日本とは何か :堺屋太一

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この本が出版されたのは、今から約40年も前の1991年で、平成という時代の初期の
頃である。当時はバブル景気最高潮の時期で、まだその後にやってくるバブル崩壊という
ことを知らず、日本はまさに飛ぶ鳥を落とす勢いの時期であった。筆者も、日本は「天国
に最も近い国」となったと述べている。
しかし、他方では、当時の一般の人々は、その「豊かさ」というものを実感できなかった。
それはなぜなのか。筆者の考えでは、それは日本という国は規格大量生産型工業に最適化
された社会であり、同じものが大量にあふれた社会ではあるが、多様性に乏しく選択の自
由に乏しい社会であったからだという。
しかしそれは、物財的な面のことばかりではないだろうと私には思える。日本社会は、精
神的な面においても、選択の自由が乏しい国だからなのだろうと思う。その根底には、日
本の基本的風土であった稲作共同体が、長年の精神的気風に大きく影響してきたからと思
える。「他と違うことをしてはならない」というような世間を気にする平等精神気風が、
精神的な選択の自由を大きく阻害しているからなのではないのかと思う。おそらく、日本
社会がどんなに豊かになったとしても、この日本の精神的気風があるかぎり、日本人は
「豊かさ」を実感することはできないのではないかと私は思う。

安倍首相は、「美しい日本」という言葉が好きなようで、「古きよき日本」への憧憬が強
いよである。しかし、この「古きよき日本」への憧憬というのは、いまが最初なのではな
く、過去においても、そういう時代があったという。それは、日本が日露戦争において勝
利した後に、そういった「古きよき日本」への憧憬が強まったという。そしてそれが、
「日本よい国、強い国」という自信過剰へとつながり、欧米近代文明への批判と発展し、
やがて相手の意向を無視した侵略行為もはばからなくなっていったという。そういう過去
の歴史を考えると、この安倍首相の懐古主義というのは、ある種、危険が孕んでいると言
えなくもない。

筆者は、平成の日本は「天国に最も近い国」を実現した国だったという。国民一人当たり
の所得も一人平均の資産も世界一、所得格差も少なければ学歴による差別も少ない。教育
の普及度も世界一なら犯罪の少ないことも世界一。公害防止は諸外国に先行し、国土を蔽
う緑の率も70パーセントと断然多い。鉄道は時間正しく走り、電 話は即時につながり、
ファクシミリまで家庭に備わっていた。バブルがはじけるまでの平成の日本は、諸外国と
比べて、数字上は確かに「天国に最も近い国」だったかもれない。しかし、その一方で、
そな日本で暮らしていた我々日本人自身は、その豊かさはほとんど実感できなかった。日
常の生活は、いっこうに改善されなかったのだ。そして「天国に最も近い国」と言われた
日本は、バブル崩壊とともに、一気に転落して行った。どこで間違えたのか。誰が悪かっ
たのか。何が悪かったのか。よくわからないが、確かに深い谷底に転落してしまったのだ。

ところで、この本を読んで私は初めて知ったのだが、日本のような戸籍制度があるのは、
世界的に見ても、日本以外には韓国と台湾だけらしい。このことは、私にとって驚きであ
った。世界の国々にも、日本のような戸籍制度が当然あるのだろうと、いままで私は思っ
ていたのである。韓国と台湾にも同様の制度があるというのは、おそらく日本の統治時代
の名残なのだろうと思える。欧米などでは、こんな制度をつくること自体が、プライバシ
ーの侵害につながるとして反対されてしまうという。政府に自分の存在や実情を知られた
くないという心理があるからだという。なるほどと思えた。  

この本を読むと、宗教とは何か、ということもよくわかる。キリスト教やイスラム教など
を信ずる人々にとって、宗教とはものごとの善悪を判断するときの絶対的な正義基準なの
だが、日本人にとっての宗教とは単なる儀式でしかない。日本人は、神道や仏教、キリス
ト教を同時に受け入れられるが、それた単なる各宗教の「いいとこどり」をしているだけ
である。このため日本人には、一神教を信仰している人々のような絶対的正義基準がない。
日本人にとっての正義基準は、そのときその場の支配的な人々の「よい」と思ことが、そ
のまま「正義」となるのだ。いわゆるその場の「空気」、あるいは「世間」なのだ。絶対
的な正義基準を持たない日本人は、自分ひとりでは何が正義なのかを決められない。この
ため、日本人は「人の交わり」の中に正義を求める。集団から離れるということができな
いのだ。つまりは、日本人の集団主義的な特質は、絶対的正義基準である宗教を持たない
ことからきているということだ。

この本が書かれた時代は、官僚主導体制の弊害が問題にされた時代だった。このため、官
僚主導ではなく政治主導へと日本は大きく舵を切った。今の安倍政権は、まさに最強の政
治主導体制を実現したと言えるわけだが、果たしてこの安倍政権を見て、政治主導体制に
してよかったのだと言えるのだろうか。
確かに官僚主導から政治主導への体制変更には成功したが、当初の思惑とは異なり、今度
はその政治主導体制そのものが問題化してしまっている。政治主導体制が、独裁体制を生
み、そしてまた、それが長期政権のためすっかり腐ってしまった政治体制になってしまっ
ていると思えるからだ。官僚主導体制にしても政治主導体制にしても、それが行き過ぎる
と、メリットよりデメリットのほうが大きくなるという典型例となってしまっていると言
えるのではないだろうか。
そして、何ごとにおいても、この「行き過ぎる」ということが、日本社会の特性なのかも
しれない。それは、日本社会が個人個人の個性が軽んじられる「均質社会」であるという、
古来からの日本社会の特質から来ていると言えるのだろう。

この本を読んで一番違和感を覚えたのは、景気をよくするために、「日本人が倹約から脱
出するためには、消費を美化する感覚が不可欠である」という認識だ。この景気をよくす
るために大量消費という認識は、時々、景気対策を語る政府や大企業経営者などからも出
てくる。しかしそれは、はたして一般消費者である国民の側に立った認識なのだろうか。
大量消費を美化することは、無駄を美化することにもつながる。いくら大量消費しても、
地球環境にまったく影響を与えないのであれば、とやかく言う必要もないだろうが、今や
その大量消費にるツケが地球の環境破壊や気候変動という形で悪影響が出はじめている。
人類の際限のない消費活動が、地球が受容できるキャパシティを超えてしまっているのだ。
現代に生きる人々が、「我が世の春」を謳歌すれば、それがそのまま次世代の人類にツケ
を回していくことになる。このままいけば、未来の地球に生きる人類は、極めて厳しい地
球環境や地球資源の枯渇という危機に見舞われることになるだろう。果たしてそれで、現
代に生きる人類は、まったく良心の呵責を覚えないのだろうか。供給者優先の社会ではな
く、消費者優先の社会にすべきという、筆者の主張には賛同するが、しかし、モノ余りだ
からとにかく消費すべきという主張には、私はとても賛同できない。

まえがき
・1990年代においては、外には国際情勢の抜本的な変化があり、内には史上はじめて
 の「豊かな社会」と高齢化の急展開がある。これまでも「日本論」または「日本人論」
 は、さまざまに論じられてきた。戦後におけるその系譜を略述すれば、日本更新国論か
 ら出発し、やがて日本特殊論に傾き、最近では日本式経営や日本型官民協調論が擡頭す
 る一方、知日外国人からは新たな日本特殊論ともいうべき議論も出はじめている。
・日露戦争の戦勝後は、日本文化の独自性を強調する日本主義が擡頭、「古きよき日本」
 への憧憬が強まる。それがさらに昭和に入ると、「日本よい国、強い国」式の自信過剰
 が生まれ、やがては欧米近代文明に対する批判へと発展する。ここでいう「よい国」と
 は、正義の国、つまり自国の倫理を世界に拡げるべき国という意味であり、「強い国」
 とは軍事力の優れた国という意味である。この二つを重ね合わせると、武力を以てして
 も日本的倫理を世界に拡げてもよいという「日本神国論」に行きついてしまう。戦前の
 日本が、相手の意向を無視した侵略行為を、「王道楽土の建設」「大東亜共栄圏の新秩
 序」と称してはばからなかったのも、こうした自国評価、つまり「日本論」があったか
 らである。
・第一次世界大戦後は、日本人の大多数が、軍事的に成功していると信じていた。当時の
 日本人が心から「軍事大国」となることを願っていたとはいえないが、「外国に蔑まれ
 ない国づくり」から出発した明治の近代化は、軍事力を基準とする国際比較を、唯一の
 成功の尺度とする風潮を生んでいた。
・経済を尺度とすることが一般化した今日から見ると奇妙にさえ思えるのだが、1930
 年代の日本人には、はるかに豊かなアメリカやイギリスに対しても、日本文化の優越性  
 と日本的社会体制の良好さを見習うように説いた者も少なくない。それは右翼的国粋主
 義者に限ったことではない。新渡戸稲造のような「国際人」でさえも、その必要性を大
 いに強調している。
・外国生活の経験がある外国語上手に、自国礼賛論者が多いのは、後進国に多い現象であ
 る。日清・日露、第一次大戦と、幸運にめぐまれて勝ち続けただけで、たちまちこの国
 には、日本は欧米近代文明の利点と伝統的精神文化のよさを合わせ持った社会、という
 自画自賛がはじまったわけだ。 
・この国には文化を体系的に見る社会気風と、雰囲気に流されやすい集団主義の気性があ
 る。
・こうした「日本強国論」、日本こそ正義とする「日本神国論」が、日本を国際的孤立に
 向かわせ、やがて太平洋戦争へと突進したことを思えば、今日の「日本論」の風潮も、
 ある種の危険を孕んでいると言えなくもない。
・それぞれの国、それぞれの民族は、みな独自の文化を持っている。その意味では、日本
 文化が特殊なのは当然であろう。問題は、この文化の特殊性を肯定するあまり、政策や
 経営の特殊性擁護に利用しすぎてはならない、ということである。国際社会とは、それ
 ぞれに特色な文化を持つ国や民族が、ある程度の気色悪さに耐えながらも、妥協し強調
 しながら一般的ルールを形成する場だからである。

平成の日本
・十年以上も前から、日本には「街頭で自己のために募金をしている人」がいなくなった。
 「豊かな国」といわれるヨーロッパ諸国やアメリカでも、「街頭で自己のために募金を
 している人」は珍しくない。日本にだけ「乞食」がいないのは特筆すべきであろう。も
 う一つの日本の特色は、「物盗り」がいないことだ。日本にも泥棒は珍しくないが、盗
 むのは現金か有価証券、高価な宝石類に限られており、衣類や電気製品などが盗まれる
 ことはまずない。その理由は、いまやこの国では古着や中古電気製品が売れないからだ。
 かつては場末の商店街に古着屋、古道具屋があったが、いまは皆無といってよい。
・国民の所得格差を比べるのによく用いられるのは、国民のなかで所得の最も低い5分の
 1の人(所得の第一階位)と、最も高い5分の1(第五階位)との所得倍率を見る者で
 ある。これは、アメリカが9.1倍、フランス、イギリスなどは10倍以上だが、日本
 はわずかに2.9倍に過ぎない。大部分の発展途上国は10倍以上だし、社会主義国で
 もたいていは日本よりは大きいと見られている。日本には大富豪も少ないが、極端に貧
 しい人々も少ない。日本は「豊か」で「安心」なだけではなく、「平等」という点でも、
 「きわめて良好」な状態にあるわけだ。
・日本は学歴社会だといわれるが、実際には決してそうではない。所得の点でも社会的地
 位の点でも、学歴による差はきわめて少ない。初任給ばかりでなく、生涯所得で見ても、
 一流大学卒業者とそうでない者との所得格差はごく小さい。非大学卒業者とでさえ、そ
 の点は二倍にもならない。社会的地位に至っては千差万別、学歴よりもその後の努力と
 運不運のほうがはるかに大きい。
・日本の幸せは、経済的に「豊かさ」と「安心」と「平等」だけではない。それに劣らず
 重要なのは、非常に「安全」なことだ。戦後46年間、日本はまったくの平和である。
 この長い期間に、日本国土が戦火を受けたことは皆無だし、日本の軍隊が戦争に派遣さ
 れたこともない。そのうえ、この国では強制的に軍隊に召集される心配もない。
・日本の安全性を示すもう一つの指標は、平均寿命の長さだ。1990年の日本人の平均
 寿命は男子75.9歳、女性81.8歳、いずれも世界一である。
・日本はじつに清潔だ。道路も交通機関もよく清掃されているし、飲食店の衛生管理は厳
 重だ。ほとんどの住宅には風呂トイレが付いていて、若い男女の間では朝から髪を洗う
 「朝シャン」の習慣が広まっている。そんな生活に慣れた日本人は、発展途上国の生活
 はもちろん、ニューヨークやパリの地下鉄すら「汚くて乗れない」という者が多い。現
 在の日本人は「安全」を重視するあまり、自然の土や虫も恐れる潔癖性になってしまっ
 ている。      
・「近代国家」というものの理想が、豊かさと平等と安全を実現することであるとすれば、
 今日の日本はそれを最も完全に実現した国、いわば「天国に最も近づいた国」である。
 しかし、今日の日本が、本当に「人間の住む世の中」として理想的かといえば、必ずし
 もそうではない。日本人の大多数が、この国に心から自信と誇りを持っているともいい
 切れない。いやむしろ、圧倒的多数の日本人は、日本の現状をまだまだ貧弱と考えてい
 るし、この国の将来と自らの行く末にも不安を感じている。日本自体の社会構造と富に
 蓄積と生産諸要素とが、いたって弱体なことを本能的に感じ取っているからである。
・貧しかった時代の日本人の夢見た理想は、確かに実現された。だが、その実現を目の前
 にして、これが本当に理想だったのかと疑いを持っているのだ。日本人は長い間、近代
 国家の理想を実現し、経済的な豊かさと結果の平等と徹底した安全を実現すれば、必ず
 幸せになると信じていた。しかし、それが実現したいま、本当の幸せとは必ずしも一致
 しないことが分かったのだ。平成の日本人が発見した重大な事実は、「天国」にも「天
 国」なりの悩みがある、ということである。
・天国にだけは行きたくない。争いも企みも憎しみも堕落もない天国なって、何の楽しみ
 があるだろうか。実際、「天国」というところが、神によって選ばれた賢明な人々ばか
 りの栖であり、善意と上品な行為ばかりが実行されている花園だとすれば、どんなに豊
 かであったとしても、恐ろしく退屈で窮屈な社会に違いない。そのうえ、もし「天国」
 の住人が、自分たちを「選ばれた善良な民」と意識していたとすれば、他からはひどく
 嫌われる存在になるはずだ。平成の日本を見ると、そんなことが思い出される。
・国民一人当たりの所得も一人平均の試算も世界一、所得格差も少なければ学歴による差
 別も少ない。教育の普及度も世界一なら犯罪の少ないことも世界一。公害防止は諸外国
 に先行し、国土を蔽う緑の率も70パーセントと断然多い。鉄道は時間正しく走り、電
 話は即時につながり、ファクシミリまで家庭に備わっている。テレビ放送は深夜に及び、
 政府の批判はいいだい放題。こう並べたてると、平成の日本は正しく「天国に最も近い
 国」に違いない。国民が政治に関心を失い、若者たちが「いまの世の中続いて欲しい」
 と思うのも当然のような気がする。
・だが、「天国」には「天国」の悩みがある。効率と平等と安全が撤退した今の日本で、
 大部分の人々が「由良嵩」が実感できないと嘆いている。あたかも、アダムが「天国」
 の生活に耐えきれず、近代の木の実を食べてしまったように、今日の日本人も平穏無事
 な日々が続くことに苛立ちを感じ出しているのである。      
・誰もが楽しみの少ない現状と不安な将来に苛立ちながらも、「天国」から落ちこぼれな
 いと雲の端にしがみつき、「もっと上へ」と叫んでいる。「天国」の上にはより安全な
 「天国」があると信じてもがき続ける。この「天国」は、じつはそんな「煉獄」でもあ
 る。 
・1980年代は、日本が「経済大国」になりきった時期であった。石油危機と大型技術
 に対する不信に揺れた70年代には、日本経済もいささか足踏みをした。しかし、それ
 に続く80年代の10年間は、石油価格の低下とエレクトロニクスを中心とする新技術
 の進歩普及で、世界大いに発展した。それを満喫して経済を発展させ技術的優位を確立
 したのが日本である。 
・為替レートで換算した日本の国民所得は大幅に向上、世界経済に占める比重も一挙に拡
 大、国民一人当たりでも主要先進国を上回るまでになった。同時に、日本に蓄積された
 巨額の資金が、投資対象の不足から土地と株式の購入に集中、地価急騰と株式の上昇を
 生んだ。そしてそのことが、日本の企業に膨大な利益をもたらし、多くの日本人を大金
 持ちに仕立てあげた。 
・「経済大国」ぶりが定着したのは、80年代の10年間、とりわけその後半の5年間で
 あったといってよい。しかし、その一方では、日本人の生活はいっこうに改善されなか
 った。少なくとも、多くの日本人はそう思っている。国際比較で見る統計上の「豊かさ」
 と、日本人自身が実感する日常生活での「豊かさ」との間には、大きな格差ができたの
 である。 
・まず最初に取り上げられたのは住宅である。堂々たる構えの石造りの建物が整然と並ぶ
 欧米の都市に比べて、低層の木造住宅が野放図に拡がる日本の街並みは、冬目には貧弱
 に見える。「日本の住宅はウサギ小屋」という表現も刺激的だった。そんなことが、
 「豊かなはずのわれわれが、豊かさを実感できないのは住宅が狭いから」という発想を
 生んだのだ。
・しかし、調べれば必ずしもそうでないことが分かってきた。日本の住宅戸数は世帯数を
 10パーセントも上回っているし、一戸当たりの平均面積も85平方メートル、アメリ
 カや旧西ドイツよりは狭いが、フランス、イギリス、イタリアなどよりは広い。とくに
 東京や大阪などの大都市では、パリやロンドンをかなり上回っている。そのうえ、日本
 の持ち家比率は61.4パーセント、養鶏の基準を統一すれば先進国では最も高い。地
 方に広大な住宅を持つ人々が、それを見捨てて東京の狭小な住宅に移り住む現実は、住
 宅が少々広くなっても生活実感としての「豊かさ」には、さほど関係ないことを見せつ
 けている。  
・「豊かさ」とは何か。いま、日本ではこれが真剣に議論されている。そしてその答えは、
 今なお得られていない。政府官僚や一部の学者は、日本人の所得と物財消費の多さを数
 え上げて、「君たちは豊かなのだ」と説くが、心から信じる者は少ない。「本当の豊か
 さとは心の豊かさだ」と説く人も多いが、その内容はきわめて抽象的で、どうすれば心
 が豊かになるのか分からない。 
・今日、老齢年金を受け取る高齢者の支出の大きな部分は、孫たちにやる小遣いで占めら
 れている、という。お金でもやらなければ孫たちが寄りつかなくなっているのである。
 そのことを考えれば、あと1割か2割、老齢年金が増えても、さほど幸せになるとは思
 えない。むしろそのための増税や社会保険料の引き上げが、貧困感を深める恐れのほう
 が大きい。ただでさえ日本には人口高齢化の危機感が強いのだ。
・一部の人々は、ボランティアや地域社会への貢献に生甲斐を見出せ、という。だが、こ
 の国にはボランティアを歓迎する雰囲気もなければ、貢献すべき地域社会もほとんどな
 くなっている。  
・明治以来、日本の国家目標の第一は、近代工業社会をつくり上げることであった。その
 ため政府は、あらゆる分野で規格化を推進、大量生産の実現に努力した。とくに戦後は、
 平和国家として経済を発展させるために、すべての政策目標をこれに集中したといって
 よい。そしてそのことは、国民全部の希望とも一致していた。
・1970年代に入ると、大部分の家庭で「三C」(カラーテレビ、クーラー、自動車)
 は揃った。所得格差の少ないこの国では、規格品が全家庭に普及するのは早かった。
 80年代に入ると、人々の欲求は、規格品の数量を増すことよりも、「ちょっと変わっ
 たもの」「話題性のあるもの」「他人に自慢できるもの」へと移り出した。
・かつては欧米の裕福な人々の愛用品だった高級ブランド品を揃えられたことは、ある程
 度、日本人に豊かさを実感させるのに役立ったであろう。だが、十分な満足を与えたわ
 けではない。規格大量生産の現場で働くのに適した勤労者として、忍耐と協調性と共通
 の知識技能を習得する教育を受けた戦後生まれの日本人は、個性的な商品の選択や創造
 的な組み合わせを考えることが不得意であり、負担でもある。消費の多様化が進みブラ
 ンド品が流行すると、たいていの人々、とくに若者たちは、何が話題性のある商品か、
 どれが自慢できるブランドかを誰かに教えてもらいたいと考えた。そしてその需要に合
 わせて有名ブランドや流行商品を紹介する書籍、雑誌の類いが巷にあふれ出した。
・「変わったもの」「自慢できるもの」を持ちたいという欲求と、それを雑誌で教えて欲
 しいという希望とは、完全に矛盾している。雑誌が書けばその商品は普及し、「変わっ
 たもの」でも「自慢できるもの」でもなくなってしまうからだ。このため日本人の多く
 は、より早くより多く最新の有名ブランドを揃えるために、ますます「流行情報誌」に
 頼ることになる。     
・要するに、自らを個性的に表現しようとして買い揃えた有名ブランドも、みんなが同じ
 ことをしたため、「共通の個性」をつくり出したに過ぎない。経済的に豊かになれば、
 必ず「豊かさ」が実感できると信じていた日本人が、みんなが豊かになった結果、豊か
 さが実感できないのと同様、個性を創るはずのブランド品も、みんなが買い揃えた結果、
 無個性を拡げたに過ぎない。
・1980年代から、経済的に豊かになり産業競争力も強まった日本には、アメリカをは
 じめとする諸外国からさまざまな要求を突きつけられるようになった。1972年に金
 為替本位制度が崩壊、変動為替方式のペーパーマネー社会が世界に実現。為替の自由変
 動性が実施された。これはもともと、国際収支の不均衡は為替の変動によって調整され
 る、という発想から生まれたものだ。しかし、自国の貿易と景気にしか関心がなかった
 日本人は、このことをまったく理解していなかった。
・1985年の「プラザ合意」なるものは、変動為替制度本来の調整機能を実現しようと
 するものだった。だが、この制度の本来の発想に無知だった日本人は、急激な円高に仰
 天してしまった。自国通貨の為替ルートが上昇することは、国際的に見た所得と財産の
 増大を意味するのだから、喜ぶべき現象のはずである。事実、日本円と時を同じくして、
 マルクの為替ルートも大幅に上がったが、大部分の旧西ドイツ人はこれを喜んだ。とこ
 ろが日本人は、輸出の減少と企業利益の縮小を予想して、不安に脅え、外圧に怒った。
 そしてそれをよりどころに、いっそうの合理化努力と技術改善に励んだのである。
・日本人の「外圧」に対する反応は、いつもこうだ。外国、とくに欧米先進国からの要求
 には、つねに驚きと脅え、そして怒る。外国の要求は、必ず日本と日本人に損害を与え
 ると思い込み、その実体が何であるか、その結果何が予測されるかを考えない。
・しかし、日本のマスコミがどう伝え、日本人がどう考えようと、経済は現実的に反応す
 る。円高の結果、日本は好況になり、世界の中での経済的な地位が向上した。企業は利
 益を上げ、個人は豊かになった。日本人はより多くの外国有名ブランドを買い漁り、海
 外旅行を楽しむことができた。そしてそのことを、多くの日本人は、日本人自身の有能
 と勤勉のせいにした。外国の陰謀にも屈せず、歯をくいしばって頑張った結果、いっそ
 うの繁栄を勝ち取った、と考えたのである。
・日本人の「外圧」に対する反応は、「有能な弱者」または「劣等感を持つ成り上がり者」
 の典型といってよい。他人を恐れ周囲を悪意に解し、成功を自らの努力と能力のせいに
 するのである。  
・1990年代に入ると、日本にはまた、違った種類の「外圧」がたてつづけに加えられ
 た。日米構造協議、ガットのウルグアイ・ラウンド、そして中東湾岸危機に対する貢献
 要請である。安全と平等とに慣れた日本には、大きな苦痛と戸惑いが生じた。安全を第
 一とする戦後の日本には、勇気と決断の美徳がなく、平等を尊ぶ社会には、強力なリー
 ダーシップと一部を切り捨てて全体利益を図る総合調整機能が乏しいからである。
・日米構造協議でアメリカ側が持ち出したのは、業界に対する保護育成を行う仕組み自体
 を縮小または廃止せよ、という主張だった。つまり、アメリカはここで、「日本は官僚
 主導の啓蒙主義国家であって、自由経済社会ではない。日本が欧米との自由貿易を継続
 しようと望むならば、自由経済体制を変えるべきだ」といっているのである。では、ア
 メリカに代表される欧米諸国が考える自由経済体制とは何か。それは消費者の選択によ
 って商品サービスの売れ行きが決まり、企業の盛衰が決まる社会体制のことだ。つまり
 「選択の自由」こそが、正義の一つである社会なのだ。
・アメリカの主張は、全世界的に農業に対する補助と保護を低減、内外産を区別すること
 なく消費市場に提供、消費者の選択に各国農業の特化と盛衰を委ねるべきだ、というも
 のだ。農業は古い産業であり、自然条件と社会構造に依存するところが多い。それだけ
 に、ここでの自由競争には、ヨーロッパ諸国もアメリカほどに割り切れない。このため
 欧米間の対立も激しくなったが、日本はそれ以上に困った立場に追い込まれた。この国
 では、官僚主導のもとに米作を徹底的に保護する農政が、当然の正義として続けられて
 きたからである。     
・もう一つ、1990年から91年にかけて、恐怖の「外圧」が日本を襲った。中東湾岸
 危機の鎮圧に対する貢献を求められたことだ。過去に二千年近い歴史を通じて、日本は
 世界構造と国際秩序に関して積極的に役割を果たした例がほとんどない。日本人は長い
 間、この島国の中でのみ暮らしてきた。現在の日本国土以外を領有しようと考えたこと
 も少なかったし、外国の一部にされそうになったこともない。外国人が大規模に組織的
 に侵入してきたことも少なければ、日本人が大量に計画的に移住したこともなかった。
・日本の歴史のなかには、朝鮮半島に「任那日本府」があったとか。「白村江」に出兵し
 たとかいう記録もあるが、はるか千三百年から千六百年も前の小事件だ。豊臣秀吉の
 「朝鮮出兵」はより新しくより大規模だったが、目的も政策思想も不明で暴挙に過ぎな
 い。
・結局、日本人が多少とも積極的に国際社会にかかわったのは、二十世紀の前半の三十年
 間、第一次世界大戦から第二次世界大戦までの間だけである。しかし、それもまた大失
 敗に終わった。太平洋戦争の敗北という悲惨な結果になっただけではなく、その行為と
 思想が外国からも日本人自身によっても全否定されてしまったのだ。
・太平洋戦争で敗北した日本は、戦後の世界構造や国際秩序の形成には、何一つかかわる
 ことがなかった。具体的な行動もしなかったし意見を述べる機会もなかった。幸いにも
 アメリカの単独占領下に置かれた日本では、国際的地位を選ぶ余地さえなかった。明治
 開国のときと同様、戦後の日本も「でき上った世界」の中に頭を低くして入り込ませて
 もらうのがやったであった。ところが、そのようにして入り込んだ「戦後世界」で、日
 本は経済的に大発展することができたのである。今日の日本人にとって、世界構造と国
 際秩序は、万有引力のような自然現象、いわば「神の摂理」である。この国には、国際
 秩序の維持に協力する手段も精神も用意されていなかったのである。     
・経済環境や社会的地位が急激に上昇した結果、人間は自己評価の両極分解に陥りやすい。
 一つは、経済的社会的上昇を成し得た自分の能力に対する過大評価であり、もう一つは
 周囲の扱いや冷たい視線がから生まれる自己嫌悪だ。この心理が、ときには下品な富の
 顕示や強引な権力の乱用を招き、ときには過剰な被害者意識を募らす。
・日本人の自己過大評価は、行政機関や一部の産業界、言論人によって組織に宣伝され、
 広く日本人自身が信じ込むようになった「偉大な経済大国・日本」の自己イメージであ
 り、「勤勉で有能で規則正しい日本人」の自画像である。
・「経済大国」を示す諸数字は、これ自体は正確であり何の作為も含まれていな。しかし、
 このことから日本は「経済効率のよい国」、「世界に広めるべき優れた経済体制をつく
 り上げた社会」という印象まで植え付けたのには、数値の選択と報道の仕方に依存する
 ところが少なくない。 
・ところが、1991年の日本生産本部の調査によれば、勤労者一人当たりの生産性は、
 日本は主要先進国の中ではスウェーデンに次いで二番目に低い。この国の就業率は49
 パーセント、先進諸国の中でも断然高いのだ。しかし、日本の労働時間は1990年で
 年間2044時間、アメリカに比べて1割、イギリス、フランスより2割、旧西ドイツ
 と比べれば何と3割以上の長い。長い時間働いているのに、勤労者一人当たりの生産性
 はいたって低いのである。通勤などに費やされる時間を加えた労働拘束時間を見ると、
 この差はさらに大きく、日米の差は2割、日独では4割以上にもなる。大雑把にいえば、
 日本人が1年かかって行う生産を、同じ時間ずつ働けば西ドイツ人は、8カ月、アメリ
 カ人は10カ月で仕上げる勘定だ。このため、勤労者が自由に使える「可処分時間」は、
 ドイツ人のほうが日本人よりも3倍も多い。
・日本が一人当たり国民総生産が多いのは、この国の社会と企業が効率的だからではなく、
 大勢が長時間働いているからに過ぎない。「日本人はみんなが夜も眠らないで働いて、
 やっと欧米並みの生産を上げている」のである。
・日本は経済以外に資金と労働力を費やさない国である。防衛費はGNPの1パーセント、
 アメリカの6分の1、西欧諸国の4分の1以下だ。軍務に復する人の数も全就労者の
 0.4パーセント、欧米に比べて全国民に占める比率は2分の1から5分の1に過ぎな
 い。要するに日本は、防衛も宗教も顧みず、ただひたすら経済のために資金と人材を集
 中しているのである。
・日本は、労働の質のよい国だ、とも言われている。教育が普及しているだけに平均的な
 勤労者の技能と知識は、欧米先進国に比べてもかなり高いと言われている。そのうえ、
 圧倒的多数の勤労者は、哀しいまでの責任感と組織忠誠心を持っており、欠勤も労働争
 議もきわめて少ない。 
・今日の日本は技術が優れ労働の質がよく、国民全体がよく教育され、近代機器に親しん
 でいる。経済以外にはお金も人も使わず、大勢の人々が働き盛りの年齢で実際にも就業
 しているという、このうえもなく恵まれた条件にある。それにもかかわらず、労働拘束
 時間当たりの実質生産額で言えばアメリカや西ドイツよりははるかに低い。フランス、
 イギリス、スペインよりも下なのである。これはいったいどういうことだろうか。
・それは、この国の工場は効率的であっても、それ以外の面に巨大な無駄があるからに違
 いない。実際に、日本の農業の規模の小ささと生産性の低さは、すでによく知られてい
 る。流通業も非効率だ。「アメリカでは2人がつくった自動車を1人が売っているが、
 日本では1人がつくった車を2人が売っている」と言われるように、日本の流通業はき
 わめて無駄が多い。同じ値段のものを売るのに、日本は欧米の2、3倍も費用がかかる
 のである。    
・もっとも、日本の流通業、とりわけ小売業におけるサービスの質が高いことも無視でき
 ない。日本の小売業は営業時間が長いし、品切れも少ない。配達も無料ならアフターサ
 ービスも徹底している。何より誇るべき点は包装のよさで、包み紙や容器の豪華さは
 「断然」と三度繰り返したくなるほど諸外国を上回っている。日本の消費者は、概して
 そうした高級な流通サービスを求めているのである。
・飲食店やホテルなどのサービスも割高だ。金融や情報関係のコストも諸外国より高い。
・要するに日本は、「経済大国」とはいうものの、本当に量質ともに誇り得るほどの生産
 力と競争力を持っているのは製造工業、それも自動車や電気製品に代表される規格大量
 生産型の工業製品だけである。日本の実態は、経済活動全般が優れた「経済大国」では
 なく、多くの面で非効率と無駄を抱えながらも、規格大量生産型の工業だけがとび抜け
 て発展した「規格大量生産大国」なのである。
・この国では、同じような水準の人材が、同じような原理で組織された企業体によって、
 同じように熱心かつ勤勉に働いているにもかかわらず、規格大量生産型の製造工業は世
 界を圧するほどの生産力と競争力を持ち、流通業や情報産業などはひどく非効率な状況
 にあるわけだ。この大きな落差は何故か。一言にしていえば、日本社会全般に広まって
 いるすべてのものが、規格大量生産型の製造業には適しているが、それ以外の産業や社
 会活動には適していない、ということである。
・教育に対する官僚統制も徹底している。公立学校においては、一通学区域一学校の「強
 制入学制度」が厳格に実行されている。このため、教育の需要者たる生徒と父兄の側に
 は学校選択の余地がない。日本の子供たちは、自分の好みも個性も無視され、官僚の定
 めた学校に強制的に入学させられるのである。
・しかもそこでは、官僚の定めた指導要綱によって、不出来な科目ほど長く厳しく教え込
 む「欠点除去型」の教育が徹底されている。恐ろしいことに最近では、それでもまだい
 ささかの好みと個性を発揮する「悪質な生徒」がいるというので、服装・髪型から挙手
 歩行の姿勢に至るまで共通化する「校則」なるものがつくられ、その厳守が強制されて
 いる。校則とは、生徒にわずかな個性と自己表現も許さぬ管理規制なのだ。
・こうした画一化教育は、学校生活から楽しさをなくし、生徒の創造力と個性を破壊する
 が、その半面では、共通の知識と技能を付与し、苦痛に満ちた時間に耐える習慣を叩き
 込む点では効果を発揮する。そしてそれは、規格大量生産の現場で働くのにふさわしい
 労働力の養成にはじつに効率的である。
・放送や書籍の流通を、東京一極に集中させる制度も半世紀間続いている。これによって
 日本全国の情報環境は均一化し、地方の特色と誇りは失われてしまったが、同一規格の
 商品やサービスが全国的で販売使用しやすい統一市場をつくり上げたことも見逃せない。
・加えて日本では、「行政指導」の名のもとに、法律によって付与されている以上の行政
 介入を、官僚たちが無制限におこなうことも容認されている。官僚的たちは、企業や地
 方自治体を従わせるためなら、目的や趣旨のまったく異なる権限を利用することもはば
 からない。    
・こうした行政指導は、多くの場合、産業界の競争を抑制し、消費者価格をつり上げ、供
 給者を保護する効果を上げる。したがってそれは、企業の資本蓄積を厚くし、先行投資
 と技術改革に役立っている、といえる。
・要するに今日の日本は、官僚の主導のもとに供給者が業界ごとに協調して競争を抑制し、
 規格大量生産を拡大発展させるために有利な社会体制をつくり上げているのだ。こうし
 たことを続けてきた結果、日本で は消費者の選択の自由は狭くなったし、消費者物価
 も上昇した。生徒が個性と独創性を伸ばすことも、地域が特色を出すことも難しくなっ
 た。さまざまな情報に接することも、自由に営業することもでき難い。その代わりに、
 規格大量生産型の工業には最も適した社会を形成することはできたのである。
・今日、日本人が自慢としている多くの特色は、この「最適工業社会」において養われた
 ものだ。したがって、日本が誇りとする「優れた特長」は、「規格大量生産型」の工業
 に適してる」という意味に他ならない。たとえば、いまや多くの日本人が「世界に広め
 るべき日本文化」とさえ言っている「日本式経営」なるものも、その典型である。  
・こうした「日本式経営」は、従業員の企業忠誠心を強めるとともに、企業の内部留保を
 厚くし、先行投資を活発にする。同時に、下位者に至るまで決定権が分散しているため、
 企業としての意思決定に時間がかかるが、いったん社内合意が生まれれば浸透力が強く
 全従業員の協力が得やすい。日本の企業が成長力が高く、労働争議が少なく、しばしば
 全社一丸となって技術革新や経営強化に励めるのはこのためだ。
・終身雇用制では過剰雇用(社内失業)を招きやすく、決定権が下位に分散した集団主義
 では意思決定が遅く、配当性向を低くする共同体化した企業では仲間擁護になり経費負
 担が大きい。操業率が比較的安定している製造業では有利な終身雇用が、変動の大きい
 情報や知価創造では不利になる。
・80年代も末になると、こうした「日本式経営」に対する賛美は影を潜め、むしろ批判
 のほうが強まってきた。90年代初頭の今は、欧米でもアジア諸国でも、「日本式経営」
 の閉鎖性に対する非難のほうがはるかに強い。それは、より本質的には「日本式経営」
 がよりよく知られるようになった結果、それが規格大量生産型工業以外では非効率であ
 り、企業規模の拡大を前提としなければ成り立たないことが明確になったためだ。
・「日本式経営」の中では、すべて従業員は共通の倫理と美意識を持つことが強いられる。
 誰もが自分の勤める企業の発展こそが「社会正義」と考え、職場で与えられた仕事の完
 成成就が「社会目的」と信じて疑わない。「会社のため」とさえ言えば、相手の予定を
 無視することも、法規に違反することも、すべて容認されると思っている。「仕事だか
 ら」とことわれば、親類の葬祭も家族との約束も、全部免除されると信じている。いや、
 そう考えれば「よき従業員」と認められない仕組みと雰囲気が「日本式経営」にはつき
 まとっている。 
・このことは、個人の個性や創造力を麻痺させるだけでなく、職場共同体の価値基準に従
 わない者を排除することにもなる。つまり「日本式経営」のなかで「よき従業員」であ
 るためには、思想の自由より家族や地域社会への帰属意識を放棄し、職場共同体にのみ
 柔順な「職場単属人間」でなければならないのだ。
・日本の官僚たちが忠誠心を持つのは、その官僚が終身雇用的に帰属するそれぞれの省庁
 であって、日本国または日本政府ではない。日本の官僚は、自分の属する省庁の利益、
 とりわけその権限の拡大と慣例の厳守にこそ情熱を燃やす。権限と慣例こそは官公庁の
 資本、それぞれの省庁の組織を拡大し予算を増大する基本要素である。官僚が自分の官
 公庁に忠誠とは、それぞれの省庁の権限拡大と慣例擁護に熱心だという意味である。
・「日本の官僚は優秀だ」とよく言われる。仕事の熱心さと専門分野での知識の深さでは、
 おそらく世界一だろう。しかし、彼らの視野はそれぞれの省庁とその所管業種の枠を出
 ることがない。彼らの価値基準には、省庁とそれに帰属している官僚共同体の利益以外
 の尺度は入り得ない。このため、各省庁の政策や行政が日本国または日本社会全体に有
 利が不利かを考える 余裕などまったくないし、あってはならない。
・本来、国家の基本方針の策定と政策の総合調整は政治の仕事だ。しかし、政治家が大所
 高所からの調整機能を発揮しようとすれば、官僚機構は「外部勢力による権限と慣例の
 破壊」と見なして強く反発する。       
・このため、個々の官僚はきわめて熱心であり専門的知識に長けているにもかかわらず、
 全体としての日本の行政はきわめて非能率であり、不整合でもある。一つの官庁がある
 方向への施策を打ち出すと、他の省庁はその独走を恐れて対抗案を出す。各官庁間の権
 限範囲が複雑に入り組んでいるため、一つの官庁が新しい政策を展開することで権限範
 囲を拡げるのを、他の官庁は警戒し妨害する。 
・官僚としての優劣が、国家または国民の総合的利益を実現する判断の正確さと実行の迅
 速さによって測られるとすれば、日本の官僚はけっして優秀とはいえないだろう。
・日本の学校教育に対しては、全体としては「日本の初等教育は優秀だ」との見方はいま
 だに根強い。「日本の教育は上に行くほど悪くなる。小・中学校は規律も正しいし、成
 績も優秀だが、大学生は勉強もしないし個性もない。独創的な学説や研究が大学から発
 表されることも少ない」というのが大方の評価だろう。だが、小・中学校が優秀だとい
 うのは疑わしい。教育学者や文部官僚が挙げるその根拠は三つ、就学率の高さと、教室
 での規律の正しさと、数学や理科・地理の試験結果が諸外国に比べてよいことだ。しか
 し、これで日本の初等教育が優れていると結論できるだろうか。
・国民全員が初等教育を受け、規則正しく教師の管理に服し、数学や理科などの基礎知識
 と基本技能を身につけることが、教育の善悪を測る尺度とする考え方は、規格大量生産
 の現場で働く人間として使いやすい役に立つ人材をつくることこそ教育の目的、という
 発想に立ってのことである。今日の日本の学校教育が、こうした尺度から見たときに、
 優れたものと言えるだろうか。現に諸外国での評価は決して高くない。少なくとも日本
 の学校教育が、楽しいものではないこと、人類の進歩に役立つ創造力に富んだ個性を育
 てるものでないこと、そして本人の苦痛と父兄の負担の大きいものであることは確かで
 ある。 
・現在の日本の警察は、安全性を重視するあまり、人々の自由な行動を規制するのに躊躇
 することがない。このため、重要国賓や国家行事となれば東京中が交通規制で大渋滞、
 市民生活と経済活動が著しく妨げられる。だが、警察当局がそれによる市民の負担に配
 慮する気配はまったくない。警備の観点からの完備を期するあまり、社会全体の利便や
 生活の楽しみが破壊されている現実を直視しないのである。
・日本人の多くは、各段階ごとに他と区別する落差の激しい同心円的帰属意識を持ってい
 る。当然、この心理状況では、外国は最も外側に置かれる。このため、日本人の思考の
 中で、強く意識する国内とそうではない外国との間には、天地の差がある。世界のどこ
 かで航空事故があれば、まず「日本人旅客」が問題となり、「いませんでした」と言え
 ば急に記事も小さくなる。「いた」となれば、それ以降の報道は、その日本人のことば
 かりになる。いずれにしても、「外国人」は無視ないし極度に軽視されるのである。
・貿易摩擦の問題でも、外国からの輸入で日本の産業が被害を受ければ大騒ぎになるが、
 日本の輸出で被害を受ける外国の産業や労働者にはきわめて鈍感だ。というよりも、外
 国の事情に対する想像力が、ほとんどの日本人には欠けている。そしてそのことを、日
 本人は冷酷とも異常とも思わない。世界中がそんなものだと思い込んでいるからである。
・戦後の日本人は、自国が戦争に巻き込まれることを恐れるあまり、世界の平和がいかに
 して保たれているかを考えようともしなかった。「狭くない海」で隔てられたこの島国
 と同様の国々ばかりが、全世界に拡がっていると信じたがってきた。そしてその中では、
 わずか半世紀前に犯した侵略戦争当時の日本自体の社会心理さえも忘却してしまってい
 る。このため、多くの日本人は、平和と反戦を叫んでいれば平和が自動的に生まれると
 思い込むことで、世界の平和を守るために払われている努力と負担に想像力を及ぼさな
 い。      
・権限が下部まで分散している日本では、工業製品の設計や企業の経営を、特定の個人の
 名前と責任に帰することは難しい。もし、あえてそれをする者があれば、嫉妬深い仲間
 から大いに非難されるだろう。そしてそれこそ、内志向の日本人の最も恐れるところで
 ある。 
・政治家や芸能人などの知名度が職業的に必要な人々を除けば、圧倒的多数の日本人は、
 外国や世間一般の著名度よりも仲間内の評判を大切にする。学者や芸術家でさえも、世
 間での作品業績の評価と著名度よりも、学界や文壇、画壇の人格的評判を気にしるし、
 そうすることが「利口な生き方」になっている。
・この国では、外国にも個人名の知られるような独創的個性は、それぞれの専門分野の人
 脈には入り難い。むしろ自らの個性と自己主張を抑え、それぞれの属する企業、官庁、
 学界、文壇、画壇等において、当たり障りのない世話好きとして生きるほうが、はるか
 に生きやすく成功率も高い。なかには、ただそれだけを何十年間か続けたことで、学界
 や文壇、画壇の「重鎮」となった人も多い。  
・日本国内の、それもそれぞれの専門家集団の中でした知られない世話役的人脈ほど普遍
 性ないものはない。それがきわめて重要だという日本社会の評価基準は、完全に国際性
 を欠いている。 
・内志向は職場単属型の人間を育て、閉鎖的労使慣行を生みやすい。仲間評価の優先は、
 権限の下部分散による集団主義をつくりやすい。そしてその二つが永年続けば、企業全
 体が従業員共同体と化することにもなるだろう。同じことは、政府官僚組織にも、政治
 家、学界、文壇、画壇にも拡がっている。
・より迅速な決断と多様な創造を要求される多品種少量生産の超大型技術分野や、情報や
 流通などの面では、日本式経営の持つ雇用硬直性と集団主義は少なからぬマイナスとな
 るし、行政機構に持ち込まれれば総合調整不能な供給者優先行政になってしまう。まし
 てや、決断と創造そのものである政治や学術・芸術になれば、「密室の停滞」以外の何
 ものも生まれない。要するに今日の日本は、すべてが規格大量生産型工業に適するよう
 につくられた「最適工業社会」であり、そのための心情と組織原理だけが全社的に定着
 した「工業モノカルチャー国家」なのだ。
・極端なモノカルチャー社会では、当該産業の生産はきわめて効率的に行われたが、それ
 以外では不合理と非効率と無知無策が著しかった。このため、いったんモノカルチャー
 体制に陥った社会は、それから脱出することが容易ではない。
・たとえそれが、技術的基盤の広い需要拡大率の高い工業製品群であったとしても、特定
 産業への特化は、社会全般の多様性と選択性を乏しくする点では、モノカルチャー社会
 的特色を免れない。今日の日本が「顔のない経済大国」なのはそのためだ。そしてその
 ことが、統計的な数値の「豊かさ」にもかかわらず、実感としての「豊かさ」が乏しい
 という結果にもつながっている。   
・人間が本当に「豊かさ」を実感するのは、自らの「好み」が満たされた場合である。生
 活水準がきわめて低い場合なら、なによりも「生きる糧」が大切だが、それに必要な物
 的需要はさほど多くはない。 
・人間がそれぞれの「好み」を満たすためには、ただお金があればよい、というものでは
 ない。お金があることは、「好み」を満たすための経済的可能性を与えるという点でき
 わめて重要な必要条件には違いないが、決して十分条件ではない。本当に「好み」が実
 現されるためには、もう二つ、「好み」に適した選択を可能にする多様な供給が常に継
 続していることと、それを実現するための時間的余裕のあることが伴わなければならな
 い。
・すべてを規格大量生産型工業に適するように仕組んだ日本社会には、あらゆる面で供給
 の多様性が乏しく、それぞれの「好み」を満たすだけの選択の自由がない。そのうえ、
 東京一極集中政策によって頭脳機能にたずさわる職業を選べば、東京における狭小な住
 居と長距離通勤を強いられるし、地方での生活を求めれば、規格大量生産の現場か創造
 性の乏しい地域サービス業務にしか就業の場がない。この国では、職業と生活とを、と
 もに「好み」に合わせて選ぶことは不可能に近い。日本が、本当に「豊かさ」を実感で
 きる国になるためには、より多様な供給を許し、より多くの選択の自由を可能にしなけ
 ればならない。だが、それは、工業モノカルチャー社会としての利点「最適工業社会」
 をある程度放棄することをも意味している。
   
平和と協調を育てた「風土」 
・日本には、近代工業文明を拒むような確固とした「非近代的思想」が定着しなかった。
 日本人は、古くから文化を体系的なものとして捉える視点を欠いているばかりでなく、
 あらゆる事柄をきわめて個別具体的に考え、実際的に対応する発想を持っていたのだ。
・有史以来、日本人の大部分が住み続けてきたこの島国の「風土」は、世界的にも珍しい
 条件を備えている。日本の国土は、気候が温暖湿潤で、地形は峻険な山地と狭い平野に
 よって構成されている。この風土は牧畜には不適当だが、水田稲作には向いている。日
 本の歴史には牧畜時代が欠如しているばかりでなく、厳密な意味での有畜農業の経験も
 乏しい。極端に言えば、この国では狩猟牧畜の時代を飛ばして、稲作が発達したわけだ。
 日本の歴史と文明は稲作とともに始まった、といってもよいだろう。
・稲作は一反当たりの労働投入量が非常に高い。まず、水を入れるために田を平らにしな
 ければならない。斜面では段状にしなければならないし、平地でも水が漏れないように
 畦をつくり、水路を細かく儲けなければならない。そしてそれを維持するためにも絶え
 ざる労働が必要である。しかもそれは、個人や家族の単位を超えた共同作業を要求する。
 日本人は早い時期から村落共同体による勤勉な共同作業を行う宿命を背負っていたので
 ある。 
・確かに、日本人のことばは、蒙古・ツングース系に属している。したがって、日本人が
 言語種族的には朝鮮半島を通じて蒙古・ツングース人種につながっている、という推測
 は 成り立つ。もちろん、日本民族の構成要素は種々雑多であろうが、言語学的に見れ
 ば、蒙古・ツングース系が主流であった、という学説は有力である。
・日本犬の血液型を調べて、日本の犬は蒙古の犬と血液型が最も違いというユニークな研
 究をした人もいる。犬は人間とともに移動する動物だから、人間のいる場所には必ず犬
 がいる。したがって、日本犬の種族から日本人のルーツを探すのは興味ある方法論には
 違いない。   
・しかし、日本人の主流が蒙古・ツングース系であったとしても、日本に騎馬民族国家が
 成立していた、という証明にはならない。たとえば、アメリカ・インディアンも蒙古・
 ツングース系だというが、彼らは騎馬民族ではなかった。コロンブスがアメリカ大陸を
 発見するまで、馬を知らなかったのだ。
・日本には牧畜時代がなかったばかりか、厳密な意味での有畜農業の経験もなかった。つ
 まり、この国の人々は、諸外国に比べて動物とのかかわりがきわめて少なかった。この
 ことは単に、日本人の食文化を動物性たんぱく質の少ないものにし、腸の長い体型にし
 ただけでなく、日本人の精神と日本社会の構造に重大な影響を与えた。
・家畜を飼育し使役するには、意思を持った相手を制御し、抑圧することが必要だ。羊や
 牛馬は意外と強い意思を持っているし、集団になると卸し難い行動に走ることもある。
 それを制御し使役するとなれば、人間と党物の間に支配・被支配の関係が生まれる。そ
 うした経験の中から、意思を持った相手を支配することを正当化する思想と技術が生ま
 れる。これは当然、より強い意思と高い知性を持つ動物・人間にも適用される。つまり、
 牧畜生活や有畜農業からは奴隷制度が発達しやすい条件が生まれるわけである。
・それに対して日本では、意思あるものを支配する経験が乏しかったせいか、大規模な奴
 隷制度が発達し難かった。この国に大規模な奴隷制社会があったという証拠は、いまの
 ところ発見されていない。     
・近代の「進歩史観」にとらわれた歴史家たちは、巨大な墳墓や大寺院が造営された太古
 の時代には、どこの国でも大量の奴隷が動員されていたに違いないと考えがちだが、そ
 れは大間違いだ。西洋でも東洋でも、土地改良技術が普及する以前の「始代」には、大
 量の奴隷がいたわけではない。近年の研究では、ピラミッドがつくられた頃の始代エジ
 プトでも、奴隷はごく少なかったことがわかっている。巨石を運んだのは宗教的情熱に
 駆られた自由な農民たちだったのだ。  
・日本の伝説や神話のなかには、大規模な奴隷制の存在を推測させるような記述や、奴隷
 の反乱またはその討伐にかかわる記録がまったく見られない。またこの国には、奴隷制
 度を推定させるような身体拘束器具も出土していない。日本にも「奴」とか「奴碑」と
 かいった言葉はあるが、少数の家事従事者などを別にすれば、その実体は被支配農民
 (農奴)というべきものと考えたほうが適切であろう。
・この国の「風土」を生んだもう一つの重要な歴史的欠落は、「都市国家」ないしは「都
 市国家時代」がなかったことだ。大量の労働力を必要とする稲作を行うためには、土地
 とともに人も支配しなければならなかった。このため、隣の土地と支配した「王」は、
 そこの住民を殺すことよりも働かせた。年貢徴収や労働課役は行っても、皆殺しにする
 ことはなかったのだ。このため、各地の住民もまた、堅固な城壁に立てこもってまで抵
 抗しようとはしなかった。つまり城壁を巡らせた都市国家を建設する意思も持たなかっ
 たのだ。   
・日本の特殊な気象と地形から、牧畜と大規模な奴隷制と都市国家の三つを、われわれの
 先祖は、経験しなかった。このことは、気象や地形そのもの以上に大きな影響を日本文
 化に与えた。つまり、日本人は強烈な支配・被支配の関係を嫌う嫉妬深い平等主義者に
 なったのである。 
・日本の国土が他の陸地から「狭くない海」を隔てており、日本の国土の主要部分を構成
 する四つの島はきわめてまとまりがよかった、ということも重要な意味を持っている。
 もし、日本と中国大陸や朝鮮半島を隔てる海がドーバー海峡ほど狭かったり、瀬戸内海
 が台湾海峡ほど広かったら、気候や地形が同じでも、日本の歴史はまったく違った経過
 を辿り、日本人は別の文化を持っていたことであろう。古くから高度に文明が発達した
 国の近くに位置し、「狭くない海」で隔てられている国は、日本以外には地球上に存在
 しない。 
・日本と同じほどの面積を持ち、かつ大陸から一定の距離をおいて存在するところとして
 はマダガスカルやキューバがある。しかし、マダガスカル海峡は玄界灘よりはるかに渡
 り難い。このためマダガスカルの生態系は対岸のアフリカとは異なっている。そのうえ
 対岸のアフリカ大陸の発達が非常に遅かったので、この島には、対岸のアフリカ人より
 も先に、はりかに遠いマレー系の人々が潮流に乗ってやってきていた。マダガスカル島
 は、文明的には完全な「孤島」だったのである。キューバに至っては、対岸のアメリカ
 大陸フロリダ地方の開発が遅く、スペイン人の流入までは独自の文明を持ち得なかった。
・日本人がはじめて文字で記された歴史に登場するのは、「後漢書」の西暦57年の記述
 である。このとき「日本王の使者」が洛陽の光武帝の宮廷に現れ、後漢朝から「倭国王
 の印」をいただいた、というのである。それは、有名な邪馬台国の卑弥呼が登場する
 「魏志倭人伝」の記述よりも約180年も前の話である。
・当時の中国は外交待遇に厳格で、その国のまとまり具合や文化の発達状況に応じて位を
 与えており、「王」の位は容易に与えられなかった。ところが日本にはそれを与えた。
 おそらく日本からの使節は、厳格な中国の官僚に「王国」に値すると信じさせる品物と
 話を披露したのであろう。邪馬台国の卑弥呼 よりも約180年も前だから、日本はま
 だ小領域の村落国家だっただろうが、そんな時代の渡航技術でも日本と大陸を隔てる海
 は渡れる程度に狭かったのである。
・しかし、この海は、大規模な移民や軍事攻撃を組織的に行うには、あまりに広すぎた。
 古代の技術で玄界灘や東シナ海を渡れば、たいていの場合、船団はばらばらになり、日
 本到着後に有効な軍事行動がとれなかったはずだ。つまり、日本には大陸との交流はあ
 り、文化や知識は流入し得たが、大量の移民が押し寄せたり、組織的な軍事攻略が行わ
 れたりすることはなかった。外国勢力が、日本に軍事的意図をもって組織的な遠征をし
 かけたのは、元寇のときだけである。しかし、これは防雨風のために二度も失敗した。
 二度目は平戸(長崎県)のあたりに上陸して福岡県まで攻めてきたが、大量の船団を一
 週間も沿岸に泊めているうちに台風がやってきて、船が沈んでしまった。
・こういうわけで太平洋戦争までは、日本が組織的に軍事侵略を受けることは一度もなか
 った。このため、日本の国土においては、異民族との大規模な戦争も起こらなかった。
 また、大量の移民が一時に流入し、もとからの住民との間で深刻な抗争が発生したとい
 う経験も乏しい。大陸の進んだ文化は早くから流入したが、軍事侵略や政治支配は入っ
 てこなかった。このことが日本の歴史を決定的に特徴づけることになったのである。
・文明や初期に稲作農業が発達した日本には、すべてを均質化する要素がある。稲作農業
 は労働集約的であり、水の維持管理のために共同作業と共通分配を必要とする。したが
 って、完全な稲作農業社会においては、個人または家族が、他の集団から独立して生き
 ることは不可能だ。「あいつの田には水をやらない」といわれたら終わりである。
・水田農業社会の日本では、ひとたび村落共同体から追放られると生きられない。織田信
 長に追放された佐久間信盛は高野山から熊野の山奥に行ったものの、早々に餓死してし
 まった。「水田が駄目なら山がある」というわけにはいかないのである。しかも、日本
 人が離れ難く帰属する村落共同体の紐帯は、宗教や血縁ではなく、稲作という経済的生
 産機構である。「血は水より濃い」と言われるが、日本の場合はむしろ逆で、水は断然
 血より濃い。水とは地縁、同じ流れの水を分け合って田をつくっている間柄のこと、血
 は血縁、親や祖先を共通にする者のことである。
・早くから日本に発達した稲作は勤勉な共同作業こそ必要だが、その内容は毎年同じこと
 の繰り返しであり、急激な変化に対応する判断は必要がない。したがって日本の稲作共
 同体では、決断力や先見性よりも経験と記憶力が大切である。動物を制御することがな
 く、支配・被支配の発想も希薄だった日本に、みんなが一緒にやろうという集団主義が
 定着しても不思議ではない。一方、日本と大陸は「狭くない海」で隔てられていたため、
 外国からの攻撃を受けることがなく、一般住民を巻き込むような軍事的闘争が少なかっ
 た。このため、戦争に際して不可欠な強いリーダーシップが、この国にはあまり重要で
 はなかった。 
・この国のリーダーに求められるのは、先見性や決断力ではなく、稲作共同体を平穏無事
 にまとめる温厚さと率先して労働に従事する自己犠牲の精神である。これでは、能力の
 故に高所得多消費を認める意識が育たなかったのも当然だろう。つまり、日本人は嫉妬
 深い平等思想を持つようになったのである。
・こうした日本型共同体で何よりも大切なことは、リーダーの選出に当たって、誰もが納
 得する客観的な基準を選ぶことだ。これを間違えば共同体の和が乱れてしまうからであ
 る。最も客観的な基準は年齢だ。それはまた、経験の多さをも推定させるし、多くの人
 々の時期リーダーの期待を与えることになる。共同体を丸く収めるには年功序列人事ほ
 ど安全なものはない。   
・能力ある者がリーダーになれば、リーダーシップが強くなり権力の集中が起こる。それ
 は平等を損ない構成員の嫉妬をかき立てるばかりか、将来のリーダーを目指す競争を生
 み、対立をもたらす。それを避けるためにも、日本人はつねに、有能なリーダーを選ぶ
 ことにより、リーダーが強くなりすぎないことのほうに留意した。
・朝鮮半島や中国大陸との間に人的交流の激しかった開拓時代の古代には、「国」に関す
 る記述や詩歌も少なくないが、それが一段落した平安以降になると、「国」または「国
 家」という意識がほとんどなくなってしまう。元寇に際して一時的に国家意識が燃え上
 がったことを除けば、平安後半から十六世紀の中頃まで、日本人の大半はこの島国に
 「国家」という権力組織が存在するとは考えなかっただろう。秀吉の行った朝鮮出兵に
 したところで、野心的な独裁者と領地欲に惹かれた一部の大名の暴走に過ぎない。彼ら
 は「日本」という「国家」を動員して外国を侵略しているという意識はなかっただろう。
・今日も、日本は国家主義的伝統を持つかのように説く論者がいる。しかし、それは明治
 以降の近代化の過程で採られた西洋帝国主義の模倣から生まれたものであって、日本古
 来の伝統ではない。日本がわずか数十年の間に超国家主義的統制国家になったのは、日
 本に国家主義の伝統があったためではなく、国家権力の凶暴性と侵略性に対する経験が
 乏しかったために、それに対する警戒と危険感がなかったからだろう。
・現在、厳格な戸籍制度があるのは日本と韓国と台湾だけである。欧米では、こんな制度
 をつくること自体が、プライバシーの侵害につながるとして反対されてしまう。政府に
 自分の存在や実情を知られたくない、という心理があるからだ。
・日本人は、政府に存在を知らせていなければ困る、何らかの場合に政府に役立ってもら
 えない、と考える。それほどに日本人は、日本国と日本政府を信頼しているのである。
 「国家」を意識することのなかった日本人が、じつは国と政府を深く信頼しているとい
 うのも、日本人が生きたこの島国の「風土」と深くかかわっている。
・世界のたいていの地域では、国家は防衛のために生まれた。人類が大陸や河岸やオアシ
 スなど、ごく限られた可農地に住みついて農業をはじめた頃、その周囲には、広大な草
 原や森林があり、狩猟や遊牧を行う民が多数徘徊していた。農耕民族はまず、これらの
 移動集団から、生命と財産を守るために、強いリーダーシップのもとに結集する組織と
 異部族の奇襲を防ぐ施設を備えなければならなかった。「国家」というものを、一定の
 法規によって住民(国民)と土地(国土)を統治する権力組織と定義するならば、世界
 のどこでも、最初の国家は、このような形態で始まった都市国家、つまり城壁で囲まれ
 た農耕民族集住地域であったといえる。人類は定着と同時に、軍事防衛施設の中に住ん
 でいたわけである。  
・軍事防衛は、大きな費用と労働力を要するばかりでなく、住民の生活行動をも規制する。
 まず、都市国家を形成する「城壁」をつくるだけでも大きな費用がかかる。そしてその
 中で住民が共同生活をするには、厳格な規則も不可欠だ。何より、常時敵襲に備えて防
 衛要員を養い組織しておくには、命令厳守の慣習と軍事訓練と精神的緊張とを必要とす
 る。つまり、その負担は経済的にも肉体的にも心理的にもきわめて大きい。
「公共財」の費用はなるべく負担したくないのが人情だ。誰しも兵役を逃れ、防衛費の負
 担を回避しながら、防衛の結果としての安全だけは浴したい。だが、それでは国家防衛
 は不可能になってしまう。したがって、防衛を行う国家としては、その負担を公正に徴
 収する納税と兵役を強要せざるを得ない。そしてそのためには、各人の所得や財産の状
 況を調べ、徴税を実行するだけの実力、つまり治安維持力も不可欠だ。この三つ、防衛
 と徴税と治安こそ根源的な国家権力なのである。 
・中世以前の都市は、アテネ、ローマ、ロンドン、パリ、フランクフルト、バクダッド、
 デリー、北京、南京など、すべて堅固な都市城壁で囲まれていた。ただ一つ、日本には
 城壁で囲まれた都市が存在しない。城下町はあるが城内町はまったくなかった。日本の
 歴史にも戦争はあったが、このほとんどは内戦、つまり日本人同士の戦争だった。そし
 てその日本人は、ほとんどすべてが農耕民だった。したがって、日本の戦争は、支配階
 層の土地と住民の支配権をめぐる争いに過ぎず、負けたほうの殿様や家老が切腹すれば
 それで終わった。日本の戦争で住民皆殺しが行われた例は、織田信長の伊勢長島攻めぐ
 らいであろう。住民を皆殺しにしてしまったのでは、翌年から稲をつくる人がいなくな
 り、年貢が入らなくなるからである。 
・敵襲に備えて都市全体を城壁で囲むなどは愚かなことだ。一般の住民は、戦争の間だけ
 他の場所へ避難し、終わればすぐに戻ってくればよかったのである。それだけに戦闘そ
 のものも呑気で、十六世紀の戦国時代でも、戦場周辺には近隣の農民が大勢見物につめ
 かけていたという。 
・もっとも、私は国家権力の発生原因は防衛なかりではなかった、と考えている。もう一
 つ、種子の保存と管理も国家権力の発生要因だったに違いない。凶作の年や外敵の略奪
 があった場合には、より多くの比率を翌年の種子に保存しなければならない。それほど
 の厳しい自己規制が個々人や家族などの自主性でできたとは考え難いだろう。
・異民族との戦争がなく防衛上の国家権力が強くなかった日本で、早くから中央集権的な
 国家形態が生まれた理由の一つは、稲作生産のための種子保存や水路管理のノウハウが
 関係していたに違いない。古代遺跡の多くがモミ保管用の倉を備えていることからも、
 それが推定できる。  
・日本の国家は、税負担の軽かっただけでなく、民生への手厚い配慮を行っていたことに
 なる。このため国民は、むしろ自分の存在と実情をお上に知らせるほうが有利だった。
 東北地方を「平定」した坂上田村麻呂は、屯田兵的活動をして、周囲の住民に耐寒種の
 稲作や農機具の普及の努力した、とされている。大和朝廷により東国支配が比較的早期
 に抵抗も少なく実現したのは、稲作技術の普及活動を伴っていたからであろう。
・日本では、本音と建前を分けておいて、官僚の裁量の余地を残している。これで国民の
 側も不安を感じないのは、政府と国民の間に馴れ合い的一体感があるからである。しか
 し、何より重大なのは、この官僚の恣意性が、「行政指導」という形で一般化している
 ことだ。法律を制定する意味は、法律で禁じられたことはしてはいけない、ということ
 と同時に、それ以外ならしてもよい、という意味でもある。民主主義では、法の制定を
 国民が選んだ議会に委ねているのは、官僚の恣意を禁じるためである。ところが日本で
 は、「行政指導」という形で、法律で定められていないことを、官僚が禁止したり強要
 したり、自由自在に行っている。そして、それが決して「悪いこと」とは思われていな
 い。それも、こうした伝統に由来するものであろう。
・国家と住民(国民)との関係を親密し、馴れ合い的建前主義と恣意的行政指導をはびこ
 らせたのは、もう一つの要素として、太平洋戦争直後の数年間を除けば、日本には外国
 人の政治支配が行われたこともなかったこと、つまり、歴史の全世代を通じて支配階級
 も被支配者も日本人だったことが挙げられる。
・特定の「風土」の中で、同じ伝統と生産形態のもとに育った人々は、倫理観も美意識も
 共通になりやすい。日本の場合はまさにそれで、住民が役人に何かを訴えれば、たいて
 いは住民の期待に添った判決が下る。日本人が古くから何事も上部権力に判断を委ねる
 習慣が生まれたのはこのためだ。この国では、官僚の正義と人民の正義が基本的な倫理
 において一致していたのだ。    
・日本人はいまも、成文法や文章化した契約を尊重しない。成文化された建前と現実に実
 行される本音を使い分けるのは、誰もが共通の倫理を持つと信じる日本人の特色だ。そ
 してそれが、現代における官民協調体制の根源にもなっている。
・もう一つ、この国の「風土」がもたらした日本社会の特色は、軍事思想の完全な欠落で
 ある。それは単に戦後の「平和ボケ」によるだけではない。この国の歴史のなかで、社
 会的にも個人的にも、軍事思想が判断と行動の基準になったことがほとんどないのであ
 る。  
・兵力と装備が同じなら、日本軍は米英軍よりも強いと思っていた人が、当時は多かった
 はずだ。いや、いまでも、日本人は好戦的で戦争上手と思っている人がいるようだ。と
 ころが、実際に太平洋戦争がはじまってみると、日本軍は少しも強くなかった。相手の
 態勢が整っていなかった緒戦の六カ月ぐらいは景気のよい戦勝ニュースが続いたが、米
 英側が態勢を整えると、たちまちにして敗退、ミッドウェー海戦以降はもっぱら敵の出
 てくる方面で応戦死守するばかりで惨敗を続けた。しかもそのなかには、兵力装備で優
 っていたのに、用兵の誤りと動員の不徹底と軍事思想の欠落による敗戦も少なくない。
 とくに日本全体が「戦時体制」「軍国主導」といいながら、戦争向きの発想ができなか
 ったことは見逃せない。 
・例えば、南方諸島の戦場での兵糧体系がその好例だ。日本軍は最後まで戦場に米を運ん
 でいたのである。米は水分が多く腐りやすい穀物だ。重量も大きいし梱包も難しい。何
 よりの欠点は、食べる直前に炊飯をしなければならず、ために煙が出て、部隊の所在を
 知られることである。二十世紀の軍隊で、こんな非軍事的食糧を前線部隊で使用してい
 たのは、日本ぐらいであろう。この点、欧米人は平時には贅沢でも、「いざ戦争」とな
 れば生活態様をガラリと変える。一見物量にあふれているように見える米軍の兵糧も、
 前線食は軍事的観点から吟味されている。
・日本人には、「前線で命がけで戦う兵隊さんにこそおいしいお米を送るべきだ」という
 発想があったし、軍人のほうもそれを当然としていた。いわば将兵の生活優先、戦争二
 の次だったのだ。このことは、古来の日本の武具の類にも見られる。日本の甲冑は真に
 美しいが、防具としての効果は乏しく、活動的でもない。日本刀も個人技には適してい
 るが、集団戦闘には役に立たない。
・これぐらいだから、社会組織全体になると、およそ軍事的発想がない。都市の構造も、
 田畑のつくりも、地域コミュニティーも家族形態も、教育制度や礼儀作法も、戦時の緊
 急非常事態を想定してつくられてはいない。
・軍事思想の欠如は、リーダーシップの否定につながり、あらゆる問題に関する禁呪湯非
 常事態への対応能力を失わせた。太平洋戦争で暴露されたもう一つの日本の欠陥は、都
 市施設や生産施設の応急修理能力の低さである。この国には、災害や戦火に備える体制
 も、非常動員の思想も皆無に等しい。
・政府の最高指導者たる内閣総理大臣に事故がある場合の後継者選出手続きさえ明確にな
 っていない。「東京大地震の最中に内閣が総辞職したらどうするのか」といった疑問を
 持つ者もいないのである。     
・中東湾岸危機に関連して、日本の危機管理能力の低さが問題になった。平時のビジネス
 情報だけを追う仕組みになっている日本の情報機関は、戦争になるとたちまち潰滅、外
 国のテレビ・ニュース以外には情報源を失ってしまった。そのうえ、リーダーシップの
 乏しいわが政府は、即断即決の判断力もなく、もっぱら情勢分析をするだけの素人評論
 家になり下がった。巷では、「アメリカ追随外交ではなく、日本独自の判断で行動せよ」
 という声はあるが、日本自体には情報力も判断力もないばかりか、危機対応の慣習も精
 神もない。「日本独自の判断と行動」を主唱する者も、その具体的内容を明らかにした
 ためしがない。
  
学び上手の「気風」
・日本人のほとんどは神式で結婚式を挙げ、仏式で葬儀を行う。神社に初詣もすれば、お
 盆の寺参りもし、クリスマスも祝う。クリスチャンの首相も伊勢神宮に参拝し、盆踊り
 に加わり座禅を組む。そしてそのどれにも「良心のうずき」など感じることはない。
・仏教はキリスト教と同じく厳格な一神教であり、神道はヒンズー教を上回るほどの多神
 教である。この本質的にまったく違った二つの宗教を、一人の人間が同時に信仰できる
 のが日本人である。これは世界に類例の乏しい特徴であろう。
・どこの国でも、一人の人間がある時点で信仰している宗教は一つなのだ。本来、宗教と
 はそうした排他性を持ったものなのである。
・一見、日本と似ているのは中国だ。ここでは道教、仏教、儒教、先祖崇拝などが同時的
 に行われている。しかし、これらは長い間に相互に混合し合って、「中国的宗教総体」
 を形成しているのであって、別々の宗教を同一人が同時に信仰しているわけではない。
 ところがん、なぜ日本だけは仏教が入ってきても、神道は神道のままで信者を失うこと
 がなかったし、仏教もまた仏教として受け入れられて全国民を信者とした。同一人が神
 道信仰をそのまま残しながら、仏教もまた同時に信じているのである。
・世界のなかで、なぜ日本人だけが複数の宗教を同時に信じられるのか、いったい、いつ
 からそうなったのだろうか。それにはまず、日本土着の宗教である神道の本質と成立か
 ら研究する必要がある。神道ほど多くの誤解を受けている宗教は、世界にも珍しいから
 である。
・日本の神道はごく素朴な、いわば自然発生的な信仰である。神道に興味を持つ外国人は
 まず、「神道の聖典は何か」と尋ねる。だが、これには答えようがない。神道には聖典
 がまったくないのである。
・神道には戒律も存在しない。要するに、「悪いことをしてはいけないということです」
 とはいうものの、その「悪いこと」が何かを規定した文章やいい伝えがどこにもない。
・神道における八百万の神の概念は、雷や台風などの自然現象、山、滝、大石などの自然
 物であり、それに先祖崇拝の思想が重なってでき上っている。このこと自体は世界中ど
 こでも起こりやすい宗教の原初形態といってもよい。しかし、その原初的形態が、今日
 に至るまで聖典も戒律もないままに続いてきたのは珍しい。つまり神道は、宗教として
 の絶対的価値観、つまり、「神の言葉と掟」を持たないのである。そしてそのことが、
 神道に永久に生命を与えた。絶対的な価値観がないせいで、他の価値観と共存できたの
 である。
・そもそも天皇家が日本の最高位にある理論上の根拠は、神道神話にある。日本は、天照
 大神の子孫の神武天皇が降臨して建てた国である。その神武天皇の子孫が天皇家だ、と
 いう神道神話に依って、天皇家が日本の支配者となっている。
・当時の強大な勢力であった蘇我馬子らの崇仏派に擁立されて位に就いた崇俊天皇は、仏
 教の国教化を先送りにし、神道を守りと通そうとして結果、蘇我馬子に殺害されてしま
 う。日本の歴代天皇のなかで、「殺害された」と明記されている、ただ一人の天皇であ
 る。日本には、どんなに政争が激しい時代でも、天皇だけは殺してはならないという思
 いがあったが、この時代にはそうした概念さえ確立されていなかったのである。
・崇峻天皇の後に位に就かれたのは推古天皇だが、この天皇は東アジアでは初めての女帝
 である。そのとき、天皇家の成人に男性がいなかったわけではない。それなのになぜ女
 性を、しかもかつての天皇の后であった方を天皇位に就けたのか、いろいろ推測できる。
 蘇我氏らの有力豪族が操縦しやすいと考えて女性を推したとも見られる。
・しかし、このとき、天皇家に大天才が現れた。聖徳太子である。聖徳太子は伯母に当た
 る推古天皇の摂政として、政治的発言権を確保するとともに、仏教と天皇制度を両立さ
 せる道を発見する。いわゆる「神仏儒習合」思想である。聖徳太子のこの思想は、神道
 の否定によって天皇家に代わろうとする野心を持っていたであろう蘇我馬子には打撃だ
 ったに違いない。このため、聖徳太子は政治的にも経済的にも蘇我氏と対立、やがて馬
 子によって殺害されたという。聖徳太子の知力を以てしても、蘇我氏を一挙に抑圧する
 こ とはできなかった。それが実現するのは、太子の没後23年目に起きた「大化の改
 新」によってである。聖徳太子の政治家としての生涯は必ずしも幸せではなかったし、
 その子と孫は蘇我氏によって殺害されている。
・聖徳太子の神仏儒習合思想が普及した結果、日本には深刻な宗教的対立はなくなった。
 同時に厳格な宗教論理も信仰心もなくなった。その意味で聖徳太子は、世界ではじめて
 「宗教からの自由」を実現した思想家だといえる。これがその後の日本に与えた精神的
 影響は、じつに重大である。日本人は宗教的戒律にとらわれることなく、外来文化を受
 け入れるようになったばかりか、「神の言葉と掟」を全面的に信じることなく、すべて
 の文化の都合のよい部分だけを取り入れる習慣を身につけた。
・複数の宗教を同時に信仰できるとなれば、各宗教のなかから都合のよい部分を取り出す
 「いいとこどり」の慣習が生まれ、「絶対不可侵なる神の教えと掟」が存在しなくなっ
 てしまう。そんなことが、文字を知ったのと同じくらい早く起こったため、この国土着
 の宗教である神道は、ついぞ聖典や戒律を定めることがなかった。いや、外来仏教でさ
 えも、この国に入ると急速に聖典と戒律を失い、「いいとこどり」の対象となってしま
 った。つまり体系的な形での絶対的正義感がこの国には育たなかったのだ。
・われわれ日本人には、宗教の違いが戦争をするほどの重要問題であること自体が想像で
 きない。われわれの日常生活のなかで、隣の人がキリスト教徒であろうが、向かいの人
 が浄土真宗であろうが、上に住む人々が創価学会であろうが、イスラム教徒が下の階に
 住もうが、ほとんど支障がない。日本人の考える宗教の差とは、宗教儀式の違いに過ぎ
 ない。  
・宗教の違いとは、本質的な倫理感の違い、つまり何が正しいかという点での対立だ。厳
 密な意味での宗教とは、何が正しいか何が悪いかを客観的事実や利害得失によってでは
 なく、神の教え聖典と戒律によって定めたものだ。したがって信仰とは、それを議論す
 るまでもなく信じ守ることに他ならない。そうした宗教信仰の慣習を持つ人々は、他の
 事柄に関しても、とかく絶対的な正義を持ちたがる。それがなければ不安であり、言動
 の基準を失ってしまうような気がするらしい。
・ところが、複数の宗教を同時に信仰する習慣を持った日本人には、唯一絶対の神の教え
 も、不変な掟もない。結局、頼るべきものは「みんなの意見」、つまり、そのときの場
 にいり人たちの最有力な多数が正しいと主張することだ。
・日本人は神よりも人を信じる。日本人には神の絶対性は容易に理解できない。
・絶対的正義感が堅持された背景には、人知の予測を超えた非常事態に備えるためには、
 そのとき、その場の状況で安易に判断を下してはならない、という経験則が働いている。
 だが、温暖湿潤な気候で外敵の組織的侵略のない島国では、それほどの重大な非常事態
 は発生しなかった。この国では、大規模な非常事態に備えるよりも、村落共同体の和を
 保つことのほうが大切だった。厳格な正義を主張するよりも、いい加減に妥協するほう
 が好まれた。
・明治時代には、「文明開化」、つまり欧米文化に倣うことが正義だったが、昭和に入る
 と「八紘一宇」が正義とされ、「日本よい国、強い国」と教えられた。そしてその「よ
 い国」とは、「日本が正義とするところを世界に及ぼすべき国」という意味だった。
 「強い国」とは、「軍事力で諸外国を侵略できる国」ということだ。そこには「日本は
 豊かな国」などという基準さえなかった。
・ところが戦後になると、「強い国」などというのはよろしくない。「日本よい国豊かに
 国、軍備はしない利口な国」と変わってしまった。ここでの「よい国」とは、戦争をし
 ない平和国家という意味である。    
・外国では、遠からず日本は核武装するだろうとか、近いうちに日本の軍備は急増するだ
 ろうとかいう人が少なくない。つい半世紀前まで戦争に勝つことを最高の正義としてい
 た日本人が、いつまでも「弱い国」に留まるはずがない、という思いがあるからだ。し
 かし、実際の日本人には、そんなつもりはまったくない。「強い国」になることがよい
 ことだと思う倫理観が、完全になくなっているからである。
・キリスト教徒やイスラム教徒にとっては、神の教えた絶対的正義こそが心の支えであり、
 判断の基準である。欧米人がいかに「自由」を叫んでも、この正義感の拘束からは離れ
 難い。そのようなものを持たない日本人の精神は、きわめて浮遊的である。そのよりど
 ころのなさを、日本人は「人との交わり」に求める。それだけに日本人はますます集団
 から離れ難く、個性を出し難い。
・「神の教え」のような絶対的生後がない日本では、そのとき、その場の支配的な人々が
 「よい」と思うことが、そのまま「正義」となる。そしてそれは、たいていの場合、そ
 の人たちの利益に合ったことである。     
・日本は、利益に合わせて正義を調節できるきわめて便利な国だ。「多数の利益に合った
 ことを正義として主張できる国」なのである。
・日本人は、外国技術を導入する場合、いつもまず「師の国」のデッド・コピーをつくり、
 その技をそっくりそのまま真似、やがて日本独特の工夫や改良に加える。じつは、これ
 こそ日本独特の得意技なのだ。    
・日本人は、まず外国のデッド・コピーをつくることで外来技術を習得するという。最も
 効率的な方法で外来技術を習得した。それは戦後の自動車やエレクトロニクスでもくり
 返された。こういえば、たいていの日本人は、至極当たり前のやり方をやっているに過
 ぎないと思うだろうが、実はこれができるのは日本だけである。日本よりも早く西洋近
 代文明に接したトルコやインドや中国が、その採用と普及で日本よりはるかに遅れたの
 は、デッド・コピーを拒んだからである。
・どうして日本だけが外国のデッド・コピーを抵抗なくつくれたのか。その最大の理由は、
 思想を考えないで技術だけを学んだ点にある。仏教が流入したとき、複数の宗教を同時
 に信仰する習慣が広まり、日本人は宗教(=思想)についてさえも「いいとこどり」を
 するようになった。つまり、宗教という一つのまとまりとしての思想すらも、それぞれ
 の部分に分解して不都合な部分は切り捨て、みんながいいと思う部分だけを取り入れた
 のだ。 
・そうであれば、技術を学ぶときには技術だけを、思想や信仰と切り離して学ぶことがで
 きる。日本人が臆面もなく外来技術のデッド・コピーをつくれるのはこのためだ。その
 技術の背景となっている思想や体制のことまでは考える必要がないのである。 
・ところが、外国ではそうはいかない。中国やインドやイスラム、あるいはヨーロッパ自
 身も、それぞれに独自の文化体系をつくり上げた国だから、「文化」というものが不可
 分な体系を持った総体であることをよく知っている。このため、技術を学ぶときも、そ
 の背景にある思想が、現在の自分たちの社会に許容できるかどうかを、まず問題にする。
 そのため、技術を導入するに当たっては、まずそれを自分たちの思想と社会に適するよ
 うに変形変質させようとする。だから、外国のデッド・コピーなどはつくれない。
・ヨーロッパ社会が、こうした近代的合理精神を受け入れるためには、まず中世的宗教思
 想、つまり「神」を克服し、「神からの自由」を獲得せねばならなかった。そのためヨ
 ーロッパの知性は、三百年にわたって血みどろの戦いを続けた。「神」に代わるものと
 して科学的客観性を受け入れ、物財の多さを幸せと感じる価値観を許容することは、単
 なる形而上的な問題ではない。物財の多さこそ幸せだとすれば、それを追求する行為を
 も「美しい」とする美意識を許容しなければならないし、社会全体の物財を増大させる
 行動を「正義」とする倫理観をも許容しなければならない。つまり、自由な発想と競争
 と消費を認めなければならないわけである。 
・競争は当然、結果の不平等を生む。みんなが物財の多さを目指して努力しても、成功者
 と失敗者の差は生まれる。社会全体の物財を増やすことを「正義」とすれば、その「正
 義」を実現した発明者や経営者を賞賛すべきだ。そしてそれは、その人々がより多くの
 物財を所有し消費することを認めることだ。近代的合理主義精神の持ち主なら、何より
 に幸せは物財の多さだからである。
・近代的合理主義精神によって生み出された近代技術を導入することは、自由競争とその
 結果として格差を許容することである。中国で、近代技術の導入の是非をめぐる論争の
 なかで、最大の問題となったのもこの点であった。文化を体系的に考える中国人は、次
 々と新しい技術を生み出し瞬く間に普及させる近代社会に、競争と格差をつくり出す
 「下剋上」の危険を嗅ぎとっていたのである。
・「維新の志士」と呼ばれる人々は、採取はみな尊皇攘夷論者だった。外国人を追い払い、
 日の本の国威を内外に示せと幕府に迫った連中である。ところが、その同じ人たちが、
 わずか数年後には、明治維新の中核となって文明開化を推進する。何と極端な「転向」
 だろうか。だが、それほどの「転向」にもかかわらず、のちに「明治の元勲」となった
 志士たちは、誰一人として倫理的な呵責を感じていなかったように見える。攘夷から開
 国への「転向」に関する良心の悩みや内心の葛藤については一言も述べていない。彼ら
 の説明は、ただ「近代文明の力に目覚めた」というだけである。要するに、彼らは最初
 から思想がなかった。少なくとも日本の伝統文化と西欧近代文明とを思想として対置さ
 せるような発想がなかった。  
・要するに、「維新の志士」たちの目的は、終始一貫「外国に蔑まれない国づくり」であ
 り、「尊皇攘夷」も「文明開化」も、そのための手段に過ぎなかったのだ。
 彼らが百八十度の転向にも良心の痛みを感じなかったのは、目的が一貫していて手段を
 変えただけだったからである。「維新の志士」たちが、試行錯誤の末に辿り着いた結論
 は、実務的に見る限り真に正しい。そしてその方法として、日本の伝統というべきデッ
 ド・コピーからはじめたのも、多いに効果的であった。そのお陰で日本は迅速に近代化
 を進めることができた。しかし、そこには思想的な覚悟も体系的な理解もなかったため、
 やがて大きな矛盾に突き当たることになったのである。
・物財の豊富さを幸せとする近代合理主義思想によって育てられた近代技術は、日本にお
 いても自由競争と進化論的「敵者繁栄」を実現し、貧富の差の大きな社会をつくり出し
 た。およそそんなことは考えずに、近代文明の成果である富国強兵だけを夢みて技術と
 制度を真似た日本人は、この結果に驚き慌てた。どうやら近代文明には、競争を容認す
 る個人主義と、その結果としての貧富の格差を是正する自由競争の思想が含まれている
 らしい、近代技術や制度に長けると、思想(魂)までも西洋化してしまうのではあるま
 いか。中国人が技術導入の前に感じた疑問を、日本人は実現してから、やっと問題にす
 るようになった。  
・日本人は支配被支配の関係を好まず、強烈な独裁者や個性の強い指導者を喜ばない。つ
 ねにみんなの意見を聞き、みんなと同じようにやっていく、平等主義者であり集団主義
 者である。とくに徳川時代後半から重視されたのは、「結果の平等」なかんずく「縦の
 平等」、つまり同じ身分財産状態の者はいつまでも同じ状況こそ平等だという意味での
 平等である。 
・ある時点で人間の間に格差があるという意味での不平等(横の不平等)は、確かに腹立
 たしいが、かつて自分と同じ状態だった者が、いまは上位に昇っているという「縦の不
 平等」は、それ以上に堪え難い。これほど集団の和を乱すものはない。集団主義者は、
 仲間の中から誰かがちょっと偉くなると激しく嫉妬する。「隣に倉が建てばわし腹が立
 つ」、「隣の不幸はわが身の幸せ」なのだ。
・ところが、近代文明の思想は「敵者繁栄」、貧富の格差を肯定する。もし、日本人が幕
 末の時点でそれを知っていたら、あるいは日本も近代化を拒否したかもしれない。しか
 し、そうは考えないで近代技術と制度を取り入れてしまった。だから貧富の格差が広ま
 るとともに、社会全般に嫉妬が渦巻き、暴露や暗殺が続出する。それを抑えようとして、
 いち早くヨーロッパ文化を取り入れて裕福になった高官財閥たちは、自らを「和魂洋才」
 と呼んだのである。
・しかし、日清・日露戦争を経て、いよいよ近代産業が巨大化すると、もう「和魂洋才」
 などという幼稚な言葉では通用しなくなった。誰の目にも明らかなほど近代文明の適者
 の繁栄が巨大化し、農民庶民との間には歴然とした差が生じていたのである。
・ここに至って、「古きよき日本」への回帰を求める日本主義運動がはじまる。これ以降
 の日本の思想界では、近代化と日本主義とをどう両立させられるかが、重大な問題とな
 った。それは、国民の持つ物質的豊かを求める意欲と縦の不平等を拒否する嫉妬の両方
 を、どう納得させるかでもあった。その結果、生まれたのが国家集団主義ともいうべき
 考え方だ。それはやがて天皇を家父長として日本国民全体が家族のように生きようとい
 う「家父長的全体主義国家」の主張に発展、グロテスクな集団主義的近代工業社会を生
 み出したのである。    
・昭和初期の指導者たちは、思想的建前としては天皇中心の家父長国家を説きながら、現
 実の政策においては官僚主導による近代工業社会の実現を目指して、規格大量生産体制
 を形成していった。昭和初期の政局を揺り動かしたのは、思想的建前である家父長的集
 団国家主義を現実社会にも実現しようとする皇道派と、より完全な規格大量生産社会を
 追求しようとする統制派との対立である。前者は実戦部隊の軍人や国粋的思想家によっ
 て構成され、後者は経済官僚や軍部中央の軍事官僚たちを中核とした。近代化によって
 繁栄した産業界が後者を支持し、それに取り残された農民層が前者に期待したの当然だ
 ろう。 
・敗戦によって、天皇中心の家父長的国家主義は完全に否定された。これに対する抵抗は、
 それを強要したアメリカ占領軍も驚くほど少なかった。そのとき、その場にいる最有力
 集団を正義と考えることが全体の正義となる「日本型相対的正義」が、見事に働いたの
 である。 
・しかし、家父長的国家主義が消滅しても、日本型集団主義の伝統は失われることはなか
 った。やがてそれは、より強力な形で、官僚組織や企業組織の中に再生され、規格大量
 生産を目指す官僚主導型業界協調体制の生き残りと強化の支えとなって、強大な最適工
 業社会を築き上げた。

令外の官と生なり文化を生んだ共通情報環境
・日本という国は、国家主権と人種と言語と習慣と美意識や倫理観とが見事に一致してい
 る。多民族国家、多言語国家の多い世界で、これは珍しい形態である。同時に、日本民
 族の97パーセントが日本国の主権のおよぶ土地に居住している。つまり徳川時代以前
 に日本に居住した人々の子孫で外国に居住する者は、海外駐在員や留学生などの長期滞
 在者を含めても、3パーセント以下なのである。こちらのほうが、世界的に見れば、よ
 り珍しい。日本人種でかつて日本語を常用していた人々の中にも、明治以降アメリカや
 ブラジルなどに移住した者はいる。だが、その数はいまもなお日本国の人口の1パーセ
 ント程度に過ぎない。  
・一つの国の国民の圧倒的多数が同一民族だということでは、韓国も純粋性が高いが、朝
 鮮民族にして外国に住む者の数は相当に多い。同一民族の国である北朝鮮を別に考えて
 も、中国の東北地方には古くから朝鮮人が多く居住していたし、二十世紀になってから
 強制的または自発的に日本に移住した人もかなりいる。北アメリカに移住した人々の数
 も日本人を上回っている。日本のように国家の主権の範囲と、その国を構成する民族の
 居住地とが過不足なく一致している例は、世界にもほかにないだろう。
・日本人は、日本国内において異民族から影響されることが少なかっただけではなく、外
 国に住む同族から異質な文化を伝えられることも少なかった。そうであれば、この国の
 異文化への理解と対応力を欠く均質社会となったのも不思議ではあるまい。
・その反面、アメリカやブラジルに移住した日本人の子孫は、急速に日本語を忘れ日本人
 的美意識や倫理観を失ってしまう。つまり日本人ではなくなるのである。
・アメリカ在住の日系人の三世は、大部分が日本語をほとんど話せない。アメリカに移住
 した諸民族の中で、先祖の言葉を失うのが最も早く民族の一つが日系人だと言われてい
 る。このため、日本国以外で日本語を常用している人々は、きわめて少ない。海外駐在
 員のような長期滞在の日本国籍を持つ人だけと言ってよいほどである。
・言葉を失うことは、文化を失うことに通じる。アメリカ大陸に移住した日本人の子孫は、
 三世になるとほぼ完全に日本的価値観を持たなくなっている。日本人は、日本の国土を
 離れ、日本国の統治から切り離されると、たちまちにして日本語と日本的美意識や倫理
 観を失い、「日本人」ではなくなってしまうのである。
・日本の官僚機構や企業組織に組み込まれた日本人は、所属する組織の慣習と利益に忠実
 で、現地社会に容易に溶け込もうとしない。この傾向は、日本経済が発展して、海外に
 居住する日本人が増加した今も、まったく変わっていない。しかもそれは、組織の属す
 る本人ばかりか、夫人や子供たちにまで及んでいる。海外駐在員の社会は、「外国にあ
 る日本人社会」であるどころか、「外国にはみ出した日本国の一部」なのだ。
・日本国土に居住する外国人の日本化もきわめて早い。今日、われわれが「日本文化」と
 信じている演歌や相撲なども、昭和初期に日本に渡来した外国人の二世、三世に支えら
 れている面が少なくない。均質的な日本社会には、かなり強い同化力があると見るべき
 であろう。 
・日本人にとっては、日本の国土と組織から離れて海外に移住することは、「日本人」で
 あることを放棄し、外国人として外国の社会に生きることを意味する。そしてそれほど
 日本人にとって恐ろしいことはない。戦犯として投獄されるよりも、場合によっては死
 刑になるよりも、恐ろしいことであった。
・日本人であり続けるためには、日本国土以外に居住地に選択する余地がない。そしてそ
 の日本国土は、狭く区切られた生産性の高い米作平地と、急峻な山地とで形成されてい
 る。密集した村落共同体を離れては生きていくことは許されないし、生産性が低く養い
 得る人口はごく少ない。つまり、日本人にとっては、日本国内の日本人共同体以外では
 生存が不可能だったのだ。  
・そうであれば、日本人が自らの唯一の生存可能領域である稲作型村落共同体の中で、心
 地よく暮らせるようでありたいと願うのは当然であり、村落共同体との対立、さらには
 日本全体を覆う政府=「お上」との摩擦を恐れたのもごく自然なことであったであろう。
 しかし、日本人が「お上」との摩擦を恐れる柔順な民族だというのは、「お上=政府」
 の権力が強大で専制政治が行われていた、ということでは決してない。日本の政府はま
 た、歴史のほとんどの期間を通じて、きわめて「民に柔順」だった。「お上」もまた、
 日本人社会から遊離することを恐れ、「民」に親しまれることを望んだのだ。
・人類の歴史においては、不幸にも戦争の持つ重要性は真に大きい。そしてその戦争に敗
 れた場合、民の蒙る不幸はまた限りなく深い。戦争は勝者に幸せをもたらすとは限らな
 いが、敗者には必ず不幸をもたらす。ことに、古い事態の異民族戦争においてはそれが
 極端だった。
・古代の西洋や中東では、敗れた民族全員が文字通り抹殺された例もあるし、生き残った
 者もほとんどが奴隷のごとき境地に堕とされた。それほどではないにしても膨大な数の
 人命が失われ、文明が破壊されることは近世まで続いた。こうして経験を何千年にわた
 ってくり返してきた大陸の民族が、何よりも戦争で負けない体制を重視するようになっ
 たのは当然だ。そしてそのために最も重要なことは、即断即決の決断力と全員を統率す
 るリーダーシップである。  
・戦争においては、一部の部隊を死地にやっても全体の勝利を図らねばならないこともあ
 る。しかもそれを、敵に知られぬよう秘密裡に迅速に行わなければならない。そのため
 には、一人ないしごく少数の人間に絶対的な決定権を付与する必要がある。大勢が議論
 をしていたのでは秘密を守り難いし、迅速な決定も行えない。決死の行動を望む者がい
 つも現れるわけではないから、命令は厳守されねばならないし、その命令の目的や結果
 を予測を秘すことも必要である。それだけのことができるリーダーシップとは、すなわ
 ち独裁権力である。 
・異民族戦争をくり返し経験した大陸の国々では、有能な指導者に独裁権を与える必要性
 はよく理解されていた。同時に、独裁の怖さもまた知り尽くされている。そのために、
 為政者の選出方法と為政者を掣肘する範囲とを明確にすることが求められた。そしてま
 た、こうした独裁権力の命令と支配とを回避する個人的行動も多くなった。民が官に知
 られまいとする傾向が多いのも、このためである。
・他の国々と「狭くない海」で隔てられた日本では、激烈な異民族戦争がなかったため、
 ごく一部の期間を除いて、戦争でリーダーシップが為政者の必要条件とはならなかった。
 十六世紀の戦国時代においても、日本の戦争は土地と住民との支配をめぐる上層階級の
 権力闘争に過ぎず、負けたほうの殿様と重臣の何人かが切腹すればそれで終わり、住民
 皆殺しとった例はほとんどない。そんなことをすれば、勝利の目的である支配対象がな
 くなってしまうからだ。要するに日本では、少なくとも一般住民から見れば、為政者は
 軍司令官ではなかったし、その必要もなかった。一般住民が為政者とその政府に求めた
 機能は、平和な社会を円満に運営する民政の調整者としてのそれであった。 
・為政者に重要なのは、誰からも疑われない公平さ、みんなの意見を聞きみんなを納得さ
 せる辛抱強さ、そして何よりも自らが率先して勤勉な労働にたずさわる自己犠牲の姿勢
 だろう。そうした性格は、およそ独裁者とは正反対の我の乏しい凡人、つまり「根回し
 上手な調整者」のものだ。 
・ピラミッドは、いまではまったくの観光資源でしかないが、それが建設された古代エジ
 プトの古王朝初期には巨大な宗教施設であり、人々はその建設のために労苦と危険を顧
 みずに奉仕した。かつては、ピラミッドは強大な王権が奴隷や農奴を酷使してつくった
 と考えられていたが、いまでは主として宗教的情熱に駆られた自由民の自発的奉仕によ
 って建設されたことが確実視されている。宗教的情熱とは縁遠い現代の日本人には、信
 じ難いかもしれないが、建設当時はそれなりの存在意義があったわけである。それ以上
 に重要なのは、万里の長城だ。現在はともかく、それがつくられた時代から、万里の長
 城が「無用の長物」であったわけではない。いや、これほど中国の社会と国民にとって
 有用有意義だったものはないとさえいえる。
・周知のように万里の長城は、全長二千八百キロ余りに及ぶ人類史上最長の建造物である。
 「月面から見える唯一の人工物」といわれる長城を建設する費用と労力は、ピラミッド
 の比ではない。それお一度ならず三度四度とくり返し建設したのは、ただただ国土防衛
 のためである。長城は、必ずしも兵士が越えられないほど高くはないが、馬と家畜の進
 入を防ぐには、じつに効果的だった。そしてそのことが、遊牧民の不法移住と軍事侵略
 を防ぐ最良の方法だったのである。
・日本の都市にだけは城壁がない。日本にあるのは「城下町」であって「城内町」ではな
 い。要するに、日本には古来、一般市民が軍事防衛施設の中に住む習慣がなかったし、
 その必要もなかった。それだけに日本人には、ものごとを軍事から判断する発想も育た
 なかった。こうした傾向は、徳川二百六十年間の非武装国家の経験で一段と深まってい
 く。  
・いうまでもなく、軍人は「軍隊」を構成する人々である。そしてその「軍隊」とは、戦
 争をする集団としての機能と形態を備えた組織でなければならない。それには、二つの
 要件を満たしていることが必要である。第一は、「他に超越して強力な武器を組織的に
 扱う集団」であることだ。全員丸腰では戦争ができないし、単に武器を持っているだけ
 でも十分ではない。武器を持つことは、軍隊であるための必要条件だが十分条件ではな
 い。警察や民間組織が持つ武器に比べて、より強力な武器を持ち、かつ、組織的に扱う
 指揮命令系統と技能訓練を備えていなければならない。しかし、強力な武器と持ち、組
 織的に扱えればすべて軍隊か、というとそうではない。一つの武装集団が軍隊であるた
 めには、その組織内部ですべてが行える諸機能を備えていなければならないのだ。つま
 り軍隊組織の内部において、一定の期間はすべてができるようになっているのである。
 じつはこの点こそ、軍隊と警察などとの決定的な違いである。軍隊には、緊急非常の場
 合に備えた自己完結的な組織と権限が与えられる。
・徳川時代の日本の不思議は、軍隊がまったく存在しなかったにもかかわらず、二百年余
 もの間、国家の統一と治安の維持が完璧に保たれていたことだ。これまた世界史上類例
 を見ない「奇蹟」といってよい。そこにはこの時代の日本人が開発した独特の統治ノウ
 ハウが、大きな効果を発揮していた。それを最もよく現わしているものが、各地の百姓
 一揆に対する対応であろう。歴史の教科書には「弾圧した」と書かれているが、その内
 容はヨーロッパや中国で行われたような武力弾圧ではなかった。農民一揆に対して侍の
 大群が、鉄砲を乱射して大量虐殺したという例はほとんどない。それほどの軍事力はな
 かったし、幕府のほうでも禁止していた。たいていは、奉行や家老が交渉し、一揆側の
 要求を聞き、妥協の道を探ったのである。
・その結果、多くの場合は農民の要求がある程度容れられ、問題を起こした家老や代官は
 切腹させられた。「悪いのは殿様ではない。時の薫や担当の代官だ」というわけだ。つ
 まり「トカゲに尻尾切り」よろしく、体制側から瀬金車を出して処罰し、妥協の姿勢を
 示すことで農民の結束を崩して一揆を解散させる。そしてその後で一揆の首謀者だけを
 捕らえて「喧嘩両成敗」という理由で処罰するのである。為政者側の謝罪と甘言を信じ
 たばかりに、理不尽な刑死に処せられた一揆指導者の悲話は全国に数多い。
・日本における「お上」と民の関係は、支配と被支配が明確に分離し、対立的であった諸
 外国とはまったく違っていたのである。その結果として、日本の租税は非常に低くなっ
 た。徳川時代初期は全国平均40パーセント程度たった年貢が、後半には20パーセン
 ト程度にまで低下した。
・このため、支配階級のはずの武士は徐々に貧困化する。何しろ、ほとんどの藩では、徳
 川時代を通じて総石高は同じであり、武士の禄もほとんど上がっていない。いかに米に
 よる現物支給とはいえ、公務員の給与を二百数十年間引き上げなかったのだから凄まじ
 い。生活水準の向上に伴って、武士の「自然減俸」が続いていたわけだ。軍事機能を失
 った支配階級の宿命というべきであろう。
・日本の特殊条件は、官民癒着の平和国家をつくっただけではない。より重要なことは、
 地域的にも階級的にも倫理と美意識が共通した情報共有社会を生み出したことだ。狭い
 平地に密集して住み、村落共同体の中では相互に接触の密な人間関係をつくる半面、異
 文化の持ち主と接する機会がほとんどなかった日本人は、早くから長期継続的な観察か
 ら、相手を理解する習慣を身につけていたに過ぎない。つまり、そのとき、その場での
 言動によりも、常日頃の行動から知った人柄気質を信頼する習慣を持ったのである。
・情報環境を異にする人々の間では、何事も明確に定めなければならない。異文化異民族
 が交流したローマ帝国で、詳細な成文法が生まれたのもこのためだ。今日の欧米社会が、
 文字で書かれた契約を重んじ、その実行を信じるのも、同様の情報環境から出たもので
 あろう。ところが、古くから共通の情報環境が形成された日本では、その必要がなかっ
 たばかりか、言葉のうえでの厳しい表現を避けることが好まれた。言葉の通り実行され
 ないとすれば、相手の厭がる言葉を吐き続けるのは愚かなことだ。語る言葉は短く美し
 く、行う動作は実態に合わせればよいのである。日本の独自文化が成熟した平安時代の
 末期からは政治行政体制としても、それが公認公式化されてくる。
・欧米の近代社会は、より明確だ。神との契約ではじまる宗教を持つ欧米では、古くから
 契約絶対の思想があり、これが近代になると、政治行政からビジネスと社会にまで徹底
 される。外国人の考える「契約」とは、必ず実行しなければならない約束である。だか
 ら欧米人はじつに詳細な契約書をつくる。中国人はそんな危険な文書はなるべくつくら
 ない。ところが日本人にとっては、契約とは建前を書き記しただけの文書、いわば仕事
 をはじめるにあたっての相互の感情または努力目標の記載文書に過ぎない。だから、状
 況が変われば実行すべき内容も変化するのが当然だ。もし、条件が変わっているのに契
 約どおり執行したら「悪代官」になってしまう。
・明文化した契約でさえも守られないのであれば、日常の会話や会議の席での発言など、
 さして重要ではない。その価値は、内容よりも雰囲気づくりの音響効果のほうにある。
 したがって、その場の雰囲気を悪くするような発言は、たとえ内容が正しくとも嫌われ
 る。つまり、日本の社会では、あまりはっきりモノを言うと不作法なのだ。このため、
 この国では、はっきりした言葉で言わずとも、態度や表現で意思を通じ合うコミュニケ
 ーション技術、いわゆる「腹と腹の伝達」の方法が発達した。そしてそれがさらに進む
 と、言葉のほうは建前、したがって信じてはならない、ということになってしまう。
・「腹と腹の情報伝達」は、国家の統治にも取り入れられている。建前では「六公四民」
 と言いながら、その実は「お目こぼしによって「三公七民」程度しか年貢は徴収しない。
 建前はあくまでも高く、実質ははるかに低くし、代官の裁量の余地を残すのが「日本的
 公序良俗」なのである。   
・徳川時代には、武士と百姓町人との身分は峻別されており、百姓町人が「無礼」を働い
 たときには、「切り捨て御免」であった、とされている。たしかに建前はそうであった
 が、切り捨てた武士は、原則として切腹せせられた。それどころか、武士はいったん刀
 を抜くと必ず相手を斬らねばならず、抜刀だけで脅すことは厳禁だった。したがって
 「切腹覚悟」でなければ刀は抜けなかったわけだ。このため武士は、かえって百姓町人
 にからまれることを恐れ、ヤクザや雲助をはびこらせることにさえなったほどである。
・日本では、法律(建前)を変えないで、実施上の運用によって実体(本音)を変更する
 ことはじつに多い。このため、法律や規則を読んでも実体の分からないことはたくさん
 ある。そしてそのお陰で、本来なら改革されるはずの法令が不変のまま生き続けること
 にもなる。その結果、法令の改正はますます難しくなってしまう。
・日本文化全体の特色として、挙げられるのは「生なりの文化」である。「生なり」とは、
 「生地のまま」とか「ありのまま」「自然のまま」ということで、これまでも日本の白
 木の建築や素材美を大切にする工芸などでは指摘されていた。
・共通に情報環境の中に生き、長期の観察から人柄を知り立場を理解することに重点を置
 く日本人は、会話や議論での率直大胆な言動を警戒し忌避する。それは、長期的観察に
 よって形成されるべき認識を、短期間に得ようとする性急さを感じてしまうからだ。こ
 のことは、日頃の礼儀作法にも現れる。中国では、知人の葬儀においては号泣して見せ
 るのが礼儀となっている。ヨーロッパでは、歓迎の意思表示は抱き合い頬ずりをする。
 ロシアや中東では、男同士が口づけをすることさえある。異質の文化を持つ民との交流
 では、こうした極端な表現が必要なのであろう。
・しかし、日本では古来、そうした習慣はない。互いに人柄も立場も分かり合っているの
 なら、号泣などしなくとも知人の死を悲しむ心は分かっているはずだし、抱き合わなく
 とも歓迎の意思は通じるはずだと思ってしまうからだ。日本の礼儀作法は、より自然な
 (日常的な)言動をこそ尊ぶ「生なりの作法」である。
・ここで言う「より自然」とは、「人の世の流れのままに」の意味である。「日本人は自
 然を愛する民だ」とは、よくいわれる。しかし、これを人工の加わっていない山野海沼
 の意と解して、「だから日本の文化と日本人の心を以てすれば地球環境が守れる」など
 と主張したのでは、世界の反感を招くだろう。現在の日本は、世界の熱帯雨林を次々と
 伐採し、鯨や海亀の捕獲禁止に反対し、どこよりも多く農薬を撒き、海外線をテトラポ
 ッドで固めてしまう国である。  
・「建前」では「緑豊かな自然の中でのびのびと暮らしたい」という主婦も、夫が自然豊
 かな地方に転勤になると、家族分離と経済的負担を顧みず、単身赴任させる。逆に自然
 豊かな地方の住人が都会に転勤すると、家族が真先に引越してくる。地方の知事や大学
 教授でも、退職後は東京暮らしになる人が断然多い。地方は働くところ、東京は暮らす
 ところなのである。    
・早くから稲作共同体の中で生きた日本人は、人の世(共同体内の多数)の流れに逆らう
 ような言動を嫌い、恐れた。ところが、昭和になるとこの「自然」という言葉の意味が
 拡大、ネイチャーを含むようになった。そのため、何とはなしに日本人は「自然愛好」
 だと思い込んでしまったのではないだろうか。日本人は「風月花鳥を愛で四季折々を楽
 しむ」というが、本当の天然が愛されたのは鎌倉、室町のごく一時期だけである。日本
 人が愛したのは、日本庭園に代表されるような徹底的に人工化した疑似天然、つまり日
 常的な情景を再現する「生なりの文化」なのである。
・かつて、西洋近代文明に憧れた日本人は、「木と紙の家」に住んでいることを恥じ、鉄
 筋コンクリートの箱を「近代住宅」と考えた。しかし、そうしてつくられた公団住宅は、
 欧米人には「ウサギ小屋」にしか見えない。細部を重視し全体調整が不得手な日本人は、
 昔もいまも、極端な表現や劇的な造形には適していないのである。
   
文明と左右してきた資源と人口
・いつの時代でも、共同体を不安にし危険に陥れる行為は、倫理的に非難される。始代に
 おいては、物財に興味を持ち、モノを多くつくり多く使いたがることは、悪い考えだっ
 た。そしてそのために勤勉に働くことも否定された。この時代の正義は、限られた土地
 が限られた農耕作業だけで、多くの収穫をもたらしてくれるように祈ることだった。当
 時の幼稚な農業技術では、人間の所作など神の行いに抵抗できるものではなかったのだ。
・古代文明の末期、紀元前後から三世紀にかけてのもう一つの特色は、人口の減少だ。世
 界の人口はほぼ三世紀から八世紀の間に三割ほども減少したという。地域的に見ると、
 古代文明の先進地域、地中海沿岸やインド北西部、中国黄河流域では、既に次元前後か
 ら出生率が顕著に低下、周辺地域からの人口流入が目立つようになっていた。それが三
 世紀以降は、周辺部でも人口減少が起こり、全世界的な人口減少になったのである。
・物財の豊かさを重視する思想の行きつく先は、一人当たりの物財消費量の増加を求める。
 農耕地が拡がり、資源が増大しているときなら、みんなで働き、土地を拡げ、資源を開
 発すれば、みんながより多くの物財を得て幸せになれると信じられたので、人口が急増
 した。  
・しかし、森林の枯渇からエネルギーの危機に直面、物財供給がこれ以上増え難いと感じ
 ると、一人当たりの分配に注目が集まる。その結果、福祉の要求が強まると同時に、家
 族の人数を抑制する動きが強まる。所得が伸びなくなれば、一人当たりの物財を増す最
 も確実な方法は、産児制限である。
・人口と富乃不均衡は、当然のように人口移動を呼び起こす。最初は周辺後進地域の過剰
 人口が奴隷としてローマの経済にも役立ったが、帝国の軍事力が劣えると下級労働や職
 人として流入する者も増える。なかでも多かったのは傭兵だ。安価な奴隷労働が普及し
 た結果、ローマ市民は農地や工房で働く「立業」よりも、事務所や政治にかかわる「座
 業」を好むようになったため、優れた兵士が供給できなくなってしまったからだ。
・こうしてローマに入った蛮人も、やがては一家を持つようになり、ローマ帝国の人種構
 成を変えた。そして最後には、ローマ帝国内に居住する同族に誘われるようにしてゲル
 マン人が大挙して侵入し、西ローマ帝国は滅びたのである。
・これと同じ傾向は中国でも起こっていた。中国は古来、家族制度が厳しく家族的連帯感
 の強い国だが、後漢の時代になると産児制限が盛んになって、人口が急激に減り、家族
 制度が緩む。「三国志」に登場する劉備、関羽、張飛の義兄弟は有名だが、彼らの本当
 の兄弟はどうしたのか、何もわからない。さりとて三人とも一人っ子だったという根拠
 もない。この頃には、一般庶民の間では実の兄弟さえよくわからないほど家族制度が乱
 れていたのである。
・家族制度の乱れは、性的紊乱を意味する。ローマ帝国時代の人々は非常に淫乱で離婚率
 も高い。とくに女性の淫乱は目を覆うばかりで、五賢帝時代以降になると、「妻の合う
 人が二人以内なら幸せな夫だ」といわれていたほどだ。「三国志」の義兄弟たちの実の
 兄弟が不明なのも、性的倫理の低下と関係があるだろう。
・物財の豊かさを追求した古代文明は、確かに輝かしいものであったが、その行きつく先
 は一人当たりの物財を増大させるための産児制限であり、性道徳の大敗であり、人口の
 減少であった。      
・人間は、豊富なものは多く使うのが恰好いいと思う美意識と、不足なものは節約するの
 が正しいと信じる倫理観を育てる「やさしい情知」を備えている。森林資源が枯渇しエ
 ネルギー不足が慢性化して、物財の生産力が限界に達したことが実感されると、物財を
 求めるのは下劣なこと、反社会的な行為だという思想が拡がった。このため人々は、モ
 ノに対する関心を失い、人間の内面性や超自然の神秘へと思考を向けた。つまり、物財
 の多さに幸せを感じる古代文明の合理的精神が失われ、宗教的関心の強い中世文化が生
 まれたのだ。     
・「戦国時代」といえば、とかく弱肉強食の戦乱の世と思われ、か弱い庶民は武将の野心
 と強欲に苦しんだ悲惨な時代という印象を持たれがちだが、決してそればかりではない。
 下剋上の乱世を呼び起こしたのは技術の進歩と開発の進展による経済力の拡大であり、
 生活の向上と人口の増加であった。確かに戦争は多く、その都度、家を焼かれ田畑を荒
 らされ、暴行殺害を受ける百姓も多かったが、それとて、それ以前の時代の野盗乱輩の
 被害よりはましだった。当時は庶民百姓といえども決しておとなしい被害者ではなく、
 ときには武士になり、ときには落武者狩りをする大胆で獰猛な集団だった。「本能寺の
 変」で織田信長が殺されたというだけで、たちまち各地の地侍や百姓が猛り立ち、堺か
 ら伊勢に出ようとした穴山梅雪の一行は殺されたし、甲斐にいた川尻秀隆は城ぐるみ潰
 された。まだ、武士と農民の区別がはっきりしていなかったのだ。
・およそ日本史上に、豊臣家ほどの急成長組織はほかにない。もとはといえば尾張中村郷
 の貧しい百姓の小倅の「猿」が、織田信長に仕えて三十年余りで天下を取ったのだから
 凄まじい。今日でいえば中学卒の落ちこぼれが、中小企業に入社、その企業の成長とと
 もに出世し、やがて子会社の責任者から世界有数の大企業の創業者になったようなもの
 だ。
・秀吉が天下を取り、小田原城が落ち九戸の乱を治めて、九州、東北の先まで平定すると、
 武士の世界にはもう成長の余地がなくなった。成長を前提にした経営を行っていた大名
 家も、その家来たちははたと困った。では、どうすればよいか。豊臣家臣団ではさまざ
 まな議論があったが、結局は「日本が満杯なら朝鮮へ行こう」ということになった。
・じつは、これが成長組織の陥りやすい「人事圧力シンドローム」現象である。最初に内
 部の人事的理由から「何か新しいことをしなければならない」と決めてから、できそう
 な事業を選ぶから、悪い事業にでも飛びつくのである。
・1991年に生じた「バルブ崩壊」もこれに似ている。高度成長に慣れた各企業は、余
 剰資金と余剰な人材を不動産や株式に投資に集中、ずさんな開発計画に入れ揚げた。と
 にかく何かをしなければ、企業の成長と人事の労テーションが回らなくなっていたので
 ある。       
・こうして現象は、これからの日本の企業では、まだまだ起こるだろう。企業内に人が溢
 れ、大卒の社員がだんだん高年齢になる。それに役職を与えるためにも、定期昇給を続
 けるためにも、成長は不可欠だ。結果としては、「比較的まし」と思われる事業計画を
 選ぶ。そしてそれはたいていの場合、これまでの成功体験をくり返す古い方法である。
・豊臣秀吉の試みた新規事業・朝鮮出兵も、軍事的に領土を拡げる古い方法だったが、結
 果は大失敗だった。これが契機となって家臣団は分裂、豊臣家は滅びてしまう。武士社
 会の成長時代は、百年ほどで終わったのである。
・ゼロサム社会で成長を望む者が現れると、安定が失われる。そのことを知っていた徳川
 家康は、これからは成長を期待すべきでないことを、武家社会に徹底的に教え込む必要
 を痛感した。そのために家康は、いささかでも成長意欲のある大名は潰した。
・徳川幕府初期は、経済はまた急成長を続けていた。戦乱の終焉と社会の安定によって、
 軍事に投入されていた資金と人材が土地開発や商業活動に投入された結果、経済は発展
 し人口は増加した。関ケ原合戦から元禄中頃までの約百年間に、またしても人口が二倍
 近くになり、国民総生産が三倍になったと見られている。
・しかし、この成長も元禄中頃をピークに急速に終焉する。技術の停滞と資源供給の限界
 から、投資対象がなくなったのだ。これによって、経済界、つまり町人の社会にもゼロ
 サム現象が現れた。        
・その結果、第一にカネ余り現象が出現、金利が下落する。徳川時代には高利貸しが多か
 ったが、信頼できる投資対象への貸出金利はじつに安い。第二に猛烈な不況が起こる。
 元禄末期から宝永にかけて景気は下り坂となり、華やかな楽観主義は姿を消し、悲観的
 厭世的な気分が流れる。それがやがて享保の大不況、大飢饉へと続いていく。
・町人はもともと豊かさを求める階級であり、資源の多寡でこそ評価が定まる人々だ。そ
 れにもかかわらず、社会全体としての成長性は乏しくなり、資産を蓄え生活をエンジョ
 イすることが悪となれば、深刻な問題に突き当たる。経済経営の次元だけではなく、人
 間はいったい何のために働くのか、商人たる者は何故に勤勉であらねばならないか、と
 いう人生論的哲学問題が起こってくる。元禄末期から享保にかけて約五十年間、日本の
 町人社会はこの問題を前にして七転八倒の苦悩を味わう。
・この間に多くの商家に家訓が生まれた。これらの家訓は「守りの教訓」、つまりゼロサ
 ム社会の中で見失われがちな商人道徳と生き残り策とを主眼にしている。なかでも強調
 されているのは、贅沢と戒め、怠慢と叱り、人間関係の大切さ、つまり不況に備えての
 財貨の蓄積と勤勉慣習の維持と忠誠心の確保をすることだ。確かに個人または一商家と
 しては、その通りであろう。しかし、みんなが勤勉に働き、みんなが倹約したら、経済
 のマクロ・バランスが崩れることも明らかだ。日本国全体としては、生産ばかりが増え
 て需要が著しく不足する。つまりミクロの正義がマクロの不幸を招く「総合の誤謬」が
 生まれてくる。   
・人生五十年といわれた時代に、四十歳近くなってはじめて妻帯ができるというのだから、
 徳川時代の商売人はきわめて禁欲的だ。モノ不足のゼロサム社会で安定を目指すために
 は、それが必要だったのだろう。これでは女郎屋通いが流行ったのも不思議ではありま
 い。江戸の女郎屋は単身赴任の武士がおもな客だったが、大坂のそれは商家の手代番頭
 である。大坂には南の道頓堀に芝居小屋があり、北に新地に女郎屋があった。歓楽街を
 市の真中におくと、手代や番頭がちょっとの暇に遊びに行ってしまうから、それができ
 ないように、あえて時間のかかる南北両端においたのだ。ソフトを考えた都市計画とい
 える。 
・日本人は「無為なる時間」に価値を認めない。このことはレジャーやバカンスについて
 も言える。「バカンス」というのは「大いなる空白」という意味だ。欧米人の発想では
 空白でなければバカンスではない。だが日本人は、バカンスと言えばスポーツか旅行か
 観劇か音楽鑑賞か、何かをする時間だと思っている。新聞論調にも「休日は増えたけど
 依然としてごろ寝組が多い」と嘆かわしげに書いている。ごろ寝こそ本当のバカンスだ。
 別荘でも、海岸や野山でも、「無為なる時間」を過ごすための行くのだ、と思ってもみ
 ない。だから、日本人は短い休暇を勤勉に遊ぼうとする。ハワイの観光局の調査では、 
 日本人が三泊四日でくれば、アメリカ本土の人が二週間滞在するのと同じ額のお金を使
 うという。アメリカ人は海岸でブラブラして二週間を過ごすが、日本人はタクシーを雇
 ってあちらこちらを見物し、買い物にまわり、やたらとゴルフに出かけるので、一日当た
 りの消費額は数倍になる。
・資源の限られた社会において、無為なる時間を嫌って勤勉に働くとなれば少ない資源と
 土地に多くの労働が注がれる。その結果は細部にこだわり、限られた材料に多くの労働
 力を注ぎ込む美意識が生まれる。文字通りの「一所懸命」こそが生産者の勤勉の証、つ
 まり人格高潔の証明ともなるのだ。 
・そうだとすれば、細心の注意と目立たぬ心配りが重要になってくる。これが極まれば、
 おのずから製品自体の機能や見栄えから遊離した部分に凝る現象が生まれる。ここから、
 外国のマイスター(職人)とは違って、どうでもよいところを指摘して自らの勤勉を実
 証する日本的「職人芸」または「職人気質」が生まれた。着物の裏の仕立て様、什器の
 底の木目、溶接の背面などが、この国の市場ではいまも重要だ。それが十分に配慮され
 ていない外国製品は日本では売れないのである。
・その半面、ビル全体を見ると、外国のほうがむしろ恰好よい。さらに街全体となると外
 国の街はじつにきれいに映る。細部を重視する日本では、細部担当者の意向を抑えて全
 体調整を行うことが難しいからだ。このことは組織そのものにも影響している。日本の
 組織は、トップのコントロールは弱く、部課長や係長の権限が強い。細部を担当する下
 部にこそ権限がある。  
・今日、日本の工業製品の輸出競争力の強さの秘密は、この細部のよさである。トータル・
 デザインを外国から導入して、細部を日本的勤勉さで制作すれば、品質良好な製品が生
 産できる。逆に、外国製品が日本で売れない理由の一つは、細部の悪さ、小さな故障の
 多さである。これから日本が世界的に市場になるためには、そうした日本市場の特殊性
 を知らせなければならない。また、その特徴は最近生まれたのではなく、日本の歴史と
 伝統に根差したものであることも知らせる必要があるだろう。日本の直面する経済摩擦
 には、集団主義や成長志向による供給者側の問題点ばかりでなく、この国の消費者の独
 特の美意識もまた、大きな要因になっているのだ。
・世界中にあって日本にないものは「都市城壁と手錠」といえる。人間社会では、犯罪人
 や戦争捕虜など身体の拘束が必要な人物が必ずいる。それだけに、手錠や足枷、首枷な
 どの身体拘束器具は、どこの国でも早い時期に生まれた。ところが日本だけは、西洋文
 明を真似た戦国時代のごく少数つくられたらしいほかは、明治に至るまで、まったくな
 かった。いや昭和のはじめまでまだ少なく、大部分の警察官は「捕縄」を腰にぶら下げ
 てた。 
・日本に身体を拘束するべき犯罪人がいなかったわけではない。日本人は、それを縄とい
 う汎用材で間に合わせ、手錠、首枷のような専用具はつくらなかった。捕縛者の身体を
 傷つけず、かつ逃げられないように人間を縛ることは簡単ではない。相手もプロの盗賊
 や間者になれば、「縄抜けの術」などと心得ているからなおさらだ。
・このため日本では「縛り術」なるものさえ考えられた。これが徳川時代以降になると様
 式化され、相手の職業(身分)、性別、年齢によって十三種類にも分かれる。武士用、
 町人用、僧侶、女性など、それぞれに型が決まっており、これだけ習熟するためにも三
 年の修業が必要とされた。それでも、この国では、手錠という便利な専用具をつくろう
 という発想は、ついぞ生まれなかった。ハードウェアに頼るのは、専門家として恥ずか
 しいことだったのだ。このことは、あらゆる面に見られる。外国の住宅は、食堂、居間、
 寝室と機能的に分かれているが、日本の住宅は同じ形式の座敷が並び、ソフトウェア
 (利用技術)によって食堂にも居間にも寝室にも使う。襖をはずせば大広間、冠婚葬祭
 も自宅で行えるという便利さだ。
・ソフトウェア文化の日本では、消費者それぞれが利用技術を習得しなければならない。
 当然、そのための伝授、教育が必要になる。このためまず、伝授する教師を大量に育成
 する必要がある。それを可能にするため、徳川時代中頃からはソフトウェアの様式化、
 つまり「型の文化」が確立される。ブドウにも茶・華道にも、囲碁将棋にも、読み書き
 ソロバンの教育にも、「型」が定められ「定跡」ができ上がる。「型」さえ覚えれば、
 まず基礎基本はできるのだから、「型」だけ教えられる者でも初等教育の教師は務まる。
 徳川時代後半に、全国の農村にまで寺子屋や武芸道場が広まったのはこのためだ。
・一方、一般庶民のほうも物財よりもソフトウェアを重視、子孫に金銀財宝を残すよりも
 教育をつけることに熱心になった。幕末期において、すでに日本が「教育大国」だった
 のもこのためである。  
・その半面、個性と創造力を抑圧することにもなった。まず先人の定めた「型」を教え込
 まれ、「型破り」は禁止され、「我流」は軽蔑された。「我流」こそ個性であり、創造
 である。こうしたこともまた、明治以降の近代化、とりわけ戦後の規格大量生産型工業
 社会の確立に大いに関係している。この国では、欧米先進国から流入した技術や知識を
 「型通り」に真似る中堅技能者が大量に養成できたのである。
     
最適工業社会の繁栄と限界
・何故日本人は、世界一豊かな状況にありながら、これほどまでに余裕と安心のない生活
 に追われているのだろうか。それを一言でいえば「最適工業社会」、つまり誰もが選択
 の余地の少ない規格品で暮らさなければならない世の中だからである。人間は生産者で
 あり消費者だ。生産者(稼ぐ人)として見れば、今日の日本人はまことに幸せである。
 その半面、消費者としての日本人は至って不幸だ。物価は高いし家賃も高い。電車も飛
 行場も満員だし、病院へのベッドを取るのもコネがいる。役所の手続きはやたらに複雑
 で書類の数は多い。何よりの不幸は選択の自由が乏しいこと。病院の種類も少ないし、
 商店の種類も少ない。遊びも安全基準と各種規制でかんじがらめ、ちょっと気の利いた
 買い物や遊びのためには何十万円もかけて海外に行かざるを得ない。お金はあっても好
 きなことができない。それが日本の現実である。要するにこの国は、「生産者の天国、
 消費者の地獄」なのだ。そうなったのも、最適工業社会のせいである。
・日本は古くから最適工業社会であったわけではないのも事実だ。この国が規格大量生産
 型の工業において巨大な生産力と高い技術力を持ち、自動車や電気製品の分野で世界を
 席巻せんばかりの勢いを示すようになったのは、1970年代から、たかだた20年ぐ
 らい前からである。 
・機械が発達してくると、人間を機械に置き換えるほうが有利になる。機械は人間よりも
 はるかに強力であり動きが正確だ。だが、機械は動きが単純で判断能力がない。したが
 って、人間労働を機械に置き換えるためには、単純な動きで生産できるように製品を定
 型化し、判断が要らないように材料と完成品を規格化しなければならない。つまり、規
 格化が大量生産には不可欠なのである。すべての製品を単純な形態の部品に分解して規
 格化し、大量生産して、それを一定の順序で組み立てるようにすれば、機械化の応用範
 囲は広まり、人間労働の必要量は減少する。つまり、労働生産性が向上し、製品の品質
 と均一性が高まる。したがって、こうした規格大量生産に適した社会こそ、近代工業に
 適した社会ということができる。そしてそれを最も徹底させたのが最適工業社会である。
・日本が最適工業社会をつくったというのは、「規格大量生産に最も適した世の中になっ
 た」ということだ。現在、日本が世界に誇る国際競争力を持っている分野は、規格大量
 生産が可能な分野に限られる。工業のなかでも規格大量生産ができない伝統工芸品や一
 品生産的な大型航空機、原子力機器では、日本の生産量と競争力は決して強くない。
・農業やサービス業、知価創造的な分野などで劣るのも、規格化と大量生産化ができない
 からだ。明治以来日本は、欧米列強に劣らぬ近代工業国家をつくろうとした。それは、
 とりもなおさず、規格大量生産に適した世の中をつくり上げることであった。日本が量、
 質ともにそれに成功したのは戦後、とくに1970年代以降である。戦後の日本は、そ
 のためにすべての政策を動員したばかりでなく、情報機関と教育と生活規制によって、
 それが当然と信じるような社会環境をつくり上げたのである。
・徳川時代の日本では、最大の正義は「安定」であって、「効率」ではなかった。成長志
 向を弾圧した徳川家康の築いた政権・徳川幕府は、どれほど「効率を犠牲にしても「安
 定」を追求してやまなかった。あえて大井川に橋をかけなかったのも、複数帆柱の船舶
 の建造と運航を禁止したのも、人と物との移動が容易になる(効率がよくなる)ことで、
 人工の均衡と地域市場が崩れて安定が損なわれるのを恐れたからである。
・勤勉と倹約とをともに強調して、マクロの均衡とミクロの安定を両立させる一方、労働
 を人格修行の手段と考えて労働の効率を無視するようにと説いた井下梅岩の「石門心学」
 が、人々の共感を得たのも、安定を第一とする社会コンセプトがあったからである。
・ところが、アメリカからきた「黒船」は、「安定」よりも「効率」を重視する近代思想
 を提示した。このことは、日本社会を一変させるに十分だった。これによって、それま
 での最大正義だった「安定」が否定され、すべてを革新する効率追求が正義になってし
 まう。いわゆる「尊皇攘夷」から「文明開化」への転換である。
・この変化の激しさは世界史上にも例を見ないほどであった。それというのも日本人には、
 そのときその場の多数の意見を正義とする相対的正義感が定着していたから、日本の伝
 統的な気風と気性が、明治維新では見事に発揮されたわけである。
・人間は誰しも他人に好かれたいと思う。だが、その度合いが日本人ほど凄まじい民族は
 いない。とくに日本人が、自分の属する集団のなかで嫌われることを恐れるのは、極端
 である。日本人が恐れる死以上にこわいのだ。外国人は、日本人が死を恐れぬ民族だと
 思い込んでいるが、これほど大きな誤解はない。むしろ、他の民族以上に死を恐れる。
 例えば、ガンを診断されたとき、患者本人に告げるべきかどうか、日本の医学界はしば
 しば問題になる。日本では多くの場合知らせないが、外国では成人の場合はたいてい本
 人に知らせる。    
・日本の仏教の引導は、死んでから棺桶の前で渡す。生きているうちに坊さんがきたら、
 患者はびっくりしてしまう。不治のガンも同様で、日本では大体において本人には告げ
 ないことになっている。このため、患者が遺言を書くこともなく、相続問題をこじれさ
 せる例が少なくない。しかし、それにも合理的な根拠がある。ガンを告知すると、結果
 が著しく悪いのである。外国の統計では、患者に不治のガンを告知した場合も告げない
 場合も、ほぼ同じくらい生きるそうだ。つまり確実に死ぬといわれても、それで気病ん
 で寿命を縮めることは少ないらしい。ところが、日本での統計では、告知した場合には、
 断然死期が早まってしまう。ある有名なお坊さんが、「自分は若い頃から修行をして仏
 に仕え、精神修養をしてきた。決してガンを告げられても驚かないから、本当にことを
 いってくれ」というので、お医者さんが、「じつは、ガンです。あと六ヵ月ぐらいの寿
 命でしょう」と言ったところ、翌日から食事もできなくなり、二週間で死んでしまった
 という例もある。医者が病状から判断した期間に比べて、日本人の場合は、告知された
 人は告知以前の予想余命の平均の三分の一ぐらいの期間で死んでしまうと言われている。
・要するに、日本人は死を恐れるのであり、生命に対する執着、現世的欲望の強い民族な
 のだ。それほど死を恐れる日本人から、特攻隊を志願する若者が相当数出たのはなぜか。
 外国には、切腹や特攻隊が喧伝されているため日本人は死を恐れぬ民族だと思いがちだ
 が、じつ違う。特攻隊を志願して、幸いにも出撃前に終戦になって生き残った人々にイ
 ンタビューした記録を見ると、志願の理由を「国のために死ぬ気になった」と答えた人
 は、一割以下だった。あとの人々は、「行きたくなかったけれども、みんながやかまし
 く行け行けというから、断れなくなった。仕方がなかったのだ」というのである。日本
 人にとっては、みんなの意向、つまり自分の属する集団の意思とみられるものに逆らう
 ことは、恐ろしい死以上に恐ろしい。水利に頼る水田農業に親しみ、村落共同体を離れ
 ては生きていけなかった日本の伝統が、集団に逆らえない性格と習慣を日本人全体に植
 え付けたのである。    
・規格大量生産では、全体を決める概念発案者はわずかだが、それに従って製造にあたる
 部門担当者は数多い。それもできるだけ部分に細分化すれば、それぞれを深く究めて最
 善を尽くしやすいので、コストを引き下げ品質を向上することができる。したがって、
 規格大量性生産を巧く行うためには、全体の概念を生み出す少数の天才と、かなりの数
 の部門別改良者(中堅技師)と、その意図するところを忠実勤勉に実行する多数の現場
 勤労者が必要である。日本的集団主義が膨大な数の忠実勤勉な現場勤労者と生み出す条
 件になったとすれば、細部重視の下意上達慣習と「型の文化」の伝統は、かなりの数の
 中堅管理者を育成する基盤になった。
・日本には、全体概念を創造する天才は少なかったが、幸いなことに、それらは外国から
 流入した。このお陰で、かなりの数の中堅管理者と多数の勤勉な現場勤労者を用意でき
 た日本は、急速に工業化することができたのである。
・終身雇用が一般化した今日からは信じ難いほどだが、1930年代までの日本は、世界
 で最も労働者横転率(労働者が勤め先の会社を変わる率)の高い国だった。首切りも多
 かったし、それを抑制する法規もなかった。それどころか、日本には解雇の制限や事前
 通告などは不必要だという「理論」さえもあった。いわゆる「出稼ぎ労働理論」である。
・「日本の工場や商店の労働者は、農家の次、三男や娘たちが主であり、精神的にも経済
 的にも郷里の家族に深くつながりを持っている。だから、たとえ勤め先で解雇されても
 故郷に帰れば、親兄弟が温かく迎えてくれる。そこで農業の手伝いをしていれば、生活
 は苦しくとも飢え死にすることはない。そのうちに景気が回復、勤め口が見つかれば、
 また都会に出て勤め、何年かの間に貯金をする。次の不況の折にはまた郷里に帰り、蓄
 えた金で田地の一反でも買い、親兄弟の農業を手伝って過ごし、景気の回復を待って勤
 めに出る。このようにして女性は高等小学校を出てから結婚するまでの約十年間を、男
 は四十前後までの二十年余りを過ごし、やがて不惑の声を聞く頃(四十歳前後)には、
 郷里に生活基盤を築いて農業に戻る。それが健全なる臣民の理想の人生というものであ
 ろう。   
・欧米諸国では、そうした温かい大家族制度がないから、労働者が勤めを解雇されれば親
 子露頭に迷う。だからこそ解雇の制限も労働者の団結闘争も必要なのだ。それに対し、
 大きく言えば天皇陛下を長として国家全体が家族をなし、細かく見れば各家系の本家を
 核とする大家族の美風があるわが国では、欧米のような解雇制度も団結闘争も必要では
 ない。   
・戦前、合理主義一本槍の欧米に比べて、日本が優れている点として強調されていた日本
 的伝統とは、この大家族制度による家族福祉の存在だった。もちろん、これには労働者
 側の不満もあったが、大半の勤労者は何となく納得していたといえる。生涯を工場や商
 店の従業員として暮らすことを望む者も少なかったし、平均寿命の短かった当時は、中
 年から帰農できる可能性も高かった。長男が肺結核で若死にすることもあったし、養子
 の口も珍しくなかった。 
・1930年代までは、製造工業はまだ、社会経済の中核になっていなかったばかりでは
 なく人生を通じて身を置くほどの安定した職場とも考えられていなかった。民間企業の
 サラリーマンは、大学卒の管理職でも「浮草稼業」と呼ばれていた。つまり、当時日本
 はまだ、近代工業社会の入口、ごく低い段階にとどまっていたのである。
・議会制民主主義を破壊しようとする者の策謀は、古代ギリシャ以来変わらない。金銭疑
 惑を喧伝することだ。明治時代の政治家たちは、豪壮な邸宅に住み何十人もの使用人を
 置いていた。山県有朋の椿山荘を見ても分かるように、明治の元勲たちの豪華な生活は、
 とうてい陸軍大将の給与や爵位報酬でまかなえるものではない。しかし、彼らの金銭問
 題が重大な政治問題に発展することはなかった。
・日本の学校では、先生は不得意な科目ほど熱心に教えてくれる。体育が上手で数学の苦
 手な子供には、数学の補講をしてくれる。英語が上手で理科のできない子には、理科の
 宿題を出す。決して、できる科目のほうを先に進めるような補講はしてくれない。つま
 り長所を伸ばすより、欠点をなくす教育をしているのである。
・結果としては、子供たちの能力に大小の差はあっても、みんなが長所も欠点もない円い
 相似形になる。優等生はオール5、普通の子はオール3、それがよい子なのだ。5もあ
 るが2もある子供は「悪い子」、つまり個性を残した不真面目な生徒と見なされてしま
 う。   
・いまの学校では嫌いな時間が増え、得意な科目の時間が減る仕かけになっている。これ
 で学校へ行くのが好きという子供がいたとすれば、人格的に欠陥があるとみてもよい。
 日本の教育が重視しているのは、嫌いな時間に耐え、苦手なことを長時間やり辛抱を養
 うことであり、みんなと同じ知識技術を身につける協調性を備えることなのだ。そうし
 た人材こそが規格大量生産の現場に役立ったからである。
・一般に、企業の本社機能の東京集中は営業の便利さのためだといわれているが、関西や
 名古屋から東京への本社機能の移動を詳細に調べると、たいていの企業でまず東京に移
 ったのは社長室、秘書室である。全国団体の役員となった。社長や会長は東京滞在が多
 くなるからである。これに次いで東京に移るのは、金融部門と宣伝広告部門である。前
 者は金融界が大蔵省に統制されているためであり、後者は情報発信機能が東京に集めら
 れているためである。逆に最も後まで地方に残るのは営業関係と総務関係、つまり商売
 と人事は東京に移る必要が乏しかったのである。
・戦後、日本には新しい物財とサービスと制度と機能が数多くできた。しかし、その概念
 はことごとく外国から入ってきたものだ。洗濯機もテレビもテープレコーダーもそうだ
 し、テレビ放送の番組づくりもそうだ。スーパーマーケットもサラ金もプロレスも高速
 道路も外国に見本があった。輸出振興政策も金融ノウハウも外国から学んだ。
・もちろん、外国に見本がなく、日本ではじまって大成功したものもないではない。パチ
 ンコやインスタントラーメン、カラオケ、引越センターなどがそれである。これらの共
 通点は、決して大組織や「エリート」といわれるような人々が考え出したものではない
 点だ。逆に言えば、日本的エリート、つまり規格型の均質教育の優等生からは新しい概
 念が生まれなかった。彼らのしたことは、外国の概念を導入し、技術を学び、それに改
 良を加えて規格化し大量生産したことだけである。
・国際摩擦は、どこの国にも、いつの時代にもある。国家民族の利害が対立するのは、つ
 ねにあることだ。日本も明治開国以来、つねに国際問題を抱えてきた。戦後においても、
 それがまったく絶えたことがない、しかし最近、1990年代に入ってからのそれは、
 従来のような個別問題ではなく、日本の政策と経済構造と社会体制に対する総合的なも
 のとなっている点は看過してはなるまい。
・1980年代後半、日本人や対外的な円高と国内的な土地株式の高騰で、大いに豊かに
 なり、世界断トツの金持ちになったはずである。しかし、現実にはこれによって暮らし
 が豊かになったと感じている人は少ない。むしろ「一生働いても家が買えない」という
 不満がつのり、公共施設の改善は困難になり、将来に対する不安は一段と高まっている。
 このため、いまや日本には、どんなに働いて経済を発展させても一般庶民は豊かさを実
 感できないのではないか、という諦めさえ生まれはじめている。
・「不祥事」はどこの国にもいつの時代にもある。戦前にもあったし戦後もあった。欧米
 諸国にもある。共産圏でも裏経済は社会構造の一部になっている。発展途上国では、政
 治家が賄賂を取って親類縁者や有力支持者に分配するのが一種の「美風」と見なされて
 いるところさえある。しかし、いま、この国で起きた一連の「不祥事」は、「ロッキー
 ド事件」までの金銭感覚とは性格が違っている。金額が巨大なだけでなく、業界ぐるみ
 の犯行であり、犯した側に罪悪感がきわめて乏しい。しかもそれは、多くの場合、政府
 機関による保護政策が絡んでいるのだから、正しく日本社会の体質と気質に染み込んだ
 構造的退廃である。 
・日本の供給者保護体制は、明治以来供給者保護育成を目的としきた行政機関に染み込ん
 だ発想と、そのためにつくられた組織原理だ。とくに昭和十六年に確立された官僚主導
 体制を、各分野で規格大量生産の確立を目指した結果、必然的に生まれる過剰生産の解
 消のため、いっそう供給者保護を必要とした。  
・こうした供給者保護の風潮は、捕鯨業者にも、たった千八百人しかいかいべっ甲業者に
 も適用されている。日本人自身は、「われわれは自然を愛する心優しい民族だ」と主張
 するが、こと供給者保護となれば自然環境などには構っておれないというのが現実であ
 る。日本人が暮らしの豊かさを実感できないのも、これと強く結びついている。規格大
 量生産が徹底したこの国では、消費者の選択の自由は乏しく、それぞれの人が好みを満
 たすことができない。  
・公園や公立図書館がつくられても、供給者たる管理人に便利な規則があるので、使う側
 は少しも楽しくならない。道路にしても管理者と警察がやりやすいように規制するので、
 渋滞が著しくなるばかりだ。おそらくこの国の警察は、道路利用者の便利さや楽しさの
 ために要人警備のやり方を自制しようと考えたこともないだろう。
・誰もが個性を持たず、誰もが創造力を働かせず、官僚が前例と外国の先例でつくり上げ
 た規制と規格に従っていればよいという馴れ合い社会、それが最適工業社会・日本の現
 実である。   
・日本人が勤勉から脱出するためには、職場以外に帰属意識の対象を持つ必要があり、倹
 約から抜け出すためには、消費を美化する感覚が不可欠である。いまのところ、それが
 実現しているのは供給者を装っての消費、つまり交際消費の場合だけである
・日本の文化は、歴史の大部分の期間を通じて、モノ不足ヒト余りのなかで形成されてき
 た。そしてその名残りは、モノづくりの立場、つまり供給者優先、仕事第一の発想とし
 て、いまも受け継がれている。しかし、現実の日本は豊かな社会であり、モノ余りヒト
 不足の状況にある。このことを正しく認識するならば、モノづくりよりもヒトの暮らし
 を大切にする消費者優先、暮らし第一の発想が広まってよいはずでる。 

あとがき
・日本はもともと「東亜中華文化圏」の端にくっついた「小島」だったが、明治以降「ヨ
 ーロッパ・キリスト教文化圏」で完成した近代工業文明を受け入れて急成長した国、と
 いうことになる。このため、欧米人もアジア人も、日本を理解しようとするときには中
 華文化から入る。日本画は唐代にはじまる南画や文人画の派生として捉えられるし、相
 撲はモンゴルにはじまる格闘技、チョンマゲは弁髪の一種というのである。
・確かに、日本は中国から多くを学んだ。農法も文字も宗教も政治制度も、中国に由来す
 るものが多い。また、日本が明治以降の近代工業化の過程で、多くを欧米に学んだこと
 も事実である。技術も制度も軍事も教育もそうであった。この百二十年間に日本人自身
 が創作したものは、驚くほど少ない。
・しかし、「学んだ」ということは、同類になったということではない。日本人は多くを
 先進国から「学べる」素質があったが、きわめて同化し難い独自性もあった。つまりこ
 の国は、いずれの「文化大陸」にも帰属しない独自の文化があったのである。ただそれ
 は、これまで外国に影響するほどの高さと強さを持たなかった。その意味では日本は、
 独自の「文化大陸」というには小さ過ぎたし、弱すぎた。だが、他の大陸に呑み込まれ
 るには、あまりにも遠くあまりにも違っていた。
・もしわれわれ日本人を正しく理解させたいなら、日本は特殊な国であり、ヨーロッパ・
 キリスト教文化圏とも東亜中華文化圏とも異なる。「第五の文化亜大陸」であることを
 明言すべきであろう。それによっていくらかの摩擦や不利益を蒙ることもあり得る。欧
 米諸国からもアジアの国々からも批判を浴びる面もあるだろう。しかし、われわれ日本
 人がそのような社会の気風と気性を持っているのなら、それもまたやむを得ないことだ。
・現実の日本政府の政策や日本企業の活動や日本人観光客の言動とはかけ離れた「美しす
 ぎる日本」の紹介に、外国人は疑いと不信の目を向けている。あたかもかつての社会主
 義国が、「人民の幸福」を訴えれば訴えるほど、秘められた統制を感じるのと同じであ
 る。       
・日本が「特殊」であることは、恥でも罪でもない。われわれ日本の特殊性を主張するの
 をためらう必要はない。ただここで重要なことは、日本文化の特殊性を、一部の官庁の
 権限擁護や特定産業の利益保護のための政策を肯定するのに利用してはならない、とい
 う点である。それには、たかだが五十年ぐらいの間に形成された日本の社会「気質」、
 官僚主導型業界協調体制を大胆に見直す勇気がいる。他人と仲よく暮らすためには、立
 場と状況の変化に応じて、後天的な「気質」を改めることも必要である。
・今日の日本は、経済そのものにおいても、全体として見れば世界に威張れるほどの効率
 と豊かさには達していない。歴史的の長い目で見れば、現在の日本の繁栄も、積み重ね
 られた日本文化の一瞬の淡い輝き程度であろう。
・われわれは、それをもたらした日本の由来を見極めながら、この国の未来を考える必要
 がある。小成に狂喜して傲慢になるほど危険なことはないからである。