オウム真理教事件とは何だったのか? :一橋文哉

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私が最初にオウム真理教と出会ったのは、JR渋谷駅前であった。当時私は、東京都内世
田谷区の三軒茶屋に住んでおり、休日に家族で出かけた帰りに、電車乗り換えのためJR
渋谷駅前を通かかったときに、あの「ショーコー、ショーコー、アサハラ ショーコ♪」
と歌い踊り風船を配ったりしている、麻原の等身大のマスコットと白いコスチュームを着
た女性たちの奇妙な集団を目にした。当時私はオウム真理教などというものについては、
全く知らず、どこかの企業のキャンペーンなのかなと思った。風船を配っていたので、一
緒にいた自分の子どもにも一つもらおうとしたら、妻が「あれは最近テレビなどで話題に
なっている変な宗教団体よ。もらうの止めて」と私の耳元で囁いた。それがあのオウム真
理教の麻原をはじめとするオウム信者が総選挙に打って出たときの選挙運動だったのであ
る。
しかし、オウム真理教はその選挙で全員が落選し一人も当選者を出すことができなかった。
そのことが後の地下鉄サリン事件の引き金になったと言われている。地下鉄サリン事件が
起きた当日は、私は四谷にある会社の事務所で仕事をしていた。外から帰ってきた職場の
同僚が、「何だか地下鉄駅周辺にたくさんの救急車やパトカーが来ていて大騒ぎになって
いる」と話した。それがあの地下鉄サリン事件だった。今でもその当時ことが記憶の奥底
にこびり付いていて消えない。
オウム真理教といえば、あの地下鉄サリン事件が際立っているが、しかし、オウム真理教
が企てていたことは、そのサリン事件さえもが些細のことに思えてしまうほどの、とんで
もないことだったことが、この本に記されている。それは、旧ソ連崩壊後のどさくさに便
乗して、旧ソ連から大型武装ヘリコプターや戦車、潜水艦、ロケット砲を始め、核兵器さ
えも購入しとうとしていたのである。つまり、麻原が考えていたのは、まさに国家転覆テ
ロだったのである。もし、そのテロ計画が実行されていたならと思うとぞっとする。
さらに付け加えるならば、この時、オウムが資金調達の手段として、旧ソ連からロケット
技術などを持ち出し、それを北朝鮮に転売していた可能性があることだ。北朝鮮のロケッ
ト技術は、旧ソ連から持ち込まれたものではないかとの説があるが、もしかしたらそこに
はあのオウム真理教が関わっていた可能性があり、地下鉄サリン事件などは、始まりの始
まりに過ぎなかったのではないのかと考えると、いまでもなお、空恐ろしくなってくる。
2018年7月、麻原をはじめてとする元教団幹部7人の死刑が執行された。これでオウ
ム真理教事件は、一応の区切りたついたと言われている。しかし、オウム真理教が起こし
た事件は、単なるサリン事件ではなく、日本という国家の転覆を企てた国家転覆テロであ
ったということを、我々は今後も決して忘れてはならない。

処刑
・麻原彰晃(本名・松本智津夫)は1984年2月「オウムの会(後にオウム神仙の会)」
 を設立し、87年7月に「オウム真理教」と改称した教団の教祖として、また88年頃
 から信者殺害・遺体焼却を皮切りに、坂本堤弁護士一家拉致・殺害、そして松本サリン、
 地下鉄サリン・・・など一連のテロ事件の首謀者として暗躍した人物である。
・95年5月に逮捕された麻原は、元教団幹部12人とともに死刑判決を言い渡され、後
 に死刑が確定。2018年7月6日、麻原と元幹部6人の死刑が執行されたのだ。
・死刑が執行された日の様子を再現すると、午前7時半過ぎ、麻原の独居房の出入り口に
 ある窓越しに、いつもと違う刑務官が「出房だ」と声をかけた。大抵の死刑囚はこの見
 慣れぬ顔と声で自分の運命を悟り、顔面を蒼白にしてうなだれながら刑務官の指示に従
 うか、大声を出したり暴れたりして抵抗するか、いずれもいつもと違う行動に出る。
・麻原は2人の刑務官に両腕を抱えられ、「チクショー。やめろ」と叫びながら独居房か
 ら出ると、3人の警備担当者に身体を押されるように両側に独居房が並ぶ死刑囚舎房の
 通路を歩き、長く薄暗い渡り廊下を通って、何の表示も出ていない部屋の前に到着した。
・「松本智津夫君。残念だが、法務大臣から刑の執行命令が出た。お別れだ」所長が厳か
 にそう伝えると、麻原は全身が大きく震え出した。刑務官が後ろから羽交い絞めするよ
 うに抱え、素早くアイマスクで目隠しすると、後ろ手に手錠をかけた。
・「何をする。バカヤロー」と泣き叫ぶ麻原を4人がかりで抱え上げるように死刑台の上
 に立たせ、白さが異常に目立つロープを首に巻き付け、足をひざ下のところで縛る。刑
 務官は必死の形相でロープを絞り、締まり具合を確認した刑執行責任者が右手を上げ合
 図した途端、刑場の光景が見えない所にいる3人の刑務官の手でスイッチが押され、麻
 原が立っていた踏板が外れ、バンというもの凄い音と「ギャッ」という悲鳴とともに身
 体が落下した。
・約30分後、医官がぶら下がる身体に聴診器を当てて心臓の停止を確認すると、2階に
 上がって検事や所長に死亡の確認と死亡時刻を告げ、死刑執行は終了する。
・麻原の遺体は7月9日、東京都府中市の葬祭場で火葬された。麻原が遺言こそ残さなか
 ったが、執行7分前に自身の遺体の引き取り先として、既に教団から離脱し両親との相
 続関係も断っている四女を指定したといわれる。 
・麻原の妻と6人の子供のうち長女と四女を除いた4人は、麻原の遺体を「祭祀(信仰)
 の対象となる」として引き渡しを求める要求書を上川法相に提出。「麻原の精神状態か
 ら特定の人を指定することはあり得ない」と主張し、麻原の神格化やその遺骨安置場所
 の聖地化を懸念し、太平洋への散骨を促す法務省、公安当局の姿勢を批判しており、遺
 骨の引き取りをめぐって大きな争いに発展しそうである。
・未だ麻原を「尊師」と呼ぶことがあり、マインドコントロールがあまり解けていないと
 される新實智光・元教団「自治省」大臣(死刑執行済)であっても時折、刑務官に「誰
 が何と言っても死刑執行は尊師が一番先ですよね」と尋ねるなど、生への執着や死への
 恐怖を強く覗かせていたという。
・元教団幹部の中で最も動きが慌ただしかったのは小池(旧姓・林)泰男死刑囚。彼は、
 1998年から法廷で、「麻原はすべてを認めて謝罪すべきだ」「汚れたものを信じて
 しまった」などと教祖と教団を否定した。2015年3月の公判では麻原について「今
 はただの大馬鹿者だと思っている」とまで言い切った。だが、それとは裏腹に08年に
 自分の死刑が確定した後、麻原の三女アーチャリーと文通を始め、盛んに麻原の再審請
 求を促すなど法廷証言とは正反対の行動を取ってきた。
・教祖の元主治医で、取り調べや公判では麻原を「化け物」と呼んでいた中川智正・元教
 団「法皇内庁」長官(死刑執行済)は、平田信容疑者(現・服役囚)の出頭を聞いた時、
 思わず「これで死刑執行はないぞ」と叫んだという。
・中川は、麻原を「自分を深く信頼している者を選んで、殺人や化学兵器の製造などを命
 じた」と指弾。「私を含めて教団が殺人を犯すなどと思って入信した者は皆無だった」
 とし、犯罪と無縁だった宗教団体を変容させた麻原を「宗教家以前に犯罪者」と激しく
 非難している。 
・当の麻原彰晃は東京拘置所内でどんな生活を送っていたのか。これがハッキリ言って、
 まるで二重人格、いや多重人格の人間のように振る舞い、さっぱり本性が掴めない暮ら
 しぶりだったという。麻原が東京拘置所のどこの房にいて、どんな生活をしていたのか
 は、拘置所内外におけるトップシークレットである。麻原を操って巨額の利益を得た闇
 社会の住人や、彼に恨みを抱く者による暗殺、逆に彼を未だに信奉するオウム残党勢力
 による奪還といった行動への警戒に加え、他の犯罪者たちの嫌がらせなどを防ぐため、
 彼のいる独房の扉には名前や番号などは一切書かれておらず、両隣の房も空き室になっ
 ていて、麻原関係の物置き場となっていた。
・着替えも排便も一人ではできず、オムツは付けてはいるものの毎日一回しか換えないた
 め、布団や畳の上に糞尿を垂れ流していた。もっとも畳や布団もビニールやプラスチッ
 クが敷いてる特別製の物を使っていたという。
・それでいた食欲は極めて旺盛だった。食事は通常、房の鉄扉の下部に付いている配膳口
 から収容者が食器を差し出し、そこに食べ物を盛りつけて中に入れる。食事が済むと、
 収容者が空いた食器を配膳口から差し出してくる仕組みだが、麻原は何もしなかったの
 で、刑務官がお盆に載せた食事を房内に運び入れるなど”上げ膳据え膳”状態となり、
 それを毎回、ぺろりと平らげるのだ。
・他の収容者と違って、外部からの菓子などの差し入れも多かったから、糞尿の臭いと不
 衛生な点さえ我慢すれば、贅沢な生活と言っていいかもしれないというのが拘置所関係
 者の共通した感想だった。刑務官は「人間、諦めるとああなるんじゃないか」と話して
 いた。
・麻原は逮捕直後から約2年間、接見した弁護士が聞き取った言葉を伝言する形で教団に
 こっそりと、さまざまなメッセージや指示を出していたことが、公安当局が幹部から得
 た内部文書で明らかになっている。
・「教団を任意団体に移行させ、新しい団体名を「アレフ」とする」などと指示していた
 とされる。教団名を「アレフ」に改称したのは、それから4年以上経った2000年2
 月のことだが、今の教団の命名をしたのは麻原だから信者たちが麻原を崇拝するのはあ
 る意味、当然なのだ。
・さらに翌96年6月には、新しい教祖を長男と次男とすることを指示し、教団はその直
 後に発表している。また、96年2月には「取調官の言葉の意味そのものを全く理解し
 ないようにし、音としてすら認識しなかったとしたら、一切の苦しみから解放されるこ
 とになる。これが解脱です」と発言。弁護士を通じて逮捕された幹部たちに黙秘するよ
 うに求め、一斉に取り調べに対する態度を変えさせたという。
・ただ、こうした姑息な手口が逆に幹部たちの不信感を募らせ、彼らは次々と離反してい
 った。常識から言って当然のことなのだが、麻原からすれば想定外の結果だったのだろ
 う。麻原の態度が大きく変わったのは、それからすごのことであった。
・04年8月に初めて麻原に接見した次女は、何を言っても「ウン、ウン」としか言わな
 い父親に衝撃を受けた。05年8月に三姉妹で面接した時などは、麻原は面会室の娘た
 ちの面前でマスターベーションを始め、看守が止めても繰り返し行っていたというから、
 おぞましい。  
・麻原と仲が良く、20数回も面会に訪れていた三女は、そうした父親を見て「精神的に
 病んでいるのではないか」と心配していたが、父親と6回面会した四女は、麻原が言葉
 こそ発しないが、目や仕草でコミュニケーションを取ろうとしていたとして、「父は人
 間を増悪し、自分を守るために詐病している」と喝破している。
・東京拘置所は過去に麻原の頭部のCTスキャン等を行い、異常なしとの診断を受けてお
 り、東京高裁も公判手続き停止要求をはね除けた。
・麻原は自分がやってきたことを棚に上げ、寵愛する弟子に裏切られ衝撃を受けて激怒し、
 錯乱状態に陥っただけである。エキセントリックで派手な言動は、麻原が得意とする手
 法であり、特に驚くほどのものではない。

崩壊
・地下鉄サリン事件とは言うまでもなく、95年3月20日に東京の官庁街・霞が関など
 を通る営団地下鉄(現・東京メトロ)の車内で、オウム真理教の信者たちが劇薬サリン
 の入ったビニール袋を傘などで突き破り、猛毒ガスを発生させて、13人の死者と6千
 人以上の重軽症者を出した無差別大量殺傷テロである。
・裁判は半年後の96年4月から始まったが、徹底抗戦の方針を打ち出した麻原は、起訴
 された17事件すべての罪状認否を留保するという戦術に出た。その頃の麻原はまだ自
 分が行動を起こせば、弟子たちはそれに追従して立ち上げるという自負があり、相当に
 自信を持っていた。
・しか70し、96年9月から始まった地下鉄サリン事件の証人尋問で、弟子たちは、次々と
 麻原に不利となる証言、特に彼が最も隠しておきたかった「教祖の指示による犯罪」の
 実態を率先して告発する内容の証言を行い、中には「麻原に騙された」とあからさまに
 罵ったり、「これは教祖の犯罪だ」とか「教祖自らが真実を語れ!」などと教団入信時
 には想像することさえかなわなかった諫言や非難を浴びせる元教団幹部さえ現れた。
・実は、弟子たちの多くは既に洗脳から解け、麻原や教団の教えから離反したり、離反し
 ようとしていたのだ。そうして弟子たちの言動を「裏切り」と受け止めた麻原は大いに
 失望し、また少なからぬ焦燥を感じ、次第に不安を募らせていった。
・麻原は未だに教団を「神秘的能力を持つ超人集団」とみなし、自分の指示で直ちに「神
 秘的能力」を発揮できると考えていたのだろうか。こうした勘違いは何も、麻原だけの
 専売特許ではなかった。オウム全盛期には信者たちもその思いを教祖と共有しており、
 「自分たちこそ、この汚れた世の中や人民を救済することができる”選ばれた者”であ
 る」と思い込んでいたのだう。だからこそ、信者たちは地下鉄サリン事件のような世界
 でも例を見ない無差別大量殺傷事件を、臆することもなく堂々と起こすことができたの
 である。 
・1977年に故郷・熊本から上京した松本智津夫が麻原彰晃と名を変え、「オウム神仙
 の会」を立ち上げ「オウム真理教」として発展させるまでの間、実は、彼の周辺には3
 人のブレーンがいたとされている。その3人は、後に犯罪に加担して警察当局に逮捕さ
 れる教団幹部たちとは一線を画したまったく別のメンバーであり、未だ警察当局にさえ
 よく知られていない男たちである。
・その3人の一人で、自ら「麻原に人を騙すテクニックを伝授し、徹底的に仕込んだのは
 俺だ」と豪語する男は、詐欺師仲間から「神爺」と呼ばれ、天才として崇拝される人物
 で、この時すでに70代に達する老詐欺師だった。
・麻原彰晃こと松本智津夫は1955年3月、九州南西部に位置する熊本県の旧八代郡金
 剛村、現代の八代市高植本町)で生まれた。男5人女2人の7人兄弟姉妹の中で、下か
 ら2番目に当たる四男だった。 
・親族の話によれば、智津夫の祖父は平壌(現・北朝鮮の首都)で警察署長をしていたと
 いう。智津夫の父親は自宅近くでたくさん取れるイグサを使って畳店を営んでいたが、
 周囲には経済的に苦しい家庭が多く、畳の張り替え仕事などは滅多になかった。松本家
 は収入の少ない割には子供ばかりが多く生まれる典型的な「貧乏人の子だくさん家庭」
 であった。何しろ、松本家自体がトタン板を張り合わせて、その上にワラを被せただけ
 の納屋のような住宅(借家)に住んでいたのだから、畳店が繁盛するわけがなかった。
・智津夫は先天性緑内障と視野狭窄のため生まれつき視力が弱かったが、同年代の子供よ
 り早熟で体格もよく勉強もよくできた。
・95年の地下鉄サリン事件と麻原逮捕の報道は、松本一家を離散に追い込んだ。両親は
 90年代初めに畳店を閉じ、熊本市内で鍼灸院を営んでいた長男一家宅に移り住んだが、
 報道後は周囲から冷たい視線を浴び、鍼灸院も閑古鳥が鳴いて日々の生活にも窮するよ
 うになった。 
・智津夫の母親は96年に76歳で亡くなり、翌年97年にはまるで後を追うように長男
 が53歳の若さでこの世を去った。その時、82歳になっていた父親は「もう熊本には
 住まわれんわ」と言って姿を消し、消息を絶っている。
・嫌がる智津夫を強引に盲学校に入学させたばかりでなく、入学の真の理由が経済的に困
 窮していた一家による口減らしと、国から下りる就学奨励金を実家に送らせて生活費に
 充てようとしていたことだと知って、智津夫は親に対する不信感を募らせていたから、
 親子関係はますます悪化する一方であった。
・そんな親子関係だったから、智津夫から麻原彰晃と名を変えた教団を設立して以降も実
 家とは音信不通状態で、90年に母親が高血圧で倒れて生命が危ぶまれた時に実家に1
 時間余り訪れたぐらいで、それを最後に全く姿を見せなくなっていた。
・盲学校時代の担任教諭や級友たちの話しでは、智津夫は真面目で授業にも積極的に取り
 組み、学業成績は常に上位だった。負けず嫌いな性格も手伝って部活の柔道に打ち込み、
 一人居残って自主練習を積み重ね、たちまち二段を取得するに至ったという。
・彼の左目はほとんど見えなかったが、右目は当初1.0近く、後のも0.2〜0.3程
 度の視力があったから、周囲の景色などはきちんと見分けられたし、顔を書物に近づけ
 れば文字を読むこともできたため、本人はナンデと考えてはいなかったようだ。
・熊本市内に自宅がある生徒は毎日、親に送られて登校していたし、寮生でも週末になる
 と親が面会に現れて一緒に外出したり、年末年始や夏休みなどの長期休暇には帰省した
 りしていたこのほか、子供たちが寂しい思いをしないようにと、季節ごとに洋服や食料
 品などを差し入れる親さえおり、学校側も黙認していた。ところが、智津夫のところに
 は週末や長期休暇になっても誰も訪れる者はなく、たった一人寮に残されていたし、差
 し入れ品も全くなく、見かねた教諭たちが上級生のお下がりをそれぞれ保護者の了解を
 得て譲ってもらい、着せていたという。この時に味わった孤独感や寂寥感、憤懣、憤り
 といった感情が、後の智津夫の性格形成に大きな影響を与えたことは間違いあるまい。   
・智津夫は次第に下級生らを引き連れ、学校に届け出ない「勝手な外出」をするようにな
 り、目が不自由な生徒たちが一人では帰れないという弱みにつけ込んで、自分が読みた
 い本や食べたい菓子などを万引きさせて鬱憤晴らしをしていた。それゆえ当然、大半の
 生徒たちからは敬遠され、小学部時代に児童会長選挙、中等部で生徒会長選挙にそれぞ
 れ一回立候補したが、ともに落選するなど人望はなかった。
・目の不自由な生徒たちを馬鹿にするなど知らぬ間に傲慢になっていた智津夫は、寮で出
 されるキャラメルやビスケットなどの菓子類を下級生から取り上げ、投票前に生徒たち
 に配って「俺に票を入れてくれ」と投票を依頼するなど堂々と買収行為に及んだ。
・落選後は、別の候補に投票したと思われる生徒たちを校舎裏などに呼び出し、「裏切り
 者」と怒鳴りつけたうえで力任せに殴ったといい、これらの行動はオウム教団内の信者
 リンチ事件に繋がるものと受け止められている。  
・智津夫にとって盲学校の生徒たちは、いつでも容易に服従させることができる「便利で
 あり難い存在」であった。盲学校という限定された世界で唯一、目が見えるという特権
 を行使できた智津夫は、地道な努力をせずとも権力と腕力を振りかざして命じさえすれ
 ば、いつでも思い通りにコトが運ぶ独裁国家を築けたのだ。
・75年3月に盲学校専攻科を卒業した智津夫は、こらまで生活面や資金面で大いに世話
 になった長兄から「俺の店(鍼灸院)を手伝え」と言われたにもかかわらず、引き止め
 る兄を振り切って上京した。それどころか、兄を説得して強引に50万円の資金まで借
 りている。ところが、半年足らずで生活に行き詰まり、八代市の実家に舞い戻り、結局、
 兄の店を手伝うこととなった。
・76年7月に知人を殴打して傷害容疑で逮捕され、9月に八代簡易で1万5千円の罰金
 刑判決を受けた。それをきっかけに熊本を離れ、「東京大学法学部進学」を口にして上
 京した。しかし、智津夫が東京・渋谷の代々木ゼミナールに通い始めたのは77年3月
 下旬であり、半年余りの間、彼がどこで何をしていたのか謎とされてきた。その”空白
 の半年間”の秘密を明らかにしたのが、老詐欺師「神爺」であった。
・両親や家族でさえ信じていなかった松本にとって、この時最も信頼できる人物は、実は
 大分県別府市に事務所を構えていた山口組系のやくざの大親分だった。この親分は、松
 本が地区の柔道大会で優勝した時、「目が悪いのによく頑張ったな」と感動し、激励し
 た人だった。 
・智津夫は一時、別府市内の組関係者宅に身を寄せていた。本人は八代市で起こした傷害
 事件の嫌なムードを一掃し、新しい出発にしたかったからだと言うが、柔道や鍼灸に関
 心のあった二代目総長に可愛がられ、鍼灸師として頻繁に事務所や自宅に出入りしてい
 たと見られている。
・当時、糖尿病を患っていたとされる二代目総長は、智津夫の治療を殊の外、喜んでいた
 という。また、二代目総長は一時、髪を長く伸ばし、立派な髭を蓄えていたといい、後
 の麻原彰晃の風貌はこの総長を真似したのではないかと見られている。
・一番初めは「病に苦しむ人を救いたい」と医師を目指し、さらに権力に目覚めて政治家
 を志向した智津夫が最終的に辿り着いたのが宗教家だとするならば、この「二つの異な
 る顔」が交差する延長線上に、オウム真理教誕生の秘密が、また無差別テロ事件勃発の
 原点が隠されているような気がしてならない。
・この誰よりも麻原彰晃の実態を知る老詐欺師が、「麻原とオウム真理教の崩壊」を強く
 意識した瞬間があったという。それは1995年5月、山梨県上九一色村(現・富士河
 口湖町)にあった教団施設群のうち「第六サティアン」と呼ばれる建物内で、オウム真
 理教教祖・麻原彰晃が逮捕された時である。別に教祖の身柄が警察に確保されたから、
 教団組織が崩壊するという意味ではない。逮捕された麻原の様子があまりにぶざま過ぎ
 たので、「これで麻原もオウムも終わりだ」と痛感したのだという。
・警察の強制捜査に対し、宗教団体としての毅然とした対応の仕方があっただろうし、逮
 捕されるにしても教祖として威厳ある態度を示しても良かったはずだ。が、麻原はその
 どれも採らず、情けない姿を露わにした。
・95年5月の麻原逮捕時で言えば、麻原が教団施設内でサリンをまくか爆弾を破裂させ
 るか、何らかの方法で幹部信者が集団自殺を図るなど生命を絶ってこそ、麻原は「伝説
 の宗教人」として人々の記憶の中に残るだろうし、オウム真理教も永遠不滅の教団とし
 て生き残る可能性があった、というのである。実は、そのことは警察当局も想定してい
 て、教団施設への強制捜査に当たってはテロ行為に対する万全の準備をしてから臨んで
 いたという。  
・95年3月22日、山梨県の中央高速道路談合坂サービスエリアに警察車両に乗って終
 結した捜査員たちに、自衛隊が使用する防毒マスクと防護服が手渡された。これらの装
 備を着けて訓練を重ねてきた機動隊と違い、日頃は殺人事件などを担当する捜査一課の
 刑事ら一般捜査員の多くは、初めてマスクに触れた者が多かった。
・サリン攻撃に供える対策としては、毒ガスに敏感に反応するカナリアの鳥かごを片手に
 持ち、突入するしかなかった。産卵期で入手し難かったカナリアを全国のデパートやペ
 ットショップなどを回って、何とか15羽ほど揃えた。だが、毒ガスの専門家は「カナ
 リアが死ぬときは、鳥かごを持った人間も死ぬ」と警告したため、前日になって急きょ
 防毒マスクが追加配備されている。 
・捜査員たちの多くは死を覚悟して家族と水杯を交わした”最後の晩餐”に臨んだり、お
 守りが縫い付けられた真新しい下着を身に着けたりしていた。当時の野中公務・国家公
 安委員長は捜査前夜、東京・高輪の議員宿舎で「20人ぐらい警察官が死ぬかもしれな
 い」と覚悟を決め、身を清め、墨をすって毛筆で辞職願を書き、密かに内ポケットに入
 れて自治大臣室に出勤したという。
・これとは別に、陸上自衛隊では密かに治安出動準備を進めていた。治安出動は永田町の
 決定がなければできないが、サリンが大量にまかれたり、機関銃やロケット砲など重火
 器による攻撃が行われた時は、突入した警官隊が全滅する危険性もあり、準備だけは怠
 るわけにはいかなかったのだ。陸上自衛隊が最も恐れていたのは、戦闘ヘリやラジコン
 ヘリによるサリンの空中散布であった。これに対抗する有効な手段は、最後まで用意し
 切れてなかったからだ。
・公安部は麻原の家族らが乗るロールスロイスやベンツなどの高級車を徹底的にマークし
 たが、麻原は姿を現わさず、彼が最近お気に入りの愛人や、常に側に付いているボディ
 ガード役の信者の動向をチェックするも、麻原の影さえ認められなかった。
・そのうち、次第に「麻原が第六サティアン」にいる」との情報が集まってきた。捜査員
 が外から監視を続けていると、当時、麻原の後継者とされていた三女アーチャリーをは
 じめ教祖の家族たちや、平田信(現・服役囚)らボディガードチーム、最も寵愛を受け
 ていた愛人で少し前まで第二サティアンで麻原と同居していた17歳の美少女信者スメ
 ーダの姿が第六サティアン周辺で目撃された。
・それでも麻原が第六サティアンにいるかどうかの確認を持てなかった警視庁幹部たちが
 最終的に突入を決断したのは、麻原の大好物であるメロンが大量に第六サティアンに運
 び込まれたのを発見したからだ。教団内で高額のメロンをムシャムシャ食べられるのは、
 教祖しかいなかったのである。
・一連のオウム事件の発生当初から捜査本部に投入されていた警察庁の所轄署に属する一
 人の男性巡査長がいた。この巡査長は先のゴールデンウィークに上九一色村の教団施設
 の監視・警備任務に就いた際、第六サティアンの二階と三階の間の外壁に、信者がカバ
 ーのようなものを取り付けていたのを見つけ、漠然と「空気口のようなものを隠すため
 ではないか」と考えていたことを思い出した。そして、ちょうど休憩している場所から
 見上げると、二階から三階に上がる階段部分の天井に厚さ60センチほどの出っ張りが
 あることに気づいた。そこで上司に相談して調べることになった。脚立に上がって金槌
 で壁を叩いてみると、「コンコン」と空洞のような音がしたため、現場から報告を受け
 た中央総合指揮所からも「壊してみろ」と命令が飛んだ。
・巡査長が金槌で叩いて壁面に穴を開け、頭の一部を突っ込むと、何やらベニヤ板で仕切
 られたスペースのような空間が見えた。「隠し部屋だ!」この後、巡査長と交代して上
 がった捜査一課の刑事が男に向かって「麻原か」と問い資すと、低い声で「いや、グル
 (尊師)だ」との返事があった。「そのグルがこんな所でいったい、何をしていたのか」
 刑事がそう問いかけると、小声で「はい、瞑想していました」
・そして、刑事の「自分で出られるか」との呼びかけには「出られる」と返事し、大勢の
 機動隊員が取り囲む中で、紫の法衣にヘッドギア姿でゆっくりと下に降りようとしたが、
 足がガタガタと震えて降りられず、結局は機動隊員に担ぎ出されるようにして降りた。
・その時、麻原は恐縮したのか、肩を貸した機動隊員に「重くて、どうもすみません」と
 謝罪し、礼を述べたという。そうしたやり取りをどこかに隠れて見守っていたのか、三
 女のアーチェリーが駆け寄ってきて、麻原の足にすがって声を上げて泣きぎゃくった。
・隠し部屋は二階の階段天井部分にあり、高さ60センチ、幅103センチ、奥行335
 センチとまるで棺桶のような小さな密室であった。壁は内側から外せる仕組みになって
 いて、床には寝袋やテッシュペーパーが乱雑に散らばっていた。そこで、逃走資金と見
 られる9百数十枚の一万円札を詰めた箱を、腹巻きに付けるようにして抱えて腹ばいに
 なっており、埃まみれの姿はあまりにぶざまで、いかにも小心者に相応しい哀れな男に
 しか見えなかった。   
・教祖の自室にある冷蔵庫の中には生肉や鮮魚、めん類などがぎっしりと詰め込まれてい
 た。信者には生き物の殺生を禁じ、納豆など大豆タンパクを中心とした粗食しか与えず、
 厳しい修行を強いておきながら、自分はステーキや刺し身、メロンと贅沢三昧の食事を
 貪っている。大金を所持していたこともあり、まさに欲望のままに生きている、ただの
 犯罪者と変わらない。
・95年1月中旬に上九一色村の教団施設に強制捜査に入る予定だったが、1月17日に
 阪神・淡路大震災が発生。警察は救援活動に追われて、捜索どころではなくなってしま
 った。そしてもたつく間に、オウム側は警察当局への対応策を十分に検討して準備を開
 始。そして強制捜査を2日後に控えた3月20日、地下鉄サリン事件が発生したのだ。
・「オウムに先に越されたかもしれない」警察庁中枢は一様に、そう感じた。実際、オウ
 ムに照準を向けていた警察当局の動きを察知した教団が、無差別テロ事件を決行したの
 だ。教団側に強制捜査着手日が漏れていたのも衝撃であった。
・地下鉄サリン事件の現場でサリンのことをあまり知らされず、いち早く現場に入った警
 視庁の鑑識係長らが次々と倒れた。その後で、防護服や防毒マスクを装着して密かに訓
 練を行っていた機動隊員が物々しい姿で現場に到着すると、周囲にいた警察官や救急隊
 員から「そんな立派な服があるなら、事前に知らせて欲しかった」と非難の声が上がっ
 た。
・教団施設からは「戦え!真理の戦士たち」という音楽が聞こえ、各サティアンから麻原
 のマントラやオウムの説法がいつにも増して大音量で流されていた。地元住民が信者の
 集団自殺や武器を駆使した徹底抗戦を心配するのも当然であったのだ。  
・3月22日に強制捜査した後も、オウム捜査の最高指揮官である国松孝次・警察庁長官
 狙撃、教団の闇の部分に精通するナンバー2の村井秀夫幹部刺殺などの事件が続発し、
 警察当直は事件対応に追いまくられ、後手を踏み続けた。 
・肝心の強制捜査でも、麻原はもとより大半の教団幹部たちや、サリン生成の重要参考人
 と言えるマッドサイエンティストたちは、ほぼ全員が逃亡し、姿を消した後であった。
・それだけに麻原逮捕は万全を期して行われるはずだったが、麻原の所在は把握できてお
 らず、姿を消した教団幹部たちの動向も把握できていなかった。
・坂本弁護士一家失踪(後に殺人・死体遺棄)事件の捜査に行き詰った神奈川県警は、教
 団関係者名簿の金融取引を徹底的に調べた結果、94年8月、化学薬品を輸入・製造・
 販売しているとされる山梨、静岡両県内の2社に、多額のカネが流れている事実を突き
 止めた。さらに捜査を進めると、2社の役員欄にオウム真理教の信者が名を連ね、教団
 がこの2つのダミー会社を使って、秘密裏にサリンの原材料を買い集めていることがわ
 かった。  
・山梨県上九一色村の第七サティアン周辺で94年7月頃から度々、異臭騒ぎが起きてい
 ることを知った神奈川県警の捜査員は密かに越境捜査を行い、教団施設の張り込みや内
 偵捜査を続けた結果、教団が自ら製造工場を設け、サリンを製造しているとの確信を得
 た。そこで警察庁に報告し、強制捜査に乗り出す構えを見せたが、警察庁からなかなか
 ゴーサインが出なかった。その最大の理由は、松本サリン事件は長野県警が捜査を担当
 するなど縄張りを調整するのに手間取ったうえ、神奈川県警の管轄圏内には直接、サリ
 ンにかかわる事件が起きていなかったことが大きな障害となった。
・長野県警も松本サリン事件発生から6日後の94年7月には、原因物質をサリンと突き
 止め、大学の化学系学部で学んだ警察官10人を選抜してプロジェクトチームを編成し
 ていた。そして警察庁の科学警察研究所などとも連携して、サリンの生成メカニズムの
 解明をはじめ、生成に必要な化学薬品の割り出し、流通ルートの洗い出しなど極秘捜査
 を始めた。
・サリンの主成分の薬品であるメチルホスホン酸ジメチルの購入ルートの捜査から、メチ
 ルホスホン酸ジメチル25グラム入りのビンを計28本も一緒に購入するなどした不審
 な男の存在が浮上してきた。男の周辺を捜査すると、住所地が東京・世田谷区にあり、
 警視庁の協力で調べると、そこは5階建てのビルになっており、オウム真理教の道場や
 オウムの出版などの関連会社、教団関係者の住居などになっていることがわかった。
・数日後、薬品の購入ルートを洗っていた別の捜査員が静岡県内の化学薬品会社の存在を
 突き止め、会社周辺の内偵捜査をすると、駐車場には山梨ナンバーの車が数多く駐車し、
 オウム信者と見られる者が多数出入りしていることが判明。同社が教団のダミー会社で
 サリンの原材料を大量に購入していることを突き止めた。
・長野県警は神奈川県警に先立って、警察庁に強制捜査の打診を行ったが、警視庁をはじ
 め他警察本部との縄張り争いや公安警察との確執から許可されず、こちらも調整に手間
 取るうちに地下鉄サリン事件が起きてしまったという。
・オウム信者による旅館経営者営利略取事件を捜査していた宮崎県警は、松本市から8百
 キロ以上離れ全くサリンについての知識や情報を持っていなかったが、旅館経営者事件
 について書かれた怪文書を入手して調べていたところ、松本サリン事件についても言及
 しているところが判明、サリンについて関心を抱くようになった。そして、後に解放さ
 れた旅館経営者の周辺を捜査するうちに、教団に硫酸アトロピンなどの化学薬品が多数
 納入されていることを突き止めた。さらに捜査を進めると、こうした薬品はサリンなど
 有機リン系毒物に対する解毒剤として使われていることが判明した。宮崎県警は全く独
 自のルートから、オウムとサリンの関係を突き止めていたのだ。
・これらの県警が警察庁を通して緊密に情報交換していれば、また、警察庁が強力な指導
 力を発揮して広域捜査に乗り出していれば、地下鉄サリン事件は防げたかもしれないだ
 けに誠に残念でならない。 
・かくして小さな失敗を続け、それらが積み重なって地下鉄サリン事件や警察庁長官狙撃
 事件、村井秀夫暗刺事件という大失態に繋げてしまった警察当直は、麻原を無事逮捕し
 たことで何とか面目を保ったものの、まさに治安維持や事件捜査の組織としては崩壊寸
 前であったと言わざるを得ないだろう。
・2018年現在、オウム真理教の後継を名乗る団体が1650人ほどの信者数とはいえ、
 今なお麻原彰晃の肖像画や書物を掲げて活動を続けているという事実が存在する。地下
 鉄サリン事件から20年以上が経ち、オウム事件のことを直接知らない若者も増えてい
 る。そうした中で今、オウムの教義が密かに複数の大学構内に浸透しつつある実態を見
 逃してはいけない。

降臨
・実は、この老詐欺師と、麻原が阿含宋にいた時から行動をともにしてきた古参信者の通
 称「長老」、さらに「オウム神仙の会」の元会員で、かつて都内のインド系宗教団体に
 属し出家生活も経験したことがあるという通称「坊さん」の3人が、麻原とともにオウ
 ム真理教の基礎を築いたと言っても過言ではない。
・彼らは教団草創期の「三本柱」とされるブレーンだったが、その存在は麻原周辺のごく
 一部の者しか知らず、その人々も3人の詳しい役割までは知らされていなかった。因み
 に、3人のブレーンのうち、「坊さん」は教団が「オウム真理教」と改称する3か月前
 に脱会して一般人となり、一部の信者と交流を持った時期もあったが、一連の事件はも
 とより教団の武装化とは無関係と言っていい。
・それに対し、「神爺」と「長老」は一連の事件や教団武装化などに直接かかわっていな
 いものの、どの段階まで麻原と一緒だったのかは定かではなく、教団への強制捜査後も
 長らく消息不明であった。だが、私はこのほど、彼らが兵庫県と京都府で生存している
 ことを突き止め、直接会って話を聞いた。
・83年に、麻原は東京・渋谷にある2DKのマンションに「鳳凰慶林館」という名前の
 学習塾を開いた。そして、翌84年2月にはそれを「オウムの会」と名乗るヨーガ教室
 に衣替えした。さらに同年5月には、長兄から3百万円を借りて、「株式会社オウム」
 を設立している。
・このヨーガ教室には84年4月に山本まゆみ、5月に飯田エリ子、7月には石井久子と
 いった、後に教団の女性幹部になる面々が入り、受講生というより信者の卵の獲得に大
 いに力を発揮した。
・麻原に詐欺師の素質があったことは間違いない。それにヤツは女を蕩けさす指先の魔術
 師やった。なにせ鍼灸やマッサージで鍛え上げ、ツボと癒し方を心得ているからな。
・「空中浮揚」については大手出版社系週刊誌の記者とカメラマンが85年9月、取材と
 写真撮影を試みた。黒いビキニパンツ一枚だけを身に着た姿で現れた体重70キロ弱の
 麻原は、確かに足を運んだ格好から跳ね上がったものの、一秒とは浮いていられず、い
 かにひいき目に見ても膝の力を使ったジャンプとしか見えなかった。カメラマンは下の
 方から撮影して、何とか40センチほど跳ね上がったように写した。
・1984年2月にヨーガ教室を「オウム神仙の会」に改称した麻原は、本格的に宗教活
 動に乗り出した。最初は6人の女性信者しかいなかった団体も、この頃から早川代秀・
 教団「建設省」大臣(死刑執行済)や新實智光・同「自治省」大臣(同)、岡嵜ら後の
 主要メンバーが次々と入り、1年後には50人余りの信者が集まるようになっていた。
・麻原は84年5月、数人に信者と念願のインドに行き、ニューデリーを中心にヨーガ道
 場を回って、最終的にヒマラヤで長年修行を積んだという聖者パイロット・ババの指導
 を受けた。麻原はババをグルと仰ぎ、修行を重ねた結果、ババから祝福されたと語った
 が、同行した元信者によれば、これらはすべて嘘で勝手に作り上げた話しだという。
・二か月後に知子夫人と再びインドに行き、ババが修行したというヒマラヤ山脈の麓・ガ
 ンゴトリを訪問。そこで瞑想に入り、その姿を知子夫人に何枚も写真を撮らせた。そし
 ていかにも満足そうに微笑みながら、麻原はこう叫んだという。「ついに私は「最終解
 脱」したぞ!」この「最終解脱」という言葉は、後に「空中浮揚」とともに多くの信者
 や信者予備軍の若者たちの心を掴むキーワードとなったが、インドでの瞑想修行の状況
 などから麻原が「最終解脱」などしていないことは明らかであり、その嘘が信者たちに
 すぐバレるアクシデントが何回も起こっている。    
・現代の管理社会下にあって社会の閉塞感に苦しんできた若者たちは、それを超越したも
 のに帰依することで心の葛藤の解消を図り、舞い上がっていくものだ。信者の多くは
 「解脱・悟りを得たい」というのが目的だったが、麻原はそんな彼らに、最終解脱者で
 ある自分の言うとおりに修行すれば、短期間で「解脱・悟り」に到着できると説いた。
 そうして境地に至るには本来、長い間修行を積まないと無理だと考えられているものだ
 が、麻原は自分とともに修行すれば短期間で得られると強調した。
・弟子たちは”グルと縁深き選ばれし者”であるがゆえに、自分たちだけが目に見えない
 神秘的な世界に気づき、世の人々を救済することができるといった優越感や高揚感で舞
 い上がっていったのだ。 
・高学歴ゆえ多数の宗教・哲学書を読み、幾つかの宗教団体を渡り歩くなど疑り深い信者
 たちを理屈抜きで納得させるために重要だったのは、目に見える形での肉体的な反応だ
 った。「空中浮揚」も一つだが、何より自分たちの、身に起きた数々の現象が決め手だ
 った。それを「解脱・悟りを得る第一歩」として教えられ、それを感じた際には「解脱
 ・悟りを得られる素質・素養がある」と説明されれば、信仰を求めている者であれば誰
 もがまず驚愕し、興奮し、有頂天になり、既に一段高いステージに上がった気になって、
 グルにどこまでも従い、何でもしようという気になってくるというわけだ。
・その肉体的反応とは、信者たちが一心不乱に修行する最中に突然、下腹部辺りに現れた
 熱いほとばしりが体内を通って頭頂部に突き抜けるように感じたとか、暗闇の中で白銀
 の如く輝く光が見えたといった類のものだ。 
・わずかに神秘体験らしきものを体験しただけで、相手を絶対的な超能力者と錯覚し、す
 べての言動に深い意味があると思い込む。理解不能な出来事は自分たちを超越した神秘
 現象と考え、こうあって欲しいという期待感を相手に投影して勝手にイメージを作り上
 げていく。そうした疑り深い反面、心中では信じたがっている連中を騙すのは、詐欺師
 であれば簡単だ。
・あれだけ酷い事件を起こした今となっては、何を言っても弁明にもならないが、麻原は
 しょせん小物の詐欺師。本人の欲深さと周囲の悪党どもの悪知恵、そして、もっと悪い
 闇社会の連中に担がれて調子に乗り、思いがけず大事に発展したのだ。
・麻原は87年から92年にかけて5回、チベット仏教の法王ダライ・ラマ十四世へ拝謁
 を求めてインドを訪問している。麻原は予め都内にあったダライ・ラマ法王日本代表部
 を訪ねて、チベット仏教の高僧に教えを請いたいと頼み、法王への紹介状を書くように
 要請している。 
・宗教・文化省内でも当然、法王との会見を認めるか否かについて相当厳しい議論が行わ
 れたようだが、結局、会見は実現し、法王の配慮もあって40分余りに及んだ。そうは
 言っても会話はほとんどなく、麻原について説明し、彼の質問事項をお伝えし、それに
 法王様がお答えになっただけだったという。その間、麻原は法王様の足元にひざまずき、
 額を法王様の足につけて聞いていただけだったという。
・麻原からすれば、ダライ・ラマ十四世に会い、直接声をかけられたということが重要で
 あって、話の内容などはどうでも良かった。そして、彼が心中密かに切望していたとい
 うダライ・ラマ法王と並んでの写真を撮ったことで、ダラムサラを訪ねた目的は十分に
 果たしたと言って良かったのである。 
・帰国後には多少あったかもしれない殊勝な心もどこかに吹き飛んでしまい、ダライ・ラ
 マ法王とのツーショット写真を本部道場など至る所に貼って、自分の権威付けや信者の
 信頼獲得に利用したほか、新たに信者を集めるためのPRにフル活用している。
・ダライ・ラマ法王は麻原に仏の教えを説いた。しかし、法王は何万人という信仰者に仏
 の教えを説いており、麻原は仏教を学びに来た者の一人に過ぎない。彼だけに特別に何
 かを教えることはないし、彼に仏陀の素質があるなどと発言をするわけがない。法王は
 麻原が主宰する宗教団体の名前さえ知らなかった。ましてや、麻原がインドで最高級に
 外資系ホテルに滞在しながら、優雅に修行の真似事をしていたという信じられないよう
 な実態を知る由もなかったという。 
・教団への強制捜査が行われた後の95年4月、来日中のダライ・ラマ十四世は記者会見
 で、オウム真理教との関係について次のように述べている。「(麻原と)会ったことは
 あるが、私の弟子ではない。私に会いに来る人に対しては、誰でも友人として接してい
 るが、決してオウム真理教の教えを承認してはいない。彼は宗教より組織作りに強い興
 味を持っていたという印象が残っている」「当時、麻原がやっていたのはヨーガやヒン
 ドゥ教などを混ぜ込んでいたもので、仏教とは違ったものでした。仏教は一人の指導者
 に信者が依存し過ぎるべきではないと思っているし、彼のやり方は極めて不健全なもの
 でした。第一、私は超能力とか奇跡に対しては懐疑的な見方を採っているんです」
・エリート信者たちは何も聞かず何も考えない”指示待ち人間”になっており、「疑問を
 抱くことは心の汚れ」とか「教祖の指示は救済であり、その通り動くことが解脱の道」
 などと言えば、素直に絶対服従するから驚いたほどです。教義上オウムを離れると地獄、
 特にグルを裏切れば転生する先は無間地獄とされています。教団は常に仮想敵を設けて、
 ハルマゲドンや無間地獄の恐怖をチラつかせて信者を後ろからせき立てるし、機械の如
 くこき使います。そうした信者に苦痛を強いるような組織を保てたのは、信者同士が相
 互監視する密告社会を築いたからなんです。 
・その相互監視・密告制度の典型例が、教団内に設置された「コーザルライン」と称する
 教祖への直訴用「目安箱」だったという。組織の風通しを良くすることが設置目的だと
 言いながら、実際は反教団的言動とか脱走寸前の信者の情報を密告するためのものだっ
 た。「目安箱」に讒言的な内容を投書されたら、必ず何らかの罰を与えられたため、信
 者にとっては恐怖以外の何物でもなかった。
・信者の生活スケジュールを徹底的に管理し、テレビや新聞など外部からの情報を一切遮
 断。信者たちを慢性的な睡眠不足に陥らせる中で、教祖の教えと自らの決意のみを唱え
 させ、黙々とワークをこなす生活を強制し、彼らを服従させることに成功した。
・成就者には「ホーリーネーム」を授け、教団の豊富な資金力をバックに理系のエリート
 学校出身の信者には大金を投じて高度な分析機器を揃えるなど、完璧なアメとムチ政策
 を進めてコントロールした。 
・「女は若くて美人。男は理科系の高学歴者」というのが、麻原が幹部候補の信者を勧誘
 する際に打ち出した方針であった。そして、「一般信者は資金やカネを所有しているか、
 前職の関係で特殊な技能が資格を持っている、または真面目な体育会系マッチョぐらい
 が関心の的で、あとは何でもよかった。
・出家さっせられたら最後で、外部とは連絡が取れなくなり、とことん金をむしり取られ
 る。オウムにとって信者はあくまで商売モノであり、できるだけカネを出せるようにし
 向ける。売れるものは何でも売り、取れるものは根こそぎ頂く。
・入会金や会費に始まり、やれ儀式だイベントだのと何かやるごとに多額の参加費を徴収
 する。尊師の説法テープやビデオ、数珠など備品を提供し、その度、「お布施」を頂く。
 最も酷かったのが尊師がナマの声で秘儀マントラを吹き込んだという百本限定のお宝テ
 ープです。実態は大量生産された安物テープに「進め、進め、修行せよ、進め」と歌っ
 た声を入れただけの代物で、これを何十万円で売りさばこうというのですから、そこら
 の詐欺師も裸足で逃げ出す厚かましさです。
・教団ナンバー2とされた村井秀夫が率いる教団「科学技術省」の研究スタッフには、麻
 原の肝煎りで集めた理科系の高学歴者が揃っていた。同省次官の豊田亨はその一人で、
 東京大学大学院で素粒子論を研究していた超エリートが地下鉄サリン事件の実行犯と判
 明した時は、世間にもの凄い衝撃が走った。豊田をはじめとする理系エリートたちは上
 からの指示に対し、驚くほど何も考えずに従う「奴隷的服従」を受け入れていた。
・出家信者には、この「ワーク」と呼ばれる奉仕活動を行う義務が課せられた。豊田ら理
 科系エリート信者たちのように潤沢な資金と整備された研究施設が与えられ、サリン製
 造など科学分野で活躍する者もいれば、オウムが経営する会社や店で無給で働き、「ワ
 ーク」によって功徳を積んだと考える一般信者もいた。
・時代の速い流れや社会の閉塞感に言いようのない不安を覚えた若者たちは、独創的な発
 想を持たず、自分をはるかに超越する者にすがり帰依することで、一気に不安を解消し
 ようと考えた。彼らは麻原の説法に惑わされ、「この世は卑しい物質文明に支配され、
 人々の心は汚れている」といった観念的な見方にとらわれ、現実を直視しようとせず、
 指示通りに動くことしか考えなくなった。
・そんな彼らを絡めとり支配下に置くことは、いかに人を騙して儲けようかと待ち構えて
 いた麻原からしてみれば、赤子の手を捻るよりも簡単なことであった。彼らが大好きで、
 さも知ったようなことを言っている「超能力」なるものを目の前で見せつけ、この神秘
 的な世界が見えるのは「選ばれしあなたたちだけだ」と耳元で囁いてやれば、優越感に
 浸った連中はお気軽に罠に飛び込んでくる。麻原という人物が自分を助けてくれる絶対
 的存在に見え、彼が唱える世界が理想的な社会に思えてしまうらしい。
・88年9月下旬、総本部道場で修行中の男性在家信者が突然、道場内を走り回り、大声
 でわまきちらした。早川ら幹部が取り押さえ、麻原の「水をかけて頭を冷やしてやれ」
 との指示で浴室に連れて行き、村井の指揮の下、水をかけたり、浴槽に頭をつけたりし
 ているうちに意識を失い、死亡した。    
・麻原以下複数の幹部と出家信者が事態を把握していたが、教団の組織拡大の妨げになる
 と警察に届けず、麻原の指示で遺体を秘密裏に処理することを決断。遺体をドラム缶に
 入れ、教団内の「護摩壇」(耐火煉瓦をコの字形に積み上げた炉)で焼却し、燃え残っ
 た遺骨は金槌で叩いて砕き、すり鉢ですり潰して精進湖に捨てたという。結局、20数
 人の信者がかかわったが、「高い世界に転生できるので羨ましい」と誰も公にしなかっ
 た。
・麻原はその後、出家信者の外泊禁止など厳しい戒律を打ち出しており、教団内で起きた
 初の信者死亡(過失致死)事件が外部に漏れないかヒヤヒヤしていたフシが窺われる。
・その事件から5か月後の89年2月、信者が死亡した現場に居合わせて目撃した男性信
 者が教団から脱会を申し出たため、外部に漏れるのを恐れた麻原が「どうしても脱会す
 ると言うなら、ポアしろ。ロープで一気に首を絞め、後は護摩壇で燃やし骨も粉々にし
 て、空中に散らばるほどに焼き尽くせ」と命じた。   
・その信者は鍵の付いた独房修行用のコンテナ内にロープで縛られて監禁され、麻原の説
 法テープを延々と聞かされながら脱会の意思を翻させようと説得を受けていたが、聞き
 入れなかった。そこで首にロープをかけ、早川と岡嵜、新實と村井が両側から引っ張っ
 て殺害し、ドラム缶に入れて15時間以上も焼いたうえ、灰は地面にまかれたという。
・ポアとは必ずしも殺害することや生死にかかわる事柄とは限らない。その相手の人の魂
 が本来行くべき世界より高い世界へ導き上げることも「ポア」と言って、教団で日常的
 に使うようになっていた。 
・そうして「ポアの論理」を後押ししたのが「マハームドラーの修行」である。これは、
 グルが弟子に苦行を与えたり、無理難題を押しつけ、それを実現すべく努力することに
 よって弟子の精神的な成長を実現させる修行上の仕掛けのようなものだ。実現不可能な
 課題を与えられた弟子は大いに苦悩するが、それを乗り越えた時、修行者としての成長
 や向上があると考えさせ、殺人をも乗り越えるばき修行と思わせることで弟子たちを巧
 みにコントロールし、凶悪な違法行為に走らせたと見られている。
・人間の生命を救う医師として教団に加わった林郁夫・元教団「治療省」大臣のように、
 地下鉄サリン事件の実行犯に選ばれながら最後まで躊躇した信者にとっては、ポアの論
 理が犯罪に踏み込む決断を促す重要な教えになったことは明らかだ。慶應大学医学部出
 身の優秀な頭脳と豊かな社会常識、冷静沈着な性格を持つ林でさえ、洗脳されてしまっ
 た様子が窺える。 
・麻原から曖昧な説明を聞いた幹部信者たちは、例えば莫大な予算を費やし怪しげな武器
 を製造しようとして失敗したことも、信者の買い食いを禁止していた麻原が自分では好
 き放題外食している姿を知った時も、「弟子の煩悩を引き出すため尊師がわざとやらせ
 ているマハームドラーだ」と考えるようになっていた。
・冷静な林も、教団内を支配する「解脱・悟りを得て、世の人々を救済するためなら、何
 をやってもいい」と高揚する雰囲気に飲み込まれていたようである。
・早稲田大学理工学部物理学科を卒業、同大学院修士課程を修了し、大手電機メーカーに
 就職が内定していながら、麻原の勧めで出家した広瀬健一・教団「科学技術省」次官
 (現・死刑囚)も、「(地下鉄サリン事件でサリンを散布せよという)指示は、当時の
 私には苦界に転生する人々の救済としか思えなかった。殺人のイメージは全くわかなか
 ったんです」罪の意識から逃れるために「救済」を口にしているだけでなく、「救済」
 するために率先して犯罪に手を染めたと言いたかった、と後に自ら述懐している。
・当時のオウムは「救済」の名の下で人間の生死さえ掌握しようとしていたが、この「救
 済」という有り難い言葉の響きと概念は、信者たちの暴走を加速させた。
・1989年11月に坂本弁護士一家を殺害。その3か月後には麻原以下幹部信者ら25
 人が素知らぬ顔で衆議院選挙に出馬したが、麻原の1783票をはじめ全員が惨敗して
 落選した。麻原らはそれを「国家の陰謀だ」と決めつけ、そこから教団の武装化に踏み
 出したとされている。
・オウムは松本サリン事件の発生から翌95年にかけて新たに開発した毒ガスや化学兵器
 を使って、立て続けに4件以上の殺人・殺人未遂事件を起こしている。94年12月の
 駐車場経営者VX殺人未遂事件や会社員VX殺人事件、95年1月の被害者の会・会長
 VX殺人未遂事件などで、地下鉄サリン事件後の95年4月と5月にも地下鉄新宿駅の
 トイレに青酸ガス発生装置を仕掛けたが、一部が発火炎上しただけで失敗に終わってい
 る。
・教団が武装化へ向けて大きき舵を切ったのは、一般には90年の衆議院選挙で惨敗した
 翌日、富士山総本部道場での説法がきっかけだったと言われてきた。麻原は90年の衆
 議院選挙で惨敗したことから、同年4月頃、教団幹部から20数人を集め、「今の世の
 中はマハーヤーナ(平和的に衆生を救う教え)では救済できないことが分かったので、
 これからはヴァジラヤーナ(救済のためなら殺人をも許されるという教え。秘密金剛乗)
 でいく。現代人は生きながらして悪業を積むから、全世界にボツリヌス菌をまいてポア
 する。救済の計画のために私は君たちを選んだ」などと言って無差別大量殺人の実行を
 宣言して以来、ボツリヌス菌の培養、ホスゲン爆弾の製造、プラズマ兵器の製造、核兵
 器の開発、炭疽菌の培養等を教団幹部らに指示して教団の武装化を強力に推進し、その
 一環として、サリンをプラントで大量に生成するとともに、多数の自動小銃を製造しよ
 うと考えた。
・そもそも教団が「武器」「兵器」と呼べるようなものを作ろうとしたのは、89年春か
 らです。村井さんの指揮の下でレーザー兵器を作ろうとしていました。現に89年10
 月、週刊誌で反オウムキャンペーンを展開していた毎日新聞社に対してレーザー兵器を
 使おうとしたが、赤い豆電球がついただけで何も起きなかったという。
・それにしてもなぜ、オウムは暴走したのか。教祖の叫びや暴走に対して、頭脳明晰、冷
 静沈着な弟子たちはなぜ抑えることができなかったのか。麻原に叱責されるのを恐れ、
 あるいは麻原は認められたいとの思いを募らせて暴走を許したとする説は本当なのか。
・肝心の麻原が取り調べや裁判でも何も語らなかったうえ、元幹部信者たちの法廷証言も
 自分たちの罪状を少しでも軽くしたいものでしかなかったため、真相は未だに黒いベー
 ルに包まれたままである。  
・「もし政治というものが一切宗教を禁止し、私たちに従えと力で迫ったら、どうするか。
 三つあるよな。一つは圧力に対して戦う。もう一つは逃げる。もう一つは従う。遠藤は
 どうだ」「僕は逃げるかな。日本はそういう方向になりつつあるんですか」「間違いな
 くそうなる。そうしたら警察が何人か来るよね。警察を壊しちゃえばいい。警察ごと壊
 せばいい。警察ごと壊せばいい。本署ごと消しちゃえばいい。ポアしちゃえばいい・・」
 このやり取りを見る限り、麻原は教団武装化には否定的に姿勢を見せる幹部信者に対し、
 議論の方向を教団武装化や、暴力による社会の破壊に導こうとしていたことがわかる。
・しかも、これらの会話の背景には、国家や社会がオウムの活動を妨害しようとしている
 という陰謀論がチラつき、麻原がその陰謀論を巧みに利用していたことが教団武装化の
 一つの要因とも見られている。
・95年3月、山梨県上九一色村の教団施設に向かう高級車の中で、麻原が地下鉄車内に
 サリンをまく最終決断を下し、同乗していた幹部らに指示を出した、という”リムジン
 謀議”と呼ばれる有名なシーンがある。同乗者の一人が後に明かした証言によれば、麻
 原は弟子たちに「瞑想して考える」と答えたものの、そのまま寝込んでしまい、結局、
 車内では何も指示がなかったのが真相なのだという。
・教団施設に帰ってから改めて指示があったので、大筋では犯罪事実に間違いはないのだ
 が、こうした”信じられないようなエピソード”が随所にあり、まるで「笑い話」のよ
 うなシーンが頻繁に登場するのが一連のオウム事件の特徴なのだ。    

膨張
・オウムがロシアと密接な関係を持つようになったのは92年2月、当時のエリツィン大
 統領の側近で、国家安全保障会議のオレグ・ロホフ書記が日本を訪れ、麻原彰晃と会談
 団法人「ロシア・日本大学基金」を設立して自らロシア日本大学の学長、総裁に就任。
 同基金への約30億円の賜金援助を求めて来日し、政財界の要人らに要請したが、すべ
 て断られた。
・そんなロボフと都内のホテルで会談し、5百万ドルの資金援助を承諾したのが麻原で、
 最終的に約1千万ドルを送金したとされる。ロボフはこの時、オウムに対して、ロシア
 に関する最大級の便宜を図ることを約束したという。
・実際、同年3月に約3百人の信者を引き連れ首都モスクワを訪問した麻原は、エリツィ
 ンにこそ会えなかったが、ハズブラートフ最高会議議長やルツコイ副大統領らと会見し、
 7月には早くもロシア国内の宗教法人許可を得て、9月にはモスクワ支部開設にこぎ着
 けている。
・また、年間80万ドルの資金を出してロシア最大のラジオ局を買い取り、布教のための
 広報・宣伝活動に利用して、瞬く間に3万5千人余りの信者を獲得している。
・これだけ短期間にオウムのロシア進出が可能となった背景には、新たに革命政府を樹立
 したエリツィン政権の賜金難問題があり、大統領の指示を受けた在日ロシア大使館のボ
 リゾフ一等書記官が中心となって資金を集め奔走しながらも、うまくいっていない事情
 があった。 
・こうしたロシア側の動きに対応したオウム側の担当者は早川・教団「建設省」大臣で、
 91年秋に日ロ友好関連団体の役員を訪ね、ロシアへのルート作りを依頼したり、ニコ
 ライに接触、ロボフに衣料品やコンピュータなど総額5千万ドル相当に人道支援を申し
 出るなど、早い段階から水面下で活発に活動していた。
・オウムがロシア進出を検討した目的は信者の獲得以上に、教団の武装化にあり、特にハ
 イテク化にあったと言える。最初にロシアを訪問した時、麻原は科学アカデミー物理学
 研究所所長でレーザー光線研究で知られるノーベル賞受賞者のバーソフ博士や原子力大
 臣らと真っ先に接触し、麻原自身もモスクワ物理工科大学で2回講演している。しかも
 93年8月末には、モスクワ郊外にあるロシア軍精鋭部隊のカンデミーロフ戦車師団を
 訪問し、その後、信者が同師団軍事訓練まで受けている。
・このほか、軍事転用が十分に可能な大型武装ヘリコプター「ミル17」をはじめ、戦車、
 潜水艦、ロケット砲をはじめとする重火器類、自動小銃のカラシニコフなどの武器を購
 入するための交渉を、水面下で行っている。
・一方、オウムは有能な人材の獲得にも余念がなかった。ロシアの各大学で頻繁にヨーガ
 教室を開いて信者を勧誘し、特に核研究や科学ではトップレベルの大学を選んでヨーガ
 教室を開講。モスクワ物理工科大の主任研究員が出家したうえで優秀な学生を数人集め
 て研究チームを結成し、ロシアの原子物理学の最高機関で世界的に有名なクルチャトフ
 研究所の研究員の中にも、信者がいたことが判明している。
・オウムは有能な人材を狙い撃ちし徹底的にスカウト活動を実施するやり方で、経済混乱
 で頭脳流出が相次いでいた当時のロシアにあって、彼らの受け入れ先として貴重な存在
 であったことも事実である。
・CIA関係者は、気になる言葉を口にした。「地下鉄サリン事件で、口から血を流して
 いる被害者がいたが、サリンでは通常、血を流すことはありません。おそらくタブンな
 ど他の毒ガスが含まれていたと見ています。いくらオウムでも、短期間にいろいろな毒
 ガスを開発できないでしょう。我々は、ロシアがオウムにサリンなどの毒ガスを与えた
 のではないかと思います」
・地下鉄サリン事件でオウム真理教が使用したサリンは、捜査の結果、上九一色村の第七
 サティアンで生成されたものと判明している。サリンを生成したマッドサイエンティス
 トの正体もわかっているし、原材料も押収しており、疑いのない事実とされてきた。と
 ころが、そこには実際、捜査当局がひた隠しにしていたトップシークレットがあったと
 いうのだ。
・地下鉄サリン事件の現場から検出されたサリンの副生物の中に一つだけ、松本サリン事
 件のものとは異質なものが含まれていた。つまり、地下鉄にまかれたサリンは二種類あ
 り、鑑定の結果、いずれも純度が低く、サリンを入れてあったビニール袋の変質ぶりか
 ら、製造後かなり日数が経っていたことがわかったのだ。第七サティアンで発見された
 サリン生成のプラントの購入・設置時期から考えると、地下鉄で使われたサリンの一部
 はそこで生成されたにしては少し古過ぎて、時期的に矛盾が生じるのだ。警視庁の元捜
 査員は、そう打ち明ける。
・では、そのサリンはどこで生成されたのかと言えば、それはCIA関係者が指摘するよ
 うに「ロシアからの密輸しかない」のである。オウム信者が行っていたという酸塩化物
 の代わりに三塩化リンと塩素を混合するサリン生成法はロシア軍独自のものであった。
 オウム信者がロシアでサリン生成法を学び、それを記した文献を基に生成実験を行った
 時のメモも、上九一色村の教団施設から押収されている。捜査当局が地下鉄サリン事件さ
 後、捜査員ら7人を新潟市に派遣し、94〜95年にかけて新潟港に入った船舶の乗船
 名簿や荷揚げリストを徹底的に洗ったり、船内の捜査や化学物質の鑑定を行ったのはそ
 のためである。
・捜査当局はロシアー新潟ー上九一色村というサリン密輸ルートの解明に全力を挙げたが
 不発に終わり、結局、外交問題に発展しかねないとの理由で断念している。その結果、
 もう一つのサリンの謎は永遠に闇に葬られてしまったのだ。
・当時のロシアはソ連崩壊による混乱で、政治や経済や社会生活、そして何より、人心が
 荒廃していた。オウム真理教が進出して2年でロシア人信者が3万人余に膨れ上がった
 のには、共産主義が崩壊した後の心の隙間を埋める対象として、宗教に縋りたいという
 土壌があったことは否めない。 
・オウムがこれだけ多くの武器を購入したり、ロシアで大々的に活躍する資金をどこから
 得たのかについては、CIAの内部文書も触れていないが、信者の資金を奪取しただけ
 では到底間に合わない多額の資金の出所については追々追及していきたい。
・ロシアンマフィアの特徴は、単なる犯罪組織の留まらず、旧ソ連崩壊で失脚した政府や
 旧KGB、軍の関係者が加わり、政府中枢とも癒着している点にある。その当時は何と、
 民間レベルで兵器や軍事技術・情報を提供する犯罪ビジネスが堂々とまかり通っていた
 という。それどころか、ついには国境を越えて、核テロの脅威をもたらし始めていた。
 実際、ドイツ当局が94年5月、シュツットガルト郊外で押収したプルトニウムは、モ
 スクワ近郊の核研究施設から持ち出されたものであった。そのうえ、当時のロシアでは
 マフィア政治家の癒着は日常茶飯事で、ろくに捜査や追及が行われず、マネーロンダリ
 ング(資金洗浄)の必要がないことから、犯罪行為が堂々と行われていたようである。
・オウム関連で言えば、ロシアンマフィアの中で忘れてならないのは極東マフィアの存在
 だ。ロシア内務省の捜査では当時ハバロフスクに31団体、サハリンに50団体の計1
 千人のマフィアがいて、ロシア系、中国系、韓国系、北朝鮮系に分かれていたらしい。
 中でもハバロフスクとウラジオストックのマフィアは、日本の暴力団との太いパイプを
 誇っていた。ロシア陸軍出身者の多いハバロフスクのマフィアが関東の暴力団と、海軍
 の退役軍人が中心のウラジオストックのマフィアは関西の暴力団と強力なコネクション
 があり、「原潜以外、何でも手に入る」と豪語していたという。
・早川は頻繁にハバロフスクを訪れ、彼らに積極していたと見られている。ロシア当局に
 よると、ハバロフスクから日本への密輸ルートは、
 @空路でウラジオストックに運び、貨物船で新潟沖まで運搬し、日本の漁船に積み換え
  る
 Aトラックで約380キロ離れたバニーノやソビエツカヤの港に運び、小樽や稚内周辺
  の漁港まで海上輸送する。   
 B空路カムチャッカ半島に運び、貨物船で網走沖まで運搬して引き渡す
 の3コースがあり、早川はサリンや武器を@ルートで密輸した疑いが強いとされた。
・私は早川と取引した武器商人に取材することができた。すると、彼の口からこんな恐る
 べき証言が飛び出してきた。「オウムが買おうとしていたのは、トカレフやカラシニコ
 フなんかじゃない。戦車やヘリでもない。本当に狙っていたのは核弾頭、つまり核兵器
 だったんだ。しかも、確かに彼らはそれを手に入れたはずだよ」何とオウムは、既に核
 兵器を保有していたというのである。  
・CIAが早い段階から公式な実態調査に乗り出したのは、オウムの背後にロシアの一部
 勢力が関与している疑いが強いうえ、ロシア軍化学部隊の隠れオウム信者である兵士が
 ロシア国内に3万〜4万トンあるとされるサリンを持ち出す危険が出てきたからだ。さ
 らにCIAはオウムの自衛隊員への浸透ぶりに懸念を表明していたが、実際に大量のオ
 ウム協力者が現れたことに、日本政府以上に衝撃を受けている。
・オウム真理教が自衛隊員を熱心に勧誘した理由は、実行部隊としての即戦力もさること
 ながら、やはりA(アトミック=核)B(バイオ=生物・細菌)C(ケミカル=化学・
 毒ガス)兵器に関する技術と情報、生産能力、さらに運用法を指導できるインストラク
 ターの獲得が狙いであろう。ただ、これらの獲得は下級隊員の勧誘だけでは不可能で、
 CIAは防衛大学校出身者を中心とした十数人の中核グループが隠れ信者の中にいるの
 ではないかと警戒していた。
・早川は神戸大学農学部でバイオを学び、大阪府立大学大学院では緑地計画工学を専攻し
 た。75年に大手ゼネコンに入社したが、建物の居住性や安全性より利潤追求を優先し
 た設計・施工、そして社内の熾烈な派閥抗争に嫌気が差して5年で飛び出し、設計コン
 サルタントなど数社を転々としてきた。
・87年に「オウム真理教」と改称する頃には早川は妻と二人で出家し、麻原の側近とな
 っていた。二人をよく知る元信者は「麻原が宗教ビジネスを思いつく天才なら、早川は
 それを具体的にきちんと実行する名参謀。二人でオウムを作ったんです」と打ち明ける。
・麻原の参謀役を務めたのが早川、村井、上祐の最高幹部三人だった。彼らの間で激しい
 権力闘争が行われた結果、裏の仕事がうまくできない上祐が早々に脱落した後、村井が
 主に国内の活動と信者統治を担当し、早川が海外の任務を担当するなど棲み分けができ
 た。というより、村井が麻原の言うことを何でも受け入れたことで、麻原に気に入られ
 教団ナンバー2の座に就いたため、その下で働くことをよしとしない早川は村井から追
 い出された形を取り、むろん進んで海外に自分の活躍の場を見出したと言われている。
・オウムの幹部信者の特徴は、最終判断をすべて麻原が行うため責任を取らない身勝手な
 行動が取れるところにある。麻原の思いつきのような意味不明の指示な悩むこともある
 が、大抵は言われたことさえこなしていれば、あとは自由に行動できた。特に麻原の目
 が届きにくい海外で活動す綾川はやりたい放題だったと、後に信者たちは口を揃えた。
・教会内でのライバル同士の出世争いは、ほかにも随所で見られた。最も熾烈だったのは、
 サリン生成に成功した「マッドサイエンティスト」遠藤誠一、土谷正実の有望な二人の
 研究者だ。遠藤は京都大学大学院医学研究科、土谷は筑波大学大学院化学研究科の出身
 で、麻原期待の理科系エリートとしてサリンやVXガスなど化学兵器の製造合戦を繰り
 広げていた。   
・こうしたエリート信者同士のライバル意識と対立は村井の下で、同じ「科学技術省」次
 官を務めた東京大学理学部物理学科卒業、同大学院博士課程で素粒子論を研究中に出家
 した豊田亨と、早稲田大学理工学部応用物理学科卒業、同大学院修士課程修了で麻原直
 々の勧誘で入信した広瀬健一の間でも繰り広げられた。
・女性信者たちも、教祖夫人の松本知子と、愛人で教団の「女帝」と言われた石井久子の
 対立をはじめ、爛れた男女関係が支配する教団内で、どの女性信者が出世する男性信者
 を捕まえられるかを競い合っていた。教祖の家族間にも対立関係が生まれている。
・1996年3月の米国上院公聴会で、オウム真理教が地下鉄サリン事件を起こす以前に、
 旧ソ連内で核兵器を購入しようとしていたことを明らかにした。教団幹部が核兵器購入
 を巡りロシア高官と協議したという。 
・早川は地下鉄サリン事件直前、マセンコから購入した2丁の拳銃をロシアから日本に送
 っており、その拳銃が警察庁長官狙撃事件で使われた疑いが浮上している。早川はこの
 時、拳銃とともに狙撃手も送っていたとの有力な情報がある。その男は元ソ連軍将校で、
 KGBにも所属していたことがあるという。射撃の腕は抜群で、体格や顔つきも警察庁
 長官狙撃現場周辺で目撃された実行犯の男とよく似ていた。狙撃事件前後の出入国記録
 を調べた日本の捜査当局も、この元将校らしい男の存在に気づき、男の行動を徹底的に
 洗った。が、日本国内での行動が全く掴めなかった。
・「早川ノート」の中に、こんな記述がある。<95年11月・戦争>日本の捜査当局は
 これをオウムが95年11月に大規模なテロ行為を起こそうと計画し、準備を進めてい
 た決定的な証拠と見て、早川ら元幹部たちを徹底的に追及したが、彼らは重要なことは
 何も明かさなかった。 
・ただ、捜査当局が井上逮捕で押収した「井上ノート」には、11月Xデー計画書と見ら
 れる記述があり、その中にこんなくだりが出てくる。<自衛隊の現役隊員・元隊員のオ
 ウム信者約50人、地下組織に属する信者の特殊ゲリラ要員約2百人を動員。資金援助
 している一部の暴力団や過激派グループの協力を得て、完全防護着用ゲリラ工作隊で首
 都圏を占拠する・・・><新潟周辺に、元ロシア軍特殊部隊の隊員が医師を装って、強
 襲揚陸艇で上陸する。艦船に事前に乗り込んだオウム幹部が、ロシアの元軍人などで組
 織されたゲリラ隊と合流して東京へ向かう・・・>
・早川と交流のあったマセンコの背後には日ロ両国の政治家や暴力団、マフィア、他の宗
 教団体などの影がチラついていること。さらに早川がヨーロッパを中心に台頭しつつあ
 ったネオナチ勢力と、頻繁にコンタクトを取っていたとの情報を入手したこと。そして、
 上祐のモスクワ支部長時代に通訳を務め、早川のアドバイザーとしても活躍していたロ
 シア人の男性信者が、実は、ロシア側から送り込まれたスパイであることを突き止めた
 からである。
・早川の北朝鮮入りの目的は、ロシアやウクライナ、北朝鮮を飛び回り、ロシア・ウクラ
 イナ製兵器を北朝鮮に仲介や斡旋したり、ウクライナの軍事情報、特に核関連情報を北
 朝鮮に売りつけ、その利益で武器などを購入するためと見られていた。ウクライナには、
 旧ソ連の宇宙ロケットや船舶建造のトップ技術のほとんどが集中しており、核兵器開発
 に躍起な北朝鮮には喉から出てでるほど欲しいはずである。
・早川を支持する信者グループのメンバーが松本・地下鉄サリン事件の後、密かに教団を
 大量脱会していたという事実がある。公安関係者によると、早川グループの面々はオウ
 ムとは異なる宗教団体の幹部と頻繁に接触を図っており、そうした不可解な行動が教団
 上層部に疑われ、早川がロシアに行って不在の間に一斉に拘束さて、激しい査問にかけ
 たれていたという。確かにそのメンバーにもスパイと疑われても仕方がない面があった
 が、この一斉査問の背景には、村井による早川追い落としの策謀が隠されていたと言わ
 れ、大量脱会の原因とされている。早川は自分と子飼いの信者を守るため脱会し、新し
 いグループ、つまり第二のオウム帝国を建設しとうとしたいたのではないか。
・教団内では早川グループ以外にも既に、暴走を続ける麻原ー村井路線についていけなく
 なる信者が現れ始めていた。 
・そうした教団内の信頼関係が崩れてきていたことを察知したのか、麻原は化学兵器とし
 て密造を命じていたLSDを「キリスト」と名付け、飲み物に混ぜて信者に飲ませる
 「キリストのイニシエーション」を開始した。次に、そこに覚せい剤を加えた「ルドラ
 チャクリンのイニシエーション」や、教団に疑問を抱いたり脱会を考えた信者に翻意を
 促すためとする「バルドーの悟りのイニシエーション」「決意のイニシエーション」と、
 次第に過激になっていった。
・最初は薬に興奮したに過ぎない幻覚症状を神秘体験ととらえ、悟りを開かせる道具とし
 て活用していたが、反体制派のチェックや不信を抱いた信者を薬で支配する手段に変化
 していった。さらに、戒律を破った者や不都合なことを知った信者にチオンペンタール
 ナトリウムという自白剤にも使われる薬を投与し、電気ショックを与えて記憶を消す
 ”ニューナルコ”というイニシエーションまで登場し、教団の良心とされた林郁夫が信
 者に薬物を入れた点滴を打ち、彼らの頭に電極を当てるに至って、教団に救いの余地は
 なくなったのだ。

封殺
・2007年春、北海道の旭川刑務所から一人の男が出所した。元暴力団組員。衆人環境
 の中でオウム真理教の最高幹部を暗殺するテロを敢行し、懲役12年の実刑判決を受け
 て服役していた人物である。
・事件は1995年4月、東京・南青山のオウム真理教東京総本部前で起きた。教団の東
 京総本部は、幹線道路の青山通りから少しだけ裏道に入った五叉路の一角にあった。地
 下鉄サリン事件の発生後、教団幹部の動向や信者の出入り状況を取材するため、総本部
 周辺には多くのメディアが24時間態勢で張り付いていた。また、テレビや新聞などに
 登場する教団幹部たちの姿を見ようと野次馬たちも集まり、教団施設の周辺は常に人の
 群れが取り囲む状態が続いていた。その衆人環境の中で事件は起こった。
・教団「科学技術省」大臣の村井秀夫が山梨県上九一色村の教団施設から車で戻り、報道
 陣にも揉みくしゃにされながら正面入り口から中に入ろうとした。その時、人の波に紛
 れ込んだ男がカバンから刃渡り21センチの牛刀を取り出し、右手に持って、いきなり
 村井に目がけて突き出したのだ。 
・最初はうまく刺せずに失敗し、二度目は左腕を刺した。続いて力一杯刺して右脇腹を深
 々とえぐった後、刃を回転あせて引き抜いた。村井は何とか建物内に転がり込み、救急
 車で病院に搬送された。が、腹部の刺し傷が肝臓から腎臓に達し、大静脈を切断してお
 り、翌日、出血多量のため死亡した。男はその場で牛刀を総本部に向けて投げ捨て、駆
 け付けた警察官に逮捕された。
・村井はなぜ殺されたか。逆に言えば、誰が村井の死を望んだか、という疑問点は、事件
 発生から20年以上が経ち、現場で逮捕された実行犯が刑務所を出所した現在も、謎に
 包まれたままである。 
・村井が教祖の麻原彰晃の側近中の側近で、地下鉄サリン事件をはじめ教団の主要な犯罪
 のほとんどに関与したうえ、「教団武装化にすべてを知る男」と見られていたことは、
 教団関係者はもとより、捜査員やマスコミなどの間では「周知の事実」であった。
・村井は1956年、神戸市に生まれた。大阪大学大学院で宇宙物理学修士課程を終えた
 優秀な科学者であったが、大企業の研究部門に就職した後、「オウム神仙の会」時代の
 87年4月に入信し、2か月後には出家した。
・村井は麻原の説くハルマゲドンの予言を信じ、その言に無条件に従って教団の武装化計
 画を立て、平然と部下の信者たちに荒唐無稽な指示を出し続けた。教祖の指示は何事で
 あっても「やります」とか「三日でできます」と請け負い、何回失敗してもひたすら目
 標に向かって努力を重ねる村井の姿を、麻原は「修行者のあるべき理想像」と高く評価
 して寵愛し、彼は弟子の中でも特別の存在となった。 
・村井は兵器製造から武器密輸、覚せい剤密造、偽ドル作り、原子力プラント開発まで教
 団の非合法ビジネスの多くに責任者または指導・監督する立場でかかわったとされる。
・村井は自己顕示欲が強いうえに口が軽く、特にメディアの前では饒舌になって、教団を
 代表して出演したテレビ番組や記者会見で、教団にとって致命傷になりかねない発言を
 連発してしまった。それが、彼が殺された直接の原因であるとの見方が強かったことも
 紛れもない事実である。 
・麻原も村井が一連の犯行を自供することを恐れていたし、彼の口を塞げば、自分の容疑、
 特にサリン事件は立証できないと考えた可能性がある。麻原はすべての罪を村井に被せ
 て、自分だけ助かろうと悪あがきしたのではないか。警視庁幹部は、そう解説をする。
・東京総本部では通常、信者たちが深夜でも自由に出入りできるように、地下一階のドア
 を24時間開けてあるのだが、事件当日に限って施錠されていて、村井は仕方なく正面
 入り口に回って襲撃されたのである。これは教団内部の人間、しかもドアの施錠を決め
 る権限がある幹部級が予め地下のドアを施錠しておいた、と見るのが合理的であろう。
・さらに報道陣が村井の後に続くため、最初は地下への階段付近に殺到する動きを見せた
 のに対し、男は正面入り口付近から全く動いておらず、地下のドアの鍵がかかっている
 ことを知っていた可能性があることだ。また、村井が死の直前、救急隊員に「ユダにや
 られた」という言葉を漏らしていたという事実がある。  
・この村井刺殺事件ほど数多くの陰謀説が飛び交い、警察当局が裏付け捜査に走り回り、
 証拠収集に翻弄されたものはないだろう。主なものを整理すると、
 @麻薬・覚せい剤製造をオウム真理教に委託して莫大な利益を上げてきた暴力団が、村
  井の軽口で犯行が発覚することを恐れての口封じか、はたまた覚せい剤の一部を横流
  ししたり自前で流通させて組の傘下を離れようとした村井を排除した。
 A教団と組んで偽ドル作りや核武装化を企てた北朝鮮の工作員が、国家ぐるみの犯罪の
  発覚を恐れ、責任者暗殺で証拠隠滅を図った。
 Bロシアや北朝鮮における闇ビジネス利権を巡って、ロシアンマフィアや他の新興宗教
  団体と結託した教団幹部と激しい権力闘争を繰り広げた末、それに敗れた村井が粛清
  された。 
 Cオウム真理教とパチンコ利権を巡って、背後の大物政治家の抑止力が働いた。
 D一連の事件の黒幕敵存在である麻原の共謀共同正犯立証するためには村井の存在が邪
  魔とか、村井が生きていると第二、第三のサハリン事件が起きる可能性があり、それ
  を阻止するための方策として当局が仕組んだ。
 どれもバカバカしい説に思えるが、以外にも具体的な根拠などがあるため、一笑にふせ
 ない恐ろしさがある。
・村井は家族との絆を断ち、妻とも離婚して出家。教えを忠実に守って酒や女を全く寄せ
 付けず、ストイックな生活を送り、信者から「頭の切れは抜群だが、崇高過ぎるうえ、
 思い込むが強過ぎて寄り付き難い」とも見られていた。
・ライバルの早川が両親のために家を建て、出家後も連絡を取り合い、子飼いの信者をス
 ナックに連れて行ったり、麻原の無理難題を平気で「やってられんよ」と漏らすなど極
 めて人間臭く、信者たちから「おやじ」と呼ばれ、慕われていたのとは対照的であった。
  
迷宮
・しとしとと降り続く小雨を切り裂くように、突然、銃声が響いた。一発の銃弾が背中を
 貫いた。その瞬間、国松孝次・警察庁長官(当時)には銃弾が背に命中したという認識
 はなかった。だから近くにいた秘書官(警察官)に「拳銃だ」と呟いて、前のめりになり
 ながら、二歩ほど前に進んだ。しかし、力を失ってよろめき倒れそうになった時、初め
 て背中辺りに差すような激痛が走り、撃たれたことがわかったという。
・その時、二発目の銃弾が発射され、国松の左大腿部後部から右大腿部側面を貫通した。
 国松はたまらず背中から地面に叩きつけられた。
・事件は1995年3月30日に起きた。東京荒川区南千住6丁目の自宅マンション南側
 の通用口付近で、出勤のため公用車に乗り込もうと歩き出した国松は、何者かに銃撃さ
 れた。  
・狙撃手は約21メートル離れた場所で、右足を植え込みに乗せ、壁に左肩を押し当てて、
 ゆっくりと国松に照準を合わせた。「ドーン」という音とともにリボルバー(回転弾倉
 式拳銃)から発射された弾丸は、国松の左後方に付き添う秘書官の右腕付近を掠め、国
 松の背中の正中線から2.5センチ左から体内に入り、腎臓を貫通し、組織を破壊しな
 がらみぞおちから体外に抜けた。
・国松が仰向けで両膝を立てた瞬間、大音響とともに三発目の銃弾が発射され、弾丸は陰
 嚢外側後方から体内に入り、腹腔内を動き回って器官を引き裂いた。国松は体に着弾し
 た瞬間、思わず跳ね上がったほど衝撃を受けた。
・秘書官は国松の身体を何とか、高さ約60センチのコンクリート製植え込みの陰まで引
 きずって隠したが、植え込みの陰に到着した時、四発目の銃声が響き、パチッと音を立
 てて植え込みのタイルの角が弾け飛んだ。
・腹部など三発の銃弾を受けた国松は、事件から約25分後には救急車で文京区千駄木の
 日本医科大学付属病院に運ばれたが、到着時には既に心停止状態だった。左背部あ右上
 腹部など全身七か所に銃創が確認され、約3千ccの出血があった腹腔内はまさに血の
 海と化しており、どれが射入口や射出口かわからないありさまだった。
・先端が凹型に削られギザギザが入ったホローポイント弾は、標的に命中した途端、先端
 の孔を中心にキノコ型に反り返る形で広がり、裂傷面積を拡大するという「マッシュル
 ーミング現象」を起こす特徴がある。そのため、大動脈をズタズタに切り裂き、胃や大・
 小腸、腎臓、すい臓などの臓器を広範囲に破裂していた。 
・国松の場合、手術中に何回も意識が途切れ、心臓への電気ショックによる蘇生を何と、
 6回も行っている。そして、人間の前血液量の約2倍に相当する1万cc余りを輸血し
 たものの、一時は血圧が計測不能になるほど極端に低下し、何度も失血性ショックによ
 る危篤状態に陥るなど、まさに長時間にわたって生死の境を彷徨っていた。
・国松の手術は6時間以上に及び、一命を取り留めたのは奇跡と言っていい。手術はまず、
 主な出血場所である腹部大動脈を圧迫止血すると同時に縫合した。次に、胃の表裏に貫
 通銃創があったため、ここでも壊死した組織を切除した縫合している。さらに小腸の損
 傷部分約25センチを切除し、人工肛門設置、腹膜縫合、左腎臓摘出、すい臓の脂肪壊
 死部分切除、と神経を使う手術が連続して行われていた。
・犯行に使われた銃は発生当初、線状痕から38口径の米国コルト社製リボルバーのパイ
 ソンで、弾丸は殺傷力の高いホローポイント弾、通称「357マグナム弾」と推定され
 た。  
・黒ずくめの狙撃犯は雨にズブ濡れになりながら、銃身の長いリボルバーを右手に持ち、
 左手を添えて銃撃。これは旧ソ連や東欧諸国の軍隊や特殊部隊で採用された銃撃方式で、
 欧米諸国の主流である、両手で銃を握り両足を開いて腰を落として撃つFBI方式とは、
 明らかに違うことがわかった。
・「357マグナム弾」は威力はもの凄いが発射時の反動も大きく、命中精度が落ちるは
 ずなのに、狙撃犯は21メートル離れた場所から雨中を移動している朝刊に向け四発発
 射して三発命中させ、すぐ隣にいた秘書官には一発も当ててないことから、極めて銃の
 扱いに習熟した人物と思われた。  
・同じ南東角付近の植え込みの中に、北朝鮮人民軍のバッジのレプリカと韓国の10ウォ
 ン硬貨、外国製タバコ5本が落ちているのが発見された。現場に落ちていた北朝鮮のバ
 ッジのレプリカは、国内で市販されている品物ではなかった。調べると、ロシアなどで
 将校同士が交換したものが個人的に売られていることがわかり、結局、バッジの入手経
 路を割り出すことができなかった。実際、私も後日、それとほぼ同じバッジを入手でき
 ており、バッジが落ちていたからといって、北朝鮮関係者の犯行とは言い切れなかった。
 それに一報を聞いた警視庁幹部が一様に口にしたように、いかにも偽造工作であるとい
 った感は否めず、特捜本部もあまり重視していなかったのだ。
・教団側が作成した「オウム信者狙撃名手リスト」を押収、その快挙で事態は大きく進展
 し、暗礁に乗り上げていた捜査が一気に進み出した。それまで警視庁の捜査で教団内に
 60人余の自衛隊関係者をはじめ射撃経験者がいることはわかっていたいが、どこにい
 て何の部門に属し、どんな任務についているかがわからなかった。が、教団側が作成し
 たリストにより、教祖の警護役を務めるなど側近として暗躍した平田信ら8人の容疑者
 が浮かんできた。この平田とは17年間もの逃亡の末、2011年の大晦日に警視庁に
 出頭して逮捕された、あの平田信その人であった。 
・平田が長官狙撃事件の最有力容疑者と見られた理由は、何と言っても、平田と親しかっ
 た信者で松本サリン事件などに加わり、死刑判決が確定した端本悟の供述である。
・オウム真理教が19991年から大規模な教団施設群を建設した上九一色村富士ケ嶺地
 区、この施設には最盛期、村の人口の約1500人に迫る数千数百人が居住。「第七サ
 ティアン」で猛毒のサリンが製造され、近くの「第二サティアン」では拉致された目黒
 公証役場事務長が麻酔薬を打たれて死亡し、遺体は地下室の焼却炉で焼かれ、近くの本
 栖湖に捨てられた。95年3月に強制捜査を受け、5月に麻原が対をされたのがこの施
 設群だった。
・96年11月、信者が施設から完全に撤退。98年9月に警察当局による証拠保全のた
 めの施設を差し押さえが解除され破産管財人から施設の無償譲渡を受けた村は、直ちに
 解体作業に着手した。跡地にはレジャーランド進出や運動公園整備計画があったが、財
 政難で中止となり、大半が雑草が伸び放題の空き地か残土置き場に変わった。唯一の例
 外は「第二サティアン」跡にできた富士ケ嶺公園で、そこには「慰霊碑」と刻まれた高
 さ2メートル程の石碑が建立されている。教団内リンチ事件で死亡した信者を供養した
 もので、「教団と闘った人々は歳を取り、記憶が薄れ、資料も散逸した。村を去り死ん
 だ者が多い。このままじゃ村で何があったかわからなくなってしまうとの思いから建て
 たという。
・女性信者が95年12月から96年2月までの3か月間、仙台市宮城野区内の割烹料理
 店で働いていたことがわかった。同市若林区の従業員用アパートは既に引き払った後で
 あったが、慌てて逃げたせいか二組の布団などが残されており、指紋から平田と女性信
 者が同居していたことが確認された。
  
復活
・韓国の玄関口・仁川国際空港から車で約30分ほどの場所に、仁川市ノチャイナタウン
 がある。韓国式のジャージャー麺・チャジャンミョンの発祥の地とあって、有名店がズ
 ラリと並ぶ一角は、大勢のグルメ客で賑わっていた。裏通りに出ると、極端に人通りが
 減る。その少し先に建っている古びた5階建てビルの4階の一室に、目指すオフィスは
 あった。この部屋は、実は、日本の暴力団関係者と中国のチャイニーズマフィアの幹部
 が共同で結成した日中合同暗殺請負組織のオフィスなのである。
・日本や韓国、中国をはじめタイ、ベトナム、フィリピン、インドネシア、シンガポール
 などアジア諸国を中心に、復讐相手や利害対立者などの殺害依頼を受け、素早く暗殺し
 て直ちに離脱する、という仕事である。暗殺料金は、標的の状態や凶器の選定、殺害場
 所の地理的、環境的条件などが一件ずつ違うため、その都度、依頼主との交渉で決める
 ことが多い。
・だが、中国人ヒットマンを一人派遣して一般人を殺害するというごく一般的な例では、
 ヒットマンの成功報酬は一人当たり3百万円kら4百万円が相場なのだという。もちろ
 ん標的がSPやボディーガードに囲まれているようなVIPクラスになると、報酬も1
 千万円単位に跳ね上がることが多い。
・通常の例では、依頼主が仲介代理人を通じて成功報酬の半分を中国大陸にいる暗殺請負
 組織のボスに送金すれば、標的の状況や殺害方法などの条件に応じた中国人ヒットマン
 を直ちに送り込んでくる仕組みである。
・標的に関する情報収集や犯行現場の下見、拳銃など凶器の準備、逃走の手引きなどにつ
 いては、依頼主が日本の暴力団や闇社会の面々であれば、依頼主かその意を受けた日本
 側の組織が行い、依頼主が組織と無関係な素人の場合はヒットマン組織の在日仲介代理
 人が準備作業をすべて請け負い、関係ある暴力団組織にサポートを要請、報酬と経費を
 支払うことになっているという。
・いずれにしても、ヒットマン自身は標的と直接的な関係は全くないし、標的を殺害した
 後は直ちに出国するため、アシがつく恐れは少ない。あとは依頼主がちゃんと残金を振
 り込めば、何の痕跡も後腐れも残さずに一人の人間がこの世から消え去り、依頼主懸案
 の問題は解決するわけだ。
・この組織の創設にかかわったメンバーの中には、実はオウム真理教の元幹部、つまり残
 党がいたのである。その男は、早川の下にいて、ロシアで銃器や武器の調達と密輸入、
 北朝鮮で上質の覚せい剤の購入と密売といった闇ビジネスを手がけてきたメンバーの一
 人で、それらの流通ルートの過程で交流を持った暴力団関係者やロシアマフィア、チャ
 イニーズマフィア、韓国マフィアの面々の力を利用して暗殺請負組織を拡充していった
 のだ。
・外国人ヒットマンや軍人出身のプロのスナイパーを用いて、要人や利害対立者などを襲
 撃する暗殺・テロ行為の計画立案や犯行サポートには、オウム真理教の残党たちが深く
 かかわっており、国際犯罪ネットワークとして発展しているのだという。
・オウム真理教の残党たちは、国内では麻原の妻と三女の対立が深まり、それぞれこぢん
 まりと活動を続けているのに対し、意外と活発に動いているのが海外諸国、特にロシア
 や東欧諸国においてである。
・ロシア内務省は2016年4月、ロシア二大都市のモスクワとサンクトペテルブルクで
 オウム真理教の後継団体「アレフ」に対する大規模な捜査を行い、信者や幹部の住居な
 ど計25か所を特定し、強制捜査に及んだ。そのうち、サンクトペテルブルクでは集会
 を開くなどしていたロシア人信者ら約10人を拘束したとされている。
・また旧ユーゴスラビアのモンテネグロでは16年3月下旬、日本人4人を含むオウム真
 理教と見られる信者58人が警察当局に身柄を拘束された。    
・「アレフ」をはじめオウムの後継団体の活動が最近、国内外で活発化していると見られ、
 公安調査庁や警察庁公安部は警戒と監視を強めている。
・一連のオウム事件を知らない20代から30代前半の若者を中心に、オウム後継団体の
 信者が増加。祭壇に麻原の写真を掲げ、事件前に唱えられていたオウム真理教の教義を
 復活させるなど、麻原への帰依が強まってきている。
・最盛期に1万人以上いたオウム真理教の信者は、地下鉄サリン事件後は1千人まで減少
 した。だが「アレフ」と、上祐史裕・元幹部が主宰する「ひかりの輪」を合わせると信
 者数は、17年末現在で2千人を優に上回り、このままの勢いで行けば、3千人を突破
 する可能性が極めて大きいと言われる。また、ロシアなど海外での信者数は正確には把
 握されておらず、既に実態はもっと大規模になっているのではないかとの指摘もある。
・最初はインターネット交流サイト(SNS)で人生相談の乗り、ヨーガサークルへの参
 加を募って入信させる。その段階では教団名も麻原の存在も明かさないが、修行が進む
 に連れて麻原の説法をDVDで何度も見聞きさせるなど、オウム復活を堂々と打ち出し
 ていた。 
・オウム事件当時、武力による政府転覆を企む教団を利用して金儲けや利権獲得に動いた
 闇社会の面々やロシアンマフィアの残党らが再び始動して、不気味な兆候が見え始めて
 いる。
・オウムが信者から集めたり、麻薬売買などで稼いだ膨大な資金が、いくらサリンをはじ
 め兵器製造に湯水の如く使ったとしても、まだかなり残っているはずと見られるうえ、
 核兵器はもとより、レーザー兵器やプラズマ兵器、生物兵器のボツリヌス菌などの危な
 い代物とともにどこかに隠匿されたのか、未発見のままなのである。
・オウム真理教には、闇に包まれた部分がまだ多く残っている。早川のみならず、幹部信
 者が足を踏み入れた国はロシアや北朝鮮以外にも、米国、中国、台湾、タイなどの東南
 アジア諸国と数えきれないほど多い。それぞれの国で布教やビジネス、武器や麻薬など
 の買い付けを行っており、その国の政財界は言うに及ばず、闇社会の面々にまで人脈を
 広げている。 
・いくら麻原が天才的な詐欺師で、幹部信者や「マッドサイエンティスト」たちが天才の
 集まりでも、オウム真理教の力だけではここまでの武器調達や生物・化学兵器開発はで
 きなかっただろう。やはり、闇のスペシャリストたちの手助けが必要だったに違いない。
・オウム真理教が崩壊した後、教団が施設やアジトなどとして使っていた土地や建物の多
 くは、あっと言う間に暴力団やその関連企業の手で差し押さえられ、売り飛ばされるな
 ど処分されてしまった。もともとオウムの動きに乗じて、土地の買い占めや買い叩き、
 土地転がしなどをやって荒稼ぎしてきた暴力団筋だ。彼らからすれば、当然の資金回収
 なのかもしれない。 
・問題は表面化していない資産の処分であり、百億単位とされる資金、大量の武器と薬物、
 完成していたはずの細菌兵器やレーザー砲など、恐ろしい負の遺産が山ほどどこかで眠
 ったままと見られているのだ。
・オウムを背後から操ってきた闇社会の面々は健在であるし、多額のカネと武器・兵器が
 どこかに隠匿されている以上、またぞろ同じようなカルト教団が出現し、麻原のような
 狂気のテロリストが登場してくる可能性が高い。
・徹底的に管理された組織社会の下で、大望を失った若者たちは社会の歯車の一つとして
 毎日、何も考えずに周囲と同じような行動を取っている。自分中心の狭い視野とドス黒
 い欲望、偏った思想ばかりが膨らみ、他人を思いやる気持ちなど全く忘れ、その結果、
 漠然とした将来不安に怯え、日々の瑣末な軋轢に苦悩しながら暮らしている。彼らは直
 ぐにでも、自分が頼れる何かを見つけ、それに縋すかりたいのだ。その意味で、世の中
 は再び「危うい時」を迎えていると言っていいだろう。