八紘一宇 :島田裕巳

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三原じゅん子といえば、昭和50年代に流行したテレビドラマ「3年B組金八先生」を思
い出す。ドラマの中で、三原じゅん子は不良の女番長役を演じ、同級生をリンチした。
「顔はやばいよ、ボディやんな、ボディを」のセリフがいまだに頭の奥底に残っている。
当時、それを見て気の弱い私などは、思わずおっしっこをちびりそうになったものだ。
その三原じゅん子が、いつのまにやら国会議員となり、そして参議院予算委員会で突然、
八紘一宇」という言葉を吐いたのだ。その言葉の意味を知っている一部の人たちは、そ
れを聞いて驚愕し、鳥肌が立ったのではなかろうか。
いったいどうして三原じゅん子は、突然この「八紘一宇」という言葉を吐いたのか。どこ
でこのような言葉と出会ったのかは、三原じゅん子が、かつてこの言葉が侵略戦争を正当
化するために使われたことを知っていたのか、それは定かではない。しかし、現代におい
て、しかも国会という場で、この言葉を使ったのは、とても奇異に感じられる。

「八紘一宇」という言葉は、「天皇を世界の中心とした国際的な秩序を打ち立てよう」と
いう意味が含まれており、戦前・戦中において、国民を海外進出に駆り立てる「軍国主義」
のスローガンとして広く用いられていたという。「八紘一宇」という言葉には、恐ろしい
ほどの自国中心主義の思想が含まれているのである。戦後においては、この「八紘一宇」
を掲げるのは右翼団体に限られるようだ。
私が読んで本のなかにおいても、ちょっと調べただけで、次の本のなかにこの「八紘一宇」
という言葉が出てきていた。
賊軍の昭和史(半藤一利著)
あの戦争は何だったのか(保阪正康著)
昭和陸海軍の失敗(半藤一利他著)
日本とは何か(堺屋太一著)
これらの本はすべて、昭和の軍国主義一色だった時代について記述したものだ。

「八紘一宇」ということばを最初に標榜したのは「国柱会」だと言われている。「国柱会」
は法華宗系の仏教団体であるようだが右派でもあったようだ。戦前には宮沢賢治石原莞
なども加わっていたとされている。「八紘一宇」という言葉の背後には、日蓮主義とい
う日蓮信仰思想があったようだ。
宮崎市の平和台公園には「八紘一宇の塔」というものがある。その石碑の文字は、一度は
GHQの命令によって消されたのだが、戦後20年にあたる年に復元された。その復元運
動の先頭の立ったのが岩切章太郎という人物だったようだ。この人物は東京帝国大学であ
の安倍元首相の祖父「岸信介」と同級生でお互い懇意にしていたようだ。

それにしても、宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」の最後の部分に、日蓮宗の信仰を示すもの
が記されているということは、この本を読むまでまったくしらなかった。私自身は、岩手
県の生まれであり、小学校時代には学校の講堂に掲げられた大きな額の中にこの「雨ニモ
マケズ」が収まっており、常に目に入り、なじみ深いものであった。しかし、その最後の
部分に書かれていたというものは、いまの今までまったく知らなかった。それは「雨ニモ
マケズ」がただの詩ではないことを示しているからである。

ところで、結婚式というと、現在では神式か仏式かキリスト教式かは別として、なんらか
の宗教がからんでくるのが一般的であるが、このように結婚式に宗教が絡んできたのは、
そんなの昔ではなかったようだ。この本によると、神式の結婚式が最初に行われたのは、
明治33年の当時皇太子だった大正天皇が宮中三殿で行ったのが最初だったとのことだ。
そのことが刺激となって、一般国民も神式の結婚式を挙げるようになったという。それま
での結婚式は、家庭や料亭で行われる宗教がかかわらないものだったという。そういうこ
とを知ると、結婚式を何式でやるかなどと悩むのは、ちょっとあほらしい気がする。


三原じゅん子議員「八紘一宇」発言の衝撃
・2015年3月16日の参議院予算委員会において、質問に立った自民党の三原じゅん
 子議員が、戦時中において日本の海外進出を正当化する役割を果たした「八紘一宇」と
 いうことばを持ち出した。
・彼女の質問は、アマゾン等の多国籍企業の租税回避の問題についてで、とくに槍玉にあ
 げたのが、公的支援によって再生を果たし、巨額の利益を計上しておきながら法人税を
 納めていないJALのことだった。
・その際に彼女は、「日本が建国以来大切にしてきた価値観、八紘一宇であります」と述
 べたのだった。そして、「八紘一宇というのは初代神武天皇が即位のおり『掩八紘而為
 宇』と仰ったことに由来する言葉です」と、そのことばの解説まで行ったのだった。
・「八紘一宇」ということばが出た途端、予算委員会が行われている部屋の空気が変わり、
 少々ざわついたかのようにも見えた。
・この質問に対しては、麻生太郎財務大臣が「これは今でも宮崎県に行かれると八紘一宇
 の塔というものが建っております」と紹介し、「こういった考え方をお持ちの方で三原
 先生みたいな世代の方におられるのに、ちょっと正直驚いたのが実感です」と答えてい
 る。    
・このことが報道されたとき、多くの人は、三原議員が、八紘一宇ということばが戦争中
 どういう意味で使われたのかを十分に認識していないで発言した、と考えただろう。
 なにしろ彼女は、議員になるまでは、女優、タレントとして活躍していた。
・しかし、この質問には、実は前段があった。2015年n3月16日といえば、東日本
 大震災から4年経ったばかりである。三原議員は、質問の冒頭で、震災に言及した後、
 1146年前に東北地方を襲った「貞観地震」にふれ、次のように述べていた。
 「その被害の大きさに心を痛めた清和天皇は、大地震により罪のない国民を苦しめた、
  自らの不徳を悔い、その上で死者のお弔いに手を尽くす、生存者には金品を与える、
  その上税金を減免するなど、こと細かに心を砕いて、困った人に対してそれぞれの事
  情に即した手厚い支援を差し伸べるようお言葉を下されたということであります。天
  変地異に際して自らの不徳を省みるというお心に、私は素直に驚きました。さらに国
  民のことを第一に思い常にともにあろうとする、ともにあろうとなされる天皇のお心、
  これはそののちの時代にも今もしっかりと受け継がれているものだと思いました」
・予算委員会の中継の映像を見てみると、この部分は、果してこれが、現代の国会で行わ
 れる議員の質問なのだろうかと、不思議に思えてくるようなものだった。「天皇のお心」
 の尊さをくり返し強調するような発言が果して戦後の国会でこれまでなされてきたであ
 ろうか。
・三原議員は、質問の締めくくりの部分でも、八紘一宇ということばを使っている。それ
 は、「八紘一宇という家族主義、これは世界に誇るべき日本のお国柄だと私は思ってお
 ります。この精神を柱として、経済外交に限らず我が国の外交、国際貢献、こういった
 ものを総理には力強く今後とも進めていただけますことを最後にお願いして質問を終わ
 らしていただきます」 
・三原議員の今回の質問全体が、天皇を世界の中心とした国際的な秩序を打ち立てようと
 いう八紘一宇の考え方自体の価値を強く訴えるためのものではなかったのかという解釈
 も成り立つ。要は、現代の国会に突如として、帝国議会の議員がタイムスリップしてき
 たような質問だったのである。
・彼女は、八紘一宇の考え方を紹介する際に、1939年に出版された清水芳太郎の著書
 「建国」という本についてふれてる。清水は、国家主義の政治団体「創生会」を組織し
 た人物である。
・三原議員は、質問が話題を呼んだ後、自身のブログで次のように述べている。
 「この言葉が、戦前の日本で、他国への侵略を正当化する原理やスローガンとして使わ
  れたという歴史は理解しています。侵略を正当化したいなどとも思っていません。私
  は、この言葉が、そのような使い方をされたことをふまえ、この言葉の本当の意味を
  広く皆さんにお伝えしたいと考えました」
・そこには、八紘一宇ということばの魅力ということがかかわっているかもしれない。そ
 れは、戦時中において、国民を戦争に駆り立てる上で重要な役割を果たし、日本が海外
 進出、あるいは侵略を行うことを正当化する役割を担った。一時期とはいえ、八紘一宇
 ということばは国民全体を魅了したのである。
・この「八紘一宇」ということばを作ったのは、日蓮信仰と皇国史観を合体させ、戦前に
 おいて大きな影響力を発揮した田中智学という宗教家である。その田中がつくりあげた
 組織が「国柱会」である。そこには詩人で童話作家の宮沢賢治や満州事変を起こした石
 原莞爾、さらには伊勢丹の創業者、小菅丹治などが加わっていた。
・「国柱会」以外にも、日蓮信仰と皇国史観を合体させる「日蓮主義」と呼ばれる思想運
 動に共鳴、共感する人びとは多かった。「一人一殺」というスローガンを掲げて要人の
 テロを実行した井上日召の「血盟団」や、「死のう、死のう」と叫びながら自殺行為を
 実行しようとした「死なう団」などがあった。さらには、二・二六事件において、民間
 人として唯一死刑に処せられた思想家の「北一輝」も強烈な日蓮信仰をもっていた。
・戦後の社会においては、昭和天皇の「人間宣言」もあり、皇国史観は日本を戦争に追い
 やった思想として、その価値は否定された。しかし、高度経済成長の時代に急成長を遂
 げた日蓮系の新宗教である「創価学会」が政界に進出した背景には、田中智学が説いた
 「国立戒壇」の考え方があった。
・八紘一宇ということばをが、近代の日本社会においてどういった役割を果たし、どのよ
 うにして多くの人びとを魅了し、日本の社会を突き動かしていったのかということを、
 戦後70年を迎える今、私たちは、改めて理解しておく必要がある。
   
八紘一宇と国体
・宮崎県宮崎市の平和台公園には、「八紘一宇の塔」が建っている。現在では、「平和の
 塔」と呼ばれているが、塔の正面には、はっきりと八紘一宇という文字が刻まれており、
 今でも八紘一宇の塔と呼ぶ人は少なくない。
・現在では、「日本が関わった軍事施設や工場、戦災地、戦争に関連する建造物や事件の
 跡地などを戦争遺跡」と呼ぶのが一般化しているが、八紘一宇の塔もこの戦争遺跡の一つ
 としてとらえられている。 
・この八紘一宇の塔は、工事がはじまったのは、日中戦争がすでに始まっていた昭和14
 (1939)年5月のことで、完成したのは翌昭和15年11月のことだった。この昭
 和15年は、初代天皇である神武天皇が即位してから2600年にあたるということで、
 日本全国では奉祝事業が営まれた。
・八紘一宇の塔は石塔である。石材は当時日本が領土にしていた朝鮮や中国各地から送ら
 れてきたものだった。建設された時点で、石塔としては日本一の高さを誇っていた。
・八紘一宇の塔が聳える平和台公園は、神武天皇が東征に出発する前に最初の皇居があっ
 たとされる皇宮屋のすぐ北に位置している。皇宮屋のあったとされる場所には、現在、
 宮崎神宮の摂社、皇宮神社が建っている。
・三原議員が引用した「掩八紘而為宇」ということばは、「日本書紀」にあるもので、
 「八紘を掩ひて宇と為む」と読み下される。八紘とは、地のはてを意味し、それから転
 じて天下、全世界を意味するものとなった。したがって、「掩八紘而為宇」は、世界全
 体をおおって一つの家にするという意味になってくる。
・三原議員は、予算委員会での質問の最後の部分で、八紘一宇を「家族主義」ととらえて
 いたわけだが、それには当たらない。
・戦後、日本を占領下においたGHQは、当然にも、この「八紘一宇の塔」の存在を見逃
 さなかった。GHQは、それを日本を無謀な戦争へと追いやった軍国主義の象徴として
 とらえた。そのため、昭和21年には、八紘一宇の文字を削るよう命じた。この文字は、
 昭和天皇の弟である秩父宮の筆になるものである。
・なお、秩父宮は、天皇親政の必要性を主張しており、しかも、軍のなかでそうした考え
 をもつ青年将校たちと親しかったことで知られる。
・八紘一宇の塔の四つの隅には、武人、商工人、農耕人、魚人を象徴する四つの信楽焼の
 神像として、荒御魂、和御魂、幸御魂、奇御魂と呼ばれる石像が配置されている。 
・GHQは、そのうち、武人を象徴する荒御魂の像の撤去も命じた。
・その後、この塔は、打ち捨てられたような状態におかれた。まさに戦争遺産となってし
 まったのである。    
・ところが、昭和37年には荒御魂像が復元された。さらに、昭和40年には、平和の塔
 と改称されていたにもかかわらず、八紘一宇の文字も復元されている。こうして八紘一
 宇の塔は戦後20年にあたる年に忽然と元の姿を取り戻したのである。
・この八紘一宇の文字の復元運動の先頭に立ったのが、「宮崎観光の父」と言われた岩切
 章太郎だった。1960年代に、宮崎は新婚旅行ブームにわいたが、岩切はそのブーム
 を作り上げることに貢献した。
・八紘一宇の塔が建立された時代には、八紘一宇ということばは、国民を海外進出に駆り
 立てるためのスローガンとして広く用いられていた。
・昭和12年に刊行された内閣・内務省・文部省による「八紘一宇の精神 日本の精神の
 発揚」では、八紘一宇について、次のように説明されている。
 「八紘一宇とは、皇化にまつろはぬ一切の禍を払ひ、日本は勿論のこと、各国家・民族
 をして夫々その処を得、その志を伸さしめ、かくして各国家・各民族は自立自存しつつ
 も、相寄り相扶けて、全体として靄然たる一家をなし、以って生成発展してやまないと
 いふ意味に外ならない」
・要は、日本以外の国家や民族が、日本の天皇のもとに統一されることがあるべき姿とし
 て想定され、それに服従しない勢力については、それをすべて取り除くとされているわ
 けである。    
・「八紘一宇の精神」はこれに続けて、八紘一宇が外国の覇道主義にもとづく侵略的な思
 想とはまったく異なるものであることが強調されている。しかしそれは、世界を統一し
 ようとする日本に対して敵対する勢力を排除するという意味を含んでおり、恐ろしいほ
 どの自国中心主義であるとも言える。この時代、日本の権力の中枢部は、こうした小冊
 子を発行することで、侵略戦争を正当化しようとしたのである。   
・八紘一宇の塔が建った昭和15年には、大東亜共栄圏の建設を目標として基本国策要綱
 が閣議決定された。八紘一宇は国家の方向性を示すスローガンとして公的に認められた
 のだった。
・八紘一宇ということばを最初に使ったのは、日蓮主義者で、国家主義的な宗教団体であ
 る「国柱会」を組織した田中智学である。
・田中は、最初から、八紘一宇ということばが、侵略戦争を正当化するものとして理解さ
 れる可能性があることを想定し、その上で、それが道徳的な精神にもとづくものである
 ことを強調している。    
・田中が大正2年に、国柱新聞で初めて八紘一宇という言葉を造語した。大正2年と言え
 ば、すでにその時点で、日本は日清戦争と日露戦争という対外戦争を経験し、それに勝
 利を収めていた。そしてそれは、明治43年の朝鮮併合へと結びついていく。
・日本は二つの対外戦争に勝利を収めることで、着々と海外進出を果たしており、八紘一
 宇ということばは、そうした日本の行為を正当化する役割を担い、やがてそれは、日本
 全体で共有されるようになる。満州事変から日中戦争、そして太平洋戦争へと向かって
 いく時代には、日本国家が戦争を遂行する上で強力なスローガンとしての役割を果たす
 までに至ったのである。  
・そこには田中自身、あるいは「国柱会」の社会的影響の大きさがかかわっていた。多く
 の人間が田中の思想や運動に共感し、彼の唱えた日蓮主義は、時代を動かす思想的な潮
 流として、日本全体を巻き込んでいったのだ。
・昭和11年2月26日に起きた二・二六事件にも、日蓮主義は影響を及ぼしていた。こ
 の事件は天皇親政を実現するための昭和維新を訴えて陸軍の青年将校たちが決起したク
 ーデター未遂事件である。その際に、青年将校たちは、「蹶起趣意書」というものをま
 とめているが、その冒頭にも「八紘一宇」が登場する。「八紘一宇」が「国体」という
 ことと結びつけられているのである。青年将校たちは、田中の影響を直接受けていたわ
 けではないものの、強烈な日蓮信仰をもつ「北一輝」には強く影響されていた。日蓮信
 仰は、近代の日本社会において、国体と結びつくことで、政治的にも重要な意味を担っ
 たのである。
・国体とは、天皇を中心とした政治的な秩序のことを意味するが、単に日本の政体を客観
 的に説明するものにとどまらず、特別な価値を与えられていた。
・国体ということばを使いはじめたのは、幕末の尊王攘夷の思想を先導した「水戸学」に
 おいてで、水戸藩士の会沢正志斎が、その著書「新論」の冒頭に国体の章を設けたのが
 最初だった。  
・明治22年の公布された「大日本帝国憲法」や、その翌年に発布された「教育勅語」に
 おいては、天皇の「大権」を中心とした国体が絶対的な価値を有するものとして強調さ
 れるようになる。 
・そして、大正14年に制定された「治安維持法」の規定では、国体の変革をめざす組織
 を結成することは犯罪として取り締まりの対象となった。
・そして、昭和12年には、文部省が「国体の本義」という書物を刊行し、国体の神聖性
 を強調するようになる。そこでは、「万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを
 統治し給ふ」ことこそが、「我が万古不易の国体である」と規定された。天皇について
 は、「現御神」である点が強調された。「現御神」は「現人神」とも呼ばれる。
 
田中智学の日蓮主義と国体論
田中智学の組織した「国柱会」は、現在も、東京江戸川区の一之江に本部を構え、活動
 を展開している。  
・江戸庶民のあいだでは法華講が盛んで、有力なものが八つあったことから「江戸八講」
 と言われた。
・講というのは、もともとは仏教の儀式である法会のことをさしている。ところが、時代
 が進むと、共通の信仰を持つ人間たち、とくに庶民の集まりを講と言うようになった。
・江戸では、日蓮に対する信仰が盛んで、日蓮のことは「お祖様(おそっさま)」と呼ば
 れた。 
・両親の亡くした智学は、10歳のときに、父親が熱心に信仰していた上に、その菩提を
 を弔うためということで、日蓮宗の寺に入門し、僧侶としての道を歩むことになった。
 僧侶になった智学は、日蓮宗大教院で学んだりもするが、肺炎にかかって生死の境をさ
 まよったりしたため、結局は、19歳のときに還俗している。
・還俗した智学は、明治13年に仲間とともに日蓮仏教の研究会である「蓮華会」を発足
 させる。この蓮華会が明治18年には「立正安国会」、そして大正3年には「国柱会」
 へと結びついていく。
・本格的な活動をはじめた智学は、まず日蓮宗の宗門の改革ということを訴えた。だが、
 すでに智学は還俗して、俗信徒として活動しているわけで、そうした在家仏教というあ
 り方を正当化する理論を打ち立てなければならなかった。
・そこで、明治19年には、「仏教夫婦論」という演説を行い、明治22年には「仏教僧
 侶肉妻論」を書き上げている。「仏教夫婦論」では、仏教は死人を相手にするのではな
 く、生きた人間を相手にすべきであると説いた。そして明治22年には、「本化成婚式」
 と呼ばれる仏式の結婚式を制定している。
・これは、日本で最初の仏式結婚式であったと言われるが、それまでの結婚式は、家庭や
 料亭などで行われるもので、宗教がかかわることはなかった。神式の結婚式も明治33
 年に、当時皇太子の地位にあった大正天皇が宮中三殿で行った結婚式が最初であった。
 そのことが刺激となって、一般国民も神式の結婚式を挙げるようになった。
・一般の宗教において儀式を司るのは、聖職者と呼ばれる宗教の専門家である。仏教なら
 僧侶、神道なら神主、キリスト教なら神父や牧師が行うのである。ところが智学は、儀
 式を専門の宗教家には任せず、国柱会の会員がそれを担当する方向性を選択した。会員
 であれば誰でも儀式を司れるようにしたのである。素人でも儀式を司ることができるな
 ら、僧侶などの聖職者は要らなくなる。それによって、在家主義を徹底できるわけであ
 る。
・日本仏教の各宗教において、僧侶と俗信徒との距離がもっとも近いのが浄土真宗の場合
 である。浄土真宗では、阿弥陀仏の絶対性が強調され、信徒であればだれでも唱えるこ
 とができる念仏の実践に中心がおかれているために、僧侶に対して特別な地位は与えら
 れていない。そもそも浄土真宗の僧侶は出家ではないのである。
・日蓮がもっとも関心を注いだのは、法華経にこそ釈迦の真実の教えが示されていること
 を明らかにし、それを否定する他の信仰が社会にはびこるのを阻止することであった。
 日蓮は、個人の救済ということには関心を向けず、現実の社会のあり方を変えることに
 活動の中心をおいた。 
・ところが、日蓮没後の日蓮宗の宗門は、日蓮が行った国家を諫める活動をしなくなる。
 開祖の教えを学ぶのではなく、天台教学に回帰していった。智学はそうした宗門のあり
 方に満足できなかった。「国柱会」の運動は、日蓮の本来の主張に立ち返ることを目的
 としたものであった。 
・日蓮は、単に仏教の世界を深めていくことだけに関心をむけるのではなく、常に現実の
 社会、現実の日本社会のあり方ということを問題にした。智学は、その日蓮の精神を受
 け継ぎ、それを現実化していくために、立正安国会や国柱会の運動を推し進めたわけで
 ある。

宮沢賢治の法華文学
・「雨ニモマケズ」と言えば、宮沢賢治の代表作である。実は、原文に関して、重要な問
 題がある。この「雨ニモマケズ」は、「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」では終わ
 っていない。その後には、一行あげて次のように記されている。
 南無無辺行菩薩
 南無上行菩薩
 南無多宝如来
 南無妙法蓮華経
 南無釈迦牟尼仏
 南無浄行菩薩
 南無安立行菩薩
 おそらく多くの人たちは、これを見て、こんなものが「雨ニモマケズ」の後についてい
 るのかと驚くに違いない。
・「雨ニモマケズ」は、宮沢賢治が亡くなってから発見された膨大な数の遺作のうちの一
 つであり、彼の生前には、本人以外は知らないものであった。
・賢治が亡くなったのは、昭和8年9月21日のことだ。
・昭和11年11月には、賢治の故郷である花巻には、「雨ニモマケズ」の詩碑が建立さ
 れるが、そこの刻まれているのは、「野原ノ松ノ林ノ陰ノ」以下の後半の部分である。
 この石碑にも、タイトルはつけられていない。
・太平洋戦争に突入し、次第に戦局がかんばしくなくなっていた昭和17年に、大政翼賛
 会が発行した「詩歌翼賛」というパンフレットに、「雨ニモマケズ」が収録された。
・「雨ニモマケズ」をただの詩として考えるならば、最後の部分は余計なものに思えるか
 もしれない。しかし、賢治の信仰の表明ととらえるならば、最後の部分こそがその本質
 に違いないからである。   
・賢治がこの「雨ニモマケズ」の最後を、本尊曼荼羅で締めくくったのは、彼には日蓮に
 対する信仰があったからである。しかも、賢治は、田中智学の「国柱会」の会員であっ
 た。
・賢治が「国柱会」に入会したのは、大正9年11月のことで、当時彼は25歳だった。
 大正10年1月には、花巻から上京し、「国柱会」の本部を訪れている。そして、そし
 て、校正や筆耕の仕事をしながら、「国柱会」の街頭布教や奉仕活動に参加している。
 ただ、大正10年8月には、妹のトシが病に罹り、それで賢治は帰郷している。そして、
 その年の12月には、稗貫農学校(のちの県立花巻農学校)の教諭に就任した。それ以
 降、賢治は花巻にとどまり、東京に出て、ふたたび「国柱会」の活動に携わることはな
 かった。
・妹のトシが亡くなったあと、賢治は、その遺骨を三保の最勝閣に持参している。それは
 現在、「国柱会」の本部のある東京江戸川区一之江の妙宗霊廊に安置されている。
・日蓮宗では、日蓮の書いた本尊曼荼羅を、その後を受け継ぐ法主などが自らの手で書写
 し、信徒に配布する場合がある。1990年代のはじめまで、創価学会に入会するとい
 うことは、日蓮宗の一派である日蓮正宗に入会するということでもあり、その際には、
 日蓮宗のかつての法主が書写した本尊曼荼羅のコピーが信徒に授与された。
・賢治は生涯、日蓮信仰を持ち続けたと考えることができる。賢治は、日蓮主義者として
 その生涯をまっとうしたのである。
・賢治が信仰をもつ上で、まず最初に影響を与えたのは、父の宮沢政次郎である。政次郎
 は熱心な浄土真宗の門徒であった。浄土真宗の宗祖は「親鸞」であり、今日「親鸞」
 といと、すぐにその言行録である「歎異抄」のことがあげられる。
・だが、「歎異抄」については、室町時代の真宗中興の祖、「蓮如」が、信仰を誤る危険
 性があるとして禁書扱いにしてしまった。そのため、明治に入るまで、「歎異抄」を読
 んでいたのは、真宗の一部の僧侶に限られていた。
・賢治は、盛岡中学校を卒業した19歳の秋、父のやっていた質屋の店番をしていたとき
 に、「妙法蓮華経」を読んで身震いするほど感動し、そこから法華信仰を持つに至った
 とされている。 
・ただし、その時点では、大きな感動を受けたわけではなく、信仰が固まったのは盛岡高
 等農林学校(現・岩手大学農学部)に入ってから、そこを終えるまでのあいだではない
 かと主張する賢治研究者もいる。
・賢治が、「国柱会」のことを知ったのは、日本女子大に在学中だった妹のトシがスペイ
 ン風邪に感染し、病院に入院しているのに付き添うため、母親と上京したときだった。
・賢治は、大正15年3月末に、県立花巻農学校を依願退職し、8月に花巻町下根子桜に
 あった宮沢家の別宅に「羅須地人協会」を設立している。協会とは言っても、賢治一人
 で、農作業に従事しながら、夜、農民たちを集めて、農業技術や普遍言語として作られ
 たエスペラント、科学、さらには、彼が名づけた「農民芸術」などを教えたという。
・賢治の思想についてつづったものが「農民芸術概論綱要」であった。その冒頭には、次
 のようなことが書かれている。
 「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」
 「自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する」
 「新たな時代は世界が一つの意識になり生物となる方向にある」
 「正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである」
・「八紘一宇」という智学の考え方に通じるのが、賢治の造語した「イーハトーヴ」であ
 る。「イーハトーヴ」は一つの地名である。一般的に、「イーハトーヴ」は、賢治の考
 えた理想郷と考えられる。岩手県が「イーハトーヴ」と呼ばれることで、そこは、賢治
 が書いた童話の登場人物たちが生きる架空の国に変貌していった。そこから、理想郷を
 求める賢治の願望を読み取るとするなら、智学の「八紘一宇」とも重なり合ってくるよ
 うに思われる。
・賢治には、魅力的なことばを造語する特別な才能があった。たとえば、よく訪れた北上
 川西岸を「イギリス海岸」などと呼んだことがあげられる。
・賢治文学の愛好家のほとんどは、日蓮主義の信仰など持っていないので、賢治の法華信
 仰や国柱会とのかかわりを無視しようとする。しかし、「雨ニモマケズ手帳」がもっと
 もそれを明確に示しているように、賢治の信仰は、法華信仰で一貫しており生涯「国柱
 会」の強い影響のもとにあった。
 
石原莞爾の満州国
・石原莞爾は、何より満州事変の首謀者として知られている。石原は、柳条湖事件を起こ
 して、日本が満州におけて軍事的に展開するきっかけを作り、関東軍主任参謀として関
 東軍が満州全土を瞬く間に制圧することに貢献した。
・石原は、宮沢賢治と同様に「国柱会」の会員であった。石原の「国柱会」とのかかわり
 は、賢治よりもはるかに深かった。   
・石原莞爾は、明治22年に、山形県西田川鶴岡(現在の鶴岡市)において、旧庄内藩士
 で、飯能警察署長をつとめていた石原啓介とカネイの三男として生まれた。
・山形ということでは、国柱会にかかわった重要な人物として高山樗牛がいた。樗牛は、
 明治時代に活躍した文芸評論家で、思想家だったが、生まれはやはり鶴岡だった。
 樗牛は結核で32歳の若さで亡くなっている。石原は、樗牛が亡くなる明治35年に
 「仙台陸軍地方幼年学校」に入学し、職業軍人としての道を歩むことになる。
・石原は、明治40年に陸軍士官学校に入学する。卒業する際の学科成績は、350名中
 3位だったというから、優秀な学生であった。大正4年には陸軍大学校に入学している。
 陸軍大学校は、陸大と略称され、高級将校を養成するための機関だった。石原は、大正
 7年に卒業しているのが、次席だった。その年の陸大卒業生は60名に及んだ。
・石原の日蓮信仰が高まりを見せるのは、陸大を卒業してからのことである。大正8年後
 半から、日蓮研究と中国研究に没頭したという。
・石原は、大正9年に田中智学の講演会に参加し、そして、国柱会館を訪れて、智学に面
 会し、国柱会に入会している。宮沢賢治が国柱会に入会したのも、石原と同じ大正9年
 のことだった。両者の入会はほぼ同時期であるということになる。
・石原は、陸大時代に初めて結婚しているが、わずか2カ月で離婚し、国柱会に入る前の
 年の大正8年に国府てい子と再婚している。てい子にも同じ信仰があった。
・大正12年9月1日に関東大震災が起こる。この地震では、340万人余が被災し、
 14万人以上が死亡、もしくは行方不明となった。震災による混乱状態ののなかで、朝
 鮮人に対する虐殺事件も起こった。
・大正12年12月には、衆議院議員を父に持つ「難波大助」という無政府主義者が、当
 時摂政の地位にあった皇太子を狙撃する事件が起こった。「虎ノ門事件」である。
・石原は昭和3年には、関東軍の作戦主任参謀に就任している。それよって石原は、満州
 事変の首謀者となっていくことになるのだが、彼の特徴は、独特の戦争観を持っていた
 ことにあった。それはのちに「最終戦争論」や「戦争史大観」にまとめられることにな
 る。      
・大規模な地震が起こった後に生まれた混乱状態のなかで、戦争を予言するというのは、
 日蓮が行ったことでもあった。日蓮は、鎌倉に出てきた後、正嘉の大地震を経験し、さ
 らにはその後の風水害や飢饉などの原因を正しい仏法が妨げられていることに求めた。
 その際に日蓮は、薬師経という経典をもとに、このまま事態が放置されれば、外国が攻
 めてくると国内で戦乱が起こることを予言していた。この予言は、蒙古襲来という事態
 が起こることで的中した形になったが、石原の場合にも、予言の根拠になったのは信仰
 だった。
・もっとも、「戦争史大観」にしても、「最終戦争論」にしても、昭和15年に刊行され
 たもので、昭和15年8月に石原は東條英機と対立して退役し、立命館大学の講師に就
 任し、予備役に編入されていた。したがって、ここに述べたことが、石原が満州事変を
 起こしたときの考え方そのものとは言えないが、彼が、日本を中心とした勢力とアメリ
 カを中心とした勢力とが将来において最終的に総力戦に突入することを想定していたこ
 とがうかがえる。 
・この最終戦争に備えるには、まず天皇を盟主とする日本の満州、そして中国との同盟関
 係を成立させる必要があった。ただ、「東亜諸民族の団結」とは言っても、それはあく
 まで日本側が考えたことで、満州人や中国人が納得できるものではなかった。したがっ
 て、団結ということは、事実上、日本による満州や中国の占領ということになっていく。
・満州国が創立される直前の昭和7年1月に、大阪朝日新聞社主催で座談会が開かれた。
 この座談会には石原も出席していて、満州国を新しい国家として独立させるかどうかが
 議論になったが、石原は、日本の租借地である関東州はすべて返納し、日本の機関も最
 小限に縮小すべきだという提言を行った。新しい国家には、日本人も中国人も区別なく
 入るものとし、日本人については、日本の国籍から離脱し、満州国に国籍を移すべきだ
 というのである。  
・石原が、満州国独立の方向に傾いていったのも、八紘一宇の理念に影響されてのことだ
 ったのではないだろうか。  
・ところが、関東軍の大幅な組織替えが行われ、石原は満州を去ることになった。石原が
 満州を去ることで、満州国は日本の傀儡化の道を一気にたどった。
・石原のなかには、「戦争史大観」や「最終戦争論」にも示されたように、日米決戦を経
 ての世界統一という壮大なビジョンがあった。それは、智学の「八紘一宇」の考え方を
 基盤としたものであった。ところが、一般の軍人には、そうしたビジョンは存在するは
 ずもなかった。 
・石原は、日本が戦争に敗れて後、故郷鶴岡の北に位置する飽海郡高瀬村(現在の遊佐町)
 に移り住み、そこで食糧増産のため、三十余名の国柱会の青年たちとともに砂丘地帯の
 開墾を行った。この点では、宮沢賢治と似ている。そして、「日蓮教入門」という本の
 執筆を続け、死の直前に脱稿した。石原も、賢治と同様に、日蓮主義者としての生涯を
 閉じたのである。
 
日蓮の誘惑
・現在からふり返って考えてみるならば、なぜ戦前の時代において、多くの人間が、日蓮
 に強い関心をもち、日蓮主義を信奉するようになったのか、不思議にも思えるだろう。
・鎌倉新仏教の開祖たちが開いた宗派は、それはどれも現在では大宗派に発展しているた
 め、多くの人間たちの信仰を集めている。そのなかで、日蓮宗は、必ずしももっとも信
 徒の数が多いというわけではない。もっとも数が多いのは、浄土真宗である。
・しかも、浄土真宗の開祖である親鸞に対する人気は高い。最近でも、作家の五木寛之が、
 親鸞を題材とした大河小説を書き、それはベストセラーになっている。浄土真宗の信仰
 を持たない人間でも、親鸞を鎌倉新仏教の代表としてとらえている人は少なくない。
・しかし、親鸞に対する関心がこれだけ高まったのは、実は戦後になってからのことであ
 る。逆に、明治時代には、親鸞についての歴史的な資料があまりにも乏しかったため、
 「親鸞不在説」が唱えられたことがあった。「歎異抄」が広く読まれるようになるのは、
 むしろ戦後になってからのことである。
・現代に近づけば近づくほど、親鸞は卓越した宗教家として評価されてきたわけだが、日
 蓮主義が力を持った戦前においては、親鸞に対してそうした評価は見られなかった。む
 しろ、日蓮の方がはるかに高い評価を得ていた。しかも、その人気は相当に広い範囲に
 及んでいたのである。
・日蓮宗というのは近代になってからの呼び名で、それ以前は法華宗と呼ばれていた。
・近代においては、日蓮系の新宗教を生んでいくことになる。その先駆けとなったのが
 「霊友会」である。霊友会のもとを作ったのは、「西田無学」である。西田は、法華経
 にもとづく先祖供養の信仰を確立していった。その西田のもとに預けられたことがあっ
 たのが、霊友会の創始者となる久保角太郎である。
・この霊友会からは、孝道会、霊紹会、思親会、そして立正佼成会などが生まれた。立正
 佼成会は、霊友会から法華経による先祖供養とともに、法座という集まりの仕組みを取
 り入れ、それを基盤に戦後大きく発展していくことになる。
・もう一つ、戦前に日蓮主義の影響を受けながら発足したのが、牧口常三郎を初代の会長
 とする創価教育学会である。牧口は、智学の講演も聞いたことがあったが、国柱会の運
 動には引かれなかった。牧口は、他の宗教や宗派、あるいは日蓮正宗以外の日蓮宗の信
 仰を認めず、伊勢神宮から配られる新宮大麻を拒否して、それを焼却したりしたため、
 不敬罪と治安維持法違反に問われ、逮捕拘禁され、獄死している。この創価教育学会か
 ら創価学会が戦後発展していくことになる。
  
神憑りする魔王、北一輝
・宮沢賢治の童話として、「風の又三郎」や「銀河鉄道の夜」はよく知られている。どち
 らも、タイトルは卓抜である。しかし、この二つの作品を読んだことがあるという人で
 も、それがどういった内容の作品なのか、どこが面白いのかと聞かれると、答えに窮す
 るのではないだろうか。 
・「北一輝」は、青年将校たちが昭和維新を掲げて決起した「二・二六事件」が起きた際
 には、民間人であったにもかかわらず、その首謀者として逮捕され、死刑判決を受ける
 が、死刑に処されるまで、獄中において法華経を読誦し続けたとされている。
・ノンフィクション作家の松本清張は、北一輝について、国家主義者になっていたと述べ、
 「理論家としての超国家主義者でもなんでもなく暴力的威嚇行動を背景にした事件屋や
  恐喝屋であり、ロンドン軍縮会議以後は、革新青年将校らの動きを威力背景として財
  閥に金を出させる政治的恐喝屋であった」と評している。
・北一輝は、佐渡の両津で酒造業の家に生まれ、地元の佐渡中学(現在の佐渡高校)に進
 む。北一輝は、目の病で右目を失い、義眼になるが、中学退学後は、目の治療のため、
 東京の闘病生活を送った。弟が早稲田大学予科に進むと、北も東京で弟と同宿し、大学
 の授業をもぐりで聴講したようだ。24歳のとき、「国体論及び純正社会主義」を書き
 上げている。
・北には、日蓮信仰、法華経信仰があった。ただし、そのあり方は、国柱会周辺の日蓮主
 義者の信仰とは著しく異なるものであった。北の信仰はかなり異様なものであった。そ
 のため、周囲の人間は北のことを「魔王」と呼んでいた。
・宗教教団の開祖をはじめ、霊能者となる人間には、元々そうした資質をもっていた者が
 少なくない。それは、精神医学の観点からすれば、総合失調症であったとも考えられる
 が、周囲にそれを宗教的に解釈する人間が存在すると、病として発症せずに、宗教的な
 活動の土台となっていくことがある。 
・日蓮自身は、比叡山で学んだ学僧であり、その思想には神秘的な要素は含まれていなか
 った。かえって日蓮は、真言宗における真言密教や、それを取り入れた天台宗のあり方
 に対しては厳しい批判を展開していた。
・その点からすれば、本来日蓮宗の信仰には、神秘的な要素、密教的な側面は含まれない
 はずなのだが、その後の法華経、日蓮宗においては違った。それだけ、日本社会に対す
 る密教の影響が大きかったことになる。
・現在でも、日蓮宗の本山の一つである千葉県の「中山法華経寺」では、真冬に「大荒行」
 という修行が実践されている。それは寒中において水垢離をくり返すことで、「法力」
 を身につける機会として位置づけられている。
・観音菩薩の功徳について記した観音経は、法華経の一部を構成しており、その点では、
 法華信仰にもとづくものと考えられなくもない。しかし、観音経は法華経から独立した
 経典としてとらえられることが多く、観音信仰は、必ずしも法華信仰に結びつくという
 わけではない。  
・北一輝の最後の著作「日本改造法案大綱」では、国家の危機を踏まえて、3年間の憲法
 停止によって、衆議院と貴族院を解散し、戒厳令を敷くという大胆な提言がなされてい
 る。華族制度の廃止、普通選挙の実施、私有財産の制限などは、社会主義、あるいは国
 家社会主義的な大胆な改革案と言えるものである。たしかにそれは、政財界の腐敗を糾
 弾し、農村の窮乏を救うために決起した二・二六事件の青年将校たちには、強い影響力
 をもったのかもしれない。  
・しかし、それを執筆して以降の北は、目立った動きはしていない。むしろ、神秘の世界
 に沈潜する一方で、松本清張が指摘しているように、政治的恐喝屋として暗躍していた。
 やはり、二・二六事件の首謀者とされなければ、北に対する高い評価は生まれようがな
 かったように思われる。   
     
井上日召と血盟団事件
・昭和9年11月、東京地方裁判所において「血盟団事件」の判決が言い渡されたときの
 法廷は、異様な法廷だった。
・血盟団事件は、日蓮宗の僧侶、井上日召に率いられた血盟団のメンバーが、昭和7年2
 月から3月にかけて、前大蔵大臣井上準之助と、三井財閥の総帥である団琢磨を暗殺し
 た事件である。 
・血盟団のメンバーに対する判決の言い渡し自体が異様なものだった。裁判長は藤井五一
 郎という人物だった。この藤井裁判長による寛大な判決に対して、被告人たちは、感激
 の身を震わせ、段々と頭を低く垂れてしまったのは当然のことだが、裁判長自身が最後
 に、もし刑が決まって服罪するならみんな体を丈夫にして・・・」と言ったところで、
 泣き出してしまった。語尾がはっきりせず、唇を噛んで面を伏せてしまったということ
 だ。  
・実は、藤井は最初からこの裁判を担当していたわけではなかった。最初の裁判長は酒巻
 貞一郎であった。ところが、井上日召らは、酒巻裁判長が、自分たちがことを起こした
 動機や原因について十分に話を聴いてきれないとして、裁判長の忌避を申し立てた。酒
 巻裁判長は、それは訴訟の遅延を目的とするものだと却下した。ところが、その後、酒
 巻裁判長は、健康上の理由で辞表を提出し、退職ということになった。それも、血盟団
 事件の法廷が紛糾した責任を取ってのことだった。    
・藤井裁判長のもとでは、被告人は自分たちの考えを法廷の場で積極的に主張することが
 可能となる。その様子が新聞等で報道されると、国民は被告人たちの主張に共感するよ
 うにあり、東京地裁には減刑嘆願書が30万通も寄せられた。これが、裁判に影響を与
 えたことは間違いないだろう。当時の日本国民のあいだにはテロを正当化する「空気」
 が存在したのである。
・「血盟団事件」のほぼ2カ月後には「五・一五事件」が起こる。五・一五事件は、海軍
 の青年将校たちが引き起こしたもので、首相官邸に押し入って、当時の犬養毅首相を暗
 殺したものである。襲撃した人間のなかには、血盟団の生き残りも含まれていた。
・海軍の将校たちは海軍の軍法会議、陸軍士官学校生は陸軍の軍法会議にかけられ、血盟
 団の加わった民間人は東京地方裁判所で裁かれた。ところが、血盟団事件のときと同じ
 ように、国民のあいだに助命嘆願書運動が展開された。それによって、117万通もの
 助命嘆願書が送られた。
・軍法会議や裁判所も、そうした空気に逆らうことができなかったのか、死刑を求刑され
 た海軍将校が金庫15年となるなど、大幅に減じられた。
・血盟団事件と五・一五事件の裁判でテロに対する寛大な処分が下されたことが、4年後
 の昭和11年に起こる「二・二六事件」にも結びついていく。この事件は、陸軍の青年
 将校が「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げて、1500人近い兵士を率いて起こしたク
 ーデターであり、高橋是清大蔵大臣などを殺害し、鈴木貫太郎侍従長にも傷を負わせた
 ものである。    
・この事件に関与した人間は、民間人の北一輝や西田税を含め、特設軍法会議で裁かれた。
 これは、通常の軍法会議とは異なり、一審制で非公開であり、弁護人もつけられないと
 いう特異な形態のものであった。17名の将校が叛乱罪で死刑となり、1週間後に執行
 された。北と西田も死刑判決を受け、これも5日後に執行されている。
・事件に関与した将校たちは、血盟団事件や五・一五事件という先例があったため、厳し
 い刑が下ることはないと楽観視していた。ただ、事件の規模は、二・二六事件のほうが
 はるかに大きく、単なるテロ事件ではなく、大政の転覆を狙うクーデターとしての性格
 をもっていた。将校たちは、天皇に対して昭和維新ということを訴えたものの、天皇自
 身は、彼らを「賊軍」と見なした。
・この時、参謀本部作戦課長であった石原莞爾は、反乱軍鎮圧の先頭に立ったのである。
井上日召は、明治19年、群馬県川場村に生まれる。父は熊本の生まれで、その兄は、
 士族叛乱の一つである神風連の乱に参加した人物だった。井上は、前橋中学に進んだも
 のの、大きな悩みを抱えるようになってから、キリスト教に接近し、プロテスタントの
 教会で洗礼を受けた。しかし、キリスト教には馴染むことができず、各地を放浪後、早
 稲田大学予科に入学した。ところが学業に専念することができず、放蕩生活を送った後、
 早稲田を退学し、大陸にわたることを考える。明治43年には満州にわたり、満鉄の従
 業員養成所に入って職業訓練を受けると、陸軍の諜報活動を手伝うようになる。その一
 環で、中国の革命運動にも関与する。
 
「死なう!死なう」  
・「死なう団」は通称であり、正式な名称は「日蓮会殉教衆青年党」である。創立者は江
 川桜堂という人物だった。「死なう団」という名が生まれたのは、この団体が、昭和8
 年7月に、横浜から鎌倉の鶴岡八幡宮まで、題目を唱えながら行進したとき、同時に、
 「死のう」と叫んだことによる。
・日蓮を信仰する者たちにとって、日蓮の生涯は彼らが追い求めるべきモデルであり、法
 難を被ることが自己目的化してしまう危険性があった。そこには、法華経にある不惜身
 命ということばの強い影響もある。
・日蓮会の人間たちは、あえて法難を被るような行動に出て、彼らがもっとも尊いと考え
 る殉教を実現しようとした。彼らの信仰活動は、表向きはかなり攻撃的で、過激なもの
 にも見えるが、実態としては、法難を被るほど社会にとって危険なものではなかった。
 そこが、血盟団とは異なるのである。その点で、「死なう団」は不徹底な試みであり、
 運動の方向性も目標も、結局は具体的に定まっていなかったとも言える。
・「死なう団」は、日蓮主義が生んだ時代のあだ花なのかもしれない。だが、打算という
 ことと無縁であったがゆえに、今にも現代の人間のこころを揺さぶるものを示している
 のである。 
    
国立戒壇という亡霊
・日本が満州事変から日中戦争、そして太平洋戦争へと進んでいくと、戦意昂揚のために、
 「八紘一宇」がスローガンとして強調された。日本が中国やアメリカを相手に戦争をし
 なければならないのは、世界全体を一つの家のように統一するためだと、戦争を正当化
 するためだった。   
・血盟団の井上日召は恩赦で釈放され、結局、昭和42年まで生き続けている。戦後は、
 公職追放の対象になったものの、「護国団」という右翼団体を組織して活動した。
・戦後は民主主義の時代になり、天皇のあり方も大きく変化したことで、日蓮主義は力を
 失い、智学がそれと結びつけた天皇を中心とした国体という考え方も時代遅れのものと
 して切り捨てられていった。
・「八紘一宇」ということばも、戦後は、日本を軍国主義に追いやったスローガンとして
 否定され、それを掲げるのは、右翼団体に限られるようになる。   
・戦後の宗教のあり方として特に注目されるのが新宗教の台頭という現象である。とくに、
 高度経済成長の時代に入ってからは、法華系・日蓮系の新宗教が急速に拡大し、巨大教
 団へと発展していく。創価学会や立正佼成会、霊友会などである。こうした新宗教の教
 団は、高度経済成長の波に乗って、労働力として地方から都会へ出てきた人間たちのこ
 ころをとらえ、彼らを会員とすることに成功する。
・創価学会が政界に進出した唯一の目的は、「国立戒壇」の建立にあるとされている。
 「国立戒壇」とは、日本が国家として建立する日蓮を開祖とする法華経本門の戒律を授
 ける場所のことを意味している。 
・「国立戒壇」の建立には、国会での議決を必要とするわけで、それは、日蓮正宗の信仰
 に特別な価値を認めることになる。それは、日蓮正宗を国教にすることと等しいと受け
 取られても不思議ではない。
・公明党が誕生した昭和39年末の時点で、創価学会の会員数は500万世帯に到達して
 いた。もちろん、500万世帯は公称の数字であてにはならないが、事実なら、この時
 期、日本全体の世帯数は2500万世帯程度なので、5軒に1件が創価学会の世帯だっ
 たことになる。 
  
おわりに
・日蓮主義は、智学の説いた国家戒壇の考え方が創価学会に取り入れられることによって、
 戦後の日本社会においても重要な働きを示した。国立戒壇の考え方から、創価学会の政
 界進出がはじまり、それが公明党の結党に結びついたのだとすれば、現在の日本の情勢
 に、間接的な形でではあれ、国立戒壇の考え方は影響を与えていることになる。
・日蓮という存在がなければ、あるいは田中智学や本田日生が日蓮主義を標榜しなかった
 ならば、明治の後半から大正、昭和初期の日本社会は、かなり違ったものになっていた
 かもしれない。しかも、「八紘一宇」は、日本の海外侵略を正当化するスローガンとし
 て用いられた。 
・そして、「八紘一宇」ということばは、突如、一人の議員の手によって、現代の国会の
 場に登場した。しかもそれは、日本建国以来の国家の理想を示すことばとして取り上げ
 られたのである。
・歴史学の世界では、神武天皇が実在したなどとはまったく考えられていない。また、神
 武天皇が天照大神の末裔だなどとも考えられていない。にもかかわらず、昭和41年、
 紀元節は建国記念の日として復活を遂げた。それは、宮崎の平和の塔に「八紘一宇」の
 文字がふたたび刻まれた翌年のことだった。それは、日本の国家の誕生が、現在におい
 ても神話によって説明されていることを意味する。