在宅ひとり死のススメ  :上野千鶴子

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この本は、ひとの最期はどうあるのがしあわせなのかについてテーマにしている。この本
の著者は、病院や老人介護施設ではなく、在宅で最期を迎えるのが一番しあわせであり、
それは可能なのだという主張である。
たしかに、自分の家で最期を迎えられるのが一番しあわせなのだろうと私も思うのだが、
しかし、実際問題として、ほんとうにそのようなことが可能なのだろうかと、この本を読
み終えても、その思いは最後まで消えなかった。
著者は、現在の日本、訪問医療訪問介護が充実してきているので、それをうまく使えば、
老人介護施設に入ったり病院に入院しなくても、在宅で最期を迎えられるのだというのだ
が、私は自分の親などの最期を見てきた経験から、在宅で最期を迎えるというのは、まっ
たく不可能ではないにしても、相当難しいのではと思ってしまう。また可能としても、
ごく一握りの恵まれた人たちだけの話ではないだろうかと思えた。いくら訪問医療や訪問
介護が充実してきたと言っても、地域によってその充実度にはかなりの差があるだろうし、
訪問介護だけで在宅で最期を迎えるのは無理なのではないだろうか。
さらに、著者は、年寄りが自宅で危篤状態になったときは、119番する前に、訪問看護
ステーションに連絡すべきだというが、はたして本当に著者の思っているような対応をし
てもらえるのだろうか。私の連れ合いの親の場合、老人介護施設で老衰のため心肺停止状
態となったが、その施設と契約している「かかりつけ医」の対応は「何かあったら救急車
を呼んでください」というものだった。結局、もう心肺停止しているにもかかわらず、救
急車で病院に運ばれ、搬送先の病院で死亡確認をしてもらった。現実問題として施設での
最期というのも難しいのである。
著者が言うまでもなく、できるなら自宅で最期を迎えたいという思いは、多くの高齢者が
持っていると思うが、その思いを実現するのは、多くの人にとっては、なかなか困難なの
が現実なのではないかと私には思える。さらに言えば、せめて老人介護施設で最期を迎え
たいと思っても、その老人介護施設にさえ入れず、否応なく手薄な介護環境のままの自宅
で最期を迎えているというのが現実なのではないだろうか。
一方、国は、安倍政権時代に、医療・介護一括法を成立させて、在宅医療・介護を充実さ
せることにより、できだけ在宅で最期を迎えさせる方向に舵を切った。これは一見、多く
の高齢が持つ「自宅で最期を迎えたい」という思いと一致しているように見えるが、国が
そういう政策に舵を切ったのは、多くの高齢者の思いを叶えるためではなく、高齢者の医
療・介護の財政負担を軽減したいがための政策転換である。そして、その実情は、理想と
はほど遠い状態にあるのではなかろうか。
それは、現在のコロナ禍における医療体制崩壊による自宅療養への政策転換とよく似てい
る。これは、まさに国による介護福祉の見限り対応であると言ってもいいのではないだろ
うか。菅首相に言うところの、それぞれ「自助」でなんとかしてください、ということな
のだろう。
ところで、この本の著者は、「男性を論理的な生きものだと思ったことがない」という。
「男性は利害で動く生きもの」だからという。けだし名言だなと思った。


はじめに
・ホンネをいうと、わたしは生きているあいだのことしか、関心がありません。死後の世
 界などまっぴら。葬式やお墓などの「終活」にも、何の関心もありません。葬儀は密葬
 で、遺骨は散骨しておほしい、遺言状には書いてありますし、遺言執行人も指名してあ
 ります。散骨場所は国内某所、たいしてめんどうな場所ではありません。そのくらいの
 ことを頼める友人もいますし、少々の迷惑をかけてもいいでしょう。
 
「おひとりさま」で悪いか?
・高齢者世帯の独居率は、2007年には15.7%だったのが、2019年には27%
 と急増。夫婦世帯は死別離別による独居世帯予備軍だと考えれば、近い将来、独居世帯
 は半分上になるでしょう。
・いずれそうなるだろうと予測はしていましたが、変化のスピードは、わたしの予測を超
 えてしました。大きく変化したのは、夫婦のいずれかに死に別れても、世帯分離を維持
 したまま、中途同居を選択しないひとたちが増えた、ということです。
・「おかあさん、一緒に暮らさない?」という「悪魔のささやき」を口にしてくれる子ど
 もはいなくなりましたし、それを受け入れる親も少なくなりました。世代間の世帯分離
 はすっかり定着しました。なぜって?その方が親も幸せ子も幸せ、ということを、お互
 いに学んだからです。
・その背後にある大きな原因は、高齢者のひとり暮らしに対する偏見がなくなったこと、
 とわたしは考えています。高齢者にひとり暮らしも悪くない、やってみると存外よいも
 の、ということがわかったからです。
・わたしは死別離別を問わず、「シングル・アゲイン」になった友人に、「おかえりなさ
 い」と言うことにしています。「家族する」のは人生の一時期、過ぎてしまえばみな同
 じおひとりさま。遅かれ早かれ、ひとりに戻ってくることになるからです。
・それなのに世の中には、ひとりであることを、撲滅しなければならない悪か何かのよう
 に、警鐘を鳴らす本があふれています。
・単身世帯が増えることは、たんに食い止められない現実です。なら、それを嘆いたり脅
 したりするよりも、どう前向きに対処すべきかを考える方が大事でしょう。
・大量調査で独居高齢者と同居高齢者の生活満足度を比較すると、独居の方が低くなるこ
 とは知られています。それは独居高齢者の貧困率が高く、社会的孤立も高い傾向がある
 からです。
・加齢と共に、体力も落ち、カラダにいろいろな不具合も生じます。ですが、経年変化で
 見ていくと、「健康状態が悪くなってきても、ひとり暮らしは、なかなか満足度が悪く
 なりにくいことがわかりました」。痛いの、つらいの、というのはよそから見たら、し
 ょせん他人の痛み。言うてもせんない。自分でがまんするほかない、というおひとりさ
 まの諦念と覚悟が伝わるようです。
・独居高齢者といっても、いったん家族形成したひとたちには、離れていても子どもがい
 る場合があります。独居高齢者で子どものある人とない人とでは、生活満足度はまった
 く変わらないそう。日々の暮らしの上では、別居している子どもがいようといまいと、
 生活満足度はかわらない。
・二人暮らしの生活満足度は、夫と妻とでは段違い、おひとりさまの男女の満足度はどち
 らも平均74点とほぼ同点で高いのに、ふたり世帯の男女は両方ともおひとりさまより
 満足度が低いだけでなく、女性の満足度が男性の満足度よりさらに低いことがわかりま
 した。
・ふたり老後も「これで幸せ」の秘訣は、次の7箇条だそうです。
 秘訣@:それぞれ互いに納得している
 秘訣A:しっかり分業できている
 秘訣B:別々の価値観でもかまわない
 秘訣C:目の前の不満は些細なことと割り切る
 秘訣D:ふたりのときから、ひとりのときを想定する
 秘訣E:時間的、空間的に距離をあける
 秘訣F:自ら自分の世界に入りこむ
・ひとり暮らしのふたりが、同じ屋根の下で暮らすようにできることがふたり老後の理想
 型だそうでが、それが実現できている人は多くはなさそうです。
・寂しさは多くの場合、一過性。ある一定の時期を乗り越えれば、鳴れる感情。ですから、
 おひとりさまになりたてのビギナーは寂しさを感じるが、はじめからひとりだと寂しく
 ない。 
・あたりまえのことですが、いちばん寂しいのは、気持ちの通じてない家族と同居してい
 る高齢者。事実、高齢者の自殺率は、予想に反して独居高齢者より同居高齢者の方が高
 いことが知られています。
・老後の生活満足度を決定づけるものは、慣れ親しんだ土地における真に信頼のおける友
 (親戚)と勝手気ままな暮らしでした。
  @慣れ親しんだ家から離れない
  A金持ちより人持ち
  B他人に遠慮しないですむ自律した暮らし
・施設入居はお勧めしません。これらはどんなに高級な高齢者向け施設にも存在し得ない
 ものです。  
・独居と孤立は違います。その反対に、同居イコール安心でもありません。同居している
 家族が虐待やネグレクトをしたら・・・家族がいるほうが危険な場合だってあります。
 ケアマネージャーの言う「処遇困難事例」には、家族が同居しているばっかりに介護保
 険の利用を断られたり、家に入れてもらえなかったりする事例があります。
・世帯分離するなら、年寄りを家から出すのではなく、若い方が家から出て行くのが道理
 でしょう。若い方が環境の変化に適応しやすいだけでなく、そもそも家の名義は年寄り
 のもの。自分名義の家から年寄りが出て行かなければならないなんて、本末転倒です。
 
死へのタブーがなくなった
・少子高齢化社会のあとには、超高齢社会、そしてその次には多死社会がきます。なにし
 ろヒトの死亡率は100%、どんな長寿社会でも、死を免れる人はいません。
・お墓だの葬式だのを考える「終活」は死んだ後のこと。それまでにまず、死ななければ
 なりません。超高齢社会ではその日本人の死に方が、変わってきました。
・最近では日本人の死因の3位に「老衰」が浮上してきました。「老衰」とは死因がわか
 らないと言っているのと同じ。 
・日本の超高齢社会は、高齢者が慢性病を抱えながらもなかなか死ななくなった長寿化が
 原因です。長寿社会の条件は、栄養水準、衛生水準、医療水準、介護水準が軒並み上昇
 することです。
・かつての介護は、褥瘡などあってあたりまえ、そこから感染症で死ぬこともざらでした。
 いまどきの介護は、褥瘡をつくらないのがあたりまえ。褥瘡のない、きれいな遺体は、
 生前、その方がどのくらい手厚い介護を受けたかの証です。
・いまでも日本人の多くは、「死に場所は病院」と考えているようですが、病院死以前に
 は、日本人は在宅で死んでいました。病院死と在宅死の割合が逆転したのは1976年、
 そんなに昔のことではありません。
・死にかけている年寄りを病院に担ぎ込むことを、日本の家族は長い間「常識」だと思っ
 ていました。ですが、病院は死なす場所ではなく生かす場所。とりわけ119番すれば
 延命治療は専門職の必須の使命です。不思議で仕方がないのは、年寄りの容態が急変し
 たら119番し、場合によってはすでに絶命していても119番をダイヤルしてしまう
 家族の行動です。これでは延命治療をしてくれ、蘇生措置をしてくれ、と頼んでいるの
 と同じ。その後で、こんなはずじゃなかった、と悔いることになります。最近ではよう
 やくその「常識」に疑いが持たれるようになりました。
・「最期は病院で」という考え方には、医療が希少資源だった過去の名残があるような気
 がします。いまわの際に一度でいいから、オヤジを医者に診せてやりたかった、と。で
 すがもうそんな時代ではありません。このところ、病院死の割合がようやく減少に転じ
 て、代わって在宅死と施設看取りが徐々に増えてきました。施設ですら、かつては終末
 期の年寄りを病院にかつぎこんだものですが、ようやく施設のなかで看取りを実践する
 ようになってきました。
・この在宅死の流れは、決して過去に戻る動きではありません。なにしろ「在宅」と言っ
 ても、そこにもはや家族はいないか、家族介護力をあてにすることができなくなってい
 ます。それに現在の「脱病院化」は、「病院化」が一周したあとの、新しい在宅死です。
 というのは、地域の医療・看護資源が、かつてなく充実してきたからです。
・日本人の死因からわかることは、大量死時代の大半の死が、加齢に伴う疾患からくる死
 だということです。すなわち、予期できる死、緩慢な死です。幸い介護保険のおかげで、
 多くの高齢者がケアマネージャーにつながります。つまり多くの高齢者は死ぬまでの間
 に要介護認定を受けるフレイル期間を経験しますので、たとえ望んでも、ピンピンコロ
 リなんてわけにはいかないのです。
・要介護認定を受けた高齢者は、ケアマネがつくだけでなく、疾患があれば訪問医と訪問
 看護師につながります。在宅のままゆっくり下り坂を下って、ある日在宅で亡くなるた
 めには、医療の介入は要りません。医療は治すためのもの、死ぬための医療はありませ
 ん。医師の役目は、介入を控えること、そして死後に死亡診断書を書くことです。
・年寄りの容態が急変したり、死にかけの現場を発見したら、どうすればいいか。まちが
 っても119番しないことです。 
・救命救急現場の近年の急速な変化は、救急車で運ばれてくる高齢者が増えたこと。保た
 せて数日から数週間の延命を施しながら、これが絶対に求められているという確信を持
 つことが難しくなり、へたに延命治療を施したばっかりに、あとから家族に恨まれるこ
 ともあるとか。そんなら最初から119番しなきゃいいんですが、気も動転した家族が
 つい119番してしまうんだそうです。それというのも、これまで119番する以外の
 選択肢を、家族が知らなかったからでしょう。
・多死時代を前にして、このままの姿勢で高齢者の救急搬送が増えたら、救急現場が機能
 麻痺してしまう。救命救急現場を機能麻痺させないためにも、利用者の側の自制が必要
 でしょう。
・119番する前に、家族がまずすべきことは、訪問看護ステーションに連絡することで
 す。訪看ステーションは24時間対応を義務づけられていますから、状況を聞いてどう
 すればいいかを判断してくれます。必要なら主治医に連絡してくれたり、夜間の訪問も
 してもらえます。
・訪問ステーションにつながらないことはまずありませんが、それがだめなら主治医に、
 それからケアマネに、そして訪問介護事務所の緊急対応窓口へ、順番に電話をかければ
 OKです。
・もうひとつ、わたしが不思議でならないことがあります。それは自分で電話をかけられ
 る力のある高齢者が、緊急時に遠く離れて住んでいる子どもに電話することです。駆け
 るのに何時間もかかる距離にいる息子や娘に知らせるより、15分で来てもらえる訪問
 看護師や介護職の方が緊急時にはもっと役に立つと思うのですが、子どもたちだって医
 療や介護についてはしろうとです。にわかに判断はできません。それに親が利用者にな
 っている事業者の連絡先を知っているともかぎりません。途方に暮れるだけでしょう。
・加齢に伴う死は、穏やかなゆっくり死。「そろそろですね」という医療や介護職の予測
 は、ほぼ当たります。
・昨日まで元気だったのに、翌日死んでいた、というのを突然死、といいます。発見した
 ひとは、119番ではなく110番するのでしょう。そこから警察の介入が始まります。
 疾患もなく、死亡診断書を書いてくれる主治医もいない。となると異常死扱いで、解剖
 対象になる場合もあります。事件性がないか、と周囲のひとたちが被疑者なみに扱われ
 かねません。予期せぬ喪失に嘆き悲しんでいる遺族が疑われるなんて、あんまりです。
 となると、突然死は、はた迷惑な死だとも言えます。
・それだけでなく、予期せぬ喪失は遺された者たちに、後悔と傷を残すもの。順調に加齢
 して、順当に要介護者になり、適切な介護と医療を受けて、家族にもほどほどの世話に
 なりましょう。それも背負いきれないほどの負担ではなく、背負いきれる程度の、ほと
 ほどの負担を、家族には背負ってもらいましょう。それが可能になったのが介護保険以
 後です。

施設はもういらない!
・政府はコストのかかる病院をこれ以上増やすつもりはありませんし、119番しても高
 齢者は歓迎されなくなるでしょう。
・病院にいて幸せな年寄りはいません。病院はそもそも暮らしの場所ではありません。
・最近では施設看取りをやってくれるところが増えてきました。居室で家族と職員がお看
 取りをする、よけいな医療的介入はしない、そういう同意書を、入居時に交わす施設も
 あります。
・施設が合う、合わないに個人差はありますが、ホンネをいうと、わたしは施設にもデイ
 サービスにも行きたくありません。集団生活がキライだからです。
・高齢者施設の建設は総量規制で思うように増えていません。建設コストがかかるので、
 政府も自治体も、増やしたいとは思っていません。施設を増やせば、その自治体の介護
 保険料が確実に上がります。とりわけ土地の価格の高い大都市部では一床あたりのコス
 トが高くつきすぎます。 
・その間隙を縫って登場したのがサービス付き高齢者住宅というものでした。許認可の壁
 が低いので雨後の竹の子のように増えてきました。施設とは違ってたんなる賃貸住宅で
 すから、外出は自由ですし、たとえ室内で転倒事故が起きても自己責任で事業者の責任
 は問われません。「サービス付き」というのは食事と安否確認がつく、という程度です。
・これまでは自立型サ高住とか住宅型サ高住とか言われてきましたが、「自立」できるな
 ら、わざわざ自宅を離れて賃料を払ってまで賃貸住宅に住む理由がありません。
・サ高住に入居して3食の確保ができたというひともいます。でもそうなったらなったで、
 あてがいぶちの食事をガマンしなければなりません。わたしの年上の友人は有料老人ホ
 ームに入居してから、ずっと食事のまずさをこぼし続けています。長年料理をしてきた
 女性には、食事にこだわりのあるひとも少なくありません。
・いま一番儲かる介護系ビジネスは、サ高住に外付けの訪問介護を入れ、そこにさらに訪
 問看護と訪問医療をつける、というもの。サ高住の賃料と管理費で15万円程度、それ
 に月額まるめての定期巡回介護、そこに訪問看護と訪問医療、不定期の往診などで積み
 増ししていけば20万〜30万円程度になります。利用者の側からしてみれば、ちょっ
 とした有料老人ホーム並みのコストがかかります。
・看取りビジネスもピンからキリまで。ホームホスピス宮崎「かあさんの家」のように良
 心的なところもありますが、悪徳業者もいます。
・サ高住のサービスの品質管理はほとんど野放し状態です。最近ではサ高住でも看取りを
 してもらえるようになりましたし、評判のよいサ高住があるのもたしかです。
・何も自宅を離れて賃貸住宅で集団生活をしなければならない理由もなさそうです。家賃
 を払わなくてもすむ自宅で、サ高住と同じく訪問介護・訪問看護・訪問医療の3点セッ
 トを外付けすればよいだけですから。
・施設と病院に好きな年寄りはいない・・・これが現場を歩いたわたしの確信です。病院
 は患者の都合に合わせてではなく、医療職の都合に合わせて作ってあります。病院がガ
 マンできるのは、いずれ出て行く希望があるから。施設は入ったが最後、死ぬまで出ら
 れません。
・わたしの目からは、個室特養はいずれ在宅介護に移行するための過渡期の産物だった、
 と後になって歴史的に位置づけられるのではないかとの思いが消えません。事実、世界
 の高齢者介護の流れは、施設から住宅へと完全にシフトしています。
・日本の介護保険はもともと独居の高齢者が在宅で死ぬということを想定していません。
 介護保険の要介護認定制度は、これ以上使わせないという関門のようなものですから、
 利用上限を超えて使おうと思ったら自己負担率が一挙に10割に跳ね上がります。
・政府が在宅死へと誘導する理由は、あきらかにコストが安くつくからです。看取りのコ
 ストは、病院>施設>在宅の順で高くなります。平均値はわかりませんが、病院死の場
 合、死の1カ月前にかかる医療保険の平均診療報酬請求額は100万円を超えるという
 データを見たことがあります。高齢者の場合は、高額医療費の減免制度がありますから、
 自己負担は軽くて済むかもしれませんが、これに差額ベッド代がつきます。臨終期を迎
 えた患者さんを他の患者さんと一緒にしておくと心理的によい影響がないとして、最末
 期の患者さんを個室に移すところもあります。また家族が集まって存分に嘆き悲しむた
 めにも、臨終は個室でというのが一般的のようです。病院の個室差額ベッド料はシティ
 ホテルなみの値段ですから、死にかけた年寄りがそこで何日も過ごされたら家族の負担
 も重くなるでしょう。運よくホスピス棟に入院できても、ホスピスも個室が原則、一日
 あたりのコストは4万円を越します。
・家賃を払わずに済む持ち家を保有している年寄りが、わざわざ賃料を払って施設に入居
 する理由がわたしにはわかりません。居住コストにかかる費用を自己負担サービスに充
 てれば、もっと手厚いケガを受けられるでしょう。
・在宅ひとり死を唱えると、ただちに費用が天井知らずになる、と怖れる人たちがいます。
 この人たちは、終末期を迎えた高齢者は24時間誰かがはりついていなければならない
 と固く思い込んでいるようです。たとえ、終末期でも、病院や施設で誰かが傍に24時
 間はりついているなんてことはありません。何時間かおきに巡回に来るだけです。それ
 なら定期巡回の訪問介護を受けるのと同じ。病院ならそのあいだ、モニターにつながれ
 て体調の変化をチェックしてくれますが、アラームが鳴れば看護師が駆けつけるだけ。
・在宅ひとり死の費用は30万から300万まで。この程度の費用を用意しておけば家で
 死ねる、そうです。
・死ぬに医者は要りません。医者は死んだ後に死亡診断書を書いてもらうために要ります。
 あらかじめ主治医として訪問医療を受けていれば、医者に立ち会ってもらわなくても死
 亡診断書は書いてもらえます。
・医者のなかには、自分が主治医として担当した患者の臨終には立ち会いたいというこだ
 わりを持って深夜早朝でも往診する医者もいますが、死ぬことが予期できる患者に対し
 ては、家族から一報を受けた後、夜が明けてからゆっくりと患者宅へ赴く医者もいます。
 そのあいだのエンゼルケア(精拭や死化粧などの死後の処理)は、訪問看護師が家族と
 共に行います。
・在宅看取りは介護職がパニくると言われたのはひと昔前のこと。現場を経験してみれば、
 在宅のお看取りは穏やかなものだと、専門職の人たちが場数を踏んで自信をつけてきま
 した。 
 
「孤独死」なんて怖くない
・孤独死するひとびとは圧倒的に男性、しかも年齢は50代後半から60代。高齢者です
 らない。つまりこれは中高年男性問題であって、高齢女性問題ではないことがわかって
 います。
・孤独死したひとびとは、生きているうちから孤立した生を送っています。孤立した生が
 孤独死を招くので、生きているあいだに孤立しなければ、孤独死を怖れることもありま
 せん。
・これも不思議でしかたがないのは、主婦は社会人と呼ばれず、会社員は社会人なのに、
 長年社会人をやってきた男性が身に付けてきた「社会性」って、老後には何の役にも立
 たないのだろうか、という疑問です。男性がやってきたのは「会社人」であって「社会
 人」じゃないんだよ、というひともいます。「会社人」なら会社を離れたら通用しない
 のももっともでしょう。それに男性の社会性とは、利害関係にもとづくものばかりで、
 利害を離れた人間関係を持たないのかもしれません。
・ちなみに、わたしは男性を論理的な生きものだと思ったことがありません。彼らは論理
 ではなく、利害で動くからです。
・各種の統計を統合してみると、孤独死の定義は以下の4条件を満たしたものとなります。
 @単身者が自宅で死んで、
 A立ち会い人がおらず、
 B事件性がなく、
 C死後一定時間以上経過して発見されたもの
・よく在宅でひとりで死んだり死なれたりすると、警察が入っておおごとになり、そのう
 え解剖に付されて遺体が戻ってこなくなるのではないか、と心配する人がいます。「自
 殺や他殺ではない」ことは、発見者が判断できる場合が多いでしょう。死体を見つけた
 ときに、110番したり、119番したりしなければいいのです。どうしたらいいか、
 ですって?すでに死亡していれば、今さら119番する必要はありませんし、ましてや
 不審死でなければ110番する理由もありません。が、死亡診断書を書いてもらわない
 と、荼毘に付せません。ですから主治医が必要なのです。
・「突然死」は「変死」に当たります。若い人の場合には、急性心不全のような突然死が
 ありうるかもしれませんが、高齢者の場合は心配には及びません。加齢にともなってフ
 レイル期と呼ばれる要介護状態がほぼ確実に訪れますから。そのときに要介護認定を受
 けていれば、かならずケアマネージャーがつき、持病があれば主治医がつきます。加齢
 はゆっくり進行しますから、高齢者の死は予測できるゆっくり死。ですから突然死にな
 るケースは少ないといえます。
・ケアマネがつき、主治医がつけば、死亡診断書は書いてもらえます。医師法の規定では
 「死亡前24時間以内に患者を診療していること」が条件となっていますが、現場では
 この運用はもっと柔軟です。訪問診療の頻度は通常2週間に1回程度、死期が近くなっ
 ても週に2回、毎日入るのはよほどの末期ですが、訪問診療の対象に入っていれば、主
 治医は死亡診断書を書いてくれます。「心不全」や「老衰」と書いてあれば、実は死因
 はよくわからない、いつ死んでもふしぎではない状態にいたということです。「事件性
 はない」と判断できたら、死体をみつけて動転して、119番したり110番したりす
 る手を止めればいいんです。代わりにケアマネさんか、訪問看護ステーション、主治医
 に電話しましょう。
・要介護認定を受ければ、ケアマネがつき、訪問介護が入り、デイサービスのお迎えが来
 る。週に2回でもひとの出入りがあれば、「1週間以上経過して発見される」という事
 態は避けられます。
・施設や病院なら、孤独死は避けられる、と思っているひとは多いようです。施設だって
 職員が数時間毎に見回りに入るだけ。巡回と巡回のあいまに死んでいることだってある
 でしょう。病院だって、看護師さんが24時間張り付いているわけではありません。
・講演では聴衆に、「死ぬ時に子や孫に囲まれていたいですか?」「誰かに手を握ってい
 てほしいですか?」と尋ねます。反応は地域差が大きいと感じます。ある地方では、高
 齢の男性がいきおいよく手を上げました。さる地方都市では、聴衆は固まりました。都
 内では500人の会場の高齢女性たちが、いっせいに首を横に振りました。
・こんなエピソードを聞きました。おじいさんの死の床に周りを子や孫が取り囲んで、孫
 がふとんにすがって「おじいちゃ〜ん」と声をかけ続けていたときのこと。おじいさん
 がはっきりした声で言ったのが「うるさいっ」。死ぬ時ぐらい、静かに死なせてくれよ、
 といいたい気持ちはわかります。
・それまでにだって、いくらでもお別れと感謝を伝える時間はあったでしょうに、いまわ
 の際に死の床にとりすがることもないでしょう。超高齢社会の死はゆっくり死。予期で
 きる死です。別れと感謝は、機会あるごとに伝えておけばよい、とわたしなどは思いま
 す。
  
認知症になったら?
・日本の精神病院の人口あたりの病床数が諸外国に比べてダントツに多く、また平均入院
 日数がすこぶる長いことは、よく知られています。このところ精神医療改革の流れが進
 み、入院期間を短縮しよう、患者さんを地域に復帰させようとする動きがようやく本格
 化してきました。
・入院患者さんを出した後の空きベッドを埋めなければ、経営が成り立ちません。そこで
 おいしいお客さまになるのが、認知症高齢者なのです。
・精神病院は、家族も施設ももてあます患者さんを受け入れるといいますが、そこで認知
 症患者は、どんな「治療」を受けるのでしょうか?
 
認知症になってよい社会へ
・「2025年問題」のもうひとつの側面は、高齢者の5人にひとりが認知症になる時代
 だということです。誰がなるかは確率論の問題のような気がします。認知症患者の疫学
 的研究では、糖尿病の人がなりますいとか、社会参加のネットワークのあるひとはなり
 にくいとか、難聴になると認知症になりやすいとか、いろいろなデータが取り沙汰され
 ています。認知能力が衰えないようにと、「認知症ドリル」をせっせとやらせているデ
 ィサービスなどもあります。
・ですが、何をやってもムダ、とわたしが思うのは、まさかあの人が、と思うような、知
 的能力も高く好奇心も強い学者先生の先輩たちが、ちゃんと認知症になっておられる姿
 を見てきたからです。そればかりか、認知症対応のグループホームなどをお訪ねすると、
 入居者の中にはなぜか元「先生」と呼ばれてきたひとが多そうな印象を持ってきました。
・自分にも認知症になる可能性はあると思っておいた方がよい。そしてそうならないよう
 に無駄な努力をするより、そうなったらその事実を受入れて、対応を考えておく方がよ
 い、と思うようになりました。
・「在宅の限界」というのは、具体的にどんなことがあって、それを判断するのか。答え
 は「異食行動」でした。
・認知症の「異常行動」のひとつに、排便排尿の異常があります。しかるべきところでな
 い場所でおもらしや脱糞をしてしまうことです。それだって理由がわかっています。排
 便排尿のサインが適切に脳に届いていなかったり、トイレの場所がわからなかったり、
 探し回っているうちに切羽詰まってやってしまったり。ご本人もしまった、と思うのか、
 プライドを守るために糞尿を隠したり、というエピソードには事欠きません。
・認知症は病気ではない。老化現象の一種。中核症状と周辺症状を区別して、中核症状は
 認知障害と言われるが、周辺症状はそもそも病状ですらない。BPSDには、かならず
 それをひきおこすきっかけとなるからくりがある。認知症者の怒り、悲しみ、悔しさな
 どが正常に行動化したものだ。だましうちされて施設に連れてこられた認知症の高齢者
 が、「家に帰る」とあばれるのを、「異常行動」と呼べるでしょうか?それはあたりま
 えの、必死に訴えにほかなりません。
・認知症の発症リスクには、糖尿病や難聴、睡眠時無呼吸症候群、歯周病などが挙げられ
 ていますが、これだって疫学的相関であって、原因かどうかはわかりません。同じ症状
 を持っていても、認知症を発症する人もしない人もいます。それより、こういうデータ
 が増えれば増えるほど、認知症になるのは「自己責任」という考え方が広まるのがおそ
 ろしい。
・「毎日運動しましょう」とか「社会と交流しましょう」、「生活習慣病を予防・治療し
 ましょう」と言われるが、認知症になったら、「だから言ったでしょ、あなたがセルフ
 ケアしなかったからよ」と言われるんじゃないか。運動や交流、生活習慣病の予防は、
 それりゃやらないよりはやったほうがよいに決まっているけれど、だからといって認知
 症にならないわけではありません。毎日ウォーキングをしていたり、好奇心が強くで友
 人も多いのに、それでも認知症になった人を、わたしは何人も知っています。
・要介護の高齢者は自分で生きていくだけで精一杯。周囲に対する配慮は、余裕のある間
 だけ。「おまえも仕事があるだろうから、早く帰りなさい」などと子どもに促すのは、
 自分にゆとりがある間だけです。認知症になれば、過去も未来もなくなって現在だけ。
 赤ん坊と同じです。思えば赤ん坊の時には、あんなにも自己チューに生きることを主張
 していました。それをしだいに抑制していったのが成長という過程。老いたらその過程
 をまきもどして、もう一度、過去も未来もない、現在に生きる状態に戻ってもいいので
 はないでしょうか。
・生きるとは、食べて、出して、清潔を保つ、ということ。これが食事、排泄、入浴とい
 う3大介護です。この3点セットが維持できるあいだは、生きられます。
 
死の自己決定は可能か?
・日本尊厳死協会は、まだ自己決定能力のあるうちに、どんな死に方をしたいか、事前指
 示書を文書で残しておきなさい、と勧めています。
・日本尊厳死協会は、安楽死と尊厳死とは違う、と主張します。安楽死は積極的自殺幇助、
 尊厳死は消極的医療抑制。終末期に心肺蘇生術や気管切開、胃瘻、点滴などの「無益で
 偏った延命措置」を本人の意思で拒否することを言うそうです。事前指示書はそれを事
 前に文書にして明らかにしておくことを指します。
・認知症になる前に書いた事前指示書を「本人の意思」と見なすかどうかはむずかしい判
 断です。事前指示書を書いた時点での過去の自分が、変化した後の現在の自分の死を決
 定することになるからです。
・事前指示書の有効期限はいつまででしょうか。自己の一貫性が失われたときに、同一性
 を求めるのは、過去の自分の、現在の自分への越権行為ではないでしょうか。
・人生(生き死に)について、家族や関係者がわいわいがやがや語り合ってどうするか決
 めるのが「人生会議」です。自己決定に見えても、人の生き死にはひとりでは決まらな
 いし、自分でも決められない。だから共同意思決定、というもの。
・共同意思決定の理念それ自体は悪くはありません。だがそのわいわいがやがやの会議に
 声の大きい者がいたら、そちらに引きずられないでしょうか?本人が周囲の意思を忖度
 することはないでしょうか?弱者に圧力がかかることはないでしょうか?そのなかに専
 門職がいたら、専門家の提示する選択肢によって決定は左右されないでしょうか?
・死の自己決定に強制があってはなりません。だが、そもそも自由な意思決定とは何でし
 ょう?完全に代替可能な選択肢が他にあってそれを選ればない場合のみ、「自由な決定」
 が成り立ちえます。
・こんなことを考えるのも、わたし自身の父親の看取り体験からです。わたしの父は治療
 の見込みのない末期ガンの患者でした。
・看取りの先輩だった友人たちに話を聞きましたが、立派なひとの立派な死に方は、感心
 はしても、何の参考にはなりませんでした。小心なひとたちのじたばたした死に様が、
 わずかに慰めになりました。そして覚悟が決まりました。死にゆくひとは、気持ちが変
 わる、揺らぐ、ジェットコースターのようにアップダウンします。その揺らぎにつきあ
 って翻弄されるのが、家族の役目だ、と。
・生き死にに正解はない。最期の最期まで迷いぬけばよい。
・事前指示書は誰のためのもの?事前指示書はいったい誰を助けるのでしょうか?聞こえ
 てくるのは、「事前指示書があってよかった」「助かった」という家族と専門職の声ば
 かり、もちろん本人の声を聞こうと思っても、死んだ本人から聞くことはできませんが、
 事前指示書が「助ける」のは、家族と専門職が迷い、考えることから「助かる」ことじ
 ゃないか、と皮肉を言いたくなります。
・重度の認知症で日がな一日うつらうつらしているようなお年寄りでも、食事を出せばぱ
 ちりと眼を開けて召し上がります。食欲は生きる意欲の基本のき。食べられるあいだは、
 生きられます。生きる意欲を示している認知症高齢者を、過去の意思決定に忠実に安楽
 死させるのは、他殺であって自己決定ではありません。
・「ボケこそ恵み」認知症者には過去と未来がなくなり、現在だけがあります。死別の哀
 しみも、予期される死への恐怖もなくなることでしょう。
・ボケをわざわざ認知症と呼びかえるまでもありません。ホケは自然な加齢現象のひとつ。
 ボケても機嫌よく過ごしている年寄りはいくらでもいます。
・生まれてきたことに自己決定はありませんでした。死ぬことに自己決定があると思うの
 は、傲慢だ、とわたしは思います。もし、わたしがホケたら?・・・食べられるあいだ
 は生かしておいてほしい、と願います。
   
介護保険が危ない!
・介護保険はもともと中流階級の家族介護負担を軽減するという政策意図を以て設計され
 たものでした。「利用者中心」とうたいながら、その実、介護保険を推進したのは要介
 護当事者ではなく、その介護家族たちだったことは、覚えておいてください。
・介護保険制度は在宅支援をめざしたのに、どうして在宅利用が増えなかったのでしょう
 か?第三者によるサービス利用に慣れていないことや、何をやってもらえるかよくわか
 っていないだけでなく、家に他人を入れたくない、他人の世話を受けたくない、という
 利用者とその家族の抵抗感が強かったことが一因と考えられます。「家に他人に入って
 ほしくない」という抵抗感が強いのは、高齢者本人よりも家族の方。実際にプロの介護
 を受けたら、家族の介護よりもずっと快適であることはすぐに実感するでしょう。
・びっくりするでしょうが、スタート時以来、介護保険財政はずっと黒字です。つまり要
 介護認定を受けたお年寄りが、要介護度に応じた利用料上限まで使っていない、という
 ことを意味します。理由は、サービスはタダじゃない、使う毎に自己負担がかかる応益
 負担だからです。介護はタダ、と思ってきた日本人は、たとえ1割負担でも払いたくな
 いと思ったのでしょうか。
・介護保険に訪問介護は身体介護と家事援助の二本立て。スタート時には身体介護は時間
 単価4020円と高めに設定してありましたが、家事援助は1530円。おおきな格差
 があります。からだに触れたところから身体介護は始まりますが、実際の現場ではどこ
 までが家事援助でどこから身体介護が、線引きは困難です。
・家事援助の単価の安さは、それまでの助け合いサービスのボランティア価格に比べれば
 ましとはいえ、管理コストを考えればヘルパーに実際に払える金額はこの約半分、しか
 も待機時間も移動コストの保証もありません。3年目の第一次改定の際に、家事援助は
 生活援助と名を変え、単価は2460円になりましたが、ほとんどが登録ヘルパーの介
 護ワーカーの平均賃金は5万円程度。ワリの悪い労働であることには変わりがありませ
 ん。2019年度有効求人倍率が15倍、それほど不人気な職業になったのです。
・現場の希望はとてもシンプルです。身体介護と生活援助の二本建てを1本化して、単価
 をその中間、3000円台に設定してもらえたら、そして単価を1時間単位にして、余
 裕を持たせてもらえたら、というもの。
・2014年、医療・介護一括法の成立にともなって、在宅シフトが明確になりました。
 特養への入居資格条件が要介護3以上に厳格化され、また利用者の自己負担率も所得に
 応じて1割から2割へ、さらに2018年には3割へと上昇しました。政府はいよいよ
 利用抑制へとギアチェンジをしたようです。
・医療・介護一括法というのは、これまで医療は医療、介護は介護とそれぞれタテワリの
 行政のもとにあったサービスを一体運用することで、最期まで家にいてもらう仕組みを
 作ろうというもの。お年寄りには歓迎ですが、もとは「不純な動機」からです。
・在宅看取りがもっとも低コストと考えて、そのために病院を徹底的にしめあげました。
 病床数は増やさない、病院数も増やさない、療養型病床はいずれ全廃する、そして退院
 時の在宅復帰率75%を各病院に課す、というもの。これまでのように3カ月ごとに病
 院から病院へとたらいまわしにしても、「在宅復帰」にはカウントされません。
・介護保険は「失われた90年代」に日本国民が成し遂げた変革のうちで、個々の過程に
 直接影響する、もっとも大きい変革でした。日本は介護の社会化へ巨大な一歩を踏み出
 し、その恩恵を多くの高齢者とその家族が受け取りました。
・いまどき介護保険廃止、などと唱えたら、その政治家の政治生命は直ちに終わるでしょ
 う。そのくらい介護保険の恩恵は、国民のあいだに浸透しています。
・ですが、制度はあっても使い勝手を悪くすることで使えなくしていく・・・これを制度
 の空洞化といいます。それが得意ワザなのが、政治家と官僚です。
・介護保険が「後退」すると、ふたたび介護の「再家族化」が起きなかねない状況に、わ
 たしたちは直面しています。 
・「再家族化」といっても、もはや介護を押し戻す先の家族は介護力を失っています。介
 護保険20年のあいだに、高齢者のみの世帯と高齢者独居世帯はあわせて五割を越し、
 今や在宅介護といってもそこに家族の介護力があることを前提にすることはできません。
 家族の介護力が失われた高齢者の在宅生活を支えるには、介護保険の力が不可欠ですし、
 事実介護保険の生活援助は高齢者、とりわけ独居高齢者の在宅生活を支えてきました。
 ところが政府の改定方針は、高齢者の在宅生活を困難にする方向に向かうばかりです。
・このままでは介護保険が危ない!ということはつまりあなたの親とあなた自身の老後が
 危ない、ということです。あなたの子どもの人生も危ない、ということです。
 
おわりに
・最近あるオッサン向け週刊誌に、こんな特集をみつけました。
 「ひとりになったとき、人はここで失敗する」
 ・子どもと同居する
 ・孫の教育資金を出してしまう
 ・息子や娘に財産を渡してしまう
 ・再婚してしまう
 それを見ながら、10年くらいのあいだに、老後の常識が変わったと感慨を抱きました。
・わずか10年余りで、老後の常識が180度変わりました。「子どもと同居が幸せ」か
 ら「同居しないほうが賢明」へ。「おひろちさまはみじめ」から、「おひとりさまは気
 楽」へ。
・若い頃、「今日の常識は明日の非常識!」そして「今日の非常識は明日の常識!」と言
 ってきました。そのとおりになったようです。
・日本の介護保険は、制度も担い手も、ケアの質も、諸外国の福祉先進国にくらべても、
 決して見劣りしません。最近わたしは、海外在住の日本人に、老後を過ごすなら日本が
 よいかもよ、と勧めているくらいです。
・介護保険を作ったのもわたしたち有権者なら、介護保険をよくするのも悪くするのもわ
 たしたち有権者です。 
・老いは誰にも避けられません。死亡率100%です。認知症になるのは5人に1人だそ
 うです。自分だけが要介護にならないようにピンピンコロリ体操に励み、認知症になら
 ないように認知症予防ドリルに取り組むよりも、要介護になっても安氏できる社会、安
 心して認知症になれる社会、そして障害を持っても殺されない社会をつくるために、ま
 だまだやらなければならないことはいっぱいありそうです。