知の旅は終わらない :立花隆

必読の教養書400冊 ぼくらの頭脳の鍛え方 (文春新書) [ 立花 隆 ]
価格:1034円(税込、送料無料) (2020/10/28時点)

臨死体験 上 (文春文庫) [ 立花 隆 ]
価格:781円(税込、送料無料) (2020/10/28時点)

臨死体験 下 (文春文庫) [ 立花 隆 ]
価格:781円(税込、送料無料) (2020/10/28時点)

日本共産党の研究(一) (講談社文庫) [ 立花 隆 ]
価格:902円(税込、送料無料) (2020/10/28時点)

日本共産党の研究(二) (講談社文庫) [ 立花 隆 ]
価格:814円(税込、送料無料) (2020/10/28時点)

日本共産党の研究(三) (講談社文庫) [ 立花 隆 ]
価格:770円(税込、送料無料) (2020/10/28時点)

中核VS革マル(上) (講談社文庫) [ 立花隆 ]
価格:704円(税込、送料無料) (2020/10/28時点)

中核VS革マル(下) (講談社文庫) [ 立花 隆 ]
価格:693円(税込、送料無料) (2020/10/28時点)

宇宙からの帰還 新版 (中公文庫 た20-10) [ 立花 隆 ]
価格:946円(税込、送料無料) (2020/10/28時点)

青春漂流 (講談社文庫) [ 立花 隆 ]
価格:638円(税込、送料無料) (2020/10/28時点)

脳死 (中公文庫) [ 立花隆 ]
価格:1025円(税込、送料無料) (2020/10/28時点)

立花隆の書棚 [ 立花隆 ]
価格:3300円(税込、送料無料) (2020/10/28時点)

がん 生と死の謎に挑む (文春文庫) [ 立花 隆 ]
価格:616円(税込、送料無料) (2020/10/28時点)

自分史の書き方 (講談社学術文庫) [ 立花 隆 ]
価格:1518円(税込、送料無料) (2020/10/28時点)

天皇と東大 1 大日本帝国の誕生 (文春文庫) [ 立花 隆 ]
価格:785円(税込、送料無料) (2020/10/28時点)

「知」のソフトウェア (講談社現代新書) [ 立花隆 ]
価格:814円(税込、送料無料) (2020/10/28時点)

知的ヒントの見つけ方 (文春新書) [ 立花 隆 ]
価格:1012円(税込、送料無料) (2020/10/28時点)

「戦争」を語る [ 立花 隆 ]
価格:1100円(税込、送料無料) (2020/10/28時点)

死はこわくない (文春文庫) [ 立花 隆 ]
価格:660円(税込、送料無料) (2020/10/28時点)

エーゲ 永遠回帰の海 (ちくま文庫 たー93-1) [ 立花 隆 ]
価格:1100円(税込、送料無料) (2020/10/28時点)

「臨死体験」が教えてくれた宇宙の仕組み [ 木内鶴彦 ]
価格:1760円(税込、送料無料) (2020/10/28時点)

仕事の小さな幸福 [ 木村俊介 ]
価格:1650円(税込、送料無料) (2020/10/28時点)

抗がん剤だけはやめなさい (文春文庫) [ 近藤 誠 ]
価格:616円(税込、送料無料) (2020/10/28時点)

昭 田中角栄と生きた女 (講談社文庫) [ 佐藤 あつ子 ]
価格:847円(税込、送料無料) (2020/10/28時点)

がんと闘った科学者の記録 (文春文庫) [ 戸塚 洋二 ]
価格:869円(税込、送料無料) (2020/10/28時点)

理学博士の本棚 (角川新書) [ 鎌田 浩毅 ]
価格:968円(税込、送料無料) (2020/10/28時点)

100年インタビュー 立花隆 [ 立花隆 ]
価格:2887円(税込、送料無料) (2020/10/28時点)

児玉誉士夫闇秘録 (イースト新書) [ 大下英治 ]
価格:1012円(税込、送料無料) (2020/10/28時点)

児玉誉士夫 巨魁の昭和史 (文春新書) [ 有馬 哲夫 ]
価格:1034円(税込、送料無料) (2020/10/28時点)

悪名の棺 笹川良一伝 (幻冬舎文庫) [ 工藤美代子 ]
価格:796円(税込、送料無料) (2020/10/28時点)

昭和の「黒幕」100人 「巨魁」たちの時代 [ 別冊宝島編集部 ]
価格:880円(税込、送料無料) (2020/10/28時点)

竹島密約 (草思社文庫) [ ダニエル・ロー ]
価格:836円(税込、送料無料) (2020/10/28時点)

移植医療 (岩波新書) [ □島次郎 ]
価格:858円(税込、送料無料) (2020/10/28時点)

医療の倫理 (岩波新書) [ 星野一正 ]
価格:924円(税込、送料無料) (2020/10/28時点)

やってはいけない歯科治療 (小学館新書) [ 岩澤 倫彦 ]
価格:880円(税込、送料無料) (2020/10/28時点)

医師たちの独白 (集英社文庫(日本)) [ 渡辺 淳一 ]
価格:748円(税込、送料無料) (2020/10/28時点)

私の田中角栄日記決定版 (新潮文庫) [ 佐藤昭子(秘書) ]
価格:572円(税込、送料無料) (2020/10/28時点)

田中角栄と河井継之助、山本五十六 怨念の系譜 [ 早坂 茂三 ]
価格:1210円(税込、送料無料) (2020/10/28時点)

【バーゲン本】田中角栄の時代 [ 山本 七平 ]
価格:687円(税込、送料無料) (2020/10/28時点)

田中角栄伝説 [ 佐高信 ]
価格:748円(税込、送料無料) (2020/10/28時点)

田中角栄と越山会の女王 [ 大下英治 ]
価格:1760円(税込、送料無料) (2020/10/28時点)

田中角栄 昭和の光と闇 (講談社現代新書) [ 服部 龍二 ]
価格:1012円(税込、送料無料) (2020/10/28時点)

永田町知謀戦 二階俊博と田中角栄 [ 大下英治 ]
価格:1760円(税込、送料無料) (2020/10/28時点)

田中角栄のふろしき 首相秘書官の証言 [ 前野 雅弥 ]
価格:1760円(税込、送料無料) (2020/10/28時点)

欲望のメディア [ 猪瀬 直樹 ]
価格:806円(税込、送料無料) (2020/10/28時点)

野中広務 差別と権力 (講談社文庫) [ 魚住 昭 ]
価格:836円(税込、送料無料) (2020/10/28時点)

天才 [ 石原慎太郎 ]
価格:1540円(税込、送料無料) (2020/10/29時点)

日本の暗黒事件 (新潮新書) [ 森 功 ]
価格:792円(税込、送料無料) (2020/10/29時点)

安倍晋三 沈黙の仮面 その血脈と生い立ちの秘密 [ 野上 忠興 ]
価格:1540円(税込、送料無料) (2020/10/29時点)

中曽根康弘 「大統領的首相」の軌跡 (中公新書) [ 服部龍二 ]
価格:990円(税込、送料無料) (2020/10/29時点)

大平正芳 「戦後保守」とは何か (中公新書) [ 福永文夫 ]
価格:924円(税込、送料無料) (2020/10/29時点)

田中角栄の時代 [ 山本七平 ]
価格:1375円(税込、送料無料) (2020/10/29時点)

日本共産党 (新潮新書) [ 筆坂秀世 ]
価格:748円(税込、送料無料) (2020/10/29時点)

日本共産党研究 絶対に誤りを認めない政党 [ 産業経済新聞社 ]
価格:1430円(税込、送料無料) (2020/10/29時点)

日本共産党大研究 「躍進」と「不都合な過去」 [ 栗原直樹 ]
価格:1430円(税込、送料無料) (2020/10/29時点)

この著者の「立花隆」というのは本名だと私はずっと思っていたのであるが、この名前は
ペンネームで、本名は「橘隆志」とのことのようだ。
この本は、著者のいわゆる「自伝」である。自伝を書くようになったということは、著者
も80歳となり、そろそろ先が見えたということだろうか。
著者の蔵書数は、以前は3万5千冊ぐらいと言われていたが、この数字はもう相当古く、
いまでは7、8万冊以上になっているようだ。それにしても、3万冊以上の本を読んだと
いうことは、単純計算して1日に1冊ずつ読んだとしても100年かかる量だ。すごいと
いうほかに言葉が見つからない。私などは、これから一所懸命読んでも死ぬまでに千冊読
めるかどうかという感じだ。
著者は、好奇心のかたまりで、興味を持ったものごとに関して、ひたすら本を読み、そし
て多くの本も書いたようだが、その一番の成果と思われるものが、その執筆活動によって
現役の総理大臣だった田中角栄を退陣に追い込んだことだろうか。筆者の代表作といわれ
る「田中角栄研究」はまだ読んでいないが、この本を読んでとても興味をそそられた。
著者のことを、「単なる自己満足だ」と批評する人もいるようだが、そもそも人はみんな
自己満足のために生きているようなものだ。「世のため人のため」と公言するような人は、
なんだかあやしいと私は感じる。
著者が子供の頃に読んでいた本というなかで、「子供の科学」という雑誌が出てくるがが、
私も子供の頃にはその「子供の科学を」読んでいたことを思い出した。それから「エジソ
ン」の伝記物も読んで感動し、エジソンの真似ごとをしたりしていた。私も科学少年だっ
たことを思い出した。
著者は、いくら本を読んで知識を吸収しても、実体験が伴わなければ本当の理解というも
のはないと言う。これは、これまでにおいて3万万冊以上の本を読んできたという筆者の
実体験から出てきた結論なのだろう。ものごとを理解しようと思って、いくら本を読み重
ねて行っても、それが実際にその場に身を置いた実体験と結びつかなければ、ほんとうの
ところはわからないのだと実感したのだと思う。著者は、小学生のときに、IQテストで
周囲が驚くほどの高い数値を出し、高校生のころには、旺文社の「大学入試模擬試験」で
全国で一番だったという。そんな特別な頭脳の持ち主であった人物にしてそうなのだから、
凡人の我々は推して知るべしということなのだろう。もちろんこれは、だから本を読んで
も無駄だということではない。ものごとは、本を読んで理解できるような単純で薄っぺら
なものではないということなのだろう。
この本を読むと、いろいろ過去の出来事が出てくるが、その中で特に私に強く印象に残っ
ていた過去の出来事は、札幌医大で行われた日本初の心臓移植手術についてだ。当時私は
中学生だったこともあり、テレビのニュースを見て、少なからぬ衝撃を受けたことをいま
でも覚えている。なんだか薄気味悪い時代になってきたなというのが率直な感情だった。
そして自分は、どんなことがあってもこんな心臓移植などというものは受けたくないし、
また死んでも自分の心臓を提供するなぞというものは絶対にしたくないと思ったものだ。
なお、作家の「渡辺淳一」氏は、この当時、札幌医大の整形外科の講師をしており、この
心臓移植手術に関して小説「白い宴」を書いて批判したことがきっかけで、札幌医大にい
にくくなり、その後は作家に専念するようになったと言われている。
この本の最後のほうに出てくる、著者の最初の結婚相手だったという女性のがんとの闘い
の話は、とても興味深かった。その女性は、近藤誠氏の「患者よ、がんと闘うな」という
本に影響されて、医者が進める抗がん治療(延命治療)を強固に拒否したという。だが、
結局、そのほうが彼女にとって、残された貴重な時間を充実したものにすることができ、
よかったのだと私は思う。
なお、いろいろ調べてみるとこの女性は、翻訳家だった橘雅子さんという女性だったよう
だ。そして彼女が最後に書いた著書というのは「飛鳥への伝言 がん宣告の母から息子へ
の50通の手紙」という本のようだ。

はじめに
・どこかに生活の拠点をかまえて、あまり変化のない生活が一定限度つづくと、なにかこ
 れは変だ、こういう状態がつづくのは、人間の精神にとって健全な状態であるはずがな
 いという思いにかられてくる。
・山ほどの好奇心を抱えて、その好奇心に導かれるままに仕事をしてきた。それがぼくの
 人生なんです。 

北京時代と引き揚げ体験
・僕が生まれたのは長崎なのですが、二歳のときに、先乗りしていた父親に呼び寄せられ
 るかたちで中国の北京に渡ります。鮮明な記憶のはじまりというのは、断片的ではある
 けれども、この北京に子どもとしていた二歳の終りから五歳の終りまでの時代、つまり、
 1943年から日本が終戦を迎えた翌年の1946年までの間のことです。
・僕の立花隆という名前はペンネームで、本名は橘隆志といいます。
・父は、僕が生まれたころ、長崎にあるミッション系の活水女学校で国語と漢文を教える
 教師をしていました。 
・活水女学校はアメリカ人が創設し、アメリカの補助金を受けていた学校ですが、太平洋
 戦争で日米の国交は断絶されますから、当然、そのお金も届かなくなります。そして、
 この学校に通っていた先生も生徒も、非国民の誹りを受けるようになります。父は経済
 的な理由で学校を辞め、自分の力で糊口をしのぐ手立てを見つけていくしかありません
 でした。 
・1937年、日中戦争が開始され、その年のうちに南京が陥落すると、北京には中華民
 国の臨時政府が作られます。その臨時政府を通じて日本軍が北支(華北)を間接統治す
 るという体制ができたわけです。その体制下で、北京にいる日本人には、さまざまなチ
 ャンスがめぐってくるんです。そうしてチャンスにありついて一旗あげようとする日本
 人が、そのころ続々と中国に渡っていきました。僕の父といえば、家族を日本に残した
 状態でやむにやまれずに中国に行ったのでしょう。
・父やもともと早稲田の国文科の出身で、長崎の活水女学校は大学を卒業して最初の就職
 先として選んだところで、生まれ育ったのは茨城県の水戸ですから、長崎は故郷でも何
 でもありません。 
・父の本家筋は、江戸時代からつづく大きな染物屋で、水戸藩御用の格式の高い家だった
 そうです。父の家は分家筋にあたり、染物屋ではなくて材木問屋兼土建業を営んでいま
 した。はじめは、本家から大きな資産を受け継いだものの、父の父が大酒のみだったた
 めに、急速に散財してしまった。
・僕たち一家が北京から帰ってきたときには、先祖伝来の資産などかけらもなく、とっく
 に人手にわたっていた昔の大豪邸の庭の隅にあった小さな隠居所(そこだけは祖母が長
 く住んでいたため所有権を残していたらしい)に住まわせてもらうことになりました。
・北京に行った父は、日本で女学校の教師をしていたというキャリアを生かして、当時、
 北京市の中学や師範学校などに日本政府が配属した教官の職にありつきました。
・僕が北京に渡ったのは、大東亜戦争(太平洋戦争)が開始された翌年の1942年だっ
 たわけだから、日本ならびに日本人はまだ意気揚々としていた時代で、臨時政府につと
 める日本人公務員もかなり恵まれた生活をしていました。
・当時の北京というのは、まさに当時の中国と日本の関係の微妙さの上に置かれた街でし
 た。日本政府は汪兆銘の国民政府とは手を握り合っていましたが、蒋介石の国民政府と
 は対立していた。全体状況としては、日本軍が北京を支配しているんだけれども、完全
 に支配しているわけじゃなくて、中国社会は厳然としてあったわけです。
・僕の最初のまとまりのある記憶は、終戦後の引き揚げのときのものです。僕は5歳にな
 っていましたから、強烈でした。一家全員が一緒だったけれども、妹の直代がまだ生ま
 れてほどないころで、病気で半分死にかかっているみたいな状況で、母親はそっちにか
 かりっきりだった。あの引き揚げの工程を思い出すと、一歩間違えば、まさしく中国残
 留孤児になっていました。
・とはいえ、後々知ったところによれば、同じ引き揚げといっても、満州と北京ではまっ
 たく違っていたようです。満州や朝鮮からの引き揚げ者は、殺されたり強姦されたり、
 ほんとうに悲惨な目にあった人もいたんですが、北京からの引き揚げ者には命の危険な
 んかはなかった。というのは先に北京を制圧した国民党の蒋介石が、軍に対して「暴を
 以て暴に報ゆるな」と厳しいお触れを出して特別な計らいをしてくれたからだといいま
 す。 
・「オッカムの剃刀」とは、本当にその存在が必要とされるということが、明らかになっ
 ていないものは、剃刀で切るみたいに切り捨てろと。イエスであるものは残し、ノーで
 あるものはカットする。人間が立てる論というのは、論理の積み重ねの上でつくられる
 構造物ではない。本当に必要だという当てがなければ、すべて切り落とすのが正しいと
 いうのが、「オッカムの剃刀」の論理なんですね。
・親父のおとこで、ぼくのおとこ叔父に当たる橘孝三郎という人は、旧制一高に入って死
 にもの狂いで勉学に打ち込み、卒業する直前にやめた、といって水戸に帰ってきて、自
 ら開墾して文化村という農村青年のための施設をつくった。農民を中心とする理想社会
 を実現するためのものです。それはその後に、「愛郷塾」となります。
・右翼から極左までじつに幅広い人々が水戸の文化村にいる橘孝三郎を訪ねていたようで
 す。三島由紀夫も彼に会いに行っています。
・昭和7年の「五・一五事件」のときに、愛郷塾の中の決死隊的な連中が参加します。孝
 三郎は民間指導者として逮捕され、無期懲役の刑を宣言されます。
・橘孝三郎は海軍の計画は知らされていなかったようで、愛郷塾はまったく別の行動を起
 こします。現場で指揮はとっていませんでしたが、農民決死隊は海軍と同時に決起して、
 田端など六ケ所の変電所を襲って東京中の電気を止めようとするんです。孝三郎の意図
 は、「東京の電気を消して、農村の農民たちがどれほどの苦しみの中にあるのか、一晩
 東京の市民にじっくり考えてもらう」ところにあったようです。農民決死隊は、愛郷塾
 の熟成七人で構成されていました。
・本家が火事になったとき、すごい量の本が焼け焦げてひっくり返って転がっていた。見
 たこともない本だらけでした。でも、僕も子どもでしたし、叔父さんの孝三郎と会話を
 交わしたというような記憶はないんです。 

幼年時代から高校まで
・小学校に上がるんですが、それは茨城師範学校女子部付属小中学校というところでした。
 いまでいうと、お茶の水女子大付属小学校みたいなエリート校だったんですね。一年生
 のときに、全国的に知能検査が行われたんです。当時は「田中ビネー式知能検査」とし
 て知られていたものですが、いわゆるIQテストだったんですね。僕が学校で一番にな
 っちゃう。
・あるときフッと気がつくと、廊下に全校の先生がたが来ていて、授業中の教室の中を覗
 くんだけれども、僕のことを見ていたという記憶があります。なんか、とんでもなく高
 い数字を出した子どもがいるってことだったらしい。
・そのころの読書についていいますと、父親が国文科卒業ということもあって、家には小
 説家の全集なんかがありましたが、本というのは、いつの間にか自然に読みはじめてい
 ました。 
・中学に入って一年から二年にかけては、多読濫読の時代だった。この時には学校図書館、
 市立図書館、県立図書館と利用できる限りの所から借りて読んだので、その数は尨大な
 ものだった。もっぱら日本文学、歴史、哲学の項を読んでいたが、挙句のはてにはこの
 図書館の本を全部読んでやれという無謀な計画を立て、それを始めた。最初は順調に進
 んだが、偉人伝文庫を半分位読み進んだ時、何だか急に馬鹿らしくなりやめてしまった。
・僕は高校一年までは一貫して理科へ行くつもりだったんです。非常に強烈な印象を受け
 たのは、小学校のときの読んだ「現代科学物語」という二巻本。けっこう大人向けの本
 で、分子とか原子とかの最新の知識がのっていた。もう一つは「エジソン伝」という本
 で、けっこう面白かった。それから「子供の科学」という雑誌をずっと読んでいました。
 雑誌の後ろのほうに通信販売の案内があって、鉱石ラジオとか手製の望遠鏡とかをつく
 るのに熱中した。中学になると黒色火薬とか真空管のラジオなんかをつくったりしまし
 たね。 
・それなのに、高校の進路指導の先生に、「キミは色弱だから理科には行けない」といわ
 れるんです。いまの時代なら色弱でも理科に行って問題はないんでしょうが、その当時
 の進路指導の先生の権力は絶対的なものがありました。僕はそれで茫然自失してしまう
 わけです。 
・当時、旺文社の「大学入試模擬試験」がはじまったばかりだったんですが、その模試で
 僕は全国で一番になっちゃうんです。進路指導の先生にしてみれば、当然、東京大学の
 文科T類しか頭にないわけです。文Tは法科で官僚を目指すわけですが、そんなものに
 は興味がなかった。

安保闘争と渡欧前夜
・僕が東京大学に入学した1959年というのは、安保闘争の前年でした。あのころは大
 学生が安保に反対してデモに行くなんて、まったく当たり前の話で、行かないほうが珍
 しかった。あの時代、安保反対は全学生の常識だった。
・当時の東大生が左翼一色だったかというと、そうでもないんです。官僚の息子たちなん
 かは保守系だし、日の土曜会につながっていくような右翼的な組織もそれなりにあった
 んです。学生同士がいざ議論すると、保守系や右翼系の連中も、そっちはそっちでかな
 りの論客がいて、ぜんぜん黙っていなかったですからね。
・あのころの右翼の主流派は「児玉誉士夫」一派なんですから、半分暴力団みたいな連中
 で、本当に日本刀を振りまわしていた。
   
はじめてのヨーロッパ
・羽田から搭乗します。飛行機は世界最初のジェット機でコメットという、以前に金属疲
 労による空中分解事故を起こして有名になったイギリス製のジェット旅客機でした。
 香港、カルカッタ、カラチ、ベイルート、フランクフルト、ロンドンと給油のためにあ
 ちこちの空港に寄りながら、南回りの空路で33時間もかかりました。着いたころには
 もうへとへとで、はじめてヨーロッパに降り立った感慨にふけるどころではなかったで
 すね。
・はじめての外国暮らしで一番ショックだったのは、とにかく英語が通じないことでした。
 英語に関してはかなり自信を持っていたんですが、これは見事に打ち砕かれました。発
 音がダメなんですね。
・原爆の被害について、欧米の人はリアルには何も知らないわけです。だから、写真や映
 画をいろいろ見せられて、そりゃあ、相当なショックを受けたんですね。原爆のいちば
 ん深刻な被害は、何年も何十年もつづく後遺症の問題だとわかると、これはほかの兵器
 の問題と同列には考えられないということがわかってくるわけです。
・映画では、新藤兼一監督の「原爆の子」が受けました。上映が終わってから、純粋にこ
 れはいい映画だという意味で拍手がわいたことが何度もありました。こういう集会をし
 て面白かったのは、見た人の間で必ず激しい議論が起きたことです。とくにイタリアで
 は激しかった。共産党系の人と、反共産党系の人が、ソ連の核兵器をどう見るかで激論
 になることが多かったようです。
・ソ連の核兵器を脅威とする反共産党系が、ソ連の核兵器は平和のためにあるんだとする
 共産党系と激突していました。これは日本ではまるで見られない光景でした。この両者
 は主張がまるで正反対で、あの時代のヨーロッパでは、核軍縮運動の最大の争点はそこ
 にありました。そして、ヨーロッパでは、平和運動や反戦運動に関しては、共産党の影
 響も強いけれども、反共産主義的な平和運動、市民運動がまた歴史的にものすごく強い
 んだということがわかりました。 
・核兵器そのものの正当性を主張する人などもいて、とにかくそういう人たちが、次々に
 立ち上がって発言していく。そういうふうに立場がミックスした議論は、日本の運動で
 はあまり起きない。日本人は群れるのが習性だから、同じ立場の人間が集まって、マス
 ターベーションのような議論をして喜ぶのが普通です。
・日本の学生運動だと、ただデモをやって、警察官と押し合いもみあいの肉弾戦をやって
 汗だくになって自己満足して終わりといった具合で、議論の部分がほとんどない。ヨー
 ロッパでこういう体験をつんでいくにしたがって、どうも日本の学生運動、大衆運動と
 いうのは、世界的に見て非常に異様な形態のものなのではないかという感じをますます
 強めていきました。 
・イタリアでは、ローマ、ミラノ、ヴェネツィアなど、いろいろな街を巡り歩きました。
 とくにフィレンツェには長くいて、この街の美術館は徹底的に見ています。このときの
 旅行全体を通じて最大の収穫のひとつに、名画をたくさん生で見た、ということがあり
 ます。とにかく金がないですから、どこに行ってもできることといえば美術館や博物館
 に行くことぐらいしかないわけです。
・芸術を介して、総体としてヨーロッパの重みのようなものを感じました。この感覚は実
 際に行ってみないと得られない。とくにイタリアなんて、小さな町に行っても、驚くよ
 うな美術品があるでしょう。また、それまでにまったく見たこともない、これは何だろ
 うと思うような画のテーマもある。それを知りたいと思って調べ出すと、しだいにその
 背後にある巨大な文化の体系が見えてくる。一種の、打ちのめされたような衝撃があり
 ました。ヨーロッパ文化のそのような厚みを、自分はそれまでまったく知らなかった。
 なんてモノを知らないんだろうと思いました。
・もうひとつ、キリスト教に対する見方が大きく変わったというのもこの旅行の成果でし
 た。それまで頭の中に描いていたキリスト教のイメージは、本場に行って完全に崩れて
 しまいました。  
・ひと言でいえば、日本人はキリスト教をあまりにも純化しすぎて見ている。これに反し
 て、ヨーロッパにおけるキリスト教というのは想像を絶するほど多面的なものなんです。
 カソリック圏の聖人崇拝などは、ほとんど多神教の世界に近いものがありますね。
・ヨーロッパでさまざまの人々に会って、いろいろな会話を交わしているうちに、おかし
 いのは日本の学生運動のほうだと気がつくわけです。世界が見えていないし、歴史が見
 えていないのは、日本の学生運動の活動家たちだと思うようになった。それは学生運動
 に限ったことではなくて、日本の社会全体、日本人全体がそうなのだということがわか
 ってきたのです。 
・日本の社会というのは、基本的にいつまでも、数百年にわたってつづいてきた鎖国時代
 の延長としてあり、意識がぜんぜん開かれていない。外国の思想や文化にしても、翻訳
 でわかったつもりになっているだけで、じつはどこか本質において根本的な理解が欠け
 ているということがわかってくるわけです。
・安保反対のデモで走りまわるよりも大事なやるべきこと、なすべきことが、自分個人の
 問題としても、日本社会の問題としても、山のようにあるということに気づいたという
 ことです。 
・ヨーロッパの平和運動や反戦運動の伝統というのは、ものすごい層の厚み、日本人には
 想像を絶するような歴史の厚みに支えられている。いろんな時代に、いろんな人々が、
 いろんな団体を作って活動を行っている。それらは必ずしも永続きするような性質のも
 のではありません。しかし、それはそれでいんです。ある時期、ある問題に関して、ワ
 ッと燃えて集まって、組織を作って運動する。しばらくするとそれは、歴史のなかに消
 えていくんだけれども、消える一方で消えることなく歴史の底に積み重なっていく部分
 もある。新しい運動が起こるときには、そのなかからまた新しい力が引っ張り出される。
 そういう関係なんです。
・しかし、日本ではそうした歴史的な蓄積がないから、あらゆる運動を純抽象的に見てし
 まっている。日本の政治運動は、純抽象的な理論の流れだけを見て、こちらが歴史的に
 正しいとか、正しくないとかいう視点だけで争っている。運動への参加も、組織がバス
 をチャーターするといったような形で運んでしまうから、ひとりひとりの歴史的な体験
 知を交換し合う場がまったく存在しない。 
・そして、日本の政治運動というのは、口では民主主義を唱えながら、全然民主的じゃな
 いんです。共産党にしろ、中核、革マルにしろ、その組織の内部は、ほとんど戦前の天
 皇制に近いものになっていくようなところがある。ヨーロッパの伝統ある政治運動や市
 民運動とは、スタイルも人間も発想もまったく違う。日本の政治運動はどこか根本的に
 おかしいところがある。 
・僕は70年代に「中核VS革マル」や「日本共産党の研究」を書きましたが、あのころ
 から日本の左翼運動をいっさい信じなくなっています。現実の政治運動の担い手を信じ
 ないし、その背景の政治理論も信じません。みんなどこか根っ子のところが狂っている
 と思う。
・だからあのあとの十年以上、政治的なものへの関心がほとんどなくなって、もっぱら文
 化的なものに心を奪われていきます。文化のほとんどあらゆる領域に首をつっこんでは
 貪欲にむさぼり食い、むさぼり読むという感じの人生を送ってきました。
・人間の知的な営みについてひとこと言っておくと、人間はすべて実体験というものが先
 なんです。これは何だろうという驚きがまずあって、それを理解したいから、本を読ん
 だり、考えたりするんです。ひとつの文化体系を本で読むことだけで勉強しようとして
 も、基本的には無理なんです。それはとても勉強しきれるものではない。ある文化体系
 を理解しとうと思ったら、そこに飛び込んでその中に身を置いてしまうしかないんです。
・理解とは、百科全書的な知識をただ自分の頭の中に移し替えて獲得できるという性格の
 ものではないということです。自分の全存在をその中に置いたときに、はじめて見えて
 くるものがある。  
・だから一般的な理解などというものはありません。それぞれの人がいろいろな場所で、
 いろいろな知識を吸収して、自らの世界観を形づくっていく。そして次に、どこかの段
 階で、一度作りあげたものを壊すという過程がはじまる。異なった文化体系にふれると
 いうのことは、その重要な契機になるんです。ある知識体系が、その人の精神構造に奥
 深くに入っていればいるほど、それを壊すのは難しいしエネルギーもいるんだけれども、
 そういう過程を経なければ、自分自身の視点は生まれてこないし、底の浅いものになっ
 てしまう。何かひとつの論理体系のなかに簡単に取り込まれてしまって、外から見ると
 歴然とおかしなことでも、本人はまったく気づかないということになってしまうんです。
・この旅行をしていたころの僕は、ひとことで言うなら大人になったつもりの少年でした。
 世界について、人間について、自分自身について、あらゆることをしたり顔で語っては
 いたものの、本当のところは何もわかっていない少年でした・
・しかし、それでいいのだと思います。したり顔というのは、若者の特権だからです。大
 人になったと勘違いして、背伸びしているうちに、人間は本当に大人になっていくんで
 す。無知で傲慢で不遜でいながら、それに気づかないでいられること。それが若さの特
 権なんです。物事がわかりすぎて、考えすぎてしまったら、行動なんでできない。適当
 なところでわかったつもりになれるから、若者はがむしゃらに行動することができるん
 です。そうすると必然的に、恥じ多き日々を過ごすことになる。しかし、あとで振り返
 ってみて、自分がもうそのようながむしゃらな行動ができなくなったことに気づいたと
 き、初めてそれができた日々がいかに貴重なものであったかがわかるのだと思います。
   
文藝春秋時代からプロの物書きへ
・大学で専攻したのは仏文学です。
・文学を読んだことが僕にどんな影響を与えたかというと、第一に、ものを書いて食って
 いくという仕事を選んだことが、すでにその影響ですよね。読まないと文章は書けない。
 まず消費者にならないと、ちゃんとした生産者にはならない。それから、文学を経ない
 で精神形成をした人は、どうしても物の見方が浅い。物事の理解が図式的になりがちな
 んじゃないかな。
・もうひとつ文学を読むことで得られる大事なことは、それによってつちかわれるイマジ
 ネーションです。取材がダメな人間というのは、結局イマジネーションがないからなん
 です。はじめからすべての内容を自分からぺらぺら喋る人なんていないわけです。相手
 が何をまだ喋っていないかに気がつく能力、それがイマジネーションなんです。
・就職する直前まで会社勤めをするつもりはなかったんです。大江健三郎さんが東大に仏
 文で四年ぐらい上にいて、やっぱり大江さんみたいな存在に憧れますよね。在学中に物
 書きになって、食えるようになるのがいちばんだと思っていました。
・文藝春秋の就職試験を受けたのは、そもそも色弱のせいで大学の理科系に行けなくてサ
 イエンスの道をあきらめたから、それ以外はジャーナリストという選択肢だったんでし
 ょう。文藝春秋についてどれだけ知っていたかというと、僕が下宿していた家が「週刊
 文春」を毎週とっていたので、それを毎週読んでいました。あのころは今と違って「週
 刊文春」を知っている学生なんかはいなかったですね。会社のイメージとしては、なん
 となくインテリ学生が読むものではないという感じです。だけども、僕は「週刊文春」
 はおもしろく読んでいて、入社試験の面接で志望したのも「週刊文春」編集部で働くこ
 とでした。
・このころの文春は、給料が週払いだったんです。当時はアメリカが週給制だったはずで、
 それを真似たんでしょう。ひどく安いなあと思った。というのは学生時代の後半は、ア
 ルバイトで技術文献の翻訳をやっていて、これがいい実入りになった。だから、サラリ
 ーマンになったら、アルバイトで食っていた学生時代よりも収入が減ったんですね。
・実は入社したときには、ある女性と同棲していました。入社試験に受かってから、興信
 所が自宅に調べにきたんです。別に隠すことでもないから、同棲は会社の知るところと
 なって、あっという間に会社中に広まった。あのころは、学生の身分で同棲しているな
 んてことは稀でした。それが会社に露見したら、会社によっては入社が白紙になること
 もあるような時代でした。    
・実は、入社して蒙を啓かされたことが一つあります。デスクに「お前はどんなものを読
 んでいるんだ」と聞かされ、答えたのが小説ばかりだった。そしたら、「そんなものば
 かり読んでいるようじゃダメだ。ノンフィクションも読め」と言われた。それで「世界
 ノンフィクション全集」を一巻目から読みはじめたんです。ノンフィクションというの
 はこんなに面白いのかと思った。それまで小説ばかり読みふけっていた自分の読書生活
 は何だったんだろうと深刻な反省を迫られました。文学偏愛者というのは、この世に無
 数に存在している価値ある書物群の大半をまったく知らない人ではないかと思った。
 ウォーター・ロードの「タイタニック号の最期」など名作ぞろいです。五十巻を完読し
 たわけじゃありませんが、面白そうなものだけ拾い読みして、読んだものはどれもこれ
 も面白くて、一気にノンフィクションの世界にのめりこんでいったわけです。
・いまにしてみると、文学ばかり読んで自分はバカだったなと思いますね。しかし、これ
 以降は、ピタッと小説というものをまったく読まなくなったことをみると、決定的な衝
 撃があったのでしょう。出かける本屋までが変わりました。
・それから仕事の必要もあって、いろんな角度から社会の実態について書かれたものを読
 むようになりました。学生時代はどうしても頭でっかちの抽象的知識がもっぱらで、現
 実を知らないわけです。経済にしても、経済理論、経済史についてある程度の知識はあ
 っても、株式市場とか、個々の企業の経済問題とか、有名財界人の人間像とか、経済事
 件とか、何も知らないわけです。そこで、政治、経済、社会、あらゆる問題に関して、
 片端から読むようになりました。
・文春をなぜ辞めたかというのは、原因がいろいろあるんです。ひとつは収入の問題。
 もうひとつは、会社に入ると、三日、三月、三年で辞めたくなるっていうじゃないです
 か。確かにその通りで、三日、三月、三年できちんと辞めたくなってね。三年目で辞め
 たくなったとき、ここで辞めなかったら一生ここだなと思った。だけども、いちばん大
 きな理由というのは、いろいろな意味で仕事が嫌になったんです。忙しすぎて読みたい
 本もろくに読めない。このままいくと、自分がどんどんバカになるような気がしたんで
 すね。
・依願退職したのが1966年9月末です。文春を辞めて、東大の哲学科に学士入学する
 わけですが、なぜ哲学科なのかというと、僕はもともと哲学的思考をする人間だったし、
 二年半の週刊誌記者生活の中で世俗的なことに首を突っ込みすぎたから、少し形而上的
 なことを考えたくなったということですね。二年半も週刊誌をやったら、ちゃんとした
 学問の世界に戻りたくなりますよ。
・ヴィトゲンシュタインとの出会いは衝撃的で、彼と出会ったことによって、ある意味で、
 僕の人生が大きく変わったみたいなところがあるんです。 
・古代。中世から一挙に現代に飛び、神秘主義哲学から一挙に科学最前線に飛ぶわけです
 から、この間の飛躍は大きすぎるほど大きかったわけです。この飛躍の中で、後の仕事
 を考えると、この時点で記号論理学を学習したことが後々ものすごく大きな意味を持っ
 てきます。なぜかというと、ちょうどこのあたりの時期がコンピュータ時代、情報化時
 代、デジタル時代のはじまりに重なります。僕の仕事の中でも、コンピュータ、情報関
 係の比重が増えていくのですが、記号論理学を学習していたおかげで、コンピュータと
 いうものを、基礎の基礎から理解できたわけです。コンピュータとはそもそも何なのか
 を知ろうと思ったら、本当は記号論理学の知識が欠かせないのです。
・朝から晩まで勉強していた最中に、1969年になると、あのバカげた東大闘争が激化
 して、安田講堂事件が起きます。あれで授業がなくなり、僕は再び大学をやめちゃうわ
 けですが、何が残念だったかというと、せっかくこれは面白いと熱中して聞いていた末
 木教授のヴィトゲンシュタイン講義が聞けなくなったことでした。
・あのとき「大学解体」を叫んで運動をしていた連中には本当に腹が立ちました。だから、
 僕は東大全共闘の連中のことはまるっきり信じていません。あの連中が書いた本が何冊
 かあるんだけれども、真っ先に書くべきことは自分たちが何をやったかについてでしょ
 う。しかし、彼らはそれについては何も書いていないんだよ。ひどいもんです。
・こんなふうになし崩し的にもの書き稼業というものがはじまったんです。一方で、大学
 に残って先生になるのもたまらんなという気持ちもあったんです。それは意味が二つあ
 って、ひとつには東大のストで教師たちが示した無様な姿というのがある。もうひとつ
 は、学者になるというのは、けっこう大変なんですよ。学士入学して哲学科を出て、そ
 のまま大学院に行くつもりだったんだけれど、大学院の授業で出てみたりすると、つき
 あいきれない部分があった。そのまま大学にいたら、やがては地方の大学なんかで哲学
 でも教えることになったんでしょうが、日本の学界では、ボス的な東大教授が若い学者
 の人事を動かしていて、ボスといい関係にならないといい大学に行けない。これはと
 てもじゃないが、やってられないという感じになったんです。
・沢山の大学者を取材してわかったことは、本当の大学者ほど、何がわからないかをきち
 んといってくれるということです。あらゆる科学の世界において、実はわかっているこ
 とよりわからないことのほうがはるかに多いんです。小さな学者は、自分の研究で何が
 わかって、それがいかに意義がある発見かということばかり懸命に語る。中くらいの学
 者になると、その学問の世界全体の中で自分の研究・発見の大きさを客観的にちゃんと
 位置づけて語ることができるようになる。そして大学者になると、自分個人の研究だけ
 でなく、その領域の研究全体がまだどれほど遅れていて、どんなにわからないことばか
 りなのかを、きちんと語ってくれます。大学者は、研究の全体像が見えてくる一方で、
 知りたいことの全体像と方法論的に知りうることの全体像もまた見えてきます。
・ニュートンが、自分の一生をふりかえって、自分が発見したことなどほんとにちっぽけ
 なもので、神様の目から見たら、真理の大海を前にして、きれいな小石を二つ三つ拾っ
 て喜んでいる幼児のようなものだろうと語っていますが、それに近い心境になるのでし
 ょう。 
     
二つの大旅行
・人間の肉体は、結局、その人が過去の食べたもので構成されているように、人間の知性
 は、その人の脳が過去に食べた知的食物によって構成されているのだし、人間の感性は、
 その人のハートが過去に食べた感性の食物によって構成されているのです。
・すべての人の現在は、結局、その人が過去に経験したことの集大成としてある。その人
 がかつて読んだり、見たり、聞いたりして、考え、感じたすべてのこと、誰かと交わし
 た印象深い会話のすべて、心の中で自問自答したことのすべてが、その人のもっとも本
 質的な現存在を構成する。考えたすえに、あるいは深い考えもなしにしたすべての行動、
 その行動から得られた結末について反省と省察を加えたすべて、あるいは獲得されたさ
 まざまの反射反応が、その人の行動パターンをつくっていく。
・人間存在をこのようなものとしてとらえるとき、その人のすべての形成要因として「旅」
 のもつ意味の大きさがわかってきます。ふりかえってみれば、僕の陣し得も、大きな意
 味での「旅」でした。それは見知らぬ土地を訪ねる物理的な旅もあれば、さまざまな興
 味に導かれてさまざまな分野に広がっていく「知的な旅」でもあります。
・旅の意味をもう少し拡張して、人の日常生活ですら無数の小さな旅の集積ととらえるな
 ら、人は無数の小さな旅の、あるいは「大きな旅の無数の小さな構成要素」がもたらす
 小さな変化の集合体として常住不断の変化をとげつつある存在といってよいでしょう。
・1972年の旅行は、中近東とヨーロッパ各地をめぐり歩くほとんど9カ月におよぶ大
 旅行でした。なぜ僕が中近東に魅かれるのかというと、僕の中には、神秘思想の流れが
 常にあったのです。神秘思想は古代ギリシャから現代まで連綿としてつづくものです。
 神秘思想を読み出せば、すぐにペルシャにぶつかります。   
・1974年の旅は、イラン、レバノン、シリア、エジプトを歴訪しました。なかでも忘
 れがたいのは、パルミラ遺跡です。それは砂漠の中に残骸をさらすだけの、失われた巨
 大な古代都市で、中心部の「列柱大通り」と呼ばれる、大きな道の両側に美しい石柱が
 ズラーッと並ぶところなど、一目見ただけで、この古代都市がかつてどれほどの栄耀栄
 華を誇っていたか、容易に想像することができました。
・この古代都市は隊商路の中継点として、ローマ時代の初期に大いに栄えた都市なんです。 
 紀元三世紀にこの古代都市を支配した女王ゼノビアは伝説的に美しく、あの有名なエジ
 プトのクレオパトラと比べられるほどでした。  
・完全に滅んでしまったネクロポリス(死の都市)を見ていると、いかに力のある権力者
 といえども、政治的野望に燃えすぎると国を滅ぼし、その人自身も亡ぼしてしまうこと
 がよくわかります。そして最近では、パルミラはIS(イスラム国)とイラク軍の主戦
 場になり、ISにことごとく爆破されてしまいました。
・パルミラの遺跡を見てから、わずか数カ月もしないうちに、僕は日本に帰国して「田中
 角栄研究」を書くことになります。そして、その後何年にもわたって、にほんで比類な
 き権勢を誇ったこの男が、自己の政治権力をどこまでも拡大しつづけ、日本を支配しよ
 うとする野望に身を焦がし、やがて自ら滅びの道を辿っていくその全過程をつぶさに観
 察することになったのです。  

「田中角栄研究」と青春の終わり
・二度目の学生時代は、無用のお金を使わないようにするために、大学(本郷)のすぐ近
 くのアパート(根津)に住んで、ときどきアルバイト的な仕事で外出する以外は、ひた
 すら大学とアパートの間を往復して、もっぱら勉強ばかりしていた。
・それまでの人生、生まれも育ちも一貫して貧しかったから、貧しさに耐えることは苦労
 も何でもありませんでした。自炊さえしていれば、生活費は驚くほど安くすむことは学
 生時代からよく知っていました。自炊能力にかけては自信があって、一食百円ですませ
 るためのメニュー案をノート一冊に書いてもらっていたくらいです。
・学生当時はフリーター生活をしながらひたすら本を読んでいたのが僕の青春漂流期でし
 た。そういう生活をしながら、なんとなくなりゆきでもの書き商売に入ったのが28歳
 のときです。
・このころは、私人としても、職業人としても、山のような迷いと惑いをもちつつ生きて
 いました。人生の目的を見出せないまま、フラフラと漂流しながら生きていた。大学時
 代にある女性と同棲生活をはじめたものの、文春を辞めるのとほとんど同時に、その同
 棲も終止符を打ちました。   
・結局、僕の場合、いやおうなしに漂流時代を終わりにせざるを得なくなるのは1974
 年に「田中角栄研究」を書いたことによってなのです。あの記事が世に与えたインパク
 トが、あまりに大きかったために、僕の生活はさまざまな意味において変わらざるを得
 なくなりました。私生活においても、ほとんどこれと重なる時期に最初の結婚をして、
 子どもが生まれ、家庭を持つことになった。
・現職の総理大臣を退陣に追い込むという前代未聞の結末を生んだ「田中角栄研究」は昭
 和49年に「文藝春秋」に掲載された。
・田中は企業ぐるみ選挙といわれた参院選で、無茶苦茶な選挙をやった。つまり、彼は前
 の年にものすごいインフレを起こしちゃって、ライバル福田赳夫に頭を下げて大蔵大臣
 をやってもらう。人気がガタ落ちで、支持率が天井からドーンと一挙に落ちるんです。
 オイルショックの最中でもあり、収拾がつかなくなっちゃった。あの時期、田中はもう
 お終い、内閣は潰れる寸前だった。ところが、彼は巻き返すんですね。滅茶苦茶な金を
 使って手を打った。
・政局は爆発寸前のところを角栄に金で抑えこまれて不完全燃焼のガスが充満していて、
 秋には大波乱必至の雰囲気でした。少し前に石原慎太郎が「文藝春秋」に「君 国売り
 給うことなかれ」という角栄批判を書いて評判をとった。
・僕のなかでは、田中という人間に対してもう少し因縁めいたものがありました。という
 のは、1964年から66年まで「週刊文春」の記者をしていたときに、いわゆる「黒
 い霧事件」が頻発して、その取材にかかわっていたんです。「黒い霧事件」というのは、
 具体的な事件としては、65年の吹原産業事件、大橋事件、66年の田中彰治事件、共
 和製糖事件などがあるんですが、実は事件にならなかった疑惑が、もっともっと沢山あ
 ったんです。そのなかに、田中角栄の名前が次々と登場してくるわけです。
・田中彰治事件といわれるものは、実は中身のほとんどが田中金脈事件なんです。虎ノ門
 公園跡事件、大阪光明ガ池団地事件、鳥屋野潟事件などなど、田中角栄が小佐野賢治と
 組んでおかしな金づくりをしていることを知った田中彰治が、それをバラすぞと小佐野
 を恐喝したという事件なんです。脅した田中彰治も悪いが、脅されるようなことをして
 いた田中角栄も小佐野も悪いのです。
・1966年に田名角栄は自民党の幹事長を辞任し、それは表向きはまったく別の理由に
 なっていましたが、実は佐藤栄作から一連の黒い霧事件の責任を問われての辞任だった
 ことは、ジャーナリストなら誰でも知っていることでした。
・田中が疑惑のかたまりのような男であることをよく知っていたから、彼が総理大臣の器
 であるとは一度も考えたことがなかった。
・僕は、田中が総理大臣になったはじめから、とんでもない奴が首相になったと思ってい
 たから、「田中角栄研究」で、田中がダーティーな金造りをする人間であることを示す
 ことに何の躊躇もありませんでした。
・あれだけ長い間一つのものを追いつづけたエネルギーのもとは何かといえば、自分でも
 よくわからないが、やはり、「あんな奴らに負けてたまるか」という気持ちがいちばん
 だったんでしょうね。あんな奴らというのは、田中と田中の権力を支えていたすべての
 人間です。積極的に田中を支えていた人間はいうに及ばず、田中の権力に屈して、その
 いいなりになってしまった消極的加担者を含めてです。
・僕が昔から権力をかさにきて威張りくさる尊大な人間と、権力の前にひれ伏す卑屈な人
 間が大嫌いでした。世俗権力も世俗権力にひれ伏す人も、前から僕には侮辱の対象でし
 かありませんでした。僕はこうした意味で、政治にかかわる人間とは、根本的に価値観
 のちがうところで生きてきました。そんな僕にとって、あんな奴らに負けて引き下がる
 かどうかは、自分の生き方の根幹にかかわる問題でした。絶対に負けるものか、とこと
 ん闘ってやると思ったわけです。  
・砂漠で遺跡を見ていたころ、しばしば権力というもののはかなさを思った。遺跡という
 のは、みな本質的に権力の遺跡なのです。権力者が自分の権力の強大さを誇るために壮
 大な建造物を作る。しかしどんな壮大な建造物も時の流れには勝てない。やがて崩壊し、
 風化し、半分砂に埋もれてしまう。誰もそれを作った権力者が誰であったかなどという
 ことは記憶していません。
・田中角栄も同じです。あの闇将軍時代、あれだけ強大な権力を誇っていたというのに、
 いまでは、若い人は田中角栄の存在する知らない。つまり遺跡なんです。あと百年もす
 れば、田中角栄の名前など、誰も記憶する人がいなくなるでしょう。

・新左翼の二大組織である中核派と革マル派は、お互いに組織の総力をあげて、組織の全
 存在を賭けて、抗争を繰り広げていたんです。それは”内ゲバ”という概念をはるかに越
 えて、中核派の側は、それを”戦争”とさえ呼んでいました。
・政治家とは政治党派というのは、あくまでも自分たちに政治的にマイナスになるような
 ことは断固としていわないものなんですね。
・結局、両派にわたる死者は何十人にも及びましたが、そのほかに、植物状態と化した者
 もいたし、障がい者となった者もいる。深刻な苦悶のはてに、自殺した者、頭がおかし
 くなった者もいる。重軽症を負った者まで含めれば、百人を単位として数えることにな
 ります。日本の政治抗争史上、これほど血みどろの闘いが繰り広げられたのは、幕末の
 諸セクトがテロ合戦に走って以来のことでしょう。
・人間が、生得の殺害抑制をのりこえて他人を殺すにいたるモメントとして、何が有効に
 働くか。大別して、恐怖、怨恨、功利、正義感である。
・正義感からの殺人は、相手の存在そのものが悪であるとの絶対の確信のもとづいてなさ
 れる。殺すことは、悪を滅ぼすことであるから、正義なのである。歴史上、この殺人が
 もっとも多い。だいたい、すべての戦争における殺人がそうだ。すべての戦争は正義の
 ための戦争で、敵は悪、味方は正義なのである。
・中世における異端者の虐殺も、あらゆる革命での反革命者の粛清も、ナチスのユダヤ人
 虐殺ですら、すべて正義の名のもとにおいてなされてきた。各国でおこなわれている凶
 悪犯罪者の処刑だって、社会正義の名のもとにおこなわれていることである。
・殺人が正義の名のもとにおこなわれるとき、人はそれを是認するばかりか、歓喜し、賞
 揚さえする。しかし、正義というのは、必ずしも普遍的なものではないから、ある正義
 の尺度を持つ者にとっては喜ぶべき処刑が、他の正義の尺度を持つ者には吐き気がする
 ほどおそろしいこと、ということは、よくあることだ。ともかく、人間の発明した概念
 の中で、正義という概念ほど恐ろしいものはない。
・今にして思えば、「日本共産党の研究」は、共産党に関わった百万人を超える人々に影
 響を与えたのだから、ある意味で、「田中角栄研究」以上のインパクトがあったかもし
 れません。 
・共産党にはハウスキーパーという存在がいました。ハウスキーパーというのは、共産と
 が地下に潜る幹部に付ける女性で、身の回りの世話から下半身の面倒まで見た存在なん
 です。共産党シンパの女性にとって、幹部のハウスキーパーになるということはすごく
 名誉なことでしたから、身も心も捧げて一所懸命尽くした。

ロッキード裁判批判との闘い
・1976年(昭和51年)7月、米ロッキード社の航空機売り込みをめぐり、田中角栄
 は受託収賄とが外国為替及び外国貿易管理法(外為法)違反の容疑で逮捕されます。
・最終的に、田中は有罪判決を受けるんだけれども、あのときの検察上層部の意志は、角
 栄を有罪に持っていくという方向で完全に固まっていたわけではないんです。検察にし
 てみれば、田中が逮捕されたあと、その力をもっと増やしてくるということはまったく
 予想外だったでしょうからね。田中の力がそのあとどんどん膨らんでいく過程で、検察
 には孤立した危機感みたいなものがあったんです。だから、検察はよく最後までやり遂
 げたと思います。やはりあれは、総理大臣に三木武夫、検事総長に布施健という二人が
 いたからできたんですね。
・裁判の印象的なシーンをいくつか話しておきますと、初公判で田中角栄が泣く場面です。
 「所感」に入ってから突然絶句し、「ウー」、「エー」と奇妙な呻き声が聞こえたかと
 思うと、急に早口で原稿を読み上げる。陳述が進むにつれて、どう隠しようもなく泣い
 ていることが、全法廷に明らかになってきました。途中から、証言台の上に両手をバッ
 タリつき、頭をたれ、涙をぬぐおうともせず、数秒間、呻き声しか聞こえなかったとき
 もありました。あれは、あの場にいた人しか知らない、すごい場面です。
・大の男が、しかも総理大臣までやった男が、いまなお日本でもっとも権力があるといわ
 れている男が、人前で声をたてて泣くところを見せつけられれば、誰だって心を動かさ
 れずにはいられません。 
・もしあの場面がテレビで中継されていたら、田中角栄は一挙に世論を逆転させることが
 できたかもしれません。    
・ずっと後の公判になりますが、決定的だと思ったのは、榎本敏夫の被告人質問をやって、
 一通り検察、弁護側の尋問があったあとに、裁判官が質問するんです。あれで榎本のア
 リバイやら何やらが支離滅裂になっちゃった。裁判官の質問があまりに鋭すぎたんです
 ね。あれはすごかったです。質問に対して帰ってきた答えにまた質問を重ねる形で、矛
 盾を突いてくる。だから、榎本はおろおろして支離滅裂になっちゃったんです。それを
 弁護人が助けるわけにもいかずに、呆然として見ている。あの時もう弁護団は、裁判官
 の心証がはっきりわかったんだと思う。これはもうダメだとね。
・公判の最終局面で、田中角栄の被告人質問をやるかどうかが問題になって、「堀田力
 検事が、被告人質問をやりますといったときの、田中角栄の顔がすごかった。怒りで真
 っ赤に充血した顔で堀田さんを睨みつける。堀田さんが喋っている間、ずーっとです。
 でも堀田さんは平気な顔で、しゃあしゃあと喋る。いささかもひるむことなく、いつも
 の冷静さで、綿密な論理で田中角栄を追いつめていきました。しかも、この日ばかりは、
 「被告人田中角栄」と呼び捨てです。これは、ロッキード裁判の6年間の法廷を通じて、
 もっとも印象に残る場面の一つでした。
・一審で有罪判決、二審でも有罪、最後は最高裁まで行くんだけれども、田中角栄は病気
 で倒れるまで死に物狂いだったんですね。 
・田中が病に伏すと、あのころ盛んにあった裁判批判や、田中支援の言説というのは、あ
 っという間になくなっちゃった。裁判についてもの申していた連中は、これは田中擁護
 のためではなくて、司法の正義を守るためだとか何とか、そういうお題目を唱えていた
 んだけれども、そんなの田中が力を失ったとたんにみんななくなっちゃいましたね。
・しかし、あの裁判というのは謎だらけでした。「中曾根康弘」が事件にどこまで絡んで
 いたのかとか、機種選定でロッキードが決まったときに用意されたはずの、ダンボール
 ひと箱分の新札がどこに消えたかわからないとか。
・ダグラス・グラマン事件についても、第四次防衛大綱の輸入軍用機選定をめぐる疑惑が
 噴出してきて、ロッキード事件と絡み合ってくる。「岸信介」元首相の突然の政界引退
 は、どう考えても検察との話し合いで辞めたとしか考えられない節がある。検察の捜査
 は、秘書の周辺から岸そのものに迫っていたんですね。
・死者がつぎつぎと出たというのも、この裁判の特徴でした。田中角栄の運転手・笠原の
 自殺、日商岩井の担当者・島田三敬常務の飛び降り自殺、児玉誉士夫とロッキード社の
 通訳だった福田太郎の死、丸紅の松井直副部長の死・・・いつも事件の鍵を握っている
 人物がぽっと死んでしまって、捜査が行き詰る。大事な人がみんな、とても自殺なんか
 しないような状況で死んじゃうんです。
・田中角栄は1974年の秋に、金脈問題のスキャンダルによって総理大臣の座からすべ
 り落ちますが、ロッキード事件以後、田中金脈の問題はロッキード事件の陰にかくれて
 しまい、世人もそのことを忘れてしまう。田中角栄にいたってはそれをよいことに金脈
 については頬かぶりのままで通そうとしていた。
・ロッキード事件は裁判によって決着がつけられますが、金脈問題は、それでは結着がつ
 きません。あの金脈そのものはどうなったのか。田中の釈明はなくても、あの金脈マシ
 ーンだけはストップさせたのか、それともいまだに健在なのか、そこを再調査してみた
 わけです。結果としては、田中金脈はあれ以後もひとときも休むことなく活動をつづけ、
 その後ますます拡大発展をとげたばかりか、そのいかがわしさ、あくどさの度を加えて
 いったんです。     
・「田中角栄 新金脈研究」を少しでも読めば、田中金脈の怪奇な実態に驚くはずです。
 これが一時は日本国の総理大臣をつとめた男のやったことかと信じられない思いがする
 はずです。政治の表面ではいろいろ偉そうなことをいっていても、裏にまわるとさもし
 い金儲けと税金逃れに精を出していたのが、田中角栄という男の実像なんです。
・田中は、金儲けと税金逃れはほとんど病気の域にたっしていて、何を見ても金儲けと結
 びつけずにはいられない、そういう男でした。金儲けは、田中においては病的な本能だ
 ったんですね。こういう人は実業家のままでいればよかったのに、なまじ政治的野心を
 持ったばかりに、末代恥をさらすことになったわけです。
・とはいえ、ここ何年か前から、田中角栄を再評価する本が何冊も出ました。名言集やら、
 その昔、角栄に向けて、「君 国売り給うことなかれ」で一石を投じた石原慎太郎氏に
 いたっては「天才」などという本まで書きました。僕にいわせれば、冗談じゃないよ、
 いい加減にしてほしいという気持ちです。     
・確かに、仕事で周囲にいる多くの人間に忌み嫌われた娘の田中真紀子とちがって、父の
 角栄は周囲の誰からも好かれたし、その人心掌握術にはすごいものがありました。しか
 し、角栄政治がもたらしたものを冷静かつ客観的に評価するなら、基本的に害毒以外の
 何ものでもありません。  
  
・1983年10月、田中角栄に対して、「懲役四年、追徴金五億円」の一審有罪判決が
 下ります。僕が厄介なことに引き込まれるのはそれからなんですね。一審判決からほど
 なくして、ロッキード裁判批判キャンペーンがはじまったからです。
・「渡部昇一」氏の最初の論文をパラパラめくってみて、その内容があまりにもお粗末だ
 ったので、こんなものが社会的影響力を持つはずがあるまいと思った。しかし、渡部氏
 のような人が一人で奮闘している間はともかく、石島泰氏や井上正治氏のような、法曹
 界でそれなりに盛名を得ている人がキャンペーンの中心になってくると、そのインパク
 トもちがってきます。 
・渡部昇一氏は、たしかに量的には一番多くの裁判批判論を書いていました。しかし、質
 的にはたいへん水準が低く、いわば汁がジャブジャブの雑炊のようなもので、量は多く
 とも内容的にはきわめて貧しいものでした。知的水準からしてみれば、渡部氏の論はま
 ったく重要ではなかったのですが、絡んでくる執拗さにおいては最大の裁判批判論者で
 した。 
・「山本七平」氏も、その水準はといえば渡部昇一氏と大同小異で、裁判用語の無理解と
 単なる事実誤認にもとづき妄想を繰り広げ「裁判批判」と称しているだけでした。

宇宙、サル学、脳死、生命科学
・僕の興味の中心は、宇宙体験という、人類史上もっとも特異な経験をした宇宙飛行士た
 ちは、その体験によって、内心的にどんな影響をこうむったかということでした。
・宇宙飛行士というのは、基本的にはボルトとナットで出来ているタイプが多いと言われ
 ています。技術屋であまりロマンチックな人々ではない。ボーっと地球に見とれていた
 ために、大気圏突入のための操作の時間がちょっと狂ってしまって、あやうく宇宙に弾
 き飛ばされかけた宇宙飛行士がいたくらいだから、基本的にはボルトとナット型じゃな
 いと務まらないわけです。 
・アポロ9号に乗ったラッセル・シュワイカートは、「宇宙体験すると、前と同じ人間で
 はありえない」と僕に語りました。宇宙体験の内的インパクトは、何人かの宇宙飛行士
 の人生を根底から変えてしまうほど大きなものでした。
・スカイラブ4号で宇宙に行ったエド・ギプスンは、「これは特筆すべきことだと思うん
 だが、宇宙体験の結果、無神論者になったという人間は一人もいないんだよ」と言いま
 した。たしかに、漆黒の闇に浮かぶ青々とした地球を見たときに「神」の存在を信じた、
 と多くの飛行士が話したんです。
・アポロ14号に乗って月面に降り立ったエド・ミッチェルは、「神とは宇宙霊魂あるい
 は宇宙精神であるといってもよい。宇宙知性といってもよい。それは一つの大いなる思
 惟である。その思惟に従って進行しているプロセスがこの世界である。人間の意識はそ
 の思惟の一つのスペクトラムにすぎない。宇宙の本質は、物質ではなく霊的知性なのだ。
 この本質が神だ。キリスト教の枠は狭い。あまりにも狭い。あらゆる既成宗教の枠は狭
 い。硬化している。既成宗教の枠組の中で語ろうとすると、その宗教の伝統の重みにか
 らめとられてしまう。伝統による人間の意識の束縛は大きすぎるほど大きい」
・「人間はガイアの中で生きている生物であることを自覚して生きていかなければならな
 い。ガイアによって、人間は何ものでもないが、人間はガイアなしでは生きられない」
 とシュワイカートは語った。そして、こうもいいました。人類が宇宙に進出する時代に
 なったということは、これまでずっと母なるガイアの胎内にいた人間が、はじめて母の
 胎内から外に出ようとしているということではないか。これは人類が大いなる宇宙進化
 の第一歩を踏み出そうとしているということなのではないか。

・およそ人間というものに興味を持つ知的人間であれば、サル学に興味を持たないはずが
 ないんです。そもそもヒトとはいかなる存在で、ヒトのヒトたる所以はどこにあるのか。
 ヒトと動物は本質的にどこで区別されるのか。人間性とは何なのか。何が人間的であり、
 何が人間的ではないのか。人間はどこから来たのか。ヒトがサルから進化したというの
 はどういうことなのか。このような問いに答えようと思ったら、ヒトはサルに学ぶしか
 ありません。   
・ヒトと動物とのあいだに一線を画することができるものがあるとすれば、それはヒトと、
 ヒトの最近縁種であるサルとのあいだに画されます。ということは、サルの何たるかを
 知った時はじめて、ヒトはヒトの何たるかを知ることができるわけです。
・人間社会には、あらゆるサルの代表がいます。ゲラダヒヒ的人間もいれば、チンパンジ
 ー的人間、ゴリラ的人間もいる。つくづく、「人間っていうのは、何というサルなんだ」
 と思った。  
・サル学をやっていてものすごく面白かったのは、セックスがいろいろな側面に効いてく
 るということでした。サルの性行動の中には、人間の性行動の多様性のほとんどがある
 んです。同性愛や不倫もあるし、乱交もあります。
・ピグミーチンパンジーは、いろいろなトラブルをセックスで解消するんです。だから、
 オスとメスはもちろん、オス同士、メス同志もしょっちゅうやっていて、三人プレイま
 であって、それは人間が診て驚くほどです。セックスが挨拶がわりなんですね。
・ピグチンの専門家である加納隆到氏は、「メス同志が性器ををこすり合わせて楽しむと
 いうのは、ピグミーチンパンジー以外に外の類人猿では例はありません。他には、人間
 のレズビアンだけでしょう。オスとメスの交尾のときも、メスはクリトリスを一生懸命
 押しつけるようにしてしますしね。だからメスは対面位でやりたがります。それに対し
 て、オスはどちらかというと後背位が好みらしいんですが、後背位で始めても、メスが
 感じてくると、途中で対面位に体位を変えたりします」と語った。
    
・日本初の心臓移植が行われたのは1968年、執刀したのは札幌医大の和田寿郎教授で
 す。その際、和田教授はドナー(心臓提供者)とレシピエント(心臓受容者)の双方を
 殺したのではないかという疑いをかけられて、殺人罪で刑事告発されました(不起訴処
 分で終わる)。そのためにそれ以降、日本では心臓移植がタブーになっていた。
・人間において心臓移植を可能にする唯一の条件は、心臓は生きているが、その人は死ん
 でいるという脳死者の存在ということになります。「生きた心臓を持つ死体」という摩
 訶不思議な存在があってはじめて、心臓移植は可能になるのです。
・1985年12月に厚生省は「脳死判定基準」なるものを発表しました。しかし、その
 発表は、内容的におかしいのではないかとおもわれるところが随所に見つかるようなも
 のでした。この判定基準でやったら生きている人の心臓をとってしまうおそれが十分に
 ありました。つまり、判定基準の作り方が全然論理的じゃないわけです。
・当時、脳死の人から腎臓摘出は30件以上あったわけですが、あのようなずさんな脳死
 判定基準に依拠していたら、完全には死んでいない人から臓器がとられている可能性は
 十分にありました。    
・厚生省の判定基準の定義では、脳が機能的に死んでいるということしかいっていなくて、
 それは生物的に死んでいるということじゃないんです。やっぱり、人間が死んだという
 ためには、脳が生理学的に死んだという状態までいかないと、本当の脳死じゃないと僕
 は思ったのです。 
・やはり何よりも必要なのは、脳死とはそもそも何であり、それは本当に人の死と認めら
 れるのかという、脳死の根本問題の解明です。
・人が死ぬためには、一つ一つの臓器や組織がすべて完全に死ぬ必要はない。しかし、脳
 だけは完全に死ぬ必要がある。なぜならそれが完全に死なないことには、その人が死ん
 でいることにはならないからだ。他のいかなる臓器死も人の死ではない。心臓という臓
 器の死もいまでは取換えか人工的置換えが可能だから、それだけでは人の死とならない。
 しかし、脳という臓器だけは、臓器死が人の死とイコールになる。
・1988年1月に、日本医師会の生命倫理懇談会が「脳死および臓器移植についての最
 終報告」をまとめ、その中で、脳死を個体死と認め、脳死状態からの臓器移植を容認す
 るとともに、脳死の判定基準として竹内基準(厚生省基準)を基本的に認めた。
・これがゴーサインとなって、脳死者からの心臓移植や肝臓移植が続々と行われるように
 なるのではないかと予測されたのですが、実際には、その報告の内容に対してさまざま
 の異論が出たことから、脳死者からの腎臓移植が一部で行われただけでした。
・札幌医大で行われた和田心臓移植は、まだ生きている提供者から心臓を摘出したのでは
 ないか、そうでなくても移植をはやるあまり、仮死状態の提供者に治療を施さなかった
 のでは、と告発された。結局、証拠不十分で不起訴になったものの、当時の札幌地検の
 捜査報告書から、
 ・提供者の脳波を測定したというのはウソ
 ・死亡時刻も事実と相違
 ・関係者が口裏を合わせた疑いが強い
 などの重大な点が明らかになった。
・過去の疑惑にきちとんとケジメをつけず、むしろほおかぶりしたまま、ひたすら脳死と
 臓器移植の容認へと走り続ける一部の医師とその周辺の人びとの体質には、国民として
 強い不信、不安を禁じ得ない。      
・世界各国で心臓移植が一般的な医療となりつつあった当時、なぜ日本で心臓移植に心理
 的抵抗が強かったか、なぜ移植医に対する不信感が強かったのかといえば、不起訴処分
 になったとはいえ、すべては和田移植の問題に突き当たったからです。その移植が疑惑
 だらけの事件だったからです。 
・ドナーの山口義政君は、本当は脳死していたのではなく、まだ救命の可能性があったの
 に心臓をとられてしまったのではないか、レシピエントの宮崎君は、心臓移植を受けな
 ければ助からないほど、の重症患者ではなかったのに、移植手術を受けさせられたため
 に、わずか83日で死んでしまったのではないかという疑いです。 
・二年間におよぶ捜査の結果、検察当局は和田教授を不起訴処分にしたのですが、和田教
 授の潔白が証明されたからではなく、疑惑は依然としてきわめて濃いけれども、証拠が
 不十分だったのです。証拠不十分の背景には、移植チームが和田教授を守るために口裏
 を合わせ、真相解明を阻んだことと、証拠が隠滅されたことがあります。
・心臓移植事件調査特別委員会の報告書は、「本件はドナーの山口君については作為によ
 る殺人罪、レシピエントの宮崎君については未必の故意による殺人罪を構成すると見る
 のを妥当とし、両件とも仮に殺人罪を構成しないとしても、業務上過失致死罪の成立は
 まぬがれえない」とまとめました。和田移植は少なくとも過失致死だったということで
 す。そして、「和田心臓移植は、虚構にはじまり、虚構に終わったと言っても過言では
 ない。それは医療過誤の問題ではなく、医の倫理から論ずるべき問題でもない。それら
 よりはるかに低次元の事件であり日本医学史上の一大不祥事である」と断定しています。
・実際、報告書を読んでみると、どうしてこんなに平気でウソがつけるのかと不思議なほ
 ど和田教授の言うことはウソだらけでした。   
・和田教授は、拒絶反応も起こらず、心臓移植そのものは成功だったと主張した。しかし、
 病理解剖の結果は、和田教授の言に反して、拒絶反応は起きていたし、それを抑えるた
 めの免疫抑制剤の使用がもたらした副作用が死因でした。
・心臓移植手術そのものは技術的には比較的やさしく、ちょっと腕のある心臓外科医なら
 ば誰にでもできることで、難しいのは、手術後に出てくる拒絶反応を抑えて患者を浮か
 しつづける術後管理です。心臓移植は拒絶反応との闘いにはじまり、拒絶反応との闘い
 に終わるともいわれています。  
・「和田教授の拒絶反応及びその抑制剤に対する知識、経験は皆無にひとしいのである。
 このような知識不足、研究不足の状態で心臓移植をするなどというのは、まったく無謀
 の極みで、彼らに心臓移植手術の資格はなかったというべきである」と報告書は断じて
 います。 
・さらにいえば、宮崎君はそもそも移植手術を受けなければならない患者ではありません
 でした。宮崎君の病気は、「僧帽弁の狭窄兼閉鎖不全」でしたが、僧帽弁を人工弁に替
 えれば社会復帰できるくらいのものでした。 
・ところが、和田教授は、宮崎君の心臓は、僧帽弁だけでなく、三つ以上の弁が悪い箸に
 も棒にもかからぬ状態で、心臓移植以外に助かる道はないと宮崎君の両親を説得して手
 術を受けさせたのです。
・宮崎君の本当の病状はどうだったのかを判断するには、宮崎君の心臓の弁を検査してみ
 ることが必要でした。ところが驚いたことに、宮崎君の心臓は取り出されたあと六カ月
 間にわたって行方不明になったのです。そして、六カ月後にようやく提出されたときに
 は、その心臓の四つの弁は切り取られた状態だったのです。残された弁の病理学的検索
 によって、宮崎君の僧帽弁は人工弁への置換だけですむ病状だったことが明らかとなっ
 たのです。  
・ドナーであった山口君については、もっと大きな疑惑がありました。山口君は脳死にな
 っていないのに、つまり、まだ生きているうちにその心臓を取り出されてしまったので
 はないかという疑惑です。 
・山口君は移植手術前日の正午ごろ、海岸で水泳中に溺れ、心拍も呼吸も停止していたた
 め、一事は絶望視されていたのですが、救急車で小樽市内の野口病院に運ぶ途中、人工
 呼吸で奇蹟的に蘇生しました。同病院で当直医の診察を受けて、意識は戻らないものの、
 酸素吸入器を取り外すほどに回復しました。
・しかし、当直医が帰宅したあとで、病院長の野口氏は、患者の容態が急変したから高圧
 酸素療法を受けさせる必要があるとして、山口君を札幌医大の和田外科に送り込みまし
 た。しかし、その夜の10時10分ごろ、山口君は脳死状態でもう助からないから、移
 植のために心臓を提供してもらえないかと和田教授が山口君の両親に願い出て、その許
 しを得て、午前2時すぎに心臓を摘出したということになっています。
・しかし、調べてみるとこれがおかしなことの連続だったのです。まず、山口君の札幌医
 大へ運んだ救急車の係官は、山口君が血色もよく健康そうなので、なぜ急に大学病院に
 転院させるのかと聞いたら、野口院長が「脳波の働きがなくなった」と説明したといい
 ます。しかし、野口病院で脳波の測定はしていなかった。札幌医大では、一応高圧酸素
 室に運ばれたが、実際には高圧酸素療法はほどこされず、すぐ手術室に移された。結局、
 山口君は、心臓も動き、自発呼吸もあり、十分蘇生可能な状態であったのに、はじめか
 ら、蘇生の努力もせずに、心臓移植のドナーにされてしまったのです。
・和田教授は、山口君の脳死は、平坦脳波によって確認したというが、手術室には脳波計
 は存在しませんでした。記録がなかったのは脳波だけでなく、心電図も血圧計も記録が
 残っていないし、脈拍、心音の記録もない。カルテも「一筆書」の記録があるだけとい
 う。およそまともな医療機関とは考えられないほど、何も記録が残されていなかった。
 これでは、証拠が隠滅されたと見られても仕方がありません。
・しかし、山口君が最終的に心臓摘出時点でどのような容態にあったかは重要な問題では
 ありません。心臓移植のドナーにしようという共通の目的をもった医師団が、患者を他
 の者の目にふれさせず6時間以上にわたって勝手に処置できれば、6時間前には健康で
 あった人を本当脳死者に仕立て上げてしまうことくらい簡単にできるからです。

立花ゼミ、田中真紀子、言論の自由
・精神的健康さを養うために、若いうちは、できるだけ沢山の思想的浮気をするべきなん
 です。異性体験に関して、「できるだけ沢山の浮気をしなさい」なんていったら物議を
 かもしかねませんが、思想に関しては、そうすべきであるとはっきりいいます。浮気が
 足りない人は、簡単に狂うんです。簡単に溺れて、自分が溺れているということすら気
 がつかないことになるんです。人間の頭は狂いやすいようにできているんです。
・1995年はオウム真理教による地下鉄サリン事件が起きた年です。これに関して、作
 家の司馬遼太郎さんは、「日本人には強烈な善人も少ないかわりに、強烈な悪人も少な
 い。それがわれわれの劣等感でもありました。ここにきて初めて、史上最悪の人間を持
 ったのかもしれません。殺人行為を犯したものは、教団のごく一部で、大部分の信者は、
 そんなことが行われていたとは全く知らなかった。殺人行為を犯した信者にしても、理
 屈としては、全人類の救済のために人を殺したと思っている。正義のために人を殺すと
 いう例は宗教史の中にたくさんある。異端の処刑、異教徒の征伐はみんなそうです。異
 端、異教徒は人間じゃない、悪魔だと思っているから平気で殺せる。殺すのが正しいと
 思っている」と言った。
・類似性という意味においては、暴走した昭和の軍部にもオウムと同じような部分があっ
 た。空理空論にのめりこみ、妄想をたくましくして突き進むのは、オウムだけではなか
 った。そういう組織を生んでしまうのは、日本人の資質なのかもしれません。 
   
・2001年9月に、ニューヨークの世界貿易センタービルが破壊された同時多発テロ事
 件がおきました。よく新聞論調などで、これを「文明の衝突にしてはならない」という
 言い方がなされることがあるが、私はそれは誤りだと思う。「文明の衝突は」これから
 するさせないの問題ではなく、すでに千年も前から起きているのである。その衝突が千
 年間もつづいてきた結果として今日の事態があるのである。
・世界の諸文明が互いに対立し、分裂を深めようとしている現在にあって、いかにすれば
 その対立を克服し、結合をはかっていけるか。その解決策は結局、世界国家を作る以外
 にないのですが、世界的な規模で最大限国家を作ることは無理だろうから、最小限国家
 を作ることだろう。最小限国家とは、価値観における共有部分、つまり制度的縛りや文
 化的縛りを、最小限にするような国家のことです。上からの縛りはできるだけ小さくし
 て、成員の各メンバーにできるだけ多くの自由を与えるような国家です。「みんないっ
 しょに」、「みんな同じように」という画一化に向かう部分はできるだけ小さくしよう
 とする方向性なのです。 
・アメリカは社会のタイプとしては、最小限国家型でした。ところが、同時多発テロを境
 にして、明らかに最大限国家型となり、自分の縛りを押しつけ、また、自分の規範に従
 うことを相手にも求める方向に向かいました。それは「味方でなければ敵」の論理でも
 あります。いってみれば、それはガキ大将のやり方そのものなんです。しかし、世の中
 は、それほど単純に白黒つけられるものではありません。本当の味方を多くしたければ、
 最小限国家の「敵でなければ味方」の論理を使うべきだと思います。

・2001年の自民党総裁選で小泉純一郎と田中真紀子という二人の傑出したTV政治タ
 レントが結託することによって小泉政権が生まれ、真紀子は外務大臣に就任し、政権は
 異例の高支持率を獲得します。 
・真紀子は外務大臣になると、アーミテージ米国国務副長官との会談を勝手にキャンセル
 したり、米同時多発テロ後の国務省職員の避難先など「重要機密情報」をペラペラしゃ
 べりまくったり、シンガポールではワーキングディナーを「歯痛」で欠席したり、指輪
 がなくなったと秘書官を泥棒よばわりした上にイラン外相との会談に遅刻したりしまし
 た。
・一番すごい話は、自分が気にくわない斉木昭隆人事課長を追い払おうとして、外務省人
 事課の女子職員に、同課長を免職にするという辞令を作成させようとした事件です。い
 うことを聞かない女子職員を事務室に閉じ込め、自分もその事務室にいっしょに入って
 内カギをかけて閉じこもり、さらに強要を続けたという、いわゆる「監禁強要事件」で
 す。  
・外交も外務省内の実務も完全な機能不全に陥り、それをみかねた小泉首相は真紀子を更
 迭せざるを得なくなります。真紀子に外務大臣の私室がないという問題は、週刊誌が最
 初に提起し、新聞もある程度は書いていましたが、テレビはほとんどやっていません。
 というのは、テレビのとくにワイドショーの視聴者層は圧倒的多数が真紀子ファンだっ
 たので、テレビは真紀子を正面切って批判できなかったのです。
・週刊誌報道を読むような人たちは、真紀子の罷免を当然すぎるぐらいに思っていました
 が、テレビを主たる情報源としている社会のマジョリティはそうは思わなかったわけで
 す。小泉の真紀子罷免は突然起きた、わけのわからないとんでもないことだと受け止め
 られて、その反動から小泉の支持率は一挙に半減してしまった。その直後に、真紀子は
 自らの秘書給与問題が浮上して、議員辞職に追い込まれるわけです。
・真紀子は本質的なポリテシャン(政治家)といえるレベルの人間ではありませんでした。
 時の政治課題について与野党の論客相手に丁々発止の議論なんかはできない。ちょっと
 気のきいたセリフとか、感情的なコメントとかはポンポン出せる人ですが、彼女が本格
 的な政策論争に加わっているところは見たことがありません。要するに彼女は、ワイド
 ショーに出てきて威勢よくしゃべりまくるテレビタレントの部類だったんですね。日本
 の政治は、田中真紀子の登場以来、救いがたく低劣化し、ワイドショー化してしまった。
・もちろん、そうした事態を一挙に進めたのは、小泉純一郎です。首相になった小泉が、
 毎日テレビカメラの前に出てきて、「一言タレント」を演じ、TVメディアがその一言
 を何度もCM的に流しまくるということが常態化するようになって、日本の政治のTV
 化は不可逆過程に入ってしまったのです。
・真紀子もまたそうした印象的な一言を繰り出す能力において、たぐいまれなタレント性
 を持っていたために、ワイドショー化した政治のスターになったわけです。真紀子は反
 射神経的な言語能力においては、なんとも言えない天性のものがありました。

・言論にはいい言論と悪い(低俗な)言論があって、悪い言論は叩きつぶしたほうが世の
 ためだという考え方が、最近日本で急速に広がっているようですが、これはとても危険
 な考えだと思う。そういう流れの一つとして、自民党を中心に着々とすすめられていた
 メディア規制立法があります。そういう人たちがやがて、言論の最悪の抑圧者になって
 いくのです。  
・イギリスの詩人・ジョン・ミルトンは「我々は清浄な心をもってこの世に生まれるので
 はなく、不浄の心をもって生まれてくる。我々を浄化するのは試練である。試練は反対
 物の存在によってなされる。悪徳の試練を受けない美徳は空虚である。美徳を確保する
 ためには、悪徳を知り、かつそれを試してみることが必要である。罪と虚偽の世界をも
 っとも安全に偵察する方法は、あらゆる種類の書物を読み、あらゆる種類の弁論をきく
 ことだ。そのためには、良書悪書を問わずあらゆる書物を読まなければならない」と言
 っている。 

香月泰男、エーゲ、天皇と東大
・現代日本は、大日本帝国の死の上に築かれた国家です。大日本帝国と現代日本の間は、
 とっくの昔に切れているようで、じつはまだ無数の糸でつながっています。大日本帝国
 の相当部分が現代日本の肉体の中に養分として再吸収されて、再び構成成分となってい
 るし、分解もせずにそのまま残っていたりもします。あるいはよみがえって今なお起き
 ている部分すらあります。歴史はそう簡単には切れないのです。
・日本の近現代史における最大の役者は、なんといっても天皇でした。その時代時代の生
 身の天皇がそれだけ大きな役割を果たしてきたということではありません。天皇という
 観念、あるいは制度としての天皇が中心的な役割を果たしてきたということなのです。
・天皇は昭和戦前期からウルトラナショナリストたちの国粋主義的シンボルとなってしま
 いました。それはその当時、アジア全域に武力国家として膨張し版図を広げようとして
 いた帝国日本の政治シンボルでもありました。同時にそれに国粋主義的現人神神話が結
 びつくことで、天皇は政治と軍事と宗教が一体化した強力無比な神聖シンボルとなって
 いきました。この神聖シンボルが日本国の最高価値としてあがめられ、「国体」という
 観念が日本を魔術的に支配しました。
・あの時代の日本の歴史の大転換を中心的に動かしたのは、天皇という存在であり、天皇
 イデオロギーであり、天皇イデオロギストでした。そしてそのような天皇観の相克がも
 っとも激しく起きた中心舞台が東大だったのです。
・日本国民が総右翼化したあの時代を、現代の日本人はどうしても理解できなかった。僕
 にしても「血盟団」とか「天皇機関説」なんて、言葉しか知らなかった。
・いま日本人が忘れているのは、もしも日本があの戦争をああいう形ではじめず、第一次
 世界大戦と同じように、戦勝国の側に身を寄せていたらどうなっていただろう、と考え
 てみることです。アメリカどころじゃない、アジアの広大な領域にまたがるとてつもな
 い国になっていたでしょう。しかし、陸軍だの右翼だのの大バカ集団が支配するとん
 でもないたわけた国になっていたかもしれません。事実、日本は敗戦国の側に立ったた
 めに、大国になるどころか、亡国の淵をさまよったわけだけれども、結局、このほうが
 よかったのかもしれないですね。    
 
がん罹患、武満徹、死ぬこと
・90年代の終り頃、僕が最初に結婚して子供まで作った人ががんになりました。それは
 離婚してからかなりたってからのことで、僕はすでに再婚していたのですが、彼女はほ
 かに相談する人間もいなかったらしく、僕に相談してきました。
・この頃になると、がん告知は一般的になりつつあって、彼女も告知を受けてひどいパニ
 ック状態になっていました。 
・がんセンターで、何日もかけて検査がなされ、肺がんと宣告された。しかも、進行性で
 かなり悪い、精密検査の結果、がんはすでに脳に転移していて、脳腫瘍が十個以上もで
 きており、末期がんの状態で、余命は一年あるかないかだといわれた。
・肺がんは四期にわかれるが、四期は脳に転移がある場合で、手術は不可能。脳を放射線、
 肺を化学療法で治療するが、それで1年生存率は28パーセント、5年生存率は6パー
 セントしか期待できないということでした。
・医者は、放射線をすぐにはじめるとともに、6パーセントに賭けて化学療法を受けるこ
 とをすすめました。しかし、彼女は、このあまりにも衝撃的な事実をすぐには受け入れ
 ることができず、医者と激突してしまったのでした。
・ちょうどこのしばらく前から、世の中では、近藤誠氏の「患者よ、がんと闘うな」とい
 う本が評判を呼んでいました。彼女が医者に不信感を持った背景には、多分にこの本の
 影響があったように思われます。この本はそれまでのがん医療の通念を打ち破り、それ
 まで常識とされてきた考え方を片っ端から否定して、既成のがん治療医はほとんどバカ
 だらけといわんばかりの本でした。このほんにはもっともな部分も多分にあることはあ
 ったのですが、下手にこの本の影響を受けると、彼女のようにがんと闘うよりも、医者
 と闘うほうに熱中してしまい、それが闘っているつもりになるという錯覚を起こしがち
 でした。
・観所がとりわけ影響を受けたのは、この本の抗がん剤をほとんど全否定するような立場
 でした。彼女は近藤医師の意見が正しいと思うから、化学療法(抗がん剤治療)だけは
 絶対に否定すると頑強に主張したのでした。
・がんは自分の死を覚悟し、無理な延命を求めなければ、ほとんど終末期まで意識の清明
 さを保って、ものを書くなどの精神的労働ができるはずだからそちらを望むといいまし
 た。そこまでの覚悟ができてからの彼女は落ち着きを取り戻し、医者と争って無駄にエ
 ネルギーを費やすよりも、残り時間を利用して、いまのうちに何かできることをしてお
 きたいと思うようになったようでした。
・それから数カ月かけて、息子への遺書のような本を一気に書きあげて講談社から出版し
 ました。それは残り少ない生命エネルギーを一気に燃焼させたような驚くほどの集中力
 で仕上げた本でした。 
・がんの宣告からその死まで、ほぼ一年間の彼女の悪戦苦闘をハタから見て、これは他人
 ごとではないと思いました。それとともに、彼女の最期の一年余を見ていて、自分の場
 合は自若としていたいと思いました。そして基本的には、彼女のように、無理な延命治
 療は求めず、意識の清明さをより長く維持できる道を選択して、やり残した仕事をでき
 るだけ完成させたいと思いました。
・人間の寿命を専門とする学者によれば、その人の寿命にいちばん関係を持つファクター
 は両親の生きた年齢ということだそうです。
・自殺、安楽死、脳死など、生と死に関する問題は一つの問題群として捉えるべきで、そ
 の人の死生観と切り分けられない問題なのです。どの問題を考えるにしても、結局、自
 己決定権がある場合は、その人の自己決定に従うしかないだろうし、神あるいは運命に
 決定権がある場合には、それに従うしかないのだと思います。
・どの宗教グループに属するかによって、死生観は異なります。日本人の場合は、自分が
 はっきりと仏教徒であるとか、神道の氏子であるとかと認識している人は少なくて、ぼ
 んやりとどこかのグループに属している状態です。
・死後の世界が存在するかどうかというのは、僕にとっては解決済みの議論です。死後の
 世界が存在するかどうかは、個々人の情念の世界の問題であって、論理的に考えて正し
 い答えを出そうとするような世界の問題ではありません。
・ギリシャの哲学者エピクロスは、人生の最大の目的とは、心の平安を得ることだと言い
 ました。人間の心の平安を乱す最大の要因は、自分の死についての想念です。しかし、
 今は心の平安を以って自分死を考えられるようになりました。
・結局、死ぬというのは夢の世界に入っていくのに近い体験なのだから、いい夢を見よう
 という気持ちで人間は死んでいくことができるんじゃないか、そういう気持ちになりま
 した。     
・いい夢を見るために気をつけたいことが一つあります。いよいよ死ぬとなったとき、ベ
 ッドは温かすぎたり、寒すぎたりしないようにすることです。暑過ぎたり寒すぎたりす
 ると、臨死体験の内容がハッピーじゃないものになってしまうからです。死に際の床を、
 なるべく居心地良くしておくことが肝腎です。