齢八十いまなお勉強 :安岡章太郎近藤啓太郎

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この本は、今から22年前の2001年に刊行されたものだ。
安岡章太郎氏と近藤啓太郎氏の二人の八十を過ぎた作家の対談を本にしたものである。
安岡章太郎氏と近藤啓太郎氏は、「第三の新人」と呼ばれたようで、二人の対談の中には、
遠藤周作吉行淳之介島尾敏雄など、「第三の新人」の人たちの個人的な話が出てきて、
なかなか興味深い。
また、ある安岡章太郎氏の軍隊経験の話はなかなか興味深い。安岡氏は戦争を語れる最
後の人だったのではなかろうか。
二人の病気などの話も、高齢になれば、だれでもこんな経験をすることになるんだと、
そういう年齢に近づきつつある私にとって、とても興味深い話であった。

前に読んだ関連する本:
質屋の女房
驟雨
原色の街
砂の上の植物群


まえがき
立派な貧乏人の豊かさ:安岡章太郎
・近藤啓太郎と私は、五十年来の友人である。
 大学だけは別の学校へ行ったが、小学校も中学校も同じところへ通った。
 二人とも一人っ子のわがまま育ちだから、ある意味で似たもの同士と言えるかもしれな
 い。
・二人とも老来とみに病み衰え、目の黒い中にもう一度会っておきたいと、私はこの春、
 鴨川まで出かけて行った。
・むかし、近藤の細君が四十三歳の若さで癌で亡くなった時、吉行淳之介が、
 「あいつは直ぐに再婚するぞ。あの男は三月と男やもめの暮らしは続けられまい」
 と度々言っていたものだ。
・しかるに近藤は、後添いも貰わず独身生活を続けながら、娘は立派な男に嫁にやり、
 息子は慶應を出して超一流企業に就職させるなど、両親揃っていてさえなかなかできな
 いような、世間並みの父親以上の、親の義務と責任を果たしたのである。
・思うに近藤は、見上げるような長身巨漢、塩辛声の漁師言葉で悪党ぶる外見にも似ず、
 私なぞと違って、本来常識も良識もあり、繊細で思いやりのある、上等な人間だったの
 だと、私はこの十数年、やっと気がついた。
・それでは、近藤はなぜあのように悪党ぶっていたかと考えると、これは、遠藤周作が、
 敬虔なるキリスト教信者にもかかわらず、糞尿譚を好んで披露したが、インテリの羞恥
 心と、スノビズムの裏返しであったのと似ている。 
 近藤も、ある種の羞恥心で悪ぶっているうちに、それが板につきすぎてしまったのかも
 しれない。
・ところが、幾星霜、年を経て、色気もバク才も洗い流した近藤は、その類い稀なる生来
 のおおらかさ、優しさ、賢さが素直に表に出て、老人の鑑のような上等な人間になって
 しまった。
 家の中を伝い歩きしかできず、周の大半をたった一人で暮らしているのに、愚痴はこぼ
 さず、決して人を羨まない。
・「この頃は、立派な貧乏人がいなくなった」というのが最近、近藤の口癖だ。
 こけおどしのお寒い風景が目白押しのこの頃、「立派な貧乏人」は、本当にいなくなっ
 た。 
 もはや私のような老人は、手遅れであろうが、「立派な貧乏人」として死ねるよう、
 私も最晩年を送れたら、幸甚である。
 
もうね、さっきから文に怒られてね、まだか、まだかって訊くもんだから
・さっきから文(長女)に怒られてね。まだか、まだかって訊くもんだから。(近藤)
・数年前にね、俺は上アゴの中に歯が生えてきたんだ。医者に言わせると、母親のお腹の
 中にいた時にすでに上アゴの中に生えていたものだって言うんだ。だからもう、何だか
 人間じゃないみたいな気がしたよ。(安岡)
・急に歯というか上アゴが痛み出してね。それはすごい痛みだったんだよ。それで鎮痛剤
 サリドンを買ってきてもらって二十錠飲んだのよ。
 で、翌日、さっそく病院の口膣口外科へ出かけたんだが、あれはひどい。
 歯医者というのはまるで桶屋なんだよね。
 口を開けたまま、のみを口の中に入れて、上アゴをカンカン、カンカン、金槌みたいな
 もので叩いて削るんだよ。(安岡)
・この間、安岡に電話した時、奥さんが話したんだけど、知らないうちにね、一人でうろ
 うろ、散歩に行ってしまって困ると嘆いていたぞ、それで、車で探しに行こうにも、ど
 っちに行ったかわからないって。(近藤)
・いや、あの日は多摩川へ行って夕日を見て帰ってきただけだ。でも、やたら転ぶんだよ、
 最近。(安岡)
・だから「近藤さんは出歩けないからいいんだけど、うちは年中転ぶくせに、なまじ出歩
 くからやっかいだ」って。
 俺なんか亀田病院の先生が、「無理して何メートルも、何十メートルも歩かせないでく
 れ、骨折でもしたら、大変だから」って。
 それをいいことに歩かないけど、お前、やっぱり歩かないほうがいいぞ。転んだ拍子に
 骨折でもしたら、寝たきり老人になっちゃうよ。(近藤)
・いや、出歩いて転ぶだけじゃなくて、家の中でも転ぶんだよ。
 こっちの耳、一昨年、自分の部屋で立ち上がろうとして、どういうはずみか、ステレオ
 か本箱の角にぶつけて血だらけになった。(安岡)
・よろめいたのか?(近藤)
・急いで立ち上がろうとして足がもつれたらしい。
 女房に見てもらったら、すぐ病院に行かなきゃだめだと言うんでね。
 それで、救急車はもう遅いっていうのは経験的にわかっているから、女房が自分で車を
 運転して、国立病院へ行ったんだ。
 女房は脳外科だと思ったらしい。そしたら、外科の看護婦さんが来て、「ああ、これは
 縫わなきゃだめだわ」って言ったんでほっとした。縫えば治るんだと。
 ちょうど耳たぶのところが、ナチスのカギ十字みたいに切れていて、それを実に丁寧に
 十二針も縫ってくれたよ。  
 こんな死に損ないの爺になって、日頃ひと思いに死にたいと思っているくせに、そうや
 って病院に駆けつけるんだから、我ながら浅ましいもんだとつくづく思うよ。
・俺ね、六十半ばだったかな、慢性腸炎になって、毎日下痢が止まらなくて、頭は痛いわ、
 全身がだるいわ、八十五キロの体重が六十キロになっちゃった。
 もうフラフラでね。それが二年近くも続いたんで、つくづく死にたくなっちゃったんだ
 ね。それで、睡眠薬をたくさん飲んで死んでやろうと思って本気で考えていると、不意
 に筆舌に尽くし難い恐怖感と寂寞感に襲われちゃったんだ。
 自殺っていうのは、なかなかできないものだよ。頭の具合がおかしくならないと自殺は
 できないね。(近藤)

いまから思えば、安岡と俺は不思議な縁だね
・いまから思えば、安岡と俺は不思議な縁だね。別に、続いている学校でもないのに、
 小学校と中学校が同じなんてね。(近藤)
・安岡は絵は好きだよな。でもお前、絵描きにならなくてよかったよ。(近藤)
・本当だ。中学校の同期に「建畠覚蔵」という男がいてね。確か近藤の学年から落第して
 きたんだ。(安岡)
・体が悪くてね。彼の親父さんは、その当時有名な彫刻家でね。
 たしか「建畠大夢」という名前だよ。
・その建畠という男が、俺に「お前、勉強が嫌いなら一緒に美校を受けよう」って、言っ
 てこれたんだ。  
 でもね、その頃俺も絵が好きになっていたからその気になって、「それもいいなあ」な
 んて思ったら、とんでもない、美術の時間になって、そいつの絵を見たら、到底その真
 似をしようにも追いつけるものじゃないよ。
 本格的なデッサンで、これはもう、受験勉強よりよっぽど難しいと思って、すぐやめた。
 その建畠君は中学四年で美校へ入っちゃったの。(安岡)
・覚造はうまかった。ところが彫刻科だろ、入ったの。
 かわいそうだよな。彫刻は、売れないからね。
 結局、稼ぐために、デパートなんかでマネキン人形を商売にしてやっていくよりしょう
 がない。
 それをやっているうちに、だんだん彫刻がためになっていく。(近藤)
・まさに麒麟児と言っていい男だったよ。
 確かに彼は、本質的に絵描きなんだと思うけどね。
 でも、あの彫刻というのは、日本ではとくに、軍人の銅像とかそんなものばかりやって
 いるからね。これじゃロダンみたいなやつは出てくるわけがないよ。(安岡)
・俺も、勉強が大嫌いだったから、安岡の動機とあまり変わらないね。
 美校の試験科目を見たら、実に簡単でね。絵と国語と作文だけという試験なんだ。
 「ああ、これに限る」と思ったんだ。
 でね、先生に美校受けたいいって言いに行った時、「君は絵を描くことが飯より好きか
 い。毎日絵を描かずにはいられないかい」って言われたよ。
 そういうんじゃなきゃ絵描きは無理だよって。それはそのとおりだったね。
 だけど、親父に反対されてね。「絵描きなんかになるなら中学校だけは卒業させてやる
 が、あとは家を出て勝手にやってゆけ」ってさ。
 そしたら、親父が盲腸炎になって、手術後の経過が悪くてあっけなくしんじゃったんだ。
 中学五年の時ね。
 その親父が、もうとにかく教育にうるさくて、一にも二にも勉強で、俺は窮屈で窮屈で、
 本当に自由に憧れていたんだ。とにかく、画家になれば自由になれる、と思ってたとこ
 ろがある。(近藤)
・じゃあ、近藤が、親父さんの遺した財産を蕩尽しのたはそれからか?(安岡)
・そうね。それまでも私は遊び好きで、怠け者で、かなり手におえない人間だったけどね。
 私の叔父で一人変わり者がいて、この人も相当な放蕩者なんだ。それで、「待合へ連れ
 ていってくれ」と頼んだ。
 で、その叔父が「待合へ行って芸者遊びをするのかな?」って言うから、俺は「ただ遊
 ぶだけじゃない。芸者と一緒に泊まるんだ」と言ったら困った顔をしてたよ。
 待合遊びはそれが最初だ。昭和十二、三年頃だから、支那事変が始まった頃か。
 待合から学校へ通ったり、もう滅茶苦茶だ。
 俺はその頃、吉原の「角海老」へ行ったこともあるよ。(近藤)
・そりゃ、すごい。「角海老」といったら、吉原でもいちばんの遊郭だよ。
 俺たち学生にとっちゃ高峯の花だよ。(安岡)
・「桐佐」っていう提灯で案内されて「角海老」へ行ったんだよ。
 で、出てきた遊女が御職(その妓楼のいちばん上位の遊女)なんだよ。
 で、俺は女郎は初めてだから、回しを取る(一夜のうちに順番に何人もの客を相手にす
 る)なんていうこと、全然知らなかった。
 で、ね、あっちこっち行かなきゃならないっていう話を聞いたらいやになっちゃってね。
 「俺はもうだめだ。俺はここで一人で寝てるから勝手にしろ」って言って寝ちゃったん
 だよ。 
 それで朝になったらちゃんと、こう、いろいろ仕度してくれて清潔なんだ、感じが。
 その女郎さんね、そんな美人じゃないけどちゃんとした人だったよ。田中絹代みたいな
 感じの人。(近藤)
・友だちを一人連れていったの。全部、俺が払ったら、その友だちが感激しちゃてね。
 昭和十五年だったけど百円でおつりがきた。(近藤)
・それは当時としちゃ、驚くべき金だよ。
 本物の遊蕩児ってのは、近藤だけだね。
 吉行がいつか真顔で言っていたな。「実際、俺たちの世代には、親の財産を遊びでつぶ
 したというやつはいないな」って。 
 吉行にしたって茶屋遊びの経験はないよ。(安岡)
・戦後ね、財産がすっからかんになった時ね、母親がね、「お前ほど運のいい人間はいな
 いよ。お前が戦争前に遊んだだけのことを、いまやろうとすれば何千万円あったって足
 りないぐらいだもんね」って言ってくれてね。
 どうせね、「使わずに持っていたとしたって、このインフレじゃすぐになくなってしま
 ったんだから。お前はいい時に使っちゃった。運がいい」って。(近藤)
・偉いお母さんだね、本当に。(安岡)
・俺に甘くてね、人のいい母親だったよ。
 最後がね、脳梗塞で寝たきりになって、かわいそうだったよ。(近藤)
  
・吉行の話では、「近藤啓太郎ってどんなやつだ」って訊いていたのが結構いたそうだよ。
 で、会って「大変ややつだなあ」って、みんな思ったらしい。
 あの吉行自身、「やっ、これはいかん」と思ったっていう。
 なんか、遊び人というか不良というか、互いにそういう匂いはわかるんだろうな。
 で、吉行なんか、俺の袖を引いてね、「おいおい、あの男とだけはつき合わないほうが
 いいぞ。どうもお前はフラフラして、だれとでも見境なしにフラつき歩くクセがあるが、
 あの男だけはやめとけ」って真剣に言うんだよ。(安岡)
・だから戦後、会いはじめた頃は、およそ近藤の戦前の暮らしぶりなんか想像もできなか
 ったよ。 
 最初は俺たち、近藤の言うこと、みんなホラだと思って疑っていたんだ。
 それが、おいおいとね、近藤の芸者遊びなんか、実地で見させてもらってね、やっと納
 得したんだよ。(安岡)
 
吉行に電話してやりたいな、あいつだったら何て言うだろうって思うんだ
・吉行ほど疑い深い人間も珍しいかわかんない。
 でも、なぜ疑い深いかというと、ものすごく芯が強いというか、気が強い男で、人に騙
 されることが本当に悔しい。いやなんだよな。
 なんだか騙されているんじゃないかってね・・・(近藤)
・ところが、それだけに奇妙に抜けているところもある。(安岡)
・吉行が芝居を観に行って、そしたら付き人みたいなのが来て、「先生、ちょっと楽屋へ
 いらしてくださいませんか」って、M子さんのところへ連れていかれて、いろいろ話し
 たと。
 どう思う?って言うから、「それはお前に惚れてるだろう」「やっぱりそうかあ」って
 ね。(近藤)
・吉行ほどの男がなあ。
 そう言えば、あの頃、吉行が「お前の『ガラスの靴』は実に名作だ。俺は毎日読み返し
 ている」と言ってたもの。(安岡)
・だから、しかたがないことだけど、吉行の奥さんも相当異常になっていたね。(近藤)
・うーん、もう電話が長くてね。(安岡)
・俺もね、つい、堪忍袋の緒が切れちゃったことがあった。
 電話で、二時間ぐらい、愚痴を聞いてなきゃならないんだよ。
 一回ぐらいならいいよ。それが何回もなんだから。
 かわいそうだったけど、二時間も聞いたら、本当、いやになるよ。(近藤)
・近藤のとこは、奥さんが先生をしていて昼間いないから、近藤が相手していたんだな。
 俺のうちはもっぱら女房だ。
 女房がね、吉行の奥さんから聞いた話だと、最初のうちは奥さんも一緒に、M子さんの
 楽屋に遊びに連れて行ったらしいよ。それで、おいしいお弁当を食べさせてくれたとか、
 奥さんもM子さんに気を許して信頼していたっていうか、ああなるとは夢にも思わなっ
 たんだな。だから、女房は吉行さんが悪いって言う。(安岡)
・それでね、うちも困ったんだよ。
 吉行が家を出てる間じゅう、奥さんが電話をかけてきたり、家に来ちゃったりね。
 もう時効だから話すけど、市ヶ谷のあの土手の上からね、「いま中央線に跳び下りて自
 殺する」って電話がかかってきた。
 聞いた以上、女房が尾山台から市ヶ谷まで行かなきゃならない。跳び込みを止めるため
 に。そのまま放っておくわけにいかないだろう。(安岡)
・それがね、M子さんも来ちゃうんだよ、うちに。
 吉行とうちで待ち合わせしてるわけね。
 M子さんを待たせておくところがなかったんだろうね。
 するとね、二時間ぐらいうちで待って、そこへ吉行が来るわけ、やっと原稿渡したか何
 かで。 
 そして何しろもう、肩を抱えちゃって、「M子、待った?」とか言って入ってくるだろ
 う。それで、「どうもありがとう」なんつって帰るわけだ。
 しかも、奥さんがいつうちに来るかわからないから、もう本当にまいってね。
 それが何度が続いたよ。とうとう女房が、「子供の教育上悪いからやめてほしい」って
 吉行に言ったらしい。(安岡)
・そのうちにね、吉行の奥さんは「佐藤春夫」さんや「川端康成」さんのところへ行って、
 「安岡さんなんかがけしかけた」って言ったらしいよ。
 「丹羽文雄」さんの奥さんが軽井沢でその人たちからそれを聞いたらしく、俺、呼びつ
 けられてね、「どうして第三の新人っていうのは、けしかけるようなことをするのか」
 ってかなり厳しく、お叱りを受けたよ。
 こっちはけしかけたおぼえはないことだけど。(安岡)
・でも、俺が思うに、佐藤春夫とか丹羽さんとか、みんなね、いわゆる堅い家の人をお嫁
 さんにしてないよね。あの奥さんたち、水商売とか、不倫で結ばれたとか、でしょ。
 そういう人に限ってね、真面目なことを言うね。
 「私はちゃんと真面目に夫婦しているんだ」ということを証明したいんだよ。(近藤)
・でも、吉行っていうのはともかくスケベだからね。
 スケベはでは私と気が合ったんだ。
 でも、あいつはわりあい、こう新宿とか玉の井とか、ああいうところの商売女と遊んで
 きた男だな。 
 だからやっぱり、趣味なのかねえ。とにかく自分がいい男だから、自分の好みだけでい
 くんだけどね。 
 銀座で吉行に「いい女だ」って言われると、みんないやがっちゃんてね。
 俺が「いい女だ」って言うと喜ぶんだよ。
 俺は自分にコンプレックスがあるから、美人が好きだ。
 美人だから「これはいい女だな」って、僕が褒めると喜ぶんだ。(近藤)
・結局、M子さんは吉行の好きなもののエッセンスだったのかね。(安岡)
・世界中だった一人しかいない、吉行の好きな人だったんだよ。
 これはM子さんにとっても同様で、いちばん好きな人と出会って、一緒に暮らしたんだ
 から、これほど幸福な男女も珍しいんだよ。 
・それにしては長く続いているから、えらいもんだよ。
 俺も一度「ねむの木学園」に吉行と行ったことがあるけど、大変なことだと思ったよ。
 俺がおみやげに持っていった鴨川名物の鯛せんべいを食べた子供がね、胸につかえちゃ
 って、苦しそうにしたんだ。
 俺や吉行なんかただおろおろするだけだったけど、M子さんはすぐその子を抱き上げて
 ね、背中を叩いたり、摩ったりして、喉につかえたせんべいを吐き出させた。そして子
 供の顔を見詰めてやっていたけど、マリア様みたいな表情をしていたよ。(近藤)
・まあ病気じゃ安岡も苦労したし、俺は歳とってから苦労した。
 でも苦労が違うよな、俺たちとは全然。次元が違う。(近藤)
・吉行に会うまでの人生は、俺たちには想像できないよ。
 たとえば、レコード出すまでね、レコード会社に行くにもね、普通なら電車に乗るだろ、
 その金もなく、線路沿いに歩いて通ってたと言ってたよ。毎日、売り込みに。
 そんなこと俺たち、したことないもんな、いくら何でも。。
 違うんだよ、だから迫力がね。そして今度は「ねむの木学園」だろ。
 あれを経営するのは大変だと思うよ。
 だけど自分が子供のときに苦労したことを思うと、どうしてもこの子たちを助けたい一
 心で頑張り続けてるんだ。だから迫力も陰にこもって凄味を増すよ。いよいよ「寒山拾
 得」みたいになったんだよ。(近藤)
・でも、何だね、吉行がしんじゃったら、やっぱり寂しいね。(近藤)
・そりゃ、寂しいよ。あいつは面白いんだよな、あの男は。
 秀才のくせにぬけてるところがあって。(安岡)
・俺はね、その頃も入院中だった。
 遠藤周作が病院に電話で知らせてきてね、「吉行が死んだ」って電話口でもう嗚咽して
 いたよ。(安岡)

みんな貧乏だったな。いまになると、それがイヤに懐かしい気がするよ
・しかし、あれだね、終戦直後はみんな大変だったよね。
 近藤が鴨川へ来たのは終戦直後だろ?(安岡)
・終戦の翌年だね、翌年の冬だよ。ここではなくて漁村に家を借りて住んでた(近藤)
・でも、近藤はともかくだよ、お母さんはそれまでは、大きなお屋敷の奥様だったんだろ。
 お母さんにとっては大変な逆境だったろうね。(安岡)
・うーん。母親はでも、暗い顔を俺に見せたことはなかったよ。(近藤)
・で、すぐに漁に出たの?(安岡)
・いや、俺が怠けもんだから、家を売った金が手元に残っている間は、東京が恋しくなる
 と金を持ってふらりと遊びに行ってたんだ。
 で、そのあとは売り食い生活だよね。ちょっと遠くへ行くと漁村だったから、母親がね、
 何か持っていっちゃ、お米に換えたりして、それもとうとうネタがなくなってきちゃっ
 てね。一年ぐらいはそうやって暮らしてたんだ。
 そのうちに、母親が東京の知人からサッカリンを分けてもらって、近所の人に売りはじ
 めたんだよ。  
 それが、俺、いやでねえ。怒って、やめてくれって言ったんだよ。
 そうしたら「こうでもしなければどうやって食べていっていいのかわからない」って言
 われて、俺、グーの音もないよね。
 本当にもう、このままでは生きていけないっていう実感をもった。
・その実感よくわかる。
 その頃、わが家も極貧中の極貧でね。惨憺たるものだったよ。
 家も家財もみんな焼けてしまって、幸い、親戚の持っていた別荘が鵠沼にあって、そこ
 に住まわせてもらったけど、復員してきた親父は、獣医なんだけど軍人だったからね、
 公職追放で恩給もなく、無収入。
 でね、いきなり庭を耕したり、鶏を床下で飼ったりするんだけども、そんなことできる
 親父やないわけ。それが見てられなくてね。
 僕は、近藤と年は同じだけども三浪もしているから、まだ大学も卒業していないし、
 そのうえ脊椎カリエスになっちゃっただろ。
 その当時のことは、毎日の暮らしを、どうやってやってきたのか、細部がね、わからな
 いものがあるよ。
 少しでもお金稼がなきゃならないから、アメリカ軍が接収した家のハウス・ガードなん
 かやったけど、明日のことなんか考えたことないよ。(安岡)
・あんまり俺は焦らない質だけどね、切羽詰まったね。
 どうにもならない、ということがあるって初めて思い知ったね。
 そうしたら、近所に若くて気持ちも腕もいい漁師がいてさ。
 うちへ酒飲みに来たりして事情がわかってるから、「近藤さん、船に乗って釣りに行か
 ねえかい、たまには面白えもんだよ」って、それ行ったんだよ。
 あの頃はね、戦争中、若いもんはみんな、兵隊へ行っちゃってて残っているのは年寄り
 ばっかりで、全然、魚捕らなかったでしょ。それで、近海に魚が溢れるようにいたわけ
 よ。もう技術もへちまもないんだ。若くて力がありゃいいんだよ。
 だからイカなんか、一晩行くと、どのくらい釣れたのか、わからないぐらいだった。
 とにかく大漁大漁でね。一貫目というと3.7キロぐらいか、それが三十円ぐらいだっ
 たよ。(近藤)
・で、手間賃はもらえたの?(安岡)
・もらえた。半人前。
 つまり、こっちは道具もつくれない、ただ行って釣るだけだから。
 じいさん、頭のいい人だったから、いまの漁は技術も何もないと。
 もちろん、じいさんたちのほうが数釣るけど、そう差はないんだよ、素人も玄人も。
 とにかくうじゃうじゃ、魚はいるんだから。
 あんなにいた魚がいまぱったりいなくなったというのは、俺から言わせりゃ、当時の乱
 獲の祟りがいまになって現れたってことだね。
 それからね、その村は周りが全部漁師だろ。船に乗るようになる前ね、「おかずだよ」
 って魚をバンバン家に入れていってくれるんだよ。サバなんか何十匹にもなっちゃって
 ね、母親だってさばきようがないくらい。
 結局ね、俺はこの町のおかげで生きてこれたと思ってるからね。
 女房と結婚したこともあるけど、俺はいちども鴨川から出ようと思ったことがないね。
 ここの暮らしは本当にいいよ。(近藤)
・ほんとだね。いまじゃ、鴨川の名誉市民だろ。
 ところで、文ちゃんが毎週横浜からお前の世話をしに通ってくれてるんだろう。
 いい娘だねえ。(安岡)
・いろいろ考えてみたら、俺たち出会った頃には、みんな貧乏だったな。
 いまになると、それがイヤに懐かしい気がするよ。(安岡)
・世の中、まったく変わっちゃたね。日本人もね。(近藤)
・吉行なんかも、苦労してるよな。
 最初、驚いたのよ。「俺の家に来い」って言うから、番町の大邸宅のつもりで出かけて
 みると、四畳半と六畳の二間きりの家で、しかも四畳半には友だち夫婦が間借りしてい
 るんだ。そのうえ、吉行にはもう奥さんもいたんだよ。
 それで三人でね、その六畳に寝たんだけど、吉行が「お前、よかったら俺の上に下宿し
 ないか。俺は同居人がいるほうが落ち着くんだ」って言うんだ。
 つまりね、その六畳に、吉行夫婦と寝起きを共にするっていうことだよね。
 さすがに俺も驚いたけど、吉行ってそういう優しいところのあるやつなんだ。(安岡)
・だいたい吉行の家には常時、五、六人の客はいたね。
 で、だれかに金ができると飲みに行ったり、金のない時は他愛もないことをして遊んで
 ね。
 彼は客の相手をしながら、遅れた原稿を平然と書くんだ。
 俺も、いちど原稿が間に合わなくなってやってみたけど一行も書けなかった。(安岡)
・吉行は、毎日出かける時に、奥さんから百円はもらっていなかったと思うね。五十円だ
 よ。(安岡)
・でも、吉行はよく新宿なんかに遊びに行ってたよ。(近藤)
・まあ、いくら困っていても、何といっても母親が美容院をやっていて、宮様の美容師だ
 ったから、僕らよりはいくらか小遣いをもらえる立場にはいた。
 でもね、吉行は東京大学中退なのね。月謝払えなくて中退になったけど、就職のために
 はあの頃でも不利だったよ。小説家としてはイカす気がしたけどね。(安岡)

レイテ島へ連れて行かれた連中のことを考えるとね、何かヤマしいような思いもある
・俺は、昭和十七年には美校を出てたけど、安岡は大学途中で兵隊に行ったのか。(近藤)
・その頃はまだ、大学生には徴兵猶予というのがあったんだ。
 僕はギリギリまでその権利を使ってね。
 昭和十八年の十一月にはその年限が切れて、入営することになっていたの。
 ところが、どういうわけが学徒動員の措置で十九年の春まで、逆に徴兵がのびてしまっ
 た。
 でも、その頃ね、徴兵猶予を自発的にね、取り消して軍隊に入ることが、ある種の流行
 みたいになっていたんだ。(安岡)
・なんでだ。そんなに戦争に行きたがっていたのか?(近藤)
・そうじゃない。
 だが、猶予されて暮らすのも楽ではないんだよ。
 一人減り、二人減りと歯がかけたように友だちがいなくなるのね、周囲から。
 それで大学に、海軍報道班の将校かなんかがやってきて、講堂に学生たちを集めて話を
 するだろう。どんな話をするのか、聞いたことがないのでわかんないけど、そのあと話
 を聞いた何割かは、志願の手続きの問い合わせに教務課に押しかけるんだ。(安岡)
・その頃はもう、僕と同年齢の学生はほとんどいなくなっていたよ。
 で、僕が入営したのは昭和十九年の春だが、すでにね、日本の敗戦はいたるところで囁
 かれていたけどね。 
 で、入営したら、一週間後には北満(中国東北部)に連れて行かれた。
 そしたら半年ぐらい経って、熱地演習のためと称して部隊は南方に移動することになっ
 た。 
 その移動を待っている間に、僕は四十度の熱が出て、腹膜炎ということで北満の孫呉か
 ら南満の旅順の療養所へ転院させられたんだ。
 そこに半年ぐらいいて、内地還送となり、日本の病院にも半年ぐらいいた。(安岡)
・レイテ島へ連れて行かれた連中のことを考えるとね、僕は別段ズルいことをしたわけで
 もないのに、心の底に何だかヤマしいような思いもある。
 僕は何にしてもここまで生きているからね。(安岡)
・そのレイテ島の玉砕のことは戦後知ったんだろ。(近藤)
・いや、あれね、旅順の療養所にいた時、偶然ね、新聞が僕の病室に廻ってきたんだ。
 で、無論、玉砕とは書いていない。ただレイテに上陸したとあるんだけど、僕はね、こ
 れは俺たちの部隊ではないかという気が、直感的にした。
 僕の友だちなんかで、ルソン島で自決させられたやつがいるけど、そういうのも本当に
 無残な思いでたまらない。(安岡)
・自決か?(近藤)
・引責自決。つまり、部下が一個小隊そのままいなくなったというので、その責任を問わ
 れたってことらしい。これはヒドいね。
 そいつの兄貴もソロモン諸島で死んでるのね。
 だから母親にしてみれば、二人も息子を殺されているからね。
 あらためてあの頃のことを考えてみると、やっぱり二十五歳から先のことはわからない
 って思ってたね。だって負けるんだからね、あの戦争、負けるに決まっていると思った、
 最初からね。(安岡)
・僕らの中隊長だったTという中尉がいた。あとで大尉になったのかな。
 それが大岡昇平の『レイテ戦記』を読むと、出てきてね、まったく役に立たないような
 人なんだ。  
 「やっぱりこういう人と一緒に死ななきゃいけないのは、大変だな」と思ってね、いや
 な気がするなあ。(安岡)
・俺は痔があって、すごく悪かった。徴兵もね、九日行って帰っちゃった。(近藤)
・あれ、痔はいけないんだよね。片目が見えなくとも第二乙なんかで合格なんだ。(安岡)
・そうそう、俺は横須賀の海兵団なんだけど、ちょっと見ているとね、何だってぶん殴る
 んだからね。(近藤)
・絵描きって、ああいうとこは得だね。
 「あ、お前、絵描きか」って言うんだよ。
 絵描きっていうのは馬鹿だと思ってるんだね。(近藤)   
・いや、地図を描術があるからね、だから殴らないよ。(安岡)
・絵描きじゃなくとも、床屋さんなんかも特技だから優遇されて、部隊長専門の床屋にな
 って、わりにノンキに暮らしてたよ。(安岡)
・まあ、あれほど人の命を粗末にするとこ、俺はないと思った。
 下士官が報告に来て、「昨日の何とかの看護の兵隊が、あれをやるのを忘れたもんで、
 死んでしまいました」って言って、「そうか、気をつけろ、うん」それで終わりなんだ
 よ。もう滅茶苦茶だよ。
・「第三の新人」の中では、やっかり「島尾敏雄」がいちばん大変な体験だったよね。 
 海軍の特攻隊の隊長で、もう明日出る、明日出撃するという時だったから。
 部下を死なせてもいるしね。
 だいたい特攻隊なんて発想自体が、追い詰められた敗軍の将の愚案だからね。
 やりきれないよ。将来のある若者の代わりにそんな愚案を考えついたやつらが特攻機に
 乗りゃよかったんだ。本当に戦争はよくないよ。(安岡)
・吉行の短編、あれ読んだ時は噴き出したね。
 岡山だったかな、えらい真面目な兵隊がいてね、吉行が結核か何かで帰ることになって、
 荷物をまとめて正座したら、その兵隊から「心を落とすでないぞ」って言われるんだ。
 内心では嬉しくてしょうがないけど、笑うわけにもいかないから。(近藤)
・あぐりさんも喜んだだろうな。帰ってきてこれて。(安岡)
・喜んだよね。
 まあ、戦争っていうのはよくないね。
 ねえ、安岡、自衛隊って軍隊かね?(近藤)
・そういうふうに言う人多いね、最近。
 しかし、実は自衛隊は軍隊なんかじゃないよ。
 だいたい、脱走したって罪にならない。
 そういうのは軍隊じゃない。
 本当の軍隊は、もっと怖いものだよ。
 脱走は軍法会議に廻されるよ。(安岡)
・私ね、つくづく思ったのはね、日本が負けて、アメリカに占領されたでしょ。
 だけどね、日本が負けるってことは、庶民だって知っていた。
 そのうえでね、ソビエトに占領されたら大変だという、潜在的というか暗黙というか、
 そういう空気があったように思うんだ。
 それでアメリカが来てみんなほっとした。(近藤)
・ソ連軍のシベリアから入ってきたやつは、本当に悪かったらしい。
 逃げ出した関東軍に置いてきぼりにされた民間人はひどい目に遭っている。(安岡)
・すごいんだっていうんだ、その悪さが。
 強姦はみさかいなくしちゃうし。
 それはまあ、アメリカの進駐軍もいたようだけど、比較したらわずかなもんで、ソビエ
 ト軍と比べたらよっぽど紳士的な占領軍だったと思うよ(近藤)
・俺ね、戦後、三田の慶應の校舎がアメリカ軍に接収されていたから、アメリカの下士官
 や兵隊をこの目で見たけど、アメリカの下士官というのは、わりあい紳士的だったね。
 そう悪くはなかったよ。
 アメリカの兵隊って、中学生の頃から軍隊というものを知っているのがいるらしい。
 それでアメリカ軍はね、喧嘩をする時、上着脱いで、帽子脱いで、つまり素手でという
 ことだけど、そうやってこれば対等に暴力をふるうことができるって言うんだよ。
 これが何処まで現実に通用するか知らないが、とにかく我々とは比較にならない自由さ
 があるようだな。(安岡)
・そういうことも含めて、いろんなことでね、ソビエトとアメリカの違いはわかっていた
 わけなんだよ、いろんなことでね、日本人は。
 もうソ連だけはご花弁と思って、アメリカが来て喜んだんだよ、正直な話。(近藤)
・いや、だいたい帝政ロシアの、懲役期間は、二十五年だよ。
 二十五年も拘束されていたら、これは農奴の感覚だよ。
 ロシアの徴兵は二十五年、これは大変だよ。
 そういう伝統の国だから悪いこともするわけなんだ。(安岡)
・それで、俺が言いたいのは、アメリカの占領政策を日本人はあまりにも素直に受け入れ
 たっていうことよ。 
 たとえば、俺がさっき話した軍隊の暴力にしたって、それと学校の体罰を一緒くたにし
 てね、悪いもんだと。
 違うんだと思うよ。学校の体罰って、悪いことをした場合だろ。
 なかには、確かにひどいものもあるよ。
 でも、ミソもクソも一緒にして暴力はいけないと教えるから、子供もわかっていて、生
 徒に暴力をふるわれて、我慢して無抵抗にやられる教師までいるんだってよ。(近藤)
・日本の暴力って、軍隊にしろ学校にしろ、なんか陰湿だからね。
 ありがたいもんじゃないね。(安岡)
・そう。だけど「暴力はいけません、戦争はいけません」というのを、ずっと六十年近く
 やってきた挙句ね、ああいうね、ガンゴロだとか、電車の中で、いわば公衆の面々でだ
 よ、化粧する女とか、そういうのが生まれちゃったんだよ。
 やっぱりアメリカの占領政策がうまくいっちゃったんだな。(近藤) 
・まったく、半世紀たって、日本はみごとに滅んだな。(安岡)

・何のかんの言ってもね、これだけはね、俺、アメリカは偉いと思ったよ。
 奈良と京都を爆撃しなかったろ。
 あれね、ウォーナーっていう美術の博士がいて、岡倉天心の弟子だった人で、それがね、
 あそこには人類の宝とも言うべきものがあるんだから、絶対に爆撃しあいでくれって、
 こう、進言した。
 もちろん、あの時は勝敗が決まっていたということもあるかもしれない。
 それにしても、日本で、もしそんなことを軍人や何かに言ったら、えらいことになると
 思うんだ。(近藤)
・そのウォーナー博士というのはね、奈良に一善堂という骨董屋があるんだけど、俺の友
 だちにそこの息子がいて、子供の時からウォーナーさんを知っていたって。
 肩車なんかしてきれたって言うんだ。
 だから、あれは特別の人だね。(安岡)
・そうか、そういういきさつがあったのか。
 でも、よくアメリカ軍がだよ、その進言を聞き入れて、爆撃しなかったよな。(近藤)
・でも、アメリカじゃ勝つのがわかってて勝った場合のことを考えているんだよ。(安岡) 
・そう、勝つのがわかっていたからね。
 だけど、日本だったら国賊扱いされるよ。
 「大事ものがあるから爆撃するなとは何事だ」みたいにさ。(近藤)
 
志賀さんの偉さをいまならどう見るかね
・「志賀直哉」さんという人は、本当に天然記念物でね。
 だから、いないですよ、あんな人は。
 それでね、「小林秀雄」に言わせると、志賀さんは、全然、本を読まない人だって。
 知識欲っていうのは、全然、何もある人にはないんだと言うのね。
 だけどね、やっぱりこう天然自然に、ひとりでに観察して、ひとりでに知っているもの
 は、大変だって言ってたね。(安岡)
・あの人、どっかの大名の家老か何かの出だよね。
 そういう良さもある人なんだな。(近藤)
・志賀さんのお祖父さんね、お祖父さんが相馬藩の家令だったの、明治になってからは。
 相馬藩っていうのは六万石しかない、小さな藩だよ。
 それで、お祖父さんが「二宮尊徳」の弟子なんだよ。
 二宮尊徳というのは、要するに当時の経済学者だからね。
 要は、そこでいろんなやり方で、農政経済をいろいろ勉強してきた人だ。
 けれども、志賀さん自身は、もう勉強っていうものは全然しない人だよ。
 僕らなんかよりしないんだよ。
 でもね、会うとね、「この人は違う人だ」ということは、明瞭にわかるね。
 だから、あれを真似することはできないよ。
 志賀さんを学んで、真似するなんて、それはできない。(安岡)
・近藤が、「先生は千人斬りを志したっていうけど、何人までやったんですか」なんて訊
 いたんだ。「いやあ、僕もそんなにはたくさん斬らないよ」って言ってたのを覚えてい
 るよ。(安岡)
・俺に言ったよ、しみじみと。
 志賀さんが言ったからよく覚えているけど、「あの道は怖いぞ」って。
 怖い思いをしたことがあるんじゃないかなあ、
 何か、あるだろ、志賀さんの小説で、大柄の女に夢中になっちゃって。(近藤)
・『山科の記憶』って短編でね。
 これは阿川が書いているけどね、そこで大柄の女に惚れちゃうんだよ。
 それは何かすごかったらしい。
・その経験だよ、「あの道は怖いぞ」っていうのは。
 でも、志賀さんて、立派な顔をしててさ、それで背も高くて、洋服や着物もよくて、
 とにかくみかけも立派なんだよな。(近藤)
・僕は志賀さんにね、「志賀さんのお父さんという人は、非常に偉い人だったそうですね」
 って、わざと言ったんだよ。
 そしたら、「あれは俗物だね」ってアッサリ言ってたよ。
 あの人は嫌いなんだ、自分の親父、絶対嫌いなの。(安岡)
・学習院では志賀さんが、だれよりも金持ちだったって。  
 親父さんが、実業家は実業家なんだろうけど、何よりも金儲けがうまかったんだな。
 それから、鉄道会社とかいろいろな会社の重役でね。
 だから、そんな人はつまんないって志賀さんは思ってたんじゃないの。
 でね、志賀さんの親父さんと不和だったからそうでもないだろうけど、志賀さんの弟で
 直三っていう人ね、この人は後妻にできた弟なんだけど、アメリカに留学して、やりた
 い放題、お金を使ったらしいよ。
 金は滅茶苦茶あるからね、学費は別にして、普通に使う生活費が当時の金で千円だって。
 で、女をやたらに買うんだ。(安岡)
 
・「丹羽文雄」さんは、いまね、気の毒でね、完全にアルツハイマーだから。
 しかも、十数年にもなるからね。(近藤)
・娘(本田桂子)さんが、四、五年前、丹羽さんの看護の日々を書いたよね。 
 あれは大変なことだと思った。(安岡)
・皮肉なもんでね。丹羽さんがよく「石坂洋次郎のとこは悲惨だ」って言ってたんだよ。
 自分がそうなるとはだれも思わないからねえ。
 石坂さんは、奥さんが先に死んで、ボケちゃって、伊豆のほうで療養してるらしいけど、
 娘さんが見舞いに行っても、だれだかまったくわからない。
 「あんな悲惨はない」って言ってたら、自分がそうなっちゃったんだから。
 わからんもんだね。世の中。(近藤)
 
病気に関してだけはデパート並みだ。いつも体のどこかに不発弾を抱えているような
気分ね

・人間って不思議だねえ。安岡なんか、よく生きたよね。(近藤)
・そうね。主治医にも呆れられてるよ。(安岡)
・戦争のあとの脊椎カリエスってたら、あんもん、絶対、ガンみたいなもんだよ、いまで
 言えば。結核菌が脊髄へ入っちゃう病気だよな。(近藤)
・うん、平たく言えば、背骨が腐っちゃう病気ね、虫歯みたいに。
 だから、痛いんだよ。(安岡)
・軍隊でもらってきたのか?(近藤)
・いや、僕はね、腹膜炎で現役免除になった。敗戦の一ヵ月前。  
 でも、ほら家は焼けてなくなってるしね、親戚の家を転々としてね、イモだのカボチャ
 を買い出しに歩いたんだよ。夏の暑い中をね。何十キロと背中にしょって。
 サナトリウムかなんかで、じっと静養なんかしていられなかったわけね。
 たぶん、その時、背中に痕がついたんだね。で、十月ぐらいから痛み出した。(安岡)
・痛い時は、もちろん起きていられないけどね。
 だけど、最初のうちは、起きてたよ。僕は、あれで。
 アスピリンっていうのは、何でも効くんだ。もう何百錠も飲んで。不思議なのは、あの
 何もない時代にね、アスピリンだけはたいていの薬局にあった。(安岡)
・何か野蛮な感じがするね。 
 ビタミン剤だって百錠も飲んだら気持ち悪くなるよ。
 で、医者には行かなかったの?(近藤)
・金がなかったから、いけないよ、医者なんかには・・・。
 だけど、ある時にね、背骨の真ん中あたりに瘤ができてるのに気がついて、初めて病院
 に行って診てもらった。 
 そしたら、背骨が潰れて変形して、外へ瘤みたいに出っ張ったんだって言うのね。
 で、このままにしておいたら、どんどん潰れちゃうって。
 それで、ひどくなると、背骨が奇形になるらしい。
 でね、そういうことを病院で言われただけでね、カリエスには安静しか治療法がないっ
 て言うの。あの時は憂鬱だったな。(安岡)
・医者は八年はかかるだろうって言ったよ。
 だけど、治るなんて僕自身とても思えないよ、あの痛さでは。
 いちばん痛い時は、もう動きたくとも動けないんだよ。
 こう飛び跳ねるようなね、何とも言えない痛さでね。それが一年以上続いた。
・俺もね、鵠沼の住んでた家の近くにね、小田急の江ノ島線が通ってたわけね、
 その小田急の電車が通ってる音が聞こえてる間にね、「あそこまで這っていけば、俺は
 死ねる」、それだけが救いだったよ。
 だけどね、虫歯でも膿が溜まると、神経が麻痺して痛みを感じなくなるだろ。
 あれと一緒で、カリエスもね、背骨の両脇に膿が溜まるんだ。ちょうどフットボールの
 球を抱えたぐらい溜まる。  
 すると痛みも感じなくなるわけね。
 で、その膿をね、近所の外科医まで何とか歩いていって、抜いてもらうわけ、畳針みた
 いな太い針でね。膿盆二杯ぐらい溜まってる。(安岡)
・この先生は親切で、無料でやってくれたわけね。
 週に一回ぐらいの割でやってもらった。
 それで、膿をとるとね、さすがに気分がよくなるんだ。(安岡)
・背骨ってとくに、神経が全部集まっているところだろ。
 その医者、うまかったんじゃねえかな。下手な医者にやられたら、生き残ったにしろだ
 よ、何か障害が残ったに違いないよ。(近藤)  
・いまになってみれば、俺もそういう気がするね。(安岡)
・カリエスって死んで当たり前の病気だろ?何でお前、助かったと思う?(近藤)
・いまにして思えばこの外科医の腕は大したものだったね。
 あの健康保険も何もない時代に膿を抜く治療を毎週、半年くらい続けてくれた。
 おかげで、膿はほとんど溜まらなくなった。
 それからこれね、いままでも、いろいろ考えたんだけど、結局は山羊に助けられたんだ
 と思う。
 近所に、山羊を飼っている人がいてね、その家の人はみんな山羊の乳が嫌いで捨ててい
 たんだ。それを僕はもらって飲みはじめたわけだ。それが絶好の栄養源になったと思う。
 それとやはり物を書く意欲、これが決定的に大きかった。
 書いていたらひとりでに治ってきた。(安岡)
・俺もね、普通はたいてい死んじゃうらしいな、ああいう急性大動脈剥離は。(近藤)
・近藤の場合は、まず絶対に運だよ。あんな幸運はそうあるもんじゃないよ。(安岡)
・そうだよな。でね、十時間近くかかって手術して、九十何パーセント死ぬやつを助けて
 くれたわけね、外山先生は。
 外山雅章先生は心臓外科のオーソリティーだったからね。(近藤9
・その手術から何年か経って、今度は足が壊疽になっちゃったのよ。
 足を切らなくちゃならないわけね、壊疽ってね。
 本当にそうなったら、これはどっかから跳び下り自殺でもしようかと思ったんだよ。
 で、亀田病院に行って診てもらったら、すぐに入院なの。
・で、外山先生がね、にやにやしながら病室に入ってきてね、「どれ、見せて」なんて言
 って、「ふーん、また私が手術しましょうかね」って言うから、「冗談じゃねえや、手
 術なんかしたくねえ」って言ったらね、「これは手術しなくても大丈夫」って言うんだ
 よ。あれは名医だよ。ぱっと見て、わかっちゃうんだから。(近藤)
・名医だね。で、壊疽はどうやって治したの。(安岡)
・点滴をばんばんして。要するに、脳梗塞ってあるだろ、その足梗塞なんだよ。
 「一日遅ければ切ってました」って言われた。(近藤)
・安岡も、五十代でいろいろな病気をしているよね。(近藤)
・病気に関してだけはデパート並みだ。いつも体のどこかに不発弾をかかえているような
 気分でね。(安岡)
・半年、入院したのは十四年前ね。
 その時は、胆嚢炎から心筋梗塞になったと教えられていたんだ。
 ところが、その八年後に、胆嚢で入院した時に、やっとわかった。
 最初の時もね、本当は胆嚢炎から心筋梗塞を起こして、それでもたもたしていたから敗
 血症にまでなっていたんだって。
 でもね、当の俺には、何が何だか、わかんないよ。(安岡)
・敗血症というのは、だいだい死んじゃうんだろう?(近藤)
・そう、死んじゃうんだ。すごい震えがきて、高熱を発して、体じゅうに黴菌が廻っちゃ
 うんだ。
 だいたい、胆石痛って滅法痛いんだよね。人によっては七転八倒するらしいよ。
 僕の場合、石ではなくて泥なんだ。
 で、二度目の時も、お腹が痛かったり震えがきたりで、内科にかかっていたんだけども、
 いろんな検査をしても原因がわからないんだ。
 そのうち熱が九度まで上がって、女房が、電話してね、「先生、九度の熱があるんです
 けど」って訊いたら、「ああ、お風邪だと思いますから、病院にいらっしゃるよりは、
 差し上げたお薬を・・・」って言ったらしいよ。
 それから一時間後、もうがたがた震えてきて、とまらない。
 救急車で行った時、それが敗血症の発作だったんだね。
 だけど、その時点ではまだ、敗血症だって言わなかったんだって。
 ところがね、翌日、外科のいま診てもらっている名医が来て、「安岡さん、手術しまし
 ょう、もう一回、同じとこを開けましょう」って言うのね。
 その八年前、半年もかかって、あれ、つらかったんだよ。
 で、「もう、いやだ」って言ったんだ。
 それで、女房が、昨日の、あれは何だったんですか、心筋梗塞ですか?」って訊いたら、
 「敗血症です」って言うんだよ。
 つまり、胆管に泥が溜まって、それが体じゅうまわっちゃって、多臓器敗血症を起こし
 たんだって。
 十四年前の時は、それ、言わなかったんだ。
 病院に着いて、その時は激痛だったのね。
 それが痛み止めの注射も打ってくれずにね、「お父さんの病名は何ですか、お母さんの
 病名は何ですか」って看護婦が訊いて、それに一所懸命答えているうちに心筋梗塞にな
 り、おまけにね、その場で小便をとれって言うわけ。
 何だかんだで三時間も経ってて、すごい震えがきてそれで敗血症になった。(安岡)
・前の手術がまずかったんだ。(近藤)
・うーん、胆泥はきれいにとれないらしい。だからまたいつなるかわからないんだ。
 いっそひと思いに死にたいよ。
 二度目の時の、若い四十代の先生は外科の名医だそうだ。
 この先生は優秀だし、人柄も抜群なんだ。(安岡)
・それは、四、五十代だよ。医者も、外科は。五十代半ばぐらいまでだね。
 手先のことだし、目もあるからな。(近藤)
・よくさ、「もう面倒くせえ、いいかげんに死にたいな」なんて思うよ。
 俺なんか、しょっちょう思う。
 で、そうやって考えているとね、突如としてね、表現できない寂寞感というのを感じる
 ね。それから恐怖感ね。あれはやはり本能だろうな、あれ、生き物のね。 
 だけど、もうねえ、いける屍みたいなのがいっぱいいるだろう、役にも立たない、えら
 い看護をやってもらって、そのために若い人は子供をつくれないだろ。
 これでいいのかなあって本当に思うよ。
 だって結婚したって、いま共稼ぎでさ、子供が生まれたって、それを預かってくれると
 こがないでしょ。
 子供のほうに、もっとどんどんお金を遣ってやらなきゃ、そりゃ、多老少子はどんどん
 ひどくなっていくよ。
 それで、そのまま進めば、滅んでいくよねえ。(近藤)
 
あとがき
最初にして最後の対談:近藤啓太郎
・私と安岡章太郎が作家として知り合ったのは、三十過ぎのときだから、今や五十年来の
 友達ということになる。
 しかし、私のあやしげな記憶ではあるが、今までにこんなに長い時間、安岡と対談した
 覚えがない。
 で、この対談は最初にして最後というわけである。
 とは言うものの、八十をすぎて呆けが相当進んでいる昨今の私のことだから、ひょっと
 すると一度くらいは対談をしているかもしれない。
・私が呆けを自覚したのは、七十半ばを過ぎた頃からだ。
 私は老い先の短さを感じて、近代日本画の総まとめとでもいうべきものを書く気になっ
 たのが、平成十年の春であった。
 書き始めてから三年半近く経っていて、あとわずかで五百枚ほどの原稿が完成する予定
 である。 
 四百字詰めの原稿用紙五百枚の作品に三年半近くかかっているわけだから、元来が遅筆
 の私のしても、今回ほど筆が進まなかったのは初めてである。
 これは要するに私が年老いて呆けが進行したからなのだ。
・遠藤周作が亡くなる一、二年前、電話をかけたとき、「この頃は原稿を一時間も書くと、
 頭はフラフラ、体はヘトヘトになる」と苦しそうな声で訴えていた。
 遠藤より三つ年上の私はまだそれほど弱っていなかったが、遠藤は糖尿病がかなり進ん
 でいたからであろう。 
・遠藤は結局、七十三歳で死亡、また、私より四つ年下の吉行淳之介は遠藤より二年早く
 七十歳で亡くなってしまった。吉行は二百枚余りの原稿を書き上げたとき、半死半生の
 状態であった。
・私は医師から体質が強いと言われ、大体、九十五パーセント以上は死んでしまうという
 急性大動脈解離で十時間以上の手続きをしたときも助かってしまった。
 が、いかに体質が強くても、命拾いした後は原稿を書くと、「フラフラ」「ヘトヘト」
 になる。
・その上、呆けが進んでいるので、ひどいときには一枚目に書いたのと同じことを四枚目
 に書いたり、先に書いた原稿用紙二十枚分をその後そっくりそのまま書いてしまい、読
 み返してそれに気がつくと、もうなんだか死んでしまいたいような気分になってしまう。
 つくづくとうんざりして、何もかも投げ出してしまいたくなる。
・さらに私は急性大動脈解離を患った三年後、右脚が壊疽になった結果、切断せずにはす
 んだものの、自由に歩けなくなり、すっかり元気がなくなった。