淳 :土師守 |
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この本は、いまから26年前の1998年に刊行されたものだ。 内容は、1997年に発生した神戸連続児童殺傷事件(酒鬼薔薇事件)の犯罪被害者遺族 である土師守氏の手記で、当時のテレビや新聞などの報道のあり方の問題点や「少年法」 の問題点を指摘している。 その問題点とは、少年の人権や犯罪者の人権擁護の一辺倒であり、犯罪被害者や被害遺族 の権利がまったく無視されているという点である。 もっとも守られるべき人は誰なのか。犯罪被害者にはまったく手を差し伸べることなく、 犯罪者の人権を守ることだけを最優先にしている現在の少年法のあり方は、本末転倒では ないかとう著者主張は、至極当然の主張だと私は思った。 少年法は、戦後の1947年にアメリカの少年犯罪法をまねて制定されたようであるが、 2000年に刑事処分の可能年齢を「16歳以上」から「14歳以上」に引き下げられる 改正まで一度も改正されたことがなかったようだ。 常識的に考えても「これはおかしいのでは?」と思えるような少年法が、53年間も一度 も改正されなかったというのは、政治家や法曹界関係者の怠慢ともいえるのではないだろ うか。 当時の報道のあり方もまた、酷かったようだ。「取材」の名のもとに、犯罪被害者遺族に 対する凄まじい取材合戦は、被害者遺族の感情や人権をまったく無視した、精神的暴力と もいえるものだったようだ。 このような報道のあり方は、現在は多少改善はされてきているようであるが、それでもま だ、「テレビの報道は信用できない」というようなマスコミに対する不信感を持っている 人は多いようだ。特に最近はSNSが発達してきているため、もはやテレビや新聞などを まったく見ないという若者も多いと聞く。このままでは旧来のマスメディアは滅亡の危機 に瀕するのではないかと思う。 ところで、この事件の犯人(A少年)はその後、2004年3月に少年院を仮退院し、 2005年1月には本退院したようだ。 そして2015年には「絶歌 神戸連続児童殺傷事件」という本を出版している。 読んだ人の感想は「最後まで読むに耐えられない」内容だったとのことだ。 なお2022年10月に、この事件記録について、神戸家庭裁判所は保存期間満了後の 2011年にすべての記録を廃棄していたことが報道機関の取材により発覚した。 この事件の裁判記録は永久保存されるべきものだったと思う。どうしてこのような貴重な 記録を破棄してしまったのか。裁判所の常識を疑ってしまう。 これらのことを知ると、この国の社会全体がどこか歪んでいるのではとも思えるのか私だ けではないような気がする。 過去に読んだ関連する本: ・なぜ君は絶望と戦えたのか |
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誕生と成長 ・1986年2月、私たち夫婦の次男として淳は生まれました。 神戸市内の産婦人科医院でした。 当時、姫路市にある兵庫県立循環器病センターに勤務していた私は、職場を休むことも できず、妻のもとに駆けつけることができたのは、勤務が終わったあとの夜十時頃にな ってのことでした。 ・大学を1981年に卒業した私は、放射線科の医師として、島根県と広島県の病院をま わったあと、兵庫県にもどりましたが、すでに卒業後、五つ目の勤務先になっていまし た。 ・私は女の子が欲しくて仕方なかったので、あらかじめ超音波検査で生まれてくる子が男 の子であることがわかった時は、少し残念でした。 姉夫婦は三人とも女の子でしたが、うちは長男、次男と、ふたりの男の子が続いてしま いました。 ・しかし、やはり生まれてくればかわいいもので、夫婦とも大喜びしたものでした。 学生時代から付き合っていた妻とは、1982年に結婚して、この時、4年目を迎えて いました。 1週間後、退院。名前は、本を見て、字画がいいのと、外国でも通用できる「ジュン」 という発音を考えて、”淳”とつけました。 ・淳の身体的な発育は順調で、歩けるようになったのも、1歳前後であり、特に問題はあ りませんでした。 しかし、だんだん言葉の発育が遅い傾向が見えはじめました。 普通、1歳ころから単語をいいはじめ、2歳になると、ふたつの単語をつなぎ合わせる 二語文”を話しはじめ、三語文へと変わっていくものですが、淳の場合は、二語文はい うものの、”多語文へと変わっていくものですが、淳の場合は、二語文はいうものの、 ”多語文”をなかなか話しはじめませんでした。 ・幼稚園は、地元の保育センターに入園しましたが、その時はすでに、他の子供に比べ、 明らかに言葉の発育に遅れが生じてきていました。 そのために、ほかの発育も不充分になっていました。 幼稚園の年長組のときに、妻が先生に呼び出され、 「発育に遅滞があります」 と、告げられました。 ・”個体差”にしては、ちょっと差が大きいということは私も医者ですのでわかっていまし た。 幼稚園の先生から明確に告げられたのは、そんなときでした。 「専門家に相談した方がいいと思います。兵庫県立こども病院にいい先生がいらっしゃい ます。一度、診ていただいたらいかがでしょうか」 ・その医師は、まったく偶然ですが、私の大学時代の同期生の女性でした。 私はさっそく電話を入れ、淳を診てもらうことにしました。 診察したあと、彼女は、 「頃場の発育は遅延傾向が見られますが、ほかのことはある程度できるようですから、 様子をみられたらいかがでしょうか。特に器質的な疾患はないと思います」 とのことでした。 ・その後も数回診察してもらいましたが、その間も特に改善は見られず、ほかの子供たち との発育との差は徐々に広がっていきました。 いつもにこにこして、かわいい笑顔をふりまいてくれるのですが、たとえば運動会の時 にも、もともと競争心がないため、みんなが走っているときに必死に走る様子はありま せんでした。淳ひとりだけが、楽しんで走っている感じなのです。 ・やがて、淳は小学校ににゅうがくしました。 入学式の当日、淳は嬉しそうにでかけていきました。 小学一年では、ひらがなや数の概念など、これからの勉強の基本になるものが教えられ ます。 しかし、言葉自体の発育が遅れていた淳には、まだとても理解できるものではなかった と思います。 ・親としては、淳が友達に溶け込めているのかどうか。それが心配です。 言葉の問題で、友達から仲間外れにされたり、いじめられたりしないだろうか。 それが気がかりでした。 ・淳と一緒に町を歩いていると、よく友だちや、お兄ちゃんお姉ちゃんに声をかけられま す。 「あっ、淳くん」 気軽にいろんな人が声をかけてくれます。 淳の方は、声をかけられても無頓着なのですが、一緒に歩いている私の方は、淳がみん なに受け入れられていることを嬉しく思ったものでした。 ・淳が小学二年のときに、”なかよし学級”がつくられ、淳もそこに所属して勉強を始めま した。 ほかの子供たちと同じ授業では理解することができませんし、その意味では淳にとって も良いことだと思いました。 ・淳は水泳が好きでした。 兄の敬と同じように淳にも軽い小児喘息がありありました。 私と妻は、発作を起こさないで体力強化をする目的で、幼稚園の頃から淳をスイミング スクールに通わせることにしました。 最初の頃こそ淳は水を少し怖がっていましたが、すぐに慣れました。 それからはスイミングスクールにいくのが淳は楽しくてたまらなくなりました。 淳はまさに水を得た魚でした。 言葉が遅れていることもあり、他の子供たちと同じようには進級できません。 でも、泳ぐ様子は本当にいきいきとして嬉しそうでした。 熱が出ているときでも、身体が疲れているときでも、淳はスイミングスクールにだけは いきたがったものです。 ・淳は乗り物が大好きです。 電車は特に好きで、最近ではJRの電車のほとんどを覚えていました。 自動車も普通の乗用車などには、あまり興味を示しません。 工事現場で動くクレーン車やダンプカー、それに救急車やゴミ収集車などが好きでした。 淳は「機関車トーマス」の大ファンでした。本もたくさん揃えていましたし、ビデオを 持っていました。 ・淳の几帳面さは、その整理整頓の仕方でもよくわかりました。 布団を敷くにしても、淳は家族のぶんまできちんと敷いてくれるのです。 妻が時々、代わりに敷くと、自分で全部やり直し、自分が決めた並べ方になおすほどの 徹底ぶりです。 ・淳の部屋は、兄の敬と同じ部屋でしたが、敬が散らかしてばかりいるのに、淳は兄のぶ んまできれいに整理整頓したものでした。 淳は一週間に一度は必ず部屋全体の掃除や整理をするという几帳面な性格の男の子でし た。 ・淳が小学校三年生のときに、六年生の学年がかなり荒れていました。 あのA少年にいじめられたのも、この頃のことでした。 淳に限らず、他の生徒も相当、その六年生たちにはいじめられているようでした。 淳は言葉を上手に話すことができないという事情があり、詳しいことはわかりませんで した。 ・淳が小学校四年生のときに、知的発育障害の原因として治療可能な疾患がないかどうか だけはもう一度きちんと調べておいた方がよいのではないかと思い、神戸大学医学部小 児科の高田先生に診察していただき、血液検査、MRIや知能検査などの検査をしまし た。原因はやはりわかりませんでしたが、治療可能な器質的疾患は見つかりませんでし た。少なくてもそのような病気を見落としていたのではなかった点については、私も妻 も結果を聞いてホッとしたものでした。 ・淳も小学六年生になるときには、少しずつですが、成長のあとが見えるようになってき ていました。 「焼き物(陶芸)なんか淳にはどうかな」 妻は、淳の将来について、そんなことを考えているようでした。 親がいなくなったあと、どうやったら淳は自立してやっていけるのだろうか。 私も妻も漠然とそんなことを考え始めていました。 淳の将来について、親としてどうしてやれば一番よいのかを考えなければいけない時期 になっていました。 そういうときにあの忌まわしい事件が起きたのでした。 永遠の別れ ・1997年5月24日土曜日。 私たち夫婦は今のソファーに腰かけ、テレビを見ていました。 仕事帰りの私は、午後1時過ぎに家に帰り着いたばかりでした。 中学二年生の敬は、テーブルの椅子に座って、本を読んでいました。 わが家にとっていつもと変わらぬ土曜日の午後でした。 「おじいちゃんのとこ、いってくるわ」 ソファーの後ろの六畳間から淳の声が聞こえました。 「寒いから、ジャンパー着ていきなさい」 まもなくバタンとドアの閉まる音がして、淳は家を出ていきました。 私たち家族は、この時、誰も淳の姿を見てはいませんでした。 これが、私たち家族と淳との永遠の別れになってしまいました。 ・私は午後三時から始まる研究会に参加するため、バスに乗って出かけていきました。 研究会が終了したのは、夕方五時半ころになっていたでしょうか。 六時半頃、いきつけの店に食事に入りました。 その食事が終わりかけた八時前頃でした。突然、私の敬知電話が鳴り響いたのです。 電話は、妻からでした。 「淳がまだ家に帰ってこないの」 切羽詰まった声が電話の向こうから聞こえました。心配そうに妻が続けました。 「五時半になっても帰ってこなかったから、お父さんの家に電話したんだけれど、今日 は来ていないって。六時まで待っていたけれど帰ってこなかったから、近所の人たちに も手伝ってもらって探してるんだけど、まだ見つからないの」 ・淳が八時になっても帰ってこない。ことの重大性はすぐに呑み込めました。 「タクシーで今からすぐ帰る」 ・淳は知的発育障害はありましたが、記憶力や方向感覚は優れており、一度、いったこと のあるところなら、普通に歩ける状態でさえあれば、絶対に家に帰ってくることができ ます。また、絶対に明るい時間帯にうちに帰ってくる子でした。 特に、土曜日の午後五時からは、淳が欠かさず見ているテレビ番組「日本昔ばなし」が あります。淳がこれを見るのを忘れて家を出たままになるはずがありません。 ・「もう一度念のため家の中にいないかだけを確かめて、それから警察に連絡しよう」 といいました。 妻も私と同じように自己の可能性が大きいと考えていましたので、私の意見に賛成しま した。万が一のために、家のすみずみを妻と二人でもう一度、見てまわりました。 当然、いるはずもありません。 そして 警察に電話をかけたのが午後八時五十分頃のことでした。 ・この三月に竜が台の女児殺傷事件もまだ解決していなかったこともあったのか、警察の 方もすぐに対応してくれました。まもなく警察の方が家にやってきました。 いなくなった時の状況や服装などについて話を聞いたのち、かなりの人数で周辺一帯を 捜索してくれました。 ・私は家にいても落ち着かないので、懐中電灯を持って徒歩で、5,6分のところにある 北須磨公園の周囲を捜しまわりました。 もう時間は夜十一時を過ぎていたでしょうか。 一度、家に帰った私は、今度は車に乗り換え、妻と二人で友が丘の中の公園を中心にも う一度、捜しまわりました。 ・家に帰ると、警察の人が、 「周辺や名谷からの道も捜しましたが見つかりませんでした。今日はもう遅いので、 明日、神通を増やして捜索します」 といって、引き上げていきました。 ・私は、父に、 「本当に今日は最後やから、”タンク山”にいってみよう」 といいました。 サラリーマン生活を長く続けた父が一戸建てを買って、この友が丘に移り住んできたの は昭和43年のこと。まだ中学生になったばかりの私は、その頃、何度かタンク山に登 ったことがありました。 目印となったあの水道タンクは当時からあり、この名称で既に地元の住民に親しまれた ものです。 時間はもう午前二時を過ぎていて、街の灯りはほとんど見えません。 静まりかえったタンク山で、父と私の二人の息づかいだけが聞こえました。 「やっぱりおれへんなあ」 父と私は、深いため息をつきました。 道の終点であるタンクのところまで行って、私たちは帰ることにしました。 あとで知ったことでしたが、実は淳はその時、”すぐ近く”にいたのでした。 ・5月25日、日曜日 この日の早朝、警察は初めて警察犬による追跡を開始してくれました。 その追跡隊は、私の家と、淳がいくといっていた祖父の家からと、両方から追跡しまし たが、やはり手掛かりらしいものは何も発見できませんでした。 ・夕方六時頃でした。いったん家に帰ったばかりの私に、小学校の橋本厚子校長から直接 電話が入りました。 「いろいろ淳君のことで相談したいので、すぐ学校まで来てほしい」 ということでした。 ところが、この電話でそんな話を済ませたあとでした。橋本校長が私に妙な質問をして きました。 「失礼ですが、お父さんはどちらの出身ですか?」 「えっ」 と、私は一瞬、とまどいました。が、すぐにハッと思い当たりました。 「もしかしたら校長先生は、私が舞子小学校に通っていた小学四年生の時に担任をして いただいた、あの橋本先生ですか?」 本当に偶然でした。同じ県内とはいえ、父親の私と息子の純が、同じ先生に、それとは 知らずにお世話になっていたのです。 ・私たち夫婦は、淳のことが心配で心配で仕方ありませんでしたが、こんな時だからこそ、 かえって、休息と食事はきちんと取っておかなければならないと考え、急いで軽い食事 をし、汗を流すために風呂にも入りました。 ・その日の午後九時頃になって、小学校の橋本校長から緊急の電話がありました。それは、 「友が丘の河津さんという方から、さっき、ちょっとした情報がありました。今日の昼 の12時頃に離宮公園のレストハウス付近で、淳くんに似た子供を見たというのです。 少し太った、紫色のズボンをはいた男の子が、ベンチに横たわった格好でいたそうです よ。そして、たくさんの女の人たちがその子を取り囲んで見ていたようですが、男の子 のほうは少し弱っていた感じで、それでも横になったままニコニコしていたといいます」 というものでした。 子の男の子はたしかに淳かもしれないと、そのときは思いました。 「この情報は、こちらからすでに警察にも話して連絡しておきました。そしたら警察は、 すぐに警察犬を導入して離宮公園を捜索したいといってくれました。そのために息子さ んの臭いが着いた衣類などが必要で、それを至急持ってきてほしいと言っています」 私はこの知らせをすぐに、近くに住む父に伝えました。 そして、私は急いで父を迎えに行き、一緒に、離宮公園に車を飛ばしました。 ・2時間近くも応援愛を捜した末に、とうとう午後11時30分になりました。 その夜の捜索は、ここで打ち切りとなりました。 ・5月26日、月曜日 この日は保全5時50分頃に、離宮公園に到着しました。 この日も、昨夜と同様に捜索に失敗して、私たちは落胆しながら家に帰りました。 ・淳の行方が分からなくなって、すでに三日目ということもあって、当然、公開捜査に踏 み切るかどうかも、警察側から提案されました。 そのとき橋本校長は、 「公開捜査ということになりますが、かなりのプライバシーも公表されたりしますが、 それでもご両親はいいですか?」 と心配してくれましたが、私たちは淳が知的発育障害児であることを世間に公表される 心配をするよりも、まずは、淳の安否がもっとも重要な問題だと思っていましたので、 むしろ公開捜査には進んで同意しました。 ・その日の夕刊に、淳が行方不明になっていることが掲載されました。 神戸新聞と毎日新聞を読みましたが、淳のことに関する記述には誤りも多く、読んでい てあまり気分のいいものではありませんでした。 午後七時まえの読売テレビのジュースでも淳の行方不明事件が報じられました。 「行方不明になって三日経過しています。その安否が気づかわれています」 などと放送されました。 変わり果てた姿 ・5月27日火曜日の朝がきました。 この日の朝刊では、読売新聞にも神戸新聞にも、淳が行方不明になっていること、淳の 知的発育障害のことや、それ以外にも私の職業や勤務先のことが出ていました。 いずれの記事にも、淳の知的障害が、「名前が言える程度」とされていたり、「須磨離 宮公園のベンチに座っていた」などという事実とはかなりかけ離れた記述がなされてい ました。私たちは憤慨しましたが、今はそれどころではありません。 淳が見つかって欲しい、私たちの思いはそれだけでした。 ・午前八時前、小学校の橋本厚子校長から電話が入ったのです。 「友が丘中学校のところで警察がテープで仕切りをしているという話を聞きました。 何かあるかもしれないから、すぐに行ってみたらどうですか」 妻と私は、取るものもとりあえず車に飛び乗りました。 ・しかし、友が丘中学のまわりは交通規制されていました。警察によって、テープが張め ぐされ、通行人は、それ以上、学校沿いに歩くことはできませんでした。 「ここから先は立ち入り禁止です」 という警察官に、私は、 「土師淳の両親ですが・・・」と、いいました。 一瞬、エッという表情を浮かべた警察官は、 「正面入り口のほうへ行ってください」 と、硬い表情で答えました。 正面入り口の歩道の方に行くと、今度は別の警察官が、 「立ち入り禁止です」 と、私たちに向かって言いました。 「土師淳の両親です。さきほど警察の方にこちらに行ってくださいといわれましたので きました」 私の言葉を聞いてその警察官も少し驚いたようでした。 ・無線で上司に連絡をとり、今度は、 「須磨警察の方に行ってください。連絡しておきますので、署の駐車場の方にまわって ください」 というのです。 ・「須磨警察に行け」 それは絶望的な意味を含んでいました。 「もうダメだ、淳は生きていない」 その時、悲痛な思いが胸に広がりました。 私はやっとの思いで、 「事故ですか」 と口に出しました。警察官は一呼吸おいて、抑えた感じで、 「いえ、事件です」 と短く答えました。 詳しい状況はわかりません。しかし、淳が生きていない、そのことだけは確かでした。 妻が、泣きはじめました。言葉も出せず、ただ泣いていました。 ・渋滞に巻き込まれながら、わが下隊は須磨署にやっと着きました。 「淳が見つかったんですか」 私は刑事さんが口を開く前に、尋ねました。 その人は、黙ってうなずきました。私が、 「どんな状況だったんですか?」 とさらに聞くと、刑事さんは、自分の首を指しながら、 「首から上が見つかりました」 と、ひと言いいました。 首から上?一瞬にして少なくとも、淳がまともな状態にないということが頭を駆け巡り ました。 ・「ひどい!怖い!」 「こんなところイヤ!」 私より先に妻が叫びました。号泣。 それから、ただ、妻は号泣しました。 私は、言葉を発することもできませんでした。 「自分が妻や敬をしっかり支えていかなければ・・・」 私はそう思いましたが、何か非現実的な感覚に陥っていました。 それだけ強烈な衝撃を受けていました。 姉は、ただ茫然と座り尽くしていました。 やがて、両親と妻の父がやってきました。 その後で親戚も何人かやって来てくれました。 ・警察の方が私を呼びに来ました。 「身元も確認をお願いします」 私は、 「妻に見せることはできない。妻が見たら、正気でいることは無理だろう。私も医者の はしくれだから、自分が確認に行くしかない」 そう思いました。 ・警察官に案内されて一階におり、駐車場の方に出ていきました。 なんで建物の外に出るんだろう?その時はそれを疑問にも思いませんでした。 駐車場のガレージのようなところでした。車が五、六台は収まりそうな囲いがあって、 外からは見えないようなにシートのようなもので隠されていた場所がありました。 その中に、青いビニールシートに覆われて、淳がいました。 警察官が、そのビニールシートを淳の顔の顎から下にかけ、その下の部分を見えないよ うにしていました。 見えているのは、口から上の淳の顔の部分だけです。 ・”それ”は明らかに淳でした。土気色に変わっていましたが、まぎれもなくあの可愛い 淳でした。 目の下などに、死後つけられたと思われる傷は見えましたが、あのかわいらしくて、 笑顔の素敵な淳の顔は保たれていました。 ・「淳です」 促されて、私は警察官にそう答えました。 私は身元確認のあと、調書にサインしました。 ・どのくらい時間がたったのか、全然わかりません。 「妻にどう伝えたらいいのか」 そんなことを漠然と考えていました。 妻たちのいる部屋に帰ってくると、妻が、 「淳はどんなだった?ひどいことされてなかった?」 と、私に尋ねました。 淳が暴力を受けたり、長いこと苦しんだ末に死んだのではないか。妻の気持ちは痛いほ どわかりました。 「少し傷はあるけど、いつものようにかわいい淳だったよ」 と、答えました。 妻は、少し気が済んだようでしたが、涙は止めようがありません。 ・その日は、とりあえず帰宅することになりましたが、自宅までの道は相変わらず渋滞し ていました。 やっとの思いでマンションにたどり着いた私たちを待っていたのは、傍若無人なマスコ ミ攻撃でした。 私たちが駐車じぃうからマンションの入口に向かったとき、そこにはすでに数人の報道 関係者が待ち構えていました。 「土師さんですね?」 ・そういいながら、至近距離からフラッシュをたいて写真撮影までするのです。 妻を抱えて、ただ立ちつくすだけだった私は、彼らに対してまともに対応できる状態で はありませんでした。 そうした私たちの気持ちを無視しで、彼らはエレベーターから玄関先まで歩く私たちに 無遠慮な質問とフラッシュの雨を浴びせました。 ・妻は私の胸に顔を隠し続けていたので、幸い、顔写真までは撮られなかったようですが、 「なんで、人がこんな状態のときに、こんなことまでするのだろう」 と、私はむしろ悲しくなりました。 これが私たちがマスコミの横暴さに直面した最初の出来事でした。 ・私たちのすぐ後から、逆探知装置を電話機に設置するため警察の人たちがやってきて、 いろいろと説明を始めましたが、わたしはただ、うわの空で聞いていました。むしろ、 「警察はいま頃、何でこんなことをするんやろ。淳は誘拐されたわけでもないのに」 と、その行動をいぶかしんでいたような気がします。 ですから、すべてが別の世界で起こっている出来事のように感じていました。 ・警察は警察でさっそく犯人逮捕に向けて動いていました。 淳の遺体が見つかったその日のうちに、私の自宅に担当の刑事さんが派遣され、早急に 必要とされる情報は、あらかじめ聞き出していったようです。 ・私たちが現在どんな精神状態にあるとか、ショックの度合いがどれほど深いとか、そん なことに関係なく、次々と質問されたように思います。 この捜査を始めるために、まず第一に重要だったのが”淳が最後に何を食べたか?” ということでした。 その消化状態により、淳の死亡推定時刻が得られ、犯人逮捕にとっては重要な情報にな るからです。 ・その日は、マスコミが殺到することが予想されたため、私は何かコメントを家の前に張 り出した方がよいのではないかと思いました。 警察の逆探知グループの方と相談したうえで、 「マスコミの方々へ 取材等には一切応じかねます。私どもの心情を察してください」 という貼り紙をしました。 ・しかし、ひっきりなしに電話やインターホンが鳴りました。 それらについては、私の義理の兄や弟が、いちいち対応してくれて、すべて断ってくれ ました。 ・猟奇的な事件がマスコミの関心をいっそう煽り立てたのでしょう。 私たちへの各社競っての取材攻勢が始まりました。 義理の兄と弟が対処してくれており、この日は私は一応対応せずに済みました。 ・やがて、兵家県警捜査一課と須磨警察の方が家にやってきました。 二人から、淳の遺体の引き渡しについての話がありました。 淳の遺体は親族が引き取りにいかなければなりませんでしたし、また、そのあと、どこ へ持って行くかが問題でした。 ・私たちは、火葬する前に一度は淳を家に連れて帰ってやりたいと思いましたが、これほ ど多くの報道陣に取り囲まれていては、とても無理でした。 家族のそんな小さな希望もあきらめざるを得ませんでした。 ・警察とも相談し、特殊な事件でもあり、相当数の人が参列するだろうと考えられました ので、葬儀社「平安祭典」にすべてお願いすることにし、淳の遺体は直接、神戸大学か ら平安祭典の西神会館まで連れていくことにしました。 ・私は、妻の状態を考え、私ひとりで淳の遺体をひきとりに行くことにしました。 私たちが出ていった時、多数の報道陣がマンションのまわりにいましたが、警察の方と 一緒にいたためか、報道陣は警察の車に向かう私には気づきませんでした。 私は、淳の遺体をひきとったあと、平安祭典に向かいました。 平安祭典に着くと、さっそく係の人がやって来て、通夜から告別式にかけての手順等に ついての説明をし、また私と相談して細かな事柄を決めていきました。 夕方には菩提寺のご住職がこられて、枕経 ・午後六時から通夜が始まりました。 通夜には、本当に多数の方々が出席してくださいました。 私と姉夫婦が前に立って参列者の昇降に対して挨拶をしていると、涙をこらえることが できませんでした。 立って頭を下げているだけなのに、堰を切ったように涙が流れ出してきました。 妻は立つこともできず、ただ祭壇に向かった席で、座り込んでいました。 ・Aさんがやってきました。 「難儀なことやなぁ。子供の顔ぐらい見たりいな」 Aさんは、妻がまだ淳の顔を見ていないことを聞いて、妻に向かって、そんなことを言 ったようでした。 淳の遺体の状態と、妻の精神状態を考えれば、絶対に口からは出ないはずの言葉でした。 ・私は兄に頼んで一人で淳に最後の別れをすることにしました。 棺のふたをあけるのを手伝ってもらったあと、兄には隣の部屋にいてもらいまました。 私は淳をつつんでいる袋をあけ、淳の顔がみえるようにしました。 なかにはかわいい淳がいました。 私は淳の顔をみながら、そして、そのかわいい顔に触れながら、淳の肉体に別れを告げ ました。 本当でしたら、妻と敬も一緒に別れを言いたかったのですが、いくらそれほどの傷がつ いていないといっても、特に妻に見せることはとてもできませんでした。 ・慌ただしい準備が続いたあと、午後一時半の告別式の時間がきました。 本当にたくさんの方々が淳のためにやってきてくれました。 会場全体がすすり泣く声でいっぱいになりました。 妻はハンカチを目頭にあてたまま、ただうつむいていました。 私は、 「淳はわずか十一歳でこの世を去りました。淳は私たち家族にたくさんの笑顔と、楽し い思い出を残していってくれました。天国に行っても、まわりに優しさと笑顔をふりま いてくれると思います・・・」 大勢の会葬者を前に、やっとそんな挨拶をしたように思います。 ・棺を車で運ぶために外に出た時、たくさんのマスコミが目に入りました。 この時だけは逃げるわけにはいきませんでしたので、フラッシュが焚かれるまま、私た ちは写真を撮られている状態でした。 ・斎場に到着し、いよいよ火葬にふされる時がきました。 火葬炉の入口が開けられ、棺がそこに運ばれていきました。 しかし、私は妻が淳にまだ一度も触れていないことが気になって仕方ありませんでした。 敬は、私の知らない間に、前お晩から棺のふたを開け、布の上から何度か淳に触れてい たようでした。 でも、妻は愛おしくてたまらないこの淳に一度も触れていないのです。 「実は、妻は淳が見つかってから一度も淳を見ていないし、触れてもいないんです」 私はご住職にそういいました。 「お願いです。火葬される前に少しでも棺のふたを開けて、布の上からでもいいですか ら、妻に淳を触れさせてあげてくれませんか」 必至に頼みました。 ご住職はこの異例ともいえる私の願いを快く聞いてくださいました。 斎場の人に話をつけてくださって、最後の最後に淳の棺のふたがもう一度開けられるこ とになりました。 私と妻と敬の三人だけが、棺を囲みました。 棺の中にいる淳に布越しに触れながら、家族は本当に最後のお別れをしました。 妻は何も言わず、ただ泣きながら優しく優しく淳を触り続けました。 ・さしがに、「淳のお骨」が出てきた時、その変わり果てた淳を見て、私は声を上げて泣 いてしまいました。 その後、親族一同で骨壺に淳の骨を入れ、また西神開会に戻りました。 西神会館では、引き続いて、初七日法要をおこないました。 ・その後、私たち家族は、警察の車で家まで送ってもらいました。 マンションに着くと、数陣のマスコミ関係者が待ち構えており、私たち三人の写真を撮 っていきました。 私たちは、それぞれお骨や位牌、遺影を持っていたので、顔を隠すこともできませんで した。 ・私たちは、淳のお骨と一緒に家に入りました。 淳がどれほど家に帰ってきたかっただろうかと思うと、切なさで胸が張り裂けそうでし た。 私たちは、淳の遺影に向かって、 「お帰りなさい。やっと帰ってこれたね」 と、話しかけるのが精一杯でした。 捜査 ・淳の葬儀の翌日から、私たち家族に対する本格的な事情聴取が始まりました。 私や妻、長男をはじめ親族に対して、細かい配慮の上でしたが、警察の徹底した聴取が 始まったのです。 ・妻は、淳の日頃の行動パターンを詳しく話しました。 「淳が一人で遊びに行くと考えられる近所の家は、たった二ヵ所しかありません」 「その一軒が同じマンションに斎藤さんの家で、もう一軒は、昔から亀を飼っているA さんのお宅です。淳はその亀を見るために、よくAさんのお宅の庭先にお邪魔していま した」 ・祖父の家には週に何回くらいの頻度でいっていたのか、遊びに行くとき、いつも何時ご ろ家を出て、何時頃家に帰って来たかということも、妻は警察に話しました。 ・そして、”その質問”は、そんな一連の話が全て終わった後に飛び出しました。 「犯人は、淳くんの遺体に挑戦状を置いていきました。お父さんに何か心当たりはあり ませんか?お母さんは、どう思われましたか?」 ・実は、私たちはあの事件が起こった後、いっさい新聞の事件に関する記事を読んでいま せんでした。 テレビも時代劇か、スポーツしか見ません。もちろん、ワイドショーなどにチャンネル を合わせたことは一度もありませんでした。 淳の事件関連の記事やニュースなどを、私たち夫婦は見たくもありませんでしたし、敬 の目にも触れさせたくなかったからです。 「敬にはいっさい見せてはいけない」 夫婦でそれは固く決めておりました。 ・肝心の尋ねられた挑戦状については、その文章の前文すら読んでいませんでした。 すると一人に刑事さんが、その場で挑戦状のコピーを見せてくれました。 私たちは黙って、それを読みました。新聞に出ていたもののコピーです。 「詳しいことは何もわかりませんが・・・」 と前置きして、私たちはこう言いました。 「これは、若い子が書いた文章だと思います。どう考えても、マンガ世代と言われる若 い子が書いたものとしか思えません」 そう思ったままの感想を刑事さんたちに伝えました。 ・その文章を見て、とても子供の書ける文章ではない、と判断した方が多かったと聞きま すが、私たちは逆でした。 それは、マンガを読んでいる世代に特徴的な文章だったように思います。 ・警察の人の話では、 淳君は犯人に対して、何らかの抵抗をした痕跡がまったくない」 ということでした。 そうだとすれば、淳は顔をよく知っている誰かに連れ去られ、こんな目にあったものと しか、私たちには考えられませんでした。 ・私たちは、こうつけ加えました。 「だから、その犯人が大人であるとは思えません。淳は相手が顔見知りでも、それが大 人だったら、誘われても決してついて行かない子でしたから・・・」 妻は、その時はハッキリいいませんでしたが、犯人は高校生以下の子供の可能性もある と、強く感じていたようでした。 ・のちに淳を殺害した犯人と判明したA少年の母親は、淳の告別式が終わったあとも、私 の家には三回ほど出入りしておりました。 最初は、斎藤さんに買い物を頼んだときに、偶然Aさんが斎藤さんとあったようで、 一緒に私たちの家にきました。 その後、二回ほど電話で、 「何か、買い物はない?」 と言ってきました。 そのため、私の妻は何も知らずに、必要な食料品の買い出しを頼んだのでした。 ・当時は大勢のマスコミの人たちが、私たちのマンションの周辺に集まっており、ちょっ とした買い物にも、私たちは外出することができないという事情がありました。 ・Aさんと妻とは、たしかに、同じ学校に通う、同じ年頃の子供を持つ母親同士として、 ずっと前から顔見知りでした。 淳が小学校三年の時には、自治会が主催した卓球同好会に、Aさんに誘われて参加した ことがありました。 その当時、卓球の帰りに二回ほどAさんの家に行ったことがあるそうです。 しかし、私の妻は、パッチワークの方が忙しくなったこともあり、その年のうちには、 卓球同好会を自然退会してしまい、Aさんとも付き合いはほとんどなくなってしまいま した。 ・そのため、淳がA少年の一番下の弟と同学年であり、またAさんの家で淳が大好きだっ た亀を飼っていたこともあって、淳はよくAさんの家に遊びにいっていてようですが、 母親同士は、特に仲が良かったというわけではありませんでした。 ・そういうわけで、私の妻は、淳が小学校三年生の時に、二回ほどAさんの家にいったこ とはありましたが、それ以降はいっておらず、また、Aさんが私たちの家に来たことも ありませんでした。 Aさんが私たちの家の中にはいったのは、行方不明になった淳をみんなが血眼で探して いた5月26日に、電話番にきたのが初めてでした。 犯人逮捕 ・6月28日、土曜日。 突然、電話の呼び出し音が鳴りました。 いつものように、子供部屋にいた逆探知グループの山本さんが飛び出してきました。 「どうぞ」目配せを確認して、受話器を取りました。 電話は警察からのものでした。 「被疑者A(実際は実名)14歳、友が丘中学三年生を今夜7時に逮捕しましたので報 告いたします」 簡潔で、淡々とした口調でした。 「まさか、本当に?」 頭の中は混乱していました。 やはり、まさかという思いが強かったのだと思います。 ・「妻はこのことを聞いたらどう思うだろうか?」 そんなことを考えました。 それは、私たちの家族から聴取をしている時に警察からもしばしば出ていた名前でした。 淳の遊びに行く家は同じマンション内の斎藤さんの家か、Aさんの家しかなく、しかも 淳が小学校三年の時に、殴られたりしてイジメを受けた当人の名前でした。 警察は事件発生当初から、A少年の存在について、関心を示していました。 ・淳へのイジメの事実や、小学生の時に粘土の脳ミソにカッターナイフの替え刃をたくさ ん突き刺した異様な工作を作った話など、A少年の性格的異常性は刑事さんの口からも 聞いていました。 ・淳が遊びに行っていた家の一番上の兄が、あの純朴で人を疑うことを知らない淳を殺し たのです。ショックでした。 ・山本さんとも相談し、取り敢えず妻には、”犯人が未成年であった”ことだけを話しまし たが、雉間はA少年が犯人であることに気づいたようでした。 ・私は、マスコミが言えに殺到してくると思い、山本さんと相談し、すぐコメントを考え、 ワープロ打ちしてドアの前に張り出しました。 報道関係の皆様へ 事件のことに関しましては、連絡を受けて知りました。いろいろとありがとうございま した。 ただ、現在の私どもの心境はとてもコメントさせていただく状態ではございません。 どうぞお察しの上、そっとしておいてほしいと思いますので、よろしくお願い致します。 ・その数分後でした。最初の取材がNHKからありました。 インターホン越しの女性記者でした。 「犯人が逮捕されましたが、ご心境をお聞かせください」 私は事件発生後、一貫して直接、コメントはしないことにしていましたので、その旨を 伝えインターホンを切りました。インターホンの音量もオフにしました。 ・そのあとすぐに今度は共同通信から電話が入りました。質問内容はほとんど同じです。 私はコメントを断り、留守番電話に切り換えました。 ・深夜近くになって、マンションの南側を窓越しにそっと覗くと、そこにはたくさんの報 道陣の車と、野次馬としか思えない人達が大勢たむろしていました。 そのため、マンション前の車道は大変な交通渋滞を起こしていました。 私の影が映ったのでしょうか。それともただ単にマンションを撮影しようとしているの でしょうか。四階自宅の窓のカーテン越しに、カメラのフラッシュが何回も焚かれまし た。 この騒ぎぶりには怖い感じすらしました。 ・あとで知ったのですが、この夜は私たちの家の玄関前に二、三十人の報道陣が詰めかけ ていました。 そのうちの何人かは、廊下などで徹夜をし、私たちの動きに備えて張り込みをしていた というのですから、とても信じられませんでした。 少年と人権 ・被疑者のA少年が逮捕され、取り調べは進んでいきました。 新しい事実が明らかになるにつれて、その犯行の異常さが次々と新聞やテレビ、雑誌な どで紹介されていきました。 ・しかし、そこでマスコミを支配していた空気が、変わってきたように思われたのです。 私にはA少年に”同情”しはじめたかのように感じられたのです。 ・それはA少年が逮捕された時から心配していたことでした。 あとから人に聞いた話ですが、テレビや新聞に登場する評論家やジャーナリストたちの 意見は、次のようなものだったようです。 ・少年はなぜあの犯罪に走ったのか。 ・少年の心の闇を理解しよう。 ・学校教育が、少年をあそこまで追い込んだ。 ・少年を更生させるには、どうしたらいいか。 ・その主張や意見は、問題は少年そのものにあったのではなく、少年を取り巻く学校や社 会にあった、というものでした。 それはそのまま、少年への同情へと流されていきます。 ・あの少年が歪んだ学校教育の被害者なのでしょうか。 病んだ社会の被害者と言えるのでしょうか。 もし、本当に少年がそうしたものの被害者なら、友が丘中学にはA少年のような生徒が いくらでもいなければなりません。 しかし、実際に彼のような生徒は、これまでだってあの中学に現れたことはありません。 ・かわいそうだったのは、逮捕直後から起こった友が丘中学へのバッシングでした。 生徒指導の先生が少年に暴力をふるい、それが事件の引き金になったようなことまで新 聞やテレビが報じるようになりました。 ・私たちの家にその当の生活指導の先生が、事情を説明にやってきてくれたことがありま した。 その先生は、報道されていることと実際はまったく違うことをきちんと私たちに説明し てくれました。 ・私たちは、警察のひとからも少年の学校に関する供述のごく一部について聞いていまし たので、学校や生活指導への反発が事件の引き金になったのではないことを、あらかじ め知っていました。 ・しかし、マスコミは「社会」、特に「友が丘中学」に原因を求めていたように思います。 非行を防ぎ、乱れかけた生徒を矯正する役割を負った生徒指導の先生が生徒に煙たがら れるのはごく当然のことで、それをあたかも事件の原因のように持ってくるマスコミの 主張は、違和感を超えて、脱力感、虚しさを感じてしまいました。 ・七月初めに写真雑誌が、As幼年の顔写真を掲載し、また別の雑誌が、目隠しの線を入 れたA少年の写真を掲載しました。 たとえ、淳を殺害した犯人といえども、A少年の顔写真を掲載することについては、 良いことだとは、私も思っていません。 日本は当然法治国家ですし、基本的に法律は守られるべきだと思います。 しかし、その後の経過については、少し戸惑いを感じました。 ・A少年の顔写真が掲載されたときには、批判が出ました。 A少年の人権侵害ということが大きな理由でした。 この時、私たちは、 「人権とは一体何なのか」 「被害者の人権はいったいどうなるのか」 そのことを改めて考えさせられました。 ・目隠しの線が入った写真も、入ってない写真もありましたが、氏名は一切出されていま せんでした。 一般の人たちには、この写真だけでは個人を特定することはまず、困難だと思います。 ・それに対して被害者の側は顔写真も連日、新聞やテレビに出されていたのです。 被害者側には、A少年に認められている人権さえ認められていないのです。 ・少年の人権、犯罪者の人権擁護を言うあまり、本当に守らなければならない真の「人権」 というものを社会全体が見失っているのではないでしょうか。 ・最初に社会全体で守っていかなければならないのは誰なのでしょうか。 それは普通に、そして平穏に暮らしている一般の人々のはずです。 それは人を疑うことも知らなかった淳であり、そして、他人に迷惑をかけずにその日、 一日一日を一生懸命、生きている人々すべてだと私は思ってます。 その一番大事な基本を見失えば、社会全体が歪んでしまうのではないではないでしょう か。 ・アメリカ合衆国では、一般の平穏に暮らす人々をいかに守っていくか、それこそ社会全 体で必死に考えています。 繰り返して性犯罪を犯す者については、地域全体にそのことを知らされ、その性犯罪者 の家にその旨のステッカーまで貼る州もあるといいます。 そこまですることが適切かどうかは別として、そこには、清に守らなければならない本 当の人権を守っていこうとする社会全体の気概のようなものを私は感じます。 ・この事件後も重大な少年犯罪が相次いで起こりました。 文部大臣が躍子たちに命の大切さを訴える緊急アピールまで出す事態になりました。 再び、マスコミは、 「なぜ子供たちはキレるのか」 「何がそこまで彼らを追い詰めるのか」 といった主張をしていました。 ・しかし重大な非行に走る少年たちの多くは、 「自分たちが何をやっても重罪には問われない」 ことをよく知っています。 彼らは大人が考えるより、案外賢く、物知りです。 学校でも、先生たちが自分たちに体罰ができないこと、もしやればどんなことになるの か、重々知った上でいろいろなことをしているのです。 ・妻は、この少年犯罪が続いた時期、 「最近は、いろいろなことを知っている子どもが多いのに・・・」 と、ひとことだけ呟いたことがあります。 妻には、淳の事件の教訓が生かされずに逆に少年犯罪が増加していることが悲しく、 また虚しかったのだと思います。 ・警察の人に聞いたことですが、犯罪を犯す少年たちは、 「〇〇歳までやったら、刑務所に行かんでもええ」 ということをわかっていて、実際、取調べの時でも平気でそういうことを言ってく る少年がいるそうです。 そういうことを知った上で、非行や犯罪を多くの少年がおこなっているのです。 ・それに対して一方のマスコミは、少年たちの気持ちを理解しようという態度をとります。 そして、学校や社会に原因を求めようとします。 そのことが、少年犯罪がここまで増悪する現状を生んだ原因のひとつではないでしょう か。 そしてそれは、「更生」だけを論じ、自分の犯した罪を「十分に自覚させていない」と いう矛盾を生んでいると思います。 その結果が、また新たな犯罪を生み、そして新たな被害者を生んでいるのではないでし ょうか。 ・A少年には、多くの弁護士が付添人としてつきました。 そして、 「地理調時間の短縮」 などの主張を行ないました。 しかし、これらの付添人の方々には、もっと被害者のことも考慮して欲しいと思います。 人が殺されているという現実の重さを、第一に考えてほしいのです。 事件の真相をまず明らかにすることを優先することは、被害者保護にとって、非常に重 要なことだと思います。 ・私たち被害者は、やり場のない、どうしようもない悲しみにさいなまされています。 ですから、付き添い人の方々には、被疑者の弁護をすることは当然のことだと思います が、被害者の心情に配慮し、事件の真相を明らかにすることにも協力して欲しいと思い ます。 ・少年法改正の議論についても、今回の事件をきっかけに、少なくとも、自分の犯した罪 を自覚させ、そのことに対する償いについては、きちんとやらせるという人間社会の当 たり前のルールや信条に貫かれた考え方の上で議論がされることを私は望みます。 それこそが、新たな悲惨な事件を防ぐ唯一の”抑止力”であり、淳の死に方が無駄でなか ったことの私たちのただ一つの慰めだからです。 ・事件が一段落したあと、私たちはA少年の両親から、何らかの謝罪を示す動きがあるの ではないかと思い、しばらくは黙って待っていました。 もちろん、両親から謝罪を受けたからといって、A少年の罪を許す許さないは別問題で す。謝罪されたからといって、私たちの怒りや悲しみが治まるものではないことはいう までもありません。 ・しかし、加害者の親である前に、そんな子どもを持ってしまった一人の人間として、 せめて早い時期に、私たちに誠意ある謝罪をするのが当然ではないでしょうか。 いや普通なら、わが子がしでかしたことのあまりの重大さに、被害者の家族の心情を想 像し、とるものもとりあえず駆けつけて、一緒に悲しみを共有しようとするのではない でしょうか。 そこから、自然と謝罪の気持ちも生まれ、そして新たな再出発の糸口も見つかって来る のではないでしょうか。 しかし、Aさんからは何の連絡もありません。 ・「Aさんから手紙が来るかもしれない。いや、まず電話がかかってくるだろうか」 私たちは、ただ待っていました。 2、3週間はあっと言う間に過ぎました。 A少年の両親からは、何もいってきませんでした。 やがて、私も妻も裏切られたような気持になってきました。 ・その後、A少年は、竜が台女児殺害事件で再逮捕されたり、続いて去年の2月に起きた 女児棒殴打事件を自給したので、この事件については「神戸連続児童殺傷事件」と呼ば れる大事件へと発展していきました。 そうなっても、A少年の両親からは何の連絡もありませんでした。 ・いくら警察での事情聴取に時間を取られているとはいえ、手紙の一通くらいは書けるの ではないか。 また、謝罪する気持ちがあれば、警察官を通じてもでも伝言を頼むくらいのことはでき るのではないか。しかし、それさえ一切ありませんでした。 ・たしかに、 「両親も、彼が逮捕された直後は精神的パニック状態に陥り、とてもではないが、被害 者側に対する謝罪などを考える余裕がなかったのではないか」 と、いう人もいると思います。 ・しかし、あのような被害を受けた人間が、どんな気持ちでながく悲しい時間に耐えて過 ごしているか、どのように混乱した日常を送っているか。 A少年の両親も人の親なら、それぐらいは思い至るはずです。 どんなにパニック状態に陥っていたとしてもそれがわからないはずがありません。 両親は、まず以前からの顔見知りでもある私たち被害者側に顔を下げることから始める べきだったと思います。 ・私は、A少年とA少年の両親に対して民事訴訟を起こすことにしました。 それは私たちが事件の背景や少年審判の中身を知るためでもあり、そして責任の所在を 明確にするためでもありました。 ・もちろん少年は医療少年院に入所しており、事件としては一応の終了となっております。 しかし、被害者の立場からすると、事件は何も終わっていないのです。 本当の意味でいったい誰に責任があるのか、またどのようにこの事件の責任をとるのか、 そういう肝心なことがうやむやになったままなのです。 ・少年の両親が少年を立ち直らせるということは、あくまで彼らが少年に対してその成長 過程において、自らがおこなってきたことに対する「償い」でしかないのです。 「少年だから仕方がない」 「少年の更生のためには、被害者にも事実を知らせてはならない」 これでは、被害者は、犯罪被害を受けたうえに、法律のうえでも虐待されているという 二重の被害を受けていることになります。 ・この少年がなぜかくも凶悪な犯罪を犯すに至ったのか、それに関して、少年の両親の関 与は実際にはどのようなものであったのか。 また、犯行当時の少年、および両親の状況は漏れ伝わっているようなことが事実なのか など、実際にはほとんど何もわかっていないのです。 不信 ・この日の午後、玄関先の郵便受けを見に行くと、新聞の夕刊と一緒に、差出人の書いて いない一通の手紙が入っていました。 私には、それがA少年の両親からの手紙だと、すぐにわかりました。 これより少し前、A少年の付添人している弁護士の一人が、人を介して私の両親に接触 を図ってきたことがあったからです。 その接触の仕方が、なぜか、私でも思わず首を傾げてしまうくらい、実に回りくどいや り方だったのです。 ・まず、その弁護士は私の家の近所に住む知り合いに、私を紹介するよう頼んだそうです。 しかし、その知人は私や私の両親とは一面識もありませんでした。 それでその人は、 「友人の弁護士に頼まれた」 といって、同じ町内の自治会に役員に話を持ちかけたそうです。 そんな経路で、私の耳に、 「A少年の両親が謝罪したいと言っている」 という話が入ってきました。 しかもそのときの話では、A少年の弁護士がAさん夫婦に、 「被害者の家族に謝罪した方がいい」 と話し、そのうえで私の両親に接触してきたと言うことでした。 このような形式的な謝罪の申し込みでは、被害者の家族は受け入れることもできないで しょう。 そんなときにこの手紙が届きました。 ・実は、私はその少し前に、A少年の母親がとった奇妙な言動を耳にしていました。 A少年の母親が、日頃、なにかとお世話になっている妻の友人宅に電話をかけてきて、 こういったというのです。 「ところで土師さん、元気にしてる?土師さんのところには、まだ警察がいるの?」 まるで、こちらの様子を探るために電話をかけてきたようです。 ・私と妻は、いまにいたって、なぜ、Aさんがこのような行動をとるのか理解に苦しみま した。 A少年の母親には、私たちに本当に心から謝罪するという気持ちがあるのか、疑問に思 いました。 ・私たち夫婦は、受け取った手紙に一応目を通しました。 文面は紋切り型で、いかにも誰かに言われて書いたという感じがしました。 私たちはその手紙を見ているだけで不愉快になってしまいました。 思わずその場で破り捨ててしまおうかと感じたほどでした。 ・後日、女児殺傷事件の被害者宅に届いたという、A少年の両親からの手紙が一部の週刊 誌上に紹介されていましたが、私が予想したとおり、それは私たちの家に来た手紙と一 字一句、同じものでした。違っていたのは、被害にあった子どもの名前と封筒に書かれ た宛名だけでした。 ・とうとうA少年に対する審判が決定されました。 それにあわせて、私は以下のコメントを発表しました。 「私たち被害者の本当にやりきれない心情を想像してください。 犯人の少年は、純粋で疑うことを知らない私たちの子供を殺害しただけでは足りず、 さらに酷いことをしたのです。 そのように残酷な犯罪を犯しながら、犯人が14歳の少年という理由だけで、犯した罪 に見合う罰を受けることもなく、医療少年院に暫くの間入所した後、前科がつくことも なく、また一般社会に平然と戻ってくるのです。 この事件に相前後して、同様の残酷な事件が発生していますが、これらの事件の犯人は 精神的には幼稚でも、ただ実年齢が20歳を越えているということで実名も出ますし、 また例え犯人に人格的奈紹介が存在しても責任能力があると判断されれば、それなりの 罰も受けるだろうと思います。 私は少年法の精神は尊重すべきであると考えています。 しかし事件によっては、加害者中利を優先した審判ではなく、被害者の心情をよく考慮 した審判がなされてもよいのではないかと思います。 法律により犯人が素の人権およびプライバシーを極めて手厚く保護されているのに対し、 被害者およびその家族の人権やプライバシーは全く保護されていません。 今回の事件においても、報道の名のもとに、悲しみのどん底に突き落とされた私たち家 族の人権やプライバシーは蹂躙され、通常の生活さえもままならない状態が長く続きま した。 その上に、私達の心に受けた深い傷を、さらに拡げようとでもするかのような心ない報 道も多数見られました。 ・私たちは審判決定の内容がどうであろうと、ひたすら事件の真相だけを知りたいと思っ ていました。 そして、このような凶悪事件を起こした少年が、どのような家庭環境で育ち、親からど んな育て方をされたのか、あるいは精神状態はどうだったのか。 真実を知るためには、そういうことが重要なポイントになると思いました。 当然、ここではA少年の両親の責任問題も問われなければならないはずです。 そして、その家族を取り巻く社会的な環境も論議されるようにならなければいけないと 思っていました。 たとえば、これまでずっと、 「何も知らなかった」 といっていると報じられているA少年の両親が、本当にこの事件が寝耳に水だったので しょうか。 ひょっとしたら、 「知っていたが、止めようがなかった」 のではないか。 ・3月からの”犯罪”の模様を記したA少年の「犯行ノート」は、警察によって彼の机の上 から押収されたと聞いています。 作の上に置いてあるノートに書かれている犯行メモを、親が果たして何ヵ月も気づかな いことを信じられるでしょうか。 ・私たちのように子供を犠牲にされた両親は、当然、事件全体の詳細を知る権利があるも のと思っていましたが、実際には、何の権利も保障されていないことを知り、本当に愕 然としたものでした。 ・審判の状況を知ることもできず、また、私たち被害者のやりきれない辛い心情を審判廷 で発言できないまま、審判は終わってしまいました。 ・被害者の親として、せめて審判決定書の全文を見ることぐらいできないものか。 審判の行われた家庭裁判所に被害者の親が出席できないのなら、せめて、法的代理人で ある弁護士くらいは傍聴させられないものか。 そんな当然のことすら、認められませんでした。 ・「せめて両親の供述調書と、A少年の精神鑑定書くらいは見せてもらえないでしょうか」 私は、審判に出席するという直接的な手段が不可能だとしても、事件の真相を知るため に事件前後の両親の行動を知りたいと思い、これを要求しましたが、それもかないませ んでした。 その結果、私たちは、審判について、ほとんど何も知らされず、何も発言できないとい う立場に終始させられてしまいました。 ・情報はすべて、新聞やテレビ、雑誌などによる伝聞でしか伝わってきません。 何が本当で、どれが間違いなのか、私たちには真実が何もわかりませんでした。 ・法律学者や社会学者などの口を借りた、推理まじりの情報ばかりが飛び交い、被害者に 真実は何も知らされないという奇妙な制度を私たちは実感しました。 ・A少年の両親は、家庭裁判所から審判の決定が出たときに、こうコメントしています。 「私たちにできることは、子供が治療を受けている間、いろいろな先生方のお力をお借 りして、勉強しながら子供を受け入れる態勢をつくり、息子を立ち直らせることだと考 えています。 それが私たちにできる償いだと思い、どんな困難があっても、何年かかっても、やり通 したいと思っています」 ・A少年の両親が、自分たちの息子を立ち直らせること、それは、A少年の両親がお自ら おこなってきた過ちに対しての、A少年への償いでしかありません。 「償い」とは、一般的に加害者側が被害者に対して使う言葉ではないでしょうか。 私たちは、A少年の両親は、自分たち家族のことを中心に考え過ぎているように思えて 仕方がありませんでした。 報道被害 ・私たちが最初に「取材」に遭ったのは、須磨警察署で淳の遺体を確認し、激しいショッ クを受けた状態でマンション前に到着した時でした。 すでに何社かのマスコミ関係者が待ち構えていて、私たちが乗ったエレベーターの中に まで入り込んできました。 私たちの精神状態を全く忖度せず、土足で気持ちを踏みにじるような質問を浴びせかけ、 彼らは強引に写真やコメントをとろうとしてきました。 ・その後の取材攻勢はすさまじいものでした。 インターホンは数えきれないほど押され、電話もなりっぱなしでした。 その日から連日、朝から晩まで多数のマスコミ関係者がマンションの周囲を何重にも取 り巻きました。 ・これはもう、「取材」という名の暴力といっていいのではないでしょうか。 私たちは淳を一度は家へ連れて帰ってやりたいと思っていました。 淳自身もそれを願っていたに違いありません。 しかし、あの凄まじい取材陣の包囲網では、そのささやかな望みすらあきらめざるを得 ませんでした。 結局、淳が家に帰って来たのは骨になってからでした。 ・電話とインターホンによる取材攻勢は、その激しさを一向に衰えさせることなくその後 も続きました。 神戸新聞社へ犯人からの第二の手紙が来たときなどは、夜中の12時頃まで、インター ホンは鳴りやみませんでした。 ・こうしたマスコミの取材の影に隠れて、無言電話もありました。 ただ、これについては逆探知のお陰ですぐに犯人を特定することができたようでした。 ・私が仕事に復帰した日、朝、出勤のために車を出そうとすると、目の前にマスコミ関係 者が飛び出して行く手を遮り、車を動かすことができないようにしたうえで、フロント ガラス越しに写真を撮ろうとしたことがありました。 そばで待機していた警察の方がその記者を咄嗟に横に追いやり、そのおかげで車を出す ことができました。 ・ある社は、私たちが住むマンションの駐車場の出入口の前に車を横向きに駐車し、車が でにくいようにして、私の姿を映像に収めようとしていました。 写真さえ撮れれば何をしてもよいと考えているのでしょうか。 我が子を殺された親の気持ちを思いやるという気が少しでもあれば、そうはできないよ うに思います。 ・テレビ、新聞、雑誌などでは、私たちの名前や職業などの個人情報が連日、報道され、 画面や紙面を賑わせていたそうです。 私たちの名前や職業を四六時中、紙面や映像で流す必要がどこにあるのでしょうか。 ・事件そのものの究明をめざしたものではなく、私たちのプライバシーを暴くことが目的 であるかのような報道も非常に多かったと聞いています。 私たち夫婦の学生時代の友人や仕事の関係者にも取材が多くあったそうです。 私たち夫婦の馴れ初めや、結婚生活の詳細や性格などが事件解明の何の役に立つという のでしょうか。 ・悲しみに暮れる被害者のプライバシーがなぜ、暴かれなければならないのでしょうか。 興味本位の報道のためになぜ、再び傷つかねばならないのでしょうか。 マスコミにそのような権利があるはずがありません。 ・私は他人の目が気になり、表を伏し目がちに歩くなどして、自然と自分の存在を隠そう とする癖のようなものがついてしまいました。 大人の私ですらそうなのですから、長男の敬は事件後、極端に他人の目を気にするよう になってしまいました。 ・マスコミ関係者が友が丘中学やその周辺で取材している時に、 「〇〇という名前の子を捜せ!」 などと叫んでいるのを聞いてしまってから、特に過敏になってしまったようです。 ただでさえ、大変な傷を心に受けたのです。 その苦しい状況で、気力を振り絞って学校に通っている子供に、まるで犯人を捜すかの ように、本来、知られることもなかった名前を見ず知らずの大人たちに連行されて追い 回されるということが、どんなに子どもの心を傷つけたか。 マスコミ関係者にはよく考えていただきたいと思います。 ・現在の日本のマスコミの事件報道について私なりの思うことがあります。 いくつか考えたことがあるのですが、特にはっきりと記しておきたいのは、被害者側の 人間が見て嫌悪感を催すような報道や取材は、慎むべきだということです。 ・被害者が子供なら、兄弟姉妹がいる可能性が高いと思われます。 両親の心情もいうまでもなく重要ですが、それ以上に気をつけてほしいのは、まだ心身 の発育途上にある多感な兄弟姉妹たちのことです。 兄弟姉妹が犯罪の被害に遭ったというだけで大変な傷をすでに負っているのです。 その上に傷を重ねて良いものでしょうか。 そこをマスコミにはよく考えてほしいのです。 ・被害者とその家族の情け容赦のないプライバシー暴露が、彼らの心に及ぼす悪影響を考 えて欲しいと思います。 すでに大きな傷を心に受けた彼らが少しでも早く立ち直ることができるよう、配慮のあ る良識に照らした報道を徹底すべきだと思います。 ・社会の病理やひずみを正確に伝えるという報道の「公共性」「公益性」「(社会的)使 命」等のために被害者のプライバシーをある程度、伝えなければならないというような 意見があります。 事件解決に必要な情報という場合、どの程度までなら報道が許されるのかの判断は非常 に難しい問題ではありますが、ある程度は仕方ないとは思います。 ・しかし、それ以外の場合、つまり、事件解決に何ら寄与するはずのない情報については、 その流出はあってはならないことだと思います。 具体的には被害者およびその家族がその人であるとわかるような情報、実名であるとか、 職業であるとか、肖像であるとか、については報道するのは反対です。 また、そういった方々のプライバシーを侵害するような報道もやめるべきです。 現状のマスコミの報道姿勢は興味本位の覗き見趣味を満足させることを目指しているよ うに思えてなりません。 ・「報道」の名のもとに、被害者およびその家族につってマスコミが新たな加害者になっ てはならないと思います。 マスコミの持つ活字や写真や映像という表現手段には恐ろしいほどの影響力があるので す。このことをよく自覚した上で、節度ある報道を実現する義務があると思います。 ・この国では被疑者・被告人の権利は法律により保護されており、被疑者・被告人の人権 およびプライバシーは法律によって極めて手厚く保護されています。 それに対し、この国では被害者やその家族の人権やプライバシーは全くほぼされていな いといえます。私にはそうとしか思えません。 ・今回の事件が発生する少し前にも、殺害された女性のプライバシーが、これでもかとい うぐらいにテレビや雑誌等で報道されていました。 それが真実かどうかは私にはわかりません。 しかし、そのような報道が目に入るのは気分の良いものではありませんでした。 殺害された上に、興味本位の覗き見趣味の対象として、真実かどうかもわからないよう なプライバシーをえぐりだされているのです ・殺害された被害者の名誉をすべてぶち壊し、さらに、悲しみに沈んだ遺族の気持ちを 土足で踏みにじるような行為に対し、この日本という国では何の規制もないのです。 私はこのようなマスコミの行動には、前々から、嫌悪感を抱いていました。 ・今回の事件においても、報道の名のもとに、悲しみの底に突き落とされた私たち家族の 人権やプライバシーは蹂躙され、通常の生活さえもままならない状況が長く続きました。 その上に、私たちの心に受けた深い傷をさらに拡げようとでもするかのような心ない報 道も多数見られました。 ・もちろん、事件そのものの報道は必要だと思います。 しかし、本質的に事件報道とは異なる、不必要で、脱線、逸脱した、「報道」の名のも とに行われた「ペン」と「映像」の暴力のために、そっとしておいてほしいという私た ち家族の淡い希望はまったく叶えられませんでした。 ・私たち被害者のプライバシーが踏みにじられ、傷ついた心をさらに痛めつけられるよう なことをされても、誰もなにもいいませんし、助けてもくれませんでした。 気づいてもいなかったかもしれません。 私たちの場合は、警察のみがマスコミの私たちに対する直接的な攻勢を抑えてくれただ けでした。 ・それに反して、犯人の少年などは、写真が出ただけで、氏名も出ていないにもかかわら ず、「少年の人権を無視している」と抗議が出て、さらには販売店はその雑誌を自主的 に販売中止にしました。 これはどういうことなのでしょうか。 それらの販売店が、被害者の人権をむししたような記事を掲載した雑誌を、自主的に中 止したという話は聞いたことがありません。 加害者の人権を蹂躙した雑誌は売ってはならないという使命感に燃えても、被害者のプ ライバシーを踏みにじった雑誌は面白いから売って売って売りまくろうとでも考えてい るのでしょうか。 ・法務省人権擁護局というところがあるそうですが、被害者の人権に対しては何の対応も せず、放置しておきながら、犯人の人権だけは声高らかに擁護しています。 私は、犯人の人権はどうでもよいと言っているのではないのです。 その前に擁護すべき人権があるのではないかと思うのです。 ・公判段階では被害者は商人として召喚されますが、証人尋問における被害者保護につい ては、明確な規定がないそうです。 被害者の住所氏名なども開示されてしまうそうです。 ・これらのことは大変重大な問題だと思います。 加害者は保護されているにもかかわらず、なぜ、被害者だけが二重、三重の被害に遭わ なければいけないのでしょうか。 早急に解決のための論議を始めていかなければならない課題だと痛切に思います。 ・被疑者、被告人には、国選弁護人という制度がありますが、被害者側には国選の補佐人 のような制度はありません。 被疑者の国費つまり税金で弁護人をつけてもらえ、人権等の権利が保護されるのに対し、 被害者は、お金がなければ、自分たちの権利を守り、保護してくれるような弁護士を頼 むことさえできません。 そのため、さらに被害報道や警察の取り調べや、被疑者、被告人側の弁護人による二次 三次被害に遭うことになってしまいます。 ・私たちは、加害者、被疑者の人権やプライバシーを無視してよいといっているわけでは ないのです。 彼らの人権やプライバシーを守ることは当然のことだと思いますが、その前に、被害者 の人権やプライバシーがまず守られるべきではないかということをいいたいと思います。 少年法 ・淳が亡くなって1年が経過した1998年5月、私は新聞社の求めに応じて簡単な手記 を発表しました。 「少年法の基本的な精神には私も賛同しています。 非行を犯した少年の保護、更生を考えることは重要なことだと思います。 しかしながら、被害者が存在するような非行、特に傷害、傷害致死や殺人などの重大な 非行と、他の軽微な非行とを同列に扱うことは許されることではないと思います。 非行少年に人権がある以上に、被害者には守らるべき人権があると思います。 ・憲法では、裁判は公開が原則です。 被害者のいないような非行の場合は、状況も加味して非公開でもよいと思いますが、 当然のことながら被害者そんざいするような非行の場合は、少なくとも被害者側には 公開すべきだと思いますし、被害者側は知る権利があると思います。 ・少年も一つの人格を持っています。人格を持っているということは、成人とは同じでは ないにしても、自分の行動に対しても社会的に責任を持たなくてはいけないということ です。 成人の犯罪の場合よりは軽減されるにしても、非行の重大さに応じた罰や保護処分があ って当然だと思います。 非行少年を、甘やかすことと反古とは同義語ではないと思います。 ・14歳の少年が被疑者として逮捕されたあと、少年法に基づいて手続きが進行していき ました。 しかし、私たちの心にとどまった澱のような悲しみや憤怒はまったく晴れることはあり ませんでした。 最愛のわが子を失いという悲しみ、淳を殺されたことのショックがすっかりこころをふ さいでしまっていたのはもちろん、そうなのですが、しかし、それ以外にもまったく別 の理由が、少年法そのものにありました。 ・いかに少年といえども犯した罪を考えるとあまりにも保護され過ぎているのではないか、 また、あまりにも被害者の心情を無視しているのではないかと、実際、少年法に接して みて感じざるを得ませんでした。 ・少年が犯した非行が、私たちのような特に深刻な、遺族というような形の被害者という ものをつくらない場合は、少年の保護を第一に考えることは、非常に大事なことだと思 います。 しかし、少年が犯した非行が、そういった深刻な被害者を生み出す場合は、考える次元 が大きく変わってくると思います。 ・一口に非行といいましても、多くの種類が考えられます。 特に、殺人や傷害致死など凶悪な非行(犯罪)と万引きや窃盗などの軽微な非行(犯罪) とを同レベルの非行として扱うことは、一般的な人間感情からは、完全に逸脱している といえます。 ・非行少年に対する保護は重要ですが、すべての非行少年が、保護に値するとはとても思 うことができません。 ・凶悪な犯罪にもいろいろあると思います。傷害、傷害致死や意図した殺人などの凶悪な 犯罪の中でさえも、これらを同列に扱うことは甚だ不合理だと思います。 ・私たちの子供は、完全にあの少年が殺そうと意図して、残虐に殺された挙げ句に、さら に酷いことを去れたわけです。 この凶悪犯罪を犯した少年が、万引きなどの軽微な犯罪を犯した非行少年と同じレベル で論議されることそのものが非常識ですし、実際許されることではありません。 ・しかし、現行の少年法で、非行そのものの質を問うのではなく。 「要保護性のみを問う」 ということなのです。 というのは、どのような非行を犯したかではなく、非行の事実さえあれば、この非行少 年には保護が必要かどうかということが問題になってくるだけなのです。 そこには罪を糾明する、解明するという視点はおろか、罪悪感を持つ、持たないの確認 すらないのです。 罪も問わず、罰はもちろんなく、どのような保護を施すかということだけが議論されて いるのです。 このことは、少なくとも一般の国民感情からは完全に逸脱したものと言えると思います。 ・偏った見方をすると、少年犯罪における被害者にとって、少年法とは加害者の暦のみを 保護する法律であると言えるのではないでしょうか。 少年に殺されたから仕方がない、運が悪かった、で済まされる問題ではないと思います。 ・深刻な苦痛を被った被害者が存在する事件で、その被害者の権利、人権が無視されてい るのが少年犯罪事件です。 現行少年法は、少年の起こした乞う悪犯罪の被害者をなおざりにしているどころか、 事件を起こされた方が悪いとでもいっているかのような法律に見えてきます。 ・審判を一般に公開しないことはまだしも、少年犯罪の被害者にさえも一切公開しないと いうことは、被害者の知る権利を奪っているわけです。 どのような理由で、また、どのような状況で被害を受けたか、その加害者はどのような 人間か、その加害者はどのような環境で育ったのか、どうすればその被害を未然に防ぐ ことができたのか、などにことは、深刻な苦痛にあった被害者であればあるほど、知る 権利があるはずです。 ・加害者を守るために、被害者がその権利を奪われるということは本末転倒ではないでし ょうか。 被害者にさえも非公開の審判、そのような審判が存在すること自体が異常なのではない でしょうか。 ・処分の厳罰化についてですが、処分の厳罰化が犯罪(非行)の発生率の減少には寄与し ていない、とする学識経験者の記事が、新聞等に掲載されているのを見たことがありま す。 厳罰化した国で、犯罪発生率が低下するどころか、悪化しているということが根拠にな っているのだと思いますが、これも奇妙な論理だと思います。 ・一つの社会の中で、処分の厳罰化をしたグループと厳罰化しなかったグループとを現実 に比較実験して、その事例をもって厳罰化の是非を考えることは不可能です。 仮にある国で、処分の厳罰化を敢行して、犯罪発生率が減らなかったとしても、それは、 厳罰化してからこそ、その程度でおさまっているという考え方もできるのです。 ・非行少年を更生させることを目指すのは、当然のことです。 では、その第一歩に、なにをなすべきなのでしょうか。 私は、なによりもまず、犯した罪を充分に認識させることが必要だと思います。 その罪の意識が真の更生の第一歩だと思います。 その意識が生まれないままでは、どんな指導も説教も彼らを更生へと導くことはできな いに違いありません。 罪の意識は、被害者への謝罪の念と密接な関係があると思います。 被害者やその関係者に対する痛切なお詫びの気持ちが、犯した罪への激しい後悔の念を 導くのだと思います。 悲しみの底に深く沈んだ被害者や憤怒にふるえる遺族の姿を知るところから更生ははじ まるのではないでしょうか。 供述調書 ・昨年の2月10日に須磨地区で起きた女児殴打事件は、その後つづいたA少年による一 連の凶悪事件の幕開けとなりました。 当時、この事件のことは、なぜか公にされなかったので、もちろん、私たちは何も知り ませんでした。 ・続いて、3月16日に起きたのが、あの通り魔事件でした。 この時は新聞やテレビなどで事件のことを知りました。 ・そして、私たちの運命を大きく変えたあの5月24日がやって来たのでした。 ・それから徒死喪明けて998年2月9日。世間の人たちがやっとこの事件を忘れ始めよ うとした頃、突然、予想もつかない出来事が起きました。 しかも、それは私たちの神経をずたずたにするような「事件」でした。 ・この日の夕方4時を回った頃でした。 兵庫県警捜査一課の刑事さんから、携帯電話に電話が入りました。 「明日発売の文藝春秋と日刊ゲンダイになにか載るらしいですよ。きいつけとってくだ さい」 そんな内容でした。 ・今度は何だろう。私はそう思いながら、病院の売店に試しに行ってみました。 すると、そこには、明日発売の月刊「文藝春秋」がすでに並んでいます。 目次には、「少年A犯罪の全貌」という大きな活字が躍っていました。 さっそく、そのページを開いてみると、そこにはA少年の供述調書と思われるものが載 っていました。 最初に載っている解説めいた文章をパラパラとめくっただけで、私は読むのをやめてし まいました。 調書の内容は、私がとても耐えられるものではないと想像できたからです。 ・「遺族の心情を考慮すると問題だ。興味本位で読まれるのはつらい」 井関弁護士がマスコミに出してくれたこのコメントがその時の私の気持ちを正直に代弁 してくれています。 ・あの供述調書をわざわざ出す必要がいったいどこにあったのか。私にはどうしても理解 できませんでした。 あんな酷い目にあわされた上に、被害者をさらにこんな晒し者にするようなやり方には 納得できるはずもありませんでした。 あとがきにかえて ・今回の事件では学校関係者、PTA、自治会、それに私の勤務する病院等、多くの方々 には、たいへん助けていただきました。 また、その他にもたくさんの方々から励ましや慰めの言葉を頂きました。 ・しかし、多くの方々の励ましや慰めとは反対に、多くの嫌がらせもありました。 その数は少なくはなく、五つのうち一つの割合で嫌がらせがあったと思います。 郵便や電話などによる嫌がらせですが、その中には何が言いたいのは理解に苦しむもの もありました。 ・最もひどい嫌がらせは、事件発生後まもなくにきたものでした。 それは一通のハガキで、人間の首を切った絵を書いていました。 その絵の横には、 「母親よ!今度はお前の番だ!」 と書いていました。 子供の死に非常なショックを受け、悲嘆にくれる遺族のもとにそのような嫌がらせをす るとは、いったいどのような神経の持ち主なのでしょうか。 さすがに、妻には見せることはできませんでしたので、警察の方にこのハガキは渡しま した。 ・他にも、酷い嫌がらせがありました。 それは、まだ犯人が逮捕されていないときのことでしたが、それもやはりハガキで送ら れてきました。 そのハガキには、 「淳くんが泣いています。お父さん、はやく自首しなさい」 と書かれていました。 ・心優しい人たちがたくさんいるのとは反対に、このように心の貧しい人たちも多く存在 しているのも事実です。 本人たちは遊び半分、冗談半分のつもりでしているのかもしれません。 しかし、このような行為が、私たちの被害者の気持ちをさらに落ち込ませてしまうので す。 このような、被害者の家族に対する嫌がらせなどは、一般的にはまず報道されてないこ とだと思います。 |