大本営参謀の情報戦記 :堀栄三

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この本の著者は、戦時中にあの大本営に身を置いた経験を持つ人物であるようだ。本書は、
その時の著者の経験をもとに小説風に書かれている。この本が出版された1989年(平
成元年)に著者は他界しているので、今となっては実際に大本営という組織に身を置いた
経験を持つ人物の貴重な体験談と言えるだろう。
大本営発表”と言えば、今ではデタラメの代名詞のようになっているが、大本営という組
織とはどういう組織であったのか、以前より興味を持っていたが、この本を読んで、はじ
めてその内実が少しわかったような気がした。特に、どうして大本営発表が、あのような
デタラメの発表するに至ったのか、その理由が著者の実体験から明らかにされており、と
ても興味深かった。
大本営は、当時の日本軍人のエリート中のエリートだけを選りすぐって作られた組織のよ
うだったが、著者の経験によると、当時の日本軍のエリート軍人を育てる陸軍大学校
軍大学校
では、戦術教育のなかにおいて、過去の勝った戦史だけが戦訓として取り上げら
れ、敗けた戦史はまったく取り上げられなかったようである。つまり敗戦の戦訓の教育は
まったく行われなかったようである。
こんな教育で育ったエリート軍人が、ブレーキのない車の如く、前に進むことしか知らな
かったのは、当然と言えば当然のことだったのかもしれない。そしてこのことは、現代に
おいても、日本の政治や官僚組織、大企業組織などにおいて、いまだにときどき垣間見ら
れることである。
当時の日本軍の中枢である大本営がダメだった主因は、その組織の構成する人員がすべて、
陸軍大学校と海軍大学校を出た者ばかりの多様性のないモノトーンな組織だったことにあ
ったように思える。つまり、全員が同じ教育を受けた者ばかり、それも日露戦争時代で止
まっている、時代遅れの古い内容の教育で育った者たちばかりで構成された組織だったと
いうことだろう。思考が日露戦争の戦勝段階で凝り固まっており、そこから抜け出せなか
ったのに違いない。例えて言うならば、時代がすでに銃の時代になっているのに、未だに
刀の時代のままだったということだろう。銃の前で、いくら剣術の巧みさがどうのこうの
と言ったところで、刀で銃に勝てるはずがない。しかし、このことは当時の日本軍組織に
限らない。同じ形枠内で同質の者だけを作り出し続けてきた現代の日本の教育においても、
同じようなことが言えるような気がする。現在も霞が関のエリート官僚のほとんどは東大
卒ばかりのようであるが、どのエリート官僚もみな似たような人物ばかりにしか見えない。
これは、現代の官僚組織もかつての大本営組織と同じ病根を抱えていると言えるのではな
かろうか。
ところで、その大本営の参謀のなかでも、きわめて有名なあの「辻政信」参謀の話が、こ
の本の中にも出てきている。「ノモンハン事件」で熱血指導ぶりを発揮して重大な問題を
引き起こした辻参謀は、まったく懲りることなくフィリピンにおいても同様にその熱血指
導ぶりを発揮して、また重大な問題を引き起こしていたようだ。
それにしても、この本の中に、あの「山下財宝」の話が出きたのには驚いた。やはり「山
下財宝」というは、実在したようだ。この本の著者によれば、「山下財宝」と言われた金
貨の数は2万5千枚あったという。そのうち2割程度は当時の拠点や守備隊に分配されたよ
うだが、残りは山中に隠されたようだ。その金貨1枚が、昭和25年に東京の貴金属店で
3万円で換金されたことがあったらしい。当時の3万円は、現在の価値に換算したらどの
程度の金額になるのだろうか。そして同様の金貨は、現在でも少量ながらコイン店などで
流通しているようだ。おそらくこれらの金貨は、当時の拠点や守備隊に分配された金貨の
一部ではないかと思われる。そして残りの8割は、いまだにフィリピンの山中に眠ってい
るのだ。この山下財宝探しをめぐっては、テレビなどでも過去に何度か番組を組んで取り
上げられていたが、いまだもって発見されたという報道は聞かない。

まえがき
・情報の中には、売りたくない情報、教えたくない情報、知られては困る情報も多々ある。
 そのような情報の多くは、相手に取られると、こちらの企図や意中を悟られて不利益を
 まねく類いのもので、それをめぐって取ろうとする者と隠そうとする者との間には、必
 然的に争いが生じる。この争いが情報戦とか、最近では諜報戦などと言われている。何
 も国家間に限ったことではなく、企業間にも、あるいは政治や社会生活の場でも、相手
 が隠そうとしていることを探るための闘争や競争は絶えず生起している。そしてこの闘
 争では当然、相手が隠している情報を知った方が有利になる。戦争になると、お互いが
 命と国運を賭けて争うのであるから、相手の企んでいることを探ることは、 勝敗の最
 重要事となってくる。
・ところが昨今東西の戦争の例を見ても、相手の意中を知る情報を百パーセント集めて、
 左団扇で戦いを進めた例は皆無である。これが戦争というものであって、実際の戦場で
 は知りたい情報の半分も満たない情報で、敵の意中もわからないままに、暗中模索の中
 で戦いを進めていることがざらである。従って、百パーセントに満たない空白の部分を、
 どのようにして解明し、処理していくか、これが情報の任に携る者の最重要な仕事であ
 る。
・いまはコンピューターの時代であるから、さほど苦労をしなくても諸情報を集めて分析
 解明して、判断を出すことは容易になったと考える人が多いかもしれない。確かにあら
 かじめ入力しておくデータによっては、いままでの苦労は軽減されるであろうが、しか
 し戦争の諸データを完全無欠に入力することはまず不可能である。たとえ5パーセント
 でも空白の部分が残れば、この霧の中に隠れた実像を解明することの困難さは変わりは
 ない。

陸大の情報教育
・その昔、尾張公の藩邸があった市ヶ谷台には、明治以来、陸軍士官学校が置かれていた。
・昭和18年10月、あと2週間で30歳を迎える陸軍少佐の堀栄三は、大本営参謀職に
 発令された。まったく参謀経験のない者が、いきなり大本営参謀に発令されたのである
 から、栄光よりも不安の方が大きかった。その上、第二部の情報部である。それまでの
 堀の軍歴の中に何一つ情報に関係した仕事はない。陸大でも情報のための教育を受けた
 覚えは想い出せなかった。
・この年、2月には日本軍がガダルカナル島で敗れ、戦争始まって以来の撤退作戦を行い、
 5月にはアッツ島守備隊2500名が玉砕。戦況は米軍の攻勢の前に、日本軍が完全に
 防勢に立たされ、9月には大本営が、太平洋の絶対国防圏を、千島、マリアナ、カロリ
 ン諸島から西部ニューギニアの線にきめて、上奏裁可を得たという慌しいときであった。
 絶対国防圏とは、この線から内へは、敵を一歩も入れないというものであった。
・大本営に出頭すると、初めて第十六課勤務とわかった。十六課は第二部(情報部)にあ
 って、五課(ソ連課)、六課(欧米課)、七課(支那課)、八課(謀略課)と並んだ通
 称ドイツ課とも言われ、昔は六課の中にあったのが、第二次世界大戦でドイツの戦勢が
 優勢を極めた昭和17年4月に、六課から独立した、大本営の一番小さな課である。
 課長の西郷従吾大佐は、その名の示す通り明治維新の勲功者西郷従道大将の孫で、大島
 浩武官
の下でドイツ駐在補佐官を務めた毛並抜群のドイツ通、大の親独家であった。
・父「堀丈夫」は「情報は結局相手が何を考えているかを探る仕事だ。だが、そう簡単に
 心の中を見せてはくれない。 しかし心は見せないが、仕草は見せる。その仕草にも本
 物と偽物がある。それらを十分に集めたり、点検したりして、これが相手の意中だと判
 断を下す。いろいろな場面で現われる仕草を集めて、それを通して判断する以外にはな
 いようだな」と父は何度も「仕草」という言葉を使った。仕草とは軍隊用語でいう徴候
 のことである。
・父は第一師団長に親補され、昭和11年の二・二六事件に遭って予備役に退いた航空兵
 出身で、大正4年に陸軍が初めて航空部隊を作ったとき、騎兵から航空に転じて陸軍の
 航空を創りあげた航空の草分け的存在であったが、陸軍大学校は出ていなかった。
・晩秋のある日、堀は「土肥原中将」を私宅に訪ねた。いわゆる謦咳に接することで、当
 時の軍隊にはまだ上官、大先輩を訪ねては有益な話を聞く昔の習慣が残っていた。訪問
 を受ける側の先輩も、後輩の指導と思って喜んで迎えてくれた。
・土肥原中将は「戦術は難しいものではない。野球の監督だって、碁打ちだって、八百屋
 の商売だってみんな戦術をやっているのだ。ただ兵隊の戦術は軍隊という駒を使って、
 戦場という盤の上でやる将棋だ。いまこの場面で相手に勝つには、何をするのが一番大
 事かを考えるのが戦術だ」と語った。もっと高邁な戦理が聞けると思っていたのに、実
 に平凡な話であった。
・「そのためには枝葉末節にとらわれないで、本質を見ることだ。文字や形の奥の方には
 本当の哲理のようなものがある。表層の文字や形を覚えないで、その奥にある深層の本
 質を見ることだ」土肥原将軍の戦術講義は実に平易な話であった。 
・陸大の教育は、世上いわれる通りの参謀教育である。戦術教育が主体で、戦史講義、教
 養講座、 先輩参謀から聞く実務教育、語学教育が捕捉的にあって、何といっても戦術
 教育がその大半であった。戦術教育の中でも不思議なことに、作戦と後方補給の教育は
 各種の想定のもとでかなり訓練されたが、情報参謀の教育は皆無であった。従って情報
 の教育は実務教育のみに組み入れられて、大本営第二部の情報参謀たちが出向してきて、
 ソ連事情、支那事情、欧米事情などを話し、彼らが実施している情報の実務を一方的に
 聞かせてくれるだけで、情報をいかにして集め、いかに審査し、いかに分析して敵情判
 断に持っていくのかという情報の収集、分析の教育は、陸大教育の中にはまったくなか
 ったのである。極端にいえば、実務教育と称して外部から講師が来て、黙って聞いてい
 る授業は、学生にとっては居眠りの時間であった。教える方もむろん熱意がなかった。
・戦後の軍事評論家と称する人たちの中には、日本軍の戦略戦術は暗記の世界にあったの
 で、暗記本位で戦略的人物を作り出す教育ではなかったと批判する向きもあるが、しか
 しいかに原案に近づける先読み、迎合的傾向が出てきたとしても、基本を教えるだけの
 士官学校程度の教育ならいざ知らず、暗記本位で出来ようとは、堀自身の過去を顧みて、
 いささか酷な批判ではなかろうかと思う。戦術の状況は、似たように見えても決して同
 じ状況はない。だから原則マル暗記や原則マル写しで、答解出来るものではない。
・情報参謀の教育は、要するにこれまでの作戦を主とする戦術教育だけではできない性格
 のものであり、情報参謀を育てるためにはもっと別途な教育がなされて然るべきであっ
 た。
・このように情報教育が軽視されていた結果、太平洋戦争の孤島やニューギニアではほと
 んどの場合、日本軍の守備隊の前にある日突如として米軍の大艦隊が現われたり、大本
 営の予測とは違って敵軍の上陸が急に始まったり、想像を絶する火力を見舞われたりし
 て、多くの将兵が玉砕していった。
上海戦の戦史講義において、堀は次のような所見を提出した。
 1)運動戦での日本軍の精強さは、すでに定評がある。しかし、準備された陣地に対し
  ても、そのまま日本軍の精強さが当てはまるとは残念ながら言えない。鉄量を破るも
  のは突撃ではない。ただ一つ、敵の鉄量に勝る鉄量だけである。
 2)将校の死傷の多くが狙撃だったということも重大な問題である。支那軍の射撃能力
   が向上しただけでは済まされない。支那軍狙撃兵は、望遠鏡付照準装置を第一線に
   配置していた。それに加えて自動小銃を使用している。これに対して日本軍は、依
   然として、菊の御紋のついた三八式歩兵銃である。菊の御紋があるからといって、
   未来永劫に卓越した兵器ではない。望遠レンズと肉眼、三八歩兵銃と自動小銃、日
   本は兵器の進歩に遅れている。
 3)軍刀はもう不要である。「ノモンハン」の戦さを見ても、自動小銃の前では、軍刀
   はもはや無用の長物になった。軍刀が物をいうのは、軍人が武人としての自己の勇
   怯や責任を、自分で裁き、すなわち自決のときだけである。日本軍は伝統や歴史に
   こだわり過ぎて、時代の進運にともなう兵器的戦力の増強を忘れていなかったか?
・太平洋戦争が始まって昭和17年になると、山下兵団や本間兵団がマレーや比島で戦っ
 た戦場での教訓が、戦訓と称する情報として陸大にも配布されだした。だが、昭和17
 年6月の「ミッドウェー海戦」で日本海軍が大敗北を喫したことや、ガダルカナル島で
 も敗北したことなどの不利なことは、卒業するまでわれわれ学生の耳には入らなかった。
 つまり、検討を要し、その後に最も参考となる”敗戦の戦訓”は、ついに一度として陸
 大の講義には登場しなかったのである。
・昭和17年の秋であった。珍しく同郷の「寺本熊市」中将が杉並の家に父を訪ねてきた。
 寺本中将は、後にニューギニアで第四航空軍司令官として苦戦した将軍であった。航空
 兵として父の後輩であった。将軍は父との用談がすんで座敷で雑談になったとき、こう
 言った。「陸大だけが人生の最終目標ではありませんぞ。陸大は一つの通過駅で、そこ
 で何を汲み上げたかが大事なこと、そしてそれを元にしてこれから以後どう生きるかが、
 もっとも大事なことですよ。陸大を人生の最終目標にして権力の座について、椅子の権
 力を自分の能力だと思い違いしている人間ほど危険なものはない」寺本中将の言葉は風
 貌に似合わず厳しかった。
・要は陸大を出て枢要なポジションに就くと、そのポジションに付随した権力をまるで自
 分が持って生まれてきたかのように私物化し、乱用する危険を戒めたものであろう。ノ
 モンハンやガダルカナルの戦闘では、一部の参謀が勝手に専断をして危険な刃になった
 例がある。参謀があたかも最高司令官のごとく振舞って、最高司令官が脇役に追いやら
 れてしまったこともたびたびあった。よく言われる作戦参謀の暴走である。
・当時の陸軍航空は北方での作戦に適応するよう、満州を基地にしてソ連領のシベリヤを
 目標とする航続距離の短い飛行機が主体であった。これに対して海軍には太平洋で使用
 できる航続距離の長い渡洋爆撃機があった。これらの長所短所をミックスして、陸海が
 お互いに競争することなく、統合した空軍を創設しようという働きかけが、昭和15年
 12月に陸軍の「山下奉文」航空総監を遣独視察団長としてドイツに派遣してから、急
 速に高まってきていた。
・山下兵団のマレー半島攻略のときも、本間兵団の比島進攻のときも、陸軍航空は皇族距
 離が短くて、十分な支援を上陸地上軍に与えることが出来ずに泣いた例があった。すで
 に英、米、ソ、仏などの列強は、いずれも空軍が独立している。日本だけが陸軍航空と
 海軍航空とに分かれて総合空軍にならないまま戦争に突入してしまったのである。

大本営情報部時代(一)
・昭和18年9月、欧洲では連合軍がイタリアに上陸。すでにイタリアが無条件降伏。東
 部戦線のドイツ軍も2月スターリングラード、7月キエフ地方で敗退し、ソ連軍の攻勢
 は激しさを加えていた。太平洋方面では4月山本連合艦隊司令長官が戦死。5月にはア
 ッツ島の山崎部隊が玉砕。
・堀の勤務は第五課(ソ連課)に移った。課長は最後に陸軍大臣「阿南惟幾」大将の秘書
 官を務めた林三郎大佐であった。モスコーで武官補佐官を務めた経歴から、ソ連通の第
 一人者といわれ、冷静そのもので、どんな小さな徴候も集めて統計を取り、それを分析
 するタイプであった。
・西郷大佐の第十六課の情報への取り組み方は、何といっても大島浩という近来稀な大物
 武官を持っていて、ドイツの権力の中枢であるヒットラーヘスリッベントロップ
 いった重要人物と、あまりにも容易に会って意見を聞き得る立場にあり、彼ら中枢の意
 図することが聞き出せたあと、「日独伊三国同盟」の同盟国が日本に嘘をつくことはな
 いという認識の甘さと、日本軍の中枢を占めている高級軍人たちのほとんどが盲信的な
 親独感情を持っていたことなどが基盤になっていたことは否定できない。
・これに対して林大佐の第五課は、ドイツ課の取り組み方とはまったく違っていた。在ソ
 の駐在武官や大使が、容易にクレムリンに出入りして、スターリンモロトフや軍の首
 脳と和気藹々と話をすることは、ドイツと違って至難中の至難であったから、止むを得
 ず権力の中枢の考えている最中が、ソ連国内のどこかに、何らかの形で徴候として出て
 いないかを、虎視眈々と克明に探して分析していくことになる。
・この二つの取り組み方で根本的に違っているのは、ドイツ課は徹底して親独から相手を
 百パーセント信用しているのに対して、ソ連課は嫌ソが基本で相手をすべて疑ってかか
 っていたことである。信用している方は、大島大使からの情報を絶対視して審査も何も
 なく、常に一方的な一本の線で見ているが、ソ連課は常に疑っているので、一本の線で
 一方的に見ないで、他の何かの情報と関連があるかどうかを見つけようとする。従って
 二線、三線の交叉点を求めようと努力していた。
・情報は第五課のソ連嫌いのように、まず疑ってかからねば駄目である。疑えばそれなり
 に真偽を見分ける篩を使うようになる。 
・ソ連正面を担当する第五課に勤務してわずか二週間足らず、堀は頭の中ではまだソ連課
 の中のドイツ班という考えが消えていなかった。ところが降って湧いたように、「堀参
 謀は明日からソ連戦況の説明をやれ!」と「有末精」三第二部長が命令した。
 「まだソ連については詳しい地名も覚えていないので、もう少し暇をくれませんか?」
 と恐る恐る正直な返事をした途端、「何を!そんな奴は参謀の資格はない!」
 大本営とは陸軍の俊才が集まるところであった。俊才とはこんなときに、わかった顔し
 て引き受けるのだろうか。嘘でも丸めて本当のように喋るのが大本営参謀であろうか。
 しかし、どうもそうらしい。とにかく、じっくり型の堀は生まれて初めて大勢の前で面
 罵された。出世街道をひた走りに進んできた有末部長のような幕僚型の人物とは、こう
 いうタイプの人物をいうのだろうか?
・その翌々日、堀は電光石火の人事で第六課(米英課)に替えられてしまった。落第のよ
 うな形で第六課にきてしまった。迷惑だったのは、落第生を拾った第六課長杉田一次大
 佐だったはずだ。だがこの人は、西郷、林の両課長とまた一味違った肌合いを持ってい
 た。実務型というか、実戦型というか、人を育て、その能力を出させるような使い方を
 する課長であった。
・当時の第六課は、これが戦争の真正面の敵である米英に対する情報の担当課と疑わせる
 ようなお粗末なものであった。昭和17年4月に欧洲諸国班の中から、ドイツ枢軸国の
 担当が昇格して第十六課となり、初めて第六課が米英の担当課となった。戦争をしてい
 る相手国の担当課が出来るのは当然であるが、これが太平洋戦争開戦後約半年してから
 のことだから、そのスローモーぶりには驚かざるを得ない。
・昭和18年10月から11月までの1ヶ月に堀は三つの課を廻された。猫の目のように
 変わったこの1ヶ月の人事を通して大本営のその日暮らしの場当たり的な情勢認識を見
 る思いがする。杉田大佐は著書の中で、泥縄式という言葉をちらこちらで使っているが、
 この人事や第二部の改編の目まぐるしさは、泥縄の見本のようなもので、底流を見つめ
 ると、日本の国策を決定するための基礎となる最重要な世界情勢判断の甘さが、大本営
 自身をも翻弄していたことがわかる。
・その挙句、大本営は周章狼狽する。打つ手が後手後手になっていく。そのツケは、当然
 ながら 第一線部隊が血をもって払わなければならなくなる。
・「堀君は米国班に所属して、米軍の戦法を専心研究してもらう。そのためにはまず戦場
 を見てきてもらいたい」これが杉田課長の第一声であった。正直いって堀は驚愕した。
 いやしくも国と国が戦争する以上、敵がどんな戦略、戦術、戦闘法をとってくるかは、
 戦争を起す以前から研究して、それに適応する軍備、教育、訓練、補給、兵器、築城を
 準備するのは当然のことであり、そのために平時から参謀本部が常設されている。この
 期に及んで、米軍戦法を研究せよというのだから、泥縄もいいところであった。しかし、
 マレーの作戦にも、ガダルカナル島の死闘にも、情報参謀として参加した杉田課長であ
 ったなればこそ、まだ打つ手はなかろうかと考えた上での戦法研究の下命であった。
・戦後いろいろの書物で、太平洋戦争の敗因の第一は、作戦課が情報を無視、軽視したと
 指摘されているが、 化けの皮が剥がれるまでの情報判断は的確さを欠いていたことを
 告白した情報課にも、大きな責任があったのだ。
・参謀の中には、いまだに米国恐るるに足らずと公言する者もあった。
「米軍の平時の演習は連隊までで、それ以上の部隊の演習がない。軍以上の大兵団で正面
 切っての戦闘となると問題だ。それに軍隊の士気が日本とは全然比較にならない」
・昭和18年11月、堀は南方戦線視察に出発した。南方戦線を視察し、第一線部隊の状
 況、特にニューギニア、比島の地形や地誌をできるだけ自分の目で見て戦法研究に役立
 てることが、実戦型課長杉田大佐の堀に与えた出張の命令であった。
・それにしても人間の運命というものは、実に不可解なものである。三時間後ラバウルの
 飛行場に独り降り立った堀は、初めてそのことを知った。飛行場勤務将校が堀に走り寄
 ってきて、「あなたひとりですか?」と尋ねてきたのだ。聞けば、堀より20分前に発
 ちすでに到着しているはずの海軍の将官一行の搭乗した海軍輸送機が、まだ着いていな
 いというのである。堀を迎えにきた第八方面軍第二課の参謀は即座に、「(海軍機は)
 やられたな」と呟いた。この年の4月には、「山本連合艦隊司令長官」機が撃墜されて
 いる。恐らくラバウルに近い海の上で、米軍機の待ち伏せに遭ったに違いない。運命の
 岐路とはこのようなものであろうか。戦場に来たという実感がひたひたと打ち寄せてき
 た。
・第八方面軍司令官「今村均」対象は、この機を逸してタロキナ岬に上陸した米海兵第三
 師団を撃滅する時はないと判断して、 第六師団に全力をもって米軍を撃滅することを
 命令し、作戦主任参謀、情報主任参謀を第一線に派遣して作戦指導に当たらせていた。
 しかし事態は決して容易に進んでいるとは感じられない司令部の空気であった。
・当時はすでに飛行機の余裕がなく、よほどの高級者か作戦参謀以外には特別機の割り当
 てがなくて、堀たちひら参謀は既製服に身を合わせるように、出たり出なかったりする
 連絡便に視察計画を合わせる以外方法はなかった。
・第四航空軍司令官寺本熊市中将を司令部の幕舎を訪ねて挨拶した。中将が開口一番喋っ
 たのは、制空権の必要についてであった。これには絶対という条件がついていた。
 「誰でも戦術を習った者は、制空権を口にする。制空権がなければ、軍艦も輸送船も動
 けない。輸送船が動かなくては、燃料も弾薬も食糧もやってこない。ニューギニアは日
 本から4千キロも離れているが、米国の後方連絡線は日本の倍もある。その米国の補給
 が満点で日本はゼロに近い。これが制空権のなせる結果で、制空権のないところ戦闘な
 しということである」
・なぜ日本は制空権を失ったか。「軍の主兵は航空なり」これを戦前に採用しなかったか
 らだ。日本の作戦課はいまでもまだ「軍の主兵は歩兵なり」と言っている。海軍が大艦
 巨砲主義という日本海海戦の思想に止まっていて時代遅れだと、陸軍が海軍を非難する
 が、その陸軍は奉天会戦時代の歩兵主義から一歩も進歩していない。どちらも頭が古く
 て近代戦を知らないのだ。軍人の全部ではない。作戦課という一握りの人間が勉強しな
 かったのだ。
・戦争は昔から高いところの取り合いであった。高所から見下ろす優越感と安全感、低地
 にいて見下ろされる者の無力感と不安感、飛行機のない時代の高所は山であった。そこ
 へ飛行機が出現した。制高点を飛行機という文明の技術で作ろう、米国はそう考えた。
 米軍は日本の軍事研究が日露戦争時代に止まってしまっているときに、「クラウゼヴィ
 ッツ」の原則の億の哲理を、近代戦に合うように研究した。軍人には軍事研究というた
 いへんな仕事があったのに、軍の中枢部の連中は、権力の椅子を欲しがって、政治介入
 という玩具に夢中になりだした。
・制空権を維持して相手に奪われないようにするためには、後から後から新しい飛行機を
 作って、新しい操縦手を作って送り出さなくてはならない。日本軍のゼロ戦一式戦
 もに最初は米軍よりも優秀であったが、そのあとが続かない。要するに制空権を持続さ
 せるためには、後方の国力が物をいう。軍の主兵は航空なり、というのは国力の裏付け
 が必要になってくる。それなくして戦争には勝てないのだ。

大本営譲歩部時代(二)
・情報戦争は、当然戦争の起こる前から始まっているのである。1年前?いや5年前?と
 んでもない。米国が日本との戦争を準備したのは、大正10年からであったという。そ
 のぐらい前から情報戦争はすでに開戦していて、情報の収集が行われていたのである。
・現在でもソ連の艦船が日本の領海すれすれに接近したり、ソ連機が近海を北から南へ飛
 行しているが、 必ず日本のレーダーや電波の調査を行っているはずだ。これに日本の
 自衛隊がスクランブルをかける。緊急時には無線電話も使うから、電波キャッチにはも
 ってこいの機会になる。何べんもスクランブルをやらせたら、その基地の飛行機の数も
 コールサイン(呼出符号)でわかってしまう。「彼を知り、己を知るは百戦危うからず」
 と孫子はいうが、敵を知る情報は、このように長年月をかけて収集されているものであ
 る。国が戦争をするには、それだけの情報上の準備が必要であって、眼前の感情に動か
 されて、興奮して立ち上がるものではない。
・日本はいま諜者(スパイ)天国という不名誉な名前を貰っており、防諜では日本民族ぐ
 らい世界中でのんびりしている国はない。
・第二次世界大戦で日本が開戦するや否や、米国がいの一番にやったことは、日系人の強
 制収容
だった。戦後になっても日本人は、これが何のためだったか知っていないし、知
 ろうともしない。戦後40年経って米国は、何百万ドルを支払って、「ご免なさい」と
 議会で決めているから、実に立派な人道的民主主義の国だと思っている人が多い。最近
 ある日本の経済界の要人は、米国が真珠湾攻撃を受けての反日の感情的措置であったと
 考えているふうであった。どうして日本人は、こんなにまで「おめでたい」のだろうか。
 むろん日本人をJAPと呼んだ当時の感情的反発の行動であったのは当然として、裏か
 ら見れば、あれで日本武官が営々として作り上げてきた米国内のスパイ網を破壊するた
 めの防諜対策だったと、どうして考えないのであろうか。
・諜報のうち暗号解読は最も重視されるところであって、日本の暗号は戦時中、米国にと
 られていたというのが最近の常識のようである。海軍の一部の暗号、船舶の暗号、外交
 暗号が米国に解読または盗読されていた形跡は確かにあった。陸軍の暗号も戦場で玉砕
 した部隊などで、重要書類の最終措置(焼却)が悪くて、盗読された形跡もないことは
 ない。反対に日本は、とられっぱなしであったかというと、日本も相当なことをしてい
 たことも明らかで、開戦前後には米国のかなり重要な暗号を読んでいたのは事実であっ
 た。
・米国が戦争中の日本の暗号を解読した文書を公開した。さすが民主主義の国だ、といっ
 て騒いでいる人がいるが、どんな国でも国益を損なってまで公開するはずはない。公開
 したということは、もう現在日本が使用している暗号は研究完了、全部解読していると
 いう証明でないと誰がいけようか?情報というものはそれほど複雑怪奇なもので、まず
 疑うことが第一である。日本人ほど「おめでたい」国民はいないのだから。
・戦争中一番穴のあいた情報網は、他ならぬ米国本土であった。日本人の陸海軍武官が苦
 労して、爵禄百金を使って準備した日系人の一部による諜者網が戦争中も有効に作動し
 ていたなら、米国内の産業の動向、兵員の動員、飛行機生産の状況などがもっと克明に
 わかったはずだ。原爆を研究しているとか、実験したとか、原子爆弾の「ゲ」の字ぐら
 いは、きっと嗅ぎ出していたであろうに、一番大事な米本土に情報網の穴のあいたこと
 が、敗戦の大きな要因であった。いやこれが最大の原因であった。日系人の強制収容は
 日本にとって実に手痛い打撃であった。
・日本はハワイの真珠湾攻撃を奇襲攻撃して、数隻に戦艦を撃沈する戦術的勝利をあげて
 狂喜乱舞したが、それを口実に米国は日系人強制収容という真珠湾以上の大戦略的情報
 勝利を収めてしまった。これで日本武官が、米本土に築いた情報の砦は瓦解した。戦艦
 (作戦)が大事だったか、情報(戦略)が大事だったか、盲目の太平洋戦争は、ここか
 ら始まった。
・「台湾沖航空戦」のデタラメ大戦果発表を鵜呑みにした陸軍が、急遽作戦計画を変更し
 て、「レイテ決戦」を行う羽目に陥るのであるから、海軍航空戦の戦果の発表は、地獄
 への引導のようなものであった。その深層には、陸軍と海軍が双方とも、何の連絡もな
 く勝手に戦果を発表していたため、陸軍は海軍の発表を鵜呑みにする以外にないという
 日露戦争以来変わっていない二本建ての日本最高統帥部の組織的欠陥があった。一般国
 民から見れば、大本営とは一つであったはずだが、内では陸軍と海軍がお互いに真相も
 打ち明けることもなく、二つの大本営が存在していたのである。
・情報は収集するや直ちに審査しなければならない。こんなことは情報の初歩の常識であ
 る。航空戦の場合はいったい、誰が、どこで、戦果をみているのだろうか?真珠湾攻撃
 のときは戦果の写真撮影があって、戦果の確認が一目瞭然であった。
・その後の航空戦では、真珠湾のときのような戦果の確認は出来ていない。とにかく航空
 戦では、どうやら帰還した飛行士の報告を司令官や参謀たちが、「そうか、ご苦労」と
 肯く以外に方法がないようだ。陸軍の陸上の戦闘や、海軍の海戦では指揮官が自ら戦闘
 に臨んで、自分の目で見ているが、航空戦では司令官も参謀も誰ひとり戦場にはいって
 いないで何百キロも離れた司令部にいるから、自分の目の代りに帰還飛行士の声を信用
 する以外に方法がないようだった。
・航空戦の実相は、戦闘参加機以外の誰かが、冷静に写真その他で戦果を見届ける確認手
 段がない限り、誇大報告は避けられない。中には未帰還機の方が本当の戦果をあげてい
 て、帰還機は戦果をあげていない場合だってあろう。極限に立たされた人間には、微妙
 な心理が働くものである。
満州事変以来、二流三流の軍隊と戦って、強引にやれば抜けた経験も、米軍迫撃砲のネ
 ズミ一匹も生存させない集中射撃には、いかんともすることができなかった。「鉄量を
 打ち破るものは鉄量のみ」すでに昭和12年の上海戦で、その翌々年の「ノモンハン」
 の戦闘で試験ずみのことである。日本軍中法部の精神第一主義は、大陸での二流三流の
 軍隊には通用したものの、近代化された米軍には無惨な姿を曝け出してしまった。
・気の毒なのは、とにかく第一線であった。上級司令部や大本営が、敵の戦法に関する情
 報も知らず、密林の孤島に点化された認識もなく、増援隊はもちろん、握り飯一個もよ
 う送り届けないで、一歩たりとも後退させないという非情さはどこから来たのであろう
 か。要するに大本営作戦課や上級司令部が、米軍の能力や戦法及び地形に対する情報の
 ないまま、机上で二流三流軍に対するのと同様の期待を込めた作戦をたてたからである。
 それに上官の命令は天皇の命令と「勅論」に示されていたから、退却はこの場合大罪で
 あった。
・太平洋の島々は日本の小笠原諸島を含めて、日本が守備隊を配置したのが大小25島、
 そのうち、米軍が上陸して占領した島は、わずかに8島にすぎず、残る17島は放った
 らかしにされた。米軍にとって不必要な島の日本の守備隊は、いずれ補給もないまま孤
 島で餓死するのだから、米軍としては知らん顔であった。
・25島に配置された陸海軍部隊は、27万6千人、その内、8島で玉砕した人数が11
 万6千人、孤島に取り残された人数が16万人、そのうち戦後生きて帰った人数が12
 万人強、差し引き4万人近くは孤島で、米軍と戦うことなく、飢と栄養失調と熱帯病で
 死んでいったのである。
・ニューギニアの安達二十三中将麾下の第十八軍の当初の兵力は、三個師団と海軍守備隊
 を基幹とする約14万8千人。陸続きと思った原始林のジャングル伐り拓いて、8百キ
 ロ以上の死の大行進をして、西へ西へと進んだが、米軍の飛び石作戦の方が先に進んで
 しまって、アイタペに兵力を終結し終えたときには、第十八軍は完全に米軍の後ろに取
 り残されていた。日本から船での補給は完全に遮断されて、米軍から見てもはや戦力で
 はなく、太平洋と同じようにジャングルの海の中の孤島で、彼らの前に立ちはだかった
 のはただ飢餓と熱帯病であった。生還して日本の土を踏んだ者は1万3千人であるから、
 実に90パーセントの兵士が無惨にも命を落としてしまったことになる。
・大本営作戦当事者たちは、太平洋の島々の戦闘がこんな極限状況を呈することなど予想
 すらつかぬままに、作戦を指導していたのである。
・日本の海軍の零戦や陸軍の一式戦など戦闘機が、米軍戦闘機と優位に戦ったのが、おお
 むね昭和17年末まで。昭和18年初めからは米軍のP-38戦闘機の性能が急速に向上し
 て、日本軍戦闘機が、戦闘能力でも補充でも劣勢に立たされだしたのが、ダンピール海
 峡の突破とそれ以後の飛び石作戦のピッチに上昇の原因となった。米軍が日本軍を飲ん
 でかかり出したわけである。
・第一次欧洲大戦のときでも、一度敵戦闘を交とえた米軍の師団(約2万名)は、戦闘が
 一段落すると別の師団と交代して後方に退って、消耗した兵員を補充したり、教育訓練
 をするのが2ヶ月、そして4ヶ月が休養となっている。従って、いったん戦闘をした師
 団が次の上陸作戦に出てくるのは、最小限6ヶ月、その前後の準備期間などを入れると、
 6〜8ヶ月がローテーションと見られた。
・飛び石作戦とは制空空域の推進であり、太平洋で戦争する場合、島が大切か、海域が大
 切か、それとも空域が大切かを、事前に研究出来ていなかった日本軍は、土地と海域に
 執着して無血上陸をした。あとは防御一点張りに廻ってしまったが、太平洋は守るに損
 で、攻めるに得な戦場であることを日本は知らなかった。
・日本軍が日の丸の旗を掲げて、太平洋の至るところに無血上陸を敢行して、全面展開し
 たとき、米軍は、「日本がわなにかかった。これで攻撃の側に立てる」とほくそえんで
 いたはずだ。
・陸海軍の大本営中枢部はその当時、「よもやサイパン島にまでは米軍は来ないであろう」
 という妙な安心感を持っていたことは事実の一つであった。米軍に対する情報的認識の
 甘さである。
・大本営作戦課は、その後も一貫してそうであったが、任務は与えるが、対米戦闘に必要
 な陣地用の資材や食糧や弾薬を十分に与えることはなかった。それにもう一つ、一番大
 事なものを与えることを失念していた。”時”である。防御が攻撃に優るのは、地形の
 利用、資材の準備と時間である。そのどれもが、「ゼロ」であった。
・サイパン島は戦艦8隻、巡洋艦2隻、駆逐艦22隻にぐるぐる巻きに包囲されて、猛烈
 な艦砲射撃に見舞われていた。 大本営陸軍作戦課の大島、小島論の根拠には、数字的
 分析がなく、ただ122キロ平方キロと、マキン、タラワのような絶海の孤島という漠
 然とした比較の情緒的分析だけしかなかった。たとえ122平方キロあっても、島の東
 西の幅はわずかに4〜6キロ、表からでも裏からでも、どこからでも島の全域に艦砲を
 撃ち込める島だったのである。米軍の戦法からすれば、サイパンもグアムも、マキン、
 タラワ同様絶海の小島にすぎない。日本軍の中枢部には、この認識が欠けていた。
・海軍の大艦巨砲主義、陸軍の歩兵主兵主義は、どちがら、どちらを非難すべきものでも
 ない。陸軍も海軍も日露戦争時代に足踏みしていた前時代軍事思想の持主であった。日
 本人、いや日本大本営作戦当事者たちの観念的思考は、数字に立脚した米軍の科学的思
 想の前に、戦う前から敗れていた。
・それにしても海軍はまだ率直に戦況の非を悟っていたが、陸軍は1個師団対43個師団
 のサイパンの作戦にも、なお望みを繋いで勝利を期待していた。そして太平洋上至ると
 ころで玉砕に次ぐ玉砕を続けた。
・その中でひときわ勇戦奮闘して、米軍の心胆を寒からしめ、世界戦史に「驚嘆」の賛辞
 を残したのが、昭和19年9月米軍が上陸したペリリュー島の守備隊「中川州男」大佐
 の歩兵第二連隊の戦闘であった。水際での早まった突撃はやめて、徹底した奥行の深い
 戦法で、米軍が奥に入ってくれば入るほど損害が多くなる戦闘を行った。その結果、中
 川大佐の自決に至るまでの2ヶ月以上を1個連隊を基幹とする部隊(約5千名)で、米
 軍2個師団と押しつ押されつの戦闘を繰り返して、文字通り米軍に悲鳴をあげさせただ
 けでなく、山口永少尉以下34名は、連隊があらかじめ作った最後の砦である地下壕や
 洞窟を利用して、ゲリラ戦に転じて昭和22年4月まで戦闘を続けていたのである。
・この問題は、単に軍事の問題ではなく、政治にも、教育にも、企業活動にも通じるもの
 であり、 ひと握りの指導者の戦略の失敗を、戦術や戦闘で取り戻すことは不可能であ
 る。それゆえに、指導者と仰がれる一握りの中枢の人間の心構えが何よりも問われなく
 てはならない。出世欲だけに駆られて、国破れ企業破れて反省しても遅い。敗れ去る前
 に自ら襟を正すべきであるが、その中でも情報を重視し、正確な情報的視点から物事の
 深層を見つめて、施策を立てることが緊要となってくる。
・米軍が当初最も警戒したのは、日本軍の潜水艦による米軍後方連絡線への執拗な攻撃で
 あったが、世界に勇名を謳われながら日本の潜水艦は、キスカ、ガダルカナルの撤退作
 戦、ニューギニアの残存部隊への夜間補給、インド洋を経てのドイツとの連絡、重要物
 資の輸送などに身をすり減らして、本来の任務である米軍後方連絡線の遮断、上陸部隊
 輸送船の攻撃に使われなくなってしまった。米軍が補給を重視する軍隊だけに、何らの
 脅威も与え得なかったのは残念至極であった。これに対して米軍の潜水艦は徹底して日
 本軍の補給船を狙って太平洋上の守備隊を飢餓と熱帯病に追い込んだ。

山下方面軍の情報参謀に
・昭和19年10月、堀は在比島第十四方面軍に出張を命じられた。堀は汽車で宮崎に行
 き、新田飛行場で南方行きの便を探して、マニラに向うことになった。新田原飛行場
 到着したころ、台湾沖では航空戦が行われている最中であった。「只今、台湾沖にて航
 空戦が行われています。沖縄、台湾は空襲警報が発令中のため、南方行きの便は全便中
 止します」と貼紙があった。
・航空戦だ!いままでの戦法研究で疑問符のつけてある航空戦だ。この目で見てみよう。
 いまや絶好の機会であった。航空指揮所が工面してくれたボロ偵察機で、鹿屋の海軍飛
 行場
に着いた。
・「やった、やった、戦艦二隻撃沈、重巡一轟沈」黒板の戦果は次々と膨らんでいく。一
 体、誰がどこで、どのようにして戦果を確認していたのだろうか?堀は、ピストでの報
 告を終って出てきた海軍パイロットたちを、片っ端から呼び止めて聞いた。「戦果確認
 機のパイロットは誰だ?」返事はなかった。
 「参謀!買い被ったらいけないぜ、俺の部下は誰も帰って来ないよ。あの凄い防空弾幕
  だ、帰ってこなけりゃ戦果の報告も出来ないんだぜ」
 「参謀!あの弾幕は見た者でないとわからんよ。あれを潜り抜けるのは10機に1機も
  ないはずだ」
 戦果はこんなに大きくない。場合によったら3分の1か、5分の1、あるいはもっと少
 ないかも知れない。第一、誰がこの戦果を確認してきたのだ。誰がこれを審査している
 のだ。やはり、これが今までの航空戦の幻の大戦果の実体だったのだ。堀はそう直感し
 た。
・航空部隊の気持ちもわからぬではない。航空戦、それも夜戦であっては、月か星が見え
 るだけで、戦闘の状況を逐一観察出来るはずがない。ピスト内では誰ひとり審査してい
 る者がいないのである。パイロット以外に戦場を見た者がいないのが航空隊だった。
・海軍航空戦の戦果については、この1年疑問を持ち続けてきたが、なぜ戦果が過大なも
 のに化けるかのからくりの真相を、目のあたりに見る思いがした。
・「この重大なときに作戦参謀がどうして鹿屋に馳せ参じないのか。陸軍の作戦参謀の中
 に連合艦隊参謀を兼務していた者もあったはずだ」そうも思った。これが作戦課の情報
 不感症というものだ。
・昭和19年2月、大本営第二部第六課では、米英軍と接触している各軍の参謀を東京に
 招いて、主として米軍の進攻判断をしていた。このとき比島軍から上京したのが第十四
 軍情報課の松延幹夫少佐であった。松延少佐は、本間兵団が比島に進攻した昭和16年
 12月以来、比島の警備情報を担当してきた情報のベテランであった。彼の言によれば、
 比島で対日治安の一番悪いのが終始ビサヤ地区で、特にレイテ、セブ、ネグロスは反日
 態度が露骨である。従って比島ではこの方面の情報が一番収集できていない。対日治安
 が悪いということは反対に親米地区という証拠である。
・このビザヤ地区が頑強に反日的となった理由の中で、米軍の諜者クーシン大佐の反日工
 作が巧妙であった以外に、もっと大きな隠れた事件があった。その元凶は本間兵団の比
 島進攻時に、大本営から派遣された「辻政信」作戦参謀の越権的指令だったと、話され
 ている。本間軍司令官は占領後の比島の治安維持のため、当時比島の政治に大きな影響
 力を持つ、ネグロス島出身の法務大臣Aを利用する腹であったが、辻作戦参謀は、Aは
 旧比島政府の反日分子であるから即刻処刑せよ、とネグロス島守備の川口支隊長に独断
 抹殺を指令してきた。この事がこの地区を反日親米に走らせた大きな原因となった。
・進攻には占領があり、占領には比島を味方にする宣撫工作があったのに、本間司令官を
 無能呼ばわりして、軍司令官の情報的施策を無視したこの辻作戦参謀のツケは誰が払っ
 ていくのであろうか。
・「捷一号作戦」とは、米軍と国運を賭けての上陸決戦の名称で、元来は米軍がルソン島
 に進攻したとき、山下方面軍が全力でルソン島を部隊に行うよう、山下大将が比島赴任
 に先立って大本営陸軍作戦課と十分な打合せを終えていた。山下大将はこの計画に基づ
 いて着任したのに、その10日後に台湾沖航空戦の大戦果に酔った作戦課は、「今こそ
 海軍の消滅した米陸軍をレイテにおいて殲滅すべき好機である」と、ルソン決戦からレ
 イテ決戦へ急に戦略の大転換を行ってしまったのだから、山下大将には不満この上ない
 ものとなった。同時に、航空戦の誤報を信じて軽々に大戦略を転換して、敗戦への急傾
 斜をたどらせた一握りの戦略策定者の歴史的な大過失であった。
・掘の出張がたった半日でふっ飛んでしまったのも、捷一号と命名された一大決戦のため
 であった。 小磯首相は、レイテは今次対戦の天王山とラジオを通じて発表した。東京
 から捷一号作戦発令の第一線部隊指導のため、比島に飛んできたのは、堀の前の課長、
 いまは作戦課の作戦班長になっている杉田大佐だった。
・米軍は常に戦果確認機を出して写真撮影するのが例になっているが、日本の海軍でも陸
 軍でもその方法は採られなかった。これが国運を左右する結果を招いてしまったことは、
 将来とも肝に命ずべきことであろう。
・情報は実に複雑怪奇、迷うに迷うものである。数字的実証と、目で確かめた真実がない
 限り確実な情報と称するものはあり得ない。従って戦場では、情報の判断が感情とか、
 期待とか、迷いとか、当惑とか焦りとか、不安で揺れ動くものである。
・日本陸軍の編制組織は、まだ馬匹を持った師団が主体だった。満州のような大陸でせい
 ぜい4ー5キロ程度の戦闘正面を受けもつ師団が、十数個師並んで昔の奉天開戦をする
 ようなときの大陸型編制で、米軍相手の大洋型ではなかった。そのくらいの正面を担当
 して戦闘するのだったら、双眼鏡があれば自分の戦場は通視できるが、大洋ではとても
 無理であった。
・レイテ決戦開始の頃、陸海軍の打合せのとき、海軍から「レイテは大丈夫か?」との質
 問に対して、「レイテには1個師団が配置している。それも日本陸軍の最新鋭の第十六
 師団だから大丈夫だ」と胸を叩いたのは、山下方面軍司令部の高級作戦参謀だった。
 当時のレイテ島への米軍の上陸可能正面は、実に40キロ以上もあって、いかに精鋭と
 はいえ、1個師団では一列に並べても、至るところ穴だらけであることは、机の上で計
 算してもわかる。大本営作戦課の捷一号作戦を計画した「瀬島龍三」参謀が、8月にレ
 イテを視察しているが、本当にこれで大丈夫だと思ったのだろうか。
・日本軍は銃火のみを敵と考えていたが、日本軍の背後には経済と民心という強力な敵が
 包囲しつつあった。米軍は実に一筋縄でない狡猾な戦法も実施してきたあちらこちらで
 米軍がばら撒く紙幣は、単なるゲリラの軍資金ではなく、かなりの偽札が故意に混入さ
 れているらしく、ルソンは急速に極端なインフレになっていった。
・この経済攪乱はすでに昭和18年中頃から現われだしていた。戦後「山下財宝」として
 賑やかに雑誌に書かれた例の金貨は、黒田司令官時代にインフレに対処して準備された
 ものである。この金貨は昭和19年2月、戦闘機の護衛する重爆撃機で、東京から台北
 経由マニラに輸送され、方面軍のマッキンレー時代は経理部が管理していたものである。
 その量は、金貨50枚ずつ木箱入り10箱を単位に頑丈な木枠で梱包、それが50梱包
 あったから、金貨の数は2万5千枚の計算になる。表面に〇の中に(福)の文字が刻印
 されていたので、「マル福金貨」と呼んでいた。山下司令部がバギオに移動するとき、
 金貨の一部は将来の万一を慮って各拠点や守備隊に分配されたので、情報課がバギオに
 運んだのは残りの約30梱包だったと聞いている。バギオが危なくなってからは、当然
 さらに北方の山中に移したと推測されるが、堀は1月にバギオから東京に帰ったので、
 最終的にどのような処置がとられたかは知らない。金貨の最終の輸送に携った者が全滅
 しているため、皆目不明であった。なお、このマル福金貨1枚を昭和25年に東京の貴
 金属店で換金した者があって、当時3万円で引き取られたという。
・陸軍では特種情報(特情)と称していたが、米軍の発信する電波を取れるだけ取って、
 その集積やら特徴やらを研究分析して統計を取っていくと、そこからなにがしかの情報
 が得られる。電波の99パーセントは暗号文であるから、その内容をするには暗号解読
 が必要だが、暗号解読が出来なくても、いろいろな情報が得られる。この手法によるい
 わゆる通信諜報は、元来陸軍より海軍の方が発達していた。電波を取るのだから隠れて
 するのではなく、海軍は昔から基地にも艦上にも通信諜報部隊を配置していた。
・補充という考え方が、日本軍と米軍では完全に違っていた。日本軍では第一線部隊の消
 耗した分を送り込むことであるが、米軍の補充とは、戦場である期間戦闘して損傷を受
 けた飛行戦隊を後方に退け、新しい戦隊が代って第一線に就くのを補充部隊といってい
 る。従って第一線から退いた部隊は後方で一定期間の休養が与えられ、その間に損耗し
 た分を補充して再び完全部隊となって次の戦場に出てくる仕組みになっている。
・もう一つ大事な情報は、潜水艦の位置である。潜水艦は上陸地点へ向かってくる日本の
 輸送船や海軍艦艇が目標だから、レイテに上陸しようとすれば最小限台湾海峡からバシ
 ー海峡の付近一帯に、傘をさしたように配置される。これで日本の後続船団や軍需品の
 輸送船を撃沈して、上陸点付近の日本軍を孤立化されてしまう。その潜水艦の位置を知
 ることは、米軍の上陸作戦の地点を考えるために大事なこととなる。これも通信諜報の
 仕事であったが、そう簡単なことではない。潜水艦は日中はほとんど潜水していて電波
 を出さない。夜になって初めて浮上して連絡の通信をするが、せいぜい数十秒の短い通
 信である。この短い電波発信の十数秒のうちに、日本の北から台湾にかけて配置してあ
 った方向探知機で捉えなくてはならない。こんどはそれを鵜呑みにすると、また危険で
 ある。潜水艦はいつまでも同じところにはいないし、夜間は電波発信のためにわざわざ
 発信地点に移動してから電波を出すのが通常である。
・日本軍の水際撃滅主義が、太平洋の至るところで失敗したのは、第一は艦砲射撃の鉄量
 と、その音響による精神的恐怖感が大きな原因で、次が野戦砲、迫撃砲の集中射撃、そ
 れが終って突撃に前進すると自動小銃のめった撃ちに会う。これによって日本軍の突撃
 が万歳突撃になって自滅していった例が多い。従って無理な、興奮状態での決戦はほと
 んど失敗している。
・劣勢な兵力をもって、優勢な米軍と戦うには、山が一番良い。米軍は機械化に依存して
 おり、元来米大陸や、欧洲大陸向きの人種で、もともと山が嫌いであった。幸いルソン
 は、艦砲射撃の届かない内陸を持つ、いささか大陸的要素の濃い島であった。その上、
 山岳地帯がある。彼らが一番期待している艦砲射撃と爆撃を使わせないやり方が出来る。
 第一師団戦闘は偶然ではあったが、対米戦法の指針であって、米軍に全戦力(陸、海、
 空)を発揮させなかった好例であった。
・堀は、付近の山からリンガエンの戦況を視察した。第一線とは目と鼻のところであった。
 リンガエンの湾内は、船舶が充満していた。恐らく5百隻は下らないだろう。ところ狭
 しと蝟集していて、海岸の砂浜には人も車も通れないくらいの軍需品の山、山、山があ
 ちらこちらに集積されていた。
・これに対して第二十三師団は、プツン、プツンプツンと銃火を浴びせている。時々双方
 の機関銃が、けたたましく響きわたる。しかし何と非能率的な日本軍の射撃であろうか。
 そこへ一機、たった一機の日本軍戦闘機らしいのが船団目がけて接近した。5百隻を超
 える大艦船の集団から、一斉に機関砲の弾幕が撃ち出された。リンガエン湾の空は一瞬
 にして真っ黒な雷雲に包まれたようになって、米艦船1隻の姿さえ見えなくなってしま
 った。むろん日本軍の飛行機も、どこでどうなったのか、全然われわれの視界から消え
 去ってしまった。「ああ、あれが防空弾幕射撃だ」あの真っ黒な弾幕を突き破って侵入
 することは奇跡以外には不可能に近い。
・日本は高射砲という「点」の射撃で米軍「の面」を潰そうとしていた。米軍は日本軍の
 「点」を「幕」でとらえていた。誰の弾丸が、何に命中するかを競っていた個人的射撃
 能力の時代はとうに終っていた。「一発必中」そんなケチな軍事思想は、米軍のあの猛
 烈な弾幕射撃に較べたら、まさに月とすっぽんでしかない。どれほど軍人勅諭を暗記さ
 せても、戦陣訓を百万遍唱えても、あの弾幕を潜り切れるものではない。
・日本軍が満州や中国大陸で二流三流の軍隊と戦って楽勝を重ねてきた間に、世界の近代
 軍は 一発必中を無視して、幕で被せる戦法に転じていた。それは結局、鉄量に対する
 考え方の天と地ほどの大差であった。
・ちょうどその頃、バギオに来ていた防諜班から奇妙な情報が入った。法務部で通訳に使
 っていた榊田軍属が、バギオから消えたというのである。榊田は本間中将の軍が比島を
 攻略した頃からマニラにいたようで、米軍のウェーンライト中将の降伏のときに本間軍
 司令官との通訳に使用し、一時は捕虜扱いとして収容所に入れられていたハワイ系の日
 本人二世で広島出身ということであった。ところが、その後も通訳が必要になったので、
 彼を軍属扱いとして比島占領以来法務部が捕虜や比島人取り調べの通訳に利用していた
 という。戦後判明したところでは、山下方面軍が降伏して全員捕虜収容所へ入れられた
 とき、こともあろうに、その榊田が米軍陸軍大尉の征服を着て、みんなの前に現われた
 というのだ。
・日本人は実に、情報的にはおめでたい人種であった。二世で肌の色が同じで、日本語を
 話せばもう日本人だと思ってしまう。日本人は日本人を疑うことを犯罪と考える。外国
 なかんずく米国は同一単一民族の国ではない。ハワイ真珠湾奇襲攻撃に呼応して、日系
 人を一網打尽に強制収容したのは、日系人の一部を通じて米国内に組織されていた諜者
 網を潰滅するためであって、民主主義とは言うものの、その裏に蔵している戦争に対す
 る冷厳な認識ぶりを改めて考えてみる必要がある。
・堀は突然大本営に朝枝参謀とともに帰任せよという命令を貰った。堀は山の中に隠して
 あった最後の小さな飛行機で、バギオを去った。

再び大本営情報部へ
・大本営に帰任した堀は、第六課の米国班で勤務した。班長は大屋角造中佐であった。
・堀は大本営の帰任報告の中で奇妙なことを一つ喋った。
 「日本は漢字をやめて、ローマ字か片仮名名を採用しない限り、将来戦争はできない」
 と言ったのである。
 日本軍の暗号の非能率さは、どんな角度から見ても第一戦力の減殺であって増強にはな
 っていなかった。比島戦中、方面軍通信班から堀たち参謀のところへ届けられた電報に、
 いかに翻訳の誤りが多く、何度も何度も点検、修正を命じて突き返したことが多かった
 ことか。中には日本語になっていない電報文もあった。
・日本陸軍の暗号は、通信文を書くとそれを暗号の辞書をひいて四桁数字文にする。その
 数字文に乱数表によって乱数を加減して、また別の数字文にする。おれが暗号化された
 電信文で、受信者に向けて送信される。受信した電信文は受信者側で、翻訳用の乱数を
 加減して、数字文に変更する。これを更に暗号翻訳用の辞書を使って、数字から日本文
 にする。暗号解読の硬さでは比類がないものだったが、多数の人員と複雑な仕事を必要
 として、方面軍だけでも百名近い人員が、暗号と通信の送受信に従事していた。その上、
 仕事が繁雑過労で極めて非能率的であった。方面軍で百名、軍が50名、師団が30名
 連隊が10名と仮定しても、満州から中国大陸を経て太平洋に展開した日本軍の中で、
 暗号に従事していた人員は、恐らく5,6万名、ざっと4,5師団分に相当したのでは
 なかろうか。
・これに対して米軍は、機械暗号であったから、簡単に言えば、大きめのタイプライター
 を操作するような仕事で、彼らは「キー」を日々変更するだけで、一人で暗号作業が出
 来る仕組みになっていたから、日本の手仕事式暗号作業とは、能率の点で大きな隔たり
 があった。暗号一つを取ってみても日米の差は、手仕事と機械の差であったし、飛行場
 を作るにしても、ブルトーザーとシャベルの違いであった。軍の機械化とか近代化とは
 自動車や戦車のことだけではない。非能率的な手仕事は、人海戦術になって大勢の人員
 と労力を必要とするだけで疲労困憊の上に、第一線に使える戦力を減殺してしまってい
 た。
・米軍は、サイパン、テニアン、グアムの3島に昭和19年9月にはすでに50機、10
 月には70機のB−29を進出させた。
・硫黄島失陥後は、日本の重爆撃機による攻撃も不可能になり、日本から4千キロも離れ
 たところにある飛行場に、いま現在何機のB−29がいるかを知るのは至難のことにな
 った。海軍機が奇跡的にサイパン飛行場の写真偵察に成功したのが、昭和19年9月、
 その後、11月に陸軍機が、かなりの高高度から、サイパン、テニアンの2島の写真撮
 影に成功したが、硫黄島失陥前に挙げた手柄であった。それ以後は、もはや一機もこれ
 らの島に日本機は飛べなかった。
・その上、跳梁するB−29に対して、日本軍の防空部隊は高射砲も戦闘機もほとんど歯
 が立たなかった。その理由はB−29の高度に対して、日本防空戦闘機の高度が及ばな
 かったし、高射砲も1万メートルの高度のB−29には弾丸が届かなかった。さらに、
 B−29は雲のあるような天候不良のときを狙ってやってくる。レーダーを使っていた
 からであろうが、目視を原則とする日本の防空戦闘機は、B−29の高度に達しえなか
 った。
・Bー29は飛行場を飛び立った後は、日本本土の富士山を目標に真直ぐ北上する。富士
 山がそんなに遠くから見えるわけではなく、富士山には日本のレーダーがあったので、
 その電波を利用して米軍は夜間でも曇天でも北上することが出来た。皮肉なもので、こ
 ちらが敵機を早期に発見するために設けたレーダーの電波が、米軍に方向を間違えない
 ように案内役をしてやっていたから、情報の世界はややこしい限りである。
・B−29を追跡中の特情部は、昭和20年5月中旬、ホノルルを発ってサイパンの方向
 に向かったB−29一機の奇妙な行動を捕捉した。このB−29はかつてないことをし
 た。つまり、かなりの長文の電報をワシントンに向けて発信したのであった。たった一
 機のB−29がワシントン宛に電報することは異変であった。6月中旬頃までの追跡で
 判明したことは、不思議にもこの部隊は10機から12機までの部隊であることを判っ
 た。従来から捕捉している戦隊とはまったく違った極めて小さな部隊であった。
・「正体不明機」われわれはそう命名した。ところがこの正体不明機の一群が、6月末頃
 からテニアン近海を飛行しだした。7月中旬になると日本近海まで脚を伸ばしてきて、
 再びテニアンに帰投するという奇妙な行動が出はじめた。しかも正体不明機は単機か、
 せいぜい2、3機の編隊でそれ以上の数ではなかった。
・「どんな特殊な任務か?」第六課ではあらゆる情報をひっくり返して調査したが、「7
 月16日ニューメキシコ州で新しい実験が行われた」という外国通信社の記事が目につ
 いただけで、あとは特殊任務機に交叉する情報は一つも見当たらなかった。8月6日午
 前3時頃、このコールサインでごく短い電波がワシントンに飛んだ。内容はもちろんい
 っさいわからない。午前4時やや過ぎて、硫黄島の米軍基地に対して、この飛行機は、
 「われら目標に進行中」の無線電話を発信。午後7時20分頃、「豊後水道水の子燈台
 上空から広島上空に達したB−29の一機が、播磨灘の方へ東進中、簡単な電報を発信
 したのを、海軍通信諜報も陸軍特情部もキャッチしたが、妙なことにこのB−29には
 後続の編隊がなかった。豊後水道に編隊が出るはずだと、目も耳も気もとられていたそ
 の瞬間、8時6分、2機のB−29が豊後水道とは反対の東の方から広島上空に向かっ
 て突入していた。彼らはいままでの常套戦法の裏をかいた。午前8字15分、広島市上
 空に一大閃光とともに原子爆弾が投下された。第六課の米国班の堀たちが追跡した正体
 不明機は、原爆投下という特殊な任務機であったことを、最後まで見抜けなかった。
・あのときの「ニューメキシコ州で新しい実験が行われた」という外電情報が、原爆実験
 であったと結びついたのは、 広島に原爆が投下されてから数時間たっての反省と悔悟
 の結果であり、確実に原爆と堀たちが確認したのは、8月7日早朝ワシントンでトルー
 マンが正式に発表した放送内容を特情部がキャッチしたときであった。
・比島作戦時、マニラには「陸軍中野学校」の教官であった「谷口義美少佐」が機関長と
 なって、全比島に「第十四方面軍防諜班」と称する秘密機関を配置して、いわゆる作戦
 情報とは別に、あらゆる非合法的手段をも使って米軍、比島政府、比島内のゲリラ、民
 間の主要反日分子に関する情報を入手、テロ活動、偽情報の流布などの秘密戦を実施し
 ていた。戦後一躍有名になった「小野田寛郎少尉」も中野学校で教育を受けて昭和19
 年12月この防諜班に配属となり、ルバング島に無線残置諜者の班長となって潜伏し、
 昭和49年3月まで頑張っていた。谷口機関長の秘密機関の本部はマニラのブルーバー
 ド街にあり、「比島植物研究所」の看板を掲げていた。その指揮下に、全比島に散在し
 て秘密戦に従事していた人員は、中野学校出身者だけでも98名に達しており、恐らく
 その付属人員を併せると150名ぐらいになっていたであろう。
・その中で有力な機関として「南溟機関」の名称で、米軍がマニラに侵入した後も、なお
 マニラに潜伏して活動を続けていたが、山路長徳少佐の指揮する20名の将兵であった。
 日米開戦に伴い、本間兵団がマニラに侵入したとき、軍参謀の部屋から本間兵団の重要
 書類を盗もうとした、英国の仏人系美人スパイのリタを捕まえて、これに整形手術をさ
 せ、別人の顔に仕立てて遂に日本のスパイとして、マッカーサーが比島から退却に際し
 て残していった米軍の残置諜者を暴き出し、これに徹底的な打撃(主として処刑)を与
 えたのも山路機関であった。
・日本陸軍は、昭和11年頃から昭和17年初頭まで、米国務省の外交暗号の一部を確実
 に解読または盗読し、国民政府(蒋介石政府)の外交暗号、武官用暗号はほぼ完全に解
 読または盗読していた。この事実を裏返せば、日本が日米開戦に踏み切った原因の大き
 な一つに、米国暗号の解読、盗読という突っかい棒があったと判断される節がある。だ
 が、昭和17年初頭、すなわち開戦1ヶ月後には米国は暗号を全面的に改変し、爾後昭
 和20年8月まで米国暗号は日本の必死の研究追究にもかかわらず霧の中に隠れてしま
 った。暗号一つを通じて見た情報の世界でも、米国が日本を子供扱いにしていた観があ
 る。これを情報的に観察すれば、日本を開戦に追い込むための、米国の一大謀略があっ
 たと見るのもあながち間違ってはいない。
・情報の中でも謀略ほど恐ろしいものはない。米国は日本を占領するや否や、早々に「真
 相はこうだ」というラジオ放送を毎日毎日繰り返して日本人に聞かせた。勝者は何とで
 もいえる。勝てば官軍とはこのことであろう。このラジオ放送のために、日本人は一握
 りの間違った戦争や戦略の指導を行った中枢部の軍事や政治家たちの責任に気付かない
 で、一途に国のためと思って生死を賭けた戦場の軍人兵士、軍属、その他の人々を犬死
 と思い、日本人を馬鹿な死に方をしたと、思いこまされてしまった。
・問題は「軍部」という言葉が、戦場で生死を賭けた軍人兵士たちまで含んだ広い意味で
 あったか、政治的軍人や一握りの大本営の奥の院の戦争指導に携った軍人であったかを
 区別することなく混同していったことである。
・「日米戦争は米国が仕掛人で、日本は受けて立たざるを得なかったのだ」と、東京裁判
 で立証して、日本の戦犯を弁護しようとした一人に、「清瀬一郎」弁護人がいた。

戦後の自衛隊と情報
警察予備隊の出来たのは、朝鮮戦争が勃発した昭和25年であった。この年の春、東京
 の服部機関と称するものから堀は、「至急上京されたい」の電報を受けた。東京のある
 親切な友人から、連合軍総司令部の要請で、旧大本営作戦課長「服部卓四郎」大佐が中
 心になって、極秘裡に再軍備の動きがある、と連絡してきた。
・堀は父にその旨を打ち明けた。「やめておけ、一度大失敗した連中がいまから、また何
 をしようとしているのだ。それに服部はノモンハンでも失敗した男だ。性懲りもなしに」
 と父は厳しかった。「戦争を敗戦に導いた人間たちは、戦争指導に携った連中だ。この
 人たちが責任を感じないでどうするのだ」父は常にそう言っていた。
・父は軍人を二つの区分に分類して観察していた。その一つが、天皇の命令である大命を
 起案して允裁を受ける作業に関係した軍人。二番目が、この大命と称する命令を受けて、
 自分の意志では一歩も退くことを許されないで、命令のままに命を捨てて戦闘に従事し
 た軍人であった。 前者はいわゆる大本営の中の中枢的なごく一握りの奥の院の参謀た
 ちであり、宸襟を悩ました亡国の責任者である。後者は、階級のいかんを問わず、指定
 された戦場がどんなに苛烈なところであっても、自らの意志ではこの戦闘から離れられ
 ない運命に立たされた、大将から赤紙の一兵に至るまでの戦闘軍人であるといっていた。
・堀が自衛隊に入ったのは、昭和29年7月であったから、自衛隊としては最終の入隊組
 であった。当時の自衛隊の創設に大きな影響力を持っていた、吉田首相のブレーンの一
 人、「辰巳栄一」元中将の勧奨をいただき、最後の入隊となった。
大韓航空機がサハリン付近でソ連のミサイルに撃墜されたとき、ソ連空軍の無線電話を
 傍受した内容を、中曽根首相の指示で米国に渡したことが新聞紙上を賑わしたが、情報
 の見地からすれば、泣く泣くやらされたことであったろう。こんな情報を渡すようなこ
 とは、よその国では決してしないことで、たとえ同盟国と称していても情報だけは別で
 ある。日本は依然として浪花節国家であるように思えて仕方がない。
・日本はいま経済大国と自負しているが、軍事的には、どんなに頑張っても空域を保持す
 る力も、宇宙から地上を見る力も、宇宙で戦う力もない小国である。ミサイル一発で海
 岸の原子力発電所がやられたら、また広島以上の危害を被るであろう。あの米ソの谷間
 で、大きな「兎の耳」を立てているような国が、何を頼りに生きているのかを、もっと
 深刻に研究する必要がある。敗戦という大経験を経ながら、情報はまだその日暮らしで
 ある。

情報こそ最高の戦力
・米軍は昭和21年4月「日本陸海軍の情報部について」という調査書を米政府に提出し
 ている。
 @国力判断の誤り
  軍部の指導者は、ドイツが勝つと断定し、連合国の生産力、士気、弱点に関する見積
  りを不当に過少評価してしまった。
 A制空権の喪失
  不運な戦況、特に航空偵察の失敗は、最も確度の高い大量の情報を逃す結果となった。  
 B組織の不統一
  陸海軍間の円滑な連絡が欠けて、せっかく情報を入手しても、それを役立てることが
  できなかった。
 C作戦第一、情報軽視
  情報関係のポストに人材を得なかった。このことは、情報に含まれている重大な背後
  事情を見抜く力の不足となって現われ、情報任務が日本軍では第二次的任務に過ぎな
  い結果となって現われた。
 D精神主義の誇張
  日本軍の精神主義が情報活動を阻害する作用をした。軍の立案者たちは、いずれも神
  がかり的な日本不滅論を繰り返し声明し、戦争を効果的に行うために最も必要な諸準
  備を蔑ろにして、ただ攻撃あるのみを過大に強調した。その結果彼らは敵に関する情
  報に盲目になってしまった。
 これが米軍の日本軍の情報活動に対する総評点であった。あまりにも的を射た指摘に、
 ただ脱帽あるのみである。
・ますます複雑化する国際社会の中で、日本が安全にかつ確乎として生きていくためには、
 なまじっかな軍事力より、情報力をこそ高めるべきではないか。長くて大きな「兎の耳」
 こそ、欠くべからざる最高の”戦力”である。