砂の上の植物群  :吉行淳之介

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この作品は、いまから58年前の1963年に発表された作品である。翌1964年には、
映画化もされているようだ。
この作品のあらすじは、化粧品セールスマン伊木一郎が、ある夜マリンタワーの展望台で
見知らぬ少女に声をかけられる。その少女の真赤な口紅が印象的だった。少女は自ら伊木
を旅館に誘った。裸身の少女は想像以上に熟れていたが、いざとなると拒み続けるのだっ
た。二人は名も知らずに別れた。
一週間後二人は再び展望台で出逢った。今度は伊木が少女を誘った。少女は苦痛をうった
えながらも、伊木の身体をうけ入れた。少女はその夜はじめて名を名乗った。津上明子と
いう高校三年生だった。
明子の姉京子は、バーのホステスをしていた。親代りの姉は、明子に女の純潔についてや
かましかった。が、自らは昼日中から男とホテルにいりびたっていた。明子はそんな京子
を激しく憎み、伊木に姉をひどい目にあわせてくれとたのんだ。
こんな内容で展開する作品なのだが、この作者には、どうも加虐性愛の傾向があるようだ。
この作者には女性嫌悪・女性蔑視の思想があると指摘している識者もいるようだ。しかし、
そんな作者であるが、女性にはずいぶんとモテたようだ。女が放って置けなかったのだろ
うか。そういう点では、太宰治と似たところがあるのではないかと思った。
この作者の母親は、「吉行あぐり」という日本の美容師の草分け的存在と言われており、
1997年のNHK連続テレビ小説「あぐり」の主人公その人である。このような伝説的
な人物を母親に持ったこの作者は、立派過ぎた母親のために、女性に対する反発心をずっ
と持ち続けて育ったのであろうか。
そう考えると、この作品の姉の京子とその妹の明子との関係は、母親とこの作者の関係に
似ていたのではないかと思えた。
ところで、この作者はこの作品で、いったい何を言わんとしたのか。凡人の私には、なか
なか理解が難しい内容の作品だった。


・港の傍に、水に沿って細長い拡がっている公園がある。その公園の鉄製ベンチに腰をお
 ろして、海を眺めている男があった。
・男は、化粧品のセールスを仕事にしている。


・彼の心に浮び上がってきたのは、一つの推理小説の着想である。書けるものなら、書い
 てみたい、と彼は思った。定時制高校の教員をある理由でやめて、化粧品のセールスを
 はじめた頃だった。


・彼が定時制高校の教師をやめ、化粧品のセールスマンになったのは、父親の死後十八年
 のことだが、彼は自分を操る幻の手を感じた。
 

・その日、早朝、不意に井村誠一から電話がかかってきた。学生時代の友人だが、長い間
 逢っていなかった。
・「木暮が死んだよ」「病気か」「事故だ。山で遭難した」木暮の頑丈な体格を、彼は思
 い出した。学生時代、木暮は山岳部に入っていた。
・当時、しばしば井村と一緒に木暮の家に遊びに行った。木暮と交遊があったのはその陽
 気で人付き合いの良い性質のためもあった。だが、それだけではない。
・学生時代にしばしば木暮の家を訪れたのは、木暮に会うことよりも、むしろその美しい
 妹の姿を見るのが愉しみだった。木暮の妹の恭子は、木暮と違って華奢な体つきで、性
 質も内気でむしろ陰気だった。木暮の家では、恭子は茶や菓子を運んでくるだけで活発
 に会話を交わしたこともなかったが、時折そのまま椅子に坐って控え目な笑顔を示して
 いることがあった。
・卒業してからは、木暮と疎遠になった。やがて、恭子が結婚したという噂を聞いたが、
 いずれにせよ通夜で恭子の姿を見ることができるわけだ、と彼は思った。
・家の中には沢山の客がいた。見覚えのある顔を幾つかあったが、恭子の姿は見あたらな
 い。見知らぬ女が、酒肴の世話をして立ち働いているのが目立った。木暮の細君だろう、
 と彼は思った。異常に膨れ上がったというのがふさわしい体に似合わず、身軽に動きま
 わっていた。 
・その女が近づいてきた。「伊木さん・・・」彼の名を呼んだ女の眼に、悲しみの色があ
 った。
・「突然のことで・・・」鄭重に頭を下げたが、その女が彼の名を知っていることを怪訝
 に思う表情になった。
・「わたし、恭子ですわ」一瞬呆気に取られて、彼は目の前の女を眺めた。記憶にある恭
 子の二倍の容積はあったし、陰気な翳は少しも無くなっていた。
・「ずいぶん前に、結婚なさったという噂は聞いていましたが」「それが、主人は亡くな
 りましたの。そしたら、急に肥り出してしまった・・・」
・「やはり、気になるか」「やはりね。ぼくは恭子さんに惚れていたんだ」 


・目の前に、塔が立っていた。塔の胴の中を、黄色く燈をともした昇降機が、上下してい
 るのが見えた。最近建てられた観光塔なのである。塔に昇ろうと、彼は思った。
・展望台は閑散としていた。全部の観覧客が昇降機に吸い込まれ、彼一人が残される時間
 もあった。 
・二人連れの若い男女が、昇ってきた。女が歓声をあげ、その声が彼の耳になまなましい
 肉感をもって這入りこんできた。その男女は、新婚と思えた。絶え間なく動いている女
 の唇だけが、目立っていた。その唇にも、血にまみれたように口紅が塗られてあった。
 女というものの抵抗できぬ逞しさを示しているようにもみえ、見知らぬ動物の発情した
 性器のようにもみえた。
・彼ははげしい徒労を覚えた。一日中、神経と靴の底を擦り減らして化粧品を売り込みに
 歩くことで、彼はたしかに自分自身の生活費を稼ぎ出している。しかしそのこと以外に
 は、その仕事は何の意味もないように思えた。
・またしても彼は体の中に突き上げてくるものを覚えた。憤怒に似た感情だが、はっきり
 正体を捉えることができない。 
・塔を降りよう、と彼は思った。エレベーターの前に立って、待った。エレベーターは苛
 立たしくゆっくりとした速度で昇ってきた。目の前で扉が開くと、少女が一人だけ出て
 きた。紺色のセーラー服に似た洋服を着て、女子高校生の年頃である。白粉気のない薄
 桃色の顔はうぶ毛で覆われているようにみえた。しかし、その唇は口紅で真赤に塗られ
 てあった。


・「余計なことだと思うわ」口紅で真赤になった少女の唇が、伊木一郎の眼の前で動いて、
 その言葉が出てきた。彼は無意識のうちに、その少女に言葉を投げつけていたことを知
 った。おそらく、咎める口調で「高校生まで、口紅を塗ることはないだろう」とでも言
 ったのだろう。
・彼に冷静さが戻ってきた。当然、彼は川村朝子の濃く塗られた唇を、眼の前の少女の唇
 から連想していた。川村朝子とは、彼が定時制高校の教師を辞める原因になった少女で
 ある。
・それは、少女自身のために付けた口紅なのだ、という意味のことを、少女は言った。
 「思い切り、毒々しく塗るの」と言い、余計なことを言った、という表情が覗いて消え
 た。
・少女と会話しながら、彼は四年間という歳月について考えていた。四年前、川村朝子と
 対い合っているときには、怯えに似た感情が動いた。現在のような調子では、会話は進
 まなかった。それは彼が川村朝子に特殊な感情を持っていたせいもあろう。
 

・四年前、死んだ父親の幻の手が、伊木一郎の背をじわじわ押して、川村朝子の前に押し
 出した。その幻の手は彼の背をとんと突き、彼はそのまま川村朝子の胸もとに倒れかか
 った。

十一
・彼が定時制高校を辞めることになったのだが、それは噂のためだ。ただ噂だけのためで、
 辞職を勧告されたわけではない。探る眼、咎める眼、嘲ける眼、好奇心に光る眼、たく
 さんの眼が彼を追い詰め、居たたまれなくした。
・彼のしたことといえば、烈しく躊躇しながら、川村朝子のいる居酒屋に通っただけのこ
 とだ。彼女はその家の娘で、店の仕事を手伝わされるのを嫌って、夜学に通っていると
 いうことだった。しかし、夜学から帰ると、店で働かされていた。彼は毎回、ことあた
 らしく躇らいながら、川村朝子のいる居酒屋に出かけていった。
・川村朝子のことで、彼の記憶に残っているのは、その真赤な唇だけである。最初、彼女
 のいる店に足を踏み入れたとき、彼の予想では、川村朝子は白粉気のない顔でぎこちな
 く店の隅に佇んでいる筈であった。しかし、彼女は真赤に唇を塗り、身軽に店の中を歩
 きまわり、物慣れした酒場女のような口をきいた。平素よりももっと、可愛らしい愛嬌
 のある顔になっていた。いかにも人工的な趣がつきまとっていた。そして時折、ひどく
 成熟した、むしろ四十女といってよい表情が、その顔に現われる瞬間があるように見え
 た。
・真赤に塗られた唇を眺める彼の眼には、不可解な色、一種怯えに似た色があった。そし
 てその色が消え去らないうちに、噂が立った。
・彼は辞職し、以来、川村朝子の店へ足を向けることができない。山田理髪師が、彼に化
 粧品セールスの仕事を斡旋した。

十二
・「コーヒーでも飲みに行こう」「コーヒーなんて嫌。お酒を飲みに行きましょう」彼は
 黙って歩き出した。少女は、並んでついてくる。「お酒を飲みましょうよ」少女がもう
 一度言い、彼はふたたび立止まって、少女の顔を眺めた。眼に濡れた光があり、大人の
 顔になっていた。
・「きれいな子だな」と彼は思い、改めて尋ねてみた。「君、本当に高校生か」「高校三
 年よ」「仕方がない。酒を飲みに行こう」
・スタンド・バーに少女を連れて行って、空はウィスキーを飲みはじめた。少女はすぐに
 酔い、椅子に坐ったまま陽気に笑い、茫然とした時間が挟まり、また陽気に笑うことを
 繰返した。彼も酔い、間の前の少女の顔が赤い唇だけになり、その唇と川村朝子の唇が
 重なり合い、時折川村朝子のものと摩り替った。
・間の前に大きく拡がっている赤い唇にたいして、その不可解さにたいして、凶暴な気持
 ちが起こり、一瞬、襲いかかる姿勢になった。
 
十三
・誘ったのはむしろ、少女の方である。そして、彼がその誘いに応じたのは、凶暴な襲い
 かかる気持ちの余韻が残っていたためといえる。しかし、犯している気持ちは、少しも
 彼には起こらなかった。
・旅館の一室で、少女は一瞬の間に裸体になった。古い征服を改造したものと思われる紺
 色の外出着を脱ぎ捨てると、もう少女は居なくなった。剥き出しになったのは、重たく
 熟した女の体だった。大きく膨らんだ乳房に、濃い口紅がよく似合った。
・一瞬、女の顔に子供っぽい表情が現われかけたが、それはすぐに消えた。暗い、侮辱を
 受けたような光が眼に浮び、烈しく体を押し付けたきた。その誘いに応じようとすると、
 女の体はぎこちなく強張り、頚の付け根から両肩一帯に堅く力がこもった。その部分を
 解きほぐすように、彼は軽く指先で叩いたが、それは反射的な仕業で、すでに彼は体内
 に衝き上げてくるもののために余裕を失っていた。彼の指でなだめるように叩かれた女
 が、戸惑った恥じらうような笑いを見せたときも、その笑いの意味を深く考える余裕は
 なかった。
・彼が女の片腕を、頭上に押し上げて、露わになった腋窩に唇を押し当てようとすると、
 女は烈しく拒んだ。肩をすぼめて、肘を脇腹にめり込ませて拒んだ。彼は、女の大きく
 膨れた乳房を眺め、爪を立て、ふたたび片腕を押し上げはじめた。
・執拗に、彼はその試みを繰返し、ついに女は大きく頭を持ち上げた腕の畳の上に落とし
 た。そこに脱ぎ捨ててあった肌着を五本の指が掴むと、その腕は硬直して動かなくなっ
 た。体も、少しも揺るがない。女の動作に異常なものを感じ、彼は軽くその体を揺すぶ
 って、尋ねた。「どうしたんだ」「どうしたのかしら」女は困惑した笑いを見せて、言
 った。「いつもと違うわ」
・やがて、女の体から離れて、彼は便所に行った。部屋に戻ってきたとき、女は蒲団の上
 に坐り、背をかがめていた。指先で、しきりに敷布の一部分を擦っている。赤い色が、
 染みついていた。女は、指先に唾をつけて、その赤い色の上を擦っている。その作業に
 熱中していて、彼が戻ってきたことに気付いていなかった。
・「まさか」と、彼は呟き、眼を凝らした。その女の姿態は、女から少女に戻っていた。
 と同時に、なまなましく女を感じさせるものでもあった。隠れずに傍に立っているのに、
 覗き見しているような気分があった。彼は無意味な音を立ててみた。狼狽した気配が、
 あきらかに動いた。いそいで、少女は赤い色の上に坐った。
 
十四
・紺色の手製の洋服に体を包み込むと、少女は街の中に姿を消した。少女を犯したという
 感覚は、しばらく経ってから、ゆっくりと彼の中に拡がっていた。
・敷布に付いた赤い色は、出血にちがいないが、どういう種類の血だったのか。「いつも
 と違うわ」という言葉は、自分が少女であることを恥じての苦しい嘘だったのだろうか。
・いったい、少女であることを恥じるという心の動きが、あるものだろうか。まだなまな
 ましい記憶の断片と、いくつかの疑問が積み重なってゆくうちに、犯した感覚がしだい
 に彼の中に拡がっていった。しかし、それは罪悪感とか責任感には繋がらなかった。
・喫茶店の椅子の上で彼の体はこまかくゆれ動いた。ふたたび、憤怒に似た感情が、彼の
 底から湧き上がってきた。彼の眼に映ってくる外界の風景にも異変が起こりはじめた。
 ガラス窓の外を通り過ぎてゆく通行人の中に、時折、動物の姿が混ざりはじめたのであ
 る。 
・赤茶けて色褪せたたてがみを、使い古し擦り減った歯ブラシのように短く立てて歩いて
 いる動物がいる。顎の下から咽喉にかけて余った厚い皮がゆったりと垂れさがり、色艶
 のよいその皮が波打つようにだぶついている動物がいる。血をしたたらせながら、咽喉
 の奥で声をたてて走り過ぎてゆく動物がいる。あるいは、桃色に膨れ上がった局部をふ
 さふさした美しい毛並みの間から見え隠れさせて歩いてゆく動物もいる。
・彼は立ち上がって、藍色のトランクを持ち上げた。肩に重みがかかり、その重さが一日
 の労働の記憶を喚び起こした。絶え間なく動きまわるのだが、豊かな実りに繋がらない
 その動きが、虚しさを誘い出した。なにかが、また体の中で爆ぜた。そのトランクを投
 げ出す考えが頭を掠めたが、彼はかえってその把手をしっかりと握り締め、いまガラス
 窓の外を通り過ぎた動物のあとを追った。
・前をゆく両脚のあとを追った。藍色のトランクを提げた片方の肩をいからせて追いつづ
 けた。不意に、前を行く動物が歩みを止め、振り向いた。「何か、ご用ですの」女の声
 が聞こえ、彼の前に人間の女がいた。盛装した人妻風の女で、咎める眼で、彼を見てい
 る。しかし、その眼の奥にはおそらく彼女自身も気付いていない、媚びがあった。
 
十五
・翌朝八時頃、伊木の家の門口で訪れる声がした。男の声である。三和土の上に、若い警
 察官が立っていた。「伊木一郎さんですね」
・少女を犯したという感覚が、あらためて彼の中に拡がった。しかし、あれは法律に触れ
 る形で、犯したわけではない。合意の上でのことだ。それに、少女は彼の住所を聞こう
 とはしなかった。そのあと、彼は長く舌を垂らして、盛装した人妻風の女を追った。そ
 れは痴漢の姿だったかもしれないが、何ごとも起こりはしなかった。
・「井村誠一という男を知っていますね」「井村がどうかしましたか」「本署に留置され
 ています。あなたを身柄引受人に指名したという連絡がありましたので、本署まで行っ
 てもらいたいのです」
・井村誠一は、寝不足の腫れぼったい顔で、椅子に坐っていた。井村は黙って苦笑してみ
 せた。「どうしたんです」彼は本署の中年の警官の方を向いて尋ねた。「強姦未遂です」
 
十六
・「運が悪かった。いや魔がさしたんだ」「社用で酒を飲んでね。家へ帰る電車の中で、
 ふと木暮の命日だったことを思い出したんだ」
・強姦未遂、という言葉を、伊木は思い浮かべた。命日を思い出して、木暮の家へ行く。
 木暮の妹恭子に会う。恭子の夫は亡くなっており、恭子井村が学生の頃あこがれていな
 女だ・・・。
・しかし、井村の説明は全く違っていた。電車の中は、そう混雑していたわけではない。
 井村は窓際に立っていた。傍に人妻風の二十七、八歳にみえる女性が立っていた。彼は
 木暮の命日を思い出し、つづいて木暮恭子のことを思い出した。青春の日々のことが、
 鼻の奥に淡い揮発性の匂いを残して掠め去って行った。その瞬間から、傍の女の存在が、
 強く意識されはじめた。それも、きわめて部分的な存在として。
・いつの間にか、彼は青春の時期に井村誠一になっていた。肘を曲げて、軽く女の腕に触
 れてみると、女は体を避けようとしない。さらに深く曲げた肘で、女の横腹を擦り上げ
 るようにして、乳房を下から持ち上げた。身を堅くした気配が伝わってきたが、相変わ
 らず女は体を避けようとしない。乳房の重さが、ゆっくりと彼の肘に滲み込んできた。
 次の瞬間、彼はその肘を離し、躇うことなく、女の腿に掌を当てて押し当てた・・・。
・「大学生の頃、僕はずいぶん痴漢的行為をやったものなんだ。誰にも言わなかったけれ
 ど。いや、その行為が僕の青春だったともいえる」「しかし、君は内気だったのにな」
 「内気だから痴漢になる。気持ちが内攻して、極点に達したとき、突然痴漢に変貌する
 わけだ」
・女は元の位置を少しも動かず、井村の掌は女の腿に貼り付いている。女も井村も、戸外
 に向いて窓際に立っていた。掌の下で、女の腿が強張るのが感じられた。衣服の下で熱
 くなり、一斉に汗ばんできている皮膚を、彼は掌の下に思い描いた。
・窓硝子に映っている女の顔を、彼は眺めた。黒く濡れて光っている眼球と、すこし開い
 たままになっている唇の輪郭だけが、硝子の上に残っていた。その眼と唇をみると、彼
 は押し当てている掌を内側に移動させていった。女は押し殺した溜息を吐き、わずかに
 体を彼の方に向け直した。その溜息と体の振り方は、あきらかに共犯者のものだった。
 
十七
・大学生の頃、井村がしばしば体験した状況になったのである。不思議におもえるほど、
 女たちは井村の掌から体を避けようとしなかった。一度だけ、手首を掴まれて高く持ち
 上げられたことがあったが、それ以外は女たちは井村の掌を避けようとはせず、やがて
 進んで掌に体を委ねた。
・当時、井村誠一は童貞であった。彼は掌に全神経を集め、その掌に未知なるものへの憧
 れを籠め、祈りさえ籠めて押し当てた。そして、掌に当たる小部分から、女体の全部を、
 さらには女性という存在全部を感じ取ろうとした。彼女たちが体を避けようとしなかっ
 たのは、彼の憧れを籠めた真剣さ、むしろ精神的ともいえる行為に感応したためか。
・あるいは、誰にも知られることのない、後腐れのない、深刻で重大な関係に立ち至るこ
 ともない、そういう状況の中で快楽を掠め取ることには、もともと多くの女性は積極的
 姿勢を示すのであろうか。 
・女が電車を降りるとき、不意に井村もつづいて降りる気持ちになった。彼の掌の下で熱
 した皮膚と、押し殺した溜息を思い浮べ、夜道を女の後から歩いて行った。
・足音が二つになると、不意に女は走り出した。釣られて、彼がおもわず走り出したとき、
 女は赤い軒燈の家に飛び込んだ。替わりに警官が走り出してきた。赤い軒燈は、交番の
 しるしで、井村は逮捕されてしまった。
・「この男です。この男に、強姦されかかったんです」女は昂奮状態にあった。
・朝になって、女から申入れがあった。夜道で男にあとをつけられたので、恐怖のあまり
 幻覚を起し、と女は言った。 
・井村誠一が夜道を女のあとから歩いて行ったと同じ時刻に、あるいは自分も藍色のトラ
 ンクの重たさに肩をかしげながら女の後を追っていたかもしれぬ。
 
十八
・その日、夕暮になったとき、俄かに伊木は前日の少女に会いたくなった。白粉気のない
 うぶ毛に覆われたようにみえる顔と、輪郭からはみ出るほどに真紅に塗られた唇。高校
 生の征服に似た紺色の洋服と、その下から現われるにくにくしいまでに大きく熟した乳
 房。余裕と媚びを示す笑顔と、生硬な身のこなし。そういう不均衡がしきりと彼を誘っ
 た。しかし、その日は、彼は自制した。
・次の日になると、誘うのは少女の体だということに、彼は気付いた。少女の不均衡が彼
 の精神を刺戟してくるのではなくて、もっと端的に、少女の体を求めている。
・その日の夕暮から、彼は計画的になった。藍色のトランクを駅の一時預かり所に置いて、
 観光塔に登った。三日目、少女は塔の上にいた。
・彼は少女の腕を掴んで離さず、誘いつづけた。少女は体を避けようとして、二人は揉み
 合ったが、彼は掴んだ腕を離さない。不意に少女は温和になり、頷くと彼に体を寄せて
 歩き出した。
・旅館の玄関に立って、案内を乞うと、遠くで返事だけあってなかなか人影が現れてこな
 かった。少女と並んで三和土に立って待っている時間に、彼は少女の体に詰まっている
 細胞の若さを感じた。

十九
・部屋に入ると、また少女は抗いはじめた。少女の二つの肩に彼は左右から掌を当て、そ
 の体を挟み付けるようにして引き寄せると、少女は顔を背けて、首を左右に振りつづけ
 た。
・少女の眼から、涙が流れ出した。「なにも泣かなくたって、いいじゃないか。子供じゃ
 あるまいし」苦笑しながら そう言い、こういうときに苦笑できる自分に、彼はもう一
 度驚いた。
・そのとき、彼の両方の掌で挟み込んでいた少女の体がにわかに柔かくなり、「分かった
 わ、もう帰るとは言わない」この前の時と同じように、少女は自分で衣服を脱ぎはじめ
 た。しかし、この日は脱ぎ終わるまでに時間がかかった。また、前のときには、裸体に
 なった瞬間、少女が消えて重たく熟した女の体が現われたが、いまは彼の眼の前から少
 女が消えて行かなかった。
・少女はしばらく凝っと動かなかったが、体を伊木の方へ向けると、言った。「名前を教
 えてください。あたしは、津上明子です」 
・「伊木さんには分かったでしょう。あたしが男を知らなかったこと。重荷になる理由が
 あるのよ。はやく無くしてしまいたかった」津上明子は、入り組んだ気持ちを、自分で
 もときどき迷いながら説明した。
・十八歳の娘からみれば、四十近い男は、父親であっても不思議のない存在にみえる。明
 子は、伊木に男を感じなかった。いや、男を感じないというよりも、自分が恋愛したり
 結婚を考えたりする対象とする男たちとは、異なる範囲にいる男と言った方がいい。明
 子にとって、伊木はかけ離れた存在であり、なまなましく男を感じさせるものではなか
 った。彼の前では比較的容易に裸体になれる気持ちがした。厄介な荷物を取り払ってく
 れる道具として彼を利用しようと試みた。しかし、やはり道具と見做してしまうことは、
 十分にはできず、明子は自分が処女であることを隠そうとした。男をよく知っている女
 のように振る舞おうとさえした。
・用事があって彼に会おうとしたというのは、嘘ではない。しかし、会った瞬間、今日の
 明子は彼に男を感じはじめた。すでに、かけ離れた存在とは感じられなくなっていた。
 そして今、明子にとって彼は伊木一郎という名を持った男となって、体を合わせて横た
 わっているのだ。
・「それじゃ、用事というのは」「あたしの姉を、誘惑してしまって。そうしてほしいの」
 彼は唖然として、少女の顔を眺めた。津上明子は、自分の処女が重荷になったのも、す
 べてその姉のせいだ、という意味のことを彼に告げた。
 
二十
・明子の両親は、五年前に相次いで病死した。以来、姉の京子が親替わりである。京子は
 酒場勤めをして生計を立て、明子を高校に通わせてきた。京子は口癖のように、明子に
 言う。「女は身持ちが大切よ」、あるいは「純潔が大切よ」とも言う。そして、京子自
 身、酒場が閉店になると、真直ぐに帰宅してきた。
・そういう姉を、明子は母親のように慕ってきた。姉の言葉をいつも心に留め、真面目な
 生徒だった。男子生徒との交際については、臆病過ぎるくらい、控え目だった。
・その京子の隠された生活を、ある機会に明子は知ってしまった。昼間の短い時間に、京
 子の秘密が畳み込まれていたのである。そして、明子はその姉へ反逆の姿勢を取り始め
 た・・・。

二十一
・目的の酒場は、奇妙な名の付いた店だった。バー「鉄の槌」といい、木製の看板にハン
 マアの絵が浮彫してあった。
・その店を訪れてから一カ月の間、伊木は性の中に溺れ込んだ。相手の女は、津上京子で
 ある。しかし、その期間、彼は不思議な充実の中にいた。伊木一郎の加虐的な凶暴な感
 情と、それを受け止める京子の体とが、不思議に調和を示したのである。それは、危険
 な平衡の上に立つものであったが・・・。

二十二
・彼は京子の耳に口を寄せ、ときどき耳朶を軽く噛みながら、そういう言葉を耳の穴に注
 ぎ込む。侮辱的な言葉が流れ込むたびに、京子の体は烈しく反応した。黙って、敷布の
 上の首を左右に烈しく振りながら、しだいに強く快感の表情を浮び上がらせてきた。
・伊木は背を反らし、上半身を京子の胸から離した。両脚の間には、京子の下半身がしっ
 かり嵌め込まれている。攻撃的な気持ちは、依然として続いている。彼は掌を拡げ、京
 子の片方の乳房に上に軽く置いてみた。
・不意に、伊木が掴んでいる乳房のまわりの空間に、白い色が走った。一瞬、彼は判断が
 付き兼ねた。乳首から白い液体が迸ったのである。乳白色の水滴が、点々と乳房の上を
 飾った。悦びのために流れる白い涙のようにみえた。
・「妊娠しているんじゃないか」「そうじゃないの」極度に昂奮したときに、強く圧され
 ると、乳汁が出る体質なのだ、と京子は言う。
 
二十三
・彼は、京子の左右の手首を掴み、交叉する形に引き絞った。露わになった腋窩に彼が唇
 をおし当てたとき、京子は嗄れた声で、叫ぶように言った。「縛って」
・その声が、彼をかえって冷静に戻した。「やはり、その趣味があるのか」
・彼は、その二本の紐の端を結び合わせ、京子の左右の上膊に絡ませて、ふたたび引き絞
 った。京子は、呻き声を発したが、それが苦痛のためか歓喜のためか、判別がつかない。
  
二十九
・ある夜、彼が酒場を出て歩きはじめたとき、路地から一人の女が現われて立ち塞がった。
 津上明子である。「伊木さん、ひどいわ。どうなったか教えてくれる約束だったと思う
 わ」
・眺めている彼の眼に、明子の裸体が映っている。それがセーラー服によって覆い隠され
 ているために、余計露わに浮び上がってくる。胸もとで結んだ黒いリボンの下からは、
 大きく膨らんだ乳房が露わになって、彼の眼に映っている。
・「京子をひどい目に遭わせてくれたの?」口紅を落とすと、にわかに稚くなった顔を向
 けて、明子は訊ねてくる。
・「ホテルへ行こう、ひどい目に遭わせてあげる」と、伊木が言い、明子は一瞬怯えた眼
 になり、撥ね返すように言った。「厭な眼。あたしの言っているのは、京子のことだよ」
 「ホテルへ行こう」「厭、伊木さん、不潔だわ」鋭く言って、明子は立ち上がった。
 
三十一
・小さなズックお鞄から、津上京子は明子の制服を取り出した。旅館の部屋である。
・「着替えてごらん」「あたしが、着るの」京子は躇らった。滲み出る快感を愉しんでい
 るような躇らい方である。彼の背中を見せ、着替えはじめた。
・京子の顔と、セーラー服との不均衡が烈しすぎた。不均衡が、歪んだ欲情を投げかけて
 くるのだが、烈しすぎると滑稽に近づく。
・京子が使う湯の音が、浴室から聞こえてきた。脱ぎ捨てられたセーラー服を抱え上げ、
 彼はその中に顔を埋めてみた。布地に滲み込んでいる明子のにおいが、微かに鼻腔に流
 れ込んできたように思えた。その瞬間、彼は明子の匂いを鮮明に思い出していた。セー
 ラー服を着た明子を押し倒し、その唇に真赤な口紅を塗りつけてみることを、彼は烈し
 く望んだ。
・京子の髪の毛は、長くはない。洗い髪にすると、その頭は少女に似た。セーラー服を着
 たままの京子を、彼はベッドに上に押し倒した。黒いリボンの下に彼は掌を潜らせ、制
 服の胸を押し広げ、京子の大人の乳房を掴み出した。
・薄目を開いて、京子が彼を窺っているのに気付いた。眼の下の薄い黒い隈が、京子の素
 顔にみえた。セーラー服と、京子の体の露出している部分との対照が、予測どおりに彼
 を刺戟しつづけた。「厭、やめて」京子は技巧的に声を出した。依然として薄目を開け、
 彼の表情を窺っている。
 
三十二
・伊木一郎は、斜面をずり落ちてゆく。斜面の下にあるものは、いわゆる性の荒廃とか性
 的頽廃とかいったものである。しかし、性の荒廃とは、いったい何であろうか・・・。
・伊木は、感じても考えることのない日々を送っていた。当然、セールスの仕事はおろそ
 かになり、伊木家は窮乏してきた。
 
三十三
・性的頽廃とは、いったい何であろうか。じつは、私は明確にその答えを出すことができ
 ない。 
・痴漢、加虐あるいは被虐的嗜好。多人数の同時性交。その種のものを、良風美俗の見地
 に立ってみれば、性的頽廃と言える。性的頽廃と判断を下して動かぬ人たちも多いこと
 と思う。しかし私には到底そういう判断を下す気持ちは起こらない。正式の夫婦の正常
 位における性交以外は、すべて性的頽廃と見做され兼ねなかった時代が遠くに過ぎ去っ
 たように、将来において痴漢の復権が行われる予感を私は抱いている。
 
三十七
・伊木が指定した喫茶店に、津上明子は現われ、隅のテーブルに坐った。「外へ出よう」
 急き立てる口調で彼は言い、明子も釣られて立ち上がった。明子は急ぎ足で彼にしたが
 った。一分間も歩かぬうちに、旅館の前に出た。彼がその入口に歩み入ろうとしたとき、
 明子は立止まって烈しい口調で言った。「伊木さん、厭よ。もう厭」
・「そんなことじゃないんだ。きみは教えてほしいと言ったじゃないか」強く言い捨てて、
 彼は門を潜った。明子はそのまま、彼の背に付いて門を潜った。旅館の帳場の女は、訝
 しげな眼を上げたが、顔馴染みになっている伊木を認めると、そのまま黙って二人を見
 送った。
・その五分前、彼は京子の体を、幾本もの紐で縛り上げた。身悶えし、抵抗し避ける素振
 りをしながら、京子の体の部分部分は、紐を持つ彼の手の動きをひそかに協力した。彼
 は左右の足首と、左右の膝とをそれぞれ縛り合わせた。そして、不意に立ち上がると、
 ワイシャツを着けズボンを穿いた。
・「どうしたの」「どこへ行くの」狼狽と疑いとの混じり合った京子の声を部屋に押し籠
 めるように、彼は扉を閉ざし、明子の待っている筈の喫茶店へ向って歩き出したのだっ
 た。
・そのときから五分経って、彼は明子を伴って、部屋の入口に戻ってきた。扉を開き、控
 えの間に入ったとき、寝室に転がっている京子と明子の眼が会った。明子は立ち竦み、
 口を開いたが声は出なかった。京子の口から、爆ぜるような声が出て、それが長く尾を
 曳いた。「明子なの?明子なのね。どうして、明子がここにいるの?」
・「「ひどい、ひどいわ。伊木さん、この紐をほどいて」京子は叫ぶように、しかし声を
 押し殺して言った。 
・「伊木さん、ひどいわ」明子の声が、はじめて聞こえてきた。脅えた色が、その顔いち
 めんに拡がり、蒼ざめた表皮が歪んだまま凝固してゆくようにみえた。
・「どうなったか教えてくれる約束だった、とぼくを責めたじゃないか」膝の関節が硬化
 し、畳の上につくり付けられたように立っている明子のその姿勢を見詰め、セーラー服
 に包み込まれている明子の体を見詰めながら、彼は答えた。

三十九
・明子は依然として、体を堅くして畳の上に立っていた。蒼ざめた顔と、血の気を失って
 白くなった唇とが、セーラー服に相応しかった。
・昂奮が醒めることを彼は恐れた。制服の布地は、少女のにおいを吸い込んで、明子の胸
 をひっそりと包み隠しているようにみえる。その子に路の布地の下にある、重たく熟し
 た乳房を、彼は憎しみの気持ちで思い浮べ、醒めかかる昂奮を掻き立てた。
・彼は、明子に襲いかかった。明子は畳の上に一本の棒のように横たわり、数秒のあいだ
 に烈しくもがき、直ぐにまた彼の体の下で静かになった。
・「なにをするの」嗄れた声で京子は言い、首をねじ曲げたが、彼と視線が合うと眼をそ
 らして黙った。  
・彼は片腕を伸ばし、京子のハンドバックを掴み寄せると、口金を開いた。掌を差し入れ、
 深く底からさぐった。彼の掌がハンドバックから出た。その掌と一緒に、掻き出された
 内容物が畳の上にこぼれた。
・困惑の視線を京子は畳の上に向け、釣られて彼も眼を向けた。そこには、分厚い札束が
 転がっていた。一万円札で三、四十枚ありそうだった。その札束は、京子の掻爬と関連
 がありそうだった。
・そして、畳の上に転がり出た札束を見詰める明子の眼が、一層烈しく彼を刺戟してきた。
 明子の眼に映る札束は、金銭としてのものではない。明子に純潔を説いてやまぬ京子の
 体の裂目から露出した臓物のようなものとして、明子の眼には映っている筈だ。
 
四十
・明子の体に覆いかぶさったまま、彼は片手で明子の顎を掴み、その顔を正面に向け直し
 た。 
・セーラー服を着た明子は、口紅を付けていない。その唇に、濃く、厚く、毒々しく口紅
 を塗り付けよう。輪郭からはみ出すほど濃く口紅を塗り付けた瞬間から、殊勝におさま
 っている明子の体が、紺色の制服から淫らにはみ出しはじめるにちがいない。
・「やめて」不意に、明子は両手を突き出して、抗いはじめた。「塗らないで」「何故。
 口紅を塗るのは、好きな筈じゃないか」「厭。もう塗る必要がなくなったわ」叫ぶよう
 に明子は言い、烈しく左右に首をまわした。
・彼は明子の咽喉を扼するようにして、頭を畳み固定させた。ほとんど顔を重ね合わせて、
 ゆっくりと唇を塗りはじめた。明子の熱い息が顔にかかり、強張った顔のまま、明子の
 唇は真赤に塗られてゆく。
・体を重ね合わせた形のまま、彼は明子の上膊に掌を押し当てた。彼は苛立って視線を京
 子に移した。その二つの顔には姉妹をおもわせる共有点は、ほとんど見出すことができ
 ない。京子を初めて見たときにも、その顔には明子を思い出させるものがほとんど無か
 ったことを思い浮かべながら、彼は京子に声をかけた。「きみたち姉妹は、あまり似て
 ないね」「本当の姉妹か?」「父が違うの。なぜ今、急にそんなことを訊ねるの?」
 と言って、京子は彼の視線を避け、顔を背けた。そのとき、ふたたび彼の体の下で、明
 子が抗いはじめた。
・今までに見たことのない明子の顔が、彼の足もとに在った。しかし、見覚えのない顔で
 はない。そのことが、彼には不思議に思えたが、間もなく理由がわかった。それは、京
 子の恍惚としたときの顔に、酷似しているのだ。「明子があんな顔をしている」と、彼
 は京子に言ったが、京子にはその正確な意味は伝わらない。
・京子が自分の恍惚としたときの顔をしらないということが、彼にふたたび攻撃的な気持
 ちを起させた。「この部屋ではやめて」京子は首を振りながらその言葉を繰返した。明
 子は眼を瞑り、同じ表情のまま横たわっている。京子の声はしだいに弱くなり、不意に
 誘う口調になった。彼は首をまわして、明子の方を見た。そっくりの顔がそこに在った。
・烈しい昂奮を、彼は覚えた。彼は自分の体の中に、真赤な夕焼を感じた。繰返している
 京子の同じ言葉が、一層曖昧になり、快感を訴える口調になった。
・「明子が、あんな顔をしている」もう一度、彼は京子の耳に口を寄せて、ささやいた。
 京子は眼を瞑ったまま、「この部屋ではやめて・・・」というやわらかい呻き声で、答
 えた。「きみと明子と、そっくり同じ顔だ。さっきまで違う顔だったのに、同じ顔にな
 ってしまった」
・彼の声が耳に届いた瞬間、明子は大きく眼を見開いた。眼にしだいに光が戻ってきたと
 思うと、跳ね起きた明子は掌で顔を覆い、隣室へ走り去った。
・「伊木さん・・・」呻きと咎める語調との混じり合った声を出して京子の唇は、一層大
 きくめくれ上がった。その唇の中心に、京子の顔が強張りはじめ、それは全身に拡がり、
  彼の体の下で京子の体が硬く反り返った。
  
四十二
・伊木は京子から離れると、立ちあがって隣室へ歩み込んだ。明子は部屋の隅にいた。両
 手を顔に当てて、うずくまっていた。彼はその前に立って、明子の姿を見下ろした。
・明子は掌を顔から離すと、彼を見上げた。不意に立ちあがると、明子の掌が彼の頬で鳴
 った。 
・「身の置場がなかったのだろう」と彼は思い明子を眺めつづけた。見返した明子の顔が、
 泣顔のように歪み、ゆっくりと崩れ落ちて膝をつくと、両腕を彼の胴にまわし顔を腹に
 押し当ててきた。
・彼は凝っと立っていた。彼の眼の下に、セーラー服に包まれた背がみえる。先日、京子
 の体はそのセーラー服に隙間なく這入った。いま、眼の下にある明子の体は、京子の体
 にそっくりだった。

四十五
・その夜帰宅してから二日間、伊木一郎は寝床から離れないですごした。「もういい加減
 に、起き上がったらどうでしょう」妻の江美子が、部屋の戸を開けて、そう言った。咎
 める口調ではあるが、あきれ果てたという調子が混じった。
・二十数年前、江美子は素晴らしい美少女だった。画家であった彼の亡父は、江美子の美
 しさを絶賛してやまなかった。厳密に言えば、二十三年前、江美子をモデルにして彼は
 画架に向った。着衣のモデルである。江美子は近所の中流家庭の娘であった。父親が三
 十四歳、一郎は十四歳、江美子は十七歳であった。
・その年に、父親は急死したのであるが、一郎は亡父の賛嘆の言葉を鮮明に記憶している。
 「まったく綺麗な子だ。あんなに綺麗な子は女優を探しても見つからないな」
・十七歳の江美子は、確かに抜群の美少女だった。北欧の血が四分の一、江美子の血管の
 中を流れているということだが、その遺伝因子が彼女の場合には強く作用しているよう
 だった。
・間もなく父親が急死し、戦争が起こり、伊木一郎の住んでいた街は廃墟となった。父親
 の死後十年経って、ようやく彼は元の場所に小さな家を建てて戻ってきた。ある日、江
 美子が突然訪れてきた。彼は大学を卒業したばかりで、江美子は二十七歳になっていた。
 二十七歳の江美子は、まだ独身だった。相変わらず美しかったが、その美しさにはかな
 り人工的な感じが加わっていた。そのように、一瞬彼は感じたが、すぐに十年前の父親
 の賛嘆の声が呪文のように彼の中にひびき、彼の眼は十四歳の少年の眼になってしまっ
 た。伊木一郎は、江美子と結婚した。
 
四十六
・眼を開けば、そこには西洋の魔法使いの老婆に似た顔があるのが分かっている。いや、
 老婆といえば言い過ぎになる。江美子の顔には、昔の美しさをおもわせるものが残って
 いるが、それだけに一層痛ましい。
・伊木一郎は横たわったまま、久しぶりに父親のことを思い出していた。彼は眼を開いて、
 江美子に声をかけた。「おい、もう言ってもいいだろう。おやじと関係があったのじゃ
 なかったか」
・江美子が十七歳の少女の頃、彼の亡父と肉体関係を結んだことがあったのではないか、
 という疑問である。「またそんなことを言う。そんなことがあるう筈が無いでしょう」
・彼の父親は、画家としての才能も認められていたが、それ以上に「モダン」な生活ぶり
 で話題になっていた。多くの女性関係も、話題を賑わした。「モダン」という言葉が、
 新鮮な響きを持っていた時代であった。そういう父親が、なぜあのような陳腐な褒め言
 葉を口にしたのか。茶の間の話題が、江美子に向ったとき、父親は平素の潤達さを失っ
 たのではないか。そして、なぜ江美子は二十七歳まで独身でいたのか。なぜ、突然彼の
 家を訪れてきたのか。伊木家の墓地に行ったとき、父親の墓石の前で江美子は不意に涙
 を流した。それはなぜか。
・不意に、川村朝子のことが、彼の頭の中に浮び上がった。当時、朝子は十七歳。伊木一
 郎は三十四歳、つまり父親の死んだ年齢と同じだ亡父がの幻の手が、山田理容師を媒介
 して、一郎を朝子の方へ押しやった、とこれまでの彼は考えていた。しかし、彼が川村
 朝子を求めた原因は、他にあったのではないか。中年に近い男と少女との関係が成り立
 ち得ることは、彼も十分承知していた。しかし、二十代の彼は、頭では理解していても、
 実感に乏しかった。

四十九
・午後、山田理髪店に出かけていった。店の中は閑散としている。山田理髪師は、待ち構
 えていたように伊木一郎を椅子に坐らせた。
・「おやじの死ぬ頃のことを一番知っているのは、山田さんというわけだね」「もちろん
 そうだ」「おやじの女性関係のこととなると・・・」「そうなれば、俺だ。俺のほかに
 は、誰もいない」江美子とおやじとは、どういう関係だったのだろう」「関係?」「肉
 体関係があったかどうか、ということなんだが」「あの頃、江美子さんはまだ子供だっ
 たろう」「子供でもない。十七だったのだから」「今まで、そんなことは考えてもみな
 かった」「ということは、聞いたこともなかったわけか」「そう・・・」
・「当時のお父さんは、それどころではなかった」「千代美という芸者がいたというけれ
 ど」「そう、千代美さんには惚れていたよ」「女の児を産んだというが」「じつは、そ
 の女の児が俺の戸籍に入っているんだ」「その子の名前は分かってるね」「東京の京で、
 京子だよ」「それで、千代美という女の苗字は」「たしか、水島といったと思ったが。
 しかし、その後結婚したと聞いているが」「その京子という女は、いま幾つくらいにな
 っていることになるかしら」「二十四、五ということになる」「まさか、そんな偶然が」
 
六十二
・伊木は、京子とホテルの部屋にいた。「伊木さん、意地悪ね。どうして、長い間わたし
 を放っておいたの」「長い間というが、きみにはもう会わないつもりだったのだ」「な
 ぜ、なぜまの」京子は、彼の言葉がまったく理解できぬ顔をしている。「あんなに、お
 互いに、しっくりいっていたのに」「こんなに、お互いに・・・」彼の耳に熱い息とと
 もに京子の声が流れ込んだ。その言葉のとおり、京子の体のさまざまな部分の僅かな動
 きの持つ意味が、彼には素早く理解できてしまう。その部分が、彼になにを求めている
 かを、彼は体にじかに感じ、反射的に彼の体のさまざまな部分がその求めに応じている
 ことに気付く。
・江美子と触れ合っているときには、それはけっして起らぬことなのだ。彼は、京子との
 間に、血の濃さ、のようなものを感じた。その感覚が、彼に恐怖を起させ、恐怖がかえ
 って彼を京子の体にのめり込ませてゆく。
 
六十六
・「やあ一郎さん、もう姿を見せる頃だと思っていた」山田は、歩いてくる伊木の姿を見
 付けて、彼が入口の戸を開けると同時に声をかけた。
・「一郎さん、京子という子は死んでいたよ」「三年前に、千代美さんの出ていた土地へ
 行ってみたんだ。そこの女将がいろいろ教えてくれたよ。娘の京子も、同じ土地で芸者
 に出ていたが、四年ほど前に小金井の方に囲われたという。そこで、わざわざ小金井ま
 で行ったわけだ」「死んだのは、病気だったのか」「なんでも胸を悪くした、と言って
 いたが、多くを語りたがらなかったよ」
 
六十七
・父親の遺した京子という女と津上京子とは、同一人物ではなかった。もう一人の京子は、
 すでに死んでいた。しかし、この三日の間は、彼は津上京子を自分の妹と信じ込んでい
 た。同一人物ではなかった、と知ったとき、やはり彼は深い安堵を覚えた。