質屋の女房 :安岡章太郎

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この作品は、いまから57年前の1963年(昭和38年)に発表されたものである。こ
の作品は、何かの賞を取ったものではないが、この作者の作品の中では、私は一番気に入
ったものである。
この作者は「悪い仲間」・「陰気な愉しみ」により、1953年(昭和28年)に芥川賞
を受賞しているようであるが、私にはあまり興味がわかない作品だった。
この「質屋の女房」は、1943年(昭和18年)の戦時中におけるひとりの学生の生活
を中心に描かれている。戦時下の中において、外套や学生服を質屋に入れて小遣いを作り
出し、授業には行かず、吉原に通ったりして、当時の学生は比較的のんびりした生活を送
っていたようだ。
しかし、そんな生活も長くは続かなかった。世の中は急激に変わりつつあったのだ。イタ
リヤが降伏したり、学徒出陣により大量の学生が動員されたりしはじめていたのだ。そし
て、ある朝、とうとうその学生にも召集令状が来たのだった。頻繁に通った質屋の女房と
の一度きりの秘め事は、学生へのはなむけとなった。
実際に、作者自身も、1944年(昭和19年)に学徒動員のよる召集されて、当時の陸
軍に入営したようだ。作者が入隊した部隊はその後、フィリピンへ動員され、レイテ島の
戦いに投入されてほとんど全滅状態だったという。作者は数少ない生き残りの一人だった
ようだ。そんな作者が、まだ平和だった自分の学生時代を思い出して、この作品を書いた
のではなかろうかと想像した。

・はじめて質屋に行ったときのことを憶えている。ノレンをくぐって格子戸を開けるとき、
 大罪悪を犯しているような気がした。自分はもう、これで清浄潔白の身分ではなくなる。
 堕落学生の刻印を額の上におされるのだ。
・腕からはずした時計を置いた。拾五円くれた。店を出るとき、「ありがとうございます」
 と番頭とうしろに控えた小僧とに頭を下げられ、変な気がした。金をもらったうえに、
 例を云われる理由が、咄嗟にはどういうことか合点が行かなかったのである。 
・それから半年たたないうちに、僕はもういっぱしの質屋との駆け引きをおぼえ、”またぎ”
 と称する奇怪な利息法のカラクリや、何をどんな時に持って行くのが一番得か、などと
 いうことを得意げに友達に教えたりした。
・おふくろは、僕が外でしていることには何も気がつかないふりをしていた。毎日学校へ
 も行かず友達の下宿に妙なものを書きつづっていることも、旅行に行くと称して吉原や
 玉の井へ泊ってくることも・・・。
・格子戸をあけて、僕は意外な気がした。店の上がり框の座敷に、和服にカッポウ着をつ
 けた女が一人、こちらを向いて座っている。それだけのことだが、何となく勝手がちが
 って、僕はとまどった。
・「いらっしゃいまし」女は、そう云ったあとで、ふと笑った。すると、なぜだろう、女
 の白粉気のない顔が、急に輝いてみえた。
・僕は、持ってきた大きな冬の外套を彼女のまえに刺し出した。「ふものですね」と彼女
 は云った。それから膝の上に拡げて、指で撫でながら、「いい外套だこと」と、ひとり
 ごとのように云う。
・「いくらになる」と、僕は訊ねた。「そうね・・・」彼女は笑った。「おとうさんに訊
 いてみなきゃ」僕はダマされたような気がした。
・「おとうさん」が彼女の父親でないことは、たしかだ。しかし彼女は普通に結婚してい
 るおかみさんのようにも見えないのである。
・「おとうさん」がやってきた。物凄く大きな体つきだ。どちらかといえば小柄の彼女が
 そばに並ぶと、男の肩ぐらいまでしかない。肉づきも素晴らしく、まるで牛かヒグマが
 いるようだった。年は五十ぐらいだろうか。女房とは二十ぐらい差がありそうに思えた。
・「そうですね、勉強して五拾円ぐらいまでなら」僕は驚いた。予想したよりずっといい。
 戦争が長引くにつれて、むかし買った古い物の値が逆にだんだん高くなっていることは
 確かだが、それにしてもこれは飛び切り高い値段におもえた。
・「おや」と、熊のように太い頚を上げながら云った。「これは、どうしました。襟のこ
 んなところが擦れている」しまった、と僕は思った。襟の先が一部分、切れかかってい
 るのは僕も知っていた。「これじゃ、仕方ない。半値がせいぜいですね」
・女は、紙幣を手下げ金庫の中から数えて取り出しながら、僕の顔を見てまた笑った。僕
 は、ひどく情けない気持ちで、それを受け取った。その金を何に使ったかは、憶えてい
 ない。
・僕は、何度か利子を入れたり、他の品物をあずけたり、よその質屋へ入れた物を受け出
 して、またその店へ持って行ったりした。
・そのたびに彼女は、あの含み笑いを見せながら僕に話しかけてきた。店の中は、いつも
 ひっそりしてお寺のように陰気だった。奥に金庫のように頑丈な鉄の扉のついた倉庫が
 見える。そこから死んだように重苦しい空気が冷たい風になって流れ出し、あたりを黴
 の臭いで浸していた。ただ、彼女が笑うと、そのまわりだけが灯がともったように生き
 かえって、まともな、人の住んでいる家を想い出させるのである。
・僕は用心しなければいけないと思った。あれから「おとうさん」はほとんど店へ姿をみ
 せなかったが、彼女の笑顔を見るたびに、そのうしろに寛大なのか、ぬけめがないのか
 判らない、巨きな男のいることを忘れるわけには行かなかったからだ。
・ところで、こんな風に云うと、まるで僕はその質屋の女房に恋愛していたように思われ
 るかもしれない。しかし、そんなものではないのだ。とにかくその頃の僕は、ただ何と
 なく彼女の店を利用していただけにすぎない。
・夏休みも、そろそろ終わりかけた頃、学生服を受け出しに行くと、青い顔で番台に頬杖
 についていた彼女が、「あんた、恋愛でもしてんの?」と、狎れなれしい口調できいた。
 「どうして?」「だって好きな人でもなきゃ、こんなにお金がかかるわけはないもの」
・僕は咄嗟にどうこたえたらいいかわからなかった。すると彼女は、親もとから学校へ行
 きながら、こんなにたびたび質屋へくるのは、どこかに愛人をかくまっているとしか考
 えられない、と云った。これは即座に打ち消した。「でも、あんたは童貞じゃないわね」
・ふと見ると、彼女は青い顔に汗をにじみ出していた。それは、いつになく醜い感じだっ
 た。首筋に覗いてみえる真白い半襟まで汗臭いように思えた。しかも彼女はその前屈み
 の姿勢の中に、かつてないほど強烈な「女」を全身で発散させていた。
・僕はれいの「旅行」さえもしなくなった。おもに東京の反対側のはずれにあるその町ま
 で足をはこんで、エナジイーを費やし、また帰ってくるということが、考えただけでも
 面倒だった。それよりは、いっそ質屋で話こんでいる方がマシに思えた。
・そんな僕を彼女は、こんどは「旅行」によって罹病した伝染病患者だと思うらしかった。
 彼女は平気でそれを口に出し、自分もなったことがあるからわかるのだと云った。
・僕は彼女の以前の職業に興味を持ったが、それをこちらから訊き出すことは、やはりは
 ばかられた。 
・いつか彼女は僕に映画の切符をくれようとしながら、「つまらないわ、わたしは。こん
 なものを貰っても外へ出るわけには行かないんだから」と云った。その言葉に僕は、現
 在の彼女ばかりでなく、これまでの彼女の境遇も示されているように思ったが、敢えて
 元気づけるために云ってやった。「どうして?留守番をたのめば、出られるじゃないか」
 「だって、一人じゃ・・・。あんた、ついてってくれる?」「僕でよければ、つき合う
 よ」しかし、彼女は果たして、笑って首を振っただけだった。
・世の中は、いよいよ奇妙な混乱を呈していた。町ではイタリヤの降伏と、ムッソリーニ
 の復権をつたえる号外売りが走っていたりした。あらゆることが、中途半端で消えてな
 くなったり、かと思うと、いきなり途中から始まったりしているようだった。 
・払底した陸海軍の下級将校を、速成でおぎないをつけるために、大量の学生が動員され
 はじめた。そのころ僕は、質屋で妙な仕事を受け持たされることになった。突然出征し
 た学生が質に入れっぱなしで行った本を、整理することを申し込まれたのだ。
・僕は質屋の庫の中というものに、はじめて入った。中には太い木の枠が組まれ、ネズミ
 除けの金網が張りめぐらされて、座敷牢というのは、こんなものかと思った。
・二百冊ばかりの本は翻訳ものの文芸書が主で、他の単行本もほとんど新刊書ばかりだか
 ら、整理して間違いなく預かったものが揃っていることを確かめながら、リンゴ箱へ詰
 めるほうだけの仕事は、別段、難しくも厄介なものでもなかった。バルザック全集、ジ
 イド全集、ドストエフスキー全集、それにゲーテ全集一、大思想家全集だのというのが、
 一冊の欠巻もなしに揃っているのを見ると、よくもこんなに全集ばかりあつめたものだ
 と感心させられるが、しかもそれを全部質に入れたまま入営してしまった男というのは、
 いったい何を考えていたのだろう、と不思議な気もした。そしておそらく彼は、僕のよ
 うな男がその蔵書を整理したとは一生知らずにおわってしまうのである。
・「どうも、ご苦労さま」彼女が云いながら入ってきた。格子ごしに覗くと、土間に立っ
 ている客の姿が、逆光線で黒い影法師のように見えた。女は片側の壁に梯子を掛けると、
 四五段上がって、器用にハトロン紙のたとうに包まれたものを抜き出した。職業的に熟
 練した動作だった。 
・「危いぞ!」僕は床に腰を下ろしたまま、梯子の上の彼女を見上げて云った。不意にナ
 フタリンと織物の混じり合った臭いが鼻をくすぐって、黒い着物の裾から出ている足袋
 の白さが眼についた。  
・「いやア」女は女学生のような声で云うと、僕の顔を見下ろしながら一瞬、梯子の上で
 身を固くした。片手にたとうを抱えたまま、ぎごちない動作で梯子を下り切ると、「意
 地悪」と短く云って、出て行った。
・その晩、彼女は僕に夕飯を食べて行くようにと云った。僕は、それを断った。好意を無
 にしたくはなかったが、その日僕のしたことの礼として何かを振る舞ってもらうのがイ
 ヤだったからだ。
・「でも、こまるわ」彼女は僕の顔を見上げながら、実際に困惑している声で云った。
 「いいんだよ。何でもないことだもの、あんなこと・・・」僕は、まえ云ったことを繰
 り返した。「そう?でも、こまっちゃうな、あたし」彼女は眉根にしわをよせて、ほと
 んど懇願に近い態度だった。僕は反射的に、あの熊のように大きな体の男を想いうかべ
 た。彼は今日はよそへ廻っている。しかし、あの男が彼女に、仕事がおわったら僕に飯
 を出すようにと云いつけて置いたにちがいない。
・彼女は、また小声で云った。「こまっちゃったな。ああ、こまっちゃった」僕は不意に、
 うつ向いて立っている彼女の体を抱きしめてやりたくなった。しかし、いまそんなこと
 をすれば彼女は怒るかもしれない。僕は、かろうじて衝動を抑えながら思った。彼女の
 昔の職業のことが漠然と頭にあった。あの商売の女は身持ちが固いということだ。彼女
 たちは自分の体を職業意識でまもっているからだ。
・しかし、彼女は怒るだろうか、本当に?僕は自分の体がこわばってくるのをイラ立って
 感じながら、同じことを繰り返して思った。彼女を怒らせることよりも、自分が怖いん
 だろう?僕は、前のめりに、不器用な手つきで彼女の肩に手を置いた。思いがけないほ
 ど彼女の肩は柔らかだった。そのくせ体は棒のように固い。
・そう思った次の瞬間、彼女の顔はまるで僕の胸にぶっつかるように跳び込んできた。甘
 酸っぱい髪の臭いと、ほてった肌のにおいが、僕の顔一面に漂った。
・あたりが、すっかり暗くなったころ、僕は茫然と家へ帰った。頭が熱く、喉がひどくか
 わいている。「何処へ行ってたの。いまごろ」母親は刺すような眼で僕を見ると云った。
・どこだっていいじゃないか。僕はこたえるのが面倒くさく、立ちはだかったおふくろの
 体のわきを通りぬけて真直ぐ自分の部屋へ行こうとした。「お前・・・」と、母親は狼
 狽しながら叫んだ。「これをごらん、夕方きたんだよ」差し出されたのは、召集令状だ
 った。高崎の歩兵連隊に入営するように指示されている。あと一週間の猶予だ。
・夕食がおわったころ、玄関で低い声がした。何気なく、僕は自分で立って出た。暗い格
 子戸の外に立っている人影を見たとき、僕は喉がつまりそうだった。・・・彼女だった。
 ネズミ色の和服コートの上に、町会の婦人部のバッジをつけているのが、なぜか憐れだ
 った。  
・「お忘れになったのかと思って・・・」僕は胸の中が真黒くなるような気がした。決し
 て忘れたわけではないにしても、彼女のことを思いやることがまったくなかったのは、
 確かだった。しかし、僕が恥じらいのあまりほとんど恐怖に近い心持を味わうのは、ま
 だこれからだった。
・「これを・・・」と、彼女が微笑を含むように差し出したのは、僕の外套なのだ。「途
 中で風邪をひかないように・・・。それから、これは失礼かもしれませんけど、あの方
 はあたしからのお餞別にさせて」
・彼女は明るい笑いを浮かべながら、それだけ云うと、さっと暗闇の中に姿を消した。僕
 はただ一言もなく、しばらくの間は無意味に指の腹で、外套のすこし擦れ切った襟のあ
 たりを撫でていた。