新老人の思想 :五木寛之

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この本は、いまからちょうど10年前の2013年に刊行されたものだ。このとき著者は
81歳だということだから、現在は91歳前後ということになる。
本の内容は、なかなか深刻な問題を語っており、高齢者の一員である私には、いろいろと
考えさせれられることが多かった。
この本の中での著者の主張は、ひと言で言うならば「老人の自立と独立」を説いたものと
言えるのだろう。
著者は、老人たちは若者たちに頼らず、老人同士で相互扶助するべきだと説いている。
しかし、はたしてそれは可能なのだろうか。たしかに、同じ高齢者世代でも、まだまだ元
気な人はたくさんいるように思える。しかし、その人たちのなかに、介護や援助など助け
が必要な同世代の高齢者のために一肌脱ごうと思える人たちが、はたしてどれぐらいいる
のだろうか。私には悲観的な見方しかできない。
というのも、そういう元気な人たちは、いままでずっと頑張ってきて、やっと自分の時間
が持てるようになり、ようやく我が世の春を謳歌できると思っている人が多いはずである。
それなのにまた、どうして他人のために、さらに頑張らなければならないのかと思うのは
当然ではないだろうか。自分は遊びもせずに、けんめいに頑張って、やっとこの状態にた
どり着いた。それなのに、どうしてあまり頑張らなかった人たちのために、また汗を流さ
なければならないのか。そうなったのは自己責任ではないのか。そう思う気持ちのほうが
強いのではないのかと私には思えてならない。
たとえ、高齢者同士の相互扶助を制度化しても、そういうそういう気持ちを心の内に持ち
ながら、手助けしたりされたりすることは、お互いに不満が募り長続きはしないのではな
かろうかと私は思ってしまう。
著者は、これからの老後は、今までの老後とはまるでちがう。そこには「人生の荒野」が
広がっていると言うが、たしかにそれが現実なのだろう。しかし、もはやそれから逃れら
れることは不可能ではないだろうか私には思えるのだ。

いままでに読んだ関連する本:
老後破綻
老後ひとりぼっち
在宅ひとり死のススメ
下山の思想
人間の覚悟


「高齢者層」ではない、「老人階級」である
・右を向いても、左を向いても年寄りばかり、という時代が、実はすぐ目の前にきている
 のだ。いや、目の前どころか、いま現在がそうだろう。
・たぶん世界中がこの日本国を、かたずをのんで見守っているにちがいない。
 中国も、インドも、明日はわが身である。この国は世界中の注目の的なのだ。
・これからますます老人は増えていく。どう生きるかより、どう死ぬかが問題となる時代
 に入ったのだ。
・明日はこうなる、というのはたしかに大問題だ。将来の予測のために学問はあるといっ
 てもいいだろう。 
 しかし、私自身の関心は、明日ではない。きょうただいま、というのが最大の問題であ
 る。
・加齢というのは、残酷なものなのだ。視力も落ちる。聴力も、反射神経も衰える。歯も
 ガタガタになる。記憶力も、判断力も、否応なしに低下してくる。
 別にこれという病気でもないのに、体が昔のように自由に動かない。オシッコさえも力
 なくチョロチョロと流れ落ちるだけだ。
・老化の意識は五十歳からあきらかにあった。車の運転をやめたのは、六十歳からである。
・企業で働く人たちの定年を延長せよ、という声が最近かまびすしい。しかし、六十歳で
 人はあきらかに老化している。自分では気づいていないだけだ。
 現代において人はなかなか死ねない。人生五十年、などという話はすでに死語である。
 人生九十年、という時代に私たちは直面しているのだ。さて、どうするか。
・人の「逝きどき」というものが、もしあるとすれば、それははたして何歳ぐらいなのだ
 ろう。  
 「それは各人各様さ。基準などなど決められるわけがないだろう」
 と、反論されても仕方がない。
 しかし、少なくとも、かつては「人生五十年」という一応のメドがあったのだ。そして
 世間の誰もが、そのことを共通の了解として受け止めていたはずである。
 今はそれがない。
・六十歳を過ぎても、まだ気力、体力があればこその雇用延長である。しかし、自分に働
 くの能力と体力が残っていると感じる場合、人は飼い殺しには耐えられまい。どんな人
 間にもブライドはあるのだ。捨て扶持で食うくらいなら、たとえ前途が不安でも自立し
 りょうと思うのではないか。 
・私は自分の実感から、六十歳では人は十分に老いていると書いた。どれほど栄養状態が
 良くなろうと、どれほど保険衛生思想が普及しようと、人は老いる。六十歳をこえて、
 まったく自己の老化を認めないというのは、あきらかに傲慢というべきだ。
 若さとは、心のもちようだけではない。思想や、信念の問題でもない。
・マスコミは、こぞってインフレがくるぞの大合唱。そのうち一万円札が紙クズになると
 いわれれば、いっそ貯金を遣ってしまおうかという気持ちになるのも無理はない。
 政府もマスコミも、金持ち老人が不景気の元凶のように非難している。老人層から若者
 への資産移行が、最大の急務と説く評論家も多い。
・なぜ高齢者たちがヘソクリを必死に握りしめて消費しないのか。それは当然だ。将来が
 不安だからである。 
 年金も当にならない。子供や孫たちに頼るのも難しい。なによりも自分たちが何歳まで
 生きるのかの予測がつかない。
・わかっていのは、下手をすれば百歳まで生きるかもしれないという事実である。長生き
 が最大の不安なのだ。 
・頼りになるのは、ささやかな貯金だけ。しかも、その貯金が円安で目減りする。さらに
 それも紙クズになるかもしれないとなれば、これはもう生きているあいだに思い出をつ
 くることぐらいしかないだろう。
・息子や孫たちに贈与すればいい、とすすめるオセッカイ連中もいる。子供たちのマイホ
 ーム建設に力を貸すとか、孫たちに学費を出すとか、税制の優遇措置はいくらでもある。
 しかし、年金がついていればこそ優しくされる老人たちがいる。相続される資産があれ
 ばこそ大切にされる親もいる。老人もその辺りはクールに見ているはずだ。
・団塊の世代は、個人差がきわめて大きいにちがいない。一方で介護を受け、寝たきりの
 グループがあり、一方で反対にエネルギッシュに活動する人びとがいる。
・健康に恵まれ、やる気にあふれているということは、幸運なことである。元気なグルー
 プは大いに働き、世の中のため、そして自分のために活躍すればいい。
・経済的にも、身体的にも、高齢者間の格差は、はなはだ大きいのである。今の高齢社会
 への不安は、結局は少数の若い世代が、多数の高齢者層を支えるという意識から生まれ
 ている。  
 そうではない道を考えるべきなのだ。格差は、同世代間にもある。それを同世代で埋め
 ればいい。
 簡単に言えば、元気で資産もある老人たちが、がんばって弱い同世代を支えることを考
 えるべきだろう。余裕のある老人は、年金を返上し、保険を使わず、うんと働いてうん
 と税金を払えばいいのだ。
・「未来の若者たちにツケを残すな」とは、よく耳にする言葉である。
 いまさらそんなことをよく言うよ、と自嘲せずにはいられない。私たちはすでにのちの
 世代に数限りないツケを残している。国の借金もそうだが、それどころではない。
 使用済みの核燃料ひとつとっても、その処理を彼らにまかせて退場するのである。
・「階級」という言葉は、かつては支配者と被支配者の関係をさした。労働者と資本家、
 プロレタリア大衆とブルジョア階級といった具合だった。
 しかし、いま私は自分を含めて、大きな階級対立の渦中にあるような気がしてならない。
・かつては世の中に「老後」という、はっきりしたイメージがあった。
 社会に出て就職する。定年までつとめて、リタイアする。退職後は年金が出るまでやり
 くりする。その後は旅行だの、写真だの、俳句だの、趣味と余暇をのんびり楽しむ。
 そんな悠々自適の老後、という夢を抱いて働いている方々は、今も少なからずおられる
 ことだろう。しかし、そういった計画はすでに現実的ではない。
・老人が変わった、という私の考えが、ますます実感をともなって強まってきた。これだ
 けエネルギーのある世代を、わずかな年金をくれてやって、ほったらかしておきだけで
 いいのか。
 様々な計画を検討して、やり甲斐のあるおもしろい仕事を与えるべきだろう。足が不自
 由でも、座業ならできる。それまでの経験や技能を生かして役立たせる分野を、本気で
 考える必要がある。
・現実の政治や経済を動かしている実力者たちの感覚の一つに、
 「その時にはオレはもう死んでこの世にはいないんだから関係ない」
 と、いう本人も気づいていない心情があるように思われる。将来、国債が紙クズになろ
 うと、その時はオレはいない、と無意識に感じていればこその現状である。
・これからの高齢化社会を生きていくためには、経済的にも、身体的、精神的にも「自立」
 の意識が必要になってくる。
 国とか、政府とか、地方自治体とか、そんなものを当てにして老後の設計を立てている
 と、必ず手痛いシッペ返しをくらうことになりかねない。
 要するに、公的な扶助を当てにするわけにはいかないのだ。
・人は誰でも病院通いをしたくない。できることなら医者の世話にならずに生きていきた
 いと思う。そのためにはどうするか。自分で細心に自分の体をケアするしかない。つま
 り日頃の養生である。
 しかし、いくら養生を心がけ、日々、健康を維持するために努力していたとしても、病
 院や事故は本人の意思とは関係なく、むこうからやってくる。世の中に病気になりたく
 てなる者は、一人としていないのだ。
 もっとも、病院好き、という人も少なからずいることはいる。毎週、あちこちの診療所
 まわりが老後の趣味、という高齢者も少なくない。
・今後、当分のあいだは、私たちは長く生きることを覚悟しなければならない。
 戦争や、さまざまな災難で、早世を余儀なくされた人びとには申し訳ないが、これから
 はほとんどの人は、長生きしなければならない。その将来は、たぶん大多数が要介護か
 寝たきりの生活だろう。六十から九十歳、プラスの三十年以上を、私たちは生きなけれ
 ばならないのだ。その世代を「第三世代」もしくは「老人階級」と呼ぶことにしたとし
 て、その時期を完走する覚悟が今の私たちにあるのか。
・いまこの国には、千二百万人あまりも腰痛で悩んでいる人がいるという。ふだん腰をか
 ばって暮らしている人は周囲に少なくない。私も二十代のことから、ずっと腰痛持ちだ
 った。 
 今でも腰痛を意識せずに暮らすことなど一日もない。しかし、それでいながら、なんと
 か今日まで働きつづけてこられたのは、下手に腰痛の治療をしなかったからではあるま
 いか。
 腰痛を治す、ということは不可能だ。人間が直立二足歩行を選択したときから、腰痛は
 人間の営みとともにある。
・超後期高齢者世代には、三つの難関が待ちかまえている。
 一つは病気である。八十歳になったら、八つの病気を持っていると覚悟すべきだといわ
 れれる。 
 二つ目は介護を受けるという問題だ。人はどこかで体が不自由になり、他人の介護を必
 要とするようになる。
 三つ目は経済的な保障である。年金は大丈夫だろう、と安心していていいのだろうか。
 子供や孫がいるから心配ない、と甘えても通用するかどうか。
・いずれにせよ、今後、高齢者が当然のように国や家族の保護を当てにすることはできな
 くなるだろう。 
 その心構えは、高齢者のレッテルを貼られた時点ではもう遅いのだ。せめて五十歳を過
 ぎたら将来の見取図を作っておくべきではありまいか。

新老人の時代がきた
・いま私が「新老人」として扱おうとするのは、年齢でいうならば六十代から八十歳代ま
 で。いま世間を騒がせている暴走老人、迷惑老人が、ほぼこの範疇に入るのだろう。
 九十になれば、もう超老人である。
・しかし、それら新老人の生態は必ずしも一様ではない。一様ではないが、共通したもの
 がある。 
 一つは、まだエネルギーがあること。定年を間近に控えていようと、退職後であろうと、
 精神的、肉体的エネルギーが残っている。人生におりてリタイア感がない。社会的にも
 活動意欲を抑えることができない。
 二つ目は、百歳社会の未来に不安と絶望感を抱いていること。いま七十歳の人は、あと
 三十年を生きなければならないのだ。その最後のシーズンが、どれほど悲惨なものにな
 るかを、すでに知ってしまっている。
・これから先は、誰もが適当に、穏やかには死ねないことを知っている。認知症か、アル
 ツハイマーか、寝たきりか、孤独死か、ガンか、いずれにせよ悲惨な将来は確実なのだ。
・死んで宇宙のゴミとなる前に、生きながら社会のゴミになる長寿の未来。
 それでいて、新老人にはエネルギーがある。体力と気力はあっても、未来への展望がな
 い。悲惨な末期高齢者の季節が待ち受けているとも予感している。  
・九十歳まで生きるとしても、あと三十年はある。気の遠くなるような時間だ。人生を二
 度生きる必要がある。 
 社会的な立場からは解放されている。解放というか、自由になったというか、要するに
 放り出されたようなものだろう。
 その数十年をどう生きるか。これまでの人生論などは、ほとんど役には立つまい。一種
 の余計者として生きなければならない。
・前向きに、プラス思考で生きることがすすめられている。趣味に生きるとか、ボランテ
 ィア活動に参加するとか、新しい分野の勉強に励み、資格を取るとか、さまざまだ。
・それはそれで、すばらしいことだと思う。しかし、いずれ人は老いる。青春の心を失わ
 なければ人は老いない、などというが、それは願望であっても現実ではない。  
 大多数の高齢者はいずれ認知症が、病気か、寝たきりで介護を受けることになるだろう。
 九十歳、百歳を過ぎて、なお活躍している人の話など夢のまた夢、というしかない。
・かつてリタイアした老人たちの仕事は、お寺参りとか、お遍路とか、ご詠歌の会とか、
 おおむねそんなものだった。いずれもただの楽しみではなく、あの世へいく「逝き方」
 の稽古だった。
・いま、ほとんどの老人たちには、余生をさらに「充実して生きる」ことがすすめられて
 いる。時間と、ある程度の経済力を持った老人たちが、暴走したり、迷走したり、疾走
 したりしている。そんな新老人が目立つ時代になった。
・人生の目的は長寿ではない。医学の任務は延命ではない。
 私のいっていることは、多くの誤解を招きかねないだろうが、じつは皆が心の深いとこ
 ろで感じている話なのではあるまいか。
・たとえ豊かな経験と知識をそなえ、体力、気力ともに充実していたとしても、そこには
 わずかなズレがある。老化は自然に進行しているのだ。その自然の劣化を認めることが
 できないこと、それ自体が老化なのである。 
・私に言わせれば、高齢者が日常の必要として車を運転するのは、やむを得ないことだ。
 しかし老人がポルシェを疾駆させたりするのは、世間の迷惑というものだ。それは夢で
 あっても、決して理想ではない。
・車の運転は、老化を防ぐ有効な方法の一つであるという。たしかにそういう面もあるこ
 とを私も知っている。同時に手足の不自由な高齢者にとって、車は残された社会生活に
 必要な手段でもある。アメリカでオートマチック車が必要とされたのは、日々、買い物
 その他で遠距離を行き来しなければならない高齢者のためだった。
・人は二十代から老いはじめるのだ。いかに壮健で、いかに気力にあふれていようとも、
 すでに「人生五十年」をはるかに過ぎていることの自覚を持つ必要がある。一部の例外
 者を除いて、私たちは日々、老いていく存在であることを正しく認めなければならない
 のだ。  

新老人 五つのタイプ
・タイプA 肩書き思考型
 定年で退職したあとも、いろいろなことに関わって、さまざまな肩書きを持つ人びと、
 会社を辞めてみて、はじめて社名の影響力の大きさを実感するのは当然のことだ。
 六十歳を過ぎれば、重要なポストに選ばれるエリートは別として、大多数はふつうの人
 になる。
 それがどれほど不便なことかは、現役時代にはほとんどわからない。名刺に肩書きがな
 くなったあとは、ただの個人でしかないのである。
 他人は今のその人の立場しか考えない。そして、無名であることに慣れることができる
 人と、一介の個人になりきれない人がいる。
・タイプB モノ志向型
 ある年齢に達して、突然、物欲に目覚める人びとがいる。定年退職後に、多少まとまっ
 た金も手に入り、子供たちも大学を出て自立した時期だ。
 よくあるのは、一眼レフを買うタイプ。バズーカ砲のような一眼レフをさげた集団が、
 これというアングルの場所にさまざまなポーズで群をなしている。
 時計に凝る人もいる。大物は車だ。
 他人の迷惑になるわけではないから、自分の財布の許す範囲内で勝手に楽しめばいい。
 ほほえましい存在として、世間も好意的に見てくれるだろう。 
・タイプC 若年志向型
 七十歳過ぎてジーンズの似合う人は、うらやましい。しかし、あまり流行のファッショ
 ンに敏感な老人というのも、これはなかなか認知されづらいものだ。
・タイプD 先端技術志向型
 七十を過ぎてパソコンに挑戦、いまや達人の域に達した知人がいる。
 こちろん、これはこれで並はずれた才能といっていい。願わくば現役時代にその才能を
 開花させてほしかった、と皆から陰口をきかれている。
 計画性に富んだ老人もいる。現役時代から投資に関心があったり、定年後の生活費をこ
 まかく計算したりする人が、新老人の域に入ると一気にはじける。
  
・タイプE 放浪志向型
 映画の寅さんを夢見る自由人である。デイバックを背負って、よく旅をする。妻や子供
 たちとは別行動だ。

これからの人間力
・仏教は智恵と慈悲の教えである、という。まあ、そんなところだろう。仏教の智恵は、
 もともと苦の世界にどう生きるか、人間が安らかに生活するためにはどうすればいいか、
 を論理的に語る教えである。欲望や本能を制御して、悟りにいたる方法を、プラグマテ
 ィックに説く。そのハウツウがやがて学問になり、唯識とか?舎論にまで成熟する。
・しかし、平安末、激動の鎌倉初期に世に出た法然は、この仏教の智の体系を、必要ない
 と言い切った。
 智恵と慈悲より先に、信を押しだしたのだ。もちろん、その背景には、広大な知恵と慈
 悲の大海がよこたわっている。しかし、世は末世だ。海は荒れ狂い、智に慈悲にも目を
 向けるすべはない。溺れかかっている人びとに、悟りを求めることは不可能だ。
・法然はポートから一本のロープを投げて、大声で呼びかける。
 「このロープにつかまれ」と。
 ロープを投げた相手の動機はなにか、どのようにしてロープをボートに引きよせてくれ
 るのか、などと検討、議論している場合ではない。
 ただ信じてロープをつかむのだ。そうすれば必ず助かるぞ、と。
・そういう状況のもとにおいても、知的な人間はいるだろう。このロープが必ず自分を救
 ってくれることが論理的、科学的に説明されない限り、自分はロープにつかまらないと
 思う人がいる。  
 それはそれで立派な姿勢だと思う。その姿勢を貫き通して、溺死してこそ本物の科学者
 だ。
・人が宗教を意識するのは、たぶん人間はそれほど利口ではない、と痛切に感じるときな
 のではあるまいか。
 人間はそれほど利口ではない。自分もそうである。この世界には人智のおよばぬ部分が
 ある。

・考えてみると、大ボラを吹くのは、どちらかといえば南方系の人間のような気がするの
 だが、どうだろうか。
・私自身の中にも、ホラ吹きの血が流れているようだ。いわゆるサービス精神というか、
 そこからいろいろなエンターテイナーが出てくる。正しくてつまらない話よりも、おも
 しろいホラのほうを評価するという風土は、たしかにあるような気がする。
・「ホラ吹き」というのと似た表現に、「大風呂敷」という言葉がある。最近ではほとん
 ど聞くことがなくなった。  
 これは「大風呂敷をひろげる」というように使うが、「ホラ吹き」とは、ちょっとニュ
 アンスがちがう。どちらかといえば、実現可能な話を、五倍、十倍にして語るという感
 じである。
・「ホラ」というのは、奇想天外でもいいのだ。いや、そうでなければおもしろくない。
 「大風呂敷をひろげる」人には、政治家、実業家といった職業のプロが多い。
 これに対して、「ホラ吹き」は、定職がないというか、あまり具体的な話をテーマにす
 ることが少ないのではないだろうか。
・私の父親は、しがない下級公務員だったが、石原莞爾の東亜連盟に共感を抱き、その周
 辺の人と個人的につきあっていた。
 平田篤胤をよく読んでいたようだったから、多分その影響を受けていたのかもしれない。
・「真実」は良くて、「ホラ」は悪い。世間では、そう言われているし、また、そう思わ
 れているはずだ。 
 しかし、「おもしろさ」というのは、真実よりも大事なことだと思うこともある。
 なぜかと言えば、人は心の中で「本当のこと」を、無意識に感じているからだ。
・「本当はこうなんだよ」
 と得々と語る人は、相手のそんな心の動きには関心がない。「痛い真実」というのは、
 相手はすでにひしひしと感じている。
・真実は私たちの周囲に満ち満ちている。そこから目をそらそうというわけではない。
 人は自分を取り巻く真実が重ければ重いほど、そこに一陣の涼風のように吹き込む愉快
 な時間を求めるものなのだ。
・考えてみると、いわゆる「お説法」というのも、上質な「ホラ」の一種かもしれない。
 極楽浄土の話も、地獄の話も、実際には誰も行ったことのない話しなのだ。
 古来、宗教は人びとに「真実のホラ」を語り続けてきた。それを聞く人びとは感動し、
 信仰に導かれる。「おもしろさ」とともに、「ホラ」には「ありがたさ」が必要なのか
 もしれない。
 
元気で長生きの理想と現実
・最近、つくづく思うことがある。
 それは、人間、生きているだけでも大変だ、ということである。なにもしないで生きる、
 それだけでも人生とはじつに大変なことなのだ。
・「夜と霧」のエピソードがある。強制収容所ではもちろんのことながら、生きるだけで
 も大変だった。しかし、極限状態でなくても、生きることは大変である。されに最近で
 は、人間が無理やり生かされるという状況が出てきた。
・長寿社会と言うが、本当にすべての人が長く生きることを望んでいるのだろうか。
 私の実感からすると、七十歳を過ぎたことから、人は一般に生きることに疲れを感じ始
 めるものだ。恵まれた環境で、日々生きることに歓びと生き甲斐を感じている人はいい。
 しかし、現実の問題として、人間という動物の自然な生存期限は、はたしてどれくらい
 のものなのか。  
・生きることに疲れる、というのは、当然のことながら身体的なものだ。しかし、そのほ
 かに精神的な疲労もある。
 俗に「お迎えがくる」などと言うが、そろそろこの世におさらばしたい、と感じる時期
 が人にはあるものだ。
・一日でも長く生きたい、と願いつつ、人は心の底で、「もうそろそろいいかな」とふと
 思う時があるのではないか。 
・医学が人の生存を無二の天命と考えた時代が長く続いたこともあり、私たちは長寿を無
 条件にめでたいことと考えがちである。
 しかし、人の天命は、「人生五十年」の時代から大幅に延びてきたとはいえ、はたして
 二倍と考えていいのだろうか。
・老いは人間のエントロピーである。老化を避ける道はない。どれほどアンチエイジング
 に努めても、限界はある。
 いまや、アンチではなく、ナチュラルな老化をこそめざすべき時なのではあるまいか。
・私がいう二十一世紀の新世界とは、医療制度が充実し、技術も進歩することで私たちは
 長生きする。やがて人生百年ということが、当たり前になってくるかもしれない。
 そんな社会を、人類ははじめて体験するのだ。
 これまで「生き方」といえば、せいぜい六十、七十までの人生をコントロールすること
 だった。やがて百歳社会が普通になると、歴史上はじめての世界が出現することとなる。
・人生五十年の前半と、後半五十年の生き方は、まったくちがう。人間の生き方は一つだ、
 終生変わらぬ歩調で歩めばよい、などと言ったところで、そうはいかない。
 なぜかと言えば、加齢、高齢化によって人間は変化するからである。そこには未知の世
 界が控えているのだ。それが私のいう「新世界」である。
・高齢者の医療と介護には、おどろくほどの社会的支出が必要だ。ある意味で、それは大
 きな産業でもある。子供や若者を育てることよりも、はるかに多くの公的支出がそこに
 向けられることになる。
・「老人を処分せよ!」という、新しいファシズム運動が起こる危険性はゼロとはいえな
 い。敬老という習慣は、老人が古来稀ナリといわれた時代のものだ。
・高度医療の発達は、おどろくべき高齢者社会をつくりあげつつある。命の大切さ、とい
 うことがヒューマニズムの基本なら、いまそれが揺らいでいるということだろう。全世
 界がかたずをのんで見つめているのである。
 国民の大半が高齢者である、という未来は、私たちにとって未体験ゾーンである。
 この国だけではない。全世界の国々がいずれ著面する難問だろう。
・私たちには錯覚があるのだ。元気で長生き、は理想であって現実ではない。
 マスコミは特別に元気なお年寄りをピックアップして紹介する。その背後に、海の底の
 ような深い世界が広がっていることを直視しようとはしない。
・八十歳になったときの私のひそかな決意は、人の世話を受けないで生きる、世間さまに
 迷惑をかけないように努める、というものだった。
 赤ん坊は周囲の人びとに世話されて育つ。そして老人は、同じように周囲に大切にされ
 て長生きする。それが、かつての私のイメージだった。しかし、今はちがう。
・高齢者だからといって、周囲の善意に頼って生きるわけにはいかない。自分の面倒は自
 分でみる。しかし、それができなくなったときは、いったどうすればいいのか?
・円高だ、円安だとかいう議論は、根本的な社会の問題だろうか。デフレもインフレも、
 わかりやすい話だ。しかし、未曽有の高齢社会が目前に迫っていることに比べれば、根
 本的なテーマではない。
・実際にその歳になってはじめてわかるのだが、老いることは心身ともに不自由になるこ
 とだ。動きも緩慢になってくる。視力や聴力も落ちてくる。反射神経が衰える。短気に
 なり、常にウソの気配がつきまとう。表面にも活気がない。
・若者のなかに老人が囲まれて、共に笑顔でいる風景はいいものである。しかし、陰鬱な
 高齢者たちのあいだに、ぽつんと若者がいる様子を想像すると、ため息が出てくる。
・社会の高齢化は、はっきりとわかっている未来である。
 一部のブルジョア階級と、多数の無産者階級が対立する社会を、かつての革命家たちは
 思い描いた。いま、少数の若者と、大多数の老人が対立する社会がせりあがってこよう
 としているのだ。  
・高齢者は、ごく一部の例外的な老人を除いて、いずれはボケる。ボケるという表現が認
 知能力が衰えたと上品に言いかえられるようになっても、現実は変わらない。
 私たちはいま、未知の暗黒大陸を目前にしている。それは超高齢者大国という未来であ
 る。それがどのような姿であるかを、なぜか学者もジャーナリストも論じようとしない。
 要するに明るい未来しか語りたくないのだ。
・「その国の未来を確かめたいなら、その国の子供たちの姿を見よ」
 という言葉が大声で叫ばれた時代があった。今は逆だと思う。
 その国の未来を占いたければ、その国の老人たちの姿を赤裸々に見つめてみることだ。
  
理想の「逝き方」をめざして
・医療が進歩して高齢化が進む。当然のことながら加齢による病気が増える。百歳以上の
 長寿者が未曾有の数に達しているという。
 私たちはこれまで、少子高齢化ということを、なにか遠くの風景のように眺めてきた。
 しかし、いま爆発的な高齢化社会を目前にして、慄然たる思いを覚えずにはいられない
 のだ。
・最近、にわかに注目されるようになったのが、人の「逝き方」である。
 「孤独死」にはじまって、「単独死」「平穏死」「独居死」などなど、書店の店頭にも
 その手の本がずらりと並んでいる。
 「尊厳死」という表現があるが、私はあまりピンとこない。人間の死に、それほどおご
 そかな意味をつけ加える必要があるとも思えないからだ。
・老化を悪とする文化がある。そして死を敗北とみなす思想がある。
 私たちは二十一世紀に、それまでとはちがう文化をつくり出さなくてはならない。
 それは、老いることが自然であり、死もまた当然とする文化である。
・自・然死も、平穏死も、死そのものを肯定する文化をつくり出すところからはじまる。
 ただ楽に死ねる、というだけでは意味がないのだ。喜んで死を受け入れる境地に達せよ、
 というのではない。武士道はいざしらず、死は常に残念なことである。  
・しかし、生まれて成長し、生の営みを終えて世を去ることは、自然の理である。
 現在の医学は、老いと死に対する基本的な姿勢が定まっていないのではないか。
 もし、現代に宗教というものが意味を持つとすれば、この点にまともに向かい合うしか
 ないだろう。
 老いと死を、どのように落ち着いて受容するかは、それこそ宗教の出番ではないのか。
 死者を弔うよりも、死を迎える生者に、安らぎと納得を与えることぐらいしか、現代の
 宗教には求められてはいないのだ。
・死を悪として見る文化、そして老いを屈辱として恥じる文化からの脱出こそが、私たち
 にいま、突き付けられているに直近の課題なのである。
・「寝たきり」とは、どういうことか。先日、その実態をリアルに知ることができたが、
 なんともいえない悲惨さに心を打たれた。
 まれに長寿で壮健な老人がテレビで紹介されたりもする。しかし、それは例外中の例外
 だ。希少なケースだからこそ、マスコミも話題に取り上げるのである。
 もし現実の「寝たきり老人」のリアルな姿を全国放送で流したらどうなるか。おそらく
 いたるところで高齢者の自殺が暴発するかもしれない。
 いや、寝たきりの状態で保護されている老人たちには、それさえも無理だろう。みずか
 らの意志や判断も曖昧なまま、延命されているケースが大半だからである。
・幸福な老人は少なく、不幸で惨めな老人が大半を占める。それが現実なのだ。老化は自
 然のエントロピーであり、人格、身体の崩壊であり、生命の酸化である。
 そこには「人生の荒野」がどこまでも広がっていると私は思う。
・人は皆それぞれ、生きるためにさまざまな苦労を重ねている。他人からはうかがえなく
 ても、ほとんどの人は、それぞれ苦しみを抱えながら暮らしているのだ。
 本人が楽天的であっても、時代というものがある。平和で、安穏な世の中に生まれてい
 ればいいが、そう思い通りにはいかない。
・民族や国民が背負う苦しみというものもある。家族や肉親の問題もある。健康というこ
 とも重要だろう。生計を立てるだけでも大変だ。
・いずれにせよ、人は生まれて成長し、家庭を持って仕事に追われ、やがて老いていく。
 それだけの苦労を重ねて生きたのなら、老いは楽園であって当然ではなのか。
 しかし人生はその逆だ。心と体をすりへらして生きたあげくが、寝たきり老人というの
 は、どう考えても納得がいかない。