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この本は、今から34年前の1991年に刊行されたものだ。
瀬島龍三という人は、太平洋戦争時に日本陸軍の中枢である参謀本部作戦課のエリート参
謀として、南方方面の作戦計画の立案などに従事していたようだ。
終戦後は、一時、シベリアに抑留されていたが、帰国後は伊藤忠の社員となり、ひらの社
員から副社長、副会長、そして会長まで出世の階段をのぼりつめている。
その後は、鈴木政権、中曽根政権において行われた第二次臨調(第二次臨時行政調査会)
の委員として、中心的な活動を行い、国鉄の分割民営化などの答申に大きな貢献をしたよ
うだ。

このように、瀬島龍三という人はすばらしい功績を残した人なのであるが、しかしその一
方では、次のような疑惑がもたれているようだ。
 ・参謀本部の作戦課において、日本軍が壊滅状態となったガダルカナルの作戦や、レイ
  テ決戦の作戦計画立案に関与しており、重大な責任があるのではないか。
 ・「台湾沖航空戦での戦果は事実ではない。点検の要あり」と情報参謀が主張先から打
  った電報を握り潰したのではないか。
 ・終戦時の満州において、ソ連との停戦交渉をした際、シベリア抑留に同意させられた
  日本側の交渉員のひとりだったのではないのか。
 ・シベリア抑留時代に、ソ連側から特別待遇を受けており、積極的に共産主義思想に転
  向したのではないのか。  
 ・伊藤忠商事時代に、当時の防衛庁での次期航空機選定や次期レーター網パッチシステ
  ム更新の商戦において、さまざまな裏工作を行い、不可解な自殺者を出したのではな
  いのか。
 ・第二臨調時において、さまざまな裏工作を行い、中曽根政権の都合に沿った答申に誘
  導したのではないのか。

これらの疑惑などから、瀬島龍三に対する評価は二分されているようだ。
しかし、この本を読んだ限りでは、いろいろ不可解なことがあるにせよ、波乱万丈の昭和
の時代を懸命に生きた人だったのではないかと私には思えた。
戦争という異常時な状態の中で行った行為を、平常時のなかにいる人の感覚で、あれこれ
と批判するのは、私はあまり好きではない。
シベリア抑留問題にしても、当時の日本政府が、戦時賠償として「一部の労力を提供する
ことには同意」するような内容の「対ソ和平交渉の要綱(案)」を作成しており、これが
ソ連側にわたっていたようだし、シベリア抑留を瀬島龍三の責任とするのは、筋違いのよ
うな気がした。

ところで、山崎豊子著の小説「不毛地帯」の主人公である壱岐正は、瀬島龍三がモデルで
はないかといわれているようだ。

過去に読んだ関連する本:
死ぬほど読書
生涯投資家
昭和の怪物 七つの謎
大本営参謀の情報戦記


プロローグ
・昭和史を巨視的に眺めた場合、昭和五十六年の春から五十八年春かけての二年間は、
 あるひとつの政治機関が威をふるったきわめて特異な時代ということができるのではな
 かろうか。
・ある機関とは臨時行政調査会である。
 臨時行政調査会設置法にもとづいて生まれた総理大臣への一諮問機関にすぎなかったの
 に、その役割はまさに占領期以来の変革のヘド・クォーターとして驚くほど大きな力を
 ふるった。
・通称、「第二臨調」と称されたこの機関は、本来の役割である行政改革のプログラム作
 りを推し進めただけでなく、一総理大臣の私的マシーンの色合いを強め、その政治権力
 の実態を国民の目におおい隠す作用をも果たしていた。
・第二臨調の象徴的存在は、会長の「土光敏夫」経団連名誉会長であった。
 その見識とストイックで質素な生活ぶり、明治人気質と古武士的風貌は、国民にある種
 の信頼感と親近感をいだかせるに充分な、カリスマ性を帯びていた。
・二十一世紀にそなえて、ムダの少ない効率のいい国づくりをして次代への遺産としたい
 というのが、この八十代も半ばにさしかかる老経済人のかねてからの持論だった。
・大きな政府による無駄遣いと、つねに民間企業がそのツケの尻ぬぐいを強いられている
 という不満から、土光の持論は、国民の大半に受け入れられ易いものでもあった。
・第二臨調には、土光のほかに八人の委員が任命された。
 財界から三人、労働界二人、官界、学界、地方自治体関係、言論界からそれぞれひとり
 ずつという構成であった。
 財界から三人とは、土光のほかに旭化成社長の宮崎輝瀬島龍三であった。
 瀬島は、このとき伊藤忠商事会長であり、日本商工会議所(日商)の特別顧問だった。
・通称、基本答申といわれる第三次答申(昭和五十七年七月)では、三公社(国鉄、電電
 公社、専売公社)の民営化が打ち出されている。
・それらの答申は、鈴木内閣を引き継いだ中曾根内閣によって政策として次つぎと実行に
 移された。
・第二臨調は、土光をいただきつつ、実際には中曾根首相とそのブレーンたちの企図する
 方向で回転した。
 答申案作成のプロセス、世論の支持と盛り上げ、そこに至る政治的技術はかなり高度で
 あり、そうした臨調の実質的な切り盛りや高度の政治的テクニックは、瀬島龍三とその
 周辺のスタッフが進めたものだった。
・最高スタッフの九人の委員のなかで、ほとんど第二臨調の仕事のみに没頭した瀬島は、
 土光という司令官をかついだ事実上の参謀長であった。
・第二臨調が解散し、つづいて昭和五十八年七月に生まれた臨時行政改革推進審議会(行
 革審)でも、再び瀬島は七人の委員のひとりに選ばれた。そして、六つの小委員会に顔
 を出し、小委員会の委員長として実権をふるった。
 さらに、中曾根内閣の目玉のひとつでもある教育改革をめざす臨時教育審議会(臨教審)
 の委員にも選ばれている。
・昭和六十一年六月、行革審が解散になると、再び時限立法で新行革審がスタートした。
 会長には日本経営者団体連盟会長の大槻文平がすわり、瀬島が会長代理のポストに就い
 た。 
・第二臨調から新行革審まで、一貫して委員の地位に就いていたのは、瀬島ただひとりだ
 った。
・これまで日本の行政改革は、明治維新と太平洋戦争敗戦後の占領統治でしか実行された
 ことがなく、革命でも起こらなければ無理だといわれてきたが、昭和にはいって三十一
 人目の中曾根首相は、先達の失敗を教訓に、製鋼を参考にして独得のノウハウをつくり
 あげて改革を断行した。
・では瀬島龍三とは、どういう経歴を持ち、どのような考えを持つ人物だったのだろうか。

シベリア体験の虚と実
・関東軍参謀の瀬島龍三中佐が、日本のA級戦犯二十八人を裁く極東国際軍事裁判(東京
 裁判)にソ連の検事側証人として出廷したことは、いまやあまり記憶されていない。
 敗戦の翌年九月に瀬島は、「松村知勝」少将、「草場辰巳」中将とともに抑留中のハバ
 ロスク収容所から東京裁判に出廷するために帰国している。
・草場辰巳中将は、東京裁判の法廷での証言を潔しとせず、服毒自殺をとげた。
 昭和二十一年九月、松村、瀬島とともにハバロフスクから東京へ連行されて三日後のこ
 とである。 
・草場の日記を読んでいくと、この将官が出廷を前にして死を選らばざる得なかった理由
 が明らかになってくる。
 草場は抑留中のソ連側の取り調べに対し、喋りすぎている。
 日本陸軍が対ソ侵略を企図し続けていたというソ連側の告発に沿うように都合よく答弁
 させられている。
 日本陸軍内部で練られていた戦争準備案が、すぐにでも実行に移される「対ソ侵略計画」
 であるとするソ連の告発理由を裏づける役割を、充分に果たしていたといえる。
・シベリア抑留者のなかには、対ソ作戦の責任者である関東軍総司令官「山田乙三」をは
 じめ関東軍総参謀長「秦彦三郎」らもいたが、草場よりはるかに作戦計画を熟知してい
 るはずのこれらの将官が外されて、あえて草場が証人に指名されたのは、ソ連側に好都
 合の情報をもたらし、与し易しの印象を与えたからとしか考えられない。
 草場はそのことに責任を感じ、最後の手段で自らの口を封じるというかたちでソ連側の
 思惑を無に帰せしめたのだ。
・昭和二十一年十月、瀬島と松村は、ソ連側の検事証人として相ついで証人席に立った。
 極東国際軍事裁判所は、東京・市ヶ谷にあるかつての大本営の建物に置かれていた。
・二人の弁護人と瀬島のやりとりを読んで気づくのは、瀬島は終始、自分の供述のどこが
 検事側の告発に利しているかに無自覚であることだ。
 同時にそれは、弁護側の質問の意図に無理解であることを意味している。
 瀬島がソ連側検事に供述したものが事実であり、詳細であったがために、弁護人の質問
 に対して瀬島が正確に事実を述べれば述べるほど、ソ連側の告発が正当化され、一方、
 弁護側は不利となり、苦しくなるという構図になっているように見える。
・瀬島証言は、日本陸軍の統帥の複雑さをきわめて正確にかつ簡潔に述べたものだった。
 だが瀬島証言は、その全体を通してみると、たしかに検事側の証人にふさわしい内容で
 あった。 
・関東軍の攻勢作戦計画も、天皇の裁可を得ている以上、天皇の責任という結論になる。
 関東軍司令官自身は、責任を回避できることにはなるが、それは改めて天皇の戦争責任
 にふれる意味をもっていた。
 関東軍が実際には対ソ戦を発動しなかったから、天皇の対ソ戦争責任は問われずにすん
 だことになるが、大本営の命令は最終的には天皇の責任という論を補完していた。

・ある文学作品が浮かびあがってくる。その文学作品とは山崎豊子著「不毛地帯」である。
 「不毛地帯」は、昭和四十八年から五十三年まで「サンデー毎日」に五年間にわたって
 連載された。
 シベリア収容所で生死の境をさまよい、日々の重労働刑で辛苦を重ねたかつての大本営
 参謀が、日本に帰還してくるや大手商社にはいり、そこで航空機、石油開発など戦後日
 本の代表的商戦で敏腕をふるい、会社の階梯をのしあがっていく、という物語である。
・作品のなかで壹岐のたどる経歴を関する限り、瀬島のそれがそのまま借用されている。
 壹岐イコール瀬島と見ることができる。
・著者の山崎は、壹岐の人物像は、瀬島だけでなく、何人もの軍人のイメージを重ねあわ
 せて創りあげたものと断っているし、自らの全集の月報でも、瀬島をモデルにしている
 わけではない、と繰り返している。
・しかし「不毛地帯」の連載以降、「壹岐イコール瀬島説」は、週刊誌や経済誌によって
 繰り返し書かれて流布していった。
  
・瀬島は、シベリア収容所で人間の極限を見たといい、これを機に人生観が変わった、と
 いう。
 「私は十四の年に幼年学校に入って、以後は階級イコール人間の価値という世界です。
 少尉より大尉のほうが人間としての価値も上、その考えに疑問を持ったことは終戦まで
 一度もなかった。それがあの収容所のなかで軍の階級とか会社の社長、専務、そういう
 ものはひとつの組織の秩序を維持する手段にすぎない。人間の価値とはまったく別個の
 ものだということを、夢から醒めたように感じました」
 
・ソ連側の取り調べは、階級や人物によって異なっていた。
 とくに情報、諜報関係者の取り調べは容赦のないもので、この収容所からどこかに連れ
 ていかれたまま、いまなお消息不明の情報関係の佐官が何人もいるという。
 ソ連は、東京裁判の準備と関東軍解体のために、撤退した取り調べを行ったのだ。
 とくに関東軍に対ソ侵略計画が存在したという事実を、将官や佐官に認めさせようと必
 死になっていた。
・関東軍作戦課の作戦班長だった「草地貞吾」の場合は、単なる作戦部隊を対ソ謀略部隊
 として認めろと強要され、それを拒否すると鉛筆を手に突き立てられたり、身体がよう
 やく入るような細長いタンス状の箱の中に二週間も直立したままの姿勢で閉じ込められ
 た。その間、大小便はタレ流しで、立ったまま眠ったという。
 草地はこうした過酷な拷問にも屈しなかった。
・草場辰巳の日記を見ると、訊問される内容は、
 「満州国は侵略の攻撃手段ではなかったか」
 「大東亜戦争の責任者は誰だと思うか」
 「関東軍の国境警備隊はどのような方法でソ連の情報を収集したか」
 など多岐にわたっていた。
 たぶん瀬島も、これた似たような内容の訊問を受けたにちがいない。
・とくに瀬島は、大本営の作戦参謀として六年間、日本陸軍の中枢に身を置いていただけ
 に、高度の機密情報を知っていた。
 ソ連の情報機関は、すでに日本軍の中枢のすべてを調べあげており、さまざまな資料や
 写真などの証拠を突きつけて、日本陸軍の対ソ作戦が”侵略的”だったと、証言させたは
 ずだ。 

・瀬島が、昭和二十二年二月に松村とわかれたあと、どこの収容所に移ったかは明らかで
 ない。正確には、昭和二十二年三月から二十五年四月まで、どのような境遇に置かれて
 いたかはつまびらかではない。
 しかし、いくつかの証言はある。たとえば、昭和二十二年春のほんの一時期、ハバロフ
 スクの第十六分所に収容されている。
 当時第十六分所に抑留中だった河野宏明によれば、瀬島は中佐の襟章と参謀肩章をつけ
 て、いつもひとりで過ごしていたという。
 一般の兵士は粗末な食事で、朝早くから使役に出ていったが、瀬島は特別室で食事をと
 り、使役にも出なかった。あまりの優待ぶりに、一部の兵士たちが収容所のソ連軍将校
 に不満を訴えた。するとその将校は、こう答えたというのだ。
 「かれは(と言って親指を立て)、これがうまいんだ」
 これがうまいんだ、というとき、手を口にもっていってパクパクさせた。
 それは口が達者であるとか、ご機嫌とりがうまい、という意味に解釈できたという。
 
・昭和四十一年に刊行された松本清張著「現代官僚論」の「内閣調査室論」に、瀬島に関
 するエピソードが紹介されている。それは次のようなものである。
 昭和二十九年一月、中日ソ連大使館のラストボロフ二等書記官が、アメリカに政治亡命
 した。通称「ラストボロフ事件」といわれた事件だ。
 この事件のあと、内閣調査室内部から怪文書が流された。
 執筆者は不明ということになっているが、内部の者の筆になることは間違いない。
 怪文書は、当時、内調嘱託で元大本営戦争指導班の「種村佐孝」大佐が、関東軍総司令
 部に出張中に敗戦となり、ソ連に抑留され、そこでアクティブ(ソ連抑留者のなかに民
 主化運動(共産主義運動)のリーダー)となり、共産党員に転向していた、という内容
 だった。
 しかも、種村は他の日本人十人と共にモスクワに送られ、第7006捕虜収容所で特殊
 訓練を受けた、と書かれていた。
・松本清張が紹介しているこの部分の記述では、この第7006捕虜収容所は、日独両国
 の共産革命の準備工作に関する機密要因を訓練する特殊学校で、そこの教官のひとりが、
 ラストボロフだったといい、こう書いている。
 「ここに収容されたものは俘虜であってもソ連市民と同待遇を与えられた。
 この収容所にいた日本人は総計十一人であるが、氏名を確認できたのは種村、志位、浅
 枝、瀬島龍三らであったという」
・モスクワ近郊の第7006収容所については、いまとなっては確認はできない。
 この収容所にいたといわれる軍人のひとりに取材したが、
 「このときの話はあの世にもっていく」
 といい、詳細は語ってくれなかった。
 しかし、自らはアクティブに協力的だったと認め、あそこで生きるためには仕方なかっ
 たことだ、といい切った。
・瀬島は、この松本の著書に関しては、いかなるかたちでも触れていないので、その実態
 はわからない。

・シベリア収容所で、ソ連が日本人収容者に課した過酷な労働と理不尽な対応は、すでに
 いくつもの書によってふれられている。
 ポツダム宣言の第九条を無視し、
 「将兵を自国に連行し、戦争状態を終結しているのに使役に使ってはならない」
 というハーグ条約にも違反したソ連側の対応は、当然、責められるべきである。
・こうした理不尽な収容所生活のなかで、日本人収容者の一部による民主化運動というソ
 連へのへつらい、そして日本人同士の密告や、思想対立にからんだリンチも頻繁に起き
 ている。 
・ソ連が日本の将兵を送り還しはじめたのは、昭和二十三年春からである。
 当初は、民主化運動に熱心だった、「スターリン万歳」と叫ぶような将兵が舞鶴に上陸
 してきた。
 日本帰還を「天皇島に上陸」などと憑かれたような目つきで高言する者が多かった。
 洗脳されたあげくの行動である。
 抑留将兵の帰国は、昭和二十四年末まで相ついだ。
・ソ連に残されたのは、主に諜報、情報機関の将校、それに反ソ行為があったとされる将
 校以上の抑留者、それに軍属や民間人でも諜報に関係したなど反ソ的行為があったとさ
 れた「戦犯」たちだった。
 「戦犯」とはいっても、むろん根拠はない。ソ連側が恣意的な判断で決めていったもの
 だ。彼らはソ連側の人質として、のちには日ソ交渉の切り札のひとつとにも利用され、
 昭和三十一年まで抑留されるという辛酸をなめている。
・「シベリア捕虜収容所(上・下)」という大著を著わした若槻泰雄は、学徒出陣で陸軍
 という組織の末端で非人間的な扱いを受けた悔しさもあってか、シベリア収容所での将
 官、佐官の実態を話し出すと、異様なほど怒りをあらわす。
 あまりもだらしのない将官や佐官の姿をいくつも知るにつれ、
 「旧軍人の破廉恥きわまりな人生」
 を罵りたくなるというのだ。  
 シベリア収容所を解剖するときには、ソ連の無法性と日本軍人の弱さの二点を見据えて
 おかなければならないと説く。
 若槻は将官、佐官クラス二十人近くに会って、話を聞いている(瀬島には会っていない)
 が、そのなかでソ連側のいかなる圧力にも屈せず、非人間的な拷問に耐え抜いたのは
 「たったひとり」だったという。
  
・瀬島は、この第二十一分所に移ってくると同時にソ連側の意向で団本部がつくられ、団
 長に就任している。
・団長としての瀬島は、毎日ソ連側の所長とノルマの打ち合わせをする。
 夕方六時から八時まで翌日の作業の割り振りをし、それぞれのノルマを決めて各中隊に
 連絡する。むろんソ連側のノルマ要求は常に過酷だった。
・五つの中隊をたばねる大隊長として、瀬島はソ連側と日常的に接していた。
 ノルマの交渉では、こんなに働けないとソ連側とやりあうこともあったともいう。
 ひとりが月に四百五十ルーブル以上のノルマをこなすと、上限百五十ルーブルまでは賃
 金として支払われるようソ連側に約束させたのも瀬島だった。
 収容所のなかにキオスク(売店)をつくらせて、収容者が日用品の買い物ができるよう
 にもした。
 収容者たちの情報不足を解消させて、安心感を与えるためか、ソ連の新聞を翻訳させて、
 手製の壁新聞にして貼り出させたりしたのも、瀬島だった。
・団本部の団長として瀬島は、収容所で人心掌握に長けた面をいくつもみせている。
 第二十一分所には、昭和二十年八月にソ連の囚人部隊が奉天にはいってきて強奪、強姦
 をほしいままにしたとき、日本の民間人が銃を持ち出して抵抗した事件(奉天事件)の
 容疑者たちが収容されていた。
 彼らは気持ちが荒んでいて、収容所のなかでもソ連兵にもっとも抵抗を続けていた。
 ところが瀬島は、彼らを各中隊の中隊長に据えるなどして、いつのまにか瀬島シンパに
 仕立てあげてしまった。彼らは、瀬島の命令にはおとなしく従うようになった。
・瀬島の団長時代、日本人抑留者とソ連兵士の間で厄介な問題は起こらなかった。
 瀬島の調整能力に負うところが大きいといえるが、ソ連側にすれば瀬島は信頼に値する
 人間であり、ノルマもほどよいところでバランスをとっていたからでもあった。
 ソ連側は瀬島を通して抑留者の管理にせいこうしていたのだ。
・しかし、東京裁判でソ連側の検事証人となったことやアクティブに恭順の意を示したこ
 とについては、瀬島は、関東軍の将校仲間から批判されていた。
 なかでも瀬島と陸士の同期生で関東軍参謀だった津森藤吉中佐は、瀬島に向かって、あ
 からさまな批判を口にしていた。同じ日本陸軍の将校として許せない、という意味のは
 げしい言葉で罵り、瀬島は、それに必死に抗弁したという証言もある。
・第二十一分所には、「日本新聞」に論陣を張っていた「浅原正基」とその同調者たちも
 収容されていた。 
 浅原が、共産主義思想の鼓吹者として、昭和二十三年、二十四年ごろ民主化運動の先頭
 に立っていた。
 その後、運動内部での権力闘争に破れ、一転してソ連側から戦犯と名指しされてこの収
 容所に送られてきた。
・浅原とその一派は、共産主義を研究する「党史研究会」という名のグループをつくって
 細々と活動を続けていたが、第二十一分所では民主化運動はもう下火になっていた。
 むしろ彼らは、民主化運動はなやかしころ、密告、リンチ、洗濯デモなどを煽動したし
 ていたために、多くの収容者から憎悪の目でみられていた。
 党史研究グループは、団本部の文化部を拠点にして陰湿な行動を続けた。自分たちは肉
 体的に楽な作業を引き受け、現場に出ても適当にさぼっていた。
 収容所の出来事をソ連側に密告したり、日本赤十字社から届いた小包をグループでひと
 り占めしたり、ときにソ連の意を受けて私信の検閲を行ったりした。
・そのため、収容者のなかには、「あいつらに日本の土を踏ませるな」とか、「帰国のと
 きには日本海に叩きこんでやる」という発言をする者もいた。
 
・瀬島には、まだ歴史上の証人として証言しなければならない重要な問題が残されている。
 それは、シベリアの悲劇の原点ともいえるシベリアに連行された軍人、民間人約五十七
 万人余の「法的決着」に関わった当事者としての証言である。
・瀬島は、関東軍総参謀長の「秦彦三郎」とハルビン総領事の宮川舟夫との三人で、敗戦
 時にソ連軍との停戦交渉にあたった。 
 この停戦交渉について、疑惑の声があがっていたのである。
・シベリアに抑留され、全国千五強制抑留補償要求推進協議会(全抑協)事務局長をつと
 める高木健太郎は、次のように語る。
 「一説では、われわれ兵隊がシベリアへ連行されたのは、終戦のときに「国家賠償」と
 して連れていかれたというんです。瀬島さんたちがソ連との話し合いでそれを認めた疑
 いがある、といっています」 
・この問題の背景を理解するには、敗戦に至るまでのソ連を仲介にした終戦工作の動きを
 知らなければならない。
・昭和二十年六月から、日本はソ連を仲介して戦争終結の方向を模索しはじめる。
 箱根の強羅で「広田弘毅弘」元首相と「マリク駐日ソ連大使」が会談を始める。
 しかし会談はなかなか進展しない。
 このため「鈴木貫太郎」首相は、「近衛文麿」元首相を特派使節としてソ連に送ること
 を計画し、宮中周辺で根回しを行った。
 これを受けて天皇は、宮中に近衛を呼び、特派使節としてモスクワ行きを命じた。
 このとき、近衛は難の条件ももたずにモスクワに行って、ソ連首脳のハラをさぐって終
 戦交渉の条件を決め、それを天皇に直接連絡して勅裁を仰ごうと考えた。その考えは天
 皇にも認められた。
 このときの近衛は、恐懼して午前から戻ってきたといわれている。
・一方、「東郷外相」は、モスクワの「佐藤尚武」駐ソ大使に、近衛の特派をソ連政府へ
 伝えるよう訓令した。
 近衛には特別の案はないが、天皇の親書を携行する旨を佐藤に伝え、これをすぐにモト
 ロフ外相に取り次ぐよう催促した。
 さっそく佐藤は、これをモトロフに伝えたが、ポツダム会談にスターリン首相とモトロ
 フが出席することになっているので返事は遅れる、とソ連外務省が回答してきた。
 この間、佐藤は、日本政府の具体案が提示されなければソ連が近衛さんを受け入れる素
 地はない、との見通しをなんども東郷に打電した。ソ連は無条件に近い案を出さなけれ
 ば応じてこないようだ、というものだった。
 実際に、ソ連政府からは佐藤に対して、「内容は一般論であり、特使の使命を不明であ
 り、ソ連政府としては何ら確たる回答をなすことは不可能なり」といってきた。
 つまり、もっと具体的な案を持ってこなければ話にならない、と拒否されたわけである。
・トルーマン、チャーチル、スターリンの米英ソ三首脳が会談しているから、ソ連のこの
 回答は、その結果を踏まえてできたものにちがいないと、佐藤は電報で知らせてきた。
 ソ連にいて世界情勢を見ている佐藤は、日本がこの期になってもまだ有利な条件での和
 平を意図しているのが歯がゆくてならない。  
・佐藤は、国泰護持以外もう条件をつけられるような状況ではない、と東郷に切々と訴え
 かけたのだ。
 「本使は政府の御所信に反すると知りつつ、あえてこの書を呈するものにして、その罪
 甚大なるを自認す。」
 といい、たとえ敗戦主義として謗られても信念を訴える以外にない、と繰り返している。
 まさに涙とともに打った電報であった。
・ソ連に仲介を頼むといいながら、表だっての具体案をなにひとつ打ち出すことができな
 いほど、日本国内では思惑のみが先行していた。
 東郷の回想録には、最高戦争指導会議でも、陸軍にいまだ敗戦せるにあらずと強弁され、
 無条件に近い案などとてものめないと突っぱねられた、と書いている。
 陸軍の強硬論に対して、東郷や米内海相が、戦局が最悪の状態になったときのことも考
 えておかなければならないと主張し、結局は、結論がでなかったともある。
・東郷は、佐藤の訓電を送っている。 
 「ソ連政府に対し、わが方申し出の趣旨は、ソ連政府の尽力により戦争をすみやかに終
 熄せしむるようにあっせんを求むるものなること。また近衛公は日ソ関係につき交渉を
 進めると共に、戦争終結に関する日本の具体的意図をもたらしてモスクワにおもむくな
 ることを説明し、その理解を得るように訓令した」
・東郷の佐藤への訓令のなかにある
 「戦争終結に関する日本の具体的意図をもたらしてモスクワにおもむく・・・」 
 の具体的意図が「対ソ和平交渉の要綱(案)」であり、これが内々にソ連側に示された
 のではないか、というのが全抑協の見解である。
・この「対ソ和平交渉の要綱(案)」は、四項から成っている。
 第一項:聖慮を奉載そ、なし得る限り速やかに戦争を終結し、もってわが国民はむろん
     世界人類全般を迅速に戦禍より救出し、御仁慈の精神を内外に徹底せしむるこ
     とに全力を傾倒す。
 第二項:これがため内外の切迫せる情勢を広く達観し、交渉条件の如きは前項方針の達
     成に重点を置き、難きを求めず、悠々なるわが国体を護持することを主眼とし、
     細部については、他日の再起大成に俟つの宏量をもって交渉に臨むものとする。
 第三項:海外にある軍隊は現地において復員し、内地に帰還せすむることに努むるも、
     止むを得されば、当分その若干を現地に残留せしむることに同意す。
 第四項:賠償として一部の労力を提供することに同意す。
・日本政府は、ソ連側に海外にある軍隊は「現地に残留せしむることに同意」し、戦時賠
 償として、「一部の労力を提供することには同意」するつもりでいたのだ。
 ソ連は、この条項の意味を国家として見抜いていた、というのが全抑協の理事たちの見
 解であった。
・その後、瀬島らがソ連軍と停戦交渉に入ったときに、ソ連軍はこの条項を日本側に示し、
 その履行を迫ったにちがいなく、秦総参謀長や瀬島はこれを受け入れているはずだ、と
 いうのが全抑協の主張である。
・昭和二十年八月十七日、秦総参謀長はハルビンのソ連総領事館に停戦交渉の申し入れを
 した。
 瀬島とやはり関東軍の参謀の野原博起、大前正愈の三人を率いて新京からハルビンに向
 かう。
 ところが、ソ連側は改めて日時を指定するといい、責任者ひとりだけが来るようにと伝
 えてきた。
 秦は、不安だったのだろう、参謀と通訳をひとりずつ連れて行きたいと申し出た。
 それがソ連側に受け入れられた。秦は瀬島を連れていった。
・つけ加えれば、野原はシベリア収容所でソ連側の取り調べを受けるために連行されたあ
 と、行方不明になっており。
・秦と瀬島、それにハルビン総領事の宮川の三人は、「ワシレフスキー元帥」と停戦協定
 を話し合った。  
 ここで秦は、関東軍の一般状況を説明したあとで、とくに
 「日本軍の名誉を尊重されたい」
 「居留民の保護に万全を尽くされたい」
 の二点を訴えている。
 しかし、その話し合いの細部は、いまも正確な記録としては残されていない。
・話し合いの結果、七カ条の協定ができあがったとある。
 この七カ条の協定のうち、最後の第七条は、なぜか「略」となっている。
 なぜ第七条だけを明らかにしないのか不思議なのだが、とにかく第六条までには、一般
 抑留者を国家賠償として差し出すといった項は見当たらない。
・交渉に当たった三人のうち、秦は、昭和三十一年に日本に帰国したあと、昭和三十四年
 三月に病死している。
 宮川もその後シベリア収容所に抑留され、昭和二十五年に収容所内で病死した。
 もし秘密協定があるとすれば、それを語れるのは、いまや瀬島しかいないのである。
・ワシレフスキーの「回想録」をみると、関東軍との停戦交渉についての記述も出てくる。
 秦との交渉内容について大まかに記述している。
 「われわれは降伏順序について要求を示し、捕虜受け入れ地点を指示した。ヒコサブロ
 ウはすべての条件を受け入れた」
・秦は、満州・朝鮮の一部に日本軍の武装兵力を留めることを求めたが、ワシレフスキー
 は拒否している。
 ただし、ソ連軍の指示を伝えるために通信機関を関東軍総司令部に置くことは認めてい
 る。 
・ワシレフスキーらは、ソ連政府から近衛使節派遣の申し出やそのときの日本政府の「対
 ソ和平交渉の要綱(案)」も知らされていたかもしれない。
 もし、そうだとすれば、その内容を表現をかえて秦に伝えて履行を迫ったことは考えら
 れる。 
 その場合、秦がそれに抗しきれるとはとうてい思えない。
・ソ連の理不尽さと無法によって、抑留六十万余の将兵と民間人は辛酸をなめた。その原
 点が、この停戦協定にあったと主張する人々がいる以上、瀬島は公的な立場歴史的な交
 渉に立ち会った当事者として、公けの場で交渉内容、協定の全容などの事実関係を明確
 に語る責務があるのではないだろうか。
  
大本営参謀としての肖像
・瀬島は、明治四十四年十二月、富山県西砺波郡松沢村(現・小矢部市)で生まれている。
 瀬島は、松沢小学校を卒業したあと、砺波中学に進む。
・東京幼年学校には二千人からの応募者があり、瀬島は砺波中学からただひとりの合格者
 となった。同級生や後輩の間からは羨望の声があがったという。
・瀬島は、体操とか剣術は不得手だったが、学科はすぐれていたというのが、同期生たち
 の共通して指摘する点だ。  
・幼年学校の生徒は指導教官上級生から日本軍人としての心がまえを植え付けられる。
 学科や実技の成績にはすべて順位がつけられる。
 いかに教官や生徒監たちに叱られないで過ごすか、つまり与えられたワク内でいかに
 ”気にいられる”かも重要な要因になってくる。
・瀬島のまじめで寡黙な性格は、こういう組織にあってはもっとも望まれる要件であった。
 教官や先輩の話をよく聞く、自らの存在をあまり主張しない、というのは、白紙の状態
 に組織の原理が染み込んでいくようなものだ。
 瀬島は、模範的な幼年学校の生徒として育った。
 同級生の話を総合すると、幼年学校卒業時の成績は、五番か六番であったという。
・昭和五年陸軍士官学校に進んだ。
 相変わらず剣道や柔術などは不得手だったが、学科の成績はいつも上位を占めた。
 本を読み通しだったという。図書室の本などをよく読んでいた。とくに偉人や軍人の伝
 記や戦記、それに「孫子」や「甲陽軍艦」なども読んでいた。陸士の本科に進んでから
 はクラウゼビッツの「戦争論」を読んでいたという。
 的を絞った読書で、陸士の生徒のレベルを越えている専門知識を吸収していたわけで、
 同期生の知識欲の水準を越える意欲をもった生徒だったといえよう。
・瀬島の期(四十四期生)が、幼年学校、士官学校時代を過ごしたのは、大正十四年から
 昭和七年までである。
 いうまでもなく、昭和恐慌やロンドン軍縮条約、満州事変の時代そのものと重なり合っ
 ている。
・陸士の生徒の中には、陸軍内部の青年将校や中堅将校が劃策している国家改造運動に関
 心を持つ者もいた。ことに農村出身の生徒のなかには、なぜ政府は農村を破壊し尽くす
 政策を進めるのか、と性急な怒りをぶちまける者もいた。
・海軍士官が中心になった昭和七年五月十五日の犬養毅首相暗殺事件(五・一五事件)に
 は、陸士四十四期の中から十一人が参加している。後藤映範や吉原政巳といった生徒た
 ちだ。参加組の中心人物のひとり吉原政巳は、砲兵科の首席だった。
・その吉原は、法廷での陳述で、西郷隆盛の遺訓を引いて、
 「名もいらぬ金もいらぬ名誉もいらぬ人間ほど始末に困るものはない」
 という考えで決行に加わったと述べ、郷里の福島県の農村の窮状、農民は明日食べる米
 もなく、娘は身売りされるという疲弊を語る段になると嗚咽を繰り返し、陳述はしばし
 ば中断した。傍聴人も泣き、判士も涙を流した。
・瀬島は、こういう被告たちの感性とはまったく逆の立場にいた。
 瀬島の同期生は、「瀬島は文章がうまい。作文はすぐれていた」と口をそろえていうの
 だが、教官への報告文なども、相手の心理を見抜き、その期待に合致するよう文脈を連
 ねる。当然採点はよくなる。瀬島は、大日本帝国陸軍の優秀な継承者だったといえよう。
・昭和七年七月、瀬島は陸軍士官学校を卒業した。成績は二番だったというのが、同期生
 たちの記憶に残っている。
 二十歳の少尉候補生は、富山の第三十五連隊付将校として赴任した。
・富山時代の瀬島は、ひたすら戦術や戦史の研究に熱中していた。
 軍事学という学問に強い興味をもったのであろう。周囲に一目おかれるほどの熱心さだ
 った。   
・昭和十一年十二月、瀬島は第五十一期として陸大に入学した。
 陸大は、一回の受験ではなかなか合格できないといわれている難関だが、瀬島は順調に
 一度の試験で合格した。二十五歳、陸軍中尉であった。
・陸大での二年間、瀬島はがむしゃらに戦術の勉強に励んだらしい。
 なにしろ陸大の参謀教育は撤退してスパルタである。
 しかもここでは、あまり得意でない体操や剣術や柔道といった課目はない。
 ひたすら戦術、戦略、戦史だけを学ぶのだ。
 いや学ぶといっても、毎日、自分の戦術を考えて、それを教官に提出しなければならな
 い。敵軍とどう戦うかだけが主眼となる。
 瀬島にとっては、むしろ陸軍幼年学校や陸軍士官学校よりも楽しい時代だったというべ
 きかもしれない。
・昭和十三年十二月、瀬島は陸大を卒業する。
 そのときの考課は最上位であり、最上位者のみに与えられる天皇を前にしての御前講演
 の権利を得ている。
 御前講演で、瀬島は「日本武将の統帥に就て」と題して講演した。
・この「日本武将の統帥に就て」は、参謀本部第二部長(当時)の「樋口季一郎」に助け
 てもらいながらまとめた、と瀬島はいっている。
・改めてこの論文に目を通していくと、瀬島が、参謀としてどのように育ってきたかがわ
 かる。日本陸軍の参謀養成所である陸大で、どのような教育を受けてきたかがわかると
 言い換えてもいい。  
 「瀬島龍三」という肉体に刻み込まれている参謀としての能力は、この論文に集約され
 ていると考えてもおかしくないはずである。
・瀬島は、この論文の冒頭で断言している。
 統帥、つまり軍隊の作戦は指揮官の断乎たる意志が必要であり、それを兵士ひとりひと
 りに貫徹し、戦機を見て兵力を投入する点にあるという。
 名将とは、この能力にすぐれ、つねに常勝の名をほしいままにする指揮官に与えられる
 称号だというのである。
・日本武将の共通点として、瀬島は、
 「絶大なる忠誠心、非凡なる洞察力及び強烈なる実行力」
 をあげている。部下の精神力を敵に向け、そして戦勝に努めるべきだというのだ。
・いまになって検証すれば、陸大教育にはいくつかの誤りもあったと指摘できる。
 「今村均」や「遠藤三郎」の著書などには次のような欠陥が指摘されている。
 陸大の学生は、直接成績に関係のある戦術は懸命に学ぶが、考課に関係のない科目は手
 を抜く。戦術も教官の考えに一致させようとその顔色をうかがう風潮もあった。
 もともと戦術は芸術作品と同じでベターはあってもベストはあり得ない。
 学生の書く答案は、教官の主観的な判断によって採点される。つまり人間の感情が働く。
・今村や遠藤の著書からは、どんな負け戦も勝ち戦にかえてしまう文章力に秀でた者が評
 価されたという自省が感じられるのもうなずける。
・陸大の最優秀で卒業した将校は、初めからエリートとして遇された。
 とくに軍刀組には参謀本部の中枢である第一部第二課(作戦課)に配属されるコースが
 待っていた。
・昭和十四年一月から六カ月間ずつ、瀬島は師団参謀の見習いを務めた。
 実戦場は経験していない。
・ほぼ一年間の参謀見習いを終えて昭和十四年十一月、瀬島は参謀本部第一部第二課の参
 謀として東京に着任する。二十八歳、大尉だった。
・これ以後、昭和二十年七月までの六年間、瀬島は参謀本部に籍を置き続ける。
 この六年間という期間は異様なほど長い。
 ふつうは二年間ほどいて、方面軍に転出し、再び大本営に戻るというコースを歩む。
 中枢と戦前を二年から三年単位で動く参謀が多かった。
・作戦課には常時二十五人前後の参謀がいた。
 中心になるのは少佐か中佐で、年齢でいえば三十代前半から四十代の初めにかけてであ
 る。  
・瀬島は、参謀本部が日本陸軍伝統の対ソ戦だけでなく、新たに南方作戦の確立をも迫ら
 れているという転換期に、作戦課の参謀となった。
 これは重要なことだった。
・参謀本部の参謀たちはロシア、次いでソ連を仮想敵国として育った。
 昭和にはいって満州事変、そして日中戦争と、中国を戦場として戦いながらも、その本
 心は常に対ソ戦を意識していた。それが陸軍の伝統であった。
・したがって、必然的に対英米戦となる南方作戦は、それまで、主として海軍の担当とさ
 れ、陸軍はわずかに海主陸従のもとでルソン島などの上陸作戦を腹案として持っている
 にすぎなかったのである。 
・昭和十五年まで、参謀本部はアメリカやイギリスを敵と想定した軍事行動など具体的に
 考えたこともなく、対英米戦の戦略を考える参謀は事実上存在しなかったのである。
・昭和十五年九月になって、日本はドイツ、イタリアと三国同盟を結んだ。
 三国が一致してソ連に対抗するだけでなく、米英に対しても軍事的対決の姿勢を強める
 というものだった。
 南方地域での英米との軍事的対決も次第に現実味を増し、参謀本部作戦課の参謀たちに
 よる南方作戦計画の立案策業に、この年の暮れあたりから拍車がかかっていく。
 この作戦計画に携わった参謀たちは、少佐、大尉クラスであり、統轄指導には中佐クラ
 スがあたった。
・当時の瀬島は、対北方班、対支那班、それに対南方班を統括している作戦班長の櫛田正
 夫の補助という副官ともいえるようなポストに就いていた。
・南方作戦策定に入った当初は、作戦課長の「土居明夫」が全般の統轄をしていた。
 次いで、昭和十六年七月からは「服部卓四郎」がこのポストに就いて具体的な作業を進
 め、昭和十六年八月下旬には、陸海軍とも大まかな作戦計画の完成にまでこぎつけた。
・昭和十六年六月、ドイツは突如ソ連に侵攻を開始した。独ソ戦である。
 三国同盟を結んでいながら、ドイツは日本にソ連侵攻をにおわせもしなかった。
・陸軍省、参謀本部、海軍省、軍令部は、電撃的なドイツの侵攻に喝采し、
 「バスに乗り遅れるな」
 と南方作戦にいっそう拍車がかかった。
 ドイツは一ヵ月以内にソ連を制圧するだろうという甘い見通しが省部の軍人にあった。
・しかし南部仏印進駐は、不可避的に米英との戦争を予想しなければならなくなる。
 米英の出方をどう見るかが鍵であった。
・一方、参謀本部作戦部長の「田中新一」は、陸軍の伝統的な戦略に戻って対ソ開戦論を
 繰り広げた。西からのドイツに呼応して日本が東から攻めれば、ソ連は容易に叩ける、
 この案を採用せよ、と陸相の「東條英機」につめよった。
 田中としては、若い作戦参謀たちの練っている南方作戦案にまだ自信がもてなかったの
 だ。 
・当時、東條の考えは、
 「支那事変を戦っているのだから、対ソ戦を行うとすれば、この師団を減らしてソ連に
 振り向けなければならない。いま支那事変をやめるわけにはいかん。
 これに対して南進論は、それほど師団を必要としない。日本の自給自足体制を整えるに
 は、資源の豊富な地域を押さえる道を選ぶべきだろう」
 というものであった。
・東條の選択は、作戦部長の田中よりも軍務課長の佐藤や、南方作戦の起案にあたってい
 る作戦課長「服部卓四郎」の言を重用したものであった。
・このとき、実は日本は二重の過ちを犯した。
 ひとつは、独ソ戦でドイツがソ連を短期間に制圧するだろうという見通しを持ったこと。
 もうひとつは、たとえ南部仏印に進駐したとしても、米英は”戦争状態”に入る措置を取
 らないだろうと甘く考えたことである。
・陸軍内部ではすぐに動きが始まる。
 御前会議の数日後、作戦部長の田中新一は東條のもとに駆けつけて、
 「対ソ威圧のため関東軍増派を認めてもらいたい」
 とねじこんだ。東條はこれを受け入れた。
・そこで内地軍二個師団、朝鮮方面の二個師団、それに作戦資材を満州に集結して、ソ連
 に対して威圧を加えるための演習を行うという案を、杉山参謀総長が天皇に上奏し、允
 裁を受けた。
・この折に天皇は軍事的な懸念を述べている。その懸念は、陸軍への不信を表明したもの
 でもあった。  
 「北にも支那にも仏印にも、八方に手を出しているが結局重点がなくなりはせぬか。
  この点は将来よく注意せよ。また従来陸軍はとかく手を出したがるから、このたびは
  とくに注意して謀略をやらぬようにせよ」
・昭和十六年七月、日本は南部仏印への進駐を発表した。
 日本の政策決定集団の希望的観測に反し、アメリカはすぐにそれに反応した。
 ホワイトハウスは、在米資産の凍結令を公布し、さらに日本軍の南部仏印進駐に対して
 対日石油輸出の全面停止を発表したのである。
・こうして作戦課の若い参謀たちが考えていた南方作戦計画は、陽の目を浴びることにな
 った。
 この作戦計画は、太平洋戦争初期にそのまま実行に移され、当初は戦果をあげた。
 それだけに作戦計画に携わった作戦参謀は「有能」として讃えられたのである。
・二十代後半から三十代前半にかけて瀬島は、大本営参謀として有能とされ、陸軍の歴史
 的転回点に立ちあがったのだ。その後も作戦参謀として重用される宿命を帯びていたと
 いえる。 
・当時、参謀本部のなかには東條人脈が根をはっていた。作戦部の要職を占めている服部
 卓四郎や「辻正信」などは、東條陸相に連なる人々で南方作戦支持派だった。
 昭和十六年十月に、東條は、首相にも推挙されるが、昭和十六年春ごろからは、陸軍内
 部の実権をにぎり、目をかけている参謀を要職に据えていた。服部や辻もそうしてこの
 ポストに就いた。
・しかし、このふたりには参謀として失態を演じた経験があった。
 ふたりはノモンハン事変のとき関東軍作戦参謀の地位にいたが日本と満州がソ連、モン
 ゴルとの間で国境線をめぐって対立しているのにつけこみ、消極論を唱える「植田謙吉
 関東軍司令官や「磯谷廉介」参謀長らを圧倒してソ連との武力衝突を画策した。
 参謀本部作戦課長の「稲田正純」は、服部や辻の意を受けて省部を根回しし、陸軍省軍
 事課の消極論を押さえ込んだ。
・ソ連を討つのなど実に簡単、という楽観説がいつも作戦課にはあった。八月のノモンハ
 ンでの日ソ武力衝突は、初めは優勢だったが、兵力を建て直したソ連軍に完膚なきまで
 に叩きのめされた。
・無謀な作戦を進め、あまつさえ敗戦の因を現地の連隊長に押しつけて、自決を強要する
 というのは、服部や辻の参謀としての資質に拘わる重大事であった。
・植田と磯谷は責任をとって予備役に編入されたが、服部と辻は一時閑職に追いやられた
 だけで東條人事によって再び要職にすわった。
・そのふたりが参謀本部作戦課の課長と班長になっているのだから、作戦課内の空気がど
 のようなものかは容易に推測できる。
 服部と辻の暴走を許した空気が、そのまま瀬島が参謀として自立していくときの作戦部
 作戦課の雰囲気となっていた。
・南部仏印進駐後、アメリカの手ひどいしっぺ返しを受けて、参謀本部や軍令部内部は、
 「対英米戦」によって状況を一変させようという動きが強まった。
 それを受けて、東條陸相は近衛首相と対立を深め、やがて近衛は内閣を投げ出し、東條
 が首相となった。 
・陸軍の強硬派である東條を首相に据えたとき、内大臣の「木戸幸一」は、天皇の意を受
 けて、「対英米戦」より外交に主眼を置くように要請した。
 天皇は「虎穴に入らずんば虎子を得ず」の心境だったのだ。
・南部仏印進駐前は対ソ論者だった作戦部長の田中は、このころ対米強硬論者に変わり、
 その田中を先頭に立てて、作戦参謀は一貫して日米開戦やむなしの論を展開していた。
・天皇の意を受けて和戦両様の政策を模索する東條首相兼陸相、陸軍省軍務局「武藤章
 に、しばしば武力発動でジリ貧状態から抜け出すべきと説き続けたのは田中であり、そ
 の意を受けた参謀総長の「杉山元」であった。
・日米開戦一色に染まっている参謀本部のなかで、すこしでも懐疑的な意見を述べること
 は敗戦主義者のレッテルが貼られて存在さえ許されない状況だった。
 瀬島参謀もこういう空気のなかで、日米開戦の道をひたすら願い、そのために労力を費
 やしていたとみるべきだろう。
 瀬島は特にこのときの参謀本部の空気を忠実に代弁している参謀であったのだろう。
 
・昭和十六年、アメリカのハル国務長官は、ワシントン時間で十二月六日午後九時(日本
 時間は十二月七日午前十一時)に、駐日大使のグレーにあて一通の電報を打った。
 ルーズベルト大統領の天皇へあて親電である。
 その内容はすでに新聞記者に公表され、世界的ニュースとして通信社によって各国に流
 されていた。
・ルーズベルトが天皇にあてて親電を打ったというニュースは、日本国内では、同盟通信
 社から外務省など関係機関に連絡された。
 そこで東郷外相は駐米大使の野村にあてて、そのような電報が来ているか問い合わせた。
 が、届いていないという。
 そこで東郷は外務省や宮内省にも連絡してその親電を待っていた。
 なかなか届かないので、ワシントン政府は天皇への神殿を送るのをとりやめたのだろう
 と考えていた。
 ところが十二月七日午後十時ごろ、駐日アメリカ大使館から外務省に、ワシントンから
 の電報を解読中だが、解読が終わりしだいグルー大使が東郷外相に会いたいと伝えて
 きた。
・東郷は、宮内大臣に連絡する。
 その一方で東條首相のもとに駆けつけ、親電の内容を伝えた。
 東條は、戦法からの譲歩はないようだし、これでは役にたたぬだろうといい、それでも
 東郷に拝謁するように勧めた。
 このとき、東條は、
 「電報がおそく着いたからよかったよ。一、二日早く着いていたら、またひとさわぎあ
 ったかもしれない」
 と言った。
・東郷は宮中に行って、木戸とともに天皇に会い、ルーズベルトの親電を天皇の前で読み、
 その回答(親電拒否)内容を上奏した。
 そして御前を退出した。それが八日午前三時十五分だった。
 この四分後、空母「赤城」から飛び立った第一次攻撃隊は真珠湾攻撃を始めたのである。
・実は、このルーズベルト親電は、東條の恐れた「一日前」に届いていたのに、それを参
 謀本部の将校が故意に遅らせてアメリカ大使館に届けたということが、戦後の東京裁判
 の法廷で明らかになる。
 それを知ったとき、出廷していた東郷は驚き、東條もまた唖然としてしまった。
 東條はそんな事実を知らなかったのだ。
・大本営第十一課(通信課)の戸村盛雄少佐は、逓信省検閲室の白尾電信官に、日本政府
 関係のものは除き、外国からの電報はすべて受信時を遅らせて届けるように命じた。
 それを受けて白尾は、中央電信局に外国電報の差し止めを伝えた。
 十二月七日正午に、白尾はルルーズベルト大統領から天皇あての親電を受信したのだが、
 戸村に今後は十五時間遅らせて届けるように命じられたというのである。
 そのためルーズベルトの親電は、午後十時になってアメリカ大使館のグルーのもとに届
 けられた。
 戸村の命令は、ルーズベルト親電の時間ぎれを謀ったものだった。
・戸村はこれについて、次のように述べたという。
 「作戦課の瀬島少佐から、前日マレー上陸船団に触接してきた敵機を有軍機が撃墜し、
 既に戦闘が開始されたこと、そしてそのことは杉山参謀総長から陛下に上奏済みである
 ことを聞いた。いまさら米国大統領から親電が来ても、どうにもなるものではない。
 かえって混乱の因となると思って、親電をおさえる措置をとった」
・つまり戸村は、瀬島からすでに戦闘は始まっている。それは天皇にも伝えられている、
 と聞いていて、親電の及ぼす効果を薄めるために十五時間の差し止めを命じたというこ
 とになる。
・戸村と瀬島は、陸大の同期生であり、親しい間柄にあったのだろうが、この「親電差し
 止め事件は、参謀本部という統帥組織において、佐官クラスが自在に権力をふるえるよ
 うな状況になっていたことを物語っている。
・開戦しか念頭にない作戦課の参謀は、アメリカへの最後通牒文(実質上の宣戦布告)を
 真珠湾攻撃後の八月午後三時にアメリカに渡すよう要求もしている。
 しかし、連絡会議で真珠湾攻撃の事前に渡すことになっていたため、あきらめている。
・作戦参謀たちは、外交上のルールなどとうに無視するつもりでいたのだ。
 参謀本部の横暴さを「国益」と考えるような参謀本部内の空気のなかで、この「親電差
 し止め事件」もまた、起こっていたのである。
・参謀本部作戦部作戦課は、市ヶ谷にあるいまの自衛隊東部方面軍の建物のなかにあった。
 作家三島由紀夫が昭和四十五年に割腹したあの建物である。
 東の二室が作戦部の部屋にあてられていた。
 ここには大本営参謀のなかでも作戦課の参謀たちしか入室できなかった。
・瀬島は、作戦参謀としてめったにこの作戦部の室から出なかった。
 他の参謀は、他の棟にある別のセクションに行ったりして、情報交換をすることがあっ
 た。しかし、瀬島はこの部屋で作戦用兵を考えているだけだった。
・太平洋戦争初期の作戦課の参謀たちは、戦況が激しくなるにつれ、前線の司令部へ出て
 いく。しかし、瀬島が作戦課にとどまっていたのは、上席の者には使い易い参謀であり、
 瀬島自身もまたそれを知って、そのように振る舞っていたからだったのではないか。
・瀬島は、昭和十七年十一月末に作戦課長の服部に呼ばれて、「明日から南東方面(ガダ
 ルカナル)担当」と命じられた。
 それまでの日本国内、満州、南西、南東方面の兵力運用から南東方面の作戦参謀へと格
 上げになったという意味だ。  
 作戦班長はこのとき辻正信であったから、あるいは辻の推薦もあったかもしれない。
・この期には、緒戦の作戦が成功して、服部も辻も参謀本部内では、いわゆる優秀な参謀
 と評されていた。
 辻に至っては、マレー作戦を成功させ、戦時下の参謀としての優秀さの評価はとみに高
 まっていて、絶大な権力をふるっていた。軍司令官でさえ辻の威を恐れ、一説では辻に
 そっぽを向かれたら、軍司令官もその地位にとどまってはいられなかったといわれてい
 るほどだった。
・その辻に目をかけられていたとすれば、瀬島も参謀としての資質は高かったのだろう。
 瀬島が担当することになったガダルカナルは、太平洋戦争が始まってから一年余、日本
 陸海軍が初めて直面した”主戦場”の意味があった。
・この南東の小島には、守備担当の海軍の設営隊が入って飛行場建設を進めていた。
 そこにアメリカ軍の二個師団が上陸、占領してしまう。
 それを奪回するために日本も師団をつぎ込む。
 アメリカ軍もさらに兵力を増強する。
・陸軍の選ぶべき道は、ガダルカナル奪回に固執するか、それともこの島から撤退して後
 方に陣地を構築するか、のいずれかだった。 
 東條を中心とする陸軍省は後者を選び、参謀本部は全社に固執した。
 田中や服部は船舶三十七万トンの増徴を東條に要求し、なんとしても奪回作戦を完遂す
 るつもりだった。
・両者の間は最後には罵り合いとなり、田中は南方軍総司令部付に転じ、後任には第一方
 面軍参謀長の「綾部橘樹」がすわった。
 そして作戦課長の服部は、不思議なことに陸相秘書官として東條の側近となった。
・服部に代わって作戦課長となった「真田穣一郎」は、瀬島と首藤を連れて現地に近いラ
 バウルに向かった。
 この方面軍の参謀たちは、「ガダルカナル撤退以外にない」という意見で固まっていた。
 が、真田は本心は彼らに明かさなかった。
・ラバウルからの帰途、真田は、瀬島と首藤を呼んで「意見を言ってみなさい」とたずね
 た。瀬島は奪回案、拠点確保案、撤退案の三案を示したうえで、撤退案を提出した。
 首藤も瀬島の意見に同調した。真田は、ふたりの意見に対して、「同感です」と相槌を
 打った。
・昭和十八年二月から三月にかけて、撤退は行われる。
 ガダルカナルに上陸した三万一千四百人の将兵のうち死者は約二万八百人。そのうち一
 万五千人は戦病死だった。
・大本営の命令は常に絶対である。
 しかし、その命令の示達者は現地軍の様子や第一線の状態がどれほどの惨状にあるかを
 知らない。慎重な意見を述べる現地軍の参謀は臆病者呼ばわりされ、その職から追放さ
 れてしまうこともあった。
・ガダルカナル撤退までのいきさつを見ても、現地軍は玉砕するまでは任務の遂行がむず
 かしいとは決して口にしていない。
 方面軍も、大本営の命令が奪回にあるかぎりは、それに沿って発言する。
 だから現地にこまかい指令を出すにもかかわらず、大本営ではガダルカナルの実情をだ
 れひとり知らないという異常な事態であった。
・ガダルカナル戦は、大本営の参謀と現地軍作戦指導にあたる参謀とのあり方のちがいを
 はっきりと示した。
 瀬島が、実際に戦場に出かけて兵力補給の困難、作戦指導の難しさを見て、大本営にい
 たときの考えをあっさりと変えてしまった背景には、自省を感じたからにちがいない。
・とすれば、このガダルカナル撤退以後、瀬島の大本営参謀としての処し方は、大きくか
 わっていなければならない。
 もしそういう変化がなかったら、瀬島は、常に大本営内部の大勢に身を任せるだけの参
 謀でしかないことになる。 
・しかし、戦後の今日、瀬島がガダルカナル戦を語る意識のなかにさえ、当時の大本営が
 抱えていた欠陥の実態をおし隠そうとする思惑が働いているように見受けられる。
 瀬島の言によってあたかも撤退が決定したかのように語ること。
 御前会議の準備に二、三日徹夜をしてがんばったことであり、
 「撤退があんなにうまくいくとは思わなかった」
 と撤退作戦を得意気に証言しているだけにすぎない。
 そこには、ガダルカナル作戦に携わった当事者としての失敗原因の究明、自責の念や、
 反省は見当たらないのである。
・瀬島が手柄顔に語るガダルカナル撤退作戦にしても、実は陸海軍の中央協定を受けた現
 地の陸海軍の参謀のこまかい詰めと、井本や参謀の佐藤忠彦や参謀の杉田一次、それに
 方面軍司令官の「今村均」など陸軍側の参謀や軍司令官の努力に負うところが大きい。
・昭和二十年三月のことだが、自己顕示欲まるだしの参謀が増えたのを案じたのか参謀本
 部総務部は、「幕僚の心構え」という文書を発表している。
 自我を超越した上司を助長補佐する世話女房たれ、とか滅私奉公、功は将帥に、罪は
 (全責任)己に、黙々として力行せよ、といった一項もまじっている。
 それほど参謀の専横的態度がめだっていたのだ。
 太平洋戦争は佐官クラスによって引き起こされ、彼らによって負けた、といわれるのは
 こうした専権的態度をあらわしている。
・佐官クラスの参謀は参謀総長を出し抜いて作戦の起案を行い、それを参謀総長に認めさ
 せ、参謀総長は天皇の允裁を求めて実行に移す。
 しかし、たとえそれが失敗してもその責任は将帥が負うことになる。
 参謀は参謀総長を補佐するどころか責任所在の盾に使い、自在に振る舞うようになった
 のが、昭和陸軍の最大の欠点であった。
  
敗戦に至る軍人の軌跡
・昭和十九年六月になると、大本営作戦課の会議室に貼られた東亜の地図は、しだいに日
 本軍の敗色の濃いものに変わっていく。
 開戦からしばらくの間、日本軍が快進撃を続けたコースは、いまや撤退のコースと化し
 玉砕の地となった。
・マリアナ諸島のうちサイパン、テニアン、グアムにアメリカ軍が進攻してきた。
 これらの地域は大本営が死守することを誓った「絶対防衛圏」の要域で、陸海軍共同で
 防衛態勢を敷いていた。
・ことにサイパンは陸軍の要の島であり、この島がアメリカ軍にわたることはあり得ない
 と参謀本部は豪語していた。
・六月十五日にサイパンにアメリカ軍の海兵隊員二万名が上陸。
 アメリカ軍の進攻は七月以降と予想していたために日本軍は虚を突かれたかたちで、地
 上基地に待機していた航空機を失ってしまう有様だった。
・連合艦隊司令部は、すぐに「あ号作戦」を発令したが、わずか三日間足らずの間に二隻
 の大型空母と四百七十機の艦載機、それに四百名を越えるパイロットを失い、誰もが予
 想しなかったほどの傷手を負った。
・首相と陸相、それに参謀総長を兼任していた東條英機は「サイパン奪回」を叫んだが、
 それは戦力的に不可能だった。
 重臣たちの反東條運動もサイパン陥落とともに激化し、東條は首相の座を追われた。
・この時期大本営の構成は、作戦課長に再び服部卓四郎が就き、瀬島も作戦起案の中枢ス
 タッフに納まっていた。初めに大本営参謀となってから五年が経過していた。
・大本営は「捷一号作戦」に備えて比島の守備固めを急いだ。
 大本営と現地軍との間で何度も打合せを行い、新たに比島に第十四方面軍を編成して、
 その司令官に山下奉文大将を任命し、参謀長には武藤章中将を据えた。
 日本軍は、この比島決戦にその浮沈をかける意気込みで、兵力、戦備もぞくぞく投入し
 た。
・昭和十九年十月十日、ハルゼー提督の率いる太平洋艦隊の第三艦隊の艦載機が、突然、
 沖縄、奄美大島、南大東島、宮古島などに攻撃をかけてきた。
 十二日からは台湾にある飛行場が集中的に爆撃された。
 これは、レイテ島上陸作戦を敢行するための、アメリカ軍の陽動作戦であった。
 が、当時の大本営はそれに気づいていない。
・この爆撃に対して、連合艦隊司令部は傘下の空母の航空部隊や南九州に控えていた第二
 航空艦隊の爆撃機にハルゼーの艦隊を攻撃するよう命じた。
・攻撃から帰還したパイロットの報告を受けて、大本営は台湾沖航空戦は日本軍の戦果が
 大きいと発表した。 
 航空母艦三隻、艦種不詳三隻を撃滅とか駆逐艦を撃滅とか、景気のいい発表が続いた。
・このころの戦闘は日本が負け続けてだったために、台湾沖航空戦の戦果は、大本営内部
 にも国民の間にも異様なほど興奮をまき起こした。
・連合艦隊司令部は、傷手を受けたとされるハルゼー艦隊に追い撃ちをかけるように命じ
 た。戦果はさらにふくれあがり、ハルゼー艦隊壊滅との見方まで生まれた。
・大本営発表を信じた当時の新聞は、撃沈した戦艦の数を掲げ、「敵兵力の過半数を撃滅、
 輝く陸海一体の偉業」と書きたてた。
 しかし、大本営海軍部(軍令部の幕僚のなかには、これほどの戦果をあげるはずがない
 との声もあった。
・正確な戦果が明らかになったのは戦後のことだが、実際には重巡洋艦二隻が大破したに
 すぎなかった。 
・十七日早朝になって、アメリカ軍がレイテ湾に進攻を開始してきた。
 翌十八日、「梅津美治郎」参謀総長と「及川古志郎」軍令総長は、並列して天皇の前に
 出て捷一号作戦開始の允裁を受けた。
・このときの上奏内容には、アメリカ軍は台湾沖での敗戦を隠すために比島の一角に地歩
 を占めようとする、というくだりがある。 
 台湾沖航空戦に破れたアメリカの艦隊は、その面子をとり戻すためにレイテ島を攻めて
 きたと判断したのである。
 弱体化したアメリカの艦隊を叩くのはいまをおいてない、という陸軍側の判断が作戦開
 始の根底にあった。
・参謀本部は、当初の捷一号作戦のルソン決戦を急遽レイテ決戦に方針転換した。
 第十四方面軍の精鋭部隊や内地からの部隊がぞくぞくとレイテ島に投入された。
 しかし、大本営の公式発表とは逆にほとんど無傷だったアメリカ艦隊に補給路を断たれ、
 送り込まれた部隊や守備部隊は孤立し、いくつかの島と同じようにレイテ島も玉砕の島
 となる。
・このレイテ島決戦には、現地の第十四方面軍の山下司令官も武藤章参謀長も反対した。
 武藤は、台湾沖航空戦の戦果の真偽は不明である、これをもっと確かめてほしい、とま
 で言って大本営の方針転換を怒った。
 第十四方面軍参謀たちは、本来のルソン決戦、レイテ持久戦という作戦計画を一夜にし
 て変更するのはおかしい、統帥の原則に反する、と大本営から説得に訪れた参謀次長の
 「秦彦三郎」と作戦課長の服部卓四郎に詰め寄っている。
・服部の返事は次のようなものであった。
 「敵機動部隊は空母の大半を喪失している。大本営発表には誤りはない。航空の援護の
 ない裸の船団と軽挙妄動した陸上兵団こそ、われらの撃滅すべき相手だ。レイテ決戦の
 時である」 
 山下も武藤も、結局はこの大本営命令に抗い続けることはできなかった。
・レイテ決戦の悲劇は、台湾沖航空戦の戦果をやみくもに信じた参謀本部の参謀たちの誤
 りによって引き起こされたのである。
 そして、この誤りに、実は瀬島は深く関わっていた。

・昭和六十一年夏のことだ。大本営の元参謀たちが集まっての座談会で、衝撃的な事実が
 初めて明らかにされた。
・実は、当時の大本営のある情報参謀が、台湾沖航空戦での戦果は事実ではなく、これは
 点検の要ありと大本営に出張先から電報を打っていたというのである。
 にもかかわらず大本営はその電報を無視し、誤れる情報を確認、訂正することなく、そ
 の情報をもとに比島決戦をレイテ決戦に作戦変更したことが、この座談会で語られた。
・この事実を語ったのは大本営の元参謀だった「朝枝繁春」である。
 そして電報を打った情報参謀とは、「堀栄三」であった。
・堀は次のように述べている。
 「彼はソ連から帰ってきて間もなくだったようです。彼が言うんです『ソ連抑留中もず
 っと悩みつづけた問題の一つは、日本中が勝った勝ったといっているとき、ただ一人そ
 れに反対した人がいた。あの時に自分が、きみの電報と握りつぶした。これが捷一号作
 戦を根本的に誤らせた。日本に帰ったら、何よりも君に会いたいとずっと思っていた』
 と」  
・では、堀の電報は、大本営でどのように扱われたのだろうか。
 堀が打った電報の宛先の情報部長であった有末精三は、次のように答えた。
 「僕は、堀君からの電報は見ていない。ともかく作戦が情報のいうことを頭から信用し
 ないんです。しかし作戦課が情報部の情報をにぎりつぶしたことの真相について、僕は
 知りませんが、堀君のいうことはそのとおりだと思いますね。作戦課はよくそういうこ
 とをやりますから・・・」
・昭和十七年八月に、有末は北支那方面軍参謀副長から大本営の第二部長に就いた。
 そのころ第一部(作戦)と第二部(情報)が喧嘩ばかりしていたという。
 両者が戦争指導の考え方をめぐって争いをするのは何も日本だけでなく、アメリカども
 ドイツでも共通の現象だという。
 しかも戦闘が負け戦になればなるほど、両者の対立は深刻になる。
 有末によると、作戦部は戦時においては情報を軽視しがちだという。
 現地軍から直接ナマ情報が入ってくるから、それを信じて、情報部の解析した情報を無
 用のものとして捨てる。
・この”電報にぎりつぶし”について、私と取材スタッフは、大本営参謀だった経験をも
 つ人たちに瀬島はそうしたことをするタイプなのかどうかを聞いて回った。
 ・瀬島は海軍の戦果が虚報ではないかと疑問を述べる勇気を持っていなかった
 ・典型的な出世主義者があて真実の叫びをあげてマイナス点を背負うわけはない
 ・秦と服部という瀬島を引き立てている上官に叛けるわけはない
 などという声があった。
・もっともはなはだしいのは、瀬島を「卑怯者」と決めつけたある参謀の次の意見である。
 「瀬島という男を一言でいえば、”小才子、大局の明を欠く”ということばにつきる。
 要するに世渡りのうまい軍人で、国家の一大事と自分の点数を引き換えにする軍人です。
 その結果が国家を誤らせたばかりでなく、何万何十万兵隊の血を流させた。私は、瀬島
 こそ点数主義の日本陸軍の誤りを象徴していると思っている」
・堀の打った電報が一顧だにされなかったのは、すでに作戦部作戦課がどうにもならない
 ほど硬直化していた証しだ、というのが私自身の結論である。
 作戦指導はことごとく失敗していく。
 完全に自信を喪失していたのではないかとさえ思う。
 だから少しでも明るい材料があればそれにすがりたい。
 自分たちの失態をカバーする材料がほしい
 そんな心理状態のなかに、台湾沖航空戦の「大戦果」がもたらされたのである。
・”電報にぎりつぶし”は、たぶん瀬島ひとりの責任ではなく、作戦課全体の官僚化した
 組織が生んだできごとではなかったろうか。

・参謀としての瀬島の軌跡のなかに、しばしば顔を出す上官に引きたてられるという構図
 は、自らのもっている能力を創造性を持ってあらわすのではなく、上官にあわせて提供
 するという生き方を示すものだった。
・その瀬島は、レイテ決戦にはいるまでの陸軍内部で微妙な立場にいたと推測されるので
 ある。 
 サイパン失陥、東條内閣倒閣の前後、昭和十九年六月から九月ぐらいにかけてのことに
 なるが、瀬島は参謀本部のなかで微妙な立場に立たされていた。
 はっきり言えば、東條内閣、そしてそれに連なる人脈に警戒心をもって見つめられてい
 たのである。
・東條首相の秘書官だった陸軍の軍人「赤松貞雄」は、かつて私のインタビューで、東條
 内閣がなぜ斃れたかの詳細を語ったが、そこで重臣岡田啓介の動きについてかなり感情
 的な発言をしていた。
 「裏でコソコソ動き回っている。東條内閣はこんなことをしているといって、岡田さん
 のところにいって大げさに伝える。陸軍のなかにもそんなことをする連中がいた」
・むろん赤松は、陸軍内部から岡田に呼応した軍人に瀬島の名をあげていない。
 まだ若い参謀などへの興味はなかったともいえる。
 しかし東條とその周辺は重臣の電話を盗聴したり、監視して反東條の動きをする軍人を
 すべてつかんでいたという。
・瀬島は、岡田の義弟(岡田の妹の夫)松尾伝蔵の娘と結婚している。
 松尾は瀬島と同郷の富山県出身で、第三十五連隊で連隊長を務めた経験がある。
 その縁で郷土の誉れの高い瀬島に娘を嫁がせたといわれている。
・岡田は、この戦争のかなり早い時期から日本は敗戦に至ると見定めていた。
 ガダルカナルを失ってからは、居ても立っても居られなくなったという。
・岡田は首相在任時に、「二・二六事件」が起こっている。
 その折り、岡田の私設秘書を買ってでた松尾伝蔵が身代わりとなって青年将校たちに殺
 されている。 
・岡田は、特別な情報網をもっていた。
 東條の周辺は重臣には何の情報も与えず、むしろこうるさい舅といった対応をしていた。
 岡田や近衛文麿、それに広田弘毅ら重臣たちはそれが不満であったが、岡田はその情報
 網をフルに使って陸海軍内部の戦略の内容や正確な戦闘結果をつかんでいた。
 「私の長男の貞外茂は軍令部第一部第一課で作戦のことをやっているし、二・二六事件
 のとき、私と間違えられた義弟の松尾の娘婿で瀬島龍三というのが陸軍の参謀本部に中
 佐でいる。それに企画院にいる迫水、これだけ縁続きの者が、戦争の中心で働いている
 わけだが、ひと月に一ぺんくらい私のところに集まって食事をすることがある」
・昭和十九年に入っての東條と岡田の対立は、表面に出てくる現象以上に根深く、もっと
 はげしい権力闘争だった。
 海相の「嶋田繁太郎」も東條に倣って海相と軍令総長を兼ねた。
 軍令と軍政の一元化である。
 岡田にとっては許し難い暴挙だった。
・海軍が連合艦隊をつぎこんで挑んだ「あ号作戦」が発動になり、大本営がその戦果とし
 てサイパンでの戦闘内容を発表したが、これは負け戦を勝ち戦に言い換えたような発表
 だった。  
 岡田は、軍令部や参謀本部に巣喰っているサイパン奪回論を足場にして、さらに反東條、
 反嶋田を説いて回った。
・東條の指揮下にある憲兵隊は、岡田の電話を盗聴し、あまつさえ岡田家の前にボックス
 をつくり、不穏な動きから彼の身を守るためと称して、常時、憲兵隊員が岡田を監視し
 た。岡田を訪ねてきた者を呼び止め、どんな内容の話をしてきたのか、と厭がらせにも
 似た訊問を繰り返した。
・岡田はそれでも海軍内部の反東條グループのひとり海軍省教育局長の 「高木惣吉」ら
 と連携して倒閣の動きを強めるための効果的な手段を模索していた。
・”岡田憎し”の東條とその人脈の参謀たちは、当然、瀬島をマークしたはずである。
 作戦課長の服部などは東條人脈の中心にすわっている。
 瀬島が、参謀本部のなかで秘密になっている軍事機密を岡田に流しているのではないか
 と監視していたろうし、東條たちは、岡田を「敗戦主義者」としてみていたから、瀬島
 もまたそう見られていたかもしれない。
・東條は、和平の動きや終戦工作、それに倒閣運動をすべて、「敗戦主義者」とみていた。
 そういう動きをする参謀は、すぐに前線に送り出した。
・たとえば、参謀本部二十班(戦争指導班)の班長、「松谷誠」大佐は、サイパン失陥後、
 東條のもとに進み出て、こうなっては終戦工作に向かう以外にないと進言した。
 東條は、松谷が部屋を出るなり、参謀次長の「後宮淳」に「こんな男を要職に置いてお
 くわけにはいかない」とつぶやいた。
 まもなく松谷は支那派遣軍参謀として参謀本部から追われた。
・こうして東條は、自分に反対する参謀や終戦工作などを口にする参謀を次々に要職から
 追い払い、自分の子飼いの参謀を手元に置いた。
 そうした”東條人事”には、陸軍の中から不満の声があがっていた。
 陸軍を私兵化しているというのであった。
 だが、誰も東條に諫言できる者はいなかった。
・昭和十九年七月、東條内閣は重臣工作と内大臣木戸幸一、それに閣僚の「岸信介」らの
 倒閣工作がからみあって倒れた。

・昭和二十年一月、瀬島は大本営陸軍部の参謀のほかに連合艦隊参謀も兼務し、沖縄戦を
 担当している。 
 作戦参謀の島村中佐がフィリピン視察中に戦死したため、そのあとを引き継いだのであ
 る。
 鹿屋の航空基地に詰めたり、神奈川県日吉にある連合艦隊の東京司令部に行ったり、あ
 るいは市ヶ谷の参謀本部に顔を出したり、寝る間もないほど作戦行動に熱中したという。
・このような時期に、鈴木貫太郎内閣が誕生した。昭和二十年四月である。
 鈴木内閣誕生の裏には、天皇の意思も働いていた。
 天皇も終戦工作に力を入れなければと考えていた。
 この内閣を盛り立てたのは、重臣のなかでは岡田啓介であった。
・陸相に擬せられた阿南惟幾は、この内閣が終戦工作に乗り出すのを防ぐために、三つの
 条件をつけた。
 大東亜戦争の完遂
 陸海軍の一体化の内閣
 本土決戦政策の確立
 である。
 これは陸軍省や参謀本部の意向を反映したもので、本土決戦によって死中に活を見出そ
 うとするのが陸軍の方針だった。  
・瀬島は、本土決戦の作戦計画の起案には関わっていなかった。
 いや作戦課の南方作戦計画を立案した作戦参謀たちは、開戦当初の”有能な参謀”との評
 価を失い、いまや敗戦への決算書を書いた参謀などと言われかねなかった。
・昭和二十年七月、瀬島は関東軍総司令部の作戦参謀に転じた。
 瀬島は、太平洋戦争が始まって以来、初めて前線に出ていくことになった。
・八月九日、ソ連は「満州」に侵攻してきた。
 瀬島は関東軍総司令官の「山田乙三」や参謀副長の「松村知勝」らとともに新京から通
 化にひきこもり、作戦の指示にあたる。
・しかし八月十四日になって、新京から「東京に大問題が起こっているらしい」との報が
 入り、山田、秦、松村、それに作戦班長の「草地貞吾」と瀬島は新京に戻った。
・十五日正午、天皇の玉音放送がある。
 関東軍首脳部は滂沱の涙を流して鉾をおさめることになった。
  
商社経営者への道
・瀬島が伊藤忠商事に入社したのは、昭和三十三年だった。
 瀬島が、この商社にどのようなルートで入社したのかについてはいまも諸説がある。
・瀬島がシベリアから舞鶴に帰国したのは、昭和三十一年八月だった。
 それから一年五カ月、瀬島は日本の情勢に馴れるために書物を読み、新聞を読み、そし
 て友人知己を訪ね歩いている。
・瀬島が入社したときの待遇は四等社員だった。
 伊藤忠には、一等から五等までの社員資格があったが、四等社員というのは、高卒の女
 子社員の扱いであり、この扱いでみる限り、瀬島はそれほど重要視されて入社したわけ
 ではなかったともいえる。
 特別に仕事を与えられるわけでもなく、日がな一日、商社の機能を学んだり、日本橋か
 ら日比谷にでかけて日比谷図書館で古い新聞などを読み漁っていたというのが、瀬島の
 証言である。  
 しかし、実際には防衛庁の航空機商戦の担当者として情報集めをしていたという証言も
 ある。
・その防衛庁に入る案も、仲間うちで検討されたようだ。
 瀬島の陸士、陸大時代の同期生や大本営の元参謀が、防衛庁の要職を占めていた。
 当時、防衛庁に旧軍人を入れる場合には二つの内規をパスする必要があった。
 ひとつはシベリア収容所などで洗脳されたり、戦後赤化した軍人は採らないという内規
 であり、もうひとつは、旧軍で卑怯なふるまいをした者は採用しない、というものだっ
 た。
 それに旧軍で優秀という折り紙のついた者は採用しない、という雰囲気も庁内にあって、
 軍刀組の瀬島はその点でも敬遠されたらしい。
・昭和三十年代初めは、まだ旧軍人に対する風当たりが強かった。
 風当たりというより憎しみといったほうがあたっている。
 伊藤忠には旧軍人が何人か入社しているが、彼らに対しても同年代の社員は冷たい目を
 向けていた。 
・その瀬島が引きたてられたのは、「越後正一」が社長になってからだ。
 越後は、一繊維商社を大手総合商社にのしあげた功労者として、伊藤忠内部では遇され
 ている。
・商売人越後は、まず瀬島の軍人時代の人脈を利用することに目をつけたのだ。
 越後という参謀総長のもとで仕える参謀という役割が、この段階で決まった。
・この参謀がときに越権的とも思える案を出し、それを実行する段になって、社内には反
 瀬島のムードが生まれることもあった。
 三井物産や三菱商事と異なって、繊維中心商社だったから、企業の体質にも繊維問屋風
 のところがあった。 
・越後は、
 「瀬島の言っていることは自分の言ってることだ。瀬島のやっていることは自分がやっ
 ていることだ」
 と反瀬島ムードに冷水を浴びせるので、しだいに瀬島の役割に重みがついていった。
 このために、瀬島は異様なまでのスピードで出世していく。
・入社以来、わずか五年で四等社員から取締役になるのだから、瀬島が越後の参謀として
 いかに忠実にふるまったかがうかがえる。
・この瀬島の華々しい昇進の時期と、越後の思惑でもあった防衛庁への航空機売り込み商
 戦で伊藤忠が勝った時期とが符節している。
 繊維商社が当時五百億円という航空機商戦に勝つことによって、総合商社へと変貌して
 いく。

・昭和三十六年七月、政府は国防会議(池田勇人首相)を開いて二次防を決定した。
 総額一兆二千億円の「第二次防衛力整備計画」で、このなかで約五百億円の予算でバッ
 ジシステム導入することも決まった。
・バッジシステムとは、「自動防空警戒管制システム」の略だが、航空自衛隊発足後初め
 ての日本の防空設備、施設をコンピュータ化するという大がかりな防衛設備だ。
・バッジシステムをめぐる商戦は、次の三社の戦いとなった。
 ・ヒューズ社(日本電気=伊藤忠)
 ・GE社(東芝=三井物産)
 ・リットン社(三菱電機=日商岩井)
・防衛庁内部関係者の証言では、性能面などでGE社かリットン社が有力との声が強かっ
 た。   
・ヒューズ社はハワード・ヒューズが一代で興した新興企業で、技術的には他の二社に見
 劣りしていたし、まだペーパープランの段階にすぎなかった。
 が、見積もりが極端に安い。
 これはヒューズ・グループが付属設備をとり外し、のちに運用上問題になれば、改修要
 求をすればいいとの判断をもとに算定していたからといわれている。
・防衛庁内部で三社のいずれかに決定するため調査団が組織されアメリカに出発する。
 団長は空幕防衛部長の浦茂(瀬島と陸大同期)。
 この調査団の訪米に先立ってヒューズ社は、「要求性能にかなうバッジを納入する」と
 いう念書を差し出していたともいわれている。
・リットン社のバッジはアメリカ海軍が使うレーダーシステムで、小型だし持ち運びに便
 利という利点がある。なにより諸外国での実績があった。
・六月三十日夕方、調査団が帰国する。
 報告書は、七月一日に「志賀健次郎」防衛長官に届けられる。 
 報告書の要点は、「価格が安いヒューズ社でも運用に不安はない」という内容だった。
 そこで志賀長官は、ヒューズ社に決め、内閣国防会議で公式に決定する。
 この素早さが疑惑の的になる。万事スローモーな役所仕事にしては早すぎる。
・ヒューズ社に決定してみたが、実際にその懸念されていたとおり、次々に新しい問題が
 発生した。
 技術改装費と称して二十億円追加、電子妨害防衛装置に七十三億円上乗せという具合に
 上積みされていき、結果的に総予算の二倍近い二百五十四億円もの出資がかさんでしま
 う。 
・さすがに国会でも問題になり、昭和四十三年三月の衆院予算委員会では、防衛長官の
 「増田甲子七」が、
 「私の社会的常識としては、百三十億円で何もかもまかなえると思っていた」
 「百三十億円でできるといっておきながら、あとで増えていくのは社会的常識からみて
 面白くない。また納入が一年も遅れているのはなっていない」
 と答弁している。
 結果的にはGE社やリットン社よりも高くつき、しかもペーパープランだったためにし
 ばしば改良しな「ければならなくなったのである。
・浦にヒューズ社に決定したプロセスをもう一度確認した。
 浦の説明はいまも論理的である。
 ・GEはアメリカの国土全体にわたっているので大型であり、日本のレーダーサイトは
  山の上にあるのでGEのレーダーを山の上にあげるのはむずかしい。
 ・リットンのはコンパクトすぎた。日本のレーダーサイトは山の上に二十五カ所あった。
  それなのにリットンは平地用だった。
 ・ヒューズの技術陣と話したら、ここに将来性があると思った。
・伊藤忠にとっては、五百億円の商戦に、とにかく勝ったという事実は残った。
 昭和三十六年七月から三十八年七月に至るヒューズ社に決定までの二年間、瀬島は伊藤
 忠にあって、航空機部長、業務部長、業務本部長、取締役と目を見張るほどの出世を遂
 げる。
 ヒューズ社に決定した四ヵ月後には常務取締役に就任している。
・瀬島の異常の出世の早さは、バッジシステム商戦の戦いのなかで凄腕が認められたとい
 うことであり、商戦に勝ったがゆえの論功行賞だったことは明らかである。
  
・昭和三十四年の初めに、防衛庁では地対空誘導弾を設置する計画を進めていたが、アメ
 リカが日本に供与する地対空ミサイルのボーイング社の「ボマーク」があった。
 この「ボマーク」の性能表など極秘資料が伊藤忠に流れ、ひそかに複写されていたので
 ある。(防衛庁データ流出事件
・防衛庁の調査課技術情報班長の為我井忠敬が資料の横流しを認めた。
 為我井は依願退職して、瀬島の伝手で伊藤忠に移り、バッジシステムの受注チームの窓
 口になった。
・昭和四十三年三月には防衛庁の三次防技術開発計画が外部に漏れているのが判明し、
 空幕防衛課長の川崎健吉一佐が伊藤忠に機密文書を流していたことが明らかになって、
 逮捕され、懲役六月、執行猶予二年の刑を受けている。
・さらに川崎一佐の逮捕にはじまる機密漏洩事件で、東京地検公安部から出頭を命じられ
 ていた「山口二三」空幕防衛部長は、出頭前日に玉川上水で謎の自殺を遂げている。
・当時の防衛庁長官の「江崎真澄」が「防衛庁は伏魔殿だ」と嘆いたのは、こうした不気
 味で不可解な事態をさしていた。
 
・昭和三十八年秋、中国の油圧機械調査団の通訳、周鴻慶がソ連大使館に亡命を求めた。
 が、ソ連はこれを認めず日本の警察に連絡したので、警察は出入国管理令違反で逮捕し
 た。 
・ところが周は、やはり中国に帰りたい、いや台湾に行きたいと気持ちが揺れた。
 中国は引き渡しを要求してくることが予想されたし、台湾も自国への亡命を促してくる
 だろうと、池田内閣は頭を痛めてしまった。
・自民党の実力者だった「岸信介」は、中華民国駐在大使と連絡をとり、周の台湾亡命へ
 の根回しをおこなった。
・しかし、周は、結局、本人が希望したとおり中国に帰された。昭和三十九年一月のこと
 だ。  
・この措置に台湾の国府は怒り、日本製品の政府買付けを一時停止するなどの処置に出た。
・瀬島の訪台の目的は、自民党の親台湾派の意向に沿って国府要人たちと会い、根回しを
 行うことにあった。
 当時の国府軍は百人単位の日本の旧軍人や参謀たちから指導を受けていただけあって、
 旧日本陸軍軍人には好意的であった。
 このとき、瀬島の大本営参謀という肩書は、何にもまさる威光を放っていた。
・瀬島は岸信介との間にルートができていて、岸から情報を入手していたともいわれ、そ
 れが航空機商戦で戦略を立てるときに役だったとも囁かれている。
・韓国、台湾、インドネシアなど東南アジアで、伊藤忠が発電所建設をまとめることがで
 きたのも、岸と密着していたから、と話している経済評論家もいるほどだ。
・「中曾根康弘」前首相ともかなり早い時期(昭和三十年代)に東急の「五島昇」が紹介
 して付き合いが始まったという。
・陸士時代の同級生で陸軍省にいた幕僚は、瀬島が成功したのは参謀本部で身につけたノ
 ウハウをそのまま会社組織に応用したからだ、といっている。
・大本営参謀だった者たちに取材を進めているとき、参謀として秀れていたのに企業社会
 に入って失敗した人たちは、大体がひとりで組織のなかに放り出されたという共通点が
 ある、という話を聞いた。
 参謀は組織あっての参謀であり、一匹狼で仕事をする教育を受けてこなかったというの
 だ。 
 しかし、瀬島はそのような愚を犯さないだけの知恵をもっていた。いや四十代半ばで組
 織に入ったときに、そんな愚をすでに見聞きしていたのかもしれない。
 優秀な参謀を抱えれば参謀長の欠点は隠れてしまう。そういう教訓も充分承知してたと
 いうのである。
・かつて、瀬島機関に身を置いたこともあるある元社員が、きわめてクールな分析をした。
 「戦後教育を受けた者には、日本陸軍の組織など少しもわからなかった。ところが瀬島
 さんを通して日本陸軍の姿を知った。でも現実に伊藤忠での実情を見て、大日本帝国が
 負けた理由はよくわかりましたね。日米の間には物量の差もあったんでしょうが、もう
 一面では日本陸海軍内部の縁故とゴマスリが退廃を生んでいたんです。業務本部のなか
 でも、そして他の部門も、瀬島さんや瀬島機関に実にマメにゴマをするようになる。
 ゴマスリに長けた者と営業の現場で働いている者とのギャップは大きかったですからね。
 瀬島さんには越後さんという後ろ盾があるから表だって反対はできない。業務本部の者
 は瀬島さんに洗脳されて、実はこのテクニックも巧みだったんですが、思想も同一化さ
 れて社内の要職に送られていきました」
・瀬島側近が語る経営者瀬島への見方の総括は以上のようになる。
 経済記者として、企業の動向を見ている新聞記者の間では、瀬島の経営的実績は「可も
 なし不可もなし」というのと、「失格」という評価にはっきり分かれる。
 「可もなし不可もなし」というのは、越後・瀬島ラインはプラスとマイナスがはっきり
 していて、企業経営という点では不可の方向に比重を置いていた。
 「失格」と断じるのは、評価の高いメディアの経済飢者に多い。
・伊藤忠が業界トップになった背景には、経営危機を迎えていた安宅産業を合併し、その
 なかの採算部門を受け継いだことにあるだろう。
 社長だった戸崎の経営手腕によって三カ年経営計画で積極策と減量策を推し進めたのが
 業界トップに躍進した最大の理由である。
・昭和三十年代後半から四十年代、伊藤忠は俗に「越後・瀬島ライン」で動いていた。
 越後が軍司令官とすれば、瀬島はその参謀長として動いていた。
 越後がいかに瀬島をひきたてたかを、取材の折にも問わず語りに明かしている。
 安宅産業との合併に瀬島が消極的だったのを叱りつけた事実を話しているうちに、以前
 にも瀬島に予想外の行動をとられたことがあったと、思い出話に始めた。
・昭和四十年代の初め、そのころ瀬島は常務だったが、航空機売り込み商戦にからんで常
 務会で突然こんな発言をしたという。
 「これ以上、伊藤忠が軍用機の売り込みをするというなら、いままでの商習慣を破らな
 ければできません。それは、私はやりたくないから、軍用機の取り扱いは中止したい」
・瀬島がこの発言をしたと思われるころは、第三次防衛整備計画の地対空ミサイル「ナイ
 キ
」や「ホーク」の商戦でも、伊藤忠は、日商岩井の推すリットン社の管制装置などに
 勝って、受注に成功している。
・そして、防衛庁の機密文書が伊藤忠に洩れているとさわがれているときだった。
 この商戦について、怪文書がなんども撒かれている。
 防衛庁と商社の癒着や防衛庁内局幹部のプライバシーが書かれ、その追い落としが画策
 されている。怪文書には防衛庁内部の人間関係まで書いている。実に巧妙に書かれてい
 る。
 怪文書の筆者二人はのちに名誉棄損で逮捕され、昭和四十三年一月に有罪判決が下され
 た。
 この怪文書は、誰がどのような目的で筆者に書かせたのかがはっきりしない。
 ある商社の影がちらついているといわれるが、それも具体的には特定できない。
・瀬島が、突然、「これ以上、軍用機商戦には参加したくない」と言ったのは、こういう
 ダーティな商戦にもう首を突っ込みたくないという意味にも取れるし、自らの大本営参
 謀時代の人脈を通して情報を取るのももう限界だと告白したとも取れる。
 さらには交安関係は、三次防の機密がソ連側に流れていると疑い、瀬島の周辺を徹底し
 て調査していたとの、ある大手商社役員の説もある。
 そういうさまざまな要因がからんで身を退こうと言い出したにちがいない。
・それから八年ほどして、「ロッキード事件」が明るみに出た。  
 この事件は直接には防衛庁がらみではない。
 しかし、とにかくアメリカの航空機メーカーとその販売代理店契約を結ぶ商社の全日空
 への売り込みをめぐっての疑獄事件であったことにかわりはない。
・伊藤忠は、こうした商戦から手を引いていたため無傷で終わった。
 瀬島は、このことを予測していたかもしれない。
 実際に伊藤忠の中では、瀬島を評価する声があがった。
  
・昭和四十八年のオイルショックも加えなければならない。
 このとき商社は、商品や製品の在庫隠しをおこない、価格のつり上げをはかった。
 経済原則からいえば当然のことと言えるが、社会的、道義的モラルから言えば、消費者
 (国民)の反発を買うのは目に見えていた。
・昭和四十九年二月の衆議院予算委員会で、共産党の野間友一が、一通の手紙を手に威丈
 高に政府に質問をぶつけた。
 この年一月から政府は、大商社の買い占めや売り惜しみをチェックするために、全国の
 港湾倉庫などの生活関連物資の調査に着手した。
 ところが伊藤忠の幹部の間に流された文書は、物価高騰、モノ不足に便乗して、利益を
 あげようと意図した内容だった。
 野間の追及に、政府側の中曾根通産相が、
 「この文書には何らかの意図があるように感じられるから、幹部を読んで事情を聞き、
 売り惜しみ、買い占めの事実があるなら断固たる措置をとる」
 と約束する破目になった。
 伊藤忠は予算委員会で、悪徳商社といわんばかりに罵倒された。
・瀬島を美化する著作は、この便乗値上げについては一行もふれていない。
 瀬島の減点となるような基本的な問題を含んでいるはずなのに、それは見事なまでに伏
 せられている。  

・伊藤忠が大商社として成長していくにつれ、経営陣には越後や瀬島と異なったタイプの
 経営者が必要になった。
 越後社長から身を退いたのは、昭和四十九年五月だった。
 昭和三十五年四月に社長就任以来、七期十四年間という長さで、越後も七十二歳と、肉
 体的にも社長職は無理だといわれる年齢に達していた。
・瀬島を後継社長とも考えたらしいが、いろいろな事情があってそうはならなかった、と
 話した。 
 「彼は参謀長として最高級だが、大将ともなるとちょっと・・・というので、彼自身も
 遠慮したのかもしれんな」
 と越後は語っている。
・次期社長には、副社長のひとりだった「戸崎誠喜」だった。
 瀬島は、この戸崎のもとで副社長を務めることになった。
 しかし、瀬島は軍司令官ともいうべき越後を失って、しだいに社内でも孤立していった。
・戸崎は、瀬島より一歳年上だが、参謀長のような役割をもつ者を傍に置いておくタイプ
 ではなかった。
 経済飢者の間では、両者の間に確執があったといわれているが、真偽は定かではない。
 いずれにしても戸崎時代になって、瀬島の権限は縮小させられ、業務本部も往時のよう
 な権勢を失っていたのは事実だった。
・昭和五十二年六月、瀬島は副会長の椅子に就いた。
 経済記者には意外な人事に映った。
 瀬島をのぞくふたりの副社長は退任し、子会社の会長と監査役にかわった。
 安宅産業との合併に非協力的だったからという。
・瀬島だけが副会長になった。
 戸崎は瀬島を東亜石油に転出させて責任をとらせるつもりだったが、安宅産業との合併
 で途中から協力的にかわったので、副会長に据えたといわれた。    
・昭和五十三年三月、越後は役員会でまったく唐突に、「もう喜寿をむかえるので隠退し
 たい。後任会長には瀬島副会長を推薦したい」と発言し、それが認められた。
 そして瀬島は会長のポストに就いた。とはいえ代表権のない会長であった。
 このとき瀬島は六十五歳だった。
・瀬島の企業人としての行動原理には、常に大本営参謀時代に身につけたノウハウがあら
 われているのは事実だ。
 瀬島にとって、大本営やシベリアでの体験に比べれば、企業で生きることなど実にたや
 すいことだったともいえる。 
・瀬島が代表権のない会長から相談役になったのは、昭和五十六年六月だった。
 臨時行政調査会の委員職に専念するというのがその理由であった。
  
・瀬島は組織を動かすこと、人を動かすことの面白さを、若くして覚えてしまったのでは
 ないだろうか。 
 組織は大きいほど、人が多いほど、動かす側に立つのは面白い。
 しかもその責任は、自らが仕える後ろ盾が負ってくれるとなれば、その面白さはさらに
 倍加する。
・そしていま、商社の実質的経営者の立場を離れた瀬島は、もう一度その面白さを味わお
 うとしているかに見える。
 今度は臨調という公的な場で次代の者を動かそうとし、彼らの生きる時代を規定しよう
 としている。

臨調委員の隠れた足跡
・昭和史に少しでも関心をもっている者なら、第二臨調の運営システムや世論操縦の宣伝
 活動に、昭和十五年七月に誕生した第二次近衛内閣が新政治体制確立と称して設けた新
 体制準備会の運営システムと似た点があるのを発見するだろう。
・第二次近衛内閣は、その政策を固めるために、二十六人の委員と、八人の常任幹事で新
 体制準備会を発足させ、すばやく論議を進めて大政翼賛運動綱領案や規約草案をつくっ
 た。 
・この草案づくりはわずかに二ヵ月ほどでまとまったが、なぜこれほど早かったかについ
 ては、常任幹事たちの政治力、近衛という国民に人気のある首相を前面に押し立てたこ
 と、それに「非常時」という時局認識があったこと、があげられる。
・そしてこれが大切なことだが、準備会は「衆議討裁」という議事方式をとった。
 衆議は尽くすが、異のあるときは近衛の裁定に一任するというのである。
 さらに一同に、
 「一切の私心を去り、過去に泥まず、個々の立場に捉われず・・・」
 という「誓い」をさえたからでもあった。
・立場の異なる委員が、自らの立場を譲らず討議を進めたら際限がないという判断だった。
 それに多数決主義は日本になじまないとの判断が生まれていたときでもあった。
・第二臨調が、「土光敏夫」というカリスマ性のある財界指導者を押し立てて世論を操縦
 し、二年間に五回も答申を次々に出し、「国家財政の破綻」という非常時がやみくもに
 主張されるのを見ているうちに、「なんだ、ここで使われているのは、第二次近衛内閣
 の国民世論の統一の手法じゃないか」と気づかされるのだ。
・瀬島がなぜ臨調委員に決まったかは、これまた諸説があってはっきりしない。
・瀬島は、政界の有力者に知られていたこと、日商と経団連のバランス人事のうえからも、
 臨調委員に選ばれたという説が有力だ。
 もっとも、行政管理庁長官の中曾根康弘に、臨調の実行システムを売り込んでいたとい
 う説もある。
 
・臨調会長に擬せられていた土光敏夫は、自らに残された人生を第二臨調という名の行財
 行政改革に賭けるつもりでいた。
 土光にとって、国税のムダの削除、安上がりの政府は、自らの時代が次代の者に残す遺
 産であるとの信念をもっていた。
・第一次臨調は、「池田勇人」内閣のときに設けられた。
 官房長官の「大平正芳」が、アメリカのフーバー委員会をモデルにしてつくった。
 肥大化する行政に対して歯止めをかけるという改革を目的にしたもので、日本でもこれ
 を行う時期にきていると考えた。 
・昭和三十七年に第一次臨輛は財界を代表する「佐藤喜一郎」と労働界を代表する総評議
 長の「太田薫」が中心になって答申をつくった。
・当時、その内容は識者の間でも評価された。
 が、池田が退陣し、佐藤内閣になってそのままお蔵入りとなった。
 佐藤は、答申を実行するには官僚の反発が強すぎることを知っていたからだ。
 行政改革はその後の内閣では無視され続けた。
・大平首相になって、再び財政再建と行政改革が政治スローガンとなった。
 「行革は私の責任でぜひ行いたい」
 「冗費を削るなどして努力をするが、それでも無理なら増税します」
・国債依存率25%を越える国家予算が大平には我慢ならなかったのだが、それ直截に増
 税に結びつけたため、総選挙で自民党は議席を減らした。
・昭和五十五年七月に誕生した鈴木内閣は、大平内閣の継承を政策の骨子に据えた。
 とくに「行財政改革」に政治生命を賭けると約束した。
 行財政改革が、必要なことは誰にも理解できる時期だった。
 増税と緊縮財政の両輪のどちらも回転させなければならない事態なのに、鈴木は緊縮財
 政だけに手をつけることを約束してしまったのである。
・土光は、二十一世紀の日本がこうあるべきだという信念をもっている。
 その信念とは、国民は自由でのびのびと生活し、おごらず、ぜいたくもせず、そして日
 本の国力で世界に貢献したいというものだ。
 明治人の禁欲主義の固まりでもあった。
・その土光から見れば、民間企業はオイルショック以後、減量経営を続けて効率のいい企
 業体質をつくりあげたのに、官僚組織は肥大化する一方で時代とのズレは大きかった。
・土光が鈴木や中曽根に要求したのは、次の点だった。
 ・増税なき財政再建
 ・3K(国鉄、コメ、健康保険)の赤字解決
 ・地方行政改革の断行
 ・答申の完全実施
 これを受け入れてくれなければ第二臨調をつくる意味がない。
・第二臨調が、正式に発足したのは、昭和五十六年三月だった。
・第二臨調のメンバーは中曾根行政管理庁長官の指名によるもので、いかにも中曽根色の
 強い人物が並んでいる。
 次期首相を狙う中曾根が鈴木内閣の主要閣僚として、第二臨調の名のもとに自らのブレ
 ーンや人脈、それに自らの側に引き寄せておきたい人物を意図的に就任させた。
・第二臨調は、巨大な組織として動き始めた。
 鈴木内閣時代には、中曾根長官の傘下に”もうひとつの政府”ができあがった。
 野党からは、枢密院だ、貴族院だ、はてはGHQだという声があがり、自民党のなかか
 らもそれと同様な不安気声があがったというのも決してオーバーではなかった。
・土光会長は、この第二臨調の”大統領(象徴)として前面にかつがれた。
 その裏で、自在に権力をふるう者がいれば、この組織は、”公”の名を借りた”私”に転換
 する危険性を常に孕んでいた。
・九人の委員で構成する委員会が、最上部にあって、ここで総理大臣への答申の基本的方
 向を決めるはずだった。この方向に沿って、問題ごとに専門部会に検討が委ねられころ
 になっていた。  
 ところが実際には、この上部機関がタテマエ通りに機能しなかった。
 というのは土光は人間的魅力に富みカリスマ性を帯びてはいたが、行財改革の各論を理
 解していたわけではなく、発言はややもすれば、総論的感想を述べる程度の内容に終始
 していた。 
 しだいに聞き役に回ることが多く、会議のしめくくりに、「では本日の会議はこれで終
 わります」と宣するだけになっていった。
・最上位に位置する九人の委員は、現役で活躍している者ばかりだった。日常の自らの仕
 事を消化したうえで第二臨調に駆けつけるというのでは、どうしても事務局主導になら
 ざるを得ない。
・会長代理の「圓城寺次郎」と瀬島がその肩書からいって、もっともこの委員会に専念で
 きる立場にあった。
 しかし、圓城寺は外部との交渉にあたるより、内部でスタッフを動かすほうが性に合っ
 ているらしく、第二臨調の事務局でも、「圓城寺先生は、基礎委員長となって、スタッ
 フを動かしてプランづくりを行いました。これに対して瀬島さんは外部調整一本でした。
 自民党や首相官邸などとの調整にあたりました」と認めている。
・第二臨調は、昭和五十六年七月に第一次答申を出した。
 この答申は、緊急提言として「増税なき財政再建」と強調したうえで、昭和五十七年度
 予算の編成にあたって三点を訴えた。
 その第二点は、「行財政需要の惰性的膨張を思い切って抑制するために、行政の制度、
 施策の抜本的な見直しを行うことにより、支出の節減合理化を図る。各省庁ごとの歳出
 額は、原則として前年度と同額以下に抑制する」とあった。
・この答申を出したあと、瀬島と中曽根と「安倍晋太郎」(自民党政調会長)の三人が行
 った対談で、瀬島はこの答申には三点が盛り込まれているといい、
 第一点は将来の日本国家ビジョンにもとづく行財政改革の考え方を述べているが、これ
 が今回もっとも苦労した点だと言っている。
 第二点は、増税なき財政再建のために何をなすべきかをいい、
 第三点は、鈴木内閣でどんな位置づけをするのかが問題だと言っている。
 ここでも瀬島の発言は、現実的に行える案でなければ・・・という考え方が一貫して主
 張されている。  
・臨両委員の瀬島の動きは第一次答申が出されたころから、かなりあからさまになってき
 た。国民には馴染のない名前だったが、一般マスコミにも頻繁に登場するようになった。
・瀬島は、第二臨調のスタッフに対して、教訓じみた話をしばしば行っている。
 そこで強調されるのは、もっぱら「戦術と戦略」であった・
 何が戦術で何が戦略であるかを、臨調事務局の職員たちに説いていたのだ。
 若い官僚のなかにはこうした言葉を耳にして馴染めない思いをした者もいると告白して
 いる。 
・第二臨調事務局には、各省庁の重要なデータも集まってきた。
 なにしろ、「臨調です」と言えばどこの省庁でも民間機関でも重要情報を次々に出して
 くる。だからどこも課長補佐クラスのキャリアを送り込んできた。民間の大企業にして
 も、優秀な社員を何人も出向させている。
 臨調の調査員には、官庁の情報が湯水のように流れることがわかったからだ。
 官民をあげてのエリートたちに、瀬島は、自らの調整方法や発送を託そうとした。
 官僚や企業人のなかには、瀬島の根回しの巧みさには舌を巻いた者もいたが、反面、瀬
 島流の根回しは情報公開をめざす社会ではきわめて危険な存在とも映っていた。
・本来なら臨調委員九人が上位に位置した委員会であったのに、部会からの報告が重なる
 につれ、委員会はしだいに形骸化していった。
 こういう問題をこういう方向で論議して報告してほしいと要望し、それについて改めて
 委員会で討議して結論を出し、答申のなかに盛り込んでいくはずのシステムが、現実に
 は崩れていったのである。
・九人の委員の中から、次のような自省に満ちた証言が聞かれた。
 「本来なら、インドの第二臨調の特徴は、九人の臨調会で方向を決めて調査部会という
 作業委員会で実際に動くという方針でしたが、それがいつのまにか専門部会で細かいこ
 とをいろいろ決め、その中間で専門部会長と臨調委員会との間で懇談会を持つようにな
 かたちになった。
 したがって、専門部会で方向や結論まで出してきて、委員たちのところに持って来て、
 おがみます、頼みます、で、そのまま通すという方向に行ってしまったんです。このと
 きの調整を瀬島さんがおやりになったんですね」
・専門部会の権限が強まり、九人の臨調委員は並び大名のようになってしまった。祭り上
 げられたのだ   
・会長の土光にしてからが、瀬島の独走ぶりにたびたび怒りを示した。
 第二臨調の二年間のうちに、その半ばからは、土光と瀬島の間にはすき間風が吹くよう
 になったともいわれているほどだ。
・瀬島は、九人の委員の代表者として、専門部会の部会長とも頻繁に会って、その席で実
 質的に答申の内容をつくっていった。
 俗にこれが”裏臨調”といわれるほど、大きな役割を果たしたのである。
 この”裏臨調”は、マスコミにも知られるようになり、しばしば皮肉たっぷりに報じられ
 ることになった。
・第三次答申の前に、第二臨調と自民党が基本方針を決めるというのは、明らかに手続き
 の順序が逆になっていた。
 この話し合いをスッパ抜いた「週刊文春」は、これらの動きを、瀬島を中心とした”闇
 の闘い”と称したが、”裏臨調”には確かにそういう表現がふさわしかった。
・臨調事務局の幹部は、国鉄民営化の討議の方向での瀬島の役割について次のように話し
 ていた。 
 「国鉄の現状は誰もがあのままでいいとは思っていなかった。いわゆる関係議員の方に
 しても、労使関係や赤字はなんとかしなければならないと思っていた。
 ここまでは誰もが一致するんです。
 次に分割するか、民営化するかで意見が分かれます。
 国鉄に対しては、第一次答申で、「労使一体となって改革しなければならない」となっ
 ていて、国鉄の会社形態を全般的にかえるところまでは考えていなかったんです。
 しかし、個別的、具体的な議論を始めました。
 部会でも、大変激しい議論があり、結局、分割民営化の方向に進みました。
 瀬島さんはそのときに大きな働きをして、民営化の方向にもっていきましたね」
・瀬島の根回し、調整機能の役割を賞賛しているが、国鉄の民営化に至るプロセスについ
 ては、いまもあまり明らかにされていない。
 とにかく瀬島の、私心のない、国を想うという姿勢が、何よりも誰にも理解されるので
 根回しは成功するのだろうというのが、この幹部の見方であった。
・本来、臨調は主体性をもっているのだから答申を独自に出せばいい。
 それが、「実行可能な答申」の名のもとに、まるで自民党の政調部会のようになってし
 まっていた。
・昭和五十七年十一月、中曽根内閣が成立したが、中曽根も「臨調の答申を最大限に尊重
 する」という方針を明らかにした。
・鈴木内閣が政治哲学の貧困さや政治技術の拙劣さから内閣を投げ出したあと、自民党で
 は総裁選の予備選が行われた。
 この予備選の行われる一週間前に、中曽根は瀬島と会っている。
 中曾根は予備選に勝てるという見通しを持っていて、瀬島に、「私は政権を担当するよ
 うになると思う。なにかとご協力いただきたい」と話したと伝えられている。
 
・第二臨調は、連日のように部会や定例会を開き、歳出引き締めのために可能な行政改革
 案を論議していた。
 しかし、中曽根首相のもとで、瀬島や部会の専門委員がブレーンとして実質的に中曾根
 と意を通じて動く以上、もう第二臨調は首相の諮問機関とは言い難く、首相の政策に客
 観性の装いをつけて補完していく機関といってよかった。
 瀬島のように、中曽根の密使として、あるいは私設秘書として振る舞う委員が出てきて
 は、第二臨調はもう私的機関になったと判断されても仕方のないことだった。
・国会は死んだも同然だった。与党、野党を問わず、国会で論議をして法律案を決定する
 のではなく、論議もそこそこに政府提出の行革関連法案が国会のなかを通り抜けていっ
 た。  
・第二臨調に関わった委員や専門委員のなかには、
 「国会がだらしないから臨調が力をもってしまった」
 と反省している者もいる。
 第二臨調は主体性をもって提言し、国会や行政がその理想に向かって前進的な対応をす
 るべきなのに、という声を何人もから聞いた。
 与党を代表していると思われる委員から、そういう声を聞いて、第二臨調が私物化した
 ことに不満を持っている者が予想以上に多いことを、私は知らされた。
・第二臨調は、第五次答申(最終答申)を出して昭和五十八年三月に解散した。
 しかし、この二週間前に出された第四次答申では、行政改革の提案が実行されるか否か
 を監視し、さらに第二臨調での重要事項に関する調査審議を行うための機関の設置を訴
 えていた。  
 それを受けて、政府は、三年間の期限付きで「臨時行政改革推進審議会設置法」を提出
 し、それが国会で成立して、臨時行政改革推進審議会(行革審)ができている。
・行革審の委員は七人だが、会長は土光であり、会長代理は「大槻文平」だった。
 瀬島は七人のうちのひとりだったが、実際はすべての権力を握った。
 七人の委員のうち、瀬島を除く六人は、小委員会にまったく顔を出していない。
 第二臨調よりもさらに露骨な布陣であった、
・中曾根内閣の官房長官だった「後藤田正晴」は、瀬島についてどう思うか、との質問に
 「人物評というのは実に難しいもんだ。私の見方があたっているかどうかわからないけ
 れど・・・」と前置きして、瀬島評について話す。
 後藤田は今度の第二臨調で初めて瀬島と接したという。
・私心がなく、頭脳明敏だという。そして瀬島の国家観については、次のように話すのだ。
 「日本という国を過去から現在、そして将来のというものを考えながら、どうもってい
 けば、それが日本の繁栄や国民の幸せに通じるか、首しい国際社会のなかで、どうすれ
 ばこの狭い国土の中で一億に千万人の人間が豊かで安心した生活が送れるだろうかとい
 う道を絶えずさぐっているのを、私は折り折りの判断のなかからふと感じることがある」
・後藤田は、瀬島が、商社という生き馬の目を抜くような激しい社会、算盤が基本になっ
 ている社会で生き延びてきたことの逞しさを何度も口にした。

・財界人の何人かに取材スタッフは取材を申し込んだ。
 むろん第二臨調にも行革審にも加わっていない五十代、六十代の財界人だ。
 かれらのひとりが声をふるわせ、
 「瀬島さんのことについてのインタビューはお断りいたします。あの方は、これまで責
 任というものを一度もとられていません。大本営参謀であったのに、その責任をまった
 くとっていないじゃないですか。伊藤忠までは許せます。戦後の実業人として静かに生
 きていこうというなら、個人の自由ですから、とやかく言うことはありません。それが
 臨調委員だ、臨教審委員だとなって、国がどうの、教育がどうの、という神経はもう許
 せません。私たち学徒出陣の世代だって、次代の人たちに負い目を持っているのに、瀬
 島さんは一体何を考えているのかまったくわかりません」
 と、電話口で語気を強めた。その激しさに、私のほうが驚いてしまった。
・実は、こういう声は、官僚OBからも学者からも何人かの財界人からも聞いた。
 戦場でのつらい戦闘体験を持つ者には、瀬島の存在がどうしても合点がいかぬというの
 だった。
・元大本営参謀たちの多くは、回想録を著わしている。
 自己弁明の著書も多いが、大本営参謀が果たした歴史的功罪を客観的に、自省をこめて
 次代の者に語り継ごうとしている著作も少なくない。
 それこそが、歴史に大きくかかわった者が、次代に残す最大の遺産かもしれない。
 しかし、瀬島にはそういう元参謀たちの姿勢がまったく欠けている。
 というより、逆にそれとは対照的に生き方をしているといっても過言ではない。
 
エピローグ
・私は、これまでに何人かの元日本陸軍の将校を取材した経験がある。
 かつて数時間をかけて、東條英機の伝記を著わすために、数十人の将校に会った。
 そしていま、秩父宮殿下の評伝を著わすために、この数年、何人もの軍人たちに会って
 いる。
 私は、取材を通じて旧軍人が自らの体験を話すときには、瀬島流の言い方になってしま
 うが、ほぼ三つのタイプに分かれるのを知っている。
・この三つのタイプのひとつは、必ず「いまの社会の判断であの時代を見ないでほしい」
 と前置きして、太平洋戦争の大状況を話す。
 むろんこのタイプは政策決定集団の周辺にいた者に多く、話すたびに海軍への批判が吹
 き出すのが特徴だった。
 「あのとき海軍さんが戦争はできんと言ってくれれば・・・」と開戦間の大状況(開戦
 決定の御前会議も含む)に時間がとられる。
・もうひとつは、自らの体験を状況のすべてに普遍させてしまうタイプで、話の内容に矛
 盾が出てくる点で共通していて、体験と戦後の知識とが混じりあっている。思い込みの
 激しいタイプと言えようか。
・のこりのひとつのタイプは、常に自分の体験しか話さず、知っていることと知らないこ
 とを明確に分け、自らの歴史的体験を次代の者がどのように解するかは別問題であると
 いう姿勢を貫いている。
・この第三のタイプが、私にはもっとも信頼できる軍人に見えた。 
 意外なことに、このタイプの軍人の戦後の軌跡は、社会での名声や地位を求めないこと
 で貫かれている。
 大本営参謀であったり、陸軍省の相応の地位にいたのだから、本来なら戦後も相応の地
 位を求めることが可能なはずなのに、それを拒んで生き続けている。
 つけ加えておくが、「電報にぎりつぶし事件」で瀬島の告白を明らかにした堀栄三は、
 このタイプに属していた。
・瀬島はこの三つのタイプのどれにも入らなかった。
 私は、八時間のインタビューを終えて、自分の知りたかったことに彼はなにひとつ正確
 には話してくれない、という感じを持った。
 本質に触れる話では、「記憶が曖昧である」といい、些末なことには饒舌になる。
 答えなくないときは話がそれてゆく。それでも説明のなかにはほころびが出てくる。