かくて昭和史は甦る :渡部昇一

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日本の昭和史を語る歴史学者には、大きく二つに分かれる。昭和の戦前の日本を自虐的に
否定し続ける人と、これとは反対に自画自賛する人とに分かれるようだ。この本の著者は、
後者にあたる人物のようである。
確かに、昭和の戦前の日本は、軍国主義一色というイメージがとても強いが、これは終戦
後の日本が占領されていた時代に、戦勝国によって、半ば強制的に作られたものであると
いうことは、否定できないであろう。明治維新の時の「勝てば官軍」のように、戦勝国の
言うことがすべて正しく、敗戦国の日本のそれまでの価値観はすべて誤りであったと否定
されても、敗戦国の日本は、それに対して何か言えるような状況ではなかったのが実態だ
ったのだろう。
そういう意味では、こういう本が出てくるようになったというのは、ようやくそのときの
呪縛から解放され始めてきたと言えるかもしれない。
この本に書かれている内容は、今までの戦前の昭和史の一般常識を真っ向から否定すると
思える部分が少なからずあるように思う。しかし、歴史というものは、勝者によって「作
られた歴史」が少なからず多く、何が真実なのか、本当はよくわからないということが多
いように思える。昭和の戦前・戦中についても、「当時の日本はそんなに悪いだけではな
かったのだ」ということを、今まではなかなか声を出せなかったのは確かだろう。そうい
う点では、この本の内容は、こういう見方もあるのだという点で、大いに参考になると思
える。
ただ、この本を読んで気になったのは、筆者の心理の根底には、「日本人民族は他のアジ
ア諸国の民族と違って優れているのだ」という意識が、脈々と流れていることである。こ
れは、この著者に限らず、保守派と言われる人たちに共通しているように思われる。この
意識は、白人が有色人種に対して持つ意識と共通しているところがあり、私には好きには
なれない。それともうひとつあるのが、歴史的にみて、日本の指導者階級と呼ばれる人々
は、有能で立派な人たちだったのだという意識である。これもまた、保守派と言われる人
々に共通している意識ではないかと私は思える。

昭和の日本軍が暴走した元々の原因は、明治憲法の欠陥にあったと言うのは確かに言える
だろう。明治憲法には、「内閣」についても「首相」についても規定がなかった。それで
も、国を運営していくためには、内閣も首相も必要であったため、実際には内閣も首相も
存在した。しかし、憲法で規定されていないがために、首相の権限は極めて弱く、大臣を
任命することも罷免する権限もなかった。
その明治憲法の欠陥を突いたのが「統帥権干犯問題」だった。これによって、首相も内閣
も、軍部に対して何も言えなくなってしまった。もっとも、最初にこの「統帥権干犯問題」
を持ち出したのは軍部ではなく、当時の野党(政友会)の政治家たちだった。これを政争
の具にして政権をとろうとしたのである。しかし、軍部がその「統帥権干犯問題」に目を
つけ、それを理由に政府の言うことをきかなくなり、政府が軍をコントロールできず、軍
部の暴走を許してしまった。
今日では、先の戦争を引き起こしたのは、暴走した軍部だけが悪いように思われがちだが、
元々は当時の野党(政友会)の政治家がその原因を作ったのだということを、我々はしっ
かり認識しておく必要があるだろう。
もっとも、この政友会という党を作ったのは、明治憲法と作った伊藤博文であった。これ
は何とも皮肉なことである。「統帥権干犯問題」を持ち出した政友会の人たちは、自分の
党の先人が作った明治憲法の欠陥を突いて、日本を亡国へと追いやってしまったのである。
今日の政治を見ていても、ただ単に、眼の前の党利党略だけに明け暮れているとしか思え
ないことが多すぎる。もはやこの国の政治家に、もっと「国の将来」を考えてと期待する
のは無理なのだろうか。

ところで、この本の中で、「朝鮮は日本の一部であったから、朝鮮の人も日本国民として
まったく同等の待遇を受けたのだ」という一節があるが、実際にはまったく同等というこ
とではなかったようである。日本の植民地政策において、日本人は一等国民、朝鮮人は二
等国民、台湾人は三等国民というふうに認識されていたのが実態だったようだ。これを現
代の目から見れば「差別だ」というように見えるが、当時の世界的に植民地政策がごく当
たり前におこなわれていた時代においては、普通のことであったようだ。ただ、当時の欧
米における意味での人種差別はなかったということなのだろう。
また、この本に中で、日露戦争時に活躍したという騎兵隊の話が出ている。そのなかで、
日本の馬の在来種は西洋の馬よりも一回りも二回りも小さく、西洋の小型馬ポニーほどの
大きさしかなかったという話が出て来るが、この話は「イザベラバードの旅」の本の中に
も出てくる。日本の馬が今のような大型になったのは、この日露戦争における騎兵隊がき
っかけに西洋馬を輸入するようになったからのようである。

さらに、この本の中に、明治時代に流行病となっていた”脚気”という病気と森鴎外との
関係について出てきている。日清戦争や日露戦争の当時、日本の陸軍は、兵士の中に多数
の”脚気”を患った者が出て、大きな問題になっていた。そしてその当時の陸軍軍医局の
要職にあったのが軍医であり作家でもあった森鴎外であった。海軍では高木という軍医が、
”脚気”は白米食のよる食事に原因があることに気づき、海軍の食事改良運動をして、
”脚気”を克服する。この時に考案された食事のメニューの一つが「軍艦カレー」であっ
た。しかし、森鴎外をはじめとする東大医学部出身のエリートで固められていた陸軍の軍
医局は、この海軍の高木軍医の手法を端から否定し、自説を通すために意地になって白米
主義を貫き通した。これによって、日露戦争においては2万7千名の戦闘ではなく”脚気”
による死者を出してしまった。それでも森鴎外らは自説を改めようとはしなかったようだ。
森鴎外は、作家としては多くの作品を残したが、軍医としては犯罪的行為を行なったと言
われてもしかたがない人物であったようだ。

ところで、著者はこの本の中で、「普通選挙になったことで、選挙コストが増え、それが
企業献金を生み出した。政治家たちが財閥から政治献金を得ているからといって、それを
腐敗だと攻撃するのは民主主義が何かもわかってない証拠である。政治に無関心な人たち
までが一票を持つ普通選挙で、票を集めようと思えばお金がかかるのだ」、というような
持論展開している。これについては、選挙に無関心な人は選挙権を持つべきではないとい
うようにも聞こえ、私にはどうも納得がいかなかった。

従軍慰安婦問題について、この本の中で著者は、当時なもちろんのこと今でも世界の多く
の国においては売春は合法なのだ、ということを述べている。それで、実際に売春が合法
となっている国ってどんな国があるのかネットで調べて見ると、フランス、フィンランド、
ノルウェー、デンマーク、スイス、ギリシャ、オランダ、ハンガリー、オーストリア、ポ
ーランド、イングランド、スウェーデン、ポルトガル、チェコ、タイ、シンガポール、イ
ンドネシア、インド、台湾、アルゼンチン、ブラジル、南アフリカ、チュニジア、モロッ
コ、ニュージーランド、オーストラリア(一部地域禁止)、ドイツ(一部地域で合法)と
なっているようだ。先進国も多く含まれており、これは意外な気がした。

さらに著者は、「南京大虐殺」は捏造だったと主張している。この「南京大虐殺」につい
ては、いろいろな説があり、今でも何が本当なのかはっきりしていないようだ。ただ、著
者の説には、納得できる点が多いような気がした。また、ベトナムにおいても他の共産主
義国と同様に、ベトナム戦争後に大量粛正があったと著者は述べているが、ネットで調べ
た限りにおいては、この大量の死者数はベトナム戦争での死者数であり、大量粛正を裏付
けるものは見つかっていないとする説もあり、どちらが本当だったのかは、まだ定まって
いないようだ。

現代の国際社会の常識からすれば、当時の日本のやったことは、「侵略」であったという
ことになるだろう。しかし、著者が主張するように、当時の国際社会の常識は、今の時代
の常識とは異なっていたということを、現代の我々日本人も認識する必要があるようだ。
現代の社会常識で過去のことを一方的に断罪するのは、あまりに自虐的すぎるようにも思
われた。先の戦争で日本が、無謀と言える戦争に向かった背景には、当時の先進国と言わ
れた欧米の白人諸国の、アジアの有色人種への人種差別的な意識や偏見があったことは、
否定できないのではないかと思う。白人諸国にとっては、アジア諸国の中において、日本
は、「目の上のたんこぶ」的な存在であったのは確かだろう。日本は、アジア諸国を侵略
した「悪い国」とイメージ付けられているが、当時は、欧米の白人の国々がアジアの国々
植民地にしており、これらの植民地となっていたアジアの国々は、太平洋戦争をきっかけ
にして、白人諸国の植民地から次々と独立を果たしていったという歴史は、否定できない
だろう。

まえがき
・昭和二十六年(1951)に吉田茂首相を首班とする日本全権が、英米をはじめとする
 48カ国とサンフランシスコ講和条約を結んだほか、その時に参加しなかったインドや
 中国(国民党政府)とも翌年に個別に講和を結ぶなどして、今日では平和条約を結んで
 いない旧交戦国はソ連(今のロシア)だけになった。すべてはソ連を除いて解決済みと
 言ってよい。それなのに50年以上前の戦争が日本で熱い問題であるのはなぜか。
・それは主としてコリアとチャイナのためである。それも昔のことを持ち出すと、日本政
 府がおろおろして政治的に譲歩したり、カネを出してくれることが分かったからである
 と言ってよかろう。つまり、日本は彼らの目には、ゆすり甲斐のある金持ちにすぎない。
・日本は東京裁判(極東軍事裁判)という脛に傷持つ身である。その脛の傷にさわるよう
 なゆすり方をすれば有効だということが知られたのである。そうして、こうした勢力に
 呼応する日本の反日的な政党やマスコミがあったため、ゆすりはますます頻繁に、かつ
 臆面もなく、嘘さえ交えて行われるようになっている。
・明治以降、特に昭和史を決定的に歪めたのは東京裁判である。東京裁判は1431年の
 ジャンヌ・ダルク裁判と類似していると指摘する英米法学者もいる。
・東京裁判では、検察側は太平洋戦争を「侵略戦争だった」と主張し、被告側は「正当な
 自衛権の行使であった」と主張した。侵略戦争の法的定義は確立されておらず、国際法
 でも認められていなかったから、「悪魔に導かれた戦争」という言いがかりと同じよう
 なものである。    
・当時の連合国にとっては、ふたたび日本みたいな強い有色人種の国が出て、白人の権益
 を脅かすことが将来にわたって起こらないようにと、日本人の代表を魔女のごとく処刑
 し、二度と魔女みたいな者が現れないように配慮した。
・東京裁判に示されたアメリカの日本観は朝鮮戦争によって一変し、東京裁判を行わせた
 マッカーサー元帥自身が「日本の戦争はおおむね自衛のためのものであった」ことを公
 式に認めた。ところが、日本の革新政党や進歩的な大新聞は、東京裁判史観、つまり朝
 鮮動乱以前のアメリカの日本観を固守した。特に革新政党の支配下にあった日教組は、
 この東京裁判史観を教科書と教室において永続化することに成功したのである。これが
 コリア人やチャイナ人のよって付け込まれるもととなっているのだ。 
・日本の昭和史は単なる歴史ではない。まさに今日の時事問題なのである。

さらば、亡国史観
・平成6年(1994)8月、東南アジアを歴訪した村山富市首相(当時)に対して、マ
 レーシアのマハティール首相が「日本が50年も前に起きた戦争を謝りつづけることは
 理解できない」という趣旨のことを言われた。マハティール首相は「日本に対して、今
 さら戦後賠償を求めるようなことは、わがマレーシア国民にはさせない」ということも
 語ったという。
・このマハティール首相の発言に対して、わが村山首相は、何の言葉も返せなかった。な
 ぜなら、村山首相の東南アジア訪問の最大の目的は、これらの国々に対する「謝罪外交」
 であったからである。
・同じことは、同じころに東南アジアを回った土井たか子衆議院議長に対しても起こった。
 外国の、しかも、かつて戦場となった東南アジアの国家元首から「過去の謝罪よりも、
 将来のことを話し合おう」と言われたことは、日本の政府がこれまで行ってきた”謝罪
 外交”が、いかに奇妙な、理屈に合わないものであったかを、端的に示している。
・平成6年5月には長野茂門法務大臣が、「南京大虐殺はデッチ上げだ」という趣旨の話
 を毎日新聞の記者に語ったと報じられて、当時の羽田孜内閣は世界中に平身低頭、お詫
 びをすることとなった。 
・平成6年8月には、村山内閣の環境庁長官・桜井新氏が、「日本の侵略戦争をしようと
 思って戦争を始めたわけではない」と発言したことが問題となり、各国政府に謝罪に回
 ることになった。
・外交というのは、マハティール首相が指摘したように、将来のことを話し合うために行
 うものである。50年も前のことに言及する必要はない。いや、そもそも過去の問題に
 ついて、すでに決着がついているからこそ、外交関係があるのだ。過去の経緯にたいし
 て、どちらか一方が今なお不満に思い、絶対に許せないと考えていたら、国交はありえ
 ない。
・日米間の戦後の外交関係が、昭和26年に結ばれた平和条約(サンフランシスコ講和条
 約)から始まるというのは、そういう意味なのである。この平和条約締結によって、賠
 償問題を含めた戦後処理はすべて解決したのであるから、今日、日本の首相もアメリカ
 の大統領も、外交の場において過去のことを持ち出さない。
・ところが、同じ外交であっても、ことアジアの諸国となると話しが違ってくるのは、ど
 うしたことであろうか。 
・たとえば、日本と韓国との間では、当時の佐藤栄作内閣と朴正熙政権が昭和40年に日
 韓基本条約を結んでいるにもかかわらず、現在でも日本は、まず過去に対する謝罪から
 対韓外交がスタートすることになっている。
・中華人民共和国との間には、昭和47年に当時の田中角栄首相が訪中して、いわゆる日
 中共同宣言を発表して国交を正常化し、その後、昭和53年に日中平和友好条約が締結
 されている。しかし、これもまた、日本は中国に対して、今なお謝りつづけている。
・これは言うまでもなく、日本側がコリアおよびシナに対して、戦後ずっと罪の意識を持
 ちつづけてきたということが大きい。中国や韓国が、すでに決着したはずの戦後処理の
 問題を今なお持ち出し、また謝罪を求めるのも、そうした無理な要求を容認する空気が、
 そもそも日本側にあるからである。
・一方韓国には、いわゆる従軍慰安婦問題など、日本の戦争責任を求める人たちが今なお
 多いが、これは国家間の条約についての理解が彼らに不足しているだけにすぎない。韓
 国は、長年にわたりシナの属国であり、また、二十世紀前半においては日本に併合され
 ていた。主権国としての外交経験が短かった。だから、すでに結ばれている条約を無視
 するような勢力がいるのだが、それは本来、許されないことなのである。
・平和条約というのは、いうなれば「示談」のようなものである。国家間の紛争になると、
 訴訟に持ち込むことはできない。だから、当事者同士が話し合って、示談するしかない
 のである。戦争して講和するということは、示談で双方が納得したということである。
・そして、示談がいったん結ばれたら、その後は問題を蒸し返さないというのが、近代社
 会の常識である。一般生活において、交通事故の示談が成立したのに、まだゴネて慰謝
 料を要求するということは、普通の市民のやることではない。
・日韓基本条約や中日平和友好条約が結ばれたということは、まさに示談が成立したとい
 う意味なのである。実際、昭和40年の日韓基本条約においては、日本が総額8憶ドル
 以上の経済援助資金を提供する代わりに、韓国側はいっさいの対日請求権を放棄するこ
 とを確約している。
・また、日中間においても、平和友好条約に先立つ日中共同宣言において、戦争賠償の請
 求を放棄すると中国政府は明言しているのである。
・だから、個々人の歴史観はさておき、少なくとも国家間の交渉においては、日本も韓国
 も中国も、過去のことを持ち出す必要はないし、それをしてはならない。
・子ども同士の喧嘩ならいざ知らず、およそ国家と国家が戦争状態に入るというに当たっ
 ては、開戦に至るまでの経緯があり、また、開戦するうえでの言い分があったはずであ
 る。
・もちろん、だからと言って、私は戦前の日本を全面的に擁護するというわけではない。
 しかし、どのような言い分があって開戦の止むなきに至ったかということについて、少
 なくとも日本人だけは知っておく必要があるのではないかと思う。
・ところが、戦後日本では今日に至るまで、こうした”言い分”について話したり書いた
 りすることが、一種のタブーとなってきた。
・いったい、このような状況がいつから生まれたのか。やはり、その最大の原因は、敗戦
 直後に行なわれた東京裁判に求められるであろう。
・2年7カ月に及んだ東京裁判において、戦争指導者として25名がA級戦犯とされたわ
 けだが、”戦前の日本”イコール、”犯罪国家”という印象は、この裁判によって内外
 に広められ、それが戦後日本の思想と教育の大筋になってしまった。しかし、この東京
 裁判ほど、非文明的な裁判はないと言っていい。
・東京裁判とは、正式には「極東国際軍事裁判」という。国際という名称があるから、何
 か国際法に基づいたものだと思っている人も多いが、それはまったくの誤解である。こ
 の裁判の根拠となっているのは、占領軍が公判直前にこしらえた「極東軍事裁判所条例」
 という一片の文書にすぎない。それどころか、裁判官と検事がグルになっているのだか
 ら、これは裁判と呼べる代物ですらない。検事がすべて戦勝国の人間であるというのは
 まだしも、裁判官もすべて戦勝国か、その植民地国の出身で、中立国の人は一人もいな
 いのだ。つまり、これは裁判という名を借りた復讐の儀式だったのである。
・この東京裁判を思うとき、私は必ず思い出されることがある。それは、あの満州国建国
 の中心的存在として知られる石原莞爾将軍の話だ。たまたま石原将軍は、私と郷里が同
 じで、旧制中学でも将軍は私の先輩に当たる。
・石原将軍が、敗戦後、郷里に隠棲されることになった。そのころは、すでに東京裁判が
 始まっていた。聞くところによれば、石原将軍は周囲にこう言っておられたそうである。
 「満州国を作ったのは自分である。その人間を呼ばないで、どうして戦犯裁判などが始
 められようか、私のいない東京裁判など、滑稽のきわみである」と。
・満州国建国が悪質な犯罪であるならば、その首謀者こそ、まず訴追されるべき人物であ
 ろう。満州国のことについて、石原将軍しか知らない情報もたくさんあるはずだから、
 なにをおいても石原将軍を戦犯として指定し、法廷に呼ばなければ、これは話にならな
 い。しかも、関東軍において、石原将軍と並び称せられた板垣征四郎将軍はA級戦犯と
 して訴えられ、のちに死刑になっているのである。
・ところが、極東軍事法廷の検察団は、石原将軍を訴追するどころか、審問しようともし
 ないのである。(結局、本人の要求も無視できず、のちに出張審問が行われたが、そ
 れはまことに形式的なものに終わったようである)。
・いったい、なぜ連合国は将軍を法廷に呼ばなかったのであろうか。巷間伝わるところに
 よれば、将軍は「もし証言台に立てるのであれば、裁判官や検事たちに堂々と、”日本
 の言い分”を述べてやるのだが」という趣旨のことを語っておられたという。おそらく、
 将軍が東京裁判に出廷していたら、その当時の日本が置かれた国際情勢から説き起こし
 て、日本の立場を説明してくれたのではないか。もちろん、そんな証言をされれば、連
 合国はたいへん困ったことになったであろう。
・そもそも東京裁判は、「日本は犯罪行為を犯したか」ということを調べるための裁判で
 はなく、最初から断罪するつもりで始めたものである。それを今さら、被告の言い分な
 ど堂々と聞かされては、たまるまい。石原将軍が訴追されなかた背景には、そういう判
 断もあったと思われる。 
・かくごとく、東京裁判はお粗末な裁判であったが、この裁判が戦後日本に残した影響は
 まことに大きい。ことに教育界においては、「日本は犯罪国家であった」という”勝者
 の言い分”のみを子どもたちに教え、”負け側の言い分”については、いっさいと言っ
 ていいほど教えてこなかった。このことが、どれだけ日本に損失を与えたかは、計りし
 れない。
・やはり、バランスだけ考えても、「当時の日本の言い分は、こうであった」、「当時の
 日本にとって、世界はこのような環境であった」ということを伝えていく必要があるの
 ではないか。
・そういえば、石原将軍は、隠棲中、「なに、もとを質せば一番悪いのはアメリカだ。そ
 もそもペリーが来なければ、日本は今だって鎖国していたはずだからな」と、いつも言
 っておられたそうである。
・しかし、考えてみれば、ペリーの太平洋艦隊は大砲で脅し上げて、日本の開国を迫った
 のだ。これは、まさに暴力外交、砲艦外交以外の何ものでもない。
・アメリカが暴力外交を行った背景には、そうしたことを是とする雰囲気が、当時の国際
 社会、つまり白人社会ということであるが、にあったということである。
・そもそもペリー来航の目的は、日本を植民地にしようというような侵略的なところは、
 どこにもなかった。単にアメリカの捕鯨船団の補給基地を日本に作りたかっただけなの
 である。だが、このような平和的意図を持ったアメリカ海軍ですら、強圧的な手段で開
 国を迫ったということに、当時の白人社会の雰囲気がよく表れている。
・それは、白人優越意識といってもいいであろう。つまり、黄色人種に対しては、少々乱
 暴なことをしてもいい、大砲で脅し上げてもかまわないという気持ちが、あのような砲
 艦外交をさせたと見るのは、決して間違ってはいまい。

”気概”が生んだ近代日本の奇跡
・十九世紀後半ともなれば、白人世界と有色人種世界との差は、程度の差ではなく、質的
 な差であった。白人たちは自分たちのみが突出して進化していると確信していたし、そ
 れを有色人種も認めるに至っていた。
・強力な武器を持ち、精妙な機械を操る白人の姿を見たとき、日本人以外のすべての有色
 人種は絶望感を抱いた。それは、「いくら逆立ちしてみても、白人には追い付けない。
 彼らにかなうはずはない」という諦めの心境であった。
・もちろん、長い歴史と文化を持つインド人もシナ人も、白人支配に対して唯々諾々と
 従ったわけではない。しかし、インドやシナにおける白人の侵略に対する抵抗は、基本
 的には西洋に対する拒絶反応であって、彼らのような文明をわが物にしようという動き
 は起きなかった。そのため、白人に反抗するたびに、ますます白人の支配を強めてしま
 う結果になったのである。  
・そこに現われた例外が日本人であった。日本人は卓越した西洋文明を見て、「あの知識
 と技術を学びたい」と心から思い、しかもそれを実現してしまった。それこそが世界史
 における明治維新の意義なのである。
・日本人が西洋文明を見て、絶望感を抱かなかったのには、いくつもの原因がある。戦国
 時代以来、日本人の知力が不断に進展し続けていて、それを受け容れるだけの素地があ
 ったことが、最も大きな要因と言えるであろう。
・たしかに、江戸時代は300年にわたって鎖国が実施され、外界からの刺激がなかった
 から、西洋のような機械文明の発達は起こらなかった。しかし、それ以外の分野におい
 ては、日本はけっして世界に遅れてはいなかったし、経済や数学などでは、むしろ世界
 のトップ・レベルに達した部分も多かった。このような知力の発達があったため、幕末
 に西洋文明の力をはじめて間近に見たときも、日本人はけっして絶望感を抱かなかった
 し、むしろ、好奇心を抱き、それを自家薬籠中のものにせんという気を起こしたのであ
 る。
・日本の場合、ほかのアジア諸国と違ったのは、指導者階級と呼ばれる人たちに、西洋文
 明を理解し、そのパワーを正当に評価する知性があったし、実際、西洋文明の力をよく
 知っていたということであろう。
・現に隣りの清朝を見れば、「西洋に学べ」という政治家たちもいたのだが、その一方で、
 極端な排外主義を唱え、西洋を嫌悪するグループが力を持ったために、どれだけ損をし
 たのかわからない。
・これに対して、日本の指導者たちは、ペリーが黒船でやってきても、無駄な抵抗をせず、
 さっさと和親条約を結び、開港した。この様子を見て、事情を知らない攘夷派は「幕府
 は意気地がない」と怒り、討幕運動を起こすわけだが、それは大きな誤解と言ってもい
 い。
・ジョン万次郎は、幕末に漂流してアメリカに渡った人というイメージしか一般にはない
 ようだが、彼は単にそれだけの人ではない。彼がいたおかげで、幕末の日本は幸せなコ
 ールをたどることができた。 
・万次郎は土佐の貧乏漁師の息子であったが、天保十二年(1841)、14歳のとき、
 カツオ船に乗っていて難破し、無人島の鳥島に漂着したところを、アメリカの捕鯨船に
 助けられた。
・実は万次郎のようなケースはけっして珍しくはない。難破して西洋の船に救われた漁師
 たちは、この他にもたくさん例がある。現に、このときも彼だけが助かったのではなく、
 同僚も一緒に助けられている。では、万次郎が他人とどこが違ったかと言えば、それは
 彼が人一倍好奇心と理解力を持っていたという点である。
・彼は、この捕鯨船で、積極的にアメリカ人の船員たちの中に入り込み、彼らの言葉を覚
 えようとした。また、彼はきわめて目がよかったらしく、自分からすすんでマストに登
 り、鯨を探す手伝いをして、船員たちからも愛されたという。そして、この様子を見た
 船長が万次郎を大いに気に入り、自分の養子にならないかと持ちかけることになった。
 万次郎は大いに喜んで、この申し出を受け、船長の故郷であるニューイングランドで暮
 らすことになった。ここでも彼はみなから愛され、また大いに学び、ついにはバートレ
 ット・アカデミーという学校に進学して航海士の勉強をする。
・このバートレット・アカデミーを首席で卒業したのち、万次郎は捕鯨船の船員になった
 のだが、航海中に船長が脳の病気を起こしたときには船員たちから推挙され、副船長兼
 一等航海士にまでなった。  
・彼は、外国で正式に高等教育を受けた最初の日本人であり、しかもアメリカ社会におい
 て、一等航海士という非常に名誉ある地位に就いた最初の日本人でもあった。また、彼
 は白人の女性と結婚したともいわれているから、その点においても日本最初であった。
・しかし、これだけの出世をなしとげた万次郎も、やはり望郷の念を捨てられず、日本に
 帰ろうと考えた。故郷には、老いた母がいたからである。
・万次郎がようやく日本の戻れたのは、漂流してから10年後の嘉永四年(1851)の
 ことであった。彼は琉球(沖縄)に上陸する。もちろん、当時は鎖国状態であるから、
 海外から戻ってきた漂流民は罪人である。彼の身柄を押さえたのは、琉球を支配してい
 た薩摩藩である。
・彼らは最初、万次郎のことをただの漁民だと扱っていたが、話しているうちに、万次郎
 は語学の天才であったから、ただちに侍言葉が使えるようになった、相当な学識の持ち
 主だということに気付いた。 
・そこで、琉球支配の薩摩代官が直接、万次郎から事情聴取を行うと、どんな質問にも的
 確な答えが返ってきたので、その薩摩藩の役人は大いに驚いたという。当時の薩摩藩の
 藩主は、開明派として知られる島津斉彬であった。斉彬は琉球からの報告書を読んで、
 直接に万次郎から話を聞くことにした。万次郎に話を聞いた斉彬は大変な感銘を受けた
 ようである。
・長崎奉行で取り調べを受けた万次郎は、無事、土佐に帰ることを許される。土佐藩は彼
 を士分に取り立て、また藩主・山内容堂は重臣・吉田東洋に命じて、彼の話を報告書に
 まとめさせて、大いに参考にしたという。
・万次郎の活躍はこれだけでは終わらなかった。というのも、万次郎が帰国した翌々年
 (嘉永六年)に浦賀にペリーが現れたからである。時の老中首座・阿部正弘は、この事
 態に対応するため、さっそく土佐の万次郎を江戸に呼んだ。万次郎は幕府首脳の会議に
 おいて、アメリカ事情いついて説明する。中でも重要だったのは、「アメリカは侵略の
 意図はなく、捕鯨船に対する補給を要求しているにすぎない」ということを指摘したこ
 とであった。
・幕府がペリー艦隊をむやみに打ち払わなかったのには、万次郎の功績まことに大であっ
 たと言えるだろう。万次郎がもし幕末の日本に戻らず、アメリカに残っていたとしたら、
 明治維新の流れが大きく変わっていた可能性は大きい。
・ちなみに、この後も万次郎は恵まれた人生を送っている。韮山代官のもとで、幕府の近
 代化を手伝い、軍艦教授所の教授にもなった。維新後も開成学校(のちの東京大学)の
 英語教授として働き、明治三十一年まで生きたし、子孫も立派な学者になっている。
・万次郎という天才的な人物がもたらした情報の意味が、彼に接した島津斉彬、山内容堂、
 さらに幕府首脳にはちゃんと分かったのである。
・もちろん、近代西洋文明が太平洋の向こうから突然現れたときに、みながみな西洋の強
 さをすぎに認めたわけではない。長州藩はその筆頭で、下関海峡を通行していた外国船
 を意味もなく砲撃して、幕府を窮地に立たせたりもしている。
・事件の報復のためにやってきた、英・仏・蘭・米四カ国連合艦隊から完膚なきまでに叩
 かれたことで、長州は上下を挙げて西洋文明の力を認識し、奇兵隊に代表されるような
 軍制改革を行ない、一気に近代化に向かうのである。
・また、長州と並ぶ薩摩藩も、当初は”夷人斬り”をして生麦事件を起こしているが、これ
 もイギリス艦隊から攻撃されることで、藩の世論が急転換してしまっている。
・こういった事情のもとに明治維新が成立したわけだが、明治政府の中心となった薩長土
 肥の指導者たちがはたと気が付いたのは、これからどのように日本を変えていくべきか
 というビジョンを誰も持っていないという事実であった。    
・ここにおいて、維新政府の指導者たちが考え付いたのは、まことに途方もないことであ
 った。それは岩倉具視を団長とする米欧回覧使節団の派遣(明治四〜六年)である。こ
 の岩倉使節団のどこが画期的か。先進欧米諸国の文明を実地に見学して、それを学ぶと
 いう発想自体、それまで有色人種の国では誰も行わなかったことである。
・この使節団に参加した主要メンバーを挙げれば、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊
 藤博文という、まさに明治維新の主役たちである。しかも、1年10カ月もかけて、米・
 英・仏・独など全部で12カ国を回っているのだ。こんなことは今日までの世界史で、
 日本以外にやった国はない。
・ではいったい、どのような意図で明治維新の元勲たちは二年間にわたる留学を決断した
 のか。残念ながら、詳しい証拠が残っていないから推測によるしかないが、明治の新政
 府に伊藤博文と井上馨がいたことが大きいのではないか。この二人は若いころ、長州藩
 の秘密留学生として欧州に渡った人間である。自分の目で見るという体験ほど強いもの
 はない。いくら書物で勉強したところで、現物を見るのには到底及ばない。そのことを
 彼らは実体験から知っていた。
・伊藤と井上が留学に出発した直後に、下関の砲撃事件が起きた。イギリスの艦隊が長州
 を叩きつぶしに来るという。その知らせを聞いた伊藤の井上は、ただちに帰国を決意す
 る。せっかくの留学を止めてでも、戻って藩内の過激派を説得しようと考えたのは、や
 はり「実際に見てきた者でないと、西洋人のすごさは分からない」という思いではなか
 ったのか。  
・ここで強調したいのは、指導者みずからが海外視察をし、「今のままでは駄目だ」とい
 うような腹の括り方をした国は日本以外になかったということである。ほかの有色人種
 と違った運命を日本が歩むようになったのは、まさに指導者が「腹を括った」という点
 にある。
・自分の目で西洋文明を「見る」ことによって、明治政府首脳は日本を徹底的に欧化する
 ことに腹を括った。一刻も早く、西洋文明を自家薬籠中のものにし、植民地にされない
 だけの近代的軍隊を作り、鉄道や港湾などの社会資本を充実させねば、日本の生き残る
 道はない。
・こうした首脳部の決断は、当然ながら外交の基本政策にも影響を与えた。明治政府はそ
 の前から、当面のあいだ、西洋列国とは事を構えないという消極的な方針を持っていた
 が、この考えが一層強化されるようになった。
・この当時から明治・大正に至る時期における、日本の最大の脅威はロシアであった。と
 いうより、ロシア以外に日本を脅かす国はなかったと言ったほうが正確であろう。当時
 のアメリカには日本に対して領土的野心はまったくなかった。また、イギリスやその他
 のヨーロッパ諸国は、確かに帝国主義の国ではあるが、あまりに遠すぎる。彼らがアジ
 ア東端の日本にまでやってきて、これを征服するということは、まず考えられなかった。
・本当に怖いのはロシアだけなのだ。十七世紀末に太平洋岸に到着したロシア帝国は、徐
 々に南下して勢力を広げつつある。すでに彼らはカムチャツカ半島を領有し、また、
 1860年には沿海州を清朝から奪って、ウラジオストクに港を開いた。陸伝いに領土
 を広げつつあるロシアの姿を見たとき、日本人がただちに気付いたのは、朝鮮半島の重
 要さであった。もし、ロシアが南下し、朝鮮を植民地にするようなことになれば、日本
 にとって、これほどの脅威はない。
・しかも、それは杞憂などではない。すでにロシアは幕末の文久元年(1861)、朝鮮
 海峡に浮ぶ要衝の地・対馬に軍港を作るため軍艦を来航させているのである。このとき、
 ロシア軍艦ポサドニック号が船体修理を理由に、対馬に入港し、そのまま居座ってしま
 うという蛮行に出た。幕府はこの対応に苦慮したが、イギリスが軍艦を派遣して威嚇し
 てくれたりしたので、ようやく退去したという経緯があった。
・そこで日本政府が、何よりも期待したのは朝鮮の近代化であった。もし朝鮮が、その宗
 主国・清朝の真似をして、いたずらに西洋を侮り、抵抗すれば、かえって外国の植民地
 になってしまう。それより、さっさと開国し、近代化したほうが朝鮮のためになるし、
 日本の国益にも合致すると考えたのである。
・新政府が維新成立後ただちに、当時の朝鮮王国・高宗に外交文書を送ったのは、その
 ような意識があってのことだったが、ここで日朝両国にとって不幸な行き違いがあった。
 この外交文書の中に、「皇」とか「勅」という字が使われていたために、朝鮮側が受取
 りを拒否したのである。
・これには、朝鮮の側にもちゃんとした理由がある。当時の朝鮮は清朝の属国であり、そ
 の朝鮮王国は清朝皇帝の臣下という国柄である。だから朝鮮にとって、皇帝といえば清
 朝皇帝以外にありえず、また、朝鮮に勅語を出すのも清朝皇帝以外にあってはならない。
 しかるに、日本からの国書にこうした文字が使われているのは、「清朝ではなく、日本
 の属国となれ」ということに等しい、と彼らは考えたのである。
・もちろん、日本側にはそんなつもりはない。政治体制が変わって、日本は天皇親政の国
 になったのだということを伝えたかっただけなのに、そこまで深読みされるとは思って
 もいなかった。   
・明治政府も一生懸命、朝鮮に説明して理解を求めたが、いっこうに外交文書を受け取っ
 てもらえず、当然ながら日韓間の国交は断絶状態にあった。朝鮮は頑迷にも日本政府と
 の交渉を拒絶し続けた。  
・徳川時代のように、対馬の宗氏を通じてのみ国交を行なうというのが朝鮮の主張であっ
 た。だが、朝鮮の宗主国たるシナはとっくに日本政府と国交を結んでいるのだ。これは
 別の言葉で言えば、朝鮮は「明治政府を承認しない」と言ったに等しい・
・このような背景から生まれたのが、”征韓論”であった。つまり、それほどまでに挑戦が
 排外的であるなら、武力を行使してでも開国させるべしという意見である。
・当然のことながら、大久保らの洋行経験者は朝鮮半島への武力進出には、まったく否定
 的であった。朝鮮に陸軍を出兵するような余裕は、日本のどこを探してもない。一刻も
 早く、商工業を立ち上げ、鉄道などの社会資本を整備しなければ、日本は西洋に呑み込
 まれてしまう。朝鮮が無礼だの何だのと言ってはおれないという心境である。
・しかも、当時はまだ徴兵令が施行されたばかりで、陸軍は組織づくりに追われている時
 期である。現実問題として、朝鮮出兵を実行できるような状態ではないのだ。だから本
 来、この征韓論という議論はこのまま消えてなくなるはずの話だった。
・ところが、実際には征韓論消えてなくならず、深刻な政治問題になった。その大きな原
 因となったのは、陸軍大将・西郷隆盛の存在であった。というのも、洋行組に真っ向か
 ら対立する形で、西郷が朝鮮問題に固執したからである。
・西郷の言い分は、「外交文書のやりとりで、埒が開かないのなら、自分が特使として朝
 鮮に乗り込んで直談判をする。それで、もし自分が殺されるのであれば、出兵もやむを
 えない」というようなものであった。  
・果たして西郷自身の胸中に、朝鮮出兵を願う心があったかどうかはさておき、一国の陸
 軍大将が国交もない国に乗り込み、開国を迫るというのは尋常なことではない。朝鮮か
 らすれば、日本が脅迫に来たと思うであろう。
・当然ながら、岩倉や大久保、木戸たちは彼の意見に猛反対するが、西郷も一歩も譲らな
 い。さらに困ったことに板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、福島種臣らが、それぞれの
 思惑から西郷を強力に支持した。ここに至って、新政府は分裂寸前の様相となった。
・そもそも庄内藩の藩主・酒井氏は、徳川家康の四天王と言われた酒井忠次の子孫で、つ
 まりは「三河以来の譜代」である。それで幕末においては、会津藩が京都守護職を任命
 され、新選組を作ったように、庄内藩も江戸市中の警備を任ぜられ、江戸の薩摩屋敷を
 焼いたりもしている。このような事情があったから、庄内藩は官軍から見れば、完全な
 ”朝敵”である。だから、戊辰戦争では官軍が東北地方に進撃してきたときには、会津藩
 同様、徹底抗戦しか道は残されていなかった。
・官軍に対して庄内藩はずいぶん健闘した。だが、ひとり庄内藩が戦ったところで、勝負
 の流れは変わるべくもない。結局、降伏ということに決まった。庄内藩は当然、厳罰を
 覚悟した。ところが、官軍の代表者として、城を接収に来た官軍の参謀・黒田清隆の態
 度は、勝者ではありながらまことに謙虚であった。この黒田の態度は、西郷が与えた指
 示によるものであった。 
・西郷隆盛は庄内藩に対して、たいへん共感を覚えたようなのだ。つまり「もし自分が庄
 内藩士であったら、やはり同じように、最後の最後まで主君・徳川家のために戦ってい
 たはずだ」という気分が、西郷にあったらしい。だから、彼は庄内藩を罪人のように扱
 わなかった。この西郷の気持ちを知ったとき、庄内は藩を挙げて、西郷に惚れ込んでし
 まった。  
・西郷の言行録として有名な本に「西郷南洲遺訓」というものがある。西郷隆盛の思想を
 知るための唯一のまとまった史料といってもよい。じつは、この書物は、庄内藩が西郷
 を愛するがあまり出来たような本である。戊辰戦争以来、庄内藩では前途有望な若者を、
 西郷の元に書生として置いてもらっていた。その中には、藩主の跡継ぎもあった。こう
 して、毎日、西郷に接していた人たちが、彼の言葉を一冊にまとめたのがこの本であっ
 た。
・だが、彼の考えた日本の基本方針となると、「先進国を見なかった人だ」という気がし
 てならない。この西郷隆盛という人の倫理観は、一言で言ってしまえば、下級武士の倫
 理観であった。すなわち「清貧の思想」なのである。西郷が熱心に説いているのは、
 「死を恐れるな」、「寛大であれ」そして「名誉やカネを求めるな」というようなこと
 である。実際、西郷はそのとおりに生きた。
・確かに、こういった考えは美徳には違いない。だが、「浮利を求めるな」と言われては、
 商人も職人も困ってしまう。武士のように禄を食んでいる人は”浮利”なしでも生きられ
 る。だが、そうでない庶民は”浮利”によって暮らしているのだ。西郷の言っているのは、
 あくまでも武士の世界の倫理なのである。おそらく、西郷にとっての理想とは、武士が
 武士らしく生きることができる国を作ることにあったのだろう。つまり、彼の意識の中
 心にあったのは、士農工商の「士」と「農」であった。武士と農民を大事にするのが、
 新国家の使命と西郷は考えていたようである。
・岩倉使節団の一行が欧米で何を考えたか。それは、「もはや”武士の覚悟”なぞ言っても
 勝ち目はない。これからは、商業と工業を伸ばさないと駄目だ」ということであった。
 あくまでも「士農」を中心に据えるべきと考える西郷と、「商工」重視の洋行組とで判
 断が合わなくなるのは、当たり前の話である。
・大久保らにとっては、「一刻も早く、日本を近代化せねば、国の存亡に関わる」という
 つもりであったが、西郷からすれば、政府を挙げてカネの亡者と化し、汚職に励んでい
 るようにしか見えなかったであろう。
・帰国後の大久保らは、自宅を改築し、立派な洋館を建てるのだが、これも西郷の目から
 見れば、堕落に映った。もちろん、大久保たちも贅沢をするつもりで改築したのではな
 い。外国と対等に付き合っていくためには、西洋人の外交官を家に招いて会談せねばな
 らないことも、たびたびある。そのときに、貧相な家に住んでいたら、白人に侮られる
 というので、洋風の家を造ったにすぎない。
・西郷という人は、維新後、新政府の高官になっても、小さな家に住み続けた人である。
 彼は「お前たちに贅沢をさせるために、維新をやったのではない」という気持ちで一杯
 であったと思われる。  
・西郷が朝鮮問題に固執した背景には、このような帰朝組の新政策に対する、一種の反発
 があったと見るべきであろう。彼にとっての征韓論とは外交問題というよりも、むしろ
 内政問題だった。「これでは、士族たちが可哀相ではないか」というのが西郷の心境で
 あったであろう。  
・当時は維新が終わったばかりで、ただでさえ士族たちは逸る血気を持てあましていた。
 戊辰戦争はあくまでも局地戦のようなもので、全国土にわたるような内戦が起こったわ
 けではない。多くの武士は、「自分の出番が来ないうちに明治維新が終わってしまった」
 という気持ちを抱いていた。
・西郷が自ら遣韓大使になり、朝鮮に開国を迫りたいと言いだしたのは、こうした士族た
 ちの気持ちをよく知っていたからであった。おそらく、西郷自身にとっては、実際に朝
 鮮に兵を出すことよりも、国内にいる不平士族たちのほうがより重要だったのであろう。
・のちに西南戦争が起きるわけだが、これは彼が起こした戦争というより、周囲の状況が
 彼を戦争に引きずり込んだというほうが正解であろう。実際、西南戦争の勃発直前、新
 政府に反乱を起こそうとする周辺の動きに対して、西郷は極力、それを抑えようと努力
 している。
・たとえ西郷が陣頭指揮を行ったとしても、西南戦争は結局、政府軍の勝利に終わってい
 たであろう。西南戦争の勝敗を分けたのは、結局、物量の差であった。戦闘能力におい
 ても、士気においても、薩摩軍のほうが上であった。この劣勢を盛り返すために政府軍
 が採ったのは、徹底的な物量作戦である。兵員にしても、また武器弾薬にしても、必要
 であればいくらでも本州から船舶で運び込む。しかも、新政府軍はすでに電信が装備さ
 れ、東京との連絡に活用されている。
・「たとえ弱兵であっても、補給さえ充分に行えば、究極的には勝つ」という西南戦争の
 貴重な戦訓は、昭和に入って、この戦いの経験者が全員いなくなると、日本軍では見事
 に忘れさられてしまった。
・とはいっても、清国やロシアと戦ったときの日本軍が、充分な物資を持っていたという
 わけではない。現実は、その反対であった。だが、当時の陸軍首脳はみな西南戦争の生
 き残りであり、補給が勝敗を分けることを身をもって知っていたので、長期にわたる戦
 争は絶対に避けるという考えがあった。
・日露戦争の話に付け加えれば、圧倒的な軍事力を持つロシアに対して、日本軍があれほ
 どの戦果を挙げたのは、ひとつに指揮していた人たちが、みな西南戦争で生き延びた人
 たちであったということである。  
・明治十一年に大久保が暗殺された後、明治政府のトップとなったのは、伊藤博文であっ
 た。その伊藤が、みずから欧米を回って研究して、明治憲法を作り上げた。
・新政府は、一刻も早く、日本の近代化を実現するため、今日の民主主義に慣れた目から
 見れば、強引ともいえる方法で、諸制度の改革を進めていた。このため、士族を中心と
 した層から政府批判が生まれ、参政権を求める自由民権運動が起こった。運動家の中に
 は、内乱や高官の暗殺を企てる過激派もいたほどであった。
・しかし、新政府が明治十八年に内閣制度を作り、また、その四年後に明治憲法を発布し
 た最大の理由は、政府にとって最大の懸案であった不平等条約の解消である。安政の条
 約では、日本が関税率を変える場合には、かならず相手の国と協議しなければならない
 とされていた。本来、関税というものは、その国が独自の判断で定めていいものなのに、
 当時の日本にはそれが許されなかった。
・しかし、それよりも大きな問題であったのは、治外法権の制度である。つまり、外国人
 が日本の領土の中で犯罪を犯した場合、日本政府はその犯人を捕まえることはできても、
 裁くことはできない。その犯人を裁けるのは、その国の領事だけであった。彼らの言い
 分としては、「日本の法体系は未整備であり、そのような野蛮国の法律に自国民を委ね
 るのは危険である」というものであった。まったく乱暴な理屈であるが、当時の西洋諸
 国は非白人国を野蛮ときめつけ、例外なく治外法権を押し付けていたのである。
・そこで、明治政府は日本も立派な文明国であることを諸外国に示すために、さかんに努
 力した。その最も有名な例が、鹿鳴館である。鹿鳴館は、当時の日本ではたいへん評判
 が悪かった。「そこまで西洋の猿真似をして、白人の歓心を得たいのか」という声が、
 あちこちで起こった。
・明治政府の貴顕たちは、芸者上がりの女性を夫人にした人が多かった。維新の志士たち
 は料亭に集まり、そこを根城にしたようなところがあるから、芸者との関係も後世のよ
 うではなかった。伊藤博文なども、その一人である。
・元芸者というと、今でも日本の社会ではとやかく言う人もいるが、こと社交ということ
 に関しては、箱入り娘で育った武家の嫁では務まらない。芸者出身のほうが、人見知り
 もしないし、相手が偉くても怖じ気づかない。また話題も豊富だし、音楽の素養もある
 のだから、ずっと適性がある。鹿鳴館外交において、彼女たちの果たした役割も相当に
 大きかったはずである。  
・日本の天皇は国王であって、皇帝ではない。天皇は日本民族の長であり、一朝一夕に成
 り上がった権力者ではない。
・すでに当時のイギリスでは、今日のような責任内閣制度が定着していた。これは、首相
 が内閣の最高責任者であって、その指示に従わないような大臣はいつでもクビにできる
 という制度である。今の日本の内閣も責任内閣制度によっている。
・ところが、伊藤が作った明治憲法を見ると、そこには一言たりとも「首相」という言葉
 も、「総理大臣」という単語もない。それどころか、「内閣」という文字もないのであ
 る。つまり、明治憲法の規定から言えば、戦前の日本には首相も内閣もなかったことに
 なるのである。
・このようなことになったのは、ドイツの憲法学者グナイストが伊藤に対して、「イギリ
 スのような内閣制度を採用すべきではない」ということをアドバイスしたからに外なら
 ない。なぜなら、いつでも大臣の首を切れるような首相を作ると、国王(日本において
 は天皇)の権力が低下するからである。グナイストは、「あくまでも行政権は国王や皇
 帝の権利であって、それを首相に譲ってはいけない」という意見であった。この意見を
 採用した結果、戦前の日本は憲法上、「内閣も首相も存在しない国」になった。もちろ
 ん、実際には内閣も首相も存在したわけだが、これは憲法に規定されたものではない。
 それどころか、内閣制度は憲法発布よりも四年前に制定されているのである。現実問題
 として、ほかの大臣の首を切れないような首相では、首相とは呼べないのである。
・憲法に首相の規定がないということは、のちに日本に大変な災いをもたらすことになる。
 昭和に入って、軍部がこの明治憲法の”欠陥”に気付き、政府を無視して暴走しはじめた
 のである。彼らは「われわれは天皇に直属するのであって、政府の指図を受けなくとも
 いいのだ」という理屈を持ち出したのだ。これはまったくの暴論ではあるが、憲法上の
 規定では、確かにそうなっているのである。
・そもそも、明治憲法では「陸海軍は天皇に直属する」と明記されているのに対して、内
 閣や首相については、一言も触れていない。これでは軍に憲法の条文を振り回されれば、
 政府に勝ち目はない。
・これが昭和五年のロンドン条約(海軍軍縮)を契機として起きた。”統帥権干犯問題”の
 本質であった。憲法に首相も内閣もなく、したがって条文上、軍のことに政府が口出し
 できないと分かったとき、”昭和の悲劇”は始まった。これ以来、日本政府は軍部の意向
 に逆らうことはできなくなった。今日のわれわれから見ると、内閣も首相も規定してい
 ないような明治憲法は、「欠陥憲法」という外はない。
・明治憲法は、いわば突貫工事のようにして作られたわけだが、それでも昭和になって軍
 が統帥権のことを持ち出すまで問題が起きなかったのは、元老たちがいたからである。
 元老というのは、天皇の諮問を受ける維新功臣たちのことで、彼らは文字通り、命をか
 けて明治維新を起こした人物であり、明治天皇の信任も篤い。彼ら元老が健在であった
 間は、憲法の欠陥が表面化することはなかったのである。
・明治憲法においては、首相の規定がない。だが、それにもかかわらず、首相が政府の代
 表者となりえたのは、元老が次期内閣の首班を指名するという決まりになっていたから
 である。当時の感覚からすれば、元老たちが推薦するということは、天皇の眼鏡にかな
 う人物であるということであった。そのくらい、天皇と元老との信頼関係は強かったの
 である。 
・天皇と元老の信頼関係に基づく盤石な体制があったからこそ、伊藤は多少の傷は気にせ
 ず、速成で憲法と作れた。しかし、その伊藤にしても、たった一つの誤算があった。そ
 れは「元老たちがこの世を去れば、どうなるのか」ということを考慮に入れなかったら
 しいことである。 
・実際、昭和初期になって元老という重しがなくなってから、急に首相を軽んずる勢力が
 現れたと言っても過言ではない。かくして憲法の条文は一人歩きしはじめ、軍部の独走
 を許してしまう結果となってしまった。
・最も致命的だったのは、明治憲法が”不磨の大典”とされたことである。この言葉がある
 ために、明治憲法はその条文を改正することはほとんど不可能に近かった。
・しょせん明治憲法は文明国の体裁を整えるための”借り着”にすぎないとはいっても、国
 家を運営するにあたって、その”体質”敵った基本理念はあったほうがいい。理念がなけ
 れば、それは単なる「烏合の衆」にようなものであり、国家とは呼べない。ところが、
 明治憲法だけでは、やや不十分と言わざるを得ない。
・そこで作られたのが、憲法発布の翌年に出された教育勅語であったと思われる。戦前の
 義務教育では、ほとんどと言っていいほど明治憲法のことを教えなかったが、その代わ
 り、子どもたちに徹底的に教育勅語を暗記させた。
・「教育勅語は軍国主義的だ」と思う人もいよう。が、この勅語を作った人たちの感覚と
 しては、「徳川家や主家に対して忠誠を尽くしていた時代は終わった。これからは国家
 に忠誠を尽くせ」ということを言いたかったのである。
・こうして見ていくと、明治の日本は明治憲法と教育勅語の「二重法制」の国であったと
 いうこともできる。形式としては明治憲法を日本の法体系の頂点に置くが、実際には教
 育勅語の精神で国家を統治するというのが、明治政府の本音であった。
・確かに明治憲法には、首相や内閣の規定がなく、それが昭和の悲劇をもたらすことにな
 った。だが、明治の元老たちがあのとき、憲法を拙速を覚悟で作ってくれてなければ、
 日本はいつまで経っても条約改正を実現できなかったであろう。  
・明治政府が行った殖産興業政策は、一部の財閥を優遇しているということで、当時から
 評判が悪かった。だが、もしも明治政府が「腐敗」を恐れるあまり、肝心の財閥育成を
 止めてしまったとしたら、日本はどうなっただろう。どんなに零細企業が集まっても、
 大資本には太刀打ちできない。結局、清国やインドのように、日本の経済も欧米資本が
 牛耳るようになったことは、想像にかたくない。
・ところで、この明治の財閥優遇策の意味を正しく評価した外国の人に、韓国の朴正熙元
 大統領がいることを指摘しておきたい。朴大統領は、日本の進歩的文化人やマスコミに
 言わせると、クーデターによって大統領の座に就いた稀代の独裁者」ということになる
 ようだが、実際は逆であって、今日の韓国があるのは、ひとえに朴大統領の功績といっ
 ていいだろう。
・彼が大統領に就任した1963年当時は、朝鮮戦争が終わって10年も経っているのに、
 経済は一向に復興していない。それは経済危機の連続といってもいいような状態であっ
 た。ところが、彼が大統領になってからというもの、韓国のGDPは年平均10%近く
 の成長率を示し、わずか10年あまりで「アジアの昇竜」と呼ばれるようになった。
・この朴大統領が採った経済政策の主眼は、明治の日本が欧米先進国からすべてを吸収し
 ようとした方針を真似し、日本のやり方をわがものにすることであった。その一つが、
 財閥の保護育成であった。「現代」、「三星」あるいは「大宇」という財閥は、すべて
 彼の庇護によって発展して、韓国経済の原動力となったのである。
・朴大統領は、もともと日本とたいへん縁の深い人であった。貧しい農家の五男として生
 まれた朴大統領は、苦学して朝鮮の師範学校を卒業し、最初、小学校の教師になるが、
 彼の才能を惜しんだ日本人の恩師から、「今度、満州に軍官学校ができるから、そこに
 入学してみたはどうか」と進められる。そして、この満州の軍官学校でも抜群の成績を
 収めたので、日本人教官に推薦されて今度は日本の陸軍士官学校に特典入学する。戦前
 においては、朝鮮は日本の一部であったから、朝鮮の人も日本国民としてまったく同等
 の待遇を受けたのだ。
・井上馨など明治の指導者たちが世評を気にせず、財閥育成策を推進したというのは、彼
 らの中に、明確な優先順位があったからだ。それは異本を欧米の植民地にさせないとい
 う大目標であり、そのためには何と酷評されようとかまわないという覚悟があった。
・新聞は毎日のように「井上は財閥からカネをもらっている」と書き立てていたが、当人
 はそんなことを少しも気にかけなかった。その代わりに彼は毎日、イギリスの新聞だけ
 は人に翻訳させて読んでいた。それは、イギリス人たちが日本のことをどのように報じ
 ているかを知るためであったという。井上にとって自分に対する世間の評判など、どう
 でもいいのである。それよりも、日本に対する世界の評判のほうが、ずっと大事だとい
 う感覚が彼にはあった。 
・昭和の軍人たちにとって重要だったのは、何よりも軍隊組織における自分の評価であっ
 て、世界がどう思おうが関係ない。満州事変などを見て、世界中が眉をひそめたことな
 ど、おかまいなしである。また、戦後の政治家で、自らの評価より、世界における日本
 の評判ということを大事にしたのは、おそらく吉田茂首相くらいではないか。
・井上にかぎらず、維新の元勲たちが、みな”気概”の持ち主であった証拠として、私は彼
 らが誰一人として自分の実子を政治家にしなかったということである。
・明治維新以前の日本は、世襲が当たり前の世界であった。殿様であろうが、百姓であろ
 うが、みな自分の子を跡継ぎにしていたのである。そのような時代から、まだ何十年も
 経っていない。もしも、彼らが元老の地位を子どもに譲りたいと思えば、おそらく、そ
 れは許されたであろう。だが、彼らはあえて、それをやらなかった。というのは、やは
 り「世襲をやっては、旧幕時代と変わらないじゃないか」という思いがあったからであ
 る。
・革命を起こした人たちが権力を握ると、とたんに”先祖返り”をしてしまうというのは、
 枚挙に暇がない。北朝鮮の世襲体制はその最たるものだが、ソ連や中国においても共産
 革命が成就すると、その指導者はあっという間に”皇帝”になり、その一家眷属までが栄
 華を極めるようになったではないか。
 
日清・日露戦争の世界史的意義
・欧米列国からの独立を得るため、明治政府は外交問題を二の次にして、国内の近代化に
 力を注いだわけだが、朝鮮問題だけは別であった。朝鮮が近代国家になってくれること
 は、日本の念願と言ってもいい。白人諸国、ことロシアの進出に対して、ひとり日本だ
 けが頑張っていても、それは限界があり。やはり、近くに独立国家があるほうが、ずっ
 と安心だ。そこで、明治政府は朝鮮に近代化を促すための働きかけを熱心に行い続けた。
・征韓論争に敗れた西郷が下野してから三年後の明治九年(1876)に日朝修好条規が
 締結された。この条約は、第一条で「朝鮮は自主独立の国であり、日本と平等な権利を
 有する」ということを謳った点で、まさに画期的なものであった。
・というのも、この条約が結ばれた当時の国際社会では、朝鮮は「清国の属国」と捉えら
 れており、西洋諸国は朝鮮を独立した交渉相手と見做していなかったからである。この
 後、日本と朝鮮の関係は比較的円満に進む。
・ところが明治十五年(1882)に入って状況が一転する。朝鮮軍の兵士が暴動を起こ
 して混乱が起きたのに乗じて、李朝内における攘夷派の大院君(国王の父)がクーデタ
 ー(壬午政変)を起こしたのである。しかこのとき、大院君にそそのかされた兵士が日
 本公使館を襲い、館員7人が殺害されるという事件が起きた。
・この当時の日本は、あくまでも話し合いでの解決を目指した。結局、日本と朝鮮との間
 で賠償契約(済物浦条約)が結ばれたため、いちおう一件落着したのである。
・ところが、これをきっかけに朝鮮は清国の影響をさらに受けることになった。というの
 も、暴動を口実に、清国が袁世凱軍を派遣したからである。清国によって反乱は鎮圧さ
 れ、また、その首謀者である大院君、逮捕され、事実上、朝鮮政府は真の支配下に置か
 れたのだ。  
・それから二年後の明治十七年(1884)、今度は開国派の金玉均や朴泳孝らがクーデ
 タを起こした。いわゆる甲申政変である。このとき、私財を投じて金玉均らを援助した
 のが、じつは福沢諭吉であった。
・だが、金玉均たちのクーデターも、袁世凱が1500名の清軍を率いて武力介入したた
 め、結局、失敗に終わり、金玉均らは日本に亡命することになった。
・このとき、清国の軍隊は、宮廷内にいた日本人を殺害したばかりか、金玉均たちが日本
 公使館に逃げ込んだのを見て、それを攻撃までしている。これに対して、公使館のほう
 も必死に防戦したけれども、結局、それも続かず、外交官たちが公使館を脱出するとい
 うことになった。この際、日本公使館は焼かれ、多数の日本人が惨殺された。この中に
 は日本婦人も含まれている。
・明治十九年(1886)に起きた清国水兵暴行事件は、日本政府の態度を象徴的に示し
 た事件であった。この事件が、清国の北洋艦隊の主力艦四隻が、丁汝昌提督にひきいら
 れて長崎港に入港したことから始まった。この四隻の入港が、日本に対する威圧を狙っ
 たものであることは言うまでもない。他国の港で示威活動をすること自体、それだけで
 も重大な外交問題であったのに、さらに大変な問題が起こった。
・それは、長崎に上陸した水兵の一部が飲酒して、日本人に対して暴行を働いたことをき
 っかけに、清国水兵と日本の警察が衝突して市街戦となり、双方に死傷者が出たのであ
 る。 
・ところが、この事件に対して日本政府は、話し合いによる解決を目指した。このため、
 国内でも「弱腰外交」という非難の声が上がったほどであったが、当時の政府は、これ
 以上、問題を拡大することを、徹底的に避けたのである。
・清国に対して弱腰だった日本政府をして、日清戦争に突入せしめることとなったきっか
 けは、明治二十七年(1894)に起きた東学党の乱であった。東学というのは、李朝
 打倒、外国排撃のスローガンにする新興宗教であるが、この東学の信者を中心にして、
 朝鮮各地で農民が反乱を起こしたのだ。
・この東学党の乱を好機と見た清国が朝鮮に出兵したのが、日清戦争のそもそもの始まり
 であった。  
・明治十七年の甲申政変後に結ばれた天津条約では、日本も清国も朝鮮に派兵する場合、
 事前に通告するということになっていたが、その時、日本に出兵を通告した文章の中に
 は「属邦保護」のためと記してあった。これは日本の朝鮮に対する基本方針と真っ向か
 ら対立するものである。 
・外務大臣・陸奥宗光は「朝鮮が清国の属邦であることを認めるわけにはいかぬ」として、
 日本政府は条約に従って、出兵を決意した。日本は「日清両国が協力して朝鮮の内政改
 革に当たろうではないか」と提案したが、清国はこれを拒絶したので、やむなく開戦と
 いうことになったのである。
・日本側の主張は「朝鮮はわが国が誘って列国に加わらせた独立の一国であるのに、清国
 は常に朝鮮を自分の属国と言って内政に干渉し続けている」というものであった。これ
 に対し、清国側の主張は「朝鮮はわが大清国の藩属たること200年、毎年朝貢してい
 る国である」というものであった。
・日本にしてみれば、ずいぶん長い間、我慢した戦争であったが、いざ始まってみると、
 意外なほど簡単に決着がついた。世界最初の汽走艦隊の海戦とされた黄海海戦などは、
 まさに完全勝利で、清が世界に誇っていた北洋艦隊が五隻を失ったのに対して、日本側
 の損害は軽微であった。さらに、日本の艦隊は威海衛に逃げ込んだ残存艦隊を攻撃し、
 北洋艦隊を壊滅させた。
・明治二十八年、下関で開かれた講和会議で、@朝鮮の独立承認、A遼東半島、台湾島の
 割譲、B軍費賠償金2億両の支払い、の三点が決まった。この下関条約によって、大韓
 帝国が成立した。   
・朝鮮半島において、「帝国」という名がついた独立国家が生まれ、朝鮮に皇帝が誕生す
 るのは、市場はじめてのことであった。
・秦の始皇帝以来、シナの中華思想では、天下に「皇帝」はただ一人であり、この皇帝が
 全世界を統治するとされてきた。もちろん、実際にはシナの帝国の領土は限られたもの
 だが、それ以外の土地を治めている国王は、みな皇帝の臣下であるという建前である。
 だから、清朝のころにイギリスなどの西洋諸国から外交使節が訪れたときも、臣下の礼
 を取らねば、皇帝に会うことができず、重大な外交問題になった。
・こうした中華思想には、当然ながら「外国との貿易」という発想もない。そもそも「わ
 が帝国には何一つ欠けているものはない」というわけで、他国から物品を輸入する必要
 もないというわけである。
・そのため、アヘン戦争で清朝が負けるまでは、シナとの貿易はすべて朝貢貿易の形を採
 った。つまり、シナ文明に憧れて貢ぎ物を持ってきた蛮族に対して、皇帝が恩恵を施す
 ということでシナの物品が海外に輸出されるというわけである。
・このような中華思想は、今日から見れば、奇妙な思想と言う以外にないが、シナと国境
 を接する朝鮮にとっては、彼らの望むとおりに、シナの属国となるしか生き残る道はな
 かった。それで、古来、朝鮮の君主はみな、シナ皇帝の臣下という地位に甘んじていた
 のである。
・東アジアの歴史上、シナ皇帝に対して「皇帝」と名乗って憚らなかったのは、日本の天
 皇だけである。しかし、こんなことができたのも、日本がシナと陸続きではなかったか
 らで、朝鮮なら、ひとたまりもなかったであろう。
・日清戦争の講和条件として、日本は朝鮮を完全な独立国として認めてもらい、遼東半島
 と台湾を清から割譲されることになった。
・そもそも台湾は、清国にとって「化外の土地」、すなわち実効的な支配の及ばない土地
 であったし、また遼東半島も”万里の長城”の外にあり、シナ固有の領土というわけでも
 ない。そういう意味で、清にとっては比較的、重要度の低い領土であった。また、戦争
 で負けた側が戦勝国に領土を割譲するというのは、この当時においては、一種の”常識”
 のようなものであり、日本だけが強欲だったということではない。
・ところが、この遼東半島の割譲を絶対に許さないと決意したのが、ロシアであった。ロ
 シアの野心はアジア大陸の南下にあり、その目標は満州や朝鮮に定めている。日本が遼
 東半島を領有するというのは、彼らにとっては認めがたいことであった。そこでロシア
 はフランス、ドイツを誘って、遼東半島の割譲を妨害することにしたのである。
・さらに、こうした動きの背後には、シナの”以夷制夷”(外国を使って外国を制す)と
 いう伝統的発想がある。日本を抑えてもらい、条約を無効にするためなら、ヨーロッパ
 の国には、いかなる報酬を与えてもよいという意見が清国に起こったのである。帝国主
 義に固まっていたロシアやドイツ、フランスがそれに応じないわけはない。これが、い
 わゆる「三国干渉」である。
・明治二十八年(1895)、露・仏・独の三国は、日本に対して「遼東半島を清に返還
 せよ」と要求した。日清講和条約が正式に調印されたから一週間も経っていなかった。
・三国干渉を受け容れる以外に、日本に選択肢はなかった。要求を拒否すれば、この三カ
 国と一戦を交えることになる。すでに、ロシアは東洋艦隊を南下させ、日本に圧力をか
 けていた。  
・結局、日本は遼東半島を清に返還したが、それも束の間、明治三十年(1897)にド
 イツは膠州湾を占領、また、翌年、ドイツは占領した膠州湾、青島を租借、イギリスは
 威海衛と九龍を租借、そしてロシアは何と日本から返還させた遼東半島の旅順・大連を
 租借した。さらにその翌年、フランスが広州湾を租借することになったのである。「租
 借」は、当時は実質上の半永久的な割譲を意味した。
・かくして三国干渉を契機にシナの”生体解剖”が始まった。やくざに物を頼んだと同じく、
 シナは列強から「落とし前」を付けさせられたのだ。
・ロシアの圧力に対して日本政府が譲歩したことは、思わぬところに影響を及ぼした。そ
 れは、朝鮮政府内での親露派の台頭である。そもそも朝鮮の伝統的外交策は、事大主義
 という言葉に要約できる。事大とは「大きに事える」、すなわち、近隣の大国、つまり
 シナの朝廷に従属することによって、自国の存続を図ろうという発想である。
・日清戦争で日本が清を討ち負かしたことで、韓国政府内の親シナ派の勢いは失われ、日
 本との関係も好転するかと思われた。ところが、その直後に三国干渉で日本が外交的に
 ヘナヘナとなり、たちまち遼東半島を返還したのを見て、彼らは「やはり白人のほうが
 強い」と考えたのである。その結果、韓国政府内で急速に親ロシア派が力を持ち、独立
 を助けたはずの日本を侮るという空気が生まれた。
・こうした状況を受けて起きたのが、明治二十八年(1895)の「閔妃殺害事件」であ
 った。朝鮮王妃・閔妃は、かねてから宮廷内で絶大な権力を誇っていたが、三国干渉以
 後、急速に親ロシアの傾向を強め、ことあるごとに日本の影響を排除しようとした。
・日本は日清講和条約調印から二カ月も経たない閣議において、将来の対朝鮮政策として
 は「なるべく干渉を止めて自立させる」という決定をした。しかし、このような日本政
 府の態度は「日本はロシアを怖れているから、そうしているにすぎない」と閔妃らに受
 け止められた。親日派は不安を覚えて動揺し、またロシアは親日派を倒そうと閔妃に近
 づいた。こうした状況に焦りを覚えた日本の三浦梧楼公使らが韓国内の反・閔妃派と組
 んで、彼女を殺害したのである。
・閔妃殺害のニュースを知って、日本政府は文字どおり驚愕した。政府は殺害計画のこと
 を何も知らなかったようである。この事件はひとつの対応を間違えば、単に日韓関係を
 損なうだけでなく、国際社会でのン本の信用を失うことになると見た政府は、ただちに
 関係者を召喚、逮捕した。こうした機敏な措置のおかげで、閔妃事件は重大な国際問題
 には発展せず、欧米列国も日本をあえて非難しなかった。
・それまでも、日本の公使館が襲撃され、日本人が多数殺された「壬午政変」(明治十五
 年)や、日本の公使館が焼き払われ、女性を含む日本人居留民が惨殺さえた「甲申政変」
 (明治十七年=1884)など、今日の眼から見ると滅茶苦茶なことが朝鮮半島で行わ
 れていたのである。 
・この後、ロシア公使ウェーバーはロシア水兵を連れて朝鮮王を奪い、ロシア公使館に移
 した。さらに独立派・親日派の政治家は惨殺され、日本人も30人以上殺害された。こ
 の結果、韓国はわずか数年のうちに、ロシアの保護領同然になってしまった。
・韓国王がロシア公使館内で暮らすようになったのは、その象徴とも言うべき出来事であ
 ったが、日本にとって最大の問題は、ロシア軍が韓国領内に戦略拠点を築きだしたこと
 である。 
・もともとロシア海軍は、沿海州のウラジオストクに基地を構えていたが、この軍港は冬
 期になると凍結してしまうという欠点があった。そこで、冬でも利用できる不凍港を求
 めていたのであるが、韓国を事実上の保護国にしたことで、その念願がかなうことにな
 ったのである。 
・ロシアが手に入れたのは、鴨緑江河口の龍岩浦という漁港であった。彼らは、これをポ
 ート・ニコロラスという軍港に仕立てあげた。この軍港によって、ロシア海軍は遼東半
 島沿岸の西海岸付近の制海権を握ったことになる。これは日本の防衛にとって、大変な
 脅威であった。
・こういうロシアの動きに対し、三国干渉以来、日本国内で「ロシア討つべし」という世
 論がますます強くなったのは言うまでもない。だが、日本政府はけっして軽挙盲動しよ
 うとはしなかった。なぜなら、当時のロシアといえば、世界最大の陸軍国であり、また
 海軍にしてもイギリスに次ぐとされたほどの強国であったからだ。あのドイツ帝国です
 ら、ロシアとは絶対に事を構えないという方針であった。
・昭和二十年の敗戦以後、日露戦争は「日本が起こした侵略戦争」とする見方が急速に広
 まった。しかし、その本質は、侵略戦争というよりも「祖国防衛戦争」と見るのが実態
 に近い。確かに、朝鮮半島やシナ大陸を主戦場にして、その勢力圏を争うという行為自
 体は「侵略」と定義しうるかもしれない。だが、日本が侵略を行ったというのであれば、
 当然ながら、その相手である清国やロシアの「侵略行為」をも問題にするのが筋であろ
 う。清は朝鮮を自分の庭にしてきたし、またロシアはその清国から領土を奪い取ってい
 るではないか。 
・十九世紀末から二十世紀前半の国際社会は、「侵略は是」とされた時代であった。この
 時代の思想を簡潔に表現するならば、「弱肉強食」あるいは「適者生存」という言葉を
 使うのが、最もふさわしい。言うまでもないが、このキーワードはダーウィンが提唱し
 た進化論に由来する。 
・欧米の植民地政策は、ダーウィニズムによって”お墨付き”をもらったようなものであ
 った。なぜなら、「優れた白人が劣った有色人種を征服することは、自然の摂理なのだ」
 ということになったからである。まさに、進化論は人種差別の道具になってしまったの
 である。
・当時は、進化論を持ち出せば、何でも正当化できるという雰囲気が欧米社会に充満して
 いたのである。このような「弱肉強食」を是とする国際社会の中で、日本がその生存と
 独立を維持しようとすれば、同じように弱肉強食の論理に従わざるをえなかった。ヨー
 ロッパの植民地帝国は言うまでもなく、「すべての人間は平等に作られた」という独立
 宣言を持つアメリカも、黒人を奴隷し、インディアンの土地を奪い、ハワイ王国を併呑
 したばかりの国際情勢であった。
・日本がロシアと戦って勝てる可能性は、万に一つもない。これは日本政府の首脳たちも
 そう考えていたし、他の欧米諸国もみな、そう思っていた。ところが、日本にとって思
 わぬ味方が現われた。それは、大英帝国である。明治三十五年(1902)に日英同盟
 が結ばれたことが、日本を開戦に踏み切らせた。もちろん、同盟とは言っても、はるば
 るヨーロッパからイギリス軍が援軍に来てくれるわけではない。武器供与をしてくれる
 わけでも、戦費を調達してくれるわけでもない。しかし、かの大英帝国がロシアに対し
 て圧力をかけ続けてくれれば、ロシアと同盟関係にある国も、イギリスとの関係上、ロ
 シアを軍事的に助けることはないだろう。そうなれば、小国・日本がロシアに勝つチャ
 ンスが生まれるはずである。
・日本にとって、この同盟の持つ意味はまことに大きかったわけだが、英国が日本と同盟
 を結んだというニュースを聞いて、同時の国際社会は文字どおり仰天した。なぜならば、
 世界に冠たる海軍を誇る大英帝国が、有色人種の小国・日本と同盟を結ぶというのは、
 常識では考えられないことであったからだ。そもそも当時の大英帝国は、”光栄ある孤
 立”を誇りにしていて、ヨーロッパにおいてすら他国と同盟を結ばなかった。
・なぜ世界を驚かせた日英同盟は生まれたのか。そのきっかけとなったのは、明治三十三
 年(1900)に起きた「北清事変」であった。 
・当時の清国は、日清戦争で日本に割譲した関東州を恢復する目的で”以夷制夷”政策を採
 って日本に圧力をかけることを白人諸国に依頼したため、その「落とし前」として、諸
 外国から好きなように食い荒らされている状態になってしまった。このような西洋列国
 の動きに反発して、シナ人たちが白人排斥の感情を抱くようになったことはまことに無
 理のない話であったが、そうした反西洋感情の旗頭となったのが、”義和団”という宗教
 集団であった。
・義和団は”扶清滅洋”(清を扶け、西洋を滅ぼす)をスローガンとする一方で、その信徒
 たちの独特の拳法”義和拳”を教えた。この義和団の乱は、最初、山東省で起こったが、
 瞬く間に清国全体に広がり、各地でキリスト教の教会が焼かれたり、西洋人が殺される
 こととなった。そして、その勢いは留まるところを知らず、とうとう義和団は北京を制
 圧し、同時の公使館区域を包囲するという事態にまで発展したのである。ところが、こ
 のような事態になっても、清国政府は傍観するのみで、義和団を排除しようとはしない。
 それどころか、清国皇帝は義和団の行動を是として、これをきっかけに諸外国と戦うと
 いう詔勅まで出したのである。
・ここに至って、義和団の暴動は内乱から一転して、対外戦争になった。清国正規兵が北
 京の公使館や天津の租界を攻撃しはじめたのだ。これを見た列国は、まさに驚愕した。
 このままでは、公使館員や居留民が皆殺しになるのは目に見えている。しかし、援軍を
 送ろうと思っても、ヨーロッパから派遣するのでは間に合うべくもない。そこで、欧米
 列国はみな日本が救援軍を派遣することを望んだ。ところが、日本政府は動こうとしな
 かった。国際社会の反応を恐れたからである。
・日本政府としては、自国だけの判断で出兵することを避けた。あくまでも他国から正式
 な要請がなければ、動くわけにはいかないとしたのである。駐日イギリス公使がいくら
 出兵を要請してきても、けっして日本政府は動かなかった。欧州各国の意見を代表する
 形で、イギリス政府から正式に申し入れが来て、はじめて日本は出兵を承諾したのであ
 る。 
・日本から派遣されたのは、山口素臣中将率いる第五師団であったが、彼らは欧米との連
 合軍において、つねに先頭に立ち、猛暑の中を力戦奮闘した。その結果、天津も北京も
 ついて落城するわけだが、このときの様子を見て、欧米列国は日本軍の規律正しさに感
 嘆するのである。とりわけ彼らを驚かせたのは、日本軍だけが占領地域において略奪行
 為を行わなかったという事実であった。
・この当時の欧米兵の間では略奪や強姦が常識とされていた。実際、北京でも上海でも、
 大規模な略奪が行われた。その中で最も悪質だったのがロシア軍で、彼らは日本軍が警
 備している頤和園(清朝の離宮)に勝手に侵入し、財物を根こそぎ持ち去った。ロシア
 は兵個人が略奪するのではなく、軍隊そのものが略奪集団となっていたのである。
・しかし、略奪を行ったのはロシアだけではなかった。イギリス軍兵士でさえ略奪行為を
 行ない、手に入れた骨董品類や宝石は公使館の中でオークションにかけたという。
・ところが、日本軍だけはこうした略奪行為をしなかったし、また、任務終了後はただち
 に帰国したので、欧米列国の日本に対する評価はたいへんよくなった。
・大英帝国が日本と同盟を結ぶことに至ったのは、この北清事変で日本軍が文明国の”模
 範生”として行動したことが大きかった。アジアの小さな有色人種国家にすぎないと思
 われていた日本が、かくも規律正しく、勇敢に動いたことが彼らの印象を一変させ、
 「同盟相手として信ずるに足りる国である」という評価をもたらした。
・日英同盟は途中、二度の改訂を経て、大正十年(1921)まで存続した。およそ20
 年間にわたって、日本とイギリスは同盟関係にあったことになる。ところが、その日英
 同盟の解消を企んだのは、シナとアメリカであった。とりわけアメリカの力が大きかっ
 た。彼らは日英同盟のよって日本の地位が向上し続けていることに不満を持っていたの
 である。
・当時のアメリカは、シナ大陸に進出することを最大の目的にしていた。ハワイ、グアム、
 フィリピンと西進していったアメリカにとって、最後の”フロンティア”というべき場所
 がシナ大陸であった。ところが、そのシナ大陸にはすでにヨーロッパ諸国や日本の植民
 地があって、アメリカが割り込む隙はあまりない。そこで彼らは日英同盟を解消させ、
 日本の力を低下させることで、チャンスを作ろうとしたのだ。
・アメリカは日露戦争における日本の勝利を見て、日本を第一の仮想敵国と見做し、「オ
 レンジ計画」なる戦略構想を立案、推進することになった。アメリカが精力的に運動し
 た結果、大正十年(1921)のワシントン会議において日英同盟は解消されることに
 なった。その代わりということで、日・英・米・仏の四国協定が結ばれたが、これが形
 ばかりのものであるのは言うまでもない。”共同責任は無責任”という言葉のとおり、こ
 の条約は何の意味もなかったし、実際何の役にも立たなかった。
・イギリスとの同盟がなくなったと見るや、アメリカは日本を狙い撃ちしはじめ、日米関
 係は悪化の一途を辿った。この二年後の大正十三年(1924)に、米国会議で”絶対
 的排日移民法”が成立したのは、その手始めともいうべき出来事であった。
・日本は日露戦争開戦を決意すると同時に、アメリカに特使として金子賢太郎を送ること
 にした。金子は、アメリカのルーズベルト大統領とハーバード大学の同窓であったから、
 特使として最適であった。それにしても、戦争が始まる前から、和平のための特使を友
 好的な中立国に送り、さらにアメリカの世論を日本に有利なように導こうとした明治政
 府の外交センスの高さは、いくら評価してもしきれるものではない。「いつ、どのよう
 にしてっ戦争を終わらせるか」などということを、まったく考えずにシナやアメリカ相
 手の戦争に突入した昭和の軍部を考えると、天と地ほどの違いがある。
・日露戦争当時は「たとえ憲法に書かれてなくとも」、元老から指名を受けた首相や内閣
 には、権威があった。だからロシアと戦争を始めるとなると、政府が金子を特使に送る
 という決断もできだのである。ところが昭和に入り、元老が死に絶えてしまうと、それ
 は不可能になった。憲法が文字どおり解釈された結果、日本は「首相や内閣のない国」
 になってしまった。
・軍人は戦争を始めることはできても、終わらせることはできない。それは政治家の仕事
 だからである。 
・199名の死者が出たことで知られる八甲田山における青森歩兵第五連隊の雪中訓練も、
 日露戦争に念頭に置いたものであった。そこで無事生還した倉石一大尉も日露戦争では
 黒溝台の戦闘で戦死している。
・日露戦争では、開戦前から多くの有能な軍人がキャリアを投げ捨ててまで、諜報活動や
 謀略活動に身を投じた。そうした人たちが多く現れたのも、ロシアの脅威がまことに大
 きかったことの表れなのである。 
・こうした情報将校の中でも、日露戦争において最大の貢献をなしたのが、赤石元次郎
(当時、大佐)である。日露戦争における赤石の働きは、「数個師団に匹敵した」と言わ
 れ、「日露戦争の勝因の一つは、赤石大佐であった」とされた。
・赤石が行ったのは、ヨーロッパにおけるロシアの革命勢力を援助することであった。各
 地の亡命している革命家たちを資金援助し、パリで空前絶後の反ロシア集会を行なうこ
 とにも成功している。また、レーニンとも親交があったという。
・こうした活動の結果、ロシア各地で反政府暴動や争議が頻発し、ロシア政府は戦争に専
 心できなくなってしまった。ロシア革命の発端とされる「血の日曜日事件」がペテルブ
 ルグで起きたのも、元を質せば、彼の活動によるものである。
・日本海海戦で、日本海軍はバルチック艦隊相手に海戦史上、類のないパーフェクト勝利
 を収めた。また、陸戦においても、兵力・物量において優勢なロシア陸軍に対して死闘
 を繰り広げ、最後の奉天大会戦では、ついにロシア軍を敗走せしめた。
・海軍おいては、下瀬火薬を用いた新砲弾。陸軍においては機関銃の導入。この二つが、
 日露戦争の帰趨を決めたのである。これらはいずれも、戦争の概念を一変させるほどの
 力を持っていた新兵器であった。
・艦隊と艦隊が直接に海上で激突する海戦は、砲弾こそ飛び交って派手ではあるが、実際
 にはさほど被害を与えられないというのが、それまでの常識であった。そんなことをす
 るよりも、夜陰に乗じて水雷艇で戦艦を撃沈したり、あるいは軍港内に停泊している艦
 船に向けて、陸から大砲を打ち込むほうが、ずっと効率的なのだ。
・実際、日露戦争においても、日本海軍を苦しめた旅順艦隊を最終的に全滅させたのは、
 二〇三高地から旅順港に打ち込まれた二八センチ榴弾砲であった。
・ところが、バルチック艦隊と戦った日本海戦において、日本はロシア艦38隻中19隻
 を沈没させるという大戦果を挙げた。日本側の損害はわずかに荒天のために転覆した水
 雷艇3隻のみだった。このような”奇跡”を可能にしたのが、下瀬火薬と呼ばれる新式
 火薬であった。
・バルチック艦隊は日本の砲弾の前に、まったく戦闘力を失った。ロシア艦のほとんどが
 火災を発生させ、わずか30分で戦闘隊形が崩れてしまったのである。
・陸の戦いで大きな役割を果たしたのは、騎兵部隊における機関銃の採用であった。何と
 言っても騎兵の特長はその機動力である。
・その騎兵の中で、世界で最も精強と言われていたのがロシアのコサック騎兵である。こ
 のようなコサック騎兵に対して、日本の騎兵はまことに見劣りがすると言わざるをえな
 い。何しろ、徳川300年の間、騎兵を用いる必要がなかったのである。それどころか、
 日本の在来種は西洋の馬より一回りも二回りも小さい。西洋の小型馬ポニーほどの大き
 さしかなく、スピードも格段に遅いから、使い物にならないのだ。
・世界最強のコサックに対抗せねばならないことになったとき、日本騎兵の創設者・秋山
 好古が考えたのは、いわば逆転の発想であった。すなわち、「コサック兵が現れたら、
 馬から降りてしまえ」ということである。ただちに馬から降りて、銃で馬ごと薙ぎ倒し
 てしまおうと彼は考えたのである。しかも、この革新的アイデアを実行するに当たって、
 秋山は機関銃という最新兵器を導入した。
・日露戦争当時の機関銃は、ヨーロッパでは実際に誰も戦場で使ったことがないという、
 いわば未知数の兵器であった。機関銃を持った日本の騎兵の前に、コサック騎兵はなす
 術もなかった。何度となくコサックは襲ってきたが、ことごとく機関銃の弾幕の前に退
 けられた。秋山の部隊は、無敵に近かった。
・乃木希典将軍ほど、敗戦後、急速に評判が悪くなった軍人もいないであろう。旅順攻略
 戦において、多数の将兵を死なせたということが、その原因になっているのは、今さら
 言うまでもない。
・確かに、数万の兵士が戦死したにもかかわらず、乃木将軍は二〇三高地を奪い取ること
 ができなかった。結局、総参謀長・児玉源太郎(大将)が来て、第三軍の指揮権を乃木
 から譲り受け、二〇三高地攻略を成功させたのは、間違いない事実である。このとき、
 児玉大将は二〇三高地を一目見るなり、「これは肉弾戦で戦ってもしかたがない。二八
 センチ榴弾砲を持ってきて、要塞を叩き潰すしかない」という決断を下した。
・この榴弾砲というのは、本来、海岸の防御用に使う巨大な大砲である。それを短時間に
 移動させるという児玉の案に対して、乃木軍にいた留学帰りのエリート参謀長たちは、
 こぞって「そんなことは非常識だ」と反対した。だが、それは見事の効果を上げ、あっ
 という間に二〇三高地が陥落した。
・だが、だからと言って、乃木将軍のことを愚将・凡将のたぐいだと決め付けるのは、や
 はり即断にすぎるであろう。旅順攻略戦における死者は約一万五千名、戦傷者は約四万
 四千名、二〇三高地には、日本人兵士の死体が累々と折り重なっていたわけだが、要塞
 の砲弾にいくら倒されても、第三軍兵士の士気は衰えることはなかった。あまりに日本
 軍兵士の戦意が旺盛なので、守るロシア兵たちは一種の恐怖感を抱いたと伝えられてい
 る。 
・このような第三軍の奮闘は、乃木将軍の存在なくしては理解できない。当時の日本で、
 そのことを最もよくご存じだったのは、明治天皇ではなかったか。旅順攻略が一向に進
 展しないため乃木更迭の話が出たとき、明治天皇は、「この仕事は乃木でなければでき
 ない。誰が行っても、陥ちないものは陥ちないのだ。乃木であればこそ、兵たちも苦し
 い戦いを戦い抜いているのである」とおっしゃったという。明治天皇の言葉は、まさに
 本質を突いたものであろう。
・「この人の魅力は、実際に会った人間でなければ理解できないのではないか」というこ
 とである。そらくらい、乃木将軍という人は、人を惹きつける魅力を持った人物であっ
 たようだ。 
・戦争の最初、乃木将軍は陽に焼けた精悍な顔立ちをしていたが、戦いが進むにつれ、そ
 の肌には刀傷のような深い深い皺が刻みこまれていったという。そのような乃木将軍の
 顔を見たとき、兵士たちはみな「ああ、われらよりも将軍のほうが、ずっと苦しんでお
 られる」と感じたのではないか。乃木将軍が、死んでいく兵士のことを何よりも気にか
 けていたことは、兵士たちはみな知っていた。だからこそ、「乃木将軍のためなら」と
 欣然と突撃することができだのであろう。
・日露戦争が始まったとき、乃木将軍がまず考えたのは「この戦争で、乃木家が滅んでも
 かまわない」ということであった。この戦争には、乃木将軍の二人の息子も参加してい
 る。出征するとき、将軍は家族に「遺骨が一つ届いたからといって、慌てて葬式を出す
 な、三つ届いてからにしろ」と言い置いているから、彼は、この戦争で自分はもとより、
 息子たちを殺してもいいと覚悟していたのだ。
・だから日露戦争において、乃木将軍はあえて息子たちを最も危険な部署に付けた。長男
 の勝典中尉は南山攻撃戦で切り込み隊員として壮烈な戦死を遂げた。次男の保典少尉も、
 二〇三高地において白襷決死隊指揮官となって戦死する。
・自分の息子をまず殺した乃木将軍の決意は、第三軍の兵士たちに電撃のように伝わった
 はずである。だからこそ、彼らは敢然としてとして二〇三高地に突撃していったのだ。
・この二〇三高地の戦いにおける乃木将軍の心中は、察するに余りある。もともと乃木将
 軍が旅順攻略の任務を与えられたのは、日清戦争のとくにも旅順攻略戦を指揮したとい
 うのが理由になっている。だが実際に旅順に着いて、乃木将軍はただちに「これは日清
 戦争とは全然違う」ということに気が付いた。何しろ、旅順は完全に要塞化しているし、
 ロシア兵の訓練度や武器はシナ兵とは比較にならない。
・しかも彼の幕僚はみな、揃いも揃って無能な人間の集まりである。確かに士官学校を優
 秀な成績で卒業し、ヨーロッパに行って最新の軍事学をマスターしているけれども、現
 場のことは何一つ知らないエリートなのだ。何しろ、このエリートたちは、最前線に足
 を運ぶことさえしないのである。「自分たちの仕事は作戦を考えることであって、いち
 いち現場を見ている暇名はない」という、もっともらしい理由をこしらえて、動かない
 のだ。これでは、効果的な作戦など生まれるべくもない。
・旅順において、このような状態に追い込まれたとき、乃木将軍は「これは息子を殺すし
 かない」と腹を括ったのである。旅順攻略において、多くの将兵が死ぬことになるのは
 目に見えている。そのような戦いにおいて、司令官にできることは、まず自らがその犠
 牲になることしかないというのが、乃木将軍の決断だった。
・私は、すぐれたリーダーの条件は、「腹を括れるか否か」というところにあるのではな
 いかと考えている。学校の成績がどれだけよくても、腹を括れないようなリーダーの下
 では、誰も身を粉にして働こうとは思わない。
・日露戦争を見て、つくづく思うのは、「学校出の秀才とは何と困った連中か」というこ
 とである。学校で習った知識を金科玉条のように振り回して、現場の情報を無視・軽視
 するのは、日本型エリートの通弊と言ってもいいであろう。ことに昭和になってからの
 日本陸軍は、少数の例外を除き、こうした秀才たちの集団と化した観がある。
・日露戦争における秀才の弊害を挙げるなら、何を措いても述べなければならないのは、
 陸軍軍医局のことである。彼らのやったことは、まさに”犯罪的行為”であった。日露戦
 争における陸軍の傷病者中、最も大きな割合を占めたのは脚気患者であった。
・陸軍では、このような脚気患者が日露戦争中21万人以上も出た。出動総人員が110
 万人であるから、5人の1人が脚気になったことになる。
 また脚気による死者は2万7000人である。これは二〇三高地の死者を軽く上回る。
 これはまさに由々しき事態であり、事実、日本陸軍は脚気のため、戦争中つねに人員不
 足に悩まされた。 
・日本陸軍で脚気はまさに猖獗を極めたわけだが、これに対して、同じ日露戦争でも海軍
 の脚気患者はほとんどゼロに近かった。軽症者はいくらかあったが、重症者は一人もい
 なかったのである。これほど歴然とした差が出たのは、ひとえに陸軍兵士の健康を預か
 る軍医らの責任であることは言うまでもない。
・脚気がビタミンB1の欠乏によって起こる病気であることは、現代では誰でも知ってい
 る事実だろう。ことに白米ばかり食べていると、脚気になりやすい。しかし、ビタミン
 の存在を知られる以前、脚気は日本や東南アジアの風土病と思われていた。西洋では脚
 気そのものが存在しないのである。これはおそらく、西洋人が精白しない小麦を使った
 パンや肉を食べるからであろう。
・しかも、脚気は都市に多かったから、流行病と思われていた。かつては”江戸煩い”と
 か”大坂腫れ”とも言われていたようである。
・明治になって近代軍隊が作られたとき、この脚気が大問題になった。ことに海軍におい
 ては深刻で、長期航海において船内に脚気患者が続出すれば、艦そのものが行動不能に
 なる虞がある。 
・このような状態を憂えて、何とか脚気の根絶をしなければならないと考えたのが、海軍
 軍医であった高木兼寛であった。彼はイギリスに留学し、ロンドンの医学校を抜群の成
 績で卒業したという実力の持ち主であった。
・徹底的な調査の結果、高木は脚気が食事と関係していることを発見する。同じ艦に乗り
 組んでいても、脚気に罹るのは下級の兵卒ばかりで、毎日洋食を食べている上級士官で
 脚気に冒される人はいないことに気が付いたのである。
・明治初年ころは、下級兵卒の食事は白米の飯だけが官給で、副食に関しては食費が出て、
 それぞれ兵の好みのものを食べるシステムになっていたという。当時の水兵は貧しい家
 の出身者が多い。したがって、白米は軍隊に入って、はじめて食べたという人がほとん
 どである。そのような状態であるから、配給の飯は食べても、副食費は貯蓄に回すのが
 普通で、おかずと言えば漬け物程度のものしか食べていない。
・高木は実験的に、食事は副食を含めてすべて給食とし、しかも良質のものを出すという
 ことにした。この実験は見事な成功となった。この高木の実験で、日本海軍は全軍を挙
 げて食事の改良に乗り出す。米食中心の食事を止めることにして、米・麦併用というこ
 とになった。この結果、海軍での脚気発生率は激減し、日清・日露戦争でも脚気の患者
 は皆無に近かった。
・これに対して陸軍首脳は、海軍の食事改良運動にまったく関心を示さなかったばかりか、
 それに反対する側に回った。反対派の急先鋒は何といっても、陸軍軍医局の医者たちで
 あった。彼らは、徹底して高木の食事改善を否定した。
・陸軍軍医局の医者の多くは東大医学部出身であったが、この東大医学部は、当時「ドイ
 ツ医学こそが世界最高」と信じて疑わなかった。エリートの彼らにしてみれば、「高木
 ごときに何が分かる」という気持ちがあったのだ。
・ドイツ医学の特徴は徹底した病理中心主義にある。つまり、病気の原因を突き止め、つ
 ぎにその対策を考えるというアプローチである。このようなドイツ医学を信奉する陸軍
 や東大医学部の医者たちにしてみれば、原因の追究を二の次にした高木の脚気退治策は、
 まったくのナンセンスということになる。
・”高木潰し”の急先鋒となったのが、あの森林太郎、つまり「森鴎外」であった。彼は
 東大医学部を卒業後、軍医になり、以後一貫してエリート・コースを歩んだ人物である。
 彼は、高木の業績を否定するために、学会で論文を発表し、「栄養学的に見て、日本食
 も洋食もまったく同じである。洋食をすれば脚気が防げるなどということは、迷信・俗
 説にすぎない」と断定した。  
・陸軍にしても脚気の被害は甚大で、その予防は急務であったから、当然のことながら、
 海軍の食事改良運動に興味を持った。実際、現場の指導官や軍医の中には、独自の麦飯
 を導入しようとした人もいた。ところが頑迷固陋にも、こうした試みを軍医局は妨害し、
 あくまでも白米主義を押し通したのである。
・その結果、日清戦争では4千人近くの兵士が脚気で死んだ。ところが、これを見ても彼
 らは自説を曲げることはなく、そのまま日露戦争に突入することとなるのである。日露
 戦争で脚気患者が大量発生し、その結果陸軍の作戦に支障をきたすことになった。それ
 ばかりか、日露戦争後も森鴎外は米食至上主義をまったく反省せず、陸軍兵士に白米を
 与え続けたという。
・こうした森鴎外ら陸軍軍医局のやった行為は、一種の犯罪と言ってもいいだろう。単に
 学問上の論争であるなら、森が高木の食事改良運動を批判しても、それは別に構わない。
 だが、現場で米と麦を併用するのまで妨害するというのは、単に面子にこだわっている
 だけのことである。東大医学部とかドイツ留学という金看板を守りたいという縄張り根
 性にすぎない。 
・乃木将軍の幕僚たちは、「自分たちの本分は作戦立案である」として、二〇三高地で死
 んでいく将兵たちの姿をいっさい見なかった。それど同様に、鴎外たち陸軍の軍医は、
 脚気で死んでいく将兵たちを見殺しにして、恥じることはなかった。
・文学者・森鴎外の業績については、ここではあえて触れない。だが、陸軍軍医としての
 森林太郎が、国賊的な”エリート医学者”であったということは、指摘しておく必要があ
 るだろう。  
・日露戦争の勝利にとって、ようやく日本はロシアの朝鮮半島南下を退けることができた。
 明治維新以来、日本にとって最大の懸案であった朝鮮半島の自立と近代化が、これで進
 展することになったのである。
・ところが、それが一転して日韓併合という事態になったのは、日本人にとっても、コリ
 ア人にとっても予想外の展開であった。当初、日本の政府は大韓帝国を併合する気など
 なかった。というのも、そもそも日本にはヨーロッパ列強のような植民地経営をする時
 代ではないという認識があったからである。
・もちろん日清戦争において、日本は台湾を清国から譲渡されて統治していたわけだが、
 台湾とコリアとではまったく事情が違う。なぜなら、当時の台湾はいわゆる”瘴癘の僻
 地”であって、統一民族としての歴史もなく、住民も少ない。そもそも清国が日本に譲
 渡する気になったのも、台湾という島に対して所有権を感じるところがなかったからで
 ある。
・実際、日本は台湾に対して、理想的といっていいほどの統治をしたと言ってもいいであ
 ろう。現在の台湾の繁栄があるのも、元を質せば、日本がこの島を統治してからだ。
 台湾に対して、戦前の日本が積極的な公共投資を行ない、近代的教育を普及し、産業を
 興し、インフラを整備しなかったら、戦後の台湾の繁栄はもっと遅れていたであろうと
 いうことは、台湾人の学者でも認める事実である。
・これに対し、ヨーロッパの植民地帝国で、その植民地を自国と同じ生活水準、文化水準
 に高めようと努力した例は皆無である。
・これに対して、朝鮮半島を併合あるいは植民地統治するということは、日本にとっては、
 たいへん荷の重いことであった。もし日本が朝鮮半島を防衛するとなれば、その負担は
 大変なものになる。日露戦争で退いたとはいえ、ロシアはまだ北満州に兵を置いている
 のだ。実際、日本が韓国を併合したあとに真っ先に出てきた問題は、朝鮮半島雄防衛で
 あった。
・朝鮮半島が日本の領土である以上、ここには日本軍を置かねばならない。陸軍は朝鮮駐
 留のために二個師団の増設を要求した。しかし、新たに二個師団を作るような経済的ゆ
 とりは、どこにもない。
・そこで、日露戦争以後の日本の方針としては、韓国が近代化して富強になるまでは、日
 本が外交権を預かればよいとした。すなわち、韓国を日本の保護国にするということあ
 る。ある国が他の国を保護国にするということは、当時も今も普通に行われていること
 である。 
・日本にとっては朝鮮半島の安定こそが生命線であり、この半島に日本に敵対する勢力が
 降りてくれば、それはすなわち、「日本の危機」を意味するのだ。日清戦争も日露戦争
 もまさに、このために起こったのである。
・明治三十八年(1905)、日韓議定書が日露戦争勃発の約半年前に調印され、さらに
 日露戦争終結後に、協約によって韓国は日本の保護国ということになった。そして、初
 代の韓国統監として赴任したのが、元老・伊藤博文であった。
・伊藤博文は、韓国の植民地化に絶対反対という考えを持った人であった。伊藤は「植民
 地にしない」と言って、韓国人による韓国統治の必要性をこんこんと説いたという。と
 ころが、このような韓国の独立論者を、韓国人自身が暗殺してしまったのである。明治
 四十二年(1909)、満州のハルビン駅において、伊藤は韓国人・安重根によって暗
 殺された。このとき、伊藤は四カ月以上も前に総監を辞めていた。
・日本世論が、伊藤暗殺に激怒したのは言うまでもないが、韓国のほうも「大変なことを
 してくれた」と震え上がった。何しろ超大国ロシアと血戦を繰り広げ、海に陸に勝利を
 収めた日本の、それも最も有力な政治家を暗殺してしまったのだ。どんな報復があって
 もおかしくないところである。 
・日韓併合はの議論は、このような状況から生まれてきた。伊藤の暗殺を受けて、日本の
 対韓政策は大幅に変更になった。また、韓国の側からも日韓併合の提案が起こった。
・とはいっても、日本はまだまだ日韓併合には慎重であった。というのも、日本が朝鮮半
 島を領土とすることに対して、列国や清国がどのように感ずるかを気にしたのである。
 そこで、日本は関係国に併合の件を打診したところ、米英をはじめとして、誰ひとりと
 して反対しなかった。 
・韓国の併合が行われた最大の直接要因は、伊藤博文の暗殺だったわけだが、それとは別
 に、当時、”日韓同祖論”という話が日韓双方でかなり広汎に信じられていたことも、こ
 の併合を推し進める要素となった。
・日韓同祖論とは、日本人と韓国人の祖先は共通であるという考えてである。シナの文献
 も、北九州の日本人と南朝鮮の人間をともに「倭」としているから、当時のシナ人も、
 この両グループが同じ文化に属する同一種族と見ていたことが分かる。
・南朝鮮と日本のどちらが”兄”で、どちらが”弟”かは、もちろん定かではない。もともと
 同じ民族であったのが、二つに分かれて朝鮮と日本に到達したのだと考えることもでき
 るし、日本の北九州にいた人間が南朝鮮に渡ったということも、あるいは、その逆も考
 えられるであろう。ただ間違いないのは、紀元四世紀の終わりごろから七世紀にかけて、
 南朝鮮と日本がたいへん緊密な関係にあったということである。
・当時の南朝鮮には、日本人が住む任那というコロニーがあったことが「日本書紀」など
 に記されていて、この任那と百済が協力して北朝鮮の新羅に当たっていた。さらに、任
 那を通じて、四世紀末頃から日本も百済と同盟し、新羅と戦っていたのである。この同
 盟関係は、663年の「白村江の戦い」で日本・百済連合軍が唐・新羅連合軍に敗れる
 まで続いた。「白村江の戦い」で敗れた日本軍は、百済の難民を日本に引き連れて帰っ
 てきた。
・信仰の面においても朝鮮と日本はきわめて近かった。「「かつて朝鮮には神道があった」
 ということは、今の多くの韓国人は知らないようだが、コリアに仏教や儒教が伝来する
 前には、日本と同じように神道があって、同じようにカミを信じていたのである。
・桓武天皇の母は、渡来人系であったという。そのような家庭環境が即位の邪魔にならな
 かったということは、やはり、同じカミをと祀っているという感覚があったからであろ
 う。
・日韓併合は戦後になって、「あれは植民地支配だった」という言われ方をされてきた。
 確かに、ある意味では植民地支配のカテゴリーに入るだろう。だが、この頃の日本人と
 しては、「もともと日韓両民族には同じ血が流れているのだから、日韓併合はイギリス
 がインドやアフリカを支配するのとは、わけが違う」と心から信じていたのである。つ
 まり、「日韓併合は西洋諸国のような植民地支配ではない」というのが当時の考えであ
 り、朝鮮人たちも日本国民であり、彼らを被支配者として扱わないということにした。
 だから、コリア人に対して、すべて日本国籍を与えた。法制上の問題もあって実現こそ
 遅れたが、コリア人にも選挙権や被選挙権を与えている。日韓併合の原則は”内鮮一体”、
 つまりコリア人も日本内地の人も同じだということであった。
・個人レベルの話で言えば、コリア人に対して差別の感情を抱いていた日本人もあった。
 これは、否定しがたい事実である。だが、当時の欧米における意味での人種差別はなか
 った。日本人とコリア人との通婚は理念的に奨励されていたからである。
・日韓併合は、今から考えると、やるべきことではなかった。もともと日本とコリアは、
 部分的に同じ民族であったわけだが、それは大昔の話で、今では言語も習慣も、宗教も
 何もかも違う。それを併合すれば、どちらも不幸になるのはあたり前の話なのだが、当
 時の日韓両国どちらにも、そのようなセンスがなかった。
・それにつけても悔やまれるのは、「もし、あのとき伊藤博文が安重根に暗殺されなけれ
 ば」ということである。伊藤は韓国を併合したり、植民地化することに反対していた実
 力者である。彼がもし天寿をまっとうしていたら、韓国は日本の保護下で近代化を進め、
 やがては外交権を回復していたはずである。日韓併合というようなことをせずに済んだ
 可能性は大いに考えられる。 
・現代、韓国では、安重根のことを「民族の英雄」として教えているという。しかし、彼
 のやった行為が、どれだけ歴史をマイナスに変えたのかということを考えてみると、は
 たして単純に英雄として持ち上げていいものか、はなはだ疑問である。
・最近になって、「日韓併合条約は無効である」というようなことが出てきている。日本
 が大韓帝国に武力で押し付けた条約であって、コリアにとって本意ではなかったという
 のが、その理由のようだが、国際社会において、そんな異論は通用しないであろう。完
 全にイーブンな立場で結ばなければ、正当な条約とは言えないというのであれば、世界
 の中にまともな条約は一つもあるまい。たとえば、「日本がポツダム宣言を受諾したの
 は、連合国の圧倒的な武力の前に、しぶしぶやったことであって、あれは無効だ」と言
 ったら、世の中の誰がまともに取り上げてくれるのであろうか。
・どんな不利な条約であっても、いったん結ばれたらそれを誠実に履行するのが、国際社
 会の常識というものである。しかも、この日韓併合条約に関して言えば、当時の国際社
 会の主要メンバーがみな事前に承諾していた。英米のマスコミさえも、大賛成した。
・北朝鮮当局は、日本政府に向かって、「あの条約の書面には、当時の韓国皇帝の署名が
 ないから無効である」ということを言い立てているというが、ここまで行くと、もはや
 理屈にもなっていない。確かに、日韓併合条約には皇帝の署名はない。全権大使として、
 当時の李完用首相が皇帝の代わりに、この条約に署名をしているのだから当然の話であ
 る。 
・昭和四十年(1965)、日韓基本条約が締結されるときに、まず問題になったのは、
 この日韓併合条約の問題であった。それはつまり「日韓併合条約は合法かつ有効な条約
 か」ということである。このときの日本側の関係者たちの主張は、まことに筋の通った
 話であった。それは、
 「日本が韓国に復興資金を出すのは、やぶさかでない。喜んで資金提供をするつもりだ。
 だが、それを日韓併合の賠償金として支払うのは拒否する。なぜなら、日韓併合条約は
 まったく正しい手続きを経て締結されたものだし、諸外国もそれを承認した正規の条約
 である。その正規の条約によって発生した行為に”賠償金”を支払うことは、国際的に
 許されるわけがない」としたのである。これはまさに正論である。
 この日本の主張を、当時の朴大統領は受け容れてくれた。これもまた素晴らしい決断で
 ある。
・日本は韓国に無償贈与として3億ドル、借款5憶ドルを提供、また、韓国のほうは対日
 賠償を一切求めぬということになった。
・この基本条約以後、いやしくも政治に関わる人間が”戦後補償”などということを持ち出
 すのは、日韓基本条約破りであり、国際常識がないと非難されても文句は言えないはず
 でる。  
・現在、日本の政治家の中に、韓国国民に対する戦後補償を言う人々が出てきたが、これ
 はすべて日韓基本条約の精神を踏みにじるものであるし、当時の関係者の決断を無にす
 る暴言である。今さら戦後補償をするなど、国際的な常識から言えばナンセンス以外の
 何物でもない。このようなことが許されるのであれば、広島や長崎の被爆者は原爆投下
 に対する補償を、アメリカに要求できるという話になるのではないか。
・北朝鮮に対して、戦後補償をしようと言うのに至っては言語同断の暴論である。そもそ
 も、日本は「朝鮮における唯一の合法政権である」として、韓国と基本条約を結んだの
 である。 北朝鮮に対して戦後補償するというのは、この大前提をひっくり返してしま
 うことになるわけなのに、いわゆる金丸訪朝団は「北朝鮮に対して、戦後の償いをする」
 と宣言をした。こんな馬鹿な話はない。この声明が、日本に対する請求権を放棄した韓
 国のことを、まったく蔑ろにしていることは言うまでもないが、それ以上に問題なのは、
 金丸訪朝団の連中が、示談の意味をまったく理解していなかったという点である。
・最近、とくに問題になっている従軍慰安婦問題に関しても同じである。日本や韓国のマ
 スコミは、戦時中、日本軍がコリア女性を従軍慰安婦にしたことを対して、戦後補償を
 せよと主張しているが、これもまた無数の誤解と無知に基づく言い分である。第一、従
 軍慰安婦という言葉じたい、なかったのだ。従軍看護婦、従軍記者、従軍画家など、
 「従軍」という語は、「軍属」という、れっきとしたステイタスを示すものであった。
 売春婦は軍属ではない。強いて言えば、戦場慰安婦、あるいは「軍」慰安婦であろう。
・そもそも「軍」慰安婦というのは、何のためにあったか。それは、占領地区の婦女子と
 日本軍兵士との間に問題が起こるのを避けるために行われたのである。戦場では略奪と
 強姦が起こりやすい。これは日本軍に限った話ではなく、世界中の軍隊に共通した話で
 あった。このような忌まわしいことが起きないように、自前の売春婦を連れていくとい
 うことになったのが、「軍」慰安婦の起こりである。
・なお、断っておくが、戦前の日本において、また戦後も昭和三十三年(1958)まで、
 さらに世界の多くにおいては今日でも、売春は合法なのだ。
・しかも、「軍」慰安婦は日本軍が直接集めたものではない。そもそも軍隊という官僚組
 織は、慰安婦を集めるということに馴染まない。そこで、売春斡旋業者に委任して、人
 集めを行なうということになったのは当然の成り行きであろう。
・確かにコリア人で「軍」慰安婦になった人はいたであろう。しかし、その人たちを集め
 たのは、日本軍ではない。それをやったのは、おそらくコリア人の売春斡旋業者である。
・朝日新聞の記事に、朝鮮人強制連行問題を研究している人たちが発見した「軍」慰安婦
 の募集広告を取り上げたものがある。朝日新聞や強制連行研究者たちは、日本を非難す
 るともりで、この資料を出しているらしいが、次の事実が浮き上がってくる。まず第一
 に、これは「募集」であって、強制ではない。第二に、「契約」および「待遇」につい
 て「面談」して決めることになっている。第三に、希望者の連絡先は「旅館」にいる人
 物(おそらくコリア人)である。この広告の人物は、おそらくコリア人の売春斡旋業者、
 つまり女衒(当時は、警察の鑑札を持った合法的業者)であったのだろう。しかも、コ
 リア人女性だけが従軍したのではない。同時に日本内地の女性も働いていたわけであり、
 あたかもコリア人だけを差別しているかのごとき印象を与える報道は、まったくのミス・
 リードである。さらに言えば、「軍」慰安婦たちは、その報酬としてカネを受け取って
 いるのである。
・戦争初期の頃の「軍」慰安婦たちはカネを貯めて故郷に帰り、家など建てて親孝行した
 例も少なくないと聞く。コリアの女性は戦前の東北の少女たちのごとく親孝行であり、
 「身を売る」ことを恥と思わない面があった。
・この問題を考えるうえで、敗戦後、日本に進駐してきたアメリカ軍が何をしたかという
 ことも多いに参考になるであろう。当時、東京都の渉外部長であった磯村英一氏の証言
 によると、敗戦後の年のクリスマスに司令部の将校から呼ばれて、吉原の状態の報告を
 命ぜられた。命令は宿舎を造って、占領軍の兵隊のために、”女性”を集めろということ
 だった。命令は英語で”レクリエーション・センター”の設置である。最初は室内運動場
 の整備だと思ったが、そうではない。旧”吉原”のそれであった。やむを得ず焼け残った
 ”地区”の人々に、食料を支給すると約束して”サービス・センター”に来てもらった。そ
 の理由として、日本の”一般の女性の操”を守るためといって頭を下げたという。
・日本軍は被占領地で売春婦を募集しなかった。その代わりに業者を通じて自国の女性を
 集めて、「軍」慰安婦とした。
・これに対して、アメリカ軍は占領している日本で「軍」慰安婦を集めようとした。言う
 までもないが、当時のアメリカにも職業的売春婦はいたのである。そうした女性を連れ
 てきて、被占領地の日本女性に迷惑をかけまいとする姿勢があってもよかったのではな
 いか。いったい、日本とアメリカのどちらのやり方のほうが”文明的”であるか。
・過去の補償ということを言い出せば、日本でもキリがなくなる。たとえば戦後、コリア
 に残してきた日本人の財産は、どれだけになるであろう。敗戦によって日本領でなくな
 ったために、コリアに在住していた日本人の多くが財産を失った。日韓国交回復のとき
 にも、この問題は討議されたが、結局、これは請求しないことになった。
・しかし、「軍」慰安婦たちに安易に補償してしまえば、それが前例になる。日本人が韓
 国政府に対して、私有財産の補償を要求するようになっても、誰も文句が言えなくなる
 のである。
・戦時中、アメリカ軍の爆撃によって家や財産を失った日本人は何百万人にも上る。そう
 した人たちが、現在のアメリカ政府に謝罪と補償を求めることになれば、それこそ滅茶
 苦茶なことになりかねない。  

太平洋戦争への道
・第二次世界大戦後は、戦前の日本はすべて悪で、アメリカはすべて善と見る風潮が流行
 っているが、そんなに簡単に悪きれるものではない。この当時のアメリカは、シナ大陸
 における植民地競争に自分も加わりたいと熱望していたのである。
・それまでのアメリカは、あえてシナ大陸などに植民地を求める必要がなかった。何しろ、
 自国の中でインディアンを駆逐して、白人の勢力を伸ばし、さらにメキシコかr広大な
 領土を取り上げていたのだから、わざわざ他国に出かけて侵略せずともいいのだ。
・ところが十九世紀末になると、大きく事情が変わる。1890年、アメリカの国政調査
 局は「フロンティアの消滅」を宣言する。つまり、これはアメリカの領土のどの土地に
 も、入植者が入ったということである。もはやアメリカ国内には、彼らの開拓欲を満た
 す土地はなくなった。国民の間に一種、虚脱状態のような感じが蔓延したのも当然のこ
 とである。   
・このような事態を打開するには、他国に領土を拡張するしかない。そこで彼らが見出し
 たのは、ハワイ王国やシナ大陸であった。
・にほんじんは清貧のエリートのほうが、優れた指導者と思いがちだが、そんなことはま
 ったくない。それどころか、清貧の指導者で名政治家ということは、めったにあったた
 めしがない。そのことは、日本の近代史において、もっとも清貧とされた首相が東条英
 機であったことを見れば、ただちに理解できるはずである。
・清貧という思想は、個人の倫理としては尊重すべきものかもしれない。だが政治におい
 て、濁富が負けて清貧が勝つというのは、しばしば国民にとって不幸な状態なのである。
・新たなフロンティアを求めて、シナ進出を目論むアメリカにとって、だんだん日本は邪
 魔な存在となった。シナ大陸にはヨーロッパ列国も進出していたわけだが、それらは同
 じ白人の国であるから、どうしても増悪は日本にだけ向くことになる。
・これに加えて、日露戦争の勝利は、アメリカ人の心に微妙は影を落とした。それは一言
 で言えば、恐怖感である。日露戦争で日本がバルチック艦隊を沈めたとき、アメリカ人
 がまず感じたのは、「日本には恐るべき連合艦隊があるのに、われわれはそれに対抗す
 る艦隊を太平洋に持っていない」ということであった。
・日本への怒りと恐怖、こうした感情がどんどん醸成されていった結果、生まれたのがア
 メリカ本土における排日運動であった。
・これに対して日本の国論はどうであったかといえば、まったく反米的な言論はなかった
 と言ってもいい。日本政府にしても、こうした排日の動きはアメリカ人たちの理性に訴
 えかければ、何とか解決できると思っていた。だが、排日運動の根本は、日本に対する
 恐怖と増悪であるのだから、いくら理性で説得しても、どうなるものでもないのである。
・大正九年(1920)、カリフォルニア州でまったく悪質な「排日土地法」が作られた。
 この7年前に、すでに同州は日本人移民の土地所有を禁ずる法律を作っているのだが、
 今度は日本人移民の子どもまで土地所有を禁じられることになったのである。日本人の
 移民たちは、白人が見放したような土地をも素晴らしい農地に変えていった。しかし、
 今や日系人は地主になる喜びを奪われた。80パーセントの移民は帰国したという。
・大正十一年(1922)、アメリか最高裁は「黄色人種は帰化不能外人であり、帰化権
 はない」という判決を出した。この判決は恐るべきことに、すでに帰化した日本人の権
 利までをも剥奪できるとした。この結果、第一次世界大戦でアメリカ兵として従軍した
 日本人移民まで、帰化権を剥奪されたのである。
・言うまでもないが、近代法治国家の大原則は、「事後法で人を裁かない」ということで
 ある。アメリカ人たちは近代法の精神を踏みにじってでも、日本人を排斥したかったの
 である。彼らの日本人に対する増悪たるや、今考えても身震いがするほどである。
・こうした反日的動きの総決算という形で生まれたのが、大正十三年(1924)に成立
 した、いわゆる「絶対的排日移民法」である。これは、それまでの排日法が州法であっ
 たのと違い、連邦法であった。つまり、アメリカは国家全体として、日本人移民を排斥
 するということにしたのだ。
・この絶対的排日移民法の成立が、日本の対米感情を一変させた。財界の長老である渋沢
 栄一は、「アメリカは正義の国、人道を重んじる国であると、年来信じていた。カルフ
 ォルニアで排日運動が起こったときも、それは誤解に基づくものだと思ったから、自分
 なりに日米親善に尽力をしたつもりである。ところが、アメリカ人は絶対的排日移民法
 を作った。これを見て、私は何もかも嫌になった。今まで日米親善に尽力したのは、何
 だったのか。神も仏もないのか、という気分になってしまった」というようなことを述
 べている。
・このとき感じた日本人の”怨念”が、そのまま日米開戦に繋がると言っても過言ではない。
 戦後に出版された回顧録などで、「日米開戦を知って、これは大変なことになったと思
 った」ということがよく書いてある。もちろん、これは嘘ではない。だが、その一方で
 当時の日本人が「これでスカッとした」という感情を抱いたことを言わねば、これは真
 実を語ったことにはならないのである。
・なぜ、日米開戦を知って、多くの日本人がそのような感情を抱いたかと言えば、その淵
 源は大正十三年の「絶対的排日移民法」にあると言っても過言ではないであろう。
・戦前の日本人にとってのアメリカとは、「日本人を侮辱する人種差別の国」であり、言
 ってみれば少し前の南アフリカ共和国のようなイメージであった。しかもアメリカは日
 英同盟を解消させ、さらには開戦前、ABCD包囲陣を作って日本を経済封鎖し、鉄鉱
 石一つ、石油一滴入れないようにした。
・最初、海軍は対米戦争をやる気はなかったが、禁輸によって石油の備蓄を食い潰すしか
 ないという昭和十六年になって、はじめて開戦を決意する。
・さらにアメリカは日本に追い撃ちをかけるように、「ハル・ノート」を突きつけてきた。
 これはそれまでの日米交渉のプロセスを一切無視し、日本政府が呑めるわけがない要求
 ばかり書き連ねてきたものであって、実質的な最後通牒と言ってもいい。
・人間関係でも同じことだが、たとえ相手に非があったとしても、あまり追いつめるのは
 よくない。追いつめられれば、どんなに大人しい犬であろうとも、牙を剥き出して反撃
 してくるではないか。ところが、アメリカはシナ大陸に利権を求めたいがために、日本
 をいじめすぎた。このポイントを忘れては、戦前の日本が、なぜあのような無謀な戦争
 に突入したかは、絶対に理解できない。戦争は独りで起こせるものではないのだ。
・日本の指導者が愚劣で、闇雲に大戦を始めたというのは、東京裁判史観である。
・1929年、ニューヨークの証券市場で起きた株の大暴落を引き金に、世界中に恐るべ
 き大不況の嵐が吹き荒れた。この不況によって、アメリカでは労働者の四人に一人が失
 業するというような状況になった。
・アメリカの株式大暴落の引き金となったのは、「ホーリー・スムート法」が提出された
 からである。こんな法律が通れば、世界の貿易は麻痺してしまう。不景気は必然だ。と
 ころが、株式大暴落が起こり大暴落になると、まさにその不景気を打開するために、ア
 メリカ議会はこの法律を1930年に成立させた。ホーリー・ストーム法の目的はただ
 ひとつ。それは、不況に苦しむ国内産業を保護するために、アメリカに輸出される商品、
 千品目について超高率の関税をかけるということであった。  
・この法律が出現したのを見て、世界中の国が、アメリカ製品に対する関税を引き上げた
 のである。この結果、アメリカの貿易量は一年半後、半分以下に落ち込み、当然ながら
 世界全体の貿易もさらに不振になった。つまり、不況を克服するために行ったことが、
 さらに不況を深刻にし、長期化させることになったわけである。
・1932年、カナダのオッタワに大英帝国のメンバーが集まって会議が開かれた(英帝
 国経済会議)。この会議で決まったのは、世界不況を生き残るため、帝国外からの輸入
 を制限し、大英帝国内で自給自足体制に入ろうということであった。当時の大英帝国と
 言えば、植民地を含めると世界の四分の一を占めるほどの規模である。
・「イギリスやアメリカに対抗するためには、日本も自給自足圏をつくるしかない」と考
 える日本人が出てくるのも当然の展開であった。つまり、東アジアにおいて、日本を中
 心とする経済ブロックを作り、その中でおたがいに貿易を行なうことで、この大不況を
 生き残ろうというのである。その考えは、やがて「日満ブロック政策」となり、これが
 日本国民の広い層の支持を得ることになったのである。
・一方、ヨーロッパでもドイツやイタリアのような「持たざる国」では英米のような「持
 てる国」の経済ブロック化に対抗して、国家社会主義化(ファッショ化)が国民の支持
 を得るようになった。1930年代のファッショ化の引き金は、アメリカとイギリスが
 引いたのである。  
・この大不況が何年も何年も続くのを見て、経済学者や政治家たちが考えたのは、「自由
 経済体制というのは、やはり限界があるのではないか」ということであった。もちろん、
 景気が回復しない最大の原因は、ホーリー・スムート法に始まる保護貿易にあるわけだ
 が、当時の経済学はそこまで進歩していなかった。だから、多くの人は「もう自由放任
 の時代は終わったのだ」と即断することになったのである。
・そこで浮かび上がったのが、政府による統制経済的なアイデアであった。つまり、中央
 政府が強権を発動させることで、経済活動を振興するという「社会主義」である。成立
 当初のソ連は、経済的には破綻寸前の状況であった。ところが、1929年、つまり大
 不況の年にスタートした第一次五カ年計画は、ソ連経済を復活せしめたような感があっ
 た。統計上は驚くべき伸びを示した。世界中が不況に苦しんでいる中、ひとりソ連が活
 況を呈している姿は、「やはり自由放任は駄目ではないか」と思わせるに充分なインパ
 クトがあった。
・このような事情があったから、どこの国も経済政策は自由主義から社会主義にシフトし
 ていくことになった。アメリカでルーズベルト大統領が「ニュー・ディール政策」を行
 なったのも、その一例である。ただ、このニュー・ディール政策は華々しく行われたわ
 りには、失業者を減らせなかった。それなのに、ニュー・ディール政策の評判がいまだ
 に悪くないのは、これは単にアメリカが他の国よりも経済余力があったということにす
 ぎない。
・このような経済的苦境を解決するといって現れたのが、ヒトラーのナチスであった。ナ
 チスは、正式名称を「国家社会主義労働者党」というとおり、まさに社会主義的政策を
 その大方針にしている。 
・ドイツのナチスとソ連の共産党は、第二次世界大戦において敵味方に分かれて戦ったけ
 れども、結局は「一つ穴の貉」である。いずれも国家が経済を完全にコントロールし、
 自由な経済活動を許さないという点ではまったく同じなのだ。両者の違いは、ナチスが
 それを「国家が主体になって行なう社会主義」と規定したのに対して、ソ連が「人民が
 主体になって行なう」と規定しただけの話である。だが実際には、旧ソ連において、政
 治を動かしていたのは党であって、人民の意見など聞かなかったのはご承知のとおりで
 ある。
・ナチスにはヒトラーがおり、当時のソ連にはスターリンがいる。二人は外見こそ違うけ
 れども、社会主義者で独裁者ということに関しては双子の兄弟であった。
・1930年代はじめ世界中に社会主義礼賛の風潮が生まれたとき、日本もその影響を受
 けないわけにはいかなかった。ただ、日本の場合、他国と違ったのは、社会主義や共産
 主義に対して非常な恐怖心を抱いていたということにある。そのため、日本における社
 会主義の入り方は、屈折したものになった。
・なぜ、日本は社会主義や共産主義に恐怖を覚えたか。それは、マルクス主義者たちが
 「天皇制を廃止する」ということを唱えたからに外ならない。「天皇制の廃止」という
 共産党の表現はたいへん抽象的な言い方であるが、当時の日本人にとって、この言葉は
 恐怖心を抱かせるに充分であった。
・というのも、その五年前においてソ連共産党がやった「君主制の廃止」なるものは、ま
 ことに残忍なものであったからだ。ロシア革命において、ロマノフ王朝の王族が、その
 愛馬に至るまでことごとく惨殺されたことは、日本においても広く知られていた。
・ナチスの思想が人種差別とセットとなっているように、共産主義イデオロギーは常に暴
 力とセットになっているからである。人種偏見のないナチズムが考えられないように、
 暴力や大量殺人のない共産主義などありえないのだ。それは、共産革命が起きた国のこ
 とを考えれみれば、ただちに理解できるであろう。ソ連ではロシア革命でロマノフ王朝
 一族が惨殺され、さらにスターリンの統治下では数百万人もの人が粛清されたり、シベ
 リアの強制収容所に送られたりした。毛沢東の中国革命、さらに文化大革命などで同じ
 ような大量殺人が起きたことを見えれば、ただちに分かるであろう。このとき、中国で
 犠牲になった人の数は数百万という説もあれば、1千万を超えるという説もある。これ
 はベトナムでも同じである。ベトナム戦争で南ベトナムが”解放”されたあとに待ってい
 たのは、恐れべき大虐殺であった。
・スターリン時代の粛清の話を読むと、一枚の紙きれで逮捕され、裁判もなしにただちに
 銃殺された人が無数にいたという。おそらく逮捕に当たっては、反革命という罪状があ
 っただろうが、彼らには裁判を受ける権利さえ許されなかった。
・戦後はいざしらず、戦前の日本共産党はソ連の指導によって、日本をソ連のごとき国家
 にすることを目的としていた。 
・共産革命が起きたら、日本はどうなるかは、昭和四十七年(1972)の連合赤軍事件
 を見ればよくわかる。わずか30人ばかりのグループが何と12人の同志男女を虐殺し
 ていたのだ。これは革命のミニ版である。スターリンや毛沢東は、これと同じことを全
 国規模でやったと思えばよい。
・確かに、治安維持法ほどの悪法は、日本史上ないであろう。それは特高も反対した法律
 である。だが、過去を振り返る場合、そのような悪法がなぜ成立したかということも、
 あわせて考えなければ、歴史から何の教訓も得られないのではないか。
・左翼の共産主義者、社会主義者の代わりに日本で大きな力を持ったのは、右翼の社会主
 義者たちの存在である。彼らは天皇という名前を使って、日本を社会主義の国家にしよ
 うと考えたのである。戦後の歴史教育では、彼らのことを国家主義者とか軍国主義者と
 いうような名前で呼んでいるが、それでは本質は分からない。彼らは、あくまでも右翼
 の社会主義者なのである。 
・右翼社会主義思想は、特に若い軍人たちの浸透した。彼らがこの思想に飛びついたのは、
 日本の不況、ことに農村部の窮迫が意識にあったからである。東北の農村などで、一家
 を救うために娘が身売りをしているというような話を聞いて、彼らが感じたのは日本の
 体制に対する義憤であった。こうした”義憤”に駆られた将校たちが怒りを向けたのが、
 資本主義と政党政治であった。
・一部の財閥が巨利を貪っているのに、農民は飢えに苦しんでいる。政治家たちは、目先
 の利益だけを追い求め、国民のことを考えようとしない。こうした不満が、天皇を戴く
 社会主義と結びつくのは、ある意味で自然の成り行きであった。
・そこで生まれたの陸軍内のグループが、皇道派と統制派である。この二派は抗争を繰り
 返していたから誤解されやすいけれども、それは革マルと中核派が対立しているのと同
 じで、気局これも”一つ穴の貉”なのである。
・彼らはともに、天皇の名によって議会を停止し、同時に私有財産を国有化して、社会主
 義的政策を実行することを目指していた。両者の間で違ったのは、日本を社会主義化す
 るための方法論にすぎない。
・皇道派は二・二六事件を起こしたことからもわかるように、テロ活動によって、体制の
 転覆を狙うグループである。彼ら若手将校が唱えていた”昭和維新”とは、要は天皇の名
 による、そして天皇を戴く「社会主義革命」であった。
・これに対して統制派は、軍の上層部を中心に作られ、合法的に社会主義体制を実現する
 ことを目指した。それ以外は、ほとんど皇道派と変わらないと言っても間違いない。
・社会主義者の目から見れば、自由経済や自由主義はすべて腐敗しているかのごとく映る
 のである。彼らは財閥が為替相場で儲けることすら、気に入らなかった。社会主義者た
 ちの目から見れば、まったく合法的な自由経済活動すら、”腐敗”に見えたのである。
 だから、彼らが財閥を攻撃対象にしたのは、一種のスケープゴートであった。シナ事変
 の後、彼ら右翼社会主義者たちが政権を取るようになったとき、財閥のみならず、すべ
 ての商業活動が制限されたのを見れば、わかるであろう。そして、自由な商業活動がな
 くなってしまえば、戦争を止めるものはだれもいなくなるのである。
・日本では、戦前の財閥は悪の象徴のごとく言われるが、それは間違った理解なのだ。な
 ぜならば、世界中の国を相手に商売をやろうと思えば、その前提となるのは平和である。
 友好的な外交関係がなければ、自由貿易は成り立たないのだ。だから、もし戦前の日本
 において、財閥などの起業家たちの意見が通るような状況があれば、それは戦争を回避
 する方向に向かったはずである。
・政党政治で、支持者から献金を得るのは当然のことである。政治家たちが財閥から政治
 献金を得ているのは事実だろうが、だからと言って、それを腐敗と攻撃するのは民主主
 義が何かも分かっていない証拠である。
・すべての成人男子に参政権を与えるのは、確かに素晴らしいことである。しかし、それ
 は必然的に選挙のコストを押し上げるのだ。なぜなら、選挙民が一挙に増えたというこ
 とは同時に、支持政党のない、またプライドもない、政治に無関心な人たちまでて一票
 を持つということである。そのような人たちの票を集めようと思えば、これは大規模な
 キャンペーンを行なわなければならなくなる。あるいは買収や饗応で、票買いをすると
 いうことになる。政治政党政治家たちが、企業からの大口献金に頼らざるをえなくなっ
 たのは当然のことであろう。つまり、普通選挙の実施が企業献金を生み出したのである。
・右翼社会主義者たちは、選挙の実態にはまったく触れず、企業献金だけを非難して、
 「政党は腐敗している」と言うのである。一見すると、まともな意見にも思えるかもし
 れないが、それがいかに危険なものかは、この後、右翼社会主義者たちがやったことを
 見れば、よくわかるであろう。
・”クリーン”軍人の代表として首相に就任した東条英機が、「汚職を追放する」と称して
 行ったのは、翼賛選挙であった。これは何かといえば、「政治献金をもらうから、汚職
 が起こるのだ」ということで、推薦を受けた立候補者には選挙資金を交付するというこ
 とになったのである。じつは、その選挙資金はすべて陸軍の機密資金からばらまかれた
 ものであった。これは当時の周知の事実で、この陸軍の機密資金(臨時軍事費)で当選
 した議員は、”臨軍代議士”と呼ばれた。つまり、この選挙で当選した人は、すべて陸軍
 と”癒着”した議員なのである。民間からいっさいカネをもらっていないのだから、選挙
 民や財閥などの顔色を気にする必要はない。その代わりに、「陸軍の言うことなら何で
 も聞く」という議員が大量に誕生した。もはや、こうなってしまえば、議会制民主主義
 は消滅したも同然である。
・実際、この翼賛選挙のの一年半前の昭和十五年には、近衛首相を総裁とする大政翼賛会
 が発足し、すべての政治団体は解党し、日本に政党はなくなっていた。つまり、大戦中
 の帝国議会は、臨軍代議士381人と、そうでない代議士85人から成っていたのであ
 る。
・これは日本ばかりの話ではない。あらゆる社会主義国の選挙は、基本的に翼賛選挙と同
 じである。確かに、個人的な汚職はないかもしれない。だが、そこには議員と政府とが
 ”癒着”するという、言ってみれば組織的な汚職が起こっているのである。
・皇道派と統制派に分かれて対立していたわけだが、この両者のうち、結局生き残ったの
 は、統制派のほうであった。というのも、若手将校を中心とする皇道派が二・二六事件
 を起こして自滅してしまったからである。
・これは対立する統制派にとってはチャンスであった。陸軍内の皇道派は勢力を失い、統
 制派が陸軍の主導権を握ったのである。そしてこれ以後、日本全体も統制派に動かされ
 ることになった。
・すでに陸軍は彼らの思うがままに動くわけだし、政府も議会も二・二六事件以来、テロ
 を恐れて、まったく軍の意向に逆らえなくなった。さらに、このころには統帥権干犯問
 題によって首相も内閣もない明治憲法の欠陥が露呈していたので、「憲法上」、政府は
 軍に干渉できないことになっていた。だから、一部の政治家が抵抗したところで、軍の
 意志を止めることは不可能な状況だったのである。
・このような軍の台頭の呼応する形で、社会主義に傾斜していったのが官僚てちであった。
 官僚の仕事は、自由経済であればあるほど少なくなり、統制色が強まるほど増えていく。
 大恐慌前の日本の経済政策の基本は言うまでもなく自由主義であり、国家は財閥の活動
 を奨励こそすれ、それを統制しようとはしなかった。必然的に、役人の出番は少なかっ
 たのである。 
・それが、大恐慌になってから、役人たちは「今こそ、われらの出番ではないか」と考え
 るようになった。日本国中に失業者が満ち、景気が悪くなる様子を見て、官僚も軍人と
 同じく「もはや政治家に任せてはおけない」と思ったのである。
・しかも、高級官僚たちは、みな帝国大学卒業のエリートであるから、雑多な学歴の政治
 家に対する蔑視あるいは嫌悪感もあった。つまり、「われわれのほうが、ずっと頭がい
 いのに、なんで政治家ごときの言うことを聞かねばならないのか」という反感である。
・彼らは、”天皇の官僚”と自称した。軍部が”天皇の軍隊”と言うなら、自分たちも天皇に
 直結して、政治家から独立して行動できるというのが、その理屈である。彼らは軍部と
 結託し、日本の政治改革を行なおうとした。
・特にその中でも積極的だったのが内務省である。内務省は選挙粛正運動、つまり選挙の
 ”腐敗”を防ぐという名目で、政党政治家たちを徹底的にマークし、選挙違反で摘発して、
 政党政治の力を削ごうとした。
・そして、この新官僚の次に登場したのが、革新官僚という連中である。「議会や政府と
 いう邪魔者はいなくなった。今度は日本全体を統制国家にしよう」というのが、彼らの
 狙いである。戦時体制を推進する軍部と一緒になって、彼らはナチスばりの全体主義国
 家を作ろうとしはじめた。  
・こうした革新官僚の台頭を最も象徴するのが、昭和十二年に創設された「企画院」であ
 る。これは、シナ事変に対応するため、戦時統制経済のあらゆる基本計画を一手に作り
 上げるという目的で作られたものである。言ってみれば、「経済版の参謀本部」で、そ
 の権限はあらゆる経済分野をカバーした。この企画院の産みの親となったのが、当時の
 近衛文麿首相であった。
・とは言っても、近衛は「右翼の社会主義なら、いいだろう」と思って、企画院を設立し
 たのではない。彼は、革新官僚たちの主張することが、社会主義とまったく同じだとい
 うことに、はじめは気付いていなかったのだ。それが断言できるのは、終戦直前になっ
 て近衛が「右翼も左翼も同じだったことに、ようやく気付いた」と告白しているからで
 ある。 
・企画院によって生み出されたのが、「国家総動員体制」であった。これは、日本に存在
 するすべての資源と人間を、国家の命令ひとつで自由に動かせるということであり、ま
 さに統制経済が行き着くところまで行ったという観がある
・国家総動員体制によって、日本は完全に右翼社会主義の国家となったわけだ。敗戦によ
 って、全体主義の軍人たちはいなくなった。しかし、官僚とその組織がなくならなかっ
 た。官僚というのは、政治体制が変わっても、その影響をほとんど受けない集団である。
 GHQは官僚組織の上層部にいた連中は飛ばすことはできても、その下にいる人々はク
 ビにできなかったし、統制的な法律も残した。それで敗戦後も日本は統制経済が続くこ
 とになった。

かくして昭和史は甦る
・昭和初期において、もっとも危機感を募らせたのは、満州にいた日本陸軍、すなわち関
 東軍の将校たちであった。彼らは満州北方で、直接、ソ連軍と対峙していたし、また、
 満州内部では蒋介石や張作霖といったシナ軍が、いたるところで反日的行動を行なって
 いて、日本人入植者の生命や財産が常に危険に晒されていた。
・しかるに当時の日本政府は、幣原外相の方針で、徹底した国際協調外交を行なっている。
 それは当時「軟弱外交」と言われたほどで、シナ大陸で日本人居留民の生命が危険に陥
 っても、武力を用いず、話し合いで解決しとうとしたから、関東軍将校は「日本政府は
 頼りにならない」と思うようになった。
・このような事態を打開するために、関東軍は昭和翌年(1931)年、満州事変を起こ
 し、さらに満床国を作った。もちろん、日本政府の方針をまったく無視し、出先で勝手
 なことをやった関東軍将校の行動は、暴走としか言いようがない。この暴走は、陸軍の
 中央でさえ知らなかったところで起きたのだから、事はさらに重大である。
 法の欠陥に起因する。この欠陥に気付いた一部の海軍高官は、昭和五年(1930)の
 ロンドン軍縮会議をきっかけに、いわゆる統帥権干犯問題を起こした。「軍事に関する
 ことを政府が決めるのは、天皇が軍隊を統帥する権利を犯すものである」と騒ぎ立てた
 ことであった。
・こうした議論に対して、軍縮を心配していた陸軍も深い共感を覚えた。そして彼らも憲
 法を盾に「政府の言うことを聞く必要はない」という理由をこしらえたわけだが、それ
 を関東軍はさらに拡大して「政府の言うことも、陸軍中央の言うことも聞く必要はない」
 としたのである。
・陸軍首脳は関東軍の暴走に激怒したが、それは元を質せば、国家全体の指揮系統を乱し
 た彼ら自身の責任なのである。
・東京裁判では、満州事変以後の日本の行動は、すべて侵略戦争と決め付けられたが、こ
 の当時の日本軍の行動は、当時の先進国と呼ばれた国なら、どこでもやっていることで
 ある。それなのに、同じことを日本がやれば侵略で、欧米がやれば侵略ではないという
 理屈が、どうして出来るのであろう。
・そもそも、当時の満州で日本が軍事行動したことについては、国際法上、何の問題もな
 いのである。第一に日露戦争のポーツマス条約において、日本はロシアから南満州にお
 ける権益を譲られている。これは、その当時のシナ政権も承認したことであって、何も
 不法に満州に入っていたわけではない。しかも、満州にいた日本人が、満州事変当時、
 シナ人によって危険な状況にあったのも動かしがたい事実である。
・満州事変を関東軍が起こした目的は、危機的状況を解決するために、シナの軍隊や匪賊
 を満州から排除するということにあった。現地の居留民に危険が及んだ場合、本国政府
 が彼らの安全を守ろうとするのは、今日の世界でも当たり前に行われていることである。
 そして、そのために軍隊が出動するというのは、当時の国際社会で広く認めれらたこと
 であった。 北清事変のとき、北京や天津にいた居留民を守るために、イギリスや日本
 などの連合軍が出動したのも、その一例である。このときの連合軍は清国軍隊と交戦し
 ているわけだが、当時、それを侵略だと言った人はいない。  
・関東軍は満州を制圧したまま、居座ったわけではない。満州地方の安全を維持するため、
 「溥儀」を迎えて満州国を作った。これも当時の国際常識から言えば、非常に穏健な方
 法である。
・そもそも、満州という土地は、本来シナの領土とは言えない。この地方は元々、清国を
 作った満州族(女真族)の故郷であり、シナ本流である漢族が所有権を主張できるよう
 なところではない。しかも、当時の満州は極端に人口密度が少なかった。日本人のみな
 らず、シナ人やモンゴル人が急速に流入していた。
・満州に満州族の本来の皇帝である「溥儀」が来て統治者となるというアイデアは、民族
 自決のみならず、国際紛争を未然に防ぐという上でも、優れたものであった。
・確かの、満州国は、日本の傀儡国家であった。だが、外交権や軍事権を日本が預かった
 ということを非難するのであれば、同様に大英帝国も非難されなければならない。大英
 帝国はオーストラリアやニュージーランドの宗主国ということで、これらの国々の外交
 権や軍事権を長い間、預かっていたではないか。  
・しかも、「溥儀」は無理矢理皇位に就けられたのではない。彼は自らの意志で満州国皇
 帝になったのであり、それを傀儡政権呼ばわりするのは、溥儀の意志をまったく無視し
 ている。かつて溥儀は宣統帝として清国を治めていたが、革命が起きたために退位を余
 儀なくされた。その代わり、退位の条件として、紫禁城内に暮らすことを許され、また、
 生活も保証された。ところが、1924年、国民政府内でクーデターが起こったのをき
 っかけに、彼は紫禁城から追い出されてしまったのである。そのとき、彼が逃げ込んだ
 のは北京の日本公使館であった。
・満州国は確かに傀儡政権ではあったが、溥儀はただのお飾りではない。彼は彼なりに満
 州の地に自民族の国家を作りたかったのである。東京裁判において、溥儀は満州国建国
 の意思は自分になく、日本軍に命じられて否応なく皇帝になったのだと証言した。真っ
 赤な嘘である。そのように証言しないと殺すと脅されたからに違いない(彼は敗戦後、
 ソ連に囚われていた)。
・世界経済の大変動を受けて、当時の日本には失業者が溢れていた。このような人たちを
 救うためには、どこか新天地を求めて、生活が成り立つようにするのが、当時の経済常
 識である。かつて、ヨーロッパにいた多数の失業者が救いを求めて移住したのは、南北
 アメリカ大陸であったように、日本の失業者にも移住先が必要だと考えられた。そこで
 日本に友好的な満州国の出現は、大変な福音に思われた。
・満州国は独立後、目覚ましい発展を遂げた。あっという間にアジア大陸の中で、最も繁
 栄した地域に一変した。これは、いかに満州国を認めない人でも、否定できない事実で
 ある。治安も多いに改善されたので、満州には日本やコリアのみならず、シナ本土や蒙
 古からもどんどん移民が入ってきた。
・満州国のスローガンは、”五族協和”、つまり満州民族、漢民族、蒙古民族、朝鮮民族、
 日本民族が共存共栄するというものであった。移民音実態を見る限り、この理念はみご
 とに実現しつつあったと言わざるをえない。
・しかも満州の繁栄は、日本をも凌ぐところがあった。たとえば南満州鉄道(満鉄)は世
 界全体を見渡しても、これほど近代的にな鉄道はなかったであろう。高速列車が作られ、
 その運行も整然としていた。
・「統帥権問題」が明らかになってからというもの、軍の中には”下剋上”の雰囲気が急に
 強まった。つまり、大儀のためなら、上官の言うことに逆らってもいいという感じが若
 手将校の中に広がったのである。それはそうであろう。上層部が公然と政府に対して、
 統帥権の独立という”下剋上”をやっているのだ。
・満州事変は、そのような”下剋上”の雰囲気が生み出したものであったが、この暴走に対
 して、政府も軍首脳も、きちんとした形で彼らを処罰することができなかった。統帥権
 の問題があるから、政府は強い態度に出られない。また、軍の首脳も、自分自身が”下
 剋上”をしているという弱みがあるから、何も言えないのである。
・五・一五事件が満州事変の翌年(昭和七年)に起きたのは、けっして偶然ではない。彼
 らは「憂国の心があれば、首相を凝らしてもいいのだ」という理屈で、この事件を起こ
 した。まさに”下剋上”である。このときも、軍は首謀者たちを極刑にすることができ
 なかった。そして、この五・一五事件に味をしめて行われたのが、二・二六事件であっ
 た。   
・このときは、確かに首謀者や実行犯たちが、多数死刑になった。しかし、それは”下剋
 上”が否定されたからではない。もはや軍にとって、”下剋上”が必要なくなったからに
 すぎない。なぜなら、二・二六事件で反乱軍が首都を占拠し、政府高官が暗殺されるの
 を見て、日本人は挙げて震えあがった。軍の意向に逆らっては、命が危ないのが誰の目
 にも明らかになったのである。
・昭和十二年(1937)に始まるシナ事変(日華事変)は、こうした状況の中で起こっ
 たことである。政府をまったく無視しで、日本軍がシナ大陸で戦争を始め、誰もそれを
 止められなくなったというのは、まことに遺憾な出来事であった。明治憲法の欠陥が、
 ついに日本を戦争に引きずり込んだのである。
・だが、このシナ事変の発端が、出先の日本軍が仕組んだ”侵略”であったかといえば、こ
 れは違う。それはシナ事変の発端となった盧溝橋事件についても同じである。
・盧溝橋にいた日本軍には武力衝突を起こそうという姿勢はまったくない。さらに、盧溝
 橋事件については、戦後になって重大な事実が明らかになってきた。それは、この事件
 が中国共産党の仕組んだワナであったということである。つまり、日本軍と国民政府軍
 の衝突を意図的に作り出し、両勢力を弱めて「漁夫の利」を得ようとしたのだ。日本軍
 は盧溝橋事件に「巻き込まれた」のである。
・最も象徴的な出来事が「通州事件」である。この恐るべき虐殺事件は、盧溝橋事件の約
 三週間後に起こった。この通州事件については、戦後、ほとんど語られなくなった。な
 ぜなら、この事件のことを言い出すと、「中国は善玉、日本は悪玉」という構図が崩壊
 してしまうからである。
・昭和十二年(1937)7月、北京の東方に会った通州、シナ人の保安隊による大規模
 な日本人虐殺事件が起こった。殺されたのは、通州の日本軍守備隊、日本人居留民(多
 数のコリア人も含む)の約260名であり、中国兵は婦女子に至るまで、およそ人間と
 は思えぬような方法で日本人を惨殺した。あまりに残虐な内容であるけれども、目撃者
 による宣誓口述書の一部を引用する。
 「守備隊の東門を出ると、数間ごとに居留民男女の死体が横たわっていた。某飯食店で
  は、一家ことごとく首と両手を切断され、婦人は十四、五歳以上は全部強姦されてい
  た。旭軒という飲食店に入ると、七、八名の女が全部裸体にされ、強姦射刺殺され、
  陰部に箒を押し込んである者、口中に砂を入れてある者、腹部を縦に断ち割ってある
  者など見るに堪えなかった。東門の近くの池では、首を電線で縛り、両手を合わせて、
  それに八番線を通し、一家六名数珠つなぎにして引き廻した形跡歴然たる死体が浮か
  んで居り、池の水は真っ赤になっていた。夜半まで生存者の収容にあたり、「日本人
  はいないか」と叫んで各戸をごとに調査すると、鼻に牛の如く針金を通された子供、
  片腕を切られて老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦などが、そこそこの塵箱に中やら塀
  の陰から出て来た」
・盧溝橋事件は、まったく軍同士の衝突であり、それは現地で解決を見た。ところが、こ
 の通州事件は明白な国際法違反であるし、その殺し方はまったく狂気としか言いようが
 ない。当時の日本人の反シナ感情は、この事件を抜きにして理解することはできないの
 である。 
・では、一体、彼らは何のために、このような虐殺を行なったのか。これについては、戦
 後、通州事件のことをタブーにする風潮があったために、まだ細部は明確になっていな
 い。東京裁判でこの事件が話題になったとき、「あの事件は、そもそも日本軍が通州の
 保安隊施設を誤爆したからだ」と言い立てたが、これはまったくの嘘である。
・関東軍の爆撃機が、国民政府軍の兵営を爆撃するつもりで、その隣にあった通州の保安
 部隊の施設を誤爆した。この結果、数名の保安隊員が死亡した。だが、この誤爆事件は、
 ただちに関東軍の責任者が高官を訪問して陳謝したので、一件落着となった。関東軍は、
 遺族のところにも足を運んでいるし、また、保安隊にも訪問して、事情を説明して理解
 を求めている。事後処理に手落ちはない。
・それでは、なぜ通州の保安部隊が日本人居留民を襲ったのか。要するに、誤爆事件以前
 から彼らは反日側に寝返って、虐殺をやる気でいたのである。
・通州で虐殺が行われる一方、上海でも日本人の生命に危険が及んでいた。いわゆる第二
 次上海事変であるが、この戦闘は蒋介石軍のほうから始めたものである。これも戦後の
 東京裁判史観では「日本軍が蒋介石軍に対して攻撃をしかけた」ということになってい
 る。しかし、実際に上海にいた日本の軍隊は、居留民を守るための海軍陸戦隊がいただ
 けであり、これに対して、蒋介石軍は上海攻撃のために、正規軍10個師団を配置して、
 日本に圧力をかけた。まさに、これは日本にとって圧倒的に不利な状況で、この一事を
 見ただけでも、日本が”侵略”したというような話でないのは明らかである。
・盧溝橋で始まった日中両軍の衝突は、通州、上海と飛び火していき、全面戦争の様相を
 呈してきた。それらはすべて、国民政府軍が主導権を握った形で進んだから、日本軍が
 「適当なところで、この戦いを収束させたい」と考えるようになったのは当然のことで
 あった。そこで、シナの日本軍が考えたのは、首都・南京を攻略することであった。首
 都を占領してしまえば、さすがに国民政府も和解に応ずるのではないかというのである。
 そこで日本軍は南京に進撃したわけであるが、こともあろうに、これを見た蒋介石ら国
 民政府の首脳部は、20万人近くの市民を置き去りにしたまま、夜間脱出してしまった。
 つまり、日本軍が南京を陥落したときは、この城の中には、責任者と呼べるような人が
 いなかったのである。 
・ところが、このようにして行われた南京攻略戦に対して、敗戦後、突如として「南京大
 虐殺」という言いがかりをなされたのである。何と、この戦いでは日本軍は30万人の
 シナ人を殺したというのだ。この”大虐殺”が最初に言われたのは、言うまでもなく東京
 裁判の法廷であった。東京裁判で主張された「南京大虐殺の真相」なるものは以下のと
 おりである。
 @南京落城直後の数日で、非戦闘員の中国人が少なくとも1万2千人殺害された。
 A占領後、一カ月の間に約2万の強姦事件が起こった。
 B同じく六週間にわたって略奪。放火が続けられ、市内の三分の一が破壊された。
 C降伏した中国兵捕虜3万人以上が殺された。
 D占領後六週間で殺された一般人・捕虜総数は20万から30万人に上る。
・敗戦後、これを聞かされた日本人の多くは、この話を真に受けてしまった。戦時中の大
 本営発表がいかにデタラメであったかは、すでに有名だったから、「こういうことがあ
 っても、おかしくない」と考えたのは無理もない。実は、私もその一人であった。しか
 し、時間が経つにつれて、「南京大虐殺」には不審なことが多すぎるのではないかと思
 うようになった。
・「仮に南京大虐殺が行われたとしたら、なぜ、日本人は戦後になるまでの長い間、誰も
 知らなかったのか」ということである。なぜなら、報道管制が行われるようになったの
 は、もっと後になってからであり、この当時は戦争報道に関しては、ほぼ自由であった
 からだ。それは、南京入城に際して、100人以上の記者やカメラマンが同行している
 ことでも明らかであろう。この記者の中には、外国人ジャーナリスト5名も含まれてい
 る。また、多くの日本人ジャーナリストや作家が、陥落直後の南京を訪れて、見聞記を
 書いている。大矢壮一、西条八十、草野心平、杉山平助、木村毅、石川達三、林芙美子
 といった面名がそれだが、報道管制を敷くぐらいであれば、最初から彼らを入れなかっ
 たはずである。しかも、これらの人々が戦後、「南京虐殺見聞記」という本を書いたと
 か、あるいは大虐殺の証言をしたという事実もない。
・日本の大新聞で「南京大虐殺の証拠写真」なるものが発表されたことがある。しかし、
 これらの写真は、すべてインチキ、あるいは虐殺と何ら関係ないことが分かり、今では
 使われなくなった。    
・南京の面積は東京の世田谷区よりも小さく、鎌倉市と同じくらいである。この狭い地区
 の中で、10万人を超えるシナ人が虐殺されていれば、一人ぐらい「累々と積み上げら
 れた死体を見た」とか、「虐殺の現場を見た」というジャーナリストや文学者たちがい
 てもいいはずである。いや、少なくとも死臭ぐらいは嗅いでいるはずである。ところが、
 彼らは誰もそんなことを報告していないのである。
・仮に南京大虐殺があったとしたら、なぜ、当時の国際社会で問題にならなかったのか、
 ということである。当時の国際社会は、日本軍のシナでの行動に批判的であった。すで
 に、国際連盟からも脱退しているのだ。そのような時期に、南京で民間人を虐殺してい
 れば、これは非難の的になったはずである。当時の南京には多くの欧米人がいる。国民
 政府の首都に住んでいるくらいだから、みな反日的な立場の人である。大通信社や、新
 聞社の特派員たちが多数駐在している。ところが実際には、当時の国際社会で「南京の
 暴虐」ということを正式のルートで非難する声は上がっていない。ニューヨーク・タイ
 ムズやアメリカの地方紙の中には「大虐殺があった」と伝える記事もあるが、その内容
 は逆立ちしても、何十万人というか数になるものではない。便衣隊の処刑を見て、誤解
 したものと推定される。
・私はかつて、アメリカ「タイム」誌の戦前のバックナンバーを全部調べたことがあるが、
 そこには一つとして、日本軍が南京で万単位の虐殺をしたというような話は書かれてい
 ない。 
・日本軍による南京空爆の際、民家に落ちた爆弾があると言って国際連盟に訴えた中国政
 府が、南京大虐殺なるものについて講義していないのはなぜか。さらに、米英仏などの
 国から、公式に日本政府に抗議が寄せられたという事実もない。
・英国の「マンチェスター・ガーディアン」紙の特派員ハロルド・ティンパリーという人
 物が、南京陥落の半年後、「外国人の見た日本軍の暴行」なる本を書いた。この本は事
 実上、唯一の「南京虐殺」の記録ということになっている。ところが問題は、この著者
 が一度も南京に行かずに、この本を書いたということである。
・仮に南京大虐殺があったとしたら、そのような大量虐殺は誰が命じ、いかにして行われ
 たかということである。南京では20万人から30万人のシナ人が殺されたとされてい
 るわけだが、これだけの人間を殺すためには、その場の激情や思い付きでなしえるもの
 ではない。もし世田谷区に満たない広さの地域で20万人以上の人を殺そうとすれば、
 これは事前に入念な準備をして、そのための設備も用意せねばならないはずである。
・それに当時の日本軍には、住民を20万人も殺せるほどの弾丸の余裕などあるはずがな
 い。いや、日本軍に限らず、鉄砲の弾というのは高価なもので、その管理も厳しい。そ
 れをすでに占領している都市の住民を殺すために使用するというのは、”経済的な理由”
 から見ても許されるはずはないのである。
・仮に南京大虐殺があったとしたら、殺された2,30万の人は、いったいどこにいたの
 か、ということである。陥落前後、南京にいた一般市民の数については、いろいろ記録
 はあるが、もっとも信頼できる数は、国際安全委員会の発表によるものであろう。この
 委員会の調査によれば、南京陥落直後の非戦闘員の総数は推定20万人。この委員会は、
 実際に市民の保護に当たっていたわけであるから、これはかなり正確な数字であろう。
 一方、この南京を守備していた軍隊の数は、公文書によると5万人ということである。
 つまり、南京に日本軍が迫る前にいた南京の人口は、多くても25万人というわけであ
 る。
・東京裁判の検事団が言っている虐殺の数字は、南京にいたすべての人間を殺したと言っ
 ているに等しい。 
・ここで重要なのは、陥落から日が経つにつれ、南京の人口が増えているという事実であ
 る。陥落から一か月後に、安全委員会の発表した南京に人口は25万人。すなわち、ひ
 と月で5万人近くも増えているわけである。これは南京に治安が回復したのを見て、そ
 れまで郊外に避難していた人が帰ってきたためである。東京裁判によると、虐殺は数週
 間にわたって続いたというが、それならなぜ、南京に市民が戻ってきているのだろうか。
 これも理解に苦しむところである。
・ある推定によれば、南京で軍規違反によって起きた市民の殺傷は49件、傷害は44名
 であったとされるが、せいぜいこれが「南京大虐殺」の実態ではないか。
・当時の国際法でも捕虜を殺したり、虐待してはならないということになっている。しか
 し、これは武装解除され、正規の手続きを経て収容所に入れられた捕虜に対して当ては
 まることで、投降したからといって、ただちに保護されるということを意味していなか
 った。投降兵と、収容所に入れられた捕虜とは違いのだ。
・その最たる例が、アメリカ軍が日本の投降兵に対して行った措置である。彼らは頭の痛
 い”捕虜問題”を解決するために、投降した人間を捕虜として収容せず、その場で殺して
 しまうという方法を考えついた。
・1927年に、大西洋横断の単独無着陸飛行に史上初めて成功したリンドバークは、第
 二次世界大戦中、空軍の顧問として太平洋各地を回ったのだが、その時の日記の中にし
 ばしば書かれているのは、「アメリカ軍は日本兵を捕虜にしない」ということへの嘆き
 である。「わが海兵隊は、この島の日本軍の降伏をめったに受つけなかった。戦闘は激
 しいもので、わが軍の損失も甚大だった。それゆえ、みな欲するところは、日本兵はす
 べて殺害してしまって、けっして捕虜にせぬ、ということだった。たとえ捕虜として連
 行してきたときでも、彼らを一列に並ばせ、誰か英語を話せるものはいないかを質問し、
 もし話せるものがいたら彼だけをひきぬいて、尋問のために捕虜とした。残りのものは
 捕虜にもしなかった」もちろん、捕虜にされなかった日本兵はみな殺しになったのであ
 る。南の島などで日本軍は玉砕したが、その中には降伏しながら殺された人が多数いた
 のだ。
・しかも、たとえ捕虜になって、収容所に入れられても、その後の扱いが人道的であると
 いう保証も、実際にはなかった。その最たる例が、ソ連に投降した日本人捕虜たちのこ
 とである。ソ連は、日本が無条件降伏しても、捕虜を帰還せしめなかったどころか、シ
 ベリアで強制労働をさせた。また、規模こそ小さいがイギリスも、ソ連と同じように終
 戦後も日本兵を帰還させず、強制労働させていた。イギリスの例もソ連の礼も、明白な
 捕虜虐待、しかも戦争終結後の虐待だから、さらに悪質である。
・これは、ポツダム宣言に対する明確な違反行為である。日本が降伏したのは、連合国が
 ポツダム宣言の条件を誠実に守ることを信じていたからだが、このポツダム宣言の第九
 条には、武装解除後、日本兵をすみやかに故国に帰すことを約束していた。その約束を
 破り、しかも捕虜をシベリアの荒野で非人道的に扱っておきながら、連合国は東京裁判
 で「日本軍は捕虜虐待をした」として、関係者も処刑した。「勝てば官軍」とはよく言
 ったものである。 
・オーストラリアは日本に一方的に宣戦布告をしながら、戦争中の捕虜虐待を最も声高に
 言う国である。しかし、昭和十九年(1944)8月、オーストラリアのカウラ市内に
 あった捕虜収容所から日本兵が脱走を企てたとき、オーストラリア兵は無差別に砲火を
 を浴びせ、実に234人を射殺し、108人に重軽傷を負わせていたのである。
・南京において日本軍が捕虜を殺したと言われるが、それは捕虜収容所に入れられる前の
 投降兵であり、連行中の不穏な動きに対する対応であり、充分理解できる。ところが、
 東京裁判において連合国は、自分たちの行為を棚に上げて、日本軍を裁いた。これは、
 どう見ても、フェアではないし、むしろ彼らのほうが悪質なことをやっていたのである。
・「南京大虐殺」という”煙”が生み出された”種火”とは、便衣隊の存在である。この便衣
 隊を日本軍が処刑した事実がねじ曲げられ、あるいは誤解されて「一般人に対する虐殺」
 という話になった。シナ大陸における戦争において、日本軍が最初から最後まで悩まさ
 れたのが便衣隊であった。これは、いわゆるゲリラ兵である。軍服を着用せず、一般人
 のなりをして、日本の兵士や居留民を襲うのだ。
・ベトナム戦争の映画を見れば、ただちに分かるだろうが、戦場においてゲリラから狙わ
 れるほど恐ろしいものはない。ようやく制圧したと思って、村や町に入ると、建物の陰
 から鉄砲の弾が飛んで来る。敵兵かと思って探しても、そこには善良そうな顔をした人
 々だけ・・・。あるいは、かわいい少年少女だと思って油断していると、とつぜん懐か
 ら拳銃が出てきて、撃ち殺されたり、爆弾を投げられたりする。このようなことが繰り
 返されると、たちまち兵士は神経がおかしくなる。周囲にいる人がすべてゲリラに思え、
 あらゆる物陰に敵が潜んでいると思い込むようになるのだ。
・しかも、ゲリラ戦はそれをやったほうの国民も不幸にする。それは、相手国の軍隊にし
 てみれば、誰が敵か敵でないかの区別ができないから、少しでも疑いがあれば、殺すし
 かないのである。ベトナム戦争でもソンミ村の事件が起こったが、ゲリラ戦を始めると、
 無辜の市民にまで犠牲が及ぶことになるのである。
・南京において犠牲者と呼ばれる人たちの多くは、この便衣隊であり、そうした活動を命
 じた蒋介石の責任は重い。便衣隊は捕虜になる資格がないのである。
・平成六年八月に村山富市首相と土井たか子衆議院議長がシンガポールを含む東南アジア
 地域を訪問した。いわゆる”謝罪外交”のためであったのは言うまでもないが、ここで見
 逃せないのは、彼らがシンガポールの「血債の塔」という慰霊碑に献花をしたという事
 実である。というのも、この慰霊碑が祀っているのは、占領中に日本軍に殺された華僑
 たちであるからだ。村山首相や土井議長は、この慰霊碑に祀られている人々の多くがゲ
 リラであったことを、ちゃんと認識していだのだろうか。おそらく、知らなかったであ
 ろう。身内を殺されたことをいまだに恨んでいる華僑系マスコミと、それを取り次ぐ日
 本の反日的マスコミに影響されて、「謝罪するのは悪いことではない」というぐらいの
 考えで、献花したのではないだろうか。死者の冥福を祈るために、献花することは構わ
 ない。だが、この人たちの死について謝罪したことは、二重の意味で犯罪的行為である。
 それは、敵味方双方を不幸にするゲリラ戦を肯定することであり、さらには華僑のゲリ
 ラと戦って死んでいった日本人兵士への侮辱である。謝罪したのは無知から出たことで
 あったにしても、彼らの無知の深さは、国政の責任者として、ほとんど国賊的である。
・南京において、陥落間近と悟った中国兵がやったのは、軍服を捨て、平服に着替えて
 ”便衣隊”、つまりゲリラになることであった。彼らの多くは、南京市内に安全区に逃げ
 込んで、隙あらば日本兵を襲おうとしたのだ。ただちに、”便衣隊狩り”が行われること
 になったのは言うまでもない。南京の日本軍も、当然、ハーグ陸戦規定を知っているか
 ら便衣隊には容赦しなかった。実際、これによって多数の便衣隊を狩り出し、処刑した
 のである。ところが、これが東京裁判では、「一般人に対する暴行「という話になった
 のである。
・そもそも蒋介石は南京を死守すべきではなかった。首都・南京を舞台に、攻防戦をやる
 ことにした蒋介石の判断は、”愚策”と言われてもしかたがないことである。正常は判断
 力を持った指導者なら、首都攻防戦などはやらない。さっさとオープン・シティにして
 しまう。というのも、首都攻防戦は、一般市民の生命や財産を巻き添えにするからであ
 る。市民のことを考える指導者であれば、首都攻防などという悲惨な道は選ばないので
 ある。ところが、蒋介石は南京をオープン・シティにしなかった。それはすなわち、
 「市民何人死んでも、町がどれだけ破壊されようと構わない」ということに外ならない
 のである。しかも、彼は戦闘が始まる前に、さっさと脱出してしまった。彼は、南京の
 町と市民を文字どおり「捨て石」にしたのである。これもまた正真正銘の事実である。
・そのため、南京に残ったシナ兵たちは秩序ある降伏ができなくなった。これも事実であ
 る。ところが、戦後50年間、日本のマスコミ人や歴史家たちは、蒋介石たちの責任に
 は一言も触れず、南京大虐殺などという、ありもしないことを証明しようと躍起になっ
 てきたのである。  
・結局のところ、東京裁判で突如として「南京大虐殺」の話が出てきたのは、日本も残虐
 行為を行なったという事実を連合国が欲していたからとしか思えない。東京裁判はまっ
 たく非文明的な裁判であった。そもそも、国際法上、まったく根拠のない裁判であり、
 しかも勝者が検事と裁判官を兼ねるという裁判であった。これは、裁判の形式を借りた
 ”復讐の儀式”にすぎないのである。
・本当に残虐であったのは、日本と連合国のどちらであっただろう。アメリカは原爆を広
 島と長崎に落とした。前者はウラニウム原爆、後者はプルトニウム爆弾であり、二度も
 落としたのは、実験のためであったろうとも言われている。広島では20万人以上の人
 が死に、長崎では7万人以上の人が死んだ。これらの人々のほとんどは、民間人である。
 もちろんアメリカは、原爆を落とせば、主として一般人が被害に遭うことを分かってや
 ったのである。 
・アメリカは、日本が降伏寸前であることも知っていた。遠からず日本が白旗を揚げるの
 を知っていながら、あえて原爆を落としたのは、一体、何のためであろう。これは、ま
 さに虐殺のための虐殺に外ならないではないか。
・また、アメリカ軍は日本の各都市を無差別爆撃した。昭和二十年(1945)三月十日
 の東京大空襲だけでも8万以上の一般人が殺された。これもまた、民間人の大量虐殺で
 はないか。 
・しかもニュールンベルク裁判では、ナチス党員だけが裁かれたのに、東京裁判において
 は日本民族すべてが裁かれたのだ。
・最近の研究によると、ABCD包囲陣を画策したのは、どうやらイギリスのチャーチル
 首相であったようである。チャーチルが考えたのは、「イギリスを救うためには、この
 戦争にアメリカを引きずりこむしかない」というこであった。だが、当時のアメリカは、
 とうてい参戦する見込みがない。というのも「第一次大戦のとき、連合国の一員として
 参戦したけれども、結局は、何の見返りもなかったではないか。もうヨーロッパの戦争
 など、ごめんだ」という声が、国民の間で圧倒的であったからだ。
・放っておいても日米戦争が起こるわけではないし、アメリカが日本に宣戦布告するとい
 うこともありえない。あるとすれば、日本がアメリカに戦争をしかけるということしか
 ない。そこでチャーチルは、アメリカやシナを説得して、ABCD包囲陣を作ったので
 ある。 
・戦略物資、中でも石油がなくなれば、日本は”何か”を始めるはずだと読んだチャーチ
 ルの計算は正しかった。1941年12月8日、ついに日本は真珠湾攻撃を行なう。日
 米開戦であった。  
・何も日本が好戦的だったり、侵略的だったから戦争を始めたのではない。むしろ、海軍
 などはギリギリまでアメリカと戦争はしたくなかったのである。
・事実、ただでさえ世界経済がブロック化しているところに、石油まで入ってこなくなっ
 ては、戦争を始めるしか選択肢は残されていなかったのである。むろん、このような状
 態に追い詰められるようになった原因の一つは、軍の暴走を政府が押さえられないとい
 う憲法上の欠陥にあるわけだが、それでも、東京裁判が言うような「戦争遂行の共同謀
 議」というような事実は、どこにもないのである。
・それなのに今日では日本のイメージが悪いのは、やはり真珠湾攻撃が”スニーク・アタッ
 ク(こっそり忍び足で近づいてやる、卑怯な攻撃)となったしまったことが、最も大き
 いであろう。日本が真珠湾を奇襲攻撃したというニュースは、それまで戦争に消極的だ
 ったアメリカ世論をいっぺに変えてしまった。日本を叩き潰すことが一夜にして、アメ
 リカ人の”正義”になってのである。
・しかし、現実には日本はまったく奇襲攻撃をするつもりなどなかったからだ。政府も連
 合艦隊も、ちゃんと開戦の通告をやってから、真珠湾に最初の一発を落とそうと思って
 いたのである。   
・ところが、これは予定どおりに行われなかった。それは、すべてワシントンの日本大使
 館員の怠慢に由来する。
・真珠湾攻撃に当たって、海軍軍令部総長の長野修身は宮中に参内し、昭和天皇に「戦争
 はすべて堂々とやって、どこからも非難を受けぬように注意いたします」と奏上した。
 また、連合艦隊をハワイ沖に送り出すに当たって、山本五十六長官は「くれぐれも騙し
 討ちにならぬよう」と念を押したという。
・このときの日本政府の計画では、開戦30分前にはアメリカ国務省のハル長官に国交断
 絶の通告を渡すことになっていたようである。
・「たった30分前では、奇襲と同じではないか」という議論は成り立たない。というの
 も、この当時は、すでに開戦前夜のような状況が続いていた。また、アメリカ側の事実
 上の最後通牒ともいうべき「ハル・ノート」が日本に渡されている。このような状況で
 あるから、アメリカ側も「いつ日本は宣戦布告を出してくるのか」と待っていたのであ
 る。だから、日本が開戦の30分前に断交通告を出してきても、彼らは驚かなかったは
 ずである。もちろん、完全に合法的である。
・ところが、この予定は大幅に遅れ、実際には真珠湾攻撃から55分も経ってから、日本
 の野村・来栖両大使がハル長官に通告書を渡すということになったのである。戦後、長
 い間「大使館員の不慣れなタイプのために、予定が遅れたのだ」とされてきた。これは、
 当時の関係者が東京裁判でそのように証言したからであったが、真実はまったく違うの
 である。
・開戦前日の午前中、外務省は野村大使に向けて、パイロット・メッセージ(予告電報)
 を送った。「これから長文の外交文書を送る。それを後にあらためて通知する時刻にア
 メリカ側に手渡せるよう、万端の準備をしておくように」という内容である。
・当時はすでに開戦前夜のごとき状況である。日米交渉の当事者であるワシントンの外交
 官たちは、そのこをを充分知っていたはずである。ところが、いったい何を血迷ったの
 か、この日本大使館の連中は一人残さず、夜になったら引き上げてしまったのである。
 すでに予告電報は届いているというのに、彼らは一人の当直も置かずに帰ってしまった。
 というのも、この日の夜(土曜日であった)、同僚の送別会が行われることになってい
 たのだ。彼らは、送別会を予告電報の重大性よりも優先させたのである。
・運命の十二月七日、朝九時に海軍武官が大使館に出勤してみると、大使館の玄関には電
 報の束が突っ込まれていたという。外務省が予告していた、例の重大文書である。これ
 を見た武官が、「何か大事な電報ではないか」と、大使館員に連絡したので、ようやく
 担当者が飛んできたというから、何と情けないことか。同じ日本人として痛憤に耐えな
 い。 
・慌てて電報を解読して見ると、まさに内容は断交の通告である。しかも、この文書を現
 地時間の午後一時にアメリカに手渡せと書いてある。大使館員が震え上がったのは言う
 までもない。ところが、その緊張のせいか、電文をタイプで清書しようと思っても間違
 いの連続で、いっこうにはかどらない。
・そこで、彼らがやったことは最悪の判断であった。ハル長官に電話して、「午後一時の
 約束を、もう一時間延ばしていただけないか」と頼んだのだ。
・要するに彼らはエリートかもしれないが、機転が効かないのだ。「外交文書はタイプで
 清書しなければならない」という国際法など、どこにもない。タイプが間に合わなけれ
 ば、手書きのまま持っていって、とにかく指定された午後一時に「これは断交の通知で
 す」と言って渡すべきだったのだ。
・現に、ハル長官は戦後出版した回想録の中で、次のように書いているのだ。
 「日本政府が午後一時に私に会うように訓令したのは、真珠湾攻撃の数分前に通告を私
 に手渡すつもりだったのだ。日本大使館は解読に手間取ってまごまごしていた。だが野
 村は、この指定の時刻の重要性を知っていたのだから、たとえ通告の最初の数行しかで
 きあがっていないにしても、あとは出来次第持ってくるように大使館員にまかせて、正
 一時に私に会いに来るべきだった」
・開戦のとき、一緒に送別会をやって大失敗をやらかしたワシントン駐在の外交官たちは、
 「あの晩のことは、一生涯、誰も口にしない」という暗黙の掟ができあがったと見える。
 その誓いは守られた。このとき、ワシントンの大使館にいた人は、みな偉くなった。
・もし、彼らがこのとき責任を感じて、ただちに辞表を提出し、その理由を世界に明らか
 にしておけば、「スニーク・アタック」という誤解が、これほどまでに広がることはな
 かった。そうすれば、この戦争も、もっと早期に終わったかもしれない。
・アメリカにしても、もともとは広島・長崎に原爆を落とすところまで、対日戦争に深入
 りする気はなかったはずである。彼らにしても、ある程度、日本を叩いたら、さっさと
 有利な条件で講和をしたほうが得策だったはずである。
・硫黄島の戦いでアメリカ軍は、それこそ島の形が変わるほど大量の砲弾を撃ち込んだわ
 けだが、それにもかかわらず、多数の犠牲者を出した。このとき、日本兵2万1千人を
 やっつけるために、アメリカ軍は3倍の兵力を投入した。これは軍事の常識から言えば、
 まさに万全の態勢と言っていい。ところが、いざ蓋を開けてみると、アメリカ軍の死傷
 者は何と3万人近くにも上ったのである。彼らからしてみれば「こんな割に合わない戦
 争はない」といった感じであろう。この戦争が真珠湾攻撃で始まったことは、アメリカ
 の選択肢をも狭めたのである。
・戦前の日米交渉のことを考えてみると、アメリカと談判決裂となったのは、当然のこと
 と言わぜるをえない。というのも、日本側が交渉相手として話しているのは、ルーズベ
 ルート大統領やハル国務長官だからである。われわれ日本人の感覚からすれば、大統領
 や長官が政治を動かしていると思いがちである。実際、日本なら首相や大臣が納得すれ
 ば、それで問題ない。だが、アメリカの場合、いくら政治家を説得しようとしても、彼
 らが意見を変えるわけがないのである。今にしてみれば、日本の外交官たちが直接、ア
 メリカ国民に語りかけていたら、戦争を避ける道は充分にあったと思う。というのも、
 このときのルーズベルト大統領は「在任中に戦争を始めない」という公約で選ばれた人
 である。これはつまり、アメリカ国民の総意として、どことも戦争をしないということ
 になっていたのだ。アメリカのおいては公約は重い。政治家が勝手に公約を破ることは
 許されない。 
・そこで、彼は国民には「日米間の和解の道を探る」と称して、実際には日本を追い詰め
 ていくという複雑な戦略を採った。つまり、最初は日本に対して融和姿勢を見せながら、
 最後にハル・ノートという事実上の宣戦布告を突きつけることで、日本から戦争を起こ
 させるということにしたのである。
・ハル・ノートが送られてきたときに記者会見をやればよかったのである。東京でやって
 もいいし、ワシントンでやってもいい。とにかく、アメリカの新聞記者を一堂に集めて、
 次のようなことを話せはよかったのだ。
 「ご存じのとおり、これまで日米間で現状打開の道を探ってきたわけだが、先日、かく
 のごとき無理な要求を満載したハル・ノートが、アメリカから突然、突きつけられた。
 これは実質的な国交断絶の書であって、日本としては遺憾きわまりない。アメリカ国民
 にぜひ分かってもらいたいが、日本は太平洋の平和を心から願っているし、妥協点を見
 つけたいと考えている」
・もし、日本がこのように言っていれば、アメリカ国民はルーズベルトに対する監視を強
 めたであろう。そうなれば彼とても、いたずらに日米間の緊張を高め、日本を開戦に追
 い込むようなことはできなかったはずである。
・これに対して、シナの国民政府は、まことに巧みにアメリカ世論を誘導している。シナ
 の代表的指導者である蒋介石がプロテスタントの洗礼を受けたと聞けば、アメリカ中の
 信者はみな彼のことに親近感を覚える。しかも、彼の妻である宋美鈴は、九歳からアメ
 リカに留学して、名門女子大を卒業した女性である。彼は宋美鈴をアメリカに派遣し、
 各地で「日本の悪行」を涙ながらに訴えさせた。九歳でアメリカに渡り、アメリカの教
 会で洗礼を受けた、可憐な東洋女性が流暢な英語を駆使し、泣いて訴えているのを見れ
 ば、たいていのアメリカ人はシナに同情し、日本の憎むようになる。
・当時の日本のエリート外交官たちは、ワシントンの政府高官を相手に活動していればよ
 いと信じていた。エリート同士で話し合えば、日米関係は変わると思っていた。だが、
 宋美鈴が涙ながらに全米各地で講演をしていた時点で、日本外交の敗北は決まっていた
 のである。 
 
人種差別の世界を叩き潰した日本
・今日、マスコミなどでは、アメリカなど連合国との戦争を「太平洋戦争」と呼んでいる
 が、当時、日本人はそれを「大東亜戦争」と言っていた。日本は何も太平洋だけで戦っ
 たのではなく、シナ大陸や東南アジアにおいても戦ったわけだから、「太平洋戦争」と
 いう言い方は事実を伝えていない。「太平洋戦争」という名称は戦後、GHQが言論規
 制を行なった結果、使われるようになったものだ。
・なぜ、「大東亜戦争」という名称が用いられたかといえば、これは国際経済のブロック
 化やABCD包囲陣によって、日本の存続が危機に晒されていたことに由来する。どの
 国からも輸入もできないのであれば、日本は日本なりの生き残り戦術を行なうしかない。
 そこで「大東亜共栄圏」というアイデアが作られた。これは、東アジア全体を欧米の支
 配から切り離してもやっていける経済圏にするという意味であった。このような事情で
 あるから、この間の戦争は侵略というよりも、むしろ自衛のための戦いと言ったほうが、
 現実を反映している。
・しかも、東南アジアにおいて、日本はそこの人々に対して、”侵略”したわけではなく、
 白人に支配されている状況から解放しようとした。その意味では、白人支配からの解放
 戦争でもあった。実際に、戦時中に独立まで達成できたのは、フィリピンとビルマ(現
 ・ミャンマー)だけであったが、その他の地域についても、民族自決の国家を作ろうと
 したのは明確なことである。それは、軍事力を用いた解放であったが、当時、東南アジ
 アの植民地を解放しようと思えば、それ以外に方法はなかったのである。
・そのことは、敗戦後、日本の捕虜をインドネシアの兵隊がまことに大切に扱ってくれた
 ことや、東南アジアで戦った今村均将軍が敗戦後、シャワ島に連行されたとき、現地の
 人々が「独立の歌」を歌って歓迎してくれたことでも分かるであろう。
・これに対して日本が負けたとき、連合国はいったい東南アジアに何をやったのか。イギ
 リスもオランダもフランスも日本が解放した地域を、軍事力を用いて再び植民地にしよ
 うとした。  
・だが、白人たちの支配は長くは続かなかった。東南アジアに進出した日本は、現地の独
 立運動を支援した。そのときの民族主義者たちが、再び戻ってきた白人たちに対して頑
 強な抵抗を示したからである。そうして東南アジアは続々と独立を実現し、植民地はま
 ったく消え失せた。
・日本はアジアを白人植民地から解放するための戦争をしたとか、資源が欲しいから侵略
 したとかいう、動機論に入る必要はない。結果論で充分である。結果として、全アジア、
 そして全世界が独立し、その波はアメリカの黒人の市民権獲得運動にまでおよんだ。こ
 れは厳然たる結果である。
・社会主義がもたらす、最も深刻な害悪は「文化が生まれない」ということである。それ
 は、社会主義国家のことを見れば、ただちに理解できるであろう。共産主義のソ連は何
 を生み出したのか。私有財産を廃止し、金持ちを潰し、すべてのカネを国家が使うよう
 にした結果、ロシア人からは世界に通用する文学も絵画も生まれなくなった。ソ連が、
 70年間の支配の時代に作ったものは、武器と収容所ぐらいではないのか。広大な土地
 と資源があっても市民はろくな住宅も与えられなかった。「個人ではなく、政府がカネ
 を使えば、文化は育たない」ということは、もはやだれの目にも明らかである、これ以
 上、日本も社会主義的政策をやる必要はない。
・確かに、民間人はカネを無駄遣いするかもしれない。しかし、政府が無駄遣いしても何
 も生み出さないが、民間が無駄遣いしれば、そこには少なくとも消費文化が生まれるの
 である。 
・現代の日本を見れば、これは世界有数の酷税の国である。普通、これだけ生活水準も高
 く、治安もいい国であれば、パリやニューヨークのように世界中から才能ある人が東京
 に集まってもおかしくない。東京が世界の文化発信基地になっていても、不思議はない。
 ところが、一向にそうならないのは、なぜか。日本で働いても税金でほとんど吸い上げ
 られてしまうのを、みんな知っているからである。一刻も早く、このような状況を変え
 なければならない。そのためには、今のような、社会主義的な「資産の再配分」という
 考えを捨てて、税体系を根底から変える必要がある。
・そこで私がかねてから主張しているのは、現行の累進課税方式を廃止し、一律10%の
 所得税にするということである。そうすれば、日本に世界中から才能ある人が集まって
 くるであろう。