無影燈(上下) :渡辺淳一

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無影燈というのは、手術室などで用いられる影ができないような工夫をされた照明器具で
ある。この小説は、自分自身が癌におかされた外科医の物語である。
渡辺淳一の小説というと、性愛小説というイメージが強いかもしれないが、しかしそのな
かに、筆者の医者という視点から、医学的な情報や医師としての心構えや死に対する考え
方なども、散りばめられている。
この小説の中では、「死の告知」という問題についても触れている。医師の直江は「患者
は死期が近づいたら駄目なことを自然に自分で悟る。患者は黙っていても助からないこと
を悟る」「患者は医者が嘘を言っていると知りながら嘘のなかに入ってくる」と言う場面
があるが、これは医者でもあった筆者の考え方なのだろう。患者は死と向き合うのは怖い
からできないのだ。だから、医師はわざわざ患者に「死の告知」ということはしないほう
がいいのだという考えだ。これは、自分が患者の立場だった場合を考えると、そのほうが
ありがたいと思う。正直に死の宣告をしてもらったほうが、その心構えができるからよい、
という意見の人もあるかと思うが、それはまだ自分が第三者だと思っているから言えるこ
とではないだろうか。ほんとうに自分が死と向き合わなければならない当事者になった場
合、医者から馬鹿正直に「あなたはもう助からない」と言われるほど辛いことはないと思
うのだ。
この小説で筆者は差額ベッドなどの医療格差の問題についても触れている。同じ病人なの
に、金で差をつけて治療するのは、けしからんという主張もあるが、しかしそれは、格差
をつける医療側だけが一方的に悪いとは言えない。デラックスな病室や高度な医療を求め
る患者がいるからそういうものが出てくるのだ、というのが筆者の考え方のようである。
「医療行為は誰に対しても平等であるべきだ」という主張は、正論ではあるが、しかしそ
れは理想論でしかない。現実問題として、お金のある人は、そうでな人より高度な医療が
受けられるというのは、致し方ないことなのかもしれない。ただ、最低限の医療において
は、格差があってはならないと思う。
また、この小説になかで、治療費を払えない老夫婦の入院患者の話が出てくる。医師の直
江は、無理して働かず生活保護を受け医療扶助を受けることをアドバイスする。そうすれ
ば、自己負担なく入院していられるというのだ。調べてみると、実際にいまの日本の医療
制度はそうなっているようだ。このことは、一般の人はあまり知らないのではないだろう
か。こういう制度を知っていて、自分の患者にアドバイスできる医師って、現実にいるの
かどうか疑わしいが、直江の弱者に対する本当の優しさを垣間見たような気がした。
死に型についても、筆者は直江を通じて自分の考えを展開てしている。「死に型を整える」
「早い、遅いの問題ではない。いかに家族が納得して死んだかということだ」「どんな死
だって、死んでいく本人が納得できる死なぞない」「いくつになったからといって、死ん
でいいと思う人はいない」という言葉は、何度も人の死に際に立ち会った医師ならではの
言葉ではないだろうか。人の死というものは、そういうものかもしれないと思った。
さらに筆者は、由蔵という末期癌患者を通じて、死を目前にした男性患者の心理について
も問題提起している。末期患者の男としての性的欲望に対していかに対処したらいいのか
を問うている。由蔵の看護婦に対する行いや倫子の由蔵に行ったおこないについては賛否
両輪があるだろう。一般的な常識からすれば、とんでもないことだと怒り狂う人たちも多
いかもしれない。しかし、一般常識からの善し悪しは別として、自分がもし由蔵に立場で
あったならば、死を前にしてあんなことをしてくれた倫子は、まさに「白衣の天使」その
ものだと感じただろうというのが、私の正直な気持ちである。死に直面した人間の心理状
態については、直江自身も倫子に宛てた遺書のなかで述べている。自分がこの世から消え
てしまうことを知って、人間は無性に何かをこの世に残したいのだ。自分が生きた証を残
したいと本能的に願うのだ。
筆者である渡辺淳一さんが亡くなってから五年の歳月が流れたが、筆者の残した作品は、
今もなお多くのことを我々に教えてくれる。

その一
・オリエンタル病院は名前こそ大袈裟だが、院長の行田祐太郎が経営する個人病院である。
 場所は環状六号線が玉川通りと交差する少し手前で大通りに面し、地下一階地上六階の
 ビルだった。病室は三階から六階までの全部で、七十ベッドになる。実際の常勤医師は、
 内科の河原医師、外科の直江医師と小橋医師、それに小児科で女医の村山医師の四名に、
 院長を加えた五人だけで、整形外科は直江医師が兼ね、産婦人科と泌尿器科は週二度ず
 つ、M大学病院からパートタイムの医師が来ていた。看護婦は正看、準看、見習いを含
 めて二十二名いる。個人経営としては、この界隈はもちろん、東京全体でもかなり大き
 な病院であった。
・倫子は今年二十四歳の正看だが、かおるは今春から准看養成所に通っている十八歳の見
 習看護婦だった。
・かおるは直江医師の長身で蒼ざめた顔を思い出した。顔は鋭く整っていたが、なにかに
 冷え冷えとしていた。冷えたなかに底知れぬ怖さがあった。「あの先生、三十七歳で独
 身だって、本当ですか」とかおるは倫子に訊いた。「そうなんでしょう」倫子はコーヒ
 ーを置き、本を取り上げたが、読みはせず窓の方を見ていた。「あの先生、素晴らしく
 優秀で、三十二歳で講師になって、そのままいれば教授になる方だったんですって?」
 「そんな偉い先生が、何故大学をやめてこんな病院に来たんですか」かおるはこれまで、
 直江医師と仕事のことで、二、三度話したことはあるが、二人だけで直接話したことは
 なかった。直江医師と自分とでは二十歳近くも年が離れていて、考えていることも話す
 ことも、まるで違うのだと思っていた。しかし、だからといって彼が年輩の看護婦と親
 しく話している様子もなかった。直江医師は常に一人で人々とは無関係でいるようだっ
 た。
・丸山交番から怪我人の緊急搬送の電話は入った。ヤクザが喧嘩で顔を切られたという。 
 倫子は外来ベッドの上に、血で汚れないようにレザーを敷いた。救急車を待っている気
 持ちは何度繰り返してもいいものではない。緊張感のなかにやりきれない気重さがある。
 処理に夜通しかかるような怪我であったらたまらない。大したことがないようにと願う
 のは、患者のためというより、そのほうが楽ができるという職業的な計算もある。

その二
・オリエンタル病院の院長の自宅は病院とは少し離れた目黒の柿の木坂にあった。院長の
 家には妻の律子のほかに、娘の三樹子と息子の祐司がいた。祐司は二十一歳だが医者に
 なることを嫌って、T大の経済学部にいっていた。三樹子は祐司の二つ上で、去年女子
 大の英文科を出たが、勤めに出ず、家事をしながら病院の事務や、院長の秘書的な役割
 をやっていた。医者、看護婦、賄婦などを入れると四十名を越す人数を管理していくの
 は院長一人ではとてもできない。院長自体が病院にいることが少ない。事務長や婦長が
 いるとはいえ、それは所詮他人である。金の出し入れや、接待には、やはり、妻の律子
 や娘の三樹子がいないと困る。
・律子は院長の祐太郎と七つ違いの四十八だが、痩せすぎず背が高く、眼は大きく、鼻筋
 も通り、若い時の美貌の面影は残っていた。  
・長男の祐司が医家を継ぐのが絶望的になった以上、娘の三樹子を医者に嫁がせるのが、
 祐太郎夫婦の望みであった。
・「あなた、直江先生と志村倫子のこと聞いた?」と律子が祐太郎に言った。「あの二人、
 できているらしいわ。関口から聞いたのよ」関口鶴代はオリエンタル病院の婦長である。
 四十二歳で三年前に離婚し、中学生の子供が一人いるが、ずっと勤め続けてきたので看
 護婦の経験も深く、よく気がつくが、噂好きなのが、欠点でもあった。もっとも経営者
 としては病院の内部の知らないことをいろいろしらせてくれるので重宝といえば重宝で
 ある。だが彼女の場合は情報のほとんどを律子の方に提供する。一度、院内の看護婦に
 手を出して、関口の告げ口で手ひどい目にあったことのある祐太郎は、重宝とはいえ、
 関口にあまりいい感じはもてない。
・直江は病院に近い池尻のマンションにいた。
・院長の医師に対する言葉はおおむね丁重であった。それは個人病院では医師のなり手が
 少なく常に売り手市場のせいでもあるが、直江の場合は、かつて大学でかなりの地位に
 いただけに、院長は他の医師に対するよりもさらに丁寧であった。
・石倉由蔵は、マーゲンカルチ(胃癌)が転移して、手術には手遅れだというので、T大
 病院から廻されてきた患者である。「胃の主病巣だけでも摘れば、一時的にでも快くな
 るものですか」と院長が尋ねると「メスの刺戟で癌細胞はかえって活発に増殖をはじめ
 るし、手術侵襲で体力は消耗しますから、むしろ死ぬのを早めます」と直江の答えは明
 快だった。
・癌の患者を癌と悟らせずに、自然に往生させるのは容易なわざではない。最近はほとん
 どの癌が外科的に治療されるから、引導を渡すのは主に外科医の仕事になってしまった。
・花城純子が入院することになった。堕ろすという。
・芸能界ではこんなことは日常茶飯事らしい。たまたま彼女がうっかりしただけらしい。
・花城純子は一年前の夏、ポップス調の唄を歌ってヒットし、急激に人気のでてきた歌手
 だった。まだ二十一歳だが、切れ長の眼と軽い受け口の唇の切なげに震わせて歌う。目
 を薄く閉じて歌う表情の裏に気怠げな色気があった。花城純子は中年の男性達の間で人
 気があった。
・院長も花城純子は気にいっていた。若くくせに、どこか崩れたようなあやしさがある。
 それが中年の助平心をあおる。   

その三
・倫子はぶらぶら道沿いの店を覗きながら道玄坂を登り、中途の喫茶店へ入った。倫子が
 直江と二人だけで初めて逢ったのは、直江がオリエンタル暴飲に来て一か月後だったが、
 その時もやはり此処だった。直江の第一印象は無愛想で冷やかな医者という感じだった。
 患者へも看護婦へも必要で最小限の言葉しか言わない。無愛想は時に不親切にも見えた。
 大学病院から来たからといってお高くとまっているのだという陰口が、看護婦達の間で
 囁かれた。部長の関口などは今でもそう思っている。初めは倫子もそう思い、親しめな
 かったが、一週間目の虫垂炎の手術の助手をして直江の腕の確かさに驚いた。
・直江の手術は単に創口が小さいとか、早いというだけではなかった。手の動き、器械の
 さばきに無駄がなかった。迷い、戸惑うということがなかった。看護婦といっても外科
 系ばかりにいて、何人もの医師の手術を見てきた倫子には、直江の腕の確かさはすぐに
 見抜けた。言葉数は少ないが、患者に尋ね、答えることは適確で隙がなかった。
・だが直江には一流の技術を持ちながら、どこか投げやりなところがあった。患者に親身
 に対していながら、一方で突き放す。その冷やかさが倫子には気になり、そして忘れ難
 い。 
・倫子と直江との間に体の関係ができたのは、初めて逢ったその日だった。喫茶店で逢い
 小料理屋に行き、そのあとホテルへ連れて行かれた。表面は直江に誘われ、犯された形
 をとっているが、直江が誘い、そうするように仕向けたのはむしろ倫子の方だった。直
 江は倫子の敷いたレールに自分から求めたふりをして乗ってきたというに過ぎない。
・悠々と乗ってきた。その乗り様は呆れるほど見事だった。倫子が好きだったのだから仕
 方がないといえばそれまでだが、彼女自身結ばれてからことの重大さに気付いたほど、
 そこまでへの過程は自然で抵抗感がなかった。 
・直江と結ばれた時、倫子は処女ではなかった。その三年前、看護学校を卒えた年に五つ
 年上の男に奪われていた。商事会社の社員で、病院に見舞いに来るうちに知ったのだが、
 奪われたという言葉どおり、一方的で強引だった。半年続いたあと、男が仙台へ転勤し
 てそのままになった。男は初めから遊びのようだった。そうと知って、二度と男に気は
 とられるまい、と違っていながら今はもう直江から眼を離すことができなかった。 
・直江のアパートは十畳の洋間と、四畳半のダイニングキッチンがある、いわゆる1DK
 型であった。車の通りの激しい玉川通りから一本小路に入っただけで、辺りは急に静か
 になる。
・部屋に入り、夕刊の見出しにだけ眼を通すと、直江はすぐに倫子を求めた。直江は左手
 で倫子のウエストをとらえ、右手でワンピースの背のファスナーを引いた。急須を持っ
 たまま、倫子の背は開かれ、白いスリップと肩紐が現れた。直江は構わず、その場で足
 元へワンピースを落とすと、スリップとアンティーストッキングだけになった倫子を奥
 のベッドに運んだ。
・この頃、直江の求め方は以前と変わり、どこか唐突で荒々しかった。倫子を困らせ、羞
 ずかしがらせて満足しているようなところがある。愛するというより、なにか責め苛ん
 でいる、という感じであった。今もベッドは運んでから倫子を仰向けにし、両手を万歳
 した形におさえて、下半身から脱がせていく。「暗くして、消して下さい」倫子は身を
 縮めて訴えるが、直江は手を止めない。頼んだところで言うことを聞くわけがないこと
 は倫子が一番知っていた。それでも一応は訴える。
・倫子の生家は新潟にあった。そこで高校を卒えてから友達に誘われて、東京の公立病院
 に附属している高等看護学校へ入った。そ故で肌は雪国育ちらしく白かった。細身だが
 着やせする性質で、裸にすると意外に肥えている。
・白く、部分的に蒼い翳りをもつ体が、次第に汗ばみ、紅潮していくのを直江は見ている
 ようだった。時たま、倫子は愛撫の途中で直江の視線を感じて、慌てる時がある。驚い
 てとび起きようとする。そういう時、直江は細い体からは考えられぬ異様な力で倫子を
 おさえつける。逃げようというのは気ばかりで、体は一向に動かない。
・直江のやり方は奪っていながら見きわめているような残忍なところがあった。倫子の側
 から言えば、抱かれながら見られているような怖さがあった。いやだと思いながら、こ
 の頃、倫子はそんなやり方にむしろ満足していた。羞ずかしいと思いながら、そう思う
 ことでさらに燃えていく。気付かぬうちに少しずつ直江のやり方に慣らされてきている
 のかもしれなかった。だがあとで思い返す時、倫子は一人で赤面する。そしてその時の
 直江の冷えた眼は手術の時の無駄のなさに通じているかもしれないと思った。
・光の中で恥ずかしく、辛いと思いながら、結局は煽られ、燃えさせられてすべてを忘れ
 た。あとになってみると、その時洩らした声も、肩口を噛んだことも忘れている。漂う
 ような甘美な思いしかない。
・終わったあとの醒め方は倫子の方が、はるかに遅かった。ひくひくと脇腹の小さな痙攣
 が納まったところで倫子はゆっくりと顔を上げた。直江は横で背を向けたまま夕刊を読
 んでいた。倫子はそっと身を起こすと、慌てて、ベッドの先や床に散らばった下着をか
 き集めて浴室へ入った。全身にはまだ雲の上を行くような感じが残っている。この頃感
 じ易くなったことが倫子は少し羞ずかしい。
・倫子は流しに立って、汚れた食器類を洗いはじめた。直江は相変わらず本を読んでいた。
 (あの人が本を読んでいて、私が流しで茶碗を洗っている)そういう情景を倫子は気に
 入っていた。

その四
・外科は直江と小橋の二人で、小橋は二年前にインターンを終え、現在G大学病院の外科
 医局に籍がある。彼がオリエンタル病院へ来たのは大学の医局から、半年の予定で二か
 月前から廻されてきたのである。医局へ入って三年目、一通りの簡単な手術はやり終え、
 医者がようやく面白くなってきた頃である。
・小橋は直江のことを学術雑誌や、学会の発言で知っていた。外科学会でも注目されてい
 る俊秀だと聞いていた。それが突然、大学を辞めて個人病院へ勤めたと聞いて驚いた。
 (なぜ大学を辞めたのか)そこをわからなければ、直江の冷えた感触は理解できそうも
 ない。だが彼が辞めた本当の理由は彼を尋ねてきた後輩も知らなかった。院長も婦長も
 本当のことはわかっていないようだった。
・外来の診察は、新患はすべて直江が診る。そこで診断がつき、治療法が決められると、
 それからあとの再来はほとんど小橋が診る慣わしになっていた。新患は手間取るが、再
 来に較べるとかなり少ない。再来でも、時たま病状が変化したり、経過のよくないもの
 は再び直江の方へ廻す。他に直江は自分へ直接紹介されてきた患者を診る。それでも直
 江の方が手が空く。そんな時、直江は論文を読んでいた。小橋が再来患者で忙しくても
 知らぬ顔をしている。できるならたまにそっと助言してくれるとか、手を貸してくれる
 ようなことがあってもいいと思っていた。だが直江はそうしたところは全くなかった。
 突き放したまま、やってみろ、といった感じである。手を貸してくれないことよりも、
 その冷やかさが小橋には馴染めず、不満なところであった。
・「手術をした割に少しも快くならないと言われた時、僕達は何と答えればいいのですか」
 と小橋が直江に言った。直江は低く落ち着いた声で言った。「患者は死期が近づいたら
 駄目なことを自然に自分で悟る。われわれが改めて言う必要などはない」「患者は黙っ
 ていても助からないのを悟る。その時、俺は助からないのではないか、癌なのに嘘をつ
 いた、などと怒ったりはしない」「彼等はそんなことは考えたくないのだ。自分は駄目
 だと思いたくない。だから、そんな怖いことはきいてはこない。医者は嘘を言っている
 と知りながら嘘のなかに入っていこうとする。われわれがとやかく言わなくても、向こ
 うから入ってくる」「お互いに嘘をつき合ったまま、嘘のなかで死んでいく。それでい
 いのだ」

その五
・三樹子夫人は「この頃、腰が痛いのです」と言って直江に診てもらった。「一番考えら
 れるのは椎間板ヘルニアです」と言った。「年齢の故ですよ。人間の体は十七、八が最
 高で、二十歳を過ぎる下る一方なのですから、年齢とともに故障が出てくるのは仕方が
 ないことです」と直江は言った。「これ以上、お婆さんになったらどうしましょう」と
 夫人は言った。「二十歳で美しい人は沢山います。あの年齢は生物学的にみて頂点なの
 ですから、美しいのがむしろ当たり前なのです。三十、四十となると下ってくる。それ
 も当たり前のことです。三十、四十になって若く、美しいのは並みのことではない。
 五十になっても、なお美しいのは異様なことだ。こういう場合は讃える価値がある。お
 くさんは並ではありません」と直江は夫人に言った。夫人は、これまでこんな言い方を
 されたのは初めてだった。多くの人は「美しいわ」とか「お若いわ」という。直江のは
 そんな感嘆やお世辞とは違う。人を生物としてみている。醒めた医者に眼のようである。
 誉められながら、油断のならぬ気持ちが残るのは、そのためのようであった。
・夫人は娘の三樹子の結婚相手になるような人はだれかいないか直江に尋ねた。直江は
 「小橋君などはどうなんです。真面目ないい青年だと思いますが」と答えた。「あたし
 もちょっと考えたことがあるんです。でもあの方、彼女がいらっしゃるらしいのです。
 看護婦の高木亜紀子です」 
・高木亜紀子は婦人科の看護婦だが、この病院には婦人科専任の医師がいないので、週に
 二回、大学から婦人科医の村瀬が来る時だけ、婦人科を手伝い、それ以外のの時は外科
 に廻っている。去年、正看になったばかりで、まだ二十一歳だが、はきはきして頭もい
 い子だった。 

その七
・女は足をばたつかせたが、祐太郎は脇腹で女の右手をおさえ、左手で左手をおさえると、
 ガウンの前を開き、いきなり女の秘所へ指を近づけた。女は敏感なのか、白昼の淫らな
 行為に興奮する性質なのか、ヒェーッと喉から出たような声をあげる。風呂が途中との
 言葉どおり、女の肌は乾ききらず、火照っていた。
・女は罵詈雑言を浴びせるが、祐太郎はそれが一層刺激になる。かなりの休息をおき、卑
 猥なことを要求し、女がそれに応える、という三つの条件が満たされないと容易に勃起
 しない。だが今日はスムーズである。祐太郎は今だとばかり突き進む。猛々しい時間は
 短く、それを逃すと、またいつ蘇るかわからないからである。抗っていた女も、今はも
 う抵抗しない。西陽のなかで雀斑の目立ってきた祐太郎の体と湯上りの朱を帯びた肌が
 ひとしきり揉みあった。ことが終わり、一つ息を吐いてから、女はのこのこ起き上がっ
 た。
・女は真弓といった。しかしそれは本名ではなく、銀座の店の呼び名である。真弓の二十
 三歳に祐太郎の五十五歳と、年齢は離れていたが、スポンサーとして真弓は割言ってい
 た。老いて若い子がますます好きになった祐太郎にとっては、若いことはいくら若くて
 も構わない。ただ、娘の三樹子と同じ二十三歳であることが、欠点といえば欠点である。
  
その八
・無影燈の下でさらけだされた花城純子の胸が、呼吸の度にゆっくりと上下する。乳房は
 細身の体から想像もつかないほど、発育し、乳輪は妊婦特有のブドウ色を呈していた。 
 右の乳房の縁に接吻のあとらしい赤い痣が残っている。直江はクスコ(膣開腔器)を取
 り上げると、それを眼の前に開かれた純子の局所へ挿入した。手術が終わったのはそれ
 から二十分後だった。純子が固定された手術台の下のタイルには赤い血痕が散っていた。
 倫子はいま掻き出されたばかりの血の塊りへ眼を向けた。倫子はそれを焼却処分の方へ
 廻した。
・直江はテレビが嫌いな男だった。新聞や雑誌は見るがテレビは見ない。直江の部屋にテ
 レビがないことを倫子は知っていたが、特に気になったことはなかった。愛の行為の時
 は、もちろんテレビなどは不要だった。行為のあと二人でベッドに横たわっている時も、
 他の音声はいらない。しかしそうした時間は、さして長い時間ではなかった。行為が終
 わって一息ついたあと、直江は大抵、ベッドに横になったまま、本か新聞を読みはじめ
 る。本はありきたりの雑誌の時もあるし、医学書の時もある。活字さえ読んでいると落
 ち着くといった様子である。
・倫子は服を着て、髪を直し、それからお茶かコーヒーを淹れる。直江は黙ってそれを啜
 り、相変わらず活字に眼を向ける。倫子は再び流しに立ち、汚れた容器を洗ったり、流
 し台の辺りを整頓したりして時間を過ごす。それが済むとリビングルームのソファで直
 江の読み終わった新聞を読んだり、編かけのレース編みを続けたりする。 二人はほと
 んど話をしない。時たま「お茶を淹れましょうか」と倫子が尋ね、直江が「うん」とか
 「いらぬ」と答える程度である。それ以上、話すことはあまりない。
・もちろん倫子としては初めから、そんな状態を望んでいたわけではなかった。初めの頃
 は直江のことについていろいろ知りたくて尋ねた。直江もある程度答えてくれた。だが
 あるところから先にいくと直江はぴたりと答えなくなった。倫子はそれ以上、押し入る
 ことを諦めた。諦めて黙っていることに慣らされた。男と女が二人でいることは、行為
 をして、あとは黙って一部屋にいる。そんなものだと思いはじめていた。慣らされてく
 ると、それで結構不思議でなくなる。倫子は直江と情事を重ね、一つの部屋に一緒にい
 るだけで安心していられた。話などしなくても安心していられた。もちろん、それは妻
 が夫に感じるような安らぎではない。だが二人の定まらぬ関係においては、それが最も
 安定した時間であった。

その九
・志村倫子がレントゲン技師の沢田と二人だけで逢ったのは、土曜日の夕方であった。個
 人経営の病院は大きくても土曜日も平常通り診察を行う所が多い。場よは倫子が幾度か
 直江と待ち合わせをしたことがある道玄坂の途中の喫茶店であった。 
・沢田は夜はレントゲン技師の養成所へ通っている学生であった。従って正式にレントゲ
 ンを撮影する資格はないのだが、医師が撮ることは許されているので、表向きは医師が
 撮っていることにして、実際は沢田が撮るという仕組みになっていた。これは開業医な
 らどこでもやっている抜け道だった。 
・「患者には患者のプライバシーがある。今度の場合は、それをいかに医師が守ってやる
 かという問題だ」「君は付添婦でも見習看護婦でもない。患者のすべての秘密を知りう
 る医師という立場にいるのだ」「患者の秘密を守ることは、スターであるなしに関係は
 ない。医師であれば共通に守らなければならない義務だ」「君は医師法を読んだことが
 あるかな」「大学の教授や医局員達は、文献や論文は読んでいるが、医師法の健康保険
 法などを読んだことにある人は、まずいない。君の読んでいない」直江に図星をさされ
 て小橋は視線を避けた。「患者の秘密を守ることは医師法の初歩だ。たとえ医師法を読
 まなくても、医者の常識だ」直江のいうことは小橋にはわかるが、といって、素直に謝
 る気にはなれない。確かに直江の言うことは正しい。だが相手は二十歳そこそこの小娘
 である。歌が少しうまいというだけでスターといわれているに過ぎない。たかが流行歌
 手ではないか、といった軽侮が小橋の頭にはある。
・「同じ病人に、金で差をつけて治療する。こんな院長の儲け主義のやり方には賛成でき
 ません」と小橋は直江に言った。「確かに院長は作った。だがそれだけでは成り立たな
 い。デラックスな病室を作ったということは、それを求めている人がいるからだ」「一
 つのことは一方だけの独断でできるものではない。求める人がいるから供給する人が現
 れてくるのだ」と直江は答えた。「医学部の教授が正規の診察料や手術以外に謝礼を取
 るのは、高い金を出してでも、遮二無二その教授に診てもらいたいという人がいるから
 起きてくるのだ。教授だけが一方的に要求するわけではない。と直江は言った。 
・「人間の命はみな平等なのですよ。金持ちだって貧乏人だって、命の値段に違いがある
 わけではありません。それなのにその命に最も関わりの深い医療が、金のあるなしで差
 をつけられていいわけはありません」「金のある人は一日一万五千円の病室に入り、な
 い人はろくに医療も受けられない。これじゃ明治や江戸時代と変わらない。いやそれ以
 下です」と小橋は言った。
・「明治や江戸時代とまでいわなくても昭和の初めまでは、金のない者は、いい医者とか
 悪い医者と選り好みする以前に、医者にかかること自体ができなかった。死ぬ時だけで
 も医者に看とられて死ねばいい方だった。今とは全然事情が違う」「君が言っているこ
 とは、病人が医者にかかれるか、かかれないかといった単純なことではないだろう。問
 題はそのもう一つ上の、いかにいい病室で、いい医者にかかり、快適に療養に専念でき
 るかということだろう。医療の質の問題だ」「部分的には無医村というものはあるが、
 そういう特殊な例を除けば、現在の日本では一応医療の最低限、医者にかかるという状
 態だけは行きわたっている」「大学を出たての医者にかかるか、経験豊かなよい医師に
 にかかるか、そこに違いがある。だが保険で保証しているのはその最低線までだ」「最
 低条件だけはなんとか整っているんだから、それから先は個人の才覚だ。金のある人は
 特等室で教授に手術をしてもらい、ない人は大部屋で君のような医者にかかるより仕方
 がない」と直江は小橋に言った。君のような医者、と言われて小橋は目を瞬いた。   
・「衣食住、なんでも金さえあればいい思いをできる。資本主義社会である以上、医療も
 金のある者が、ない者よりいくらかましな医者にかかり、いい病室に入るのは仕方がな
 いだろう」「若い時からあくせく働いた奴も、バクチや酒で怠けた奴も、同じにせよと
 いうわけにはいかない」と直江は言った。 
・晩秋の空はすでに暮れなずんでいた。直江は窓際に立ち、赤味を帯びた雲のきわみへ視
 線を向けていた。立っている直江の横顔には明らかに憔悴があった。だがそれは、毎日
 顔を合わせている看護婦達には気付かれぬほどの、かすかなものであった。 
 
その十
・直江の部屋に一人の来客があった。客は祐太郎の長女の三樹子だった。三樹子は直江の
 ベッドのある部屋で、炬燵に向かい合っていた。 
・「お父さんはこれまで築きあげてきた病院は、あかの他人に渡したくはないのだ。あの
 病院をいま新しく建てるとしたら二億はかかる。しかし売るとなれば半額ででも売れれ
 ばいいところだ。病院は病院以外には使い途がない。とくに医療器具や設備は売りに出
 せばただ同然だ」「大病院のお嬢さんだからといって、見合いに応ずる男が皆、欲にく
 らんでくるわけではない。なかには優秀だけど家が貧しくゆっくり医局で勉強できない
 者もいるだろうし、結婚をしてから君を本当に好きなる人もいるかもしれない。見合い
 をしなければ、そういう人かどうか、見きわめることもできないんじゃないかな」と直
 江は三樹子に語った。 
・直江はゆっくりと立ち上がると、着物の襟元をなおし、それから三樹子の横に坐った。
 「こっちを向いてごらん」振り向いた瞬間、直江の長い腕が三樹子の上体をとらえた。
 腕の中でいやいやをする顔をとらえると上向きにして直江は小さく形のいい三樹子の唇
 に、酒の匂いのする自分の唇をおしつけた。しっかり閉じた三樹子の眼尻は小刻みに痙
 攣し、白い頬が直江に吸い込まれて落ち窪んだ。女が諦めるのを待つように直江は長い
 間、その姿勢でいた。 
・初めの弾むような抵抗は徐々に弱まり、やがて三樹子の体は柔らかく優しくなっていっ
 た。直江はそれを待っていたかのように、接吻を続けたまま、ゆっくりと三樹子の細く
 軽い体を後ろのベッドへ運びあげた。 
 
その十一
・真弓はのこのこと直江の部屋まで押しかけてきたことを後悔していた。足を診てもらう
 とはいえ、二人だけの密室である。病院では平気でできることが、ここまではまったく
 様子が違った。すべてが淫らで怪しいことにつながる。(喫茶店ででも逢って話だけ聞
 くのだった)足は初めから大したことはなかった。
・(こんな恰好を見られるなんて)直江と二人きりになれることはいやではなかったが、
 医者と患者という立場で見られるのは辛かった。柄になく真弓は声をうらずらせ、窓の
 方を振り向き、直江が向けているのを確かめてから、そろそろとワンピースの裾をまく
 りあげた。ワンピースはミニなので、下からパンティーストッキングおコルセットには
 すぐに届いた。真弓は直江の背を見ながら膝までおろし、そこから一気に両足を抜き取
 ると、まるめてコートの下に押し込んだ。  
・明るいブルーのミニのワンピースから、はちきれるばかりの素肌の脚が二本、ソファの
 上に投げ出されている。痛いかと言われると痛いような気がするし、痛くないかと言わ
 れると、そのような気がする。病気のことより足に触られ見られているということで、
 頭がぼうっとして判然としない。直江はさらに下腿から膝まで調べる。真弓は足下から
 スカートの奥まで覗かれているような気がして、顔を真っ赤にし、口で息を繰り返した。
・「よろしいですよ」と言われて、真弓はバネ人形のように起き上がった。直江はダイニ
 ングキッチンへ行った。真弓は素早くコートの下のパンティーストッキングを取り出す
 と、よろめきながら右足から突っ込んだ。 
・直江は軽く眉をしかめ、炬燵の後ろのベッドに仰向けになった。蒼ざめた直江の額には
 薄く汗が滲んでいた。「どこかお悪いのですか」と真弓は尋ねた。「お医者様を呼びま
 しょうか」「私が医者だ」突然、直江が厳しい声で叫んだ。「机の右の抽斗から注射ト
 レーをとってくれ」真弓は机の前にゆき、抽斗をあけた。白いステンレスの小箱があっ
 た。なかを開くと、二本の注射筒と十本近いアンプルが乱雑に入っていた。
・「見たな?」直江は鋭い視線を真弓に向けるとベッドの上に起き上がり、素手でアンプ
 ルを切って、そのまま注射筒に無色の液を引き込んだ。直江の額には油汗が滲み、注射
 器をもつ手は小刻みに震えていた。直江は唇をかすかにゆがめたまま、消毒もせず注射
 針を白く蒼ざめた腕につきさした。  
・真弓が首を傾けた時、床のなかから直江の長い手が伸びてきた。手は真弓の肩口に触れ、
 そこからうなじに達してとまる。それは堂々としてゆるぎない。「駄目よ」口では言っ
 たが、真弓はそのままじっとしていた。避けるどころか彼女は右手を自分のうなじに触
 れている直江の手に重ねた。いけない、と思うのは頭だけで、体はむしろ近づいていた。
 直江の手は少しずつ真弓のうなじから背中へと伝っていく。動きは緩慢だが止まること
 はない。真弓はうなじから背の感触に弱い。それを知っているように直江はそこを攻め
 てくる。そのくせ強い攻撃をしない。触れるだけで決め手を与えてくれない。いっその
 こと抱きしめられた方がいい。
・「ねぇ・・・」真弓が低く呟くのを待っていたように、直江は両の手で真弓の上体を引
 き寄せた。受け口の真弓の唇が少しめくれて、高い鼻の下の直江の唇にふさがれた。  
・(変だわ・・・)真弓は直江の表情がいつもと違うと思った。いつもの冷静で鋭い眼が、
 いまはとろんとして定まらない。唇はゆるみ、かすかな笑いが残っている。普段の近寄
 りがたい冷たさはどこにもない。「全部脱ぐんだ」突然、狂暴な獣と化した直江は、そ
 の長い腕で真弓をかかえ、力のかぎり上体を引き締めた。 
・早く早くと思いながら体が動かない。怖いと思いながら体が先に諦めていた。数分あと
 真弓は観念し、なすがままに任せた。相手は獣である。獣に人間の言葉で言っても通ら
 ない。抵抗すればするだけ獣は猛り狂うだけである。痩身からは思いもよらぬ腕の力で、
 直江は真弓のスリップを引きちぎり、ブラジャーを外した。パンティーストッキングに
 手をかけられた時、真弓は自分からそれを脱いだ。直江は着物の前をはだけ、上体をあ
 らわにしたまま、真弓が脱ぐのをさらに促した。最後の一枚を脱いだところでようやく
 直江の腕の力がゆるみ、上体をとらえていた輪をといた。真弓は全裸であった。一糸ま
 とわず、白い壁の前に立っていた。直江は肩で息をしながらその若い裸像を見詰めてい
 た。
・真弓は奪われるのを待っていた。ここまで来た以上、男と女がそうなるのは必然であっ
 た。直江は着物を脱ぎ、シャツをとり、トリコットのパンツを脱いだ。真弓は眼を伏せ、
 それからそろそろと顔をあげた。真正面に全裸の直江が立っていた。真弓は男の全身を
 初めて見た。これまで祐太郎と一緒に風呂に入ったことは幾度かあったが、枯葉真弓の
 体を見るばかりで、自分の体はあまり見せようとしなかった。こんな風に真っ直ぐ向か
 い合っている男の全身を見たのは初めてであった。 
・何故ともなく真弓は感動していた。二人は全裸のまま見詰めあっている。真弓はこんな
 情景をいつかどこかで見たような気がしていた。夢か想像か、定かではないが、こんな
 ことがあったような気がする。(素晴らしいわ)直江の狂気が真弓にのり移ったようで
 ある。 
・「奪ってもいいわ」いま、真弓はこんな形で滅茶苦茶に奪われてみたかった。こんな状
 態から抱かれてベッドに運ばれてみたかった。お互いすべてを見せつくしたあとで、愛
 の喜びへ飛び込みたかった。 
・真弓がせがんで、ようやく直江が近づいてきた。真弓は眼を閉じた。煙草の匂いがして、
 毛の生えた直江の肌が触れた。胸から腹へ、直江の長い手が撫ぜていく。やさしく、ゆ
 っくりと下がり、また上がる。直江の局所が下半身に触れていくのがわかった。くすぐ
 ったさと、心地良さで真弓は小刻みに声をあげた。身をくねり、腰を屈めながら、その
 くせ逃げない。 

その十二
・差額なしの大部屋の窓際に上の幸吉のベッドがある。入院当初、原因不明の熱が続いて
 衰弱し、長く保たないのではないかと危ぶまれたが、直江の指示で輸血をしてから快く
 なり、いまはベッドに起き上がって食事をとれるまでになった。上野が倒れてから妻の
 千代は、病室につききりであった。痩せて小柄な婦人だが、体はまだよく動くらしい。
 その妻が直江が回診を終え、病室を出ようとした時、あとを追ってきた。「一寸、お話
 したいことがあるのですが」「この前、病院からこんなものがきまして」と千代は直江
 に言った。
・「これが差額代の請求書ですね」「失礼だが、払うのが大変なんですね」「入院した時
 は差額ベッドしかなかったのでしたね」「払えなければ無理して払わなくてもいいです
 よ」と直江は言った。 
・「もう働きに出ないほうがいいですよ。上野さんは生活保護を受けているんでしょう。
 病院も医療扶助を受けているんですからね。その程度の金なら働かないほうがいいんで
 すよ」「区役所の方で月に数万円くれたでしょう。それが国が決めた最低生活費なので、
 これは体が悪くて働けない、収入のない人にくれたお金です。もし奥さんのように時々
 働いているのがばれたら、その分だけ区役所でくれるお金から差し引かれますよ」千代
 は怪訝そうに直江を見た。 
・「もうなにも働かず、じっとご主人の横にいてあげなさい。そうしたら生活扶助のなに
 がしかのお金は全額もらえるし、治療費はいらく経ってもただですからね。そのほうが
 体が楽だし、第一、ご主人が喜ぶ」「ご主人は体が悪いから退院させるわけにはいかな
 い。それに、金のないものから金をとろことはできません」千代はわかったようなわか
 らないような顔でうなずいた。 
・「いまの世の中、なまじっか少しばかり金があるというのが一番損だからね。あるんな
 らごっそり、ないなら一銭もない。これが一番いいんです。なにもないって、両手をあ
 げりゃいいんです。そうしてりゃ何日入院しようが、どんな高い治療を受けても一切無
 料ですからね」「要するにいまの日本は、最高と最低が一番住みやすくできているんだ」
 「毎日、高い輸血をしなければいけないから、ご主人は医療扶助のほうがいい。あれが
 国民保険だったら本人で七割免除されたとしても、毎日の輸血代だけで何千円もかかる
 ことになる」と直江は言った。
・「助からない病気の人は沢山いる。この病院にも胃癌で今年一杯しか保たない人もいる。
 結局みんな死ぬのだけど、死ぬ時がわかっているかどうかの違いだけだ」直江は独り言
 のように言った。  
・「あのご夫婦、子供がいないんです。年をとって二人だけになって、奥さんがご主人の
 看病をしている姿は、可哀相だけど、見ようによってはほほえましいわ」と倫子が言っ
 た。「身寄りなんかないほうがいい。そのほうがすっきりしているし、生活保護も受け
 やすい。いまはいっそのこと、なにもないと万歳してしまったほうが、かえって生きや
 すいのだ」「あれが保険で何割自己負担などということになったら、ああいう具合にの
 んびり治療はしていられない」と直江は言った。
  
その十三
・真弓はいまだに信じられなかった。夢を見てきたような気持ちだった。真弓が知ってい
 たのは、病院での医師としての直江だけであった。冷たく、すべてを見透かしているよ
 うに見える。特に外科医はそうした印象が強い。だが直江の印象はそれだけではない。
 冷えたなかに孤独の感じがつきまとう。それが時に頼もしさを思わせ、時にこちらから
 声をかけたくなるような気持ちをおこさせる。なにものをも受け入れないといった孤独
 の影に、ふと虚ろげな表情が横切る。 
・あの注射のせいかしら。あれはなんだったのだろうか。横文字は読めなかったが、わず
 か1ccである。それが直江を豹変させた。冷静な孤高の男を、奇矯で破廉恥な男に変
 えた。全裸にさせられ、コーヒーを淹れるように命じられた。
・男と女が密室で裸になった以上、それから先はわかっている。言わなくても想像される。
 だが正直なところ、直江と真弓との間にはそのあと世間が想像するようなことはなにも
 起こらなかった。直江は真弓の素足にとりすがり、「行かないでくれ」と哀願した。真
 弓は気味悪く、逃げようとすればするほど、直江は異常な力を出し、真弓の裸の下半身
 をとらえた。だが、直江は真弓の白く肉づきのいい体を胸から下腹部へ、優しく愛撫を
 繰り返しただけだった。すでに掌中に入った餌を食べる前の、一時の余裕を楽しんでい
 るのだと考えた。初めは足首をとらえてそろそろと膝を曲げる。やがて、左右に開く。
 そのうち着せ替え人形でもいじるように勝手気ままに動きまわす。ついには耐えられな
 いような羞ずかしい姿態までとらせる。愛撫の快感と羞恥で、真弓はその度に小声をあ
 げた。だがその実、抵抗はせず、彼のなすがままに任せていた。
・直江の唇が内股に触れる。くすぐったさに真弓は身をよじったが、直江は両手で真弓の
 腰を抱きしめたまま、かまわず頭をぐいぐいと押しつける。真弓の悲鳴が刺戟にでもな
 るように、直江の力はさらに強まる。ぐりぐりと抉り込むように頭を押しつけてくる。
 まるで真弓の局所へ頭ごともぐり込もうといった勢いである。 
・あれはやはり異常であった。全裸での行為であったが、あれほどの行為のあと、結ばれ
 なかったというのも、それに劣らず異常に思えた。女がそんな気持ちになっているのに
 奪われなかったことが、真弓の記憶にかえって鮮やかであった。
・あの人はなにが欲しかったのだろうか。直江がそこまで追いつめていながら、最後のも
 のを求めなかったのは、自分が院長の情人であることを忘れていなかったせいなのかと、
 真弓が考えた。直江は愛撫をしながら最後の欲望だけは必死におさえていたかもしれな
 い。
・この考えは一時、真弓を満足させた。だがその裏には、あれだけすすんだのに奪っても
 らえなかったという虚しさも潜んでいた。多少の抵抗はしたが、あれは女から男への据
 膳であった。理由がなんであれ、それを食べてもらえなかったことは、真弓にとっては
 かすかな不満でもあった。  
・真弓はこの一途に直江を愛しているらしい小娘に、憎しみを覚えた。余裕あり気にうな
 ずきながら真弓は、むしろ狼狽していた。三樹子の直江へのひたむきな態度は体の関係
 ができて生まれたものに違いなかった。真弓と直江とはあれほど裸でいながら最後の線
 は越えなかった。それは真弓の立場を考えた直江の配慮だと思っていた。だが直江が三
 三子を奪ったとしてら、この考えは怪しくなる。院長の彼女を奪うのは大事だが、娘を
 奪うことはさらい重大な反逆ではないのか。 

その十四
・「眼科や耳鼻科は待合室があふれるくらいで、ようやくやっていけるんですって。こん
 なことなら歯医者さんになったほうがよかったと言ってたわ」「いや、獣医のほうがい
 い。獣医は保険も医療点数も、なにもない。それに患者は金持ちばかりだ」院長とその
 夫人たち四人は同時に笑った。 
・知人夫婦を交えてとはいえ、妻と一緒の話は格別面白くもないが、それは真弓と一緒に
 いるのと比較してのことで、これから家に帰っても、ただ眠るだけである。ビールを飲
 んで饒舌になった妻を無理に連れて帰っても、体を求める気はないのだから一層のこと、
 この場のお喋りで妻の欲望を発散させ、いい気分で眠らせたほうが無難である。
・祐太郎がこんな弱気なことを考えるのも、この頃めっきり精力が減退したせいである。
 特にいままでは、妻はともかく、真弓のピチピチした肢体を見たら必ず欲望を達せられ
 たものが、このところ二度ほど続けて、肝腎のところで不発であった。真弓の若い体相
 手でさえ駄目なのか、と思うと、なにやら急に老けこんだ気持ちになる。糖尿病による
 不能などは、よほどの重症でないかぎり起こるわけがないと、自分に言い聞かせている
 のだが。 
 
その十五
・病状を気にし、尋ねるのは家族や知人の第三者だけである。当の患者とそれに対する医
 師だけが死を免れないことを知っている。それは医師が患者に言ったわけでも、患者が
 医師に尋ねたわけでもない。互いの間でこれといった言葉もなしに、伝わりあったもの
 である。 
・医師は理論と経験でそれを知り、患者は体でとらえた実感でそれを知る。二人の間でそ
 れについて話したことはないのに、通じあっていた。いまの由蔵はかつて手術したこと
 が、無意味であったことを知っていた。だが、そのことを医師に尋ねたり、無意味だっ
 たことをなじったりはしない。それは明らさまに言うべきことではなく、お互いの心に
 とどめておくべきことであった。それで辛うじて心のバランスを保っているとも言える。
・これをもし、本当に「何故」「どうして」と尋ねていくと、たちまち得体の知れない恐
 怖にぶつかりそうである。それを知っては生きていく最後の望みさえ絶たれてしまう。
 「もしや・・・」という蒙昧さのなかに、死に近づいた患者は生甲斐を見出し、医師は
 その蒙昧さのなかに救いを見出していた。  
・「重大なお話があるんです」と婦長は直江に言った。「石倉由蔵さんが看護婦達にけし
 からぬことを要求しているのです」「こんなこと、本当だと思いますか」「あのお爺ち
 ゃんはあと半月保つか、保たないかという体ですよ」と婦長は言った。
・「本当だろう」「死が近いから、そうなのだろう」「人間は多分そういうものなんだろ
 う」と直江は言った。「余程好きな人ならともかく、相手は痩せ衰えた、死ぬ直前の老
 人ですよ」と言ってから婦長は顔を赤らめた。「そんなことは改めて、言うべきことで
 はない。各自、適当にやればいいのだ。なかには、さわってやってもいいと思うものが
 いるかもしれない」と直江は言った。普段は婦長の意見に必ずしも賛成しない看護婦達
 も、今度だけは一斉に不満の声をあげた。「わたし達をソープ嬢とでも、勘違いしてい
 るんじゃない」 
・倫子が直江に呼ばれて、彼の部屋へ行く日は、きまって直江の部屋は散らかっている。
 テーブルには飲みかけの酒のグラスやビールビンが並び、部屋には埃がたまっている。
 きれい好きな倫子は早速、茶碗を洗い、部屋を掃除し、ときには拭き掃除までする。情
 事はそれが終わってから行われる。掃除と情事と、一連のつながりのようにすすむのが、
 そのことを直江はもちろん、倫子もごく当たり前のことだと思っている。これでは家政
 婦と愛人と、二つかねているようだが、そうした状態に倫子はすでに慣らされているの
 である。 
・実際不思議なことに情事だけは幾度か重ね、体だけはよく知ったつもりなのに、直江の
 心の底は倫子にはなにもわかっていないのだった。体が結ばれれば親しさは急に増すも
 のだが、直江の場合は一向にそんな気配はない。体は体、心は心と、まるで別の付き合
 いをしているようである。 
・倫子は直江に、自分以外の女性がいることは感じていた。倫子は直江のただの愛人で、
 直江が婚約しようとも、一緒に住もうとも言ったわけではなかった。体を奪われたのは、
 やや直江の一方的なものであったにせよ、倫子自身が奪われたいと思ったのだし、その
 時の条件として、特別、なにかを約束したわけでもない。その時に自分以外に女性がい
 るだろうことは承知していたし、いなければおかしいとさえ思っていた。倫子はいま、
 自分以外の女性のことは考えないことにしている。なまじっか考えると苦しくなり、落
 ち着かなくなるだけである。直江を愛しているということだけで、倫子は満足していた。
・「お加減はどうなんですか」「少し、風邪をひいただけだ」「熱は計っているのですか」
 「体温計がない」「馬鹿ねえ」突然、倫子は直江を抱きしまたい衝動にかられた。何度
 もベルを押し、電話をかけて待った。もう逢えないかと思った。その間に倫子の心と体
 は直江に抱かれるのを待ち望んでいた。この衝動はいまにはじまったことではない。昨
 日から、正確に言えば十日も前から続いていた欲求であった。待つ間に倫子の体は充分
 すぎるほど、燃えていた。だが、いまはそれだけではない。体温計もなしに、二日間、
 黙って眠り続けていた直江が無性に愛おしい。  
・倫子は上体を傾け、直江の上に顔を近づけた。倫子が直江の眼に異様な光を見たのは、
 その時であった。瞬間、直江の眼が輝いたように思えた。だが、それは金属が輝くよう
 な鋭い光ではなく、陽の変り目にゆるやかに輝く、鈍い光のようである。 
・厚い本に見えたのは、ステンレスの注射トレーであった。二本の注射筒が裸のまま並び、
 その端に切られたアンプルが二本転がっている。「オピアト」倫子はアンプルに記され
 ている字をそう読んだ。オピアトが麻薬のなかでも、特に強い塩酸アルカロイドである
 ことを倫子は知っている。手術直後の一般的な痛みにさえ、こんな強い薬は使わない。
 使うといえば胆石に発作とか、癌が神経にまで冒した場合のような激しい痛みの時にか
 ぎられる。
・あれは麻薬のせいだったのだ。つい少し前、部屋へ来た時に見た直江の顔を倫子は思い
 出した。焦点の定まらぬ鈍い眼は、間違いなく麻薬をうったあとに現れる症状である。
 時たま激しい痛みを訴える患者に使って、倫子はその様子をよく知っている。もしかし
 て、麻薬中毒では・・・倫子は自分の思いに怯えた。
・「駄目よ、今日は院長婦人の命令で、様子だけうかがいにきたのですから」直江から挑
 まれて、倫子が断りおおせたことはない。「ねえ、帰して・・・」争いながら、二人の
 間には儀式のような厳粛さと、慣れ合いが見える。直江の細いが長い指が、倫子の乳房
 をとらえたところで儀式の最後のコースへすすむ。それまでの抵抗が、燃えるための手
 続きであったように、倫子の白い裸体は、すすんで淫らな行為に加担する。
・いけないと思いながら、体のほうから先に崩れていく。そこまで知っていて直江は挑ん
 でいるのかと、倫子は口惜しくなるが、それも一時のことである。直江の愛撫につれて、
 倫子の体は徐々に開いていく。直江の指の動きに触れた時だけ倫子の体はやさしく、従
 順になる。    
・それでも倫子の体は十分に潤っている。しばらくベッドの横で直江の寝顔を見詰めてい
 たためか、あるいは体自身がそれに慣れてきているのか悲しいほど体は素直である。直
 江が入ってくると知って、倫子は体をおおっている直江の耳元に囁いた。「ねえ、今日
 は危ないの」だが今日の直江は、倫子の言うことが聞こえないのか、強引に入ってくる。
 走りはじめた体のなかで、倫子の意識が辛うじて訴える。「今日は・・・」「かまわん」
・体が火となって走っていく。もう止まりはしない。目をつむり、髪をふり乱して走って
 いく。男に組みしかれ、悦びに波打つ肢体が少し前、白衣を着て患者の脈をとった、そ
 の体と同じとは思えない。喉から洩れる小さな声とともに倫子は遠い宇宙へととび出す。
 瞬間、きらめくような星座が見え、やがて広く豊かな宇宙に漂う。直江がどうであった
 のか、自分がどんな羞ずかしい声をあげ、どんな動きを示したのか、一切が闇の彼方に
 茫然として定かではない。
・下着から服へ、慌てて身につける。それにつれて倫子の淫らな部分が消えていく。直江
 以外は知らない女の変貌である。服を着終わったところで倫子はベッドの横へ戻ってき
 た。「ねえ、体、無理をしては駄目よ」
・「石倉さんのことについて、わたしは、あんなことをしてはいけない、などと婦長さん
 が皆に言うのは行き過ぎだと思うんです。その場その場で、看護婦の良識に任せればい
 いことですから」「婦長さんは家族に注意すると言っていました。だから、あのお爺ち
 ゃん、もうあんなことは要求しないと思いますけど」と倫子は言った。
・「そんなの関係ない。注意したところで同じだ」「死ぬからだ。死ぬ者にとって、注意
 など意味がない」と直江は言った。倫子はソファに上から直江の静かな横顔を見ていた。
 どういうわけか、直江のいまの顔には、たとえようもない優しさがあった。それは時々
 の好き嫌いをこえて、しみじみと倫子のなかに入ってくる。冷やかに扱われながら、直
 江から離れられなかったのは、この優しさのせいなのかもしれなかった。
・「頼まれたら、君はやってやろうと思っているのか」「わたしが・・・」「そうだ、君
 がだ」倫子はできそうもない、いざさせられたら、そんなことをしている自分を想像し
 ただけでも総毛立つ。いま少し前、肌を合わせ、愛を確かめあった男が、三十分も経た
 ぬうちに、そんなことを命令する。それが愛している女へ言うことであろうか。いや本
 当のところは愛していないかもしれない。怖いひとだ。倫子はそろそろと顔を上げ、ベ
 ッドの先を窺った。直江は軽く背を見せ、眼を閉じている。
・「帰ります」と倫子が言った。「ありがとう」床のなかから直江が言った。直江がそんな
 言葉を倫子に言ったのは初めてであった。どういうつもりだろう。倫子はもう一度、直
 江の顔を見届けて、外に出た。 
・体のなかに充実した感じがある。あの人の子供は生まれるだろうか。かすかな期待が倫
 子のなかで拡がっていく。少しずつ、しかし的確に、胎児が育つように、空想が羽ばた
 く。あの人の子供を産み、わたしが育てる。子供を育て、あの人と生活する・・・。羽
 ばたいた空想はそこへ達した途端、たちまち立ち止まり、急に萎える。その瞬間、すべ
 ての思いが崩れ落ちる。どういうわけか倫子には、直江は男とは思えても、ともに生活
 する夫とは思えないのである。  
・「小橋先生のお話ですと、痰が詰まって死ぬような人は、それだけ抵抗力が弱まってい
 るわけだから、一時的に助かっても、結局は駄目だと」と倫子は直江に言った。「それ
 はそのとおりだが、それで死んだのでは形が悪い」「痰で死ぬと、いかにも突発的に死
 んだようで、家族に悔いがのこる。将棋を知っているか。将棋で投了する時には、実際
 はかなりの差があっても、一手違いの差のようにして終わる。少なくとも終わった時の
 盤だけを見たらそのように見える。死に型を整えるのだ」「死ぬのに、一週間早いとか、
 遅いということは問題ではない。問題はいかに納得して死んだかということだ」と直江
 は言った。「要するに本人が納得できればいいわけですか」と倫子が言うと、「違う、
 家族がだ」と直江は言った。「じゃ、本人は?」「どんな死だって、死んでいく本人が
 納得できる死なぞない」「いくつになったからといって、死んでいいと思う人はいない」
 一瞬、倫子は、直江がこの世の人でないように思えた。
・勤務時間を終えて医師達が帰ったあと、直江が医局でソファに横になって本を読んでい
 ると、律子夫人が現れた。「わたしくもこのところまた、少し具合が悪くて、このあた
 りが痛むのです」「じゃ、ここで診ましょうか」「じゃ、診ていただこうかしら」夫人
 は上気した頬に、両手をあてていたが、やがて立ち上がり、窓のカーテンを引いた。た
 そがれていた空が閉じられ、部屋は完全に夜になった。
・直江は眼を開いた。テーブルの向こうに夫人が胸元を両手で隠して縮こまっている。撫
 で肩から続く背、そしてスリップの垂れ下がった細いウエストへ。やや胴長の背は、夜
 の光のなかで白く、少し淫らである。直江は立ち上がり、夫人の背の後ろに立った。胸
 元でスリップとブラジャーをおさえた夫人の腕が小刻みに震えている。  
・「奥さん、こちらを見て下さい」胸をかくしたまま、ゆっくりと夫人が振り返る。「な
 んでしょう」と言いかけた瞬間、直江の腕が夫人を抱きしめた。「いけません、なにを
 なさるのです」両腕と胸と、一緒に抱きすくめられたまま、夫人の唇はたちまち、直江
 の唇におおわれた。「離して、離してください」夫人は叫んだつもりだが、それは口の
 なかで舌が動いただけで、声にはならなかった。悶えながら夫人は眼を閉じていた。小
 さく顔を振りながら、唇は開いている。直江はその間に唇を押し込み、抱きしめたまま、
 夫人のかすかに小皺のにじむ眼元を見詰めていた。 
・短い時間が流れた。夫人はいまはむしろ積極的に、直江に体をあずけていた。抱かれる
 まで自分で握っていたブラジャーは二人の足元に落ち、夫人の両手は直江の肩口から背
 に廻されていた。 
・純子は慣れた姿勢で大の上へあがった。足台へも自分から足をあずける。それを見届け
 て直江が診察する。夜の密室で女が局所を開き、男がそれを見ている。辺りに人は誰も
 いない。普通なら異様な光景だが、白いカーテンや、明るい金属がそれを当たり前にし
 ている。 
・「今晩、おひまですか。付き合ってください。わたし、今晩しか時間がないのです。お
 願いします」と純子は直江に言った。
・「君は麻薬を使っているね」と直江が顔を近づけ、低い声で言った。瞬間、純子は怯え
 たように体を引いた。「医者だからわかる」「いい悪いを言っているのではない。少し
 うってやろうか」「なぜうってくれるんですか」「君が欲しいからだ」「ほんと・・・」
・二人が直江のマンションへ着いた時、体を動かして酔いがまわったのか、純子の足元は
 少しふらついている。部屋に入ると直江はそのまま純子をベッドに運び、仰向けに寝か
 せて接吻をした。純子は抵抗もせず当たり前のようにその接吻を受けた。
・直江は純子の白い腕をとらえ、一気に針を差し込んだ。直江は同じ注射器にアンプルを
 つめると、今度は自分で左腕にうった。「先生も相当の悪ね」純子は直江に背のファス
 ナーをまかせながら言った。    
・直江は体を起こしてフックを外すと純子のワンピースとパンティストッキングを一緒に
 引き下ろした。「ここで志村倫子さんと逢っていたのね」下半身裸にされたまま、純子
 は部屋を見回した。直江は答えず、さらに脱がせていく。純子は時々思い出したように
 抗いながらも確実に脱がされていく。 
・「先生に犯されたかったの」全裸になったところで、純子はいままでの抵抗を止め、直
 江の胸元にとびこんできた。直江はその柔らかい感触を楽しむように、しばらく腕のな
 かで抱きしめていた。直江の指の動きに合わせるように、純子は小さく細い体をゆっく
 りとうねらせた。 
・どうにでもしてよというように、純子は手を伸ばし、仰向けになった。手足が自分のも
 のでないかのように気倦い。そのくせ欲望だけがしきりに湧く。見はからったように直
 江が求めてきた。「またあんなことになったら困るわ」「その時は俺が堕ろしてやる」
 純子の全身に震えるような悦びが拡がっていく。それは現実の感触よりも、体の奥底ま
 で暴れた男に犯されているという、被虐の感触のせいらしい。「怖いわよ」虚ろに叫び
 ながら、純子はとらえどころのない渦のなかへ落ちていく。
 
その十六
・愛にはさまざまな形があるという。私を失くすることが愛だという。読みながら倫子は
 直江のことを考えていた。このごろ直江は少し変わったようである。直江の削げたよう
 な肩から背には、なにか淋しさがある。直江は淋しいとも悲しいとも言わない。だが倫
 子にはそのように見える。  
・倫子の部屋は看護婦の寮の三階の端である。鉄筋に直す予定だと聞いたが、まだ四、五
 年は先になりそうである。その時まで憲子はこの病院にいりだろうか。もし、五年先と
 なると三十になってしまう。それまで直江が一緒にいてくれるならしれでいい。もちろ
 ん結婚などできなくても、倫子はそれで満足できる。それ以上の幸せなぞ倫子は望んで
 いない。直江が一番嫌いなのは、ありきたりの夫になり、妻をえて、家庭を持つことの
 ようである。普通ではない考えだが、倫子はそれを疑問に思っていない。いつのまにか、
 倫子は直江に向いた女につくりかえられたようである。どうしてこんなになってしまっ
 たのか。倫子は時々自分が不思議になる。
・直江の考えや行動には、どこか地の果てを見た人のような確かさがある。一見冷やかで
 投げやりに見えて、その底に人間をじっと見詰めているような優しさがある。それは小
 橋のように子供っぽい観念的なものでもなく、院長のように利己的なものでもない。悪
 も善も、すべてを呑みこんで生きている人間のようである。変わっているところと言え
 ば、それがただ少し、淋しげなだけなのだ。 
・逢いたかった。逢って直江に抱かれたかった。邪険に扱われ、めくるめく羞ずかしい目
 にあわされてもいい。直江になら、なにをされてもかまわない。他の男なら嘔吐をもよ
 おすほどのことが、直江となら親しめた。 
・直江の愛撫を受けるようになってから、倫子の乳房は少しずつ、大きくなってきたが、
 両の乳は同じ大きさでなく、左のほうが大きかった。いまはまだいいが、これ以上差が
 開くと、風呂などで他人に気付かれるかもしれない。このごろ倫子はそれが羞ずかしく、
 寮の風呂も病院のも、なるべく一人で入ることにしていた。 

その十七 
・由蔵の熱が出はじめたのは、彼が倫子に蔦のようにからみついた翌日からであった。由
 蔵は以前からも微熱があった。喉を痛めたり、風邪を引いたわけでもないのに熱がある
 のは、癌の末期に現れる悪液質のためだった。癌はいまは胃だけでなく、肝臓から腹膜、
 さらには脊椎までと、全身に拡がっていることは疑いがなかった。この拡がった癌の活
 動が体のバランスを崩し、熱を誘い出す。癌という根本の病を治さないかぎり、消える
 ことのない熱であった。 
・倫子はそのことを知りながら、熱が出たと知って狼狽した。由蔵の熱が三十八度を超す
 ことは、これまでも二、三度あった。今度もそれと同じである。そう思いながらも倫子
 はやはり昨日のことが気になった。わたしが邪険に払い落としたからではないだろうか。
 あれは仕方がなかった。お小水だといって、出もしないのに下の準備をさせ、突然、手
 を握る、などというのは卑怯すぎる。いくら看護婦だといっても、そんなことまでしな
 ければならない理由はない。あれは拒絶して当然のことである。お爺ちゃんが倒れたの
 は、強引にしがみついたためだ。だが倫子はやはり落ち着かなかった。
・倫子はふと、由蔵に、なにかをしてやりたい衝動にかられた。それは誰に強制されたの
 でも、老爺が要求したものでもなかった。自然に倫子の心からほとばしり出た願いであ
 った。 
・「お爺ちゃん。さわってあげましょうか」と言いながら、倫子はこれから自分がしよう
 としていることが、どういうことなのか考えなかった。手と心は別である。手の動くま
 まに心が従った。
・被布の端を持ち上げると、倫子はその細く華奢な手をそろそろと由蔵の股間へ近づけた。
 触れた時、倫子はその柔らかさに狼狽した。それは男の象徴からは程遠い。かぎりなく
 柔らかく優しいものだった。倫子はいま、それを大きくすることだけが自分の務めだと
 思った。大きくし、猛々しくすることだけが自分に与えられた仕事だと思った。 
・倫子の細い指がそれをとらえ、ゆっくりと上下動する。二、三度くり返し、そこで勇気
 をえたよいに指先にさらに力をくわえる。由蔵は大きく眼を開き、倫子を見ていた。見
 詰められている倫子の細面の顔は夕陽を受けたように朱に染まっていた。唇を軽く噛み、
 薄く目を閉じている姿は、なにかに耐えているようである。倫子は真剣だった。一時も
 休まずそれを続ける。休めばたちまち、いままでの行為が無に帰してしまう。 
・柔らかく、頼りなかったもののなかに、かすかな息づかいがある。それと気付かぬ力が
 芯となり、一つの硬さを形づくる。長い時間のようでもあり、一瞬のことであったよう
 にも思う。倫子の奉仕が少しずつ実を結んでいた。手のなかに確かな硬結がある。それ
 はまさしく由蔵の残されたすべての力をふり絞って生まれてきたものである。 
・「お爺ちゃん」走り出した動きは、もはや止まらない。走り、駈け、行きつくところま
 で行くより方法はない。いまは倫子も由蔵も一体であった。一つになって終着駅へ驀進
 していく。全身の汗ばみも、手の抜けそうなだるさも倫子は忘れた。 
・「おおっ」由蔵が獣のように呻き、顔を反らせたのはそれから数分後だった。由蔵は顔
 を小刻みに振り、荒い息をくり返しながら、一瞬の快楽を惜しむように喉仏を上下させ、
 声を呑みこんだ。 
・瞬間思いかげぬ猛々しさを見せた由蔵のそれは急速に萎え、再びかぎりなく柔らかく、
 優しいものに戻っていった。由蔵はなお小刻に呼吸を続ける。普通なら苦しげで早い呼
 吸が、いまはことを終えたあとの安らぎの呼吸のようである。そろそろと倫子は被布の
 したから手を引いた。陽のかげった病室のなかで、倫子の手に先が光ってる。ぬるぬる
 とした感触がその指先に残っている。指先にかすかに止まっているそれが、由蔵の全身
 から絞り出されたすべてであった。 
・「お爺ちゃん」「ご免なさい」倫子は自分と由蔵が、ずっと以前から知り合いであった
 ような気持ちがした。倫子はもう一度由蔵の顔を見た。眼の縁に涙が浮かんでいる。
 「あ・・り・・がと」荒い息の間から由蔵の声が洩れた。被布の下から自由にきく由蔵
 の右手がそろそろ伸びてきた。片手だが、掌は鼻の上で合掌する形に立てられている。
・由蔵が意識を失ったのは翌朝の明方で、それから強心剤や点滴を続けたが、急に力尽き
 たように息絶えた。苦しんだのは意識を失う前、に、三十分で、そのあとは苦しみから
 抜け出たように眠り続け、息を引きとる瞬間もそれと知らぬくらい静かで、おだやかで
 あった。  
 
その十八
・「ここに坐らないか」「えっ・・・」倫子は聞きかえした。病院で直江にそんな言葉を
 かけられるのは初めてだった。「一緒に北海道に行こうか」「しかし、明日、君は新潟
 へ帰るんだったな」「帰れなくてもいいんです」「じゃ、明日行くか」「明日ですか」
 なんと気が早いか、あるいは気紛れというのであろうか。だがこの機会を逃しては直江
 と一緒に北海道へ行くことはないかもしれない。
・小橋が「区役所から上野さんの輸血を来年から認めないと言ってきた」「今度からは医
 療扶助では認めない、自費で払えというのだ」と騒ぎ出した。小橋の差し出す書面は、
 確かに公文書で、新年から打ち切る旨が記されている。
・「医療扶助の申請書は出していたろうな」と直江は言った。「ええ、それは毎月、書く
 ことになっていますから」「そうして書類のなかに、治療効果について、問合せの書類
 はこなかったか」と直江は言った。やがて思い出したように「そう言えば、一度、電話
 で聞かれたことがあります」と小橋は答えた。「それで君はなんと答えたのだ」「もち
 ろん、治ることはないと、一時的には効くが決定的な治療法ではないと答えました」
 「一カ月まえに治療効果のところを詳しく書いてくれと言うので、やはり同じように書
 いて廻しました」と小橋は言った。「そのせいだろう」と直江は小さくうなずいた。
・「君は間違っていないが、役人のほうも間違っていない」「やって効果のない治療を長
 々とやることは、医療扶助では禁じられている。特に高価な治療は」と直江は言った。  
 「医学的には間違っていることはわかる。しかし効果のない治療をやたらと認めると、
 他の医者がつまらぬ治療を乱用するようになって、予算ばかりくわれる。役所の理屈に
 も一理はある」と直江は言った。
・「彼が助からないことを奥さんは知っている。点滴をしてやれ。今日から毎日、5%の
 ブドウ糖500ccに、アドナを3筒入れるのだ」と直江は言った。アドナは赤い溶液
 の止血剤で手術のあとの点滴などに使うが、上野の病気にはなんの効果もないものだっ
 た。「あれをブドウ糖にまぜれば赤く見える」「血に見える」と直江は言った。
・「それじゃ、まるで詐欺じゃありませんか。そんなことを医者がして許されますか」と
 小橋が言った。「許される、許されないの問題ではない。そうするより仕方がないだけ
 だ」と直江は言った。
・「死んでもかまわないと言うのですか」と小橋は言った。「いままでどおり輸血を続け
 たところで、結局二、三カ月で死ぬ」「期間の問題ではない。問題な納得して死ねるか
 どうかということだ」と直江は言った。   
・「君は応用が利かない」「大学病院だけにいると頭が堅くなって、応用が利かなくなる
 ということだ」「医学だけ覚えるのが医者ではない。哲学も倫理も、医師法も読んでお
 いてもらわなければ困る」と直江は言った。
・「それに殺し方もな」「医学に死なせ方の講義なぞはありません」「医者は本来殺し屋
 なのだ。人間誰しも避けられない死をいかに納得させるか。その手伝いをする職業でも
 ありのだ」「われわれは患者を助けてなんかいない。助かったのは、その人達に助かる
 力があったからだ。医者はその生命力に手を貸しただけだ」「医者の相手は病気という
 理屈ではなく、患者という人間だ」と直江は言った。
  
その十九
・夜、直江はかぎりなく情熱的で淫らであった。倫子にさまざまな体位を求め、それを見
 詰めながら自分も浸っていく。口に出しては到底言えない羞ずかしい姿態に、倫子は全
 身を赧くして耐えながら、直江の行為に誘われていく。いや途中からむしろ倫子のほう
 から、その淫らさにとびこんでいく。
・旅に出ているという解放感からか、雪の夜に情事を行っているという甘い思いのせいか、
 倫子の細く白い体は、果てしなくしなり、泣き続ける。もはや倫子ではない。もう一人
 の倫子が跳梁を欲しいままにしている。  
・だが、それは直江も同じである。倫子に羞ずかしい姿態を強要し、そこへ顔をうずめる。
 その直江の姿には、昼間、病院で見る孤高で覚めた表情はない。ただひたすら暗黒を振
 りはらい、淫らさへ突進する。 
・責め苛み、責め抜かれ、途中から加虐と被虐がわからなくなる。すべてがエゴであり、
 そして愛であるような、そんなとらえがたい悦びのまま、坂を昇りつめ、やがてその頂
 点で、二人は果てた。
・「明日、支笏湖へ行こうか」と直江は言った。 
・千歳を抜け支笏湖へ向かう。倫子はその道が、昨夜、夢で見たのとそっくりに、一直線
 で果てしない雪の壁にとり囲まれているのを知って驚いた。道の両側の落葉したカラマ
 ツ樹林の奥に青い針葉樹林が立っている。すべてが枯れはてた白一色のなかで、その青
 さが倫子には不思議だった。 
・「この湖は深くて荒れると怖いのだ」「いままで何人かここで命を失っているが、まだ
 死体が上がってきたことはない」「火山が爆発して湖底に沈んだ時、樹がそのまま沈ん
 だからだ」「一度沈んだ死体はその枝にかかって、上がってこれないのだ」と直江は言
 った。「怖いわ・・・もう戻りましょう」と倫子は言った。直江はうなずいたが、眼は
 やはり湖を見ていた。 
・「なにか言っておくことはないか」「あるなら言っておいたほうがいい」二、三日後に
 逢えるのにと倫子はおかしくなった。「一つだけ言っておきたいおとがあるのです」
 「わたし・・・あれがないのです」「妊娠したのか」倫子はうなずいた。「わたし、堕
 ろしてもいいんです」となにも言われないのに、倫子は先に言った。妊娠しただけでい
 い。それ以上のことなぞ倫子は初めから望んではいなかった。 
・「産む気はないのか」「俺は誰とも結婚する気はない。もちろん君ともしない。しかし、
 君が産んでくれるというなら、できるだけのことはする」「じゃ、産んでもいいんです
 か」「俺もそう願っている」「本当ですね」倫子は体を小刻みに震わせて眼を閉じた。
 悲しくもないのに涙が滲んできた。
・それと、もう一つお願い」「麻薬をうつのはもう止めてください」「そのことか」直江
 はかすかに笑った。「もう使わない」笑ったまま直江は暗い窓を見た。
   
その二十一 
・電話が鳴った。立っていた倫子がそのまま受話器をとった。「もしもし、東京のオリエ
 ンタル病院ですか」電話は年輩の婦人の声である。「わたくし、札幌の直江と申します
 が、直江庸介の姉です」思いかげぬところからの電話に倫子は、身を固くした。「あの
 う、直江が昨日亡くなりました」「直江が死んだのです」「自殺です」「支笏湖という
 湖で、自殺しました」瞬間、倫子は受話器を離すと両手で顔をおおった。それからゆっ
 くりとスローモーションを見るように、倫子の体は机の横の床に崩れ、机から落ちた受
 話器だけがコードの先で揺れていた。 
 
その二十二
・目覚めた時、倫子は詰所のソファの上で、仰向けに寝かされ、胸元から足へ毛布をかけ
 られていた。婦長が手を伸ばし、倫子の髪を撫ぜる。その感触のなかで、倫子はようや
 く気を失う寸前のことを思い返した。 
・「池尻の直江先生のマンションへ行ってくださいって」「誰が・・・」「直江先生のお
 姉さんが、あなたへ」「先生からあなたへの手紙があるそうよ」
・倫子が皆に付き添われて、池尻の直江のマンションに着いたのは午後十時に近かった。
 「それ、遺書じゃない」婦長が指さす、炬燵の上に白い封書が一つある。”志村倫子様”
 表に墨で書かれている。
・今度の札幌への旅行で君とはもう逢えない。行き先はまだはっきり決めていないが、支
 笏湖あたりで死のうかと思う。この湖を選ぶのに特別の理由はない。ただ北国で誰にも
 知られずに死にたい。あの湖は一度沈めば、二度と死体はあがらない。すでに気付いて
 いたかもしれないが、私には病気があった。さまざまな骨が癌で冒されている。正しい
 病名は多発性骨髄腫である。私は自分がこの病気にかかたのを二年前から知っていた。
 私の余命はあと三カ月である。来月からは歩くこともできなくなる。時たま背中から脚
 へ、激しい痛みに襲われた。私がよく酒を飲み、麻酔を使ったのはこのためである。大
 学病院を辞めたのは、こんな病身で講師の職は勤まらないし、後輩へ席を譲ったほうが
 いいと考えたからである。意味が心配するように私は麻薬を盗用したり、乱用はしてい
 ない。ただ時に、大学から麻薬が届くのが遅れた時、オリエンタル病院の患者に使う分
 を一時転用したことはある。君の優しさを私は充分に知っていた。
・私はいつもうしろから死に追いかけられていた。おかしなことに死が近づいてから、私
 は人間や、人びとの営みのすべてが膜が剥がれたように透けて見えるようになってきた。  
 それまでの気負いも、妙な正義感も観念的な見方もすべてがつまらなくなってきた。
・死は私にとっては無でもゼロでもない。まして仏になることや、霊が残ることでもない。
 なにもない。掌の上に乗った一握りの灰を吹き飛ばせば、それで消える。それだけのこ
 とである。  
・この数カ月、私は無性に女を犯した。そこに特に好みとか、好き嫌いがあったわけでは
 ない。ただ、無性に女に溺れ、女のなかに入りたかった。女と一緒の時と、薬が効いて
 いる時だけ、私は死を忘れることができた。本当のことを言うとその時の私が正気で、
 それ以外の私は嘘である。  
・私はいま、関係した女性達のすべてが、私の種を宿し、胎むことを願っている。できる
 かぎり、この世に自分の子供が増えることを願っている。奇妙なことだが死が近づくに
 つれて、私のこの願いは一層強くなってきた。もしかし、私がこんな破廉恥なことを願
 うのは、死がくれば私は見事になにも無くなることを知っているからなのかもしれない。  
・いまここに君に最後の便りを書くのは、第一には君に悲しみを与えすぎたことの詫びを
 言いたかったからである。第二に、数ある女性のなかで、君だけはあるいは私の死後も、
 子供を産んでくれるかもしれないと思ったからである。もし君が産む気があるならば、
 机の右の抽斗に預金通帳がある。多くはないが五、六百万はある。入用ならそれを使っ
 てほしい。
・これから君に羽田で逢う。一時間後に一緒に飛行機に乗る人にこんなことを書くのはお
 かしい。でも君はこれまで私に素直に欺されてきた。だからいましばらく私に欺されて、
 情事の最後の相手をつとめて欲しい。 
・白いタイルの中央に手術台がある。倫子は右の壁に寄ってスイッチをつけた。わずかな
 間があって瞬きとともに手術台の上の無影燈から光が落ちてきた。手術の時、倫子はい
 つもこの無影燈の下で直江を待っていた。この下に立った時は直江も倫子も患者も誰も
 影がなかった。影のないそれだけの人間であった。もうじき直江はここに現われる。そ
 う信じながら、丸く照らし出された無影燈の下で化石のようにうずくまったまま倫子は
 直江を待っていた。