社会という荒野を生きる :宮台真司 |
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この本は、いまから7年前の2018年に刊行されたものだ。 実は、私はこの本の著者については、ちょっと”ふざけた感じのイメージ”が強く、あまり いい印象を持てず、いままでこの著者の本は読んだことがなかった。 しかし2022年11月に、この著者が、教授を務める八王子市の東京都立大学南大沢キ ャンパス構内で面識のない男に後頭部を殴打されたうえ刃物で首など数か所を刺され重傷 を負ったり、2023年12月には20歳の地方国立大学の女子大生を伴って渋谷区円山 町のホテルの客室に滞在し、出てきたところを張り込んでいた光文社の記者によって撮影 され、スキャンダラスに報道されたりしたのをみて、いったいこの著者はどういう人物な のかと、あらためて興味を覚えこの本を読んでみた。 まず、この本を読んで沖縄の海兵隊を辺野古へ移設を提案したのは日本側であったことを 私は初めて知った。 1995年の少女暴行事件から、「沖縄に関する特別行動委員会(SACO)」において、 普天間基地の全面返還が日米の間で合意された。当初は、5〜7年以内に米海兵隊がグア ムに移転し、普天間基地が返還されることで日米間で合意された。 しかしそれが日本側(橋本龍太郎政権)からの要請により、沖縄本島東海岸への移設に前 提という話に変わったのだ。 日本政府としては米軍の即応体制や日米安保の観点から米海兵隊の「沖縄県外への移設」 や「全面撤退」は難しいと判断したというのだ。 つまりこれは、日本側が、普天間の海兵隊が沖縄から出ていかれることを不安に思い、 米国側に「グアムに行かないで沖縄にいてください」とすがりついたのだ。 橋本龍太郎政権時に普天間返還と沖縄本島東海岸への移設(辺野古が有力)が決定された が、辺野古への移転というのはまだ正式な決定まではいかなかった。 それが小泉純一郎政権時において「普天間の機能を辺野古へ移転」というのが正式に決定 されたのだ。 もし、日本側からの提案がなければ、米国は普天間を撤退しグアムに移転したのだ。 その結果が、現在の泥沼の辺野古問題になっている。 この日本政府の馬鹿加減さをなんと表現したらいいのだろう。私は言葉を持たない。 しかも、日本政府は、国民からの反発を予想して、普天間が辺野古に移設するのは、あた かも米国側ら出た条件だというように装っている。 そして、日本のマスコミと国民は、それを疑わずに信じ切っているのだ。 日本は、政府もアホだがマスコミや国民も、それに負けじとアホぞろいの国だ。 また、私はこの本を読んで「明治天皇替玉説(別名・大室寅之祐替玉説)」の存在を初め て知った。孝明天皇暗殺説の存在は知っていたのだが、明治天皇替玉説というのは今まで まったく知らなかった。 先般読んだ「金正日が愛した女」では、「金日成」替玉説が展開されていたが、日本の天 皇にも替玉説がいろいろあるようだ。 ところで、私はこの本の中で納得できなかったのは、2015年に名古屋市の小学校が情 報リテラシーの授業でISIL(イスラム国)が人質を殺害した無修正の遺体写真を小学 生たちに見せたことに対するこの本の筆者の見解についでだ。 確かに、メディアリテラシー教育に対する著者の主張は、その通りなのだろう。 しかし、それでも、はたして無修正の遺体写真を小学生に見せることでしかメディアリテ ラシーの教育はできないとは思えない。他の方法はいくらでもあったのではないのか。 なんであえて無修正の遺体写真を教材に使用しなければならなかったのか、私には納得が いかなかった。 ちなみに、小学生に対してこの無修正の遺体の写真を教材として用いることに対して、 AIに問うてみたら以下の回答があった。 小学校の授業でISIL(イスラム国)に殺害された無修正の遺体の映像や画像を見せる ことには、以下のような深刻な問題が考えられます。 1.児童への心理的影響 小学生はまだ精神的に未熟であり、衝撃的な映像を見せることでトラウマになる可能性が あります。 恐怖、不安、悪夢、感情の不安定などの影響が長期的に残ることもあります。 2.教育的配慮の欠如 授業で扱う内容は児童の発達段階に適している必要があります。 無修正の遺体を見せることが、本当に教育的な価値を持つのか疑問です。歴史や国際問題 を学ぶ他の方法(文章、修正済みの写真、図解など)もあります。 3.保護者や社会の反発 多くの保護者は自分の子どもが過激な映像を見ることに反対するでしょう。 学校へのクレームや問題提起が起こり、教育現場の信頼が損なわれる可能性があります。 4.倫理的な問題 遺体を無修正で見せることは、被害者やその家族に対する尊厳の侵害になりかねませ ん。 センセーショナルな見せ方になってしまうと、本来の学習目的から逸脱する恐れがありま す。 5.法的リスク 国や地域によっては、残虐な映像を未成年に見せることが法律に抵触する場合があります。 学校側や教師が処罰の対象になる可能性もあります。 結論:小学生に無修正の遺体の映像を見せることは、心理的・倫理的・法的に大きな問題 があり、教育的な方法としても不適切です。他の学習方法を検討するべきでしょう。 以上ようなAIの回答は、至極真っ当な回答だと私には思える。 また、著者は1970年の三島由紀夫の自殺について、「どの新聞でも三島由紀夫の首が ごろんと転がっている写真が見られたと記しているが、この件についてもAIに確認した が、「時の新聞やテレビでは、切断された首が写っているような写真や映像は公には報道 されていません」とのことであった。 なお、岡田有希子の投身自殺の写真が「フライデー」に掲載されたというのは事実で、 当時大きな社会問題となったのは事実であった。 過去に読んだ関連する本: ・孝明天皇と「一会桑」 ・金正日が愛した女 ・安倍政権のメディア支配 ・オウム真理教事件とは何だったのか? ・淳 |
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なぜ安倍政権の暴走は止まらないのか (天皇皇后両陛下がパラオ訪問に際し、安倍総理に伝えたかったこと) ・2015年4月に、今上の天皇・皇后両殿下が「パラオ共和国」を訪問しました。 1995年の戦後50年での長崎や広島、沖縄などの訪問。 2005年の戦後60年でのサイパン訪問に続く、戦後70年での慰霊の旅でした。 今回は、特に激戦地だったことで知られるベリリュー島を訪れ、日本側の慰霊碑だけで なく、多くのアメリカ兵が命を落とした場所も訪問されました。 「戦争で犠牲になったすべての方々を慰霊したい」という、両殿下のご希望で実現した ということです。 ・今回のパラオ訪問を通じて、両殿下が最近どういう思いを抱いておられるのかを、両殿 下御自身が国民に強く印象づけようとしていらっしゃった、というふうに僕は受けとめ ました。 ・パラオは19世紀末からドイツ領でした。 その後、日本が第一次大戦に連合国として参戦します。 敵国はドイツでしたから、ドイツが負けた結果、日本がパラオをドイツから奪いました。 そして、第一次大戦の講和条約であるベルサイユ条約で、パラオに関する日本の委任統 治が正式に認められました。 ・日本統治の特徴なのですが、学校や道路などの基礎的な社会資本=インフラの整備に力 を尽くしました。それもありまして、パラオ国民はとても親日的です。 実際、年長の方には、陛下も実際に日本語で話しかけておられたように、日本語が何不 自由なくしゃべれる人たちが珍しくありません。 なぜかと言えば、日本統治下にあった時代に、日本語での教育が学校で行われていたと いう歴史が、背景にあるからです。 日本語が多く残ったのも、強い親日感情の表れです。 日本の敗戦以降は米国統治下になりましたが、米国はインフラにはお金を使いませんで した。 ちなみに日本統治前のドイツも使わなかった。 それもあって「日本の統治は良かった」ということになったんです。 ・国際連盟は、委任統治領において軍事基地を作ることを禁止していました。 ところが日本は、満州国建国をきっかけに国連に脱退を叩きつけました。 そのため、国連の決まりから自由になったとして、パラオを初めとした委任統治領に、 軍事基地を作りまくるんです。 ・そのことが背景になって、太平洋戦争に入ると、ものすごい激戦地になってしまいまし た。 日本兵が1万人以上なくなりました。 しかし米兵も2千人近く亡くなっています。 だから今回、両殿下がアメリカ側も含めて慰霊をされたのは、自然なことです。 ・今回のパラオ訪問の前に、陛下は、羽田空港貴賓室で、安倍晋三総理を立たせたまま、 「祖国を守るべく戦地に赴き、帰らぬ身となった人々のことが偲ばれます。 私どもはこの説目の年に当たり、戦陣に倒れた幾多の人々の上を思いつつ、パラオ共和 国を訪問いたします。」という文言を含む長いスピーチをされました。 ・むろん、安倍総理への人前での「説教」として理解されるべきものです。 それは一連の陛下の御振る舞いや御言葉の一つとして捉えることで明らかになります。 今回に限れば、象徴的事例は「陛下は警備上の理由で、船上に泊まられた、さてどこに 泊まられたのか」です。 自衛艦ではありません、ではどこに? 海上保安庁ー日本国内の水上警察ーの巡視船です。 なぜか? 自衛隊は、旧日本軍との関連が連想されるというので、気を遣われたのですね。 実にすばらしい御気遣いだと思いませんか。 ・今回に限らず、この10年を振り返れば、2006年の御自身の天皇誕生日での御言葉 があります。 「過去のような戦争の惨禍が二度と起こらないよう、戦争や戦没者のことが、戦争を直 接知らない世代の人々に正しく伝えられていくことを心から願っています」と。 ・ということは、今回の御訪問も、日本人の若い世代に戦争の惨禍を語り継ぐきっかけを 与えたいと思っておられてのことだと想像できます。 少なくともそうした想像が可能になるように振る舞っておられる。 ・それだけでなく、2013年12月18日の天皇陛下御誕生日に際して行った会見で、 陛下は興味深いことを語られました。 「連合軍の占領下にあった日本は、平和と民主主義を、守るべき大切なものとして、 日本国憲法を作り、様々な改革を行って、今の日本を築きました。・・・また、当時の 知日派の米国人の協力も忘れてはならないことと思います」と、このように語られたん です。 ・知日派のアメリカ人とは、GHQの若き将校たち。 彼らが日本国憲法の草案を作ったことに、わざわざ言及されました。 「押しつけ憲法だ」と言う、陛下の意向を蔑ろにするインチキ保守−僕は「クソ保守」 と呼ぶ−の憲法批判を、粉砕する御話をしておられました。 ・他方「民主主義は米国が与えた」とする「クソ左翼」を正す話を、2013年の皇后様 御誕生日に、皇后様御自身がなさっておられます。 「憲法が明治憲法の公布に先立ち・・・民間の憲法草案で、基本的人権の尊重や教育の 自由の保障、及び教育を受ける義務、法の下の平等、さらに言論の自由、信教の自由な ど、204条に書かれており・・・・」 そしてこう終わるのです。 「これに類する民間の憲法草案が、日本各地の少なくとも40数か所で作られていた聞 きましたが・・・長い鎖国を経た19世紀末の日本で、市井の人々の間に既に育ってい た民権意識を記録するものとして、世界でも珍しい文化遺産ではないかと思います」 ・このお話は他方で、「基本的人権の尊重」を高く掲げる戦後憲法は米国の「押しつけだ」 とする「クソ保守」の議論を粉砕しています。 戦後語る理念は、明治憲法の制定時に、既に国民の間に広く共有されていたという圧倒 的な事実を、強調しておられるんですね。 ・戦後憲法は押しつけだという「クソ保守」と、民主主義は米国がくれたという「クソ左 翼」は、表裏一体の「戦後レジーム」です。 現に、国内で憲法は押しつけだと言っていた総理が、米国議会で民主主義派米国がくれ たと称賛する(2015年4月の安倍総理の米国議会上下両院合同会議での演説)。 お笑いの戦後レジームぶりです。 ・再びここで「クソ保守」を批判しますと、安倍総理が国会議員懇談会長を務めている 「神道政治連盟」を初めとする右派勢力があるのですが、これらは天皇を再び国家元首 に祭り上げるべきだと公言し、天皇を中心とした祭政一致の実現を理念に掲げてきてい ます。 ところがここにきて、陛下の御発言が陛下の御気持ち通りに国民の間に知られるように なると、安倍ブレーンとして知られる麗澤大学教授の「八木秀次」などが月刊雑誌「正 論」で「宮内庁のマネージメントはどうなっているのか」と不敬な戯れ言をホザく始末 です。 これぞ浅ましくさもしい御都合主義です。 ・僕は過去20年近く「天皇主義者」と公言しています。 師匠の「小室直樹」先生から受け継いでもおりますが、母方祖父が昭和天皇に動物学を 御進講申し上げる立場だった事実や、父方祖父が居合道九段の極右思想の持ち主だった 事実ゆえの、幼少期からの構えなのです。 (安倍総理が語る「国際協調主義に基づく積極的平和主義」の意味とは) ・日米共同記者会見で、オバマ大統領はこういうことを言いました。 「私は、海兵隊の沖縄からグアムへの移転を加速させることについて、ちゃんとコミッ トメントします」と。 実に喜ばしい発言ではありませんか。 沖縄からグアムへ海兵隊を移すよ、と言っているんです。 さらに、その前の言葉を付け足すと、 「沖縄のローカルコミュニティに対する負担を減らすために」、私はグアムへの移転を 加速させることにちゃんとコミットメントします。 ・ところが、それを受けた安倍総理の発言。 「住宅や学校に囲まれた普天間基地の危険性を辺野古移設によって一刻も早く除去しま す。」 話がズレている。 オバマ大統領は海兵隊をグアムへ移すと言ったのに、安倍さんは辺野古移転だと。 ・1995年の少女暴行事件から96年末のSACO合意「沖縄に関する特別行動委員会 (SACO)において、普天間飛行場の全面返還が日米の間で合意されたこと」までの 経緯を見ると、当初は5〜7年以内の普天間返還で日米合意していたのが、本島東海岸 への移設が前提という話になってしまった。 1年半で話が変わっちゃたんです。 ・その後がさらに変なのです。 98年に移設容認の「稲嶺恵一」知事が当選すると、99年には辺野古住民が移設を県 に要請、半年後に辺野古移設が閣議決定される。 そこで、ヘリ離着陸があればよいという話が、なんと1300メートル滑走路建設にす り変わっちゃった。 ・要は、海兵隊の普天間基地撤退を覆したのは日本側なのです。 2015年4月10日、NEWSポストセブンが政府関係者の 「米軍は海兵隊をグアムに移転させるロードマップを描いていたが、小泉政権時に”沖 縄にいてほしい”と辺野古移設を提案した」という発言を紹介しています。 ・沖縄地元紙は2014年9月の紙面で 「米軍の沖縄駐留、日本政府の意向、モンデール 氏証言」 「海兵隊の沖縄駐留 『日本が要望』 元駐日大使の口述記録」 という見出し記事を報じています。 ・少女暴行事件当時のモンデール駐日米大使が、口述記録を残しています。 米国政府内では少女暴行事件数日後で、米軍は沖縄から撤退すべき、少なくとも大幅削 減という議論になったが、日本側が駐留継続を求め、7カ月後に日米政府は普天間の県 内移設に合意したと。 ・要は、日本の外務省当局が主導して「なんとか沖縄に海兵隊がいてくだせぇ」とへりく だってお願いした結果、辺野古移設という珍妙な事態になろうとしているのです。 だから今回も安倍総理が「なんとか沖縄に海兵隊がいてくだせぇ」ともみ手をしたとい うわけ。 ・第一の問題は、安倍総理が演説で 「日本はどこまでもアメリカについていきます」 というような、卑屈な発言をしたことです。 これまでは「極東の安全保障ではアメリカに協力します」という関係でしたが、 これを変え、 「アメリカがどこに軍隊を出して戦争をする場合も日本はついていきます」 と宣言をしたのが、集団的自衛権をめぐる解釈改憲の閣議決定です。 それを今回、再確認したのですね。 ・キーワードは、本当に恐るべき、馬鹿げた文学的キーワードなんだけれど、 「希望の同盟」という文言です。 この言葉は、演説全体の文脈から言葉を補うと、こういうことになります。 「アメリカはいつでも日本にとっての見本でした。夢でした。これからもアメリカは、 そういう夢であり、希望でありつづけることによって、世界の平和が保たれます。 だから日本は今後もアメリカに喜んでついていきます」 と。いやはや・・・・。 ・ISIL(イスラム国)が誕生した根本的な理由は、アメリカによる、大量破壊兵器の 隠匿というデマを根拠にした、国際法的に許されないイラク攻撃なのです。 そんなイラク戦争に、日本は兵站というカタチで事実上参加してしまったんですよ。 ありえないことです。そんなアメリカが、夢や希望の光ですか? ・そして、回船の正当性がなかった事実が明らかになった後も、日本政府は、アメリカの 言うなりに自衛隊を派遣したことについて、反省を表明していません。 対米追従のあまりに戦争の正当性への敏感さを欠いた日本政府が、集団的自衛権を掲げ るのは、恐ろしすぎる。 ・演説の第二の間違いは、戦前の日本が軍国主義で、アメリカが与えてくれるまで民主主 義を知らなかった、なんて、ありえないということです。 1931年以降はそうなってしまったけど、決して明治憲法下の日本が軍国主義で突き 進んだなどという事実はありません。 以前は大正デモクラシーなどもあり、ちゃんとした政党政治だったかどうかは別にして、 民主主義的な政治が行われていましたし、人々も民権運動を通じてそうした政治を積極 的に支持してきたという歴史もあるのです。 ・民主主義はアメリカがくれたとする「クソ左翼」と憲法はアメリカの押しつけだとする 「クソ保守」は、表裏一体です。 現に、安倍総理はこの間まで「押しつけ憲法」論者だったのに、今回の演説では「アメ リカさん、民主主義をありがとう」になったでしょ? ・日本にはもともと民主主義はあったし、それを理解するだけの民度もありました。 それが捻じ曲げられてしまったのです。 財閥や、財閥と結びついたステークホルダー、売上至上主義の新聞社、長いものに巻か れる一部国民が、日本の民主主義を捻じ曲げました。 ・日本国民は、「日本にとってアメリカとの出会いとはすなわち民主主義との遭遇」とい う言葉によって侮辱されているのです。 安倍総理によって国民が侮辱されているのです。 (戦後70年「阿部談話」に通じる中曽根元総理の無知蒙昧ぶりとは) ・中曾根康弘元総理が、戦後70年に際し、2015年8月に月刊誌・新聞に寄稿しまし た。 そこで、先の大戦について「やるべからざる戦争であり、誤った戦争」とし、 「アジアの国々に対しては、侵略戦争だったと言われても仕方がないものがあったとい える」 と明言しました。 特に中国に関しては、「民族の感情を著しく傷つけた」とも言及しています。 さらに、「自己の歴史の否定的な部分から目をそらすことなく、これを直視する勇気と 謙虚さを持つべきであるし、そこから汲み取るべき教訓を心に刻み、国民、国家を正し き方向に導くことこそが現代政治家の責務だと考える」と強調しました。 一方で、「個別的自衛権」と「集団的自衛権」については「不可分にして一体のもの」 とし、持論である憲法改正も改めて主張しています。 ・僕が評価したいのは、極東国際軍事裁判つまり東京裁判に関する箇所。 連合国主宰の裁判に責任の帰属処理を任せたせいで、自分たちのどこがダメだったのか、 誰が悪かったのかを、自力で検証した上でそれを反省するプロセスを完遂できなかった という指摘です。 ・天皇と、朝日新聞に象徴される戦争を煽った国民から、戦争責任を免除するべく、 「A級戦犯」が悪かったことにするという「手打ち」の図柄を描いたのが、米国主導の 東京裁判です。 「A級戦犯」は悪くなかったと公言するなら、連合国による責任追及がやり直しになり ます。 ・天皇と国民は悪くなく「A級戦犯」だけが悪かったとする東京裁判図式を、二国間講和 の当事国でない中国などの国々も「受け入れたこと」にして賠償請求を思いとどまった 経緯があります。 天皇と国民から戦争責任を免除した東京裁判を、どうやり直すかが問題になります。 ・戦争に負けてポツダム宣言を受諾した以上、「誰も悪くありませんでした」という結論 はありえません。 「手打ち」の上に構築された戦後外交史全体をキャンセルするつもりであれば、往生際 が悪いだけでも恥さらしであるが、タダ乗りの反倫理性を晒すことになります。 ・しかし、1954年の原子力平和利用予算提案以来「対米ケツ舐め路線」まっしぐらの 中曽根氏は、「反東京裁判的態度」をとる勢力の象徴です。 (安保法案の強行採決に見られる日本の民主主義の問題点とは) ・まず言うべきは、安保法制の中身に賛成しても、決定手続きがおかしければ反対をする、 というのが民主主義の本義であること。 今回、僕も、そして多くの人たちもそう思っているように、民主主義の適正な手続きが 踏まれていたい。手続き踏襲に不備があります。 ・巷を見ると、愚かな政治学者を含めて、民主主義とは多数決だからそれでいいんだ、 という輩が溢れています。 しかし、政治思想の歴史を知らないという意味で、愚かだというほかはない。 具体的には「ロックに対するルソーの批判」として知られていることです。 ルソーは、ロック流の間接民主主義「代議制」について、選挙の時だけ参加して、 あとは奴隷になる仕組みだとし、だから直接参加しなければならないと言いました。 むろんルソーが想定していたのは小さなユニット。数千万人の大きな国ではとても無理 な話です。 ・国民国家が軒並み数千万人規模になったのは20世紀の話で、以前は民主主義を思考す る人びとはずっと小さな単位を想定していました。 その時代の民主主義の本質をひと口で言えば「参加による自治」。 ・19世紀の段階でアメリカは巨大人口を抱え、ヨーロッパ諸国も20世紀にそうなりま す。 そこで考えられたのが、アメリカで言えば「共和政の原則」で、ヨーロッパで言えば 「補完性の原則」。 双方、自治的スモールユニットが寄り集まって共生する仕組みです。 ・共和制の原則でも、補完性の原則でも、規模に対応して結合体の結合を構成するべく、 間接民主制(代議制)が導入されていますが、どいらの場合にも共通して、下から上へ という方向性にみられるように「民主主義とは多数決でなく自治だ」という原則が貫徹 します。 ・自治とは、規模に対応する便宜として代議制を導入するものの、代議士に任せないとい うことです。 ・自治と並ぶ民主主義の本質は、熟議です。 単なる話し合いということではない。 話し合いを通じて、知らなかった事実に気づき、価値が変容するということです。 そうした気づきと変容を通じて、新しい「我々」が再構成されるということも、含んで いるのです。 ・見本の民主制のデタラメぶりを象徴するのが「党議拘束」。 無理やり党の決定に従わせること。 ひどいでしょ?何がひどいってわかりますか? 候補者個人が選挙公約をしても、党議拘束に従うしかなければ、意味がなくなるでしょ。 また、党があらかじめこうすることを決めているなら、国会審議も意味がなくなる。 党議拘束があると、どんあに審議時間をかけても、議員の内部で生じた気づきや価値変 容に従って立場を変えられません。何のための審議ですか? ・今回の安保法制で一番得るところが多いのは、安倍政権でも自民党でもなくて、官僚な んです。 この法案は官僚権限の無制限の拡大を謳ったものであることが、国会の審議を通じて明 らかになりました。 武力行使を含め、権限の行使に対する歯止めがないし、その権限をいつ行使するかも、 政府が独自に決めていいことになります。 ・政府っていうと安倍政権を想定してしまうかもしれませんが、政権というのはしょっち ゅう変わります。 しかし、その下にずっと続いているものがあって、それが官僚機構なんですね。 次にどんな政権ができようが、この法律ができてしまえば、それは残ります。 この法律の下では官僚機構が、例えば自衛隊の安全を確保する基準もないまま、海外派 兵することができますし、そもそも日本が武力攻撃を受けていなくても、独自の判断で 武力を行使することができるようになってしまいます。 ・つまり、安倍政権下で官僚の権限は、それ以前とは比較できないほど大きくなってしま いました。 安倍政権はおそらくそういう意識がないまま、その片棒を担がされているのでしょう。 政治家は自分たちが政権を握っているときのことだけでなく、将来自分たちが政権から 滑り落ち、自分たちの政敵が政権の座についたとき、その政敵にこの法案が謳っている 権限を委ねても本当に大丈夫なのかを常に考えておかなければなりません。 ・今回の法案には最小限度の武力行使の意味も、自衛隊の安全確保の基準も、実際には何 も書かれていない。 これまで安倍政権や権力与党が説明していたことが、実際には法案に書かれていないこ とが明らかになりました。 例えば、「最小限度の武力行使」とか「存立危機」といった言葉の意味は、ことごとく 「政府が総合的に判断する」ものであることがわかっています。 要するに最小限度がどの程度の武力を意味しているのかも、どういう状態が「存立危機」 なのかも、まったく基準などなく、すべて政府が独自の判断で決められることがわかり ました。 ・この法案は法律としてあまりにも問題が多い欠陥法案だということなんです。 どんなに違憲であろうが、一旦、法案が可決してしまえば、最高裁が違憲判決を出すか、 もしくは別の政権がその法律を無効化する法律を通さない限り、その法律は法律として 運用されてしまうんです。 ・今は党の権限が圧倒的に強くなっています。 小選挙区比例代表並立制の下では、党の公認権は絶対的なものになります。 小選挙区でも党の公認は必須です。 比例の名簿に掲載される順位も党が決めます。 政党助成金の配分も党だし、与党の場合は閣僚を含む政府の役職の人事権も党の代表、 つまり首相が握っています。 例外的に、地盤が強くて、一匹狼でやっても選挙に勝てる人が数人くらいはいるかもし れませんが、そんな人は一握りで、ほとんどの人は党に従わざるを得ない。 党議拘束破りなんてしたら、それこそ政治生命を断たされしまうことになります。 ・社会が複雑で流動的になると、社会の全体がどうなっているのかを政治家一人ないし政 治家集団が考えたところで、何もわからなくなりがちです。 誰がわかるのか。 答えは行政官僚。 彼らは多種多様なデータを持つだけでなく、それらを自由自在に組み合わせてストーリ ーを作れます。 政治家がそれに抗うのは並大抵ではありません。 だから近代国家から現代国家への流れを「主権から執行へ」と表現します。 ・「主権」とは、「政治家が形の上で決めること」を意味します。 「執行」とは、「行政官僚が事実上すべてを決めること」を意味します。 民主政は主権をめぐる仕組みですから、主権が執行に翻弄されるー政治家が官僚にだま されるー状態は、明らかに民主政の危機です。 ・官僚権限拡大を抑えられないのは、会見しないと作れない安保法制を、改憲せずに作れ るようになんとかして工夫しろと安倍晋三に指令された官僚たちが、一見すると合法的 適正手続きに則って、適正手続きを破壊し尽くしたことによります。 ・合法的適正手続きとは単に法を破っていけないことをいうのではない。 とりわけ憲法や国民の命運を左右する重大な法については、「やっていいと書かれてい ないことをやってはいけない」というホワイトリストとして、理解しなければならない のです。 ホワイトリストの反対がブラックリストです。 「やってはいけないと書かれていないことはやっていい」とするものです。 安倍政権を支える官僚たちが、安倍に「やってはいけないと書かれていないことはやっ ていい」と助言している可能性があります。 ・憲法的枠組をホワイトリストとして理解するべき理由は、何か。 「やってはいけないと書かれていることはやっていい」ブラックリストだと理解すると、 合憲的であっても、非立憲的ー立憲主義の本義に反するー決定の累積で、憲法が有名無 実化するからです。 ・国会論戦がどんなに激しくても、国民世論がどんなに障害でも、「だったら内閣法制局 長官を挿げ替えて解釈改憲すりゃいいじゃん」みたいなことを言う輩が出てくるだろう なんてことを、誰も予期していなかった。 「内閣法制局が憲法解釈を定めてのなら内閣法制局が憲法解釈を改めてもいい」という 議論は、「オレが約束したんだからオレが破るのも勝手だ」とほざく輩と同じレベルの 議論ですが、ここでのポイントは「まさかそんな輩がいるとは思わなかった」というこ とです。 ・まさかそんな輩が出てくるとは誰も思っていなかったから、内閣法制局長官の任命権限 を総理大臣に与えてきた。 ・憲法が法律と違い、同一性が文面ならぬ憲法意思にあるとされるのも、 法律が「やってはいけないと書かれていないならやっていい」のと違って、 憲法が「やっていいと書かれていないならやってはいけない」ものだからです。 ・「選挙で通ったらそのあと何でもできる」と思いような輩が政権を取れば、民主制は民 主主義的に作動しなくなりますし、合法的に与えられた権限を「禁止されていないなら どう行使してもいい」と思うような輩が政権を取れば、憲法は有名無実化します。 戦後の日本人は今回それを初めて目の当たりにしたと思います。 国民の多くは「形は号強敵でも実質がおかしい」ところから多くを学んだはずです。 ・国民の多くは、民主主義とは、最初から決められたシナリオに従い数で押し切るのこと ではなく、熟議を通じて、知らない事実に気づき、自らの価値の変容を促され、それを 決定につなげることだと、初めて気づいただろうと思います。 ・ところが「熟議を通じて、知らなかった事実に気づき、自らの価値の変容を促され、 それを決定につなげる」プロセス、日本にありますか?ないでしょ? なんと、どんな危険が起きるか。 答え。暴走しがちな行政官僚の裁量行政に白紙委任状を渡してしまうこと。 ・外国で戦力を行使できるようになることで戦後レジームからの脱却みたいな気分に浸れ ると思い込んだ首相に、憲法を変えずにそれを実現しろと発破をかけられた官僚らが、 しかし首相を含めた政治家が気づかない間に、権限の無限拡大を各所に仕込んでいます。 ・もう一つ、なぜ安倍政権はあれだけの強硬策に出てまで、法案の採決を急いだのかを考 えておく必要があります。 それはアメリカと約束しちゃったからなんです。 安倍さんは4月に訪米したときに、議会で大見得を切って、夏までの可決を約束しちゃ いました。 アメリカとの約束を守るためには、野党はおろか、国民の反対があっても、なりふり構 わず突き進む。 そこにこの法案の性格が色濃く出ています。 それこそが、この法案の本質であり、指摘された数々の問題点も、根本的な問題がそこ にあるのではないでしょうか。 ・しかも「アメリカとの約束」と言っても、国防総省は喜んでいるけれども、アメリカ政 府は、別に急いでそんなものを制定してもらいたいとは思っていない。 簡単に言えば、どうでもいいわ、ということですよね。 ・結局のところ、その法案は日本の自発的な行為でもなければ、そもそも日本のためのも のでもないということなんですね。 例えば武力行使の基準となる存立危機事態も「政府の総合的な判断」としか決められな かった。 我われかれ見ると、それは抽象的すぎて政府がやりたい放題できてしまう危険な法律と いうことになりますが、アメリカが戦争への協力を求めてきたときに協力できるように しておくための法案だとすると、事前に基準を明示するわけにはいかなくなります。 かといって、どういうときに武力を行使するかについて「アメリカから求められた場合」 とは法律には書けません。だからああいう内容になった。 ・ただし、今はアメリカのために通した法案であっても、その後どのように運用されるか はわからないので、やはり官僚の暴走の危険性は否定できません。 その暴走はアメリカかれの協力要求の枠内でおこなわれることになるか、その外まで拡 大するのかの違いは、われわれにとっては大きな意味を持ちません。 どんな理由があろうが、憲法も国民の意思も無視して、国民の命の危険に晒すような武 力攻撃をおこなうことが問題なのですから。 ・行政官僚の権限の無限肥大については、行政官僚機構を抜本的に変える意欲と力を持つ 強い政治勢力を、有権者が選挙で誕生させるしかありません。 国民を前に威張る行政官僚も、国民の空気に押された政治家には弱いのです。 ・だから、デモには意味があるし、市民の抵抗権は民主主義の最後の砦です。 日本ではまだデモに対する抵抗というか、デモが反社会的な行為であるかのような見方 をする人が少なからずいるようですが、デモは民主主義の太地奈パーツのひとつです。 ・逆に、今回、日本でデモが大規模になってきているということは、その手前の民主主義 の防波堤がことごとく突破されたと国民の多くが感じていることを反映しているのです。 ・ここで言う突破された民主主義の防波堤とは、例えばこれまで中立的な立場で憲法との 整合性をチェックする機能を担っていた内閣法制局長官に、集団的自衛権の容認を公言 する外務官僚を一本釣りで任命したり、これまた民主主義の重要な防波堤の一つである メディアに容赦なく介入をしてみたり、閣議決定で憲法の解釈をしたかと思えば、いい 加減な国会答弁を繰り返した挙句、法案を強行採決してしまったことなどです。 脆弱になっていく国家・日本の構造とは (なぜ三島由紀夫は愛国教育を徹底的に否定したか) ・文部科学省は新たな学習指導要領を告示しました(2015年3月)。 これにより小学校は2018年度、中学校は2019年度から「道徳」が正式な教科と なり、検定教科書と評価が導入されます。 「道徳」が評価を伴う教科になるのは、戦前から戦中にかけて実施された教科「修身」 以来のこと。 「子供たちに正義や愛国心を教えられる」と歓迎する声もあります。 ・三島由紀夫が「愛国教育」に反対していたのは有名です。 三島由紀夫はもちろん天皇主義者の右翼です。 ・巷には右翼と左翼をフランス革命に遡って説明する人だらけだけど、平等が是か非かと か、社会主義が是か非かとか、イデオロギーの内容に結びつける理解が大半でデタラメ。 戦前は「石原莞爾」や「北一輝」などの右翼の多くが資本主義を否定していたが、説明 できますか? ・右翼(主意主義)とは、損得勘定を超えて、内から湧き上がる力を愛でる立場です。 僕の言葉では「自発性」ならぬ「内発性」を尊ぶ立場が右翼です。 端的な意志を尊ぶのが右。 ・そういう意味で右翼である三島由紀夫は、「愛国教育のようなもの、道徳教育のような ものをやると、何が起こるのか」についてシミュレーションしています。 いったい何が起こると思いますか? 答えは、増えたのは愛国者ではなく「一番病」「優等生病」。 優等生が「ぼくこそが愛国者です」と愛国者ブリッコする。 損得勘定の「自発性」で愛国ブリッコする「浅ましい輩」「さもしい輩」が増える。 そんな輩は愛国者の風上にも置けません。 ・日米開戦の直後に招集された、敗戦後の日本を統治する方法を研究する米国の特命チー ムの「リーダー・ルース・ベネディクト」は、有名な「菊と刀」で、日本兵は狂信的ナ ショナリスト(愛国者)だと思っていたら、まったく違った、ということを書いていま す。 ・捕虜になった日本兵はみんな、シャワーを浴びさせてもらい、食事と寝床を与えられる と、翌日から極秘事項であれペラペラと喋りはじめる。 狂信的な愛国者は一人としていなかった。 彼女はそこに、日本独特の「罪の文化」ならぬ、「恥の文化」を見出だしたわけです。 要は、周囲の視線を気にして、愛国ブリッコしていただけ。 三島は教養人だから、彼女のこうした分析を熟知しています。 そんな三島にとって大切なことは、損得感情の「自発性」を超える、内から湧く力であ る「内発性」ゆえに国に貢献する者を育てることです。 ・愛国教育であれ、国への貢献(に向けた教育)の義務化を提唱する輩は、「損得勘定な らぬ、内から湧き上がる力」以外は実際には愛国に役立たないというギリシャ以来の知 恵を、ないがしろにする無教養な田吾作に過ぎない。それが三島の考えでした。 ちなみに、そんな「内発性」を支える中核こそ、天皇への愛と尊崇の感情だと三島は考 えたのですね。 ・三島は道徳教育一般がダメだとは言っていません。 しかし「自発性」と「内発性」の区別もできない田吾作が、「先生」と称して愛国教育 をするなど、あり得ない。 ・総理大臣の質だけでなく、日本の教員の質も考えましょう。 そうすれば、道徳で成績をつけることを制度化するという施策が、「一番病」「優等生 病」のインチキ愛国者を量産する結果を反復してしまうだろうことは、もはや明白すぎ るはずです。 ・三島由紀夫に言わせれば、戦前戦中の自称愛国者の大半が、「一番病」「優等生病」、 要するに「浅ましく、さもしい輩」です。 ・愛国教育を義務化するなら、ネトウヨやストーカーのような国辱的な存在を育てないた めの道徳教育をしろ。 浅ましい人間を育てる愛国教育じゃなく、立派な人間を育てる道徳教育をしろ。 せめて三島由紀夫の愛国心に関する基本テーゼくらいは教養として学べ。 (「沖縄本土復帰」の本当の常識と「沖縄基地問題」の本質とは) ・1951年にサンフランシスコ講和条約が結ばれて翌年4月施行されます。 そしてアメリカが沖縄の施政権を握ると決められました。 日本の主権が回復した条約で、アメリカによる沖縄統治継続が決まったのです。 ・沖縄米軍基地は、初期は、敗戦直後に沖縄の人々が収容所に入れられている間に無断で 接収され、朝鮮戦争時には、土地で生活をしていた人たちの眼前で、沖縄の人たちの象 徴的な言い方では「銃剣とブルトーザーで」接収された。 補償も支払いもなく暴力によるものです。 ・とはいえ沖縄全土が復帰一色だったわけじゃない。 第一に土木関連勢力が、第二に飲食業・風俗業勢力が、権益を失うとして返還に反対。 第三に労組・新左翼陣営が、安保体制継続とのバーター取引だとして返還に反対しまし た。 ・これらの反対陣営に対してお金が動いた事実もあります。 ちなみに、今日に至るまで、「経済的権益を追求するがゆえに露骨な陣営対立を見せ、 それゆえに本土の政治家や官僚から徹底的に馬鹿にされながらツケ込まれる」という失 敗を沖縄は繰り返してきました。 ・例えば、辺野古基地について防衛省は当初、基地新設にならず、埋め立ても伴わない、 キャンプシュワブ内を考えていましたが、これを覆して、辺野古埋め立て案を米軍との 直接交渉でまとめたのは、県北の建設業界の人々「沖縄県防衛協会。当初は仲井眞弘多 前知事が代表」です。 理由は、新たに海を埋め立ててもらったほうが、砂利とコンクリートを大量に発注して もらえるからです。 遡ればキャンプシュワブと周辺繁華街の開発自体、1950年代末からのアップル中佐 と地元民たちの積極的な協力関係によってなされてきたものです。 ・でも、基地返還への反対を単位利権亡者の愚昧として却けられません。 「全体として沖縄の基地がなくならないのなら、基地の立地継続を前提として経済的利 益の極大化を目指すことが沖縄のためになる」というのが、仲居真氏ら基地返還反対勢 力の伝統的な発想です。 ・「全体として沖縄の基地がなくならない」との前提を自明なものとして沖縄内の基地返 還反対勢力に信じ込ませた責任を、本土のわれわれは免れません。 でも、本土の役人や政治家による基地返還反対勢力へのつけ込みを許してきた沖縄自体 も到底イノセントとは言えません。 ・現に、県民の選挙で、基地返還反対勢力を代表する稲嶺恵一知事と仲井眞弘多知事が選 ばれ、4期16年の長きにわたり、食称した基地経済に代わって、基地の見返りとして の膨大な交付金を頼った県政を継続してきた事実があります。 ・復帰の段階では50%台だった米軍専用施設の割合が、今日74%近くまで上昇し、 日本全体のそれの4分の3が集中、沖縄本島の19%の面積を占めるまでに肥大したの は、なぜなのか。いくぶん複雑な事情があったのです。 ・知事選における翁長雄志氏の「オール沖縄」運動は、従来の自民党支持者から共産党や 沖縄社会大衆党の支持者まで含めた沖縄の人たちが、価値を級友するための、じつに素 晴らしいチャンスになりました。 ・イデオロギーと利権を超える「オール沖縄」は良いが、沖縄アイデンティティを持ち出 すのは違うと危惧しました。 地元新聞がこぞって、スコットランド独立運動を沖縄にひきつけ、「アイデンティティ かカネか」と紹介していたからです。 これは粗雑な思考です。今日アイデンティティベースの独立運動はありえません。 アイデンティティをもちだすと差別や抑圧が陰蔽・奨励され、むしろ分断工作に近くな ります。 ・アイデンティティに頼れば宮古差別、八重山差別・奄美差別が隠蔽されます。 沖縄には昔も今も、琉球列島(琉球王府の範域)の全域に拡がる沖縄アイデンティティ など存在したことがない。 「価値のシェア」をベースに「オール沖縄」を展開すべきなのです。 ・「九条平和主義の矛盾」があります。 九条平和主義はアメリカの「核の傘」を前提としてきました。 核ならずとも、イザとなればアメリカが日本のために武力行使してくれるはず。 そのためにも、米軍に基地を提供し、米軍と米兵にあまたの便宜を図ろう・・・・と。 矛盾の第一は、イザとなれば米軍の武力を頼るのだから、平和主義でも何でもないこと。 矛盾の第二は、こうした九条「インチキ」平和主義が、米軍基地のために沖縄を差し出 すことで可能になってきたこと。 何で日本全国で引き受けずに、沖縄を差し出しているんだ。 ・これらの2つの矛盾は、沖縄で生きていれば自明です。 それでも、日本がアメリカに追随して戦争することがなければ、カネと引き替えに何と か我慢できた。 ところが日本がアメリカを応援して戦争することになれば、沖縄の基地が攻撃を受ける 可能性が現実化します。 ・ちなみに「後方支援」などという概念は国際的に存在しない。 あるのは兵站(武器・弾薬・水・食料の補給)です。 兵站提供は国際法では立派な戦闘行為です。 (大震災後の復興過程で露わになった日本社会の「排除の構造」とは) ・未曽有の大災害となった東日本大震災は、単に国土を破壊しただけでなく、日本の社会 が抱えている様々な問題を露わにしました。 ・10年後か20年後かわかりませんが、今回被災していない場所、つまり被災していない 方々の近辺でも、「社会が支えられなくなった人々を、行政も支えられなくなって、 その後どうにもならなくなる」という図式、それが明らかになったということなんです。 ・今回、石巻市で僕が見てきたのは復興公営住宅です。 復興公営住宅とは、その名の通り公営住宅です。 ただし被災者のために、所得による入居条件が緩和された上、低所得者は数年間家賃が 低く抑えられます。つまり、入居条件がゆるい公営住宅なんですね。 ・そこに入れるということになれば、仮設住宅に住む被災者は、全員ではありませんが公 営住宅に移ります。 すると、被災者はもう「被災者」というカテゴリーではなく、「立ち直った人」という カテゴリーになったと判断されがちです。たぶんそうなります。 ・しかし、そう簡単な話じゃありません。 なぜか。 復興公営住宅ができる前から、自分で仕事できたり、ローンが組めたり、要は自立可能 な人たちは、櫛の歯が抜けるように、どんどん出て行ってるんですね。 ・その結果、現時点で仮設住宅に残っている人は、ほとんどが自立が難しい弱者です。 病気だったり、高齢者だったり。 そういう人たちがこの時期に、復興公営住宅に入って行きます。だから高齢者率が4割 を超えます。 ・復興公営住宅に入っている人たちの高齢化率は、既に5割を超えます。 そういう人たちだけが集まった社会を想像してほしい。 とてもじゃないが、簡単に「自立しろ」なんて言えません。 ・自立できない人たちが残ることに加えて、もう一つ問題があります。 仮設住宅の時代には、全国から民間支援者が行政のお金で入ることができました。 ちなみに、被災地に限らず日本のケアシステムは、行政から民間が委託されるケースが 7割以上に及びます。 ・民間支援者は頑張っています。 でも、復興公営住宅に入居して「立ち直った」という話になると、予算規模縮小されて 撤退します。 すると、蓄積されてきた民間支援者のノウハウが失われ、行政の住民支援者が圧倒的に 空洞化することが予想されます。 ・こうして弱者が支援から「排除」されます。 「排除」と言っても放り出されるのではない。 むしろ行政による「包摂」にもかかわらず網にかからなかった人々が残り、 それを「包摂」しようとしてさらに残る。 その場所が復興公営住宅です。 これを僕は「排除の濃縮」と呼びます。 ・また、統計と実態との乖離の問題があります。 自殺というと鬱が話題になります。 仮設住宅に住む被災者たちに鬱の罹患がたいへん多いことが現場から報告されています。 しかし実際の統計データには「鬱は2割」としか出てきません。 なぜか。 そこには生活保護と似た問題があります。 ステグマー負の烙印ーを押されるのを恐れて生活保護の受給を申請しない人が多いので 生活保護の捕捉率が2割前後に留まるのと同じで、ステグマがイヤで医者に鬱状態を申 告しない人が大半です。 ・鬱には社会の病理が濃縮されます。自殺の場合がそうです。 原因としての鬱というと「病気だ」と捉えられがちですが、単なる病気ではありません。 詳しく分析すると、「金の切れ目が縁の切れ目」が浮かび上がります。 病気や事故や倒産で仕事ができなくなる。 すると家族が離散する。 自分を変えする習慣のなかった壮年男性が身体も心もどんどん弱くなる。 挙げ句、一人淋しく死ぬ。 孤独死と同じ因果系列です。 ・」つまり、鬱という「見える症状」として現れている実態の、「見えない背後」を探る と、いくつかの定型的な因果系列ー原因と結果のパッケージが見つかります。 「抗うつ剤を投与して症状を緩和すれば終わり」という話ではないし、薬では治らない 場合が多い。 ・ホープレス「未来の希望がない」で、孤独であるがゆえに、沈没していく人たち。 こういう弱者を、どう手当てしていけるのか。 自立可能性のある人から順に行政が「包摂」することで、弱者の「排除」がどんどん 「濃縮」され、どうにもならなくなる。どうするか。 ・「そもそも、なぜこうした事態が起こるのか」を考えるほかありません。 これは「震災が引き起こした」ものなのか。 ある意味ではそうですが、別の意味ではそうじゃない。 なぜなら、今後は同じ事態が被災地に限らず生じるからです。 ・震災の事後対策以前に社会の空洞化を取り除かないと、結局は「排除の濃縮」で、普通 に見える人がやがて野垂れ死にます。 ・要は「見えるもの/見えないもの」の差異に敏感になることが大切なのです。 復興公営住宅問題で露わになった「排除の濃縮」とは、もともと深く広く拡がっていた 「見えない」社会の空洞化が、震災をきっかけにして「見える化」しただけなのです。 ・その意味で、今既に抱えている「見えない」問題が、被災地で「見える化」しているの です。 つまり、皆さんの多くが未来に陥るだろう状況が、現在の被災地で展開しているわけで す。 ・社会学や政治学の常識ですが、「行政が個人を直接支援する図式」には限界があります。 財政的な限界もあるし、情報的な限界もあります。 困っている人にもいろいろな背景の違いがあります。 それを行政が認知するのは不可能です。 共同体が認知する必要があります。 ・「行政が共同体を支援する図式」にしか高い実効性を期待できません。 例えば、震災直後、支援物質が被災地に届けられたのに、多くの避難所で全員分が揃う まで配分できない事態になりました。 「なんでアイツが先にもらうんだ」という浅ましい争いが頻発したからです。 ・1%にも満たない生活保護の不正受給に吹きあがるくせに、2割前後の捕捉率しかない 状態ー先進国では7割から8割ーに憤激しないという浅ましいネットユーザーが目立ち、 それを当て込む頭の悪い政治家が目立つ、というのも、同じ事情が背景にあります。 ・また、政府による貧困家庭の支援に反対する人の割合が、先進各国で8%前後、アメリ カでさえ28%なのに、日本では38%に及ぶ背景にも、貧困が「個人よりも共同体の 存続に関わる問題だ」という意識の乏しさがあります。 ・柳田国男が見通したように、日本の共同性は、個人を抑圧する側面を含めて、農村的生 活と表裏一体でした。 だから敗戦後に就農人口が6割から2%に激減するような社会変化があれば、社会の空 洞化を回避するのは、そもそも無理なのです。 ・同じ理由で、空洞化を手当てするべく、昔と同じ共同体を復活するのも、まったく無理 です。 であれば、何が処方箋になるか。 答え。 かつて存在した共同体のいろいろな機能の一部について、かつてとは別のリソースを使 って、かつてと等価な機能をもたらす他ありません。 ・つまり、等価機能主義(機能的に等価な働きをするものを突き止める方法的立場。未開 社会には法律も法実務家もないが、呪術や自殺の風習が法と等価な機能を果たす)の立 場からする「再帰的(反省的)な共同体構築」だけが、処方箋になります。 その意味で、民間支援者が抜けてノウハウが継承されなくなるのは、実に大問題なので す。 ・継承すべきノウハウの一つを挙げれば、仮設住宅地域の中には、昔とった杵柄で「ラジ オ体操をしましょう」みたいに声をかけて皆を動員する人が「たまたま」存在したおか げで、地域の共同性を新たに構築することに、成功したところが、少数ながらも存在し ます。 ・でも、「たまたま」と言ったように、仮設住宅地域にそういう人がいるか、いないかは、 今まで「偶然」に委ねられていました。 いたらいいけれど、いなければ 「排除の濃縮」が進むだけです。 その意味で、「偶然」委ねずに、ノウハウとして蓄積しなければなりません。 ・今は「仮設住宅から復興公営住宅へ」の流れで、予算が切られ、民間支援者が抜けてい く過程です。 民間も行政も「再帰的な共同体構築」のノウハウを早急にとりまとめ、伝承する必要が あります。 それが「被災地の姿は、将来の自分たちの姿」を回避する道だからです。 ・でも、実際には、こうした問題意識を持つ人は民間にも行政にもほとんどいません。 そういう状態で「皆が復興公営住宅に転居し、被災地は立ち直った」という話になり つつあります。これを放置すれば、「被災地の姿は、将来の自分の姿」になるしかあ りません。 (除染土処理の「中間貯蔵施設」建設計画はすでに破綻している?) ・「中間貯蔵施設」という言葉は、青森県むつ市に設置された「リサイクル燃料備蓄セン ター」など、原子力発電所の死闘済み核燃料の貯蔵施設を指す言葉だったのです。 ・日本の原子力発電計画には「全量再処理図式」と呼ばれるものがあります。 燃やした放射性廃棄物から、プルトニウムを取り出し、そのプルトニウムも原発の核燃 料として利用するというもの。別名「プルサーマル計画」と言います。 ・これは「もんじゅ」のような高速増殖炉のフル稼働を前提としています。 放射性廃棄物はこれで全部処理するのだというのが「全量再処理図式」です。 ・高速増殖炉は、技術的困難が多く、建設費用がかかる上に、とても危険で、開発中の原 子炉で事故が相次いだので、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランスなど先進国すべ てが開発を諦めました。 ・つまり、この「全量再処理図式」は実質的に破綻しているわけです。 破綻しているのに、図式が破綻したことを政府が認めようとせず、「いつかは最終処分 する」という建前に立ち続け、「中堅貯蔵施設」という言い方をまだしているのです。 ・なぜか。 理由は、使用済核燃料の「最終処分場」が見つかるはずもないという「トイレのないマ ンション」問題の存在を、あたかも存在しないかのように誤魔化すためのです。 ・「全量再処理図式」なるものは「臍で茶を沸かす」がごとき虚妄です。 「中間彫像施設」と言いつつ最終処分される当てがないですからね。 ・今回は、使用済核燃料ならぬ、放射能を帯びた除染土について、政府が「中間貯蔵施設」 という言葉を使う。 最終処分場に移すまでの間「「一時的に」置かせてくれと言ってきた。 原子力行政の虚妄を今でも引きずる政府を、信用できるとみなすべき材料は、ありませ ん。 ・「全量再処理図式」も「中間貯蔵施設」も、実質を欠いた単なる言葉遊びです。 安倍晋三の爆笑ものの「アンダーコントロール」発言と同じです。 たとえ嘘でも、言った者勝ち。 ・政府の言うことが少しも信用できないので、当然にも地権者が反対し、「中間貯蔵施設」 が置かれる大熊町と双葉町での用地取得が難航しています。 ちなみに、「中間貯蔵施設」の広さは16平方キロメートルもあります。 4キロメートル四方。これは非常に広大です。 ・こんな広い場所に「一時貯蔵」したものを30年で「最終処分場」に移すなどと政府が ホザいている。 しかし考えても見てください。 これだけのものを受け入れる最終処分場を、どこにどうやって作るのですか。 最終処分場の用地取得など到底できるはずもありません。 ・僕はそのことがわかっていたので、事故直後から次のように発言していました。 「双葉町を初めとするフクイチに隣接した地域については、チェルノブイリのように、 ”何キロ圏内は半永久的に人が入れない場所”と決めて、そこに最初から最終処分場を 建設せよ」よ。 ・とことが、当時は民主党政権でしたが、政権の不人気をおそれてそれが言えなかったの です。 ”いつかは戻れるが、今は、日中は入ってよいが夕方になったら出て行く「制限区域」 とする”みたいな、これまた言葉の上だけのお為ごかしをしてしまったのです。 ・結局日本政府は「半永久的に人が入れない場所」ではなく、「いつか戻れる場所」とい うことにしてしまった。 戻れると期待をさせてしまったんです。 ・放射能のレベル的には30年後に戻れるとしても、他の場所に最終処分場を作れなけれ ば、深刻な原発事故が起こった隣接地域に最終処分場を作るしかなくなり、30年後に も戻れなくなる。それは仕方ありません。 原発を立地させる以上、そうした責任を引き受ける覚悟をする必要があります。 ・自分たちの頭で考えるのが自治であり、当初から危険を指摘する議論にこと欠かなかっ た以上、政府にだまされたという物言いを、僕は認めません。 これを百歩譲ったにせよ、今後、原発再稼働に賛成した近隣地域は、深刻な事故の際に は直ちに最終処分場になることを引き受けるべきです。 ・フクイチの地元が「100%安全だと政府に騙されていた」のだとしても、深刻な事故 が起こった以上、「中間貯蔵施設」などというお為ごかしはありえないので、直ちにフ クイチを中心とする4キロ四方に匹敵する地域を「半永久的に人が入れない場所」とす るべきだったと思います。 ・ありえないお為ごかしの連発は、民主党政権であれ自民党政権であれ、政権政党の違い には関係がありません。 日本の政治が行政官僚らによって引き回されているがゆえの、「今さえよければいい」 という無責任の構図です。 これが実は戦前戦中から変わらないのです。 ・僕は麻布中高出身で友人に霞が関が少なくありませんが、彼らを見て推測するに、無責 任の構図とは、極東軍事裁判におけるA級戦犯らの証言と同じで、「内心忸怩たる思い はあったものの、今更やめられないと思った、空気には抗えなかった」という図柄です。 ・「主権(政治家)よりも執行(官僚)が主導権を握る」という、複雑さを増した社会シ ステムではただせさえ生じがちな傾向が、日本では政治家の無能ゆえにブレーキがかか らず、取り返しがつかない行政官僚制の暴走を招き寄せます。 ・他の先進国では意味があるはずの、特定秘密保護法や集団的自衛権をめぐる議論も、 首相のヤジに象徴されるような政治家の無能ぶりゆえに、行政官僚制が暴走する「悪い 場所」日本においては、「ブレーキのない車」に手を貸すことになりがちです。 ・思えば、政府事故調の「畑村洋太郎」さんも、再稼働問題について「政府は何をやって いるんだ」と新聞紙上で怒っていました。 「ここまでやれば安全」と慢心して再び類似の事態を引き起こすことがないよう、教訓 を学ぶことが大切なのに、スルーされているのではないか、と。 この国は大丈夫なのか。 (なぜ自民党はテレ朝・NHKの放送番組に突然介入してきたのか) ・2015年4月に自民党が、テレビ朝日とNHKの幹部を呼び、事情聴取を行いました。 テレビ朝日については「報道ステーション」で下と経済産業省官僚の「古賀茂明」さん が菅義偉官房長官を名指しして、「官邸のみなさんにはものすごいバッシングを受けて きました」などと言って批判したこと。 NHKについては、クローズ・アップ現代」で「やらせ」が指摘されている問題に関し てでした。 ・聴取の後には、「川崎二郎」・情報通信戦略調査会長が「放送法に照らしてやった」と 記者団に述べるなど、あくまで「放送法に基づき、真実が曲げられたかどうかを検証す る」という方向性でした。 ・しかし、その放送法をよく読むと、3条で「放送番組は、法律に定める権限に基づく場 合でなければ、何人からも干渉され、または規律されることがない」としており、放送 への介入を禁じているように思えます。 ・川崎二朗さんの発言は大笑いですね。 「事情聴取」などと言いますが、自民党にはそんなことをする権限は微塵もありません。 だから、テレビ朝日もNHKも、自民党からの呼びつけを単に突っぱねればいいだけの 話。 ・監督官庁は総務省ですから、総務省に呼ばれたら出向かなければいけませんけれども、 自民党の言うことなど無視していればいい。それが先進国標準です。 しかし「なぜ日本では無視できないのか」というところに、問題の「そもそも論」が横 たわっています。 ・そもそもの問題の元凶はどこになるのか。 答え。 それは、「放送免許制度」にあります。 根が深い問題です。 出発点は、終戦直後の大政にまで遡ります。 敗戦後のアメリカ占領下、GHQの指示により、電波監理委員会が作られたのですね。 これはアメリカのFCC(連邦通信委員会)に相当する独立行政委員会で、政治的に中 立の立場から放送免許を発行し、放送局を監督する、第三者機関でした。 ・ところが、サンフランシスコ講和条約が成立した1952年に、とんでもないことが起こっ たのです。 ようやく施政権が日本に戻ってきたのですが、そこで当時の吉田茂内閣が、すぐさま電 波管理委員会を潰していしまったのです。 これはなぜなのか。 はっきりわかっていませんが、推測はできます。 「アメリカの介在」です。 ・吉田茂内閣が電波監理委員会を潰してしまった結果、どうなったか。 それが僕たちにとっての問題です。 政府が直接テレビ局やラジオ局に免許を与えるという、先進国の中でまったく例外的な 現行制度が始まり、今に至っているのです。 ・政府が直接免許を出すという制度は、潜在的に威嚇的な枠組です。 命令がなくても放送局が政府に迎合しがちになるからです。 政府だけでなく、政権与党を怒らせたら、停波の可能性がある、免許停止の可能性があ る、というところまでビビッてしまうのです。 ・放送法の3条は政治的圧力を禁止していますが、政府が直接の免許を発行する潜在的に 威嚇的な状況での、今回のような呼びつけは、どこの国から見ても、誰が見ても、完全 に政治的圧力です。 ・こうした事態において、政府が加害者で放送局が被害者だとは、実は言えないのです。 むしろ、そこにこそ、現行の制度の、根本的な問題があります。 ・政府に直接の免許発行権限があるということは、免許を発行された放送局の権益を、 政府が徹底的に保護してくれるということです。 ・具体例。 衛星放送「BS」の枠は非常に限られていました。 ところが、限られた枠だというのに、最初に地上波キー局のすべてに電波が割り当てら れました。 他の先進国のような電波オークションは一切なし。 まさに放送免許制度を背景とした政府の夜権益保護です。 ・新聞社と放送局の「クロスオーナーシップ」(新聞社が放送局を所有する、または放送 局が新聞社を所有すること)もそう。 他の先進国では直ちに問題となりますが、日本では許容されています。 これも、政府に直接の免許発行権限があり、放送局は政府に権益を保護される、という ことが背景にあります。 ・この自民党によるNHKとテレビ朝日幹部の呼びつけについて、大々的に報じていたの は、全国紙の大手新聞社の中では毎日新聞だけです。 なぜだかわかりますか? 大手新聞社の中で毎日新聞だけが、放送局を持っていない、あるいは放送局に所有され ていないからです。 クロスオーナーショップをめぐる問題が露呈した瞬間です。 でも国民の多くは気づかないままです。 ・こうした政府と放送局の、権益をめぐる持ちつ持たれつの関係があるかぎり、政府や与 党からの指示がなくても、放送局が自ら進んで政府の意向に沿おうとします。 放送免許制度が現行のままであるかぎり、批判をしても事態は変わりません。 ・その結果、放送法3条が規定するような放送の中立性が、きわめて損なわれやすい脆弱 な状態に、「元々なっている」のです。 安倍首相や自民党の横暴を指摘したい人たちの気持ちもよくわかりますが、それだけで は問題の本質を完全に見誤っていることになります。 ・放送法の中立性が脆弱だということは、立憲政治を掲げる国家として脆弱であることを 意味します。 立憲政治は、国民が国家を、あるいは市民が政府を、操縦することが基本です。 層中の中核は選挙です。 選挙が有効に機能するために、中立公平な報道が必要です。 ・中立公平な報道とはどういうことか。 中立公平な報道とは「政府の肩を持たない、政府批判が自由だ」ということです。 表現の自由も同じで、政治からの自由、つまり政府批判の自由を、もともと意味するも のなのです。 ・アメリカなどの先進国では、放送の中立性とは、政府批判をしないことではなく、 @同じ批判の基準を政府以外のすべてにも適用すること A時間帯や視聴率など同等の条件を前提とした反論権を保障すること ただし同等性は放送局にだけ判断権があります。 ・それに照らせば、にほんにおける自民党的な「放送の中立性」の理解は、安倍首相の 「表現の自由」の理解と同じで、恥ずかしいほどのデタラメです。 しかし、自民党を批判したところで仕方がない。 なぜなら、元凶は、放送免許制度にあるからです。 (憲法学の大家・奥平康弘先生から学んだ「憲法とは何か」について) ・この世代の方々の多くに現に共通しているように、「敗戦をどのように受け止めたのか」 ということが、奥平先生の学者としての方向性を定めた部分が大きいのですね。 ・奥平先生を理解するための前提があります。 法と道徳の関係です。 近代憲法には「法と道徳の分離」といって、道徳については法で規定せず、市井の人々 が互いに「あなたは道徳的に間違っているよ」と言い合えばいい、という原則がありま す。 ・なのに、道徳ー性道徳が典型ですがーを法に書き込もうとする浅ましい輩だらけ。 浅ましさは、自分の思いどおりに人を操縦したがる点にある。 だったら法に頼らず自分で言え!そのための表現の自由だろ! ・法は道徳じゃない。 法は、殺すな、盗むなとか、車は左側通行とか、それがないと社会生活が成り立たない 最低限のプラットフォームと機能付与に関わる。 人によって異なる道徳的な価値観を、法に書き込むなど、多様性を旨とする近代国家じ ゃありませんぞ! ・それを踏まえて、奥平憲法学の核心「表現の自由」です。 憲法で門とも大切なのは、「思想、表現、信仰の自由」。 実際、大半の近代憲法は冒頭にこれ。 ・なぜ「表現の自由」がすべての中核か、わかりますか? 「表現の自由」が制約されていると、どんな表現が制約されたかさえ表現できなくなる ので、僕たちは何が制約されたのかがわからなくなるからです。 ・例えば、特定秘密保護法を考えましょう。 先進各国にも似た法律がありますが、秘密保護期間についての25年ルールや30年ル ールがあって、ルールの適用除外を政治家や官僚が煥手に決められないようになってい ます。 日本ではこれが不十分だから恐ろしいのです。 ・隠された文書の、所在を永久に言ってはいけないのでは、僕たちは文書の所在を知り様 がありません。 その結果、社会の実態、とりわけ政治や行政の実態を知らないまま、思い込みを修正さ れずに、政治体制とそれを支える党派を是認し、「悲劇」が訪れます。 ・「法やそれに基づく行政が、憲法の枠内にあるかどうかを、たとえ事後にではあれ、 人々が適切に判断できるためにも、「表現の自由」がまず第一です。 ・法律の宛名人は市民です。 だから法律は「市民に対する命令」として機能します。 対照的に、憲法の宛名人は統治権力です。 だから「統治権力に対する命令」として機能します。 わかりやすく言えば「市民から統治権力に対する命令」として機能するべきものが憲法 なのです。 ・「統治権力に対する市民からの命令」として機能しないものは、近代憲法じゃない。 では、その市民からの命令によって、市民による統治権力のコントロールが適切になさ れるために、一番必要なものは何でしょう? そう「表現の自由」です。 我々は情報を十分に知らなければいけません。 統治権力よりも知らなければいけません。 だから「表現の自由」があって、それに実質を与えるためにディスクロージャー(情報 公開)の必要(知る権利)もあるわけです。 ・こういう憲法学の「常識」がわかっているかどうかを測る「ものさし」となる、実に面 白いツールがあります。 自民党憲法草案です。 これを読んだ瞬間に爆笑できるかどうかです。 ・安倍首相だけでなく、憲法草案の作成に関わった「片山さつき」のような政治家たちが、 「政府を縛る憲法は、王権時代のもの」とマジ顔で語っている。 統治権力が非成文であれ憲法で縛られているのが、イギリスの立憲君主制だけど、イギ リスが王権かよ。大丈夫か? ・東大の法学部を出て、政治家になった。 場合によっては官僚を経由して政治家になった。 そんな人たちが、憲法草案の作成に関わっているのに、憲法の「常識」つまり、立憲史 と基本原則について、事実上知らない。恐るべきかな。 ・僕自身は若い時分から、「軽武装・対米従属を脱して、重武装・対米中立を目指す」 という観点ゆえに「将来は9条改正をするべきだ」との一貫した立場です。 むろん憲法の何たるかを弁えない政治家が跋扈するいまの状況では、時期尚早なのは言 うまでもない。 (広島・長崎原爆投下から70年と川内原発再稼働の偶然性とは) ・1945年8月の敗戦間際に、日本は2つの原爆によって年内だけで21万人以上の民 間人が殺されました。アメリカのよって殺されたのです。 その後、1954年3月にはアメリカによるビキニ環礁の水爆実験で第五福竜丸が被曝 して、世界的な大事件になりました。 ・ちなみに、東京大空襲で約10万人がアメリカのよって殺されたことと、沖縄の地上戦 でも10万人近くもの沖縄出身の民間人がアメリカによって殺されたこと。 民間人の死者を数えることはとても重要です。 ・日本は、福島第一原発の事故以前にアメリカの核兵器で3回も被曝した被曝大国です。 「にもかかわらず」と言うか「だからこそ」、日本は原子力平和利用=原発推進の方向 にアクセルを踏み、その結果として福島第一原発事故で4回目の大規模被曝を経験しま した。 ・「潜在的な核抑止力」という言葉を御存知ですか? 「いざとなったらすぐ原爆を作れる体制にあることそのものが核抑止力になる」という 理屈です。 これは「石破茂」さんが福島の原発事故が起きった2011年の年末に堂々と表明した 持論で、古くは外務省が内部文書に記録しています。 ・1953年12月8日。この12月8日はもちろん真珠湾攻撃の日ですが、この同じ日 にあえて行われた国連総会での「アイゼンハワー大統領」の演説を御存知ですか。 一口は言えば「アメリカは、原子力の技術を独占するのをやめ、各国に平和利用しても らう」との内容。 敗戦必至の日本に原爆を2発も投下した非人道的に対する批判の高まりに、冷戦体制深 刻化を背景としつつ対応したものであることが、証言や文書からわかっています。 ・ところが54年3月、ビキニ環礁水爆実験で第五福竜丸が被曝してしまう。 この大事件で国際世論がおおいに盛り上がります。 日本でも大々的に報じられて反核世論が圧倒的となります。反米ムードも高まりました。 ・アメリカは、第五福竜丸による反核・反米世論の盛り上がりを共産主義勢力によって利 用されるのではないか、共産主義勢力が伸長するのではないか、と激しく恐れました。 そこで危惧に対処すべく、第五福竜丸の被曝からわずか1カ月後の1954年4月にワ シントンは、日本に原発を建設させることを前途として、原子力平和利用に関する博覧 会を開く計画を立案、55年11月から2年弱、全国11都市で原子力平和利用博覧会 が開催されます。 ・被爆地の広島でも開かれて11万人が来場しましたが、全国では260万人にも及びま した。 アメリカの原子力委員会は報告書に記しています。 「日本人の原子力エネルギーへの態度を目覚ましく変えた。大統領の平和利用構想にこ れほど好意的な国が他にあろうか」 ・日本の反核・反米世論を押さえ込むために、原発建設を見据えた原子力平和利用博覧会 は、大成功に終わりました。 そして、博覧会の終了直後に当たる1957年8月に、日本で最初の原子力発電所にあ たるアメリカ製の実験炉が東海村で稼働した、というわけです。 ・1955年11月からの原子力平和利用博覧会開催に向けた準備が進む中、反体勢力は 同年8月に「原水爆禁止世界大会」を開きます。 大海に向けて集まった署名が何と3000万超。 翌9月には署名運動の実行委員会が母体となり、全国組織の原水協「原水爆禁止日本協 議会」が結成されます。 ・やがて反対勢力が分裂する。 問題は社会主義勢力の核実験、具体的にはソ連の核実験を容認するか否か。 共産党系主流派は「共産主義者は核を持っていい」「ソ連の核実験はアメリカによる世 界支配・侵略に対する防衛のためのものだ」と主張しました。 ・振り返ればあまりに愚昧な主張ですが、これがきっかけで組織が瓦解してしまいます。 長い内部抗争の結果、63年には日本原水協が、主流派だった共産党系の原水協と、 非手中派だった社会党系の原水禁に分裂したのです。 これで反対勢力は一気に弱体化しました。 ・20年以上前になるが、元赤軍派議長の「塩見孝也」さんとトークイベントをしました。 あなたの部下たちが大勢の人殺しをしたが、そのことに関する思想的な誤りをどう総括 するか、と尋ねました。 塩見さんは「当時信じた共産党主義思想は非人間的だった。今は人間的な共産主義思想 の持ち主だ。正しい思想だから間違いは繰り返さない」と答えました。 僕は思わず激昂して「正しい思想だから間違えないなんて考えるから、また人を殺すん だよ!」と怒鳴りました。 ・「正しい思想だから間違えない」などという発想は、僕にとってはありえません。 「共産主義勢力は核兵器を持って良い」は、「正しい思想だから間違いない」という愚 昧の典型例です。 (日本の伝統的なイルカ追い込み漁は、なぜ国際的に批判され続けるのか) ・「日本の伝統」という言い方がよくありません。 「日本の」といってはダメ。 「この地域の伝統」ならばいい。 「日本の」と言うと日本全体にそうしたような伝統があるかのように聞こえてしまう。 それはあり得ない。 ・皆さんは一切の捕鯨禁止ということで国際的合意がなされているとお思いかもしれない けれど、実は捕鯨反対を強く主張するアメリカで、と切れなく捕鯨が行われてきました。 それは、エキスモーーカナダではイヌイットと呼ぶルールですがーの人たちです。 アメリカのアラスカ州だけでなく、お隣のカナダ北部にもいます。 ローカルな昔からの伝統を守ってきた老化ルナ人たちは捕鯨をしていい、という話にな っているからです。 ・こういうローカルな昔からの伝統を守るならばOKという文脈に混ぜてくれと言えばい い。国際標準で扱ってくれと。 ところが日本ではそれを潰す方向で政府がこれまで動いてきました。 日本政府が「日本の伝統だ」と言って巨大な捕鯨船団を擁護してきました。 ・熊野の太地町は近海捕鯨のローカルな伝統を継承してきた場所の一つで、戦国時代には 既に多人数を擁する鯨組を組織していました。 こうした金倦きの伝統捕鯨と遠洋の近代捕鯨を区別せずに「捕鯨は日本の伝統だ」とい った言い方で擁護することはできません。 ・実際、南氷洋の捕鯨船は昭和以降のものに過ぎないのに、日本政府が主体となって「捕 鯨は日本の伝統だ」と南氷洋で調査捕鯨する。 これは日本が国家として明治以来奨励してきた近代捕鯨で、これをエキスモーが継承す る伝統と並べるのは到底無理な話です。 ・エキスモーが継承してきた捕鯨の伝統が、カナダ国家やアメリカ国家が主体であるかの ように語られることはありません。 それと同じように、太地町が継承してきた捕鯨の伝統も、日本国家が主体であるかのよ うに語られてしまう文脈を、外していくべきです。 ・年間漁獲高が100万トンだったニシンが年間4000トンまで減っても、年間1万ト ン獲れていたイカナゴが年間1トンに減っても、漁獲量制限魚種に指定してこなかった のも日本政府です。 資源枯渇が危惧されるクロマグロやウナギについても日本政府は漁獲削減に消極的です。 ・理由は、農水省の官僚が漁業関係者の既得権益にさわりたがらないからです。 でも既得権益の持続可能性を考えたら愚かです。 「将来にわたって魚が安定して獲れるようにするには必要だ」と説得して漁獲を制限、 それで資源を回復させた実績を作るべきです。 ・漁業の行政において日本政府が悪玉になるような事態を回復すべきなのに、実際には反 対向きです。 本来なら日本政府がイニチアチブをとるべきなのに、遠洋漁業にはるばる出かけて世界 のクロマグロの大半を漁獲する体制を、日本政府は放置してきました。 ・これでは、「海洋資源の扱いについて日本政府はまったく信用できない」という国際世 論が生じて定着してしまうのも仕方ありません。 そうした文脈だから、日本政府がしゃしゃり出て「日本の伝統」を語っても、単なるエ ゴイズムだと受けとられてしまうのです。 ・そうした日本政府の愚挙のせいで、ローカルな昔ながらの伝統を守るという文脈で理解 されるべき太地町のイルカ漁が、残念ながら日本政府に対する悪感情ゆえの生贄にされ てしまっている。 ・それと、日本人がどうも自分たちを「小さな島国」だと思い込んでいる節があるのも、 気になる。 しかし実際には、中国に抜かれたとはいえGDPはいまだ世界第三位。人口は1億2千 万人以上。 こんなに人が住む国は、独仏を含めて、ヨーロッパにはありません。 ・ものすごい巨大国家である日本で、人々が回転寿司やスーパーのパックでマグロを食べ まくる。 この巨大システムが海外から問題視されています。 それを「日本の伝統」という概念で擁護していては、「ミソとクソを一緒にしている」 嫌疑がかけられてしまいます。 ・日本がやるべきことは第一に、国際標準の漁業資源管理をおこない、日本のパブリック イメージを変えること。第二に、日本政府として調査捕鯨をやるなどと言う漁業をやめ、 これまでの日本のパブリックイメージをさらに変えること。 それがないと何をやってもずっと無駄です。 ・それらをちゃんとやった上で、政府も民間も、内外に「イルカ追い込み漁は、太地町な どの数カ所が育んできた、ローカルな昔ながらの伝統的な漁法だ」と発信するのです。 ただし、繰り返すと「日本が」でなく「太地町などが」が主語にならなければならない。 ・ただ、それだけでは不十分でしょう。 エキスモーの人たちと違って、太地の人たちが今では、国内はもとより、他の近代国家 の人たちと同じ、近代的な生活を送っているからです。 ・イルカ追い込み漁をすることについて、単に昔からやってきたからだという言い方では 足りない。 「伝統を守ることが村の存続にとっていかに重要なのか」というリーズニング=理路を、 それなりに展開する力が必要になります。 ・「この映像を見てみろ。○○を殺して食べるのは残虐だ」といった「感情の政治」は例 外なく一方的です。 子草的に許容されたエキスモーの伝統的なアザラシ猟も、撲殺しているところを見れば 残虐な印象で、そういう光景を撮影しようとするNGOもある。 ・しかし、哺乳類を殺して喰いまくっているのは、日本人よりむしろアメリカ人です。 イルカを殺して食べることが惨虐なら、牛や豚やヒツジを殺して食べることも惨虐です。 前者の映像を見せて惨虐ぶりを告発するなら、後者の映像も見せなければ、不公平です。 ・すると、頭の悪い欧米人の一部が「イルカやクジラは知能があるから守らなければいけ ない」と主張します。 なるほど、動物を知能の高い低いで差別的な扱いをしてもいいのならば、人間を知能の 高い低いで差別してもいいんだな、と言う話になってしまう。 人間だけは知能の高い低いに関係なく平等に扱うべきだ、と御都合主義的に反論しつつ 動物を知能で差別し続ける人もいます。 でも、知能障害者の扱いをめぐって彼らが心底から平等主義的であることなど、期待で きるでしょうか。 空洞化する社会で人はどこへ行くのか (ISILのような非合法テロ組織に、なぜ世界中から人が集まるのか) ・ISIL(イスラム国)などの過激派組織に参加した外国人戦闘員の数が2万5千人を 超えたとみられることが、国連の調べでわかりました(2015年4月現在) 外国人戦闘員の出身国として、チェニジア、モロッコ、フランス、それにロシアが挙げ られています。 そして渡航先は、ISILが活動するシリアとイラクで、なんと2万人以上を占めてい るというのです。 ・昔は、外国からの傭兵というと、お金がなくて、家族を養うために仕方なく働きに行く という話で、私情かに組み込まれたがゆえの貧困がもっぱらの理由でした。 ・ところが今、状況が違っています。 「承認をめぐろ闘争」になりました。 チュニジアが典型ですね。この国はアフリカでも最も豊かな近代国家なのに、ISIL へ参加する人が多いのです。しかも貧困像ばかりではありません。 ・次のことが想像できます。 「社会の中で承認されるポジションにつけるはずだったのに、つけなかった」 「ポジションについたのに、期待していた承認が得られなかった」 人たちが、「承認が得られる代替的な場所」を捜し、それがISILだと思い込むので はないか、と。 ・社会の中に、献身的価値をもつ個体として承認してくれる共同体がないから、代替的な 承認共同体を追い求めて、豊かな先進国の人々が「そこ」に出かけるわけです。 「君がいるから我々はここまで頑張れるんだ」と褒めてくれる「そこ」に出かける。 ・ここには、オウム真理教の幹部信者たちと、とてもよく似た構図が見出せます。 オウム真理教の幹部信者は、多くが特段の貧困層ではありませんでした。 むしろ豊かな中流家庭で、高い教育を受けた人たちが多数数存在した、というのは、 皆さんも御存知の話でしょう。 ・僕は1980年前後に自己啓発セミナーに関わっていましたが、驚いたのは、後のオウ ムと同じく、ピカピカのエリートたちが集まっていたこと。 彼らは不全感を抱いていました。 でも、オウム信者らがそうだったと「上野千鶴子」氏が主張する「二流エリート」では なかった。 ・そこに見られたのは「目標を達成できなかった」という挫折感ではなく、専ら「目標に 到達したのに自分は輝いていない」という「こんなはずじゃなかった感」でした。 実際「目標を達成したのに、親以外は自分を褒めてくれない」という思いを語るエリー トが目立ちました。 ・ここには2つの要素があります。 第一は、耐久消費財の一巡によって「物の豊かさ」の時代が1970年頃までに終わっ た結果、多くの人が「目標のアノミー」に陥り、間違った目標を自分の最終目標として 掲げる「目標混乱」が起こったこと。 第二は、目標混乱の背景でもありますが、自分の「共同体にとっての価値」を認めてく れる社会が消えたこと。 ・せっかく東大や京大や早慶に入ったのに、誰も僕のことを見てくれない。 高い教育を受けて社会の中で「共同体にとっての価値」を承認してもらえるはずだった のに、得られない。 そういう人たちは世俗社会の「外」に「代替的な承認チャンス」を探すようになります。 ・これを宗教社会学では「代替的な地位達成」に向かう「埋め合わせ動機」として記述し てきました。 現実社会で「承認が得られる」地位達成がうまくできない人が、宗教教団で代替え的な 「承認が得られる」地位達成をしようとする動機づけを持つことを言っています。 ・オウムの幹部信者たちの場合が、まさにその典型でした。 他方、ISILに参加しようとする先進国や近代国家の若者たちも、よく似ています。 ・オウムに基本的な洗脳手法を提供した自己啓発セミナーに関わっていたのでわかります が、こうした問題が日本でも、80年代には既に顕在化していました。 背後にあったのは、自分の「共同体にとっての価値」を承認してくれる家族共同体や地 域共同体の空洞化です。 ・これはシステム(マニュアルに従って役割を果たす、個人が入替可能な場)が、生活世 界(善意と内発性をベースにした、個人が入替不可能な場)をどんどん侵食する成熟し た近代社会では、一度は必ず起こることだと考えられます。 ・僕たちがその解決方法を見つけ出せない間に、こんどは、グローバル化による資本移動 自由化と、IT化によるホワイトカラーお払い箱化を背景として、急速な中間層分解に よる社会の空洞化に直面。 人々がますます「こんなはずじゃなかった感」に苛まれています。 ・昔だったら故郷に錦を飾るエリートになれたはずの、しかしもはや、それがありえない 人たちが、ママに言われて一生懸命頑張って、「いい学校、いい会社、いい人生」的な 地位を達成したはずなのに、実際には「なんだんだ、これは?」ということになるので す。 ・さて、ISILにおける承認欲求に問題に関しては、ちょっと面白い記事があります。 インドネシアの英字新聞、ジャカルタポストに掲載された記事です。日本でも産経新聞 が紹介したから読んた方もいらっしゃるでしょう。 ISILから戻ってきて逮捕された31歳の男性、ジャカルタポストのインタビューに 答え、「ISILでの生活は、事前の想像とは違っていて、退屈だった、参加する価値 はなかった」と語りました。 「シリアでは、1日2時間だけライフルをもって周囲を警備する他は、電気もない家に 大人数で押し込まれて、ひたすらコーランを読む毎日だった。(自分の存在は誰の助け にもならず)、結局お金もろくにもらえなかった」 としています。 ・明らかにISILの情報宣伝に対するカウンター戦略です。 「ISILでもあんたは承認されないよ、誰の助けにもならないよ」と。 こういうカウンターインテリジェンスが非常に重要なんです。 ただし、重要ではあれ、弥縫策に留まり、問題解決にはならない。 今後も「共同体にとっての価値」を承認してもらえない人たちが、代替的な承認チャン スを求めて蠢きます。 ・ISILがたとえ殲滅されても次がでてきます。 よく言われるように転移性ガンに似て、完治がありえないのです。 共同体の消滅と社会の空洞化を放置して、グローバルな資本主義経済が回るかぎり、 ISIL参加のごとき「承認をめぐる闘争」が永続するのは確実です。 (ドローン少年の逮捕とネット配信に夢中になる人たちの欲望とは) ・2015年の5月に、東京・浅草神社の「三社祭」で、小型無人機(ドローン)を飛ば すとの発言をインターネット上に投稿したとして、15歳の少年が威力業務妨害容疑で 逮捕されました。 その少年はこれまでも長野市の善光寺や国会議事堂近くにドローンを持ち込むなどして 厳重注意を受けていたようです。 ・事件のドローン少年は、遠隔操作ウィルス事件(2012年、匿名化ソフトで発信元を 隠し、ウィルスに感染させた他人のパソコンを遠隔操作して、無差別襲撃の予告メール を送信した事件のこと。これによって4人が誤認逮捕された「パソコン遠隔操作事件」) の片山祐輔被告と似たところがあると感じます。 ・単に事件を起こして社会を混乱させたいのではない。 一生懸命予告し、予告し、予告する。 「予告」というもの自体を、社会に露出し、アピールし続けているわけです。 ・つまり、犯罪そのものよりも、予告に意味があるのかもしれないということです。 単に社会に嫌がらせをしたいのではないということ。 キーワードはまたしても「承認」です。 ・承認には三類型あります。 第一類型は「愛による承認」です。 家族など近隣の人々から固有名を持つ存在として愛されること。 主に子ども時代に問題になるものです。 第二類型は「権利の承認」。 権利を持つ主体として認められるということ。 そして第三類型が「共同体的価値の承認」。 共同体の中で自分が必要とされている、自分の座席があるという感覚を抱けること。 昨今の逸脱行為についてはこれが鍵になる場合が多いんです。 ・今回最も重要な第三類型。 社会の中で必要とされている、居場所がある、という感覚がない場合、共同体や集団の 中で自分のポジションがあるかのような気分を獲得するために、さまざまな奇矯な逸脱 行為をしがちです。 「僕はスゴイ人間だ!」というヤツです。 ・昨今はグローバル化による中間層分解と、IT化をも背景としたホワイトカラー凋落で、 格差と貧困が広がるだけでなく、集団の中でポジションが与えられる経験が得にくくな りました。 だから第三類型の承認不全が起こりやすく、埋め合わせ行動に促されやすい。 そこに今風の事情も絡んで、状況がドライブされてしまう。 今回のソレはインターネットとお金の関係です。 ・「投げ銭」です。 つまり、ネット動画を見た人が資金を提供してくれるということです。 少年への資金提供は、報道によれば、現金やパソコンなど計100万円にも上っていた とされています。 ・細かい事情はどうあれ、皆がもてはやしてくれたうえにソレが収入につながる。 承認を求める側からすれば「一石二鳥」感覚でしょう。 少年はネットでの自己紹介で「夢:配信業で生計を立てる」と言っていた。 第三類型に由来する「一石二鳥」感覚を表しています。 ・今は可処分時間の過半がスマホ経由でネットに使われます。 共同体空洞化とネット化が90年代以降入れ違いに進んだ結果です。 一つ屋根の下の家族が、ネット経由でそれぞれ別の世界に繋がり、希薄な家族より少し は親密な関係を、そこに築いていたりするわけです。 ・そうした時代、リアル社会でポジションがなくて困っている人が、ネットで目立つこと で承認を得ようとするのは自然な話。 いわば「ネットでのポジション取り」です。 ・最近はレイヤーブームが終わって自撮りブームです。 たとえパンチラ写真やハミチチ写真でも、レイヤー時代と違ってカメコ(カメラ小僧) の男性視線をもはや媒介しない、女の子が女の子の自然だけを意識したゲーム。 これも「ネットでのポジション取り」です。 ・男性視線を経由しないのに、エロ化しています。 警察も注目しているので、やがて介入するでしょう。 これはそれでも人畜無害だからいいけど、問題は「ネットでのポジション取り」が、 世間の視線を集めたいがゆえに反社会化しがちなこと。 ・これに対する処方箋には2つの方向がある。 第一は「リアル社会にポジションがないからネットで目立って埋め合わせる営みは、 浅ましく、さもしい」という認識を植えつけること。 徹底的にバカにされると予期されれば、「ネットでのポジション取り」をしないかもし れません。 でも、社会的承認不足を辛うじてネットで埋め合わせている人々が、ねっとで目立つ機 会を塞がれたら、追い詰められて、別の暴発行動に及ぶ可能性もあります。 ・第二に現実的な処方箋は、敷居の低い「ネットでのポジション取り」ツールを用意する こと。 女の子にとっての自撮りがそもそもそうしたもの。 過剰にエロ化しなければ人畜無害なツールでしょう。 でも男の子には等価なツールがない。 (元少年Aの手記「絶歌」の出版はいったい何が問題なのか) ・連続児童殺傷事件を起こした酒鬼薔薇聖斗、「元少年A」によるとされる手記「絶歌」 が出版されました。 出版元の太田出版によると、初版は10万部で増刷を重ねる累計発行部数は25万部と いうことです。 あの事件とは何だったのかをリアルに描いているとする意見もあるようですが、遺族の 了解を得ずに出版されたために、一部の遺族から抗議をうけるという事態にもなってい ます。 ・2015年6月発売の「週刊文春」によれば、この手記は2012年に幻冬舎の見城徹 社長のところに封書で持ち込まれ、見城さんがこれを検討し、しかも週刊文春によると 400万円以上がその作者に貸し出されたそうです。 ・しかし、そのうえで、「やはりウチからは出せない」ということで、見城さんから、 この手記が「太田出版」に譲られたという話があるんですね。 結論から言えば、見城さんの「ウチからは出せないな」という判断と、その判断の背景 がポイントだと思います。 ・見城社長は、出帆するには、 @深い贖罪意識を持つこと A身元確認のためにも実名で書くこと B遺族児事前に挨拶すること(必ずしも同意の調達ではない) の諸条件をクリアする必要があったが、無理だとわかったので、太田出版の岡聡社長を 照会した、としています。 ・とりあえず僕はこれを読んでみました。 当人が書いたかどうかもわからないし、当人が書いたとすれば彼にお金を払うのも不愉 快なので、自分では買っていません。 すでに買ったという友人から借りて読ませてもらいました。 ・あの事件は何だったのか、という疑問を持つ多くの人たちの、期待に応えるような内容 が書いてるのは、事実です。 しかしだからといって「この本が出てよかった」と単純に言えるわけではない。 いくつかの理由があります。 ・第一に、この手記が当人によるものだと判断すべきどんな証拠もありません。 ・第二に、当人のよるものだったとしても、この本が正直な告白さと判断すべきどんな証 拠もありません。 これが犯罪を犯した当人による自己告白的なノンフィクションだと理解すべき材料を、 僕たちは一切持ち合わせていません。 にもかかわらず、正直な自己告白という前提でノーテンキに評価を語るテレビの馬鹿コ メンテーターどもには、辟易します。 本当のところ誰が書いたのかがよくわからないことを考えると、すべての内容的な感想 を保留せざるをえなくなります。 そうした奇妙な本を出版することについての社会的責任はどうなのか。 ・第三に、もし当人による記述だと仮定すると、この本の中には極めて身勝手な主観的評 価がー過去についての現在の記憶としてー山の洋に入っていて、倫理的に不愉快になる。 そうした主観的評価が放棄されていないことが何を意味するのかという問題です。 連続児童殺傷事件の犯人が歴史上の偉人と同列であるかのように自らを語ることをどう 見るのか。 「更生」とは厳密には難しい概念なので敢えて触れませんが、「連続児童殺傷事件の犯 人であれ、こうしたことを書いてよい」という道義的な許容は、ありえなだろうと思い ます。 ・第四に、さらに踏み込めば「僕は病気やねん」という言い方をしているところがありま す。これはまずい。 確かに鑑定では病気だとされて医療少年院に送られた。 でも自分は病気だったという思いを記述することは、倫理意識に疑念を抱かせます。 「自分は病気だった」と病気概念を自己適用することと、「病気だ」と鑑定された事実 との違いは何か。 簡単です。鑑定はどうであれ、自分で自分を「病気だった」とすることで直ちに自己免 罪化が持ち込まれます。 ・第五に、結局「出版」という営みでは、社会的な意味についての、出版社や執筆者の自 覚や反省が問われます。 今回の出版については、法的な問題は出版社にも執筆者にもないでしょう。 だからといって社会的な批判が当たらないとは言えない。 なぜなら我々の社会では、民事、刑事の法的責任とは別に、道義的責任があると考えら れているから。 例えば法が許しても、被害者家族が許さない。あるいは社会が許さない。そういうこと があり得るわけです ・とりわけ被害者が死んでいる場合、そもそもどんな罰を受けたところで、取り返しがつ かない。 つまり原状回復が永久に不可能である以上、永久に埋め合わせられない家族の穴、社会 の穴について、道義的な責任が一生ついてまわると考えなければならないはずです。 だから、法的に自由になっても、道義的には謝罪し続けなければならないという立場に、 犯人はあると考えられます。 そうした道義的な責任をはたすべく、刑期を終えても謝罪し続けて遺族の思いに応える こと。そのことと、本書の無断出版は、やはり矛盾します。 ・せめて、こうした事件に関する、犯人(を称する著者)による手記の出版については、 事前に遺族に通知をし、説得をし、その反応を出版雄是非の判断材料にすべきでした。 もちろん、被害者家族が反対したら出版するな、ということでは必ずしもありません。 ・しかし被害者家族の反応を踏まえた上でどう再検討したのかの道理を、社会に示せるよ うにしておくことが大切です。 ところが太田出版は「遺族の判断を頼ることは出版社としての責任を放棄することにな る」と詭弁を弄している。 遺族の判断を頼る?笑止千万。 ・繰り返しますが、遺族に事前に通知して説得を試みることと、遺族の言うことに従うこ とは、別問題。 家族に周知し、その反応を事前に捉えようとせずに、今も悲しみに暮れている被害者の 家族に不意打ちのように、本書を刊行した道義的責任を、出版社はやはり免れません。 ・だから僕はこの本を買うのは「間違っている」と思います。 25万部売れれば、3700万円以上の印税が著者に入ると計算できます。 もちろん同額以上が出版社にも入るわけです。 これは誤ったメッセージを発信します。 たとえ印税が民事賠償に充てられても同じです。 ・できるだけひどい犯罪を犯して手記を書けば本人も出版社も儲かるぞーという、実にお ぞましいメッセージです。 だからもう一度言います。 この本を出版したことは間違ってますし、この本を買うことも間違っています。 (地下鉄サリン時間から20年。1995年が暗示していたこととは) ・1995年という年のキーワードとしては、1月の「阪神淡路大震災」、3月の「オウ ム真理教の地下鉄サリン事件」、として、僕が騒動を引き起こした張本人の一人でもあ りますが、統治ピークを迎えつつあった「援助交際のブーム」が、挙げられるでしょう。 ・阪神淡路大震災は、大変な大震災でしたが、震災直後から、それかで日本にはあまり見 られなかった大規模なボランティアの動きが日本全国に拡がりました。 だから、95年という年が、しばしば「ボランティア元年」と呼ばれるようになったわ けです。 ・多くの人たちが、やむにやまれず、というか、自分でも動機がよくわからないまま、 阪神淡路大震災の被災地にボランティアとして入ったのです。 そのために、自分で食料などの準備をしていないケースが多くて、現地であれこれ混乱 を引き起こしてもいます。 ・その2カ月後、地下鉄サリン事件が起こりました。 ほどなくオウム真理教の犯行であることが知られ、幹部信者らが入信前は東大医学部・ 慶應大学病院・宇宙開発事業団などに所属するエリートだったことが、驚きをもって語 られるようになります。 ・それとは別に、95年の夏休みから96年の夏休みにかけて、援助交際ブームがピーク になります。 経済目的で貧困層が手を染めるもの、といった従来の「売春」イメージからほど遠く、 むしろ、当初はカッコいい女子がやっているという感覚があったのです。 ・震災、オウム、援助交際。この3つが、実はすべて「同じこと」を告知しています。 「社会の空洞化」の始まりということです。 95年は、それ以前から深く静かに進行しつつあった「社会の空洞化」が、いっきょに 目に見える形をとった年として、記憶されるのです。 ・まず、震災直後からのボランティアブームについてです。 ボランティアに行った人たちの多くには、ある共通の夢想と、それをもたらす共通する 背景があったということです。 ・最終戦争が終わった後の「廃墟の中の共同性」とでも言うべきものです。 最終戦争、石原莞爾の議論より、「火の七日間戦争」(「風の谷のナウシカ」の設定で、 主人公ナウシカたちが生きる時代のはるか昔に「火の七日間戦争」と呼ばれる戦乱が起 こり、文明が崩壊した)みないのものを想像していただければいい。 「最終戦争後の廃墟の中で、新たな共同体を皆で立ち上げる」という夢想が、震災に先 立って圧倒的に広まっていました。 ・90年代前半は、世界をリセットするハルマゲドン待望論や、オウム真理教の麻原彰晃 が説法でとっていた、近い将来訪れるハルマゲドンに備えよという話を含めて、 「ハルマゲドン」こそがキーワードだった。 ・この種の夢想をあたかも現実化するようなカタチで、ハルマゲドンならぬ阪神淡路大震 災が起き、「廃墟の中の共同性」を求めるようにして、被災地にボランティアに出かけ た人たちが大勢いたのです。 ・2011年3月11日の東日本大震災の後、とりわけレベッカ・ソルニットの「震災ユ ートピア」が話題になりました。 そこには、どんな先進国でも大災害のあとに「廃墟の中の共同性」が出現することが書 かれています。 ・要はこういう話です。 僕たちは普段はシステムに依存しています。 システムとは、マニュアルに従って役割を演じられさえすれば、人が入替可能な存在 (匿名存在)でありうるような領域です。 そこでの人々の動機は、損得勘定の「自発性」が専らになります。 ・ところが、災害でシステムが動かなくなると、生活世界が浮上してきます。 生活世界とは、伊都が、損得勘定を超えた「内発性」(内から湧く力)を専らの動機づ けとして動く領域で、そこでは人は入替不可能な存在(記名的存在)です。 ・システム崩壊でいっとき出現する生活世界が「災害ユートピア」です。 そこでは人々が互いに損得勘定を超えた「内発性」を実感。 自らの入替不可能な「共同体にとっての価値」を見出だし、テクノロジーに覆い隠され ていた身体性を奪還して、高揚します。 ・続いてオウム真理教の話ですが、70年代末、ナンパ・コンパ・紹介の時代、すなわち 「性愛の時代」の、”仰々しい”始まりにシンクロして、新興宗教から自己啓発セミナ ーまで含めた「宗教の時代」が”秘かに”始まったのでした。 ・当時の僕は「性愛の時代」と「宗教の時代」の双方を見渡せるポジションにいましたが、 70年代末から、地下鉄サリン事件の95年まで、宗教セミナーや自己啓発セミナー、 超能力セミナーに、巷でエリートと呼ばれる人たちが大量参入していました。 ・そこで見られたのは「目標に到達できなかった」という挫折感ではなく、専ら「目標に 到達したのに自分は輝いていない」という「こんなはずじゃなかった感」だった。 せっかく超一流大学に入ったのに、親以外は僕のことを見てくれない。 エリート教育を受けて社会の中で「共同体にとっての価値」を承認してもらえると思っ たのに、全然ダメ。 彼らは世俗の「外」の、宗教集団に「代替的な承認チャンス」を探すようになります。 「共同体にとっての価値」の承認不足が「代替的な地位達成」に向かう動機づけを与え る、ということです。 ・最後に援助交際についてお話しします。 ブルセラ&援助交際ブームの出発点は1992年のことですが、僕の性愛関連のフィー ルドワークは85年からです。 だから、ブームに先立つ7〜8年間、若い女性たちの性愛行動を全国規模でウォッチす る機会に恵まれました。 ・80年代前半は「ニュー風俗」のブームで、素人の女子大生や専門学校生がブウ族で働 くことが話題になり、80年代後半は「テレクラ」と「伝言ダイヤル」ブームで、中高 生から主婦に至るまで大々的に性愛に乗り抱いたことが話題になりました。 ・この80年代の10年間を通じて、高校生女子の性体験率が倍増、高校生男子の性体験 率を抜き去ります。 しかし、その結果、女の子たちの悩みは、「性愛に乗り出せないゆえの悩み」から「性 愛に乗り出したゆえの悩み」へと、シフトすることになりました。 ・象徴的なのが、同じ1979年に創刊された雑誌「マイバースディ」と「ムー」です。 「性愛に乗り出せないがゆえの悩み」を受けとめるオマジナイ雑誌が「マイバースディ」 です。当初は「ムー」はマイナーで「マイバースディ」が圧倒的なブームでした。 ・転機が86年、ナンバーワンアイドル「岡田有希子」の飛び降り自殺です。 そのあと一年余、「ムー」の読者欄で前世の名前を呼びかけ合い、思い当たる子たちが 初対面で出会って、一緒にビルの屋上から飛び降り自殺するようになり、「ムー」のブ ームになりました。 ・岡田有希子の自殺は、30歳以上も離れた芸能人男性との恋に破れてのことだと雑誌に 書かれていましたが、僕が話を聞いた若い子たちの多くは、年長男性との失恋ではなく、 年長男性に向かわざるをえなかった「性愛の不毛」にこそシンクロしていました。 ・要はこういうことでしょう。 80年代を通じて、若い女の子たちが大々的に性愛に乗り出した。 ところが、少女漫画を読んでロマンを育てていた彼女立ちにとって、実際の性愛コミュ ニケーションは大いに期待はずれだった。 ・僕は、多くの女の子たちから、でーと言っても「ハチ公前交番のまで会って、ファース トフードテイクアウトして、ラブホに行って、セックスして、終わり」みたいなのばっ かりで、つまらないという話を聞いていました。 ・それで、「そんなのやってらんねえよ」というふうになった女の子だとが、90年代に 入る直前に、男の視線とは完全に無関連に踊りまくる「お立ち台ディスコ」ブームを経 て、「読者ムード」ブームや「アダルトビデオ出演」ブームへと、向かうようになりま す。 ・その挙げ句に出てきたのが、「ブルセラ&援助交際」ブームだったので、93年にフィ ールドでそうした営みの最初の形を見つけたとき、僕には驚きも不自然感もありません でした。 僕が少しも驚いていないので、下世話な好奇によるものではないと安心した女の子たち が僕に話してくれたのです。 ・震災・オウム・援交。これらすべてに共通するニュアンスがあります。 「この社会をどんなにうまく生きてもツマラナイ」ということです。 これが「社会の空洞化」の始まりに当たります。 ただ、当時はまだ、「社会の空洞化」がそれほど理解されていませんでした。 それが97年になると、アジア通貨危機をきっかけに訪れた深刻な不況で、山一證券や 北海道拓殖銀行が倒産したりしました。 ・そして、97年度決算期の98年3月から自殺者が急増します。 2万5千人前後の年間自殺者数が、3万人台に急増して、その後13年間3万人を切る ことはありませんでした。 ・それまで曲がりなりにも経済が回ってたから、社会にあいた大穴がよく見えなかった。 ところが、経済が回らなくなった途端、社会の大穴に人々がどんどん落ちるようになっ た。そこで初めて穴ボコの存在を突きつけられた、というわけですね。 ・経済は回っているけど、実は社会が回っていなかった。 辛うじて回っていた経済が、社会の穴ボコを隠蔽していた。 しかし経済が回らなくなって以降、僕らは自殺・孤独死・無縁死など社会の穴ボコに向 き合うしかなくなり、もう20年近い時間が経ちました。 その20年の幕開けを告知したのが、震災・オウム・援交だったということです。 ・近ごろでは「社会の空洞化」が「感情の劣化」という形で観察できるようになりました。 それを象徴するのが「嫌韓厨」ブームから「電凸」(電話突撃の略。企業やマスコミ、 諸団体などに電話をかけて見解を問いただすこと。電話が殺到するなど問題化すること がある」ブームを経て「ヘイトスピーチ」ブームに至る、「ネトウヨ」的なものの流れ です。 ・1996年以降「性愛からの脱却」がものすごい勢いで進みました。 90年代の半ばですと、交際相手がいる学生が、おおよそ4割いました。 ところが、それがどんどん減って、今はどうかというと、なんと1割台前半しかいない んですよ。ざっと3分の1ぐらいに減ってしまいました。恐ろしい変化です。 ・友人関係もそうなんだけれど、実りある絆によって結びつけられたような人間関係を作 るということが、非常に難しくなっています。 多くの若い人が「何か言ったらネットに晒されるんじゃないか」という、いわば疑心暗 鬼の塊になりがちです。 ・あるいは、少しでも性愛関係でいい目を見ているような女の子がいるとすると、女の子 同士の間で「ビッチ」という扱いをされたりする。 非常にさもしく浅ましい妬みが支配し、それゆえ怯え、本当に自分が思っていることを 言えなくなりがちです。 ・今日の経済は、債券リスクの債権化といった再帰性ゆえに水モノで、容易に混乱する。 財政はクラッシュしないにせよハードランディングするかもしれない。 その際、「社会の空洞化」が手当てできていないとどうなるか。 大勢が再び穴ボコに落ちて死にます。 ・「備えあれば憂いなし」は、災害グッズだけの話ではありません。 システムが破綻したとき、皆さんが頼れる生活世界など、果たしてあるか。 たぶん多くの方々にはないし、作る力もないでしょう。 (「お猿のシャーロット騒動」と日本のインチキ忖度社会とは) ・大分県大分市の高崎山自然動物園が、毎年の恒例としてサルの赤ちゃんの名前を公募し たところ、イギリス王室の王女のお名前と同じ「シャーロット」が最多でした。 それを受けて、サルに「シャーロット」と名前をつけることを決めました。 ・しかしこれに国内から批判の声が殺到。 「イギリスに失礼だ」「もしイギリスのサルに日本の皇族の名前がつけられたらどう感 じるか」 などという意見が寄せられました。 ・ただ、メディアがイギリス王室に問い合わせたところ、 「ノーコメント。命名は自由だ」と回答したこともあり、擁護する意見も多く寄せられ、 結局大分市は名前を変更しないことになりました。 イギリスのBBCはこれを報じたものの、ごく淡々と事実を伝えただけ。 ・イギリス王室広報は、正確には「ノーコメント」と言ったのではなく、正しくは「特に コメントはありません」と言ったのです。 パラフレーズすれば「特に関心もないので、好きにしてください」ですね。 ・当事者に尋ねれば「関心もないので、好きにしてくれ」と言っているのに、 過剰に「先方に失礼だ」「先方のお気持ちを考えているのか」などとピーピーわめく輩 が跋扈するところが、今回のポイントです。 キーワードは、忖度によって社会が動く「忖度社会」です。 ・忖度とく言葉は「だれそれの気持ちを忖度する」「だれそれの意向を忖度する」という ふうに使います。巷には「忖度政治」という言葉があります。 ・東京電力福島第一原発の事故が起こった際、現場が海水を注入しようとしたのに途中で 中断されたことが報じられました。 そのとき、東京電力総合対策室の記者会見で、当時の「武藤栄」副社長がこういうこと を言ってたんです。 「海水中に向けて努力していたが、官邸、あるいは総理の了解が得られていないという 空気が伝えられたので、中断を決めた」と。 つまり、総理御自身がそう指示した、という話ではなく、「空気が伝えられた」のだ。 これも、首相の意向の忖度です。 ・それで現場が一挙に委縮し、海水注入を中断したという話。 まあ実際には、当時の福島第一原発を現場で指揮していた吉田昌郎所長の独断で、一切 中断することなく海水を注入し続けました。 これによって災害の拡大が食い止められました。 空気や忖度に抗う勇断でした。 ・「忖度政治」という概念は、「丸山真男」が敗戦後の東京裁判を分析して、日本政治に 独特の「無責任体制」としてあぶりだしたものです。 ・例えば、元朝鮮総督の「南次郎」は、裁判で「なぜ聖戦と呼ぶか」と問われ、 「皆が聖戦と言うから、ついそういう言葉を使った」 などと答えています。 ・また、開戦時に「東條英機」内閣の外相だった「東郷茂徳」は、三国同盟結成について 問われて、 「個人的には反対だったが、すべての物事には成り行きがあります」 と答えています。 ・さらに、東條辞任の後に総理になった「小磯國昭」も、東京裁判で、やはりこう発言し ているのです。 「我々日本人の生き方として、自分の意見は意見、議論は議論といたしまして、国策が いやしくも決定されました以上、その国策に従って努力するのが、我々に課せられた従 来の慣習でございます」 ・これだけではありません。東京裁判でA級戦犯として処刑された全員が、無策な作戦指 揮などについて問われ、自分としては内心忸怩たる思いはあったものの、 「今更やめられないと思った」 「空気に抗えなかった」 などと、証言しているテイラクなのです。 ・忖度政治は、日本古来のやり方ではなく、明治維新政府が設計した、独特の政治的メカ ニズムによるものです。 すなわち、意図的な設計により、忖度を媒介にして政治的決定を操縦することになった んです。 ・唯一絶対神に結びついた心理概念を欠いた日本人には「田吾作は田吾作の言うことを聞 かない」という行動様式があります。 「内容が正しいから相手に従う」ということにはならず、「どうせあいつが言ってるだ け」と属人化されて、脱臼させられてしまうのですね。 ・かかる傾向に田尾処すべく、欧米歴訪を経た岩倉使節団系が、明治維新政府に導入した のが、実際には田吾作が言っているに違いないのに、「陛下の御意向である」という迂 回路を辿ることで相手をひれ伏せさせる、という「田吾作による天皇利用のメカニズム」 です。 ・明治維新については、孝明天皇暗殺説や明治天皇替玉説(別名・大室寅之祐替玉説)が 久しく囁かれてきたほどで、「田吾作による天皇利用メカニズム」の設計は、実際には 極めて不敬ですが、実は、それこそが日本帝国における「国体の本質」だったのです。 ・暗殺説や替玉説が指し示そうとしているのは、「田吾作による天皇利用のメカニズム」 においては、”陛下の実際の御意向にはさして関係がない”、いや”むしろ関係しては 困る”とすら言える実態です。 だからこそ維新政府は、天皇と民衆の間を幾重にも隔離したのです。 ・幾重にも隔離された内側では、例えば日米開戦の3ヵ月前、昭和天皇が明治大帝の御製 短歌を御前会議で披露する形で、戦争を望まない陛下の御意思を、直接ではなくても、 その場のだれもがわかる形で表明しておられます。 しかし、国民からは隔離されたままでした。 ・御前会議の重臣たちは、昭和天皇の御意思を事実上無視し、揉み消した上で、「開戦こ そ陛下の御意思」という嘘偽りをでっち上げ、陛下の御意向に関わる忖度政治を推進し て戦争に突き進みました。 過去の話ではなく、同じクセがまだ日本に深く残っています。 ・「クソ保守」の中には今でも、天皇を元首に戴く神道政治を長らく主張してい ながら、戦後憲法に最大の敬意を払う今上天皇の御意向が実際に国民の目や耳に触れる ようになると、今度は宮内庁のガバナンスを批判し始める。 実に不敬の輩がいます。麗澤大学教授の「八木秀次」のことです。 ・もう一つ指摘したいのは、「お猿のシャーロット騒動」の背景には、日本の皇室と欧州 の王室の違いに関わる、根本的な無知無教養があること。 一口で言えば、天皇陛下は、現人神的扱いで「聖なる存在」ですが、対照的に、西ヨー ロッパの王様はすべて「俗人」なのです。 ・これは11世紀から12世紀にかけての「カノッサの屈辱」で知られる叙任権闘争を背 景として、聖なる世界を統べるローマ教皇と、俗なる世界を統べる各領邦の王様という 具合に、聖俗の領域分割を図るようになった歴史に関係しています。 これを「双剣論」と呼びます。 ・王室が残るイギリスが典型ですが、王室は俗人集団だから、スキャンダルも報じ放題、 愛称でも呼び放題。 それが「国民の王室」という意味なのです。 皇室内にも、英国王室に近づけようとの御意向が現にありますが、歴史的背景の違いを 簡単には消去できないのです。 ・陛下の御意向を無視して展開される「インチキ忖度政治」の長い歴史は、西欧の王様と 違って、天皇陛下が「聖なる存在」であり続ける歴史的事実を弁えずには、理解できま せん。 だからこそ、「聖なる存在」の御意向を直接感じ取る営みが、きわめて大切になるので す。 ・西欧の王室は単なる「俗人」で、「聖なる存在」ではない。 これは教養人の基本常識です。 教養人であれば、この件について、イギリス国民と日本国民の立場を入れかえて、 「日本人が英国人に同じことをされて耐えられるのか」などとほざくことはありません。 ・英国人と日本人は異なるのに、英国人の身になればそれはあり得ないなどと忖度する。 陛下と田吾作は異なるのに、陛下の身になればそれはあり得ないなどと忖度する。 この過剰な入れ替え可能性を前提にした忖度が、「インチキ忖度政治」を可能にする心 の習慣です。 ・相手が偉い人であるほど「相手を尊重するほど―相手と自分を単純に入替可能だと考え て勝手な忖度をするのは、失礼千万。 田吾作のクセにつけ上がって、相手と自分の入れ替え可能性を想定し、「失礼だぞ」な どと周囲を叱責する輩。まさに日本の恥です。 (戦後日本を代表する思想家・鶴見俊輔氏が遺したものとは何か) ・心理学と社会学とは、帰属処理が違います。 心理学は、現象をもたらす前提や原因を心理メカニズムに帰属します。 「心がこうなっているからこういうことをした」という説明です。 社会背景が採られることもあっても、「なぜアノ人ならぬコノ人がそうなったか」を説 明するのです。 ・これに対し、社会学は、現象をもたらす前提や原因を社会メカニズムに帰属します。 たとえ伊地知は個別主体の審理に帰属することはあっても、「そうした心理的作用が働 くのは社会がこうなっているからだ」というふうに、最終的には社会を問題にします。 ・心理学者の処方箋と社会学者の処方箋も対照的です。 心理学者は、問題を改善すべく、薬理療法やカウンセリングで「症状」を改善します。 でも社会学者は、「心の持ち方の改善」に注力しすぎると、「心の持ち方」の背景にあ る「社会の在り方の是非」という問題が覆い隠されると見ます。 ・さて、社会心理学です。 今日では、噂やデマの発生・伝搬、評判の形成、それらを利用したマーケティングや政 治的動員技法の研究といったアメリカンなイメージです。 でも1970年の時点では、それは「心理学的な社会心理学」と呼ばれる一つの立場に過ぎ なかったですね。 日本でメジャーだったのはむしろ「社会学的な社会心理学」でした。 これに道を付けたのがまさに「鶴見俊輔」さん。 ・この「社会学的な社会心理学」は何をやったのかというと、戦後のマルクス主義ブーム を背景として、例えば「社会意識は社会構造によっていかに規定されるのか」という具 合に問題を立てました。 ・具体的な例を挙げます。 なぜ、戦間期から戦後にかけての重工業化=都市化の過程で望郷の歌が流行したのか。 なぜ、先進各国で高度経済成長時代に学生運動が噴出したのか。 なぜ、先進各国で1950年代半ばに「若者」が誕生したのか。 ちなみにそれまでは「若者」はいませんでした。 ・それまでの若者は、大人と同じ秩序貢献的な理想を抱く、しかしより純粋な存在であっ て、大人につれて汚れていくのだ、と観念されました。 「若者=より純粋な若年の大人」というイメージですね。 ・ところが1955年になると、大人からはうかがい知れない内面を持つ不可解な「若者」 という概念が出てきます。 「暴走する若者」「無軌道な若者」「理由なく反抗する若者」というイメージです。 アメリカならジェームズ・ディーンに象徴され、日本なら太陽族的なものに象徴された ものです。 ・こうして先進各国では、大人と区別される存在としての「若者」は当初、房総・無軌道 ・反抗などのネガティブな印象を与える存在でしたが、60年代半ば以降は、ラブ&ピー ス・性の開放Tシャツ&長髪・エレキギターなど、オルタナティブな価値を掲げるポジ ティブな存在になります。 ・こういう問いにマルクス主義的な図式だけでは答え切れないということで、そうした問 題を研究しようというのが、「社会的な社会心理学」を主導した鶴見さんでした。 ・こうした流れが存在したことを、今の若い人は研究者を含めて知らないでしょう。 鶴見さんは、僕らの集合的な観念形態ー何が良い・悪いと思うのか、何を好み・嫌うの かーが、時代につれ、なぜ、どう変化していくのかを、深く理解しようとする流れを作 ったのです。 ・その意味で、後代に繋がるべき大事な流れの一里塚を築いた人です。 しかしこうした「社会学的な社会心理学」の流れは、残念なことに今日ではほぼ継承さ れていません。 代わりに統計的に実証されたことだけを言おうとする頭の悪い「エビデンス厨」が跋扈 するようになりました。 ・実証的社会調査で通念を確認したり、通念や仮説を実証したりするのは愚昧だ。 重要なのは、データを精査して見つかる、通念や仮設に矛盾する傾向である。 こうした意外な傾向を説明するために仮説を含んだ観念を作り、それを実証する調査を 行って、さらなる矛盾を発見していく。 ・否定的な「若者」から肯定的な「若者」を経て、1973年に「若者」が消滅します。 再び「純粋な大人」に戻ったんじゃない。 「若者」だというだけで互いが何者であるかわかり合えるような共通感覚ーラブ&ピー ス・性の開放・Tシャツ&ジーパン・長髪・エレキギターーが消えたのです。 ・1970年11月に自決した三島由紀夫が直前に憂えたことですが、国民的共通前提は とっくに消えていました。 三島由紀夫が喝破したように、国民的共通前提が消えたから、埋め合わせとして世代的 共通前提が登場しただけ。 そして世代的共通前提が消えた。 いったい何が残ったのか。 ・鶴見さんらの方法論は、国民的共通前提の健在を前提としたものだから、もはや通用せ ず、別の方法が必要だと僕らは考えました。 「明日は我が身」の時代を生き残るために (性愛、仕事、教育で何を守り、何を捨てるのか) ・日本家族計画協会が2014年に行った「男女の生活と意識に関する調査」の結果が発 表されました。 1カ月以上セックスをしていない状態を「セックスレス」と定義し、既婚者について調 べたところ、日本の夫婦のセックスレスの割合は44.6%にものぼりました。 10年前の調査の31.9%から大幅に増えていることがわかりました。 夫婦のセックスレスは、世界の「非常識」ですが、日本で「常識」なのは、なぜでしょ う? ・そもそも、セックスに関する話題が答えにくいうえに、「セックスしていない」などと いうネガティブな回答が、さらに答えにくい。 だから、夫婦のセックスレス割合は、実際にはもっと多いはずです。 ・実際、いろんな人たちの話を聞く限りだと、相当多いでしょうね。 44.6%なって数字よりも、ずっと多いだろうと想像しています。 まあ、そのことを割り引いたとしても、夫婦の半分がセックスレスというのは、他国に 比べ断然多い。 ・次に、もう一つの前提だけれど、「セックスが必要なのか」と聞かれれば、個別の夫婦 がセックスをしようがしまいが、夫婦の勝手。僕にとってはどうでもいい。 ただ、昔からよく問われる「なぜ日本では諸外国に比べて夫婦間のセックスレスが多い のか」という謎や、「なぜセックスレスが増えているのか」という謎に、社会学者とし て答えることは、それなりに可能です。 ・まず、一つ目の謎。「なぜ日本では夫婦間のセックスレスが多いのか」について答えま しょう。 これについては昔から問われてきていて、社会学的な回答がすでになされています。 一口で言えば「日本的な文化の影響」です。 ・日本が核家族化したのは、アメリカやヨーロッパを追いかけてのこと。 具体的には1960年代で、団地化や専業主婦化と連動しました。 これが核家族化のあり方に、実は日本的な文化が反映したんですね。 ・アメリカやヨーロッパ、特にアングロサクソンのアメリカとイギリスでは、夫婦中心主 義があります。 「夜9時以降は子供の時間じゃありません」と無理やりに子どもを寝かせて、「夫婦の 寝室絶対に入っちゃいけません」と言い渡すのです。 ・子供をベイビーシッターに預けてパーティに出かけたりもします。 要は「子供を隔離して、何とかして風巣の空間と時間を作る」のです。 日本にはそういう伝統がないので、核家族化が、夫婦中心主義ならぬ、子供中心主義で なされたわけです。 ・柳田國男が日本の地域社会の特徴として見出したのが、子供中心主義。 アングロサクソンみたいに厳しく躾けるのではなく、祖父母が大事に甘やかす。 それが核家族化に引き継がれました。 だから、夫婦の時空間を作るどころか、いつも「子供まみれ」です。 ・考えてみてください。子供まみれの状態で、寸暇を見つけて5分10分で済ませるって いうのが、夫婦にありがちなセックスのやり方。 僕は高校生になった当時(1974年)に夫婦のセックス持続時間の統計を見て、 「こりゃいけない」と思いました。 ・夫婦中心主義とは、日常の時空間から離れて、非日常の演出にコストをかけること。 日本的なセックスレス夫婦への対処法は、もうおわかりですね。 日常と剥離された非日常性の時空を演出する。 出会った頃のデートを再現する努力です。 ・続いて第二の謎。日本では過去10年でセックスレス夫婦が相当増えました。 夫婦の子供中心主義は昔から変わらないのに、セックスレスが増える。 絶対値が不正確でも、相対値から読み取れる増加傾向は間違いない。 ・「もともと多い」ことに加えて「なぜ増えているのか」です。 これも社会学的に説明できます。 セックスレスの度合いは、年齢層で違います。 というと、「そうですね、年を取ればやっぱり回数が減るよね」という話だと受け散り ましたか?違うんだな、これが。 ・逆です。ここで大事なことは、「若い世代が生から退却している」こと。 学生のカップルを見ても、「2カ月に1度やるかやらないかです」みたいなのが、キャ ンパスにあふれています。 僕が大学生のころはどうだったでしょう。大学3年のときに数えたんです。 そうしたら、年に400回やってました。 ところが、昨今の学生カップルはテンションが低いんです。 1月に1度を割り込むのはザラです。 いったいなぜ、こんなことになっているのか。 理由の一つは、カップルが「雛壇にあげられる」こと。 ・昔は、いろんな小説や漫画に描かれてきたように、サークルや語学クラスで、寝取った り、寝取られたりがよくありました。最近ではこれがありません。 恋愛にしても、同性の友人関係が優位となります。 女子で言えば、性愛方面にハマりすぎていると、同性の友人たちの間で、「ビッチ」呼 ばわりされます。 だから〇△プレイみたいな情報や、齢の差恋愛の情報が、シェアされなくなりました。 ・理由の第二は、「草食化」と呼ばれる傾向。 「自分には性欲がない」と自己申告するタイプの男子たちを言います。 よく覚えているんですけど、1990年に「性欲がない」という男子学生たちがキャン パスに陸続と出てきたんですね。 ・哺乳類の多くの種でせいしが減少している昨今なので、社会学的案理由以前のものがあ るかもしれません。 ここでは「草食化」の理由をあえて社会学的に推定するとしますと、コミュニケーショ ンの失敗を事前に取り除く「リスク回避」が考えられます。 「リスク回避」の背景に、コミュニケーションが「肝胆相照らすもの」かれ「場つなぎ 的なもの」にシフトしてきたとう経緯があります。 その結果、コミュニケーションの失敗が、かつてよりも課題に受け止められるようにな ったんですね。 ・さて「草食化」の、もう一つの社会学的背景が「めまいの回避」です。 めまいは、僕のワークショップでは「変性意識状態」と呼んでいて、恋愛のキーだと告 げています。 若い人たちは、これを結構嫌がるんですよ。 忘我の状態を避けたがる、とうことです。 ・セックスの醍醐味って何だと思います?めまいです。我を忘れること。 そう。人は、現実を忘れるために、セックスをするんです。 ところが、昨今の若い人たちは「リア充」とか言うでしょう。 馬鹿じゃねえの? リアルというクソから逃避するために、セックスするに決まってるだろ。 何考えてるんっだ。 ・という次第で、むしろ若い夫婦がセックスレス化しやすい状況にあることは、間違いな いでしょう。 日本の常識である夫婦のセックスレスは、世界の非常識です。 でも、世界の上司区のほうがいい、と簡単に言いたいわけでもない。 ・セックスレスでもかまわないのなら、勝手にすりゃいい。 でもそれは、「めまい」と「ゆだね」から遠ざかること。 究極の「めまい」と「ゆだね」を引き寄せたければ、セックスという選択肢を手放さな いほうがいい。 (労働者を使い尽くすブラック企業はなぜなくならないのか) ・2015年7月に靴の販売チェーン大手、ABCマートで従業員に違法な長時間労働が あったとして、東京労働局は労働基準法違反の疑いで運営会社を書類送検しました。 ABCマート原宿店では、2014年4月から5月、20代の従業員2人にそれぞれ、 月109時間と月98時間の残業をさせていたということです。 この会社では労組協定で、残業は月79時間までと定めていたということですが、今回 はこれを完全に無視していたことになります。 労働者を長時間とことん使い尽くしたり、パワハラが横行するブラック企業は大きな社 会問題になっているにもかかわらず、一向になくならないのが現実。 こうしたブラック企業がなくならないのはいったいなぜでしょう? ・この「ブラック企業」という言葉が指し示すべきものも、ずいぶん変わってきてしまっ ているんです。 だから「ブラック企業」という言葉で一括りされると、問題の切り分けが難しくなって しまいがちです。 実際、何が問題なのか見通しが利かなくなっていると思います。 ・最初に「ブラック企業」の存在が世間的に大きな話題になったのは2008年の「ワタ ミ」事件です。 「2008年、ワタミフードサービスに就職した女性が、入社後わずか2カ月で自殺、 残業時間は1カ月で140時間にも及んでおあり、女性の自殺は過労による労働災害で あると正式に認定された」がきっかけです。 これは「正社員の終身雇用制を前提とした、サービス残業による挺次男労働の強制」で した。これは全体的問題の一部に過ぎません。 ・例えば、これは2014年に「すき家」で話題になった、非正規労働者による「ワンオ ペ」と呼ばれる過酷な夜間の長時間労働とは、方向性が違いものです。 まず前者の「正社員の終身雇用を前提とした、長時間のサービス残業」。 労使協定を締結して、労働組合側が「ここまではいいよ」というふうに合意すれば、 法的にまったく問題ないということになっているのです。 これは「サブロク協定」と呼ばれるもので、労働基準法36条に規定があるのでそう呼 ばれます。 だから「正規労働者の終身雇用を前提とした長時間サービス残業」については、労使協 定を作ればエグゼンプション(除外規定)を持ち込めるので、長時間労働規制は事実上 ザルです。 ・この場合、協定が会社の言いなりである可能性や、協定を会社が守らない可能性がある ので、労使の交渉力のバランスが重要になります。 その意味で、労働組合がある会社の労働者と、そうでない労働者との間では、交渉力の 差による大きな利害の違いが生まれるのです。 ・日本の労働者は労働組合法で労働組合を作ることが認められています。 詳しくは労働三権と言って、労働組合を作る団結権に併せ、それをベースにして団体交 渉する権利とその結果次第でストライキという団体行動をする権利が、認められている わけです。 ・団結権・団体交渉権・団体行動権の三権は重要で、労組を作るのを妨害したり、労働か らの交渉申し入れを拒絶すると、最悪、経営陣は罰金刑を超えて懲役刑を喰らいます。 逆に、労組をつらないでストをすると、営業妨害で巨額の損害賠償を請求されかねませ ん。 ・その意味で、小さな企業、新しい企業であっても、正規雇用の人辰はちゃんとした有効 な組合を作って、労働三権をちゃんとした形で利用できるようにしておかなければなりま せん。 さもないと長時間労働を規定したサブロク協定が有名無実になります。 ・ちなみに、正規労働者には労組があるから大丈夫だとも言い切れません。 かなり多きな会社でも、ちゃんとした組合じゃなく、何もしてくれない「御用組合」が 多いからです。 労使協定も不利だし、協定が破られても文句を言わない。 そんなダメな労働組合のことです。 ・ちゃんと有効に機能する組合に加入し、組合として会社ときちんと交渉することができ ないと、労使協定を自分たちにとって不利なものにならないようにすることができない ということです。 組合があるのにブラック企業がなくならない一つの理由がこれです。 ・むしろ深刻化しているのは、「非正規雇用を前提とした見なし労働(裁量労働)の押し つけ」です。 非正規労働者と雇用者の間ではサブロク協定を締結できず、サービス残業は違法です。 しかしそこに「見なし労働の押しつけ」がなされる。 今日的なブラック企業です。 ・見なし労働は、非正規労働者が戦うための有効な手段がなかなかない。 個人でも入れるユニオン(労働組合)が一部にあるので、一人で悩まずにユニオンに入 り、ユニオンを通し交渉するようにして交渉力を上げる必要があります。 ・今は工場で労働集約的集団作業をする人はごく一部です。 取材してアイデアを練るマスコミ人や、僕みたいな研究者は、食事中に頭を使ったり仕 事中に頭を休めたりして労働時間を厳密に計れないから、労働時間を自分の裁量で決め るしかない。これが見なし労働です。 ・ところが昨今、見なし労働の範囲を不当に拡張して、とりわけサブロク協定を結べない 非正規労働者に長時間勤務を強制する動きがあります。 これをどうチェックできるか。 これも最終的には労働組合を作って団体交渉し協定書を残さないと、チェックは難しい。 ・とはいえ、終身雇用を約束されない非正規労働者にとって、会社が嫌がる組合結成はリ スキーです。 他方、正規労働者には、昨今のように非正規雇用だらけの状況では、非正規に落とされ たくなければ無理して働けという圧力が働きがちです。 ・こうした障害が生じるのは終身雇用制があるからです。 第一に、正規と非正規の別なく同一内容同一賃金化を進めた上で、第二に、企業の都合 でお金でカタをつけて解雇できるようにするのことが大切になります。 終身雇用を廃止し、国際標準化するのですね。 ・右肩上がりの時代がとっくに終わった日本では、終身雇用制は有害化、少なくとも役割 を終えています。 第一に、非正規労働者が増大する状況では、正規労働者は非正規労働者からアガリを搾 取しています。 それで左翼系労働を名乗るのは、万死に値する恥さらしでしょう。 ・第二に、右肩下がりの時代なのに正規労働者を解雇できないので、労働調整のためにサ ービス残業をさせるしかなくなります。 さもなければ、業績不振で賃金カット、挙句は倒産となります。 正規労働者も父さんと非正規化が恐くてサービス残業せざるをえません。 ・終身雇用の正社員と、会社が契約更新を拒絶できる非正規労働者の区別がある現状を前 提にすれば、団結権・団体交渉権・団体行動権の三権を有効利用する労働組合への加入 が必要で、非正規労働者も弁護士がついたユニオンに個人で加入することが重要になり ます。 ・しかし、そもそもこの前提がおかしいのです。 だから、「まず同一労働同一賃金化から出発し、やがて全職種・全組織で終身雇用制を 同時に撤廃せよ」と申し上げてきました。 これに対する理屈の通った反論は皆無です。 (「仕事よりプライベート優先」の新入社員が増えたのはなぜですか) ・まず、会社へのコミットメントがなくなるのは当然なんです。 これからは、企業寿命も短くなるし、労働法制も脱終身雇用化していくからです。 ・今後は終身雇用制がなくなりますし、国際標準である「正社員を解雇すること」もでき るようになっていきます。 従って、会社に対して過剰に忠誠心を持ったとしても、報われません。 であれば、忠誠心をなくしていこうとするのは、まあ合理的なんです。 ・問題は、会社に対する忠誠心が下がることなんかじゃない。それは当たり前。 そのぶん、プライベートにおいて何にコミットするようになるか。 それこそが問題なんです。 そこで、仕事ではないプライベートな時間の利用=コミットメントの仕方ですが、大体 3つに分けられます。 ・第一に、巷でよくみかける発想が「個人のスキルアップ」です。 例えば、資格取得や語学学習などに向けたコミュニケーションが上昇するということ。 優等生的で、健全過ぎる答えかな。 まあ、いつも勉強していないと気が済まない「お勉強少女」「お勉強少年」が多いです からね。 ・第二は、「9時から5時で仕事から離れて、好きな趣味に興じよう」というもの。 実際、昨今はそういう人が多いですね。よいことです。 ・僕が今回取り上げたいのは、三番目です。これが本来あるべき姿です。 それは何か。 仕事は仕事として、「自分のホームベース=本拠地、つまり出撃基地であり帰還場所で あるような場所を、ちゃんと作ろうじゃないか」という方向です。 典型的には家庭や地域です。 ・実はそこが危うい。 今の若い人たちは、仕事の外側に、家族などのホームベースを作る力が著しく弱まって います。性的退却がこれに関係します。 18歳以上の未婚男女の交際率(恋人がいる割合)が一番高かったのは1992年です。 若者の性体験率が最高だったのは男子は1999年(退学63%、高校26%)、女子 は2005年((大学61%、高校30%)です。 しかし最近(2011年)は男子(大学54%、高故15%)も女子(大学61%、高 校24%)も激減。男子大学生9ポイント減、大学女子は15ポイント減です。 ・これは目に見える性的退却ですが、問題はこれにとどまらず、もっと深いところにもあ ります。 交際相手がいる場合も、相手の心の中に深く入ることをしないことです。 深く入ると、自分と相手の間に共通性がないことがバレるので、深く入らず、LINE に象徴される戯れを永久に続けるのです。 ・LINEに限りません。若い人のスマホでのメッセージのやりとりの大半は、あいてが 人間じゃなくても大丈夫。 LINEのやりとり程度ならコンピュータ(チャント・ロボット)でも扮技できます。 コンピュータ云々を横におけば、相手が「その人」じゃなくても大丈夫ということ。 深さがないのですね。 ・こうした深さのない拳固的戯れの延長線上で、若い人の多くはセックスし、「つき合っ てる」という話になります。 相手の内面に入り込んで「相手の心」に映ったものを自分の心に映す」ことをせず、 「見たいものだけを見て、見たくないものを見ない」。 そこに相手の唯一性はありません。 ・そうしたつき合いなら、相手のオーラに反応できないし、相手の本気度を評価すること もできません。 相手が別の人と浮気していても気づかないでしょう。 これが過去2年間のワークショップなどで見出だした若い人たちの、標準的な性愛関係 です。これで「つき合ってる」と言えるのか? ・浅い友人関係ならそれでもいい。 でも彼氏彼女とか親友との関係で、それはないでしょう。 相手がどこの誰でも務まる、会話とすら言えない言語的やりとりが延々と続き、その延 長線上で、何を深いところで共有しているかわからない相手を、「恋人です」などと称 する。馬鹿じゃないのか。 ・そんなんじゃ、揺るぎない家庭なんて永久に作れないよ。 家族でなくてもホームベースなんて無理。 EU統計によれば、育休を取らない男ほど40歳以上になるとモチベーションが続かな い。 ホームベースが作れないと、40歳代以上になったら仕事の意欲も失われるんです。 ・若い男女(高校・大学)の性体験率は80年代に倍増します。 特に女子が著しく、男子の性体験率を抜きます。 その結果、80年代半ばに、目に見えない性的退却が進みました。 ・86年の人気ナンバーワンアイドル「岡田有希子」の自殺事件を機に、「ムー」のお便 り欄で前世の名前を名乗って少女たちが仲間を募り、岡田有希子と同じ方法で一緒に飛 び降り自殺するブームが起こりました。 あまりに連続したので、若年者自殺の統計的特異点を形成しました。 ・巷では30歳以上離れた男との恋に破れたことが取り沙汰されていました。 でも当時ナンパで出会った若い女の子の多くは、容姿にも才能にも恵まれたアイドルが 30歳以上離れた男へと向かわざるをえなかった「性愛の不毛」に感応していました。 「制に乗り出したゆえの空虚」です。 ・こうした「性に乗り出したゆえの空虚」は、88年以降のお立ち台ディスコブームや素 人AV出演ブームや読者ヌードブームなど、一連の「男の視線を経由しない性愛の戯れ」 の隆盛を招きます。 実は、その延長線上に、93年以降のブルセラ&援交のブームがありました。 ・ブルセラ&援交を93年に発見した際、こうした流れを知る僕は「とうとうそうなっち ゃったわけか」という感じで、少しも驚きませんでした。 ちなみにこの発見を「朝日新聞」に書いたら僕の元に取材が殺到し、数百人の女子高生 ネットワークをマスコミに繋げたらすべてのチェンネルが援交でもちきり、援交ブーム になりました。 ・マスコミ熱を背景にフォロワーが参入すると、援交が「自己提示ツール」から「自傷ツ ール」に変じました。 援交する子は自傷系の代名詞みたになっていきました。 ・それで援交などの性的過剰はカッコ悪いとのイメージが拡がる。 結果「援交第一世代」が退却して「援交第二世代」に交替すると、カッコいいリーダー 層の子が援交から退却します。 ちなみに、96年のピーク時に高校生だったか、それ以降高校生になったかで世代を分 けます。 ・リーダー層の子は援交から脱却して「ガンクロ化」します。 ガンクロには「男たちの視線を遮断する機能」がありました。 新参のフォロワー層を象徴するのが「白ギャル」。 ガンクロたちは「ウチはもうやらないよ。今やってるのはあそこにいるみたいな白ギャ ル」と指さしました。 ・男子はどうか。 援交ブームの最中、高校の先生の協力で、援交の是非をめぐる高校生討論会をいくつか 開催し、司会しました。 肯定側は必ず女子が多数になり、否定側は男子が多数になりました。 昔ならマドンナだったはずの子が「カネで横取りされてる」と感じていた男子にとって 自然です。 ・恋い慕う美しい女子にコクったら援交している事実を告白された男子が、どうしたらい いのかわからないと僕に相談してきたことがあります。 統治はよくある話です。 16歳の高校1年生だったその男子は、今は日本とフランスを行き来するジャーナリス トです。 ・96年、院ゼミ男子の7割がギャルゲーマニアだと知った僕が「生身の子とヤレないか らって逃げんなよ」と言うと、ある男子が「違います。童貞じゃない僕らは、リアルな 子がゲームの中の子と同じように振る舞うのだったらセックスしてやってもいいという 感じ」と答えました。 ・彼は「今時リアルに拘るのはイタイんですよ」とも言いました。 96年という同じ時期、援交に自意識のイタさを見た女子が「性的に過剰であることは イタイ」と忌避し、援交に女子の得体の知れなさを見た男子が「リアルの過剰に拘るの はイタイ」忌避し、シンクロしたのです。 ・共通して「セックスできないから性的退却に向かったのではない」のがポイントです。 実際、性的領域にかぎらず、90年代後半には「過剰さとイタサの忌避」が一般化しま した。 ・これだけ流動性が高く多元的になった社会では、「深くコミットする」「相手の中に入 る」といった営みはリスキーです。 逆に言えば、過剰さを回避しないと、人間関係を安定的に維持できなくなります。 そうした社会状況への適応のために、浅く表層的に戯れようとするのでしょう。 ・ところが、近代の性的領域においては、「偶然を必然に変換すること」あるいは「内在 に超越を見ること」で、ただの女(男)を運命の相手と見做します。 この作法が、ドイツ流の民族ロマン主義に対するフランス流の性愛ロマン主義で、それ が近代の家族形成原理になったんです。 ・近代社会では、性愛と国家の両領域で、ロマン主義を必要としてきました。 普通の女(男)を運命の相手と見なすことで家族形成が可能になり、ただの集団を崇高 なる故郷と見なすことで国民国家形成が可能になるからです。 両者は並行して19世紀に育て上げられました。 ・「ただの女(男)を運命の相手と見做すことは如何に可能か」。 18世紀末以来のフランス恋愛文学における基本的問題設定です。 回答として見出されてきたのは、相手の心に映るものを自分の心に映すこと、そしてそ れを前提に時間をかけて苦難に満ちた関係の履歴を積み上げること。 ・そう。表層的な戯れを延長上に、実善的な関係なんかできるはずもないんです。 「諦めて世間に従っている」のでは駄目です。 互いに相手の心に深くダイブする者たちだけが、性愛を通じて絆を作り、それをベース に家族を形成し、ホームベースを作ってきました。 ・少子化対策として行政や民間がマッチングサービスを提供していますが、氷層の戯れし か知らぬ者たち者たちは、家族を持続可能には営めません。 自己啓発の一環としてのナンパ講座が流行っていますが、セックスを通じて絆を作るこ とができない輩はセックスしてそれで終了です。 ・どうすれは良いか。 問題の本質は、「社会に適応すると、性愛が不全になり、ホームベースが作れなくなる」 こと。 であれば、「社会に適応するのをやめ、適応するフリで留めることなしには、性愛不全 から脱却できない」ということになります。 ・「流動性が高く多元的で複雑な社会に適応するには、過剰さによるノイズを持ち込まな いために、相手に深くコミットしない」をベタに実践したらダメ。 社会に適応する「フリ」だけでいい。 そもそも社会はクソ。 クソな社会に適応し切ったら、頭の中もクソになったちゃうぜ。 ・実際、若い人は頭の中がクソになっちゃって、表層的なメッセージのやりとりで意味の ない戯れを続け、性愛から見放されてるじゃないか。 そういうことはやめて、社会に対する適応は「ほどほど」にする。 表層的な戯れの中で、充実したプライベート空間なんて作れないよ。 ・だから、「仕事はほどほど」っていうのはいいんですが、「仕事はほどほど」の後に何 をしているんだよ?ってことです。 プライベートを重視するのではなく、プライベート空間でホームベースを重視しろって ことです。 もっぱらそこに注意を集中しないと、一人寂しく死にます。それでいいのか。 (「すべての女性が輝く社会づくり」は政府の暇つぶし政策なのか) ・政府は2015年6月に「すべての女性が輝く社会づくり本部」の会議を開催し、今後 1年間に実施すべき「女性活躍家族のための重点方針2015」を決定しました。 「女性が暮らしやすくなる空間へと転換する象徴」としてトイレ、特に公共トイレの改 善を掲げたり、輝く女性応援会議の公式ブログで「毎日キャラ弁を作るお母さん」を紹 介したりしています。 ・「待機児童を減らす」などは既に政策としてメニューに組み込まれているので、 と内閣官房が姑息な言い訳をしている。 だとしても、でてくるアイデアがこのショボさ。 とてもじゃないが、言い訳にはならない。 今、働く女性にとっての最大の問題が何かが、わかってない。じゃ、言おうか。 ・第一は、総合職で働く女性たちの勤務が過酷すぎる現実。 簡単に言えば労働時間が長すぎる。 第二に、その総合職に就いている女性が妊娠や育児などをするということになると、 その人たちを救うためにという名目で、「一時的軽減措置」というメニューが最近の企 業で提案されている。 企業名は言えませんが、実際にこれもお為ごかし。 想像すりゃすぐわかること。 ・例えば、一度、一般職に配置転換されて、子育てが一段落したら、また総合職に戻れる 仕組み。あるいは、名前は総合職なんだけど「特定総合職」。条件の限定された総合職 に就いて、やがて元の戻る仕組み。 ・ところが、これらは利用する女性総合職の割合が少ない。 理由は簡単。出世街道から横道に逸れる、つまり昇進競争に乗り遅れるからなんだ。 せっかく総合職で頑張ってきたのに、昇進が遅くなって後輩たちに抜かれると思えば、 利用したくないのもわかる。 ・いぇるべきことは、実に簡単。今まで通り総合職を続けながらも、自由に子育てができ るように、「総合職そのものの労働条件を改善する」。 いちばんなのは労働時間を短くすることです。 ・総合職の女性の妊娠や子育てに関する支援をしたい場合、総合職のままで支援しなけれ ば、公正な制度として意味がありません。 ところが、女性のためと称しつつ、総合職の女性に、オプション的に「一時的軽減措置」 と称して、出世街道から逸らせる。あまりにも愚昧です。 ・二つ目として言いたいのは、日本では相変わらず、女性に対して「仕事をしてもいいよ。 だけど家事もね」というのがすごく多いんですよ。 ちなみに日本の男の家事への参加時間が非常に短いことは国際的な比較データではっき りわかっています。 ・日本の男の家事参加は、せいぜいお風呂掃除とかゴミ出し。 そんなことは、家事参加とは言えないよ。 会社に行く途中にゴミを出せばいいだけだろ。 そういうことじゃなくて、洗濯をし、料理を作り、子育てに平等に関わる。 これが非常に重要です。もちろん僕はやっています。 ・でも、そのためには日本の労働法制や労働慣行が変わらなければダメ。 男性の育児休暇の取得率が今の20倍以上になり、それがなおかつ不利益にならない制 度が必要です。 ・その意味で、女性の問題というのは男性の問題でもあるんです。 当然だけど、女性の妊娠・育児に関わる負担軽減の旗を振るなら、男性の仕事に関わる 負担軽減の旗も、同時に振らなきゃいけないの。 昔の性別分業から見て、女が男に近づくだけでなく、男も女に近づくこと。 ・内閣官房は「男が女に近づけ」ってことがまったくわかっていない。 どれだけ低レベルの役人だらけなんだ。 それで結局「仕事をしてもいいよ、だけど家事もね」というふうに女性が二重負担にな っちゃうから、女性が働けないんじゃないか。あるいは子育てでできなくなっちゃう。 どっちかを選ぶしかなくなるんだよ。 ・女性はそういうクソ野郎と結婚するな! これは大事なこと。 そうしれば結婚したい男性も学ぶよ。 短期的には少子化に拍車がかかろうが、かまわない。 家事をやらないクソ野郎と、男に家事をやらせようとしないクソ政府こそ、長期的な少 子化要因なんだからな。 ・男の多くが、子供の送りに配慮しない会社になんか就職しないぞ、って思えば、人材が とれないから、会社だった変わる。 ・国際的には、むしろこれが常識なんです。 そういう社会的な合意を作るためにも、「経済を回すために男をフランスの倍働かせる」 ってことが異常なんだから。 これをまず何とかしろよ、ということです。 当然ですが、女性だけじゃない、男性だって長く働き過ぎなんです。 ・それだけ長く働かないともたない経済なの? そんなの、潰せよ! 何のために働くんだ。 働くために働くなんて、意味がない。 日本より格段に短い労働時間で、国際競争市場で戦っている国民国家があるわけだろう が。 倍働いてやっと保てる経済。 それで日本が経済大国だ?馬鹿か。 ・日本人はフランス陣より男は倍、女も1.5倍働いて、この程度。 しかもこれはパートを含めてならしての話で、総合職の人はもっと働いている。 さらに今後は残業代を払わない「ホワイトカラーエグゼンプション」も導入されるから、 いよいよ厳しい労働条件になる可能性がある。 ・こういうのは経済の問題じゃないんだ。社会の問題です。 社会を生きる僕たちの問題です。 社会が分厚くなければ、最終的には「経済回って、社会回らず」ということになるしか ない。 そうなると、経済がポシャった途端、社会の穴に落ちて、人がどんどん死ぬ。 ・実際そうなってるでしょ。 それが1998年からの自殺者の急増なんです。 97年はアジア通貨危機が波及し、山一證券や北海道拓殖銀行などが倒産した。 いろんな会社がつぶれた。 経済が回らない状態になって、社会の穴に落ちた人たちが多数死んだ。 構造は何も変わっていない。 ・社会を回すために経済があるんじゃないの? 「経済回って社会回らず」なんて本末転倒じゃん。 いったいなんのために生きてるんだよ。 経済回らなくなったら自殺者が急増って何なの。 いずれはまた経済が回らなくなる。 経済を回すのを優先順位筆頭にして、どうするつもりだ。 ・経済を回すために長時間労働して社会を空洞化させる。 おかしいと思わないの? 女性の話に戻せば、公共交通機関でベビーカーを利用する女性を蔑む輩や、子育て夫婦 なんかにおれの税金を使いなとホザく非モテ独身男が、珍しくない。 いやはや本当に国辱もの。 (ISILの処刑映像をあなたは子供に見せられますか) ・2015年2月に名古屋市の市立小学校5年生の社会科の授業で、過激派組織ISIL (イスラム国)に殺害されたとされる日本人男性とみられる遺体が映った画像を20代 の女性担任教諭が使用したことがわかりました。 市教育委員会は「不適切だった」と謝罪。 ・市教委によると、その女性教諭は授業での静止画像2枚を教室のテレビに映したと言い ます。 人質となった「湯川遥菜」さんとみられる遺体と、「後藤健二」とみられる男性が覆面 姿の男の隣りでひざまずいたもの。 ぼかすなどの画像修正はありませんでした。 ・授業のテーマは「情報化が進むことによる利点と問題点」とし、「どこまで真実を報道 することがよいか」を議論させていたということです。 ・「軽率」「小学生が見ていいものではない」「非常識」といった批判の一方、「家に帰 ればネットで見られる」「子供に現実をみせるべき」といった擁護の意見もあり、賛否 両論が渦巻いています。 ・まず、賛否問わずネットで論評している人の多くは、実際この映像を見ていなかったり、 あるいは、背景情報をほとんど知らないでマスコミの報道を鵜呑みにしていたりする人 たちですね。それは論評を読めばたちどころにわかります。 ・この小学校で行われていた授業を説明しましょう。 名古屋市東区の山吹小学校5年生の情報リテラシー教育「情報をいかす私たち」という ものでした。 ・具体的には、「マスコミが情報を事前にフィルタリングする問題」、例えば「残忍な映 像を遮断するのは是か非か」などについて、是のグループと非のグループにわけて討論 させるもので、非常に有効な授業計画だったと思われます。 ・ただし、事前に「見たくない人、ショックを受けそうだと思う人は下を向いていなさい」 といったアナウンスをしたことによって、35人中5人が、映像を見ないで下を向いた ことが報告されています。 ・「メディアが自粛しているのになぜ学校で流すんだ」という頓珍漢な意見があります。 実はこの発言は教育委員会のメンバーによるものです。 しかし、メディアリテラシー教育の本義は、「メディア表現の適切性を判断すること」。 まさに「惨虐な映像を遮断するのは是か非か」がそれ。 新聞やラジオ・テレビが流した情報を鵜呑みにするのではなく、情報が適切か否かを評 価する力がメディアリテラシーです。 ・「メディアが流さなかったものを、学校で流していいわけないだろう」ですって? ありえません。 メディアが流さなかったことの是非を、評価する能力を養うのが、メディアリテラシー 教育だからです。 トンマな教育委員はメディアリテラシー概念を学び直してください。 ・第二に、「メディア表現の適切性を判断すること」と言いましたが、大事なことは「適 切性」は時代や文化によって変わるということ。 例えば今回で言えば「そんな映像、ネットでいくらでも見られるぜ」と言われるような 状況があることも、適切性の判断を左右します。 ・かつては小学生にとっての動画情報と言えばテレビしかありませんでした。 でも今はインターネットがあります。 テレビがなかった時代と違い、テレビが抑制してもネットで「不意打ち」に遭う可能性 が多々ある。 ならばテレビの抑制の目的や意味を問い直すべきです。 ・1970年の三島由紀夫の自殺。1986年の岡田有希子の自殺。 どの新聞でも三島由紀夫の首がごろんと転がっている写真が見られ、「フライデー」に は岡田有希子が投身自殺をして下に落ちて叩きつけられた写真が掲載されました。 でも「子供が見たらどうするんだ!」といった議論はほとんど出ませんでした。 ・僕は1970年に小学5年生。三島由紀夫の遺体写真を見ました。 というかクラス全員が見ました。 それで僕たちおかしくなってますか? ・また、「小学5年生に映像を見せる必要はあるのか。言葉で十分なのではないか」 と言う人もいます。 十分じゃありません。映像を見せなければダメです。 ・僕はずっと、青少年の問題「有害図書などをめぐる18歳以下の青少年保護育成条令に 関する問題」に関わってきて、「そんなことをしたら青少年が傷つくじゃないか」とい う意見を耳にしてきました。 こういう意見を言う輩に限って青少年に尋ねていない。 ・僕に言わせれば、「じゃあ、まず青少年に聞けよ」ということ。 どれほど傷ついたか。7どんなショックを受けたのか。 それを尋ねまわることもせずに、昔の時代に平気だった自分を差し置いて、「子供に見 せたら傷つくじゃないか」。臍で茶を沸かしています。 (「ベビーカーでの電車内乗車」に、なぜ女性は男性より厳しい目を向けるのか) ・日本民鉄鉄道協会が調べた2014年度の「駅と電車内の迷惑行為ランキング」を発表 しました。 「混雑した車内へのベビーカーと伴った乗車」を迷惑だと思うのは、男性の15.8% に対し、女性はなんと30.2%とほぼ倍にもなることがわかりました。 ・日本で「公共」というと、「行政は何をやっているんだ」問題になりがちで、「ノーマ ライゼーション」という言葉に象徴される「近代的な」公共性が欠如していることを指 摘しておきます。 ・ノーマライゼーションとは、もともとは社会福祉の界隈で使われてきた概念で、非健常 者にとってのバリアーを、市民相互のコミュニケーションや助け合いを通じて、いかに 解消していくか、ということを意味するんですね。 例えば、身体にハンディキャップがあるとか、幼児を連れて電車に乗らなければいけな い、そういう事情を抱えた人がいたら、「そういう人は通常の人より重荷を負っている から、自分は電車を一本遅らせても、スペースを開けてあげよう」と思うこと。 ・これがノーマライゼーションの本質で、近代の市民社会における公共性の基本原則を表 します。 日本にはそういう共通感覚がありません。 それが、何もかも行政の責任にされる背景であり、国際的に恥ずかしいマタニティハラ スメントの背景にもなります。 ・女性は一般的に「異性に視線に敏感だ」と言われます。 でも、ちゃんと見ると、「異性の視線に対する自分の反応・に対する同性の反応・に対 して敏感」なんです。 要は「男の視線に対する自分の反応を、他の女が見たらどう思うか」を気にするんです。 ・女性は「私だったらありえない。空いてる電車を選ぶ。この時間帯に乗らないよ」とな りがち。 「私だったら」とあ「私のまわりだったら」という具合に、近接的な同性集団内のモー ドー仲間内モードーを思い出し、そこから評価しがちなんです。 ・女性は、異性に対して反応する場合も、社会的な公共性に対して反応する場合も、 「ウチだったら、どうするか」と近隣同性集団からの視線を経由して、”近しい仲間が 「それもアリ」と承認してくれるだろうか”と考えがちです。 |