めたのは韓国軍だけではあまりに弱体で危険なためであり、「軍事的必要」に基づ
 くものであると反論した。結局統合参謀本部は、マッカーサーの反論をしぶしぶ認めて
 しまった。
・すでに平壌攻防戦のころから捕虜の中に中国兵が散見されていたが、10月24日にい
 たって、韓国軍が清川江上流近くの雲山で、明らかに中国軍と思われる敵に包囲攻撃さ
 れた。それを救援に出かけたアメリカ軍も、26日夜同じくそのワナにかかって大損害
 を受けた。  
・「人民日報」がアメリカは「張り子の虎」にすぎないと揚言したのは11月5日のこと
 であった。このなみなみならぬ対米戦意の高揚にもかかわらず、CIAも、ワシントン
 の陸軍も、また東京のGHQも的確な情報を持っていなかった。
・マッカーサーは統合参謀本部へ「大量の兵員と物資が、鴨緑江のすべての橋をこえて満
 州からなだれ込んでいる。これによって、わが軍は破滅的な脅威を受けている。これを
 食い止めるただ一つの道は、わが空軍の破壊力を最大限に用いてそれらの橋を破壊し、
 敵の進出を支えているその北側地域にあるすべての施設を制圧することである。これが
 一時間延期されるごとに、アメリカその他の国連軍の血によって高価な代償を支払わな
 ければならない。」と抗議文を送った。
・わずか二日前に中国の大量介入に否定的な報告を送ったマッカーサーが、ここでは突如
 として、「大量の兵員と物資が満州からなだれこんでいる」と訴えている。大統領も統
 合本部も、マッカーサーは「軍事的必要」の名のもとに政治的主張を本国に押しつけよ
 うとしている、と解せざる得なかった。
・こうして、ワシントン政府と極東軍司令官の関係は重大な山場に到達しつつあった。そ
 れは、トルーマンにとって「決定」を下すべきときであったように思われる。ところが、
 彼はまたも「現地にいる」司令官の見解に譲歩し、統合参謀本部に対して爆撃を許可す
 るように告げた。中朝国境から5マイル以内における空軍活動の禁止が解かれ、鴨緑江
 の橋の南半分を爆撃するおとがここに許可されたのであった。トルーマンはマッカーサ
 ーに押し切られたと言わなければならない。
・11月7日、マッカーサーは、満州を基地とするソ連製ミグ戦闘機の活動が増大してい
 るのに対処して、国際法にいわゆる「継続追跡」の原則を援用して、越境追跡すること
 を許可するよう要請した。国防・国務両長官も大統領もこれを承認しようとしたが、国
 連の同盟諸国は、「朝鮮の紛争を局地化するために可能なあらゆること」を行なうとの
 合衆国政府の公式表明と矛盾するとして、それにいっせいに反対したため、結局取り上
 げられながった。 
・国連軍は、11月24日いよいよ本格的攻勢を再開した。アメリカ軍の最後の攻勢がは
 じまって一、二日のうちに、中国の大反撃がはじまった。米韓軍は、西部戦線でも東部
 戦線でも混乱状態に陥った。11月28日、マッカーサーは国連に対して次のような特
 別声明を発した。「わが軍の過去4日間にわたる攻撃作戦の途中で始まった敵の大反撃
 よって、総計20万以上の兵力をもつ軍・軍団・師団などに組織化された中国大陸軍の
 大部隊が北朝鮮の国連軍に対して配置されているおとが、いま明らかになった。われわ
 れはまったく新しい戦争に直面している」
・中国軍介入の意図ないし動機はなんであったか。この問題の評価についての基本的なポ
 イントとして、北京の政策決定が慎重で合理的なものであることをあげなければならな
 い。発表される主張はたいへん威勢のよい熱情的なものであるが、実際の行動は非常に
 細心慎重である。朝鮮戦争への介入に際しても、指導者の頭脳はきわめて冷静で、非合
 理的要素によって判断を乱したとは考えがたい。
・アメリカをはじめ西側には、中国の北朝鮮に対する決定的関心は、満州の工業がそれに
 依存している鴨緑江沿いの水力発電施設であったとする見解が広く存在していた。国連
 軍がこの「中国の正統な利益」を侵す意思のないことを十分中国に説得すれば、介入は
 避けられたと考えていた。けれども、中国政府はこの問題を、国内でも大雅汽笛にも全
 然論じたことがない。 
・鴨緑江沿いに、一定幅の緩衝地帯を確保するのが介入の目的であったという類似の見解
 も、その後の事実によって否定されている。中国は、介入後アメリカの満州爆撃や、そ
 ればかりか原爆による爆撃さえもありうることと考えていたようである。その上で介入
 に踏み切ったのであるから、その意図は、たんに発電施設とか満州の工業とかのかぎら
 れた経済的利益にあったのではなく、もっと大きな政治的目的があったとみるのが妥当
 であろう。
・北京は決してはじめから朝鮮戦争に熱中したわけでもなく、それを主要な関心にしてい
 たわけでもなかったのに、結局は参戦した。その理由として、中国はソ連の指令によっ
 てしぶしぶ介入したという見解も有力に存在している。確かに当時の中国は、モスクワ
 への軍事的・政治的依存がまだきわめて高かった。   
・しかしわれわれは、中国はソ連からの促進的・激励的影響を受けながらも、その意に反
 してではなく、みずからの意思に従って介入したとの解釈をとりたい、介入に伴うであ
 ろう危険が大であったことは、むしろこの解釈の根拠になるだろう。では、中国がみず
 からの意思で介入を決定した意図はなんであっただろうか。中国にとっての問題は、北
 朝鮮の領土的統合よりはむしろ北朝鮮という名の国が存在すること、全朝鮮が国連の下
 に統一されないこと、の政治的意味であった。北京にとって、朝鮮の「公正な」平和は
 それ自体が目的ではなく、それに関連する他の政策目標を達成するための手段であった
 といえよう。その政策目標とは、簡単に言えば、アジアにおける中国の地位の問題であ
 った。
・中国は、日本の「再軍備」と中国に対する「歴史的な侵略の道」への不安を表明してい
 た・その不安は、朝鮮戦争勃発後アメリカの対日講和条約締結への努力がいっそう精力
 的になるにおよんで、当然つのったのである。国連軍が北朝鮮軍に対する最後の攻撃を
 開始したとき、10月26日、アメリカ国務省顧問は国連代表に対日講和条約に関する
 アメリカの覚書を提出したが、それは、沖縄をアメリカの施政下におき、台湾・南樺太・
 千島列島の最終的地位は米・英・ソ・中の協議によって決定し、日本にアメリカの軍事
 基地をおく理論的根拠を示したものであった。この時点での一致を考えても、中国は、
 朝鮮でアメリカが全面的勝利を占めれば、東北アジアの米・日・韓の反共連携体制によ
 って制せられることになると考えねばならなかった。1950年当時はまだ建国早々で、    
 軍事的にも経済的にも今日より弱体な頃であったから、その不安はいっそう強かった。
・そこで中国としては、朝鮮への介入による軍事力の示威もよって、日本に少なくとも警
 告を、もしうまくゆけば対米従属から中立への方向転換のきっかけを、与えることがで
 きると判断したのであろう。アメリカンの介入も、本来韓国そのものの維持よりも、極
 東における反共防壁の中核たる日本の安泰化のためであったとみるならば、中国の介入
 もまた、一つには、日本への配慮であったと言えるのではないだろうか。
・中国は朝鮮と台湾におけるアメリカの行動を、「フィリピン、ベトナム、マラヤ、イン
 ドネシアその他における民族解放運動に対する攻撃」と結びつけて理解していた。
・北朝鮮の敗北が東南アジアに与える直接の影響よりも、むしろその地域における中国の
 威信に与える影響を、北京は考えていたかもしれない。東南アジアだけでなく、アジア
 全体、ひいては世界における中国の地位を回復することは、毛沢東らの過去30年にも
 わたる念願であった。同じ共産体制をもつ隣国北朝鮮を見殺しにすることは、この中国
 の未来像に大きな汚点を残すことになる。こういった考慮もまた、一つの参戦促進的要
 因であったと言えるだろう。
・この参戦をもって中国指導者の膨張主義的傾向を云々するのは、あたらない。彼らが大
 きな自信をもって参戦したとみるよりは、むしろ大きな不安を持ちながら参戦を決意せ
 ざるを得なかったと理解するほうが、おそらく真相に近いであろう。
・マッカーサーの総攻撃はわずか4日間で決定的失敗が明らかとなり、「まったく新しい
 戦争」を報じた声明で、彼は事態が「国連軍司令官の手にあまる」ことを認めねばなら
 なかった。その後ひと月あまり、国連軍は中国軍によって南下敗走を余儀なくされる。
 「12月の退却」と言われるのがこれである。
・敗北に阻喪したマッカーサーは、中国がそれに同意すれば38度線沿いの休戦を支持す
 るとまで言明する反面、それにかわる案として、中国に対する全面的応戦の計画を主張
 した。その内容は、要約すれば、アメリカ海空軍による中国の封鎖と爆撃、および国府
 軍を朝鮮で使用するとともに中国南部に上陸させて第二戦線を設定するというものであ
 った。全面戦争への発展をおそれる大統領は、この提案を採用しなかった。
・11月30日の記者会見でトルーマン大統領は、朝鮮で「原爆」を含むあらゆる武器の
 使用を考慮中であると語った。イギリスでは、この言明に「不安」を表明し、朝鮮をき
 っかけにして世界戦争が勃発するのをいっそう懸念した。アメリカとイギリスの両者の
 間には、中国の立場についての基本的な考え方に差のあることが明らかになったが、ア
 メリカは、イギリスとの相談なしに朝鮮で「原爆」を使用しないこと、および中国との
 全面戦争に訴えるよりはむしろ韓国からの撤退を甘受することについて、イギリスに保
 障を与えた。両者は、台湾を敵の手に渡さないこと、朝鮮を自発的には放棄しないこと、
 朝鮮問題でイギリスはアメリカを支持し続けること、などについても合意した。
・12月16日トルーマン大統領は「国家緊急事態宣言」を行ったが、もとよりそれは戦
 況に直接の助けとはならず、後退する国連軍を追って中国軍は38度線を越えて南下し、
 トルーマン政府はまたも朝鮮におけるアメリカ軍完敗の事態さえ考慮しなければならな
 くなった。 
・国連は1950年12月14日に朝鮮休戦を求める決議を採択した。しかし、カナダの
 提案にかかるその決議は、中国によって直ちに拒否された。アメリカは、国連が公式に
 中国を侵略者と宣告するよう要請するに至った。2月1日、国連総会はアメリカの強い
 圧力のもとに、中国に侵略者の烙印を押す決議をした。しかし、この段階で、この中国
 非難決議にはほとんど実際的な意味がなかった。
・1951年4月11日、異例の深夜の記者会見で、トルーマン大統領は合衆国極東最高
 司令官・連合国最高司令官・国連軍最高司令官マッカーサー元帥の解任を発表した。ト
 ルーマン大統領は、よろめきながらもかろうじて大統領の地位と権限と責任を守った、
 と評してよいだろう。それは遷延に遷延を重ねた「決定」であり、最後の段階でもまだ、
 国連司令官の更迭だけにとどめて、日本占領の最高責任者としてのマッカーサーの地位
 はそのまま温存しようという意見に、かなりの考慮が払われたほどであった。  
・太平洋戦争以来、極東において軍事・政治にわたるほとんど全権をゆだねられてきた英
 雄的将軍が、朝鮮戦争のさなかに罷免されたのであるから、まさしく大事件であった。
 アメリカの国民大衆は、朝鮮の戦況に対する挫折感と政府の戦争指導に対する不満とを、
 罷免ー帰国直後の短い期間であったが、マッカーサーに対する歓呼に転じた。
・当時依然としてきびしい占領体制下にあったわが国では「トルーマン=マッカーサー抗
 争」が激化してきた過程も「マッカーサー聴聞会」の詳細も報道されなかったため、
 「偉大な」「日本の恩人」マッカーサー元帥というイメージだけが支配的に残ることに
 なったのである。     
・日本を離れる日、「アメリカ大使館から厚木までの道の両側には二百万の日本人がびっ
 しり並んで手をふり、中には涙をみせてくれた人もいた」とマッカーサーの回想録にか
 記されている。マッカーサーに対するこのようにほとんど聖化されたイメージは、その
 後長年のあいだ日本国民の頭からなかなか消えなかった。その反面、解任の真相がだん
 だん伝わってくるにつれて、一部の人々のあいだで、かつてのそれと180度逆転した
 イメージがもれるようになった。
 
休戦
・朝鮮の中国軍は4月に春季攻勢を開始した。しかし、同軍は数十キロメートル前進して
 またも38度線を突破するのは成功したものの、兵員の損耗も著しく、結局後退のやむ
 なきに至った。アメリカ軍はそれを追って、5月24日に三たび38度線を越えたが、
 境界線北方での抵抗は熾烈をきわめた。この地域で両軍の撃ちあった銃砲弾の量がおび
 ただしかった。    
・開戦後1年たった1951年6月には、部分的戦闘の激しさにもかかわらず、全般的戦
 況は膠着状態にはいっていた。アメリカはつと鴨緑江まで北進する意図を放棄していた
 し、中国と北朝鮮も韓国の武力解放が不可能であることを悟っていた。こうした休戦へ
 の機運が自ずから熟しつつあったとき、それにきっかけを与えたのは、ソ連であった。
 ソ連国連代表が、国連での演説で、交戦諸国が休戦のための討議を始めるよう提唱した
 のであった。   
・ソ連の提案から休戦会談の開始までは円滑に進んだが、しかし会談の前途には隘路につ
 ぐ隘路が生じ、交渉妥結までにはその後2年余の年月を要した。しかも、この間半島の
 中央部では、依然として激しい戦闘が続いたのである。
・アメリカの国民世論は、いつはてるともしれぬ泥沼戦争に、次第に強く倦怠と嫌悪を感
 じるようになった。朝鮮戦争は多くの点で異常であったが、とりわけ、戦争を指導して
 いた政府、戦場で指揮をとっていた将軍たち、前線で戦っていた兵士たち、国内でそれ
 をささえていた国民、それらのあいだに存在していた奇妙な関係ほど異常なものはなか
 った。この「異常」さはマッカーサーの解任によって解消されたわけではなく、むしろ
 休戦会談が捕虜問題を中心として難航していた戦争後期の20カ月間に、いっそう高ま
 ったのであった。 
・捕虜問題は、米中双方にとっていまやまったく政治問題になっていた。東京にもワシン
 トンにも、また北京にもモスクワにも、この問題を人道的な立場から考えようとしてい
 た者は少なかった。捕虜たちは、大きな賭金のかかったゲームにおける小さな駒にすぎ
 なかった。北京の強制送還の主張が通れば、共産主義に対する防壁としてのアメリカの、
 極東における威信は失墜し、逆にアメリカが自由送還の言い分を通せば、アメリカ帝国
 主義に対抗するアジア民衆のチャンピオンとしての中国の、極東における威信と権威は
 失われる。1952年春以降、こうして、朝鮮の戦いは軍事的戦争というよりも、むし
 ろ政治的・宣伝的戦争であった。
・6月23日、これまでの「聖域」に入れられていた北朝鮮最大のダム水豊にたいして爆
 撃が行われたが、全般的戦局に影響はなく、政治的効果としてはむしろマイナスであっ
 た。アメリカ空軍はその後鴨緑江沿いの地域にしばしば爆撃をかけたが、その通称「爆
 撃横町」で展開されたセイバージェットとミグの交戦も、英雄的な新聞ダネは提供した
 ものの、南方300キロで行わわれている地上戦闘にはほとんど影響しなかったのであ
 る。その地上戦のほうはどうだったかといえば、中国軍がいわゆる縦深防衛線を築いて
 いた結果、アメリカ側の攻撃も共産側の反攻も、しばしば多くの人命を失いながら軍事
 的効果の少ないものになった。
・かつて、ドイツの将軍は「戦争は他の手段による政治の継続である」と喝破した。しか
 し、朝鮮戦争には、複雑な意味で「政治の道具」であった。ましてそれは、伝統的に全
 面戦争や軍事的戦争だけを戦争と理解し、限定戦争や政治的戦争への理解を欠いていた
 アメリカ国民大衆には、なかなか理解できない戦争だったのである。
・この年11月の大統領選で、共和党はアイゼンハワーを候補として20年ぶりに民主党
 を破った。アイゼンハワーの勝利は彼の個人的声望に負うところが絶大であったが、し
 かし、もし彼以外の者が候補に出てもこの選挙では勝てたのではないかと言われるくら
 い、民主党政府は世論の自死を失っていた。しかし、おそらくそれら以上に終戦と直接
 関連する原因になったのではないかと思われるのは、スターリンの死である。北朝鮮の
 韓国への進撃を認めたのは、スターリンの大きな誤算であった。このことは、1953
 年はじめまでには、すでにクレムリンでも明らかになっていただろう。しかし、スター
 リン存命中は、彼はあくまでも「誤りを犯すことのない」存在でなければならなかった
 のである。1953年3月のスターリンの死はその障害を取り除き、休戦会談再開への
 大きな転機になったと考えられる。
・朝鮮戦争の真の悲劇は、その運命があまりにしばしば朝鮮人以外の者によって決定され
 てきたことだろう。朝鮮戦争の場合も、本来それは南北朝鮮の民族的統一の問題として
 企画されたはずであるにもかかわらず、その後の事態は、朝鮮人、こと韓国の国民およ
 び指導者の意向におかまいなく進行した。 
・アメリカの国務長官ダレスが、インド案を基礎とするアメリカ側の最終休戦案をインド
 を訪問して説明して、中国説得をインド側に依頼した際、もし朝鮮のゆき詰まりが続く
 なら、アメリカは場合によっては満州の基地を原爆でたたくという意向を中国に伝える
 よう、あわせて依頼したと言われる。
・1953年7月27日、アメリカ、北朝鮮の両将軍は休戦協定に署名した。韓国代表は、
 最後の形式的抵抗として協定に署名しなかったが、協定の実施をさまたげないことを約
 束した。協定に際して金日成は、「わが朝鮮人民はその英雄的な闘争によって、もっと
 も貴い我が祖国朝鮮民主主義人民共和国を帝国主義武力侵略者の侵害から守り通した」
 と述べた。
・北朝鮮の本来の目的であった朝鮮「解放」が予想外のアメリカ軍の介入によって挫折し、
 逆に、朝鮮ばかりでなく台湾やベトナムなど、アジアにおける「民族解放」の進展を遅
 延させる結果を招いたことを考えるならば、客観的には金日成のいう「勝利」はプロパ
 ガンダの言葉にすぎないといわなければならない。朝鮮戦争は、アメリカだけでなく共
 産側にとっても「勝利なく休戦」をもって終わったのである。3年1カ月の年月と、
 400万と言われるほどの死傷者を費したのち、戦いが始まったときの線からそれおほ
 ど遠くないところで、戦争はその幕を閉じたのである。
・「勝利なく休戦」は、同時に「和解なき休戦」でもあった。休戦協定では、朝鮮の将来
 に関する一般的問題は、政治会議で処理されるはずであった。政治会議への期待は、双
 方とも最初からほとんど持っていなかったように思われるが、それにしても、米韓安保
 条約はその期待を名実ともに葬るものであったといわなければならない。なぜなら、そ
 れによって、アメリカは、朝鮮統一の問題を朝鮮の人民が話し合うのに先だって、韓国
 政府を朝鮮の正統政府と認め、その擁護を約束したからである。
・ジュネーブで朝鮮統一問題について妥協が不可能なことは、むしろあらかじめ明らかで
 あった。会議はインドシナについては休戦をもたらしたが、朝鮮問題については、朝鮮
 派兵16カ国は討議の打ち切りを宣言した。インドシナでフランスの敗北と、共産側の
 勝利をしぶしぶ見守らねばならなかったアメリカは、それにつけでもますます朝鮮でこ
 れ以上譲歩する気持にはなれなかった。朝鮮の統一は、ここで決定的に、近い将来の問
 題からは、はずされてしまったのである。
   
朝鮮戦争の意義
・開戦の決定が事実上平壌とモスクワの共同決定に近いものであったにせよ、朝鮮戦争の
 本来の性格は武力による全朝鮮統一を目指す北朝鮮の民族解放戦争であり、ソ連はこの
 北朝鮮の意図とその成功の見通しを、極東における日米連係の強化に対するために利用
 しようとしたのであった。
・チョコのクーデター、ベルリン封鎖、アジアの諸国における共産系勢力の暴力行動、中
 華自民共和国の成立に続いて朝鮮戦争を迎えるにおよんで、アメリカは、それを個々の
 事件ではなくて、クレムリンを源を発する一つのドラマの一幕ずつであると受け取るに
 いたったのである。こうして、アメリカは、38度線の破綻を局地的次元においてでは
 なく、世界的次元においてとらえたのであり、そのためにこそ、それまでの韓国放棄論
 をかなぐり捨てて全面派兵に踏み切ったのであった。
・戦争の性格をそのように受け取るならば、反応は必然的に朝鮮での参戦だけにはとどま
 らない。しなわち、アメリカは朝鮮への派兵と同時に、台湾海峡を「中立化」し、フィ
 リピンとインドシナへの軍事的援助の拡大をも決定したのである。
・朝鮮戦争をきっかけにして、アメリカは「封じこめ」をヨーロッパ大から世界へ拡大す
 るとともに、それを主として軍事力の次元で考えるようになった。同様に、それは日本
 および西ドイツの再軍備を促進することになり、それによって、いわば冷戦の基本図を
 定礎することになったのである。
・朝鮮での民族統一戦争が共産主義者によって始められたのを国際共産主義の侵略と見た
 立場をさらに拡げて、少なくとも元来北朝鮮ほどには共産主義的と考えられないベトコ
 ン(南ベトナム解放民族戦線)を国際共産主義の手先と割り切っている。こういう考え
 方がアメリカに定着するようになったのは、まさしく朝鮮戦争を発端としてであったと
 言ってよい 
・一方、共産側の意図と見通しはどうであったにせよ、朝鮮戦争は、結果的には朝鮮の統
 一や台湾の解放を大幅に遷延させることになったばかりでなく、一般に、戦後の左派的
 な勢力による民族統一・独立運動を大きく停滞させることになった。 
・朝鮮戦争に参加し、あわせてNATO強化にも乗り出した結果、トルーマン政府は
 NSC−68とは無関係に、その線を上回るまでの軍備増強をしなければならなかった。
 開戦前の議会や世論の空気からすれば、ソ連の原爆保有があったにせよ、NSC−68
 の線まで軍事費を増額することには大きな抵抗があり、なかなか達成しにかったように
 思われる。朝鮮戦争や、結果的に、その反対論を取り除く役目をはたしたことになるの
 である。トルーマン政府にとっては幸いなことに、政府は朝鮮戦争によって、議会その
 他の反対にうあうことなく戦後の軍備増強を軌道にのせることができた。しかしながら、
 アメリカ自身にとっては不幸なことに、戦後におけるアメリカの軍備増強は、いわば国
 民的討議を経る余裕なしに決定され、方向づけられたのであった。
・加盟国のほとんどが西側陣営に属していた。朝鮮における「国連軍」は国連憲章に規定
 された本来の国連軍ではなく、実質的にはアメリカ軍のヨロイに国連のコロモを着せた
 ものであって、韓国軍以外の他の派兵15カ国の軍隊はほとんど名目的なものにすぎな
 い。また、もしソ連が安保理事会への欠席を続けないでアメリカの企画に対して拒否権
 を行使したならば、「国連軍」は成立しなかったであろう。
・朝鮮戦争によって、国際連合は、現状の武力的変更に対してまったく無力であった国際
 連盟とは違うことを示した。一方、アメリカもまた「国連における同盟諸国との一致」
 を損ねないように配慮せざるを得ず、その結果国連がアメリカの独走にコントロールを
 加えたという場合もあった。この双方の意味あいで、西側陣営の国々は無論のこと、中
 立的な国々のあいだでも国連の機能に対する評価が上がり、国連の威信が高まったこと
 は否定できないであろう。  
・ソ連が欠席を続けない限り、アメリカは安保理事会を意のままに動かすことができない。
 総会であれば圧倒的多数を得ることができるし、また拒否権もない。そういうわけでア
 メリカは、本来安全保障の問題については第二次的な役割しか与えられていない総会に、
 安保理事会の第一次的な責任をこえるような機能を与え、それによって朝鮮戦争の運営
 をより容易にすることを策した。これが平和結集決議の意図であった。いわば封じ込め
 政策の国連版である。しかし、皮肉なことに、その後必ずしもアメリカあるいは西側陣
 営の意向どおりには動かない加盟国が増えるにつれて、アメリカとしてもこの決議には
 あまり頼れなくなっているのが今日の実情である。
・朝鮮戦争は戦後日本の歩みにどのような関わり合いを持ったであろうか。総括的に言え
 ば、それは政治的にも経済的にも戦後日本の針路に決定的な影響を与えたのである。
 冷戦の激化に伴い、アメリカの対日政策はすでに朝鮮戦争勃発に先だって大きく旋回し
 ていた。占領初期におけるアメリカの対日政策は日本の非軍事化と民主化を目標として
 いたが、トルーマン主義宣言のころから次第に、日本をアジアにおける反共体制の要と
 してみるようになった。
・占領当初、アメリカの関心は将来における日本の侵略を不可能にすることにおかれ、日
 本の福祉とか国としての強さとかは二次的考慮の対象にすぎなかった。けれども、その
 後世界政治に新しい情勢が発展するにつれて、アメリカは、このような初期の対日政策
 を再検討しなければならなくなった。もしもアメリカが日本を経済的に自立できる国へ
 育成しない場合には、我々は、日本が内外からの全体主義的煽動者の影響下に陥ること
 を覚悟しなければならぬ。反対に、もし自立への育成に成功するならば、日本は、アジ
 アにおける全体主義の氾濫に対する防波堤の役割を果たすことができるであろう。
・占領初期には「日本は極東のスイスたれ」と非武装・中立を説き、新憲法第九条を礼讃
 していたマッカーサーも、1949年には考えを変え、1950年元旦のメッセージで
 は、共産中国の成立は日本への脅威であり、第九条の規定は自衛権を否定するものでは
 ないと述べるまでになった。これに呼応して吉田首相も、国会で、かつての立場を捨て
 て「戦争放棄を自衛権の放棄を意味しない」と述べたのであった。
・朝鮮半島の動乱は、日本の重要性を一段とクローズ・アップさせることになった。早期・
 単独講和が決定的にとなり、日米安保体制が樹立されたのは、朝鮮戦争がわが国にもた
 らしたもののうち、第一にあげるべきことであろう。「朝鮮戦争」は、日本お安全保障
 問題を全面的に、根本から変えてしまった。非武装化され、軍事的に中立化された日本
 という夢はもはや消え去った。この戦争によって、わが国は、決定的かつ明示的にアジ
 アにおける反共軍事体制の中核たる地位を占めることになりのである。
・アメリカの国務長官ダレスは日本の再軍備を求めたが、吉田首相は、わが国には本格的
 に再軍備に耐えるだけの経済力がないとの理由で消極的抵抗を行い、警察予備隊をなし
 くずしに「漸増」すること以上に出ようとしなかった。
・朝鮮戦争がわが国にもたらした第二のものとしては、経済面におけるいわゆる「特需ブ
 ーム」の到来をあげねばならない。あえぎながら自立経済への道を模索していた日本の
 経済界にとって、アメリカ軍の装備・補給などに関する大量調達はまさに「回生薬」で
 あり、開戦後1カ年間の生産上昇率は46パーセントにも達した。
・第三に、同様の傾向は防衛面にもあらわれている。すなわち、国家警察予備隊の名のも
 とに日本の再軍備が始められ、今日の自衛隊の基礎ができたのは、まさに朝鮮戦争のた
 めであった。ワシントンの参戦決定によって、在日アメリカ軍はほとんどすべて朝鮮へ
 出動することになったため、その結果生ずる国内治安の空白を埋めるべく、7万5千人
 からなる警察予備隊の創設および海上保安庁の8千名増員がGHQから指令されたのは、
 開戦後2週間の7月8日のことである。それは、装備・訓練から用語に至るまですべて
 アメリカ製であった。
・日本の再軍備を決定的に促進した朝鮮戦争の意義は、まことに大きいといわねばならな
 い。それにしても、一旦放棄した軍事力を再び持つというこの国家的大事業が占領軍司
 令部の指令によって始められ、国民的討議を経ないで行われることになったのは、わが
 国にとってまことに不幸なことであったと思う。