新・生きかた上手 :日野原重明

音楽の癒しのちから [ 日野原重明 ]
価格:1980円(税込、送料無料) (2020/11/15時点)

15歳の寺子屋 道は必ずどこかに続く [ 日野原 重明 ]
価格:1100円(税込、送料無料) (2020/11/15時点)

いのちの使いかた【新版】 [ 日野原 重明 ]
価格:561円(税込、送料無料) (2020/11/15時点)

病気にならない15の食習慣 楽しく生きる長寿の秘訣 [ 日野原重明 ]
価格:1540円(税込、送料無料) (2020/11/15時点)

戦争といのちと聖路加国際病院ものがたり [ 日野原 重明 ]
価格:1320円(税込、送料無料) (2020/11/15時点)

日野原重明先生の生き方教室 [ 日野原重明 ]
価格:1540円(税込、送料無料) (2020/11/15時点)

思うままに生きる100歳の言葉 [ 日野原重明 ]
価格:712円(税込、送料無料) (2020/11/15時点)

十代のきみたちへ ぜひ読んでほしい憲法の本 [ 日野原重明 ]
価格:1210円(税込、送料無料) (2020/11/15時点)

生活習慣病にならない方法 リスクを知って予防する [ 日野原重明 ]
価格:1760円(税込、送料無料) (2020/11/15時点)

人生百年私の工夫 (幻冬舎文庫) [ 日野原重明 ]
価格:628円(税込、送料無料) (2020/11/15時点)

19歳の君へ 人が生き、死ぬということ [ 日野原重明 ]
価格:1870円(税込、送料無料) (2020/11/15時点)

今日すべきことを精一杯! (ポプラ新書 125) [ 日野原 重明 ]
価格:880円(税込、送料無料) (2020/11/15時点)

たっぷり生きる (角川文庫 角川ソフィア文庫) [ 日野原重明 ]
価格:691円(税込、送料無料) (2020/11/15時点)

私が人生の旅で学んだこと (集英社文庫) [ 日野原重明 ]
価格:605円(税込、送料無料) (2020/11/15時点)

生きかた上手新訂版 [ 日野原重明 ]
価格:1320円(税込、送料無料) (2020/11/15時点)

老いて、若返る 人生、90歳からが面白い [ 日野原 重明 ]
価格:1320円(税込、送料無料) (2020/11/15時点)

日野原重明のリーダーシップ論 [ アンドレア・バウマン ]
価格:1650円(税込、送料無料) (2020/11/15時点)

生きることの質 (岩波現代文庫) [ 日野原重明 ]
価格:1188円(税込、送料無料) (2020/11/15時点)

101歳の金言 [ 日野原重明 ]
価格:1430円(税込、送料無料) (2020/11/15時点)

最後まで、あるがまま行く [ 日野原重明 ]
価格:1210円(税込、送料無料) (2020/11/15時点)

僕は頑固な子どもだった [ 日野原重明 ]
価格:1650円(税込、送料無料) (2020/11/15時点)

いくつになっても、今日がいちばん新しい日 [ 日野原重明 ]
価格:1210円(税込、送料無料) (2020/11/15時点)

たった一度の人生だから新版 (Forest books) [ 日野原重明 ]
価格:1100円(税込、送料無料) (2020/11/15時点)

働く。 社会で羽ばたくあなたへ [ 日野原重明 ]
価格:1430円(税込、送料無料) (2020/11/15時点)

病気にならない15の食習慣 (青春新書) [ 日野原重明 ]
価格:880円(税込、送料無料) (2020/11/15時点)

著者は、聖路加国際病院に医師として長年勤め、聖路加看護大学学長や聖路加国際病院院
長などを歴任し、2017年に満105歳という長寿を全うして亡くなられた人物である。
いかにしたら長生きできるかを自ら実践・研究した人物でもある。
1995年3月に発生した「オウム真理教」による地下鉄サリン事件では、当時、病院長
だった著者が、聖路加国際病院を開放することを決断し、外来診療などの通常業務をすべ
て停止し、著者が陣頭指揮を執り、被害者640名の治療に当たったことは有名である。
この時の一部始終は、NHKのドキュメンタリー番組『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』
などでも取り上げられた。
この本を読むと、著者は、若い頃に結核を患いその後遺症があったので、兵役検査では最
下位の丙種合格だったという。つまり、あまり体は丈夫なほうではなかったということだ。
それなのに、105歳という長寿、しかも晩年まで医師として現役を貫いたことは、まさ
に驚きである。
著者の戦争末期の体験話は、当時の日本の一般市民の状況がどのような状態だったかがわ
かり、とても興味深かった。
しかし、著者が当時の駐日アメリカ大使だったグルー氏の主治医だったというのは、ちょ
っと驚きであった。このグルー氏は、私がいままでに読んだ本の「昭和史の逆説」や「
爆 私たちは何も知らなかった
」などにも出てくる人物で、日本の戦争末期に深く関わっ
た人物であったようなのだ。

人生をいかに過ごすか
・同じ病気の遺伝子をもっていても、発症する人としない人がいる。その最大の理由は、
 私はその人の実践する生活習慣ではないかと考えています。私の人生の最後となるであ
 ろう研究結果を、知らないままで死ぬわけにはいきません。100歳まで生きる、とい
 うことは私にとって単に長生きをしたいという願望にとどまらず、切なる目標であるの
 です。これほど強い目標をもっているわけですから、多くの人に驚かれるほど、私はい
 まも元気です。
・私が100歳まで元気でいられるために、ぜひ続けたいと思うことのひとつはいつも若
 い人と接することです。若い人は私のもっていない、いろいろなノウハウをもっていま
 す。老人は古いノウハウでやってきていますから、若い人から「接木」をしてもらいた
 いんです。たとえば、りんごの古木を接木をしたら、古木に新しい遺伝子が入り込んで、
 まったく新しい品種のりんごの実が実ります。私は若い人にそういう作用を期待します。
・人は人から学びます。齢をとってもいつでも自分の生きかたのモデルをもつことは、人
 生を照らす一筋の光のようなものです。あの人のようになりたいと願い、さらに超えよ
 うとすれば、今度はあなたが誰かのモデルになるでしょう。
・更年期を迎えたら人生は終わり、と考えている婦人もいらっしゃるようです。人間は、
 鮭のように、産卵が済んだら死んでしまうものではありません。むしろ、産めなくなっ
 てから、ほんとうの人生が始まるのです。更年期を迎えて、あるいは年齢を重ねて、
 「もう望みはない」「私の人生はさえなかった」とあきらめる方がいらっしゃるなら、
 いまは野球の試合の8回裏だと考えてみてください。野球では、たとえ8回まで負けて
 いても、9回で逆転すればハッピーエンドを迎えることができます。人生はまだまだ上
 向きになります。終わりよければすべてよし、と考えて日々をがんばって過ごしましょ
 う。  
・あなたにとって、いままでしたくてもできなかったこととは、何でしょう。9回までは、
 夫や子どものことを優先したり気にしてきたために、自分の思う通りにできなかったこ
 ともあるでしょう。延長戦は、ようやくあなたが主導権をもって行動できる時間です。
 あるいは、夫や子どもに遠慮せず、「私はこうしたいから、やらせてもらいますよ」と
 言っても、受け入れてもらえる年齢でもあるのです。何をしたいか、そして、どのくら
 いの時間でやれるのかを考えるのに、なにも、焦ることはありません。本格的な作戦は、
 十分な準備の上に立てるべきだからです。
・私にとって、時間は、かたわらをただ流れ去っていくものではなく、一刻一刻のすべて
 が私に与えられたかけがえのないいのちという贈りものなのです。その貴重な時間のな
 かに、さらに私がどれだけ密度濃く自分というものを満たすことができるか。全身全霊
 を込めて自分を用いれば用いるほど、そこに費やした時間は私に大きな満足感と喜びを
 もたらしてくれます。時間に私のいのちを吹き込んで、私にしか味わえない、私だけの
 時間をいまこうして生きているのですから、私には時間がないどころか、私が私らしく
 生きることのために存分に時間が与えられています。
・刻々と刻まれる1分1秒の時間は、その長さにおいて誰にも共通していますが、時間の
 質というものは、生きかたによって大きく変わるものです。人生は、要するに1日24
 時間という時間の使いかたいかんなのだ。
・時間が足りないと感じられる毎日であっても、あるいは人生の残り時間がもうあまりな
 くとも、与えられた時間のなかに自分のすべてを注ぎ込むことができれば、その時間の
 なかに人は生きている喜びを十分味わえます。人生の充足感は、時間の長さではなく、
 深さ、あるいはその密度から得られるものだからです。
・しかも、自分のことだけを思い、自分のためだけに行動したときよりも、自分が他から
 必要とされていることのなかに率直にわが身を用いたときのほうが、喜びははるかに大
 きいものです。自分の時間を人のために用いれば、自分にもまた思いがけず豊かな喜び
 が与えられ、人を身いることができれば、それが自分を信じる力となっていく不思議さ。
 人生を生き抜くための力が、こうして自分を他に用いるときにたくましくされるという
 のは、まったく神様のたくまざるわざと言うべきでしょう。
・「時間がない」とぼやきながらあたふたするよりも、私たちは人生にいつでも心を込め
 て、しかも体当たりで臨むべきです。失敗しても、つまずいて転んでも、また起き上が
 って歩き出せばいいのです。失敗することを恐れて何もしないでいては、時間はただむ
 なしく流れるばかりです。何度つまずいても、自分を信じ、自分に希望をもっていられ
 る人は、生きかた上手な人であり、そういう人は、病んでいても、悲しみのさなかにあ
 っても、その目は輝いています。
 
すべての出会いが大切
・つらい悲しい出来事が、後になって自分に深い意味を教えてくれるということがあるよ
 うに、出会いには、「時宜」や「時機」というものがあります。決定的な出会いが人生
 のどの時点で訪れるか、その遅速は、人それぞれ、そのときどきの能力を抱える課題に
 よって違うもので、遅いことを嘆くこともなければ、早いことを誇る必要もありません。
 肝心なのは、人生におけるそれぞれの出会いの意味でしょう。それは、神様に期待すべ
 きものではなく、私たちの努力として求められるものです。私たちには、出会いの「時」
 を敏感にとらえる備えと、その出会いを骨太なものにしていく努力とが必要なのです。
・それは何もそう難しいことではありません。失敗や苦難を含めて、出会いの経験のすべ
 てを大切にしていけばいいのです。経験から謙虚に学ぶとき、経験の意味は深まり、そ
 れを機に私たちは成長します。その謙虚な繰り返しが、奥行きの深い出会いに次々につ
 ながっていき、出会いをとらえる感性は磨かれていきます。
・ただ私たちは、ひとつの出会いから成果や思いがけない幸運といったものを焦って求め
 てはいけません。近視眼的に求めて得られるものは、あまりにも薄っぺらで、人生に意
 味づけるほどのこともないものばかりです。そのような態度は正反対に、大切な出会い
 が、明日来ても、忍耐強く、地道に用意して待ち受けていられる人は、先々に訪れるど
 んな出会いをも上手に受けとめ、それを自身の人生のなかで深めることでしょう。たと
 え、それが災難や病や不運なことであっても、くじけることなく耐えるべきです。いま
 までの出会いの経験のすべてが力となって、嵐が鎮まるまでその人をしっかり支えてく
 れるからです。  
・自分の内に老いを抱え、それをつぶさに観察していくうちに、老いは必ずしも嘆くには
 当たらないということを私は強く実感するようになりました。なんと豊かで、すばらし
 いものであるかと感じることがしばしばあるのです。「老後」とは、ただ衰えるばかり
 の日々を言うのではなく、老いを自分の中に取り込み、それになじみ、そしてときには
 挑戦的に対峙しながら、新しいことをいつでも始めうる未知な日々を指すのだと私は思
 うのです。
・「年老ているということは、もし人が始めるということの真の意味を忘れていなければ
 しばらしいことである」人生のいかなる段階にあっても、つねに人生は「そこから始ま
 る」ということを、哲学者のマルティン・ブーバーは示してくれました。

健やかであるために
・長くこじれている病気をもっている患者の原因として3つのことがあります。ひとつは
 診断が間違っている。2番目は診断に対する治療法の選択が不適。3番目は、服用して
 いる薬の副作用のため、いろいろの複雑な病状が出る。特に、老人の場合は、複数の科
 の医師からそれぞれの服薬の処方が出ていることが多く、患者は10種類以上の薬を1
 日に2〜3回服用し、その薬の相互作用のために複雑な、不愉快な病状が生じることが
 非常に多いのです。
・私は不眠の患者には、複式呼吸を勧めます。丹田式の腹式呼吸という言葉を聞いた方も
 いると思いますが、これは腹部のおへそから恥骨までの真ん中の丹田の部を意識して、
 その部を中心に腹式呼吸をするのです。この呼吸法は、息をまず吸う代わりに息を時間
 をかけて少量ずつ吐き出す。誰も人のいないところでは、口をすぼめて「ふー」と息を
 吐き続けさせます。息の大部吐き出して少し苦しく感じるところで、ちょっと息を止め、
 そのあとすぐ「はー」と肺のなかの空気を吐き出し、そのときからだの筋肉の緊張をで
 きるだけ弛め、リラックスした感じをもたせます。疲れて外から帰ってきてソファの上
 にどんと座り「はー」と声を出すときの気持ちになるのです。古希が終わったらそこで
 初めて軽く息を吸い、またゆっくり息を吐き出します。先に空気を十分に吐き出せば、
 ちょうど真空のボトルに穴をあけると、シューと空気が短時間にボトルに入るのと同じ
 ように楽に空気が吸い込まれます。
・私は不眠症の人でも、この腹式呼吸を就床時に伏臥位で行わせます。10回くらい続け
 ます。昼間は正座して、1日に2〜3回腹式呼吸を10回繰り返すことを勧めています。
・人間は誰もが遺伝子をもって生まれています。3万を超す遺伝子のなかには、認知症や
 心筋梗塞などの病気になる遺伝子も含まれています。でも、認知症の遺伝子をもってい
 る人が必ず認知症になるというわけではありません。発症するかどうかは、その人の生
 活環境により変わることもあると、いまの医学では考えられます。環境とは、外部から
 来る因子のことです。食生活や喫煙はもちろん、その人がどういう家庭生活をしている
 か、どんな趣味、宗教、運動をしているかも、環境です。たとえば、がんの遺伝子をも
 っているのに、がんにならない方もいます。遺伝子と環境が、互いに作用し合って、そ
 の人が紡機になるかどうか左右する。生活スタイルによって紡機の遺伝子が眠ってしま
 うこともあるし、逆に、病気の遺伝子をもっていないのに、環境に作用されて病気にな
 ってしまうこともありえます。
・「長生き」の遺伝子もあります。でも、長生きの遺伝子があっても、交通事故に遭えば
 長生きできませんし、現代なら、食生活が悪ければ、長生きの遺伝子をもっていても心
 筋梗塞などで亡くなることがよくあります。その逆で、がんの遺伝子をもっていたとし
 ても、ユーモアをもってさわやかに生きていれば、がんの進行を遅くすることができる
 という研究も、少しずつ発表されてきています。
・えさをあまり与えないマウスと、つねに飽食状態にあるマウスを比べると、明らかに前
 者、つまり”ハングリーマウス”のほうが長生きするんです。また、ハングリー状態の
 サルのほうが、しわや白髪などの老化現象が遅くあらわれることが確認されています。
・私はちょうど戦争の前後に成長期を迎えましたから、”ハングリーマウス”と同じよう
 なものです。だから、動脈硬化にもなりにくく、いまも健康なのだと思います。いまの
 子どもたちはまさに飽食状態。好きなものを好きなだけ食べている。これでは長生きで
 きません。 粗食で育った「新老人」のライフスタイルこそ、健康で長生きするための
 モデルです。
・太る理由のひとつは遺伝子、もうひとつは食べ過ぎです。太ると脂肪がたまります。脂
 肪も細胞ですから、そこには血管がつくられ、血液が送られます。つまり、太ると、余
 分な脂肪組織に血液を配給しなければなりませんから、心臓の負担が非常に大きくなっ
 てしまうのです。
・和食は、基本的には大豆などの植物性たんぱく質が多く、繊維質の多い野菜がよく使わ
 れるので太りにくいのですが、塩分が多いのが難点です。塩分は、血圧を高くする作用
 があります。血圧が高いと血管を傷めやすく、動脈硬化が進行しやすくなるのです。ま
 た、塩分は胃や食道などの粘膜を刺激し、がんを引き起こしやすいとも言われています。
 しかも、現代の日本人の食生活は欧米化していますから、塩分過多に加えて脂肪分過多
 となり、心臓の血管も動脈硬化でつまって心筋梗塞を引き起こしやすくします。塩分を
 控えめにした野菜や魚中心の和食を食事の基本にすることが、肥満や動脈硬化を予防す
 る第一の要素です。
・もっとおすすめしたいのは、心が健康になることを始めることです。いまは科学がどん
 どん発達して、いろいろな病気が早期発見できます。それはいいことなのですが、一方
 で、昔は健康とみなされた人でも、今の最新機器を使って調べると小さな病気が見つか
 って、健康ではないことになってしまいます。極端なことを言えば、誰でも遺伝子を調
 べれば糖尿病や認知症の遺伝子をもっていることがわかりますから、赤ちゃんのころか
 らすでに健康体ではないことになってしまいます。
・健康であるためには、よい環境やよい食生活、運動が必要ですが、心も健康であるため
 には、幸福感をもつことが必要です。幸福感をもつのに大事な要素は「愛」です。愛し、
 愛されるときは幸福な気持ちになるでしょう。でもこれはなかなか大変なことなのです。
・「外からのストレスにうまく適応できるなら、それは健康である」と言われます。食生
 活、禁煙、飲酒、はたまた家族関係、仕事のこと、ストレスは無限にあります。それら
 を上手に対処する習慣を身につけなければなりません。イライラがつのれば、誰か聞き
 上手な友人に話す習慣や、外を歩き習慣もいいでしょう。少し速めに歩くと、悩もうと
 思っても悩めませんし、運動不足も解消されて、一石二鳥です。
・人生は習慣なのです。日々の生活で私たちが行っていることは、多かれ少なかれ、「半
 ば自動的に行われる行為の連続」なのです。この半ば自動的に行われる行為を、意識的
 によい方向に変えていけば、人生は健やかで喜ばしいものとなるはずです。
・人間は宿命的に自己愛を持っています。誰でも簡単に他人を批判しますが、自分のこと
 は鏡に映らないので自分を厳しく批判せず、やたらに人を裁きます。それでは良い人間
 関係は生まれません。人間はエゴの価値システムで生きるか、愛するという価値システ
 ムで生きるかで、人間関係に差が生じます。
・愛の価値システムとは、まず相手を恕すことです。でも恕すということはつらいもの。
 「あなたを恕します」と言うのは一時のことですが、それでその相手との関係がすぐに
 変わるわけではありませんから、恕す気持ちはずっと、陣痛のように続きます。この陣
 痛を耐え忍ぶうちに、きっとそこに愛があらわれてきます。
・オスラーは「あまり人に期待しなさんな」とおっちゃった。期待すると必ずがっかりす
 ることになると。愛も同じです。あまり相手に期待してはいけません。そして、自分の
 ほうは最善を尽くす。相手を恕す気持ちで、人に接するのです。

医師として生きる
・私が聖路加国際病院に赴任して3か月後に太平洋戦争が始まり、医師たちはほとんど召
 集されました。残った女性や高齢の医師が、私のように結核の後遺症がある者だけで治
 療を続け、東京大空襲のときも、チャペルにけが人を運び入れたのですが、薬はなく、
 やけどの傷口に、新聞紙を焼いた粉をふりかけるしかありませんでした。そして何人も
 死んでいきました。私の頭の中にはこのときの情景が鮮やかに残り、いつかは、どんな
 状況にあっても十分な医療が施せるような病院をつくらなければと考え続けてきました。
・1992年には病院のリニューアルが行われました。病院の待合室や廊下はなるべく広
 くし、チャペルにも酸素吸入器と吸入器を備え付け、いつ不慮の災害などの事態が起き
 ても対応できる工夫も忘れませんでした。「そんな事態はそうそう起きないから」とい
 う反対意見もありましたが、私には東京大空襲のときのことが脳裏に焼きついており、
 聖路加国際病院は、大災害のときこそ役に立つ病院であるべきだという信念をもってい
 ました。 
・1995年1月17日、阪神・淡路大震災が起きました。聖路加国際病院からボランテ
 ィアを派遣しましたが、そこでいかに水が足りなくなるかを痛感しました。透析などの
 治療には水が大量に必要なのに、聖路加国際病院の屋上にある予備水槽の量では十分と
 は言えなかったのです。そこで急遽、古いトイスラー館を移転するにあたって、その地
 下に270トンも容れられるプールをつくり、常に新鮮な水が保てるように病院の敷地
 内に渓流をつくって水を循環させるようにしました。
・1995年3月20日には「地下鉄サリン事件」が起きました。午前7時半ごろ、病院
 の幹部たちと会議をしているとき、大変な事件が起きたという報告が入りました。すで
 に呼吸が止まっている人、意識を失っている人たちが次々に運び込まれ、地下鉄の築地
 駅では何百人もの人が倒れていたのです。いまこそ、聖路加国際病院の真価が発揮され
 るときでした。外来はすべて中止し、チャペル、ラウンジ、廊下などを開放して、患者
 をすべて受け入れることを即座に決めました。要所要所に備え付けた酸素吸入器や吸引
 器の準備があったので、640人の被害患者是認を受け入れ、大病院がなすべき災害時
 の救命救急医療の氏名を1名の死亡者を除いて果たすことができました。

人として生きるために大切なこと
・「人というものは善悪がわからない幼いときから習い慣れれば、先に入ったことが心の
 中で主となり、それが性質となってからは、後で良いこと悪いことに接しても、それに
 移ることはむずかしい」と江戸の儒学者の貝原益軒がいっています。
・現代は人が人として生きるために必要な環境、とくに子どもが大人になっていくために
 欠かせない家庭や学校の「教育の力」が弱くなっています。ベストセラーになった「人
 生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ」(ロバート・フルガム著)には、次の
 ように記されています。
 ・何でもみんなで分け合うこと
 ・人をぶたないこと
 ・使ったものはかならずもとのところに戻すこと
 ・散らかしたら自分で後片づけすること
 ・人のものに手を出さないこと
 ・誰かを傷つけたら、ごめんなさい、と言うこと
 ・食事の前に手を洗うこと
 ・トイレに行ったらちゃんと水を流すこと
・日本は、過去アジアの各国で行った数々の残虐な行為に対して、求められる前に自ら謝
 罪をしたでしょうか。「ほんとうにすみません。私たちはどうしたらこの罪を許される
 でしょうか」と、態度に示さなくてはいけないのです。
・日本は、経済的に体成長を遂げましたが、戦争、そして原爆を10代で経験した人はす
 でに人口の15%以下にまで減っています。いまの子どもたちは「真珠湾攻撃」がどの
 ようなものだったかも知らず、日本が戦争をしたことがあるとさえ知らない子どももい
 るそうです。たとえ知っていても、なぜ戦争をすることになったかを知っている子ども
 はほんとうに少ないのではないでしょうか。このことに私は危機感を覚えます。日本で
 は戦争の歴史をきちんと教えていない。これでは日本の今後がきちんとした方向を向か
 ないのではないかと心配です。  
・私は1941年に聖路加国際病院に赴任しました。ちょうど「真珠湾攻撃」があった年
 です。私自身は結核の後遺症のため、兵役は丙種合格で、軍からの召集もなく病院に残
 って医療に当たっておりました。そこで経験したのは、どんどんものが欠乏していく生
 活です。
・私は英語ができると思われていましたので、欧米の大使館をめぐって、外交官たちの健
 康管理もしていました。アメリカ大使を往診したとき、夫人が角砂糖を3つ添えたコー
 ヒーを出してくれるのでした。3つなんてもったいなくて入れられません。そこで大使
 夫人がキッチンに行ったすぎに2つをポケットに入れて、1つだけコーヒーに入れてか
 きまぜ、「砂糖は十分ですか」と聞かれても「十分です」と言って苦いコーヒーを飲み
 干しました。家に帰る省線(現在のJR)は満員でポケットの中の角砂糖が粉々になり
 そうなので、手でしっかり守りながら持ち帰り、家で待っている8人家族に「砂糖だよ」
 と分け合うのです。
・食べものが配給制になったころには、治療の合間を縫って川越まで出かけて、農家でお
 米やナス、キュウリを分けてもらいました。いただいた食べものは隣近所で分け合う。
 防空壕をつくるための木材などもあまれば隣の人にあげる。それが当たり前でした。
・いまは、分け合いながら一緒に耐える、ということがまったくないのです。一人っ子が
 多くて、なんでもみんな自分のもの。ほしいものは?と聞かれても答えられないくらい
 満ち足りでいます。この世界には飢えている子どもも、戦争しか知らない子どももいる
 のに、そんなことは関係ない、自分の毎日が楽であればそれでいい、という人ばかりの
 ような気がしてなりません。戦争中は、2つの角砂糖のようなちょっとしたことでも幸
 福感が得られましたし、苦しいことには逆に鈍感になって、容易に耐えることができま
 した。でも、いまの人たちは苦しみに過敏になり、幸福に鈍感になっているようです。
・1944年11月くらいから空襲が激しくなりました。B29機は夜中12時ごろ、伊
 豆上空に現れ、それが確認されると東京では空襲警報が鳴り、サーチライトで照らすの
 ですが、B29機は超上空で光が達しません。高射砲も届かず、めったやたらに攻撃す
 るしかない。そうやってたまたま撃ち落されたB29機が私の家の100メートル先に
 落ちたことがありました。見に行ったらまだ少年くらいの若い航空兵が死んでいて、よ
 く見ると靴がない。私たちより早く見に行った人が、自分たちの靴がないからもってい
 ってしまったんです。あのころ私たちはほんとうにがつがつしていました。
・私は丙種合格でしたので、召集されることはないだろうと思っていましたが、戦争も末
 期になると丙種も召集され始めました。私も召集されれば、歩兵となって前線に出てい
 たかもしれませんが、ちょうど海軍が軍医を募集しており、戸塚で4週間訓練を受けれ
 ば少尉になれると聞いて、終戦間近の1945年2月に海軍に志願しました。当時はも
 う33歳でしたが、それまではゴム靴に粗末な服を着ていたのに、革靴にサージの制服、
 サーベルを支給され、食事もきちんと出たので、嬉しかったものです。
・4週間の訓練のはずだったのですが、2月の凍えるような兵舎で、私は2週間で熱を出
 してしまって、尿にたんぱくが出たので、残りの2週間は海軍病院に入院することにな
 りました。ちょうどそのとき3月10日は東京大空襲。戸塚からも東京のほうが赤く染
 まるのが見えました。
・それからはB29機が毎日のように、何百機もやって来て、火の雨のように爆弾を落と
 すのが見え、ようやく私たちにも日本は負けるのではないかということが、実感として
 わかってきました。
・せっかく海軍少尉になったのですから、一度軍艦に乗せてほしい、と上官にお願いして
 みたのです。でも、もう軍艦は全部撃沈されてしまっていて、乗れる軍艦などないので
 す。これでは海軍とは言えません。私の父はアメリカをよく知っており、少し事情に通
 じていたので、日本の新聞報道が信用できないとはうすうす感じてはいましたが、その
 とき、ミッドウェー海戦やガダルカナル島での戦闘などの「大本営」の勝利報告が嘘だ
 ったのだとはっきり理解したのです。
・私はわずか4週間の訓練のあと除隊となり、病院に戻って空襲を受けた方々の治療に奔
 走、しました。戦争は敗戦の色が濃くなり、いつ、どこから本土に上陸されるかが噂さ
 れるようになりましたが、もう国内には兵器といえば竹槍しかありません。病院勤務か
 ら帰宅すると、在郷軍人が小学校にみんなを集めて竹槍をもたせて訓練をする。私もや
 りました。でも、竹槍を手にしたとき「これじゃあ、だめだ」と心の中で思いました。
 まじめにやらないと非国民と言われるから大きな声を出して「突っ込め!」と精一杯や
 りましたが。 
・広島に原爆が落とされたとき、最初は私たちはみな、なんだかよくわかりませんでした。
 直後に被爆したアジアの留学生が、広島から東京まで何とか逃げてきて、病院に運び込
 まれたのです。毎日、白血球がどんどん減っていきます。そして、ほんとうは1立方ミ
 リメートルに8000個あるべき白血球が800個まで減って、感染症にかかって死ん
 でしまいました。それを目の当たりにして、私はよくわからないけど、もう降参しなけ
 ればしかたがないところまできたのではないか、と思いました。
・終戦間近のころ、聖路加には爆弾は落とさないというビラが空から降ってきました。こ
 れは人道的配慮にちがいない、とみんな喜んで、病院の近所の人たちも空襲警報が鳴る
 と病院に地下室に避難しました。でも、終戦の1か月後、GHQは聖路加を接収し、陸
 軍病院にすると言い渡したのです。東京でいちばん立派な病院だからという理由だった
 そうですが、爆撃しなかったのは自分たちが使うためだったのか、と気が抜けるようで
 した。(GHQから全館が返還されたのは11年後)
・なぜ、日本はアメリカと戦争を始めることになったのか。日清戦争から始まる、国土や
 資源をめぐる問題もあるでしょう。でも私は、父が明治時代にアメリカに合計6年留学
 した経験からも思うのですが、日本人の気質も関係していたのではないでしょうか。
・たとえば、日本人が戦前アメリカに移民したとき、日本人は勤勉ですから、日曜日も働
 き商売を続けました。アメリカ人が教会に行っていようとおかまいなしに、です。いつ
 かは帰国して、故郷に錦を飾ろうと思いがあるから、アメリカで稼いだお金はひたすら
 貯め込む。住んでいる家が古くなってペンキがはげてきても、いつかは買えるつもりな
 ので塗り直したりしません。でも、そんな住人は近所の人から嫌われます。英語で話す
 こともできずお互いの気質も理解し合えなかったでしょう。
・私が主治医をしていた駐日アメリカ大使「ジョゼフ・グルー」氏は10年日本にいて、
 何人かの日本人と家族ぐるみの付き合い、日本人の気質を知悉していました。だから決
 して皇居を爆撃させませんでした。日本人の天皇への感情を知っていたら、下手に攻撃
 すれば収拾がつかなくなること、また天皇制を維持すれば戦後の復興もしやすくなるこ
 とがわかっていたのです。あの時代、日本人の中でそこまでアメリカ人の気質に通じて
 いた人がいたでしょうか。
・私が接する学生のなかには、アルバイトに専念して、いい車に乗って、遊ぶことばかり
 考えている学生がかなりいます。世界人口の5分の1は食糧難で苦しんでいることなど
 一切知らずに、社会に出てしまいます。こんな男性が多いと日本は早晩ダメになります。
 私の提案は、男を「締める」時期をつくらなければならない、ということ。「締める」
 とは、一種の徴兵制度です。就職が決まった学生を、卒業後1年間、義務として海外に
 送り、難民援助をしたり、農業を教えたり、医療に当たったりさせるのです。その間の
 生活保障は政府が面倒をみて、帰国したら予定通りの就職先に勤めればいい。軍を必要
 としない「徴兵制度」です。
・日本は原爆を落とされた唯一の国です。アメリカが真珠湾攻撃を忘れないのと同様に、
 日本も原爆を受けた痛みは忘れられないはずなのです。それなのに、日本はアメリカに
 対して強い反米感情を示したことはありません。日本はアメリカに守られて、豊かで安
 易な生活に慣れ切ってしまったのでしょうか。
・ノーベル平和賞受賞者のケニア環境副大臣のワンガリ・マータイさんが環境保護の合言
 葉として「もったいない」という日本語をはやらせてくれましたが、当の日本人は一粒
 のお米をありがたいと思う気持ちを持たなくなっています。食べるものに恵まれ、飢え
 た経験をもたない人は、飢える人々のつらさ、痛みを想像することができません。同様
 に、日本と日本人は国際的に鈍感で、世間知らずになってしまいました。
・かつて私は、WHO元事務総長のハーフダン・マーラーさんから「日本はギブ・アンド・
 テイクではなく、テイク・アンド・ギブですね」と言われました。どういうことかと言
 えば、日本は、確実に利益が得られると確信がもてなければ決してギブしません。これ
 では寄付とは言えませんね。それなのに「なぜ感謝されないのだろう、尊敬されないの
 だろう」と文句を言うのは鈍感な話です。
     
日野原先生が実践する10の生活習慣
1.小食
  90歳代からの一日の食事の摂取量は1300キロカロリー。朝食は3種類の飲み物、
  昼食は牛乳とビスケット。夕食は野菜たっぷり食事
2.植物油をとる
  毎朝、ジュースに植物油を大さじ1杯を入れて飲みます。オリーブ油、またはその他
  のやし油以外の植物油ならなんでも結構です。また暖かいミルクに大豆製剤のレシチ
  ンを。細胞を若々しく保つそうです。
3.階段は一段飛びで
  病院や駅、空港で必ず階段を使います。しかも、なるべく一段飛びで。
4.速歩
  速く歩くように心がけます。背筋は伸ばし、足取りもしっかり、軽く歩きます。
5.いつも笑顔で
  年とともに「への字」になりがちな口元を常に鍛えて素敵な笑顔でいる練習をします。
6.首を回す
  上下に大きく動かし、左右から自分の真後ろを見るつもりで動かします。最後の大き
  く回します。
7.息を吐き切る
  フーッと息を吐いて、吐いて、最後にもう一度フッと吐き切ったあとに吸う。
8.集中する
  時間を有効に使うために、寸暇を惜しんで待ち時間に校正や原稿書きに集中します。
9.洋服は自分で購入
  おしゃれをすることもよく生きる大事な習慣。スーツやワイシャツなど、洋服はご自
  分で選んで買っています。
10.体重、体温、血圧を測る
  自分のからだは、自分で守るもの。そのための第一歩は、からだの観察とそれを記録
  する習慣から始まります。