孝明天皇と「一会桑」 :家近良樹 (幕末・維新の新視点) |
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この本は、いまから23年前の2002年の刊行されたもので、幕末において幕府崩壊に 孝明天皇と一会桑がどのように関わったのかという視点で著者の自説を展開したものだ。 私は、孝明天皇の死に関して興味を持っていて、通説では孝明天皇は病死したことになっ ているが、ほんとは毒殺されてのではないかと私は疑っていて、この本でその点について 何か触れられているのではと思って読んでみた。 しかし、この本では、 「孝明天皇が慶応二年十二月に突然痘瘡(天然痘)で急死」 だけとしか触れられていない。 あまりにあっけない内容で失望した。 この本からもわかるように、孝明天皇の挙動は、幕府崩壊に大きな影響を与えたのはまぎ れもない事実であろう。それならば、当時の天然痘の流行の状況とか、孝明天皇が天然痘 に罹患し急死したときの状況について、もう少し詳しく触れてもよかったのではないかと 思った。 それはさておき、この本の著者の主張は、薩長両藩の倒幕における役割は通説になってい るほど圧倒的なものではなかったというものである。 その理由は、維新後、勝者の都合のいい歴史だけが残され、その他の歴史は切り捨てられ て、いわば勝者一辺倒の歴史になってしまったためということである。 敗者には敗者の言い分があったはずなのに、それが全部無視されてしまったのだという。 つまりは「勝てば官軍負ければ賊軍」というのはまさに、この歴史観からきているのだろ う。 過去に読んだ関連する本: ・横井小楠(維新の青写真を描いた男) ・龍が哭く(河井継之助) ・覚悟の人 小栗上野介忠順伝 ・「幕末」に殺された女たち |
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はじめに ・幕末期というのは、とにかく、非常に短い歳月の間に、しかもそれは複雑な様相を呈し ている。 また、現代のわれわれにとって、そう旧い時代ではないので、史料も多く残っている。 そのため、皮肉なことに、勉強すればするほど、深く知れば知るほど、どうしても膨大 な史実に振り回されがちとなる。 ・もっとも、その反面、幕末期というのは、魅力的な人物が涌くように輩出した躍動感に あふれる時代ということもあって、日本史上でももっとも人気のある時代のひとつであ る。 ・ところが、不思議に思うのは、自分に関心のある対象については驚くほど詳しいが、 幕末期全体にまたがる知識は、それほど持ち合わせてはいないか、もしくは皆無に近い ということがある。 幕末期全般にまたがって正確な知識を有している人は、それほどいないのではないだろ うか。 ・これは、やはりあまりにも多くの出来事が短時間に集中して起こったことに起因してい ると考えざるを得ない。 もちろん、幕末期といえども、種々の雑多な事件・出来事は互いに関連しあっているの で、ひとつひとつ丹念に読み解いていけば、全体の構成は割合よく理解できるはずであ る。 ・ところが、それを単純化して簡単に説明するのが難しい。 単純化するということは、複雑で膨大な史実のなかから、ほんの少しの史実だけを取り 出し、それをつなぎ合わせて、その歴史的意味を考えるということである。 当然、いろんなものを削ぎ落としたり、場合によっては抹消したりしなければならない。 そのなかには、落とすに忍びないものも多々ある。 しかし、ある程度、単純化しなければ到底理解できるものではない。 特に幕末の政治過程においてはそうである。 幕末政治史の常識について ・まず幕末期に関して、多くの人が持っている常識では、この時期は薩長を中心とする西 南雄藩が武力をもって、つまり藩の軍事力を行使して徳川幕府を倒した過程であるとい うことになるかと思う。 ・1600年の関ヶ原の戦い古来、薩摩藩や長州藩は幕府に対して反感を抱いていた。 十八世紀半ば以降、次第に危機的状況が起こってくる。 そして幕末期、中でも天保期(1830〜44)を迎えるころになると、日本社会が経 済面でも政治面でも一段とやっていけなくなる時代が来る。 幕府・諸藩双方とも、深刻な財政危機に直面し、それを打開するために年貢の増徴を図 ったものの、農民の抵抗にあって、それも不可能になる。 また、「大塩平八郎の乱」のような幕府に対する公然たる批判も生まれる。 ・そこで幕府は、老中・「水野忠邦」の指導のもといわよる天保改革をおこなうが失敗し て東海への一途をたどった。 それに対して、西南雄藩、とりわけ薩長両藩は、天保期の改革に成功することで、幕府 から自立していく最初の取っ掛かりが出来た。 薩摩藩では「調所広郷」が財政再建に成功し、長州藩では「村田清風」が財政再建にあ たっている。 ・ついで、アメリカからペリー一行がやって来て、日本に開国を突きつけたことで、非常 な混乱期に日本は入っていく。 そして、結局、幕府は、あくまでも自己の権力を守ろうとして人心の離反を招き、薩長 両藩の前に倒された。 ・慶応二年一月の薩長同盟から、薩長両藩は武力討幕をめざす運動をずっと展開し、王政 復古クーデタ、鳥羽伏見戦争によって最終的に幕府を倒したのだという考え方が有力で あった。 ・こうした通説的な考え方に立てば、薩長両藩を中心とした英雄的な戦いが高く評価され、 それに対して倒された幕府側の評価が低くなるのは当然のことである。 いささか乱暴だが、明治以降、我々が持っていたイメージは、薩長両藩が英雄的な戦い を幕府に対して挑み、幕府を倒した過程が幕末の政治過程なんだといったものではなか ったかと思う。 ・しかし、客観の検討を通して、幕府の政治史は、決して武力討幕の過程といえるもので はなかったということを結論づけたいと考えている。 幕末維新史研究の過去と現在 ・明治以降、政府によって幕末維新期の歴史的評価を確定しようという動きが、早くも戊 辰戦争の終結直後から始まった。 政府は、明治初期の早い段階で、王政復古(戊辰戦争)の意義を確定しようとした。 そして、これが「復古記」という大部の書物として結実する。 ・これら官(国)が定めた幕末維新史の基調は、史料の蒐集が勝者(番閥)側を中心にし ておこなわれたため、当然のことながら、旧体制を打倒するに至った必然性と、新政府 成立の正当性を論証するものとなった。 すなわち、西南雄藩(とくに薩長両藩)が藩軍事力を動員して幕府を打倒することに成 功し、そのあと禁断天皇制の確立に多大な貢献をなしたことが強調された。 あわせて勤王の志士の功績が顕彰された。 ・歴史評価が常に勝者側に有利なように定められる運命にある以上、薩長両藩の武力倒幕 派が対幕戦争に勝利をおさめて王政を回復し、近代天皇制を確立するに至った過程が、 豊富な資料(ただし一方的に偏った)を使って、正当化されたのである。 ・明治以後の日本人は、とにかく欧米諸国に対するコンプレックスが強かった。 そのため、欧米先進諸国の近代化と比較して、日本の近代がいかに「いびつ」で「遅れ て」いるか、封建的な要素を多く残しているかといったことを、これでもかこれでもか と強調してきた。 その代表的な事例としては、長年フランス革命と明治維新を対比させて、前者が進歩的 であったのに対して、後者はそうでなかったことを論じてきたことがあげられる。 ・実は、近年に至るフランス革命に関わる実証的な研究では、フランス革命によってそれ ほど自由で平等な社会が実現できたわけではなかったことが明らかにされている。 しかし、哀しいかな、我々の先人は、欧米先進諸国を観念的に理想化してとらえていた から、そんなところにはとうてい目がいかなかった。 いわゆる自虐史観そのものであったのである。 ・それが、1960年ごろからフランス革命と明治維新を対比させて、明治維新の保守的 性格を強調するといった発想がおかしいのではないかとの疑問の声が現れてくる。 もっとも、1960年代においては、長年の研究状況に疑問の声が上がり始めたにとど まったといったほうが正確であろう。 そうした疑問の声が具体的な成果となって発表され出すのは、1970年代に入ってか らであった。 ・そして、1980年代、1990年代と敗者側であった幕府・朝敵諸藩サイドに対する 関心が次第に高まった。 さらにつけ加えると、1980年前後から、近代日本の原点として、明治期ではなく幕 末期を想定する視点に立つ研究が、目立つようになることも注目される。 ・幕府の対外政策がそれなりに主体的で柔軟な姿勢と努力のもとに展開されたことや、 改革を実施するにあたって、幕府が諸藩や世間に対して閉鎖的でなかった(改革の成果 を独占しようとしたわけではなかった)ことなど、幕府側に好意的な評価を下す論稿が 多くなったのも近年の特色かと思われる。 ・また、1980年前後からは、従来、一部の有名幕臣の分析にとどまっていた幕臣研究 が無名層にまで広げられ、かつ維新後の旧幕臣のダイナミックな社会進出をも視野に入 れた研究がなされるようになってきている。 光明天皇の登場 ・幕末の政局を大きく変えることになったのは、いうまでもなくペリー一行の来日であっ た。 ペリーは、圧倒的に優位に立つ軍事力を背景に、強硬な態度で幕府に開国を迫った。 そのため、幕府は当初から妥協的な対応に終始し、とにかく平穏に問題を処理しようと した。 そして、よく知られているように、最終的には、アメリカ側の要求を呑んで、通商条約 を結ぶことになった。 ・ところが、その前に強烈な攘夷思想を持つ「孝明天皇」が立ちはだかった。 そこで、幕府は、手を替え品を替え、天皇の説得に努めることになる。 ・関白は説得できる。 なぜなら、関白は幕府から役料を毎年千石もらっているから、幕府よりである。 朝廷と幕府との仲立ち役を果たす武家伝奏なんかも同様の事情で説得できる。 ところが光明天皇がものすごく頑なであった。 それでことごとく跳ね返される。 そのために幕末の政治情勢が思いもかけないところにいきつく。 ・改めて指摘するまでもないことだが、明治政府は、戊辰戦争で旧幕府軍との戦いに勝利 をおさめるために、イギリス等をはじめとする諸外国の援助を必要不可欠とした。 そのため、俗に文明開化策と言われる開国路線を採択し、以後これは堅持される。 ・この開国路線と、終始一貫して攘夷を唱えた孝明天皇の意思は、当然あい反した。 すなわち、薩長出身のニューリーダーたちによって推進された新しい政策を正当化す る上で、この光明天皇の強烈な攘夷意思は、迷惑この上なかったのではないかと想像さ れるのである。 ・光明を考える上で軽視できない人物が存在する。祖父の「光格天皇」である。 というのは、この光格天皇というのが江戸時代の天皇のなかにあって、特異な位置を占 めているからである。 ・近年、江戸期の朝廷や天皇に関する研究はかなり進展を見せているが、満足できるレベ ルに達しているかと言えば、そうではない。 残念ながら当該期の朝廷や天皇の実態を推測するにとどまっていると言わざるを得ない。 特に、知識人ではない一般の民衆が、朝廷や天皇のことをどう思っていたのか、これが ほとんどわからないのである。 ・政治的にも経済的にも、幕府から完全におさえこまれていた、「まったくの非権力体」 であった朝廷が、それまでのあり方から脱却する兆しを見せ始めるのが、江戸時代後期 の寛政年間(1789〜1801)全戸の期間くらいからではないかという。 すなわち、この頃になると、国内的には封建的危機が進行し、また対外的には欧米諸国 の船舶が盛んに来航するようになる。 そのため幕府も藩も揺さぶられ、それに伴って朝廷と幕府の関係にも変化が生じたと見 るのである。 ・ちょうどこのころ、天皇として在位していたのが光格天皇であった。 そして、光格天皇は、朝廷の自律を目指して積極的な活動を展開する。 その結果、朝幕間に緊張が走るとともに、それまで洛中・畿内にとどまっていた朝廷の 権威が、将軍権力から自立しだし、やがて、その権威の及ぶ範囲が拡大されていったと みなされる。 ・さらに、この寛政期には、老中として有名な改革を断行した「松平定信」が、幕府中心 の尊王思想である「大政委任論」の考えを将軍の「徳川家斉」に表明し、それが、次第 に幕府内部の共通認識として定着し、以後、朝廷と幕府の関係を律する基本的な枠組み となっていったとみる研究者もいる。 ・そして、孝明天皇が歴史の表舞台に登場してくるのが、弘化三年(1846)のことで あった。 この年、アメリカ艦隊が浦賀に来航するなど異国船が盛んに日本にやって来る。 そこで天皇は、時の関白であった「鷹司正通」を通じて、幕府外国船に対して適切な対 策を採ることを求めた。 これは対外問題に関して天皇が勅を幕府に下した最初のケースとなった。 ・そして、メリー来航直後から、幕府は、ちょうていにいわゆる幕府・朝廷・諸藩の三者 からなる公儀権力の一員として、それなりの役割を果たすことを求めるようになる。 それは何であったかというと、宗教的役割を果たすことであった。 ・すなわち、幕府は、京都所司代を通じて、異国船の『調伏」、つまり朝廷が神社仏閣に 異国船を滅ぼすための祈願を命じることを要請する。 そして、これは、以後、幕府が朝廷に求める基本的な要請となり、朝廷側もこれに常に 応じていく関係が築かれていく。 ・とことで、ペリー来航後の朝廷社会において特筆すべきことは、関白とそれ以外の政務 にたずさわる公卿の間に、細波のような対立が生じることである。 この時、関白として、朝廷の実権を握っていたのは、文政六年(1823)以来、実に 三十年にもおよぶ長期政権を担当していた鷹司政通であった。 彼は、アメリカ側の要求を「はなはだ平穏・・・交易は何も子細これ無き事か」と、 基本的には妥当なものと受け止めていた。 ・ただ、政通はこの問題に関して、政務を担当する公家の間に意見の一致を見ていないと、 将来幕府とのトラブルが発せしかねないと恐れたのか、「武家伝奏」と「儀奏」の意見 を聴取した。 意見を聴取するために開かれた席では、武家伝奏の「三条実万」は、絶大な権限を有す る関白との関係をはばかって、自分の意見はいっさい言わなかった。 しかし、日記には、しっかりと本心を吐露している。 ・関白は、当時の平和慣れして軟弱そのものであった武士の実態を熟知していて、到底ア メリカ側の解雇帰要求を拒絶できないと悟って、交易論に同調したのである。 ところが、三条らの周りにいた複数の公家が、当時すでにアメリカとの通商開始に強い 不安を感じていた。 ・こうした公家の漠然とした不安に火をつけることになったのが前水戸藩主の「徳川斉昭」 であった。 その彼が姉婿であった関白に、自分の考えを伝えたのである。 それは、強引に幕府に通商関係の樹立を迫るペリーの行動を、皇国を侮る無礼な所行だ と痛烈に批判する内容のものであった。 ・これを受けて、関白は、儀奏の「東坊城聡長」に斉昭の書簡を見せ、孝明天皇にその要 旨を内々言上に及ぶべきことを命じた。 鷹司関白の認識は、徳川斉昭とは反対であったが、将来のことを考えて、天皇にも事態 の一端を知らせておく必要を感じたためと思われる。 ・公家一般は、関白のような楽観論ではなく、ペリー一行の要求をたんにアメリカ一国だ けの要求ではなく、欧米諸国の共同歩調にもとづくものととらえ、そこに彼らなりの深 刻は恐怖感を抱きはじめていたことが理解できるのである。 ・こうした背景があったからか、関白は、武家伝奏の三条実万と坊城俊明の両名を江戸に 派遣する。 関白は、幕府への大政委任は当然だとする立場から、通商関係の樹立か、それとも打ち 払いの実施か、その選択は幕府に委ねるとしながらも、朝廷内にくすぶりだした不安を 静め、朝幕関係を良好なものとし続けるために、武家伝奏の派遣を決断したものと思わ れる。 ・この江戸に派遣された武家伝奏両名に対し、老中は、天皇にこのようにして欲しいとい う具体的な希望があれば、その希望にそって取りはからうつもりだと、「随分懇切」な 態度で返答したという。 すなわち、江戸の老中は、たぶんのリップサービスをもって、天皇の意思を尊重するこ とを武家伝奏の二人に伝えたのである。 これは、むろん、宮中の奥深くに鎮座まします、もの言わぬ、いままでの伝統的な天皇 の姿を想定しての発言であった。 ・翌安政元年(1854)一月、幕府側の回答を聞くため、ペリー一行が再度やって来る。 そして、ペリーの再航は、天皇および公家の不安をかきたて、朝廷のある畿内の警備体 制の確立を急がせることになった。 もの言わぬはずであった天皇(朝廷)が、いよいよ動き出してきたのである。 ・朝廷側の漠然たる不安・恐れは、ロシアの「プチャーチン一行」が突如大坂湾に姿を現 わし、天保山沖へ碇泊したことで現実のものとなる。 この時、京都の朝廷では大騒ぎとなり、孝明天皇の比叡山への遷幸が議論され、続いて 彦根が避難先の新たな候補として噂にのぼる。 そして、プチャーチン一行の侵入を阻止できなかった結果、無防備に等しいことが白日 のもとにさらされた大坂湾の防備をどうするかが、以後重大な課題となってくる。 ・孝明天皇はプチャーチンの事件に大きなショックを受け、常の膳(日常の食事量)を減 らし、朝廷に関係の深い石清水八幡宮など七社七寺に命じて国家の安泰を祈念させる。 そして、このあと、幕府から、全国の寺院にある不要の梵鐘類を鉄砲に鋳直すことを、 勅命で命じてほしいと伝えられると、それに応じる。 ・もっとも、ここで確認しておかなければならないことは、天皇や関白以下、武家伝奏、 儀奏といった政務に携わる公家は、またこの段階では、いずれも、多少の不満や不安は 抱きながらも、和親条約の締結には納得し、それを了承したことである。 ・安政二年(1855)九月、京都の所司代と禁裏付武士の両名は、関白・武家伝奏・儀 奏と会見して、ロシア・イギリス・アメリカの三国と和親条約を締結するに至った事情 を具体的に報告したが、関白はそれに納得した。 そして、この後、このことは天皇にも報告され、天皇も一応満足の意を表した。 朝幕関係の悪化と孝明天皇の朝廷掌握 ・ここに新たな、しかも決定的な対立状況が生まれることになる。 それは、江戸の幕閣と徳川斉昭の対立と、やはり江戸の幕閣と朝廷(なかでも孝明天皇) の対立であった。 ・安政三年九月段階で、江戸の老中及び諸役人は、和親条約の線から大きく踏み出す動き を見せるようになる。 それは、欧米諸国との通商条約締結に向けての動きであった。 これには、この年の七月に長崎に入港したオランダ船からもたらされた、イギリス使節 のバウリング一行がまもなく渡来し、通商条約の樹立を要求するとの情報がおおきくか かわっていた。 ・すなわち、この渡來予告を受けると、幕府内の実力派官僚であった大目付と目付は、 これを世界史の流れのなかで拒否できない必然的な要求と受け止めたのである。 そこで幕閣に上申書を送り、イギリスの要求を受けていやいや貿易を許すのではなく、 むしろ自主的・積極的に通商を許可すべきだと主張した。 当時のイギリスは、なんといっても世界最強の国で、しかも目的のためには手段を選ば ないかのようなその獰猛さは、わが国でも知れわたっていたから、大目付たちがこのよ うに主張したのも無理がなかったといえる。 ・大目付たちが提出した上申書で注目すべき点で、幕府の「鎖国」政策が、改変不可能な ものでなく、改変が可能であるとの考えが打ち出され、かつその根拠が明確に示された ことである。 それは、徳川幕府の創設時、家康から家光にかけての三代の将軍時に、イギリスとの 「通商」関係が成立していた史実を踏まえた提言であった。 ・徳川斉昭の一連の動きは、こうした幕府首脳が推し進めようとする積極的な通商開国路 線に対する猛烈な反発に基づくものであったが、当然のことながら、それは老中等との 激しい対立を招くことになる。 なぜなら、斉昭の朝廷を巻き込んでの通称阻止活動はすぐに幕府側に察知され、幕府側 の危機感をつのらせることになったからである。 その結果、幕府は、斉昭の政務参与を免じ、斉昭の発言力を封じ込む作戦にでる。 ・ハリスの要求は、江戸にミニストル(公使)を置くことと、自由貿易の要求の二点につ きたが、このころから朝廷側に対応が、従来と違う様相を見せはじめる。 そうなるに至った最大の理由は、朝廷側が、ハリスが日本各地(なかでも大坂など)を 開港地として臨むかもしれないとの不安を抱いていたためであった。 ・つまり、和親条約の段階では、開港地が、長崎・函館・下田という京都から遠く離れた 場所であったため、問題とするにはおよばなかったが、通商条約の締結によって、大坂 をはじめ京都に近い場所が、新たに開港地になる可能性が出てきた。 このことを朝廷側が恐れ、神経質にならざるを得なかったのである。 ・そこで、今度は大学頭の「林復斎」と目付の「津田正路」の両名が京都に派遣され、朝 廷の説得(孝明天皇による条約の承認、つまり条約勅許の獲得)にあたることになった。 また、老中の「堀田正睦」地震の上洛も合わせて通知された。 安政四年十二月に上洛してきた林・津田の両名が、調停を獲得するために用意した理由 は次のようなものであった。 ・開港・開市の場所は京都を避け、江戸の近所とする ・みだりに欧米人と雑居しないように配慮する ・鎖国制度は改め、寛永以前の制度に復帰する 幕府が通商開始の決定をなしたのは、隣国である清の事例に学んだんである。 ・林大学頭の説明を受けた後、翌安政五年(1858)一月、朝廷はごく近い将来に上洛 してくる堀田との交渉に備えて、政務を執る公卿たち十二名に対して、対応策を諮問す る。 そして、この段階で、ようやくにして孝明天皇の条約問題に対する意思が表明される。 すなわち、孝明天皇は、関白の「九条尚忠」に対し、幕府が進める開国通商路線に否定 的な考えを表明する。 ・通商条約に否定的な意思をはじめて表明した孝明天皇は、以後、ふっきれたのか、自分 の思う方向に事を運ぶために、二つの方途を採用した。 ひとつは、前関白の鷹司政通との対決を決断したことである。 当時、鷹司政吉は、関白職は辞したものの、依然として内覧の特権を保持し、絶大な権 力を朝廷内でふるいつづけ、また通商条約を是認する意向を示していた。 ・したがって、通商条約を否定するためには、この鷹司政通との対決がどうしても避けら れなかったのである。 ・安政五年一月、天皇は、九条関白に対し、改めて条約勅許を拒絶する意思を示し、場合 によっては、攘夷戦争を認めることすらありうると伝えた。 もっとも、決断した割には、孝明天皇は弱気であった。 これには、孝明天皇がむかしからどうも鷹司政通が苦手だったことがおおいに関係して いたようである。 なにしろ、相手は自分よりもはるかに年長(四十二歳上)で、しかも朝廷内の様々なこ とに精通し、絶大な権限を長年にわたって有してきたベテランの宮廷政治家であったか ら、それも無理はなかったと思う。 ・通商貿易を許容したほうがよいとの立場を表明した鷹司政通は、天皇に対し、幕府をこ の件で追いつめれば、「承久の乱」のような事態が発生しかねないと警告を発した。 ・だが、自分の代で、国家の対外政策のあり方を根源から改変することに激しい不安を感 じていた孝明天皇は、通商条約の締結を何としても拒絶しようとした。 この自分の代でいうところが、孝明天皇の当時の気持ちを理解するうえで大事かと思う。 ・変化というものにそれほど価値をおかない、あるいはまったくと言ってよいほど価値を 認めようとしなかった当時にあっては、天皇が通商条約の締結によって、何か得体が知 れない変化が、この風土に生じるのではないかと恐れ、それを忌み嫌ったのも無理のな い面があった。 それも、たとえ形式的にせよ、自分が認可することで、そのような方向性が最終的に確 定することへのためらい・脅怖(そこには孝明天皇なりの責任感があったのはいうまで もない)が、通商条約の拒否につながったことを理解しておく必要があるかと思う。 ・ここで確認しておきたいのは、この決定に先立つ段階で、孝明天皇が通商条約の締結を 阻止すべく、さかんに関係者に自分に同意するように働きかけたことである。 その結果、孝明天皇のみるところでは、通商条約の締結に批判的なグループと、締結を 是認するグループの二派に朝廷内のトップが分かれることになる。 ・そして、そうしたなか、鷹司政通が内覧の辞意を表明する。 鷹司政通は、もの言わぬと思っていた若き天皇が初めて自分に抗ったことに、やはりそ れなりの強いショックを受けたものと思われる。 それがこうした辞意表明となったのであろう。 天皇はこれを千歳一遇のチャンスと捉えた。 ・通商条約を拒絶するために孝明天皇が採用したいまひとつの方策は、公家への諮問範囲 の拡大と、彼らの天皇陣営への取り込みであった。 政務を執る公家たち十二名に対して諮問をおこなったあと、天皇は公家の考えを、意見 書を提出させるというかたちで、さかんに聴取する。 ・こうして、多くの公家が、天皇に対していやおうなしに回答することを余儀なくされた わけだが、彼らの多くは、決定にあたっては、「衆思」「群慮」「衆議」を重視するこ とを、いたずらに要望するのみで、具体的な意見を提示しえたものは、ほんの一握りの 公家にすぎなかった。 ・これは、幕府によって、二百数十年間にわたって、政治的発言をいっさい禁じられてき たことに加え、国政上に問題意識を持ち続けてきた公家の数がいたって少なかったこと を物語っている。 諸大名(特に外様大名)においても事情は似たり寄ったりであった。 幕府を介して意見を求められた彼らの多くは、やはりこの問題に関して、明確な意見を 表明することはできなかった。 ・当然、こうした公家および諸大名の状況は、最終的には、すべて孝明天皇の決断(いわ ゆる「聖断」)に委ねるとするかなりの数の回答とつながった。 ここに皮肉なことに、孝明天皇自身が一番プレッシャーを受け、いっそう追い込まれる 事態が生じることになる。 そして、これが、もの言わぬ天皇であった時の気軽さとは、いわば対極の苦痛を天皇に 強いることになったのは、改めて言うまでもない。 徳川幕府と孝明天皇の対立 ・京都の朝廷が、孝明天皇の強い支持のもと、通商条約拒絶の線でほぼまとまりつつあっ た頃に、老中の「堀田正睦」が京都に乗り込んでくる。 そして、入洛した彼は、満々の自信をもって、朝廷に通商条約締結の世界史的必然性を 説いた。 ところが、彼を待ち受けていたのは、条理(理屈)の通用しない世界であった。 ・儀奏の「万里小路正房」と「裏松恭光」の両名は、孝明天皇の近況が、眠れず、食事も 喉を通らないなど、ただならぬことを伝えたあと、「理屈を差し置き、ただひたすら落 涙」して、朝議で決定をみた朝廷の要求を受諾することを求めた。 ・これに対し、堀田はあくまで理路整然たる条理でもって対応しようとしたが、頑なにそ れを受け付けない天皇とその側近に、やがて音をあげざるを得なくなる。 ・孝明天皇およびその意を間接的に受けた平公家たちがこだわったのは、最終的に決定を 幕府に全面的に委任することの拒絶であった。 そして、これは、幕府が認められていた政務委任の原則を否定しかねない点で、大変重 要な意味をもった。 ・和親条約の線に戻すことを幕府に要求することで一致をみた朝廷は、勅書を徳川御三家 以下の諸大名にくだし、そのあと幕府が対策を協議し、そこで出た結論を天皇が聞いた うえで、聖旨(天皇の考え)を定めることを堀田に命じた。 ・この朝廷側の一方的な通行に対し、堀田はむろん抵抗した。 彼は、勅書の受け取りを拒んだのである。 そのため、堀田を説得するために訪れた両役は、改めて朝廷側の要求を堀田に突きつけ た。 ・ところが、その要求のなかに驚くべきことが含まれていた。 それは諸大名の意見を聴取したうえで、なお天皇が決断をくださせない場合は、伊勢神 宮の神慮をうかがう、つまり最終的な決定を伊勢神宮のおみくじに頼ることもありうる というものであった。 ・これには、さすがに堀田も「大いに驚き」、もしおみくじに「戦」と出たら大変なこと になると、「神慮御伺の処」は、やめていただきたいと懇願する。 なお、この時、堀田は関白の面面で泣いたという。 ・このような状況のなか、堀田は、当初の満々たる自身はどこへやら、朝廷側にいわば押 し切られたかたちで、京都を離れ、江戸に帰着する。 ・ところで、堀田が京都に滞在中から江戸帰府後にかけて朝廷内にあって、目につく動き としては、孝明天皇と関白「九条宗忠」の対立が表面化することが挙げられる。 鷹司政通に批判的であった九条宗忠も、自分がいざ関白職に就任すると、その職責との 関係もあって、いままでのようにはいかなくなる。 幕府との対立を極力避け、幕府側の要求をできるだけ受け入れようとするようになった。 ・堀田正睦が帰府してから、江戸で重要な人事が発令される。 彦根藩主の「井伊直弼」が大老職に就任したのである。 これは堀田の留守中に、江戸で一種のクーデタ計画が練られ、それが実行に移された結 果と見なければならないであろう。 ・そして、井伊を頭に据えた政府首脳は、御三家以下の列藩に通商条約の締結に関する意 見を問うた。 一見すると、あたかも勅命を受け入れたように見えるが、幕府は諸大名に諮問するにあ たって、天皇に戦争を起こさない意思がないことを強調するとともに、先に朝廷に奏上 した方針のほかに選択肢がないと将軍が考えているとも付け加えた。 これでは、なんのことはない、諸大名が幕府の方針である通商条約締結以外の回答を打 ち出せないように釘をさしたにも等しい。 ・そして、そのうえで、日米修好通商条約に調印する。 これは、いうまでもなく御三家以下の諸大名へ尋問し、彼らが提出する返答書等を天皇 がみたうえで最終的に対応策を決めることを求めた孝明天皇の希望を無視した決定であ った。 そして、この決定に対しては、よく知られているように、前水戸藩主の徳川斉昭、尾張 藩主の「徳川慶勝」、越前藩主の「松平慶永」、一橋家当主の「一橋慶喜」等が強く抗 議し、彼らは揃って隠居・謹慎等の処分を受ける。 ・このように、井伊政権によって突如通商条約の調印が強行されたが、当然のことながら、 これには孝明天皇の激しい怒りが寄せられることになった。 当時内大臣であった「一条忠香」によれば、天皇は、「はなはだ御逆鱗の御様子」を隠 せず、怒りのあまり、天皇の位を降りることを伝えた。 ・天子の非常な怒りを意味する「逆鱗」という言葉は、このあと、この天皇にしばしばつ いてまわるが、事態の予想外の展開に、天皇としても感情を押さえきれなかったらしい。 そして、このあと、天皇は譲位の意思が強いことを改めて左大臣等に伝えた。 ・こうしたなか、鷹司政通が内覧を罷めさせられ、朝廷内の実験を完全に失う状況が生ま れる。 鷹司政通の内覧罷免は、孝明天皇の怒りにふれた結果であった。 ・そして、譲位を切り札として用いた天皇の多数派工作が功を奏し、朝議の席で江戸の幕 府首脳に天皇の講義の意思を伝えることが決定をみる。 この日出された「御趣意書」は、天皇の怒りが頂点に達したかの感のあるものであった。 それは、条約調印を報じた幕府のやり方が、「届け棄て同様」の所為であり、「厳重に 申せば違勅、実意にて申せば不信の至り」だと批判したうえで、老中の「間部詮勝」が 上洛してくるまでに、譲位のことを幕府に通知せよというものであった。 ・ついて、天皇は、この「御趣意書」を幕府にくだすように「厳命」する。 これに対し、関白は、幕府との関係を慮って、文面を穏やかなものにかえることを望む。 この関白の要望に対し、天皇と関白両者の狭間に立たされることになった儀奏の「久我 建通」と武家伝奏の「万里小路正房」は、苦衷を関白に告げる。 関白の要望に近いことを皆で天皇に申し上げたのだが、譲位のことを持ち出され、どう にも仕方がないと訴えたものであった。 天皇から水戸家への「御趣意書」を渡すことを命じられたとも告げた。 ・天皇の強硬論に対し、関白は難色を示した。 だが天皇は、水戸藩に「御趣意書」をくだすことに執着をみせる。 ここに天皇・関白両者の対立が、のっぴきならないものとなってくる。 ・この時、天皇寄りの解決策を提示したのは左大臣であった。 左大臣の「近衛忠熙」は、天皇に薩長両藩をはじめとする有力な諸藩十三藩に、それぞ れ縁故のある公家を通じて、天皇の意のあるところを、内勅というかたちで伝えたらど うかとの解決案を提示したのである。 これを受けて天皇が譲位の意思を最終的にひっこめる。 ・これが実施に移され、鷹司家から加賀、長州、阿波藩へ、近衛家から尾張、薩摩、藤堂 藩へそれぞれ内勅(ただし写)が伝達される。 そして、これらの決定と実行は、九条関白を排除したなかでなされ、結果的に水戸藩に も内勅がくだることになった。 そして、内勅の降下を、名誉なことだと受け止めた諸藩の政治行動を、以後活発にさせ ることになった。 ・このあと、孝明天皇の攻撃の矛先は、九条関白に向けられる。 また、天皇の攻撃は、関白にとどまらず、武家伝奏の万里小路正房と広橋光成にも向け られた。 武家伝奏が事実上関白の支配下にあった以上、関白攻撃の一環としてなされたことは疑 いない。 ・そして、武家伝奏両名は、天皇への忠誠を表明し、進退伺を出して引き籠る・ つづいて、九条関白から所労を理由に辞職願が出される。 そして、九条尚忠が関白職と内覧を辞し、この内覧の辞退が認められ、左大臣の近衛忠 煕が内覧となる。 ・ここに孝明天皇は、長期間にわたって続いてきた、関白による朝廷支配を打破すること に成功したといってもよい。 いまや、孝明天皇は、朝廷内を思いのままに動かせる能動的な君主となったのである。 ・ここまでは、ほぼ一本調子で孝明天皇が勝利を収めてきたが、この頃をピークに天皇を 取り巻く投槍が急激に変わってくる。 変化を告げる役割を担ったのは、再度京都司代となった「酒井忠義」であった。 酒井は、上洛すると、さっそく朝廷から、九条関白の辞職と近衛忠煕の新関白就任を求 める天皇の考えが通知される。 これに対し、酒井は、武家伝奏両名に、幕府首脳の返答を待たないで、関白人事を天皇 が勝手に発令しないようにと、その同調者にやんわりと警告を発したのである。 ・酒井の警告は、翌日の御前会議にすぐに反映されることになった。 この日、武家伝奏両名の進退問題が話し合われ、結局、最終的には、孝明天皇の意見で、 二人の処分が、武家伝奏職はそのままで、もともとの官職である大納言だけ辞退とする ことに決定する。 二人がすでに天皇に忠誠を誓っていたことが、武家伝奏留任の大きな理由となったと思 われるが、酒井の警告もむろん考慮されたことは間違いない。 そして、このあと、京都所司代・伏見奉行・御付による朝廷の監視態勢が強化され、 まもなく朝廷関係者の弾圧(いわゆる安政の大獄)が始まることになる。 ・朝廷が弾圧を招いた要因は二つほど考えられる。 ひとつは、いうまでもなく、水戸藩などに内勅がくだったことである。 これは、朝廷と諸藩の直接的な結合を禁止してきた幕府の根本法に抵触する点で、幕府 は絶対に認めるわけにはいかなかった。 事態を静観すれば、朝廷と諸藩との接近の動きが半ば公然化することは眼に見えており、 幕府としてもこれはなにがなんでも阻止しなければならなかったのである。 いまひとつは、関白を交代させようとする動きが、老中の間部詮勝と京都所司代の酒井 忠義の上洛に先立って、朝廷を天皇が思い通りにしようとするためのものだと見透かさ れたことである。 そして、この動きの背後に、徳川斉昭の「陰謀」があるとみなされたことも大きかった。 なにしろ徳川斉昭の動向に関して、幕府が極度に神経質になっていた当時にあっては、 このことは軽視できなかったからである。 ・これに対し、天皇は、参内した間部に風邪を理由に面会を拒絶するなど、多少の維持を 通したものの、妥協を余儀なくされた。 ・以後、万延元年(1860)に井伊直弼が桜田門外で暗殺されるまで、孝明天皇は失意 の時代に入る。 そして、このような立場に立たされた天皇は、このあと、あい変らず、信頼関係を築け ない九条関白との協調を表面的に装い、朝廷高官の処罰を幕府から強く求められると、 それに消極的な対応を繰り返して逃れようとする。 ・もっとも、そうはいっても、この間の天皇は、よくよく観察すれば、決して通商条約拒 絶の信念を撤回してはいないことがわかる。 天皇は、この失意の時期に入っても、頑なに、しかし、それまでのように、声高にでは なく、鎖国体制への復帰を間部(幕府)に要望し続け、妥協案を提示した。 井伊直弼暗殺後の政局と孝明天皇 ・孝明天皇にとっての閉塞状況を、一気に打ち破ることになったのが、「桜田門外の変」 でした。 万延元年三月に、大老の井伊直弼が暗殺されると、再び孝明天皇の対幕関係における優 位が復活する。 そして、以後、これは覆ることはなかった。 ・井伊政権の後に成立した久世・安藤政権(老中「久世広周」と老中の「安藤信正」が指 導)は、朝廷(天皇)を幕府の上位に位置づけ、これと一体的な案刑を築くことで、 井伊直弼の暗殺後、急速に弱まった幕府権威の回復を図ろうとした。 そのため、同政権は、幕府においても、将軍をはじめ、政務を担当している者は、誰ひ とりとして外国人との交易を好む者はいないと、 天皇に迎合する姿勢をまず見せるこ とからスタートする。 ・そして、久世・安藤政権の孝明天皇への迎合的な姿勢は、同政権が公武合体実現のため に、天皇の実妹である「和宮」の将軍・家茂への降嫁を要請したことで、一段と救い難 いものとなった。 ・天皇は結婚をしぶる和宮の降嫁を認める交換条件を出す。 それは、幕府がペリー来航前の「嘉永初年頃」の対外政策に戻せば、家茂との結婚に難 色を示す和宮の説得に努めるというものであった。 つまり通商条件どころか、和親条約すら認めない対外強硬論を条件として出した。 ・これに対し、幕府は、七、八年ないしは十年後には必ず通商条約を拒絶すること、およ び後々の幕府がこの約束を反故にしないことはないことを誓う。 そして、幕府側の子の回答に天皇が満足し、和宮の降嫁が決定をみる。 ・このように、朝幕関係に激的な急回転をもたらした万延元年は、わずか一年弱で終わり、 再び改元が行われて時代は文久期に突入する。 文久期に入ってからの孝明天皇の動向で、特筆すべきことが二点ほどある。 第一点は、天皇がいわゆる人心に配慮する動きをみせ、それが幕府との新たな緊張関係 を招くのである。 ・横浜・函館の開港後、民衆の生活を悩ますことになったのは、コレラの流行と物価の急 激な上昇であった。 コレラのもたらした惨害もそうとうなものだったが、物価の高騰は、コレラのような一 過性のものとは異なって、民衆の生活を辞地上的なレベルで苦しめることになった。 ・こうした問題は、民間人の間では、通商条約の開始と関連づけられて、その原因が囁か れるに至る。 文久元年(1861)に入ると、白米・味噌・醤油・灯油などといった、民衆が必要と する品物の価格が、貿易の進展にともなって、また一段と高くなる。 そのため、民衆の対外通商関係に対する強い不満を招き、以後、排外的な気分を色濃く 民衆の間に浸透させていくことになる。 こうした民衆の動向を、いち早くキャッチしたのが、孝明天皇でした。 ・文久期に入ってから天皇の動向背、目につく第二の点は、天皇が幕府人事(ただし、京 都に勤務する幕府役人に限る)にまで介入したことである。 ・天皇がこうした要望を幕府に行った理由は、幕府にあくまで通商関係の拒絶を約束させ るためであった。 すなわち、天皇は、もちろん人間関係もあったであろうが、通商条約を拒絶したいとの 自分の要望をよく知り、またそれを尊重することを表明した人物を身近におこうとした のである。 ・長州藩は、文久元年三月に、直目付の「長井雅楽」が提唱した「航海遠略論」を藩論と して採用する。 これは、攘夷がもはやできないことを認めたうえで、幕府主導のもと、巨大な艦船を造 り、遠く海外への雄飛をめざすという事実上の開国論であった。 ・長井の論は、開国路線の幕府には、当然のことながら、すぐに受け入れられた。 だが、京都ではそうはいかなかった。 一時は調子よく事が運んだが、結局うまくいかなかった。 藩内の攘夷派を含む反対運動と、なによりも孝明天皇の攘夷思想の前に、長州藩は航海 遠略策を藩の方針として掲げ続けることができなかった。 ・長州藩は、翌年六月、長井を罷免し、航海遠略策から破約攘夷(条約を破棄して、攘夷 を行なう)に藩論を180度転換する。 そして、以後、長州藩は、朝廷内にあって急進的な尊王攘夷論の旗頭をつとめた「三条 実美」らと強く結びつき、尊王攘夷運動をリードしていくことになる。 ・他方、薩摩藩はどうであったかといえば、藩主「島津忠義」の実父で「国父」とよばれ た「島津久光」が、藩兵一千名をひきつれて上洛してきたのは、文久二年四月のことで あった。 薩摩藩がこのような思いきった行動をとるに至った背景には、薩摩藩が前年末段階から 練っていた国家改造計画があった。 ・まず、薩摩側は、万延元年以来、幕府独裁政治が破綻したとみた。 しかも、それはもはや修復不可能とみた。 そのうえで、これからは朝廷と幕府が協力しあって、つまり公武合体で、国家の最高方 針(これを当時は「国是」といった)を定め、それに従って国政が運営されねばならな いとした。 ・そして、そうした状況に持って行くためには、孝明天皇の同意(「非常の聖断」)を得 て勅使を江戸に派遣し、幕府本体の改造をまず図らねばならないと考えた。 すなわち、和宮降嫁問題などで衆人の反感を一身に集めていた老中の安藤信正を退け、 代って幕府の中心に有能な人材(具体的には前越前藩主の松平慶永や一橋家当主の一橋 慶喜)を送り込み、改革を実施することが不可欠だとしたわけである。 ・そして、薩摩側のこうした要求を朝廷が受け入れて、勅使「大原重徳」が江戸に派遣さ れ、松平慶永の政事総裁職就任と一橋 慶喜の将軍後見職就任がともに実現する。 そして、その慶永・慶喜政権のもと、参勤交代制の大幅緩和などの改革が一気に進展し た。 ・さて、文久期に入ると、このように薩長両藩が中央政界に本格的に登場し、ともに公然 と政治活動を開始する。 外様藩が幕府政治に介入することは固く禁じられていたが、両藩はそれをあえて無視し て、公武間の周旋に乗り出した。 その結果、それにつられる形で、土佐藩などの有力藩がぞくぞくと京都にやって来る。 ・幕末政治史上において、薩長両藩がはたした画期的な功績のひとつは、閉塞状況にあっ た当時の日本に大きな風穴をあけ、新しい時代の到来をなかば強引に演出したことであ る。 ・そして、こうした両藩の活動は、「薩長の時代」「雄藩の時代」を招来することになる。 敏感に反応したのは、圧力に極めて弱かった公家であった。 公家はすぐに薩長両藩などの依存するようになる。 ・また、江戸に派遣された大原重徳は、自分に随行してきた薩摩藩兵の軍事力を背景に、 老中を排除して、慶喜・慶永の両者を宿舎に招き、彼らとのみ相談する姿勢を見せた。 そのため、「幕府を軽視して不礼はなはだしと、閣老衆(=老中)はじめ諸有司までも 大いに憤激」する事態を招く。 ・文久二年五月、天皇は、幕府と朝廷内の「奸吏」「奸徒」、つまり悪い役人をともに誅 し、そのうえで将軍が大小名を率いて上洛し、国家の方針を攘夷に定めることを求める。 ・もっとも、「三条西季知」や「徳大寺実則」ら公家二十四名から、連名、挙国一致での 攘夷の実行と、将来の「迷宮」に鎮座まします天皇ではなく、「群臣有志の輩」をひき いて行動する政治君主となることを求められると、すぐに天皇は一転して、事態が過激 な方向にいくことを押しとどめようとする。 ・このように孝明天皇には徳川幕府が支配の頂点に位置するいわゆる幕藩体制なるものを 否定する気持ちがまったくなかったのですが、そのことを改めて天皇が表明しなければ ならなくなるほど、公家の政治意識が高まってくる。 そして、そうした事態の到来を招いたのは、言うまでもなく、抗命店の嘘の人でした。 ・さて、このように天皇・公家双方の攘夷決行に向けての「繊維」が高まるなか、 勅使の派遣は、幕府を立ち直らせ、攘夷を成功に導くために不可欠の万低条件として位 置づけられていた。 そして、江戸にくだった大原重徳が、「攘夷の勅語」をふりかざし、幕府首脳に攘夷の 実行を迫り、幕府側が、それに絶え間のない譲歩を余儀なくされていくことになる。 ・将軍家茂が、大原勅使に対して、勅を奉じて攘夷を行なうことを承諾し、ついで官位を 幕府失政の責めを負うとして一等(1ランク)下げることを幕臣に宣告する。 官位の一等辞退が、幕府の朝廷に対する低姿勢のいわば総仕上げ的な意味を持ったこと は言うまでもない。 ・翌文久三年に入ると、一段と大きな変化がみられるようになる。 その最たるものは、政治の中心が江戸から京都に移り、幕府権力の失墜が決定的となる ことである。 ・そうなるに至った要因のひとつは、将軍徳川家茂の上洛であった。 文久三年三月に上洛した家茂は、六月に退京するまで、京都にあっていわば人質同様の 状態に置かれる。 そして、孝明天皇から長く京都にとどまり警護に当たることを要請される。 また攘夷の催促を受け続け、攘夷を否定できない状況にいっそう追いやられる。 ・そのため、注目すべき事態が起こる。 幕府が二極化、つまり「京都の幕閣」と「江戸の幕閣」に分裂するのである。 京都では、将軍以下諸役人が、いや応なしに孝明天皇の攘夷意思を尊重することになっ た。少なくとも、そのような姿勢をとらざるをえなくなった。 ところが、江戸の老中や諸役人は、京都と遠く離れて直接的なプレッシャーを受けない うえに、日常的に欧米人と接触して、その文明の力量を熟知しているから、到底通常条 約の破棄などできないと考えていた。 ・文久三年の政治状況の大きな特色としては、ほかにも攘夷の実行を求める嵐が、孝明天 皇の許容範囲を超えて吹きまくり(暴走化し)、結果として文久政変を引き起こしたこ とが挙げられる。 日本から外国人を追い払えという尊王攘夷運動は、朝権の伸長と幕府の衰退を背景に、 この年最高潮に達する。 ・この文久の変は、長州藩を筆頭とする尊攘派の京都追放が、幕府自身の手ではなく、 薩摩・会津両藩、及び孝明天皇とその信任の深い中川宮のイニシアチブによってなされ た点に特色があった。 すなわち、幕府自身がもはや問題を自力では解決し得なくなっていた(言い換えれば、 政権担当者としての機能を果たせなくなっていた)ことを、白日のもとに、さらけ出す ことになったのである。 一会桑の登場と孝明天皇 ・文久期が終わり、元治元年(1864)に入ると、孝明天皇の姿が、以前ほど表立って 現れないように見える。 私は、これは、天皇が代弁者を見出したことに拠るのではないかと考えたい。 つまり、天皇自身が声高に、攘夷実現の希望を叫ばなくてもよくなる政治勢力が登場し て、天皇がそれに依存することが多くなったことが、こうした事態をもたらしたのでは ないかとみるわけである。 ・では、孝明天皇が自己の代弁者と見た政治勢力とは何であったのか。 私は、これを一会桑の三者だと考える。 ところで、一会桑という言葉であるが、これはまだ一般的には認知されていない馴染み のない言葉かという。 簡単に説明すると、一会桑とは、一橋慶喜、会津藩、桑名藩の頭文字をそれぞれとって ネーミングしたものである。 ・先陣を切ったのは、会津藩の松平容保であった。 会津藩主の松平容保が、新設ポストの京都守護職に任命される。 これは、それかで京都の治安維持にあたっていた京都所司代ではどうしようもなくなっ た状況の到来を受けて、幕府が親藩で強大な軍事力を持つ会津藩の力をもって、何とか 苦境を打開しようとして設けたポストであった。 ・続いて、一橋慶喜が、自らの希望で将軍後見職を罷めて、禁裏御守衛総督・摂海防禦指 揮なるポストに就く。 そして、松平容保の実弟で、桑名藩主の「松平定敬」が、京都所司代となる。 ここに一会桑の三者が京都に勢揃いすることになった。 ・一会桑の三者が江戸を離れて、京都に乗り込んできたことのもつ歴史的意義は、大きか ったといわなければならない。 なぜなら、一会桑の三者が、たとえ江戸で老中や諸役人と同じことを考えていたとして も、京都に実際にやってくれば、江戸で考えていたことをそのままやれるはずがないか らである。 ・そのうえ、当時は、いまのように、情報網が整備され、互いに意見が短時間で正確に伝 わる時代ではなかった。 江戸と京都の間では、普通の旅をすれば二週間ほどかかる。 遠い遠い、いわば異国と言ってもよい関係にあった。 当然、一会桑の三者と、江戸の老中等の間に、互いの内情がわからないために意思の疎 通を欠き、衝突が生じたのも、無理はなかったのである。 ・そして、孝明天皇と一会桑三者は、やがて互いを必要不可欠の存在として認め合い、 深く依存する関係に入る。 すなわち、一会桑の三者は、孝明天皇の攘夷思想を尊重し、他方天皇のほうは、一会桑 の三者に自己の代弁者としての役割を積極的に見出だしていく。 最初から攘夷思想が強かった会津藩関係者はともかく、一橋慶喜なども京都に定住する ようになると、当初の開国論はどこへやら、天皇(朝廷)の攘夷実行の要請に同調する ようになる。 ・その結果、孝明天皇の考えが、その攘夷の意思も含めて、以前ほど激しく表明されなく なったところに、元治年間以降の天皇になか悪政治状況の最大の特色があると私は考え ている。 ・しかし、こうした一会桑三者のあり方は、孝明天皇の度重なる督促にもかかわらず、 攘夷を事実上拒否し、なし崩し的に開国路線を押し進めようとした江戸の老中や諸役人 との対立をやがて招くことにもなる。 また、鎖国体制の決意した越前藩や薩摩藩などの雄藩との衝突も、深刻なものとする。 そして、公然と攘夷主義を掲げて中央政界に乗り出してきた長州藩とはライバル的な関 係となる。 ・一会桑三者の先頭を走る形となった会津藩だが、藩主松平容保が京都守護職に任命され てからの同伴の動向に関して際立つ特色は、当初から孝明天皇(朝廷)の要求を積極的 に受け入れようとする姿勢が目立つことである。 「小笠原長行」の率兵上洛問題で、朝廷がパニック状態に陥った際には、天皇(朝廷) の意を受けて、桑名藩とともに小笠原の上洛阻止に努め、それを達成する。 小笠原の率兵上洛を阻止したのは会桑両藩であった。 ・そして、会津藩は、やがて長州藩を筆頭とする尊王攘夷派と抜き差しならない深刻な対 立関係に入り、その結果、文久政変が起こる。 続いて、文久政変後、会津藩は尊攘派の憎しみを集め、集中砲火に近い批判を浴びるこ とになっていく。 ・こうして、苦境に立たされることになった会津藩を救ったのは孝明天皇であった。 文久事変後、朝廷での会議は、天皇の座前で催されることになったが、天皇はこのこと を取りあげ、文久政変を肯定してみせたのである。 ・一橋慶喜の人生において目につくのは、彼の活動が本格化するのが、この京都時代だと いうことである。 それまでの慶喜は、将軍継嗣問題で表舞台に登場した際がそうであったように、自らの 意志ではなく、第三者の活動の結果、いや応なしに時代の主人公にさせられた面があっ た。 将軍後見職への就任もその点では同じであった。 彼は、薩摩藩と朝廷の圧力のもと、気がつけば、将軍後見職にされていた。 ・こうした一橋慶喜の登場の仕方は、彼に独特の対応を強いることになる。 それは、よほどのことがない限り、自らの意思をはっきりとは表示せず、常に消極的な 態度を持すことであった。 むろん、これは、慶喜が父・徳川斉昭(ひいては自分)に対する江戸の老中・諸役人・ 多くの強い反発を常に意識していたということが大きくかかわっていた。 そのため過度とも思える遠慮が存することになった。 ・しかし、京都にやって来てから以後の慶喜には、そうして遠慮が後ろに退き、彼本来の 主体的な動きが見られ始めるように思われる。 そして、彼の思想の根源にあった尊王の考えが、遺憾なく発揮されるようになったとも 見える。 その最初の表れは、「参預会議」の席においてであった。 ・参預会議は、朝幕双方の合意によって国の方針を開国に転ずるまたとない機会であった。 現に参預に任命された松平慶永と島津久光の両名は、孝明天皇の前で、勇を奮って開国 の必然性を言上した。 これに対し、慶喜は、松平容保とともに攘夷の立場を堅持し、最終的に参預会議を空中 分解においやった。 ・この一会両者の言動には様々な憶測がくだせるが、少なくとも一会の両者はこのことで 孝明天皇の攘夷の意思に忠順であることを改めて表明することになったといえよう。 ・幕府の朝廷尊奉策が一橋慶喜および在京中の老中等の間で協議され、具体化していく。 それは、天皇・朝廷との諸藩の接触を否定しようとする、幕府中心の朝廷尊奉策であっ たが、慶喜は幕府が朝廷を敬う体制を早急に形として表そうとしたといえるであろう。 そして、幕府への大政を委任することが改めて評議決定される。 これは、こうした慶喜の朝廷尊奉の姿勢が天皇・朝廷に高く評価された結果でもあった。 ・ここに形のうえでは、朝幕双方の合意のうえに攘夷(横浜鎖港)を行なうことが決定を みたのである。 が、こうした合意は、元治元年七月に中国で太平天国が崩壊したことで難局を乗り切っ たイギリスが、やがて香港から撤兵し、横浜がいよいよ香港に代わってイギリス軍の東 アジア最大の駐留地となっていくなか、日本の立場をよりいっそう危険な状況においや ることになった。 ・池田屋事変の発生は、長州藩士の「吉田稔磨」などが殺されたこともあって、文久政変 後たまりにたまっていた会津藩に対する長州藩士の反発を一気に呼び起こし、長州藩兵 の上洛の動きを加速させることになった。 そして、対象を会津藩にしぼった徹底した攻撃をおこない、朝廷に会津藩と戦うことの 許可を求めた。 ・このような長州藩の会津藩攻撃に対して、諸藩レベルでは、因幡(鳥取)・備前(岡山) 芸州(広島)・筑前(福岡)・対馬などの諸藩が熱烈な支持を表明した。 公家の多数も長州藩を支持した。 また、京都に住む民衆の多くは、長州藩に対して概して好意的であった。 そして、幕府側も、どうやら積極的に会津藩を援護する姿勢はみせなかったらしい。 ・会津藩寄りの姿勢を見せなかった点では、一橋慶喜も同様であった。 当時の慶喜は、長州藩と対決しなければならない状況にはなかったからである。 彼はもともと孝明天皇の意思を尊重して攘夷を奉じた点で、長州藩士と共通の土俵に立 ちえた。 慶喜は、実家の水戸藩からかなりの数の兵士を借り受けたが、この連中は対外攘夷主義 者で長州藩寄りであった。 ・このように、禁門の変直前、会津側は絶望的なほどの孤立無念状態に追いつけられた。 こうした状況に陥った会津藩に、最後の最後の段階で助け舟を出すことになったのが、 薩摩・肥後・土佐・久留米の四藩と孝明天皇であった。 なかでも、孝明天皇のそれは会津藩にとってまさに起死回生の援護となったといってよ い。 ・まず、孝明天皇は、会津藩が首謀者となって引き起こされた文久政変を改めて是認する。 つまり会津藩を援護する叡慮を関白以下に示した。 これは、いうまでもなく、会津藩にとってカンフル剤に等しい有り難い叡慮となった。 ・ついで、孝明天皇は、参内した慶喜に対し、長州藩士が京都から退去せよとの説論に服 さない場合は、ただちに追討せよと論旨を出す。 そして前後にして天皇は、長州藩の歎願を許容するか否かは、しばらくおき、かねてか ら入洛を禁じているにもかかわらず、武器を携えて多数の兵士が入洛し、不穏な「所業」 をおこなっているのはけしからんと、激しい長州藩批判の言辞を露わにする。 孝明天皇は、苦境にあった会津藩を徹底して救ったのである。 そして、長州征討を命じる朝命をくだした。 ところが、これに対し、慶喜は江戸の政情不安を挙げて、朝命にもかかわらず、すぐに は受諾しなかった。 一会桑の朝廷掌握と孝明天皇 ・元治元年七月十九日に勃発した禁門の変は、戦闘そのものは一日で終わったものの、 二十一日朝にまでおよんだ火災で、京都市中の大半を焼くという惨憺たる結果をもたら した。 ところが、驚くことに被害にあった民衆の多くは、怒りをもともと攻撃を仕掛けた側で ある長州藩にではなく、会津藩への憎悪というかたちで吐き出したのである。 ・京都民衆の会津藩への反感の背景にあったのは、攘夷(下関戦争)を決行した長州藩へ の共感であった。 横浜開港以来、日用品の高騰が続くなか、民衆の間には、排外行動に立ち上がった長州 藩に拍手喝采するムードが漂っていた。 しかも、それは文久政変後も変わらなかった。 民衆の長州支持のムードは一向に衰える気配がなかった。 ・こうしたムードが支配的であったからこそ、禁門の変で、長州藩兵が敗北し、彼らが逃 走に過程で落命すると、その死を悼み、彼らの墓に詣でる、いわゆる「残念さん」信仰 なるものが爆発的な広がりをみせるのである。 ・そして、禁門の変後、民衆の反会津感情をさらに高めることになったのが、会津藩によ る、落武者探しの過程での、その残虐行為であった。 ・禁門の変後、一橋慶喜の姿勢が対長州強硬論で一貫することになり、会津側と友好的な 関係に入る。 ただその関係は、少々変則的な形をとることになった。 というのは、当時、会津藩主の松平容保は病弱で指揮をとることができず、家老と公用 方に京都守護職および藩政の実権が委任されることになったからである。 ・容保は、禁門の変時の無理がたたって、その病弱ぶりがいっそう進行し、込み入った仕 事に関わったり、長い話を聞かされたりすると、その後、明らかに体の具合が悪くなっ たらしい。 そのため、賞罰等の重大事を除き、すべて在京家老に一任することになった。 ・一会両者(なかでも会津関係者)の孝明天皇への絶対服従の姿勢が、いっそう明瞭とな ることである。 孝明天皇は絶体絶命の立場にあった会津藩の苦境を救った。 そのため、会津藩は、天皇の意思(すなわち攘夷の意思)をどこまでも尊奉することを 絶対視するようになる。 ・孝明天皇や二条関白、それに中川宮の側にも、一会両者の依存する度合いが格段に高ま った。 ・禁門の変後、当初の混乱が収まると、会津側は藩主松平容保の病状もあって、本陣のあ る黒谷に踊りたいと朝廷に盛んに要請する。 ところが、孝明天皇の強い反対にあって、ずいぶん長い間、容保は黒谷へ戻ることがで きなかった。 孝明天皇はまるで駄々っ子のように、年下の容保を御所の周辺から離そうとはしなかっ たのである。 ・一会桑三者および彼らに同調する幕府内の一部勢力と一部諸藩が、将軍家茂の上洛を促 す運動を積極的に展開し、結果として、一会桑三者と江戸の老中・諸役人との対立を招 くようになった。 これは、禁門の変後、長州藩の処分をどうするかが問題になったことと大いに関係して いた。 禁門の変後、当然のことながら、皇居に向けて発砲し、朝敵の烙印を押された長州藩の 処分が求められるに至る。 ・ところが、ここに大問題となったのは、欧米諸国の動向であった。 というのは、禁門の変後、前年下関で砲撃を受けた事件の報復を実行に移す動きを米英 仏蘭の四カ国が見せたからである。 そして、現に四カ国の連合艦隊は、長州藩の下関砲台を攻撃し、占領する。 ・もし、この四カ国が、長州藩への攻撃を始め、同藩を屈服させたあとに、長州藩の征討 をおこなえば、外国人の力を借りて長州藩を征討したのも同然となり、非難が巻き起こ ることは眼にみえていた。 そのため、一会桑およびその同志らは、外国人の手を借りない自力での長州問題の解決 を図らねばならなかった。 ・ところが、将軍の再度の上洛には、江戸の老中や諸役人の多くが強く反対した。 将軍の再度の上洛を許さないほど幕府財政が極度に疲弊していたことに加えて、前年の 将軍上洛時の苦い記憶がまだ彼らの間に生々しく残っていたからである。 すなわち、人質同様となった将軍がとうとう横浜鎖港の実施を約束させられるはめにな った苦い悪夢のような経験を忘れるにはあまりにも時日が経過していなかった。 また、禁門の変で攘夷派が京都から追放されたことをもって、幕府の直面した深刻な危 機がひとまず回避されたと受け取った。 だから、江戸の老中以下、多くの幕臣は、わざわざ再び将軍が出向くまでもないと、 将軍の上洛に抵抗した。 ・老中以下の怒りは、とどまるところを知らず、勘定奉行の「小栗忠順」などは、「会桑 両藩は、京都の権威に乗じて、僭越な行動をしている。とりわけ、慶喜の征長総督就任 要請などは、はなはだ問題だ」と激しい憤りをもらすまでに至る。 ここには、一会桑の三者が、境地にあって孝明天皇や二条関白と深く結びつき、朝廷の 権威を背景に、好き勝手なことを幕府に要求しだしたとの、感情的な反発が露骨に出て いる。 ・なお、文従事変後の政治状況にかかわる特色として、番外ではあるが軽視できないもの を、もうひとつ挙げたい。 それは会津藩内に藩是(藩の最高方針)をめぐって深刻な対立が生じ、結果的に、長州 征討(第二次長州戦争)を、幕府側の敗北に終わらせる一因となったことである。 ・禁門の変前後から、長州藩と会津藩の対立が取り沙汰され、長州側も意識的にそのよう な方向にもっていった(長州藩の敵は会津藩のみであることを強調)。 そのため、薩摩藩を含む多くの藩が、長会の対立を「私戦」と受けとめ、ぎりぎりまで 「傍観」し続け、会津藩をして非常に苦境においやったこと、および会津藩の置かれた こうした状況を最終的に救ったのが孝明天皇であった。 ・禁門の変直後の段階でこうした事態を深刻かつ冷静に受け止めたのは、皮肉なことに、 会津の国元と江戸の御用所(家老、若年寄の書記局)であった。 国元の御用所は、京都と江戸の御用所に宛てて、長州征討に深入りすべきではないと進 言した。 その理由は、長州征討が「私戦」と受け止められかねないことを恐れたからであった。 今回の件で、長州藩が「的」として攻撃したのは会津藩なので、長州征討を主張すれば、 会津藩のために行ったように受け取られかなないと。 さらに、国元の会津藩首脳は、京都の首脳に同様の見通しを伝え、容保の京都守護職辞 任と国元への帰国を求めた。 ・そして、国元と江戸の御用所に、それぞれ共通してみられたのは、公用方への痛烈な批 判であった。 国元と江戸の御用所が、ともに痛烈な公用方批判をおこなわねばならなかった理由は二 つほど考えられる。 ひとつは、彼らが中世の第一の対象を、天皇(朝廷)ではなく、幕府においていたこと から発する批判であった。 江戸に在勤して、老中・諸役人と日常的に接していたから、どうしても幕府寄りの姿勢 を強めざるを得なかったのである。 反面、当然のことながら、江戸の老中・諸役人の反発をもろに浴びることにもなった。 ・公用方への批判が生じたいまひとつの理由としては、新設ポストである公用方への権力 集中に対する、旧来型の機構構成員の側からする反発を挙げることができる。 ・このように、会津・江戸両所の御用所関係者から、藩主の辞任と国元への帰国を求める 声が高まるが、この要求を、断固として撥ね退けたのは、藩主の容保自身であった。 ・ところで、容保がこのような姿勢を貫いたのは、それなりの計算が彼にあったからであ る。それは、 @将軍の上洛を実現したうえで、 A天皇と将軍の親密な関係を創出(公武合体の実現) B長州問題を解決し、辞職→帰国 という目論見であった。 ・禁門の変後から続いていた江戸の幕府首脳による一会桑敵視政策が突如中止されるのは、 慶応元年三月のことであった。 江戸から京都に戻ってきた会津藩士の「井深重義」に対し、老中から一会桑敵視政策の 中止が告げられたという。 ・このような決定がなされたのには、どうやら将軍上洛の是非を巡って老中たちが激しく 争い、その結果、将軍の上洛を押し進めようとするグループが勝利を収めたことが、 大いに関わっていたようである。 が、それはともかく、このあと、会津藩を中心とする一会桑三者と幕閣との関係が急速 に良くなることは明らかである。 そして、将軍が長州再征のために江戸を進発することが発令される。 ・他方、京都にあって、一会桑の三者が、自分たちの意見が朝政に大きく反映されるよう になる。 これは、むろん孝明天皇や二条関白、それに中川宮といった朝廷内の最高権力者の強い 支持があったからに他ならなかった。 ・天皇は、一会桑の三者を介して将軍(幕府)側と折衝する考えを伝えた。 これは、当時、もはや単純な朝幕関係ではなく、「朝廷ー一会桑勢力ー幕府」関係とで もいうべき新しい関係が生まれてきたことを示していた。 ・また、一会桑三者と二条関白および中川宮との関係であるが、慶応元年四月時点で、 会津藩は二条関白邸と中川宮邸へ多数の藩士を派遣していた。 しかも、それは特定の部署の公務に差し障りが生じるほどの多人数であったという。 こうして、両家の内へ入り込んだ連中が、単に身辺警護的な仕事にとどまらず、家政の 実質的な運営者ともなったであろうことは、想像するに難くない。 ・中川宮邸には、公用方の「倉沢右衛門」なる人物が貸し出された。 そして、倉沢は、その後、宮家にあって、「内外の御用向、大細事ともに」、つまり宮 家の家政全般を切り回していくことになった。 ところが、皮肉なことに、それが倉沢をして逆に、「当惑」させ、宮家勤めを辞退させ るきっかけとなる。 なぜそうなったのかと言えば、宮家は、「御家料千五百石」に過ぎないのに、「毎月の 諸払い、如何に打ち詰め候ても平均三百両より三百五十両」にまで肥大化していた。 当然、このような状況を乗り切るためには、倹約策しかなかった。 しかし、倉沢によれば、こうした事態に立ち至っても、当の宮には県や国つとめる気持 ちなどはさらさらなく・・・。 ・ここには、いうまでもなく、朝廷内の中枢に位置するようになって以降、甘い汁を吸う ことになれ、倹約を受け付けなくなっている中川宮の姿が如実に顕われている。 そして、会津藩ですら、宮を制御しえなくなっていることもうかがえる。 こうした状況だったから、生来、生真面目で、きちんと物事に対処しないと気が済まな い質の倉沢に我慢できなかったのである。 ・そこで、倉沢は、自分の気持ちに加えて、近い将来、藩に迷惑がおよぶことを恐れ、 藩当局に執拗に辞職を求め、結局会津に帰国することになった。 ・この倉沢と中川宮の関係は、会津が朝廷上層部といかに深い位層で結びついていたかを、 端的に物語っているかと思う。 彼らは、ハッキリと言えば癒着関係にあった。 そして、それだからこそ、松平容保の強烈な自負心が生まれるのである。 天皇をはじめとする朝廷のトップと深い次元で結びついているという満々たる自信がな ければ、このような自負心が絶対に生まれないことはいうまでもない。 第二次長州戦争の強行と反発 ・慶応元年五月に、老中と一会桑三者による、長州藩の処遇をめぐる話し合いがおこわれ ることになった。 ・この日の会合では、まず老中の「安倍正外」と「松平康英」の両名から、長州藩の廃藩 を見通した厳罰論が出された。 松平容保によると、それは長州藩主父子を斬罪に処したうえで長州藩を滅ぼすという真 に厳しい内容のものであった。 他方、一橋慶喜は、父は助命、子は死刑とすべきだと主張した。 ・これに対し、容保は、含みのある発言をした。 容保は、老中が江戸で想定した厳罰路線を強行して、もしこれら西日本の諸藩が服従し ない場合が問題になると注意を喚起した。 そして容保は、妥協案を提示した。 容保は老中や慶喜に比べて、より寛大な意見を主張した。 ・ここでは、本来、対長州強硬論の先頭に立つはずの会津藩主ですら、いわいる西日本諸 侯の「公論」に規制されて、寛大論にとどまざるをえなかったことに注目しておきたい。 ・この日、このような意見が出席メンバーから出されたあと、老中から容保に、一会桑三 者と相談するようにとの孝明天皇の御沙汰もあることなので、下阪して長州処分の方針 を決める協議に参加して欲しいとの要請がなされる。 ・ところが、孝明天皇が、一橋慶喜と松平容保の両者がともに京都を離れることを頑とし て認めなかった。 そのため、最終的には慶喜と容保の両者が交互に下阪して老中との協議に加わることに なる。 そして、この大阪で長州処分案が確定し、これを朝廷に奏上して、天皇の許可を得たう えで実施に移すことになった。 ・大阪で決定をみた長州処分案は、長州藩の支藩主である岩国藩主の「吉川監物」と分家 主で徳山藩主の「毛利元蕃」の両名を大阪に呼んで、長州藩にかかわるいくつかの疑問 を問い質し、そのうえで最終的な処分におよびというものであった。 ・長州藩処分案を老中と一会桑が話し合って確定したが、すんなりと決定がなされたわけ ではない。 老中の思惑と幕臣間の厭戦気分の高まり、それに長州藩に同情を寄せる諸藩の征長を不 可とする建白などの前に、確固たる方針がなかなか打ち出せなかったのが実情であった。 ・諸藩の多くは、傍観を決め込んだ。 そして、覚めた眼で、事態の推移を見守ろうとした。 長州藩士が禁門の変時に御所に向かって発砲した件に関する謝罪は、藩兵を指揮した三 家老の斬首で決着がついたと諸藩の多くが受け止めていたからである。 天下の大藩である長州藩を征討しようとするには大義名分が乏しかったといわざるをえ ない。 ・そして、なによりも、諸藩の多くが一会両らが主として推し進めようとした長州処分策 に距離を置いたのは、それが最終的に自分たちにとって良い結果をもたらさないと踏ん だからに他ならない。 すなわち、長州側が処分案を拒否し、そのあと征長戦が開始されると、場合によっては 内乱状態に移行し、幕藩体制、ひいては藩の存続それ自体が危うくなる事態が容易に想 像された。 それに、出兵にともなう莫大な出費も当然考慮に入れた。 だから、積極的どころか消極的な協力もしなかった。 そして、こうしたなか、一会の両者か、事実上中心となって、第二次征長戦が強行され ていく方向に向かわざるえなくなっていく。 ・ところが、こうした動きに抵抗したのが、会津藩の国元であった。 慶応元年八月、国元の指導者(家老)は、連名で京都の同僚に宛てて、征長戦から手を 引き、藩主松平容保が辞職し帰国することを求めた。 その理由は、長州藩が会津藩のみを敵視している現状では諸大名の支援を受けられず、 会津藩にとってそれは危険きわまりない選択だとするものであった。 会津国元の藩指導者は、長州征討に深入りすべきではないとする段階から、さらに一歩 踏み込んで征長戦からの撤退を訴えたのである。 ・そして、このように主唱したあと、国元の家老は、最後に、長州藩にまったく縁もゆか りもない人物に京都守護職を譲って町大良容保が退任することが、政情不安を鎮める良 策であると締めくくった。 ・会津の国元は、今日との藩主と首脳陣がいらんことをしたという思いを強くもっていた。 そして、この会津国元の意見が江戸の藩首脳にそれでもあったことはほぼ間違いない。 ・こうした身内の反対が、会津藩を挙げて第二次征長戦に向かわせなかったといえる。 と同時に、会津藩関係者の多くに、改めて会津藩兵が投入されることで征長戦が「私戦」 と見なされることを極度に恐れさせ、それが勇猛果敢な会津藩兵の前線への投入を阻止 したといえる。 ・一会桑に対する反発はむろん会津の国元だけではなかった。 薩摩藩の大久保利通なども、痛烈な批判者のひとりであった。 大久保もやはり、一会桑路線に対して批判的であったことがわかるとともに、幕府を介 して朝廷に結びつく幕藩体制のあり方を明確に否定した点が注目される。 ・そして、故そのような批判を浴びつつあった一会桑三者の前に、新たな難題が出来する。 慶応元年九月、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四国公使が軍艦九隻を率い て大阪湾に来航し、兵庫の先期開港と条約勅許を迫ったのである。 ・そのため、朝命で諸侯を京都に召集し、諸藩の合議にもとづいて召集藩の処分問題をも 含む諸問題の解決にあたるべきだという意見が、主として京都在住の薩摩藩士から出さ れる。 そして、これを受けて、諸藩の召集を強硬に主張する内大臣の「近衛忠房」と、それに 難色を示す二条関白・中川宮の対立が派生する。 ・対立にケリをつけたのは一会桑三者であった。 一会桑三者は、外国艦隊の退帆を請け負うことを条件に、諸藩の京都召集を中止するこ とを朝廷側に求め、夜を徹して開かれた朝議で、長州門愛の処置を幕府に委任すること が決定をみる。 ・そして、この後、一会桑三者は、朝廷に圧力をかけ、とうとう孝明天皇に幕府が結んだ 通商条約を認めさせることに成功する。 ・老中や一会桑三者は、自分たちなりに「寛大な方針」を決定し、それでなんとかことを 穏便に済まそうとしたのであるが、なにしろ吉川監物と毛利元蕃の両人が期日が迫って も、一向に大阪にやってくる気配を見せなかった。 ・そこで、万やむを得ず、何らかの処分を新たにおこなわなければならなくなった。 それが最終的な長州処分防振の樹立となったわけだが、彼ら(なかでも一橋慶喜)の本 音をいえば、できたら第二次征長戦の実施は避けたかった。 ところが、自分たちで吉川・毛利両親の上阪を命じるシナリオを作成し、長州側に対し ていわば形のうえでだけでも手を振り上げたから、いまさらそれを降ろすわけにはいか なくなってしったのである。 ・そこへ、また悪いことに、四国連合艦隊が大坂湾に来航して、兵庫の早期開港と条約勅 許の実現をともに幕府に要求した。 そこで、追い詰められた大阪の幕府首脳は、天皇(朝廷)に奏聞しないで幕府独自の判 断で兵庫開港を決定した。 そして、これに一会の両者が強く反対し、捨身で阻止する行動に出た。 その結果、外国側との交渉を担当した老中二名(安倍正外、と松前崇広)が孝明天皇の 怒りに触れ、罷免されることになる。 つまり将軍が任命した老中が朝命で諸末されるという異常事態が発生する。 ・そのため、今度は幕府側が猛烈に反対し、それが将軍職辞退の動きにつながった。 すなわち、徳川家茂が将軍職を一橋慶喜に譲って江戸に帰ることになり、ここに朝幕双 方のトップを巻き込んだ茶番劇が展開されることになったのである。 それを一会桑の三者が説得して、ようやくにして事がおさまった。 ・もっとも、こうした経緯を経て条約勅許が実現をみたため、一会桑三者も無傷でおれ なかったのはいうまでもない。 孝明天皇の攘夷意思にどこまでも忠順であろうとした松平容保などは、天皇に申し訳な いとして、京都守護職を辞任して、海津への帰国を願う上書を将軍のもとに提出した。 そして、屋敷に閉じこもり、家臣の他家訪問や他人面会を禁止し、謹慎生活に入る。 ・だから、一会桑三者にとって、条約勅許と長州藩処分方針の最終的な確定は、ともに当 然のことながら、得意満面の勝利ではなかったのである。 むしろ、彼らにとって苦しい勝利となったといってよい。 ・ところが、傍目にはそうは見えなかった。 だから、条約勅許と長州処分方針の最終的な決議が、幕府(なかでも一会桑三者)に対 する激しい反発を呼び起こすことになる。 ・「坂本龍馬」は、一会桑三者の行動をなかでもとくに強く批判した。 また、当時、京都は洛北の岩倉村に蟄居していた「岩倉具視」は、激烈な一会桑の言辞 を吐いた。 ・薩長同盟に関しては、長らく幕末の倒幕政治過程において画期をなす出来事とみる見解 が有力であった。 なだ、一般的には圧倒的の多くの人々は通説的な考え方を強いしていることと思う。 それは具体的にはこういう考え方である。 かねがね武力倒幕のために薩長両藩の協力体制の樹立が不可欠だと考えていた土佐藩の 坂本龍馬が桂小五郎に同盟の件をもちかけた。 そして、これに同意した桂が上洛して薩摩藩邸に入った。 ところが、互いにメンツにこだわり、相手かの謝罪を求めた桂と西郷隆盛ら在京薩摩指 導者が本題に入れないでいたところに、遅れて京都にやってきた龍馬が、両者を説得し て、薩長同盟が成立した。 そして、この同盟の成立で薩長両藩はともに協力して武力倒幕をめざすことになった。 ついで、同盟の成立によって長州藩が薩摩藩名義で武器や艦船類を購入できるようにな り、その結果、第二次長州戦争で勝利をおさめ、幕府側に致命的なダメージを与えるこ とができた。 だから薩長同盟は画期的な意義を有したんだ、と大雑把に言うと、このように捉えられ てきた。 ・が、どうも、これは実態よりもはりかに過大評価されてきたと考える。 少なくとも、私には薩長同盟が武力倒幕をめざした攻守同盟であったなどとはとうてい 思われない。 ・一会桑三者の打倒と、幕府本体の打倒は、全然違う。 一会桑三者の打倒ならば、薩摩藩、あるいは長州藩の双方にとっては、勝利を十分期待 できる。 ・ところが、幕府本体に対する戦いは、ものすごく危険であった。 幕府が、ことのほか、弱かったというのは、むろん倒れてからの話で、幕府は内臓疾患 で重症ではあっても、外見はなにしろ巨象だから、幕府本体に叩きを挑むことはまず考 えられない。 ・薩摩藩にしても長州藩にしても、藩の総意として、幕府に対して公然と戦いを挑むこと を決定したことは一度もない。 そんなことはありえない。なぜか。そんなことを決定すれば、藩内にものすごい反対運 動が起こり、下手をすれば反ソのものが解体しかねないからである。 一会桑朝廷支配の崩壊 ・薩長同盟の成立後、長州再征への反発は、より一層ハッキリとした形となって現れる。 まず、在京薩藩指導者の一人であった大久保利通が、老中の「板倉勝静」に、薩摩藩が 幕府から要請されていた出兵を拒絶する旨の上申書を提出する。 出された上申書には、出兵拒絶の理由として、長州再征が大義名分のない戦いであるこ とが記されていた。 ・また、ほぼ同時期に提出された肥後藩主の建白書にも、幕府の「御威光」を保たんがた めの出兵が、幕藩制国家の崩壊を招きかねたいことが心配されていた。 肥後藩は、一会両者寄りの藩であったが、そうした藩ですら、こうした危機感を表明せ ざるをえなかったところに、当時の封建諸侯が抱え込んだ危機意識の深刻さが反映され ていたといえよう。 ・そして、こうした封建支配者以上に、大事に長州戦争に強行にノーの声をつきつけたの が、一般大衆であった。 大阪・兵庫を中心に、日本各地で民衆の蜂起があいつき、この年、江戸時代を通じて最 高の件数を数えたことは、よく知られているところである。 ・しかし、こうした反発を浴びながらも、第二次長州戦争の幕が切って落とされる。 勇猛果敢な会津藩が前線に投入されず、参戦諸藩の士気もあらがらず、また幕臣の間に 厭戦気分が濃厚に漂っていた状況にあっては、幕府側の勝利は初めから望みえなかった といえる。 ・案の定、強烈な危機感をもって臨戦態勢をしていた長州側の前に征長軍は敗北を重ねる ことになった。 そして、十四代将軍の徳川家茂が滞在先の大阪城で病死する。 ・このあと、一橋慶喜が条件つきで徳川の宗家は相続するものの、将軍職は断然辞退する という事態が生まれる。 ・そして、慶喜の宗家相続と長州への将軍家茂に代わる名代出陣がともに公布される。 徳川慶喜は、みずから征長軍の陣頭に立って前線にくりこむことを宣言したのである。 ・ついで、参内した慶喜に対し、孝明天皇から「速やかに追討の功を奏す」るようにとの 勅語が下る。 そして、天皇は、「石清水八幡宮」や「仁和寺」などの七社・七寺に、徳川慶喜が勝利 をおさめるように祈祷することを命じた。 ここに天皇は、慶喜とともに長州藩と対決することをあらためて宣告したのである。 それはいうまでもなく、天皇が幕府と運命を共にすることの宣告でもあった。 ・ところが、いかにも慶喜らしいというか、このあと慶喜は、周りが思っても見ない行動 に突如出ることになった。 すなわち、板倉勝静が上洛し、征長軍に参加していた肥後藩や久留米藩といった九州諸 藩の兵士が、幕府に無断で戦線を離脱し、国元に引き揚げたと報じると、一転して、 自身の名代出陣を中止し、これからは有力諸侯と話し合って、長州問題をも含む重要案 件を決定したいとの考えを表明したのである。 ・いかにも慶喜らしいというのは、彼は事前に周到な根回しをして関係者の了解をある程 度取り付けてから、自分の考えを表明するといったことが、まったくできない点である。 そのため、周りにおよぼすインパクトも、当然のことながら、より大きくなる。 ・この時がまさにそうなった。 慶喜の突然の停戦と諸侯召集の意思表示によって、朝幕双方にパニックが生じた。 慶喜とともに、長州再征を推進する立場に立った孝明天皇や二条関白、あるいは中川宮 は、当然困惑と反発の表情をみせた。 ・このように、孝明天皇・二条関白・中川宮の三者が揃って慶喜の変説に猛反発したのは、 当然のことであった。 慶喜の要求を受け容れれば、自分たちの行動が間違っていたということに即なるから、 簡単には認めるわけにはいかなかったのである。 ・さらに会津藩にとっても、慶喜の変説は手酷い裏切り行為以外のなにものでもなかった。 方針転換を知らされると、会津側は、それを不可として抗論し、聴き入れられなかった ので、松平容保は激烈な批判の言辞のつまった書面を慶喜に送りつけ、対決する姿勢を 示した。 ・そのため、激昂した会津藩士の動向が、反幕派の注目を浴びるまでに至る。 そして、公用方を中心とする在京会津藩家臣団は、以後、藩主の松平容保を激しく突き 上げる一方で、九州諸藩が解兵しても、徳川慶喜が出陣したら戦意が高まるとの立場か ら、中川宮邸などに押しかけ、勅命をもって断然慶喜の出征を促すように働きかけた。 ・そして、こうした中、「二条斉敬」が左大臣・関白・内覧・氏長者の、中川宮が国事扶 助職の辞意を、それぞれ表明し、ともに参朝を停止する事態が生じる。 ついで、老中の小笠原長行が御役御免となり、松平容保が京都守護職の辞意を申請する。 これをもって、朝廷の上層部と一会桑3者との強い結びつきにもとづく支配のあり方が、 一気に崩壊したのである。 ・文久以降、京都に乗り込み、中央政局に大きな影響をおよぼすようになった有力な藩の 多くは、朝廷・幕府・諸藩の3者が話し合って、開国か鎖国下の問題をも含めて、皇国 のこれからの方針(「国是」)を決定することを求めた。 そして、このような考え方は、もの言わぬより多くの日和見藩の意見でもあったと思わ れる。 ・それは、換言すれば、旧来の支配体制の激変を望まない、ゆるやかな改革を求める声で もあった。 諸大名およびその家臣団の本音を言えば、できるだけ多くの大名の総意にもとづいて、 穏やかに、現状をなるべく維持する形で、国家体制を変革することを望んだ。 それが幕府にさかんに提唱される公儀・公論を尊重せよという声でもあった。 ・公儀・公論は、できるだけ多数の意見にもとづかねばならなかったのは言うまでもない。 だから、ごく一部の関係者の声のみを吸い上げる一会桑的行動は、批判されねばならな かったのである。 また、厳しい国際環境のなかにあっては、長州藩との内戦を避け、挙国一致して欧米諸 国にあたることが何よりも望まれた。 ましてや、外国の力を借りて、同じ皇国の民である長州藩の士民を撃つことは嫌悪され た。 十五代将軍の誕生と大政奉還 ・孝明天皇が慶応二年十二月に突然痘瘡(天然痘)で急死した。 天皇の死は、むろん将軍職に就いたばかりの徳川慶喜にとって痛手となった。 ・しかし、反面、慶喜にとって重い足かせがはずれ、自由に羽ばたけるきっかけともなっ たと考えられる。 それは頑なな攘夷主義者で、とうとう最後まで兵庫開港を許してはくれなかった孝明天 皇の呪縛から、初めて逃れることができるようになったという意味においてである。 ・こうした徳川慶喜の置かれた新たな状況は、さっそく欧米諸国公使と接触し、幕府への 支持を取り付けようとする慶喜の積極的な姿勢となって現れる。 まず、フランス公使の「ロッシュ」等への接触が図られ、外国奉行の「平山図書頭」 を挑戦に使節として派遣することが決定をみる。 これは、当時、開国を拒んでフランスやアメリカと対立していた朝鮮と、それら二国の 仲介役をはたすことで、欧米諸国の幕府への支持を獲得しようとする狙いがあったとさ れている。 ・そして、そのうえで、英・蘭・仏・米四国代表と正式な謁見をおこなった。 これは、将軍の代替わりの挨拶という意味がもちろんあったが、自分は欧米諸国との良 好な外交関係の樹立をなによりもつよく望んでいるという慶喜の意思表示の反映でもあ った。 ・とことが、皮肉なことに、こうした慶喜の積極的な外交姿勢が、幕薩間にほころびを生 むことになった。 すなわち、兵庫開港勅許問題の発生につながったのである。 ・幕府は慶応三年二月に肥後藩以下の計十藩に兵庫開港問題に関して意見を具申するよう に命じ、かつ藩主の上洛を促した。 幕府が孝明天皇の死去で再び、しかし今度は公然と兵庫開港の勅許を求めることができ るようになったからである。 ・ところが、このあと、イギリス公使の「バークス」が兵庫開港の期日が切迫したから大 阪で談判したいと通告してきた。 そこで、慶喜は、十藩主の答申を待たないで、兵庫開港の勅許を朝廷に奏請する。 これが雄藩(なかでも薩摩藩)関係者の反発をかったのである。 幕府が薩摩藩等の有力大名に諮問をして、その返答がなされないうちに、朝廷に単独で 兵庫開港の勅許を迫ったことを薩摩藩側は許せなかった。 ・以後、あいついで京都にやってきた四候(島津久光・伊達宗城・松平慶永・山内豊信) と幕府の間で、この問題をめぐって激しい攻防が展開される。 そして、問題をよりややこしくしたのが、長州処分問題と兵庫開港問題のどちらを優先 して解決するかという選択肢をめぐる対立であった。 ・兵庫回航の可否をめぐって開かれた朝議の席で、徳川慶喜が熱弁をふるい、とうとう長 州藩の寛大な処分(ただし、具体的な内容にはいっさい触れない)と兵庫開港の勅許を ともに勝ち取ったのである。 これは、孝明天皇没後の朝廷の主導権の掌握に、徳川慶喜が成功したことを物語った。 辞退をこのまま放置すれば、旧来型の幕府主導型の体制(ただし鎖国ではなく開国)が とりあえず存続する可能性が高まった。 ここに、それを阻止しようとする薩摩藩をはじめとする雄藩と幕府との対立が再び激化 し、それにともなって、反幕派の公卿・諸藩士の幕府への対決姿勢も強まる。 ・薩摩藩の「小松帯刀」・西郷隆盛・吉井友美と土佐藩の板垣退助・中岡慎太郎などとの 間に、武力倒幕を目的とする密約(ただし、藩の承認を得たものでなく、私的な盟約に とどまった)がかわされ、また急進派公卿のなかには将軍職の徳川慶喜以外への委譲を 画策する動きが出てくる。 ・土佐藩の「後藤象二郎」は、朝廷の国政を担うだけの実力も意欲もないことを見極めた うえで、事実上、諸侯や藩臣によって構成される議事院の手に、国事の決定を委ねるこ とを提案した。 そして、後藤はこの考えを「山内豊信」に示し、豊信の同意を得た後、土佐の藩論とし て幕府に建白する構想を表明し、京都詰重役の同意をうる。 ・そして、後藤の構想を推進することで意見の一致をみた在京土佐藩重臣は、まず前宇和 島藩主の伊達宗城に、引き続き薩摩側に計画を打ち明け、その結果、有名な薩土盟約が 浪士の代表として招かれた坂本龍馬と中岡慎太郎の両名が見守るなか、在京薩土両藩首 脳の間で締結される。 ・確かに、慶応三年五月以降、幕府に対する強硬論が噴出したことが容易に理解できる。 しかし、ここであらためて着目しなければならないのは、対幕強硬路線と挙兵討幕路線 とは違うということである。 ・幕府に対して強硬な姿勢を見せることと、実際に兵を挙げて幕府本体と戦いことは、 その危険度において著しい相違が当然のことながらあった。 さらに言えば、一部の血気にはやる勇猛果敢な有志が、仲間うちで挙兵討幕を口にする のと、藩を挙げて武力倒幕を決断するのとでは、やはり全然違った。 ・幕府本体との戦いをより困難と思わせたものに、徳川慶喜が主導したとみなされた幕政 改革が、実態よりも過大に評価されたことがあげられる。 フランス公使のロッシュが幕府に提出した上書には、幕府の軍事改革がいまもって功を 奏していないことを嘆く箇所がある。 おそらく、先進国であるフランス公使の眼から見れば、当時の幕府の軍制改革は、それ なりの成果はあげつつも、やはり低いレベルにとどまっていたとしか言いようがなかっ たのであろう。 ・ところが、そのわずか六日前に発せられた、木戸孝允の有名な感想では、まったく逆の 評価がくだされている。 こうした実態とかなり乖離していたと思われる高い評価が、幕府本体に対する攻撃を促 す要因とならなかったことは、いうまでもない。 ・その他、当時、挙兵討幕を困難にしたと思われる要素は多々ある。 そのまず第一は、薩長両藩が、とくに強く王政復古を志向していて、幕府に対して敵対 的ともいえる姿勢を明確にしたものの、ほかの諸藩は到底そこまでは至っていなかった ことである。 ・慶応三年八月段階で、長州藩関係者が全国の諸大名の動向をまとめた「諸家評論」によ ると、次のような色分けがなされている。 有力藩だけに限ると、 ・「復古勤王」藩:薩長両藩 ・「佐幕勤王」藩:越前・尾張・因幡・備前・肥後・阿波・宇和島藩 ・「待変蚕食」藩:肥前・土佐藩 ・「佐幕」藩 :水戸・紀州・会津・桑名・高松・彦根・姫路・松山藩 ・「依勢進退」藩:加賀・仙台・秋田・米沢藩 ・これをみても、圧倒的に多いのは、「佐幕藩勤王」、つまり朝廷と幕府の双方に忠誠を 誓う藩か、もしくは幕府べったりの「佐幕藩」、あるいは日和見藩であって、純然たる 勤王藩としてあげられている有力藩は薩長両藩だけである。 仮にこれがかなりの程度正しいとすれば、薩長両藩がたとえ藩を挙げて武力倒幕を決断 したとしても、同意を期待できる藩はごく少なく、情勢は薩長両藩にとって、はなはだ 厳しかったと言えよう。 ・武力倒幕を阻むであろう客観的な背景を考えたとき、私には慶応三年五月以降の政治状 況を薩長両藩が藩を挙げて武力倒幕をめざした段階だとは簡単に断定しえないのである。 むしろ、より正確に言えば、京都や大阪に在住していた急進派グループなどのよって挙 兵討幕が図られた段階であり、藩の総体としては対幕強硬派路線にとどまったとみるべ きではないかと考えている。 だからこそ、慶応三年十月上旬に、大久保・西郷・小松の三者が、「中山忠能」ら同志 の公家に、公家に、「討幕の密勅」が降りるように斡旋を依頼しなければならなかった。 密勅の力を借りなければ藩内の反対論を押さえることができなかったからである。 ・ただそうはいっても、この段階ではもはや幕府独裁政治がいつまでも続かないであろう 兆候がハッキリと見えてきたのも事実である。 そのひとつが対幕強硬派のなかに、従来の幕府主導型の政治体制の存続に否定的な声が、 以前よりもはるかに高まってくることである。 つまり、幕府を君主的位置から諸侯の列に引きずり降ろし、朝廷(天皇)を核とする国 家体制を生み出そうとする声が一段とつよまってくる。 そこが慶応三年五月以降の、それ以前の政治状況とは決定的に異なる特色かと思われる。 ・ところで、大政奉還に関しては、アカデミックな立場に立つ研究者の多くは、慶喜が政 権を返上しても、新たに誕生する議院または政府の首長として、依然として実権を掌握 できるとの見通しの上に立って決断したとみなしてきた。 なかには、徳川慶喜は大政奉還において自己の権力を犠牲にしようとしたのではなく、 逆に従来の政治機構を否定したうえで、「大君制」ともいうべき日本的元首制を創出し ようとしたのだとみる見解もある。 ・他方、慶喜ファン(その多くは在野の研究者や市民たちであるが)は、慶喜はその権力 を犠牲にして内乱の勃発を防ぎ、日本を欧米諸国による植民地化もしくは半植民地化の 危機から救ったと大政奉還を高く評価してきたといえる。 ・ここでは、次の点だけは確認しておきたい。 それは、大政奉還前と後とでは、徳川慶喜の置かれた状況が決定的に違うということで ある。 ・慶喜自身が、仮に大政奉還後も引き続き新しく誕生する諸侯会議(諸大名の会議によっ て運営される)リーダーとして、徳川氏中心の政治体制を保持もしくは創出していくつ もりであった、つまり実権を依然として掌握していくつもりであったとしても、それは、 彼個人一代の間でのみ可能であったということである。 しかも、それは彼の個人的な能力が衰えず、また政権担当の意欲もあり、彼の存在を脅 かすものが存在しない間のみ可能な、そういう意味では維持知的な実権の掌握であった。 徳川家の当主が将軍職を掌握し続けていた段階とは、その点でハッキリと異なっていた。 したがって、このことを前提としない議論は、無意味といわねばならない。 ・そして、より大事なことは、慶喜が「天下の大政を義弟する全権は朝廷にあり、すなわ り、わが皇国の制度法則、一切万機、必ず京師の議政所より出づべし」とする土佐藩の 大政奉還建白書を受け容れたことである。 ここに大政奉還のもっとも根本的な意義が存したといえる。 ・慶喜が朝廷を国家の中心に位置づけることに同意した最大の理由のひとつは、対外関係 への配慮によると思われる。 このことは、大政奉還を決断した理由を尾張藩や紀州藩等の重臣に説明した、徳川慶喜 の名で出された書付に集約して現れている。 「近ごろ、外国との交際は、日々盛んとなり、いよいよ体外方針を一定しなければ、 皇国が立ち行かない。・・・広く天下の公議を尽くし、聖断を仰ぎ、皆が協力しあって、 皇国を守っていけば、必ず海外万国と並立することは可能だ。わたしくが政権を朝廷に 返した目的はこれに尽きる」 ・なお、慶喜が、欧米諸国に伍していくたけに、天皇を主体とする国家の樹立を必要不可 欠としたことは、王政復古クーデタ後に、慶喜の口から、会津藩家老の「田中土佐」 に対し、京都で戦闘が始まれば宸襟を悩ますだけでなく、内乱がはじまり、外国の介入 を招く事態が発生するおそれがあること、そうなれば大政奉還をし、「万国並立の御国 威あひ立つべくと存じ込み候素志も、水の泡とあひ成」るので、下阪を決意したとの説 明が、直々になされたことでも、さらに裏付けられる。 ・この後、慶喜は、朝廷に対し次のような建白をおこなう。 「この度、王政に復帰した以上、上洛を命じた諸大名の到着を待って、とくと衆議を尽 くしたうえで、国家の根本方針を確立するのが筋だが、対外関係はもっと重大で、また いつなんどき各国からどのような要求が出ないとも限らない。・・・その他評決しない と差し支えることもあるので、さしあたり京都に詰めている大名と藩士を招集して衆議 を尽くさせたらよろしいかと思う。わたしくも、朝命があり次第、参内するつもりであ る」 ・ところが、これに対し、朝廷から下った指令はとんでもないものであった。 すなわち、朝廷は、召集した諸大名が享楽してきたうえで、国の方針を決定するつもり であるが、それまでのところは、検討しないといけない事柄があれば、外国事情に通じ ている「両三藩と申し合わせ」て、「取り扱ふ」ようにと回答したのである。 ・この指令に対し、さっそく十万石以上の大藩である二十四藩の藩士が、京都の丸山に集 合し、「両三藩」つまりごく少数の藩に対外業務を依存する朝廷の方針を、痛烈に批判 することになる。 また、幕府からも、「両三藩」とあるだけでは対応の仕様がないので、この「両三藩」 を朝廷が取捨選択して示してほしいとの要望が出される。 ・ところが、朝廷は、このように幕府などから突っ込まれると、「両三藩の儀、朝廷にお いて御見込みあらせられず候」と実にいい加減な返答をした。 そして、このようなやりとりがなされたあと、慶喜が朝廷の方針に反対したこともあっ て、最終的には朝廷が指令を撤回する。 慶喜が反対したのは、それが「広く天下の公議」にもとづいて国の方針を決定すること を求めて、大政奉還をおこなった彼の考えとまったく相反するものであったからである。 ・ここから明らかなことは、朝廷の対応がひどく場当たり的で統一が取れていないことで ある。 朝廷は早くも、イニシアチブをうまく取れないことを露呈する形となった。 ここにやがて王政復古クーデタが決行されねばならなくなった理由のひとつが胚胎し た。 ・慶喜が王政復古と長州藩の赦免に同意したことで、「討幕の密勅」をもってしてまで打 倒しようとした対象が消滅し、慶喜と対幕強硬派の諸藩・宮・公家との対立関係が基本 的には解消されることになったからである。 大政奉還によって、近い将来における幕府制の廃止が約束され、あわせて幕府専制体制 に代わる新しい政治体制の確立が保証されたことで、文久年間以来の幕府と有力諸藩と の対立点が基本的には消滅した。 ・大政奉還のもたらした影響として、それまで王政復古などは絵空事だと受け取っていた、 つまり現実の問題として受け止めていなかった多くの藩を、一気に王政復古支持に走ら せることになった。 なにしろ、将軍自身が音頭取りをして、王政復古を指示したのだから、そうならざるを 得ない。 ・ところが、事態がここに至っても、それを認めようとしない藩も出てくる。 そのなかで、もっとも中核に位置することになったのが、会桑両藩(なかでも会津藩) であった。 ・一会桑三者の強力なスクラムが、慶喜の突然の変説によって崩れたあと、いわば鳴りを 潜めていた会津藩関係者は、大政奉還に表立って反対はしなかったものの、これに同意 せず、再び幕府に政務が委任されるように朝廷に働きかける。 ・そして、会津藩をしてこのような行動に走らせることになった背景には、切実な事情が あった。 それは、大政奉還によって王政復古と長州藩の赦免が実現すれば、当然、長州藩兵の上 洛が予測されたことと大いに関係していた。 つまり、長州藩兵が上洛してくれば、長州藩が解決を急ぐ課題のひとつに掲げていた会 津藩の厳罰を要求するであろうことが眼に見えた。 場合によっては、戦争状態になることも十分に予想された。 現に会津藩は、大政奉還後、すぐに女性などを大津あたりへ避難させたという。 だから、文字通り、大政奉還を藩の存亡をかけた決断と受けとめた。 ・以後、会津側は、京都にあって朝廷に再び幕府への政務委任を請願する一方で、江戸で も同様の活動を展開する。 すなわち、江戸の会津藩士は、老中の依頼を間接的に受けたこともあって、米沢藩主の 「上杉斉憲」に、幕府への政務委任の正当性を朝廷に建白してもらうことを願い出る。 そして、加賀藩などにも同様の働きかけをおこなう。 ・会津側の言い分では、朝廷が政権を担当できるわけがない。 また朝廷を支える立場になるであろう薩摩藩にしても長州藩にしても、自分の領国をお さめた経験しか持っていない。 それに比べ全国を統治できるノウハウや人材を持っているのは幕府だけだ。 だから、いままでの政治体制のほうがいいんだ、とされた。 王政復古クーデタ ・王政復古クーデタは、慶応三年十二月におこなわれ、摂関制ならびに幕府制の廃止と、 それに代わる天皇中心の新政府の成立を高らかに宣言した近代日本史上の大事件という ことになる。 そして、このクーデタは、大政奉還から二ヵ月にもならない時点で決行されたことから も明らかなように、比較的短時日のうちに準備され、実行に移された。 ・慶応三年十一月中旬から下旬にかけて、大政奉還後の新体制作りのために京都を離れ、 西日本各地を走り回っていた大久保利通・西郷隆盛・後藤象二郎の三者が相次いで上洛 してくる。 そして、この連中の再上洛によって、政局はにわかに王政復古クーデタの実施に向けて 動き出す。 ・主導権を握ったのは薩摩側であった。 以後、薩摩側が中心となって、同志的関係にあったごく少数の公家らとクーデタ計画を 立案していく。 ・西郷・大久保・後藤らの前には解決を急ぐ大きな課題が二つあった。 ひとつは、王政復古政府の枠組みづくりを急ぐことであった。そして、これは議事院等 の開設による公儀政体の確立を不可欠とした。 いまひとつは、王政復古に難色を示す政治勢力の排除を急ぐことであった。 前者の課題をとくに熱心になった中心人物は後藤象二郎であった。 一方、後者の課題解決にとくに熱心であったのは、薩摩藩を中心とする政治勢力であっ た。彼らは、王政復古に難色を示す譜代・親藩・佐幕派諸藩の排除・抹殺を急ぐことに なる。 ・王政復古クーデタに関しては、徳川慶喜が指導者的地位につく方向にいきつつあった大 政奉還後の政治状況を、武力倒幕派が否定するために計画立案されたとの評価がある。 事態をこのまま放置すれば、慶喜が新しくできる政府内で指導的地位につき、旧来の幕 府主導型、言い換えれば封建領主主体型の政治体制が存続することを恐れた武力倒幕派 が、慶喜の新政権からの排除をおこなうために、クーデタ方式という強硬手段を必要と したとの評価である。 ・しかし、これらの評価には、いずれも致命的な弱点がある。 それは、討幕や新政権からの慶喜の排除を目的としたものであれば、討幕にも慶喜の排 除にも反対であった後藤が、なぜクーデタに同意したのか、その理由が説明できないこ とである。 また、そのような目的を有するものであれば、クーデタに徳川御三家の尾張藩が参加し、 親藩の名門である越前藩がなぜ同意したのか、やはりその説明がつかないのである。 ・もっとも、この点に関しては、薩摩藩を除く、クーデタに参画した他の諸藩(尾張・土 佐・越前・芸州)藩は、いずれもクーデタに内心不同意であったが、薩摩藩の在京兵力 に圧倒され、かつ随意に「宸断」(天皇の裁断)を引き出しうる薩摩藩に逆らえば、 朝敵となることを恐れて、クーデタに同意したのだとみなす見解もある。 ・しかし、クーデタ計画そのものは、確かに大久保ら対幕強硬派が立案計画したものでは あったが、土佐藩や尾張藩、それに越前藩の協力を得なければ、決行され得なかったこ とも、まぎれもない事実であった。 ・薩摩藩がクーデタ方式に固執した理由であるが、これは、おそらく天皇を政治的主体と する新しい国家を創設するにあたって、彼らが人心の覚醒を何よりも必要としたことと 大いに関係があるかと思う。 ・いうまでもなく、二百数十年におよんだ幕府独裁政治のもと、朝廷・・諸藩の双方には、 現状肯定的な慣れ合い精神が、積年にわたって累積していた。 が、天皇を中心とする新しい国家を創出していくにあたって、このなれ合い精神が一番 の障害となるであろうことは、容易に予想された。 ・そこで、まずこの馴れ合い精神を一気に粉砕するために、クーデタ方式という、いわば ショック療法がぜひとも必要となってくる。 これが、薩摩側がクーデタ方式に呼出した最大の理由であるとともに、後藤らがクーデ タに賛同した李通でもあったと考えられる。 ・私は、大久保や西郷が武力発動をあえて口にし、クーデタ方式に固執した最大の理由は、 討幕の決行にあたったのではないと考える。 そうではなくて、王政復古に難色を示す会津・桑名両藩を挑発し、両藩を叩き潰すこと で、佐幕派勢力に壊滅的な打撃を与え、そのあと王政復古にむけての作業を一気に進行 させようとしただめと考える。 ・会津・桑名両藩なら、薩長の兵、さらに王政復古クーデタに加わる諸藩の兵力を合わせ たら、じゅうぶんに勝利を収めうる可能性はあった。 ・西郷。大久保両者と同様の認識は、公家側にあってクーデタの決行に最も熱心であった 岩倉具視などにもみられた。 ・私は、王政復古クーデタは武力倒幕をめざしたものではなく、会桑両藩を挑発し、両藩 を叩くことで、王政復古政府の成立を劇的に演出してみせようとした点に最大のポイン トがおかれたのではないかと主張した。 ではなぜ、会桑両藩を挑発し、叩きのめさせねばならなかったのか。 これは、言うまでもなく、会桑両藩が背負ったもの、象徴したものを打倒しなければな らなかったからである。 両藩が象徴したものとは、ずばり言って旧体制そのものであった。 いままでのような幕府制、それと表裏一体の関係にあった摂関制、こういったものの存 続を図ろうとしたのが会桑両藩であった。 幕府を介して諸藩が朝廷と結びつく体制をあくまで守り通そうとしたのが、この両藩で あった。 鳥羽伏見戦争と討幕の達成 ・徳川慶喜が松平容保と「松平定敬」の両者をつれて二条城を出て、大阪に向かう。 徳川慶勝・松平慶永の連名で朝廷に出された上申書には、人心が折り合うまで、しばら く大阪に滞在し、じゅうぶんに鎮静が行き届いたうえで上洛し、朝命を待つのが良いと 判断したとの下阪理由が挙げられていた。 そして同時に、「会桑二藩」をそれぞれ国元に帰す予定であることも併記されていた。 ・ところで、この慶喜一行の下阪は、幕府側に極めて有利な状況をもたらすことになった といえる。 ひとつは、下阪のよって会桑両藩士を含む幕府方将兵の暴発が未然に防止されたことで ある。 そして、これには徳川慶喜の決断がむろん大きくあずかっていた。 慶喜は、激昂する会桑両藩兵や幕兵をなだめ、ようやくのことで大阪まで連行すること に成功したのである。 ・そして、このことによって会桑両藩を挑発し、両藩を叩くことで旧体制を一気に粉砕し ようとした西郷や大久保らの目論見が外れることになった。 すなわち、対幕強硬派が仕掛けた罠が不発に終わり、西郷や大久保らのチャンスが遠ざ けられた。 これはむろん徳川慶喜にとって大勝利といってよいものであった。 ・状況は明らかに慶喜サイドに有利に、大久保ら薩藩対幕強硬派に不利な方向にいきつつ あった。 着阪し登城した慶永と慶喜との対面がなされ、慶喜の積極的案同意が表明される。 沙汰書に対する請書を徳川方は慶永に提出する。 ここに慶喜が入洛後ただちに参内し、議定職に就任することがほぼ確定した。 ・慶喜の議定職就任は、大久保らの当初の許容範囲をはりかに越えて、政権の基盤を拡大 しようとする指向性のあらわれ(しかも象徴的な)であったがゆえに、阻止しなければ ならなかったのである。 ・大久保らの働きかけを受けて、会津・桑名両藩兵の藩主ともどもの帰国を求めるサイド の朝命を尾越両藩へ下した。 そして、引き続き、薩長芸土四藩に伏見表の巡邏をめいじる朝命を下した。 ところが、土佐・芸州両藩はこれを辞退し、とうとう出兵しなかった。 土佐・芸州両藩には、大久保らほどは会津・桑名両藩に対するわだかまりが無かったた めであろう。 また、土佐・芸州両藩は会桑両藩とのトラブルに巻き込まれることを避けたといっても よい。 そこで薩長二藩が巡邏にあたることになり、会津藩兵等との戦闘がただちに発生しかね ない形勢となる。 ・この段階で、大久保らは、改めて慶喜への不信と徳川氏打倒の意思を表明するのである。 それは、次の二つを根拠とするものであった。 @下阪後の徳川方の動向が信用できないこと 具体的には、淀・伏見あたりに兵士を繰り出していること、会桑両藩の帰国がいまだ に実現をみていないことの二点 A大政奉還後、外国側の求めに応じて与えた徳川方の返簡が王政復古の趣旨に反するこ と ・ついで、鳥羽伏見戦争がまさに勃発せんとする直前、大久保は岩倉具視に提出した意見 書で、またまた徳川氏打倒の必然性を強調した。 その中で、大久保は、王政復古クーデタ後の朝廷の失策を逐一挙げてみせた。 そのなかには、当然のことながら、旧幕府(徳川慶喜)に対する批判として、会桑両藩 をいまだに帰国させていないことが含まれていた。 ・大久保が、この段階で敵として意識していたのは、徳川慶喜と並んで、尾張・越前・土 佐藩等の「扶幕の徒」であった。 事態をこのまま放っておけば、徳川氏および場合によっては会桑両藩をも含む雄藩連合 政権が成立し、王政復古クーデタが、旧来の封建支配体制の修正・再編にとどまる危険 性がでてきた。 大久保は、なんとしてもそういった事態の出現を阻止しようとしたのである。 ・このように大久保利通らは千葉伏見戦争の直前、切羽詰まった状況におかれた。 そのため、この段階で大真面目に徳川氏本体の打倒を主張するに至った。 こうした中、江戸で、市中における浪人の暴行に業を煮やした幕府が、庄内藩兵などを もって江戸の薩摩藩邸を焼き打ちにする事件が起こる。 ・この事件には、西郷隆盛や岩倉具視の指示を受けた薩摩藩士らが江戸に下り、彼らが江 戸の薩摩藩邸を拠点に、江戸市中と関東各地で幕府を挑発するための行動を開始したこ とが大いに関係していたと一般的には見なされている。 ・旧幕府軍の供与への進軍が開始される。 この時、旧幕側(徳川慶喜)にとって、取り返しのつかない致命的なミスとなったのは、 彼がいつでも戦闘状態に入りうる臨戦態勢で行軍しなかったことであった。 ・鳥羽・伏見を固めていた薩摩藩兵は幕府軍の上洛を許さず、幕府軍に発砲し戦争状態に 移行する。 この薩摩側が発砲したというところに、深い理由(背景)と決意が隠されていたことは 一目瞭然である。 薩摩側には発砲せざるをえない理由があったのである。 そして戦闘は、よく知られているように、徳川方の軍略・戦法上の不備、不意を衝かれ たことによる指揮系統の混乱、淀・津両藩の寝返りなどによって、旧幕府側の大敗に終 わる。 ・この間、獅子奮迅の活躍をみせたのは、会津藩兵であった。 もっとも、そのため会津藩兵は行軍に参加した八百人のうち五百人余りが討ち死に、 もしくは手負い(負傷者)となったという。 ・鳥羽伏見戦争は、これ以後、新政府軍と旧幕府軍らとの間に展開された上野戦争。東北 戦争・北海道戦争と較べても、格段に重要な歴史的意義を有した。 ・そして、この戦争直前に、取り返しのつかない人生最大のミスを犯した徳川慶喜は、 敗北がハッキリした段階で、松平容保・松平定敬の両者をともなって海路江戸に逃げ帰 り、そのあと恭順の意を表明して、上野の寛永寺に引き籠った。 すなわち、自らは謹慎生活に入るとともに、勝海舟などを通じて、江戸開城と新政府軍 への武器艦船の引き渡しをおこなった。 おわりに ・私が強調したかったのは、明治以後の日本人のおそらく誰もが想像してきたほど、薩長 両藩の「討幕芝居」における役割は、圧倒的なものではなかったということにつきる。 すくなくとも、薩長両藩が英雄的な行動を起こし、ほとんどフォク力で幕府を倒したの ではない。 別の言い方をすれば、薩長両軍が藩を挙げて一貫して武力倒幕をめざし運動を展開した 結果が、討幕に直接つながったわけではない。 それよりも、在京薩藩指導者が、「窮鼠猫を?む」思いで反撃に転じたのが功を奏して、 最後の最後の段階で討幕が達成されたといったほうがより史実に近いといえよう。 ・なぜ幕府政治が終わりを告げたのかという問題を考えた場合、薩長両藩が果たした役割 よりも、もっと大きな功績をあげた何物かが他にあったとみざるをえない。 それが何かといえば、いままでの政治体制ではだめだという多くの人々の思いであった。 これが結局、幕府政治を終わらせた。 こう考えるべきだと思う。 ・一会桑三者による朝廷上層部と結びついた支配のあり方が崩壊したのも、それが諸藩の 多くや、一般の公家、それに民衆の声を、軽視もしくは無視して、ごく一部の者の考え のみでやっていこうとした、それが否定された結果であろう。 ・また、一会桑三者などが中心となって押し進めた長州再征がうまくいかなかったのも、 日本全国に内輪もめはやめておけという意見が非常に強かったことが、やはり要因とし ては大きい。 だから幕府や朝廷から命じられても諸藩の多くは長州再征に熱心に取り組まなかった。 そして結局、これが幕府政治の崩壊にとって致命傷となった。 ・今はそんな時代じゃない。統一国家を新たに作って欧米諸国と対峙しなければ、外国の 植民地になるといった多くの藩や人々の危機感が、長州再征を幕府側の敗北に終わらせ た。 それが公論だとか衆論の力だと思う。 結果的に幕府を倒していったのは、いままでの政治体制ではだめだという多くの人たち の意思であった。 ・それを明治以後、薩長などやがて藩閥政治を築く側の政治勢力が不当に覆いをかけて、 西南雄藩討幕史観を強調することで手柄を独り占めした。 あわせて近代天皇制国家を薩長等が支える根拠づけに利用し、自分帯の思う方向に国家 を引っ張っていった。こう考える。 ・私は、西南雄藩討幕派史観のないよりも大きな罪は、二つあったと考える。 ひとつは、西南雄藩を特別視することと引き換えに、二重の抹殺がなされ、幕末史がひ どく偏った内容のものとなったことである。 二重の抹殺とは、幕府・朝敵諸藩の抹殺と、薩長両藩内にも多数存在した対幕強硬路線 反対派の抹殺である。 ・極言すれば、薩長をはじめとする西南雄藩以外は語るに値しない存在とされてしまった。 そのため、幕末史の理解が浅薄で、いびつなものとなってしまった。 なにしろ、幕府側も佐幕諸藩もともにまともな評価が下されないから、西南雄藩に都合 の良い、いわば勝者一辺倒の歴史になってしまった。 敗者には敗者の言い分があったはずなのに、それが無視されてしまった。 ・青年雄藩討幕派のいまひとつの大きな罪は、明治以後の日本人が、その実態以上に幕末 期の政治過程を英雄的なものとして受けとったために、他国にわが国の周辺諸国に対し て変な優越感を持つに至ったものではないかということである。 つまり、自分たちは中国・朝鮮を含む他のアジア諸国とは違って、自らの力で雄々しく 旧体制を打倒したんだという意識を強く植えつけられた。 ・私は、むろん、そういった面があったことは否定しないが、問題は江戸期の日本社会が 営々として培ってきた合議や衆議を重んじる声に押されて旧体制が打倒された側面にあ まり眼がいかず、華々しい武力倒幕芝居との関連で旧体制の破壊が論じられるようにな ったことである。 ・それが雄々しく猛々しい日本人像となり、日本のアジア世界におけるリーダー的役割の 過度の鼓吹ともなったのではないか。 明治初年の征韓論的発想、その後の対外雄飛論、そしてその仕上げともいうべき大東亜 共栄圏的発想、こういうものとも繋がっているのではないか。 こういったことをいま漠然と考えている。 |