あの戦争と日本人 :半藤一利

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この本は、今から11年前の2011年に文藝春秋に発表されたものを2013年に文庫
本化したもののようだ。
内容は、幕末から昭和の戦争の敗戦までの歴史の流れのなかで、日本人はどのような振る
舞いをしてきたかに視点をおいて書かれている。
この本を読んで、私が特に関心を持ったのが二つある。一つは、日本が昭和の無謀な戦争
に突き進んでいくことになった一番の原因はどこにあったのかということ。もう一つは、
昭和の戦争で、もはや引き返すことができなくなった「ノー・リターン・ポイント」はど
こだったのかということだ。
一つ目の日本が昭和の無謀な戦争に突き進んでいくことになった一番の原因は、日露戦争
にあったというのが著者の見解である。日露戦争当時のロシアと日本の国力は10対1ぐ
らいだったと言われていたようだ。つまり日本は、国力が自国の10倍もある国と戦争を
したのだ。普通に考えると、とても勝ち目はないのだが、それが勝ってしまった。しかし
それは、日本がいろいろな幸運に恵まれて、辛うじて勝ったという状態だった。
本来なら、そのことを正直に国民にも知らせるべきだったのであるが、当時の政府や軍部
はそうしなかった。連戦連勝の無敵陸海軍というフィクションだらけの戦史だけを残し、
本当の姿はひた隠しにし記録に残さなかった。そして多くの国民が、そのフィクション戦
史を信じこんだ。日本人は精神力と白兵戦で勝てるんだ、艦隊決戦は得意中の得意なんだ
という神話が作り上げられ、それがおごりとなり、太平洋戦争に突き進んでいく推進力に
なってしまった。

二つ目の昭和の戦争での「ノー・リターン・ポイント」については、日独伊三国同盟の締
結がそうであったというのが著者の見解である。このときの首相は近衛文麿。このときに
交わされた昭和天皇と近衛文麿との対話がとても興味深い。この時、近衛文麿が、この国
のこの先の運命を決めることになるという洞察や責任をどの程度感じていたのだろうか。
この他にも、日中戦争時における近衛文麿の声明「国民政府を対手とせず」は、完全に失
敗だった。これで日中の和平の芽をつんでしまった。これがなければ、日中講和の望みも
あったかもしれない。太平洋戦争へと戦禍が拡大することもなかったかもしれない。そう
考えると、近衛文麿の責任はとても重かったと言えるのではないだろうか。

ところで、私はこの本を読むまでは、「特攻」の発案者は「特攻の父」と言われた大西瀧
治郎中将
だと思っていたのだが、どうも、そうではなかったようだ。特攻のアイデアを持
っていたのは、城英一郎大佐という人で、彼が大西中将に意見具申して、それがきっかけ
になって、大西中将が特攻作戦を実際に実行に移したというのがほんとうらしい。さらに
言えば、黒島亀人という参謀が、「体当たり戦闘機」、「震洋」、「人間魚雷・回天」な
どのアイデアを出していたようだ。もっともそれで、大西中将に責任はないとは言えない
のだが。

日本への原爆投下を巡っては、私は二つの疑問を持っている。一つは、なぜ、第一候補に
上がっていた京都が原爆投下目標から外されたのか。もう一つは、もし日本があのとき
ポツダム宣言」を「黙殺」せずにすぐに受諾したら、原爆投下は回避されたのか、とい
う疑問だ。
一つ目の、なぜ京都が原爆投下目標から外されたのかについては、いろいろな説があるよ
うだが、この本ではスチムソン国務大臣がポツダムで「京都を爆撃したら日本国民を怒ら
せてしまって、永劫にアメリカを恨むようになるから外したほうがいい」と言って京都を
外したというふうに書かれている。スチムソンはハネムーンを含めて2度京都を訪れたこ
とがあったようだ。そのような背景を考えると、この話が一番本当らしいと思えた。
もう一つの「黙殺」せずにすぐに「ポツダム宣言」を受諾したら原爆投下は回避されたか
については、この本では、それでも原爆投下はされただろうというのが著者の見解だ。そ
の理由はソ連の存在だ。日本に早く降伏させないと、ヤルタ会談時の約束によりソ連が日
本に攻め込んでくることになる。敗戦後の日本をめぐる主導権をどっちが取るかの問題が
あったからだという。
原爆が回避され、ソ連が日本に入ってきて、かつてのドイツやベドナムや朝鮮半島が分断
されたように、日本が分断されたほうがよかったのか。それとも分断を避けるために原爆
を投下されたほうがよかったのか。どちらのほうがよかったのか、なかなかむずかしい問
題だ。

その他に、この本の中で私が注目した記述は、次の二つである。
・日本の組織は何かやろうとするとき、一体何を目的とするのか、それを明確にしないで
 やってしまうことが多い。
・職人的技術の優秀な人たちはたくさんいて、コツコツとつくりあげるものはたくさんあ
 るけれども、組織として、大きなものを無からつくりあげるという精神は日本人にはあ
 まりないんじゃないか。
このことは、明治や昭和という時代ばかりではなく、現代においても、そのまま言えるの
ではないだろうかと私には思えた。

過去に読んだ関連する本:
日本原爆開発秘録
アメリカの戦争責任
原爆 私たちは何も知らなかった
石原莞爾 マッサーサーが一番恐れた日本人 
八紘一宇


幕末史とん日本人
・戦後の日本という国は、不可思議と言っていいぐらいに自国の歴史をしっかりと教えて
 こなかった。
・歴史から何を学ぶか、というような難しい話じゃくて、自分たちの国がどういうかたち
 をしているのか、成り立ちはどうなのか、日本人というのはどういう歴史を生きてきた
 民族なのか。そういうことはやはり知っておいたほうがいいと思います。
・飛鳥時代には、いわゆる天皇家の祖先がいて、さらに蘇我大王家があった。二つの王家
 が存在していて、拮抗しながら国家が運営さえていたと思えばいい。藤原鎌足と中大兄
 皇子がやったのは、「大化の改新」ではなくて、あれは政権奪取のクーデタであったん
 だ。
・「統帥権=魔法の杖」が、いったいつ生まれたものなのか。遡っていくと、明治二十二
 年の憲法制定の時点には、すでに統帥権は確立していたことがわかる。
山県有朋が、「参謀本部条例」を制定するのです。これによって、参謀本部は完全に独
 立独歩した軍令機関となりました。参謀本部長は陸軍卿(大臣)に優越する地位が与え
 られたんです。政略家である山県と桂太郎のコンビによって生み出された政府から独立
 した軍隊指揮権、すなわち統帥権がここに生まれたのです。
・昭和史をかき回した「統帥権」の芽は、幕末に生まれていました。しかも、徴兵制の施
 行によって、いわゆる”天皇の軍隊”が作られるのは明治五年です。そうすると、昭和と
 いうものをほんとうに理解するためには、幕末から明治十年くらいまでの時代をきちっ
 と理解しないとだめだということになります。
・幕末の流れを探偵していくと、西郷さんみたいな古来日本人的な道義主義者と、近代を
 作り上げる超合理主義、建設秩序の政治家である大久保利通は、衝突せざるを得なかっ
 たことがわかる。サムライの代表と官僚の代表は相容れないんですよ。
・戦前の、統帥権に振り回される前までの昭和初期には、ある種穏やかな、一所懸命に人
 間が働く時代がやはりあったんです。文化的にもかなり高度なものをつくりあげた。と
 ころが、軍人というものが大舞台に出てきて、世界中の国々を相手の戦争という愚劣な
 ことをやり、すべてを叩き壊し、国中を焼け野原にしてしまう。結果として、敗戦とい
 うものすごい断絶がまた来たのです。
・軍人にも、わたくしが非常に立派な昭和人だと思う人はいます。今村均大将井上成美
 大将
小沢治三郎中将、彼らの戦後の生き方は、やはり日本人のいいところを示しまし
 た。あのようなバカげたことはもうしない、と戦争責任を真っ正面から受け止めてね。
・幕末・明治維新・太平洋戦争をよく見てまいりますと、国家が外圧に直面するときは、
 状況も人間のあり方も似ています。そしてハッキリしているのは、大きな断絶が目の前
 に近づくと、そこが日本人の特性というか、心情というか、往々にしてナショナリズム
 に行っちゃうですよね。幕末も太平洋戦争の直前も、日本全体が簡単に熱狂してしまっ
 た。
・日本人は外圧によってナショナリストになりやすいようです。いいかえれば、時代の空
 気にたちまち順応するということになる。状況の変化につれて、どうにでも変貌できる。
 そんな人たちは、戦争の悲劇の記憶が失われて時間が悲惨を濾過し美化していくと、そ
 れに酔い心地となって、再び殺戮に熱中する人間に変貌する可能性があるのじゃないで
 しょうか。

日露戦争と日本人
・大国ロシアに挑んで大勝利を収めた日本人の精神力は、戦闘力は、本当にすばらしかっ
 た、それが、私たちが昔からよくなじんだ日露戦争の話です。ところがこれは、半分く
 らいは作りもの、フィクションなんですね。さながらすべてが事実のように語られた、
 ウソの歴史と言ってもいいと思います。我々日本人は、近代史を正しく教えられていな
 かった。そして連戦連勝の「無敵陸海軍」と信じこんだ。いや、信じこまされた。そこ
 が、日本人にとってじつは非常に大事な問題であったのです。
・国家予算にうち軍事費が占める割合は、戦時下の明治二十八年が32パーセントである
 のに比し、翌年は48パーセントへ飛躍した。明治の悲惨さは、ここにある。
・明治の栄光ということは盛んに言われますけれど、これだけの国家予算を軍事費にとら
 れて、国民生活は悲惨でした。明治三十年から日露戦争まで、毎年のように、国家予算
 のほぼ半分が軍事費にとられているんです。
・当時の国家予算でいうと日本は2憶、ロシアが20憶。ロシアの国力は日本の十倍なん
 です。
・ところで、太平洋戦争直前の日本の計算でも、アメリカ対日本の国力は十対一であった
 んです。でも昭和の軍部は動じなかった。なぜなら、日露戦争はそれでも勝ったんだ、
 米英恐るるに足らず、断固戦うべし、というのが太平洋戦争直前の日本陸海軍でした。
・昭和の軍部と違いまして、明治の軍部は本気になって戦力の差、国力の差を見据えてい
 ましたから、戦争はやるべきではないのではないか、妥協点があるのではないか、と冷
 静に考えていました。

・日露交渉の直前、東大の教授たち七人が、桂太郎首相を訪れて強硬な意見書を出すわけ
 です。この人たちの意見がどんなものだったか。
 「ロシアと断固開戦すべし」
 要は、ロシア軍を破って満州を占領し、領土を朝鮮にまで広げていこう、という意味の
 すごい論なんですよ。
・しかし桂太郎首相は、学者の本分を守ってほしい、いちいち政治に口出ししてもらいた
 くはないと言って、これを拒否します。国民を煽らないでほしい、と頼んでいる。
・くわしい情報がないまま、ロシアの強硬な態度のみを知らされて、我慢に我慢を重ねて
 きた日本国民の心に火をつけたんです。断固戦争をやるべきだというので、ものすごく
 と熱狂してしまう。
・実は太平洋戦争の終結直前にも、「東大七教授の提案」というのがありました。その内
 容は、
 ・ドイツの降伏前、少なくとも沖縄にアメリカ軍が上陸する前に終戦にした方がいい。
 ・アメリカに直接講和を申し込んだほうがいい。
 ・講和条件は、向こうの条件をそのまま受け入れたほうがいい。
 ・最後には天皇の力を借りたほうがいい。
 ・陸海軍の徹底抗戦派の策動を抑えるために強力な内閣をつくる。
 ・戦争終結後には国民道徳の基礎を確保するために、天皇は終戦の詔書で自己の責任を
  明らかにし、適当な時期に退位すること。
・熱狂的な世論に押されて、当時の政府はほんとに悩みました。日露交渉の内容が新聞に
 出ますと、さらに大変なことになったんです。日本国民はもう熱狂してますから、政府
 は弱腰だというのでガンガン後ろから押すわけです。
・ただ、ほんとに軍部も政府も慎重でした。
・そのときになっても陸軍の大御所山県有朋は、なお開戦の覚悟のきまっていないことを
 告白しているのです。太平洋戦争のような、戦争ややってみなきゃわからないんだ、な
 んて判断は一切しません。勝つ方法と同時に、一番大事な問題として、どうやったら戦
 争を終わらせることができるかということを考えていた。
・愛国心とか「無敵日本軍」なんていう強調とは別に、自分たちがつくった国を滅ぼして
 なるものかという必死の想いがあったんでしょう。だから、深く考えて考え抜いたわけ
 ですよ。
・翻って太平洋戦争の日本人は、残念ながら、戦争の終結の方法なんて一切考えなかった。
 「ドイツが勝ったらアメリカも戦意を失う、終戦もできるだろう」と他人のフンドシを
 あてにしていた。ドイツが負けたらどうするんだなんて、誰も考えてないんです。
・陸軍のクライマックスはやはり旅順要塞攻略戦ですね。しかし、実は、陸軍の基本的な
 考え方としては、「旅順に近代要塞は落とす必要はない。防備軍隊だけを置いといて、
 放っといて先へ進んでいけば、あの要塞は立ち腐れになる」というものでした。
・ところが海軍から、それは困ると言ってきた。なぜかと言うと、アジアにいるウラジオ
 ストク艦隊と旅順艦隊の両方を揃えたロシア海軍の兵力は、やっとこさっとこ揃えた日
 本の連合艦隊の数とほぼ同じ。バルト海のほぼ同兵力のバルチック艦隊がこれに加わる
 と、ロシア艦隊が二倍になる。旅順要塞のどこか一番いいところ、港内を見下ろせると
 ころ、つまり203高地を占領して、そこから観測して大砲を打ち込んで旅順艦隊を潰
 してくれ、と海軍が陸軍に要請するわけです。
・この要請で、乃木希典大将を指揮官とする第三軍が編成されました。が、厳密に言うと、
 第三軍は堅牢な旅順要塞を正面から攻める必要はまったくなかった。
・わたくしはちょっと、乃木さんに同情的なんです。というのも大本営から命令書には
 「旅順口を攻略せよ」とあるんです。「203高地をとって、そこから大砲を打ち込む
 だけでいい」なんて書いてない。ですから乃木さんは全要塞を潰す決意の下にやらざる
 を得なかったと思います。
・乃木さんは一次総攻撃、二次総攻撃、そして三次総攻撃と白襷隊までくりだして攻撃し、
 大損害を出した。
・これには連合艦隊のほうがたまげまして、東郷さんが参謀をわざわざ乃木さんのところ
 へ派遣して、そんなに要塞全部とらなくていいんだ、見晴らしのきく203高地だけと
 ってくれりゃいんだから、無理するなと言うんだけれども、乃木さんはやめない。運隊
 というのはそういうもんなんです。
・結果的には第三次総攻撃までやって、莫大な損害を出して、遂に乃木さんを更迭せよと
 いう声まで上がる。そこで満州軍総参謀長の児玉源太郎が乃木さんのところへ行って、
 いままでの第三軍がたてた作戦計画を全部やめて、203高地に攻撃の重点を置いた。
・実は乃木さん自身が、総攻撃はこれから203高地に向けるというふうに決定していま
 す。別に児玉の決断で203高地へと攻撃作戦が変更されたわけではない。
・ついに203高地を占領しました。さあ、というんで見張りを上げて、旅順港を見下ろ
 した。ところが、ですよ。その時にはもう、日本軍がまったく知らないことが起きてい
 たんです。旅順港の敵艦隊はとうに潰れていたんです。艦はほとんどが大破、大砲も水
 兵もすべて陸揚げされてまったくの無力・・・。
・というのは、秘かに買う軍陸戦重砲隊がでっかい大砲を運んできて、山越しに旅順港を
 狙える場所からボッカンボッカンと砲弾を打ち込んだんです。
・ちなみに、この山越しの砲撃の指揮をとったのが海軍中尉永野修身。のちの太平洋戦争
 開戦時の軍令総長であります。
・だから、乃木さんが203高地攻撃を決断したとき、旅順艦隊はすでに廃物だった。
・旅順要塞攻撃自体が無効だったというわけなんですね。では二万にも及ぶ兵士は何のた
 めに死んだんでしょうか。
・軍隊のみならず、日本の組織は何かやろうとするとき、一体何を目的とするのか、それ
 を明確にしないでやってしまうことが多いんです。
・このときも「目的は港内の旅順艦隊の撃滅である。203高地が一番よく見える場所だ
 から、それを占領せよ」とはっきり命令書に書いてあれば、あれほどの損害は無かった
 かもしれません。そういう例は太平洋戦争でも山ほどあります。
・連戦連勝、無敵であった日露戦争というのも、実は幸運の連続でやっとこさっとこ乗り
 切った。それ以上続ける余力は全くなくなったとき、アメリカが仲介になってくれたか
 ら和平を結ぶことができた。勝ちには勝ちでも惨憺たる勝ち・・・という本当のことを、
 私たち日本人は長い間学びませんでした。
・陸海軍が作り上げたフィクション戦史から、神話的な話だけを講談として学んじゃった
 んです。日本人は、精神力と白兵戦で勝てる。日本近海での艦隊決戦は得意中の得意で
 ある。これが太平洋戦争での日本軍の精神になっていく。冷静な判断よりも先進の昂揚
 を重視する。ほめられない戦略が強調されたんです。太平洋戦争は精神力を武器として
 戦われました。
・日露戦争の前まで政治家も軍人もみなリアリズムで動いていたのに、後にリアリズムを
 失ってしまうのには、叙勲がありました。祭りあげられて物語になってしまって、国民
 の熱狂に後押しされて、華々しい連戦連勝の戦史を作るしかなかったし、ましてやそれ
 をひっくり返すような話は持ち出せなかった。
・どうやら栄光と悲惨の両極分解は、日本が一等国家たらんとの第一歩を踏み出したとた
 んに、もうはじまっていたようです。
・日露戦争には、私たちが教訓とすべきところがたくさんありました。しかし、勝ったと
 いう一点によってそれを全部消してしまった。そこからなにも学ばないまま、リアリズ
 ムを失い、太平洋戦争につき進んでいったわけです。

日露戦争後と日本人
・この日露戦争の勝利を境にして、日本はそれまでと違う国家になったのではないか、と
 わたくしは思っているです。脈々と繋がってきた日本人の真摯な精神と自分の力に対す
 るきちんとした判断がここで断絶して、何となしにあらゆるところで綻びをみせてくる
 というのが、日露戦争後の日本なんです。
ポーツマス講和会議で日本政府および軍がつけた第一の絶対的必要条件は、韓国の自由
 処分権、つまり韓国をロシアの勢力下から解き放ち自由にする権利でした。二番目の比
 較的必要条件、これはもちろん賠償金です。日本は国家予算の約六倍というとてつもな
 い金を戦争に使いましたから、どうしても賠償金をもらいたかった。それと、当時日本
 軍が占領していた樺太の全島割譲。
・樺太については決して自慢できることではないが、講和談判直前、日本陸海軍による樺
 太占領作戦が開始されているんです。現地のロシア軍兵力はほぼ無力に近く、大きな戦
 闘もなく作戦はどんどん進捗して、ほぼ全島を占領し、日本軍の軍政下におかれます。
 もちろん国際法上は違法とはいえないことで、講和条約調印をみるまではこの作戦計画
 は有効であったといえます。しかし、そこはどうしても後味の悪さが残るのは否めない。
・問題となったのは賠償金と樺太です。日本側が「戦争というものは負けたほうが必ず賠
 償金を払うもんだ」と言えば、ロシア側は「俺たちは負けていない。この席には勝者も
 なければ敗者もないんだ」と突っぱねる。押したり引いたりが続きまして、さんざんや
 っているうちに今度は仲介のルーズベルトが硬化してしまう。世界の輿論の風向きもお
 かしくなって、逆風が日本に対してやたら強くなってきた。日本の外交はこうして窮地
 に追いつめられてしまった。
・調印された講和条約の主なところはつぎのようなものでした。
 ・遼東半島の租借権を日本に譲渡する。
 ・南満州鉄道およびこれに付属するいっさいの権利および財産を日本に譲渡する。
 ・樺太南半分を日本に譲渡する。
・この講和条件が伝わると、日本中が激昂しました。あれだけの大勝利をおさめたはずな
 のに、賠償金を一銭もとれないとは何と言うことかと、新聞各紙はいっせいに、激しく
 政府を責めたてます。
・結果として自存自衛のために、清水の舞台から飛び降りる覚悟を固めて戦ったにもかか
 わらず、土地を奪い、償金をとりたいという大野心から日本は戦争を起こしたと世界の
 人々から誤解されるようになる。
・日露戦争前、明治の人たちがそれこそ我慢に我慢を重ねて軍費を捻出できたのは、他の
 アジアの国のように植民地のされてしまう恐怖があったからでした。その小さな島国の
 日本がとにかく一つになって戦って世界の五大強国の一つの帝政ロシアを破ったという
 ことは、アジアの国々の人々をものすごく勇気づけたのです。
・特に中国の人たちです。この頃たくさんの留学生を中国は日本に送り出していて、亡命
 者も含めてその数八千人を数えたと言います。日本という国を手本にしてわれわれも革
 命を本気で成そう、清朝を倒して、新しい中国をつくろう、と意気に燃えていた。
・日本語の新聞、雑誌、教科書、講義録、一般の本などによって、留学生たちは世界の最
 新情報や近代以降の歴史や思潮を吸収していった。彼らはものすごく勉強した。また、
 日本人はずいぶん中国の革命同志の面倒を見、力づけたり手伝ったりしていたんです。
・こういうふうに日本の一部の人々が一所懸命にやっているときに、日本政府が中国人の
 排斥にかかるんです。1905年の11月に突然、留学生を取り締まる法令「清国人ヲ
 入学セシムル公私立学校ニ関スル規程」を制定。規程撤廃を要求してストライキを起こ
 した留学生を日本政府は弾圧します。
・あの時、日本政府も本気で中国の人たちを助けていたら、その後の日中関係は大きく変
 わっていたはずなんですがね・・・。
・ベトナムも、日本の勝利に大きなインパクトを受けた国なんです。フランスの植民地に
 なっていたベトナムは、日本を頼れば同じアジアの一員として手助けしてくれると思っ
 ていたんでしょう。ファン・ボイ・チャウさんが日本にやってきて、さかんに同胞を日
 本に呼び寄せる東遊運動をやりました。結果として、明治四十一年(1908)には日
 本にいるベトナム人の数が二百人を越えたというんです。
・こういう人たちを日本が助けていけば、栄光の明治という時代が続いたとわたくしは思
 うんですが、そうはいかなかった。
・1907年に日仏協約を結んでいた日本は、フランスの要求に応えて、1909年ごろ
 からベトナム人を追放することにしてしまうんです。そうなるともう容赦がありません。
 なにも律儀にフランスの言うことを聞かなくても、もっと融通を利かせて守ってやる方
 法があったかもしれません。本当に残念なことですね。
・ロシアに勝ったことで、日本なアジアの中心の存在として欧米と対等に交渉できる立場
 になったのに、逆にアジアの人々の独立心を叩き潰すような存在になっていくわけです。
・日本人はなぜか自分たちの属するアジアよりも、欧米のほうへと目を向けていく。日露
 戦争勝利の衝撃が、いかにアジア諸国の歴史に影響を与えたか、アジアの人々に勇気を
 与えたか、そこに目を向けた日本人は極小であった。アジアから離れたがる。「脱亜入
 欧」でいきたがる。アジアの国を下に見たがるんです。差別意識をもつんです。
・戦争に勝ったことが、日本人を狂わせた。そう思うほかはないのですが、身分不相応と
 もいえそうな大国主義・強国主義を選択した。
・世界の五大強国の一つを撃破したんだ。大日本帝国万歳なんだ。われわれはすごい民族
 なんだ。そう思い、もっと単純に、列強のまねをして何が悪い、と考えたんじゃないか。
・日露戦争に勝ったとき、ほんとは国力そのものをきびしく玩味してもう少し真面目に考
 えればよかったのですが、そのときに真面目に考えるべき人たちが、みんな戦勝の功労
 の叙勲で偉くなってしまった。
・では、日露戦争後の日本はどんな国に変わっていたのか。大きく分けて四つになります。
 ・出世主義、学歴偏重主義の世になりました。
 ・金権主義の時代がきた。
 ・享楽主義
・日本人が真面目さを持って国家というものに対して一所懸命になった時代は日露戦争ま
 で。ここから先は、その反動もあって、国家から利益を貪り取ろうという連中になって
 くるのですね。もう目ざすのはおのれの「成功」のみです。
・明治維新いらい長い間にわたって保たれてきた国家的目標に関する積極的かつ忍耐的な
 国民的合意が、日露戦争後に失われてしまった。そこからいっそう新しい国家目的を形
 成する必要がでてきた。そのための「愛国心」とか「大和魂」というスローガンであっ
 たかもしれません。
・日露戦争に勝までの、国際秩序への適応に努力し、世界の動きをよく考え、非常に慎重
 で用心深かった冷静な日本人が、勝ったということで、完全にいい気になってのぼせ上
 がってしまった。帝国ロシアからそっくり譲り受けた満州の権益というものが、日本を
 否でも応でも帝国主義に導いてゆく。守ることより拡張へと動いていく。
・一等国と肩肘張って威張っても、すべて欧米列強からの借りもの、自分たちが独創性を
 発揮してつくったものは何もない。それが日本の現状だ。

統帥権と日本人
・実は「統帥参考」という機密文書があるんです。そこには、軍の統帥権というのは絶対
 なものであって、だから議会だろうが政府だろうが、余計なことを言うな、というよう
 なことが書いてあります。
・これは、
 「平時、戦時をとわず、統帥権は三権(立法、行政、司法)から独立しつづけている存
 在だとしているのである。さらに言えば、国家をつぶそうがつぶすまいが、憲法下の国
 家に対して遠慮も何もする必要がない、といっているにひとしい。いわば無法の宣言で
 ある」
・「統帥参考」は、昭和七年に陸軍大臣・荒木貞夫中将、参謀本部第三部長・小畑敏四郎
 少将を中心とする皇道派メンバーが参謀本部作戦課長・鈴木率道中佐を主としたグルー
 プに書かせたものなんです。
・ところが皇道派の連中は、二・二六事件以後、統制派に敗れて全員飛ばされまして、も
 う中央にはいなくなってしまったし、小畑敏四郎も間もなく退役してしまいます。統制
 派が天下を取っている状況では「統帥参考」なんか誰も目をくれないんですよ。
・統帥権それ自体が悪いのか。それとも統帥権が独立しているということが悪いのか。ど
 うもその区別がハッキリしていない。もし統帥権そのものが悪いというんだったら、天
 皇が軍隊を指揮することが悪いんですから、これは明治憲法の全否定になります。また、
 統帥権を独立させたということが悪いならば、これは運営のしかたがまずいということ
 になる。統帥権そのものには罪はなくて、それを使い陸軍の官僚どもが悪い。エリート
 参謀たちが、諸悪の根源なんだというふうに考えれば、これは単なる軍閥否定論でしか
 ない。
・山県有朋は、西南戦争のときに、初動の動員の遅れで、非常に苦労した経験から、
 「軍隊の指揮権というものは、いちいち政府の許可を求めなくても動かせるように、も
 っと簡単なものにしたほうがいい」ということで、参謀局を改革して参謀本部をつくり
 ました。つまり組織を大きくして権威をもたせた。
・参謀本部長は、天皇のOKを得て、天皇がこれをしろと参謀本部長に命じたことについ
 ては、参謀本部長が陸軍大臣に伝え実行させる。いいかえれば、本部長が大臣をも顎で
 使えるという規約なんですよ。これをつきつめていくと、陸軍大臣を閣員の一人とする
 太政大臣、つまり総理大臣でさえも、軍令に関する限りは、天皇命令が出た場合の参謀
 本部長命令に従う、ということになる。
・この「統帥権」を独立させただけでは、実は昭和史を引っかき回した「魔法の杖」には
 ならないんです。あと二つ、大事な典範令が必要です。その一つが「帷幄上奏権」。も
 う一つが「軍部大臣現役武官制」。この三つを使い分けることによって、日本陸軍は、
 昭和史の真ん中にぐんぐん割って入ってくるんですね。それはもうあからさまに、「政
 治にかかわらず」の逆をゆき横暴さをもって、国家をあらぬ方向へ突っ走らせることに
 なりました。
・その「帷幄上奏権」とは何かということです。この「帷幄」というのは、簡単に言えば、
 単なる「幕」なんです。野外テント、大本営ということです。 
・明治十八年に内閣職権というものを制定しまして、そのなかで「ただし事の軍機にかか
 わり参謀本部長より直に上奏するものといえども、陸軍大臣はその事件を内閣総理大臣
 に報告すべし」とした。つまり軍令機関の長は直に天皇に上奏できる、そして承認を得
 ることがOKというふうに、明文化された。これが「帷幄上奏権」なんです。陸軍の参
 謀本部長海軍の軍令部長、その二人は総理大臣や軍部大臣と関係なしに直接、天皇に意
 見具申ができる。許可を求めることができる。
・「軍部大臣現役武官制」について簡単に説明すると、新しい内閣ができるとき、それが
 気に入れなければ、軍部から現役の将官を軍部大臣として推薦しなければ、内閣は成立
 しません。
・この軍部大臣現役武官制は不都合であるというので大正二年に一度廃止されます。それ
 が昭和十一年の広田弘毅内閣のとき復活する。二・二六事件後、いわゆる統制派が天下
 をとり、皇道派の連中をすべて追い払ったものの、予備役・後備役となった皇道派の真
 崎甚三郎大将や荒木貞夫大将がまたいつ復活してくるかもしれない。そんなことのない
 ように完全に息の根をとめたいという陸軍中央の強い要請により、広田内閣は無理矢理
 にそれをのまされたものとみてとれます。
・軍部大臣現役武官制の力の及ぼす影響はまことに大きかった。典型的なのは昭和十五年
 の米内光政内閣の崩壊です。そしてその後釜には陸軍の言うことをきく近衛文麿が用意
 されていたのです。 

日中戦争は戦前には「支那事変」あるいは「日支事変」とよばれていました。日中両国
 とも宣戦布告を行なわないままで戦闘が続けられていたから事変なのです。なぜ宣戦布
 告をしなかったのかというと、そこにはアメリカ中立法があったからです。日本も中国
 も宣戦布告をすれば、アメリカがこの中立法を発動することはわかっていた。とくに石
 油を全面的にアメリカに依存している日本にとっては、その禁輸は致命的なものとなり
 ます。それゆえ近衛内閣は中国に対して宣戦布告しないことを決定し、戦争ではなくあ
 くまで軍隊の単なる衝突すなわち「事変」ということにしたのです。
・この泥沼と言われる日中戦争に和平のチャンスはなかったか。実は、うまくいきそうだ
 った計画がはじめのころあったんですよ。盧溝橋事件から始まった日中戦争が、中国全
 土に拡大するちょっと前、駐中国ドイツ大使トラウトマンという人が間に入って、国民
 政府の蒋介石と日本政府の間を取り持った「トラウトマン工作」というものがあった。
・どどのつまりは、ヒトラーが、日本が対中国の戦いで戦力を消耗することは、日独両国
 の対ソ連戦略に不利になるし、ドイツの対中国貿易に打撃ともなると考え、日中戦争の
 仲裁にのりだしてきた。
・トラウトマン工作は、日中両国政府の最高指導部が戦争終結とその条件について、ある
 程度までたがいの意思を通じさせたことが確認できる唯一の和平工作であった。まさに
 戦争終結のための絶好のチャンスであった。
・そんな状況だったので、参謀本部は、とくに戦争指導班が中心の不拡大派は、このトラ
 ウトマン工作に非常に期待していたんです。
・ところがタイミングが悪いことには、話がかなり進んでいたころに南京が陥落したんで
 す。 
・元の案のままで蒋介石と交渉を続けようというのは米内光政海相古賀峯一軍令次長
 けで、杉山元陸相広田弘毅外相賀屋興宣蔵相末次信正内相は強硬論をつぎつぎに
 ぶち、条件をつりあげる。
・戦争指導班の参謀たちが、それならば伝家の宝刀なる「帷幄上奏権」を使おうというこ
 とを考えるんです。閣議の決定を待って近衛が天皇に報告に行くに違いない。その前に
 帷幄上奏権を使って、我々は反対であるということを大元帥陛下にはっきりと言ってお
 こうと。そうすれば、天皇陛下も近衛の上奏を受けてお考えになるに違いない・・・。
・しかし、首相官邸ではやっと閣議が終了し、かの有名な「国民政府を対手とせずという
 声明を採択するわけです。
・とにかく参謀総長の閑院宮の動きがノロノロして、支度に二時間もかかったため、間一
 髪のとことで近衛さんのほうが先でした。閑院宮が到着したときには、近衛さんの上奏
 が終了し天皇がすでに認可されたので、参謀本部の帷幄上奏も無効となってしまいまし
 た。
・先に間に合っていたら、平和を大事と考える天皇陛下は、もういっぺん考え直せと、近
 衛に言ったかもしれません。
・昭和十三年、日本帝国は「国民政府を対手とせず」という、例の近衛声明を発表しまし
 た。これ以後は、蒋介石の国民政府は政府として認めない、もう相手にしない、和平な
 んてしません、というものです。
・後になっての話ですが、あんな声明を出したから、それ以後まったく日中戦争和平の芽
 がなくなって泥沼の太平洋戦争に繋がっていったんじゃないか、ということを言われる
 と、近衛は、「後から直せばいいと思ってた」と言ったというんですよ。
・いずれにせよ、この近衛声明にもとづいて、日本は川越茂大使に帰朝命令を出し、中国
 も駐日大使に対して引き揚げ命令を発しました。日中両国の公式の外交関係はこれでプ
 ッツリと、完全に断絶してしまいました。つまり国交断絶となったことを意味します。
・戦争が終った昭和二十年十一月、陸海軍省が全部なくなるとき、斎藤隆夫さんが演説を
 ぶちまして、「今日の戦争の根本責任を負う者は、東條大将と近衛公爵、この二人であ
 ると私は思うのであります」とおっしゃいましたが、わたくしも同感です。これにもう
 一人、海軍の軍令部総長伏見宮殿下、と三人目をつけ加えておきたいのです。
・近衛さんの自殺したあと、朝日新聞に「日米交渉近衛公の手記」というのが連載されま
 した。
 「統帥権の問題は、政府には全然発言権なく」
 「政府と統帥部との両方を抑え得るものは、陛下ただ御一人である。しかるに陛下が消
 極的であらせられる事は、平時には結構であるが、和戦何れかというのが如き国家生死
 の関頭に立った場合には障碍が起り得る場合なしとしない」
 これが、近衛さんの統帥権問題に関する考え方だったんです。しかも、自分が積極的で
 あったことなど完全に忘れてしまっているようです。
・天皇陛下はこれを読んで、
 「近衛は自分にだけ都合のよいことを言っているね」
 と感想を洩らしたと言われています。
・結論的にいって、統帥権が悪いんじゃない、とわたくしは思います。統帥権というもの
 をふり回したやつらに罪はあるんです。
・とくに日本人は言葉が作った流れに熱狂しやすいようなところがあります。だからこそ、
 待てよ、と思って欲しい。雰囲気に流されてないか、と考えることが本当に大事なこと
 です。 

八紘一宇と日本人
・昭和十年、岡田啓介内閣は「国体明徴」という言葉を発表しました。
・要するにこの国は天皇陛下が治めるもの、天皇がすべてを統治する以外の考え方は間違
 っている、それは神代の昔から決まっていることである、ということを徹底的に国家の
 大方針として明らかにしたのが「国体明徴」なんです。
・「八紘一宇」は、昭和十五年から盛んに言われるようになる。
・八紘は四方と四隅、つまり世界ということで、一宇は一つの家、世界を一つの国とする
 ということで、そのいちばんの家長は、わが日本国だというわけです。
・実は大正時代、この言葉を見事に使って、日本の国がいかにあるべきかを提示する人が
 出てきていました。田中智学さんという、在家宗教家です。「国柱会」という日蓮宗の
 宗教団体を作った人で、信者を集めて日蓮宗の普及に努めていました。
・田中智学の影響を受けた多くの人の中で、近代日本により大きな影響を与えた二人の人
 間が出てきました。石原莞爾宮沢賢治です。
・石原莞爾は大正八年、宮沢賢治が大正九年に国柱会に入っていますから、二人ともかな
 り早い段階から田中智学に師事しました。
・一神教的な哲学を戦争論のほうにもっていって、それを合致させちゃった石原莞爾は、
 天才なのか狂人なのか。いずれにせよ、彼が「八紘一宇」の精神を国柱会で身につけ考
 えに考えて到達した戦略が、満州事変を起こす原動力となりました。それが見事に成功
 し満州国を建てたわけです。
・宮沢賢治の有名な「雨ニモマケズ風ニモマケズ」は、日蓮宗の、一つの理想に向かって、
 現実を変えていきたいという大きな働きの根本精神なんです。
・「世界全体が幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」という、宮沢賢治の基本
 の姿勢といってもいいテーゼがありますが、それはまさに田中智学の言う「八紘一宇」
 を賢治流に言い換えたものだと思います。
・いずれにしろ、軍事のほうで石原莞爾、文学・芸術のほうで宮沢賢治という、二人の偉
 大なる人物が、「八紘一宇」を最初に唱えた田中智学の信奉者であったということは、
 「八紘一宇」というスローガンが、のちの日本人の精神に与えた影響というものはバカ
 にできないほど大きかったことがすでに予想されます。
・昭和十二年五月に「国体の本義」という妙ちくりんな本が出てきました。国体明徴運動、
 天皇機関説撲滅運動として出版されたものです。日本の国はいかにすばらしいか、世界
 に冠たる国家であるか、万世一系の天皇家はいかに尊いものであるかということを、国
 民に知らせるためにつくられたもので、文部省編とあるだけで、著者名はないんです。
・これが昭和における「八紘一宇」の精神の新しい解釈による最初の出現なんですね。こ
 の本を書いたのは、くわしく調べてみた結果、国語学者の山田孝雄らしいとわかりまし
 たが。
・こうして天皇は現人神であり、われわれ日本民族は世界に冠たる大民族であると、そう
 いうことになった。正確にいえば、そう信じることになりました。
・このころの日本は貧しかったからね。しかも戦争の物資や資源はどんどん失われている。
 しっかりしなきゃいけないという思いは一人ひとりに強くあるわけです。いつの世の中
 にも、国家の理想にせよ、個人の理想にせよ、理想というものに対して突き進んでいく
 ことに対して、日本の男子たりものは満腔の敬意を表すんですよ。頑張ろうと思うんで
 す。かりにその理想が蜃気楼のようなものであろうとも。
・日本人が生活の貧困や労働の過酷といったさまざまな不満に耐えていたのは、言いかえ
 れば大爆発を抑えていたのは、勝てる戦争なんだ、正義の戦争(聖戦)だからという民
 衆の戦争観によって辛うじてであったと思います。
 
・若槻礼次郎さんが、
 「日米交渉が断絶すると言っているが、交渉が断絶するなら、ただちに戦うつもりなの
 か、すぐ戦争ということなのか」
 と言うと、東條首相兼陸軍大臣が、
 「自存自衛と八紘一宇、すなわち東亜諸民族をしておのおのその所を得しむる新秩序の
 建設を妨害せられては、日本としても立たざるを得ない。今日まで外交交渉打開につと
 め大いに自重してきたが、しかしいまや武力の発動しても堂々たる正義の行動たるに恥
 じない」
 と言います。要するに東條は、「自存自衛」と「八紘一宇」が戦争目的であると言った
 わけです。
・そうすると若槻さんが、
 「理論より現実に則してやることが必要である。したがって日本の面目を損しても妥結
 せねばならないときには妥結する必要があるのではないか。不面目でも無謀な冒険はす
 べきではない」
 と言いますと、東條さんは、
 「理想を追うて現実を離るるようなことはせぬ。しかし、何事も理想をもつことは必要
 である」
 それで最後に若槻さんが、
 「理想のために国を滅ぼしてはならぬ」
 と言うんですが、政府も軍部も、そんなことは知ったこっちゃないというので、対米戦
 争を始めました。そして、この国を滅ぼしてしまいました。
・日中戦争に大反対していた石原莞爾は、その日中戦争がはじまったとき参謀本部で偉く
 なっているんですが、戦線の拡大に反対するものだから、じゃまになって満州国へ飛ば
 されます。行ってみたら、満州という国は自分の描いていた「王道楽土」でもないし、
 「五族協和」でもないというんで絶望的になるんですね。満州へ移っていった日本人は
 まるで王侯貴族のようで、征服者そのものです。理想と現実はまったく違う。自分の世
 界最終戦争という、すなわち「法華経」の精神と、万世一系の天皇の建国の精神の合致、
 これがまことにはかないもの空しいことであるということを悟ったんですね。

鬼畜米英と日本人
・「特高月報」という貴重な資料があります。これは当時の特別高等警察が各地の流言蜚
 語あるいは落書きを集めて、毎月、毎月、国民の戦意というものを調べあげた部内極秘
 の文書です。昭和十六年の戦争がはじまってからずっと、日本人の戦意というものを調
 査しているんです。が、これを読みますと当時の庶民が時勢や戦局を実はどんなふうに
 思っていたのか、まざまざと伝わってくる。
 昭和十九年の部分のいくつかを紹介します。
 「戦争に負けたら敵が上陸して来て日本人を皆殺しにすると宣伝しているが、それは戦
 争を続けるために運部や財閥が国民を騙して言うことで、自分は米英がそのような惨虐
 なことをするとは信じられん」(岡山県の工場の壁に書かれていたもの)
 「現在の徴用は奴隷にひとしい。奴隷扱いにされるなら戦争は勝っても負けても同じだ。
 早く戦争が終って日本人の奴隷扱いを受けるより米国人の奴隷になった方がよほどよい」
 (東京の田無にあった中島航空田無工場に書かれていたもの)
 「吾等は日本の国が目茶苦茶に敗れて米国の属国になることを一分間も早く、神様にお
 祈りをしている」(広島県)
 「戦争はいやだ。日本は必ず負ける。日本は勝手な国いやな国。日本全員米英の政治下
 領土になれ」(東京のある公衆便所に書かれたもの)

・戦後、「東京裁判」で石原莞爾が尋問された時、アメリカ人の検事にこう言ったんです。
 「もし日本の近代史を全部裁く、その責任者を追求するというなら、まずペリーを連
 れてくるのが先決だ」と。
 つまり近代日本は、アメリカのペリー提督が黒船四隻をもって浦賀沖にやってきて強引
 に開国を迫った、あそこから始まるわけですから、責任はペリーにもあるというわけ。

・第一次大戦が始まったとき、ドイツはアジアにもたくさんの権益を持っていて、軍隊も
 軍艦も来ていますから、そのアジアの方面にいるドイツ軍を日本が叩きつぶしてくれ、
 とイギリスは言うに違いないと思って待っていた。ところがイギリスは日本に参戦を求
 めようとはしなかった。それならば、ということで、日本は自ら宣戦布告をしました。
・日本は、青島をはじめドイツ領の南洋諸島つまりサイパン、グアム、ポナベ、トラック、
 パラオなどの島々の権益をそっくりもらうチャンスを逃してはならぬとばかり、参戦し
 たというわけです・しかも、開戦翌年に、日本は当時の満州を支配していた中華民国に
 対して強硬なる「二十一か条の要求」を出した。
・大正八年(1919)にパリで講和会議が開かれたとき、アメリカばかりではなくて、
 どうも戦争の分け前の奪取に熱心な日本の態度は、世界各国の顰蹙を買ったらしいです。
 
ワシントン軍縮会議において、利権の放棄、太平洋の島々の要塞化や、根拠地の拡張を
 制限するということも決められた。つまり、帝国主義をやめようというアメリカと列強
 の提案によって、日本は軍備拡張を封じられ、南進を封じられた。これを「九カ国条約」
 とよんでいます。
・このときに実はもっと大事なことを決めているんです。日英同盟の消滅です。もし日英
 同盟がそのまま結ばれていると、大西洋方面でイギリスと何か起きたときに、太平洋で
 は日本が出てくるわけですよ。これはアメリカにとってはとんでもなく都合の悪いこと
 なので、早いところ手を切らせる必要があった。日英同盟廃棄というアメリカの提案に、
 イギリスは乗っかった。
・日英同盟破棄後の日本海軍は、アメリカとドイツへ留学生を送り出すようになりました。
 なかでも秀才はドイツに行きました。
・アメリカへ留学した人もいるのに、なぜアメリカよりドイツへ傾斜していったのか?
 ドイツ人は規律正しくて愛国心が強くて、堅実で勤勉で几帳面で律義で、日本人とよく
 似ている、なんてことを言う。
・しかし、ほんとうは、ドイツ留学した日本人の三十代の若手エリート士官たちは、ヒト
 ラー・ドイツの宣伝戦にしてやられたんだと。それは何かというと「女」なんだと・・・
 次から次へとドイツ人の女を抱かせられて、サービスを徹底的に受けて、骨抜きにされ
 て「ドイツはいい」なんて言いながら帰ってくるんだと。ハニートラップ作戦です。
 
・戦後日本のあり方を決めたワンマン首相の吉田茂さんは、「アングロサクソンとは仲良
 くしなければならないんだよ」という考え。いわゆる吉田ドクトリンの基本になってい
 るわけですね。ところが、最近は吉田ドクトリンを否定する方向の考え方もかなり出は
 じめている。

戦艦大和と日本人
・昭和五年、ロンドン海軍軍縮会議が行なわれました。主力艦だけでなく巡洋艦と駆逐艦
 と潜水艦、補助艦艇のほうの軍縮を決める会議です。この前の年にウォール街の暴落が
 ありまして、世界の経済が大恐慌をきたしています。列強ともに、建艦競争で国力を減
 らすことはできないという危急の要請のもとに開かれました。しかし、大揉めに揉めま
 す。
・しかしながら国内状況はもとより、世界の趨勢と、不景気もありますから、当時の浜口
 雄幸
内閣はこれに調印します。ワシントン条約は加藤友三郎の不屈の国防論によって、
 ロンドン条約は政府の、不景気だからどうしようもないという決意によって調印したこ
 とになります。
・ところが、条約反対派のトップにはあの東郷平八郎元帥がいたんですね。この超重鎮が
 出てきまして、
 「これではわれわれが明治以来、天皇陛下に毎年差し上げている作戦計画書は全然無効
 ではないか。われわれ海軍は天皇陛下にウソをついていることになる」
 なんて余計なことを言い出して、やがて条約賛成派の人たちが次から次へと首を切られ
 てしまうんです。
・海軍が真っ二つに割れたその裏側には、民政党と政友会、二大政党の権力争いがありま
 した。野党の政友会の犬養毅とか、鳩山一郎とか、こういう雄弁家たちが政権奪取のた
 めに議会で統帥権干犯をガンガン叫んで民政党の浜口内閣を揺さぶるわけです。この時
 から、政党は政権をとるために軍部と結託して与党を揺さぶることを覚えるんですよ。
 結果として軍部の政治進出を許すことになり、昭和史をおかしくした一因となりました。
 
・昭和十六年の暮れ、日米は開戦しました。山本五十六以下、何人もの人が対米英戦争に
 反対していた中、軍令部と海軍省の秀才参謀たちは終始、開戦を主張しつづけてきたん
 です。
・軍部と政府の大本営政府連絡会議で、永野修身軍令部総長、
 「いま!ただちに。戦機はあとに来ない」
 そう断言した。
・艦艇生産力においてはアメリカは日本の4・5倍、飛行機のそれは6倍で、アメリカは
 どんどんと建艦していましたからこのままずるずると外交交渉で引きずられて昭和十八
 年になると、対米五割海軍にまで落ち込んでしまうことが予想されていました。開戦を
 延ばせば延ばすほど、日本は不利になる・・・だから「いま!ただちに」ということな
 んです。
・ところが開戦してみますと・・・時代は完全に飛行機が主役になっておりました。せっ
 かくつくった巨大戦艦の出番なんかなかった。飛行機で戦艦を撃沈できる時代になって
 いたんです。
・連合艦隊に正式に編入した「大和」は、連合艦隊の旗艦となります。しかし、残念なが
 ら、貴重な油をめちゃくちゃ食う上に、ふだんはせんぜい二十ノットぐらいでしか走れ
 ない。全速で走り続けたらたちまち油がなくなってしまう。実戦では使い物にならない
 んです。スピード化した海空戦には不向きもいいところでした。
ミッドウェー海戦マリアナ沖海戦には出撃しましたが、大和の巨砲が火を噴くチャン
 スはありませんでした。まったく成果をあげることなく、大和はむなしく戦場から引き
 上げます。 
レイテ沖海戦では、大和、武蔵が出て行って、この時は大和も武蔵も四十六センチ砲を
 撃ったんです。大和の弾丸が頭上を通過したときは、急行列車が頭の上をガーッと通っ
 ていくような音がしてものすごい水柱が立った。それはそれはものすごい迫力だったそ
 うです。でも、当たらなかった。
・武蔵はこのレイテ沖海戦で、米軍機の集中攻撃を受けて沈んでしまいました。
・海軍の軍人達は、戦局がかなり厳しくなってきてもなお、大和と武蔵がある間は負けな
 いと信じていたらしい。それはもう理屈じゃなく、信仰です。大きな心の支えだった。
 武蔵がレイテ沖海戦で沈没した時、日本海軍は事実上、精神的にも破滅したんですね。
・巨大戦艦の使い道はもうないんだけれども、このまま降伏して、アメリカに戦利品とし
 てとられて、ハワイ沖に浮かぶ戦勝記念艦として見世物になった、なんていうことにで
 もなれば、耐え難い屈辱以外のなにものでもない。さりとて水上部隊最後の決戦として、
 航空作戦の成否にかかわらず突入戦を強行すれば、目的地到達前に壊滅するのはほとん
 ど決定的です。
・連合艦隊司令部に神重徳という作戦参謀がいまして、敵がどんなに強かろうが、断乎と
 して殴り込んでいって決戦するのが、海軍の本領なんだ、だから大和は沖縄戦で最期を
 飾るべきだと強く主張するんです。大激論があったんですが、結局彼が強引に軍令部総
 長や連合艦隊司令長官を説き伏せました。
・大和を中心とする第二艦隊の司令長官は伊藤整一中将です。伊藤長官はなかなか納得さ
 れなかった。当然、このような作戦などといえない無謀無策な挙を納得されるはずがな
 かった。最後に、一億総特攻のさきがけになってもらいたいのだという説明で、そうか、
 それならわかった、と即座に納得された。
・このときの連合艦隊司令長官の第二艦隊に対する命令は、
 「日本海海戦大勝利の海軍の栄光を、見敵必戦の伝統を、歴史のなかに残すために、突
 入せよ」 
  ということだった。
・大和と一緒に「自殺行」出撃していく軽巡洋艦一隻、駆逐艦八隻の艦長たちはみんな、
 前の晩にものすごく酒を飲んで、連合艦隊司令部を罵倒したそうですね。太平洋戦争始
 まって以来戦い抜いてきた勇猛なる連中でした。この人たちが伝統と栄光のために、つ
 まり海軍の名誉を守るために、死を覚悟して出撃していったわけです。
・「大和」型四隻という巨大プロジェクトがもう始まっていたから、軌道修正できなかっ
 たということもあるのかもしれません。「決戦兵力の主体は戦艦である」という牢固た
 る戦術論が、どっかと中心に腰をすえていたのです。
・もちろん軍の中には、戦争の形が変わることを見越した人はたくさんいたんです。戦艦
 の時代は第一次大戦までで終わりになって、次の戦争は飛行機の戦争になる、むしろ航
 空母艦をそろえた方がいい、航空部隊を充実させた方がいい、戦艦一隻つくる戦費で飛
 行機なら何千機もつくれる、とね。あるいは潜水艦を山ほどもつくり、乗組員を養成し
 たほうがいい、と。

特攻隊と日本人
・自分の乗った航空機あるいは魚雷ごと突入して敵艦を撃沈する。これは世界戦史の中で
 それまで見たことのない、常識はずれのものでした。非情このうえない、非人間的な作
 戦でした。ところが戦争末期の日本はこれを実行し、しかも一回だけでなく延々とやり
 続けました。
・「必ず死ぬ」ことが明白な作戦の命令は上のものがしてはならない、というのが世界的
 な軍事常識なんです。それなのになぜこんな破天荒なことを考えるのか。日本人は何を
 やるかわからない。アメリカ軍はとにかく驚愕したそうです。
・沖縄の戦いが始まったときには、毎日のように陸海の特攻隊が敵艦に突っ込んでいまし
 た。当時の新聞を見ればわかりますが、戦果が上がった、上がった、と大々的に報道し
 ています。その華々しさ、命を賭しての攻撃という美談に「後に続け」とばかり国民の
 士気は高揚していました。
・戦後になって、特攻隊に関するさまざまな事実が知らさせるようになりました。十八ぐ
 らいから二十二、三歳という特攻隊員の若さに驚くとともに、自ら志願して戦地に赴い
 たとされた、その国を純粋に想う気持ちと、事実の非情さ残酷さに、少なくとも戦時下
 日本の運命について考えた人たちはみな、粛然たる思いにかられました。
・一方、特攻隊が作戦として実施されたということに対しては、本当に衝撃を受けたんで
 す。 
・戦後になって、特攻作戦はあれは無責任極まりないことで、若者たちは犬死させられた
 んだ、というふうに逆に否定的な風潮も生まれました。
・9.11の時に、ビルに突っ込んだあの二機の民間機も、外国では「カミカゼ」だと言
 われ、アラブの「自爆テロ」は日本の特攻を引き継いでいる、そういう報道もありまし
 たね。しかし、中身はまったく違うんです。
・日本の特別攻撃隊は、組織で命令でやったというところに悲劇がある。しかもそれは一
 回かぎりの完全消耗なのです。機はもとより人間の命も。そうした人命無視の攻撃を行
 なってどれだけの成果があるのか、だれも確信のもてるものはない。絶望の戦法とわか
 っていながら、ペイパーでの上ではこれこそが勝利への唯一無二の戦法のように出撃機
 数、日時、攻撃地点、目標などが細かく計画される。もうほかに反撃の手段がないから
 許されるが如くに。それが特攻作戦でした。それはつまり国の強制だったということな
 のか。
 
・明治新政府のつくった軍隊というのは、その戦術の根本理念は、すべてプロシャに学ん
 だ火力重点主義でした。西南戦争で、外国の新兵器を残らず、弾も山ほど買い集めで、
 鉄砲の弾を雨のように撃つことによって、精鋭の薩摩軍武士団の刀に対抗したわけです
 ね。当然、日露戦争もこの火力重点の戦術で臨みます。
・ですから日露戦争前、一カ月に一万八百発の砲銃弾をつくり、いよいよ開戦が近くなっ
 た二カ月前からは二十四時間稼働に切り換えて、一カ月に三万数千発を製造しました。
 当時の日本の国力からすれば、それこそよくぞこんなにつくったと自画自賛したくなる
 ほどの量で、これでじゅうぶん勝てると、自信満々だったと思います。
・ところが開戦すると、南山の戦いという緒戦だけで、三万発以上使ってしまったんです
 よ。開戦前に一生懸命つくった一カ月分の弾が、なんとたった一日でふっ飛んじゃった。
 戦争というのはそのぐらい莫大に消費するものだということが、初めてわかった日本政
 府も軍中央部も愕然としたんです。
・乃木さんがやった旅順攻略戦も、ドイツ式に本来は弾をバンバンぶち込んで敵の陣地を
 壊し、そこへ歩兵がワーッと攻めるはずでした。しかし、早い段階で弾を消耗してしま
 ったので、いきなり歩兵が突撃するしかないんですよ。白襷隊といわれた決死隊が、ワ
 ーッと突っ込んでいって、全滅する。そんなことを繰り返すわけです。
・明治三十八年、日露戦争の真っ最中に作られた、日本独自の口径六ミリの三八式歩兵銃
 というものがあります。銃の先にさらに剣を付けて、全部で百七十センチの長さになる
 槍みたいな銃。これを日本兵はかついで突撃しました。接近戦で、半分決死の覚悟で戦
 うんだという、つまり「決死隊」の考え方がここにあったんです。
・「大勝利」という結果を得たものの、日本にとって日露戦争の現実というのは戦争前に
 考えていたより酷いものでした。とにかく弾がないことに苦しんで苦しんで、最後の奉
 天の会戦が終った頃には弾も国力も底をついていたんです。あらためて国力のなさを指
 導者は痛感したと思います。
・白兵とは、白い軍隊。白は刀、つまり銃剣突撃ということです。精神力と白兵突撃。こ
 の日本とっておきの戦術をもってすれば勝てるんだという大戦理が、日露戦争の勝利に
 よって出来上がってしまった。
・陸軍は、白兵主義の象徴とも言える三八式歩兵銃を、その後約四十年間に一千万挺生産
 し、弾丸も山ほどつくりました。
・驚くべきことに、日本はこの明治三十八年式の銃で、日中戦争はおろか、太平洋戦争ま
 で戦ったんです。
・もちろん、四十年間も同じ銃で戦うなんて姑息なことをほかの国はしません。中国軍で
 も弾がよく飛ぶドイツ製のモーゼル銃でしたし、強いアメリカ軍は機関銃、自動小銃で
 すよ。待ち伏せて、日本軍が突撃してくるのを待ってダダダダダッと。しかし日本軍は、
 口径が小さくて弾の飛ばない三八式歩兵銃で頑張るしかない。三発射つと時間のかかる
 新しい弾込めをしなければならない。つくる能力がなかったわけではないのに、なぜ日
 本は新しい銃をつくらず最後まで三八式歩兵銃で戦ったのか。答えは簡単です。明治こ
 のかた三八式歩兵銃は四十年間に一千万挺もつくった。弾もくさるほどつくっちゃった
 から、それを使い切るまでは、という貧乏陸軍らしい馬鹿な理由なんです。
・白兵突撃が日本特有の伝統的な戦い方のように言う人もいましたが、日本の古代からの
 戦史にそんなものはありません。鉄砲伝来以後の戦国時代は、やはり火力。銃が猛威を
 ふるった長篠の合戦をみるまでもなく、織田信長の天下布武は銃を主力にした新戦術に
 よるものでした。
・山本五十六の連合艦隊司令部の先任参謀に「黒島亀人」という人がいました。真珠湾攻
 撃とかミッドウェー作戦とかその他はみなこの人が中心になって考え出したことなんで
 す。しかしながらこの人は「仙人参謀」とみんなが悪口を言うくらい変わり者なんです
 よ。山本五十六に言わせると、常識的な考え方じゃアメリカと戦争しても勝てないから、
 常識を外れたような奇想の持ち主を採用したようがいいということだったらしいですね。
・その黒島の発案で、昭和十九年四月に、「作戦上急速実現を要する兵力」という文書が
 作られていました。 
 ・一番目:飛行機の増翼(航続距離倍加)
 ・二番目:体当たり戦闘機           →神風特別攻撃隊
 ・三番目:小型で飛行機のように速い潜水艦
 ・四番目:局地防備用可潜艇
 ・五番目:装甲爆破艇             →震洋
 ・六番目:自走大爆雷
 ・七番目:大威力魚雷             →人間魚雷・回天
・天皇の侍従武官だった城英一郎大佐が、「飛行機の肉弾攻撃により敵艦船を撃滅する特
 殊航空部隊」をつくったほうがいい、自分をその指揮官に任命されたい、と十八年秋ご
 ろからしきりに海軍省に言ってくる。彼は天皇の苦悩の目の前で見ていたわけですから、
 なんとかしたいという気持ちが強かったんでしょう。
・城さんは、この時の航空本部総務部長・大西瀧次郎中将に「この計画の実現にお力添え
 を」意見具申をしているんです。
・戦後、大西中将が特攻隊の発案者だとされ、「特攻の父」としてすっかり有名になりま
 した。すべてが彼の責任のようにも言われていますが、かならずしもそうではないこと
 が明らかなんですね。
・昭和十九年六月に日本は遂にどうにもならない状況になったんです。サイパン島へのア
 メリカ軍上陸です。そこから敵の爆撃機B29が日本本土に来るということ。日本本土
 への直接的な爆撃が避けえない戦勢となった。要するに日本はもう勝利はない、この戦
 争は見込みなしということが明瞭になる。
・参謀本部も軍令部も、もう戦争の行方は絶望的だと考えていました。本土空襲を覚悟し
 なきゃいけない。こうなれば字義どおり国家総力戦で、戦地も銃後もない。あらゆると
 ころを戦場とみなして、日本国民は産後の一兵まで戦う・・・。そういう見通しでいた
 んですが、昭和天皇はどうしてもマリアナ諸島を失うことに納得しない。なんとかなら
 ないか、奪還は完全に不可能なのかと、今度は元帥を集めて意見を聞きます。
・が、結局マリアナ諸島を失うのは避けられません、と。ではやむを得ないのか、残念だ
 と言って、天皇は引っ込んでしまいました。
・その後の懇談に入ったとき、伏見宮海軍元帥がこう言ったんです。
 「戦勢がこのように悪化しては、陸海軍とも、なにか特殊な兵器を考え、これを用いて
 戦争をしなければならぬ。この対策を急がねばならない。当局は当然のこと研究してい
 ることと思うが、航空機、軍艦、小舟艇とも特殊のものを考案し、迅速に使用すること
 を要す」
 この伏見宮の言葉が大きかった。
・大西さんは及川古志郎という軍令部総長に、いざというときには飛行機に爆弾を積ませ
 て敵空母に体当たりをする決意であると言った。及川さんがそれに対して「命令で体当
 たりをやることはないように」と答えたと。
・大西さんの提案にはじまって、特攻隊が編成される一週間前の電文に、早くも神風隊と
 いう名前が出てる。しかも攻撃隊名の敷島隊、朝日隊という名前まで。ということは、
 もう軍令部で筋書きができたいたということではないですか。作戦として体当たりの特
 別攻撃をやるとの。そうとしか思えない。公式には、特攻作戦はあくまで大西さんが勝
 手に考えたのであり、軍令部は知らなかったということになっているんですが、それは
 まったくのいかさまだということがよくわかる話ではないですかね。
・司令長官が命令したのではなく、下から盛り上がる力によって神風特別攻撃隊は編成さ
 れたんであると。これがね、実に、何というか。志願という形をとるために組織という
 ものがいかに恐ろしいことをやるものか。
・特攻隊が突入して大戦果を上げ、報告に来た及川軍令部総長に天皇がこう言ったという
 んです。 
 「そこまでせねばならなかったのか。しかし、よくやった」
・「よくやった」これが全軍に伝わるんです。天皇は「戦争をやめろ」とは言えなかった
 んですねえ。 
・昭和二十年一月、最高戦争指導会議がひらかれ、このとき「全軍特攻」が正式に決定さ
 れた。もう志願も強制もへちまもない。日本陸海軍のいちばん骨幹の作戦となったわけ
 です。一億総特攻のときが来たのです。
・そして、沖縄攻防戦がはじまると、もう志願にして志願にあらず、諾否を許さない非情
 の作戦命令として、軍部は一丸となって特攻の組織化を急いだのです。
・航空機による特攻の数字があります。陸海軍合わせて2,483機、命中機は244機、
 至近弾、つまりそばに突っ込んだのは160。したがって奏功率16.5パーセント。
 戦死した人、海軍は2,535人、陸軍は1,844人。
・回天特別攻撃隊で亡くなった方が80人。
桜花(ロケット爆弾)で亡くなったのが56人。命中ゼロ。
・まぜそこに人間が最後までくっついてなければならなかったかというと、ただ方向を定
 めるためだけ。それだけなんです。成功するとは思えない兵器なんですよ。日本人の特
 技だなんて、とんでもない。技術とお金がない分を全部人間の命で贖ったわけです。ほ
 かに手段がないから精神主義に頼る。若者たちを犠牲にする。
・口では必勝の信念を唱えながら、この段階では、日本の勝利を信じている職業軍人は一
 人もいなかった。ただ一勝を博してから、和平に入るという、戦略の仮面をかぶった面
 子の意識に動かされていただけであった。しかも悠久の大義の美名の下に、若者に無益
 な死を強いたところに、神風特攻の最も醜悪な部分があると思われる。想像を絶する精
 神的苦痛と動揺を乗り越えて目標に達した人間が、われわれの中にいたのである。これ
 は当時の指導者の愚劣と腐敗とはなんの関係もないことである。

原子爆弾と日本人
・アメリカは自分たちの手でこの世界に、地球上に、「核のある世界」を開いたわけです。
 戦争のためだったとはいえ、地球上に核兵器という自分でつくっておきながら制御でき
 ないむちゃくちゃなものを誕生させてしまった。人類絶滅の許すべからざる究極の兵器
 をつくってしまった。だから、その幕を自分たちの手で引く責任がある。
・核分裂の実験成功を世界で初めてやってのけたのが、1938年1月、ドイツの科学者
 のオットー・ハーンフリッツ・シュトラスマン。分裂成功の共同研究論文が発表され
 て、世界中の科学者が「う〜ん」と唸ったんです。ヨーロッパで第二次世界大戦が開戦
 する前年のことのきは、まだ平和な世の中でした。ですから論文は世界中の科学者が知
 ることができたんです。
・これによって一番ショックを受けたのはアメリカの科学者なんですね。当時アメリカに
 はドイツから亡命してきた世界的科学者がたくさんいて、彼らがまず考えたのが、これ
 はヒトラー・ドイツがもう手をつけているのではないだろか、ということでした。原子
 力を爆弾にするという研究もすでに始めているかもしれない、と心配したんです。
・日本で、オットー・ハーンとフリッツ・シュトラスマンの論文を最初に目をつけたのは、
 日本陸軍の航空技術研究所の安田武雄という中将でした。軍人というよりは科学者です。
 この安田さんの命をうけて、航空本部付きの鈴木辰三郎中佐が東京大学の嵯峨根遼吉
 士のところへ行きまして、「これが爆弾になるという可能性があるでしょうか」という
 ようなことを聞きました。嵯峨根博士は、
 「当分はできないと思います。しかし、これは人類の将来のためには非常に役立つであ
 ろうし、上手に手を加えてつくることによって爆弾になり得る可能性もある」
・この鈴木中佐の報告を受けて安田さんが早速、理化学研究所の大河内正敏博士のところ
 へ行って、原子爆弾製造に関する研究を提案したそうです。
・大河内さんは理研の中の仁科研究室の仁科芳雄博士に「ひとつ研究してみてくれないか」
 といったそうです。 
・ちなみに大河内正敏というのは、いまは亡き美人女優の河内桃子のお祖父さんなんです。

・ドイツはアルバート・シュペールという軍需大臣が我々も真剣に取り組まなきゃいけな
 い、と本気になっておりました。物理学者のハイゼンベルクが「爆弾製造にはもはや理
 論的な障害はなくなっている。生産技術的には今後必要な援助が与えられるとして、遅
 くとも二年後には可能であろう」という答えを出したので、シュペールはヒトラーに進
 言しました。「核分裂についてアメリカは優位に立っているようだ」「我々も原子爆弾
 を製造する必要がある」と。
・しかしながら、ヒトラーは「科学の基礎研究に全く無理解な人間である」「アメリカの
 抜く難い偏見を持っている人間である」、さらには「アメリカという国は、ユダヤの支
 配を受けている、ろくでもない国だ」「原子物理学はユダヤ的物理学だ」というふうに
 頭から思い込んでいるヒトラーは、アメリカが原子爆弾の研究については優位に立って
 いる、なんていうことを全然認めないんです。だから、シュペールがいくら言っても言
 うことを聞かない。
・結局ヒトラーは、シュペールの必死の説得を拒否して、「原子爆弾はやるに及ばず」と
 結論を出しました。
・ヒトラーは、二年後に実現可能であろうなんていう「明日の兵器」よりも今日の兵器が
 必要である、と。今日の兵器は何かといったら、後のV−1号、V−2号と言われたロ
 ケット弾ですね。

・仁科研究室まで届いた原子力研究の指示は、仁科さんの机の引出しの中のままでした。
・ところが、陸軍がじっとしている間に、今度は海軍がそれと関係なく「これは日本も研
 究したほうがいいんじゃないか」ということで動きだしていたのです。1942年春、
 目黒の海軍技術研究所が中心になって、科学者、軍人が「原子核物理応用の研究」とい
 う委員会をつくります。(略称:B研究)
・海軍のB研究委員会はずっと会議を続けておりました。そして昭和十八年三月初旬に、
 「今の戦争では原子爆弾の製造は実現不可能である。原子力開発は明日の問題である。
 今日の問題ではない。したがって、これ以上、会議を続けていても無意味である」とい
 うことで委員会を解散いたします。海軍はこれでひとまず終わりです。
・一方の陸軍のほうは仁科研究所の竹内柾さんを中心に、若い学者が頑張っておりました。
 そして報告書を陸軍に提出します。そこには「技術的に原爆の可能性を検討した結果、
 製造は可能と考えられます」と記されていましたから、陸軍はこれに飛びつきました。
 早急に整備をすることときめ、これを「二号研究」と名づけます。
・ちょうどこの頃でした。貴族院の議場で田中館愛橘博士が、演説をぶったんです。
 「何かものすごい新しい兵器が生まれつつある。マッチ箱大ぐらいの爆弾で軍艦一隻を
 沈めることができる。そういう強力な爆弾が今つくられつつあるのである」
 
・1944年9月に、ルーズベルト大統領チャーチル英首相がケベックというところで
 会談し、米英原子力協定の覚書にひそかに調印しているのです。これはまごうことなき
 原文が残されています。そこにはこう書かれています。
 「原爆が完成すれば、慎重に考慮したうえで、これを日本に使用するものとす。日本が
 降伏するまで、われわれは原爆攻撃を続行する旨を警告することになろう」
・1945年4月、壮大な計画を牽引してきたルーズベルト大統領が急死しました。大統
 領亡きあと副大統領からそのまま昇格して大統領になったトルーマンは、国家的規模で
 原爆をつくっている、などという事実をしれまでまったく知らなかった。副大統領だっ
 たのに知らないんですから、本当に原爆製造は極秘で進んでいた。アメリカという国は
 そういうところがすごいんですね。

・ルーズベルト大統領が亡くなった四月の晩、東京は夜間の焼夷弾による絨毯爆撃を受け
 ました。そして理化学研究所も焼夷弾爆撃を受けました。研究所の大部分の建物や研究
 室は無残にも焼け落ちてしまいました。
・ところがここにきて、海軍が最後の努力をしているんですね。やはり諦めきれない、せ
 めてもう一回だけ、という感じだったんだと思います。
・今度は京都大学理学部の荒勝文策研究室へ、海軍から原子爆弾の話が持ち込まれました。
 そこで荒勝さんは同じ理学部の湯川秀樹研究室にも話を分けまして、「では、一緒にや
 ろう」ということになり、原子爆弾の研究を始めたんです。これを「F研究」と呼んだ
 そうです。
 
・ウラニウム235爆弾が二発、プルトニウム爆弾が一発、マンハッタン計画の当初から
 の予定どおり製造されました。アメリカは、この三発できたうちの一発を、まず実験し
 ました。昭和二十年七月、ニューメキシコ州アラモゴードでの人類初の原子爆弾の爆発
 の日です。
・製造に協力した科学者たちのなかには猛反対している人も多くいたんです。とにかく生
 み出したまではよかったけど、この大爆発を見て、実際に使用するべきではない、と思
 った人がかなりいた。軍人のなかにもいました。
・ところが、原爆投下の命令書に最終的にサインした人たち、トルーマンも、スチムソン
 も、マーシャルも、アーノルドも、スパッツ、そしてルメイも、誰もかれも、このアラ
 モゴードにはいなかったんです。実際にその爆発を見ていないんです。すさまじさを見
 ていない。
・だから、原爆がどのぐらいケタはずれの威力なのか、ということに対する認識は、本当
 のところはこれっぽっちもなかったと思いますよ。まさか、広島がいっぺんに吹っ飛ぶ
 なんて誰も信じられなかったんじゃないか。
・でも、五十万人という人力と言い、二十憶ドルというお金と言い、これだけの莫大なも
 のを作っちゃたら、少なからぬ人からどんなに反対があろうと使います。戦争の非常さ
 残忍さとはそういうものです。日本人は戦争というものがいかに無惨なものか、非情な
 ものか、ということに対する認識が甘かったのではないでしょうか。
・職人的技術の優秀な人たちはたくさんいて、コツコツとつくりあげるものはたくさんあ
 るけれども、組織として、大きなものを無からつくりあげるという精神は日本人にはあ
 まりないんじゃないか。
・日本の中のどこへ落とすか。アメリカでは実際の実験よりも速い五月の第二回投下目標
 検討委員会で、京都、横浜、広島、小倉、そして新潟と、この五つの都市にしぼって目
 標を定めました。三方ないし四方が山に囲まれていて、ちょうど箱庭のようになってい
 るところに落とすと原爆の効果が上がる、そういう観点から選ばれたそうです。京都と
 広島は超AA級、第一候補です。
・サイパン島の日本本土爆撃部隊に指令が行きまして、「この五つの都市は爆撃すべから
 ず」と言ったんですが、その指令がうまく届かなかったのか、五月に横浜が一斉攻撃を
 されて破滅してしまいました。それで七月に、残り四都市の爆撃を禁止する、という厳
 重命令が出ました。
・この後、最終的に京都は目標から外されます。それは日本文化に理解のあるアメリカの
 美術学者が「京都には落とさないでくれ」と言って頼んだおかげだ・・・伝説的にそう
 なっておりますが、そんな事実はまったくありません。そんな個人のお願いや美意識な
 んかで作戦を変更するような国じゃありません、あの国は。
・実際にはスチムソン国務長官がポツダムで、「京都を爆撃したら日本国民を怒らせてし
 まって、永劫にアメリカを恨むようになるから外したほうがいい」と言って古都の京都
 を外したんです。その代わり長崎が入ったんです。
・よく日本が七月の「ポツダム宣言」をすぐに受諾せずに、これを「黙殺」拒絶したので
 アメリカは原爆を落としたんだ、ソ連はそれで宣戦布告し侵入したんだというふうに言
 われるんですが、そんな説は間違いだということがわかると思います。攻撃作戦の歯車
 は、そんな外交交渉なんかお構いなしに、着々と回っていたのです。
・首相の鈴木貫太郎さんが「ノーコメント」の意味で、「黙殺」と言ったのは二十八日の
 方。アメリカの原爆投下命令は二十五日にもう発令されている。作戦は動きだしている
 んです。
・じゃあ、「ポツダム宣言」を日本があのときさっさと受けたら、トルーマンが「ならば
 広島に原爆を落とすな」なんていうことを言ったかどうか、というのは大問題なんです
 が、わたしは言わなかったと思いますね。なぜ言わないかというと、歴史的事実が示す
 ように、日本側に「国体護持」をめぐっての論争があり、それにともなう連合国側との
 複雑な折衝があったし、それに何よりもかによりもアメリカには裏側ではソ連との熾烈
 な競争があるんです。ソ連に対してトルーマンは断じて許せない気持ちを持っている。
 なのに、これで日本の降伏が遅くなれば、ドイツの降伏後、三カ月以内に日本を攻撃す
 るというヤルタでの約束の期限が来ちゃうんですよねえ。八月七日以後にソ連が日本に
 入ってくることになっていたわけですから。だから、敗戦後の日本をめぐる主導権をど
 っちが取るか、というアメリカとソ連の争いになっていた。
・現在アメリカは原爆に関する限り、謝罪はおろか、「原爆投下は正しかった。戦争を早
 く終わらせ、多くの人命を救うためには最もいい方法だった」というスタンスです。
・シカゴの科学者百五十命が1945年7月12日に行なったアンケートの貴重なデータ
 があります。五つの項目から一つを選らべということで、それぞれが自分の意見に近い
 というものに番号をつけました。 
 @日本で軍事的実演を実施して、降伏を再勧告し、その上でこの兵器を使用する。
  =(46%)
 A日本代表を加えた公開実験をアメリカでやり、その上でこの兵器を使用する。
  =(26%)
 B軍事使用をとりやめ、その威力を知るための公開実験をする。=(11%)
 C新兵器の完成をできるだけ秘密にしておき、今次戦争で使用するのを差し控える。
  =(2%)
 D軍事的見地から、わが軍の損害を最小限にし、日本の降伏をすみやかにもたらすため、
  もっとも効果的な方法で使用せよ。(15%)
 ただし、これは最初の原爆実験前の調査です。
・トルーマンは最終的にこの文書に目を通すことはなかった、といいます。

八月十五日と日本人
・昭和二十年八月十四日の夜に自決した阿南惟幾陸相のエピソードがあります。自決のと
 きを前にして、傍らにいた軍務課員竹下正彦中佐に洩らした、やや理解しかねる言葉が
 あるのです。
 「米内を斬れ」
 このひと言。当時にあっては旧陸軍内部において厳重に封印されていました。後に明ら
 かになるのですが、この陸相の言葉は超一級の史料にハッキリと残されていたんですね。
・阿南さんは無派閥ということになっていますが、どちらかといえば皇道派の流れに入る
 軍人であったのでしょうか。陸相は、その席にいない妻に「感謝していると伝えてくれ」
 といい、また子供たちへ優しい思いやりの言葉を遺しています。そして「六十年の生涯
 を顧みて満足だった」ともいっているんですね。このようにすべてを達観したかと思わ
 れる人に、「米内を斬れ」、この烈しい言葉があったとは驚きです。
・斬れ、と名指しされたのが、ともに御前会議に臨んだ海相米内光政大将であるのはいう
 までもありません。なぜ阿南陸相からみて、米内海相は斬られねばならなかった存在な
 のか。
・阿南さんの生涯は軍人として悔いのない、まことに堂々たるものであったと思います。
 でもそれをいえば、米内海相のそれも堂々たるの一語に尽きます。いま、国が滅びよう
 としているとき、それを救わんとする二人の軍人の間には精魂をこめた闘争があったの
 は間違いありません。阿南が対米抗戦派なのに対し、米内は和平派。終戦を決める一種
 の首脳会議で真っ向から対立しました。それは二人の戦争観、国家観の相違に帰せられ
 るかもしれません。
・米内は昭和十五年に首相の座をおりてから、十九年小磯内閣で現役復帰し、海相の椅子
 につくまで、ずっと戦争や政治の表舞台の裏側にあった人物です。が、重臣のひとりと
 して、海軍の先輩として、岡田啓介大将につながる反陸軍の政治工作の中心人物として、
 また宮中グループの一員として、見事な政治性と先見性とを備え、その力量を存分に発
 揮してきたと言えるでしょう。けれども東條内閣打倒のための裏工作が目に余り、陸軍
 側からすれば、許しがたい売国奴とも見えたかもしれません。
・いっぽう阿南は、最前線の将軍で終始し、血とぬかるみのなかを、忠誠な将兵の奮戦だ
 けを信じ戦闘指揮をつづけてきた磁父のような武人です。「東條幕府」が失墜このかた、
 信頼を失い、政治力の地に落ちた陸軍が、その解体を防ぎ、天皇の信頼を何とかつなぎ
 とめようと担ぎだしたのが、派閥性のない”徳義の人”阿南であったのですから。かれ
 に政治力がないことは始めからわかっていたいことですよ。
・阿南は心の奥底で、米内にも「武人であるならば」をたえず要求していたに違いありま
 せん。 
・戦後、米内は友人に、
 「人はいろいろ言うが、自分には阿南という人物はとうとうわからずじまいだった」
・阿南も米内観を生前語っているのです。
 「米内はいかにも小心である。強い意志力をもっていない」
・米内が側近にひそかに語ったという言葉がある。
 「原子爆弾やソ連の参戦は、ある意味では天佑だ。国内情勢で戦いをやめるという非常
 手段を出さなくても済む。私がかねてから時局収拾を主張する理由は、敵の攻撃が恐ろ
 しいのでもないし、原子爆弾やソ連参戦でもない。国内情勢の憂慮すべき事態が主であ
 る。今日、その国内情勢を表面に出さなくて収拾ができるというのはむしろ幸いである」
・ここでいう憂慮すべき国内情勢とは何のことでしょう。このとき日本の上層部は、明ら
 かに革命を恐れていたのです。米内たち和平派が心から憂慮していたのは、本土決戦に
 ともなう国内の大混乱であり、それに乗じての革命でした。
・それに対して、阿南陸相を中心とする徹底抗戦の中堅将校たちはこんな風に考えていた
 はずです。 
 和平派が守ろうとする天皇とは何か。日本がここまで追いつめられれば、速やかに戦争
 を終結することによって、 徹底抗戦の軍部や絶対天皇主義勢力を切り捨てて、とにか
 く天皇制の型を残すことで、なんとか自分たちの機構の存続を図ろうとしている。結果
 として、降伏することで、あるいは天皇退位、新天皇の即位ということになるやもしれ
 ない。うるわしの国体は大変革となる。国家を滅亡させないためにはそれもまたやむな
 しとしよう、というのが和平派の考えだろう、と。
 和平派は天皇を見捨てようとしている、と阿南たちは考えたのだと思います。
・天皇の将来の完全保障は、ついに得られませんでした。保障のないままに日本陸軍は無
 条件降伏を余儀なくされます。阿南からすれば、その罪は天皇を守りとおさねばならな
 い軍人として、万死に値するということです。もし神州が不滅でなかったときには、不
 忠の軍人・米内を斬るべし。そうであったにちがいありません。
・まったく同じことを、高みに立って行動した米内さんの目をとおしてみると、また別の
 理解や判断も生まれてくるのではないでしょうか。
・国民の安全を守ってこそ国家といえる。国民をどん底の塗炭の苦しみに叩き込まないう
 ちに、戦争をともかく終わらせる。それはリーダーとしてなさねばならない最高の責任
 と言えます。

昭和天皇と日本人
・昭和天皇が、当時十一歳の皇太子にあてた手紙があります。その手紙のなかで、
 「敗因について一言いわしてくれ。
  我が国人が、あまりに皇国を信じ過ぎて、英米をあなどったことである。
  我が軍人は、精神に重きをおきすぎて、科学を忘れたことである。
  軍人がバッコして大局を考えず、進むを知って退くことを知らなかったからです。
  戦争をつづければ、三種神器を守ることも出来ず、国民も殺さなければならなくなっ
  たので、涙をのんで、国民の種をのこすべくつとめたのである。」
・日露戦争という国難の際には、明治天皇をかこむ政治家・軍人・外交官には、真にすば
 らしい識見と能力と責任感をもった人達がいたということですよ。彼らの輔弼および補
 翼のよろしきをえて、明治天皇は国の大事を過たず乗り切ることができた。
・それに対して、昭和の大国難においては、軍部の名将も、また暴走する軍人を抑えきれ
 る名政治家も外交官もまわりにはいなかった。そう昭和天皇が皇太子にだけ語っている
 と読めますね。
・満州事変勃発時の総理大臣若槻礼次郎は、人格見識とも優れていたといわれるこの人が、
 事変がどんどん軍部の横車で拡大していったときに、いかなる政治力を発揮したか。こ
 れがまことに情けないくらい無能無力であったことか。
・昭和日本が太平洋戦争へ道をひたすら急ぎ出すことになる「ノー・リターン・ポイント」
 は、昭和十五年九月に日独伊三国同盟を締結したときだと、わたくしは思います。
近衛文麿内閣がいよいよ三国同盟締結を決したとき、天皇と近衛首相のあいだで興味深
 い対話が交わされています。同盟締結に反対の意向をつねづね表明していた昭和天皇は、
 待っていたとばかりに、心にある懸念と不安とを質問の形でつぎつぎと近衛にぶつけた。
 「もう少し、独ソの関係を見きわめた上で締結したらどうであるか」といい、また、
 「この条約は、非情に重大な条約で、このためアメリカは日本に対して、すぐにも石油
 やクズ鉄の輸出を停止してくるかもしれない。そうなったら日本はどうなるか。この後
 長年月にわたって、大変な苦境と暗黒のうちにおかれるかもしれない。その覚悟がお前
 にあるのか、どうか」ともいい、「アメリカに対して、もはや打つ手がないというなら
 致し方あるまい。しかしながら、万一にもアメリカと事を構える場合には、海軍はどう
 だろうか。海軍大学校の図上作戦では、いつも対米戦争は負けるのが常である、と聞い
 ているが、大丈夫なのか」
・天皇はこのとき三十九歳。日本の行く末がほんとうにご心配だったんでしょうねえ。
・天皇はなおも問い質すのです。
 「ドイツやイタリアのごとき国家と、このような緊密な同盟を結ばねばならぬことで、
 この国の前途はやはり心配である。私の代はよろしいが、私の子孫の代が思いやられる。
 ほんとうに大丈夫なのか」
・近衛は首相官邸に帰ると、待っていた閣僚に、天皇の言葉をそのまま伝えたといいます。
 三国同盟締結に天皇も同意したと聞いた松岡外相が、突然に大きな声をあげて泣きだし
 た。三国同盟をすすめていた外相がなぜ涙をぼろぼろこぼして泣くのか。近衛にはよく
 わからなかったようで、同盟案が裁可になったことがそんなに嬉しいのか、と近衛は心
 のうちであきれていたとのことです。
・自分の努力がお上に認められたとひとりで興奮する外相と、天皇を何とか説得すること
 ができたことに胸を張る首相。いずれも国家の運命を賭した大事を決定したことへの恐
 れも洞察も責任も希薄な指導者である。
・開戦決意を前に天皇は重臣(首相経験者)との懇談会をもちました。このとき、米内光
 政が「ジリ貧を避けんとしてドカ貧にならないように」といい、若槻礼次郎が「大東亜
 共栄圏の確立とかアジアの安定とかの理想にとらわれて、戦端をひらくことは危険であ
 る」旨の発言をした。のちにこれを知らされた軍部の中堅参謀たちは憤然としたという。
・天皇の平和への希求など彼らはどこ吹く風なんですね。戦機はいまにありと、合理的判
 断を放棄した盛んなる敵愾心のみが、軍中央部には充満していた。
 
・明治の指導者たちは、戦端を開く、と同時に、いかにしてこの戦いを早期に和平へ持ち
 込むか、その困難な道の打開へもいち早く手を打つことを、誰もが考えていたのです。
 彼らはまた列強の勢力バランスへの目配りもよく、国際情勢への認識もまた確かでした。
 日本の軍事力に対する懸念やロシアの軍事力に対する判断、必要とする巨額な戦費調達
 の困難さについても、十二分にわきまえていた。長期の戦争に国力が耐え得ないことも
 痛烈に自覚していたんですね。昭和の指導者との根本的な違いがそこにはあります。
・残念ながら昭和の指導者たちは客観的におのれのおかれた状況をみる冷徹な目をもちえ
 ませんでした。要するにリアリズムに徹しきれなかったんです。自分に都合のいいよう
 にのみ主観的に状況を判断し、齟齬をきたすようなことはおこらないものと決めていた。
 無敵皇軍という夢想から脱しきれず、戦争終結の方途など深く考えることなく、最悪の
 予想すらしなかった。
・昭和二十年八月十四日の「最後の聖断」の際の、昭和天皇のお言葉は、国民に向けて昭
 和天皇が語りかけたというニュアンスが強められて写しとられています。昔はわたくし
 もそう思ってました。しかしいまは、事実はそうではなく、徹底抗戦にいきり立ってい
 る軍部に向けての説得のほうに主眼をおいたものではなかったかという疑いを強めてい
 るのです。
・御前会議に出席した参謀総長梅津美治郎大将と陸軍省軍務局長吉積正雄中将の二人の軍
 人が残したメモがあります。それをみると、天皇は”最後の一兵まで”の徹底抗戦を主
 張する軍部を何とか納得させようと必死に説いて聞かせている印象のほうが強く感じら
 れてなりません。

・「戦いに敗けた以上はキッパリと潔く軍をして有終の美をなさしめて、軍備を撤廃した
 上、今度は世界の輿論に吾こそ平和の先進国である位の誇りを以て対したい。世界は、
 猫額大の島国が剛健優雅な民族精神を以て、世界の平和に寄与することになったら、ど
 んなにか驚くであろう。こんな美しい偉大な仕事はあるまい」
 これは、石原莞爾元陸軍中将の戦後の決意です。満州事変の首謀者、どう考えてもほめ
 られない人物ですが、この述懐はすこぶるよろしい。
 
新聞と日本人
・満州事変の直前までの新聞はどの新聞も、軍縮賛成の論に立ち満州問題に関しては軍部
 に対して厳しい論調を展開していました。それなのに満州事変が勃発するとあっという
 間に主張をひっくり返した。どの新聞も陸軍の熱心な応援団に変身、どころではなく、
 民衆操縦に積極的な軍部以上に増し込みは世論の先取りに狂奔し、かつ熱烈きわまりな
 いものとなっていく。国民はそれらの勇ましい新聞報道に煽られて、またたく間に好戦
 的になっていきました。そうしたマスコミと一体化した国民的熱狂というものがどんな
 に恐ろしいものであることか。
・満州事変のさいに、大阪朝日は「中国民族主義の積極的肯定」という理念をかかげ、軍
 部批判の筆鋒をゆるめようとはしませんでした。その結果、何が起ったかといえば、在
 郷軍人会や主戦強硬派による非買運動であったのです。奈良県下では一部も売れなくな
 ったといわれています。
・新聞は、戦争とともに繁栄し、黄金時代を迎えるという法則があると聞くが、それが見
 事に立証されている。そしてそこでは、ニュースの最重要な特性である客観性が、セン
 セーショナリズムに侵され、特大の活字でくり返され、軍部の選択したコースへ読者を
 誘導していく役割だけをはたすことになる。要するに、新聞は戦争によってもうかる、
 ということなのです。
・問題は新聞の世論ということについてです。この微妙な相関関係は一筋縄ではいかない
 難問です。ジャーナリズムが煽ることで世論が形成され、世論が大きな勢力になってく
 るとこんどはジャーナリズムが引っ張られる。
・そうして煽られる世論の熱狂の前には、疑義をとなえて孤立する言論機関は、あれよあ
 れよという間に読者を失っていく。数多く新聞があろうと、つまるところは、アッとい
 う間に同じ紙面になる。結局は一紙しかないにひとしくなるのです。挙国一致ならぬ言
 論一致、ほんとうに怖いことというほかはありません。
・もう一つ、恐ろしいことは「国民の声」であるからということで、政治・軍事の指導者
 どもがそれに乗っかってしまうことです。あるいは煽動者(世論の造出者)もそこにふ
 くめたほうがよろしいか。いずれにせよ、彼らは世論を盾にすることで、重大な責任か
 らまぬがれ、責任をすべて不特定多数の「国民」に移してしまうことができる。そして
 そうすることで、いっそう強い勢いで、これは下からの声であるからと、いかさまの世
 論をつくりだすこともできるわけです。