金正日が愛した女   :落合信彦
               (北朝鮮の最後の真実)

この本は、いまから21年前の2004年に「私が愛した金正日」というタイトルで単行
本で刊行されたものを2011年に「金正日が愛した女に」改題して文庫本化したものだ。
金正日が死亡したのは2011年12月17日だから、最初に単行本で刊行したときには、
まだ金正日は存命中だったことになる。
また、小泉純一郎首相が平壌を訪れ日朝首脳会談を行なったのは2002年9月17日だ
から、単行本はその2年後に刊行されたことになる。
内容が内容だけに、この著者は北朝鮮の工作員に命が狙われるということはなかったのだ
ろうかと私は余計な心配をしてしまった。
とにかく、この本は小説の形をしているが、その内容の多くが事実にもとづいて書かれて
おり、またいくつかの歴史上の疑惑も提示している。
まず、金日成の身元について疑惑があるようだ。北朝鮮では、金日成という伝説の将軍は
存在したが、本物の金日成将軍は満州で日本軍と戦って死亡したという。
そこでソ連のスターリンは、金永煥という人物を金日成の名を騙らせ、北朝鮮のリーダー
として仕立て上げたのだというのだ。
また、金日成の最初の妻「金正淑」は、北朝鮮の公式見解では、1949年9月に心臓麻
痺によって死亡したことになっている。
しかし、その死因には疑惑が持たれており、暗殺説もある。
この小説では、愛人の「金聖愛」を二番目の妻に娶るために邪魔だった金正淑を金日成が
自らの手で射殺したことになっている。
さらに、金日成の死については、北朝鮮の公式発表では、平壌の錦繍山議事堂で執務中に
過労による心筋梗塞で死亡したことになっているようだ。しかし、暗殺説もある。
この小説では、特閣(別荘)で、金正日が心臓病で弱っていた金日成に口論をしかけて興
奮させ、心臓発作を誘発させて死亡させたことになっている。

この本では、大阪出身の在日朝鮮人二世だった高英姫(高容姫)を金正日の3番目の妻と
しているが、実際は4番目の妻だったようだ。
この高英姫(高容姫)こそ現在の将軍様である「金正恩」の母であり、「金与正」の母で
ある。なお、高英姫(高容姫)は2004年に乳癌でフランスの病院で死亡したようだ。

金正日の愛人で中国に亡命したという喜び組の雪姫の話は、いろいろ調べたがそういう情
報は見つからなかった。これは架空の話だと思われる。
しかし、1995年に申英姫(シン・ヨンヒ)という女性が脱北しており、彼女は喜び組
メンバーだったということだ。彼女は、その経験をまとめた著書『私は金正日の「踊り子」
だった』を1997年に発表している。

この本を読んで初めて知ったのだが、金正日には影武者がいたようだ。人数ははっきりと
は特定できなかったようだが3人前後いたようだ。
なお、金正恩総書記にも2,3人の影武者がいるようだ。

ところで、この本の中で金正日が、
「南極と北極に核爆弾を落として氷を解かして海面を上げるのです。今より2メートル
 海面が上がったら、いくつの国が生存できると思いますか」
と話す場面がある。
念のためにChatGPTに問うてみると、
 事実上水没する国:
 ・ツバル
 ・モルディブ
 ・キリバス
 ・マーシャル諸島
 ・トケラウ(ニュージーランド領)
 国土の大部分が失われる国:
 ・バングラデシュ:国土の約20%が水没し、数千万人が移住を余儀なくされます。
 ・オランダ:防潮堤が機能しなければ国土の大半が水没。
 ・エジプト:ナイルデルタ地帯が広範囲に浸水。
 ・ベトナム:メコンデルタやホーチミン市が深刻な被害。
 ・フィジーやソロモン諸島:沿岸部や低地の村が消失。
 比較的生存可能な国:
 ・日本:東京、大阪、名古屋の一部が浸水するものの、内陸部は無事。
 ・アメリカ:ニューヨークやフロリダ沿岸は浸水するが、内陸部は影響が少ない。
 ・中国:上海や広東省が被害を受けるものの、内陸部は残ります。
 ・ロシア、カナダ、オーストラリア:広大な内陸部があるため生存可能性が高いです。
 ・南米の国々(チリ、ペルー、ボリビアなど)も内陸部や山岳地帯が多く生存の余地が
  あります。 
 
 これだけ見ると、水没する国はそれほど多くはないように思われる。
 ただ、経済面や食糧面では世界的な大打撃となるようだ。
 また、南極や北極で核爆弾を爆発させても、核爆弾の爆発熱は一瞬のもので、熱が氷に
 浸透する前に周囲の冷気で冷やされ、すぐに再凍結してしまうので、その影響は局的だ
 というのがAIの見解でした。
 
私がこの本を読んで、一番考えさせられたのは、主人公の沢田と川崎社長とが、雪姫のイ
ンタビューを放映するかどうかで衝突する場面だ。
川崎社長は、雪姫のインタビューを放映すれば、それが北朝鮮の金正日体制崩壊につなが
る可能性があることから、もはやマスコミの範疇を超えているとして放映に反対した。
しかし沢田は、一国家の転覆につながるといえども、真実を放映することがマスコミ人の
正義であると主張した。
この沢田の主張は、この本の著者の主張でもあると思うのだが、私は、果たして沢田の主
張が本当に正しいのだろうかと思った。
真実を公開する正義とは、あくまでそれによって人々に幸せがもたらされるかどうか、
少なくともそれによって人々の危険を回避できるかどうかではなかろうか。
しかし、北朝鮮の金正日体制の崩壊が、必ずしも北朝鮮の一般の人々の幸せにつながると
は限らないのではないだろうか思ったのだ。
また、逆に、真実たからといって放映しても、それが日本の金正日体制の転覆を企てだと
受けとめられて、北朝鮮が日本に武力攻撃をしかけてくる可能性も考えられる。
そう考えると、沢田の主張より川崎社長の判断のほうが正しかったのではと私には思えた
のだが、どうだろうか。


プロローグ

(1994年7月 北朝鮮 妙香山)
 Mi−24ハインドは爆音をたてながら清川江に沿って北東に向かっていた。
 前方に妙香山の山並みが映り、「金日成」主席の特閣(別荘)の一部が見え始めた。
 パイロットも副操縦士も極度に緊張していた。
 カーテンで仕切られた後部のVIPスペースには、”偉大なる首領様”の後継者であり
 今では実質的な指導者である人物が3人の警護兵に囲まれて乗っているのだ。
・特別ヘリは妙香山の別荘のヘリ・ポートに着陸した。
 もうひとつのヘリ・ポートには2日前平壌から到着した主席の特別ヘリが駐機してい
 た。2人の警護兵がヘリから降りてきて出口の左右に立った。
 「金正日」が出口に姿を現わした。
 ジャンパー姿だがその腹はかなりでっぱっている。
 警護兵たちがいっせいに敬礼した。
・正日が突然立ち止まって先導する白少佐を呼び止めた。
 「おい、少佐。あのヘリだがな。パイロットに平壌に帰るように言っとけ」
 「お言葉ですが指導者様、あれは首領様がいつも待機させておられる機であります」
 「今日もここにお泊りになるんだ。もう必要ない」
 「しかし首領様にもしものことがございましたら・・・」
 「馬鹿野郎!そういうことがないために特別警護兵がついているんだろう。それに医者
 たちもいる。早く帰せ!」
・その夜”偉大な首領”と”親愛なる指導者”は晩餐を共にした・
 食事中ずっと正日は父を注意深く観察していた。
 父は、運ばれてくる食事にはほとんど手をつけず朝鮮人参のエキス入りジュースを口に
 運ぶだけ。
 明らかに疲れ切っている。
 その疲労が持病の心臓病にかなり負担を与えているはずだ。
 ”偉大なる首領様”というより棺桶に片足を突っ込んだただの爺さんに過ぎない。
 しかしそれも自業自得だと正日は心の中でせせら笑っていた。
・核の開発と生産をめぐってアメリカはずっとわが共和国を非難してきた。
 昨年3月、共和国は核不拡散条約から脱退した。
 これに恐怖を感じたアメリカは以前にも増した共和国にさまざまな形で圧力をかけてき
 た。  
 国際原子力機関は共和国に対する制裁決議も行った。
 だがそんな決議など痛くもかゆくもなかった。
・日本も経済制裁を行う動きに出ようとしたがそれは宣戦布告に等しいという自分の一言
 で恐れをなしてやめてしまった。
・今年の5月に入って共和国とアメリカの間の緊張は頂点に達した。
 アメリカはわが共和国に対する空爆を検討し始めた。
 これこそ指導者としての自分が望んだことだった。
・アメリカの攻撃が始まれば真っ先にわが国防軍の餌食になるのは南朝鮮と日本である。
 南朝鮮に対してはミサイルなど使う必要はない。大砲で十分だ。 
 対日本にはその全土がほとんど射程距離に入る150基以上の火星ミサイルがある。
・この事実を知っている南朝鮮と日本はアメリカの空爆には絶対に反対する。
 国際世論も黙ってはいない。
 南朝鮮と日本はアメリカとたもとを分かつ状態に追い込まれる。
 となれば米、南朝鮮、日本を分断させるという第一段階が成功する。
 ぎりぎりの線まで相手を追い込むという自分の戦略は確実に功を奏していた。
・しかし邪魔が入った。
 それもよりによって今は引退しているはずの父からだった。
 1カ月前アメリカの元大統領「ジミー・カーター」が平壌を訪れることを認めてしまっ
 たのだ。  
・あのとき自分は大反対した。
 しかし父は強引に押し切ってカーターと話し合った。
 どんな話し合いをするかの内容についてはいぶんには事前にまったく知らされなかった。
 あとになって会談内容の結果について聞いたとき自分は唖然とした。
 あろうことか父は核兵器生産を止め南朝鮮智平和的統一に関して話し合うというとんで
 もない合意をしてしまった。
・あの交渉で父が持てる力のすべてを使い果たしてしまったことは容易に推測できる。
 だがそれでいいのだ。
 このまま父の微笑外交とやらが進めば共和国はアメリカや南朝鮮の奴隷になってしまう。
 どうせもう父の時代は終わったのだし、現在の轎亜石を支配しているのは自分なのだ。
・夕食が終わったとき首領は正日を書斎に招いた。
 2人が立ち上がると同時に左右に隣接した控室から10人あまりの警護兵が入ってきた。
 半分は玄大佐を責任者とする首領の特別警護兵で、あとの半分は白少佐率いる正日の警
 護兵だ。
「大佐、誰もお前達を呼んでないぞ!出ていけ!」
 首領が一喝した。
 玄大佐とその部下たちは下がろうとしたが正日側の特別警護兵は引っ込まなかった。
 首領の顔がわずかに赤らんだ。
 「聞こえないのか!下がれ!」
・白少佐が正日の顔をうかがうように見えた。
 彼の顔にかすかな笑いが浮かんでいた。
 しかしそれも一瞬で消えた。
 「首領様の命令だ。おっしゃる通りにしなさい」
 「首領様と私はこれから書斎に行く。警護の者はそれぞれ1人ずつでいい。責任者がい
 いだろう。書斎の隣りの部屋で一緒に待機しなさい」
 「それでよろしいですね?」
 「お前と2人だけで話すのに警護などいらんと思うがまあいいだろう」
・いよいよきたと正日は思った。
 しかし心の中は至って冷静だった。
・「父さん、ずいぶんとお疲れのようですね」
 「それでお話というのは?」
 「お前に聞きたいことがある」
 「お前はこれからこの国をどう治めていくつもりなんだ?」
 「どうもこうもありません。「主体思想」は人民の心に沁み込んだし、それをさらに進
 めると同時に共和国の防衛をより万全なものにする覚悟です」
 「まだそんな程度のことしか考えていないのか。主体思想などもはや通用しないことは
 言ってるお前が一番よく知っているはずだろう」 
 「何を言うんです。主体思想はわが朝鮮民族の土台です。父さんが考え出して「黄長Y
 に体系だてさせ私が最終監修をして作成したのじゃないですか」
 「確かに主体思想はお前が作ったことになっているし、それを宣伝部が人民の中に浸透
 させた。あれはわが民族を一体化させるための道具としての思想だった。だが時代は急
 激に変化している。もはや主体思想など我が金属にとっては何の役にも立たない。それ
 どころか障害になっておる。このままでは世界に取り残されたままになってしまう」
・「それでジミー・カーターに頭を下げたのですか」
 「頭を下げたわけではない。冷静な話し合いをしたのだ。もしお前にあのまま任せてお
 いたらアメリカは必ずわが共和国に対して武力攻撃を行っていた」
 「上等じゃないですか。相手が誰であろうともわが民族は英雄的勇気を持って打ち砕く
 ことができます。現に先の戦争ではアメリカの傀儡である南朝鮮を釜山まで追い詰めて
 ほとんど勝利したじゃないですか」
・「しかし勝てなかった。なぜだ?アメリカが参戦してきたからだ。そしてアメリカはわ
 が国に攻め入り、われわれはほとんど敗北しかけた。お前は中国に疎開し、わしは一時
 満州に引かねばならなかった。あのとき中国政府が20万人のへいしを投入してくれな
 かったら、わが共和国は破壊されていたろう。アメリカの力と意志をみくびってはなら
 ん」
・「父さんもずいぶんと弱気になったものですね。アメリカが戦争をしたいというなら受
 けて立つぐらいの度胸がなければいつまでも甘く見られます。いざとなったら中国だっ
 て応援してくれますよ」
 「そこがお前の甘さだ。世界を見てみろ。東アジアの変化を見てみろ。韓国は中国と国
 交を回復している。ロシアのエリツィンは韓国を訪問した。中国やロシアにとっては、
 わが国より韓国との関係を強化する方が得策なんだ。アメリカと中国の首脳はシアトル
 で会談してこれからの米中関係の建設的発展を模索している。日本とアメリカは安全保
 障条約で強く結ばれている。そんな状況のなかでアメリカがわが国を攻撃した場合、
 中国が助けに来ると思うか。馬鹿も休み休みに言うことだ」
・「中国抜きでも戦争はできます。南朝鮮や日本にはいざというとき、わが国家のために
 働く多くの潜在的破壊工作者がいるし、特殊部隊はサリンやVXガスをいつでも日本の
 アメリカ軍基地に撒ける態勢に入ってます。それに火星ミサイルもあります」
 「お前の愚かさはどうしようもない。後継者にしたのが間違いだったかもしれん」
 「父さん、まさか現役復帰を考えているんじゃないでしょうね」
 「それも選択肢のひとつと考えておる」
・「冗談はいいかげんにしてください。今指導者は私ですよ。父さん自ら後継者と任じた
 じゃないですか」 
 「指導者なら指導者らしく考え、振る舞ったらどうなんだ」
 「そうしているつもりです」
 「いや違う。お前はまるでわがままなガキだ。カーター氏はお前に会いたいのでなんと
 かそれを叶えてほしいと私に頼んだ。しかも二度もだ。だがお前は職務多忙を理由に会
 わなかった。元アメリカ大統領をあのように扱っておいて何が指導者だ」
・「会わなかったのは賢明だったと思います。もともと彼の訪朝に私は反対していたし、
 アメリカ人との会談そのものにも反対でした。しかし私を差し置いて父さんは彼と会っ
 た。そして屈辱的な合意に達してしまった」
 「何が屈辱的なのだ?わが共和国が核開発を注視してその見返りにアメリカや日本から
 エネルギーや食糧の援助を受ける。わが民が置かれた状況を考えれば当然のことだ」
・「それは物乞いに等しいことです。核爆弾とミサイルさえあれば、もっと強い立場で交
 渉ができるはずです。アメリカや日本が尊敬するのは力しかないんです」
 「そんなマンガのような屁理屈より現実を見てみろ。お前を後継者にしてすでに15年
 近い。その間わが共和国の状況や人民の生活は良くなったか。わしが治めていたころは
 南朝鮮とのGDPの差はほんのわずかだった。だが今はどうだ。10倍以上の差をつけ
 られているじゃないか」
・「南朝鮮はオリンピックをやったからです。だから最初から私はオリンピックを潰すべ
 しと考え、そのための行動計画を立てた。しかし父さんが大反対したじゃないですか」
 「当たり前だ!あのとき破壊活動など起こしていたら中国だけでなくロシアまで間違い
 なくわが国から離れていた。そんなことよりなぜお前は自分の狭い視野からしか物事が
 見えないのだ。指導者の必要なのは周囲の状況を見極め、それに対処できる順応性なの
 だ。そして国家国民のためなら妥協すべきところは妥協する。それがお前には決定的に
 欠けておる」
・「強い指導者には順応性や妥協性などは必要ありません。何事にも怖気づかない鋼鉄の
 意志を持つ者が真の指導者です。私は真の指導者です。伊達は酔狂で”百戦百勝の鋼鉄
 の霊将”とは呼ばれていません」
 「お前はもうだめだ」
 「だめなのはあなたの方ですよ」
 「何だ、その言い方は。わしはまだお前の父親だぞ」
・正日は心の中でにやりとした。
 こっちのペースに乗ってきた。
 2日前に父は心臓発作で一度倒れているのだ。
 あと一押しでとどめをさせる。
・「あなたは、かつては偉大だった。国家と人民のためなら私情を抑えて非情になれた。
 共和国建設のために共に戦った仲間を容赦なくパージし、不満分子を次々と小山送りに
 し、親友だった者をも殺した。
 しかし、今のあなたはそのような強靭さや非情さはみじんもない。過去の人間であり、
 ただの抜け殻にすぎない。そんな者が共和国の指導者として復権するなどもってのほか
 だ」
 「いまここで貴様を指導者の地位から解任する!」
・「私がまだ子供のとき、あなたは母さんを撃ち殺した。あのときあなたは私に言った。
 これは国家のためだ、と。無教養でサルのような女が主席の妻では国家と人民のために
 すまない、と。同時にあなたは言った。指導者というものは私情を捨てなければならな
 い、と。そんなものかとあのときは思った。しかし今思えばあの妻殺しはあなたが尊敬
 して止まなかったスターリンを真似たにすぎなかった。「聖愛」を娶るためのただの言
 い訳だったんだ」
 「継母とはいえ母親を呼び捨てにすることは許さん!その腐った根性を叩き直してやる」
・「意気がるのはやめた方がいい。あなたにはこれからずっと隠居してもらう。おとなし
 くしていれば聖愛には今の宮殿生活を続けさせてやる」
 「貴様・・・!」 
・首領が立ち上がった。
 しかし突然両手で胸をかきむしる仕草をみせた。
 顔は紅潮し大きく歪んでいる。
 次の瞬間意味不明の言葉を吐きながらアームチェアーにのぞけるように沈んだ。
 正日は立ち上がってゆっくりと父に近づいた。
 首領は口を大きく開け、目をわずかに開け、激しく息をしていた。
 「さようなら、首領様。最高の葬儀をするから安心してください」
・そのとき隣りの部屋から銃声が響いた。
 次の瞬間ドアが音を立てて開いた。
 正日が振り返った。
 玄大佐がトカレフを手に飛び込んできた。
 彼の後ろの控えの間に頭から顔にかけて血だらけになって倒れている白少佐の姿が見え
 た。 
 玄大佐がトカレフを手にしたまま正日に近づいてきた。
 
(2004年8月 北京)
・曽元生が乗ったタクシーが北京にある中国外交部に着いたのは夜の12時近かった。
 ゲートで車を降りたところで守衛に止められて身分証明書の提示を求められた。
 曽がポケットから黒革の手帳を取り出して開いて見せた。赤色の身分証明書だった。
 人民解放軍と共産党の上層部だけが持てる特別証明書だ。陸軍情報部大佐とあり写真も
 ついている。守衛が体を正して敬礼をした。
・そのまま彼は外交部特別局の一室に向かった。
 特別局とは情報の収集、分析、それに基づいた工作などを担う外交部の心臓部である。
 彼が部屋に入ると副局長の陳安家ともうひとりの男が立ちあがった。
・「紹介します。こちら」
 「張海寛さんでしょう?」
 「ご存知だったんですか」
 「知ってますとも。党中央情報部のベテラン工作員で決して拍手されることはないが祖
 国のために戦っている真の英雄です」
・「早速ですがこちらの張君はさきほど北朝鮮から帰ってきたばかりなのです」
 「今回の私の任務はかの国の状況、特に地方がどうなのか、何が起こっているかをつぶ
 さに検証して党中央の幹部に報告することでした。
 結果は無惨の一言につきます。私は過去何度もかの国に訪れましたが今回ほどひどい状
 況をみたのは初めてでした。95年から97年にかけての大飢饉もみましたが今の状況
 はあれがかすむほどです。
 国境地帯の向こう側には潜在的難民がうじょうじょしています。まるで幽霊の集団でし
 た。みな骨と皮と化していて泥を食べて生きています。草は食い尽くしてしまったので
 す。
 はっきり言ってかの国は末期症状にあります。問題はわが国がこれからどうあの国に対
 処していくかです。これまでわが国は北朝鮮に対して油や食糧を初めとするさまざまな
 援助を行ってきました。しかし無駄だったようです。
 これまでわが国が彼らのためにやってきたことはまったく無駄だったと結論づけざるを
 得ません」
・曽大佐は無表情でうなずいた。しかし次の張の一言で大佐の表情が一変した。
 「大佐、私は党中央に”なだれ作戦”の実行を進言しようと思っているのです」
 唐突な彼の言葉にさすがの大佐も一瞬絶句した。
 それもそのはず”なだれ作戦”とは共産党中央と軍、そして外交部の特別局が共同で考案
 した対北朝鮮最終選択肢だったからだ。
 それが実践されたら金正日政権の崩壊は必至であり、同時に北朝鮮が前代未聞の大混乱
 に陥り、その余波は中国を巻き込む可能性を意味していた。
・この作戦が具体化されたのは今から9年前の1995年、まだケ小平が存命中のときだ
 った。しかしその2年後、ケ小平の死とともに自然と作戦は皆の頭から消えていった。
・「どうでしょうか、大佐?」
 曽大佐がちょっと考えてから、
 「あなたがそこまで言うには裏があるんでしょうね」
 張はうなずいて、
 「”山猫”が作戦実行をうながしたのです。彼は言いました。”なだれ作戦”の時期到来と
 北京にぜひ伝えてほしい、と。
 山猫はそういうことを簡単に口走るような浅はかな人間ではありません。
 かの国の権力の中枢にいる彼が考えて考え抜いた結論だと思っています。命をかけてい
 ると感じました」   
・「”三虎の会”は山猫が片付けると言っています」
 「しかしわが国が直接手を染めるわけにはいかないでしょう」
・それまで黙っていた陳が言った。
 「あの国と手を切ったほうが逆にわが国の信用度は上がるというのがわが外交部の見解
 です。北朝鮮はガンです。とっくに取り除くべきでした。あの国のおかげでわれわれは
 どれだけアメリカとぶつかってきたことか。このままの関係を続ければこれからもアメ
 リカとぶつかります。あの国のためにそこまでする価値があるでしょうか。ここらへん
 で”血の同盟”と決別すべきでしょう」
・張が大きくうなずきながら、
 「陳さんのおっしゃるとおりだと思います。かの国の一部には、もし彼らがアメリカと
 戦争になったら、わが国が必ず助けると信じている輩もいます。あの金正日も含めてで
 す。半世紀以上も前の朝鮮動乱の幻にしがみついているのです」
・重苦しい沈黙が垂れ込めた。
 最初に口をひらいたのは曽大佐だった。
 「”なだれ作戦”を実行した場合、北朝鮮には根底から地殻変動が起きます。北朝鮮の人
 民が信じてきたものが完全拒否されるのですから社会自体の存続もままならない。
 となると必ず大量難民が出る。彼らの一部は南に逃れようとするが38度線には核地雷
 がある。せいぜい船で韓国や日本へ行くのがやっとでしょう。しかし難民の対部分は北
 に逃げる。ということはわが国です。それがどれだけの規模になってもわが国に与える
 社会的影響は計り知れません。それらの難民にどう対処するのかも考えなければなりま
 せん」
・「1995年この作戦が考案されたとき難民数の推定は約300万から400万でした。
 現在の推定では500万から600万といわれわれは見積もっています」
 「ですから彼らのわが国への流入はどうしても止めねばなりません」
 「しかしまさか人民解放軍が川岸で彼らを撃つわけにもいかないでしょう」
・「一応、党の方針としてはそのような場合は撃ってもいいということになってます。
 脱北者は帰すが大量難民は撃ち殺すということは以前から北の政府に伝えてあります。
 彼らはそれを了承してますし歓迎もしています」
 「しかし、そんなことをしたら国際世論が黙ってはいませんよ」
 「難民を撃ち殺すなど今の世界では到底通用することではありません。それにしてもそ
 のような命令が下されてもわが人民解放軍は動かないでしょう」
 「江沢民軍事委員会主席の命令でもですか?」
 「彼の命令ならなおさらのことです」
 張が苦笑した。大佐の言いたいことはわかっていた。
 江沢民は軍歴がない。軍のことに関してはまったくの素人である。
・「いや難民を撃ち殺さなくても彼らを止める方法はあります」
 張と陳が身を乗り出した。
 「国境に人民解放軍50万を張り付けます。それが十分な警告になります。もしそれで
 も彼らが渡ろうとしたら催涙弾を撃つ。確実に彼らを止めることができます。大量難民
 が出るということは”なだれ作戦”が成功したということです。世界の目には難民問題に
 集中します。そうすれば国連や慈善団体などからの食糧の緊急援助がなされる。
 アメリカや日本は喜んで手を貸すはずです。食糧さえ与えれば難民たちは無理にわが国
 に入ろうとはしませんよ」
・「他に引き金役を探さねばならないということですね」
 大佐がうなずいて、
 「それからもうひとつ。張さん、山猫は確かに”三虎の会”を始末すると約束したのです
 ね?」
 「間違いありません」
 「これは非常に大事なことです。もし彼らが生きていたら何をするかわかったものじゃ
 ありませんからね。やけっぱちになってところかまわずミサイルを乱射することさえ考
 えられます」  
・「作戦開始の合図は?」
 「彼らは毎晩北京放送を聞いています。天気予報でアナウンサーに言わせます。”最近
 は異常気象の連続です。地球になんらかの異変が起きているのではないでしょうか?”
 それが合図です」
  
第一章
(2004年8月 東京)
・その日の仕事を一応終えて帰り支度をしている沢田貴士のもとに一本の電話が入った。
 以前から知り合いの篠塚哲からだった。
 「実はですね。沢田さんにぜひ会いたいという人物がいるんです。たぶん、沢田さんも
 知っている人物です。彼の名は安永民」
 「朝鮮総連のあの安氏か」
 「ええ、でも今は総連を脱退しています」
 「いいだろう。いつだ?」
・「沢田先生、お久しぶりです」
 「今はこういう仕事をやっております。」 
 沢田が名刺に目をやった。肩書は「朝日国交樹立推進国民会議代表」となっている。
 沢田が聞いたこともない団体名だった。
 「核になっているのは共和国外交部と日本との国交樹立を熱望する国民有志です。沢田
 先生にもぜひ応援をお願いします」 
・国民有志という言葉に思わず沢田は苦笑いしてしまった。
 「何か?」
 「いえいえ、あまりに立派な肩書なのでびっくりしているんです。しかし時期尚早じゃ
 ないですか。拉致問題だって片付けていないし」
 「いやあの問題はもう片付いています」
 「それはあなたがたの考え方でしょう。われわれにとっては全然終わってませんよ」
 「共和国の外交部の公式見解ですから。それに2002年9月の小泉訪朝で金総書記が
 正式に謝罪してます。あの方が謝ったのですから幕は降りたのです」
・「こんなことを話し合いために私を呼んだのかね」
 安が心持ち姿勢を正した。
 「実は沢田先生、あなたに頼みがあるのです。決して悪い話ではありません。これは共
 和国外交部から直接来た話です」
・安の話はほぼ沢田が予期していたものだった。
 彼によると現在、北朝鮮は前代未聞の危機に瀕している。
 300万の国民はすでに餓死し、200万が餓死寸前の状態にある。
 草や木の根を食べて飢えをしのいでいた多くの国民は今や動物の糞を食べている。
 年寄りは家族の苦しみを減らすために家出し行き倒れとなる。
・同盟国であるはずの中国は、これまで何度も援助を約束したが実行されたものはほんの
 わずか。   
 韓国からも家畜用飼料や農業用の肥料は送られるが、それらを使うための牧農のインフ
 ラは壊滅状態。
 そのため飼料や肥料は中国に売らざるを得ない。
 在日朝鮮人からの寄付や援助も朝日間の状況が状況だけに急激に減っている。
 ミサイルを中東に売ることによって外貨を稼いできたが、それもアメリカの厳しい監視
 下にあって動きがとれなくなっている。
・このままでは、いかに忍耐強い共和国の民も遅かれ早かれ不満を爆発させる。
 そうなれば朝鮮半島の北半分は地獄と化す。
・共和国政府としては、そのような状態に陥ることは何が何でも避けなければならない。
 アメリカとの話し合いを進めてはいるが11月の大統領選挙が終わるまでは実の春話は
 できないし、プッシュが勝とうがケリーが勝とうが和解への道程には時間がかかる。  
 その間、共和国は内部崩壊してしまうかもしれない。
・そこで共和国政府はある決断をくだした。
 最悪の事態を回避するには共和国に大量の経済的輸血をするしかない。
 それができるのは日本だけである。
 それを実現化するためには日本との国交樹立が焦眉の急である共和国としてはそれに向
 けてあらゆる努力をする。
 そのためには今までの姿勢を180度変えることも覚悟した。
・「共和国政府の幹部たちは、これまでの外交政策が世界からの孤立を招いたことは十分
 承知しています。ですから共和国の実情をありのままに世界に見せて理解をえることが
 先決です。これが解放の第一段階となります。
 そこで先生にお願いしたいのですが、御社のネットワークで共和国の実態を世界に見せ
 ていただきたいのです」  
・沢田がしばらく考えた。
 こういう類の話は以前からあった。
 何社かは乗ったが、結局は北のプロパガンダに使われただけだった」
・「信じてください。これは真っすぐな話です」
 「かつて同じような取材の話が何度かありました。一度孤児院や病院で栄養失調の子供
 たちの映像も見せられましたが、あれは食糧欲しさに北朝鮮政府が放ったプロパガンダ
 だった。ちょうちん持ちをやらされただけです。幸い私が猛反対したため、わが社は恥
 をかかずにすみましたがね」 
 「今回はそのようなことはありません。共和国外交部が保証しているのです」
 「総書記自ら外交部に命じたのです。御社を指定したのも総書記とのことです」
・「完璧な自由取材です。いったん共和国に入ったらどこに行って誰と話そうがまた何を
 撮ろうがかまいません」
 「監視や盗聴もないんですか?」
 「当然です。それからもうひとつ。これを聞いたらさすがのあなたも興奮しますよ。
 何だと思います?」
 「じらさないで言ってくださいよ」
 「金総書記が特別インタビューに応じるのです。どんな質問でも許します。前もって質
 問事項を提出する必要もありません。なんでも聞いてくださって結構です」
・これにはさすがの沢田も内心びっくりした。
 金正日がメディアの取材に応じたことは、これまで一度もなかった。本当だとすれば世
 界で初めてということになる。しかも質問は寸止めなし。
 しかし、あの国の権力機構と指導者の実績から見てにわかには信じ難い。
・「安さん、明日、出社次第今あなたの言ったことを社長にありのまま報告します。あと
 は社長の判断次第です」   
 言い残して沢田は出て行った。
・翌日、いつもより早く出社した沢田は、そのまま社長室に行った。
 社長の川崎は8時前には必ず出社している。
 沢田の話を聞いた川崎の反応は予想していたとおりポジティブなものだった。
 「すごい話じゃないか。しかもわがGTBを指名してくるとは」
 「しかし社長、慎重に進めたほうがいいと思いますよ」
 「これまで北は完璧な孤立政策をとってきました。外国人はシャット・アウト、外国文
 化もシャット・アウト、平壌に駐在する外国大使館員なども自由に散歩さえできない。
 中国外交官でさえデリケートな話をするときは大使館の庭でやるほどです。それだけ外
 国人をがんじがらめにしている国がメディアに、しかも日本のメディアに完全開放する
 でしょうか」 
・「考え過ぎだよ。あちらさんは自由に取材してくれと言っている。
 しかも、この話は金正日が直接からんでいると言うんだろう。ストレートに受け止める
 べきだ」
 「早速、午前中に緊急役員会をやろう。君も出席してくれ。その安とかいう人が言った
 ことをもう一度役員たちの前で話すんだ」
 ワンマン社長の川崎が了承したことは自動的に役員会を通る。
 「社長がオーケーから役員会などに諮らなくてもいいじゃないですか」
 皮肉は川崎には通じなかった。
 「これは重要な件だから民主主義的プロセスを通すべきだ。能無しの給料泥棒ばかりだ
 が一応は役員だからね」
 沢田がまじまじと川崎を見つめた。彼が民主主義的プロセスなどという言葉を知ってい
 ること自体驚きだった。
・10時ちょっと前に会議室に行くと社長を含む13人の役員全員が巨大な長方形のテー
 ブルをはさんですわっていた。沢田は末席にすわった。
 社長の川崎がまず緊急会議の趣旨を説明し、沢田に説明するよう指示した。
 沢田は2時間前に川崎に語ったと同じことを役員たちに伝えた。
・「私としては大いに価値ある話だと思う」
 川崎が言った。
 「社長のおっしゃるとおりです!」
 川崎の真ん前にすわった副社長の石井の言葉には力がこもっていた。
 川崎が石井のとなりにすわった専務のひとり松山をあごで指した。
 「私も社長に100パーセント賛成します。このスクープによって、”報道のGTB”の
 面目躍如。視聴率の大幅アップは間違いありません」
 「君は?」
 川崎がもうひとりの専務の三枝に聞いた。
 「これほどの話はそう来るものではありません。ビジネス的にも大変なスケールの話で
 す。世紀のスクープです。スポンサーも殺到するでしょう。選ぶに大変ですよ」
 「よし、それじゃこの話を進めることにする。みな異議はないな」
 いつものようにオウム返しの異議なし。
・「沢田君、きみが責任をもってプロジェクトチームを組んでくれ。すべて君に任せる」
 社長が松山に目をやった。
 「君は編成担当だったな。
 そっちのほうはきみがやれ。沢田君に大事な時間を無駄にして欲しくないんだ。2時間
 番組で5日連続。オン・エアーは10月初め。ゴールデン・タイムにぶつける。わかっ
 たな」   
 「それから沢田君、君にはプロデューサー兼メイン・レポーターとしてやってもらう。
 金正日とのインタビューも含めてだ」
 「いったんプロジェクトを組んだら、君が私情を捨てて全力を尽くすことを私は知って
 る。あとは君の思うように運んでくれ」
・会議室を出たとき、沢田は妙な気持ちに駆られていた。
 あのタヌキ親爺めにまんまと乗せられてしまった。
 自分とはまだまだ役者が違う。
 だからこそ20年もの間、GTBの実力者でいられたのだ。
・沢田は早速、安永民に電話を入れた。
 役員会で彼のオファーを受け入れる決定が下ったと伝えると興奮した口調で、
 「ありがとうございます。正しい決定です。決して後悔はさせません。すぐに共和国外
 交部に伝えます」
・「ちょっと待ってください。安さん、一応決定はくだりましたが条件があります」
 役員会は条件などつけなかったが相手の真意を試すという意味で重要なことだと思った。
 「強制収容所の取材も当然オーケーなんでしょうね」 
 「共和国に強制収容所などありませんよ」
 「北朝鮮には収容所があることは亡命者たちの証言でもすでに明らかになっています。
 少なくとも12ある。たとえば「咸鏡南道」には「耀徳収容所」などがあるじゃないで
 すか。あそこに入れられていた何人かの亡命者と私はインタビューしたころがあるんで
 すよ」
・「ああそれは収容所ではなく特別統制対象区域のことでしょう。共和国の政策に反対す
 る者や体制に不満を持つ者を矯正するための区域です」
 「呼び名はともかくそういう区域も取材できるのでしょうね」
 「少々時間をください。共和国外交部に確かめます。ホットラインを使いますからそう
 時間はかかりません」
・「それからもうひとつ。拉致された人々の何人かと会いたいんです」
 「それは無理でしょう。行方不明の状態ですから」
 「金正日氏の鶴の一声で10人や20人はすぐに集められるはずです。これは北にとっ
 ては大した問題ではないですが、わが国にとっては国民的関心事です。これを抜きにし
 ての番組は考えられません」
 「わかりました。それも含めて聞いてみましょう」
・沢田にとっては意外だった。
 彼自身、これら2つの条件は北にとっては受け入れ難いほど厳しいものであることを知
 っていた。
 それに対して安はあっさりと妥協的な姿勢を見せたのだ。
・それから約20分後、安が電話をしてきた。沢田が出した2つの条件に共和国政府が同
 意したと言う。
 「特別統制対象区域はいくつかありますが耀徳あたりがいいのではないかとのことです。
 あそこは”革命化区域”と”完全統制区域”にわかれていますが、どちらでもいいと言
 ってます。行方不明者に関しては、これから全力を挙げて探索するそうです」
 「国家保衛部が全力を尽くすそうですから、良い結果が出ると思います。いかがです。
 これであなたの出した条件はクリアーされましたね」
・沢田が言葉につまった。
 収容所にしても拉致被害者にしても北にとってはもっともデリケートな問題である。
 それらを外国のメディアに接触させること自体これまでは絶対的なタブーであるはずだ
 った。 
 それを安はいとも簡単にクリアーできそうだと言っているのだ。
・その上、答えが来たのは早すぎる。
 少なくとも金正日に話をもって行って直接彼の判断を仰がなければならない問題である。
 それには時間がかかる。わずか20〜30分の間にそんな芸当ができるだろうか。
 
第二章
・沢田がまず重視したのはチーム・カメラマンだった。
 これにはスチールとビデオ両方に精通した者が欲しかった。
 もっとも重要なのは金正日とのインタビューを受け持つチーフ・カメラマンである。
 正規のインタビューを撮るからには単にカメラ・アングルやシャッターのタイミングに
 長けているだけでは十分ではない。
 言ってみればカメラに生命を吹き込むことのできるプロ中のプロだ。
 社内カメラマンにもいいのがいるが所詮彼らは檻の中で飼われた羊にすぎない。
 プラス・アルファの感性能力など望むべきもない。
 となると平壌担当のチーフ・カメラマンは外部から導入するしかない。
 真っ先に沢田の頭に浮かんだのが篠塚哲だった。
 彼は人間としては少々性格破綻的なところがあるが、いざ仕事となるとまったく別の一
 面を見せる。その集中力とカメラと一体化した姿はそばで見ていても圧倒されるほどの
 迫力がある。
・篠塚に連絡する替えに沢田はビデオ・プロダクションを使っているテレビ局や雑誌、
 新聞社などのいる知人たちに電話を入れて篠塚の会社について聞いてみた。
 皆一様に同じようなことを言った。
 篠塚のプロダクションの仕事ぶりは申し分ないが財政面でかなり苦労しているらしい。
・次に沢田は篠塚に電話を入れた。
 今度の取材について話し、金正日とのインタビューと平壌市内の取材を担当して欲しい
 と伝えた。 
 篠塚はしばし黙ったままだった。
 「おい、篠塚君聞いてるのか?」
 「は、はい、びっくりしているんです。夢じゃないかと」
 「私が間に入った話だから義理に感じてるわけじゃないんでしょうね」
 「おれがそんなセンチメンタリストじゃないのはきみがよく知ってるはずだろう」
 「支払いのほうは仕事が終わり次第する」
 「そこまでする必要はありませんよ。通常通りの期間で支払ってもらえばそれで結構で
 す」 
 「6ヵ月も待たせるわけにはいかないよ。どんなにいい仕事をしても、お宅がつぶれた
 ら何の意味もないだろう」
 「やはり沢田さんはセンチメンタリストですね。そこまで考えてくれるなんて・・・。
 篠塚哲一生恩に着ます。この恩は仕事で返します。絶対に沢田さんをがっかりさせるよ
 うなことはしませんから」
・それから5日後、沢田率いる60人の取材陣がチャーター機で平壌に直行した。
 GTB始まって以来の超大型取材が開始されようとしていた。
 
(平壌)
・平壌の順安空港で一行を迎えたのは安永民と共和国外交部の朴容淳次官だった。
 税関、入管はフリーパスで一行は3台のバスに分乗して市内の高麗ホテルに向かった。
 途中のハイウェーにはたまにすれ違う軍用トラック以外ほとんど行き来する車はない。
 20分ほどで平壌駅のそばにある高麗ホテルに到着した。
・朴と安がこれからのスケジュールの打ち合わせのため話し合いたいと沢田に言った。
 「私の部屋でやりましょう」
 ごく気軽に言ったつもりだったが、朴が首を振った。
 「このロビーのほうがいいと思います」
・北朝鮮のホテルの部屋はすべて盗聴装置がつけられているということは聞いたことがあ
 る。  
 だが今回の取材は金正日自らがオーケーを出したものだ。
 ということは国家保衛部、軍、安全部などにすでに通達が言っているはずである。
 それを言うと朴が言いにくそうに、
 「その通りです。しかし残念ながらどの組織にも将軍様にたてつく分子はおります。
 そういうやからに対しては細心の注意が必要なのです」
 怪訝に思いながらも沢田は2人に従いてロビーの片隅に行った。
・「平壌でも地方でも自由取材です。耀徳特別統制対象区域や38度線、朝中国境などの
 取材も許可します。だがひとつだけ取材対象外となるものがあるんです」
 「このリストであなたは将軍様の特閣を取材したいと言ってますがそれは不可能です」
 「でも故金日成氏と金総書記の特閣は少なくとも80はあると聞いています。その中の
 ひとつでいいんです。できれば妙香山にあるのが理想的なんですが。あそこには金日成
 が最期を迎えた場所でもありますし」
 「私個人としては許可したいのはやまやまなのですが、なにしろ上層部が反対なのです。
 彼らが反対するのもわかるんです。共和国の現状と特閣の存在はあまりにもかけ離れて
 おりますので」
・取材リストを提出したとき特閣についてはひょっとしたら拒否されるのではないかと沢
 田自身思っていた。
 ある中国筋から特閣の中にこそ金一族の最も深い恥部があると聞いたことがあったから
 だ。
 その恥部とは「キップムジョ(喜び組)」に関連していることだった。
・70年代の終わりから80年代の初めまでキップムジョは100パーセント北朝鮮の女
 性で占められていた。 
 しかしバラエティがほしかったのか、金日成は労働党連絡部と調査部に対して海外の女
 性を連れてくるように命じた。
 工作員が連れてきたのはデンマーク、レバノン、スペイン、ポルトガル、そしてアジア
 からは日本人やタイ人だった。 
・しかし彼女たちはキップムジョとしての基礎条件を満たさなかった。
 処女がひとりもいなかったのである。
 そんな女性たちを偉大なる首領様や指導者様に捧げるわけにはいかない。
 結局、彼女たちはごく短期間ストリップ・ダンサーとしてしか使えなかった。
・問題は彼女たちを使った後だった。
 誘拐してきた手前、故国に返すわけにはいかない。
 そこで苦肉の策として彼女たちを各地の特閣に送り込み、そこに閉じ込めているのだと
 その中国筋は語っていた。
・もし取材で彼女たちの存在が知れたら北朝鮮にとって新たな拉致問題が生ずるし、好色
 な金正日の手がヨーロッパやアジアの国々にさえものびていたことが明らかになる。
 そうなったら、北にとって今回の取材は百害あって一利なしとなってしまう。
・「特閣がだめなら、かつてキップムジョで働いていた女性に合わせてもらえませんか」
 朴が眉間にしわを寄せた。
 「なぜキップムジョなんです?今回の取材とはそれほど関係ないんじゃないですか?」
 「日本人はキップムジョに非常に興味を持っているんです。番組を盛り上げる重要な要
 素になります。決して低レベルな取り上げ方はしません」
 朴はちょっと考えてから、
 「一応護衛部に当たってみますが、あまり期待しないでください」
・「ああそれからもうひとつあるんです。3つの取材班には国家保衛部か軍関係者が同行
 することになっています」 
 沢田が安を見据えた。
 「どういうことなんです。監視はないとあなたは保証しましたよね」
 安が助けを求めるように朴を見た。
 「監視ではありません。取材班の安全のためらしいのです。私は別にその必要はないと
 思うんですが、保衛部のほうが主張してるんです。平壌はともかく地方は決して安全で
 はないと彼らは言っています」
・「軍人などがついてきたら一般庶民は正直なことを言ってくれると思いますか。これす
 なわち取材妨害です」
 これでは先が思いやられる。ここらで一発かましておかないとこれからもなめられる。
 「取材や止めにします」
 「何ですって?」
 信じられないという表情で朴と安が沢田を見つめた。
 「取材は止めてこのまま東京に帰ります」
 「そ、そんな無茶な!」
 2人とも顔が青ざめていた。
・「じゃこうしましょう。軍人がついてくるのはしょうがないとして、できるだけ彼らは
 現場から遠く離れていること。それぐらいはあなたのほうから言えるでしょう」
 「わかりました。必ず伝えます」
・朴がいくら言っても保衛部は聞き入れないだろうと沢田は感じ取っていた。
 外交部と保衛部では所詮力が違う。
 しかし、こっちの立場は明確にした。
 次に急な変更などあったら、取材はストップするというこっちの気持ちは相手にわかっ
 たはずだ。  
・朴がリストに目を移した。
 「ここに閣僚の名前はひとりも載っていませんね」
 「総書記とのインタビューで十分です。どうせ閣僚たちは踏み込んだ話はできないでし
 ょうからね」
 沢田の皮肉に朴がにやりとした。
・「その代わりと言ってはなんですが、軍のトップとのインタビューをお願いしました。
 そこに載っているでしょう」
 「李乙雪元帥ですね。残念ながら彼はもうほとんど引退しているんです。しかしご心配
 なく。彼の代わりとして李鶴秀大将を用意しましたから。それでよろしいですね?」
 「どんな人です?」
 「生粋の軍人です。彼の父親は朝鮮動乱で英雄的な働きをして散りました。
 大将は当時はまだ10歳でしたが首領様のはからいでモスクワのカデットアカデミー
 (少年兵学校)に入り、のちに陸軍大学を卒業しました。卒業後はすぐに38度線を守
 る第5軍団に配属され、そこで総司令官までのぼりつめました。
 結婚は一度もしたことがなく趣味は読書。軍人にしては珍しい洗練されている人です。
 かつて将軍様がなぜ結婚しないのかと大将に聞いたところこう答えたそうです。
 ”アメリカとの戦争になったらこの身のすべてを戦いに捧げるためです。妻や子がいた
 ら未練が湧いて全力で戦えないかもしれません。自分には首領様と指導者様が唯一の親
 であり兄弟であります”と。
 この言葉に将軍様はいたく感激されたと言われています」
 「軍人としては珍しく自分の意見を持っていて、しかも饒舌ですからいいインタビュー
 になると思いますよ。それからこれはあくまでわれわれの提案なのですが、”三虎の会”
 のメンバーにもお会いした方がいいと思うんですが」
 「”三虎の会”?何ですかそれは?」
・朴によると”三虎の会”が結成されたのは半世紀以上も前にさかのぼる。
 金日成とともに抗日パルチザン戦争を戦った3名の戦士が発足させた会で金日成は彼ら
 を絶対的に信頼していた。
 彼らは政策顧問として常に金日成に影のようについていた。
 その第一世代が去ったあと彼らの息子や娘婿が会を継いだ。
 1994年7月、金日成が妙香山の特閣で逝去したときショックで茫然自失の状態にあ
 った金正日の代わりに葬儀の総指揮をとったのは彼らだった。
・「実はあのとき、ちょっとしたごたごたがあったんです。軍の内部も割れていたし党も
 首領様を失ってパニック状態にあり、いつ南朝鮮の侵攻を誘ってもおかしくはなかった
 のです。だが最終的には”三虎の会”が話をまとめ無事葬儀を終えることができました。
 彼らは李大将とは対照的に政治的思考と影響力が非常に強いのです。将軍様が最も信頼
 する顧問でもあります」
・沢田は当時のことを思い出した。
 あの頃、葬儀をめぐっておかしなことが起こっていた。
 金日成死去のニュースが発表されたのは1994年7月9日の確か午後12時だった。
 8日後の7月17日に葬儀が行われるはずだった。
 しかし、その1日前の16日それが突然延期と発表された。
 結局、葬儀は19日に行われたのだが外国からの弔問客はいっさいシャット・アウト。
 この間いろいろな憶測が世界のマスコミをにぎわせたが真実は闇に隠れたままだった。
・「日本人の行方不明者は何人ぐらい集まりますか」
 「10人ほどです。今晩平壌に入ることになっています」
・三虎の会・・・もし朴が言ったことが本当なら金正日は彼らに操られているということ
 も考えられる。  
 北京で行われた二度目の6カ国協議で北朝鮮の金桂寛外務次官は北が核実験をやる可能
 性があるという爆弾発言をした。
 あのとき彼は言った。
 北朝鮮政府の内部には核開発をコントロールしているある強力な”部門”がある。
 その部門が核実験によって核の力を誇示したいと熱望している、と。
 ひょっとしたら、その”部門”とやらが”三虎の会”ではないのか・・・。
・その日の夕方、朴と安が再び高麗ホテルを訪ずれて正式なスケジュールを沢田に渡した。
 それによると金正日とのインタビューは取材の最後の日となっていた。
 かつてキップムジョのメンバーだった女性とのインタビューも入っていた。
 将軍様の特別なはからいで実現したものだと朴が強調した。
 ただ、ひとつだけ抜けていたものがあった。
 ”三虎の会”のメンバーとのインタビューである。
 それについて問いただすと朴が小さく首を振りながら
 「それについては、あなたに謝らなければなりかせん。インタビューを提案したのは私
 の勇み足でした。”三虎の会”の玄英浩上将を考えていたのですが、彼は7日前に急病で
 亡くなっていたのです」 
 「他の2人はどうなのです?」
 「残念ながら玄上将と同じ頃に交通事故で亡くなっていました」
 「そりゃないでしょう。朴さん。3人とも同じ頃に死ぬなんてあまりにも出来過ぎた話
 じゃないですか」
・「玄上将にはインタビューについてまえもって連絡しておいたのですか」
 「いえ将軍様の許可を得ていたので、あなたがたがここについてからでも十分間に合う
 と思っていたのです。本当に申し訳ありません」
 申し訳ないと言ってる割には表情がさばさばしている。
・おかしいと沢田は直感的に感じた。
 3人の死もさることながら朴の言葉に対してだった。
 たぶんすでに朴は3人が死んだことを知っていてインタビューを提案して来たのではな
 いか。 
 としたら、その目的はただひとつ。”三虎の会”という組織の存在をこちらに知らせるた
 めだ。
・「7日前に死んだと言いましたね?」
 7日前と言えば、GTBが北朝鮮取材を役員会で決定して沢田がそれを安に知らせた日
 だった。
 あるシナリオが沢田の頭の中で点滅し始めた。
 しかしそれを沢田はすぐに打ち消した。
 そんな馬鹿なことがあるわけがない。
 
第三章
・翌朝早くB班とC班はそれぞれ通訳やコーディネーターをともなって受け持ちの地方へ
 と出発した。
 その日からA班も平壌市内の取材を介することになった。
・通訳として延春日という若い男が外交部から送り込まれてきた。
 日本からもA班専用に1人つれてきたのだが、彼は撮影隊中心に動かなければならない。
・延は平壌外国語大学出身だが、これまで日本には一度も行ったことがないという。
 しかし、彼は沢田が感心するほどきれいな日本語を話した。
・一行の”ガード”としてついてきたのは国家保衛部の呉在京少佐以下5人の兵士だった。
 呉少佐はまだ20代の後半にしか見えない。
 切れ長の目は異様な鋭さを秘め顔全体が能面のような冷たさをたたえていた。
・平壌市は”ピョンヤン民主主義人民共和国”と呼ばれるほど特別な地位が与えられている。
 特に仲区域は特権階層だけが住める地区である。
 高麗ホテルがある地区だが金正日の住む15号官邸や彼の執務室がある中央党本庁舎な
 どもある。
・道路は極端に幅が広い。
 いざというとき戦車が通れるように設計されているのだろう。
 交差点の真ん中にお立ち台があって婦人交通警官が立っているが肝心の車が少ないため
 笛つきのパントマイムをやっているようだ。
・ホテルから北へ3キロ程行ったところに、やや傾きかけたピラミッドのような高い建物
 があった。かの有名な「柳京ホテル」である。
 呉少佐が近づいてきて何から沢田に言った。延がそれを訳した。
 「この建物は東洋のピサの斜塔です。これから内装を施して観光資源のひとつにする計
 画とのことです」 
・この柳京ホテルは、高さ300メートル、地上105階、世界で最も高さのあるホテル
 として金正日に肝煎りで作られたものだが、途中で資金が途絶えたため外形だけで終わ
 ってしまった。 
 その後は野ざらしのままになっていたが、ことはそれだけでは終わらなかった。
 建物が傾き始めたのである。着工前にちゃんとした地質調査をやらなかったたけだ。
・北朝鮮政府は、中国の地質学者や建築家を招いてなんとか傾斜を止めようとした。
 しかし彼らの結論は残酷なものだった。
 もはや建て直しや修復がきかないほど建物は傾いてしまっており破壊してしまうか、
 または自然に倒れるのを待つしかないという。
 しかし壊すのには金と労力がいる。
 そんなことに金を使うよりはミサイルや核の開発に注ぎ込んだほうがはるかにプラスで
 あり、労力は地下要塞建設にまわしたほうが得策である。
 というわけで柳京ホテルはそのままほったらかしになって現在に至っている。
・次に取材班が訪れたのは柳京ホテルから1キロほど離れた烽火診療所だった。
 さすがに党や政府の要人のための病院だけあって病室はアメリカの病院なみで設備も目
 を見張るほど最新のものがそろっている。
 院長自ら一行を案内した。
 「ここと同じ設備を備えた病院が平壌市内だけで200あります」
 「地方を入れたら1000はくだらないでしょう。すべてはお慈悲深い将軍様のおかげ
 です」  
 「入院費などはどのぐらいかかるんです?」
 「一銭もかかりません。人民への奉仕の精神で貫かれておりますから」
・延の案内で一行は中区域の南を流れる大同江にかかる橋を渡って川沿いに西へと向かっ
 た。 
 さらに5キロぐらい行ったところの橋のそばで一行の車は止まった。
 あたりは草がぼうぼうと生え川から少し離れたところにいくつかの古びた建物が建って
 いた。
 干し物があるところを見るとたぶんアパートだろう。
 近代的な中区域や「万景台」区域から一瞬にして石器時代に戻ったような感じだ。
・ギョッとする光景が沢田たちの目に入った。
 川辺から橋の下にかけて半裸の男女が地面に横たわっていた。
 少なくとも100人は下らない。
 腰から下はぼろきれで覆われてはいるが一様に顔は骸骨のようにやせ衰え体は骨と皮だ
 けの状態だった。みな眠っているのかほとんど動かない。
 よく見ると老人ばかりだった。
 それともやせ細ってるためにそう見えるのかもしれない。
・延は低い声で言った。
 「この人たちは家族のためにここにいるのです」
 「家族のために?」
 「家族が飢えに苦しんでいるので口減らしのためなんです。せめて自分がいなくなれば
 家族が助かると考えてのことです」
 「あの人達と話せますか?」
 沢田の問いに延は首を振った。
 「無理でしょう。声を出す力が残っていないでしょうから」
 「じゃあのまま死ぬのを待っているというわけですか」
 「もう何人かは死んでいます。ほらハエがたくさんたかっているのがあるでしょう。
 あの人達はすでに死んだ人達です」  
・そのとき呉少佐が何やら言いながら2人に近づいてきた。
 「ここに来たのは先生が私に頼んだからということにしてください。いいですね」
 少佐は別に怒っている様子ではなかった。
 なにやら沢田に言っている。
 「なかなかのどかな光景でしょう、と少佐は言っています。あの人達は川に行水に来て
 ああやって寝そべってひなたぼっこをしているのだそうです」
 沢田は少佐を見据えた。
 「あんたは本当にユーモアのセンスがある。極め付けのブラック・ユーモアのセンスが
 ね」
 延が訳すと少佐がにやりとして、
 「ユーモアがなかったら、この国では生きられませんよ。すべてが悲しすぎるからです」
・車中沢田は少々困惑していた。
 なぜ延はこういうところに自分たちを連れて来たのだろうか。
 ”将軍様”を太陽と慕う彼にすれば、死にかけた老人たちをわざわざ外国人に見せるなど
 将軍様に対する裏切り行為に等しい。
 それに呉少佐の言った”すべてが悲しすぎる”という言葉もトゲのように胸に突き刺さる。
・「ああいうことが起きているとは聞きましたが、まさ平壌でとは・・・。”将軍様”の足
 元でしょう」
 「将軍様の責任ではありません。行政が悪いのです。10年前までは平壌は別世界でし
 たが、今では地方とそれほど変わっていません」
・「地方には農民暴動が頻発しているようですが、平壌はどうなんです?」
 「さすがにそれはあまりありません」
 「数年前、学生がパンをよこせデモをやったらしいですが?」
 「よくご存知ですね。あのデモに参加した学生は皆公開処刑で火あぶりになりました。
 それ以来デモはありません」
 「火あぶりですか」
 「将軍様にたてつく奴はこうなるという見せしめです・将軍様は慈悲深いお方ですが。
 甘くみてはいけません。将軍様が下す罰はすなわ天誅ですから」
 どうも言っていることに矛盾がある。
・労働新聞本社に到着した。
 正面入り口には10人ほどの人が一行を拍手で迎えた。
 中のひとりが沢田に近づいてきて握手を求めた。
 「編集主幹の張成哲です」
 パーフェクトに近い日本語だった。
 一行が通された編集主幹室にももう1人の男が待っていた。
 「こちらは宣伝扇動部の金夏一氏です」
 金が沢田に名刺を差し出した。肩書が”労働党宣伝扇動部第一副部長”となっている。
 プロパガンダの担当であるが、この部門こそ金正日体制が軍部とともにもっとも重要視
 している機関だ。宣伝扇動部がなければ体制はとっくに崩壊していたかもしれないのだ。
・「労働新聞というのは、われわれのいう新聞と違って政府の意向を伝える媒体ですよね」
 「いや真実を伝える媒体です」
・「95年から97年にかけて御国では大飢饉があって2,3000万人の人が死んだと
 聞いてますが、あれについて労働新聞は報道もしなかったですよね」
 「あれはアメリカや日本の反動マスコミが捏造したでっちあげです。水害や干ばつはあ
 りましたが大飢饉などといったおおげさなものではありませんでした」
 「だがあれについてはWFPも確認していますよ」
 「何ですか、そのWFPとは?」
 こりゃだめだと沢田は思った。
 世界食糧計画は北にとってはもっとも需要な国連の機関である。
 WFPの援助がなかったら大飢饉での餓死者は確実に増えていたはずだった。
 そのような機関を労働新聞の編集主幹が知らないのだ。
・「KEDO(朝鮮半島エネルギー開発機構)の従業員がトイレット・ペーパー事件を起
 こしたことがありましたよね」 
 張と金がいやな表情を見せた。
 今から9年前の1995年、アメリカ、二本、韓国などの音頭とりでKEDOが発足し
 て北に軽水炉を使った発電所の建設が決まった。
 その工事のために韓国やアメリカなどからその仕事に携わるエンジニアや建設要員が送
 り込まれた。
 事件はすぐに起こった。
 建設要員のひとりがトイレット・ペーパーに労働新聞を使ってしまったのである。
 しかも、あろうことか金正日が載っている部分で尻を拭いてしまったのだ。
 「あの結末はどうなったのですか?」
 「あれは死罪にあたる犯罪でした。しかしKEDOの成功のため共和国は我慢してあの
 冒涜者を国外追放処分としました。円満に片付けたいという将軍様のお慈悲だったので
 す」
 「でも、トイレット・ペーパーがあれば、あのような不幸なことは起きなかったわけで
 すよね」
・「金さん、宣伝扇動部の仕事について語ってください」
 「一言で言えば共和国を言葉で守る機関です。外国は機会さえあれば、わが共和国を破
 壊しようと虎視眈々と狙っています。彼らの野望をくじくには強力な軍隊と人民を勇気
 づける言葉の力が必要です。それをやるのがわれわれの仕事です。
・「”将軍様”と称して”芸術、思想の天才”、”百戦百勝の鋼鉄の霊将”、最近は、
 ”人類の太陽”という呼び名もありますが、それらも宣伝扇動部の創作なんでしょう」
 「将軍様には特別な呼び名は必要ないんです。存在そのものが偉大なのですから。
 しかし、あの方の徳と人間を超えた能力がわれわれを刺激して止まないのです」
 まともな人間が聞いたたらジョークとしかとらないが、言っている本人はいたって真面
 目なのだ。
・「お聞きしますが、金日成総書記がお生まれになった場所はどこですか?」
 「決まってます。白頭山の抗日パルチザンの本拠地です」
  「白頭山が金総書記の誕生地というのは、あくまで公に言われている話であって、
  正確な記録にもとづくものではありませんよね」
 「正式かつ正確なものです」
 「しかし総書記の誕生地はシベリアのはずです。ハバロフスクから70キロ離れたビァ
 ツクエという村で生まれた。当時、彼をとりあげたワーリアという老婆も証言していま
 す」 
・金の顔が青ざめた。
 「そんな馬鹿げた話をどこから聞いたんです」
 「旧ソ連のKGBのファイルからです」
 「ソ連邦なんてとっくになくなったじゃないですか」
 「確かにソ連は崩壊しました。だがKGBの記録は保存されていてロシア政府がそれを
 公にしたのです。共和国の宣伝扇動部が知らないわけはありませんよね」
・「いかにKGBでも他国の指導者の出生地を作り上げることはしないでしょう。
 彼らのファイルによると金総書記の本名はユーリ・イルソノヴィッチ・キム。
 幼少のころはユーラと呼ばれていたそうです。ジョンイルとつけられたのはずっと後の
 ことです。彼には弟がいてその名はシューラ。しかし3歳の時主席宮殿の池で溺れ死ん
 でしまった。 
 金の横に座っている張の目は点になっていた。
 明かにパニック状態にあった。
・「金さん、KGBファイルは総書記の出生地以外のことについても語っているんです。
 たとえば故金日成主席のことも」
 「ファイルは総書記が生まれたとき金日成氏はシベリアでソ連軍の第88偵察旅団にい
 たと断定するかたちで述べています。この旅団は中国人だけで構成されていました。
 朝鮮人の金日成氏がなぜその部隊にいたかというと、彼はそれ以前に満州で中国籍をと
 っていたのです。
 当時は多くの朝鮮人が日本軍のスパイと見なされて国民党に処刑されてましたからね。
 シベリアにいるとき金日成氏は金聖柱と名乗っていたそうですが、一時はキム・イルソ
 ンとも名乗っていた。しかしイルソンは一に星だった。
 45年9月に平壌に帰った彼は金永煥と名前を変えて憲兵隊で働いていた。
 48年10月にソ連軍が平壌に入ったとき、歓迎パーティで金永煥は金日成としてお立
 ち台に立っていたと言うのです」 
・「もし戦争中、金日成がソ連軍の第88偵察旅団にいなかったとしたらどこにいたんで
 すか?」
 「当然、ここ朝鮮で抗日レジスタンスの指揮をとっておられた。本部は白頭山の麓にあ
 り、そこで将軍様はお生まれになったのです」
・「一言言っておきますが、今あなたが言ったようなことは、われわれが愛し尊敬してや
 まない将軍様や共和国に対する悪意に満ちたプロパガンダです。朝日友交の礎を築くと
 いう外交部の意向に沿って私はあなたに会ったのです。そこのところをよく考えてくだ
 さい」 
 「ご心配なく。われわれの取材目的は御国の状況や人々の生の声を日本国民に知らしめ
 ることです。それによって日本人が御国に親しみと興味を持てば、結果的に日朝は新し
 い方向に向かいます。その意味でこのインタビューは非常に有意義でした。あなたがた
 の歴史観やジャーナリズム観もよくわかりましたし」
・「それで検閲はいつ頃できますか?」
 「と言うと?」
 「放映前にこちらが行う検閲です」
 「それは無理です。日本にはそのようなシステムはありませんから」
 「待ってくださいよ。われわれの検閲なしで放映をすると言うのですか?」
 「当然です」
 「めちゃくちゃな話ではないですか。当方が検閲して了解を与えたら初めてあなたがた
 は放映できるのではないのですか」
 「日本は自由が保障され、かつ実践されている国なんです。表現の自由、言論の自由、
 思想の自由などは誰も侵すことができません。ですから検閲などあり得ないのです。
 政府が気に入らないことでも出版したり報道したりする自由は誰にもあるんです」
・金がちょっと戸惑った顔をした。
 「これから共和国憲法と主体思想について話したかったのですが」
 「いやもう十分です。これ以上おもしろい部分が重なると全体にたるみが生じますから」
・金と張が一行を見送りに玄関口まできた。
 金はまだ話足りないのか主体思想について話し始めていたが、沢田は聞いているふりを
 しているだけだった。たぶん主体思想については必ず話すように党の幹部たちから言わ
 れていたのだろう。  
・「信じてるものはともかく一生懸命なんだな」
 沢田の言葉に延が振り返った。
 「悪い人ではないとは思いますよ」
 「だが狂信的なところがある」
  延がうなずいて、
  「本人は将軍様に心からの忠誠を尽くしていると信じてるんでしょうが行き過ぎです。
  将軍様だってそんな忠誠心は決して欲していないと思います」
  「だがその”将軍様”の言動ひとつでどうにでもなるわけでしょう」
  「でももう帰らざる地点に達してしまったのかもしれません」
  「将軍様にももはやコントロールが利かないほどの忠誠心を周囲が作り上げてしまっ
  たのです。変な言い方かもしれませんが将軍様はその忠誠心によって雲の上に祭り上
  げられてしまったのではないかと思うんです」
 「自分の意思を持たぬ人形になってしまったと言うわけですね」
 「人形になりきるのはよほど馬鹿か、悟り切った人間でなければ無理です。”将軍様”は
 そのどちらでもない。権力の祭壇から降りようと思えば降りられるはずです。だが絶対
 的権力の甘さに浸ってしまうと、そう簡単には降りたくなくなる。人間の弱さです。
 結局は現状をよくするのも悪くするのも”将軍様”の意志次第と私は思いますがね」
 「しかし周囲には既得権にしがみついている人々が多すぎます。軍、官僚、党など巨大
 な機構を牛耳っている人々にとっては今のままが一番いいのです」
 
・夕食後ホテルのロビーでくつろいでいる沢田のところにプロデューサーの中山とディレ
 クターの加藤がやってきた。
 「金日成の出生地や金日成がソ連軍で働いていたということですが、大部分の日本人が
 知らないことなので、もう少し突っ込むべきではなかったかと 」
 沢田が笑いながら、
 「あれ以上プッシュしてたら金さんは怒りのあまり失神してたよ。あれが限界だったな。
 あれ以上は言わぬが花だ」
 「でも非常に興味深いことですよ。もしあれが本当だったら金日成は騙りだったという
 ことになりますからね」
 「本当のことさ。ちゃんとKGBのファイルに書いてあるし、インタビューで言ったよ
 うにおれ自身事実を知ってる人間から聞いているんだ」
 「でも金聖柱とか金永煥と名乗っていた男が金日成とは」
 「しかし局長、なぜよりによって金日成を騙ったのです。金聖柱でも金永煥でもよかっ
 たのでは?」
 沢田は首を振り振り、
 「勉強不足だな。金日成というのは北朝鮮では伝説の将軍なんだ。もちろん実在してい
 た。彼は満州で日本軍と戦って殺されてしまった。まだ36歳という若さだった。
 戦後ソ連は朝鮮人から誰でも知っているこの英雄の名を利用しようと考えた。
 ソ連というより当時の独裁者スターリンが考えたことらしいがね。
 金日成の候補者は7人ぐらいいたらしいが最終的にスターリンの目に適ったのが金永煥
 だったということだ」
 「ということは北朝鮮は建国時から偽りの金日成によって治められていたということじ
 ゃないですか!」
 「だから騙りなんだよ。正統性に欠けていたから真実を知っていそうな神厳を大量パー
 ジしてし、神話も創らねばならなかった。それが今でも延々と続いているというわけだ」
 「すごい話じゃないですか!それだけでも大スクープですよ!」
 「こんな話は多くの人がすでに知ってるさ」
 「僕は知りませんでしたよ」
 「私も初めて聞く話です」
 「だからお前たちは勉強不足だと言ったんですよ。ロシア政府だって中国政府だってこ
 の事実は知っているはずだ。現におれの情報源だったある中国人は知っていた。
 だが既成事実は強い。何を言おうと北朝鮮が存在することは事実なんだ。
 そして金日成もたとえ偽者であったとしても北朝鮮のリーダーとしてずっと存在してき
 た。中国にしてもロシアにしてもいまさら過去のことを持ち出して現状をひっくり返す
 ようなことはしたくはないよ」

・朴と安がやって来た。
 「宣伝扇動部の金氏とはだいぶ激しくやりあったとか?」
 やはり延はすでに報告していたのだ。
 「そんなことはありません。事実の確認をめぐってお互いの主張が違っただけです」
 「とことで明日の午後に予定されている例の行方不明者たちとの会見ですが、10名と
 言いましたが実は5名しか集まらないようなのです」
 「5人も減ったわけですか。何か特別な理由でも?」
 「彼らは昨日の晩、平壌に到着したのですが、招待所で食べたものにあたってしまった
 のです」 
 「食中毒ですか」
 「残念です。ですがあと5人は残っていますから」
 
・沢田の携帯が鳴った。
 B班のプロデューサー鹿島からだった。
 「咸鏡南道の咸興市の招待所です」
 「取材のほうはうまくいってるのか」
 「非常にスムーズにいってます。こんな取材ならいつでも大歓迎ですよ。皆さんが実に
 協力的でいい映像が撮れてます。田畑で歌を歌いながら働く農民たちの姿もばっちりと
 入ってます」
 「耀徳の収容所には行ったのか?」
 「はい、ですが局長、あそこは収容所というより労働を通じての再教育の場所と言った
 ほうがよさそうです」
 「そりゃどういう意味だ?」
 「まず鉄条網はあるんですが監視は銃を持っていないんです。服役している人々とも自
 由に話が出来ました。皆笑顔で応じてくれました。待遇はよく食事も最高だと言ってま
 した。本当に幸せそうな人たちでした。それに痩せている人は1人もいないんです。
 いかに食事がいいかの証明です。皆将軍様のおかげであると口をそろえて言ってました。
 監視の人たちも友好的でスタッフに酒をごちそうしてくれたりもしました」
 「馬鹿野郎!」
 「お前、この国のことを少しは勉強したのか!取材相手の言うことをはいそうでしかと
 聞いてくるなら子供でもできるんだ!」
 しかし、よく考えてみると無理もなかった。
 鹿島は芸能番組専門のプロデューサーである。
 このような取材とはまったくレベルが違う。
・「鹿島、おれの言うことをよく聞くんだ。2、3日後もう一度耀徳収容所に行け。
 抜き打ち訪問をするんだ。今日とは違った耀徳が必ず撮れる」
 「でも保衛部のガードたちが反対したらどうします?」
 「強行しろ。金総書記の許しがあっての自由取材だと言えば誰もとめられないはずだ。
 撃ち殺されてもいいという気持ちでやってみろ。それが本当の突撃取材だ」
・翌日の午前中は金日成総合大学での取材に費やされた。
 学生たちの声を聞くのが目的だったが、取材班が到着したとき正面玄関で彼らを迎えた
 のは学長や教授陣だった。
 「日本はわが共和国に近い国です。しかしそれは地理的なことであって実際には非常に
 遠い国といった存在だと思います。なぜかというと日本はアメリカ帝国主義の片棒をか
 ついでわが共和国にたびたび戦争を仕掛けようとしているからです。しかしわれわれは
 決してそのような侵略に屈することはありません。偉大なる将軍様の下で一致団結して
 いますから」 
 「日本は反動ファッショの国と理解しています。戦前戦中戦後を通じてわが朝鮮民族は
 日本帝国主義に苦しめられてきました。その補償さえ日本はまだしていません。 
 「わが朝鮮民族は偉大なる将軍様のもとに発展と進歩に向かって団結しています。どん
 な国でも共和国を侵略しようなどという幻想はすてるべきです。日帝、米帝が将軍様の
 前にひざまずいて許しを乞う日が近づいています」
・次にマイクを向けたのは女学生だったが、彼女も同じことを言った。
 その学生に沢田は聞いた。
 「あなたは日本に行ったことや日本人と話したことがありますか」
 「そういう経験はまだありません。でも歴史をよく学習してますから日本のことはよく
 わかっています」 
 「日本に行きたいと思いますか?」
 「考えたこともありません。共和国にいれば世界は見えますから」
 「あなたがもし日本に行きたいと言ったらどうなります?」
 「どういうことでしょうか?」
 「以前この国でそういうことを言って収容所送りになった人がいるんです」
 「平壌外国語大学を卒業した女性でしたが、彼女はフランス語を専攻していたんです。
 ある日フランス人を案内していたところそのフランス人が彼女にパリに行ってみたいか
 と聞いたんです。彼女は言ってみたいと言ってしまった。それを監視役に密告されて彼
 女は耀徳の収容所送りとなりました。それについて聞いたことありますか」
 その学生が呪縛にあったように沢田を見つけていた。
・沢田はかまわず次の学生に進んだ。
 「日本では共和国の人民が食糧難で苦しんでいるということをよく聞くのですが実際そ
 うなのですか?」
 「とんでもありません。われわれは将軍様のおかげで食べきれないほどの食糧を与えら
 れています。食糧難に直面しているなんてことはまったくありません。それは帝国主義
 者の悪意に満ちた宣伝です」 
・「拉致という言葉を聞いたことはありますか?」
 「それは誘拐、人をさらうことです」
 「そうです。これが国家スケールでなされることがあります。ということは他国に侵入
 してその国の人々を誘拐してくることです。これはまさにその国の主権を犯していると
 いうことです。日本は過去たびたびこの拉致の犠牲になりました。そのような犯罪行為
 を行ったのはどこの国だと思いますか?」
・「沢田さん!」
 学長が叫んだ。
 「いったい何という質問をするのです!日帝の反動思想を持ち込んで学生たちを毒死さ
 せる気ですか!恥知らずにもほどがある。あなたはわれわれの好意と友情を踏みにじっ
 た。取材はこれで終わりとする!」
・「ちょっと待った!」
 入り口のほうから声がした。呉在京少佐だった。
 「この取材は将軍様が直接許可したものだ。完全に自由取材で沢田先生は何でも聞ける
 ことになっている。学長のあなたがそれを妨げる権限はない」
 学長の顔色が変わった。
 「しかし少佐、質問内容があまりに反動的です」
 「反動もへったくれもあるか。それとも将軍様の命令にたてつくと言うのか!」
 沢田は面食らった。いったいどうなっているのだろう。監視役と考えていた少佐が取材
 に協力してくれているのだ。それともこれにも裏があるのだろうか。
・沢田が取材班に終了を告げて学生たちに礼の言葉を述べた。
 外に出ると通訳の延が沢田に1枚のメモ用紙を見せた。
 そこにハングル文字が書かれていた。
 「あそこにいた学生からあなたに渡してくれと頼まれたのです」
 「なんと書いてあるのです?」
 「僕たちが言ったことは全部うそです。すいませんでした。許して下さい」

第四章
・ホテルで昼飯を終えてから取材班は寺洞区域にある第7招待所へと向かった。
 所長が一行を出迎えて食堂に案内した。
 5人の人間がテーブルを囲んですわっていた。
 男が4人、女性が1人。
 男たちは皆ジャケットを着ているが恐ろしく時代遅れの代物だ。
 女性のほうは花柄のワンピース姿で髪にパーマをかけている。
・所長が5人のテーブルのそばにすわった。
 「彼は関係ないですから出ていくように言ってください」
 延が沢田の言葉を彼に伝えると、なにやらぶつぶつ言いながら出ていった。
・沢田がまず自己紹介してから、この会は取材というより拉致問題に焦点をあてた調査で
 あることを強調した。  
 ジャケットの内ポケットから封筒を取り出した。
 中にはGTBが警視庁公安部を初めとして全国の警察から得た情報やデータをもとに
 GTB報道部特捜班が作り上げたポテンシャル拉致被害者の名前、年齢、住所、大体の
 失踪日などが記録された書類が入っていた。全員で127名。
・「まずみなさんに自己紹介をお願いしますが、どういう状況のもとで拉致されたかを述
 べていただきたいと思います」
 ひとりの男が手を挙げて立ち上がった。年の頃は60代の初めと見える。
 「おれの名前は竹井。あんたはラチ、ラチと言ってとるがそんな日本語は聞いたことも
 ない。どういう意味なんかね」
 「これは失礼しました。拉致というのは誘拐と同じ意味です」
 「なぜ共和国がおれを誘拐しなきゃなんなかったんだ!」
 「それじゃあなたは自発的にこの国に来たのですか?」
 「秋田沖で親父と漁をしていたとき船が故障した。幸いにも通りかかった共和国の船に
 助けてもらったんだ」 
 「それは何年頃ですか?」
 「「1970年」
 「おれたちは偉大なる将軍様が率いるこの共和国で何不自由なく生きておる。身も心も
 将軍様に捧げた共和国民だ。だから今さら日本政府にしゃしゃり出てこられちゃ迷惑な
 んだ」
・しかし沢田には彼が本心から言ってるとは思えなかった。
 その証拠に彼は話しながら周囲に注意を払っているのか目がまったく落ち着いていない。
 「竹井孫次郎さん、秋田県出身、70年9月父親と共に漁に出てから帰らず。失踪届け
 は妹さんの加奈さんから出されていました」
 加奈と聞いて竹井の表情がはっきりと変わった。しかし黙ったままだった。
・そのとき食堂のドアが開いた。入ってきたのは呉少佐だった。
 みなを見下ろして少佐が言った。
 「私は国家保衛部平壌本部の呉少佐です。私の言うことをよく聞いてください。ここは
 監視も盗聴もされていません。あなたがたは完全に自由な状態にあります。なんでも思
 ってることを吐き出してください」
 人々は顔を見合わせた。明らかに困惑している。
 少佐は続けた。
 「もう一度断言します。この場は完全に自由です。それは私が保衛部を代表して保証し
 ます」 
 そう言って少佐はくるりと背を向けてドアに向かった。
・「みなさん、呉少佐が言ったとおりです。腹を割って話し合いましょう」
  竹井が話始めた。
 「自分は確かにさらわれてきました。船の故障なんかじゃなかったんです、父親と一緒
 に漁に出たとき快速艇に停船させられて乗り込んできた連中に殴られて失神しちまった
 んです。気がついたときは清津の港にいました。それから父親とともに慈江道の農場に
 連れていかれてそこで働きました。着いてから2年もしないうちに父親はケガがもとで
 死にました。死の床で父親は望郷の念に耐えられずよく泣いていました」
 「結婚はしてらっしゃるんですか」
 「こっちに来てから5年後に結婚しました。女房と子供と2人と暮らしています。女房
 もやはりさらわれてきたんです」
 「奥さんや子供さんたちはなぜ来なかったのです」
 「危ないと思って家に残してきたんです。捕まって、”お山”に送られるのは自分1人で
 たくさんですから」
・テーブルにすわったただひとりの女性が手をあげた。
 「私は新川洋子と申します。45歳になります。先生のそのリストに載ってるでしょう
 か」 
 沢田がリストを一覧した。確かのその名前はあった。
 「ようこのヨウは太平洋の洋ですね。福島県いわき市出身で失踪したのは78年5月。
 夕方海辺に行くと言って出たきり、となっています。浜辺には軍靴の跡があった。
 当時ロシアのトロール船の船員、というはスパイですが、彼らはよく福島や茨城の海辺
 に上陸していた。しかしそのときに限って軍靴のサイズが小さすぎた。それを根拠とし
 て考えればロシア人ではなく北朝鮮の兵士が上陸したと考えられる。海辺の近くに小型
 乗用車が停めてあった。登録はあなたの名前でした」
 「あのとき私は夕食後の散歩をするため車でビーチに行きました。うしろから男の人た
 ちが近づいてきました。そして突然うしろから抱きつかれ薬のようなものを花に押し付
 けられました。同時に袋を頭からかぶせられ、そのまま気を失ってしまいました。目が
 覚めたときは元山の招待所にいたのです」
・「結婚はなさってるんですか?」
 「はい、子供が2人います」
 「ご主人はこちらの人ですか?」
 「いいえ、私と同じように連れてこられた日本人でした。こちらでは原則的に朝鮮人と
 の結婚は認めないのです。あくまで私たちは外国人ですから」
 「いま”でした”と言いましたね。ということは・・・」
 「10年前に行方不明になったのです。翻訳の仕事をしていたのですが、いつも日本の
 ことを恋しがっていました。それがもとで収容所にでも連れていかれたのではないかと
 思います」
・竹井が言った。
 「なぜ今になって日本政府はわれわれを探し始めたのでしょうか」
 「捜索は2年前から始まっていました。日本の首相が2年前に初めてここにきて金正日
 総書記と会って拉致被害者の帰国について話し合ったのを知っているでしょう」
 全員が首を振った。
 「首相が来たのは知ってますが拉致被害者の話し合いのためとは聞きませんでした。
 将軍様に貢ぎ物を持ってきたと聞いてはいましたが」
・「あの来朝から約1ヵ月後に5人の拉致被害者が帰国しました。そして今年に入って彼
 らの家族が帰って行きました。北朝鮮はそれで拉致問題は解決したと言っています。
 しかし私は納得できなかった。もっともっといるはずだと信じていました。
 この国はいま窮地に立っています。日本からの援助を喉から出が出るほど欲しいんです。
 そのためには日朝国交樹立が先決です。しかし拉致問題が完全に解決しないかぎり国交
 樹立などしてはならない。今回北朝鮮が取材を頼んできたときあなたがたに会うことは
 私が北朝鮮につけた条件だったのです」
 「でも日本政府はなぜもっと早く助けに来てくれなかったんです」
 「確たる情報がなかったのです。しかし警視庁公安部が少しずつ情報を集めました。
 ところが日本の外務省は上がってくるそれらの情報を無視し続けました。世論が騒ぎ始
 めた90年代の終わりごろからやっと重い腰をあげたのです」
 竹井たちはみな複雑な表情で黙り込んでしまった。
・「しかしもう安心してください。あなたがたのことは今日中に日本側に伝えます。
 あとは外務省がこちらの外交部と連絡をとって速やかに必要な手続きをするはずです。
 そこでひとつあなたがたに教えてほしいのですが、ほかにも被害者はいるはずなんです。
 それについて知っていたら言ってください」  
 「拉致被害者はおれのしっているだけで20人はいます」と竹井が言った。
 「私は10人は知っています」と新川洋子が言った。
 彼らの言う数を合わせると大体30人から40人ほどだった。
 全部でないにしてもこれだけいるという証言があれば日本の外務省は北側を十分に揺さ
 ぶることができる。
 「本日こうしてあなたがたに会えて本当によかったと思っています。日本政府には私が
 責任をもって伝えます」
・「この会見は日本のテレビに映るんでしょうか」
 「もちろんです」
 「それはやめてほしいんです」
 「なぜです?」
 「おれたちはあんたの誠意は信じます。でも日本政府を信じることはできないんです。
 90年代の初めから多くの日本の政治家が訪朝しましたよね。例えば日本政界の大物と
 言われた金丸信という人が来たときはこっちのテレビが大々的に伝えました。自分はあ
 のときやっと日本政府が助けにきてくれるのだとひそかに大喜びしました。だけどぬか
 喜びだったです。あの人は偉大なる金日成首領様の前で泣きながらひざまずいて過去に
 日本が犯した過ちを許してくれと嘆願したとテレビは言ってました。
 その後も随分と日本の政治家が来ましたがおれたちはおいてきぼりのままでした。
 今あんたはおととし5人が帰国したと言った。そして今年はその人たちの家族も帰った
 言った。だけどおれたちには誰も声をかけてくれない」
・「あなたがたが日本のテレビに出ることによって確たる証拠を見せるのです」
 「でもいったん日本のテレビに出ちまってなにかまずくいった場合、おれたちはこの国
 にとどまらなくきゃならんことになる。そうなったらどんな仕打ちをうけるかわかった
 もんじゃない」  
 「あなたがたを日本のテレビに出すことによって世論を喚起する。その世論の圧力で政
 治家や外務省は動くんです」
 「あんたは政治家を信用しすぎているんじゃないですか」
 「そうは思いません。彼らはいつも次の選挙のことを考えている。拉致問題を票集めの
 ために使おうとしている連中は多いんです。国民の関心が高いからです。その関心を作
 り出すのはテレビです」
 「百歩譲って日本政府が好意をもってわれわれのことを考え、助け出そうとします。
 しかしこの国に何かの変化が起きたらどうなります?この国では確実なものは何ひとつ
 ないんです。それを私はこの国での26年間の生活でいやというほど味わわされてきま
 した。昨日政府が決定したことが今日は逆になるなんてざらなんです。また昨日まで権
 力の頂点を極めていた党の幹部がある日突然収容所送りとなることなどよくあります。
 軍の上層部が入れ替わればそれはすぐに外交に表れます。これだけ不確実な状況の中で
 われわれが日本のテレビに出ると、まずくいった場合は自殺行為です。日本側がわれわ
 れの帰国を承知してもこちらに何か起きたらすべてが止まってしまうんです。
・「もし将軍様になにかあったらどうなるのです」
 「まさかそんなことは・・・」
 「いま言ったように何が起きてもおかしくないのがこの国なんです。日本政府には私た
 ちのことをぜひ伝えていただきたいですが、テレビで扱うのはしばらく待ってください。
 共和国側だってわれわれのことを日本のテレビで大々的に扱うのを快くは思いません。
 私たちの命がかかっていると考えてください」
・沢田は宙を仰いだ。いまはこれ以上説得しても意味がないと感じていた。  
 いま彼らはこっちが何を言っても理解できないだろう。
 そうコンディショニングされてしまっているのだ。
 長い間北朝鮮のような国に住んでいると、何事も用心深くなしかもペシミスティックに
 考えてしまう。彼らは公開処刑も見せられているだろうし、隣人が真夜中に国家保衛部
 によって連行されていくのを見ているのだろう。
 だからいつも恐怖が先行する。心が恐怖で固まっていればこっちがどんな説得をしようが
 受け付けない。
 これは日本のような民主主義国家に住んでいる者にはまず理解できない。
・「わかりました。あなたがたの考えは尊重します。あなたがたがよしというまで放映は
 しません」 

・ミーティングを終えて沢田は車の中から携帯で東京のGTB本社に電話を入れて社長の
 川崎にことの次第を話した。
 「社長は確か外務省のお偉いさんとお知り合いでしたね」
 「審議官の池山なら知っているが」
 「その池山さんに今私が言ったことを伝えてほしいのです。こっちの外交部には話が通
 じるようにしておきますから。担当責任者は朴容淳外交次官です」
 「それから池山さんにこの話はくれぐれも極秘にと言ってください。他の局が嗅ぎ付け
 たら拉致被害者たちを危険に陥れる可能性がありますから」
・その日の夕刻、朴と安がホテルにやってきた。ちょうど夕食時だったので沢田は2人を
 ホテルのレストランに誘った。2人は喜んで誘いに応じた。
 「沢田先生、呉少佐に対して今はどう思います?最初は確か嫌悪してたらしいですが」
 沢田が苦笑しながら
 「率直に認めます。私が間違ってました」
 「少佐が聞いたら喜ぶでしょう」
 「呉少佐は愛国心の塊のような人です。ただ口だけで愛国を叫んでいる一般軍人とはち
 ょっと違うと思います。本物の愛国心を持っています」
 「本物の愛国心ですか?」
 「ええ、憂国の情で支えられ国家国民の信の幸せと繁栄を欲する心。自国の恥部を直視
 しする勇気、これすなわち本物の愛国心です」
 「少佐の言動からしてただの少佐ではないように思えるのですが?」
 「超エリートです。将来必ず人民軍のトップに立ちます。よほど障害にぶつからねばと
 いうのが条件ですが」
 「そんな障害にぶつかる可能性なんてあるんですか?」
 「私にもわかりません。人民軍は一枚岩に見えても内部では熾烈な主導権争いが繰り広
 げられているんです」
 沢田は数時間前に拉致被害者のひとり新川洋子がこの国は確実なものは何ひとつないと
 言っていたことを思いだした。
・「実は少佐は『呉振宇』将軍の親戚筋にあたるんです。呉将軍をご存知でしょう」
 沢田はうなずいた。
 「かつての国防相だった方ですね。確か金日成主席が亡くなった1年後に亡くなったと
 覚えていますが」
 「首領様が逝去された後、軍の一部強硬派は政治への介入をあからさまにし始めました。
 それが”三虎の会”と軋轢を起こすもととなりました。それに対して呉将軍は”三虎の会”
 の将軍たちも含めて軍を本来の形に戻そうと一生懸命がんばったのです。でも多勢に無
 勢で結局改革派できませんでした。亡くなったとき将軍は78歳でしたがその死をめぐ
 る状況に疑問がありました」 
・「将軍は金総書記の後見人と言われてましたよね」
 「表面的にはそういうことになってましたね。でも本当の後見役としてフルに力を発揮
 したのは”三虎の会”です」
 「じゃ”三虎の会”が将軍を消したというわけですか」
 「あくまで推測ですけどそういうことが起きてもおかしくはない状況でした。
 なにしろ呉将軍は共和国建国第1世代の数少ない生き残りでしたから。それにくらべて
 ”三虎の会”は2代目の集まりです。将軍に猛烈なライバル意識を燃やしていたらしいで
 す」
 「でもその間肝心の総書記はどうしていたのです?取り巻きの間でのトラブルには気づ
 いていたはずでしょう」
 「でしょうね。でもあの方でも手が出せないほど両者の対立は熾烈なものだったのでし
 ょう」
・すごい情報だと沢田は思った。
 いま朴が言ったことは何ひとつ裏付けや確証がないかもしれないが、そういう話の中に
 は往々にして真実があるものだ。
 この話に”三虎の会”メンバーの急死を加えればものすごい話に発展する。
 
第五章
・中山や加藤が待ちに待ったキップムジョ(喜び組)の取材は4日目に行われた。
 場所は第5護衛部のある護衛司令部。その一室にインタビュー相手の徐星姫が待ってい
 た。護衛が3人ついていたが、呉少佐の一言で彼らは消えた。
・徐はさすがにキップムジョ出身だけあって、はっとするような美貌の持ち主だった。
 まったく化粧をしていないように沢田には見えた。
 しかし、ほっそりしたその顔は目鼻立ちがはっきりとしていて品格さえ感じさせる。
 年齢は28歳。18歳のときからキップムジョとして働いていた。
 3年前の25歳でその仕事を終え今ではキップムジョ担当の護衛部に所属し大尉の地位
 にあるという。引き締まった体を緑色の軍服に包んでいる。
・「キップムジョは”首領様”を喜ばすために作られた組織と理解してますが」
 「それは違います。われわれは首領様や将軍様に仕えるのを大きな喜びとしてきました。
 だから喜び組でいいのです」
 「現在キップムジョには何人ぐらいがいるんですか」
 「それは機密事項ですので明かすわけにはいきません」
・「キップムジョのメンバーになるのは大変なことだと聞いていますがその選考方法につ
 いて教えてください」   
 「キップムジョは護衛部の管轄下に入っています。まず労働党中央から道の支部にキッ
 プムジョにふさわしい女の子を推薦するよう指令がくだります。各支部はそれにそって
 女の子を探し始めます。集まった女の子はふるいにかけられ残った者は党中央に報告さ
 れます。
 中央はさらに独自のチェックをしてそのうちの何人かを選びます。それから身体検査を
 してパスした者のリストは党の書記局に送られます。書記局は独自の情報網を駆使して
 リストに載った者を徹底的に調べます。身内に犯罪者はいないか。本人が過去のどんな
 人間とつきあっていたか。思想的なバックグラウンドは大丈夫か。最終的に約50人が選
 ばれそのリストが直接将軍様のもとにいきます。将軍様がそれをチェックしてよしと言
 われたら彼女たちは正式にキップムジョのメンバーとなります。その時から彼女たちは
 護衛部の管轄下に入ると同時に護衛部中尉の地位が与えられます。こうしたやり方は毎
 年繰り返されます。
・「ひとつの道から50人ということですね」
 「そうです」
 「平壌も含んでですか?」
 「ええ」
 沢田の顔にかすかな笑いが浮かんだ。
 頭隠して尻隠さずだ。キップムジョの総数がはじき出せた。10の道プラス平壌かける
 50。

・「いくらぐらいの女の子が選考対象になるんですか」
 「基本的には中学生から高校生ですがときには小学生ということもあります。基準は成
 長した背の高さが160センチ以上で体重が50キロ以下であること」
・「キップムジョの仕事の内容について教えてください」
 「仕事は非常に幅広いのですが、まず将軍様の健康を管理すること。これが一番重要な
 仕事です。そのためにキップムジョのメンバーは看護婦やマッサージ師の能力を持たね
 ばなりません。次に激務でお疲れになった将軍様にできるだけくつろいでいただくため
 の仕事があります。それには歌やダンス、芝居などを見ていただきます。これにはその
 道で一流であることが条件です」
・「将軍様のセックスの相手をするのもキップムジョの仕事と聞いていますが?」
 徐が顔を赤くして下を向いた。
 「違います」
 「それはあなたがた日本人が興味本位にでっちあげた話でしょう」
 「こちらの政府で働いていて韓国や西側に亡命した人たちが証言しているんです」
 「私はそういう話は知りません」
 「ではあなたの分野は何だったのですか?」
 「健康管理でした。肩をおもみしたり、薬を調合したり、血液や脈を測ったり。
 食べ物や飲み物の毒見もしました」
 「じゃセックスとは縁がなかったわけですね」
 「キップムジョはそういうことはしません」
 毅然と言い放った。
・「真面目な質問に対しては真面目に答えたほうがいいぞ」
 ドスの利いた声だった。
 ドアのところにいつの間にか呉少佐が立っていた。
 徐の体がぴくっと動いた。
 「徐大尉、お前はキップムジョのことを恥じと思ってるな?」
 「いえ、決してそんな・・・」
 「じゃなぜ本当のことを沢田先生に言わないのだ。キップムジョは将軍様に仕える名誉
 ある組織だ。それについての真実を語るのが今のお前に課せられた仕事なのだ」
 「すみません。お許しください」
・少佐が嘲るように鼻を鳴らした。
 「将軍様に気に入られると中古のベンツ280が与えられる。だからここではベンツは
 プリンセス・カーと呼ばれている。そうだな?」
 徐が小さくうなずいた。
 「お前が持っている車は何だ?」
 「ベンツ280です」
 蚊の鳴くような声だった。
 「しかしお前は幸せな女だ。キップムジョをやめてもまだベンツに乗っていられるんだ
 からな。よほど夜の相手として将軍様が気に入ってた証拠が。その将軍様の恩を忘れて
 うそをつくなど身下げ果てた奴だ」
 徐は何も言えずにぶるぶる震えていた。
・「今日はお客様の前だから大目に見てやる。だが聞かれたことにはちゃんと答えろ。
 それがわれらが共和国のためにもなるんだ。いいな」
 うむを言わせぬ少佐の言葉に徐は何度もうなずいた。
・「キップムジョとして働けるのは18歳から最長で25歳までとされているそうですが」
 「大体22、3歳までが平均です」
 「あなたの場合は25歳まで出でしたね?」
 「私は幸運でした。普通より長く将軍様にお仕えできる栄誉と喜びに欲したのですから」
・「キップムジョの候補に上げられても嫌がる子や家族がいるとも聞きましたが」
 「私としては考えられないことです。将軍様にお仕えする機会に恵まれたのにそれを嫌
 がる人間がいるはずはないと思います」
 「何年か前にある女の子が候補にのぼって平壌に身体検査に行くことになったが、その
 直前に家族と共に中国に逃げようとして失敗した。一家5人はそのまま収容所に入れら
 れたという話を聞いたことがあるんですが」
 「私にとっては初めて聞く話です」
 と言って少佐に目を移した。
 「本当なのです。少佐!」
・少佐が彼女をにらみつけて、
 「しかし逃げたキップムジョの話は知ってるだろう。それを話してみろ」
 徐は困惑した表情で少佐を見た。
 「雪姫の話をよもや忘れたわけじゃあるまい」
 「でも少佐、これは国家機密のはずですが」
 「かまわん。話せ!」
・徐が語り始めた。
 彼女によると雪姫はキップムジョとして3年先輩だったが宮殿内ではシンデレラとして
 通っていた。  
 ”将軍様”の寵愛を独り占めしていたからだ。
 ”将軍様”は彼女にありとあらゆるプレゼントを与えた。
 現金、宝石類、新車のベンツなど他のキップムジョに対する処遇とはずいぶんと違って
 いた。
 当時”将軍様”は在日韓国人帰国者で「万寿台芸術団」の踊り子あがりの「高英姫」とい
 う女性を3番目の妻としていた。
 彼女はキップムジョの存在については知っていたので夫が遊びほうけていても別に気に
 する様子もなかった。
 しかし護衛部の誰かが雪姫と”将軍様”の特別な中を高英姫に告げ口した。
 もともと気性の激しい高は嫉妬心に燃えた。
 以来雪姫に対してあらとあらゆる嫌がらせを行った。
・「彼女は一度私に言ったことがありました。将軍様は自分を愛してくれているし、自分
 も粗油群様を愛している。その愛が続く限りどんな嫌がらせにも堪えて見せる、と」
 確かに雪姫は耐えた。そしていつしか高英姫のいじめはなくなった。
 いくらいじめても効き目がないと悟ったのか”将軍様”が起こったのかは定かではない。
 たぶん彼女は”将軍様”との間に生まれた正哲と正雲という二人の息子がいたためとい
 うのがもっぱらの憶測だった。 
 彼女は正哲を”将軍様”の跡継ぎにすることに執念を燃やしていた。
 一応跡継ぎには前妻「成恵琳」の息子「正男」がいるが”将軍様”の覚えはあまりよくな
 い。正哲と正雲の方が頭もいい。しかし彼を跡継ぎにするにはまず”将軍様”と自分の関
 係をそこねてはならない。怒らせて別れられたらそのチャンスは消えてしまう。
・雪姫はその後もキップムジョのシンデレラとし”将軍様”の寵愛を受け続けた。 
 しかし、ある日彼女は失踪してしまう。
 「あれは確か1995年の1月だったと思います。誰にも何も言わず、手紙も残さずに
 あの人は消えてしまったのです。護衛部は必死に捜しましたが無駄でした。以来誰もあ
 の人を見たものはおりません」
 「”将軍様”はさぞかし悲しみに打ちひしがれたでしょうね」
 「心の中では悲しまれていたでしょうが、そんなことをおくびにも出しませんでした。
 そこが将軍様と凡人の違いです。何事もなかったように振る舞っておられました」
・おかしいと思った。
 沢田の聞いていた金正日像とはだいぶかけ離れている。
 ”短気でわがまま、自分勝手で感情の起伏が激しい。その上希代のエゴイストときてい
 る。 
 そんな彼が自分が愛した女に逃げられたらどう反応するかは想像にあまりある。
 護衛部の責任者をはじめ要員たちを処刑するかお山送りにすることなど平気でやるはず
 だ。
 ところがまったく何もせず普段通り振る舞っていたというのだ。
・それから30分ほど話して沢田と取材班は徐星姫に礼を言って護衛司令部を後にした。
 車まで行くとそこには呉少佐と延が一足先に着いていた。
 「沢田先生、ご一緒してよろしいでしょうか。お話したいことがあるのです」
 「どうぞ、どうぞ」
 沢田がごくカジュアルな口調で言った。次の瞬間まじまじと少佐の顔を見据えた。
 少佐の話した言葉が完璧な日本語だったからだ。
 「あなたも人が悪い。なぜ今まで使わなかったんです」
・「今日のインタビューをどう思いました?」
 「おもしろかったです。キップムジョに関してはだいたい予想したとおりですが、雪姫
 という女性と金総書記との関係が実に興味深い。しかも愛という言葉がからんでいるの
 がいい」  
 「実は先生、話したいというはそのことについてなのです」
・少佐によると雪姫の件は護衛部と国家保衛部が共同で捜査に当たったという。
 保衛部が乗り出してきたのは彼女が外国機関のスパイの可能性があったからだった。
 だがその可能性はすぐに打ち消された。
 ただ雪姫が”将軍様”から贈られた宝石と2人が映っている写真のアルバムを持っていた
 ことは確認された。
・「保衛部は独自の調査網を駆使して共和国の隅々まで捜してみましたが彼女は見つかり
 ませんでした。あれだけ保衛部が力を入れても見つからないということは共和国にはも
 ういなということです。それではどこへ行ったのか。ロシアではないと思いました。
 というのは彼女はよく将軍様に寒いところは大嫌いと言ってましたし2人の会話記録で
 は彼女はロシアという国を野蛮な国として嫌ってましたから」  
 韓国亡命という線も考えられましたがそれはすぐに否定されました。韓国に行っていれ
 ば当時の安企部が北の重要亡命者として大々的に公表します。そうでなければ将軍様を
 深く傷つけることになります。将軍様を愛している彼女にはそんなことはできません。
 ですから亡命を受け入れてくれしかもその事実を隠してくれる国が理想的と彼女は思っ
 たはずです。となると絞られます。最終的にわれわれがたどり着いた答えは中国でした。
 中国は簡単に入り込めます。当時は毎日のように何千という人々がこちら側から図們橋
 を渡って向こうに行ってました。吉林省の朝鮮人自治区にあるマーケットに棒鱈や雑貨
 を売りに行く行商人たちです。彼らの中にもぐりこめば自動的に向こうには行けました。
 しかし彼女のような美貌ならよほどうまく変装しないと中国の公安や地元警察にすぐに
 見つかります。捕まってもし彼女がキップムジョで将軍様の愛人であるとわかったら中
 国は彼女がもたらすであろう情報価値を計るはずです。キップムジョといい立場上いろ
 いろな政治家や官僚の話をパーティで聞けますし、それ以上に将軍様の考えや人事そし
 て中国にいての意見など、また核についてこれからどうアメリカと渡り合っていくか、
 どこらへんで手を打つかなどの情報を中国側はどのから手が出るほど欲しがるはずです。
 私は先輩に交じって中国当局との話し合いのため図們市に行きました。図們市は朝中
 国境の中国側の街で住民の多くは朝鮮系です。そこでわれわれは中国側との話し合いに
 入ったのですが、相手は北京から来た公安の中堅幹部でした。
 われわれはまず言いました。将軍様と非情に親しい雪姫という女性を即刻返してほしい
 と。すると中国側は返せないと答えました。こっちの投げた罠にひっかかったのです。
 返さないということは彼女があちら側にいるということです」
・「結局、雪姫は中国のどこにいるのかはわからなかったわけですね」
 「今日になってもはっきりしたことはわかりませんが、たぶん中央でしょう。ただ彼女
 が中国を選んだことはよかったと思ってます。もしロシアなどに逃げられたら大変なこ
 とになっていたでしょう」
 「中国は彼女からたいぶ情報を得たでしょうね」
 「そう考えていいと思います。しかし今でもわからないことは、なぜ相思相愛の関係に
 あった将軍様のもとを去ったのかということです。私自身これは絶対に知りたいと思っ
 てるんです」
・「でも彼女が去ってもう10年近くになるんでしょう」
 「しかし私の個人的興味はいまだに尽きません。一度だけ会ったことがあるのですが、
 雪姫の美しさはまた私の脳裏に焼き付いているのです。この国には美人が多いですが、
 あれほどの美しさを備えた女性は見たことがありません。それに聡明な人でした。まさ
 に才色兼備の典型です、女神と言ってもいい」
 恍惚とした表情で少佐が語った。
 沢田の顔に笑みがこぼれた。仕事の虫と思っていた呉少佐もやはり男だ。美しい女性に
 は目がない。急に少佐が近しく感じられた。
・「ちなみに彼女のフル・ネームはなんというんです?」
 「本名は姜敬愛。しかし喜び組では名字は使わず名前も護衛部が変えます。ですから彼
 女は単に雪姫で通っていいました」 

・ホテルに帰ると東京の川崎から至急電話が欲しいとのメッセージがあった。
 川崎はすぐに出た。
 「昨日君から電話をもらってすぐに外務省の池山に電話を入れたんだ。君が言ってたこ
 とをちゃんと伝えたつもりだった。ところがついさっき池山が電話してきて、あの話は
 外務省としてはフォローできないと言うんだ」
 「外務省としては今は国交樹立のための基礎的話し合いを重視している。それをまた拉
 致問題でアップセットしてはならないという見解なんだそうだ」
 沢田はしばし言葉が出なかった。
・いま川崎が言ったことは拉致問題が発覚するずっと前から外務省が一貫してとってきた
 姿勢だった。
 だから拉致被害者の家族が外務省に陳情に行っても相手にされなかった。
 ある幹部などは家族に対して、あんたがたのようなのがいるから日朝交渉は進まないん
 だとほざく始末。 
・しかし、その後マスコミと世論の圧力でしぶしぶ拉致を認めざるを得なかった。
 結果として2002年10月に5人が戻り2004年に彼らの家族が戻ってきた。
 しかし拉致されたと見られる総人数とはほど遠かった。
 にもかかわらず北朝鮮側は拉致問題は終了したと一方的に宣言した。
 日本政府もそれに呼応するように日朝国交樹立の話し合いの地盤ができたと発表。
・日本の政府や外務省にとっては、日朝国交樹立ありきだったのだ。
 その姿勢を今でも保っているとはいったいどういうことなのだろうか。
・「しかし私は拉致被害者に会ってるんですよ。そしてあと何十人もいるとの情報も得て
 いるんです」
 「それはちゃんと伝えたよ」
 「外務省の連中はまともな仕事はやりたくないんですかね」
 「これは脱走米兵のようなケースじゃないんです。無理やり連れて行かれた同胞を助け
 出す話ですよ。日本人なんですよ」
 「きみの気持ちはよ〜くわかる。私自身怒りを感じてるんだ。北との国交樹立さえ実現
 されたら拉致問題は簡単に解決できるというのが外務省の考えなんだ」
・「その論法を一部の悪徳政治家が押しているわけでしょう。国交が樹立されたら、わが
 国は何兆円もの賠償金を北に払うことになる。その金は北のインフラや住宅建設などに
 使われる。当然、日本の企業が入ってくる。政治家は彼らから分け前をピンハネする。
 売国とはそういうことを言うんです」
・「私を信じて会見に応じてくれた被害者に何と言えばいいんですか。悪いけど外務省は
 あなたがたとはかかわりたくないらしい。日朝国交樹立まで何年かかるかわからないけ
 ど希望をもって待っていてくださいとでも言えというんですか?」
 「こうなったらやれることはひとつしかないだろう」
 「君は被害者たちの言い分を尊重して適当な時期が来るまで彼らの映像を使わないと約
 束した。しかし、ことここに至っては放映したほうがいいと思う。それによって世論が
 喚起されれば外務省だって動かざるを得ない。どうだろうか?」
 「それについては私はすでに話しました。だが彼らは恐れています。正当な恐れです」
 「もう一度説得するんだ」
 「彼らはすでに平壌を去りました。1人1人を訪ねて説得するには時間がかかります。
 取材を中止してもいいならやってみますが」
・「いや、放映してから事後連絡すればいいんだ。重要なのは結果じゃないか」
 「最悪の結果を彼らは恐れているのです。彼らの許可なしに放映することはできません。
 モラルの問題ですから」
 「しかし放映するほうがモラルに則していると私は思うが。あの人たちのためになるん
 だから」
 「社長が期待している結果が出ればそうでしょうが、もし逆の結果が出たらどうします?
 彼らの恐れていることが現実となったら」
  
第六章
・その日の夕方B班とC班のプロデューサーから報告が入った。
 B班の鹿島はやや興奮していた。
 「局長の言った通りでした!まったく違った耀徳が見えました」
 彼によると今日抜き打ちで耀徳収容所を再訪問したという。
 この前行ったときは監視たちは武器をいっさい携えていなかったが今回はみなAKを下
 げ、ゲートは閉め切ったままだった。
 最初相手は難色を示したがガードとしてついてきた保衛部の将校がゲートを開けるよう
 命じた。これには鹿島自身びっくりしたと言う。
 「彼らがまず反対すると思ってたのですが、非常に強力的なんです」
・「それにしても局長、収容所はひどいの一語に尽きましたよ。先日行ったときはそれら
 は囚人用の宿舎だとの説明でした。囚人たちがいてにこやかに笑いながらインタビュー
 に応じたのですが、今日行ったら囚人は1人もいないんです。あれは守衛や夜行演習す
 る兵士たちの宿泊施設らしんです。囚人はあそこから5キロほどの山奥にいるんです。
 男も女もぞうきんのようなぼろをまとい子供たちは素っ裸でした。みながりがりに痩せ
 ていてまるで毛のないサルです。家は自分たちで建てた粗末なものでした。基本的には
 自給自足の生活を強いられているようです」
・「囚人とは話ができたのか」
 「ええ。最初はみな怖がって話したがらなかったのですが持っていったインスタント・
 ラーメンや缶詰をあげたらうちとけてくれましてね。保衛部のガードが守衛を追っ払っ
 てくれたのでいい話が聞けました」  
 「ほう、例えばどんな話だ?」
 「20名以上の人と話したんですがみな一様に自分はなぜここに入れられたかわからな
 いと言うんです。ある晩トラックが来て一家全員が乗せられてきた。裁判もなく罪状も
 わからないままです。これまで何人もの人が自殺したといいます。だが自殺したら本人
 は楽になるけど残された家族はもっとひどい目に遭うので我慢している者も多いと言っ
 てました。絶望的な状況ですよ」
・「そういう人々が20万人もいるらしいからな。子供たちの映像も撮れたか?」
 「ええ、でも虚ろな顔ばかりでした。子供独特の笑いや目の輝きがないのです。置かれ
 た境遇を考えれば無理もないでしょうが、自分の子供と彼らの顔がオーバーラップして
 しまってがらにもなくせつなさを感じてしまいました」
 「日本人にはぜひ見てもらいたいね」
 「それについてなんですが、ひとつだけ心配なことがあるんです」
 「もし日本で放映したら北の政府の誰かが見ますよね」
 「当然だろうね。挑戦総連がビデオに取って必ず本国に送るよ」
 「となると囚人たちはこっぴどい目に遭う可能性があるんじゃないですか」
 「お前にも良心というものがあるんだな」
 「冗談はやめてください。囚人たちはもう十分に苦しんでいます。彼らの苦しみをさら
 にエスカレートさせるようなことには加担したくはないんです。甘ちゃんと思われるで
 しょうが」 
・鹿島の口から出た言葉とは思えなかった。
 これまで芸能一筋でなんでもいいかげんにこなしてきた鹿島だったが、その彼も意外な
 面があったのだ。
 「いや、お前は決して甘ちゃんなんかじゃないよ。ごくまともな人間だ。放映の方は心
 配するな。像のぼかしや声を変えてやればすむことだ」
 「それで安心しました。明日は中国との国境地帯に向かいます」
 
・C班のプロデューサーは崎山というこれも鹿島同様芸能畑を歩いてきた男だった。
 彼は板門店の近くにある開城市から電話をしてきた。
 「今日は板門店のそばにまで行ったのですが、南北とも7月の合意に基づいて拡声器を
 を使ってのプロパガンダ放送はストップしてました。こちら側には南側からよく見える
 モデルアパートがあるんですが、行ってみると住民がひとりもいないのです。外壁はき
 れいに塗られ窓ガラスはぴかぴかに磨かれていましたが建てられてから誰も住んだこと
 がないらしいんです」
 「当たり前だよ。あれは北が宣伝用に建てたんだから。1週間に1度清掃隊がきてメン
 テをしてるんだ」
 「でもあれが宣伝になるんですね。昔の日本の公団住宅より見栄えが悪いんじゃないで
 すか」
・「ところで開城の街はどんな雰囲気なんだ?」
 「直轄市にしては活気がないですね。他の地域同様市民には笑顔がありません。ただ兵
 士が多いです。しかも彼らはみながたいがいでかくていかにも強そうなんです。平壌で
 見た兵士や憲兵が痩せ衰えていたのにくらべると雲泥の差です」
 「あそこには最強の部隊を配置してるんだ」
 「しかしかなり士気が低下してるように思われました」
・「ある食堂で何人かの兵士と談笑したんです。彼らに聞いてみたんです。今もし南と一
 戦交えたら勝ち目があると思うか、と」
 「そしたら彼らは何と言ったと思います?勝敗はともかく早いとこ開戦して欲しいと言
 うんです。なぜかと聞くともし戦争になって勝ったら南の食糧がふんだんに手に入る。
 負けたらアメリカが養ってくれる。どっちにしても今よりはましだと言うんです。もち
 ろん半分冗談で言ったのでしょうが」 
 「いや、それが本音だと思うよ。彼らだって人間だ。うまい物を腹いっぱい食べたいし、
 いい生活もしたい。ところがいくら我慢してもそうはならない。つい本音が出てしまっ
 たんだろうよ」
・沢田が取材の目玉のひとつと考えていた李鶴秀大将とのインタビューは、取材開始から
 10日目に行われた。場所は人民武力部(国防部)のVIP会見室。
 このインタビューの通訳は延春日ではなく呉少佐がすることになった。
 その方が沢田も安心できた。
 延は能力はあるがあくまで外交部の通訳である。
 外交部は何事も穏便にすませたいという集団心理のようなものがある。
 厳しい質問をダイレクトに訳さなかったり相手の意地悪な答えの意味を薄めて訳したり
 することがままある。
 その点呉少佐はすべてをはっきりと言う。
・「まずお聞きしたいのですが、御国は好戦的で国際世論をたびたび無視すると見られて
 います。これについておっしゃりたいことはありますか?」
 「それは誤解です。敵に囲まれていたら何事も注意深く対応するのが当たり前でしょう。
 従ってわが国の動きはすべて防御的なものです」
・「防御的とおっしゃいますが古くはソウルの青瓦台に対するコマンド攻撃、83年当時
 韓国の「全斗煥」大統領一行に対するブルマのラングーンでのテロ、その後の「大韓航
 空機爆破」などは防御的とはほど遠いものではなかったじゃないですか」
 「あなたは重要なことをひとつ忘れています。いいですか。わが共和国と南朝鮮は今日
 に至ってもまだ戦争状態にあるのです。53年の7月に南との間で結ばれたのはあくま
 で休戦協定であり終戦協定ではありません。休戦は一時的なものでいつ再び戦いが勃発
 してもおかしくはないのです。ですからわれわれはそれを勃発させないため防御的攻撃
 を仕掛けているのです」
・「国民生活を犠牲にして軍備拡張に走るというのは独裁的低開発国の特徴ですが国民が
 何も言えないところに悲劇がありますよね」
 「国民は金正日指導者のもとに一丸となっています。軍備の充実化によってアメリカや
 南もそう簡単に共和国を攻めることができなくなりました。そして彼らはわれわれの言
 うことに少しは耳を傾けるようになりました。もし軍備充実に力を入れなかったらアメ
 リカや南はすでにわが国を占領していたでしょう」
 「お言葉ですが大将、御国を占領しようなどというお人好しの国はないと思います。
 75パーセントの国民が飢え苦しんでいる国を占領してどうなるんでしょう。ただの重
 荷になるだけです」
 「あなたは帝国主義者たちの深謀遠慮を知らない。アメリカはわが共和国を踏み台にし
 て最終的には対中国包囲網を完成させたいのです」
・「昨日うちの取材班が開城市で兵士と話していたら彼らが言ったそうです。早く戦争が
 始まって欲しい、と。なぜかというと勝ったら南野食糧が手に入る。負けたらアメリカ
 に食わせてもらえる、と。最前線の兵士の言葉ですよ」
 「わが国は民主主義国家ですから言論の自由はあります。兵士たちが何を考え何を言お
 うがそれをとめることはできません」
・「私が聞きたいのはそういう兵士たちを抱えて実際に戦争ができるかどうかということ
 です」 
 「われわれは戦争などしたくはない。しかしもし攻撃されたら破滅的な打撃を相手に与
 える。そのために軍備の近代化に努めてきたわけです。もはや兵士対兵士の戦いは時代
 遅れです。これからは最先端の兵器対兵器の戦いになります」
 「御国が核爆弾を持っているかどうかの議論は絶えません。アメリカのCIAはずっと
 以前から2発か3発はあると断定しました。実際のところどうなのです?」
 「はっきりした数字は想像にまかせますが核爆弾はあります。それを運搬する手段もあ
 ります。しかしあくまで抑止力です。相手が何もせねば使うということはありません」
・「故金日成主席に関してお聞きしたいのですが、まずあの方の性格や人となりについて
 聞かせてください」 
 「一言で言えば豪傑でしたが、同時に非常に繊細な方でした。常に人を思いやる心を持
 っておられました。そして何事にも熟慮に熟慮を重ねて結論を出す。慎重かつ大胆な方
 でしたね」
 「しかし朝鮮戦争を始めたのは彼でしょう。あの戦争は南北朝鮮人200万人以上を死
 に追いやりましたね。熟慮に熟慮を重ねたとは言い難いのではないですか」
 「それは歴史観の相違です。あの戦争はこちら側から仕掛けたのではなく南が挑発した
 から起きたのです。わが共和国は自衛のためにやむなく戦わざるを得なかった」
・「金日成氏の過去について大将はどれだけご存知なのですか?」
 「質問の趣旨がわかりかねますが?」
 「金日成氏の本名は金聖柱。戦争中はソ連軍大尉としてシベリアで活動していた。
 本物の金日成はいたにはいたが1937年満州で日本軍によって殺されていた。
 享年36歳でした。その伝説的な英雄の名を利用してソ連が金聖柱を金日成に仕立てた。
 これについては聞いたことがおありでしょうか」
・大将がにやりとして、
 「いよいよきましたね。だが私はあなたとそのようなことで議論するつもりはありませ
 ん。歴史に対してはいろいろな観点がありますから」
 「しかし客観的事実というものはあります。ここでいう客観的事実とは金日成氏がかつ
 てソ連軍の中国人部隊で働いていたこと。この事実は記録にもあります。当時は中国の
 国籍をとっちゃったこともちゃんと記されているんです」
 「意見などありません。当時私はまだ子供でしたから。ただそういうことが声高に言わ
 れてはならないとは思います。共和国の国民が信じてきたことが根底からひっくり返さ
 れるのですから」  
 「満州で亡くなった金日成は1901年生まれです。
 ところが偉大なる首領様は1912年生まれとなっています。そして1932年人民革
 命軍を作って将軍となった。いくら当時でも20歳の若者が将軍になれますかね?」
・対象が少し考えてから言葉を選ぶようにゆっくりと言った。
 「あの時代は南に「李承晩」という大統領がいました。彼はアメリカの傀儡でした。
 米ソ冷戦の駒に使われたのです。そういうことは世界中で起きていましたからね」
・沢田は初めて大将が本音の部分を見せてきたと思った。
 金日成に関しては沢田の言ったことを否定していない。
 それどころか肯定しているように取れる。  
 「ウソと言えば金正日総書記についてなんですが、あの方は”将軍様”とか”軍事的天
 才”と呼ばれていますよね。“百戦百勝の鋼鉄の霊将”とも呼ばれています。でも軍籍
 はないし戦争の経験も持っていませんね」
・ここで初めて大将が口ごもった。
 「歴史的な事実はまったくありませんね」
 「だが国民にとっては将軍様であり軍事的天才です」
 「しかし軍の経験もない人物が核を自由にできるなんて怖いと思いませんか」
 「核は総書記の手にはありません。核は軍のある部門が管理していますから」
 「”三虎の会”じゃないですか?」
 大将が驚いた表情を見せた。
 「よく勉強してますね」
 「外交部の朴次官から聞いたのです。
・大将が心持ち姿勢を正した。
 「お察しの通りです」
 「三虎の会はその歴史も古く、わが政府内での影響力は絶大です。ということは金総書
 記に対する影響力がずば抜けているということです。それは金日成同志のときからずっ
 と続いてきています」   
 しかし彼らをこころよく思わず敵視している人々もいます。それらの人々は党人や官僚
 の中にいますが最大多数は軍の中にいるのです。ということは人民軍が二つに割れてい
 るのです。よく国際会議でわが国の代表があまりはっきりと物事を言わないと見られて
 いますね。外国メディアはそれについての理由として金正日総書記がくるくると考えを
 変えるからだと言いますが、それは大きな間違いです。
 代表たちが何事もはっきりと言えないのは軍の間での軋轢を考慮しているからなのです。
 金総書記は三虎の会と彼らを敵視する勢力のはざまにあって双方の考えを聞きながら政
 策の立案を行っているわけです」
・「それでは総書記はただの調整役じゃないですか」
 「そうとられても仕方のないかもしれませんね。総書記は一方の意見だけを聞くという
 ことはせず、両方の意見を常に聞きます。その姿勢を弱さの証拠ととる輩がいるのは確
 かです」 
・「初期的な質問ですが、三虎の会と彼らのライバルはどちらかが改革派なんですか?」
 「いやどちらも保守で強硬派です。どっちが強硬になれるかの競争をしているようなも
 のです」
・「この4月に総書記が訪中をなさいましたね。あのとき竜川の駅で大爆発がありました。
 あれは総書記の帰りの記者を狙ったものだったとの情報が一時飛び交いました。
 でも爆発は総書記の汽車が通り過ぎた9時間後でしたよね」
 「だからただの事故だった、と考えるのは短絡的すぎます。あれは仕掛けられていたも
 のです」
 「犯人はあれをすることによって総書記に対していつでも命はいただけますよというメ
 ッセージを残したのです。総書記もそのくらいのことはわかっています」
・「じゃ犯人は改革派ではなかったというわけですね?」
 「改革派だったら時間をずらしたりはしません。彼らは過去に8度ほど総書記の命を狙
 いましたが失敗しました。クーデターの試みもありました。幸い事前に阻止しましたが
 ね」 
・「総書記は絶対的な権力を持っていると私は思っていたのですが、お話を伺ってるとそ
 うでもなさそうですね。軍に対しては遠慮しているし」
 「遠慮というより軍への恐れかもしれませんし、指導者としてのカリスマ性を自分はも
 っていなというコンプレックスかもしれないし・・・」
・何気ない口調で言う大将の言葉に沢田はギクッとさせられた。
 政府のあらゆる部門がそうであるように、この部屋も100パーセント盗聴されている
 と思ったほうがいい。
 会話の記録はすべて金正日のもとに直接届けられるはずだ。
 「大丈夫ですよ、沢田先生。この部屋は完全に”掃除”されていますから。それに金総書
 記といえども大将を盗聴することなどできませんから」
・沢田は内心大将の豹変ぶりにびっくりした。
 金正日に関して北朝鮮では誰も言えないことを堂々と述べている。
 しかも金正日への警護はいっさい使わない。
 呉少佐がわざとそう訳しているとも思えない。
・「どうしました?」
 「いうべき言葉を失してるんです。総書記は共和国の”太陽”であり”将軍様”じゃないで
 すか。その彼が権力闘争の真っ只中にあって右往左往している。改革派からも命を狙わ
 れている。これまで私が抱いていたイメージとは大きく違います」
 大将がうなずきながら、
 「外国の人たちはみな勝手に金正日像を描いています。しかし実際は孤独で自分ひとり
 では何もできない寂しい人間です。三虎の会が破滅した今、孤独はさらに深まるでしょ
 う」 
・「これまで韓国や中国で亡命した何人かの軍人とインタビューしたことがあったのです
 が、彼らが異口同音に語っていたのは共和国の軍隊は確かに数は多いがいざとなったら
 戦えないというものでした。これはあくまで通常戦であって核抜きの話ですが、理由と
 しては兵士の士気、武器弾薬のお粗末さなどを挙げていましたが実際のところどうなの
 です」
 「客観的に言えばそれら亡命者の言ったことにもひとつの真実があります。しかし、
 いざというときには戦えないということは言い過ぎです。食糧不足のため士気は確かに
 落ちています。それに兵役が10年というのも長すぎる。10年の大部分は基地や滑走
 路の建設工事に費やされる。そうやってできあがったのが巨大な地下の要塞でした。
 通常爆弾では貫通できぬほど深いものです。いざというときにはそれがペイすると総書
 記や軍の強硬派は考えています」
・「だがいくら地下にミサイル基地を作っても除湿や排水技術が欠けているため景気が正
 常に稼働しないとも言われています。また弾薬や爆弾は山の中に穴を掘って貯蔵してい
 るので湿気にやられて役に立たないとも聞きましたが」
 「いいところをついてきますね。しかしそれは軍も承知で10年以上も前から工夫をし
 ています。問題の90パーセントは解決されています」
・「閣下はプロの軍人として日本の自衛隊の徒からをどの程度と見ていらっしゃいますか」
 「アメリカの兵器や武器でかためた自衛隊は強力です。人数は決して多くはないが質が
 高い。世界の軍隊の中で実力的には5本の指に入ると思います」
・「もし御国が本当に世界に対してオープンかつ友好的になるならまず38度線に張り付
 いている兵士を半分に減らすのが最善の証となると思うのですが?」
 「われわれもそれについては考えました。しかし言うは易く行うは難しです。まず軍の
 強硬派が黙っていません。兵力を削るということは軍の力を削ると同じです。存在価値
 の問題となります。次にもしそれだけの兵力を削減できたとしても彼らの仕事はどうな
 るか。今までも職が足りない状態なのに彼らが一般社会にもどったらどうなるのか想像
 するまでもありません。共和国は一大パニックに陥ります。働ける人間は多いが彼らに
 給料を支払える職場は極端に少ない。それが共和国の現実のひとつです。ですから社会
 秩序を守る意味でも彼らを軍においておかねばならないのです。今わが共和国がやらね
 ばならぬことは多すぎます。金総書記にもどこから始めたらいいかわからないというの
 が正直なところでしょう。
・「この国が危機から脱出するには中国式の改革開放しかないと私は思っています。
 金総書記もそう考えています。だがやはり反対勢力は存在する。既得権の保持と現状維
 持に執念を燃やす勢力はどこにもいます。彼らにとっては現状が良いほうに向かうのが
 一番怖い。だから朝日国交樹立などもってのほか。日本の金など必要ないと言います。
 ではどうやって共和国の経済を立て直すのかと聞くと答えがない。鼻息だけでは生き残
 れないということが彼らにはわかっていないんです」
・「三虎の会の話に戻したいのですが、外交部次官の朴さんによると彼らの一代目は抗日
 パルチザンとして戦ったと言ってましたが?」
 「私はそう理解しています」 
 「しかし歴史的事実は当時金日成氏は金聖柱としてシベリアにいたということが明らか
 になっています。したがって抗日戦には参加していなかった。となると三虎の会も抗日
 戦を戦っていなかったということになりますね」 
 「いや彼らは確かにパルチザンでした。なぜそう確信できるかというと私がまだ若かっ
 たころ彼らのひとりに聞いたことがあったのです。日本軍との戦いを細部におよんで彼
 は話してくれました。現場にいなければわからないようなことも彼は説明してくれまし
 た」
 「それが本当だとするとおかしいですね」
 そこまで行って沢田が一瞬絶句した。
 考えていることに自分自身がびっくりしていた。
 まじまじと大将を見つめた。
 大将は笑いながら、
 「その考えの先にあなたが好きな歴史の事実があるかもしれませんね」
・三虎の会は満州で抗日戦に加わっていた。
 しかし金日成すなわち金聖柱はシベリアにいた。
 そしてのちに祖国の指導者となった。
 だが三虎はその騙りを見抜いていた。
 なぜなら彼らは本物と一緒に戦っていたからだ。
 そこで彼らは偽者に対してゆすりに出た。
 「国家をかけたゆすりですね」
 「それは聞かなかったことにしておきましょう」
・「大将、最後にひとつ教えていただきたいのですが、総書記とインタビューするにあた
 って急所のようなものはありますか?これを聞いたら拒否反応を示すとか?」
 大将はちょっと考えてから、
 「特別ありませんね。ただ極端に緊張したりあわてたりすると言語障害になります。
 ですからもし言語障害になったらあなたの質問が急所をついているということです。
 ああそれからもうひとつ。雪姫というキップムジョだった女性について聞いてごらんな
 さい。あの事件で総書記はずいぶんと男を落としました。彼女は中国の情報部にいろい
 ろな情報を吐いてしまったからです」
 
第七章
(北京)
・その夜、外交部特別局の一室に3人の男が集まっていた。
 メンバーは陸軍情報部大佐の曽元生、党中央情報工作担当の張海寛、そして外交部特別
 局長陳安家。
・”なだれ作戦”が開始されてからすでに2週間近くがたった。
 北朝鮮には表立った変化は見えない。
 しかし党中央情報工作部は、作戦の進み具合を細部にわたってモニターしていた。
・張がまず経過報告を行った。
 「結論から先に言いますと進行状態は期待通りと言ってよいと思います。これは”山猫”
 につなぎをつけた複数の情報要員が報告してきています。平壌での取材はほぼ終わりイ
 ンタビューはあとひとつ残すだけです。  
 地方取材は降りまして中朝国境や難民の群れ、それにけし畑もフィルムに収めていると
 いうことです。それに収容所の取材もばっちりだったようです。ただひとつの問題があ
 ります。大したこととは思いませんが沢田貴士がある種の疑念を抱いているようなので
 す」
 「どん疑念です?」
 曽大佐が利いた。
 「彼が言ったそうです。これまでの取材結果について混乱している、と。また自分は何
 かに振り回されているような気がする、と」
 「本当にそう感じてるのならかなり勘がいい男ですね」
 「そのうえ三虎の会のメンバーが金日成をゆすっていたこともわかったようなのです」
 「それもずばりじゃないですか」
 「さらには三虎の会のメンバーを殺したのは李大将と思ってるらしいです」
 「ずばりではないがいいところをついているじゃないですか」
 「それだけ李大将の実力を感じ取ったということですからね。しかし三虎の会が壊滅し
 たのは事実です。われわれは誰がやったのかを知ってるが、もはやそれは問題ではない
 でしょう」」
・「それよりも沢田がそれだけ勘がいいとしたら、こっちにとっては有り難いこととおも
 わねば」
 「と言いますと?」
 「われわれの計算通りに動くからです。もし鈍感な男ならこっちはもっとはっきりと目
 標にリードしてやらねばなりません。しかしそれをやったらこっちの存在が表に出てし
 まう危険性があります」
・「沢田についてはもうひとつあります」
 「彼はインタビュー相手が驚くほど金一族についての歴史を知っているらしいです。
 金日成がかつて金聖柱としてソ連軍に籍を置いていたことや中国籍を持っていたことな
 ど全部調べてるとのことです」
 「そんなことはわれわれの間では周知の事実ですよ。ロシア政府だって知ってることで
 す。金日成が偽者であったからっていまさら驚くことではないでしょう」
・陳の言葉にうなずきながらも張が続けた。
 「確かにわれわれは知っています。だが大部分の日本人はそれを知りません。彼らにと
 っては一大スクープです。戦後半世紀もの間、北朝鮮が偽者の金日成に支配されその地
 位を息子が継いだ。となれば息子も当然偽者となるわけです。これはスキャンダル好き
 な日本人には大受けすることに間違いありません」
・「しかし偽者であろうが本物であろうが金親子が北朝鮮の権力を一手に握ってきたのは
 明白な事実です。その既成事実はくつがえされませんよ」
・「ちょっと待ってください。陳さん」
 大佐が口をはさんだ。
 「張さんが言いたいのはそのスキャンダルに集中するあまり番組がわれわれの狙いとは
 違った方向に行ってしまうのではないかという心配でしょう?」
 「おっしゃるとおりです。そっちの方にウエートが行きすぎたら、こっちが狙いを定め
 ているメイン・テーマからそれる恐れがあります。そうなったら作戦の意味はなくなり
 ます」 
・大佐が陳に向かって、
 「どうなんです陳さん。張さんの心配は現実味がありますか?」
 陳が首を振った。
 「私の知ってる沢田は正道をいく報道者です。彼はテレビの力というものをよく知って
 います。だからこそ注意を重ねる。金日成の過去については彼の個人的な興味であって
 それを番組で大きく取り上げるとは思えません」
 「でもその個人的興味が高じて総書記とのインタビューでも触れるなんてことになった
 ら、ちょっとまずいんじゃないかと思うのですが」
 「その可能性はありますね。なにしろ相手が誰であっても聞きたいことはずばずば聞く
 男ですから」 
 「そんなことになったら総書記が切れてしまうかも」
 「自由取材と謳った以上それは仕方ありませんね」
 「総書記の度量が試されることになります。たのしみじゃないですか」
 「それはちょっと楽観的にすぎませんか」
 「大丈夫ですよ。総書記はもう10年もあの国の指導者をやっています。それにマスコ
 ミのインタビューは初めてだがある意味場慣れはしている。ロシアやわが国に来た首脳
 たちと会って一応まともな話ができてるじゃないですか」
 「それより陳さん、沢田からの問い合わせがいつきてもいいように用意はしておいてく
 ださい」
 「間違いなくきます。あなたは彼にとって重要な”中国筋”ですからね」
・陳安家は、かつて東京の中国大使館で文化担当の書記官をしていた。
 それはあくまで表の顔で本当のポストは情報収集の責任者だった。
 当時まだGTBのニュース番組のアンカーをやっていた沢田とあるパーティで出会った。
 陳にとって沢田は日本社会でのよきコネクションであり外交部にとっても表向きが”きれ
 いな”友人だった。 
 一方沢田にとっても陳がときどきくれる中南海情報は新鮮なものだった。
 もちろん彼は陳が外交部特別局の要員であることなど知らなかった。
 彼にとって陳は一回の外交官で便利な”中国筋”の情報源のひとつだった。
・「何を第一に聞いてくるか楽しみですよ」
 「私の勘が正しければまず雪姫こと姜敬愛についてでしょう。それからもうひとつは、
 10年前の7日7日についての質問をしてくると思います。しばしの間は振り回したほ
 うがよいでしょう。結果がどうなるかはひとえにあなたと雪姫の演技力にかかっていま
 す」
 「雪姫と連絡をとっておいたほうがいいでしょうね」
・大佐が張と陳を交互に見据えた。
 「作戦は非常に簡単に見えます。だが簡単なことほど一歩間違ったら破滅的な失敗に終
 わることがあります。今はこっちの思いどおりに進んでいますが、決して油断は禁物で
 す。またもし作戦が成功してもその後に大切な仕上げが残っています。軍は中朝国境に
 兵力を貼り付けねばならないし、ロシアや半島のアメリカ軍の動きを見守らねばなりま
 せん。外交部は北朝鮮崩壊についての中国の立場について説明を求められます。そして
 党中央は金王朝亡き後の対韓国、対日本、対アメリカなどの政策をしっかり描いておか
 ねばなりません。コレラの一つでも欠けたら作戦は結果的に失敗となります」
・「こちらは大丈夫です」
 「党中央はそれについてすでに青写真を作り上げていますからご心配なく」
 張海寛が自信たっぷりな口調で言った。
・陳が張に呼応するように、
 「外交部も臨機応変のコメントや生命を用意しています。我が国が関与したとは絶対に
 気づかれません」
・曽大佐が大きくうなずいた。
 「軍のほうも私の一言でいつでも50万の兵力を中朝国境に動かせる状態にあります。
 さらに平壌が大混乱に陥った場合、中国大使館員や同胞を救出するために準備も整って
 います」 
・曽大佐と張海寛が帰ったあと、陳安家は手帳を取り出してプッシュボタンを押した。
 女性が出た。
 「姜さんですね。外交部の陳安家です」
 「何かあったのでしょうか?」
 少しなまりのある中国語で彼女が聞いた。
 「先日お知らせしておいた作戦がこれから佳境に入ります」
 「成功しますか?」
 「失敗は許されません。そこであなたにご登場願うことになるかもしれません」
・「何をすればよいのでしょうか?」
 「ある日本のレポーターがあなたのことについて私に聞いてきます。私はちょっと相手
 をじらしてからあなたに会わせます。そして9年前あなたが亡命したとき、われわれに
 話したことを彼に話してほしいのです」
 「それなら尋問の記録を見せればよいのではないですか」
 「それだけでは信頼度が足りません。彼があなたにじかに会うのが唯一作戦が成功する
 保証になるのです」
 「私が祖国に帰れる可能性はどのくらいでしょうか」
 「作戦が成功して新しい政府が樹立されればすぐに帰れます」
 「私はただその日本人レポーターに事実を言えばいいのですね」
 「そうです。やっていただけますね」
 「わかりました」
 「これは、あなたが愛してやまなかった金総書記のためです。そして、あなたの祖国の
 開放のためでもあるんです」
  
(平壌)
・携帯が鳴った。すでに夜の11時を回っていた。
 「ヘロー、タカシ?」
 なつかしい声だった。
 「やあリッキー!どこからかけてるんだ?」
 「ワシントンだ。あんたの会社に電話したら北朝鮮でロケ中だと言われてね。交換手が
 携帯の番号を教えてくれたんだ」
・リッキー・シュースターは以前、沢田がアメリカのスィンク・タンクについての特集を
 やったときインタビューに応じてくれたひとりでワシントンのグローバル・インスティ
 チュートのシニア研究員だった。
・「あんたはもともとカンパニー・マン(CIA)だったし、今でもつながりはあるんだ
 ろう」  
 「そりゃ持ちつ持たれつの関係はあるさ」
・やばいと沢田直感した。
 シュースターは会社に電話をして沢田が北朝鮮でロケ中と聞いたと言ったが、会社がそ
 んなことを言うはずはない。 
 しかも会社が彼に携帯番号を与えたとも言ったが、そんなことは絶対にあり得ない。
 社員の携帯番号リストさえ会社は持っていないのだ。
 それを電話の交換手が言えるはずがない。
 シュースターの向こう側にCIAの影がちらつき始めた。
・「情報交換を提案したいんだ。あんたはこれから特番を作る。そのために現地取材をし
 ている。たぶんいい番組を作れるだろう。だが、あんたがたの取材にも限界がある。
 そうじゃないかね?」
 「たとえばいくら完全自由な取材といっても北朝鮮側は軍事基地の取材は許さないだろ
 う。あの国の本当の姿を描くには軍事基地や施設は欠かせない。それらの写真を提供し
 よう。永世で撮ったものもあれば地上で撮ったものもある。これかで極秘とされてきた
 写真ばかりだ」 
・「それでそっちは何が欲しいんだ?」
 「これからあんたは金正日とインタビューするんだろう」
 「誰から聞いたんだ?」
・取材内容や取材対象は極秘のはずだった。
 知っているのは社長や役員などごくわずかな人間だけだ。
 「東京にいるエージェントだって眠ってるわけじゃない。それなりの情報は集めている
 よ」
 「それで?」
 「金正日の写真が欲しいんだ。顔のクローズアップと体全体。いろいろな角度から撮っ
 たやつをね」
 「彼の写真ならAPやAFPがいくらでも持ってるんだろうよ」
 「確かにそうだがみな古い写真ばかりだ。こっちが欲しいのはアップ・デートな写真な
 んだ」
・「リッキー、すまんがその話は断るよ。個人的にとらないでくれ」
 「なぜだ?こんないい話はないぜ」
 「よすぎるんだ」
 「残念だな。取引できると思ったのに」
 「これでわれわれの友人関係がおかしくなるなんてことはないだろうね」
 「とんでもないさ。また連絡するよ」 

・翌日の午後、地方取材に出ていたB班とC班が平壌に戻ってきた。
 それぞれのプロデューサーやディレクターから取材結果の詳細な報告を受けた。
 さらにラッシュの一部を見たがそれまで映像では決して見られなかった北朝鮮の現実が
 なまなましく映っていた。
・特に中朝国境の北朝鮮側に難民が集結している映像は悲惨の一語につきた。
 目と口を開けたまま息絶えている母親の乳房にしがみつき必死に乳を飲もうとしている
 幼児や死んだ野ネズミをめぐって殴り合いをしている大人たち。みな褐色の骸骨と化し
 ている。 
・「地獄としか言いようがありません」
 鹿島が言った。
 「鉄条網がない収容所ですよ」
 「国全体が収容所みたいなもんだと思うよ」
 と中山。
・「こういう経験をしたら、おれたちが今までやってきたのはいったい何だったんだと考
 えさせられるよ」 
 「その通りだ。もう馬鹿げた芸能番組なんておれにはできないんじゃないかと思っちま
 う」
 「ドキュメンタリーのすごさがわかったよ。時間さえ許せば、あといくらでも取材した
 いな」
 「帰ったら報道に回してほしいな」
・2人の会話を聞いていた沢田が、
 「お前たちも少しは成長したのかな」
 「成長というより啓蒙されたんです。ショックがわれわれの目をあけたのです」
 鹿島がうなずいて、
 「これぞ本当のテレビマンの仕事です」
・「その情熱をわすれないことだ」
 とは言ったものの彼らの情熱はごく一時的なもので、それが続くことはないと沢田は知
 っていた。 
 日本に帰れば彼らは一介のサラリーマンだ。
 巨大なピラミッド社会の中にあるGTBという小さなピラミッドを構成する一部でしか
 ない。
 マス・メディアの第一線で働く人間は組織の中にあっても常に自分自身の基準と信条を
 持っていなければならないと欧州では考えられている。
 しかし、日本に限ってはその逆である。
 個人は組織、ということは会社に従わなければならない。
 
 だから個人がどれだけの情熱や正義感をもっていようが、いったん会社に入ったら会社
 の基準に合わせねばならない。
 会社は魂など持っていない。ただのサラリーマン製造組織である。
 
第八章
・沢田たちのキャラバンは中区域にある第5号官邸へと向かった。
 沢田の車には通訳の延春日と呉少佐が乗った。
 「持ち物チェックにちょっと時間がかかると思ってください。なにしろ近ごろは物騒な
 ので官邸もぴりぴりしてますので」
 呉少佐が言った。
 「これかでの総書記への攻撃は地方都市や大学などを訪れたときに限られていました。
 第15官邸が直接攻撃の的になったことはありません。しかし万一ということもありま
 すからね」
 「先日、李大将がインタビューで言ってましたね。過去8回ほど総書記の命が狙われた
 と」
 「あれは軍の中にいるごく少数の改革派によるものです。一般市民、特に地方の若者や
 大学生も度々無茶をやろうと試みました。もちろん事前に察知されて捕らえられました
 がね」
・「総書記がテコンドーを好きなことはご存知ですか」
 「総書記は以前はよく試合を見に行ったものです。だがある日攻撃を受けたのです」
 「受けたって誰からです」
 「テコンドーをやってる選手からです。確か決勝が終わったときでした。勝ったほうの
 選手が最前列にいた総書記を襲ったのです。もちろん彼はその場で射殺されました。
 以来総書記はテコンドーの試合にはいかずビデオで見ています」
 「馬鹿なんですよ。軍の改革派が何度も試みて失敗したのに、たった一人で総書記の命
 をとれると考えているんですから」
・助手席にすわった延は緊張してるのか車が走っている間一言も発していなかった。
 やや顔の表情が堅い。呉が笑いながら彼の肩をうしろからぽんと叩いた。
 「延さん、大丈夫ですよ。総書記は気さくな人ですから」
・ドアが開いて金正日が入ってきた。
 「よくいらっしゃいました」
 通訳の延の声がやや震えていた。
 沢田が素早く金正日を観察した。
 まず考えていたよりずっと背が高い。かなり上げ底の靴を履いていることになる。
 実際の金正日は1メートル58ぐらいのはずである。
 しかし横にはかなり広い。80キロ以上はあるという情報は確かなようだ。
・「閣下はこれまで二度日本の総理大臣にお会いしてるわけですが、印象はいかがでした
 か?」 
 「素晴らしかったの一語につきます。人の話をよく聞き、その理解力の高さには感心し
 ました。情に厚く非凡なる指導力を持った政治家だと思いました。あのような政治家を
 トップにいただく日本国民は幸せです」
・「しかし両国間には問題があるのは事実です。例えば御国は日本に朝鮮総連という組織
 を持っています。言ってみれば大使館です。だがわが国はそのような機構を平壌に持っ
 てはいない。その点についてはどう思われますか?」
 「それはわれわれの間に不幸な歴史があるからです。戦前戦中を通じてわが朝鮮の民は
 大量に日本に強制連行され強制労働をさせられました。だから日本にはいわゆる在日が
 多い。彼らの便宜を図るために総連のような機構があって当然です」
・「アメリカが御国をテロ国家と認定していますが、これについては?」
 「それもアメリカによる悪意に満ちた宣伝です。わが国は主体思想のもと国民一丸とな
 ってよりよい国家を作ろうと必死になってきました。テロなど起こす余裕もなければそ
 の必要性もありません」
 「しかし83年のラングーンでのテロや87年の大韓航空機爆破などは共和国政府の指
 示のもとに実行されたというのが国際世論の一致するところです」
 「国際世論が何と言おうとわが国がテロ活動をしたことはありません」
 「だがラングーンのときの犯人はみな共和国の工作員だったことがわかっていたではな
 いですか」
 「彼らが口を割ったんですか?」
 「現地で裁判が行われ犯人たちは共和国の特殊部隊員と断定されました」
 「あの裁判は南朝鮮がビルマ政府に金を払ってやらせた茶番劇です。信じるにたりませ
 ん」
・沢田はまじまじと金正日の顔を見てしまった。
 ふざけて言っているのか、それとも本気なのか困惑していたからだ。
 しかし彼は笑ってはいない。どうやら本気らしい。
・「大韓航空機事件では犯人の一人「金賢姫」が生き残りましたね。裁判ではっきりと彼
 女は平壌の命令であのテロを実行したと述べていましたが、それの韓国の陰謀ですか?」
 「言うまでもありません。金賢姫などという名前の工作員は労働党調査部には存在して
 いませんでした。それにしてもよくあらまでのやらせができたと感服します」
 「金賢姫には私自身インタビューしたことがあるんですが彼女ははっきりと金正日指導
  者の指示でやったと言ってましたがね」 
 「安企部に言わされていたのです。しかし彼女を責めるつもりは毛頭ありません。彼女
 はただの駒として利用されたのです」
 「先日、李鶴秀大将とインタビューしたときラングーンのテロや大韓航空機爆破に関し
 て彼は朝鮮戦争は休戦中で終わったわけではない。だからいつまた勃発してもおかしく
 はない。テロはその状況を避けるための防御的攻撃であると言ってました。ですから大
 将はテロ活動を認めたわけです」
 「彼は軍人としては一流です。しかし政治はまったくの素人で国際関係には非常に疎い。
 あなたの質問に変に誘導されて思ってもないことを言ってしまったのだと思います。
 でもこの国は民主主義国家です。言論、表現の自由は憲法で保障されています。大将も
 国民の一人としてその憲法の恩恵にあずかっていますから、何を言おうが自由です」
 よくも真顔でこんなことが言えるものだと沢田は憤りを通り越して感心した。まるで一
 人漫才だ。 
・「93年から94年にかけて韓国の核開発をめぐって東アジアに緊張状態が生まれまし
 た。あのとき共和国政府やマスコミはもし日本が経済制裁を実施したら、それは共和国
 に対する宣戦布告と同じだと宣言しましたね」
 「自衛のためには当然のことです。相手が紳士のように振る舞えばこっちも紳士のよう
 に振る舞う。しかし相手がやくざもどきの言動に出ればこっちは容赦しません。それが
 共和国がよって立つ信条ですから」
 「もしあのとき日本が実際に経済制裁に踏み切っていたらどうなりましたか?」
 「制裁行為は宣戦布告ですから、わが共和国もそれに応えてそれなりの対応やしていた
 でしょう」
 「戦争になったと?」
 「それも当然選択肢のひとつだったでしょう。われわれは決して好戦的ではありません。
 われわれほど戦争を忌み嫌う民族はいないと確信しています。ただ挑発を受ければ自衛
 のために武器をとって立ち上がります。挑発されて何もしないのは甘くみられるだけで
 す。朝鮮民族は平和を愛する民です。だがその平和が脅かされるような事態になったら
 いつでも戦う準備ができているということです。そしていったん戦ったら地球を壊して
 でも勝利します」
 「地球を壊してまでもですか?」
 「南極と北極に核爆弾を落として氷を解かして海面を上げるのです。今より2メートル
 海面が上がったら、いくつの国が生存できると思いますか」
 沢田がかぶりを振った。
 「ほとんどの国が1メートル上がっただけで生存できなくなります」
 「共和国は大丈夫なのですか?」
 「もちろん大丈夫です。鉄の意志と主体思想で武装していますから」
 こうなると笑いをこらえるのが難しい。
・「はっきり言わせていただくと、閣下のお答えは現実とはあまりにかけ離れていて理解
 に苦しむのです」 
 「私の言っていることが現実です。あなたは私の言っていることを理解しようとし
 ていない。帝国主義的な考えに凝り固まっているのではないでしょうか」
 「閣下こそ共和国の宣伝扇動部が作り上げたプロパガンダそのままのことをおっしゃっ
 ていると私には思えるのですが」
・金正日の顔に笑みが浮かんだ。
 「そういう言い方を私に対してした人は初めてです。気に入りましたよ。もっとどんど
 ん聞いてください。これも朝日友交のためですから」
・沢田が感心したふりをして、
 「閣下は太っ腹ですねえ。日本人がこのインタビューを見たら閣下の心の大きさにまい
 ると思いますよ」
 金正日は笑いながら満足げにうなずいた。
・これは本物の馬鹿かもしれないと沢田は思い始めていた。
 しかし何と言おうと彼は北朝鮮の最高指導者なのでありメディアとのインタビューは初
 めてなのだ。  
・「とことで閣下の息子さんである「金正男」氏は最近どうなさってますか?」
 「学習に努めていますよ。またまた人間として足らない部分が多いですからね」
 「3年前、彼は日本で旅券法違反で捕まり、そのまま帰られたのですが、あのとき閣下
 はどういうお気持ちだったのでしょうか」
・「幸いだったのは日本外務省が彼を金正男と断定しなかったことです。その理由は今で
 もはっきりとはわかりませんが、たぶん私と共和国を怒らせたくはなかったからでしょ
 う。彼らの頭の中にはテポドン2号が浮かんだと思います。でも正男のあの行動は愚か
 の一語につきます。本人には厳しく言って聞かせました。日本政府および日本国民には
 たいへんな迷惑をかけたと思います」
 意外な言葉だが、それもやはり日朝国交樹立を一日も早く実現化させたいからだろう。
 しかし、そんな簡単に考えられても困る。
・「日本やアメリカの国民は今、援助疲れの状態にあります。御国の慢性的な食糧不足に
 対して国連のWFPから援助要請が毎年なされました。しかし日本の国民はなぜ御国の
 政治的失敗に起因する食糧不足に対していつまでも援助を続けなければならないのか疑
 問に思っています。自分の国の不幸は他国に頼らず自分の国でなんとかする。それが主
 体思想なのではないですか」 
 「あなたの言うとおりです。しかし残念ながら主体思想はいまだ国民全体に浸透しては
 いません。ですから何か不幸があると一部の役人や政治家は外国からの援助を得ような
 どという易しい道を選んでしまうのです。私はそのたびに戒めるのですが、人間の弱さ
 はどうしようもない。もっと積極的に主体思想を広めねばならないと思っています」
・「98年だったと思いますが、テポドンが日本上空を飛んで太平洋に落ちました。それ以
 前はノドンが能登半島沖に落ちています。こういったデモンストレーションはお互いに
 百害あって一利なしと思うのですが?」
 「あれは単なる実験でした。しかしミサイルの性能があまりにもよいためああいう結果
 を生んでしまったのです。日本国民の皆さんを脅かすつもりなどまったくありませんで
 した」 
・「これからも実験を続けるのですか?」
 「防御のためには必要ですから続けるつもりです。もし98年のように日本の上空をか
 すめたり日本領に落ちてもそれはミスであって決して故意にやるわけではありませんか
 ら、それをくれぐれも承知しておいてください」
・それにしても、これでは日本の政治家などこけにされて当たり前だと沢田は思った。
 ほかの惑星に住んでいるようなメンタリティの持ち主と地中のメンタリティで張り合っ
 てもとうてい勝ち目はない。それに日本の政治家のことだから事前に金正日に関する情
 報などほとんど持っていないだろうし、彼の言うことをマジに受け取るだろう。
 ぶっつけ本番でやったら金正日のペースにはまるだけだ。
 だから日本はこれまでずっとだまされ続けてきたのだ。
・それにしても金正日は感情的に短気、気に食わないことがあると席を立ってしまうとい
 う情報は間違っていたのか。それとも自分の質問がなまぬるいのか。沢田は後者だと思
 った。これから寸止めパンチではなくフル・コンタクトでいくしかない。
・「朝鮮戦争の最中、閣下はずっと父家とこの国にとどまっておられたと公にはいわれて
 いますね。しかし私の調べたところでは閣下は当時中国の延吉に疎開されておられたよ
 うですが」
 「そ、それは調べ方が・・・間違っていたんだな。私はずっとこの国にいたな。戦争が
 始まったと、ときはまだ9歳だったんだな。だがじゅ、じゅ、銃後の守りに参加したい
 と思ったんだな」
・急に言葉遣いがおかしくなってきた。そういえば李大将が金正日は極端に緊張すると言
 語障害になると言っていた。ということは今は緊張してるのだろうか。 
・「閣下の父上・金日成主席はかつて極東ソ連軍88連隊で大尉をなさっておられました。
 そのとき閣下がお生まれになった。ハバロフスク郊外のビァツクエ村です」
 「それは間違いだな。私はペ、ペ白頭山の抗日、パ、パルチザンの本部で生まれたんだ
 な。共和国の小学校の、きょ、教科書にもそう書いてあるな」
・急性の言語障害に陥ってしまったようだ。言葉に詰まるだけではなく話し方そのものが
 おかしい。首を絞めつけられている鶏のような苦しさがにじんている。
・「記録によると閣下には2歳年下の弟さんがおりましたね。彼もやはりシベリアで生ま
 れて名前はシューラ・平壌に帰ってきてから3歳で亡くなっています」
 「シュ、シューラなどという弟はいなかったな。これも真実だな」
 「しかし彼は池で遊んでいて溺れてしまったとのことです。そのとき一緒に遊んでいた
 のが当時5歳の閣下だったということですが」
 「作り話だな。そのような情報を一体、どこから得たのかな」
 「ソ連邦のKGBファイルやかつての主席宮で働いていた医師のひとりからです。今は
 中国に亡命していますが」  
 「その医師が言うにはシューラが死んだ日、金日成主席はこっぴどく閣下をおしかりに
 なった。その閣下を守ったのが母上の「金正淑」氏だったということですが」
 「おもしろい話だな。だがそういうことはなかったな。その医師が人の、ちゅ、注意を
 引くためにでっちあげた、たわごとだな」
 見ているだけで、こっちが苦しくなる。
 それにしても子供時代のことについて話すのになぜこうも緊張することがあるのだろう。
・そのとき呉少佐が部屋の隅のキャビネットの中からブランディのボトルを取り出してグ
 ラスになみなみに注いで持ってきた。 
 「さあ閣下これを飲んでください」
 金正日が一気にグラスを干した。
・呉少佐が金正日の後ろにまわって彼の背中をさすった。
 「はい息を大きく吸って、はい吐いて、はい吸って・・・」
 10回ほど繰り返された。
 「どうです気分は?」
 「だいぶよくなった」
 呉少佐が沢田に向かって、
 「すいませんね。ときどきこういうことがあるのです。一種の発作ですがもう大丈夫で
 す」 
 真っ青だった金正日の顔に多少色が戻ってきた。
・「閣下はお母さんと非情に近かったと聞いていますがそれについて話してください」
 「母は偉大な革命の戦士でした。国家のために命を捧げて散ったのです。共和国の生み
 の母と言っても過言ではありません」
 「母上がなくなったのは閣下がまだ7歳のときでしたね。さぞかしつらかったでしょう
 ね」
 「突然の心臓麻痺でした。私は胸が張り裂けて一晩中泣いていました。だけどそれも運
 命だったのでしょう」
 「心臓麻痺ではなかったという情報もあるのですが」
 「どういう意味です?」
 「人為的な死であった。具体的に言えば射殺であったと言われています。さきほど触れ
 た亡命医師がある夜、主席宮で一発の銃声が聞こえたと証言しているのです。主席宮の
 中の人間関係がこじれた結果ではないかと」
 「そんなことは絶対にありません。母はパルチザン時代に苦労し過ぎました。それがた
 まりにたまって心臓にきたのです」
・「母上についてのエピソードを何か語ってください」
 「よき母でよき妻であったということに尽きます」
 「閣下の継母である金聖愛さんは、確か父上・金日成氏の3番目の奥さんだったですよ
 ね」  
 「継母です」
 「彼女も息子さんの「金平一」氏も近ごろあまり表に出てこられないようですが?」
 「彼女はちょっと体が悪いので自宅に閉じこもったままです。平一はフィンランド大使
 として一生懸命働いています」
 「一説では金聖愛さんは自宅に軟禁状態にあると言われていますが?」
 「あなたがそんなことを聞く理由がわかりませんね。わが国では軟禁とか換金などとい
 うことはいっさいありません」
・金正日が金聖愛やその息子・金平一をずっと以前から憎んできたということは、これま
 で何人もの北朝鮮専門家が指摘している。金日成の死を境に壮絶な権力争いが展開され
 たとも言われてきた。
 しかし金正日の今の言葉を聞くかぎり、その争いには決着がつけられたようだ。
 彼の自信満々な口調がそれを物語っている」
・「1995年の1月にキップムジョのメンバーだった雪姫という女性が突然姿を消した
 ということですが、彼女は閣下とはごく親しい間柄にあったと聞いています」
 「確かに雪姫という女性はいました。まれに見る美形で頭もよかった。しかし、ある日
 突然いなくなってしまいました」
・「閣下と彼女は相思相愛の仲だったと聞いておりますが?」
 「まあそんなところでしたね」
 「雪姫と私のことなど番組には何の関係もないでしょう」
 「いや、それは違います。大いに関係があるのです。はっきり言わせていただきますが、
 閣下は日本ではごく冷静で何事にも動じないスーパーマン的な人物と見られています。
 しかし、好感度という意味ではあまり高くはありません。そこで閣下と雪姫との関係を
 明かにすることによって、日本人の閣下の見る目は非常に変わります。閣下も同じ感情
 を持った人間であるということが印象づけられるからです」
 「なるほど、しかしもうずいぶんと昔のことなのであまり覚えてないのです。ただ一目
 見てその魅力に吸い込まれたということは覚えています。男心をつかんで離さなかった。
 それに話題も豊富で洗練されていました」
・「雪姫が失踪したときはショックだったでしょう」
 「それはもう寂しいかぎりでした。何の書き置きもなく言伝もなく私の前から消えてし
 まったのですから」  
 「閣下から見て失踪の理由や動機は何だったのでしょうか」
 「それは今でもわかりません。ただどこかで生きていてくれたらと思います」
 「でも彼女は中国に亡命したことははっきりしているのでしょう?」
 「えっ?」
 金正日が突然頭の中がブラックアウトしたような顔つきになった。
 これには沢田の方が戸惑った・
 当然雪姫が中国に行ったこと彼が知っていると思っていたからだ。
 「雪姫が中国に?」
 その驚きようからいって明らかに初耳のようだ。
 金正日が呉少佐に目をやった。
 なにやら言った。
 そのトーンからいってかなりきつい言葉をぶつけているようだ。
 延が素早く訳した。
 「”きみはこれについて知っていたのか?なぜそんな大事なことを私に知らせなかった
 のだ?” それに対して呉少佐が、”あのとき保衛部は三虎の会の玄英浩上将にちゃんと
 伝えました”」
・おかしいと沢田は感じた。
 もし徐星姫や呉少佐が言ったように2人が相思相愛の仲だったら金正日は熱心にその後
 の彼女について知りたがったはずだ。
 護衛部なり国家保衛部なりに問い合わせれば彼女が中国に亡命したことはわかったはず
 だ。しかし彼はそれをしなかった。そして護衛部も保衛部も彼に知らせなかった。
 どこか変だ。ひょっとしたら彼に知らされていない重要なことが他にもあるのではない
 か。
 それに”たかが失踪した1人のキップムジョ”と言ったが、それがかつて愛した女につい
 て使う言い回しだろうか。何かがしっくりしない。
・「今わが国民はかつてないほど合体しています。そして強力な人民軍はどんな敵でも迎
 え撃って破滅させることができます。そのためには外国の援助は必要ありません。
 わが国を攻撃する国は自ら地獄の門を開くことになります。
 「しかし軍の内部は主導権争いで分裂していると李将軍ははっきりと言いましたが」
 「たぶん多少の軋轢はあるでしょうが、たいしてことではありません。必ずまとまりま
 す」 
・「それは三虎の会が壊滅したからですか?」
 金正日がまじまじと沢田を見据えた。
 その目に初めて恐れのようなものが浮かんだ。
 「今何といいました?」
 「軍がまつまるのは三虎の会が壊滅したからかと聞いたのですが」
 「壊滅とはどういう意味ですか?」
 メガネの奥の目に黄色い閃光のようなものが走った。
 唇が震えている。
 沢田はどう反応していいのか一瞬言葉に詰まった。彼自身も驚いていた。
 「さ、さ、三虎の会につ、つ、ついてあなたはあぜし、し、知っているのだ?
 「いろいろな方から共和国についての背景説明を受けたとき聞いたのです」
 「さ、さ、三虎のか、会がか、か、壊滅とはど、ど、どういう意味だ!」
 このあわてようは半端ではない。顔の筋肉は引きつり目は恐怖とうろたえがありありと
 映っている。緊張の極致に達しているのは明らかだった。
・「失礼ですが閣下はそれについての報告をお受けになってなかったのでしょうか」 
 「護衛部にはとっくに報告が行ってるはずですよ」
・呉少佐が言った。
 「閣下に知らせなかったのならそれは彼らの落ち度です」
 突き放すような少佐の口調と表情だった。
 金正日の額にあぶら汗がにじんでいた。
 少し前までの人を馬鹿にして見下すような自信はどこかに吹っ飛んでしまっていた。
 不安におののくただの小男にすぎなかった。
 肩を上下に動かしながら数回大きく深呼吸を繰り返した。
・ようやく落ち着きを取り戻したようだ。
 「いつ頃だったのだ。三虎の会が殺られたのは?」
 「3週間ほど前になります「」
 「どんな殺られかただったんだ」
 「玄上将は急病で、あとの2人は交通事故とのことです」
 「手をくだしたのは?」
 「私は閣下が彼らの行き過ぎにとどめをさしたのだと思ったのですが」
 「なぜ私がそんなことをする必要があるんだ。自分を守ってくれる虎を殺す馬鹿がどこ
 にいるか」 
・2人の会話を延が忠実に訳した。
 それを聞きながら沢田は不思議な思いにかられていた。
 国家の最高指導者と一少佐の話にしては生々しすぎる。
 まるでギャングの会話のようだ。
 それにしても呉少佐はずけずけとものを言う。
 相手が総書記などとはまるで意識していないかのようだ。
 総書記のほうが逆に遠慮しているように見える。
 私はやっていないなどと言い訳じみたことを最高指導者が言うのだろうか。
 しかも一介の少佐に対してである。
 少佐になんらかの弱みを握られているのかとさえ思ってしまう。
・ひとつだけ確実なことは、雪姫に関してもまた三虎の死に関しても重要な情語が金正日
 には渡っていなかったということだ。
 周囲から完全に浮き上がってしまって裸の王様ならぬは裸の将軍様となっているのであ
 る。

・沢田が呉少佐を見据えて声を落とした。
 「三虎の会のメンバーを消したのは少佐、あなただったのでしょう?」
 呉少佐が沢田の目をまっすぐに見つけた。
 「誰がやったのかは問題ではないでしょう。三虎の会は殺られた。それが重要なことな
 んです」
 沢田が首を振りながら、
 「わかりませんねぇ。ますます頭が混乱してきましたよ」
 「正気な人間ならみなそう感じます。それだけ今の共和国はすべての意味で狂っている
 ということです」
 そう言った少佐の目に限りない悲しみが宿っていた。
 
・その夜、高麗ホテルのレストランを課し切ったお別れ会が催された。
 沢田のとなりに座った朴が言った。
 「ところで沢田先生、例の行方不明者の件ですが、まだ外務省からは何の連絡もないの
 ですが?」
 沢田はちょっと間をおいた。
 まさか川崎が言ってきたことをそのまま伝えるわけにはいかない。
 外務省の最優先事項が拉致被害者の問題ではなく国交樹立の話し合いであるなどと言っ
 たら100パーセント足もとを見られてしまう。
 「今担当責任者が外国を訪問中らしいのです。今週中には帰国するらしいのですから、
 私が直接会って話します」
 「もの、もう外務省には伝えてあるのでしょう」
 「もちろんです。しかし責任者がいないと彼らは動くこともできないんです。おわかり
 でしょう?」
 「官僚はどこの国でも同じですね」
 
第九章
・その日からスタッフ総動員で番組の仕上げにかかった。
 結局予定の1週間より3日も早く終えることができました。
 それをCDにコピーして社長の阿波崎を初めとする各役員に配った。
・まず川崎が電話をしてきた。
 「いやあ期待にたがわずすごい番組になったな、沢田君。今の北朝鮮の状況が実に生々
 しく迫ってくるよ」 
 あくまで映像から出るイメージだけでその奥にある重要なことはまったく見ていない。
 いつも川崎は自らを平均的な視聴者であると自慢げに語っている。
 平均的視聴者の条件は複雑な話は好まない。内容よりもイメージが最も大切。彼はよく
 力説する。
 「いいかね。家庭の主婦は真剣な番組など決して好まないんだ。もしそういう番組を見
 ても内容などどうでもいい。彼女たちは出演者がどんなネクタイをしているか、背広の
 ブランドは何か、かつらをつけているかいないかぐらいしか見ない。表面的イメージだ
 けなんだ。極上のステーキをだしてやったってその味なんてわかりはしない。
 ファースト・フードのハンバーガーのほうを有り難がるんだ。
・この伝でいけば番組は平均的視聴者に受けるだろう。
 しかしクオリティの点から見ると、もう少しグレード・アップできるのではないかと沢
 田は考えていた。
 そのために予定より早く作り上げたのだ。
 最後の最後に追加したいことがでてくるかもしれないし、大幅に再編集せねばならない
 かもしれない可能性も考慮に入れてのことだった。
・その夜、沢田は東ぶりに家に帰った。
 北朝鮮から帰ってからも会社に寝泊まりしていたため帰宅するのは17日ぶりだった。
・食事を終えて沢田は居間に移った。裕子と息子たちを呼んだ。
 会社から持ってきた番組のプロトタイプを彼らに見せたかったからだ。
 特に裕子に見せたかった。
 かつてディレクターとして活躍した彼女の意見が聞きたかったからだ。
・テレビ画面にまず平壌の一般市民の姿が映った。
 次に平壌の町並み。続いて取材日の最初に撮った川辺に横たわっている老人たち。
 次に収容所の子供たちの表情。そしてインタビューした人々の顔がフラシュ的に映って
 は消えていく。 
・「共和国最後の真実」というタイトルが出て画面いっぱい金正日の笑顔が映った。
 彼の声も入っている。それが消えると今度は5ヵ月前の金正日による北京訪問が映し出
 された。
 胡錦濤や江沢民と一緒に移っている場面や北京から汽車で去って行く場面などがこれも
 フラッシュで映し出された。
・「ちょっとおかしいわね」
 裕子が言った。
 「何が?」
 「今の北京訪問の場面だけど金正日が2人いるみたい」
 「胡錦濤や江沢民に会っている彼と帰りの汽車に乗っている彼とは別人のような気がす
 るのよ」
 「まさか。目が悪くなったんじゃのか」
 「ちょっとも戻してみて」
 沢田がやれやれと言った表情でうなずいた。
 「そこよ!ストップして」
 金正日と胡錦濤が立って正面を見つめている映像だった。
・「いいこと。金日成の顔をよーく見て。頭の前部はかつらだとすぐにわかるわよね。
 それと顔のしわ。向かって右側に5本、左側に2本、そのうち1本はかなり長いでしょ
 う。一見してかなりの齢に見えるわね」
 「62歳だからな。それなりの齢に見えるのは当たり前だよ。おあれは会ってるんだ。
 この顔にまちがいわないさ」
・「邪帰りの汽車の場面を映してみて」
 北京の駅のプラットホームに敷かれた赤い絨毯が映り汽車が発車した。
 窓のひとつが開かれて金正日が顔を出して見送りの人々に手を振っている。
 しかしすぐに消えて汽車が去って行く場面に変わった。
 金正日が手を振っている場面に戻してストップした。
・「あの顔をよく見て。前に比べてすくなくとも10歳以上は若いと思わない?髪の毛は
 豊富でふさふさしているし、顔にしわも見えないじゃない」
 なるほどそう言われて見ればそうだ。
 いくら大きなかつらをかぶっても彼のコンプレクションはそう簡単には変えられない。
 「確かに別人に見える」
 「絶対にそうよ!」
 彼女の口調は断定的だった。
 こういうときの彼女は往々にして正しいということを経験則で知っていた。
・沢田の頭にあの日竜川駅で起きた大爆発がよぎった。
 李鶴秀大将は、あれはただの事故ではないと確信した。
 となれば、金正日はあれについての情報を事前に得ていて念のために身代わりをつかっ
 たという考えもできる。 
 「お前が正しいかもしれないな」
 「影武者を使ったのよ。私が現役時代北朝鮮特集をやったんだけど、あのときは韓国の
 外務省やマスコミは金正日には2人の影武者がいると言ってきたわ。ちょっと刺激的す
 ぎたので番組には取り上げなかったけど」
 「証拠はあるのかい?」
 「新聞には載ってたわ。確か韓国の聯合通信が配布したニュースだったと思う」
 「いつ頃だ?」
 「番組を作ったのが1996年7月だったから、あの当時の新聞のバック版バーを見れ
 ばいいんじゃない」
 「それが本当なら番組に厚みが出るな」
 「中国は知ってるのかしら?」
 「たぶんね。彼らはそういうことは滅多に見落とさない。だが胡錦濤たちに会ったのは
 本物だからそれでいいと思ってるんだろう。現実的な連中さ」
・ごくあっさりと言ったものの心の中では静かな興奮が渦巻いていた。
 取材中には感じられなかった何か手ごたえのあるものに初めてぶつかった気がした。
・翌日出社すると、すぐに沢田は秘書に1996年の7月前後の新聞から金正日に関する
 記事を捜し出すよう指示した。
・次に沢田は北京の情報源のひとりに電話を入れた。
 「やあ沢田先生、しばらくです!」
 「陳安家の明るい声が聞こえてきた」
 「胡錦濤氏の身長はどのぐらいですか?」
 「それは国家機密です」
 「江沢民氏の身長は?」
 「それも国家機密です」
 「「今のは冗談です」
 「こちらにとっては冗談ではありません」
 沢田には陳の言っていることがよくわかった。
 テロが横行している今日、指導者たちの体の特徴は外部に漏らさない規則になっている
 からだ。   
・「実はですね。ごく最近北朝鮮を取材してきたのです」
 「それはすごいじゃないですか!」
 「一応番組は作ったんですが重要な部分が抜けていることに気づいたのです。それにつ
 いてあなたに聞いてみたいと思いまして」
 「どうぞ聞いてください。私にわかることなら喜んでお答えします」
 「金正日総書記についてなのですが、彼はこの4月北京を訪問しましたよね」
 「ええ」
 「あのとき何かおかしいことはありませんでしたか」
 「どういう意味です」
 「彼そっくりの人間がそばについていたとか?」
 「・・・・・」
 「陳さん、どうなんです!」
 「沢田先生」
 陳のトーンが急にダウンした。
 「今はまずいです。30分後に私の携帯にかけてください」
・電話をいったん切ってから今度は篠塚を呼び出した。
 「”共和国最後の真実”についてなんだが、ひとつ見逃していた点があるようなんだ」
 「と言いますと?」
 「最初のオープニングのとことで金正日の北京訪問の場面が出てくるだろう。胡錦濤や
 ほかのVIPと一緒の写真はわれわれがあった金正日だと思うんだが、帰りの汽車の窓
 から手を振っているのは別人のようなんだ。君の目でチェックしてみてコールバックし
 てくれ」 
・中山と加藤が入ってきた
 「おれたちはとんだことをスキップしているかもしれない。いいか、これをよーく見て
 くれ」
 コンピュータ・スクリーンに金正日が胡錦濤と並んで映っている映像が現われた。
 彼の顔に焦点をあててアップした。
 次に汽車の場面。金正日とされる人間が窓から顔を出して手を振っている。
 「なるほど、こりゃ明らかに別人ですよ」
 中山が言った。
 加藤がうなずいて、
 「なぜこんなことを見逃してたのだろう」「そりゃ仕方ないよ」
 と沢田。
 「取材班が撮ったものじゃないからな」
・そのとき篠塚から電話が入った。
 「確かに2つの映像は別人ですね。カットしたほうがいいですよ」
 「今、中山もそれを言ってたところだ。だが中国筋に照会してからでも遅くはないと思
 うんだ。なにしろあの映像は中国で撮られたのだから中国外務省の許可が必要だったは
 ずだからな」
  
・「沢田先生、なぜあんなことを聞いたんです」
 陳の声は心持ち緊張していた。
 「ごく単純なことです。中国要人と一緒の写真と帰りの汽車から手を振っている金正日
 は別人に見えるからです。それについて今までどこからか問い合わせはなかったんです
 か」
 「それについてはヨーロッパ諸国やアメリカ大使館から何度か質問がありました。特に
 アメリカ大使館の政治局は非常に熱心でした」
・沢田の頭の中で黄色信号が点滅し始めた。
 アメリカ大使館の政治局とはCIAのカバーである。
 「CIAは何を知りたかったんです?」
 「あなたと同じことです。汽車から手を振っていたのは別人と彼らはすでに知っててそ
 れを確認したかったのでしょう」 
 それじゃやっぱり別人だったのですか?」
 「いまさら驚くことでもないでしょう。総書記に影武者がいたことはずっと以前から知
 る人ぞ知る事実だったのですから」
 「噂にはきいていましたが本当にそういう人物がいるとは・・・」
・「公衆の面前とか汽車に乗るときなどちょっとでも危険があれば影武者を使うのは金日
 成の時代から変わっていません。
 ところで先生、今回総書記にインタビューされたとおっしゃってましたね?」
 「ええ、もちろん本物とです」
 「確証はあるのですか?」
 「いつも写真で見ている総書記でしたよ」
 「なるほど。本物と信じているのですね?」
 「もちろんです。なぜです?」
 「いや、別に。あなたが納得しているのならそれでいいのです」
 馬鹿におもわせぶりな言葉だ。
・「ああそうそう。国家保衛部のある要人が言ってましたよ。中国はひどい。亡命者を隠
 していて返そうともしない、と」 
 ブラッフ(はったり)だった。
 「亡命者が多すぎて困っているんです。北朝鮮に変えそうにも国際世論が厳しくて。
 いずれは韓国に出国させるつもりなんですが」
 「ところがこのケースは普通の亡命者じゃないんです。彼女の名は姜敬愛、別名雪姫、
 中国情報部が匿っているのはわかっているとその要人は言ってましたよ。そしてこうも
 言っていました。鮮血の友情も怪しいものだ。もしこのようなことが続けば中国との関
 係を見直さねばならなくなるかもしれない、と」 
・「迷惑至極な話です。こちらとしては窮鳥懐に入ればの気持ちで助けただけなのです」
 見事ブラッフに引っ掛かった。
 「しかし彼女を返すようにとの北側の要請を中国側は一蹴したじゃないですか。彼らは
 筋を通して頼んだと言ってますよ」
 「それは彼らの言い分でしょう。問題は彼女がこちらに来て以来、金総書記は3度ほど
 わが国を訪問しましたが彼女については一言も触れなかったということです。わかりま
 すかその意味が?」
 「総書記は彼女にもはや興味はないということですか」
 「それとも彼女については問わず語らずの姿勢を貫いている」
 「しかし、その推測は全然当たってませんよ。なぜなら総書記は雪姫が中国に亡命した
 ことすら知らなかったのですから」
 「それが本当なら憂慮すべき状況ですね」
 「問題はなぜそのような重要事を彼ら知らされていなかったかです」
 「ちょっと待ってください。私はすでにしゃべりすごました。さすが沢田先生感心させ
 られます。人の口をこじ開けるのが上手ですね」
・ひょっとしたらこれは大変な話の突破口につながるかもしれないと沢田は思った。
 「沢田先生、お願いですから私が今言ったことは忘れてください」
 「なぜです?」
 「複雑な話には関係したくないんです。いいですね?」
 電話が切れた。
 沢田はしばし手にした受話器を見つけていた。
 陳は確実に雪姫の亡命理由を知っている。
 いやそれ以上のことを知っているかもしれないと感じた。
・そのとき秘書が入って来てコピーをされた何枚かの髪を沢田の机の上に置いた。
 さっき頼んでおいた縮刷版を拡大したものだった。沢田はそれにざっと目を通した。
 似たような記事ばかりだが違いは影武者の数にあった。
 「韓国の聯合通信は、北朝鮮専門家の話として、北朝鮮の最高指導者、金正日書記に2
 人の影武者がおり、公式活動に参加していると伝えた。この専門家は『行事に姿を現わ
 し、言葉を話さずに手を振るだけの場合、大部分は代役』と指摘した」
 これがT新聞となると、やはり聯合通信をソースとして金正日の影武者が3人いるとい
 う。その3人が本物に代わって集会や公式行事に出席することがあると報じ父の金日成
 主席にも影武者が1人いたと伝えている。
 ということは今でも金正日が影武者を使っているということはごく自然だ。
 できれば今回の取材で影武者にも接触してみたかったものだ。
・とそのとき沢田は呉在京少佐が別れ際にくれたビデオのことを思い出した。
 帰ってからあまりに忙しくすっかり忘れていた。 
 机の引き出しからそれを出してビデオ・デッキに差し込んだ。
 金日成と金正日のふたりがそろって手を振っている場面、画面の右下に撮ったときの日
 付が記されている。1990年7月。
 場面が変わって今度は金正日がしゃべりながら手を挙げて何かを指している。日付は、
 1991年12月。
 次は金正日が地方の橋を視察している場面だがその日付は1993年3月。
 最後は金正日が数人の軍人に話している場面で終わった。日付は1994年5月。
 なぜ呉少佐はこんな古いビデオをくれたのか。
 ひょっとすると呉少佐は何かを伝えたかったのだろうか?
・もしや・・・?
 次の瞬間、沢田はゾクッとするものを感じた。
 全身の血が逆流するような感覚に襲われた。体中がほてった。 
 もし自分の感じていることが正しかったらCIAがリッキー・シュースターと使って、
 金正日の顔の映像を欲しがっていた理由もわかる。
 沢田の額にあぶら汗がにじんだ。
・受話器をとりあげて北京の陳安家の携帯の番号を押した。
 「陳さん、和田です。明日の飛行機で北京に出発します。着いたられんらくしますか
 らぜひ時間を開けておいてください」
 「それは困りますよ。話すことは何もありませんから」
 電話の向こうで陳安家がニヤリとしているのを沢田は知る由もなかった。
・すぐに中山を呼び出した。
 「おれは明日北京に行くことになった。もしかしたら番組を大幅に変えることになるか
 もしれないからそのつもりでいてくれ。
 それから外務省の池山という審議官に連絡して拉致被害者の映像を見せてやってくれ。
 社長に頼めばすぐにつなぎをつけてくれるはずだ」
 翌日、沢田は篠塚を伴って北京へと発った。
・中山はやや緊張した面持ちで秘書に従いて社長室に入った。
 彼にとっては社長室を訪れるのは初めてのことだった。
 沢田に言われたとおり昨日社長の秘書に連絡したのだが、あいにく社長は終日出張中だ
 った。しかし用件は秘書に伝えておいた。
 今朝出社したとき社長室に支給来るようにとのメモが置かれていた。
 「用件は秘書から聞いた。なぜ沢田君が自分で言ってこないんだ?」
 「今日は出張しているのです」
 「出張は終わったばかりじゃないか。いったいどこへ行ったんだね?」
 「北京です」
 「ええ、何でも今回の番組を大幅に変えるかもしれないと言ってました」
 「そんな悠長なことを言ってるのか」
 「あの人は完全主義者ですから」
 「すでに番組はできあがってるじゃないか。あれ以上のものは望めない。大幅に変える
 必要などさらさらないよ」  
・中山は黙っていた。こんなことで言い合っても何の得にもならない。
 「用件についてだが、あれについてはすでに外務省審議官の池山氏が断ってきてる。
 沢田君には彼が平壌にいるときそれを伝えておいたんだ」
 「しかし池山氏が拉致被害者の映像を見たらその考えを変えると沢田さんは思ったので
 しょう。なにしろパワフルな映像ですから」
 「その必要はないよ。外務省は忘れることだ」
 「しかし一応コピーを届けておいた方がよいのではないでしょうか」
 「余計なことだ。それより君にやってもらいたいことがあるんだ」
 「あの拉致被害者との会見を番組に加えてくれ。あんなスクープを外す手はない」
 「しかし外務省が動くまであれは番組にはしないと沢田さんが拉致被害者に約束してい
 ます」 
 「私はそんな約束はしていないぞ。総責任者は私だ。沢田君ではない」
 「いいか。耳がプロデュサーとしてこの会社に残りたければ私の言った通りにするんだ。
 何が何でも拉致被害者の映像を入れること。視聴率が10ポイント以上アップすること
 間違いない。そのときは君たちにボーナスが出るだろう」
・アメとムチの口説きだ。
 サラリーマンの弱さをちゃんと衝いている。
 それをわかっていながら自分は何も言い返すことができない。
 そんな自分自身が情けなかった。
 「沢田さんには何と言えばよいでしょうか」
 「そんな心配はいらん。彼には私の方から説明する」
 「わかりました」
 中山が一礼して社長室を後にした。
  
第十章
(北京)
・沢田はホテルの自室で篠塚とともに陳安家を待った。
 誰にも見られないところというのが彼の出した条件だった。
 となるとホテルの部屋しかない。
 「まさかこのミィーティングを撮るのじゃないでしょうね」
 「あなたは許可しないでしょう」
 「当たり前です」
 「テープレコーダーも勘弁願います」
・「それじゃまずお聞きしますが、あなたがたは金正日総書記に影武者がいるということ
 をずっと知っていた。そうですね」
 「ロシアだってアメリカだって知っていますよ」
 「正確には何人ぐらいいるんですか」
 「今われわれの知るかぎりは2人です。かつては3人いましたが」
 「どういうとき彼らは出てくるんです?」
 「平壌の中国人大使館のパーティに出席するのは大体そっくりさんです。ロシア大使館
 やスウェーデン大使館などのパーティにも本物はめったに出席しません。最も危険な場
 所ですからね」
 「北京を訪問した金正日は本物だったんですね?」
 「当然そう考えられています」
 「懐疑的な言い方ですね」
 「いえ決してそうじゃないんです。ただ正確を期して言ってるのです。まず私は本物と
 直接会って話したこともありません。しかしいくら北朝鮮でもわが国の首脳との会談に
 そっくりさんを送り込むようなことはしないでしょう」
・「しかしどうも腑に落ちない点があるのです」
 「金正日はもう少しアグレッスィヴでカリスマティックというイメージを抱いていたん
 ですがね」
 「がっかりしたというわけですね。しかしそういう指導者は北朝鮮に限らずどこにでも
 いるでしょう。指導者の外観は往々にして見る者の錯覚が大きく作用しますからね」
 「錯覚という言葉はどうですかね。漫然とですがもっと大きな絵が舞台裏にあるように
 思えるんです」
 「考え過ぎということもあります」
・「陳さん」
 沢田の口調に力は入った。
 「雪姫に会わせてくれませんか」
 「突然何をおしゃるんです」
 「彼女に会えばすべてがはっきりするような気がするんです」
 「それは無理ですよ。私自身彼女がどこにいるのかわからないのですから」
 「公安が直轄する家やアパートは限られているはずでしょう」
 「それを確かめるだけでも大変です。へたをすると外国のスパイという疑いを持たれま
 す。私には不可能です」
 「紹介は必要ありません。ただ彼女の住所と電話番号を教えてくれればいいのです」
 「それを私が知っていると思いますか」
 「知らなくても得ることはできるでしょう。あなたは外交部の幹部じゃありませんか」
 「だとしても機密情報を外国人のあなたに与えるわけにはいきません」
 「10年近くたったらもはや機密事項ではないと思いますよ。北朝鮮の情報部だっても
 う彼女を捜してはいないはずです」 
 「明日1日待ちます。ためだったらいさぎよく諦めてあさって日本に帰ります。いかが
 でしょう」
 「しかしなぜ私があなたのためにそのような危険を冒さねばならないのですか」
 「理由は2つあります。第一にあなたと私は長年の友です。立場が逆だったら私は何も
 考えずに引き受けます」
 「説得力がありませんね」
 「第二にこれは中国のためにもなります。もし日朝国交樹立への入り口が開けば北朝鮮
 は改革開放政策を進めます。そうなれば中国企業にとっては一大チャンスです」
・陳の表情はそれまでにない真剣味が映った。 
 「仮にですが、もしその情報をあなたに差し上げたとしたら、情報源を守れますか。
 わが国はもとより私個人もまったく関係ないということを誰に対しても保証できますか」
 沢田が宣誓するように右手を上げた。
 「情報源を明かす前に私は刑務所に行きます」
 陳がうなずいた。
 「では明日の午前中まで待ってください。何とか彼女の住所と電話番号が手に入るよう
 努力してみます」
・翌日の昼近くに陳から電話があって雪姫の住所と電話番号を伝えてきた。
 「彼女は日本語はできないのでしょうね」
 「中国語はぺらぺらです。でもわれわれ外交部の通訳をつけるわけにはいきませんから
 自分で捜してください」
・これで雪姫の連絡先はわかった。
 あとは彼女をどう説得して会ってもらうかだ。
 しかしその前にまず通訳を捜さねばならない。 
 日本語ができる中国人の友人もいるが、彼らを使うのもまずい。雪姫が警戒心を起こす
 だろうからだ。
 となると気が進まないがGTBの北京支局に応援を頼むほかはない。
 支局には瀬戸内という中国語が流暢な男がいる。外語大で中国語を専攻し卒業後10年
 以上外務省で働いていたが、その官僚主義と省内派閥に嫌気がさしてGTBに途中入社し
 た変わり種だった。
・挨拶もそこそこに沢田は今回のインタビューについて手短に説明した。
 聞いているうちに瀬戸内顔が紅潮してきた。
 「こりゃ大スクープではないですか!」
 沢田が大きくうなずいた。
 「私の他に知ってるのはこの篠塚とあなただけです。社長も役員も誰もまだ知らない。
 普通の通訳じゃ駄目だという訳がわかるでしょう」
 「それだけ信用していただけで光栄です」 
・部屋の隅にある電話に手を伸ばした。
 瀬戸内が受話器を耳から離して沢田に、
 「切れてしまいました」
 「彼女だったのですか?」
 「ええ、姜敬愛さんですかと聞いたらそうだと言ってましたから。こちらの名前を言っ
 たら切ってしまったんです。もう一度かけましょうか?」
 「彼女が話し返すまで何度でもかけてください」
 二度目、三度目もやはり彼女は切ってしまった。
 「こりゃすごい拒否反応ですね」
 沢田が少し考えてから、
 「仕方がない。直接行ってみましょう」
・彼女の住まいは、北京市のどこにでもあるような雑然とした地区だが、一軒家が多く共
 産党幹部たちの多くが住んでいる地区である。
 あちこちの家の前に武装警察官の姿が見える。
 大道から少し入ったところに彼女の家があった。
 住まいの前には警官の姿は見えない。
・軍情報部の曽大佐が前もって警官たちに姿を消すように命じていたのを沢田は知るわけ
 もなかった。
 亡命からもう10年近く経っているためだろうぐらい思っていた。
・頑丈そうなドアをノックした。
 しばらくするとドアが中から開いた。
 「ニーハオ・・・」
 瀬戸内の言葉に彼女が不安そうにうなずいて何やら言った。
 沢田は思わず息を呑んだ。
 美しいなどという言葉は月並みすぎる。
 くきいりと彫りの深い顔とミルクのような肌。それに声の甘美さ。
 呉少佐が彼女を女神と表現したが、こうして見ると決して大袈裟な言葉ではなかった。
 その名の通りまさにまっさらな雪から生まれた姫だ。
・「さきほど電話した者です。ちょっとお話を伺いたいのです」
 彼女がなにやら言いながらドアを閉めようとした。沢田が片足を突っ込んだ。
 「決して怪しい者ではありません。あなたにお会いするだけのために日本からやってき
 たのです。ちょっとでもいいんです」
・「用件は何かと聞いてます」
 「あなたの愛した金正日氏について教えてもらいたいことがある、と言ってください」
 それを聞くと彼女の表情がやや和らいだ。
 瀬戸内がフォローの説明をした。
 彼自身必死になっているのが窺える。
 これまで沢田が利いたこともない早口の中国語になっていた。
・彼女が仕方ないといった表情でドアを大きく開いた。
 瀬戸内は小さな声で、
 「まずは第一関門突破です」
・入ったところが今の造りになっているがそれほどスペースはない。
 6畳ぐらいのところに絨毯が敷かれソファとチェアが3つおいてあるだけ。
 あとは部屋のコーナーに小さなテーブルがあり、その絵ウニかなりの年代物に見える瓶
 が置かれている。
・沢田が訪問の理由を説明した。
 北朝鮮で取材を行ったこと。そのとき彼女の存在について知ったこと。李鶴秀大将をは
 じめとするいろいろな人々とのインタビューを行ったことなどをかいつまんで話した。
 しかし、金正日にインタビューしたことは話さなかった。
・その間彼女は無表情で聞いていた。彼が説明し終えると彼女は言った。
 「私がここにいるのをどうして知ったのでしょうか?」
 「われわれのネットワークを駆使して調査した結果です」
 「共和国のだれかが教えたということではないのですね?」
 「正直言って懸命に探り出そうとしましたが誰も知りませんでした。中国も同じです。
 誓って言いますがあなたにたどりつけたのは、われわれの賢明な独自調査のたまもので
 す」
・雪姫が沢田を見据えた。
 地中海の真珠のような黒い瞳がかすかに笑っていた。
 うそを見抜いているのかもしれない。
 沢田は目を思わずそらした。
 何か言わねばこのまま断れると思った。
・「そうそう、あなたの友人である徐星姫さんがあなたがお元気でいることを祈っている
 と言ってましたよ」
 彼女の目が一瞬輝いた・
 「あの人はまだ宮殿に?」
 「いえ、現在は護衛部の将校となっています」
 「懐かしい人です。私たちは姉妹同然でしたから。あの人は度々宮殿内でのいじけから
 私をかばってもくれました。同じことをしてあげられなかったのが残念です」
 「さきほども説明しましたが今回の番組はあなたの祖国を日本人がよく理解するための
 ものです。理解があれば親しみが湧きます。そうすれば日本人は国民の同意のもと多大
 な経済援助を共和国に注ぐことになります。結果としてあなたの祖国と国民は現在の窮
 状から救われることになります。それが番組の趣旨です。決して興味本位ではありませ
 ん」
 彼女は黙ったままうなずいた。
・「録音とカメラの許可をしてほしいとおっしゃるのですね?」
 「よろしいでしょうか?」
 迷いを吹っ切るように彼女が大きくうなずいた。
 「いいでしょう」
 「ただしこの場所は明かさないと約束してください。中国とわかってしまうこともなり
 ません」 
 「私の良心と日本人の名誉にかけて絶対に明かしません」
・「ここにおひとりでお住まいなのですか?」
 「ええ、祖国を出てからずっとひとりです」
 「でも失礼ですが、あなたほどの方なら周囲が放っておかないでしょう」
・彼女が沢田を睨みつけるように見た。
 「放っておくとかおかないとかという問題ではないでしょう。私は自分の意志を持った
 ひとりの人間です。私にも選択権はあります」
・沢田が頭を下げた。
 「おしゃるとおりです。愚かな質問でした。お許しください」
 「それに」
 と言って彼女が沢田から目を離した。遠くを見つめているようなまなざしに変わった。
 「私には命をかけて愛した人がいます。永遠の愛を捧げるのにふさわしい人でした」
 「しかしあなたは彼のもとを去った。私が一番知りたいのはその点です。なぜあなたが
 共和国を去ったのか。あなたは金正日氏を愛し、彼もあなたを愛していた。なのになぜ
 です?」 
 「それに答える前にあなたがどれだけ共和国の歴史をご存知なのか知りたいのですが」
 「一応のことは勉強しているつもりです」
 「私が言う歴史とは人間の歴史です。もっと具体的に言えば金日成主席と金正日総書記
 にまつわる歴史です」
 「主席がかつて中国籍を持っていてソ連軍で働いていたことや金総書記がシベリアで生
 まれたことなどのレベルの話なら知っています」
 「金親子の確執についてはどの程度ご存知ですか?」
 「それについては巣油韓使程度の知識しかありません。主席の晩年2年の間には朝鮮半
 島統一で意見の相違があったぐらいは聞いてます」
 雪姫がわずかに首を振りながら、
 「意見の総意と言ったような生やさしいものでは決してありませんでした。これが結局
 私が金正日の下から離れた理由につながるのです」
・淡々とした調子で彼女が話し始めた。
 彼女がキップムジョの一員となったのは今から12年前。
 金正日は当時50歳、彼女が18歳の時だった。
 彼女は踊り子と歌の分野を専門としていた。
 初めての舞台で歌っているとき金正日の目に止まった。
 翌日から彼女に毎日大きな花束がカードと共に届けられた。
 カードには詩が書かれていたり彼女に対する彼の心中を吐露するようなことがロマンテ
 ィックな文体で書かれていた。 
 ときには首飾りやイヤリングなどのプレゼントが添えられていた。
 そのような状態が2カ月ほど続いた。
 そしてある晩二人は男と女の契りを結んだ。
・彼女が驚かされたのは絶大な権力を握っているわりには金正日が非常にシャイで繊細な
 性格をしているということだった。 
 「あの人は私を大切に扱ってくれました。こわもての金正日どころか実に優しく決して
 命令調で話すことはありませんでした。男に対しては強い面を見せるのですが、女性に
 対してはデリケートでときには目を合わすこともできないほどうぶなところがありまし
 た。その人格は強烈な自意識と劣等感が混ざって形成されていたように私には思えまし
 た」
・あの金正日が劣等感? さわだの怪訝な表情を見て雪姫が続けた。
 「親しくなってまもないころ、あの人が私に笑いながら言ったことがあるのです。自分
 たちはカジモドとエスメラルダの仲だ、と。私にはその意味がわかりませんでした。
 ノートルダム寺院を舞台にした醜男と美女の物語だとあの人は言いました。そして私に
 聞きました。もし自分が金正日でなかったら君は見向きもしないだろう、と。私は答え
 ようがなく黙っていました。するとあの人は言いました。それでもいい。自分は君への
 片思いを貫くだろう。そして非常に真剣なまなざしで私を見てこう言ったのです。愛し
 てくれてありがとう、と」 
・優越感は劣等感の裏返しとよく言われるが、金正日はその典型的な例かもしれない。
 話し方からしてそうだし、腹を出して方で風を切るような歩き方からしてもそうだ。
 しかし、金正日と愛という言葉はどうしても沢田の頭の中で合致しなかった。
 それを察したのか雪姫がニコッと笑って、
 「あの人がそれほどロマンティックとは考えられないと思ってらっしゃるのでしょう。
 でもあの人に関しては世間が知らない部分のほうが多いのです。例えばお母様について
 の思いです」
・生みの母であった「金正淑」に対して抱く彼の感情は非常に深いものがあったという。
 「ある晩2人で話しているとき彼が私に聞きました。母親は生きているか、と。元気に
 していると言うと彼は真剣な面持ちで言いました。母親は大切にしなければならない。
 母親は決して裏切らないし落胆させもしない。この世で君を一番愛してくれるのは母親
 なんだ、と。信じられないほど柔和さに満ちた口調でした。びっくりしたのはあのとき
 彼の目にうっすらと涙が浮かんでいたことです。昔まだ彼が子供のころ亡くなったお母
 さんのことを思い出していたのです。彼は言いました。自分の母親が生き返ってくるな
 ら何もいらない。平凡な一市民の人生でいい。母と共に平凡に生きたい、と。まるで子
 供のような表情でした」
・金正淑は宣伝扇動部によって革命の母として歴史にその名が刻まれ教科書にも書かれて
 いる。しかし彼女がどう死んだかということについては教科書には書かれていない。
 「お母様は病気にお亡くなりになられたのですかと私が聞くと彼は一言心臓麻痺と答え
 ました。そしてこう付け加えたのです。”今なら絶対に母を守ってやられたのに”と。
 典型的なマザー・コンプレックスでした」
・あの将軍様がマザコン?ジョークなら大いに笑える。だが雪姫は笑っていない。
 マザー・コンプレックスは往々にしてファザー・コンプレックスの裏返しである。
 確かに彼にはファザー・コンプレックスもあったと雪姫は語る。
 母親に対しては愛一筋だったのに比べて父親の金日成に対しては愛憎相半ばだったとい
 う。 
 「金日成主席に対しては複雑で歪んだ感情を抱いていました。彼が子どものころ父親は
 母親に対してよく暴力をふるったそうです。そのころからすでに彼の心の中には可哀想
 な母親、残酷な父親という構図が出来上がっていたのだと思います。ある晩酔った彼が
 ”あいつが母を殺したんだ。絶対に許せない”と言ったときはショックでした。彼の目は
 恐ろしいほどの憎しみに光っていました。
 私が宮殿に入ったときは金日成はすでに父親の住む主席宮をすぐに封鎖できるシステム
 を作らせていましたし、主席とその妻である金聖愛との会話を盗聴していました。
 電話ももちろん盗聴されていました。ですから金日成が正面きってぶつかるのは時間の
 問題だったわけです。そしてあの運命の日1994年7月がやってきたのです」
・94年の7月と言えば金日成主席が妙香山の特閣で倒れた日だ。
 「あの頃金正日はお医者さまの勧めもあってお酒の量も減らさざるを得ませんでした。
 そのぶん仕事に精力を注いでいました。すでに主席は引退して実質的に全権力を握って
 いたのは金正日でした。
 しかし毎年繰り返される経済政策の失敗に主席はいらいらしてたびたび口を出していま
 した。あるときなど金正日と私が一緒にいるところへ主席が前触れもなく訪問してきて
 彼の失政を声高になじりました。金正日も負けずに応酬して大ゲンカになり互いの護衛
 部隊が銃を抜いて撃ち合い寸前のところまでいきました。でもそのときは数的に金正日
 の護衛のほうがはるかに多かったために主席のほうが手を引きました」
・2人の考えの差は特に外交問題に表れたという。
 金正日はアメリカに対してあくまで強硬路線を貫く姿勢だったが金日成のほうは柔軟路
 線を主張した。
 また南北統一問題でも2人の考えは違った。
 金日成主席が話し合いで統一の下地をつくるべきとの考えに対して金正日は武力による
 統一に固執。
 そして核開発をめぐって2人の対立は決定的にエスカレートしてしまう。
・「94年の6月アメリカのカーター元大統領が訪朝したとき彼の交渉相手をしたのは金
 日成主席でした。
 あの一事が金正日にもたらした衝撃は計り知れません。彼はいたく傷つき、私の前でお
 酒をあおりながら悔し涙を流していました。親父は間違っている、親父は間違っている
 と何度も言ってました。父親に対して長年抱いてきた憎悪が臨界点に達したのはあのと
 きだと思います。 
 そんな精神状態の中で彼は父親に会うため妙香山に行ったのです。行く直前彼は私に言
 いました。”私に万一のことがあっても決してうろたえてはならない。もし帰って来な
 いような事態になったらできるだけ早く宮殿を離れて男装して中国に向かいなさい。
 生涯愛して女性はきみと母だけだ”と」
 ですから彼が平壌に帰ってきたときは私は心底安堵感を感じました。
 ところで沢田さんは主席が倒れたときの状況について何か情報をお持ちですか?」
 「主席は心臓が悪く心筋梗塞だったと聞いています」
 「それだけですか?」
 「他に何かあったのですか?」
 「これは後になって護衛部の要員から聞いたのですが、あの晩2発の銃声が響いたそう
 なのです。1発は金正日の護衛責任者であった白少佐に対してで彼はその場で息絶えた
 と聞きました。彼を撃ったのは金日成の護衛責任者であった玄英浩という大佐でした。
 しかし2発目は誰が誰に対して撃ったのか謎として残りました。少なくとも私はそれに
 ついて知らされませんでした」
・沢田が身を乗り出した。
 「まさかその2発目が金日成主席に向けられたと?」
 「私も最初はそう思いました。今も言ったように2人の間でそのようなことがいつ起き
 ても不思議ではありませんでしたし、それに金正日はいつも腰に拳銃を携えていました
 から。しかし間もなくその考えは間違ってたと私自身で確認したのです。恐ろしい悟り
 でした」
・平壌に帰ってから金正日はしばらく彼女には会わなかった。
 葬儀委員長としてのかれの忙しさを彼女は十分に理解していた。
 2人が会ったのは葬儀が終わってから10日後だった。
 そのときの彼は憔悴しきっているように見えた。
 あまり口も利かずコニャックをがぶ飲みしていた。
 その夜、彼は呂律がまわらないほど酔って護衛に抱きかかえられて自分の部屋に戻った。
 何かおかしいと彼女は直感的に感じていた。
 確かに疲れ切っているのだろうが、それまでの金正日はいくら酔っぱらっても人に抱き
 かかえられるような醜態は見せなかった。
・それから3日後、再び彼が彼女を訪れた。
 そのときもやはり疲れて見えた。
 やはり心ここにあらずのそわそわした態度だった。
 食事をしながら話をしているうちに雪姫は2人の間に見えない壁のようなものが厳然と
 存在しているのではないかと思いはじめた。
・食後しばらくしてからその疑念は確認に変わった。
 「愛し合っている人間同士には2だけにしかわからないことがいろいろあります。
 そのひとつがベッド・マナーです。あの夜、床を共にしたとき私はまったく知らない人
 に抱かれていると感じました。文字通り肌で感じたのです。姿形は同じでも愛の表現方
 法は騙せません」 
・沢田は息を飲んで彼女の次の言葉を待った。
 「私は生まれて初めて心の底からの恐怖を感じました。金正日にそっくりなのに全然別
 人とベッドを共にしていたのです」
・彼女の言葉に沢田は完全に圧倒された。
 雪姫に会わねばならないと決めたときからこういう話になるとはある程度は予想してい
 た。しかしそれでも彼女の言葉は重すぎる。
 瀬戸内は汗がワイシャツの襟にまで染み込むほどびっしょりになっていた。
・答えがわかっていてもあえて聞いてみたいということがある。
 今の沢田はその気持ちだった。
 「本物の金正日氏はどうなったのですか」
 雪姫はかぶりを振りながら、
 「殺されていました」
 部屋全体に水を撃ったような静寂がただよった。
・雪姫はあくまで冷静な口調だった。
 「妙香山があってからしばらくの間私は愛する金正日が帰ってくるという淡い望みを抱
 いていました。しかし3カ月ほどたったある日、金正日が心から信頼していた呉振宇将
 軍が秘かに私を訪れました。そのとき将軍は言ったのです。自分はこの話を墓場まで持
 っていくつもりだったが、あなたには明かすべきだと思う。あなたには知る資格がある、
 と。そしてこう言いました。7月7日に妙香山で響いたもう1発の銃声は金正日に向け
 られたのだった、と」   
・当然将軍の言葉に彼女は愕然とした。
 あの夜、玄大佐は2発の銃弾を発射したと将軍は断言した。
 ターゲットは金正日と彼の護衛責任者だった白少佐。
・金正日亡き後、軍の実力者たちは影武者を据えて金日成の葬儀責任者にした。
 しかし所詮は影武者。そういう大イベントには慣れていない。
 「ですから当初は7月17日とされていた葬儀が19日に延ばされたのです。国家元首
 の葬儀が一度発表されてから土壇場で延期になるなど世界では前例がないことです。
 影武者にリハーサルをさせ必要なことを彼の頭に叩き込む時間が必要だったのです。
 さらには外国のゲストをいっさい招かなかったというのも、その影武者に外国人との付
 き合いの経験がなかったし、外国のメディアに対して自信がなかったからです」
 「いまおしゃった軍の実力者というのが三虎の会ですか?」
 「よくご存じですね。金正日は常日頃からいつか彼らの牙を抜かねばならないと言って
 ました。あまりに力を得すぎたからです。ですからあの夜の対決は金日成対金正日であ
 ったと同時に金正日対三虎の会の対決でもあったのです」
 「金正日氏を撃ったその大佐はその後どうなったのです」
 「玄英浩大佐は、あの事件後、少将に昇進し、その後は上将となったと聞いています」
 「名前は英浩と言うんですか」
 「ええ、漢字では英雄の英と浩瀚の浩です」
・玄英浩・・・?どこかで聞いた名前だ。
 沢田は必死に記憶の糸をたぐった。
 そうだ!!北朝鮮での取材開始日に外交部の朴次官が靴にした名前だった。
 三虎の会とのインタビューがボツになったとき朴が言った相手の名前が確か玄英浩上将
 だった。
 「平壌で三虎の会のトップと会見するはずだったのですが、彼が急死してしまったので
 す。その人の名前も玄英浩でした」
 「ほぼ間違いなく同一人物でしょう。彼は三虎の会の命令で金正日を殺したのだと思い
 ます。その彼が出世して三虎の会のメンバーになったとしても不思議ではありません」
・沢田は彼女がこれまで行ったことをメンタル・ノートにまとめていた。
 どの部分をとっても大スクープに匹敵する。
 しかしそれを裏付ける何らかの証拠がほしい。
 それを言うと彼女がとなりの部屋から分厚いアルバム張を持ってきた。
 中には2人の写真が埋まっていた。金正日はほとんどの写真で笑っている。
 幸せなカップルという感じだ。
 沢田が篠塚に5ページぐらいをアップで撮るよう指示した。
・偽の金日成が北朝鮮という国家の創設者となり、その息子の金正日が権力を世襲した。
 金日成には正当性も合法性もなかった。
 その息子、金正日とて同じである。
 いわば親子2代にわたる騙りだった。
 そして金正日はその騙りの人生半ばにして影武者にとって代わられた。
 騙りが騙りにやられたのである。これ以上の皮肉はない。  
・雪姫の次の言葉が沢田を再び驚愕させた。
 「たぶんあの偽者は金正日が抱えてた3人の影武者の1人だったと思います。しかし、
 人間の性とは恐ろしいものです。その影武者は本物の金正日として振る舞い始めたので
 すから。もちろん彼の後ろには三虎の会の力がありました。彼を使って三虎は共和国の
 実権を完全に握ったのです。でも宮殿内では影武者が日を追うごとに独裁的に振る舞う
 ようになりました。権力にたっぷり浸っていると、その心地よさに負けてしまうものな
 のですね」
・「金正日氏はよく言語障害になると聞いていましたが?」
 とどめの答えが返ってきた。
 「それは偽者の方です。本物は言語障害になったりはしません」
 「あなたがこちらに亡命したのは妙香山の件から6カ月後の95年1月だったですよね」
 「なぜそんなに時間をかけたのかとお聞きになりたいのでしょう。答えは単純です。
 監視が厳しくて逃げるに逃げられなかったのです」
 「ではその間ずっとあの”金正日”と一緒に?」
 「恐ろしいことでしたがどうしようもありませんでした。唯一の救いは金正日のように
 ほとんど毎晩私に会いには来なかったということです」
 「あなたがにげた1カ月後に呉振宇将軍が亡くなりましたね」
 「三虎にやられたと思っています。本当に気の毒でした」
 「本物と偽物の決定的な違いのようなものはありますか」
 「外形的にはかつらぐらいでしょう。金正日はかつらを使用していいませんでしたが、
 偽者はつけています。そのほかにはほとんど違いといったものはありません。
 しかし内面的なものは全然違います。私の愛した金正日は紳士でした。
 でも偽者の方は言葉遣いは荒っぽくおよそ優しさとは縁がなく、一言でいえば人間とし
 てのレベルが低いのです」
・育った環境も大きく影響したのだろうが本物の金正日はかなり複雑なパーソナリティを
 持っていたようだ。
 雪姫に対してはこよなくやさしく知的かつロマンティックな人物だった。
 しかし数々のテロや日本人拉致などを命じた残酷な面を兼ね備えた人物でもあった。
・その点を沢田が挙げると、
 「彼はそれらの行為をやらせたことを認めていました。共和国のためにやったというの
 が理由でした。でもそうではなかったと私にはわかっています。本当の理由はテロや拉
 致に父親が反対したからです。主席が反対することはやるという歪んだ気持ちが行動と
 なって表れたのです。そこまであの父子の関係は曲がり切ってしまっていたのです」
 「あの人は一国の指導者というより複雑な家庭環境に育った不幸な人間といったほうが
 いいでしょう。成長しきれなかった大きな坊やだったのです。それが共和国の政治にも
 ろに反映されていました。国家の指導者としてはスケールが小さすぎました。でもその
 スケールの小さい金正日のほうがはるかに素敵でした。今でも私が愛しているのはお母
 さんのことについて涙ながらに話したあのときの金正日です」

第十一章
・ホテルへの帰り道の途中でGTB支社に瀬戸内をおろした。
 「ああそうそう。瀬月内さんは確か外務省出身だったですよね」
 「10年ばかり籍を置いていましたが、それが何か?」
 「池山審議官をご存知ですか?」
 「もちろんです。大先輩ですから」
 「甘えのついでにもうひとつ頼まれてくれませんか?」
・「実は先日の北朝鮮取材でまだ名前が知られていない拉致被害者に会ってインタビュー
 をしたのです」
 「私が会ったのは5人でしたがもっと多くいるらしいんです」
 「でも彼らのみの安全を考えてしばらく放映できないんです。北朝鮮側は日本外務省が
 それについて正式に要請してきたら彼らを日本に返してもいいと言っているのです。
 そこで私はうちの社長に頼んで池山さんに話をもっていってもらったのですがどうも消
 極的らしいのです」 
 「池山さんが消極的だったと言われるんですか?」
 「消極的というよりまったく興味を示さなかったというのです」
 「それはおかしいですね」
 瀬戸内が頭をひねった。
 「池山さんは外務省ではめずらしい人道第一主義者です。拉致問題解決なくして国交正
 常化などもってのほかといつも言っています。おっしゃったような話なら飛びついてく
 るはずです。
 なんらかのコミュニケーション・ギャップがあったのではないでしょうか?」
 それならいいんですが、いずれにしても池山さんに問い合わせてみていただけませんか」
 「お安い御用です。早速審議官に聞いてみます」
・ホテルに帰ってから約30分後、瀬戸内から電話が入った。
 「沢田さん、いま池山さんと話したのですが、ちょっと話がおかしいんです」
 「おかしいとは?」
 「池山さんは新たな拉致被害者についての話は、いっさい聞いていないと言うんです。
 そんな話が本当にあるのかと逆に問い詰められました」
 「そんなばかな!うちの社長がつい先日電話で話したはずなのに」
 「それについても池山さんは否定していました。川崎社長とはこの半年まったく話して
 いないと言うのです。池山さんがウソをつく理由などないと思うのですが」
 「こりゃコミュニケーション・ギャップなんてものじゃなさそうですね」
・すぐに東京の中山を呼び出し、彼が北京に出発する前に頼んでおいたことをやったかど
 うか尋ねた。  
 恐れていた答えが返ってきた。
 「外務省に持っていくことはないと社長に言われたんです。強制的でした。しかもあの
 拉致被害者の映像を番組にぜひ加えるようにと言われました。いまその作業をしている
 ところなんです」
 「それは絶対にだめだ!おれはあの人たちに約束したんだ。もし北朝鮮で何かドラステ
 ィックなことが起きたら、あの人たちに大きな災害がふりかかる。そのドラスティック
 なことが起きようとしているんだ!」
 「どういうことです?」
 「雪姫だよ」
 「雪姫?まさか局長は彼女に・・・?」
 「何のためにおれが北京くんだりまで来たと思う。彼女に会ってインタビューもした。
 これが世に出たらいまの金正日体制は間違いなくぶっ飛ぶ。そして北朝鮮には新たな体
 制が打ち建てられる」
 「番組自体作り直しだ。おれは明日一番の便で東京に帰る。それまでは何もするな。
 そしてこのことに関しては誰にも言うな。いいな」
・はらわたが煮えくり返る思いがした。
 川崎は池山に話していなかった。
 最初からそのつもりなどなかったのだ。
 そういえば拉致被害者について平壌から電話したとき彼は放映してから彼らに事後連絡
 をすればいいなどと言っていた。拉致被害者の立場がどうなるかなど川崎にとっては大
 した問題ではないのだろう。視聴率があがってスポンサーの覚えがめでたければすべて
 は正当化されると考えているのだ。 
 しかしこの件に関しては妥協するわけにはいかない。拉致被害者のひとり新川という女
 性が言った言葉が沢田の脳裏に鮮明に焼き付いていた。”私たちの命がかかっていると
 考えてください”。被害者たちはすでに十分すぎるほど苦しんでききた。どんな理由が
 あるにせよ彼らをこれ以上苦しめる権利は誰にもない。社長とぶつかってでも彼らの映
 像の放映をとめなければならないと沢田は決心していた。
 
(東京)
・「何だ!これは!」
 中山とディレクターの加藤が昨日の午後から一晩かけて編集し直した「共和国最後の真
 実」の一部だった。そこには平壌で会った拉致被害者たちの映像や沢田と彼らのやりと
 りなどが映っていた。
 「あの人たちを殺すつもりか!彼らの言ったことをお前たちも聞いているはずだろう!」
 「仕方なかったんですよ。社長の命令でしたので」
 「馬鹿野郎!従うべき命令と従っちゃならぬ命令というものがあるんだ!この場合は決
 して従ってはならない命令なんだ!」
・「まったく情けない奴らだ」
 しかし沢田は本心から2人を責めることはできないと思った。
 所詮彼らはサラリーマンだ。
 社長にたてついてまで人との約束を守ったり、事故の信念を貫くようなことはしないし、
 それをしようにもできない。
 会社はいつでもリストラという名目で駒を捨てられるのだ。
・「とにかくそのバージョンは破棄しろ」
 「でも社長に持って行くことになってるのです」
 「じゃおあれが持って行こう。お前たちは番組をチェンジする準備を進めてくれ。まず
 1発目は”金正日”のインタビューと雪姫とのインタビューでいく。メイン・タイトルは
 これまでどおり「共和国最後の真実」、サブは”金王朝は既に崩壊していた。その真実
 に迫る”だ」  
・社長の川崎は外務省の池山とは話していなかったこともあっさりと認めた。
 「あれだけの話を外務省になど持って行くはもったいなさすぎる。報道のGTBならで
 はのスクープじゃないか」
 「レベルの違う話です。もし拉致被害者たちに害がおよんだら、社長が責任を取れます
 か?」
 「害とはどういう「意味かね?」
 「先日も行ったようにあの国は何が起きてもおかしくないんです。それを拉致被害者た
 ちは心配してるんです。例えばの話、明日金正日政権が崩壊したとしても不思議じゃな
 いんです。そうなったらあの国には一時的にですが法も秩序もなくなります。もし日本
 のテレビに拉致被害者の映像が映ったら、彼らは確実に暴徒化した民衆に襲われます」
 「馬鹿馬鹿しい!そんなことが起こるはずないじゃないか」
 「起こらないという保証はどこにあります?」
 「現状からして起こる確率は万にひとつもないだろうよ」
 「そう軽々しく判断されちゃ困ります」
 「人の命がかかってるんです」
 「そんなことはわかっとる!」
 「いや社長にはわかっていません。北朝鮮ではこれから大変安ことが起こる可能性が高
 いのです」
 「何を根拠にそんなことが言えるんだ?」
 「私がなぜ北京に行ってきたと思います」
 「ある人間に会ってきたんです。番組の中で元キップムジョだった徐星姫という人が語
 っていた本名姜敬愛、またの名が雪姫です。かの金正日と相思相愛の仲だった女性です」
・川崎の目が大きく開いた。
 「それは本当か?」
 「インタビューに応じてくれのです。彼女の話を聞いたら腰を抜かすほどショックを受
 けること間違いありません。彼女のインタビューを最初に持ってくるよういま中山君に
 指示を与えたところです」
 「だが時間がない。放映開始は来週の初めだ」
 「大丈夫、間に合わせます」
 「これは役員会に諮った方がいいな。その雪姫という女性とのインタビューを皆に見せ
 てくれ」
 「わかりました」
 「ところで彼女の話のポイントは何なんだ?」
 「いま北朝鮮で将軍様と呼ばれている金正日は偽者です」
 「な、ななんだと・・・!?」
 「本物は10年前に死んでいます」
 川崎がぽかんと口を開けたまま沢田を見つめた。
 かなりしまりのない顔だ。
 何か言おうとしているようだが言葉が出ない。
 「ダイナマイトですよ、社長。乞うご期待です」
 言い残した沢田が社長室をあとにした。
 
(北京)
・共産党中方情報部の工作員張海寛は早めの昼食を終えて自室に戻ってきた。
 軍情報部の曽元生大佐と外交部特別局副局長の陳安家と共に進めてきた”なだれ作戦”
 は計画通り進んでいる。
 しかし決して楽観はできない。
 何しろ舞台は北朝鮮だ。不確実な要素はいくらでもある。
 その最たる要素は力のある軍人が予期しない動きに出る可能性だ。
 その有力な軍人の中でも最も注意を払わなくてはならないのは李鶴秀大将である。
 彼は一応生粋の軍人で政治的には中立と言われてはいるが状況次第では簡単に変わると
 考えておかねばならない。
・机の上の電話が鳴った。
 呉在京少佐の太い声が響いてきた。
 「仕上げのほうはうまくいったのでしょうか?」
 「沢田は完全にはまったよ。あとは番組の放映を待つだけだ。”将軍様”の寿命もそう長
 くはないだろうよ」
 「彼の逮捕は私自身でやります」
 「李大将は大丈夫なんだろうな。彼も所詮は生身の人間だ。情勢次第ではどっちにもつ
 くということを忘れてはならない」
 「彼はすでにわれわれのみこしに乗りました。こちらの思いどおりに動くはずです」
 「しかし万一ということも考えられる。もし寝返るようなことがあったら即始末できる
 用意はしておいたほうがいい。もし彼が”将軍様”のほうについたら作戦は失敗するから
 な」
 「彼の姿勢はまだ半分半分と私は思っているんだ。おいしい餌をぶらさげられたら心変
 わりもする。権力の無力とは恐ろしいものなんだ」
 少佐はちょっと間をおいて、
 「大将に限ってそんなことはありません。彼は本物の軍人です」
・「それより私が心配しているのは沢田の番組内容なんです。われわれの狙い通りにいく
 でしょうか」 
 「それは君のほうがよく知っているはずだ。君は沢田の2週間もつきあったんだからな」
 「彼は雪姫について非常に興味を持っていましたから常識で考えれば当然番組の核にす
 ると思います」
 「私もそう思う。雪姫無しに番組は作り得ない。だからこそそのことについては心配い
 らん。いったん流されたら世界中のマスコミが注目する。それだけで将軍様は信用度ゼ
 ロとなる。間髪を入れずに君たちが立ち上がる。唯一の危険要素は今も言ったように李
 大将の出方だけだ。しかし君は彼を制御できると断言している。ならばすべてはシナリ
 オ通りに進んでいると言ってもいいだろう」
・次に張は軍情報部の曽大佐に電話した。
 「大佐、今”山猫”から連絡がありました」
 「何か緊急事態でも?」
 「いえ、ただ大事を前にして神経質になっているだけです」
 「神経質になるなというほうが無理でしょう。なにしろ国家の指導者をひっくりかえす
 のですからね」 
 「人民解放軍の準備はできてますね」
 「瀋陽軍管区からいつでも中朝国境に展開できます」
 「50万全員が瀋陽軍管区からですか?」
 「心配なく。ぎりぎりまで動かしません」
 
(東京)
・役員たちの目は会議室の巨大な画面に映る雪姫とインタビュー・シーンに張り付けられ
 ていた。
 その美しい顔と声は他に類を見ないほどの存在感をもたらす。
 しかし役員たちを圧倒したのは淡々とした口調で語られる話の内容だった。
・45分のインタビューが終わったとき誰からともなくため息が聞こえた。
 上座にすわった社長の川崎がみなに見回した。
 「どう思う?」
 例によってだれも口を開かない。
 社長の反応を聞いてからというパターンを相変わらず守っている。
 「これは重要なことなんだ」
 川崎がいらついた口調で言った。
 「忌憚のない意見を言いなさい。石井君、君はどう思う?」
 「すごい話だと思います」
 「すごいとはどういう意味だ?」
 「彼女の話の内容です」
・他の役員たちは川崎の顔を見据えていた。
 彼がどう考えているのかを必死に探ろうとしているのだ。 
 「番組に使うべきと思うかね?」
 「使ってもいいし使わなくてもいいと思います」
 「どっちなんだ!」
 副社長の石井が言葉に詰まった。
・「三枝君、きみはどう思う?」
 専務の三枝がぴくりと体を動かした。
 「私も副社長に賛成です」
 「松山君、君は?」
 「副社長の言うとおりだと思います」
・「社長」
 沢田が言った。
 「こんなことをしていても意味がありません。重要なのは社長がどう考えているかです。
 ご意見をお聞かせください」
・「この話はまともなんだろうね?」
 「超まともです。私の命にかけた」
 川崎が沢田を見つめながら何度もうなずいた  
 「社長、これはマグニチュードも計れないほどの話です。いいですか。わが国の総理は
 二度も北朝鮮に行って二度も偽者の金正日に会っていたんです。その前はクリントン時
 代の国務長官マデレン・オルブライト、それにアジアやヨーロッパの首脳たちもみな偽
 者と話し合っていたのです」
 「もし放映されたら彼らが笑い者にされるのは間違いないな。特にわが国の綜理などは
 共同宣言にまで署名してしまったんだから」
 「その点で言えばヨーロッパの国々だって北との国交樹立にサインしたのですから同じ
 ようなものです。問題は北朝鮮という国はこの10年間、偽者の金正日を指導者として
 崇めてきた。そしてその偽者は軍の強硬派であった三虎の会の操られていた人形だった。
 だから拉致問題だって満足に解放されなかったんです。金正日はわが国の総理に対して
 拉致問題について明日にも解決できるようなことを言ったがフォローできなかった。
 なぜなら三虎の会がそれに反対したからです。一人では何も決められなかったのです。
 そのような国が存在するという事実を世界に知らしめるだけでも非常に意味があること
 だと思います」
 「初めて日本のマスコミから世界に向けた大ニュースが発表されるのです。激震が走る
 のは間違いありません」
・「ちょっと待て。君の熱心さに水を差すわけではないが、もし雪姫とのインタビューが
 放映されたらどのような結果になるだろうか?」
 「と言いますと?」
 「北朝鮮はどうなると思う?」
 「結果については2つ考えられます」
 「まず第一は放映されたら間違いなく世界のマスコミの目にとまります。地球がひっく
 り返る騒ぎになると言っても過言ではないと思います。
 金正日は当然危機感を感じてカウンターを打とうとするでしょう。
 まず今まで自分を守ってくれた三虎の会の代わりとなるものを見つけようとするはずで
 す。すでにもうそれを始めているでしょう。たぶん軍の強硬派の実力者に権力をオフ
 ァーする。見返りとして自分の身を守ってもらう。
 第二に考えられるのは金正日が動く前に軍や国家保衛部の若手が立ち上がって現政権を
 ひっくり返すというシナリオです。
 私が知り合いになった保衛部の少佐はこのシナリオを考えているのだと思います。
 これは個人的な考えですが、三虎の会のメンバーを消したのはその少佐だったと確信し
 ています」
・「ということは、もし雪姫とのインタビューが世に出たらどっちにしても北朝鮮は混乱
 に陥るということだな」
 「そういうことになりますね。私としては第二のシナリオのほうがずっと現実味は大き
 いと思います」
・「しかしあの国に混乱がもたらされることに違いはない。そうだな?」
 「ですから拉致被害者のことは番組には出すべきではないと言ったのがおわかりでしょ
 う」
・うーんと言って川崎はちょっと考え込んだ。
・「社長、雪姫とのインタビューは絶対に放映すべきです。そうすればあの国をまともな
 国家にできるのです」
 「君は簡単に言うがわれわれは十字軍ではない。一国を混乱に陥れることになるんだよ」
 「ですからそれは一時的です。社長もおっしゃてたじゃないですか。わがGTBが日韓
 関係の歴史の一ページを作ることになるかもしれない、と。今がそのチャンスです」
・「しかしわが社がトラブルに巻き込まれることは必至と考えねばならんだろう。
 なにしろこれかで世界が認めてきた一国のリーダーを偽者だと烙印を押すのだ。
 前代未聞、空前絶後の話だ」
 「だからこそ価値があるんです。一生マスコミで働いていてもこれだけの話に巡り会え
 るものじゃありません。報道人冥利につきる話じゃないですか」
・川崎が首を振った。
 「だめだな。われわれはテレビ局であって世界を変える使命を持ったモラリストじゃな
 い。それにそんなことをしたら不必要なトラブルを招いているようなものだ。朝鮮総連
 はぎゃあぎゃあ言ってくるだろうし、国会では野党が騒ぐだろう。私と君が喚問される
 ことだってあり得る」  
 「しかしメリットを考えれば、そんなトラブルなどどうってことはありません。あの国
 が変われば拉致被害者は自由に帰ってくれるんです。日本のマスコミが入って行っても
 もっと多くの拉致被害者を捜すことだって可能になります。
 さらには核の問題でも冷静に話し合いができるようになります。ということは東アジア
 に真の安定がもたらされるということではないですか。これこそ歴史を作ることになる
 んです」
・「だが今回のバング期の趣旨とはだいぶかけ離れてしまっている。番組の第一の目的は
 日本人に北朝鮮という国を理解させることによって日朝間に友好関係をもたらすという
 ものだった。だが雪姫とのインタビューを放映するということはその目的を真っ向から
 否定することになる」
 「しかしそれをしないと本当の日朝関係なんてやってきません。相手のリーダーが偽者
 なのにどうやって本物の関係を築けるんです?」
・「それは政治の問題だ。われわれはマスコミだ」
 沢田が信じられないと言った顔つきで川崎を見つけた。
 確実に世界を驚嘆させる話が手元にあるのに、川崎はそれを捨てようとしているのだ。
 それもくだらない理由でだ。
 「政治は関係ありませんよ。マスコミに生きる人間の責任はどうなんです。今できてる
 番組をあのまま流したら、われわれは視聴者にうそをついてることになるんじゃないで
 すか」 
・「いやそれは違う。真実は語ってないが、だからといってうそはついていない。北朝鮮
 の現実の姿を伝えているだけだ」
 「それは詭弁というものでしょう」
・「ときには真実というものは大きなダメージをもたらすのだ。このケースでは北朝鮮に
 大混乱が起きるということだ。それを起こさせないようにすることが私なりに考える責
 任あるマスコミだ」
 「ですから今も言ったように混乱は一時的です。その混乱のあとどういう政権が生まれ
 るかは未知数かもしれませんが、偽者に支配されているよりは、はるかにまともな国に
 なります。台風のあとには必ず空気がきれいになります」
・「私の考えは変わらんよ。視聴者だってそんな真実は見たくも聞きたくもないはずだ。
 視聴者が知らない方がいいということもあるんだ」
・なんという傲慢さだろう。
 政治家よりたちが悪い。
 政治家はそれほど信用されていないが、テレビは絶大な影響力があるのだ。
・沢田は黙ったまま考え込んでいた。
 「やっと私の言ってることに納得したようだな」
 沢田がゆっくりかぶりを振った。
 「不思議に思っていたんです。世紀のストーリーを手元に持ちながら説得力のない理由
 をつけてそれをボツにするマスコミ人がいるなんて。しかもその人物が大ネットワーク
 のトップに君臨している。マスコミ人の魂と志をどこに捨ててきたんです」
・川崎の目が獰猛性を帯びた。
 「君は私の忍耐力を試しているのか?」
  「正論を言っているだけです」
・「私の方針は決まった。雪姫とのインタビューは番組には使わないこととする。だが、
 民主主義を標榜する私としては一応みなお考えも知りたい」
 川崎が役員たちを見回した。
 「当社は雪姫とのインタビューには関係しないというのが私の姿勢だ。諸君はどう思う
 か。私の考えに賛成の者は挙手してほしい」
 沢田以外は全員が手を挙げた。
 「多数決で決まりとする」
・沢田は目の前で展開されていることが信じられなかった。
 川崎が勝ち誇ったような表情で沢田を見据えた。
 「異論はないな」
・すでに沢田はまったく別のことを考えていた。
 「確認したいのですが本当に雪姫のインタビューは放棄するんですね?」
 「触らぬ神にたたりなしだ。フィルムは処分しなさい」
 「拉致被害者の映像はどうなるのです?」
 「それについては君の考えを尊重しよう。雪姫とのインタビューをボツにするのと交換
 条件だ。これで文句はあるまい。ほかに言いたいことはあるのか」
 「言いたいことだらけですがやめときます。これだけの話の価値が見えぬ人にこれ以上
 話しても無駄でしょうから」
・「価値云々の問題ではない。今の日韓関係を無駄に刺激するようなことがあってはなら
 ないのだ」
 「無駄に刺激するですって?北朝鮮は何度こっちを刺激してきましたか。しかもその指
 導者は偽者なのに。”報道のGTB”の看板は降ろしたほうがいいですね」
・「念のために言っとくが君は当社の役員だ。しかもただの取締役ではない。常務なのだ。
 だから会議で決まったことには従ってもらう。いいな?」
・なるほどそういうことだったのか。
 「これでわかりましたよ」
 「どうも話がうますぎると思いました」
 「何が?」
 「常務昇進の話ですよ。私を役員にすればコントロールしやすい。なぜ私が平壌にい
 るときに常務昇進の話を決めたのです」  
・「まつが悪くて言えないんでしょう。ならば私が言いましょう。あなたは拉致被害者に
 ついて私の話を聞いたときから彼らの映像を番組に加えたかったんだ。あのとき私は拉
 致被害者たちの身の安全のためにすぐには彼らの映像は流せないと言った。するとあな
 たは言った。”なぜだ! こんなおいしい話はないぞ”と。あのときあなたの腹は決ま
 っていた。だから外務省の池山審議官に話を持っていかなかった。私には池山氏に話し
 たが断られたとぬけぬけと言いましたね。
 だがそれでも私が絶対に反対すると知っていた。だから前もって私を役員のポストに突
 っ込んだ。カゴの鳥にしてうむを言わせぬようにした。私も随分と軽く見られたもので
 す」
 「君には実欲も実績もあった。ただひとつの欠点は協調性がないことだ。もし責任ある
 ポストを与えれば少しは協調性を持つだろうと思ったんだがね」
・沢田は腹の底から怒りが燃え上がるのを感じていた。これでダムは決壊した。後戻りは
 きかない。 
 「ポストをと金を与えれば人はどうにでもなると思ったら大間違いです。そういうのが
 生理的に嫌いな人間もいるんです」
・沢田が居並ぶ役員たちを見ながら、
 「あなたがたはなんと情けいない連中なんだ。まるで羊だ。しかも去勢された羊だ。
 自分の意見も言えずにボスの顔色ばかりうかがっている。ボスはお山の大将よろしくた
 だいばっている。いばるだけの資格があればいい。だがそのボスは世界一のダイヤモン
 ドを目の前にぶら下げられてもその価値が見えない。見えるはただ視聴率だけだ」
・「きみ!」
 川崎のトーンが3オクターブほど上がった。
 「君を常務にしたのは間違いだったようだ。これから君の処遇について改めて役員会で
 諮ることになるだろう」
 「その必要はありませ女、川崎さん」
 妻の裕子の顔がちらっと浮かんだ。しかしためらいはなかった。
 「辞表は明日総務に送りますから」
 「辞めてこれからどうするつもりだ!」
 「まともな人間の集団に戻るんです」
・自室に戻って持ち物の整理を始めた。
 中山が入ってきた。
 「拉致被害者の件ですが結局どうなったんです」
 「あの映像はボツになったよ。コピーはおれが池山さんに送る」
 「じゃ番組は雪姫中心で作り直しですね」
 「いやあれもボツだ」
 「何かあったんですね」
 「辞めたんだ」
 「組織には向いてないとずっと思っていたんで潮時だよ」  
 「これからどうするんです。もちろん沢田さんのことだから行く先には困らないでしょ
 うが」
 「さあね。久しぶりに休暇でもとって世界の遺跡めぐりでもしてくるかな」
・沢田の携帯が鳴った。
 「朴容淳です」
 「番組の方の進み具合はいかがですか?」
 沢田はちょっと言葉に詰まった。
 まさか会社を辞めたばかりとは言えない。 
 「できあがりはなかなかのものだと思います」
 「放映前に見るわけにはいきませんか?」
 「それはちょっと」
 「でしょうね。しかし雪姫とのインタビューはうまくいったのでしょうね?」
 「ええ、すばらしい女性でした」
 「それはよかった。いよいよ事実の瞬間がやってくるんですね。またいつでも平壌にい
 らっしゃってください」
・電話を切ってから沢田はあっと思った。
 朴は雪姫とのインタビューについて尋ねた。
 だがどうやってそれを知ったのだろうか?
 真実の瞬間がやってくるとはいったいどういう意味なのか・・・?
・自分が雪姫と会ったことを知っているのは中国外交部の陳安家だけのはずだ。
 確かに北の取材で雪姫の話は出た。
 しかし朴を初め北側では誰ひとり沢田が北京に行ったことさえ知らないはずだ。
 それを朴はどうやって知ったのだろうか?
・社内から漏れたとは考えられない。
 役員たちさえ雪姫についてはさっき知ったばかりなのだ。
・篠塚や北京支局の瀬戸内からも漏れるはずはない。
 とすると中国外交部の陳安家の線か?
 だが雪姫に関しては中国が北朝鮮に一歩も譲らなかったと国家保衛部の呉少佐はこぼし
 ていた。
 ”鮮血に染まった友情”が聞いてあきれるとも言っていた。
・あのとき自分が雪姫に会えないのが残念だと言ったとき少佐は縁の問題だからわからな
 いと笑った。 
 それに少佐は雪姫について、こっちの興味をそそることばかり話していた。
 こっちに彼女を捜せと勧めているように受け取れなくもなかった。
 こちらの好奇心に火をつけて、あとは成り行きに任せると考えていたのだろうか。
 だがそれでは不十分だ。
 第一、北京に雪姫がいるとわかってもこっちには彼女に近づくための確実なコネや手立
 てはなかった。
 唯一のロープがあるとすればそれは陳安家だけである。
・ここまで考えたとき沢田は全身が総毛立つ感じがした。
 これまでのことがスロービデオのように脳裏をかすめていった。
 今回の取材で肝心なときには必ずリード役がいた。
 まずもと朝鮮総連の幹部だった安永民からのアプローチ。
 彼は自由取材と金正日とのインタビューを約束した。
 次に北朝鮮外交部の朴次官は元キップムジョ徐星姫との会見をセットした。
 もったいぶってはいたが、もしこっちがあの会見を申し込まなかったら朴がどうにかこ
 っちをその方向に引っ張って行ったろう。
 彼があの会見をセット・アップした理由は唯ひとつ。
 雪姫の存在をこっちに知らせるためだった。
 こっちは当然興味を持った。
 そして呉少佐がさらにこっちの興味を増長させた。
・そして北京の陳安家。彼ももったいぶってはいたが、結局はこちらの頼みを聞き入れた。
 考えてみれば簡単すぎた。
 国家機密をこっちのわずかな説得でばらしてしまったのである。
 彼がそれをできたのは中国外交部が後ろにいたからだ。
 関係者がみなリード役だったのだ。 
・こう考えると、自分は操り人形のように彼らの思いのままに動いた。
 彼らから見たらおもしろくてしようがなかったろう。
 取材の間ずっと感じていた泥沼にはまり込んでいく思いとは、これだったかもしれない。
 しかし、これはあくまで推論の域を出ない。
 真実を確かめるためには今回の取材に関係したものと直接話をするしかない。
・沢田は携帯を取り出して安永民を呼び出した。
 ストレートに聞いても安が素直にはなすわけがないことは知っていた。
 ここはブラッフで揺さぶるしかない。
「いやあ、今回の仕掛けは見事でしたよ」
 安が怪訝な表情で、
 「仕掛ですって?何のことです?」
 「またまた、しらばっくれることはありませんよ。ネタはもう割れているんですから」
 「本当に何をおっちゃっているのやら・・・」
 「取材の裏にあるシナリオですよ」
 「何のシナリオですか?」
 「国家保衛部、軍、外交部などが協力して作り上げたいいシナリオのドラマでした」
・安の表情が急変した。
 それかでの穏やかさが消えてある種のパニックが走った。
 「それに中国までからんできた。感心しましたよ」
 「・・・朴さんが明かしたのですか?」
・どんぴしゃり!ひっかかった。
 「ソースはいろいろありますから」
 「そうですかぁ。ばれてしまいましたか」   
 「あれだけ壮大なドラマに出演させてもらえて心地よささえ感じているんです。
 ひとつだけ言わせてもらえれば、次官がかかりすぎた感はありますね」
 「と言いますと?」
 「回り道しすぎたのではないかと。あそこまでやらずとも、もっと簡単な方法であたが
 がたの目的が達せられたのではと思うのです。例えばニューヨーク・タイムズやCNN
 に持って行くとか、BBCにリークするとか」
・「それはもちろん最初に考えました。しかし彼らがおいそれとそれを信じると思います
 か?人民共和国の指導者・金正日は、実は偽者ですよと言ったら冗談都としかとらない
 でしょう。よしんば、その話をまともに受け取ったとしても、彼らは必ず共和国内での
 取材を要求してきます。そうなれば当然CIAやNSA、M16などが入ってきます。
 共和国は真っ裸にされてしまいます。われわれの目的はあくまで金正日の正体を世界に
 さらけ出すことであった共和国の利益を損なうことではありません。情報機関がありま
 せん。情報機関がからんでくると、ろくなことにはなりません。そこへいくと日本には
 情報機関がありません。ですから安心してあなたがたを招請できたのです」
・「いっそのこと偽者を消してしまえばよかったんじゃないですか。三虎を抹殺したよう
 に」  
 「三虎を刑しても世界は何も言いません。彼らの存在自体を知らなかったのですから。
 しかし金正日となると話は別です。彼が突然死んだら世界は必ず疑いの目で見ます。
 それに対して何と言えばいいんです。病気でしたといっても信じる者はいないでしょう。
 あれは偽の金正日だったから処分したなどとも言えない。ですからあのシナリオしかな
 かったのです」
・「あなたがたが純粋な志と愛国の情を持って計画を実行したということはわかりました。
 しかしわからないのはなぜ三虎の会が取材を許したのかということです。当然まだ三虎
 の会のメンバーは生きていましたよね。その彼らが金正日とのインタビューまで許可し
 た。下手をすると金正日の正体がバレる恐れがある。現にそうなってしまったわけです。
 その点がわからないのです」
 「それはこちら側のある人間がかららを説得したからです。彼らが信用していた軍人で
 す」
 「呉少佐ですか?」
 安がうなずいた。
 「呉少佐は呉振宇将軍の血を引いています。三虎の会も将軍には一目置いていました。
 ですから呉少佐を信用して仲間に加えようとしたのです」
 「しかし呉振宇将軍は三虎の会に殺されたわけでしょう」 
 噂ではそうです。共和国では噂が一人歩きしていつの間にか真実にかわってしまうとい
 うことが多々あります。だからこそ三虎の会は呉少佐を取り込もうとしたかもしれませ
 ん。復讐を恐れてです」
・「少佐は彼らをどう説得したんです?」
 「ごく簡単らしかったです。最近地方で暴動が発生しているが国家保衛部の若手将校た
 ちの多くは農民たちに同情して彼らを逮捕しない。このまま事態がエスカレートしたら
 保衛部の将校たちによるクーデターに発展する可能性が大きい。そうなると三虎の会の
 権力を開放する振りをし、金正日を世界中に見せ、その権力の正当性をアピールする。
 そして急場をしのぐため日本との国交樹立計画を進めて援助を受ける。これらのことを
 素早くしかも一番効果的に執行するには日本のテレビ局に自由取材を認めること。
 というようなことを呉少佐は言ったらしいのですが、彼の言葉は三虎たちを大いに震え
 上がらせたとのことです。 
 皮肉なことなのは、彼が述べたことの半分以上は事実だったということです。
 特に保衛部の若手将校たちのよる反乱うんぬんについては真実そのものでした」
 「取材が許された途端に三虎は消されましたね。あれはやはり呉少佐が?」
 「たぶんそう思います。彼らが取材に同意して金正日のインタビューがとれたところで
 もう彼らに用はなくなりましたからね」
 「計画には李大将は加わっているんですか?」
 「彼が加わらなかったら呉少佐は動かなかったと思います。青年将校だけでは今ひとつ
 重みが足りませんからね。特に金正日を追い落とした後、軍部をまとめるには李将軍の
 カリスマ性が絶対に必要ですから」
 「計画の中心人物は呉少佐ですね」
 「あの人は理想主義者ですが現実的でもあります。これからの共和国を導く力です」
・安たちにすれば、すべてがうまくいったと思っているだろうが、ひとつだけ計算違い、
 というより計算に入れてなかった部分があった。
 GTBの川崎のメンタル・レベルである。
 高い視聴率は欲しいが、トラブルだけは避けたいという徹底した防衛姿勢を貫く自己保
 身型のメンタリティ。これだけはさすがの安たちも予想できなかった。
・沢田は雪姫とのインタビューが放映されないということを安に告げるべきかどうか迷っ
 た。自分がすでにGTBを辞めたことも言うべきかについても考えた。
 しかしそれを言っても何の意味もないと判断した。
 番組を見ればわかることだ。
 そのときは呉少佐を初めとする青年将校たちは計画をやめるしかないだろう。
 だが自分の責任ではない。
 彼らは自分を利用し、自分はそれに乗った。
 どちらも互いに利用したのだ。
 たまたま同じ結果を欲していたがそれが狂ってしまっただけのことだ。
・沢田は自然とホテルの近くにある公園に向かっていた。
 久しぶりに緑に囲まれてみたかった。
 うっそうと繁った木々の放つ香がとてもつもなく新鮮に感じられた。
 胸一杯に空気を吸った。一周してからベンチに腰をおろした。
・呉少佐たちのことを考えれば空しくもあり惜しい気もした。
 あれだけの大きな綱を張りながら結局は無駄に終わろうとしているのだ。
 しかし個人的にはこれまで感じたことのない解放感をも感じた。
 これからは何に縛られることもない。
 初めて自由人として生きられる。
・携帯が鳴った。
 妻の裕子だった。
 「会社は今日限りで辞めたよ」
 「なぜなの?」
 「自分自身をもうだませなくなったんだ。仕事におもしろみが感じられない。
 おもしろみがなければただの労働だ」 
 「でも現実問題として・・・」
 「何も言うな!お前は何ひとつ心配することはない」
・裕子の心配が金銭面にあることを沢田は知っていた。
 ある作家が言っていたことを思い出す。
 金は幸せを買えないが惨めさを選ぶことに役立つ。
 会社を辞めた状況からして退職金はそれほど期待できない。
 だがそんなことはこれまで組織に仕えてきた耐え難い靴に比べればたいした問題ではな
 かった。
・それに今の自分の手中には金のなる木がある。
 雪姫とのインタビュー・フィルムである。
 確か川崎はそれを処分しろと言った。
 社長自ら役員会においてあのフィルムをすすんで破棄してしまったのだ。
・本来なら日本の情報機関に提供すべきなのだろうがその肝心な情報機関が日本にはない。
 かといって政治家に与えてもその情報の使い方どころか価値さえわからないだろう。
 すぐにマスコミにチークされるのがおちだ。
 重要なのはあの映像の価値を知り使い方を知っている組織に提供するということだ。
 そういう組織なら絶対に外には漏らさない。
・再び携帯を取り出してワシントンのリッキー・シュースターを呼び出した。
 「金正日をとのインタビューはどうだった?」
 「あんたがたCIAがなぜあれほど彼の映像をほしがっていたのかわかったよ」
 「ずばりCIAは金正日は偽者と見ている。だが確かな証拠がない。金正日のクローズ
 ・アップの写真はないしあってもぼやけているのばかりだ。だからおれが取材で得た映
 像をほしがった。そうじゃないかね?」
 「そんなことを言うためにわざわざ電話してきたのか?」
 「まあ最後まで聞けよ。金正日のインタビューよりずっと価値のある映像を完全版であ
 んたにオファーすると言ったらどうする」
 「何のことだ?」
 「今の金正日が偽者であると証言している人物とのインタビューだ」
 「そんな都合のいい人物がいたのかい」
 「中国の情報部はとうの昔に彼女について知ってるぜ」
 「しかもただの女じゃない。彼女は本物の金正日の愛人だった女性だ。名前は雪姫」
 「彼女は1995年1月、金正日の宮殿から失踪した。なぜだと思う?ある事件を境に
 して金正日が別人にとって代わられたとわかったからだ。偽者と入れ替わったんだ」
 「本物はどうしたんだ?」
 「殺されてしまっていた」
 「はっきり言ってこと北朝鮮に関してはアメリカと中国の間には大きなインテリジェン
 ス・ギャップが存在する。それを一気に埋めるチャンスがほしくないかね?」
・GTBで放映するんじゃないのか?」
 「おれもそのつもりだった。世界的なスクープになること間違いなかった。しかし残念
 ながら役員会は使わないことを決めちまった。びびっちまったんだ。なぜならもし放映
 されたら北朝鮮で内乱が起きる可能性が高いからだ。それだけ爆発的かつセンシティブ
 な情報がびっくりし詰まっているということだ」
 「条件は?」
 「500万ドル」
 「ファック・オフ!
 おっとこれは失礼。私としたことが下品な言葉を使ってしまった。
 法外な金額についびっくりしてしまった」
 「1000万ドルでも安いとおれは思ってるんだ。もし今のまま言ったらこと北朝鮮に
 関してはアメリカは中国の情報ギャップが埋められない。そして中国カードなどといっ
 た幻を信じ続けることになる。それでもおおならおれのオファーは無視してくれ」
 「無視するなんて言ってないぜ」
・「雪姫の本名は何と言うんだ?」
 「姜敬愛。もとキップムジョのメンバーだった」
 「30分くれないか。ラングレーの担当者に連絡してみる」
・30分もしないうちにシュースター・がコール・バックしてきた。
 「ラングレーの担当者は非常に印象づけられたようだ。そっちの条件を受け入れる。
 東京のエージェントがあんたに連絡することになった」
 「500マンドルはこちらの指定するハワイの銀行に入れてくれ」
 「スイス銀行じゃなくていいのかい」
 「やましい金じゃないんだからそんなことをすることはないよ」
・CIAから雪姫の話は金輪際漏れることはない。
 情報は外に出てしまったら価値がなくなるということを彼らはよく知っている。
 結局収まるところに収まったのだ。

エピローグ
・その日の朝、曽元生大佐は張海寛と陳安家を自分のオフィスに緊急招集した。
 昨日日本で「共和国最後の真実」のシリーズ最終回が放映された。
 雪姫のインタビューは結局番組に入ってなかった。
 結果として今回の”なだれ作戦”は失敗した。
・それに合わせるように、今朝から平壌放送は班中国プロパガンダを流し始めた。
 「作戦の失敗は誰の責任でもありません」
 曽大佐が言った。
 「沢田は完璧にはまったとわれわれは考えたし、それは正しかった。日本側に何かが起
 きたとしか考えられません」 
・「それについでなのですが」
 と張海寛。
 「東京の安に聞いたところ沢田が北京から帰ったときに会ったが、何ら不自然なところ
 はなかった。しかし昨日番組が終わったとき電話したらもうGTBを辞めていたとのこ
 とです。唯一考えられるのは上層部との軋轢があって辞めたのではないかと安は思って
 います」
・「その軋轢はたぶん番組をめぐってでしょうね」
 陳が言った。
 「雪姫のインタビューを流すことに上層部が恐れをなしたのでしょう。多くの日本人は
 防衛的ですからね。特に大企業のトップは自分の任期を無事まっとうしとうと必死です
 から。できるだけ波風は立てなくないんです」
 大佐が笑いながら、
 「サラリーマン魂にやられたというわけですね。わが国にもそういうシラミ軍団のよう
 なのは五万といますからね。雪姫の話はかれらにとってはショッキング過ぎたのでしょ
 う。ところで張さん、山猫からなにか連絡はありましたか?」
 張はかぶりを振った。
 「一応こちらから極秘番号にかけてみたのですが応答はありませんでした」
・「気に入らないですね」
 「と言いますと?」
 「「平壌放送ですよ。今朝から反中国プロパガンダを流している。そして山猫は電話に
 出ない。何かあったのかも・・・」
・「あのプロパガンダはわが国の戦略研究所や青年共産党紙が最近ぶち上げている北朝鮮
 批判記事に対しての反応に過ぎないと思いますよ」 
 「しかし陳さん、そういう記事は3カ月前から出ていました。北の反中国プロパガンダ
 が出てきたのは今朝からです。非常におかしいと思いますよ」
・そのとき陳の部下が入ってきて彼に1枚の文書を手渡した。
 少し前に解読されたばかりの文書だった。
 平壌の中国大使館からの緊急連絡だった。
 読み進むうちに陳の表情が目に見えて変わった。
 首の血管が浮き上がり、その手が小刻みに震えた。
 「あなたのおっしゃる通りです。反中国プロパガンダが今朝から出てきたのにははっき
 りした理由がありました」  
 陳がその文書を彼の前に置いた。
 「平壌に逆クーデター。国家保衛部、人民軍、外務部などの幹部が大量に逮捕もしくは
 殺害される。平壌市内はいたって平静だったが外国人も含めて外出禁止措置。反乱分子
 のリーダーは呉在京国家保衛部少佐との情報あり。金正日はどこにいるか不明。逆クー
 デターの指導者は李鶴秀大将と確認。完全報道管制状態」
・「逮捕された誰かがわが国の関与を自白したのでしょう」
 陳の顔はまだ真っ青だった。
 「張さん、山猫が電話に出なかった理由はこれですよ。出たくても出られてなったので
 しょう」
 「やはり私の心配が当たりました。李大将には気をつけろと言ったのですが、山猫は彼
 を信用し過ぎていました」 
 「たぶん”将軍様”から断ることができないような条件を提示されたのでしょう」
 「金正日を過小評価してたようですね」
 「どうしようもないばかな男だが、生存能力には長けている。それは認めざるを得ませ
 ん」
 「これで金正日はこれまで以上に被害妄想になりますね。李大将が金正日を消す可能性
 はどうでしょうかね」
 それはまずないでしょう。対象は後ろにいるだけで満足しますよ。かつての三虎の会の
 ように金正日を操れるのですからね」
・「山猫は殺されたのでしょうか」
 「まず間違いないでしょう。そうしないと李大将自身安心して眠れないでしょうから」
 「あの若さで逝っちまうとはちょっと気の毒ですね」
 陳の言葉に張がうなずいて
 「これからの北朝鮮を背負ってもらいたかった人物でした」