昭和の怪物 七つの謎  :保阪正康

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この本は、昭和の怪物と言われた「東條英機」「石原莞爾」「犬養毅」「瀬島龍三」「
田茂
」の五人と、二・二六事件の犠牲者となった渡辺錠太郎の孫娘「渡辺和子」について
取り上げたものである。それぞれについて、私は次のような感想を持った。

「東條英機」についての評価は、あまりいいものは目にしたことがない。相当に負けず嫌
いであったらしいが、その性格が起因しているのか、とにかく強引だったらしい。その強
引さが、東條を陸軍大臣や総理大臣へ引き上げていったともいえるのだろうが、格別に他
から抜きん出た才能があったわけではなかったようだ。
また東條は、人事を動かすのが大好きだったらしく、なおかつ自分の取り巻きには、自分
に服従するお気に入りの人物だけを配置していたようだ。もっとも、このようなことは東
條ばかりではなく、現在の政治を見ても同様なことが行われているので、この点について
は、東條ばかりを非難することはできないだろう。
東條の発言の特徴的なことが、「敵機は精神で撃ち落とすのだ」あるいは「戦争は負けた
と思ったときが負け」というような精神論だ。この精神論は非常に便利だ。これを言われ
たら、なかなか反論ができない。反論したら「それはお前の精神がたるんでいるからだ」
ということになってしまう。このような精神論は、今の日本でも時々耳にする。日本人は
精神論が大好きなのかもしれない。
ともかく、東條にとって、戦争に勝つこと自体が目的であり、そのために国民にどれだけ
の犠牲を強いてもかまわなかったようだ。まさに亡国の思想である。
ところで、東條英機の出身地は東京都となっているが、東條英機の父親も祖父も南部藩の
藩士だったようだ。東條家の墓も盛岡市にあるという。つまり、東條英機は、元々は岩手
県出身ということが言えるだろう。
岩手県出身の総理大臣は多い。平民出身の宰相と言われた「原敬」、二・二六事件で反乱
軍の銃弾に倒れた「斎藤實」、海軍出身で日本海軍の最後を見届けた「米内光正」、戦後
の「鈴木善幸」の4人と言われているが、じつはこの「東條英機」を入れると5人となる
のだ。これは山口県に次いで2番目に多い県となる。
ついでに付け加えておけば、用賀にあった東條英機の自宅は、岩手県人らしく、きわめて
質素な自宅だったらしい。

「石原莞爾」は、一言でいうならやはり稀代の天才だったと言えるのではないだろうか。
東條英機と石原莞爾との間の対立はよく知られているが、東條英機は自分より四期下の石
原莞爾の才能を、自分を脅かす存在として、極度に恐れていたようだ。もっとも、東條英
機に限らず、石原莞爾を部下に持つ者は、そのあまりの才能と歯に衣着せぬ言い方に、何
を言い出すかわからない人物と、恐れていたようだ。石原莞爾も、東條英機との対立に対
して、「東條には思想も意見もない。私は若干の意見を持っていた」と言い放ち、小ばか
にしていていたようだ。そのために、東條英機から「出る杭は叩かれる」ごとく徹底的に
叩かれ、石原は退役に追い込まれてしまう。これは、日本にとって、大きな損失だったと
思う。石原莞爾は、満州事変の首謀者だったとのことで、負の側面もあるが、その後の戦
況拡大には一貫して反対の立場を取っており、東條英機などのような軍事一辺倒の軍人と
は、まったく異なっていたようだ。
もし、石原莞爾のその才能を上手に引き出し、軍政や国政に生かせたならば、日本の歴史
も今とは違ったものになっていたのではないかと残念でならない。

「犬養毅」と言えば、五・一五事件で「話せばわかる」という最後の言葉を残して暗殺さ
れた首相として有名である。しかし、その後の遺族の証言から、この「話せばわかる」と
いう言葉は、ちょっと違っていたようだ。実際には、「話を聞こう」と言ったとのことで
ある。その後、歴史を作る上で、「話を聞こう」よりは「話せばわかる」としたほうが、
都合がよかったのだろう。「歴史は作られる」と言われるが、これもその例のひとつだろ
う。犬養毅は暗殺された首相で、立憲主義者とのイメージが強い。しかし、首相になる前
の野党だった時代には、重大な過ちを犯していると言われている。それは、「統帥権干犯
という言葉を持ち出して、当時の濱口雄幸内閣を追い落としたことだ。この「統帥権干犯」
という主張は、その後、それを根拠に軍部の暴走を許すことになってしまう。その後、軍
部はこれを根拠にして政治に介入し続け、日中戦争、太平洋戦争へと突き進んだのだ。こ
の「統帥権干犯」というのは、当時の国のしくみの大きな欠陥であったと言える。

私はベストセラーとなった「置かれた場所で咲きなさい」という本は知っていたが、その
筆者である「渡辺和子」さんが、どういう人物なのかというのは、この本を読むまでよく
わかっていなかった。渡辺和子さんの父親である渡辺錠太郎が、あの二・二六事件での犠
牲者であった知って、「置かれた場所で咲きなさい」という言葉の意味も、なんとなく理
解できたような気がする。渡辺和子さんの人生の指針は、「人を赦す」ということにあっ
たと想像するが、その渡辺和子さんでも、赦せない人たちがいたようだ。それは、事件を
直接実行した人たちではなく、その裏でけし掛けた「黒幕」たちだ。どの時代にも、そう
いう人たちがいることを、しっかり見極める必要がある。

「瀬島龍三」という人物は、先の戦中はあの悪名高い大本営の作戦参謀として、当時の国
を動かす中枢にいたとされる人物である。終戦後11年間シベリアでの抑留生活を送り、
帰還後、伊藤忠商事に入っている。入社3年後に本部長、翌年には常務取締役になり、そ
の後、専務、副社長、副会長と昇進し、最後には会長にまで登りつめている。財界のみな
らず政界で活躍し、中曽根康弘政権時代には、国鉄改革などを行なった臨調調査会におい
て、土光会長のもとで参謀役して活発に働いたようだ。しかし、この本の筆者の印象はあ
まり良くない。どこか信用できない裏のある人物との評価である。昔の大本営の参謀のイ
メージは、現代のエリート官僚のイメージと重なる。森友や加計問題での国会審議での
「記憶にありません」発言や、部下に指示しての「改ざん」というイメージが、大本営時
代のエリート参謀から今のエリート官僚へと、そのまま引き継がれている感じがしてなら
ないのである。

「吉田茂」といえば、戦後の首相において、あまりにも有名すぎるくらい有名な人物であ
る。敗戦後の占領期に、このような人物にいたことは、日本にとって、ほんとうに幸運だ
ったと言えるだろう。吉田首相の強いリーダーシップがなければ、現代の日本は、また違
った国になっていたのかもしれない。ただ、晩年は、そのあまりにも強すぎる個性、リー
ダーシップが災いして、「独裁者」呼ばわりもされたようだ。しかし、そのことを差し引
いて考えても、やはり吉田茂という人物は、戦後日本には、なくてはならない人物であっ
たことは確かだと思う。

東條英機は何に脅えていたのか
・東條英機は、私の世代には悪魔のような存在として印象づけられている。戦後民主主義
 をきわけて純粋に教えられた世代にとって、その成長過程では太平洋戦争とその指導者
 は、「負の存在」として教育された。
・東條は、昭和9(1934)年に東京から久留米の旅団長に飛ばされてしまう。東條は、
 荒木貞夫や真崎を仰ぐ青年将校らの皇道派に対して、中堅幕僚を中心とする軍務局長の
 永田鉄山らの統制派に属し、とくに永田に傾倒していた。しかし皇道派が力を持ってい
 る陸軍内部で、東條は久留米の旅団長として軍人生命を終えるだろうといわれた。東條
 はその負けず嫌いの性格もあり、軍内では孤立していったという。
・昭和10年に、永田は、軍務局長室で皇道派将校の一人である相沢三郎に斬殺される。
 このとき東條は、尊敬する先輩軍人の死に衝撃を受け、ひそかに単身、久留米から上京
 している。永田の血染めの軍服を宿泊先に持ってこさせたという。その永田の軍服を、
 東條は自らの軍服を脱ぎ捨てて着ている。そして永田を殺した将校や皇道派への復讐を
 誓ったというのだ。 
・皇道派が力を持っている軍内にあって、東條は内地に置いておくわけにはいかないとみ
 なされ、関東憲兵隊司令官に飛ばされている。満州国の警察権は複雑になっていたが、
 東條はそれを軍を中心にして憲兵隊が主流になるように変えられる。いわば軍官僚とし
 て強引にその権限を自らのもとに集中させたのであった。この憲兵隊司令官時代に、東
 條は何度か「討匪作戦」を行っている。実際には「抗日ゲリラ掃討」の名のもとに中国
 人を殺害しているというのが実態だった。つけ加えれば、この事実は東京裁判では明ら
 かにされていない。まだ調査が充分に行なわれていなかったからだ。
・東條は関東憲兵隊司令官のあと、関東軍参謀長に転じる。その前年に二・二六事件が起
 こっている。皮肉なことに、この二・二六事件が東條の出世のきっかけになっていく。
 二・二六事件が、陸軍中央から追われつつあった東條の運命を変えることになった。そ
 れはどういうことか。事件が起こったあと、陸軍の幹部たちは右往左往する。もしこの
 クーデターが成功すれば自分はどうなるか、を考えて洞ケ峠を決め込んだのである。そ
 れがこの事件が4日間も続いた理由であった。
・こんなときに二人の将官が、誰よりも早く決断を示した。一人が第二師団(仙台)長の
 梅津美治郎であり、もう一人が東條だったのである。二人は事件を知るや、すぐに「断
 固討伐せよ」との電報を本省(陸軍省)に送っている。それは昭和天皇の意志でもあり、
 二・二六事件は「討伐」される形で終息した。新しく軍内改革が進むが、このときに
 内寿一
陸相のもとに軍内の主導権を握ったのが、梅津や東條だったのである。
・昭和13(1939)年、東條は東京に戻り、陸軍次官に就任している。近衛文麿首相
 は、陸軍から大臣を誰にするかよりも、まずは陸軍次官に東條英機が就任すると聞かさ
 れ驚いている。なぜ陸軍大臣が先に決まらないのか、というのである。このことは東條
 のように強引で、自らの権限しか考えない軍官僚こそが陸軍を動かすのにふさわしいと
 陸軍内で考えられていたことを示す。  
・東條が表舞台に出てくることになって、陸軍の政治的態度はあまりにも偏狭になってい
 く。とにかく強引で、自分に都合のいい論理しか口にしない。相手を批判するときは、
 大声で、しかも感情的に、という東條の性格は、はからずも陸軍そのものの体質になっ
 ていったのである。 
・大日本帝国の軍人は文学書を読まないだけでなく、一般の政治書、良識的な啓蒙書も読
 まない。すべて実学の中で学ぶのと、「軍人勅論」が示している精神的空間の中の充足
 感を身につけるだけ。いわば人間形成が偏頗なのである。こういうタイプの政治家、軍
 人は三つの共通点を持つ。「精神論が好き」「妥協は敗北」「事実誤認は当たり前」。
・日本には決して選んではならない首相像があると実感した。つまるところは「自省がな
 い」という点に尽きる。昭和10年代の日本は、「自省なき国家」としてひたすら驀進
 していった。それは多くの史実をもって語りうる。その行き着く先は国家の存亡の危機
 である。  
・東條英機が、首相に就任するよう昭和天皇に命じられたのは、昭和16(1941)年
 であった。東條が首相に就任するということは、陸軍省などの将校には考えられもしな
 かった。東條自身も寸分もそのような事態を想定していなかった。なにしろ首相の近衛
 文麿と陸相の東條の対立は抜きさしならない関係に至っていたのである。
・「10月中旬」までに日米交渉に妥結の可能性がないのであれば、日本はアメリカに対
 して軍事行動を起こすというのが、この年の9月の御前会議で決定した3案のうち1案
 であった。これに対して近衛は、やはり他の2案で強調されている外交交渉に希望をつ
 なぎ、「10月中旬」にこだわらず外交交渉を継続すべきという主張であった。
・近衛と東條の対立は一段と厳しくなり、近衛は「支那撤兵」を懇願したが、「撤兵とは
 退却。譲歩し、譲歩し、譲歩しつくす。それが外交というものか。それは降伏というの
 です」と、東條ははねつけた。近衛は事ここに至って内閣を投げ出すことを決意する。
 その旨を天皇に伝える。天皇にはためらいがあったが、しかし近衛の決意は固かった。
内大臣の木戸は、強硬派の陸軍を抑えられるのは逆にその主導者である東條しかいない
 だろう、この男にこれまでの戦争を主張する政策を変更して事態に対応してもらうべき
 だ、と考えるに至った。天皇にもその旨を申し出た。天皇もその奇策にうなずいた。
 「虎穴に入らずんば虎子を得ずだね」と洩らしたことは、歴史的にもよく知られていた。
 しかしこれが大きな賭けであるということも、天皇と木戸には充分にわかっていたので
 ある。 
・木戸は、天皇が東條に内閣を組織せよと命じたあとに、あえて東條に、これから組織す
 る内閣はこれまでの政策を旧に復しての白紙還元内閣だと伝えてもいた。
・陸軍省の軍務局ではこれまでと同様に大臣にはこういう人物がふさわしいといったリス
 トを作成して、首相になるべき人物にわたすわけだが、東條はそれを受け取らなかった
 という。東條は人事を動かすのが大好きだったという。政務室の大きな机の各省の人事
 配置図を広げ、「この人物をこっちに持っていき、こいつをこっちに呼び戻す」とか
 「この男は派手な言動が目立つので、こっちに飛ばして・・・」という具合に鉛筆で書
 き込むのを何よりも楽しみにしていたというのであった。
・歴史的には、東條人事はかなり問題が多かったと言うことができる。私情ががらみの人
 事、諫言の士より服従の部下、そして何より自分の言い分に一切口を挟まない幕僚、そ
 ういう人物が中枢に座ったことが問題であった。
・昭和10年代の陸軍の最大の誤りは、「人事異動、とくに東條人事にあった」と考える
 に至った。明確な戦略を持つ有能な将校、学究肌で軍事は政治の下にあるべきと考える
 将校、そして何より陸軍の論理そのものが政治や外交のチェックを受けるべきだと受け
 止めていた将校は、大体が中央の要職から追われていった。そこには駐在武官の体験者
 たちが多かったが、アメリカに駐在していた経験から、対米戦力や国としての総合力を
 説いて対米避戦を訴えた山内正文や磯田三郎などの武官は、ほとんど東條体制からは外
 されていた。
・東條には偏見とも言える思い込みと、ひとたび権力を手にしたら、この国の全権力が自
 らに集中していると考え込む放漫さが同居していたのである。
・東條はかなり感情的であることは事実であった。とくに自らに意見を伝えてくる将校や
 幕僚には興奮してどなり返すこともあったという。
・首相官邸にあって東條は「すべての点で合格点をとろうとして必死」だったという。施
 政方針演説なども限られたスタッフがその下書きをつくり、それを作家・評論家の徳富
 蘇峰に届けて漢語などを入れてもらい、格調高い文章に仕立てることにこだわったとい
 うのだ。東條は難解な文字、読み方の複雑な文字などは充分にマスターしていないとこ
 ろがあり、そういうケースでは、演説草稿にルビをふることもあった。そういう見せか
 けだけは大いに気を使っていたという。
・項目再検討会議(大本営政府連絡会議)においても、東條も、陸軍の将校たちも、表面
 上は天皇側の伝えた白紙還元内閣の方向に沿っている とはいいながら、実際は日米交
 渉がうまくいかない条件を会議で確認しただけではなかったか、と歴史上では顧みられ
 ている。
・実際に、項目再検討会議を始めると、東條は裏切者との声が陸軍省の内と外にでていた
 らしい。大本営の参謀はそういう声の中心にいたという。右翼テロに遭うかもしれない、
 との判断で東條周辺には護衛の憲兵隊員が常に取り囲むようになったという。
・昭和16(1941)年10月から11月にかけて東條内閣は、きわめて微妙な立場で
 あった。もともと東條は陸軍の強硬派を代表し、戦争への道を進んでいた日本の国策決
 定にかかわる組織は誰もが東條を戦争政策への推進者と見ていた。ところが昭和天皇や
 内大臣の木戸幸一らは、強硬派の東條によって軍内を抑えさせる、そのため東條に対し、
 これまでの政策を白紙還元して、再度、政策を繰り直すように命じていたのであった。
・東條が開戦首相として歴史に名を残すのは、あえて具体的に日付を挙げるなら昭和16
 年11月1日だったと言っていいだろう。この日は、項目再検討会議を踏まえて結論を
 出す日であった。それまでの8回の会議で、日本はアメリカを戦えるのか、石油がない
 という現実は戦争以外の手段で解決できるのか、といった項目をひとつずつ検証し、そ
 の答えを出す日だったのである。 
・東條内閣が誕生して、天皇から白紙還元で検討するようにという意向が示されたのに、
 それに応えているとはいえない。項目再検討会議に出席している代表者は、外務官僚出
 身の東郷茂徳と大蔵省出身の賀屋興宣を覗いて軍官僚か、東條のように元軍官僚あので
 ある。戦争を決意するか否かは軍官僚が決めるのだから、たとえ天皇から「なるべく戦
 争は行きたくない」との言があったとしても、彼らの胸中には「戦争」という言葉以外
 に選択肢は考えられなかったということだろう。
・この国は戦争という政策に正面から向き合ったとはとてもいえない。会議で、海相の
 田繁太郎
が鋼材の割り当てを増やしてほしいと言ったのだが、これに対して参謀総長の
 杉山元が、「鉄をもらえば(戦争を)決意するのか」と応じている。嶋田はうなずいた
 ことになっているのだが、このやりとりが実に6時間も続いた。そのあと第一案から順
 次論いていった。軍令部総長の永野修身が「こんな案なんか問題にならない」と言うの
 に対し、外相の東郷が戦争の開始には消極的な意見を披瀝した。この会議はつまるとこ
 ろ、第三案の方向に進み、期限付きで外交を進め、それがだめなら戦争を、ということ
 になっていく。東郷が渋るのに対し、杉山は「11月30日までに外交交渉がうまくい
 かないなら戦争」と主張している。
・日米交渉の妥協案をどこにするかという段階になって、従来の案(中国への期限付き駐
 兵など=甲案)に対して、東郷はいきなりもうひとつの案(乙案)を示した。これは外
 務省の長老、幣原喜重郎などが密かにまとめたもので、そこには「太平洋地域で日米両
 国は武力発動をしない」「アメリカは年百万トンの航空機用揮発油の対日供給を確保す
 る」となっていた。東郷がいきなり乙案を示した形になるが、すると杉山、塚田ら戦争
 を主張する参謀本部の出席者が、これでは南部仏印から撤兵することになってしまう。
 とても認められないと激高して、会議は怒声を帯びたものになっていく。
・日本がアメリカとの戦争を決意するプロセスのこうしたやりとりは、あまりにも児戯に
 似ていた。
武藤軍務局長が杉山や塚田に、あなたたちが強い意見を言っていると、この会議自体が
 まとまらなくなる。それでは東條さんはお上への責任を果たせない。それで辞職だ。も
 う一回内閣をつくってやり直すことになる。それでもいいのか、と詰め寄って乙案を認
 めさせた。結局、最終的には乙案で交渉することになった。
・外交当局は乙案を持ち出し、それで交渉を行うが、それが失敗に終わったら戦争が始ま
 るという背水の陣の定まった日だったのである。 
・日本の上層部、とくに陛下を中心とする権力関係、それは複雑な構造になっている。陸
 軍内部にもいろいろな勢力とつながっている人たちがいる。なぜ海軍は、自分たちの力
 ではアメリカと戦えないと言わなかったのか。彼らが一言ノーと言ったなら、戦争は陸
 軍だけでは決してできなかった。確かに東條は戦争の方向に引っぱっていったというこ
 とは認めるが、つまりはいいように海軍に利用されたともいえるのではないか。
・東條は軍人としてはアメリカとの戦争やむなしという側にいた。とくに陸軍大臣のとき
 は。しかし首相になって陛下から白紙還元を命じられ、いわば条件つき首相だった。そ
 れで強硬策から転じて戦争より外交に力を入れよ、となった。だがつまりはそうできな
 かった。これは負い目だ。だからひとたび戦争になったら勝たなければ、との姿勢に転
 じだのだろう。 
・東條は首相になって初めて日本の複雑な権力構造を知った。つまり天皇の意思というの
 はむろん天皇の口から直接に聞かされるのではなく、宮中内部のさまざまなルートから
 伝わってくる。しかし東條は、天皇の口から発せられた言葉しか信用しない。立憲君主
 制のもとでの天皇のあり方にほとんど関心を持たなかったということになるかもしれな
 い。東條はその言を入れて外交に力を入れ、戦争をひとまず避けようとすればするほど
 軍内の将校から、民間の国家主義陣営から、さらには戦争を望む強硬派の政治家、軍長
 老から、徹底して批判される。
・陸相時代に率先して「戦争」に針を傾け、そういう世論を代弁していた、そうした「自
 らの影」に、東條は首相になってから脅えたのである。政治家(あるいは政治上の指導
 的立場にある者)は、ある特定の意見を口にしたら、それを守り続けるねき宿命がある
 ということだ。でなければ、いずれは「自らの影」に脅えることになる。
・東條は首相として、陸相時代とは逆の立場をとれと命じられたわけだが、そうなるとそ
 の出処進退は自ずから二者択一となってしまう。ひとつは、陸相時代の強硬論に反する
 態度はとれないと言っての大命降下の辞退、もうひとつは努力を続けるものの、つまり
 は戦争を避けることはできなかったという時点での辞任(天皇の意を現実化できなかっ
 たことの責任をとる形)であった。なぜそのいずれもとらなかったのであろうか。
・東條内閣は白紙還元なのだから、それまでのすべてを御破算にして条件をひとつひとつ
 調べていって、本当に日本は戦争できるのかを問うべきだった。どういう結果が出たろ
 うか。たぶん結果は同じで戦争になっただろうということだ。つまりはそれまでの思惑
 がなんらかの形で噴き出すから。ということは、東條も個人としては必ずしも戦争を行
 ないたかったわけではないが、しかし戦争を勧める人たちの代弁役を担うことにならざ
 るを得なかったのではないか。 
・私は、東條は日本的な意味での便利な存在だったということに思い至った。現実に項目
 再検討会議の方向は、見事なまでにアメリカに手の内を読まれ、日本は戦争に突入して
 いった。私見を言えば、東條は二つの選択肢のうちの後者(戦争を避けることのできな
 かったことへの責任をとって辞任)を採るべきだった。そして表舞台から消えていくべ
 きだったのである。
・太平洋戦争の開戦2日前、首相兼陸相の東条英機は、首相官邸の一室で皇居に向かって
 正座し、そして号泣していた。この光景はカツ夫人が深夜に隣室の夫の寝室から涙する
 声を聞き、こっそり襖を開けて目撃している。
・昭和天皇ができうれば対米英戦は避けたいと思っていることを知っていたい東條は、そ
 れに充分応えることはできなかったという負い目を持っていたのだと言う。
・ひとたび戦争が始まれば決して負けるわけにはいかない。いかなることがあっても対米
 英戦は勝つとの信念につながった。この点東條なりの判断だが、それがうまくいくか否
 かは不明であったにせよ、われわれは東條側近としては「勝つ」という一点で、あの戦
 争と真正面から向き合ったことになる。
・なぜ日本は勝算もまったくなくなっているのに3年8カ月も戦争を続けたのか。東條は
 軍事独裁体制を布いてこの戦争を指導したが、その責任は誰が負うと考えていたのか。
 その二点について東條はまったく考え違いをしていることもわかってきた。しかもこの
 二点は、昭和天皇への忠誠を誤解していることでもあった。
・軍事的勝利を得て天皇に御奉公するとの東條の思い込みは、軍人らしい直線的な考えに
 表れている。太平洋戦争の3年8カ月は、事実上の流れを見ると、「勝利」「挫折」
 「崩壊」「解体」、そして「降伏」といった五つの段階を経るのだが、東條内閣は「崩
 壊」のあとに倒れている。こお「崩壊」の期間は、連合艦隊司令官山本五十六の戦死か
 らサイパン陥落までを指すのだが、太平洋戦争における日本の軍事的勝利をまったく望
 めなくなった段階といってもよかった。
・従って東條は、太平洋戦争が勝算もなく、ひたすら軍事路線を追いかけて失敗するまで
 の間、政治、軍事上の指導者だったということができる。その期間に、東條は前述の二
 点についてまったく誤解していたために、戦争指導そのものが統一性のないその場しの
 ぎのものになったのである。東條が昭和天皇の真意を誤解して、とにかく「勝たねばな
 らぬ」状態に自らを追いこんだのは、決して責任感があるからではなかった。むしろ無
 責任だからこそ、「勝たなければならぬ」と思い込んだのである。
・昭和天皇も他の天皇も同様に、天皇であることの目的は「皇統を守る」点(これが当時
 は「国体護持」といわれた)にあった。それが自らが天皇であることの目的であり、そ
 のために手段があることを理解していた。手段とは外交、経済、文化、伝統などを通じ
 て、その目的を達成することであるが、この手段中には戦争も含まる。昭和天皇が戦争
 によって皇統を守ることに不安を持っていることを、東條ら軍事指導者は無視したので
 ある。
・東條は、戦争に勝てば天皇の懸念する皇統を守ることが可能で、敗れれば国体護持は不
 可能(というより東條は自らの面子のために勝つことしか考えていない)と思い込んで
 いた。だからどんな犠牲を払ってでも勝つことにのみこだわったのである。これに対し
 て天皇は、たとえ戦争に勝つにしても国民には多くの犠牲を強いることになる。まして
 や敗れれば戦勝国からの要求の前で、「国体護持」などとうてい望むべくもないと判断
 していた。
・太平洋戦争の3年8カ月の期間、昭和天皇の心理は常に同じだったのではない。揺れに
 揺れていて、ときには心理的に追い込まれるような状態になっていく。そのことは実に
 開戦前から予想できたのである。昭和天皇は、皇統を守るために「戦争という手段」は
 選ぶべきではなかったと開戦当初から考えていて、しだいに勝ち目がなくなると、早め
 に戦争を終わらせなければと焦慮に駆られていたというべきであった。
・昭和16(1941)年12月8日未明、日本軍は真珠湾奇襲攻撃を成功する。この日
 の夕方、東條は陸海軍の軍人、さらには統帥部の幕僚などの側近を集めて、官邸の食堂
 で小宴会を開く。その折の発言で、「(戦果は)予想以上だったね。いよいよルーズベ
 ルトも失脚だね」と述べたという。
・この奇襲作戦はほとんどの者に伏せられていて、東條は「わが内閣だから秘密は保たれ
 た」と自賛したという。しかし実際にはこうした事実がすべてアメリカ側に暗号解読さ
 れていて、筒抜けになっていたのは皮肉と言えば皮肉であった。
・昭和17年10月の靖国神社臨時大祭で、東條は遺族に挨拶したあと、次のような発言
 をしている。「飛行機は飛行機が空を飛んでいるのではない。人が飛んでいるのだ。精
 神が動かしているのだ」飛行学校を訪ねた折に、君らは「敵機」を何で撃ち落とすのか、
 と問い、高射砲で撃ち落とすとの答えに、「違う。精神で撃墜するのだ」と訓示してい
 る。
・昭和18年6月の官邸での夕食の折に漏らした言葉である。「人はよく自分のことを政
 治家としても云々というが、自分は政治家といいはることは大嫌いだ。自分は戦術家と
 いいはるならばともかくちっとも政治家ではない。ただ、多年陸軍で体得した戦略方式
 をそのままやっているだけだ」
・このことは、戦争のゆく末に対して、政治家としての判断は特にない。軍人、しかも戦
 術家として戦い続けるとの告白である。東條が戦争には政治の判断は一切持ち込まない
 と宣言したに等しい言であった。
・昭和19(1944)年2月、マーシャル群島方面でクェゼリン島などがアメリカ軍に
 制圧された後、東條はこの日の夕食の折に発言している。「物事は考えようで、むしろ
 敵の背後に我が基地があると考えればよい。而して機を見て両方よりは挟撃、反撃しな
 ければならない」
・アメリカ軍は飛び石作戦で日本本土に近づいてくるのだが、考え方を変えればそれは日
 本にとっては有利な状況だという言い方である。アメリカ軍との物量差によって、日本
 は反撃の軍事力もまったくなくなっているのに、このように戦況を常に楽観視するのが
 東條発言の特徴であった。
・昭和19年6月の「あ号作戦」の失敗により、日本はサイパンを失う。このときを境に
 重臣、天皇周辺の人たちの間で、東條を代えなければならないとの声が起こった。東條
 は「サイパンが陥落したといっても、それは雨水がかかった程度のこと。恐るるには足
 らない」と豪語している。そして秘書官たちに次のように語った。「サイパンの戦況、
 昨今の中部太平洋の戦況は天の我々日本人に与えられた警示である。まだ本気にならぬ
 か、真剣にならぬか、未だか未だかという天の警示だと思う。今後日本人はさらに真剣
 に頑張らない時は、パチリパチリとさらに天の警示があるだろう。日本人が最後の場面
 に押しつけられた場合に、何くそと驚異的な頑張りを出すことは私は信じて疑わない。
・東條はこのような精神論を何度も繰り返している。戦争とは精神力の勝負であり、五分
 五分というときには実は六分四分でわが方が有利。六分四分、あるいは七分三分で不利
 のときが五分五分なのだと何も根拠を示さずに口にしている。東條にとっては、戦争に
 勝つこと自体が目的であり、それが自分の責任であり、そのために国民にどれだけの犠
 牲を強いてもかまわない、というのがその戦争観であった。 
・まさに亡国の思想にとり憑かれ、判断力を失っていたというべきである。東條の周辺の
 軍人たちは、その異様さに気づいていなかった。
・東條英機が首相兼陸相、そして統帥を担う参謀総長のポストを最終的に退くのは、昭和
 19年7月である。「あ号作戦」の失敗により、サイパンが陥落し、日本は軍事的にな
 おいっそう不利になることが予想されたが、それと同時にこの戦争を何らかの形で和平
 の方向へ持っていくことは、東條では無理との判断が、昭和天皇をはじめ天皇側近たち
 に広がっていたためだった。
・これに対して東條側も抵抗しているのだが、陸軍の将校の中にはクーデターを起こして
 和平派を一掃することを主張するグループもまた存在した。とくに重臣の一人で、東條
 に反旗を翻していた岡田啓介に対して東條はあからさまに威圧をかけ、命が狙われてい
 ると称して、日々の監視を強めたりしていた。
・この間に見え隠れしているのは、天皇は東條の戦争指導にむしろ不安を憶えているとい
 うことだった。東條はひたすら聖戦勝利のみを訴え続けるのだが、そこには具体的なプ
 ログラムが何ひとつなかったのである。
・太平洋戦争を俯瞰するときに、東條内閣の退陣は、さまざまな意味で重さを持っている。
 東條のような精神論だけの軍事指導者にこの国を任せていったらとんでもないことにな
 るとの不安、それがこのころの政治指導者や天皇、そしてその周辺の人々には強かった
 ということになる。
・東條の精神論は、現実の戦力にはまったく裏打ちされていなかった。太平洋戦争3年8
 カ月のうち、2年9カ月を主導した東条英機の、あまりにも非知性的な発言が「戦争は、
 負けたと思ったときが負け」という論であった。東條はしばしばこのような言を、議会
 でも国民との接触の場でも口にしていた。しかし考えてみれば、これほどひどい非知性
 的な発言はないのではないだろうか。この言に従うと、日本は決して戦争に負けること
 はないとの意味になる。
・アメリカを中心とする連合国から、どれほど叩かれても日本は敗戦を受け入れない。国
 家が存亡の危機にあっても敗れたとは言わない。なるほど、すると日本は決して負けな
 いわけである。どれほどの損害を受けても敗戦を認めないから主観的には敗戦はなく、
 つまり国家が滅したにしても敗戦を受け入れていないから戦争に敗れたとはならない。
 客観的には日本は戦争を続けられる状態ではないにもかかわらず認めないのだから、戦
 争は続くわけである。
・この自己矛盾の中に、東條や軍官僚たちは陥っていた。そして日本軍の司令部の参謀た
 ちは、このドグマのもとで戦争を続けたことになる。戦争を単なる美学、あるいは自己
 陶酔で受け入れていた日本の軍たちにとって、戦争とは一体なんだったのだろうか。
・「軍人たちにこの国を任せたツケはこれから五十年、百年と続くでしょう。理念なき戦
 争を行った軍人たちのその責任は、どれほど問うたところでそこには際限がない。東條
 英機という軍人を丸裸にしてわかるのは、戦争の真の意味を理解していなかった昭和陸
 軍の最大の問題が、この軍人に集約されているということなんです」昭和天皇の側近の
 ひとりの言葉である。 

石原莞爾は東條暗殺計画を知っていたか
・昭和期の軍人の中で、石原莞爾という人物は、「特別な人」である。戦略思想、戦争学、
 あるいは歴史観を明確に理論づけしたのは、この軍人だけである。現役時代には、「昭
 和陸軍には上官が部下に持ちたくない将校が二人いた。石原莞爾と辻正信である」と言
 われるほど、自らの意見を明確に口にし、上官といえども納得できなければ平然と論破
 した。
・陸軍大学校では再優秀の成績であったが、この最優秀の者には御前講演の役が与えられ
 た。つまり天皇の前で、陸大時代に学んだ戦略観などを披瀝するのである。しかし石原
 は天皇の前で軍の首脳を批判したり、日本陸軍の問題点を指摘したりしかねないという
 ので、一番の成績を二番にされたといわれている。そういうエピソードには事欠かない
 軍人だったのである。
・ふつう陸海軍の軍人といえば、軍内でのその歩みを追いかけていけば、評伝はすぐに書
 くことができる。ところが石原莞爾だけは違う。軍人の道以外にも、石原にはあまりに
 もその実像に近づくための道が多すぎるのだ。思いつくままに並べてみるならば、軍人
 の道のほかに「世界最終戦論」などに代表されるような軍事思想家としての道、中国と
 の友好を自らの論としてまとめた東亜思想家としての道、日蓮宗の教学を学び、宗教者
 として歩んだ悟りの道、石原の戦争論に共感、共鳴し密かに彼を支えた大日本帝国の官
 僚や将校、それに財界人たちとの交流の道、あえていえば石原を人格陶冶の師として仰
 いだ人たちが描く石原象を守り抜いている人たちとの交流の道、とにかく幾つもの複雑
 多岐な道を丹念に登りながら、石原莞爾の姿をまとめてみる以外にない。
・石原は、軍人に託された倫理などより、まず自分が十九世紀から二十世紀初頭を生きる
 日本人だと受け止めるのである。自分はたまたま軍人として生きる道を選んだ。自分に
 は歴史や時代によって託された生き方があるはずだと、能動的に自らの生きる空間で動
 くのである。これが「日本的怪物」の特徴であり、石原には軍人の殻を破って軍事主導
 体制下の怪物的人たろうとの強い意思が読み取れるのだ。 
・石原が敗戦の報(ラジオでの玉音放送)を聴いたのは、山形県鶴岡市郊外のある寺だっ
 た。もとより石原は、日本がポツダム宣言を受諾して「敗戦」を受け入れることは、省
 部の幕僚から聞かされていた。集まった人々の間には、号泣、自失とさまざまな表情が
 あったが、石原は日頃と同じ口調で、戦争に敗れても東亜の道義は消えるものではあり
 ません、東亜連盟の重要性が発揮されるのはこれからです。皆さん、くじけることはま
 ったくありません、と繰り返したのである。
・石原の発言の骨格を成すのは、「敗戦によって国民は呆然として失神状態にあるようだ。
 無理のないことであるが、私は少しも心配する必要はないと断言する。後の鳥が先にな
 り得るからだ」という点にある。戦争に敗れたのは、アメリカが日本より国力が秀でて
 いたためであり、それを承知で「負けることが分かっている戦争をする馬鹿がどこにい
 る」と戦時下すでに叫んでいた冷静さがその根底にある。
・石原の戦後の発言は、五つの重要な視点を持っている。それは
(1)東京裁判は犬を裁くのと同じだ
(2)中国には謝罪する必要がある
(3)天皇に責任を押しつけるのは自らの無責任を糊塗することだ
(4)米国の説く民主主義は軍政にすぎない
(5)新しい憲法は将来を反映している
 という点になる。いずれも当時の国民に冷静に対応を呼びかける内容になっている。
・当然ながら、石原は自省も書いている。「最終戦争が東亜と欧米との両国家群の間に行
 われるであろうと予想した見解は、はなはだしい自惚れであり、事実上明らかに謝りで
 あったことを認める。また人類の一員として、既に世界が最終戦争時代に入っているこ
 とを信じつつも、できればこれが回避されることを、心から祈っている」 
・石原の世界最終戦争論とは、東洋文明の覇者である日本と西洋文明の覇者であるアメリ
 カとが、最終戦争を行い、その後に世界に永久平和が訪れるというのであった。その自
 らの構築した論は「自惚れ」だったというのである。これは、満州事変を自ら考え出し
 たこと自体を自省しているのだが、それとは別に、満州国建国からまもなく中国側の信
 頼を失ったのは、日本の官僚や軍事指導者層が自らの権益ばかりを考えたため、とも指
 摘している。
・東條は陸軍士官学校十七期、石原は二十一期生だから年齢は東條が四歳ほど上になる。
 二人が犬猿の仲になったのはいつかは定かでないにしろ、昭和十年代には二人の対立は
 抜き差しならぬ段階まで行きついていた。石原莞爾と東條英機の確執がどれほど軍内に
 悪影響を与えたか、いや、東條はいかに石原を恐れていたか。
・極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷してからほぼ1年後にあたる昭和22年5月、山
 形県酒田市で臨時特設法廷が開かれた。石原を証人として判事団、検事団が尋問すると
 いうのである。
・石原は判事団からこの裁判についての見解をきかれると「満州事変の中心は自分である。
 満州建国にしても自分であるのに、なぜ自分を戦犯として逮捕しないのか不思議である」
 と述べている。
・A級戦犯の中には、裏から手を回してなんとか訴追を免れようと試みる者がいただけに、
 石原の態度はそれなりに説得力を持っていた。つけ加えておけば、石原が訴追されなか
 ったのは、日中戦争に反対、太平洋戦争にも反対していたことが明らかであり、東條政
 権と徹底して対決した点が挙げられる。
・判事団から「あなたは東條英機と対立していたのではなかったか」と尋ねられると石原
 は、「対立したということはない。日本人にもそのような愚問を発する者がいるが、東
 條には思想も意見もない。私は若干の意見を持っていた。意見のない者との間に対立が
 あるわけはない」と述べた。
・さらに石原は「東京裁判を見るに、日本の戦犯は東條をはじめとして、いずれも権力主
 義者で、権力に媚び、時の勢力の大きい方について、甘い夢を見ていた者ばかりで、莫
 大な経費をかけて世界のお歴々が集まって国際裁判に付するだけの値打ちのある者は一
 人もいない。みんな犬のような者ばかりではないか。アメリカは戦争に勝って、今は世
 界の大国である。世界の大国が、犬をつかまえて裁判したとあっては、後世の物笑いに
 なる。アメリカの恥だ。裁判をやめて帰ってはどうか」とも述べている。
・東條と石原の対立は、石原にすれば東條は「思想も意見もない軍人」であり、東條から
 見れば石原は「軍の統制を乱す軍人」ということになる。東條は軍官僚として、下僚の
 者は上官、上司の言うことを聞くだけでいいと考えるタイプだから、当然のこととして
 そこに抗争が起こったとしても不思議ではない。 
・昭和12(1937)年9月、石原は参謀本部作戦部長の職を解かれ、関東軍参謀副長
 に転じた。これは誰が見ても左遷である。言ってみれば日本軍全体の作戦を統括する責
 任者が、関東軍の作戦を担う参謀長の下に送られたのである。むろんこれはこの年7月
 から始まった日中戦争に対して、省部が拡大の一色に染まっていくのに抗し、不拡大を
 主張し続けた石原に対する嫌がらせ、あるいは軍内から追い出そうとの意思があったと
 もいえる。
・しかも石原の上司の参謀長には、東條英機が座っていたのである。日中戦争の拡大を企
 図する陸軍大臣、参謀総長らは、石原を東條の下に置いて、軍内で人望を集めている石
 原を監視させようとしたともいえた。東條と石原は、隣り合わせの部屋で執務をするの
 だが、二人はめったに顔を合わせないし、執務上の打ち合わせはほとんど副官を通じて
 行ったという。
・石原は満州国に対して、日本は内面指導権を持っているが、それはあくまでも助言者と
 しての立場であり、その決定には直接関わらないというのである。だが東條は、満州国
 は日本が支配すべき国家と思っている点で、石原とはまったく違った。石原はしだいに、
 東條ら満州国に送られている軍人や官僚は、独立国の満州国を日本の傀儡にしている、
 内面指導権という権利を日本が指導する権利であるとし都合よく解釈していると、強い
 批判を浴びせることになる。石原は、東條の強権を怒り、さらに関東軍の公費を国防婦
 人会に割いていると指摘し、東條をより先鋭的に批判した。 
・いくつかの東條の姑息な手法に対して、石原は、東條に面と向かって、「あなたは屁理
 屈をこねる軍曹のような性格だ」とも言った。さらに石原は満州国内にある協和会や東
 亜連盟などの講演会にも出席し、関東軍の傲岸ぶりを批判している。東條との間の亀裂
 がしだいに拡大していった。 
・石原の批判が軍中央に及んでくるのを防ぐには、この男を利用しようとの意思があった
 のだろう。そして石原を孤立させるための人事を行った。満州国に対する軍の介入を批
 判する分、石原は関東軍の中でも孤立していったのである。 
・昭和16(1941)年、陸相になっていた東條英機は、軍内に「戦陣訓」示達した。
 日中戦争の長期化により、日本軍兵士は戦争に疲れていた。戦意は落ち、兵士たちの言
 動もきわめて乱暴になり、軍規を逸脱するおとが多くなる状況に対して、「死をもって
 戦え、捕虜になるな」と兵士たちに徳目を説いたのである。この戦陣訓について全国各
 地の師団長や連隊長などは、兵士に示達していることをアピールするために、さまざま
 な形の行事を行った。むろんこれは東條の権勢が拡大していくことに応じて自らの存在
 を誇示する狙いもあった。 
・石原はこのとき京都の第十六団長のポストにあった。この「戦陣訓」が第十六師団に送
 られてくると、「こんなもの兵士に配布する必要はない」と言って、倉庫に積んでおく
 よう命じた。石原にすれば、すでに「軍人勅論」があるのにそれに屋上屋を架すような
 ものであり、しかも東條の権力補完にすぎない、こんな文書を配布するのは陛下に対し
 て失礼である、とまったく無視した。 
・実は東條は、この「戦陣訓」を配布する直前の昭和15年に、石原を予備役に追い込も
 うと画策したが、軍内には石原を支持する勢力もあり、東條はそういう軍人たちの反東
 條の行動を恐れた。そこで東條は、石原を関東軍参謀副長時代から協和会や東亜連盟の
 蔭の指導者であった見て、常に憲兵隊や特高に調べさせていた。石原憎し、の東條の行
 動はしだいに病理的現象を生んだ。 
・石原は軍隊に見切りをつけ、軍外の活動に重点を移した。石原がつくったといってもい
 い東亜連盟は、中国との融和や連携を訴え、強硬論一本槍の軍首脳とは、一線を画す内
 容であった。東條は東亜連盟の主張を「敗北主義」と捉えたが、それは「東條自身の対
 中強硬路線に真っ向から反対するように思われたからである。のみならず、それは政府
 のアジア政策に対して、石原が国民的反対を喚起するのに格好の政治的基盤を与えるこ
 とになる。 
・東條と石原の関係は、昭和16年3月に石原が予備役に編入されることで軍内の対立と
 いう局面を終えた。しかし太平洋戦争の間、東條は執拗に石原を監視し続け、毎月1回
 は特高警察の幹部が石原の元を訪れて威圧をかけている。石原は、そういう幹部に「石
 原は東條打倒を仲間と話し合っているよと報告しろ」とからかっていた。 
・予備役に追い込まれた石原はすぐに立命館大学教授に就任して軍事学の講座を持つこと
 になった。東條の報復を恐れた京都の第十六師団の参謀たちは表向き、石原の退役記念
 の会を開くこともなかった。この退役を記念し、さらには学生向けの教科書としても刊
 行された「戦争史大観」を、内務省は発行禁止にしている。石原はこの措置に激怒して、
 関係機関を難詰している。そのうえで最終的には、東條に対して強い抗議の書簡を送っ
 ている。対米戦争に傾いていく8月、9月までこの抗争は続いた。
・すべて「石原が正しい」という見方はできないが、それにしても東條の石原への感情は、
 ひたすら児戯のレベルであったことは特筆されるべきである。東條は石原を恐れていた
 のである。軍内に一定の同調者を持っている石原が、もしなんらかの動きを示せば、自
 らの立場も危うくなるのではないかという恐れがあった。  
・東條は、立命館大学教授となった石原が大学の中で自らを批判する事態を恐れ、大学に
 圧力をかけて追放を目指している。そういう動きを察知した石原は、昭和16年9月、
 自らそのポストを退き、故郷の山形県鶴岡市に戻っている。立命館大学で東亜連盟を説
 く石原のもとに集まる学生を次々に逮捕、拘禁したのだから、石原も辞めざるを得なか
 ったのだ。
・中央公論社の刊行した「戦争史大観」は店頭に出ることはなく、警察がそれを保管する
 ことになった。つけ加えておくと、この保管されていた1万冊余りは、陸軍内部の軍人
 がひそかに持ち出して瞬く間に倉庫から1冊もなくなったというのだ。 
・東條は日米開戦になったときに石原や東亜連盟のグループが異を唱えることを予感して
 いて、とにかく黙らせようと画策していたことがわかる。実際に石原は、東條のこうし
 た態度を怒り、「東條軍閥は天皇陛下の勅諭に違反している」との批判を行った。
・故郷の鶴岡に戻った石原は、この地にあっても各地の東亜連盟の支部での演説会に赴い
 て、自論の最終戦争論、それに中国との提携による新たなアジア秩序づくりの論を展開
 している。
・石原は太平洋戦争を二つの視点で捉えていた。第一は東亜連盟の視点である。この戦争
 は「日華和平」のための戦争である。和平条約の締結というだけでなく、「軍事同盟の
 締結」「経済協議機関の設置」を行う機会だと見る。汪兆銘の南京政府に加えて、重慶
 の蒋介石政府との和平締結だけでは足りない。軍事同盟を結ぶとともに、経済一本化が
 望ましいという意味になる。第二は、いずれ起こる世界最終戦争(対米国戦)のための
 今回は事前の戦いのようなものだから、一定の枠内で戦争を収め、いずれ何年か後に来
 るであろう最終戦争に備えようとの結論を人々に伝えた。石原の太平洋戦争下の指摘は、
 この二点であり、長期持久戦争に持ち込まぬようにすべきとの見方であった。 
・これに対して東條内閣が戦争を始めた理由は、石油供給体制確立からの大東亜共栄圏思
 想であり、中国との戦争は日本が軍事的に中国を隷属下に置くとの発想からされに進ん
 で、いわば中国を日本の傀儡政府の如くにしていこうとの考え方であった。そのために
 は徹底して軍事で中国を制圧するとの方針だったのである。長期持久戦争を覚悟すると
 の考えから抜け出せなかった。 
・太平洋戦争が進むにつれ、石原は長期持久戦争になれば日本はアメリカの敵たりえない
 との論を繰り返した。昭和19年6月の「あ号作戦」の失敗、そしてサイパンが陥落す
 るや石原は、もう日本の敗戦は確定的であり、戦争そのものの勝利などありえないとの
 考えに傾いた。 
・まだ戦況のよかった昭和17年12月に、東條は戦況のいいのを背景に石原に面会を申
 し込んだという。いわば石原を懐柔しようと考えてのことであろう。このとき石原は、
 時局への協力を求められたのに対し、「あなたには国家を指導したり、戦争を遂行する
 能力はないので、あなた自身が身を退くことが重要だ」と面と向かって言ったというの
 だ。東條は激高し、二人は物別れの状態になるだけでなく、これ以後さらに露骨に憲兵、
 特高警察を使って、石原の日々の言動を報告させるようになった。
・こうして憲兵隊員や特高刑事の中には、戦況が悪化していくにつれ、東條政権の末期、
 そしてそのあとの小磯国昭、鈴木貫太郎内閣のころになると、東亜連盟の思想に共鳴す
 る者が現れ、逆に権力内部の情報が石原やその側近のもとに集まってくるようになった。 
・石原の東條の対立は、戦争観の違いや人間的な性格面での闘いといえたのだが、その最
 終的は抗争は、昭和19年6月の東條暗殺未遂事件の中にも見えてくる。この事件は、
 むろん石原が直接関わったわけではなく、石原自身が計画そのものを充分に知っていた
 わけでもなかった。ただ決行者たちが石原の影響を受けている軍人であり、民間側から
 参加することになっていた武道家が東亜連盟の熱心な会員として、石原の覚えもよかっ
 たのである。 
・この暗殺未遂事件は、今も詳細は不明な部分がある。ただはっきりしていることは、こ
 の事件は、支那派遣軍司令部から大本営参謀本部に転任となって東京に戻ってきた津野
 田知重
少佐が、内部の極秘事項に触れて戦況の悪化に愕然としたところから始まる。津
 野田は今の日本は国家存亡の危機と考え、東條内閣打倒を決意する。津野田は軍内で一
 定の力を持つ石原思想の影響を受けていた。 
・東條暗殺未遂事件は、計画を実行する日と東條の退陣の日がほぼ同時期だったために、
 つまり史実とはならなかった。しかし、太平洋戦争の推移と共に東條の暗殺を考える人
 がいかに多かったかは、改めて知っておく必要がある。こういう人たちは、軍人、華族、
 さらには昭和天皇周辺の人にまで及んでいる。戦争の悪化は誰が見ても明確なのにいっ
 こうに終戦工作を考えず、ひたすら直進的に戦争政策を進めるのは、まさに「亡国の道」
 だという批判であった。 
・津野田が大本営参謀本部に戻ってきて各種の史料や文書を点検した挙げ句に、「このま
 までは日本は惨めな敗戦の途をたどるばかりであり、これを防ぐためには、東條武断政
 府を倒し、軍を粛清して、皇族を首班とする強力な挙国一致内閣を成立させ、国民の団
 結した力を示して、有利な条件で和平交渉をすすめなければ、日本は滅亡するであろう、
 との固い信念を抱くようになった。 
・「東條と石原」の対立を見ていくと、昭和陸軍の過ちはやはり昭和10年代の人事異動
 にあったということの正しさがわかる。この暗殺未遂事件はさらに昭和の暗部を浮かび
 上がらせる。追い詰められた東條側側近の軍人たちも巻き返しのクーデターを考えてい
 たからである。 
・東條という男は連隊長というところが精いっぱいの器で、とうてい師団長たるの人物で
 はない。その人間が一国の首相にあえて踏みとどまってこの戦局を担っているのだから、
 日本の悲劇である。東條は一旦こうと思い込んだことは、一般に通用しないことでも無
 理に押し通す性格を多分に持っている。なぜ東條のような大局を見る目を持たぬ者が、
 戦時指導を続けているのかという疑問は当時の軍人たていの総意であったことは認めな
 ければならぬだろう。
・津野田は三笠宮と陸軍士官学校の同期生であり、支那派遣軍の参謀として机を並べてい
 たこともあり、日常の付き合いも深かった。そこで三笠宮を通じて天皇のもとへ、東條
 はすでに軍を代表する任ではなく、しかも戦争指導もひたすら滅亡の方向へ向かってい
 る。なんとしても更迭しなければならないとの意思を伝えるべく動いた。
・津野田は、三笠宮殿下からは兄宮にあたる秩父宮や高松宮に、東條では戦争指導は無理
 ではないか、早く戦争を収めなければ大変なことになると説いたとの返事をもらったと
 いう。  
・東條は重臣たちの包囲網、それに天皇の不信を買い、つまり辞任に追い込まれた。結果
 的に太平洋戦争3年8カ月のうち2年9カ月は東條が担ったことになる。東條が辞任を
 決意するプロセスで、東條系の幕僚たちは東條に対して、クーデーターを起こし、聖戦
 完遂を貫こうと進言している。東條のもとにそういう強硬派の幕僚たちが集まり、その
 ための手順を相談したというのである。 
・このクーデター説は、一般にはあまり知られていない史実である。「しかし」というべ
 きだと思うが、東條暗殺計画を利用して、それを防ぐためと称して、東條側が軍事行動
 を考えていたことは充分に予測される。 
 
石原莞爾の「世界最終戦争論」とは何だったのか
・石原はどのような形の戦略観、あるいは歴史観で太平洋戦争を捉えていたのであろうか。
 石原の思想や理論、それに軍人としての発想などをもっとも代表する著作は「世界最終
 戦論」といってもいい。 
・少なくとも石原は、昭和陸軍の中で有数の「理論派軍人」であると認めないわけにはい
 かない。 
・石原は「石油、ゴム、スズ等日本の大東亜戦争遂行上遊行なるものは沢山ありますが、
 日本人が今日考えているように、南洋を、我々の支配下に入れれば、戦争中の物資不足
 を全面的に解消し得るように考えたら、どんでもない大間違いであります。大東亜戦争
 を進めるにあたり、「日満支」を中心としていく。そのためには、この三カ国の五億の
 人を中心に、東亜全域の解放を行い、そして独立国と見て日本と互恵の関係を結び、世
 界最終戦争に備えるべき」と主張した。 
・「大東亜戦争」が始まってからの石原は、どこの講演でも「支那事変の解決」を訴えて
 いる。それは軍事的な解決ではなく、政治的な解決を急ぐべきという論でもあった。し
 かしその内実を確かめていくと、石原の論の中には、世界最終戦争の前哨戦としての
 「大東亜戦争」に対して、現実にどのような手を打つかという点が著しく欠けていた。
・日中戦争の契機となる盧溝橋事件当時、日本の中央の省部の幕僚の中には、この機を通
 して中国に一撃を与え、華北地方を制圧するとの案が有力となっていた。それが満州国
 の権益を守ることになるとの判断があった。この強硬策を企画するグループは拡大派と
 称されるが、一方で、日本は対中戦争を進めるだけの国家的軍事力はないとの主張を持
 つ不拡大派があった。 
・この拡大派と不拡大派の区分、つまり幕僚たちがそのいずれであるかを判断するには、
 実は簡単な尺度があった。それは、参謀本部や陸軍省の将校が、石原の対中自己抑制政
 策に賛否いずれかであったかによって、容易に分類できる。というのは、というのは、
 日中戦争勃発当初から、局地戦闘に喰い止め、日本軍の本格的導入を防ごうと命令して、
 敗れたのが、他ならぬ石原であったからである。 
・参謀本部作戦部長であった石原が不拡大を説くのに対し、石原と対立関係にあった作戦
 課長の武藤章は、拡大派の急先鋒であった。武藤は石原に対して、「われわれは閣下が
 満州事変のときの行った主張を繰り返しているだけです」と皮肉を口にした。不拡大を
 主張する石原は、その説を広げようとしたが、次々とその牙城は崩され、石原は孤立す
 る状態になっていった。すぐに現地に三個師団を増派して中国軍に一撃を、という武藤
 や陸軍省軍事課の田中新一らの主張に対して、石原は当初はためらっていた。しかし結
  局、渋々と承認している。 
・当時に石原の立場について付け加えておけば、石原は参謀本部の決定主務者だったこと
 が挙げられる。参謀総長の閑院宮は決定には関わらず、参謀次長の今井清は、当時重病
 で執務不能だった。作戦決定は作戦部長の石原に全責任がかかっていた。 
・石原は七月、八月と事態が進むにつれて、自らの意見と職務上の立場との板挟みの状態
 になった。作戦部の執務室に簡易寝台運び入れて執務を行う状況となり、肉体の限界に
 まで追い込まれている。参謀本部内では、石原の健康状態を案ずる声もあがった。しか
 し石原ら不拡大派はしだいに孤塁を守る形となり、省部の内部では浮き上がった存在に
 なった。 
・その間に華北での日本軍は、制圧地域を広げ、「戦争」という語を用いず、「事変」を
 用いている矛盾を顕わになった。日本は政治においても軍事においても明確に国家意思
 が表れず、ただ揺れているのみだった。石原はその象徴でもあった。 
・石原は依然として聞く耳をもつ者に、局地戦と早期交渉の方針を説き続けた。来る日も
 来る日も、石原が大股で廊下を歩きまわる姿が見られたが、極度の疲労のために、彼の
 姿勢は猫背になっていった。そして、人に会えば、必ず戦闘拡大阻止を力説した。武藤
 との関係は犬猿の仲となり、二人は、部下の前で互いに怒鳴り合うようになった。
・九月末に石原は作戦部長から、関東軍参謀副長に転じることになった。参謀長は東條英
 機であった。これは陸軍大臣の杉山元や陸軍次官の梅津美治郎ら拡大派の報復ともいえ
 た。東條と対立させ、陸軍から追い払って予備役に編入させる意図を含んでいた。
・石原が省部の中で孤立していく様は、まさに昭和陸軍内部の「政治と軍事」の対立とも
 いえた。拡大派は軍事一本槍での対中政策によって、事態を収拾しようとし、つまりそ
 れに失敗している。不拡大派は政治解決(石原は近衛首相と蒋介石主席との和平会議ま
 で考えて根回しを行った)によって、日中提携を企図していた。まさに軍事より政治に
 と傾いていったのだ。石原の動きには両者の対立がそのまま反映している。
・もしこの期に、石原の考えやその戦略が日本の国策となっていたら、日中戦争の展開は
 史実とは異なった形になっていたであろう。少なくとも日本にも、軍事をコントロール
 する「政治」の存在がより明確になっていたと思われるのだ。    
二・二六事件における石原の動きには二つの解釈がある。
・事件は、二十人余の青年将校とそれに率いられた下士官と兵士千五百人ほどが首相官邸
 など重要な国家機関を襲撃し、斎藤実内大臣や高橋是清大蔵大臣、教育総監の渡辺錠太
 郎
らを斬殺して自らの要求する新軍部内閣を組織せよと要求した、いわゆるクーデター
 未遂事件である。
・この事件に対しては、天皇は侍従武官長の本庄繁へ一貫して反対を訴え、その討伐がう
 まくいかなかったら、自分が先導して清寧将校を断固討伐するとの強い意思を示した。 
・天皇のこの意思に対して、陸軍省や参謀本部の軍事指導者は当初はあまり重視しないで
 無視する態度を決め込んでいた。天皇は軍事上の大権を持ち、事実上近代に日本の軍隊
 は天皇を大元帥とするヒエラルキーを確立したのである。にもかかわらず指導者たちは、
 自身の計算を優先させて断固討伐をためらっていた。
・石原は参謀本部作戦課長として、そして二十七日からの戒厳令が公布されてからの戒厳
 参謀として、一貫して断固討伐の側に立った。この姿勢は明確であり、まったく揺るぎ
 のないものだった。 
・二月二十六の午前七時、石原は当時両親や弟と住んでいた戸山ケ原の自宅で電話を受け
 ている。この電話によって、第一師団の第三連隊などが陸軍省と参謀本部を占拠し、要
 人が暗殺されたと知らされた。前年八月に仙台の歩兵第四連隊長から参謀本部の作戦課
 長に転じて六カ月近くを経ている。  
・陸軍内部には、皇道派と統制派の対立があったが、石原はどちらの派閥にも属していな
 い。強いていえば満州派という別派を指導しているかに見られていたのである。 
・一報を受けたあと石原は九段にある憲兵司令部に赴き、事件の概容を確認した。そして
 陸軍大臣邸に行き、川島義之陸相に戒厳令の公布を求め、実施させている。憲兵司令部
 は戒厳司令部にもなり、石原は戒厳参謀となった。断固討伐の具体的な実施を行う役を
 担ったのである。しかし一方で決起した青年将校の行動を支持するために戒厳令を布い
 たようにも思えるので、軍内でもその受け止め方はさまざまであった。
・決起行動が支持されているかのように見えたときに、それをまったくはねつける行動を
 とったのが石原であった。石原はそこで決起軍を討伐できる航空機、戦車などの部隊に
 動員命令を出し、帝都を反乱軍から守る態勢を見せつけたのである。  
・二月二十七日には、皇道派の将軍たちがこの決起を支援して、討伐行動は行うべきでは
 ないと戒厳司令部に乗り込んできて、石原らに陳情のような形をとった。石原はまった
 く一顧だにせず、彼らの目の前で、各部隊に攻撃命令の類いを出し、一片の同情もしな
 いといった行動をあからさまに示した。 
・戒厳司令部には、皇軍相撃つべきでないとの感情論が押し寄せてたが、天皇の意思をそ
 のまま具体的な行動につなげていったのは、やはり石原であった。石原は心中では、青
 年将校たちが武器を捨てて、降伏に似た状態になるように願っていた。そのために陸軍
 大臣官邸に赴いて青年将校い代表たちと会っている。青年将校の側には、石原に期待す
 る者も多かった。石原を自分たちの味方として、このクーデターを成功させたいという
 思いであった。しかし石原は、国家改造の意思は君らと同じであるにせよ、武力による
 行動は許されない、こうした行動には断固討つのみ、と伝えたのである。青年将校の代
 表の一人、栗原安秀は石原のピストルをつきつけて、自分たちの意見を通そうとした。
 しかし石原は、まったくひるむことはなかった。 
・二月二十八日になると奉勅命令が出され、天皇の意思が軍内にも明確になり、反乱軍に
 好意を寄せていた軍事指導者たちも態度を一変させた。 
・昭和八年石原が仙台榴岡歩兵第四連隊長の時から国防研究会の名のもとに、石原の指導
 下で戦争史、新戦術など軍事学の研究を続けた。仙台の第四連隊長時代の石原のもとに
 は、皇道派の青年将校がしばしば訪れている。昭和八年八月に連隊長に就任したのだが、
 このころが軍内の派閥争いがもっとも激しかったときであった。いわゆる皇道派と統制
 派の対立であったが、皇道派の青年将校はなにかと理由をつけては石原に会いにきて、
 国家改造運動の理論を確かめている。
・石原は第四連隊長時代に他の軍人とは異なった教育方針を採っている。帝国軍隊の中に
 なる権威主義、官僚主義をすべて捨ててしまったのである。ときにはマルクス主義の研
 究も行ったという。天皇制を守るためにはそれに反対する論理も知っていこうというの
 であった。私は第四連隊長時代に部下だった兵士たちのうち何人かに話を聞いたことが
 あるが、「風呂はいつでも入れるようにしてくれた」「中国の出征しても第四連隊の兵
 士は銃撃されなかった」「貧農の息子には家庭の心配までした」「軍隊のいる間に無線
 機の使い方を覚えた」といった声が幾つもあふれていた。  
・石原は兵士を「人間」として扱ったのである。単に兵士を「軍備」と見る高級将校とは
 確かに一線を画していた。 
・石原のもとを訪ねてくる皇道派の青年将校は、昭和八年・九年に軍内に権勢を誇ってい
 る陸軍大臣の荒木貞夫や参謀次長の真崎甚三郎を支援する形で昭和維新、あるいは国家
 改造運動を進めようとしていた。皇道派の青年将校の意図は、天皇親政による政治を目
 指し、そのために非合法の行動も想定していた。むろん荒木や真崎をリーダーに仕立て
 上げクーデターを起こそうというわけではなかった。しかし自分たちの起こした軍事行
 動によって荒木や真崎を首相にして軍事独裁政権を樹立しようとの展望を含んでいた。
・血気盛んな青年将校の言に、石原はその志はいい、しかし非合法の行動は決して許され
 ない、と応じた。むろん青年将校たちは、石原が中心になった満州事変にならって、自
 分たちの行動は暗黙のうちに諒解されるであろうとの考えを持っていたのに、それが裏
 切られる形になり怪訝な表情をする者があったという。「石原はわれわれの味方か、そ
 れとも敵なのか」という声は皇道派の将校の間では密かに囁かれていたのである。
・昭和十(1935)年八月、石原は第四連隊長から参謀本部作戦課長に転属になった。
 この転属は石原が皇道派に与していないことの証しだったといえるかもしれない。
・陸相の林銑十郎に列なる一派は統制派と評されたが、こちらは永田鉄山南次郎、東條
 英機といった軍人たちで、軍事独裁政権を樹立するには非合法活動より合法的に権力を
 握るえきであると考え、青年将校をおだてあげているとして荒木や真崎と対立していた
 のである。   
・昭和十年七月に、林と参謀総長の閑院宮は教育総監に転いていた真崎を罷免することに
 したが、真崎は拒否している。しかし陸軍大臣、参謀総長、それに教育総監の三官衙の
 責任者は三者の合議で決めるとの内規のもと、つまりは真崎は辞任に追い込まれること
 になった。
・この騒動は皇道派の青年将校を刺激することになる。彼らは、昭和維新の断行を妨害す
 るのが統制派の人脈だと受け止めたのである。そして昭和十年八月十二日に起こったの
 が、陸軍省軍務局長・永田鉄山が殺害されるという事件である。皇道派の将校である福
 山歩兵連隊の相沢三郎中佐が、軍務局長室を訪れ、白昼公然と軍刀で永田を斬殺したの
 である。  
・昭和陸軍を俯瞰するとき、この殺害事件こそ軍内派閥抗争が頂点に達していたことがわ
 かる。同時に省部の軍人たちは皇道派と統制派のいずれかに傾く形になった。
・第四連隊長から参謀本部作戦課に転属になった石原は、この事件の日が初出勤である。
 石原はすでに多くの書が示しているように、このときはいずれの派閥にも属していなか
 った。しかし「昭和維新」を断行して、軍が政治の前面に出るべきという考え自体は、
 確かに皇道派に近かった。といってもそのためにテロやクーデターの類いの行動で昭和
 維新は行うべきではないと考えていた。そのような自説をもって東京に出てきたのであ
 る。  
・石原は個人的に、相沢を幼年学校時代から知っていた。仙台幼年学校の一級下で、いわ
 ば少年期からの知り合いともいえた。石原は、相沢から軍法会議の特別弁護人になって
 ほいしいと依頼されている。石原は、軍刀を抜いて上官を殺害することの是非よりも、
 その信念には一定の評価を与えるといった、いわば誤解を招きかねない発言をしていた
 こともあり、特別弁護人依頼は当然の流れともいえた。 
・相沢も石原に対して、期待していたのか、面会の折には「青年将校をよろしくご指導く
 ださい」と頼んだともいわれる。もっとも石原は、行為そのものを目的とするような国
 家改造運動には関与しないとの考えを伝えたという。相沢はその言に衝撃を受けたとい
 うのだが、石原はこのときのその精神は諒とするも行動に重点をおくがごときの言説を
 強く戒めたという。 
・石原が皇道派に心を許さなかったのは、その軸になっている真崎甚三郎にたいしての不
 信に根ざしている。二十代、三十代前半の青年将校をおだてる口調で、そのエネルギー
 を自らの側に引き寄せようとする計算に倦いていたのである。 
・相沢に殺害された永田鉄山は、国家総力戦に対する構想を持っていた。いわば軍内の理
 論的指導者であった。石原よりは五歳ほど年長になるのだが、皇道派の理論や言動には
 強い不満の念を隠さなかった。というより荒木や真崎のように理論もなく、ただひたす
 ら皇道精神を説く軍事指導者への軽侮は強いものがあった。その点では石原と共通のタ
 イプということもできた。 
・永田らから見れば、石原はなにより理論を持ち、思想も確固としている点では誰にも負
 けないというので、要職に据える中堅将校だったのである。 
・青年将校から見れば、石原は永田に直結する軍人であるという点では暗殺対象にすべき
 であるとする一方で、石原はわれわれの考えをわかってくれる、決して敵ではないと説
 く青年将校も存在したのである。 
・石原の生涯は単に軍人として生きただけでなく、思想家、大学教授、農業実践者と幾つ
 もの顔を持っていたことがわかる。 
 
犬養毅は襲撃の影を見抜いていたのか
・五・一五事件は奇妙な事件であった。とくに軍人側には存分に法廷で弁明の機会が与え
 られた。自分たちは自分自身のことなどこれっぽっちも考えていない、考えているのは
 この国のことだけ。陸海軍の指導者は、この国の改革(天皇親政)について考えてほし
 い。自分たちは軍部政権をつくるための手駒でいい、などという言を、それこそ何十回
 も陳述している。こんな弁明に日本社会は、天地がひっくり返ったような状態になって
 反応した。 
・テロの決行者は英雄だとの受け止め方が一気に広がったのだ。このことはすでに明らか
 になっている如く、日本社会の価値基準が大きく変ってしまうきっかねになった事件で
 もあった。テロの犠牲になったはずの犬養家のほうがあれこれ社会的な制裁を受けるこ
 とになったのである。犬養家の人々が後ろ指をさされることになり、厭がらせを受けた
 のである。 
犬養毅は「憲政の神様」といわれ、日本の議会政治の申し子とされている。尾崎行雄
 どと共に憲政の正道に立つとされてきた。議会人としてその点は認めなければならない
 であろう。 
・しかし重大な過ちをも何度か犯している。たとえば、昭和五年のロンドンでの海軍の軍
 縮会議では、政府の側が対米英比七割近くの数字を受け入れ、調印している。だが、軍
 令部長の加藤寛治らのグループはそれが不満だとして「統帥権干犯」という語を持ち出
 して民政党の濱口雄幸内閣を責めたてた。「勝手に政府が調印するなら軍令の側として
 はこの国を守るおとができない」というのであった。
・議会では野党であった政友会の犬養や鳩山一郎などが、「民政党内閣は統帥権干犯を犯
 しているのではないか」と攻撃を続けた。つまり、軍部の力を借りて政府与党を攻撃す
 るという構図になっていた。軍部に公然と統帥権干犯という伝家の宝刀があることを教
 えることにもなったのである。その点では犬養毅や鳩山一郎らの歴史的な罪は重かった
 のだ。  
・そしてこの統帥権干犯は、つまるところは日本が戦争に入っていく際の有力な武器にな
 った。これは犬養のもっとも大きな罪といっていいだろう。
・犬養毅が政友会の総裁として首相に擬せられたのは、昭和六年十二月である。このとき
 犬養は七十六歳であった。すでに政界を引退してもいい年齢なのに政友会総裁であった
 のは、政争の激しい政党をまとめるには長老級の重みが必要とされていたからだった。
 元老西園寺公望から、若槻礼次郎退陣のあとを受けて後継首班の指名を受ける折に、昭
 和天皇は犬養に同情を示し、「軍部が内政、外交に立ち入ってかくの如きまでに押しを
 通すということは国家のためにすこぶる憂慮すべき事態である」と西園寺に伝えていた。
・昭和六年九月の満州事変から三カ月、軍部がゴリ押しして政治に介入してくる事態をと
 にかく犬養で乗り切ってほしいと天皇は考え、大任を託したのである。   
・犬養内閣は金輸出再禁止に踏み切った。それは犬養が信頼する高橋是清を蔵相に就け行
 った。ただこれによって円が売られ、ドルは買われ、思惑買いを続けていた財閥が莫大
 な利益をあげた。犬養内閣のもうひとつの取り組みは、満州事変をいかに解決していく
 かであった。この課題に、犬養は辛亥革命を指揮した孫文との親交から独自のルートで
 解決を考えていたのである。しかし軍部はそういう犬養を冷たく見ていて、それを受け
 て森恪が「軍部を怒らせるべきではない」といった言で牽制し、犬養を軍部との融和の
 方向へ持っていこうとする姿勢に、犬養自身は、「君は軍人を恐れている。そんな馬鹿
 なことはない」とまったく森を相手にしなかったのである。 
・満州事変が上海事変(昭和七年一月)に飛び火したときで、荒木陸相は興奮した口調で、
 上海にあって「支那軍の大抵抗に遭っている皇軍」の援助のために、「一大軍隊を送り
 支那を一挙にこらしめるべきだ」と発言したというのである。犬養はこの馬鹿に答える
 気にもならず黙っていた。そのとき高橋是清大蔵大臣が、大きな眼をギョロリと剥き大
 声をあげて陸軍大臣を叱咤したという。高橋大蔵大臣は、「君はまだ若い・・・波がひ
 とつ来ただけで大変だ大変だと言う・・・支那の身にもなってみろ、満州かっさられて
 ・・・まずかっさらった満州を返すことが先決だよ。支那問題はここにおられる総理の
 ナワ張りだ」と叱ったそうだ。荒木陸軍大臣は窮し、蒼白となり、陸軍省に帰って憤懣
 をぶちまけた。
 陸軍内部に「高橋、消すべし」の声があがり、それが昭和十一年の二・二六事件へとつ
 ながったというのである。 
・五月十五日の夕刻、官邸正面からの暴漢が襲ってくる音、そして護衛の巡査が撃つピス
 トルの音。そのとき孫の道子氏の母が食堂でお茶でもと首相に世務室へ呼びに行ってい
 たが、すぐに不穏な動きを知り、庭に下りて逃げるように勧めた。「いいや、逃げぬ」
 と犬養は答え、海軍少尉の服をつけた二人の士官と士官候補生三人が土足のまま入って
 くるのを直視した。一人がピストルの引き金を引いたが、弾丸は出ない。「まあ急くな」
 と議会の野次を抑えるときと同じ動作で手で制したというのだ。そして次のように言っ
 た。「撃つのはいつでも撃てる。あっちへ行って話を聞こう・・・ついて来い」犬養首
 相は建の妻と子供から意図的に離れ日本間に士官たちを連れていく。そして次のような
 言葉を足した。「まあ、靴でも脱げや、話を聞こう・・・」しかし別な四人が現れて、
 「問答無用」と叫びピストルを乱射した。 
・現場にいてこのやりとりを見た道子氏の母の証言を全面的に信用すると、「話せばわか
 る」とは言っていない。「話を聞こう」と言ったのが事実とするならば、なぜ話せばわ
 かるといった話でこの光景が語られることになったのか。戦後民主主義を例示するかの
 ようにすりかえられたのだろうか。「話せばわかる」と「話を聞こう」の間にある無限
 の開き。 
・暗殺された犬養首相の最後の言葉は、「話せばわかる」だったとされた。この言は戦後
 の教科書でも紹介されて、戦後民主主義を象徴する一句として喧伝されることになった。
・確かに「話せばわかる」と言えば、教育的であり、地元選挙区の小学校の校庭の記念碑
 などに刻みこむには持って来い、という。
・この時代は、「話せばわかる」程度の生やさしい時代ではなかったという。満州事変・
 日中戦争・太平洋戦争にまで軍部に引きずられていく時代でありえようはずはなかった
 という。犬養は「話の政治」が終わりに近づいていることを意識しながら、せめて議会
 制度の最低限を守ろうと、不可能と知りつつ時代に「良心」を戻そうと企図して倒れた
 ということだろう。 
・話してもわからぬ時代だから五・一五事件があり、高橋是清、斎藤実などが亡くなった
 二・二六事件が起こったのである。それだからこそ「話せばわかる」の一語だけで、後
 世に伝えようとするのは、どこかおかしいのではないか。この一言で世の中がよくなる
 と考えるのは歴史の本質を忘れさせてしまう。 

渡辺和子は死ぬまで誰を赦さなかったのか
渡辺和子は、学校法人ノートルダム清心学園理事長のポストに就いていたが、同学園は
 「シスター渡辺和子は2016年12月30日に満89歳で帰天いたしました」と発表
 している。膵臓がんのためにこの学園内にある修道院で亡くなったという。晩年に上梓
 したエッセー集「置かれた場所で咲きなさい」はベストセラーとなっていた。
・わずか九歳で青年将校や兵士たちに父が機関銃で撃たれたその場にいて、一部始終を目
 撃したのが渡辺和子だった。渡辺が両親と共に寝ている時間、午前六時ごろ青年将校と
 兵士らは渡辺邸に侵入し、それで三人は目を覚ましたのである。父は渡辺を揺り起こし、
 母のもとへ行くように命じ、自らは暴漢に立ち向かう態勢になっていた。一度は父のも
 とを離れた渡辺だったが、心配になって再び部屋に戻ると、「どうして戻ってきたのか」
 と思ったであろう父は、部屋に立てかけてある座卓に隠れるように目で合図した。
・その寝室で軽機関銃を持った兵士たちが、父を狙って乱射し、そして父も拳銃で応戦し
 て撃ち合いになっている。まさに渡辺錠太郎は見る影もなく殺されたのである。
・九歳の少女の体験にしては、あまりにも重い。少女は政治テロの生々しい現場を見たこ
 とになる。    
・その後、渡辺は戦時下にカトリックに入信し、そして修道院生活にも入り、戦後はシス
 ターとしての人生、あるいは教育者としての人生を歩んできた。その一生はもとより宗
 教者であり、教育者であるということになる。 
・渡辺は「私たちの心の中に争いの種はあります。それは人間の性といってもいいでしょ
 う。それを受け止めなければならないのは、いつの時代も同じなのです。苦しさを抱え
 込んで生きるという意味にもなります。しかし、復讐の感情に身をゆだねれば、心の中
 の争いという苦しみはいつまでも連鎖を続けるだけだと思います。ではどうすればいい
 か、何をすればいいか、ということになりますが、私は自分の小さな世界の中だけでも
 いいから、できるだけ人を赦して笑顔で過ごしているのです。家族や友人への優しさ、
 そしてその延長としての優しさなどが大切ということになります」と述べている。
渡辺錠太郎という軍人は豊かとはいえない家庭で育ち、本来なら旧制高校、帝国大学と
 進みたいと思っていたが、つまりは学資を必要としない軍関係の教育機関で学んだ。若
 い将校のことから月給の半分は書籍代に使ったといわれているだけに、軍人としては珍
 しく学究肌のタイプであった。昭和の軍内にあっては、天皇を神権化するグループとは
 一線を画し、むしろ美濃部達吉天皇機関説を評価していた。永田鉄山らにも期待され
 ていた指導者でもあったのである。  
・そういう理知的な性格や仕事ぶりが、荒木貞夫や真崎甚三郎を頂点とする皇道派の軍人
 たちには目障りだったのだ。 
・事件に対する渡辺の見方は「私がもし怒りを持つとするならば」という前提で、「父を
 殺した人たちではなく、後ろにいて逃げ隠れをした人たちです」との理解に立っている。
 たとえば渡辺は、真崎に対して強い不信感を持っている。真崎は人事をめぐって渡辺錠
 太郎に強い不満を持っていて、それが事件の遠因だとの説もあるほどである。
・真崎は事件直後は、青年将校たちに対し、「君たちの精神はよくわかっている」と言っ
 ておきながら、昭和天皇が「断固討伐」を命じたと知ったあとは、態度を一変させてい
 る。渡辺はそのような態度に不信感を持ち、こういう生き方の中にある人間の醜さに、
 強い怒りを持っていることもわかった。それは決行者である青年将校や兵士だけではな
 く、彼らの「黒幕」でもあった指導者を赦さないとの意味でもあった。まさにそれは
 「赦しの対象外」だったのである。  
 
瀬島龍三は史実をどう改竄したのか
瀬島龍三が95年に及ぶ生を閉じたのは、平成19(2007)年9月である。四つの
 時代(大本営参謀、シベリアでの抑留生活、伊藤忠商事の経営スタッフ、行財政改革の
 臨調委員)を生き抜いたその生涯は、単に同時代人に興味を持たれるだけでなく、歴史
 的にも、昭和を語るときには異能の人物として独特の存在感を放つだろう。それほどこ
 の人物は、多様な活動をしたことになるわけだが、それゆえに、というべきか、瀬島の
 歴史的体験の中に不可解な表現を重ね合わせる論者もいる。あえて瀬島論の中に不穏当
 なレッテルを貼ったりするケースもまた多い。 
・瀬島が携わったと考えられるいちばん大きな事件が、1978年に発覚した「東芝機械
 ココム違反事件
」である。この事件は、東芝機械が昭和57(1982)年から59年
 にかけてソ連へ工作機械やそれに伴うソフトウェアを輸出したのだが、これは共産圏に
 輸出してはならない製品であった。偽りの書類を作成して輸出したとされている。これ
 らの工作機械が潜水艦のスクリューの制作に使われることになり、ソ連の海軍力が飛躍
 的に向上したというのである。 
・ココム(対共産圏輸出統制委員会)に規約に違反するこの事件は、アメリカ政府によっ
 て把握され、日本の司法当局もまた東芝機械の家宅捜査を行い、外為法違反などで同社
 幹部を逮捕するなどしている。 
・私は瀬島に会って、大本営作戦参謀という立場がいかに軍内で力を持っていたかを知っ
 た。昭和陸軍にあって参謀本部作戦課に身を置く軍人は、一般兵士によってはまさに雲
 上人であった。 
・瀬島のソ連スパイ説は昭和陸軍の軍官僚の持っている体質が、そうした噂と結びつきや
 すかったのだともいえる。これはなにも瀬島だけにいえることではなく、省部の幕僚た
 ちも通じていることだが、「都合の悪いことは決して口にしない」「自らの意見は常に
 他人の意見をかたり、本音は言わない」「ある事実を語ることで「全体的」と理解させ
 る」「相手の知識量、情報量に合わせて自説を語る」といった特徴を持っている。太平
 洋戦争下の「大本営発表」には虚偽、事実のすり替えなどの特徴があったのだが、この
 ことはそれとまったく同じなのである。瀬島はこの軍官僚の体質を戦後社会でも顕わに
 していた。それがソ連のスパイ説と容易に結びつけられることになったのだろう。 
・瀬島は、山崎豊子作の「不毛地帯」の主人公、壱岐正に自分を重ね合わせていることに
 改めで気づかされる。大本営参謀の壱岐がシベリア収容所で生死の境をさまよい、そし
 て東京三晩で証人にもなり、日本の戻ってからは大手商社にあって戦後日本の経済を支
 える。この壱岐の、歴史に振り回されながらも、現実社会で活躍を続けるその意欲的な
 姿は、まさに日本人の範のひとつたり得ている。この壱岐には、瀬島と似たような状況
 が設定されているので、瀬島がモデルだと言われ続けた。 
・瀬島龍三が、東京裁判にソ連側の証人として出廷したことは、陸海軍の軍人だけでなく、
 内務省、大蔵省などの文官たちにも衝撃を与えることになった。私がこのことに気づい
 たのは、かつての内務省の官僚 だったこと宇陀正晴ははじめ、多くの内務官僚に話を
 聞いているときだった。 
・近代日本の仮想敵国・ソ連の要請に応じて、陸軍の優秀な参謀が証言台に立つという事
 実は、共産主義へ転向したのかとの関心を呼んだのであろう。加えて昭和21年は、日
 本国内に共産党主導による組合運動、そして革命前夜を思わせる大衆運動の広がりがあ
 った。そういう雰囲気の中で、瀬島の証言は注目されたのであろう。
・東京裁判そのものよりかつての帝国軍人がどのような論理を用いて共産主義に同調する
 のか、それを確かめろということでもある。このころの日本には共産勢力も強く、官僚
 たちの中にも赤化せる者がいた。  
・昭和57(1982)年に中曽根康弘内閣が誕生した折に、中曽根首相は財界人の一人
 として、あるいはかつての大本営参謀の一人として、瀬島を巧みに使い、臨時行政調査
 会(臨調)を実質的に動かす人物に組み込んでいた。その内閣では番頭役の官房長官に、
 後藤田を据えたわけだが、後藤田や警察当局の間では、なぜ中曽根が瀬島を重宝するの
 かわからないとの声もあったという。
・軍官僚の回顧談、回想記の中には、幾つもの歪曲された事実が語られている。ある将官
 は、「これは君も決して書いてはいけない」と言って、日中戦争、太平洋戦争下のある
 残虐行為に自らが具体的にどのように関わったかを証言している。ある事件の命令者は
 誰某であり、それはこういう内容だったと言い、その結果、こうした史実が現実に起こ
 ったと説明した。驚くべき史実だが、しかし、こうしたことは表沙汰にされずに、なか
 ったことにされている。そのようなケースを含めて、史実はいかに歪曲されていったか、
 とくに軍官僚たちが史実をどう改竄したかが浮かびあがってくる。 
・瀬島の語る史実は、事情を知らない者が読んだり聞いたりすると、なるほどとうなずか
 されるものだ。この参謀は三十代で昭和陸軍の要の部分にいて国策を動かしていたのだ
 と錯覚したりする。実際に瀬島はそのような錯覚を巧みに用いている。あえて言えば軍
 官僚のこの性格は、日本の官僚の「悪しき伝統」ではないかと思う。この「悪しき伝統」
 に染まっている官僚と、そうでない官僚との区分はなかなか難しい。 
・瀬島に代表される軍官僚の言動は、「都合の悪いことは決して口にしない」「自らの意
 見は常に他人の意見をかたり、本音は言わない」「ある事実を語ることで「全体的」と
 理解させる」「相手の知識量、情報量に合わせて自説を語る」といった点にある。
・昨今の国会審議でもこれに類する官僚の無責任さは、容易に指摘できる。森友、加計問
 題での財務省の局長や官邸秘書官など、いわゆるエリート官僚は、二つのごまかしを行
 っている。「史料がない」、あるいは「記憶がない」、そして現実に史料が存在したり、
 改竄(これは部下に答弁の整合性を保つために命じる)が明らかになったら、「資料の
 存在を知らなかった」「私の記憶と異なる」と閉栓と嘘をつく。二つのごまかしのうち
 のもうひとつは、社会の常識を権力でくつがえそうとすることである。   
 
吉田茂はなぜ護憲にこだわったのか
・敗戦後の占領期に、吉田茂が首相であったことは歴史的には僥倖というべきだったので
 はないか。吉田は、昭和十年代の軍事主導体制に徹底して反対していたために、戦後の
 日本社会から旧陸海軍の肌合いを消すための強い意欲を持っていた。 
・吉田の反軍部の姿勢が明確なのは、昭和十六年十二月からの太平洋戦争をふり返っても、
 すぐに幾つかの動きを指摘できる。 
・吉田は戦時下では、外務省の長老の立場にいたのであったが、公職にはつかず、大磯と
 東京・永田町にある私邸を行ったり来たりしながら過ごしていた。大磯には元老西園寺
 公望
の秘書だった原田熊雄や華族の樺山愛輔、三井の池田茂彬、さらには久原房之助
 どの有力者が住んでいて、吉田はしばしばそのような人たちと戦争終結をどのように進
 めていくかを密かに語り合っている。さらに永田町の自宅は近衛文麿をはじめとして、
 軍事体制に不信を持つ要人が訪れて情報交換を続けていた。
・陸軍の憲兵隊の隊員と調略部門を担当する陸軍省兵務局の情報工作員が、身分を偽って
 吉田のもとに接近し、大磯の私邸には女中と書生という立場に入りこみ、それぞれ互い
 の存在を知らずに吉田の監視を続けていたのである。 
・太平洋戦争の戦時下に吉田は、歴史の残る講和工作を行っているとの事実があった。つ
 まり吉田は、戦後の政治の立脚点になる思想や哲学をすでに戦時下で歴史の年譜に刻み
 こんでいると言えたのだ。 
・日本中がシンガポール陥落で沸きたっているときに、吉田は近衛や池田、宇垣一成らと
 大胆に和平交渉を話し合っている。そして吉田は近衛に外交官出身らしい提案を行って
 いる。吉田は近衛に、「ジュネーブに行って静養していろ。そうするとさまざまな国、
 関係機関があなたに近づいてくるだろうから、それを和平のきっかけにしたらどうか」
 と言うのであった。近衛も乗り気になった。そこで内大臣の木戸幸一を通じて天皇に伝
 えようとなった。しかしこれは、結局沙汰やみになる。真相は明確ではないが、木戸が
 天皇に伝えなかったというのがその理由らしい。 
・昭和二十年二月に、天皇が個別に重臣たちに会い、和平の方向を模索しようと考えたと
 きである。平沼騏一郎を最初に若槻礼次郎、岡田啓介らと会っていき、東條英機に会う
 までにつごう七人の重臣が天皇と会見し、自説を述べた。天皇は軍事的敗北を一定の範
 囲にとどめるために、重臣たちから和平への道筋を聞こうとしたのである。
・七人の重臣のひとりとして、近衛が天皇と会見したのは十四日であった。ここで近衛は、
 一刻も早く終戦工作を行なうべきであるとの持論を述べたあとに、他の誰もが行わなか
 った上奏文を天皇に渡したのである。まったく稀有なことだった。
・この近衛上奏文は、太平洋戦争を語るときの重臣の意思のひとつとして、その後も歴史
 の中で語られることになる。それほど意味するところは大きかった。上奏文は全文約三
 千字から成り、「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候」で始まり、前半部は世界情勢
 を分析したうえで、「つらつら思うにわが国内外の情勢は、今や共産革命に向かって急
 速に進行しつつあり」と書いている。敗戦イコール共産革命の危機がヨーロッパにはみ
 られるとあった。近衛の国際情勢認識だけではとうてい書けない史実が並んでいた。
・本当にこれは近衛が書いたのか。近衛はここまでの状況認識を持っていたのか。いずれ
 も疑問なのである。これは私の知る限り、昭和史を検証している者の間では、「吉田が
 書いた」とみるほうが妥当性があるとして一致している。
・つまり吉田は、近衛上奏文を通じて天皇に対して「敗戦を受け入れてほしい」と詰め寄
 ったと言ってよかった。私の率直な感想を言えば、共産主義の脅威を通じての、直截な
 回答を天皇に求めたとも言えるように思えるのであった。 
・吉田が大磯で逮捕された日の描写は、吉田家に書生として入り込んだ工作員による手記
 に詳しい。吉田はこの日から、五月二日までは憲兵隊で取り調べを受けている。おまえ
 はアメリカと和平工作を考えているだろう、駐日大使だったグルーとは太平洋戦争開戦
 後にもかかわらず連絡をとっているのではないか、という難癖であった。 
・その間に、吉田を逮捕するとは何ごとか、と外務大臣の東郷茂徳や宮内省の側から激し
 く突きあげがあり、陸軍大臣の阿南惟幾は閣議でも抗議を受けて孤立している。結局、
 吉田は五月二十五日まで監房に閉じ込められていたが、該当する罪名はないとして釈放
 になっている。 
・吉田のこの投獄体験は、GHQの占領政策のもとでは勲章でもあった。これほど軍に抵
 抗したのだから、この男はわれわれの味方になりうると、GHQには信頼されたのであ
 る。 
・戦争が終わって、一カ月ほど後からの三カ月、その間に起こった重要な史実がある。
 ツダム宣言
の第十項に戦争責任者を裁くという一項があるが、この戦争責任者裁判を日
 本側で独自に行なおうという案が検討されていたことである。東久邇内閣が内密裏にこ
 の案を検討したのは九月十二日の閣議でのことだ。前日に、GHQの憲兵が、東京・用
 賀の東條英機の私邸に趣き、東條を戦争犯罪者として逮捕しようとしている。東條はピ
 ストルで自決を図った(未遂)
。 
・幣原内閣のもとで松本蒸治国務相が中心になって憲法改正案づくりを進めた。松本委員
 会は、大日本帝国憲法をわずかに手直ししただけの甲案、乙案をつくり、それをもとに
 GHQと交渉するつもりであった。しかしこれらの両案はとても民主的とはいえないと
 の声がGHQ内部でも強まった。とくにマッカーサーは本国政府から民主主義憲法をと
 いう要請を受けていたから、それに応えなければあらなかったのだ。
・マッカーサーは、天皇をシンボルとし、戦争を放棄し武力を持たない、封建制の廃止の
 三条件をいれて案をつくるように将校たちに命じた。この案がまとまったのは二月上旬
 のことだった。その案は、GHQ民政局の局長から吉田や松本に手渡された。これが二
 月十三日である。当初、吉田は読み進むうちに激怒したのだが、その怒りは通じず、つ
 まりは受け入れる形になった。天皇が存在することが認められたという点では、吉田を
 はじめ閣僚たちは安堵の気持ちを持った。  
・天皇機関説事件によって野に下っていた金森徳次郎は、政府の憲法改正草案要綱を朝日
 新聞の論説で「画期的」と評価した。この論説に触れた吉田は、すぐに金森と連絡をと
 り、自らの内閣の中に憲法問題専任の国務大臣というポストをつくって、金森の知見を
 頼りにすることになった。吉田は金森を最も頼りにして、憲法改正草案を現実の憲法に
 仕立て上げるためにコンビを組んだのである。吉田は、この憲法づくりに自らの政治生
 命を懸けたことがわかってくる。 
・こうした吉田や金森の動きを無視して、「占領憲法」呼ばわりしたり、「押しつけ憲法」
 と批判するのは、あまりにも皮相的であり、批判する側の見識の無さが浮きぼりになっ
 てくるように思う。 
・帝国議会での憲法論議の中で、吉田が最も強調したのは、天皇の地位である。そのうえ
 で主権在民、基本的人権の尊重、民主政治の確立、そして戦争放棄について、この憲法
 の特徴を説明している。吉田は、九条の戦争放棄についてさほど詳しく答弁していない。
 自衛権を否定しているわけではなく、自衛の名のもとに行われる戦争そのものを否定し
 ているのだ、との枠内での答弁であった。
・吉田政治を調べていくと、あるいはワンマンと評される吉田の政治手法をなぞっていく
 と、立法府の議員たちをほとんど信頼していないという実像が浮かびあがる。確かに後
 半、吉田学校と称して池田勇人や佐藤栄作などはその門弟といわれるが、しかし吉田は
 彼らを自らと対等の立場と見てはいない。いわば教え子のようなものだろう。
・講和条約発に至るまでに、日本の占領期間は六年八カ月続いた。それは日本が占領とい
 う枠内にあったにせよ、軍事主導体制を放棄して民主主義体制への舵取りを行う期間で
 あった。しばしば安倍首相とその同調者は、「戦後レジームからの脱却」などという言
 い方をしていたが、それは吉田を軸とするこのような先達をいかに愚弄しているのか、
 いや、侮っているかということになる。 
・吉田政治晩年は「三つの方向」あら追い込まれた。第一は、保守勢力からの攻撃である。
 とくに巣鴨プリズンから釈放、公職追放解除後に政界に復帰した岸信介が、吉田を除く
 保守勢力の結集を呼びかけた。それに呼応する勢力は意外に広まっていった。長期政権
 への倦きである。第二は軍事力強化を企画して、社会党との間に亀裂が生じていったこ
 とだった。第三は保守勢力を揺るがした造船疑獄事件であった。この事件は、幹事長の
 佐藤栄作や政調会長の池田勇人にも建設の事情聴取が及んだ。佐藤には検察庁から逮捕
 状の請求が出された。与党内の自由党内部に対しても不信感が高まり、内閣支持率は二
 十三パーセントにまで落ち込んだ。「吉田は東條に匹敵するファシスト」という声まで
 広がった。
 
あとがき
・近代の日本の天皇制は、「終身在位」「男系男子」という二つの柱によって支えられて
 きた。むろんこれは「近現代」に限ることであり、それ以前は生前退位はとくに珍しい
 ことではなかったし、女性天皇とて歴史上には存在している。
・あえてこの二つを法的体系のもとで縛ったのは、天皇は大日本帝国憲法上の主権者であ
 り、軍事的には大元帥という最高権力と権威を体現する存在であらしめるためであった。
・今上天皇(平成天皇)は2016年8月に、「終身在位」という制度上のあり方について、
 これは過酷すぎる制度であるとの実感から、変えてほしい旨の意思表示を行った。いわ
 ゆるビデオメッセージによって、ご自身の考え方を明確にしたわけである。これまでの
 天皇の立場から考えると、とても想像できないことだった。それゆえに私は、あえて
 「平成の玉音放送」とか「平成の人間宣言と評したのである。これは近現代天皇制のも
 っとも大きな出来事ではないかと、私は考えている。  
・東條英機という戦時下の首相を私は七年近く取材を続け、その実像を明らかにすべく評
 伝を書いたことがあったのだが、この軍官僚によって指導された戦争の実態は、むしろ
 石原莞爾と比較対照することで、その歴史的罪が浮かび上がるのではないかと考えるよ
 うになった。東條には思想や哲学がないとはよく言われたが、いやむしろこの軍官僚は
 思想や哲学の意味がわからずにひたすら現実の中で二つの選択肢のうちのどちらを選ぶ
 かとばかりに戦争を進めてきたというべきだった。  
・タイのバンコクで日本軍による捕虜虐待でなくなったイギリス人の墓地を赴いたことが
 ある。竹藪でつくった小さな資料館があった。そこを見学していると、イギリス人の老
 夫婦二組がやはりその内部を見学していた。私を中国人と間違えたらしく、日本の軍国
 主義はひどいことをすると言って同意を求めた。私のとまどいを見て、日本人とわかっ
 たらしく、夫婦は私のもとを離れていった。その視線、態度に出会ったとき、いたたま
 れなくなって私もその場を離れた。このような体験はこれまでも少なくなかったのだが、
 私はこのイギリス人老夫婦の増悪の目が何を語っているかを、そのとき初めて知った。
 若いときはその増悪の目に気づかなかったのである。