原色の街  :吉行淳之介

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この作品は、いまから69年前の1951年に発表されたもので、芥川賞候補作にもなっ
たようだ。この作品の舞台となっているのは、売春防止法施行(1958年)前の東京の
向島にあった赤線「鳩の街」と言われているようだ。
当時あった赤線の娼婦だったあけみという女性が主人公だ。あけみは、生活に不自由しな
い中産階級の家に生まれたが、戦争の空襲で家も家族も失い、女ひとりで生きるために、
タイピストや女中、そして社交喫茶のホステスなどを経て娼婦になった。
そんなあけみのいる娼家に元木という男が客として訪れる。よく「運命の人」との出会い
があると言われるが、あけみという女性にとって、元木という男は、まさに「運命の人」
だったかもしれない。
元木はあけみの体を愛撫するが、酔っていると言って途中で寝てしまうのだが、そのこと
がきっかけになって、それまで男との行為によって、まったく快感というものを感じたこ
とがなかったあけみの身体に異変が生じてくるのである。知らず知らずのうちに、あけみ
のこころと体が、元木という男に対して花開いていったのだ。
元木という男は、あけみにとって恋しい男になった。しかしあけみは、娼婦という立場の
自分が恋をするということを、自分自身で強く抑さえ込み続けた。しかし、元木の婚約者
の原瑠璃子という女性を見た瞬間、その抑制してきた心がコントロールを失い、暴走して
しまう。
ところで、この作品には、いろいろな女性が登場するが、私が一番興味を惹かれたのは、
元木英夫の婚約者の原瑠璃子という女性であった。作者はこの瑠璃子という女性に、どう
いう皮肉を込めて登場させたのであろうかと、つい考えてしまった。


・地味な衣裳と控え目な媚態のうちに用意された肉体は、ここでは数多いし、それに売れ
 残るおそれがある。好事家の数が、ここでは比較的少ないからだ。多くの男たちは、外
 観はともかくも、長い航海を終えてようやく陸地に上がった船乗りのような欲望を抱い
 て、紙幣を掌のなかに握り込んで目的の場所へと進んでゆく。
・昭和二十×年春、甚だしい不景気で、数多くの人たちには、必需品しか買えない時代で
 あった。
・この街に来て、金を払ってゆく男たちの大部分に必要なのは、女である。繊細な趣味の
 ゆきとどいた商品である必要はないし、それにそのような存在はこの街では原色の渦の
 なかに巻き込まれて、色褪せてしまうのだ。
・この街の男女関係は、きわめて明晰である。女にとって、この街にいることは、どんな
 に美しく稀には初々しく見える女でも、定まった金額で体を売るという徽章を身につけ
 ていることである。従って、女にとっては、自分に向けられる男の視線の中に、「この
 女は果たして自分の申出に応じるだろうか」と迷っている疑わしげな探るような陰湿な
 好色さを見出すことはない。この街にいる男の眼は、支払わねばならぬ金額と引換に与
 えられる快楽の量を計っている、ひたむきな欲望の眼である。
・男にとっても、眼のまえの女性の好意にみちた眼差しにおもわずほほえみ返したとき、
 彼女の視線が自分の斜めうしろの人物に向けられていたことに気付いて、行き場のなく
 なった微笑がそのまま凍りついてしまうとか、街の女とおもって取扱おうとした女が実
 は素人の婦人だったとか。ささやかな、そのくせチクリと棘を含んでいつまでもまつわ
 りついてくる出来事には、この街に身を置いている限り無縁である。
・もっとも、そのような感情の動き自体にまったく無縁の人は、数多い。又、この街の性
 格そのものも、縁遠いことは確かである。しかし、この街の底から、一種の解放感のよ
 うなものを嗅ぎ出そうとする少数の人々も存在しているのだ。
・あけみという名を付けられて、この街に軒を並べている店の一つに住んでいる女は、そ
 の解放感をこの街から見出すことが出来た。いや、この街からしか解放感を見出すこと
 ができぬような立場に置かれた、と彼女自身が思い込んだ次期があったといった方がよ
 いだろう。
・そして、彼女自身は、その解放感に惹かれてこの街に身を置くようになった、という弁
 解を心に抱いている。しかし、そのような契機でこの街を最後の行き着く場所としたこ
 と、そんな動き方をする心を持っていること。それが、結局は彼女を一層不幸にしてゆ
 くということには、あけみはまだ気付いていない。
・あけみがこの街へ来て、二カ月経っていた。そして、あけみは日々、遠い気持ちで体を
 横たえていることが出来ていた。それは、あけみが快感を覚えないで、済ませられたか
 らだ。この街へ来てしまったという気持ちの烈しさが、彼女の肉体を圧しつづけていた
 のである。男たちは、単に通過して消えてゆく、物質感を与えるだけの存在であった。
 しかし、そのことも、そのままで過ぎてゆくものではなかった。
・客は、中年の教員風の小男である。彼女は腹立たしい気分で捉えられた。「はな子」と
 いう自分のほんとうの名前には、曰くがある。空襲で爆死した父母の若い日の追憶が、
 その名前に絡まっていた。空襲によって境遇が一変するまでは、中産階級の家庭の一人
 娘として育ち、女学校も卒業し、ありふれた安穏な生活であった。若くて一緒になった
 父母の結婚三年目に生まれた彼女で、あれこれ考えぬいた挙句、赤児の名前に窮した両
 親は彼女をはな子と命名した。魚谷はな子、それが、あけみの正確な姓名である。
・あけみの本名を訊ねたその教員風の小男は、たいへん執拗であった。
・体のすみずみまで肉付きのよい十九の春子は、この街の生活もさして苦にならずにその
 まま受け入れているといった型の女である。この家の主人が街の各処に持っている合わ
 せて五軒の店に働いている女たちのうち、稼ぎ高の一番多い女が春子だ。
・あけみの傍に坐った春子の口から、露骨な話題が出はじめた。先刻、春子の部屋に上が
 った若い男があって、「なかなかいい男なので」彼女も「身を入れて」応対しようとし
 ているのに、彼は接吻したり不器用な前戯を繰返したりするだけなので、とうとう春子
 が露骨で且つ素朴な言葉で要求した。するとその言葉を聞くと同時に、その男は不意に
 起き上がると、大きな声で笑いはじめ、洋服を着てそのまま帰ってしまった、というの
 である。春子はあけみの顔を窺った。「その人、きっと童貞だったのよ」「へえ、童貞、
 本当に」
・あけみは、春子の話の中の若い男の顔を想像してみる。おそらく、春子とその男とは決
 して交錯することのない平面の上に、それぞれの感情の動きを持っているのだろう。
・望月五郎は、某汽船会社の社員で、金まわりもよかったし気の置けない人柄なので、こ
 の家の主人の居間に入ることができた。彼は、まだ三十の半ばの年配だったが、そろそ
 ろ髭を生やしてみようか、惑っているような顔つきをしていた。
・望月のつれの男は、黙って酒を呑んでいた。望月より、いくらか若い利頃に思われた。
 あけみは、望月五郎の連れの男の傍に坐った。店の主人と男が交換した名刺の上の名を、
 あけみは、元木英夫、と読んだ。
・望月五郎が春子に眼くばせして部屋に退いたあと、元木という男はまだしばらく主人と
 雑談をつづけていたが、やがて居間を出て風呂場へ行った。ママさんに促されてあとに
 続いたあけみは、ふと、着物を脱ぐことにこだわっていない今夜の自分に気付いた。
・彼は湯気の靄の中で薄笑いしながら、わざと無遠慮にあけみをじろじろ眺めまわした。
 あけみの肩がすぼまって、湯槽から出ようとしなくなった。先に湯槽から上がった彼は、
 とぼけたような口調で言った。「風呂もいいが、あとで拭くのが面倒なんだ。犬みたい
 にブルっとからだをゆすぶっておしまいなら、いいんだが」あけみは、その言葉を好意
 をもって受けとめ、めずらしく明るく笑声をあげた。
・元木英夫が隅田川東北の街に出かけてきたのは、同僚の望月五郎に誘われたためもあっ
 たが、一つには、昨日から彼の体のうちに澱んでいる滓のようなものを、払い去ること
 が出来るかもしれないという気持ちも働いていたからだ。
・元木英夫は、昨日の夕方、「見合い」をしたのである。一向に結婚する気配のない彼の
 ために、周囲のものがいつの間にか道具立てをしていて、彼が気付いたときには、ただ
 体を動かして所定の場所へ持って行きさえすればよいようになっていたのだ。
・まわりの人々がいろいろ計算して適当な枠をこしらえ、一人の男と一人の女をその中へ
 閉じ込める。そして、素早く頭を働かせながらじろじろ観察する。もちろん、お互い同
 士もちらりちらりと盗み見し合う。その観察の中には、当然、将来出来の良い子が作れ
 て子孫繁栄を計れるかどうかの点についてのものが含まれているのだから、衣服を着て
 いない方が好都合なのだが、実際には平素の二倍も衣裳をあちこちに纏うのである。
・当日の見合いは、さすがに現代風のところがあって、気を利かせた人々の計らいで、彼
 は、某大学教授の娘という、京人形にコケットリーをつけ加えたような女と二人残され
 た。 
・彼女は、まったく真面目で、熱っぽくてそしてあどけないと言ってよい表情をしていた。
 その原瑠璃子という女は、軽い興奮を頬に示して、ピンク色のレースの肩掛を無意識に
 もてあそびながら、元木英夫が気に入った様子だった。
・この日の見合いの結果、その女が、気に入っている自分に、元木英夫は気がつくのだっ
 た。気に入るということは、愛することとは別のことである。気に入るということは、
 はるかに微温的なことだ。愛することは、この世の中に自分の分身を一つ持つことだ。
・女は立止まって、舗道の隅で風船を売っている老人が、ゴム風船をふくらませている様
 子を、熱心に眺めているところだった。風船にそそがれた女の眼はキラキラ閃って、横
 顔は白くて軟らかそうな肌ばかり目立った。ちょうど愚かな白兎という感じだ、と彼は
 思った。
・彼はふと、望月五郎の無駄話にしばしば登場する春子という名の娼婦と、彼の傍の女の
 相似を感じた。しかし、春子という女は、あわただしい金銭の取引の枠のなかにいる女
 で、従ってまた、そのような疲れを体に澱ませている筈だ。だが、傍の女は、大切に保
 存された、汚れていない肌につつまれた美しい外貎を保つことができている。それは彼
 女の周囲が、彼女の人生のたった一回の取引、つまり結婚のために、気を配ってきたも
 のなのだ。
・春の風景に薄くかぶさっている霞のような、のどかな、うすくかすんだ軽い痴呆の趣。
 それを羨むという感傷は、元木英夫には持ち合わせなかったので、彼は瑠璃子に対して、
 しだいに残酷な快感を予想しはじめた。この女が体を開くときには、きっと原始的な叫
 び声をあげるに違いない、と彼は思った。しかし、この大切に扱われている高価な商品
 が傷つけることによって生じる筈の、さまざまなわずらわしさが、彼をためらわせてい
 る。
・元木英夫は、彼女のつき合いにおいて明快に割り切れた一日を過ごすことができたつも
 りであった。しかし、瑠璃子と別れたあと、彼の中に滓が残って、それは翌日になって
 も澄まないのである。
・あけみは、自分の気持ちに抗しきれずに話はじめた。あけみの部屋に来た男に対して、
 積極的な身構えになっているということには、彼女は気付いていない。
 「空襲でみんななくなってしまったの。血縁の人も家も、何もかも。それまでは不自由
 なく暮らしていました。食べるのには困らなかった環境だったということ。それからは、
 タイピストもした。女中もした。堅気で食べられると思う仕事は何でもしたわ。だけど、
 その度ごとに男がからまってくるの。わたしには、男の心をそそるような、みだらなと
 ころがあるのかしら」「わたしは、だんだん疲れて来た。女ひとりで暮らしてゆくこと
 って、容易なことじゃないわ。すっかり疲れてしまっていたので、キャバレーの女にな
 ったのかしら。ほかに食べて行く方法は思いつかなかったし、それにキャバレーの女だ
 ってちゃんとした職業でしょう」「それに、わたし、あのこと好きじゃない。快感なん
 て覚えない」
・その言葉で、元木英夫の冷たい眼に、試すような光があらわれた。その奥に、挑戦する
 光が混ざる。この女を抱こうと思っていた、彼の考えが変わった。
・「ほんと。ここへ来ることが、かえって滅茶苦茶になるものだと分かっていても、そう
 してしまう。わたしの幼いころからの性格なんです」喋りながら、自分の喋っている言
 葉の群が、あけみの心に媚びてきた。彼女は、ふと涙ぐんだ。思い出が、一斉に彼女の
 心におし寄せてくる。甘いひりひりした気持ちが、胸に、そして体じゅうにひろがって
 ゆくのを、あけみは感じていた。思い出が、わたしをくすぐっている、・・・とあけみ
 は感じていた。
・そのとき、男の声がした。それが、今夜の客、元木英夫の声ということに気がつくまで
 に、数秒の間がかかった。「きみとしては、それよりほかに、どうしようもなかったろ
 うね」なぐさめるような、なんとなく割り切れない生温かい調子だった。甘美な気持ち
 は、そのときには、すでに、あけみの体いっぱいに拡がっていた。
・ハッと気がつくと、いつの間にか、あけみの裾から男の手がすべり込んでいて、たくみ
 に動いているのだ。彼女は身をしりぞけようとしたが、わずかしか体は動かなかった。
 指は、そんな彼女を追って離れず、こまやかに、神経の尖端を探し出してゆく動きを示
 した。その指が、あけみの心を甘くしているのか、追憶がその心を甘くしているのか、
 すでにあけみに不分明になってしまった。
・あけみの皮膚の下、意識の下で、すでに十分実っている肉体が、しだいに花咲こうとす
 る。あけみの体を、かるい鋭いおののきが、趾のさきまでつたわった。意味をなさない
 微かな声が、歯のあいだから洩れていった。と、男の指が、逃げてゆく。
・あけみの眼は、彼女自身を裏切って、おもわず烈しく強く男の顔を追った。その眼の底
 には、男を求めている光が小さな焔のかたちに浮かんでいた。いくら無関心に戻ろうと
 努めても、体はあけみの心を裏切って、しだいに燃え上っていった。
・そのとき、不意に元木英夫が身をしりぞけて彼女に背を向けると、眠そうな声を作って
 言った。「僕は、もう眠るよ。おやすみ」
・罠にかけられたあけみの体は、罠の中に置き去りにされようとした。おそらく、このと
 き元木英夫は、罠から這い上がろうとして身もだえする女を予期していたにちがいない。
 しかし、あけみには、罠を仕掛けた男の手つきばかりが、眼の前に拡大されたのだ。彼
 女は、歯の間から言葉を一つ一つ、おし出すように区切りをつけて強く言った。「ひ・
 ど・い・人!」
・そのとき、ピシッと皮膚になにかしなやかなものが烈しく打つかるような音のあとで、
 嗄た泣き声とも笑い声ともつまぬ、かすかな音がひびいてきた。隣は蘭子という女の部
 屋である。先週、春子を凌いで最高の稼ぎ高をあげ、春子を悲しませた女が、蘭子であ
 る。
・クッ、クッと喉の奥から押しだされるような声が、壁をへだてて蘭子の部屋からふたた
 び響いてくる。掴んだ男の掌にけっして骨を感じさせない体。青味を帯びて、濡れて光
 る白眼。蘭子は、結局は男たちに可愛がられるため、ただそれだけのために生まれてき
 たような女だ。
・鞭を女の体に加える男。女の手に鞭を握らせる男。この街の数多くの密室のなかで、男
 たちは、それぞれの形で、直接にあるいは持ってまわって方法で、快楽をかすめとろう
 としている。そして、相手の娼婦たちも、何十パーセントかの割合で、芝居ではなく本
 気で喉の奥からかすれた声を押しだしている。この国だけでも、一分間に幾十人もの割
 で、この世に新しい生命が誕生しているという。そのためには、このような夜は、この
 娼婦の街にだけおとずれているわけではない。
・あけみは、疲れていた。まとまった考えは彼女の頭から逃げていった。彼女は、ふと一
 枚の紙片を思い浮かべた。その紙片は、一人の客が彼女の眼の前に、差し出したものだ。
 彼女を煽情する目的で、差し出したものだ。ハガキの半分ほどの小さな紙片の上には、
 五十組にちかい男女秘戯の姿態が粗い線で描かれてあった。その紙片によって、あけみ
 は煽情されなかった。輪郭だけの人間たちは、もっとも人間臭のつよい行為をしていな
 がら、非人間的な趣を備えているようで、むしろ、あけみはその絵の中でユーモラスな
 ものに行き当たった気持ちだった
・そんな紙片が、あけみの眼の前でぽっかり浮び上がって、消えた。「蘭子は楽しんでい
 る・・・。この元木という男もたのしんでる・・・」霞のかかった頭の隅が考えていた。
 あめみの気持ちは、疲れていた。あけみの体だけが醒めていた。嫌悪の情はやって来な
 い。違った方向に、体だけが勝手に動いて、進んでゆく。あけみの体はだんだん外側に
 開いてゆく。すっかり潤ってしまう。また、あの輪郭だけの人間が犇めきあっている小
 さな紙片が、眼の前に浮び上がる。それは、あけみを煽情はしない。それなのに、体は
 一層、花咲いてゆく。
・あけみは、彼女を裏切った体を、きわめて事務的に処理しようとして、ゆるやかに、や
 がて烈しく身を悶えた。上昇していった波が、一点を境になだらかな勾配を描いて下降
 してゆくとき、ふと彼女は、その間ずっと彼女の視線が傍の男の上にとどまっていたこ
 とに気付いた。しかし、あけみは気付かなかった。彼女のうちで、こわれたものがあっ
 たこと、そして、新しく生まれたものがあったことを。娼婦の自涜行為、その異常さを、
 そのときあけみが気付かなかったと同じように・・・。
・現在では、この街の女たちは、特殊飲食店の女給という身分である。街を通る男たちと
 の間に恋愛が成立して、瞬間的恋愛行為というのをおこなうために、店は女給に部屋を
 貸すという形式になっている。だが、定期的の検診は、昔どおり行われているし、稼ぎ
 の悪い女たちは、店主から良い顔をされない。
・女たちは、新しくこしらえる着物のためや、時折患う病気のためや、浪費癖のついた日
 常や、何かしらのことで、いつもいくらかの借金を負っていることが多く、やはり女た
 ちは豊かになる暇がないように出来上がっている。
・しかし、この街から抜け出そうと決心すれば、或る期間の努力で借金を清算し、その上
 その後の生活の目算が立つ程度の蓄財さえ作り上げて、自由な身になることは可能であ
 る。 
・昔の玉の井界隈の暗さについて言い伝えられた話、女が客から貰った十銭白銅を店主の
 眼をかすめて火鉢の灰の中に埋めて置く、という話にあらわれているように、店主が無
 理矢理この街に女を縛りつけておく、という形は見られなくなった。女も楽しませ、店
 主も儲けさせてもらう、これがアメリカ式経営法です、と自称する店主もあるように、
 搾取には違いないが、搾取する量が昔に比べるとずいぶん少なくなった。そして、女た
 ちが、この街の外の場所に身を置くことは、比較的容易になった。
・この街の女たちの意識が、この街の範囲を、つまり体を売って食べてゆくという生活の
 様式を離れることがないならば、それは解放とか束縛とかいう言葉とはあまり関係がな
 くなってくる。そして、この女たちの意識を再構成しようと努力した、理想に燃えた男
 たちについて、幾つもの物語が書かれているが、残念ながら結果はいつもおもわしくな
 く、男たちの敗北に終わっている。
・たとえば、春子という女がそれに該当している。この街という枠のなかにやすやすと身
 を置いて、自分の場所を疑うという気持ちは全く起こらない。そしてこの型に属する女
 が、この街では最も数多い。蘭子という女は、また別の意味で、この街という枠を見な
 い女である。枠というものが彼女らにとって存在していないのと同じく、自由気儘に内
 と外の世界に出入りしている。突然、結婚するから廃めさせて頂戴と言って姿を消して
 しまったかと思えば、一カ月も経たぬうちに、また何気ない顔で戻って来る。
・あけみという女は、枠に入ることの意味を見極めて、わざわざ枠の内側へ身を置いて、
 そのことによって気持ちを救ったつもりになっていた。このような例は、きわめて特殊
 な場合に属する。そして、あけみ自身は、そのことを少しも特殊な心の動きとは考えて
 いなかった。しかし、この街で過ごしてゆく日々のうちに、そのことがいかに例外に属
 することであったか、ということが次第にあけみの眼に見えてきはじめていた。
・その日の最初の客を、あけみは下からいつものように遠い眼で眺めていた。男は、逞し
 い筋肉の立派な体格であった。四十年配で、背は低く、無骨な指をしていた。あけみは
 体を横たえて、男の体の中で大きく燃え上がった焔が消えるのを無感動に待っていた。
 そのとき、異変が起こったのだ。昨夜とおなじ身慄いが、あけみの体を掠め去っていっ
 たのである。男の態度によって、あけみは自分の体が激しい反応を示してことを、はっ
 きり知った。そのとき、彼女の皮膚に迫って感じたのは、傍の男の体ではなく、昨夜の
 男(元木)の冷たい光がもえている眼だった。
・あけみは、いま、自分が新しい位置に置かれたのを知らなくてはならなかった。この感
 覚を惹き起こすための、肉体の準備はすでにあけみのうちに整っていたのである。精神
 よりその発育がやや遅れていた彼女の体は、皮肉にも、この街での日々のうちに次第に
 実っていっていた。そのことに彼女は気付いていなかった。気付くまいとする気持ちも、
 無意識のうちに働いていた。
・この日から、あけみの身のまわりの物の幾つかが、彼女にとって今までと違った意味を
 持ち始めた。そのうちの一つを挙げれば、ゴム製品である。彼女は、この街に来てから、
 どの客にもかならずゴム製品を用いさせた。男がそれを装うまでは、決して許そうとは
 しなかった。そのために、時折、小さなあらそいが起こることがあった。しかし、概ね、
 客はこの素人くさい顔をした女との争い自体に愉しみを覚えたあと、彼女の言うことに
 従うのであった。
・それは病気の予防のためもあったが、そのほかに、あけみにとって、そのゴムの薄い膜
 で直接接触を避けることが、はかない慰めともなっていた。しかし、その夜以来、事情
 は同じではなくなった。
・ゴムの膜の置かれてある暗い部分から、ゆるやかに体が裏返しにされてゆき、自分とい
 うものが無数の壁に覆われた正体不明の陰湿な物体となって、男の体に吸いついてゆく
 のを、あけみは感じはじめた。
・幾分間、あるいは幾十分間以前に、はじめて会った男たち、まったく愛情を感じない相
 手。金を支払って自分を買った男、という意識が邪魔をして、好意さえ持つことのでき
 ない相手との接触。しかも、体だけがあけみの心に逆らって反応してゆく。そのことが、
 自分をそのような不快なえたいの知れぬものに変えてゆくということを、あけみは感じ
 ていた。
・そうなってくると、もはやゴムの膜はあけみにとって何の役にも立たぬものとなってし
 まった。それどころか、それはベタベタした不潔な物質感をもって、彼女に触れてくる。
 あけみは、それを使うことも厭うようになった。
・そのような状態に追い込まれてしまった自分に、あけみは困惑し、そのきっかけをつく
 った元木英夫という男のことが、しばしば彼女の脳裏に浮んでくる。この現象は、日々
 くり返されていた。
・あけみは、見知らぬ男の下に身を横たえ、眼の前に大きく拡がってゆく元木英夫の幻影
 を見詰めながら、ただ凝っと見据えながら、眩しい閃光に似たものが趾のさきからろ頂
 まで貫き過ぎてゆくのを、感じた。そのときには、元木の幻影は、身すらぬ男と彼女と
 の間を遮る、薄く透明で強靭な壁となっていた。彼の幻影は、あけみにとって、それが
 必要であった頃の意味におけるゴム製品と同じものになった。
・眼の前に浮かび上がっている元木英夫の幻影は、彼女が快感を覚えているという証明に
 過ぎないように思えてくるのだった。その証明書は、あけみの内側から彼女の眼の前に
 浮び上がるものだが、外側から彼女の前に現われるもう一つの証明書がある。それは、
 あけみに初めて異変を知らす役目をしたあの無骨な指を持った中年の男である。
・その男は、戦後に資産を作った薪炭商で、洗練された容姿のあけみに会うために、いそ
 いそした気持ちを全身にあらわして、娼家へ通いはじめていた。その大層立派な体格の
 男に抱かれると、あけみはいつも、快感のうちに溺れかかっている自分に気付くのだ。
 そして、いつも両腕を自分の背中で綯い合わせて、身を反らしている姿勢をとっている
 姿勢をとっていることにも気付くのだ。
・あけみには、自分が快感に溺れようとするときの、自分の姿態がはっきりと脳裏に捺さ
 れていた。それは、両腕を自分の背後に綯いあわせて、身を反らせている形である。元
 木英夫という男の幻影が、彼女の眼の前に必ず浮び上がるのだが、あけみはそれにもし
 がみつこうとはしない。
・あけみは、こう考える。自分は、男の傍で快楽に喘ぐ場合にも、自分の内側に湧き上が
 るものを相手に向ってそそごうとはしない。両腕を自分の背後で綯い合わせながら、自
 分一人で快感のうちに溺れてゆこうとしているのだ。このとき、男は単に自分の体に刺
 戟を与えるために作られた、精巧な道具に過ぎないではないか。自分は、心を空白にし
 て、暗い海の底でただ触手をひらひらさせているだけなのだ。
・元木英夫は原瑠璃子と見合いをした数日後、見合いの世話をした知人が、元木英夫の会
 社に訪れると、申し訳なさそうな顔をして言った。「どうも香しくないんだ。先方では
 文句はないのだが・・・。原瑠璃子嬢の身辺調査を頼んでおいたが、近所の噂では、ど
 うやら、その「色きちがい」みたいなところがあるというんだがねぇ。戦争中からあん
 まり派手な恰好をして頻繁に出歩くのと、それから、ちょっと素人の娘ばなれした色っ
 ぽさが、たたっているらしいのだが」
・元木英夫と原瑠璃子とは、ともかく暫くつき合いをしてみるという関係になった。彼ら
 は頻繁に逢った。話題は、瑠璃子が提供した。この二人の男女のあいだの話題は奇妙な
 もので、彼女は自分の初恋の男のことを、詳細にくりかえして語るのだ。その男が、ど
 んなに純一な人間であったか。彼と彼女との恋が、どんなに清純なものであったか。彼
 が東大の法科を出た秀才で、海軍の予備士官となり、戦艦大和に乗組んでどんなに悲愴
 な最後を遂げたか。
・彼女は、自分の言葉に陶酔しはじめている様子だった。軽い昂奮が、全身をつつんでい
 た。彼は、親切に丁重に彼女の一語一語にうなずきかえし、彼女と並んでゆっくり歩い
 ていた。二人が進んでゆく歩道を、一本の樹木の陰が遮っていた。その黒い影は、車道
 から歩道を横切って、一軒の小さい洋館に届き、その入口を暗く塗りつぶしていた。彼
 は瑠璃子の腕をかかえて、明るい街からその蔭の中へ飛び込んだ。もちろん、その洋館
 の入口がホテルの入口だということに気がついてのことである。
・彼女は容易く彼に従った。その洋館の一室の中でも、彼女の純愛物語はつづいていた。
 彼はやはり親切に丁重にうなずきかえし、やがて親切丁寧にその衣裳を脱がした。彼の
 指は、一つ一つ狂いなく女の衣服についているボタンやホックを探し当てていった。
・この女は体を開くときには、原始的な叫び声を上げる、と彼は予想していたのだが、そ
 れは彼が誤っていた。原瑠璃子は、海軍予備士官の教え込んだものと思われる、特殊で
 露骨な言葉を、執拗に叫んだ。
・その夜の後も、瑠璃子の純愛物語は、同じようにくり返された。彼も同じように親切丁
 寧にその衣裳を取り去り、そして何気なく、気付かぬように、女の唇から洩れる歓語を
 彼の趣味に合うように、修正してやる。
・彼は瑠璃子を、珍しい玩具をとり扱うように操作しているつもりだった。丁寧に取り扱
 えば扱うほど、彼は自分たち二人を大きな侮辱のなかに投げ込んでいる気持ちに捉えら
 れるのだ。そして、そのことから彼は刺戟を覚え、気を紛らわしていた。
・彼女の白い皮膚に彼の皮膚が接触しようとする刹那の昂奮は、恋しい女に逢ったときの
 胸のときめきに似ていたし、 また彼の体は瑠璃子が傍に居ないときは、その不在を淋
 しがっていた。そして、彼は、それらの現象はすべて、彼の精神の余り知らぬことだろ
 うと考えているのだった。
・望月五郎が薄笑いを浮かべて親しげに、彼に話しかけてきた。「じつは例の春子の件が、
 のっぴきならなくなってしまったんだ」「あの春子という女のクローズ・アップを「船」
 の表紙に載せられるかな」「あんな一般の目につかない業界誌のことだもの。載ること
 にはなっていたけど、金詰まり休刊に相成った。渡してあった写真は先方で行方不明に
 してしまった、悪しからず、という次第で、空の写真機でパチリというわけだ」「おい、
 それはいかん」と元木は思わず手を振った。「なあに、知らぬが仏さ。だいたい、フィ
 ルムを買ったり現像させたり、面倒くさくてかなわない」と望月は元木の顔を眺めた。
・春子にとっては、自分の姿が美しく着色されて雑誌の表紙を飾り、そのことが、この街
 の女たちのあいだで噂され、されにクローズ・アップされた自分の外の世界へばら撒か
 れてゆくことは、このうえなくその胸を躍らせる事柄なのである。
・蒸し暑いある午後、あけみの部屋をのぞいた蘭子が、曖昧な表情で、「あけみちゃん、
 ちょっとシルバー・ホテルまでつき合ってくれない」と言った。「この人がね、あたし
 たちの恋の記念を写真に撮ろうって友達からカメラを借りてきたの。それでね。あけみ
 ちゃんに手伝ってもらいたいの」
・あけみに、おもむろにその意味が分かってきた。彼らが撮されようとしているのは、自
 分たちの愛撫のすがたなのである。あけみは一瞬たじろいだ。あけみの存在が、蘭子た
 ちを一層刺戟しているらしい。ファインダーの中に映っている親指の尖ほどの大きさの
 男女がさまざまの形に縺れ合う絵姿を、あけみはじっと見詰めていた。それにしても、
 男は種々の技巧を使いすぎるようであった。そして、ある瞬間、姿態が定まると、「撮
 して」と、冷たい低い声であけみに命令した。その声が感覚を置いて七回も繰返される
 と、あけみはその光景から、おもい嫌悪の念に突き落とされていった。ファインダーの
 中の絵姿に、あけみは豆人形でも眺めるような無感動さで対い合っているつもりであっ
 たが、じつは烈しい昂奮かあるいは嫌悪かに雪崩れ落ちてゆく分水嶺に佇んでいたので
 あった。
・このとき、あけみにはこの撮影の隠された意図の一部は、分かっていた。その事柄は意
 外と早く、極めて具体的なかたちであけみの眼の前に置かれた。蘭子とシルバー・ホテ
 ルに行ってから十日も経たぬある夜、あけみの部屋へ上がった見知らぬ客、会社員風の
 若い男が曖昧な笑いを浮べながら、ポケットから一枚の写真を取り出した。ハガキの半
 分ほどの大きさの印画紙の上に、蘭子が横たわっていた。相手の男は、顔の写らぬレン
 ズの角度になっていた。予期した事柄に行き当たった気持ちになる前に、やはりあけみ
 は、一瞬あげしい混乱を示した。
・「ここの街で見た女だということを思い出してね。ちょっと眺めにやってきたのさ」と
 男はそう言った。「その写真、わたしの頂戴」「ああ、いいとも」と、男は相手をその
 写真で、煽情しようとする企みに気を奪われていて、簡単に承諾した。
・あけみは蘭子の部屋へ入っていった。あけみは蘭子に例の写真を示そうとした。そのと
 き、ふっと、二つの疑問が浮び上がってきた。蘭子もやはり欺されているのではないだ
 ろうか。自分たちの恋のしるしのための撮影だと思い込んでいるのではないだろうか、
 ということ。もう一つは、ホテル部屋で、男が執拗な口調で、あけみも写真に撮されな
 いか、と誘ったこと。それはあのような光景によって刺戟し混乱させ、さらには共犯の
 意識さえ起こさせて、あけみの写真も撮してしまおうと企んでいたのではなかったか。
・あけみは一瞬ためらったが、思い切って写真を差し出した。蘭子は「あらあら、もうあ
 けみさんの手に入ったの。悪事千里を走るだわねえ。わるいことはできません」と、甘
 えるような口調に、道化た調子を含めて言った。
・「あなたたち、わたしを道具にして、一層昂奮しようとしたためなの」「本当はあけみ
 さんにもお金儲けさせてあげたかったのさ。彼氏、あれで大分儲けたのよ」「あなた、
 こんな写真がいっぱい、いろいろな男に見られることも考えても、なんともないの」
 「あたしね、その写真をみて、たくさんの男が昂奮していると思うと、なんとなく肌が
 ヒリヒリするようないい気分になってくるの」「それにしてもあけみさんて、案外初心
 なのねえ」あけみは、その言葉を聞きながら、この街へのはげしい嫌悪を覚えたのであ
 る。
・翌日の夕刻、立派な体格のあの薪炭商が娼家に現われた。かなり離れた場所にある遊園
 地まで出かけて行って、ウォーター・シュートに乗らないかとあけみを誘った。
・「あけみさん、俺はあんたにあそこに居てもらいたくないんだ。俺は、あんたが他の男
 に抱かれるとおもうと・・・」という、男の口ごもりがちな言葉があけみの耳に届いた
 とき、彼女の眼には、白い水しぶきと空中で身をくねらせている船頭の黒い影が映って
 いた。「あけみさん、俺と結婚してくれないか」男の声は大きく、舳で竿を握っている
 若い船頭の肩がびくりと揺れた。
・あけみはあの街に入って半年に満たないのだが、その間でも数人の男からそのような
 言葉を聞いた。しかし、それは結局、妾になれば部屋でも持たせてやる、とかそれに類
 似の意味であった。 
・これども、今の男の言葉には、求愛のひびきがあったのである。
・男と二人で、家庭を営む、という形の魅力は、女の心に働きかけるというより、もっと
 根深く、女という存在を作り上げている細胞全体に働きかけてゆく。女性は種族を保存
 してゆくための一つの営み、すなわち出産の苦痛を引き受けているので、男性に比べて
 皮膚に痛点が少ないということだが、そういう生理組織全体をひっくるめてのものに、
 働きかけてゆくのだ。
・あけみは、次の瞬間、自分を動揺させたのはその言葉を発した男から切り離されたひび
 き、そのひびきの意味するもので、相変わらずその男には自分は無関心であることに気
 付いた。 
・傍に立っている薪炭商の大きな肩が、あけみの体を押していた。そのとき、ふっと、元
 木英夫という男のことが浮んで、すぐに消えた。
・最近では、瑠璃子は全身で彼が気に入っている様子であった。このところ、彼女が初恋
 の男のことを話さないのに、元木は気付いていた。それは、ふたたび白い色に戻った彼
 女の全体が、相手の男の好む色に染められているのを待っている姿に見えた。
・軽い痴呆感に覆われた、純情な女の姿。あの見合いの日、瑠璃子の前に現われた男が他
 の人物であったとしても、ただ彼女の話を親切に訊いてやり、次に、その体を奪う行為
 さえ持ったなら、瑠璃子はやはり同じ経緯を辿ることだろう。と元木英夫は考えている。
・彼は両手の掌で彼女の両肩を挟んで、その柔かい小さな体をじわりと押し潰してしまい
 たいように、烈しく彼女に向って傾斜してゆく気持ちを覚える。彼は瑠璃子との交際に
 おいては、精神は関与していないと考えている。しかし、こういう際には、彼女の肉の
 奥からやさしく掌に触れてくる肩の骨の手応えなどが、いわゆる精神的と称する会話以
 上に彼の心に語りかけてくるようになっていた。
・一方、元木は隅田川東北の街からの望月五郎の伝言を不意に思い出した。あけみという
 女が、瑠璃子とまったく対象的な存在として浮び上がってきた。この二人の女は、それ
 ぞれ棲んでいる場所が入れ違っているように思える。まったく、娼婦というものは、赤
 線地帯とか青線地帯とかに居るものではないのだ。しかし、実際のあけみという女の姿
 を脳裏に描こうとすると、目鼻立ちも集まってこない漠然とした形しか備えないのに、
 彼は気がついた。この瞬間、昼間に写した春子の写真を届けかたがた、一人であの街へ
 行きあけみという女と会ってみようという考えが、元木英夫の中に入り込んできた。
・瑠璃子にとっては元木英夫との交際は、何の疑念もなくそのまま結婚という形につなが
 っているのだ。しかし、彼にとっては、瑠璃子と結婚するという形が考えられるという
 ことに今はじめて気付いたような気分になった。お互いが根気よく理解しようとするこ
 とを続け、忍耐をつづける上に築き上げて行かなくてはならぬ結婚という一つの事業。
 そのことに、瑠璃子と一緒に這入って行こうという気持ちは、彼にはどうしても起こっ
 てはこないのだ。そのことにもっとも不適当な女として、彼女を思い浮かべることしか
 できない。
・彼は瑠璃子とこうして街路を歩いているのが不自然な気分になってくる。いま彼女の言
 った結婚という問題に関して会話してみようと思うのだが、それも似合わしくない気持
 ちになってしまう。彼は、瑠璃子と皮膚を密着させ、腕をからみ合わせていないことが、
 間違いのような気分に引込まれてしまう。
・二人の歩いている街路は、しだいに川に近づいてゆく。そして結局、彼らはいつもの小
 さなホテルの部屋の中で、二人きりになってしまうのだ。その部屋の中で、元木英夫の
 眼に映る瑠璃子はにわかにいきいきしはじめる。
・明るく降りそそぐ電気の光の下で、彼女の体のすべての部分が、さまざまのことを彼に
 ささやき、疲れることなく語りつづける。しかし、やがて午後九時が来ると、腕時計に
 眼を近づけた瑠璃子は言うのだ。「もう帰らないと、お母さまが心配するわ。それに、
 わたしたちはまだ婚約中なのですものね。あまり、だらしなくするといけないわ」
・その日の夕刻から数時間ののちにあけみは元木英夫を迎えた。彼が「じつは、今日は頼
 まれた用事もあったのでね」と弁解めいた口調で、春子の写真をあけみに差し出し「君
 から春子君に渡してあげたまえ」と話すのを聞いたとき、あけみは不意に自分の眼が涙
 で潤いはじめ、視野にあるものがそれぞれの輪郭からはみ出してゆくのを見るのだった。
・あけみは、望月五郎がフィルムの入っていない写真機で春子を撮したことを知っていた。
 蘭子から聞いて、知っていたのである。あけみはそれを重い気持ちで聞いた。その侮辱
 が、自分の身にまで及ぶ気持ちであった。
・元木英夫の差し出した写真を見て、あけみは一瞬とまどったが、すぐに彼の言葉の嘘に
 気付いた。そして、春子の写真を彼が持っている経緯も、推測できるような気がした。
 彼女は自分の推測が間違っているかもしれない、とも考えた。しかし、涙はすでに流れ
 はじめていた。
・気がかりな人物に会えたということも、彼女の気持ちを弛めていた。あけみは、思いや
 り深い心に触れる気持ちになって、それが彼女の脆くなっている心を擽ったのである。
 涙は、もとの心に復してからも、それだけが別の生理に属しているようにとめどなく滲
 み出してきた。あけみは元木英夫という男を前にして、むしろ戸惑いながら言った。
 「あなたは、やさしい方ね」あけみは、ふたたび繰返して、その言葉を慈しむようにゆ
 っくり唇に上せた。
・女性の泣く姿は、一種刺戟的な風情のあるものだ。長い睫毛が濡れて、黒くきらめいて
 いる女の瞳を、彼は美しいと思って眺めた。と同時に、その涙につながる女の心を、や
 はり平凡なあたりまえの女のものであったか、と見てしまう。
・そのとき、彼の前に在るのは、涙ぐんでいる美しい娼婦であった。そして、その姿態と、
 記憶のなかにあった女のにわかの変貌とが彼を刺戟した。彼はあけみを抱こうとするの
 であった。 
・あけみの涙は、じつは、場違いな位置に身を置いてしまった人間の、苦しみの積み重な
 って溢れ出たものと、結局においては言えるのであるが。
・あけみが男の体に接触するときの平素の習慣として、彼女は元木英夫という男の姿を浮
 べ、その幻影に縋ろうとした。そして、相手の男が他ならぬ元木英夫であることに、今
 更のように気付いた。そのとき、彼女と男のあいだの膜、つまり彼女と相手との体を遮
 るための砦が取り除かれ、あけみの体は相手に直接溶け入って、燃え上がった。
・あけみは、ふと一つの疑問に行き当たった。先刻、自分が元木英夫という男の下に在っ
 たとき、自分の両腕が体の裏側から脱れ出て、男の背にまつわり、掌が相手の背中で異
 常に熱したのではなかったろうか。思わず掌を眼の前に上げて、彼女はそのひろがりを
 凝視した。そして呟いた。「わたしが、あの男を愛しているということになるのだろう
 か」
・娼家で事件が起こったのは、その夜半、正確にいえば午前二時であった。しかし、翌朝
 の午前十時まで、事件は小さな部屋に閉じ込められたままになっていた。十時になって
 も起きてこない女たちの部屋の扉を、その店のママが一つ一つ開いてまわった。早苗と
 いう女の部屋の扉を開いた瞬間、爆発するような音とともに中から烈しい勢いで転がり
 出て、戸口に立っているママの体に突き当ったものがある。彼はママさんの足にしがみ
 つくような姿勢になって、「人殺しだ!」と、今度は意味を成している言葉を叫ん
 だ。開いた戸口から見とおせる部屋の中には、地で濡れている敷布団の上に仰向けに倒
 れている女の体と、その傍に放心したように胡座している職人風の若者の姿が見えた。
・医師は、倒れている女の体をちょっと調べて、すぐに首を振った。鋭利な刃物で、心臓
 部が深く抉られてあった。ほとんど声も出ない即死であった。
・しだいに事件の輪郭が彫り出されてきた。早苗という女が、十二時ごろその夜もう一度
 現われた男を断ったとき、その若い大工は泥酔にちかい状態だったそうである。それか
 ら約一時間後、彼女が階下の自分の部屋で、泊り客と寝ていると、隣家との境の細い路
 に面した窓から不意に躍り込んできた男が、先刻の若い大工だったわけである。その男
 は、片手に握りしめていたノミでいきなり女の心臓部を抉った。
・それまで一言も口を挿まなかった薪炭商の男がぽつりと言った。「その早苗さんという
 死んだ女は、身もとを引き受けている人がはっきりしているのかね」しばらくそのまま
 沈黙が続いて、やがてユミが、「なんでも、はっきりしない、ということよ」
・その瞬間、もう一度薪炭商の男の冴えない声が響いた。「あけみさん、やっぱりわしと
 結婚しようじゃないか」「・・・・」「そうか、やっと、承知してくれたか」そういう
 男の声に、はじめて、あけみはいま自分の首が縦に動いて、承諾に意を示したことを知
 った。
・あけみが思わず結婚承諾の気持ちを示してしまったとき、男の言葉は、その場の空気と
 その言葉を発する時期を、鮮やかに捉えていたものだった。無骨で不器用そうな男の示
 したこの事柄について、あけみが気付いたのは、男が帰ってからかなりの時間が経って
 からだ。
・あけみは、男が彼女のまわりから娼婦である痕跡をすべて洗い落とそうとして懸命にな
 りはじめたのを見ると、一層自分自身の身の回りに漂っている空気について、自信を失
 ってしまう。そして、そういう相手にも自分自身にも烈しい嫌悪を覚えて、このまま相
 手にも自分からも眼を背けて、じっと街の中にうずくまってしまいたい気持ちに襲われ
 る。しかし、すでに一つの方向に進んでいる流れの上に自分の身を委ねてしまおうと思
 う気持ちが、首をもたげる。そして、あけみはいっそのこと自分の掌が、薪炭商の背に
 密着して灼熱することを、奇跡を待つ気持ちで願うのだ。
・しかし、そのことは起こらない。それどころか、別の事柄が起こるようになった。この
 男に結婚を承諾して以来、逞しい男の胸に抱かれて、いつものようにあけみが自分一人
 の快楽に溺れることさえ、出来なくなってしまったのだ。
・男は、ますます綿密に計画を進めはじめる。その様子を眺めていると、あけみは自分が
 この町を抜け出してふたたび売春の位置、それも自分一人のための快楽さえ覚えられぬ、
 特定の一人にたいしての娼婦の場所へ向って押し流されているという気持ちに陥ち込ん
 でゆく。
・しかし、あけみはあらためて男へ拒絶の言葉を投げかける気持ちも失っていて、事の成
 り行きに流れてゆく。時折、男が懸命になるほど自分には娼婦の臭いて染みついてしま
 ったのだろうか、と疑う気持ちも衝き上がてくる。
・新造貨物船のレセプションの日が来た。接待役の元木英夫は、一休みして舳の柵に寄り
 かかり、瑠璃子母娘と雑談していた。瑠璃子は、母親に顔を寄せて、充足した視線を一
 緒に彼の方に向けていた。二十歳あまり年齢の隔たりのある二人の女の顔は、こうして
 並べてみると奇妙なほどよく似ていた。彼は、その顔を見ていると、精巧な人造人間と
 対い合っているような錯覚に、ふと捉えられる。
・「見合い」という形式から始まった瑠璃子との交際であるから、「結婚」という形に辿
 り着くことは当然のことになるわけなのだが、彼には少しも瑠璃子と結婚する気持ちは
 ない。元木英夫のなかに「どうやら、これは冗談が過ぎたようだ」という気持ちが這入
 りこんでしまう。
・彼女たちの後姿が、船首から中甲板に降りるタラップに達さないうちに、中甲板から上
 がってくるなまなましい色彩の一群が、彼の眼に映った。あけみの姿も、その群に混じ
 っていた。
・瑠璃子とあけみとは、未知の人間としてすれ違った。元木英夫があけみに視線を移した
 ときには、瑠璃子を見送った眼の色が、そのまま残っていたのである。そして、彼の眼
 の色にするどく懸っていたあけみの心を、その色は深く抉ってしまった。
・そのとき、タラップに達した瑠璃子が、振り向いて笑顔を示しながら大きく手を振った。
 彼はそれを苦笑で答え、その眼をふたたびあけみに戻した。彼の視線の行方を追って、
 振り向いたあけみの視線が、華やかな令嬢の姿を捉えた。
・すでにあけみは、彼の眼の色によって、身の置き場所を失った気持ちになっていた。彼
 の眼の示す意味を、あけみは取り違えていたのであるが。その彼女の気持ちは、瑠璃子
 の姿によって一層はげしくバランスを失った。
・自分の立っている地点から一瞬の間に消失してしまいたい、という気持ちが烈しくあけ
 みを捉えた。どういう動作をしようというはっきりした意識はなかったが、彼女の体は、
 一つの塊となって正面から元木英夫にぶつかって行った。あけみは、その咄嗟の間にふ
 っと男の体臭を感じた。
・不意をつかれた彼の体は、あけみと縺れ合って、柵の外の空間に投げ出された。体にし
 っかり取り縋っている女の腕を感じながら、彼は何のためにこんなことになったのか、
 一瞬訝った。あけみの脳裏にも、一瞬閃いたものがあった。それは、身の置き場所のな
 くなった自分を、見えない巨大な手が新しい空間へ弾き出してくれた、という気持ちで
 ある。
・しかし、いずれも瞬時のことで、たちまち彼らの体の周囲に烈しく空気が鳴り、呼吸の
 困難を覚え意識が薄れかけたとき、幾回かの回転のあげく脚をさきにして二つの体は水
 面に切り込んでいった。長い距離を引き込まれてゆき、ふたたび水面に浮び上がったと
 き、彼は女の体をつき放そうとした。しかし、女の腕には必死の力がこもっていた。
・それは殺意ではなかった。あけみが泳げないためにした、本能的な行為なのである。
・水夫たちが数人、この男女を救うために、泳ぎ寄っていった。沢山の人間たちがてんで
 に声を出している騒音が元木英夫の意識に入ってきた。不明瞭なその音の塊のなかで、
 ひときわ高い声が発した言葉を、彼は最初に耳にしたのである。「おい、見ろや、まる
 で、兄妹みてえじゃないか!桟橋に並んで横たえられている元木英夫とあけみが、兄妹
 と見紛う顔になっていた。
・娼家の主人や女たちの姿が、ごく近くで二つの溺れそうになった体を覗き込んでいた。
 彼の眼には、みんな訝しげなやり切れない光が宿っていた。「これはどうしたわけだ。
 この男が店に来たのは、たった二回きりのことじゃなかったか」
・明るい夏の光が、あけみの体のまわりにいっぱい溢れていた。その背景に、あの薪炭商
 の顔が大きく浮び上がる。にわかに、その眼の瞳孔が大きく拡がる。笑いが彼の顔から、
 拭い去ったように消えてしまう。そして、彼の顔はくるりとうしろを向いてしまった。
・あけみの眼の前に垂れ下がっている幕のようなものが消えて、やっと、彼女は現実にそ
 こに立っている人間たちの姿を見ることができるようになった。そして、あけみは多く
 の眼が、疑わしげに探るように、自分に集まっていることに、まず気付くのだった。あ
 けみは、ふたたびあの街に戻って行こうとしている、自分の心を知るのであった。