日本原爆開発秘録 :保阪正康

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この本は「日本の原爆 その開発と挫折の道程」(2012年)という単行本を2015
年に本のタイトルを変えて文庫版として出版したもののようだ。
私も以前、何かの折に「日本でも原子爆弾を研究していた」という話を聞いたことがあっ
た。でもその時は、その話を私はあまり信用はしていなかった。しかし、この本を読んで、
その話は本当だったんだと、認識を新たにした。
この本によると、太平洋戦争時、日本で秘密裡に進められていた二つの原子爆弾開発計画
があったという。一つは陸軍が押し進めた「ニ号計画」であり、もう一つが海軍が押し進
めた「F号計画」である。
しかし、開発計画といっても、どちらも研究室での基礎研究レベルのものであり、アメリ
カのマンハッタン計画に比べたら、話にならないほどちゃちなものだったようだ。
それでも、敗戦が濃厚になってきていた日本の軍部は、状況を一発逆転させられる切り札
だとして、この開発計画にすがったようだ。日本人得意のさいごの「神だのみ」である。
だが、いくら開発担当将校が、研究者たちに軍刀を突き付けて、「早く開発しろ」と脅し
たところで、当時の日本の国力では原爆の開発など到底無理な話であった。
このような軍部からの理不尽な要求に晒され、さらには、広島・長崎へ投下された原爆の
惨事を目の当たりにして、この原子爆弾開発に携わっていた研究者たちは、心に大きな傷
負ったようだ。
戦後、手のひらを返したように「原子力の平和利用」など言って、国策として原子力発電
を押し進めるのを、原爆開発計画に携わった研究者たちは、冷やかに見ていたようだ。
日本で初めてノーベル賞を受賞した湯川秀樹もその一人だったようで、湯川秀樹は、戦後、
原子力平和利用のために設立された原子力委員会の委員の推されてなったものの、「原子
炉は外国から購入してでも一日も早く原子力発電所を実用化すべき」という方針に対して、
「基礎研究を省略して原発建設に急ぐことは将来に禍根を残すことになる」と反発して委
員を辞任したようだ。
それから54年後の2011年3月、東日本大震災時に東京電力福島第一原子力発電所で
大事故
を起こすことになる。まさに基礎研究を省略して「原子炉を外国か購入した」ツケ
が回ってきたのだ。
この本のなかに、福島県石川町の話が出てきている。原爆開発に使用するウラン鉱石を求
めて地元の中学生が採掘に駆り出された話である。戦時中に、このようなことがあったと
いうのは、この本を読んで初めて知った。福島県石川町は、あの福島第一原発のある場所
と、それほど遠くない場所に位置する。福島原発事故が起きてから「福島は国策の犠牲に
なった」という声があがったが、実はその以前に、福島県石川町の中学生たちは、国策の
犠牲になっていたのだと初めて知った。
以前、日本国内でウラン鉱床があるのは、岡山・鳥取の両県にまたがる人形峠だけだと、
何かの本で読んだことがあったが、それがわかったのは戦後の1955年頃のことだった
ようだ。原子力の平和利用の気運が高まって、日本全土の半分を超える面積を探鉱した結
果、わかったのだという。しかし、およそ10年にわたってウランの試験的な採鉱が行わ
れたが、人形峠のウランでは、全く採算が取れないことがわかってウラン採掘は放棄され
たようだ。

ところで、この本に、田中館愛橘の話が出ている。昭和十九年二月に、田中館愛橘が貴族
院本会議で「マッチ箱ひとつで大都市が吹き飛ぶ爆弾があるそうだが、その対策はどうな
っているのか」と質問したという。これは当時、国民の間でそういう噂が広がっており、
それを受けての質問だったようだ。軍部が秘密裡に進めていたはずの原爆開発計画も、い
つの間にか巷間で広がっていたようだ。この田中館愛橘は、岩手県二戸市出身の地球物理
学者で、「二戸市シビックセンター」という市の施設の中に「田中舘愛橘記念科学館」が
あり、もう15年以上前になるが一度訪れたことがあり、懐かしく思い出した。


はじめに
・1945年(昭和20年)8月6日、北マリアナ諸島のテニアンから飛び立った原爆搭
 載機「エノラゲイ」は、広島市に人類がこれまで出会ったことのなかった大量殺戮兵器
 を投下することになった。
・「エノラゲイ」には科学観測機と写真撮影機の二機が護衛を兼ねてついていたがその一
 機のパイロットであるチャールズ・W・スウィーニーは、「広島は、今や西に、飛行機
 の右側に横たわっていた。下を見ると、湧き上がる汚れた茶色い雲が、水平に都市に覆
 いかぶさっていた」と回想している。
 「都市全体を覆いはじめた煙の広がりの隙間から、炎が次々と立ち上がるのが見えた。
 垂直の雲は急速に上昇していた。一瞬のうちに雲は九千メートルに達し、まだまだ一万
 四千メートルの高さまで上りつづけた」
・スウィーニーの機に乗っていたベテラン機銃手は、何やらぶつぶつ呟き始め、口から溢
 れ出る言葉は、恐怖のために何を言っているのかわからなかった。しかしその意味は、
 こんな大量殺戮兵器があるのか、今、自分はそれを人類で初めて使う役を担ってしまっ
 たと叫びだったようである。
・私は昭和五十年初めに、日本でも太平洋戦争下で行われていた原子爆弾製造計画(二号
 研究、F号研究)について関心を持ち、それに関わった科学者、技術将校、軍人たちに
 話を聞いて歩いた。
・なぜ今、私はこの計画に触れるのか。その理由は、2011年3月11日に発生した東
 日本大震災による東京電力福島第一原子力発電所の事故に、この原爆製造計画の不透明
 で曖昧な総括が尾を引いていると思うからだ。両者に通じているのは隠蔽という事実だ。
・広島への原爆投下から、次の長崎への投下までの間には、ほぼ75時間の間隔がある。
 この75時間の間に、日本はポツダム宣言を受諾して無条件降伏を受け入れることはで
 きなかったのか。 
・この原子爆弾の第一報は、海軍の軍令部に入っている。軍令部の参謀はこの情報をすぐ
 に陸軍省、海軍省、参謀本部、内務省に問い合わせた。日ごろ投下されている爆弾とは
 まったく規模が違うが、そちらに何か情報が入っているかという問いだ。しかし、どこ
 にもまだ情報は入っていなかった。
・そこで軍令部と海軍省が一体となって、まずは情報収集に入った。海軍省艦政本部の安
 井保門大佐を団長とする調査団が、東京から広島に送られることになった。海軍の動き
 がもっとも速かったのだ。
・もっともこの調査団とは別に、海軍の呉鎮守府でも技術将校たちが調査に入っている。
 このチームは鎮守府にいる海軍工廠火工部長の三井再男を団長とし、技術将校五人で編
 成された調査団だ。三井は新型兵器の研究に詳しい。
・三井は東京で艦政本部に身を置いていたとき、ウラン爆弾についての調査を行っていた
 のである。ウラン235に中性子をあてて核分裂の連鎖反応を起こすと、これまで人類
 が出会ったことがない巨大なエネルギーが放出されるという原子物理学の知識を三井は
 知っていた。とはいえ、三井は「これを兵器にするのは日本の工業力では無理だが、ア
 メリカでは作れるかもしれない」と考えていた。
・三井は上司の第二課長・磯恵大佐に、ウラン爆弾の研究を進言した。磯は京都帝大理学
 を卒業していたために、この方面の知識とその研究の重大さを知っていた。三井が現実
 に広島に入って、ウラン爆弾だと確信したのも決して不自然ではなかったのである。
 広島に投下されたのはウラン235を使った原子爆弾であると初めて認めたのは、三井
 のグループだったのである。
・本来広島には、本土決戦を呼号する参謀本部隷下の軍事組織として陸軍第二総軍司令部
 があったのだが、原爆投下によりこの司令部がまったく機能を失ったしまった。
・中国軍管区司令部参謀長の松村秀逸が、新聞記者たちに「敵B29二機が広島市を攻撃、
 落下傘より新型爆弾を投下せり。これにより広島市内に相当の被害を生じたり」と発表
 している。
・原子爆弾の研究に携わっていた者、たとえば大阪帝大の教授・浅田常三郎はこの発表の
 放送を聞いて、「これはもしかすると原子爆弾かもしれない」と疑った。しかし、その
 ことを公言する勇気はなかったという。
・アメリカのハリー・トルーマン大統領が、広島に投下されたのは原子爆弾であると発表
 したのは、日本時間では七日午前一時であった。
・内閣情報局での会議、つまりこのニュースをいかに国民に伝えるかの会議では、「原子
 爆弾だと伝えると、国民に衝撃を与え、戦争指導上問題である」といった強硬意見が出
 された。とにかく原子爆弾という語は使ってはならぬ、新型爆弾にせよというのであっ
 た。
・理化学研究所の仁科芳雄が広島に調査に向かうために、集合地の陸軍省に顔を出した。
 仁科は陸軍からの委託を受けて、原子爆弾の開発製造の研究を続けていた中心的人物で
 ある。 
・その仁科のもとには同盟通信の記者がトルーマン大統領の声明を持って駆けつけている。
 仁科は、アメリカが原子爆弾を開発したとの報道を知らされていたのである。仁科はそ
 の報道を信じていた。 
・原爆を投下したアメリカの責任は人類史の上に永劫刻にまれるだろう。たとえ「戦時下
 であったから」とか「日本がポツダム宣言を受け入れなかったから」、あるいは「真珠
 湾の不意打ちとで相殺される」などの論が弁明に用いられたとしても、それはある時代
 のある状況でしか通用しない。科学を大量殺戮兵器として悪用した国家との歴史上の汚
 名はそれによって消えるわけではない。
 
原子爆弾製造計画の始まり
・二十世紀の科学理論と技術は、研究室で生まれ試されるだけでなく、その結果が大量殺
 戮兵器に変わる可能性をもつ限り、常に軍事指導者や政治家たちによって狙われる対象
 となった。この世紀の戦争は、国家総力戦の名のもとに大量殺戮兵器を握ったほうが勝
 利を得るという公式を持ってしまったのである。
第一次世界大戦では、ドイツ側もイギリス側もガス兵器の開発に成功し、双方が戦場で
 何度も用いたために、兵士だけでなく非戦闘員の民間人まで被害が及んだ。ほぼ四年間
 続いたこの戦争はヨーロッパ全域を巻き込むことになったが、非戦闘員は一千万人が亡
 くなったと明らかにされている。
第二次世界大戦では、その最終段階でアメリカの開発製造によって誕生した原子爆弾に
 より、戦争そのものは決着がついた。
・人類史は科学者たちが科学理論と技術を軍事指導者や政治家に売り渡すことによって、
 科学理論や技術そのものが独立して存在するのではなく、その時代の倫理と規範に、あ
 るいは科学者の忠誠心により、いかようにも変化することを表していた。
・ドイツでユダヤ人への弾圧が深まっていくや、原子物理学者はそれこそ続々とアメリカ
 に亡命していく。特に1939年に入るとその数は増えていった。こうして亡命したひ
 とりにアインシュタインがいる。
・彼らはドイツの原子物理学が次第に危険な方向に向かっていることを、学会の雑誌など
 で確認していた。こうした原子物理学者たちの危機意識が高じてきて、アメリカでは大
 統領の権限が大きいのだから、原子物理学者として大統領に手紙を書くべきだという諒
 解ができあがった。
・アインシュタインの名でルーズベルト大統領に提出された書簡は、核分裂が実験室で発
 見されたことにより、わずかの爆薬で建物やその周辺を吹き飛ばしてしまうことができ
 る新型爆弾の製造が可能になったと伝え、大統領の信頼できる人物をこの方面の責任者
 に据えて、政府がその予算を投じて実験開発してほしいと訴えている。
・ルーズベルト大統領がマンハッタン計画を認める方向で許可を出したのは。1941年
 12月6日のことだった。つまり日本の真珠湾攻撃の前日のことだった。マンハッタン
 計画の母体は、日本の奇襲攻撃時から密かにスタートしていたと言ってもよかった。
・マンハッタン計画がすべて秘密にされたのは、このウランの核分裂による巨大なエネル
 ギーの誕生がマイナスの形で使われることへの後ろめたさを意味していた。
・トルーマンはルーズベルト大統領の急死後、副大統領から大統領に就任したが、そのト
 ルーマンにさえ、「それはどういう計画か」という質問を許さなかった。トルーマンは、
 大統領に就任しても伝えられないという、この計画に緊張した。
・マンハッタン計画が具体的に陸軍省の大規模工場で動き始めたのは、1942年9月か
 らである。この責任者に就任したのは、まだ四十六歳のレズリー・R・グローヴス准将
 であった。
・グローヴスの指揮のもとでマンハッタン計画は進んだことになるが、これにもっとも協
 力した原子物理学者は、カルフォルニア大学教授のJ・ロバート・オッペンハイマー
 ある。
・一方で、日本社会ではこうした原爆製造計画とは別に、「マッチ箱一箱のウランで街を
 吹き飛ばせる新兵器の開発が進められている」との噂が、昭和十年代の終わり頃から庶
 民の間でも囁かれていた。
・戦時下の日本社会で流布したこうした噂は、アメリカを中心とする連合国の中でもほと
 んど聞かれない。マンハッタン計画の一切が極秘であったのに、なぜ日本ではこうした
 噂が広まったのか。それが大量殺戮兵器の開発を許容する心理的な素地になっていたよ
 うに思われるのだ。
・この庶民の間に流れた噂と、陸軍側と海軍側の原子爆弾製造計画の国家機密の間にはあ
 まりにも多くの開きがある。アメリカでは庶民の間に原子爆弾開発の噂はまったくとい
 っていいほど流されていない。つまり、彼らには戦局を有利にする新規の大型爆弾への
 期待など、必要なかったからだ。
・この期の原子物理学の研究は今の分子生物学や遺伝子工学、さらにはコンピューターの
 最先端研究と同じようなもので、この分野には当時の帝国大学やそれに準じる国立大学
 の優秀な頭脳が進んでいた。
・こうした構図を考えると、仁科研究室や荒勝研究室にあって、ニ号研究、F号研究に取
 り組んでいた研究者たちはすべて日本の優秀な頭脳のリストともいえるし、その彼らを
 陸海軍の軍人は何としても兵器作りに使おうとしたことの構図が浮かんでくる。
・理研の仁科研究室は、主任研究員が仁科芳雄で研究員は朝永振一郎湯川秀樹玉木英
 彦
、助手は武谷三男、全平水の二人、嘱託は坂田晶一小林稔中村誠太郎など十四人
 だが、日常的に仁科研究室でこの方面の研究を続けたのは竹内柾、山崎文男らであった。
・理研の外に目を向けても、錚々たる研究者たちが揃っていた。東京帝大には理研から戻
 った嵯峨根遼吉、大阪帝大には菊池正士、京都帝大には荒勝文策がいて、彼らの教室に
 は、物理学を専攻する研究者の中でも特に優秀とされる若手研究者が集まっていた。
・戦況の悪化とともに「戦況を打開できる新型兵器の開発を」と焦りの色が濃くなってい
 く。特にアメリカ海軍の機動撫隊と日本海軍の連合艦隊の決戦により戦況打開を図ろう
 とする昭和十九年六月の「あ号作戦」、そしてその失敗、さらには民間人の自決も含め
 て六万人以上が戦死した七月のサイパンの玉砕のころは、戦時指導者たちは軍内の関係
 機関で新型兵器はまだ出来ないか、とかなり強引に催促を続けてもいる。
・東條は首相、陸相、それに参謀総長を兼ねていたが、「サイパン陥落で日本爆撃を覚悟
 しなければならない。しかし、こんなのは蚊が刺したようなものだ」とうそぶき、その
 一方で兵器行政本部の総務部長・菅晴次中将に、「ウラン十キログラムを大至急集めよ」
 と命じている。何としても原子爆弾を作ろうとしていたのだ。
・一方、海相で軍令部総長でもあった嶋田繁太郎は、「現政局にふさわしい奇襲兵器を速
 やかに製造開発すること」と部内に命じている。奇襲兵器という語の中に、原子爆弾が
 含まれていることはいうまでもない。
・国民の間にも、戦況の悪化はどれほど隠しても知られることになった。歪んだ噂、願望
 を含んだ風評、さらには意図的なデマなどが次々に広がっていくことになる。「神風が
 吹く」というのもそうだが、もっと真実味をもって語られたのは、「もう少し我慢すれ
 ば、新型兵器が作られるそうだマッチ箱ひとつで大都市や航空母艦が吹き飛ぶのだから、
 そうなれば日本は大丈夫。もう少しの辛抱だ」という噂であった。
 
大量殺戮兵器待望の国民心理
・日本の軍事指導者たちは本土爆撃を何よりも恐れていたが、この状況を挽回するために
 は大量殺戮兵器の開発に頼る意外にないとなったのだ。
・この軍事指導者たちの心理は、新兵器開発の研究への圧力となった。陸軍は理研の仁科
 芳雄研究室に、そして海軍は京都帝大の荒勝文策研究室に、その研究開発を急かせるこ
 とになった。
・昭和十九年のある時期から、「マッチ箱一個のウランで大都市や戦艦を吹き飛ばせるほ
 どの新型兵器の開発が進められている」との噂が国民の間で広まっている。
・このころに貴族院で、田中館愛橘議員が、「マッチ箱ひとつで大都市が吹き飛ぶ爆弾が
 あるそうだが、その対策はどうなっているのか」と質したというのである。
・田中館愛橘はもともとは科学者だったが、その枠に納まらないユニークな経歴もある。
 安政三年(1856年)に岩手県で生まれ、明治十五年に東京帝大の数学物理学科を卒
 業し、その後イギリスに留学、帰国して東京帝大教授となるが、地球磁波の研究を続け
 ていた。退官後は学士院選出の貴族院議員となる。
・関東軍参謀として満州事変に関わった石原莞爾は昭和十六年に陸軍を退き予備役になっ
 てから、主に軍事史の研究に没頭し、多くの論文を書いている。そのひとつ、「世界最
 終戦争
」では、「最終戦争における決戦兵器は航空機ではなく、殺人光線、殺人電波等
 ではなかろうか」といい、決め手になる兵器として、「破壊兵器として今日の爆弾に代
 わる恐るべき大威力のものが発明されることと信ずる」と予想を語っている。
・陸海軍の軍事指導者がサイパン陥落を公式に認めて「大本営発表」を行ったのは七月十
 八日だが、このとき首相、陸相、参謀総長の東條英機や海相の嶋田繁太郎は、「戦局を
 打開する新型兵器をすぐに作れないか」と考えた。東條は仁科研究室に直接命じ、嶋田
 もまた軍令部の幕僚たちにそのように指示していた。東條は「そういう兵器が作れない
 というのは、尊皇の精神が足りないからだ」と怒ったという。東條だけでなくニ号研究
 の内実を知っている将校などは、仁科研究室に駆けつけてきて、サーベルで脅して「一
 刻も早く新型爆弾を作ってほしい」と威圧したという。
・岩手県二戸市にある田中館愛橘会事務局長・佐藤優夫は、「”マッチ箱一個”のことに
 ついては、当地におきましては実際に田中館博士が二戸市に帰省されたおり昭和十八、
 十九年頃子供時分によく聞かされた」という。
・だがその兵器が、「敵国」であるアメリカによって開発、製造されたら、「マッチ箱一
 個で吹き飛ぶ」のは、ロンドン市内ではないし、アメリカの都市でもアメリカ海軍の戦
 艦でもない。それは東京を始めとする日本の都市であり、日本の連合艦隊を始めとする
 海軍の機動撫隊が一夜にして壊滅させられることを意味していると考えるべきだが、そ
 うした考えは生まれていない。つまり、ウラン爆弾(原子爆弾)がアメリカによって開
 発製造され、日本に投下されるという事実を予想しないところに、日本社会の特異性も
 あったということだ。
・広島、長崎へ投下された新型爆弾が原子爆弾であることを、少なくとも戦時指導にあた
 っていた軍人や官僚、政治家、それに科学者、言論人などは即座に判断しなければなら
 なかった。私はこの構図を理解したときに、次第に科学者が、特に原爆製造に関わった
 科学者が、原子爆弾であることをすぎに認めなかったことに不自然さを覚えるようにな
 った。
 
陸軍の原爆製造計画「ニ号研究」(その1)
・陸軍の原爆製造の「ニ号研究」は、航空本部が中心になっていて、兵器行政本部は傍流
 の形になっている。兵器行政本部はニ号研究の実体を詳細に知らされておらず、ある段
 階からウラン鉱石を調達するように命じられて、参加するようになったのである。
・山本を始めとする兵器行政本部の技術将校は、航空本部に対して不信感を抱くと同時に
 理研の仁科芳雄らの態度にも疑念を持つようになる。その疑念とは、理研は本当に製造
 計画を実行する意志があるのか、その意志がないのであれば初めからそのように態度を
 鮮明にすべきではないかとの怒りである。もうひとつは、広島に原爆が落ちてから長崎
 に投下されるまで七十五時間の余裕があったのに、なぜ仁科たち科学者は陸軍省首脳に
 「これは原子爆弾だから、すぐに戦争をやめるように」と助言しなかったのか、という
 二点だ。
・仁科はなぜ陸軍から要請のあったニ号研究に協力し、製造そのものが可能なように言っ
 て研究費を獲得したのか。それは図らずも戦争のあとの「平和利用」を想定していたと、
 その心中を推し測っておくべきであろう。
・陸軍の技術将校の中で、早い時期から原子爆弾のメカニズムについて関心を示したのが、
 のちの陸軍航空本部長の安田武雄であった。
・安田は昭和十四年八月に中将となるが、そのときのポストは航空技術研究所長であった。
 その経歴からウランの核分裂についての知識を持っていて、これが将来兵器になる可能
 性があると考えた。そこで部下の鈴木辰三郎に、兵器になり得るのかを研究せよと命じ
 たのである。
・鈴木はもともと軍人であったが、安田と同様に陸軍からの委託学生として東京帝大物理
 学科に派遣され、最新の原子物理学の知識を学んできたのだ。
・昭和十七年から十八年にかけて、東京で「核物理応用研究委員会」の名のもとに、理研
 に仁科、大阪帝大教授の菊池正士、大阪帝大教授の浅田常三郎などの科学者が集まって
 研究会を開き、「今度の戦争の間には、ウラン爆弾は日本ではできないだろう」との結
 論を共有することなった。この会議は海軍主宰であり、「核物理応用研究委員会」の結
 論は海軍側に伝えられても、陸軍には伝えられていない。
・ところが仁科はほぼ同じ時期、この委員会とは別の結論を陸軍航空本部の技術将校・鈴
 木辰三郎には伝えたことになる。仁科は二枚舌を使ったかのようにさえ思えるのだ。
・「陸軍が命じてきたテーマを完全に断ってしまうと、研究費が削られてしまう。そのた
 めに、日本の原子物理学者たちの研究レベルがダウンしてしまうことに仁科さんは極端
 に恐れていた」というのが政界だと思う。
・仁科芳雄という名は、戦後社会の理科系研究者には神格化されている。
・東京陸軍第二造兵廠(東二造)は、理研の仁科研究室の動きについて、興味ある調査結
 果をまとめているのだ。この東二造に報告書には、日本にはウラン鉱石はほとんどない
 と推定している。そして、埋蔵の可能性のある地として六カ所が挙げられている。
  ・福島県伊達郡飯坂村
  ・福岡県田川郡安眞木村
  ・福島県石川町付近
  ・岐阜県恵那郡苗木地方
  ・朝鮮黄海道湖面
  ・満州国海域
・航空本部総務課長だった川嶋虎之輔大佐がドイツからウラン鉱石を輸入したという話が
 ある。ベルリンの日本大使館に、ウラン鉱石二トンをドイツから譲り受けてほしいと緊
 急電報を入れた。大島浩大使がドイツ政府と交渉したところ「二トン送る」と伝えてき
 た。まず一トンがドイツの潜水艦に積み込まれて日本に向かった。昭和十九年の始めの
 ことらしい。しかし、この潜水艦は日本に着かなかった。すでに日本が制海権を失って
 いたマレー沖で、アメリカの潜水艦の攻撃を受け、撃沈されてしまったのだ。
ドイツの科学者ハイゼンベルクもこの段階では「今次の戦争では原子爆弾はできない」
 と判断して、ドイツ自体がその計画を頓挫させていたというし、何よりヒトラーは、こ
 の兵器より殺人光線に関心を持っていたともドイツ原爆製造関連の書には書かれている。
・仁科研究室の「ニ号研究」は、研究費の総額がおよそ二千万円以上に及んでいた(現在
 に換算すると三百億円になると推測される)。
 
陸軍の原爆製造計画「ニ号研究」(その2)
・軍事参議官兼多摩技研所長の安田武雄中将も、このころから急にこの「二号研究」の推
 進に力を入れているのだ。仁科研究室を支えるべく理化学研究所に使い大和町(現・文
 京区)の六義園に隣接する邸宅を借り上げて、そこに仁科研究室を支える技術将校たち
 の宿舎にしている。このことは陸軍航空本部の技術将校が日常的に仁科研究室に出入り
 して、その研究開発状況について催促するとの意味を持っていた。もとよりこれには、
 陸軍航空本部にそれだけではない別の思惑もあった。
・原子力を使い、原子爆弾製造ではなく、まったく酸素燃焼を必要としない動力源を考え
 出そうとしていたのである。それで成層圏を飛んでアメリカ本土を爆撃するという兵器
 である。
・このころの理研では、特に仁科研究室にいる原子物理学者を始め、有力な若手研究者た
 ちはいずれも裕福な家庭の子弟が多かったという。頭脳に秀でているうえに、経済的に
 も困っていない家庭の子息だからこそ、ほんらいならばすぐに実利に結びつかない原子
 物理学に取り組めたのだろう。それが戦争という時代にあって、突然、彼らの向きあっ
 ていた学問が「兵器」として脚光を浴びることになった。それが歴史の皮肉であり、こ
 の期に出会った原子物理学者の宿命であった。 
・昭和十九年八月に、東京帝大化学科の助手が実験中の爆発事故で死亡している。「新型
 兵器」の研究中に死亡したということで、その助手には助教授の肩書きと博士号が与え
 られた。だがこの助手は特別に新型爆弾の研究を行っていたわけではなかった。軍部か
 らの要請で東京帝大側が、「もう少し辛抱すれば新型爆弾ができる。彼はそのための犠
 牲であった」という「神話」作りに利用されたのであった。
・昭和二十年に入ってから、竹内らは高さ五メートル、幅五十センチの外側の筒を完成さ
 せた。それにもうひとつ内側の筒を造りあげた。この分離筒は仁科研の入っている理研
 四十九号館の二階を突き破って佇立する形になった。この筒の中に木越邦彦が精製した
 わずかの六フッ化ウランを入れた。分離筒がはたしてウラン235を分離するかどうか、
 竹内と木越、そして陸軍から来ている技術将校たちも期待をもって見つめた。
サイクロトロンによって発生した中性子線を濃縮ウランにあてれば核分裂を起こすはず
 であった。その際、放射線が検出できれば、ウラン235は分離されていることになる。
 しかし、放射線は検出されない。つまりウラン235は分離されていなかったのだ。
・東京爆撃の中で必死に検出に努めているが、実際には激しい爆撃下で研究どころではな
 くなっていることがわかる。特に三月十日の東京大空襲によって、研究者や理研職員も
 自宅を焼け出される状況にあり、研究はほとんど進まなくなっていくのである。
・四月に入るとアメリカ軍の爆撃はますます激しくなり、B29は東京の上空を自在に飛
 び回り、目ぼしい施設には次々と爆弾を落としていった。仁科の自宅も焼け、彼自身の
 研究資料も失われた。理研の49号館の東側の壁が燃え出し、サイクロトロンもその機
 能を失ってしまったのである。竹内たちの実験室も燃え落ちた。分離筒も、呆気なく燃
 えてしまった。木越は二月から三月にかけて山形に疎開して、六フッ化ウランを作って
 いた。そこから送られてくる六フッ化ウランも分離筒で使用するはずになっていたのに、
 それも実際にはできなくなった。「ニ号研究」は実質的に瓦解した。
・しかし、陸軍の作戦担当の将校や技術将校は、この現実を認めなかった。いや、それだ
 けの冷静な判断をする情報分析力に欠けていたというべきかもしれない。彼らは、「戦
 況を一変する決戦兵器」をお題目のように唱え、それに賭ける。
・決戦兵器と称するもののなかで、”成功”したのは風船爆弾である。これは、北米ロッキ
 ー山脈に風船を衝突させて山火事を起こすのが狙いとされた。が、その実、ペスト菌や
 コレラ菌、満州にある石井四郎部隊で培養していたこれらの菌を風船に積んで飛ばすの
 が真の狙いだったと、謀略兵器に携わっていたある技術将校は証言している。
・昭和二十年五月下旬、仁科は、理研に久しぶりに顔を見せた鈴木辰三郎少佐に、「もう
 ウラン爆弾はできない。この状態ではとても無理である」と伝えた。それが中止宣言で
 あった。
・鈴木は、すぐに航空本部に戻り、それを陸軍大臣の阿南惟幾に伝える手続きを取った。
・一方、理研の飯盛里安は福島県石川町に移り住んでいた。陸軍が接収した地元の民間会
 社「ジルコン鉱業所」を理研工場に指定して、ウラン鉱石の採掘を始めることになって
 いたからだ。
・ウラン鉱石の採掘にあたったのは、私立石川中学校(現・学校法人石川高校)の生徒た
 ちだった。石川中学校校長の森深造らを嘱託とし、石川町やその周辺の人たちが持って
 いるサマルスカイトなどウラン含有鉱物を供出させ、森を現場責任者のような形にして
 いる。
 
海軍の「F号研究」の歩みと実態
・海軍の「ウラン爆弾」の研究は、昭和十四年夏に海軍技術研究所電気研究部の佐々木清
 恭部長と部員の伊藤康二が、「原子核物理研究」の名で始めたチームが出発点になって
 いる。
・昭和十七年春になって艦政本部の技術将校が、京都帝大荒勝文策研究室にこの研究を持
 ちかけて、「原子爆弾の可能性について」の研究会が行われることとなった。
・昭和十九年の暮れに、艦政本部長の渋谷隆太郎中将が、着任まもなく京都帝大の荒勝研
 究室を直接訪ねたという。なぜ日常的にこの研究室に出入りする海軍の技術将校ではな
 く、本部長の中将が京都までやってきたのか。それは海軍上層部の意向を携えての意味
 になるだろう。
・当時、京都帝大の若い科学者たちは、各国の原子物理学者とともにウラン235の核分
 裂の研究を進めていた。
・荒勝研究室には実際、優秀な研究者が揃っていた。この研究室の理論的水準はきわめて
 高く、そのことは国際社会でもよく知られていた。
・荒勝研究室の研究者たちは、むろん核分裂については、知識としてよく理解していた。
 だが、これが兵器として製造開発される計画があることは知らなかった。仁科研究室で
 行われているニ号研究の知識も、充分には持っていなかった。それゆえに、荒勝研究室
 に海軍から持ち込まれた計画そのものをすぐには理解していなかった。
・この「F号研究」のFはむろんコード名であり、一説によれば、fission(分裂)のFか
 ら採ったともいわれているが、そのことははっきりとは知られていない。
・荒勝研究室は、実は荒勝も含めてその本心は、「今次の戦争では、どこの国もウラン爆
 弾が作られることはない」という点にあった。
・京都帝大の物理学教室は、理論の湯川秀樹研究室と実験の荒勝研究室とに分かれていた。
 湯川は昭和十四年に、三十二歳の若さで恩師の玉城嘉十郎の後任として京都帝大教授に
 なっていた。すでに昭和十年に中間子論の論文を発表し、世界の科学者の注目を集めて
 いた。
・この湯川研究室の研究員・小林稔は、理論研究を進めて、「ウラン235を最低十キロ
 集めれば臨界量に達する」との計算は終えていた。
・仁科研究室の熱拡散法に対して、荒勝研究室では遠心分離法という方法で、ウラ235
 の抽出というテーマに向かって進むことになった。
・荒勝研究室では幾つかの研究テーマのもとで濃縮ウランの獲得を目ざしていた。たとえ
 ば、硝酸ウラニルを清水焼の釉から得ようと研究を続けていた。
・「ニ号研究」にせよ「F号研究」にせよ、アメリカのマンハッタン計画やドイツの原爆
 製造計画に比べて、言うまでもなく、その成果については、これらの二国と比べてまっ
 たく話にならないほどの低レベルであった。
 
終戦前後の科学者と軍人
・このころの原子物理学者や科学者は大体が語学が自在にできるために、密かにアメリカ
 からの「日本人向け」のラジオ放送に耳を傾ける者が多かったのである。その短波放送
 では、アメリカ側は近日中に新型爆弾を日本に投下すると何度も放送していたというの
 だ。ということは、陸軍の技術将校や原子物理学者の多くはこのような事態を充分に知
 っていたことになる。ただこのころの情勢では、まず一般庶民は到底海外放送など聞く
 ことはできなかった。
・八月六日に広島に落とされた人類初の原子爆弾を、当初、広島にある第二総軍司令部で
 も東京の技術院でも、ウラン爆弾とはまったく想像しなかった。陸軍や海軍の指導部は、
 仁科が常日頃口にしている「今次の大戦では原子爆弾の開発は無理」という分析を互い
 の諒解にしていたのでる。
・このころ広島には、放射能を測定する機器などはなかった。原子爆弾であるから放射能
 が広島市内に溢れているのだが、それを測定する機器類は何ひとつなかった。
・八月六日の夜、宮内省の侍従たちは近衛師団の参謀から「広島に落ちた新型爆弾の威力
 は大変なものだ。だから宮内官はいっそう奮励努力してほしい」と言われた。この新型
 爆弾はこれまでの爆弾とはまったく異なるというのであり、これからは昭和天皇も従来
 の皇居内御文庫の防空壕に避難するのではなく、隊本営地下壕に特別に作った防空壕に
 入ってもらわなければならないというものだった。
・この特別な防空壕というのは、陸軍築城部が作った十トン爆弾に耐える強固な造りにな
 っていた。御文庫から車でも五分ほど離れた距離にあったが、そこに移るということは、
 アメリカ軍の爆撃機が強力な爆弾を投下する段階に入ったことを意味していた。
・八月六日の夜から七日の未明にかけて、侍従長の藤田尚徳のもとに大本営から、「今、
 沖縄の基地を出た敵機は特殊な電波を発しております。広島に強力爆弾を投下した敵機
 が、基地出発直後に基地に連絡したようです。それと似ています。充分注意するように
 」との連絡が入った。
・そこで宿直だった侍従の岡部長章は、すぐに天皇のもとに行って、「本日は大本営地下
 壕に避難されますように」と伝えている。天皇はすぐには頷かないので、岡部は大本営
 の言を伝えて避難を促した。
・そのときに天皇は岡部を自らの傍に招いたうえで、「新型強力爆弾のことは今初めて聞
 いたが・・・。明日になったら武官長を呼んでくれ。いいね、武官長だよ」と強い口調
 で命じている。
・天皇はこのときまで、大本営から広島に投下された爆弾について何の説明を受けていな
 かった。つまり大本営はうすうすこれは原子爆弾だと分かっていながら、しかしこのこ
 とを天皇に伝えていなかったのである。天皇がそのことを強い怒りを持ったことが、岡
 部とのやり取りで明らかになる。
・岡部は、天皇は原子爆弾についてある程度の知識を持っていた、と証言していた。昭和
 十四年か十五年というが、東京・文京区にあった理化学研究所に行幸があり、理研の作
 った小型サイクロトロンの前で、仁科芳雄から核分裂の研究について話を聞かされてい
 る。その破壊力についても知識を持っていた。
・長崎への原子爆弾投下後に、天皇が午前介護などで一貫してポツダム宣言受諾を主張し
 続けたのは、この六日深夜から七日未明にかけての軍事指導部からの連絡のなさに不信
 感を持ったためとみることができるのだ。
・八月六日の軍事指導部の動きを見ていくと、何としても原子爆弾としては認めたくない
 という思惑があり、この方向で原子物理学者たち、あるいは「ニ号研究」や「F号研究」
 に携わっている科学者たちに凄まじい圧力をかけたことが分かってくる。
・この圧力を単に、思惑や願望で科学者たちに威圧をかけたと解釈すべきではない。つま
 りこの事実は、科学者たちに真実を述べる勇気が問われたという意味であり、科学が常
 に政治に抑圧されてきたという歴史の繰り返しでもある。
・このころは、ヨーロッパではドイツ軍が絶望的な戦いに入っていた。この期に、原爆は
 日本に投下することがすでに決まっていたのだ。ドイツではなく、日本がターゲットに
 なっていたのである。ドイツは初めから除外されていたという事実は意味するところが
 大きい。
・アメリカ社会は、日本人を自分たちと同じ文明を持つ近代市民社会の人間とは捉えてい
 なかった。日米開戦前のCIAの報告では、日本人について、「もともとは模倣に長け
 た民族で、身体は小さく、とても爆撃機など操縦できる能力、体力はない。わが国にと
 って重要な敵になるとか思われない」といった内容をまとめている。彼らにとって、日
 本人は世界でも有数のアメリカ軍に戦いを挑める能力など持っていない。第一、爆撃機
 の操縦だってできるとは到底思われない、というのである。これは当時アメリカ国民の
 もっとも平均的な見方であった。
・アメリカ国内では、1945年(昭和二十年)5月に結成された暫定委員会が、様々な
 視点から議論が交わされたが、結局は次のような三点からなる結論を見出したのである。
 (一)原子爆弾はできる限り速やかに日本に対しては使用すべきである。
 (二)原子爆弾は二重目標、すなわち周囲もしくは近接地に最も破壊されやすい家屋や
    建物のある軍事施設、もしくは軍事工場地帯にたいして使用すべきである。    
 (三)爆弾は事前警告なしに使用すべきである。
・このときアーネスト・ローレンスは、事前に予告すべきではないか、人の住まない土地
 に示威的に投下すべきではないか、と発言しているが、これは受け入れられていない。
オッペンハイマーは、「原爆を使用する際の理想的な目標は軍隊または工場の密集して
 いるところで、一発で「約二万人の人間を殺せるかもしれないと説明したという。
・物理学者のアーサー・コンプトンは、陸軍長官のヘンリー・スチムソンの「原子力エネ
 ルギーの問題は単に兵器としてだけ見ることはできず、人間の宇宙に対する新しい関係
 という点から考えなければならない」という言葉に感動したともいう。
・原子物理学者たちのこのような説明や感動は何を物語るのか。原子物理学者たちは机上
 で理解している理論が、その通りの現実をもたらすか否かに強い関心を持っていたのだ。
 いわゆる「先駆的実験の確認」であった。
・アメリカ政府内で原爆投下が決定するプロセスで、原子物理学者はそれほど強い反対意
 見を主張していない。原子物理学者は誰もが、自らが確かめていた理論が現実にどのよ
 うなエネルギーを生み出すのか、それを確認したいと思っていたのである。
・原爆投下後、原子物理学者たちはその威力に驚き、激しい自己嫌悪に陥り、それゆえに
 核廃絶の先頭に立つ運動家に偏心したのもまた容易にわかる。
・アメリカの政府内では、二十億ドル以上もの予算を使い、述べ五十四万人ものスタッフ
 を擁するマンハッタン計画がもし失敗したら、これは重大な政治問題になるという恐れ
 があった。アメリカ政府はこの巨大なプロジェクトを成功させることで、政府への批判
 を避けなければならなかったのである。実験に成功すれば、すぐに使用しなければなら
 ないという十字架を背負っていた。
・この十字架に正義の御旗を被せるのが、現在に至るまで続いている「原爆によって戦争
 を終わらせることができた」という相殺論と、「あれ以上の戦争犠牲者を出すことを防
 いだ」との人身御供論なのだ。
スターリンは、「日本はわが国を通じてアメリカ、イギリスとの終戦を望んでいる」と
 日本から和平交渉の打診があったが、日本の条件がはっきりしないので突き返したと、
 トルーマンやチャーチルに話している。日本にはもう戦う余力はないということは、三
 国の間で共通の認識となっていた。
・ということは、原爆が戦後社会の枠組みを作るために、その威力が示されなければなら
 ない宿命を負わされていたということだ。日本の息の根を止めるためにというより、お
 互いが新たな勢力図を作るために、あるいは戦勝国としての優勢を保つために、日本に
 原爆を投下して、お互いの潜在的な対立を確認し合わなければならなかったのである。
・アメリカはなぜ「午前八時十五分」に広島への原爆投下を決めたのだろう。あえてこの
 時間を選んだのは、一日の始まりで大半の人が動き始めていること、さらに現実に原子
 爆弾とはどれほどの威力があるのか、それを終日確認するために早朝を狙ったと思わ
 れる。広島への原爆投下には人類初の大量殺戮兵器の効果を試す「人体実験」の発想が
 あったことを、この投下時間は裏づけているように思えるのだ。
 
原子爆弾から原子力発電へ−平和利用は幻なのか
・終戦後、アメリカ政府はサイクロトロンの破壊を命じ、理研、大阪帝国大、京都帝国大
 にあった計四台は破壊され東京湾や琵琶湖などに捨てられた。これによって、単に原子
 爆弾研究だけでなく、生物学、医学など多方面に利用できるはずだったこの機器は、日
 本から失われることになった。
・アメリカ政府は日本の原子核研究について、それこそ基礎研究だろうが、応用研究だろ
 うが、すべてを中止するように命じた。たとえ平和利用を目的としたケースでも禁止と
 なった。このような禁止の状態は、占領期の最期まで続いた。
・原爆に関する日本人被害者の姿やその被害状況についての報道は禁止され、文学作品の
 発表も許されなかった。 
中曽根康弘は昭和二十六年(1951年)ごろから原子力に関心を寄せた。昭和三十年
 には衆参両院合同の原子力合同委員会が発足したが、委員長は中曽根が努めている。
・昭和三十一年五月に初代の科学技術庁長官のポストに就いた正力松太郎やその後任の中
 曽根らによって、原子力平和利用の方向づけがされていった。
・昭和三十一年(1956年)に原子力委員会(初代委員長:正力松太郎)が正式に発足
 し、政府はその委員に国会の承認を経て四人を選出している。
 ・石川一郎(経団連会長)
 ・湯川秀樹(京大教授)
 ・藤岡由夫(東京教育大教授)
 ・有沢広已(東大教授、経済学者)
・四人の委員のうち湯川はこの後、任期半ばの昭和三十二年三月に辞任している。理由は
 病気療養のためといわれている。しかし実際は、湯川が原子力の平和利用は基本からゆっく
 りと時間をかけて進めるべきだと主張するのに対し、「そんな時間はない、原子炉なん
 かアメリカから買えばいい、平和利用の技術を日本が独自に研究することなど必要ない」
 と正力が主張した。
・湯川は辞任後、科学者たちはこうした委員を引き受けると政治家に利用されると、警戒
 をするようになったというのだ。
・日本の原子核の研究がアメリカに依存する形を意味しているだけでなく、アメリカの原
 子力政策を下請けするということでもあった。アメリカの占領政策によって一切の原子
 核研究を日本に許さなかったのは、原子力に関する情報や知識をアメリ側が管理し、そ
 してウラン鉱石からウラン235を採り出しての濃縮ウラン、いやそもそも天然ウラン
 の供与までも、アメリカの支配下に組み込むことを意味したようにも受けとめられる。
・平和利用に伴う一連の動きを細かく分析していくと、日本の原子物理学者の間にも、当
 初からアメリカ頼み、アメリカの望む枠内での妥結論があった。日本の原子力体制とは
 つまり、アメリカの管理下に入るという意味になった。
・戦後社会にあって原子力開発に関わった人たちは、その点を曖昧にしつつ、とにかく自
 前の原子力利用、しかもそれが「平和利用」という絶対的な錦の御旗に見えるように内
 密に動いた節があった。奇妙な言い方になるが、彼らは常に「アメリカ」の枠内にとど
 まり、そこから抜け出ないという意味では、きわめて高度の政治テクニックを駆使した
 ことにもなる。
・戦後の原子力研究について、次のような原子力人脈の特異性が見て取れるように思う。
 (1)ニ号研究、F号研究に従事した二十代、三十代の原子物理学者、あるいは陸海軍
    での関係機関で協力した技術将校は、戦後のこうした原子力関係に直接関わって
    いない。自粛したとも思われるが、一方で彼らは主に帝国大学系の物理学科など
    で教鞭をとっていた。
 (2)湯川秀樹、嵯峨根遼吉、朝永振一郎らのいわゆる名の通った原子物理学者は、当
    初は原子力委員会などに名を列ねることもあったが、その動きが具体的になると
    辞任するなどして距離を置き、そのようなポストから離れていった。
 (3)湯川らはアメリカ、イギリスなどの科学者たちと呼応する形で、反核運動に入り、
    この面での活動を中心に据えることになった。従って原子力の平和利用などにつ
    いても正面から意見を述べることはなかった。
 (4)原子力委員会などのメンバーは、ニ号研究やF号研究との距離を置いていた原子
    物理学者が軸になり、昭和三十年代以降は戦後の原子物理学専攻者が中心になっ
    ていた。いわば第二世代の登場である。
 (5)武谷三男らのように、既存の原子物理学者が主になっている原子力関係の各委員
    が、政界・財界・さらにアメリカに振り回されるのを警戒して、独自の三原則を
    原子力行政に盛り込ませることに成功した。
 (6)戦後の原子力利用は、正力松太郎、中曽根康弘のような政治家が中心になってい
    くが、この路線は結果的にアメリカ追随の原子力行政につながることにもなった。
    これはアメリカに従属する軍事と軌を一にした形になっていた。
 (7)日本の原子力研究、原子力行政には、常に被爆国としての立場を要求された。そ
    れゆえに原子物理学者の中でも宗教に傾いたり、極端な反核運動に入っていく者
    もまた少なくなかった。
 (8)日本の産業界は、原子力の平和利用という名目での新たなビジネスチャンスが生
    まれたということで、独自に企業内部に原子力研究機関を置くことになった。
・戦時下で原爆製造計画に関わった研究者は、そこで軍人たちの強圧さを知った。さらに
 自分たちの挑んでいた原爆製造について、実際にアメリカの原爆投下を見たときに、そ
 の衝撃の大きさを実感することになった。そのために大学教授としての仕事の枠内に閉
 じこもり、社会的には原子力行政とは距離を置きたいとの感情を持つようになったので
 はないか。
 
おわりに
・2011年3月11日に発生した東日本大震災は、天災であり、現実には人の力では防
 ぎようがない。しかし、この大震災に付随して起った東京電力福島第一原子力発電所の
 事故
は明らかに人災であり、これ自体、歴史的に二十世紀の課題がそのまま表出した重
 要な出来事ともいうべきであった。
・この事故に関わった当事者たちの証言もこれまでに紹介されているが、こうした証言の
 中にはのちに検証するとまったく根拠のない、あるいは表面を糊塗する巧みな言い逃れ
 などが数多くあったように思う。
・菅内閣の枝野幸男官房長官の発表などはその典型で、第一号機と第二号機、第三号機の
 原子炉に海水を注入していると口にし、事態を収拾しているかのような言い方を繰り返
 していた。現実には燃料棒は水面から露出して、核分裂による熱によって溶けてしまう
 炉心溶融が起きていたのである。こうした溶融の事実が隠蔽されていたことが、その後
 明らかになった。
・私は今、このような状況を単に批判だけの視点で語るつもりはない。しかし、この国の
 システムはどこかが歪んでいるのではないか、次世代に深刻な不安を与えているのに真
 剣に取り組む姿勢に欠けているのではないか、との思いは消えない。事故発生時の菅内
 閣、それに政治家のみならず、われわれ一人一人にも、の意味である。
・日本は二十世紀前半には原子爆弾の製造に挑み、後半にはこの科学上の発見を平和利用
 と称して原子力発電に取り組んできた。「悪魔」と「天使」の使い分けを自認する国家
 として、何か特別の役割を担っているかのような国家目標を掲げてきた。しかしここに
 は何かが欠けていたのではなかったか。
・福島県石川町の中学生が、昭和二十年八月十五日も、当時の勤労動員のもと山から岩を
 担いで麓まで降りてきていた。敗戦のその日まで、仁科研の原材料担当班の将校や科学
 者は、陸軍省からの正式な中止命令がなかったために、必死にウラン鉱石を求めて山掘
 りをしていたのだ。その作業を当時の私立石川中学(現・学校法人石川高校)三年生の
 百八十人が、まだ十四、五歳の少年たちが続けさせられていた。
・この町には鉱物資源が眠っているとされる石川山がある。ここにウラン鉱石があるかも
 しれないとの見通しのもとに掘り出すのだが、すでに理研の調査ではまったくウラン鉱
 石が出ないことが明らかになっていた。仁科研ではすでにニ号計画など中止になってい
 るのに、もしウラン鉱石が出たならばとの陸軍首脳部の思惑だけで中学生たちは駆り出
 された。
・中学生たちは十人が一グループとなり、スコップで山を掘り、石を取り出す。その掘っ
 た石を別のグループがモッコで担いで、二百メートルほど下に運ぶ。麓には鉱物を選り
 分ける大人の職人たちが待っていて、黒い石を選別していく。そうして選ばれた石にウ
 ランが含まれているかを試す。
・たとえウラン含まれていても、ウラン235はウラン鉱石の中にわずか0.7パーセン
 トしか含まれていない。それを十キロ集めるとは、まさに天文学的な数字への挑戦であ
 った。
・昭和二十年八月十五日、中学生たちは山中で玉音放送を聞かされた。午前中はいつもの 
 ようにウラン鉱石を求めて山を掘っていたのである。ラジオ放送を整列して聴き、「日
 本は負けた」と中学生たちは知った。
・三週間後、この町にジープに乗ったアメリカ兵がやってきた。軍需工場に入って行き、
 資料や原石の幾つかを持ち出した。さらに軍人や技術者の専門宿泊所を探し出し、そこ
 から根こそぎ一切の文書や資料を持ち去った。
・アメリカのマンハッタン計画に比べたとき、この石川町の中学生の血の滲むような労苦
 はまさに天と地ほどの開きがある。しかしこれが日本の原爆製造計画をあらわす正直な
 エピソードだった。
・福島はかつての原爆製造で、こういう惨酷なエピソードを抱えていた。そして今、原子
 力発電所の事故によって新たな、というか第二の悲劇を生んだ。
・しかし、福島県石川町の中学生たちのその労働は、この光景だけで捉えるべきではない。
 原子爆弾製造計画という、国家的プロジェクトの中で捉えるべきで、この地の中学生の
 「八月十五日」は、戦時下日本社会の歪みそのものであったと考える必要がある。不透
 明な国策の末端では、こういう犠牲が強いられるのだ。
・原子力発電所の事故でも、その末端の労働者は同様の役割を担わされている。
・福島の原発事故の根本の原因には、かつての日本の原爆製造計画と同じ構図が窺えると
 いうことだ。科学者は常に科学それ自体への興味から出発し、しばしばその中に閉じこ
 もってしまうということだ。理化学研究所の仁科芳雄は原子爆弾製造計画を利用して、
 日本の科学者の予算とその研究の自由を保障した。戦後の原子力発電にしても科学者は
 自らの関心終始し、予算と人員、そして自らの研究テーマを確保するだけに努めたので
 はなかったか。この構図を私たちはよく知ったうえで、そのツケが回ってきたことを見
 抜く必要がある。
・原子爆弾製造計画では、軍事指導者が「聖戦完遂」の名のもとに軍事研究を要求し続け
 た。そこには人間的な視点はなく、とにかく「一発で町を吹き飛ばす爆弾」を求めた。
 原子力発電も同じだ。軍事指導者に代わって政治家や官僚が、「平和利用」と「生活の
 向上」の名のもとに「電力というエネルギーの供給を」と訴え続けた。それらの大義は
 時代の要求する価値観でしかなく、歴史的普遍性に欠けている点に特徴があった。
・原爆製造と原子力発電ではともに、常胤「弱者」がその大義の犠牲の役割を与えられて
 いる。福島県石川町の中学生たちが足を血だらけにして岩石を掘っている姿と、原発事
 故で七次、八次の下請けとして放射能汚染物質の溢れる作業現場に入った作業員たちの
 姿は重なっている。
・日本での原爆製造計画が実らなかったために、私たちは人類史の上で、加害者の立場に
 は立たなかった。ただ原発事故では、私たちのこの時代そのものが次の出代への加害者
 になる可能性を抱えてしまった。
・今後、東京電力の原発事故をどのように収束させるか、原子力との関係を再構築し得る
 のか、問われているのではないだろうか。