空気の研究 :山本七平

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「その場の空気で」ということは、よく言われることである。しかし、この「空気」とい
うのは一体何なのか。目に見えない圧力。同調圧力とでも言えばいいのだろうか。他の違
うことはしたくない。他から浮きたくないという気持ちが、そういう同調圧力を生むのだ
ろう。
日本社会では、小さい子供の頃から、周囲と協調することを躾けられてくる。他の人とあ
まり違うことをしてはならない。そういう意識が、昔からずっと引き継がれてきたと言え
るだろう。日本では、自分の所属する組織や集団に協調することが一番優先されてきた。
組織や集団から外されることを「村八分にされる」ということで、一番恐れたのだ。
しかし、こういう風潮の背景には、日本は島国であったからだということもありそうだ。
西欧などの国々などの陸続きの国々と違い、日本は海に囲まれた孤島であるため、他民族
から攻め込まれて根絶やしにされるなどという経験はなかった。そのために、自らの民族
の存亡をかけて自らが決断するという経験もなかった。恐らく、太平洋戦争での終戦の決
断が、初めての決断だったのではないのかと思う。その決断も、結局は自分たち自ら決断
することができず、「天皇に聖断を仰ぐ」ということで、決断を責任を天皇に押し付けて
しまった。
日本人は、その島国なるがゆえに、身内の中でなんとか治まればそれでよし、いわば「甘
い考え」が通用し、自分の存立を賭けて自分の意志を貫くということをしてこなかった。
自分の意志を貫くよりも周囲とうまくやることを優先してきたのだ。このことが「その場
の空気」の正体であると考えられる。
この世の中に、日本という国だけが存在するのであれば、これからもずっとその「空気」
に従てものごとを決めていっても、特別大きな問題には直面しないのだろう。しかし、こ
の世の中に存在するのは日本だけではない。日本だけが、自分の身内の「空気」だけで判
断していては、生き残っていけないのは、当然予想されることだろう。
自由とはなにか。それは何物にも支配されないことである。しかし、「その場の空気」で
自分の本当の意見を言えないということは、それは、その「空気」に支配されているとい
うことに他ならない。「その場の空気」で物事が決まってしまうということは、当然、そ
こには真の自由はないということだ。このように考えると、日本の社会は自由社会とはほ
ど遠い社会であると言えるだろう。
いずれにしても、この本は、私にとって、非常に難解な内容であった。恐らくこの本に書
かれている内容の1割も理解できなかったと感じている。筆者は、相当簡単に書き表した
つもりであろうが、哲学的ともいえる内容が多く、一度や二度読んでも、とてもその意味
するところを理解することができなかった。まだまだこの本を理解できるレベルには達し
ていないと痛感させられた。

「空気」の研究
・この「空気」とは一体何なのであろう。それは教育も議論もデータも、そしておそらく
 科学的解明も歯がたたない”何か”である。たとえば、「差別の道徳」だが、もしその
 実例を詳しく話し、こういうことは絶対にいけませんと教えても、いざというときには、
 「その場の空気」に支配さえて、自らが否定したその通りの行動をするであろう。こう
 いう実例は少しも珍しくない。
・私自身、いまの今まで「これこれは絶対にしてはならん」と言い続け教え続けたその人
 が、いざとなると、その「ならん」と言ったことを「やる」と言い、あるいは「やれ」
 と命じた例を、戦場で、直接に間接に、いくつも体験している。そして戦後その理由を
 問えば、その返事は必ず「あのときの空気では、ああせざるを得なかった」である。
・「せざるを得なかった」とは、「強制された」であって自らの意志ではない。そして彼
 を強制したものが真実に「空気」であるなら、空気の責任はだれも追及できないし、空
 気がどのような論理的過程をへてその結論に達したかは、探究の方法がない。
・日本には「抗空気罪」という罪があり、これに反すると最も軽くて「村八分」刑に処せ
 られるからであって、これは軍人・非軍人・戦前・戦後に無関係のように思われる。
 「空気」とはまことに大きな絶対権をもった妖怪である。一種の「超能力」かも知れな
 い。
・こうなると、統計も資料も分析も、またそれに類する科学的手段や論理的論証も、一切
 は無駄であって、そういうものをいかに精緻に組み立てておいても、いざというときは、
 それが一切消し飛んで、すべてが「空気」に決定されることになるかも知れぬ。とする
 と、われわれはまず、何よりも先に、この「空気」なるものの正体を把握しておかない
 と、将来なにが起こるやら、皆目見当がつかなうことになる。
・従ってもし日本が、再び壊滅へと突入していくなら、それを突入させていくものは戦艦
 大和の場合のごとく「空気」であり、破滅の後にもし名目的責任者がその理由を問われ
 たら、同じように「あのときは、ああせざる得なかった」と答えるであろうと思う。
・この「空気」なるものの実体を解明せざるを得なくなるのである。「空気」といわれる
 以上、それが一種の力をもちうるのは、何らかの気圧のような圧力があるからであろう。
 人はそれを感ずるから「空気」と表現したに相違ない。従って、この空気に対抗して論
 争した論説を、その空気が消え去った後で読むと、その人びとが、なぜこんなに一心不
 乱に反論していたかが、逆にわからなくなってくる。 
・一体、「空気」とは何であろうか。それは非常に強固でほぼ絶対的な支配力をもつ「判
 断の基準」であり、それに抵抗する者を異端として、「抗空気罪」で社会的葬るほどの
 力を持つ超能力であることは明らかである。
・従ってわれわれは常に、論理的判断の基準と、空気的判断の基準という、一種の二重基
 準のもとに生きているわけである。そしてわれわれが通常口にするのは論理的判断の基
 準だが、本当の決断の規準となっているのは、「空気が許さない」という空気的判断の
 基準である。 
・神という概念は、元来は「恐れ」の対象であった。多くの神社は、悲惨を体現した対象
 がその悲惨を世にふりまかないように、その象徴的物質を御神体として祭ってなだめて
 いる。 
・人が、宗教的狂乱状態いわばエクスタシーに陥る、またブームによって集団的な異常状
 態を現出するのは、この空気の沸騰状態によるとされている。 
・明治的啓蒙主義は「霊の支配」があるなどと考えることは無知蒙昧で野蛮なことだとし
 て、それを「ないこと」にするのが現実的・科学的だと考え、そういったものは、否定
 し、拒否、罵倒、笑殺すれば消えてしまうと考えた。ところが、「ないこと」にしても、
 「ある」ものは「ある」のだから、「ないこと」にすれば逆にあらゆる歯止めがなくな
 り、そのため傍若無人に猛威を振り出し、「空気の支配」を決定的にして、ついに、一
 民族を破滅の淵まで追い込んでしまった。戦艦大和の出撃などは”空気”決定のほんお
 一例にすぎず、太平洋戦争そのものが、否、その前の日華事変の発端と対処の仕方が、
 すべて”空気”決定なのである。
・”空気”決定は、これからもわれわれを拘束し続け、全く同じ運命にわれわれを追い込
 むかもしれぬ。 
・あらゆる意味の明示的啓蒙家が行ったことは、下手なガンの手術と同じで、「切除的否
 定」で「ないこと」にしたものが、逆に、あらゆる面に転移する結果になってしまった。
 さらに悪いことに、戦後もう一度、同じような啓蒙的再手術をやっている。そのため、
 科学上の決定までが空気支配の呪縛を受け、自由は封じられ、科学的根拠は無視され、
 すべては常に「超法規」的または「超科学根拠」敵に決定されることになってしまった。
・「やると言ったら必ずやるさ」で玉砕するまでやる例も、また臨在観的把握の対象を絶
 えずとりかえ、その場その場の”空気”に支配されて、「時代先取り」とかいって右へ
 左へと一目散に突っ走るのも、結局は同じ「言必信、行必果」的「小人」だということ
 になるであろう。大人とはおそらく、対象を相対的に把握することによって、ものごと
 の解決は、対象の相対化によって、対象から自己を自由にすることだと、知っている人
 間のことであろう。  
・だが非常に困ったことに、われわれは、対象を臨在感的に把握してこれを絶対化し「言
 必信、行必果」なものを、純粋な立派な人間、対象を相対化するものを不純な人間と見
 るのである。そして、純粋と規定された人間をまた臨在感的に把握してこれを絶対化し
 て称揚し、不純と規定された人間をもまた同じように絶対化してこれを排撃するのであ
 る。 
・われわれの社会は、常に、絶対的命題をもつ社会である。「忠君愛国」あら「正直もの
 がバカを見ない世界であれ」に至るまで、常に何らかの命題を絶対化し、その命題を臨
 在感的に把握し、その”空気”で支配されてきた。そしてそれらの命題、たとえば「正
 義は最後には勝つ」「正しいものはむくわれる」といったものは絶対であり、この絶対
 性にだれも疑いをもたず、そうならない社会は悪いと、戦前も戦後も信じ続けてきた。
 そのため、これらの命題まで対立的命題として把握して相対化している世界というもの
 が理解できない。そしてそういう世界は存在しないと信じ切っていた。だがそういう世
 界が現実に存在するのである。否、それが日本以外の大部分の世界なのである。
・教育勅語のように言語もしくは名称が写真とともに偶像となり、礼拝の対象となって、
 この偶像へ絶対帰依の感情が移入されれば、その対象は自分たちを絶対的に支配する
 「神の像」となり、従って、天皇が現人神となって不思議でないわけである。天皇は人
 間宣言を出した。だが面白いことに明治以降いかなる記録を調べても、天皇家が「自分
 は現人神であるぞよ」といった宣言を出した証拠はない。従って「人間宣言」を出すべ
 き者は、現人神だと言い出した者であっても、現人神だと言われた者ではないはずであ
 る。 これは警察がだれかを間違って犯人だと言ったら、これを否定する義務は警察に
 あるのであって、間違えられた人間にあるのでないのと、同じ理屈だろう。だが奇妙な
 ことに現人神だと言い出した人間を追究しようというものはいない。もっとも追究して
 もおそらく無駄である。それは例によって「空気」の仕業だから。天皇制とはまさに典
 型的な「空気支配」の体制だからである。 
・二・二六事件を起こした将校たちにとって、天皇とは偶像的「現人神」ともいうべき存
 在であった。従ってこの偶像天皇が自分の意志をもっていると知ったとき、彼らは、仏
 像が立ち上がって口を利いたかの如く驚いたわけであった。これでは、自分たちの帰依
 に基づく「現人神・天皇制」ではなくなって、天皇という、自分の意志を持つ一個の人
 間の政治的統治になってしまうからである。それは一人間の意志による普通の統治であ
 って、現人神天皇制ではなくなる。
・天皇制とは空気の支配なのである。従って、空気の支配をそのままにした天皇制批判や
 空気に支配された天皇制批判は、その批判自体が天皇制の基盤だという意味で、はじめ
 からナンセンスである。 
・偶像化できる対象は何も像や人間だけではない。言葉やスローガンも、その意味内容と
 は関係なく偶像化できる(天皇という存在も、戦前は国民の大部分にとっては影像と言
 葉だけの存在で、九重の雲の上にいる実体を見たものはなかった)。
・その他の言葉は、すべて相対化される。いわなどのように絶対化しているように見える
 言葉でも相対化されうるし、相対化されねばならない。いわば、人間が口にする言葉に
 は「絶対」といえる言葉は皆無なのであって、人が口にする命題はすべて、対立概念で
 把握できるし、把握しなければならないのである。そうしないと、人は、言葉を支配で
 きず、逆に、言葉に支配されて自由を失い、そのためその言葉が把握できなくなってし
 まうからである。  
・たとえば義なる神が存在するなら「正義は必ず勝つ」という命題がある。この命題は相
 対化できそうもないが、しかし彼らは言う。「では、敗れた者はみな不義なのか。敗者
 が不義で勝者が義なら、権力者はみな正義なのか」と。「正しい者は必ず報われる」と
 いう。「では」と彼らは言う。「報われなかった者はみな不正をした者なのか」と。
・「正直者がバカを見ない世界であってほしい」「とんでもない、そんな世界がきたら、
 その世界ではバカを見た人間は全部不正直だということになってしまう」「社会主義社
 会とは、能力に応じて働き、働きに応じて報酬が支払われる立派な社会で・・・」「と
 んでもない、もしほんとうにそんな社会があれば、その社会で賃金の低い報酬の少ない
 者は、報酬が少ないというほかに、無能という烙印を押されることになる」  
・われわれの社会では、常に正義の規準の如く絶対化されている命題も、すべて、一種の
 対立概念で把握され、相対化されてしまうのである。
・多数決原理の基本は、人間それ自体を対立概念で把握し、各人の内なる対立という「質」
 を、「数」という量にして表現するという決定方法にすぎない。日本には「多数が正し
 いとはいえない」などという言葉があるが、この言葉自体が、多数決原理への無知から
 来たものだろう。正否の明言できること。たとえば論証とか証明とかは、元来、多数決
 原理の対象ではなく、多数決は相対化された命題の決定にだけ使える方法だからである。
・これは、日本における「会議」なるものの実態を探れば、小むずかしい説明の必要はな
 いだろう。たとえば、ある会議であることが決定される。そして散会する。各人は三々
 五々、飲み屋などに行く。そこでいまの決定についての「議場の空気」がなくなって
 「飲み屋の空気」になった状態での文字通りのフリートーキングがはじまる。そして
 「あの場の空気では、ああ言わざるを得なかったのだが、あの決定はちょっとネー・・」
 といったことが「飲み屋の空気」で言われることになり、そこで出る結論はまた全く別
 のものになる。   
・従って飲み屋をまわって、そこで出た結論を集めれば、別の多数決ができるであろう。
 私はときどき思うのだが、日本における多数決は「議場・飲み屋・二重方式」ともいう
 べき「二空気支配方法」をとり、議場の多数決と飲み屋の多数決を合計し、決議人員を
 二倍ということにして、その多数で決定すればおそらく最も正しい多数決ができるので
 はないかと思う。 
・というのは、このように、会議内と会議外で、同じ人間の同じ決定が逆にも出うるとい
 うことは、その人びとの命題への把握の仕方が、それぞれの空気によって、会議内は賛
 成だけが表に出、会議外では反対だけが表に出る、という形いなっているからだと考え
 る以外にないからである。従ってそれを総計すれば本当の多数決になるわけだが、元来
 は、これを一議場内でやってしまうことが多数決のはずである。日本ではそれをしない。
・人間は、自らの内に対立を含む矛盾した存在であるが、「空気の変化」という形で、時
 間別に表れていることを示すにすぎない。決断をだらだらと引き伸ばしても、別に大し
 たことにはならない状態にあった日本では、これでも支障はなかったのであろう。徳川
 時代を見ていくと、幕府の成立からその終末までに、真に大きな運命的な決断を必要と
 したという事件は皆無に等しいからである。そのため、一時的な例外期はありえても、
 日本は常に、この状態へと回帰していく。確かにこれまでは、それでも間に合った。戦
 争といった身のほど知らずのことをやらない限りは。  
・また、先進国模倣の時代は、先進国を臨在感的に把握し、その把握によって先進国に
 「空気」的に支配され、満場一致でその空気に従っていれば、それで大過はなかった。
 否、その方がむしろ安全であったとさえ言える。そのためか、空気の支配は、逆に、最
 も安全な決定方法であるかのように錯覚されるか、少なくとも、この決定方式を大して
 問題と感じず、そのために平気で責任を空気へ転嫁するおとができた。明治以降、この
 傾向が年とともに強まってきたことは否定できない。 
・だが中東や西欧のような、滅びしたり滅ぼされたりが当然の国々、その判断が、常に自
 らと自らの集団の存在をかけたものとならざるを得ない国々およびそこに住む人びとは、
 「空気の支配」を当然のことのように受け入れれば、到底存立できなかったであろう。 
 そしておそらくこのことが、対象をも自らをも対立概念で把握することによって虚構化
 を防ぎ、またそれによって対象に支配されず、対象から独立して逆に対象を支配すると
 いう生き方を生んだものと思われる。

「水=通常性」の研究
・「水」という概念はもっと漠然としている。ある一言が「水を差す」と、一瞬にしてそ
 の場の「空気」が崩壊するわけだが、その場合の「水」は通常、最も具体的な目前の障
 害を意味し、それを口にすることによって、即座に人びとを現実に引き戻すことを意味
 している。 
・太平洋戦争の前にすでに日本は「先立つもの」がなかったそうである。また石油という
 「先立つもの」もなかった。だがだれもそれを口にしなかった。差す「水」はあった。
 だが差せなかったわけで、ここで”空気”が全体を拘束する。従って「全体空気拘束主
 義者」は「水を差す者」を罵言で沈黙させるのが普通である。 
・しかし、現状からの脱却は、この「通常性」を基盤としない限り成り立たない。どのよ
 うな「空気」を盛り上げて「水を差す者」を沈黙させても、「通常性」は遠慮なく「水」
 を差し続けるのである。われわれは今まで自己の通常性を無視して、「空気」さえ盛り
 上げれば何かができるような錯覚を抱き続けていた。太平洋戦争とは、まことに痛まし
 い膨大なその大実験である。 
・簡単にいえば、明治4年(1871)まで空中の黒戸の間に仏壇があり、歴代天皇の位
 牌があった。法事あもちろん仏式であったが、維新という”革命”の波は天皇家にも遠
 慮なく押し寄せ、1千年続いた仏式の行事はすべて停止されることになった。天皇家の
 菩提寺は京都の泉涌寺だったが、明治6年、宮中の仏像その他は一切この寺に移され、
 天皇家とは縁切りということになった。皇族には熱心な仏教徒もいたが、その葬式すら、
 仏式で行なうことを禁じられた。いわば、天皇自らが思想信仰の自由を剥奪され、明治
 体制一色に強制的に塗りかえられたわけである。 
・戦前の軍部と右翼が、絶対に許すべからざる存在と考えたのはむしろ「自由主義者」で
 あって、必ずしも「社会主義者」ではない。社会主義は、ただ方向を誤っただけで、彼
 らの意図そのものは必ずしも謝りでないから、方向さえ変えさせれば、いわば転向さえ
 すれば有能な「国土」になると彼らは考えていた。従って、転向者の多くは軍部の世話
 で、「満鉄調査部」に勤めていたところで、それは必ずしも不思議ではない。だが彼ら
 は、自由主義者は、箸にも棒にもかからぬ存在と考えていた。この考え方は、青年将校
 などにも明確にあり、自由主義者とは「転向のさせようがない人間」いわば、彼らにと
 っては、「救いがたい連中」だったわけである。では彼らはどういう人間を「自由主義
 者」と規定したのか。簡単に言えば、あった事実をあったという、見たことを見たとい
 い、それが真実だと信じている、きわけて単純率直な人間のことである。 

日本的根本主義について
・根本主義とは何なのか。これは日本人にとって最も理解しにくく、従って「目をつむっ
 て避けてしまう」プロテスタントの一面であり、そのため根本主義についての解説書は
 おそらく日本には皆無であろう。
・日本で知られているその一面は、進化論裁判、すなわち「聖書の教えに反するから進化
 論を講ずることを州法で禁止する」といった考え方が出る主義ということである。
・われわれに理解しにくいのは、この人たちがどのようにしてその組織的思考体系の中に
 進化論を組み込んでいるのか、どのようにして二重真理説ともいえる  
 考え方をもちうるのかといったその基盤である。
・宗教改革は、いわば聖書を絶対の権威として、地上における神の代理人ローマ教皇の絶
 対的権威に対抗したわけであり、従って「聖書の絶対性」を崩せば自らも崩壊するから、
 これは譲れぬ一線になる。従って、われわれには奇妙に見える根本主義の背後には、こ
 れのみを唯一の権威・典拠として血みどろの解放闘争を続けた数百年があるわけで、簡
 単な嘲笑でそれを消し去るわけにはいかない。 
・改革とは実に不思議なことで、改革しようとする者は、千五百年の伝統を飛び越えて、
 その起源である聖書を絶対化するという、一種の超保守主義になり、同時にこれが改革
 を生むという、奇妙な関係を生ずるからである。そして明治維新の「王政復古」にこれ
 と同じ傾向があることも、興味深い。 
・戦後の日本人の意識は、”出版物”という点から見れば、大きく二期に分かられよう。
 一つは終戦時から60年安保までの意識で、それは「暮らしは低く、思いは高く」の時
 代であった。これが60年安保を境に一転し、「暮らしは高く、思いは低く」となった。
 いわば「暮らしは高く」が絶対的価値となり、御殿に住んで錦鯉がいれば、そこの住人
 の「思いは低く」とも、それは一切問題にせず、その人が英雄でありうる時代であった。
・この意識の「正」と「反」の次は「合」であり、「暮らしも思いもある程度高く」とい
 う状態になるだろう。面白いことに、明治期にもこの転換があり、大正期に一種の「合」
 の時代に入るのである。そしてこの「合」が、新しい非合理性の打撃を受けたとき、国
 内の一切の勢力は、本当は「何をしてよいのか一切わからない」という状態になり、そ
 の非合理性は、制御なきままに、どこかへ走り出す。  
・分離輸入の合理性と制御装置は、軍事力の時代に「軍事的エネルギー」を制御できなか
 ったように、経済力、の時代に「金脈的エネルギー」を制御し得ず、このままでは今後
 もおそらく制御し得まい。選挙があれば、「金脈首相的人物」は民主制の”洗礼”によ
 る”みそぎ”で再登場するであろう、という人びとの予想はそのまま的中している。
・人は、論理的説得では心的態度を変えない。特に画像、映像、言葉の映像化による対象
 の臨在観的把握が絶対化される日本においては、それは不可能と言ってよい。
・この無力を知るとき、人はその臨在感的”空気”に対抗するために通常性的”水”をさ
 す。しかしここで忘れてならないことは、空気も水も、現在および過去のものであって、
 未来はそれに関係ないということである。従ってこの方法をとるとき、人は必然的に保
 守的にならざるを得ない。いわば進歩的な”空気”そのものが、実は最も保守的なもの
 にならざるを得ないのである。   
・「未来は神の御手にある」という言葉がある。この言葉は宗教的に理解してもよいが、
 現実的に理解すればさらに明確である。人間の手は未来に触れることはできない。明日
 の状態に手を触れ得ないだけでなく、一時間後、一分後の状態ですら手を触れ得ない。
・人は未来に触れられず、未来は言葉でしか構成できない。しかしわれわれは、この言葉
 で構成された未来を、一つの実感をもって把握し、これに現実的に対処すべく心的転換
 を行なうことができない。  
 
あとがき
・「空気支配」の歴史は、いつごろから始まったのであろうか。徳川時代と明治初期には、
 少なくとも指導者には「空気」に支配されることを「恥」とする一面があったと思われ
 る。「いやしくも男子たるものが、その場の空気に支配されて軽挙妄動するとは・・・」
 といった言葉に表されているように、人間とは「空気」に支配されてはならない存在で
 あっても「いまの空気では仕方がない」と言ってよい存在ではなかったはずである。
・ところが昭和期に入るとともに「空気」の拘束力はしだいに強くなり、いつしか「その
 場の空気」「あの時代の空気」を、一種の不可抗力的拘束と考えるようになり、同時に
 それに拘束されたことの証明が、個人の責任を免除するとさえ考えられるに至った。  
・現在でも抵抗がないわけではない。だが「水を差す」という通常性的空気排除の原則は
 結局、同根の別作用による空気の転位であっても抵抗ではない。従って別「空気」への
 転位への抵抗が、現「空気」の維持・持続の強要という形で表われ、それが逆に空気支
 配の正当化を生むという悪循環を招来した。従って今では空気への抵抗そのものが罪悪
 視されるに至っている。 
・これは「うやむやにするな」という言葉にも表れている。これは徹底追究の「空気」を
 あくまでも維持せよとの主張と思うが、それでも結局「うやむや」になる。この「うや
 むや化の原則」は、もちろん「空気と水」の関係に基づいている。 
・「徹底追究」という「空気」には、否応なく「通常性の水」を差される。これはだれか
 が意識的に「水」を差そうとしなくても、「徹底追究」と叫ぶ人の通常性自体がその叫
 びに「水」を差しているのだから、その人が日本の通常性に生きている限り、その「空
 気」を「追究完了」まで持続さすことはできない。 
・元来、何かを追究するといった根気のいる持続的・分析的な作業は、空気の醸成で推進・
 維持・完成できず、空気に支配されず、それから独立し得てはじめて可能なはずである。
 従って、本当に持続的・分析的研究を行なおうとすれば空気に拘束されたり、空気の決
 定に左右されてりすることは障害になるだけである。 
・持続的・分析的追究は、その対象が何であれ、それを自己の通常性に組み込み、追究自
 体を自己の通常性化することによって、はじめて拘束を脱して自由発想の確保・持続が
 可能になる。空気で拘束しておいて追究せよと言うこと、いわば「拘束・追究」を一体
 化できると考えること自体がひとつの矛盾である。これを矛盾と感じない間は、何事に
 対しても自由な発想に基づく追究は不可能である。 
・このことは「うやむやにするな」と叫びながら、なぜ「うやむや」になるかの原因を
 「うやむや」にしていることに気づかない点にも表れている。いわば「うやむや反対」
 の空気に拘束されているから「うやむや」の原因の追究を「うやむや」にし、それで平
 気でいられる自己の心的態度の追究も「うやむや」にしている。これがすなわち「空気
 の拘束」である。