驟雨  :吉行淳之介

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この作品は、今から67年前の1954年の芥川賞受賞作のようである。
この作品の時代背景はいつ頃なのかよくわからないが、まだ赤線が存在していることから
考えると1950年代初期の頃なのだろうと思われる。赤線が廃止となったのは1958
年と言われている。そしてこの作品の舞台となったのは、東京の新宿二丁目の赤線地帯だ
と言われているようだ。
この作品の内容は、大学を出てサラリーマンになって3年目の男が、女性との恋愛するの
は煩わしいという考えを持っており、自分の性的欲求を満たすためには、娼婦の町(赤線)
通いをするのが、精神衛生上も一番よいと考えていた。しかし、なじみの娼婦ができて、
その娼婦のもとに通ううちに、その娼婦に愛情を持ち始めた自分の感情に戸惑うというス
トーリーだ。しかし、その感情は、愛情なのか、それとも所有欲(独占欲)なのか。なか
なか区別は難しいのではないかと私には思えた。それにしてもこの作品は、娼婦という立
場の女性の心情が、細やかに描かれており、すごいな作家だなと感じた。
なお、この作品のタイトル「驟雨」とは、にわか雨を意味するようだ。


・ある劇場の地下喫茶室が山村英夫の目的の場所だった。日曜日の繁華街は、ひどく混雑
 だった。夏の終りの強い日射しに慣らされた彼の眼に、店の内部はひどく薄暗かった。
・彼は自分の心臓に裏切られた心持ちになった。胸がときめくという久しく見失っていた
 感情に、この路上でめぐり逢おうとは些かも予測していなかった。これでは、まるで恋
 人に会いに行くような状態ではないか。
・その女を、彼は気に入っていた。気に入る、ということは愛するとは別のことだ。愛す
 ることは、この世の中に自分の分身を一つ持つことだ。そこに愛情の鮮烈さもあるだろ
 うが、わずらわしさが倍になることとして、それから故意に身を避けているうちに、胸
 のときめくという感情は、彼と疎遠なものになって行った。だから、思いがけず彼の内
 に這入り込んできたこの感情は、彼を不安にした。
・一カ月以前、彼は娼婦の町にいた。店頭に佇んでいる一人の女から好もしい感じを受け
 たので、彼は女の部屋に上がった。
・女は、しずかに湯呑を起こして茶を注ごうとしていた。急須を持ち上げた五本の指のう
 ち、折り曲げたままぐっとそらしてある小指に、女の過去の一齣が映し出されているの
 を彼は見た。 
・彼は、やや興味を惹かれた。しかし、それはこの町と女とのアンバランスな点に懸って
 いるので、女をこの地域の外の街において真昼間に眺めてみたら、その興味は色褪せる
 筈だ。むしろもっと娼婦らしい女の方がこの夜の相手として適当だったのだが、と遊客
 としての彼は感じはじめていた。
・やがて下着だけになって寝具の中へ入ってくる女の姿態には果たして、娼婦にふさわし
 くない慎み深い趣が窺われた。しかし、横たわったまま身を揉みながら、シュミーズを
 肩からずり落としてしまうと、にわかに女はみだらになった。
・鏡の前に坐って、みだれた化粧を直しながら、「また、来てくださいね」と女は言った。
 その声は、もはや彼の耳には娼婦の常套的な文句として届いた。そして、女の体は彼の
 気に入った。飽きるまでに、あと幾度かこの女の許に通うことになるだろう、と彼は思
 った。
・彼は、勤務先の汽船会社の仕事で、ちょうど翌日から数週間東京を離れなくてはならな
 かった。鏡の中で、女は彼を見詰めて言った。「旅行先からお手紙をくださいませんか」
 その教え訓すような口調は、例えば幼稚園の先生の類を連想させた。若い美しい保母の
 前に立たされている錯覚に、彼はふと陥った。
・ある湾の沿った土地の旅館で、彼は待ち合わせの日時を便箋に記した。地味な茶色の封
 筒を選んで、女の宛名を書きつけたが、そのとき、手紙を相手に届けるための事務的な
 符号として直ぐ彼の脳裏から消え、女の姿態だけが色濃く残った。
・地下喫茶室の入口が眼に映った。自分が書き送った一方的な媾曳の約束を、娼婦が守る
 かどうかということへの賭に似た気持ちが、このように心臓の鼓動を速くしているのだ、
 と彼は考えようとした。
・彼が地下へ降りて行ったとき、明るく照明された室内の片隅の椅子に、女はすでに坐っ
 ていた。指定の場所へ女が来たことが分かった後も、彼の感情のたかぶりは続いていた。
・「わたし、義理がたい性質でしょう」と、くすりと笑いを洩らして言った。
・山村英夫は大学を出てサラリーマン生活三年目、まだ暫く独身でいるつもりだった。明
 るい光を怖れるような恋をしたこともあったが、過ぎ去ってみればそれも平凡な思い出
 のなかに繰り入れられてしまっていた。
・現在の彼は、遊戯の段階からはみ出しそうな女性関係には、巻き込まれまいと堅く心に
 鎧を着けていた。そのために、彼は好んで娼婦の町を歩いた。娼婦との交渉がすべて遊
 戯の段階にとどまると考えるのは誤算だが、赤や青のネオンで飾られた戦後のこの町に
 佇んでみると、その誤算は滅多に起らぬ気分になってしまう。
・このような娼婦の町を、肉体上の衛生もかなり行き届いているとともに、平衡を保とう
 としている彼の精神の衛生に適っていると、彼は看做していた。
・この町では、女の言葉の裏に隠されている心について、考えをめぐらさなくてはならぬ
 煩わしさがない。
・その彼の心が、眼の前の女の言葉によって動揺させられていることは、彼にとっては甚
 だ心外な出来事なのであった。 
・最初、無表情を装っていた彼の眼は、いまは波立っている彼自身の内部を眺めはじめた
 ので、その視線は女の上に固定されてまま全く表情が窺われなくなった。
・「そんなに、じっと顔を見ては厭」その言葉で、外側に呼び戻された彼の眼に、女の白
 い顔が浮かびあがった。
・「どうして」「あなたとお会いしていると、恥ずかしいという気持ちを思い出したの」
・彼は次第に寛いだ気持ちになったつもりだった。みだらになったときの女の姿勢がふと
 脳裏を掠めた。「きみは面白い女だな。ぼくの友人たちを紹介しようか」女はにわかに
 口を噤んで、睫毛を伏せてしまった。寂しい顔がよく似合った。
・自分の言葉がフットライトとなって、女の娼婦という位置をその心の中に照らし出した
 ことが、女をにわかに沈黙させたのだ、と彼は気付いた。しかし、眼の前の女が彼一人
 の占有の叶わぬ、多くの男たちを送り迎えしている体であることを、今更のように自分
 自身に納得させようという気持ちも、その言葉の裏に潜んでいたのだ。そのことは、彼
 は気付くことが出来なかった。
・ふたたび訪れた沈黙を救おうとするように、女はゆっくりした口調で話はじめた。「こ
 ういうこと、どう考えますか。たとえば、わたしがあなたを好きだとしてね、あなたに
 義理たてて、次にお会いするときまで操を守っておくことができるかどうか、というこ
 と」
・操を守っておく、という表現の内容はすぐにはわからなかった。娼婦の場合、それはオ
 ルガスムスにならぬようにする、と考える以外には解釈のしようがなさそうである。
・娼婦には、唇をあるいは乳房を神聖な箇所として他の男に触れさせずに、愛人nために
 大切に残しておく例がしばしばある。しかし、オルガスムスをとって置くということは、
 娼婦の置かれている場所が性の営みに囲繞されているだけに、彼の盲点にはいっていた
 ようだ。
・「そんなことは出来ないだろう」「そう、やっぱりあなたはオトナね。だから好きよ」
 あなたが好き、女のそんな言葉がまたしても彼の心にひっかかってくる。彼は膨れ上が
 ってくる想念に捉われはじめた。
「操を守ってもらうような男にはなりたくない」と呟くと、口説かれた女が巧みに相手を
 そらすように、女はかるく笑って、言った。「あら、ずいぶん取り越し苦労をしてるの
 ね」その言葉は彼を不快にした。
・彼は、もう一度、女をはっきり娼婦の位置に置いてみなくてはならぬ、と考えた。女を
 ホテルに誘って、その体を金で買ってみよう。
・彼はそのとき、女の眼が濡れた光におおわれているのに気付いた。巧みに相手をそらす
 ような言葉とは釣り合わぬものが、その光にある。恋をしている女の眼の光に似ていた。
・女は彼の視線に気付き、軽く唇を噛むと下を向いて乱れた呼吸をととのえていたが、急
 に顔をあげると笑い声をたてた。しかし、その笑い声は不意に消えて、ふっと寂しい表
 情が女の顔を覆った。その顔を見て、喉もとまで出かかっていた誘いの言葉が、彼の唇
 でとどまった。このとき彼は、相手が体を売る稼業の女であることが、かえって女をホ
 テルへ誘うことをためらわせているのを感じていた。
・ともかく戸外へ出よう、と彼は思った。女を促して立ち上げると、裏の出口へ向った。
 喫茶室の内部あら視線も遮られている人気のない階段の下に佇んだ女は、彼の顔をちょ
 っと窺い、小走りに一息に駆け上がってしまった。彼がゆっくりと昇ってゆくのを待っ
 て、「今度お会いするまで、わたし、操を守っておくわね」と囁くと、微笑を残して急
 ぎ足に去っていった。取り残された彼の心に、このときはっきりと、「道子」という女
 の名が、ぽっかりと彼の瞼に浮かびあがってきた。 
・晩夏から秋が深くなるまでの約一カ月半の間、山村英夫はかなりの回数の朝を、道子の
 部屋で迎えた。そのために必要とした兼ねの遣り繰りのために、彼は月給の前借りをし
 たり、曾祖父から伝わった銘刀を金に替えたりした。
・だが、無理な金を作って女に通ったという事実は、動かせないものである。そして、そ
 れはすべて、あの日曜日の別れ際に道子が囁いた「操を守っておく」という言葉の所為
 だ、と彼は考えようとした。
・道子がこの店へ来てから、すでに二年間が経っている。一方、女たちの移り変わりは激
 しいので、彼女はこの店の最古参になってしまった。
・道子の部屋に止まった翌朝は、彼は一層怠惰な会社員になり、彼女とともに朝の街へ出
 てコーヒーとトーストを摂ってから、十一時近くに出社する。
・喫茶店の椅子に坐ったときには、道子の口はほぐれて、「はやくこの商売から抜け出し
 たい」と語りはじめた。「ママさんにはね、どこかの支店を委せるからやってみないか
 って、言われているのだけど、どうせ廃めるのならキッパリ縁を切りたいの。貯金がも
 っと出来たら、花屋さんをやろうかと思っている」と言って、彼女はいつもの華やかな
 笑い声をひびかせた。
・彼の耳に、ふたたび道子の声が聞こえてくる。「一度廃めたら決して戻って来ないよう
 にしたい。廃めたひとたちの殆んど全部が、また戻ってきていますものねえ。そんなこ
 とになったら、わたし、自分に恥ずかしいの」
・すっかり脂気を洗い落してしまった彼の髪は、外気に触れているうちに乾いてきて、バ
 サバサと前に垂れ下がり、以外に少年染みた顔になった。その様子をみた道子の唇から、
 「はやく、あなたに可愛らしいお嫁さんを見つけてあげなくてはね」という言葉が出て
 いった。
・しかし、道子は「可愛らしいお嫁さん」を見付けられる環境には置かれていない。その
 言葉には、山村英夫という特定の男が良人である必要はないにしても、彼女自身が花嫁
 とという位置に立つことへの願望も秘められていたのではなかったか。
・山村英夫の耳には、この言葉は愛の告白のようにひびいた。彼の心は、はじらい、たじ
 ろいだ。その間隙に不意に浮かび上がったものがある。「そういえば、明日は友人の婚
 礼で、僕も出席するわけだった。それもなるべくモーニングを着てという次第だ」脳裏
 に浮かんだこの光景は、彼の顔に曖昧な苦笑を漂わせた。
・その笑いを見て、道子は言った。「あら、あなが、もう奥さんがおありになるのね」
 彼はおどろいて、女の顔を見た。女の眼には濡れた色があった。 
・女の眼の涙は、彼を誤解させた。たやすく体を提供するだけに捉え難い娼婦の心に、こ
 のとき触れ得たという陶酔に似た気持ちが彼の胸に拡がっていった。甘い響きをもった
 声が、彼の唇から出て行った。「バカだな、僕はまだ独身だよ」
・道子は不意を打たれた顔になった。輝くはじめた女の瞳をみて、彼の心は不安定なもの
 に変わっていった。
・道子の傍で送ったその一夜は、夢ばかり多い寝苦しいものだった。その夢のひとつで、
 彼は道子を愛していた。それまで道子が娼婦であることが彼の精神の衛生を保たせてい
 たのだが、ひとたび彼女を愛してしまったいまは、そのことが総て裏返しになって、彼
 の心を苦しめにくるのだった。
・「はやくお顔を洗っていらっしゃい」ずっと以前から道子という女とこのような朝を繰
 返している錯覚に、彼は陥りかかった。しかし、階上の洗面所から再び部屋に戻って、
 乱れている髪を整えようと、櫛を探すために鏡台の引出しを開けたとき、そこに入って
 いたものが彼の眼を撲った。使い古した安全剃刀の刃が四枚、重なり合って錆びついて
 いるのだ。その四枚の剃刀の刃から、数多くの男の影像が濛々と煙のように立ち昇り、
 やがてさまざまの形に凝結した。道子に向かってあるものは腕をさしのべ、あるものは
 猥らは恰好をした。
・道子は、駅まで送ってくる、といった。途中、繁華街に並行した幅広い裏通りの喫茶室
 に、二人で立ち寄った。窓際に席に一足さきに歩み寄った彼は、光を背にした位置を占
 め、前の椅子に道子のくるのを待った。前の椅子の背には、日光がフットライトのよう
 に直射していた。何気なく、道子が彼と向かい合って腰をおろしたとき、明るい光が彼
 女の顔をさっと正面から照らし出した。
・彼は企んでいたのである。皮膚に澱んだ商売の疲れが朝の光にあばきだされて、瞭かな
 娼婦の貎が浮かびあがるのを、彼は凝っと見つめて心の反応を待っていた。
・眩しさに一瞬耐えた道子の眼と、彼の眼が合った。彼女は反射的に掌で顔を覆い、その
 姿勢のまま彼の傍に席を移すと、ゆっくりと腕をおろし、やがてハンカチでかるく顔を
 おさえながら「こーひーをちょうだい」と、低い声で給仕に呼びかけた。
・背けた視線を窓の外へ向けた彼は、道子が彼の企みに気付いたのかどうか、思いをめぐ
 らしていた。そのとき、彼の眼に、異様な光景が映ってきた。道路の向こう側に植えら
 れている一本のアカシヤから、そのすべての枝から、夥しい葉が一斉に離れて落ちてい
 るのだ。風は無く、梢の細い枝もすこしも揺れていない。葉の色はまだ緑をとどめてい
 る。それなのにはげしい落葉である。それは、まるで緑いろの驟雨であった。 
・彼は街に出て、映画を一つ観た。その外国映画には、キラリと閃る鋭さを地味な色合い
 の厚い布でおしつつんだような演技を示す女優が主演していた。その女優が道子に似て
 いると、彼は以前から思っていた。
・午後十時。彼が道子の娼家へ着いたとき、彼女の姿は見えなかった。呼んでもらうと、
 暫くして横の衝立の陰から道子の顔があらわれた。体は衝立のうしろに隠して、斜めに
 のぞかせた顔と、衝立を掴んだ両手の指だけが彼の眼に映った。ちらりと現われた片方
 の肩からは、慌てて羽織った寝巻がずり落ちそうになっていた。
・道子は、囁くような声で言った。「いま、時間のお客さんが上がっているの。四十分ほ
 ど散歩してきて、お願い」それから彼の顔をじっと見詰めて、曖昧な笑いを漂わせなが
 ら、「ほんとうは、今夜は具合が悪いんだけど、わたし、疲れてしまったの。さっき、
 自動車で則つけてきた人が、ホテルへ行こうというの。初めての人だったけど、面白半
 分、行ってみたらねぇ、・・・とても疲れちゃったの。だって、あなたが来るとは思わ
 なかったんですもの。今朝、お別れしたばかりだったから」
・この四十分間の散歩ほど、彼のいわゆる「衛生」に悪いものはなかった。縄のれんの下
 がった簡易食堂風の店に入って、彼はコップ酒と茹でた蟹を注文し、そこで時間を消そ
 うとした。しかし、蟹の足を折りとって杉箸で肉をほじくり出しているうちに、自分の
 心に消し難い嫉妬が動いているのを、彼は鮮明に感じてしまった。それは明らかに、道
 子という女を独占できないために生じたものだった。道子を所有してゆく数多くの男た
 ち。彼女の淑かな身のこなしと知的な容貌から、金にこだわらぬ馴染客も多いそうだ。
・この場に及んでも、彼はその感情を、なるべく器用に処理することを試みた。「嫉妬を
 飼い馴らして友達にすれば、それは色ごとにとってこのうえない刺戟物になるではない
 か」
・酔いは彼の全身にまわっていた。もぎ取られ、折られた蟹の脚が、皿のまわりに、ニス
 塗りの食台の上に散らばっていた。脚の肉をつつく力に手ごたえがないことに気付いた
 とき、彼は杉箸が二つに折れかかっていることを知った。