利休にたずねよ :山本兼一

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私はいままで、利休というと、その時代にちょっと名の知れた茶坊主のひとり、という認
識しか持ち合わせていなかった。なぜ、そんな茶坊主が、秀吉によって切腹させられたの
だろうと、今まで不思議に思っていた。
この小説は、その経緯がよくわかる内容となっている。この小説は、ひと言で言ったら、
「男の嫉妬」を描いたものとも言えるのではないか。天下人となった秀吉が、茶の湯の世
界の頂点に立つ利休の才能に激しく嫉妬したのである。秀吉は、茶の湯の世界でも、自分
が頂点に立ちたかった。しかし、いくら金銀を注ぎ込んでも、利休の持つ才能ばかりは手
に入らない。秀吉は、茶の湯の世界において、自分より上に立つ利休の存在が、我慢なら
なかったのだろう。
この本を読むと、利休がめざした「侘び・寂びの世界」とはどういうものなのか、少しわ
かった気がする。侘びたなかにも燃え立つ命の力の表現がなければならない。利休のめざ
した侘びの世界は、そんな世界なのだ。
それにしても、この小説はなかなか感動的であった。歴史的事実として、このような話が
あったかどうかはわからないが、利休と「高麗の女」との恋物語には、どんどん引き込ま
れていった。最後には、心にじ〜んと来るものがあった。ときめきがある、なかなかいい
小説だ。


死を賜る :利休 (天正十九年二月)
・死なねばならぬ理由など、なにひとつありはしないのだ。すべては、あの小癪な小男の
 せいである。女と黄金にしか興味のない下司で高慢な男が、天下人となった。そんな時
 代に生まれあわせたわが身こそ不運である。
・頭を振り、なんど追い払っても、すぐにまた禿げ鼠にも似た男の顔がうかんでくる。そ
 のたびに、怒りがこみあげた。釜の湯が大濤を鼓って沸くように、こころに忿怒がたぎ
 っている。 
・「わしは、あやまらんぞ」「この期におよんで、頭を下げるくらいなら、とうの昔に茶
 頭などやめて、どこぞに隠遁しておった」
・あまたの男たちをかきわけて天下人にのぼりつけただけあって、秀吉はさすがにあなど
 れないところがある。俗悪な派手好みだが、それも極めれば、脱俗、超俗の境地に通じ
 る。そんな凄みを見せられ、うなったこともあった。なまじいな男ではない。惜しむら
 くは、天地悠久への懼れを知らぬことだ。いや、知らなさすぎる。なんでも自分の権勢
 でうごかせると思い込んでいる。 
・ただ一碗の茶を、静寂のうちに喫することだけにこころを砕いてきた。この天地に生き
 てあることの至福が、一服の茶で味わえるようにと工夫をかさねてきた。
・わしが額ずくのは、ただ美しいものだけだ。美の深淵を見せつけ、あの高慢な男の鼻を
 へし折ってやりたい。秀吉の茶頭となって、そう思い暮らすうちに、あっという間に九
 年がすぎた。
・この屋敷は、二日前から秀吉の命令で三千人の兵が囲んでいる。利休を助け出すために、
 大名のだれかが軍勢をさし向けぬともかぎらない。それほどに、秀吉は、美の権威者と
 しての利休をおそれている。
・「あなた様には、ずっと想い女がございましたね」「なんと言うた」「恋しい女人がい
 らっしゃったのではないかと、おたずねいたしました」「あなたには、わたしくよりお
 好きな女人が、おいでだったのではございませんか」利休は、宗恩を見つめた。すでに
 六十をすぎているが、品のある顔つきには、そこはかとない艶がある。その妻が、思い
 がけぬ嫉妬を口にしている。
・宗恩と知り合ったのは、もう四十年もむかし、利休が三十歳のころだ。色白な瓜実顔を
 ひと目見て、おだやかで感じやすいこころをもった女だと惹きつけられた。こころ根の
 たおやかさが、顔にあらわれた女だ。
・そのころ、利休には妻がいた。宗恩には夫があった。この夫はまもなく亡くなり、利休
 は宗恩の暮らし向きを世話するようになった。そのまま月日がながれ、五十をいくつも
 すぎたころ、利休の先妻が亡くなった。喪の開けるのを待って、宗恩を正式な妻として
 迎えた。三十、四十代のころは、ほかにも世話をしている女がいたし、子も生ませた。
 それはむかしの話だ。
・「ばかな話だ。わしはおまえに眞を尽くした。知らぬはずがなかろう」そのことばに嘘
 はない。七十のこの歳まで、何人もの女を抱いたが、宗恩がいちばんだと心底思ってい
 る。ものに感じやすく、うるおいのある女だ。実際、宗恩よりこころにかなった女は、
 ひとりもいなかった。   
・しばらくのあいだ、あらがうように見つけ返していた宗恩が、やがてくちびるを噛みし
 めた。「一期の終わりにこころを乱し、妄言を口にしてしまいました。お許しください」
 手をついて頭をさげた。
・突然、雨脚が強くなり、屋根のこけらがはげしい音をたてた。その途端、思い当たるこ
 とがあった。あの女のことか。宗恩は、聡い女だ。肌をかさねるうちに、利休のこころ
 を、奥の奥まで感じ取ったのであろう。
・五十年もむかしお話だ。口に出したことはない。だれに話したこともない。それでも、
 その女の凛とした顔は、忘れたことがない。いつもこころのなかに棲んでいる女。そこ
 にいるのが当たり前すぎて、気にもとめていなかった。あの女。十九のとき、利休が、
 殺した女である。
・狭い、といえば、狭い。じゅうぶん、といえば、じゅうぶんな広さがある。わずか一坪
 に満たない空間だが、利休ならば、そこに天地星辰の悠久も、人の命の儚さも、存分に
 表現できる。狭いからこそおもしろい。
・海をわたって来た女だった。無理につれて来られた女だった。女は、高貴な生まれであ
 った。きわだって凛々しく美しい顔だちをしていた。倭人を憎んでいたにちがいないが、
 つねに超然として威厳があった。目にしなやかな光があって、十九の自分などは、まっ
 すぐに見つけることさえできなかった。     
・わしの茶は。あの女を客として迎えようとしていたのか。そんな風に意識したことはな
 かったが、いま、気がついた。この狭い茶室は・・・。
・秀吉は、この一畳半の茶室を嫌っていた。最初に招いたとき、にじり口をはいって、ま
 ずつぶやいた。「牢のように狭くて陰気でいかん」たしかに狭い。そして暗い。
・あの女とともにすごした狭く枯れ寂びた空間で、あの女をもてなしてやりたかったのだ。
・利休は、香合の蓋を開けた。丸い練り香が入っている。小さな壺を傾けると、何粒かが
 掌に転がり出た。さらに傾け、練り香をすべて出した。黒文字で、小壺のなかをさぐり、
 畳んだ紙包みを取り出した。紙を開くと、小さなかけらが二つあった。あの女の小指の
 骨と爪である。細長くかたちのよい爪は、奇跡のように桜色の艶めいている。
・「今日は、あなたの葬式にしましょう」声に出してつぶやき、骨と爪を赤い炭火にのせ
 た。青い炎がちいさく立って、骨と爪を包んだ。
・一畳半の席に、三人の客がはいった。秀吉からつかわされた切腹の見届け役である。
 「 上様は、貴殿からの助命嘆願をお持ちでござる。ただひとこと、お詫びをなされま
 せ。それがし、いますぎに上様の午前にとって返し、そのこと、衷心お伝え申す。さす
 れば、なんのお咎めもございません。
・過日、秀吉の使者がつたえた賜死の理由は二つあった。大徳寺山門に安置された利休の
 木像が不敬であること。茶道具を法外な高値で売り、売僧となりはてていること。しか
 し、木像は、山門重層部寄進の礼として大徳寺側が置いたものだし、茶道具のことなど、
 言いがかりもはなはだしい。
・秀吉は、利休が気にくわないのだ。美を思うがままにあやつり、美の頂点に君臨する利
 休が許せないのだ。    
・「その香合は、唐のものでござろうか」「高麗にてそうろう」「そういえば、いつぞや
 上様が、怒っておいでだった。利休の持っている緑釉の香合は、稀代の珍物。ぜひにも
 欲しいが、あやつ、なんとしても譲ろうとせぬ、と。この香合のことでござろう」
・ひと目でも見ればかならず欲しがるのはわかっていた。見せるつもりはなかたが、博多
 箱崎の松原で野掛けをしたときについ使ってしまった。袂で隠していたが、秀吉は目ざ
 とく気づき、手に取ってしかと見せよとねだった。しょうことなしに見せると、すぐに
 所望した。首をふった利休に、秀吉が食い下がった。ついに、黄金一千枚を出すとまで
 言った。
・「お許しください。わたしに、茶のこころを教えてくれた恩義のある方の形見でござい
 ます」手をついて平伏した。秀吉の目が、韓紅花の袋にとまった。じっと見つけていた。
 「女人じゃな。女の茶をなろうたか」「隠すな。見通しじゃ。ならば、その女人の物語
 をせよ。どんなおなごであったか。おまえが惚れたなら、さぞ麗しい美形であろう」
 「閨では、どんな具合じゃ。話して聞かせれば、もはや望みはせぬ。さあ、さあ」
・利休は、小袖の上から腹をなでた。「そろそろ、まいろうず」利休は、室床の框に腰を
 おろし、小袖の前をはだけた。「この狭さでは、首が刎ねられぬ」「ならばご覧じろ。
 存分にさばいてお見せせん」
・瞼を閉じると、闇のなかに凛々しい女の顔がくっきりとうかんだ。あの日、女に茶を飲
 ませた。あれからだ。利休の茶の道が、寂とした異界に通じてしまったのは。
  
おごりをきわめ :秀吉 (天正十九年二月二十七日:利休切腹の前日)
・これで、清々する。秀吉は、扇子で自分の首の根をひとつ叩いた。ながいあいだ喉の奥
 に刺さって取れなかった小骨が、やっと取れる。天下人秀吉に、逆らう者は、もうただ
 の一人もいなくなる。 
・九州の討伐を終え、小田原を陥とし、関東、奥州の仕置きは、ぬかりなくととのった。
 百姓たちの刀を狩り集め、日の本のあらゆる僻地まで田畑の検地がすすみつつある。い
 まや、三つの子でも関白秀吉の権勢を知らぬ者はない。
・天下のすべてが、秀吉の掌にのっている。指一本うごかすだけで、あらゆるものが手に
 入る。人がひれ伏す。秀吉の威光は、すでに海を越えて、天竺にまで達している。   
・それなのに。あの男。天下にただ一人、あの男だけがわしを認めようとせぬ。許せるも
 のか。許してよいはずがない。千利休のことである。「図にのりおってからに」思わず
 声にして吐き捨てていた。舌にでたことで、さらに腹立たしさがこみ上げてきた。
・秀吉の聚楽第には、広い敷地にいくともの館があるが、池のほとりに建つこの館は三層
 で、いちばん上にのった摘星楼は、眺望のきく八畳の座敷である。そこに、金箔貼りの
 床の間がある。 
・利休でさえ、この趣向には感服した。四年前、ここをつくったとき、夜明けに来いと呼
 んでおいた。「まこと、玄妙とはこのこと。弥勒のまします席と存じます」「どうだ、
 これがわしの茶の席だ。幽玄であろう。恐れ入ったか」「上様のご趣向の妙、恐れ入り
 ましてございます」あのときばかりは、傲慢な利休が、素直にひれ伏した。あれほど留
 飲がさかったことはない。   
・しかし、あれきりだ。あの男は、あのときのほかは、冷ややかな眼でしか、わしを見た
 ことがない。だいたいあの男は、目つきが剣呑で気に喰わぬ。首のかしげ方がさかしら
 で腹が立つ。黄金の茶室といい、赤楽の茶碗といい、わしが、いささかでも派手なしつ
 らえや道具を愛でると、あの男の眉が、かすかに動く、そのときの顔つきの高慢なこと
 といったら、わしは、生まれてきたことを後悔したほどだ。まこと、ぞっとするほど冷
 酷、冷徹な眼光で、このわしを見下しておる。
・なぜ、あの男は、あそこまでおのれの審美眼に絶対の自負をもっているのか。悔しいこ
 とに、あの男の眼力は、はずれたことがない。だからこそ、歯噛みするほど口惜しい。
 ただの的はずれな茶坊主なら、叱りつけて追い出せばすみことだ。そうではない。悔し
 いが、ただ者でないことは認めねばなるまい。あの男は、こと美しさに関することなら
 誤りを犯さない。それゆえによけい腹立たしい。道具の目利きもさることながら、あの
 男のしつらえは、みごとというほかない。あっぱれ天下一の茶人である。
・「おぬし、茶の湯を知らぬな」と秀吉はいった。上杉景勝がうなずいた。「茶は身の養
 生に飲みますが、数奇のなんのは存じませぬ。数奇者となると、謀叛がしとうなります
 か」武辺好みの上杉の家風なら、茶の湯をたしまなんでも、淫することはあるまい。
 「茶の湯には、人のこころを狂わす魔性が潜んでおる。おぬしは、それを知らぬのだ。
 いや、知らぬほうがよいがな」秀吉の脳裏に、利休の弟子の細川忠興古田織部の顔が
 うかんだ。「茶の湯にはな、人のこころを狂わせる魔性の遊芸よ。茶の湯に淫すると、
 人は我を忘れて、欲と見栄におぼれる」「茶の湯の道具やしつらえに凝りだすと、底な
 し沼に足をすくわれるということだ」 
・金も銀も蔵にうなっている。兵や鉄砲、名刀、名馬、書画はもとより、美姫も官位も、
 みんな飽きるほど手に入れた。この聚楽第の壮麗さはいうまでもない。二年前、あまり
 にも金があまって飽きはててしまったので、金五千枚を積み上げて公家や侍に配った。
 その日は痛快だったが、翌朝目がさめたときは、砂を噛むような寂寥におそわれた。あ
 んなことをするくらいなら、たとえ土くれでも、名物茶入を愛でていたほうが、よほど
 こころの養いになる。
 
知るも知らぬも :細川忠興 (天正十九年二月十三日:利休切腹の十五日前)
・「おいでのようです」細川忠興がつぶやくと、ならんで立っていた古田織部がちいさく
 うなずいた。むこうに、川沿いの街道をやってくる行列が見ている。「咎人のあつかい
 か」騎馬武者をまじえた五十人ばかりの隊列が、粗末な駕籠を油断なく警固している。
 鼠色の道服を着た男がおりてきた。堺に下る利休である。「おいたわしや・・・」遠目
 にも、利休の憔悴が見てとれた。
・秀吉という男は・・・。よくよく人のいやがる弱みを知っていると、忠興はあきれた。
 利休追放の行列を、ことさら茶の湯の弟子の左近に差配させるという残酷な趣向は、常
 人では思いつくまい。  
・秀吉の怒りをほぐすため、すでに利休自身がうごいていた。京に来ている会津城主蒲生
 氏郷や、摂津の柴山監物など、弟子のなかでも秀吉に近い者たちに助命工作を頼んだが、
 秀吉の怒りはいっこうにおさまらず、ついに今日の追放となった。
・「人の驕りも卑屈も、手にとるように見えてきます。上様のおこころは、かねて察して
 おりましたが、さりとて、茶の湯の道を曲げる気にはなりません。その結果が、今日に
 御沙汰です。甘んじて受けましょう」つぶやいた利休の目は、穏やかだ。煩悶のはてに、
 諦観に達した顔つきである。
・細川忠興の父幽斎は、古今伝授はもとより、有職故実、能、音曲、料理など諸道に通じ、
 いずれも奥義をきわまている。利休とも親交は深いが、幽斎は幽斎なりの茶の湯の道を
 あゆんでいる。「帰ってきたか。利休がおまえになにをくれたかと、思案しておった」
 幽斎の前に、白絹で包んだ四角い箱が、ほどかぬままに置いてある。ひょっとすると、
 あの緑釉の香合か・・と、忠興はこころが高鳴った。霧箱の紐をとき、蓋を開けると、
 黄色い仕覆あらわれた。仕覆ををひらくと、長次郎が焼いた黒楽のふくよかな茶碗であ
 る。
・「がっかりしたな。緑釉の香合がほしかったのではないか」図星を指された忠興は、父
 を見つめた。「父上もあれをご覧になりましたか」「炭をなおして、香をくべるとき、
 手の間からちらりと眺めたばかりだが、あれはよい香合だ。あの緑釉は、高麗の古い時
 代のものだ。数ある利休の道具のなかでも、まずは文句なしに第一等の品」「私も同じ
 です。拝見を所望するのさえはばかられるほど、そそくさとお仕舞になってしまわれま
 した。
・利休にとくに可愛がられている弟子は七人いるが、忠興は、そのなかでも一目も二目も
 置かれていると自負していた。いったい、あの緑釉の香合は、だれにわたすつもりであ
 ろうか。それとも、だれにもわたさないつもりなのか・・・。
・「おまえは、利休からなにを学んだ」いきなり喉元に短刀を突きつけられた気がした。
 「ちとは、ましなことを学んだかと思うたら、まこと、凡愚なせがれであった。ちかご
 ろは、知るも知らぬも茶の湯とて、数奇のふりばかりしたがって、困った世の中よ」
 立ち上がろうとする父を、忠興はにらみつけた。「おまえのは、ただの真似ごとだ。利
 休にそういわれたことはなかったか」忠興は喉をつまらせた。たしかに、利休にそう指
 摘されたことがあった。
・「どんな道でも、上手のなすことを真似るのは、大事と存する」幽斎が首をふった。
 「ちがうな。おまえは利休に目をくらまされておる。あの男は、たしかにたいした男だ
 が、だからといって、おまえが創意を怠ってよいはずがない」
・閨の障子が、月光で赤い。白い乳房をもみしだくと、ガラシャは甘い吐息をもらしてあ
 えいだ。すがりついた爪が、忠興の肩にくいこんだ。ふたりのはげしい呼吸がおさまっ
 て、夜の底に沈んでいると、ガラシャがたずねた。「いかがなさいました」妻のからだ
 に夢中になっているときは忘れていた父のことばが、いま、体内をかけめぐっている。
・忠興は、あくまでも武人である。血腥い戦場の興奮を鎮めるためにこそ、茶の湯をたし
 なんでいる。けっして、いまどきの風潮におどらされ、浮ついた気持ちでやっているの
 ではない。実際、忠興は、勇猛な男であった。妻のガラシャが明智光秀の娘なので、細
 川親子は、本能寺の変のあと、光秀方と目されていた。くり返し潔白を証して、ようや
 く秀吉から丹後の旧領を安堵された。 
・ガラシャはガラシャで、とてつもなく芯の強いところがある。いつだったか、庭師がガ
 ラシャの居室をのぞいたので、忠興が一刀のもとに首を刎ねた。血のたぎった忠興が、
 その首をガラシャの膝に投げると、この女は顔色ひとつ変えずに受け止めた。そんな女
 である。人の心底を見抜く直感力は、忠興も信頼している。

大徳寺破却 :古溪宗陳 (天正十九年二月十二日:利休切腹の十六日前) 
・古溪宗陳は、かつて大徳寺の住持であった。いまも、長老として深い関わりがある。
 三年前、宗陳は秀吉の怒りにふれ、九州に配流された。秀吉をなだめすかし、赦免をと
 りつけてくれたのは利休であった。  
・去年の夏、ゆるされて京にもどってくると、山門に堂々たる楼閣ができあがり、なかに、
 等身大の利休の木像が安置さえていた。それが、いまの騒動の火種になっている。
・秀吉の前にいるとき、利休は茶頭として、いたって慇懃である。しかし、野育ちで野卑
 な秀吉を内心軽蔑していることは、態度のはしばしにあらわれていた。いつかそれが秀
 吉の逆鱗にふれはしまいか、と、宗陳は以前から危惧していた。
・あれほど、一徹な男もめずらしい。美にかかわることならば、豪もじぶんを曲げない。
 だれにも阿らない。相手が秀吉だろうが、地獄の閻魔であろうが、一歩も譲るまい。
 仮に、死を賜ったとて、ただ従容と受け入れはすまい。
・先日、利休屋敷で、みごとな絵を見た。金箔貼りの屏風に、色白の美女が描いてあった。
 生きてそこにすわり、おだやかに微笑んでいるかのようだった。宗陳はつい見とれてし
 まった。「和尚様にも、まだ、女人への煩悩が残っておいでですか」利休が嬉しそうに
 笑って、薄茶の碗をさしだした。「どんな美人も、なれの果ては髑髏。つねづねそう念
 じておりますが、いや、やはり美しい女人の力にはかなわん。こんな女性がほんとうに
 おるなら、わしとて、法も寺も捨てて出奔しかねませぬ」「それはまたしょうじきなご
 述懐でございますな」
・「して、この女人はどなたであろうか。天女とは見えぬ。物語のなかの女でもなさそう
 だ。まこと、この世にいる生きた女人に見えますな」利休に顔がわずかに曇った。「楊
 貴妃でございます」楊貴妃の絵なら知っている。国を傾けた唐の女だ。腰をしならせ、
 妖艶な流し目で、誘うようにこちらを見ているのがお定まりの図柄である。添えてある
 花は、可憐な牡丹ときまっている。金屏風の女には、いささかも媚びたところがない。
 天女の羽衣のごとき韓紅花の衣をまとい、膝をくずして斜めにすわっている。凛とした
 端整な顔だちで、潤んだ瞳が前に置かれた緑釉の香合を見つけている。おだやかに微笑
 みながらも、どこかさみしげであった。ただそれだけの図柄なのだが、女には、男なら
 どうしてもほうっておけぬ色香があふれていた。見ていると、そばに寄って細い腰を抱
 きしめたくなる。女が目線をおとしている緑釉の香合は、以前、利休に見せてもらった
 ことがある。「これは、高麗の女人ではござらぬか」たずねたが、利休は首をふった。
・秀吉の気まぐれには、みなが振り回され、辟易している。いまから七年前、秀吉が信長
 の菩提寺を創建すると言い出したことがあった。開山に指名されたのは、ほかならぬ宗
 陳である。大徳寺のすぐ南にある船岡山の広大な土地を寄進され、天正寺と名づけた。
 すべては順調であった。宗陳とともに船岡山に登ったとき、秀吉は東山を指した。
 「あそこに霊地がある。南都の東大寺に勝る盧舎那大仏を建立するつもりじゃ。和尚に
 は、この天正寺と、かの寺の二大寺の開祖になってもらいたい」それほど秀吉から厚い
 信頼を受けていた宗陳だったが、間もなく、天正寺建立は中止され、東山方広寺の開山
 には、天台宗の僧が起用された。どちらも、秀吉の気まぐれとしか言いようがない。そ
 して、九州への追放。

ひょうげもの也 :古田織部 (天正十九年二月四日:利休切腹二十四日前)  
・美濃で生まれた織部は、信長に仕え、秀吉に仕えた。山崎の明智討ちで戦功をあげ、天
 王山のふもと西岡城主となった。
・「近こう寄れ」秀吉は身を乗り出し、小声でささやいた。「おまえ、利休の香合を見た
 ことがあるか」香合なら、いくつも見ている。利休はよい香合をたくさん持っている。
 「緑釉の香合だ。わしは、どうしてもあれがほしい。あの香合は格別だ。碧玉のごとく
 美しい小壺だ」その香合は知っている。利休が肌身離さず持っている愛玩品だ。あれは、
 殺されても手放すまい。口にするのはためらわれた。知っているなどと言えば、秀吉が
 どんな無理難題を命じることか。「さような香合は存じませぬ」秀吉が扇子で織部の首
 の根を叩いた。「わしは、あの香合の来歴だけでも知りたい。古い高麗の焼き物らしい。
 あれだけの香合だ。世に知られておってもよいはずだが、誰も知らぬ。どこの家の伝来
 品か。聞き出せば、おまえの手柄だ」
・あの香合の来歴は、かねて織部もたずねたいと思っていた。それだけに、秀吉の目敏さ
 に驚いていた。「利休という男、一見、おだやかで柔和な顔をしておるが、じつは、あ
 やつほど頑なな男もめずらしい。一服の茶を満足に喫するためなら、死をも厭わぬしぶ
 とさがある。その性根の太さは認めてやろう」秀吉は人の心底を見透かす鋭い直感力を
 もっている。利休にはたしかにそんな一徹さがある。「たかが茶ではないか。なぜだ?
 なぜ、そこまで一服の茶にこだわる」織部は首をかしげた。「わしは、その秘密が、あ
 の緑釉の香合にある気がしてならぬ。あの香合には、きっとなにか秘め事がある」
・利休は、伊達政宗の行列がどれほどきらびやかであったか語った。千人を超えるみちの
 く武者の行列は、さぞや壮観であっただろう。去年の小田原の陣に遅参したとき、政宗
 は、前田利家を通じて利休に入門を請うた。政宗に懇願された利休は、遅参を怒る秀吉
 を取りなし、やっと拝謁させたのだった。
・利休が言い出して、織田有楽や細川忠興とともに、手水の柄杓をつくったことがあった。
 みな、それなりのものを削ってきたが、利休の柄杓は凛としてゆるぎない完璧なかたち
 をしていた。だれもが、師の卓抜した美意識と器用な手先に畏怖を感じた。それでいて、
 かならずしも完全な美しさを喜ばない偏屈さは、利休も織部もおなじだった。
・厳しい師であったが、利休は弟子たちに対して、高慢でも横柄でもなかった。ただひた
 すら美に対して謙虚であった。    
・「高麗には、沓形の茶碗があるそうな」茶碗を置いた利休が、両手で三角をつくって見
 せた。「すこし細長い形らしい。いずれ、船を出して買い付けたいと思っておった。高
 麗にはいちど行ってみたかった」
・秀吉は、数年前から明国への討ち入りを宣言している。まもなく実行するだろう。そう
 なれば道すがら、高麗を踏みにじることになる。落ちついて交易などできるかどうか。
 利休が、高麗になにか強い思いを抱いているらしいことは、織部も前から感じていた。
・「あなたには、教えて進ぜよう。この香合は古い時代の新羅のもの。わたしの想い人の
 形見です」懐から出した利休の手が、色あせた袋をにぎっていた。なかから緑釉の香合
 を取り出すと、利休はそれを畳に置いた。「誰が欲しがろうとわたすつもりはありませ
 ん。手放すくらいなら、いっそ粉々に砕いてしまいたい」やがて、目を細めて、膝の上
 で香合をなでている。「なんの、そんなことができるなら、とうにしておったわ」
 
木守 :徳川家康 (天正十九年一月二十四日:利休切腹のひと月前)
・茶頭として、利休ほど気のきいた男はいるまい。だが、と思うのである。聡すぎはしま
 いか。聡い男は重宝されても、聡すぎる男は、嫌われる。ちょっとくらい隙を見せたほ
 うが、人には好かれるものだ。
・利休という居士号をかんがえついた碩学は、人間観察にも優れていた。よくぞ利休の人
 となりを見抜いていたものだ。利は、鋭いという意味であろう。鋭すぎる男は、人には
 じかれる。商人であっても、茶頭であっても、よしんば侍であったとて、和がたもちに
 くい。とくには鋭利なこころを休めたほうがよいのだ。
・ああいう茶頭は・・・。あつかうのが難しかろう。いや、そもそも、人になど使われる
 男ではあるまい。ただおのが茶の湯の世界を無心に追い求めている。あの男にとっては、
 客さえも、じつは、茶の湯の席の点景でしかなかろう。   
・この男は、稀代の騙りである。利休こそ天下一の茶人と称されている理由が納得できた。
 あまたの大名、侍たちから師と仰がれている理由が、はっきりとした。目利きの弟子た
 ちが、ただひとつ残した茶碗なら、出来が悪いにきまっている。それを、木守などと言
 いくるめ、名物にしたてるのは、あっぱれな詭弁ではないか。こんな男、茶人になどし
 てはおけぬ。「世に伯楽はおらぬもの。そのほう、茶人にしておくのはもったいない。
 聚楽第の居心地が悪ければ、いつでも江戸に来るがよい。知恵袋として万石でも取らせ
 てつかわすぞ」酔いがまわり、家康は、利休の茶の湯にすっかり感心した。
 
狂言の袴 :石田光成 (天正十九年一月二十日:利休切腹のひと月と少し前)
・表立ってあれこれと、政に口をはさむなら押さえつけようもあるのだが、あの男は、け
 っして差し出がましい口をきかない。憎いほど人のこころの機微をわきまえて、そつな
 く振る舞っている。そのくせ、あの男は、じぶんが天地の中心にいるかのごとく、傲岸
 不遜な顔をしている。秘めているつもりかもしれぬが、ときおり、そんな表情が垣間見
 える。たしかに天下一の茶頭だ。 
・しかし、気に喰わぬ。あの男、人を見下している。自分以外はみな愚物と思っているに
 ちがいない。木像のとろりとした眼差しを見ていると、三成の腹に、また利休への怒り
 がこみあげてきた。秀吉に命じられる前から、三成も利休のことは腹にすえかねていた。
・「帝も関白殿下もお通りになる山門でござる。その上に茶頭風情が草履をはいて立ち、
 股の下をくぐらせるとは、不敬もはなはだしい。寄進の功を讃えるなら棟札ですむこと。
 木像をかざるなら、なぜ控えて隅に置かぬ」「それは・・・」「申し開きがあるか」に
 らみ返すと、宗陳が喉を詰まらせた。ことばが出てこない。
・よいものを置いてくれた。こんな都合のよい口実があれば、いくらでも利休を糾弾でき
 る。三成はひとり深くうなずいた。
・あの男の茶の湯ときたら・・・。同じ茶壷を飾るにしても、利休はいじましく姑息であ
 る。あれこれと曰く因縁の手垢でひねくりまわし、それこそが値打ちだと言い立ててい
 る。そんな愚説を、ありがたる門人たちも底が知れている。世には、ものごとの本質の
 見えぬ輩が多い。  
・なすべきことは、山のようにある。関白殿下は、朝鮮から唐への出兵を考えている。動
 員すべき将兵、兵糧、軍船は気が遠くなるほどの数だ。それを算段できるのは、やはり
 自分しかいない。そんな自負がある。
・足利家の将軍たちは唐のものをありがたがり、華やいだ飾りつけを好んだ。いまは、簡
 素な茶室で、鄙めいた道具をつかう侘び茶がもてはやされる。三成の茶も、大きく考え
 ればそのなかにある。自分は、利休の風下に立っているのではないか・・・。そんな不
 快感が頭をよぎった。 
・利休という男は、まるで自分が茶の湯のすべてを創始したような顔をしているが、そも
 そもいったいなにを新しくあみ出したというのだ。
・利休がつくる席ときたら、三畳、二畳、一畳半。なぜそんな狭い座敷をつくるのか、ま
 ことに理解に苦しむ。利休を真似して、ちかごろは、やたら狭い茶の席が流行っている。
・なぜ、だれも、あの茶室を狭いと言わないのか。むしろ、そのほうが不思議である。利
 休には妖術の才があるのかもしれない。あんなひねくれた茶の湯は、武家には無用であ
 る。暗く狭い茶室にこもっていては、考えがいまじく委縮し、陰湿になっていけない。
 奨たる者、器を広くかまえるべきだ。
・あの男は、なぜ、あんな変わった座敷をつくるのか。たしかに、暗い北向きの席にはそ
 れなりのよさもある。幽かな明るみは、ときに、人として生きる孤独と寂寥に、はっと
 気づかせてくれる。うす暗い黄昏時など、しだいに移ろいゆく淡い光のなかに身を置い
 ていると、おのが身のはかなさを切々と感じる。人はときに、おのれの卑小さを実感す
 べきである。しかし、そんな茶室を、あえてしつらえることはあるまい。あれはまるで
 牢獄そのものだ。
・いかに秀吉が所望しても、利休は、橋立の茶壷をけっして手放さない。秀吉がそのこと
 に腹を立てているのは、聚楽第で知らぬ者はなかった。
   
鳥籠の水入れ :ヴリニャーノ (天正十九年一月八日)
・「いいかね、日本人の風俗や習慣は、世界のなかでは、かなり珍妙な部類に属するのだ。
 君たちには辛いだろうが、そのことは、はっきり認識してもらわなければならない」聚
 楽第の関白秀吉に謁見するにさきだって、イエズス会東インド巡察師アレシャンドゥロ・
 ヴァリニャーノは、四人の若者を前に話しはじめた。「君たちの責務は重大だ。この国
 でヨーロッパを実際に見たのは、君たち四人しかいないことを考えてみたまえ。関白殿
 下から質問されたら、ヨーロッパがいかに素晴らしいところか、ローマがどれだけ幸福
 な街であるか、島国日本の人間が、どれほど世界を知らぬか、御機嫌をそこねぬよう、
 ことばを選んで語りたまえ。この地球に広さを教えてさしあげるがよい。そうすれば、
 頑なな殿下とて、クリスチャンに寛容になるだろう」
・「わたしは、子どものころ貧しい暮らしをしていましたので、この国では立派な御殿な
 ど見たこともありませんでした。都に来る途中、大坂で、関白殿の城を見て、正直なと
 ころ大きさに驚きました。あれならヨーロッパに建築にひけをとりません。それに、こ
 の屋敷にしても、清潔なことはどうでしょう。ヨーロッパの壮大さにかなうはずはあり
 ませんが、この島国には、優劣をこえた、まったく別の美学があるのではないでしょう
 か」と伊東マンショはいった。ヴァリニャーノは、くちびるを舐めた。この青年は、い
 まさらなにを言い出すのだ。八年かけてヨーロッパの優越性を教えてやったというのに、
 故郷に帰ったとたんこの様だ。まったく日本人は油断がならない。
・「日本人は、なにごとも度が過ぎているが、わたしがいちばん不思議に思うのは、茶の
 湯においてだ。日本人の奇怪さ、珍妙さは茶の湯にもっともよくあらわれている」「な
 ぜ日本人は、あんな狭苦しい部屋に集まり、ただもそもそと不味い飲み物を飲むのかね。
 がらくたに過ぎない土くれの焼き物を飽きもせず眺め、おたがいに白々しく褒め合うの
 かね。あんな馬鹿馬鹿しい習慣が、世界のどこを見まわしてもない」とヴァリニャーノ
 はいった。「茶の湯は、理解不能です。わたしは、茶の湯に熱狂する日本人は、頭がお
 かしいのではないかとさえ思います」千々石ミゲルはつぶやいた。
・ヴァリニャーノは留飲をさげた。「そのとおりだ。日本人の美意識は、あきらかに世界
 の基準からみて正反対にゆがんでいる。あの貧相な道具に、いったいどんな価値をみと
 めて大金を投じるのか、理解できる人間は世界のどこにもいない」  
・関白殿の新しい城館は、みすぼらしく猥雑な首都のなかに自然の森を再現したもので、
 池があり、木立が深い。いずれも、人工的に造り上げたものだと聞いて、ヴァリニャー
 ノはため息をついた。自然が味わいたいなら、山に行けばいいのだ。ヴァリニャーノに
 は、やはり日本人の感性が理解できない。
・敷地の中央にある三層の木造の建物は、清潔さという点では、ヨーロッパのどの建築よ
 り優れているただし、様式としては変化に乏しく単調で、構造的には脆弱、あからさま
 に言えば貧相である。    
・配られた甘い菓子を口に入れたまま、ヴァリニャーノは噛まずにいた。飲み物の不味さ
 をすこしでも紛らわすためだ。さしだされた茶をさきに飲んだ関白が、紙で碗の縁を拭
 いた。べっとりと粘りつく緑色の粘液が、まだ残っている。それを回し飲みするのだ。
 辺境の未開人にとって、ひとつの食器をつかって飲食を共有することは、仲間のつなが
 りを確認する重要な儀式なのかもしれない。目をつぶって飲んだ。以前に苦痛だったほ
 どには、不味く感じなかった。むしろ、清涼感を感じたのが不思議であった。その老人
 は、よほど茶の湯の名人なのかもしれない。
・ヴァリニャーノの言葉を、ロドリゲスが訳した。「似たような小壺であっても、一文の
 値打ちのない物も多いと聞きます。いったいなにがちがうのでしょうか」老人の顔を、
 ヴァリニャーノはしげしげみつめた。じつに不敵な面がまえをしている。「それは、わ
 たしが決めることです。わたしの選んだ品に、伝説が生まれるのです」ヴァリニャーノ
 は、老人の言葉に、美の司祭者としての絶対の自信を聞き取った。
 
うたかた :利休 (天正十九年一月十八日)
・つまらぬ生き方をした。来し方を思い起こせば、悔いの念ばかりが湧いてくる。衰えた
 肉と骨をさいなむのは、砂を噛むむなしさである。茶の湯など、なにほどのことか。こ
 うして無明の闇を見つめていると、茶の道に精進してきた自分の生き方が、まるで無意
 味だったと思えてくる  
・利休の茶は、室町風の華美な書院の茶とはもちろん、村田珠光がはじめた冷え枯れの侘
 び茶ともちがっている。侘びた風情のなかにも、艶めいたふくよかさ、豊潤さのある独
 自の茶の湯の世界をつくることができた。   
・茶の湯の神髄は、山里の雪間に芽吹いた草の命の輝きにある。丸くちいさな椿の蕾が秘
 めた命の強さにある。それは、恋のちからにも似ている。その明るさと強靭な生命力こ
 そ、賞翫すべき美の源泉である。なんとかそれを形にしようとつとめてきた。
・真っ暗な闇の中で、これまでの人生の道のりをふり返ってみると、あふれてくるのは、
 べつの道を選ばなかった後悔ばかりだ。   
・利休には、頭をはなれない悔悟の念がある。十九のときだ。堺の家に、高麗の女が囚わ
 れていた。もしも、あの高麗の女をつれて、うまく逃げだしていたら・・・。女は美し
 かった。咲き誇った花ではなく、あでやかな命を秘めた蕾の凛冽さがあった。恋・・。
 などという愚かなものではなかった。畏怖・・・。であったであろう。あまりにも毅然
 とした美しさに、十九の利休は懼れすら感じていた。
・高麗にわたっていたら、さてどうしたか。女を故郷の村につれて行く。高麗のことばを
 おぼえ、そこで暮らし、商人になる・・・。利休は、首をふった。はたしてそんなこと
 ができたかどうか。     
・若いころ、こんな煩悶は、すぐに消え去るだろうとたかをくくっていた。老境にさしか
 かり、ますます悔いの想いは深まるばかりだ。うたかたは執拗に湧きあがってはじけ、
 饐えた腐臭をふりまいてこころを蝕む。
・炭小屋の板戸が、指一本ぶんだけ開いていた。だれが閉め忘れたのか。首をかしげて、
 戸に手をかけると、思いのほか、すっと開いた。なかを見て、利休は、ぎょっと凍りつ
 いた。小屋の梁から、人がぶら下がっている。薄紅の小袖を着た女である。だらんと垂
 れ下がった足に、白足袋をはいている。見上げると、苦悶に大きくゆがんだ顔は、娘の
 おさんであった。   
・顔に白い布をかぶせ、枕経をあげると、利休の全身から力が抜けた。娘に首をくくられ
 てみると、自分がこれまで生きてなしてきたことが、すべて色褪せて見えた。
・三十路なかばの娘は、まだ女の盛りを匂わせ、楚々とした美しさがあった。利休と宗恩
 の子ではない。先妻のたえとの子である。利休に先妻のあいだには、一男三女があった。
 おさんは二番目の娘である。
・おさんは、もう十年以上も前に、堺の万代屋宗安という男に嫁いだのだが、子ができぬ
 うえ夫婦仲がよくなかった。去年の春だったか、この屋敷にふらりとあらわれ、婚家に
 帰りたくないといった。「万代屋には後継ぎができました」おさんがつぶやいた。宗安
 の側女が男の子を産んだのだという。若い女が家に入り、大きな顔をしているので、自
 分には居場所がないのだといった。 
・宗恩とおさんがつれだって野の草を摘みに行ったとき、東山のふもとで鷹狩りをしてい
 た秀吉と出逢った。秀吉は、ひと目見て、おさんを気に入ったらしい。すぎあま使者が
 この屋敷にやってきて、聚楽第に奉公に出るように命じた。「おことわり申し上げます」
 おさん本人が、毅然と言い放ったので、使者は言葉をつぐことができず、説得をあきら
 めて帰った。そんなことがあってから、おさんはほとんど外に出歩かず、屋敷にこもる
 ようになった。   
・「しかし、あの男、どこまで奪えば気がすむのか」あの男とは、秀吉のことだろう。秀
 吉は、利休が所持していた名物道具をずいぶん巻き上げた。かわりに銀をたくさんもら
 ったが、譲りたくない道具が多かった。気分としては強奪されたにちかい。それでもま
 だなお、橋立の茶壷など、ほしがっている道具がいくつもある。その上、娘まで奪おう
 とした。
・「棺桶がとどきました。湯灌はいかがいたしましょうか」利休は立ち上がると、両腕に
 娘を抱きかかえた。重さと冷たさが、そのまま命の悲しさだった。からだはすっかり硬
 直している。冷たい腕をとって、利休は盥の湯で洗ってやった。おさんの手に触れたの
 は、幼子のとき以来だ。「女たちで洗ってやるがよい」わが娘の肌は、とても見られな
 い。
・男たちに抱かれて、おさんが帰ってきた。死に化粧が美しい。利休は経を読んだ。「一
 服進ぜよう」つぶやいて、利休は台子の前にすわった。薄茶を点てると、天目の茶碗を、
 おさんの枕元にはこんだ。飲ませてやりたい。さて。思いあたって、利休は立ち上がり、
 となりの大書院の床の間に活けてある水仙を一輪ぬいた。水仙の花を、茶に浸した。美
 しく紅をひいたおさんの唇に、茶の滴をしたたらせた。赤い紅についた緑色の茶は、ぞ
 っとするほど毒々しく、利休のこころを狂おしく悶えさせた。
  
ことしかぎりの :宗恩 (天正十九年一月一日)
・「・・・おい」襖のむこうで利休が呼んだ。いまのひそめた声は・・・。宗恩は、だま
 って襖を開けた。両手をついて頭をさげ、夫の寝所にはいった。利休は、薄縁にあお向
 けに寝ている。見なれているはずの寝姿に、宗恩はおもわず息をのんだ。なんと。命の
 根の太い男だろう。あらためて、そう驚かずにはいられない。
・若いころは、それがとてつもない頼もしさに見えた。長年つれそったいまは、いくばく
 かの傲慢さも感じている。天下広しといえど、利休ほどあふれるばかりの自信にみちた
 男はざらにいないだろう。宗恩は、傲慢な男が、けっして嫌いではない。秀でた男とは、
 そうした生き物だと思う。おのが道をつらぬこうとすれば、男ははち切れんばかりの自
 負をもたなければならない。ただ、できることなら、傲慢ななかにも、妻をいつくしむ
 心ばせをもってほしい。もっとよく妻を見ていてほしい。
・大きな手が、無言のまま襟元から宗恩の胸をまさぐった。乳房をもみしだかれ、つい、
 吐息がもれた。帯を解かれ、大きな掌と長い指に、腰から内股をなでまわされると、宗
 恩はじぶんが人間ではなく、茶碗にでもなった気がする。いつものことだ。やさしく愛
 しまれているのはよくわかる。大切にされていることにまちがいはない。それでも、夫
 の掌が撫でさすっているのは、自分であって自分ではない。血の通った人間として愛さ
 れているのではなく、道具として愛玩されている。そんな気がしてならない。世の老人
 たちが、閨でどれほど壮健なのが、宗恩は知らない。利休は、まるで衰えない。老いて
 ますます猛々しい精をみなぎらせている。
・熱く脂ぎったからだが、宗恩に重くのしかかった。かさねた肌がねばりつく。毛穴のひ
 とつひとつから、命を吸いとられる。くちびるを吸われた。ねっとりとした舌にさえ、
 情の薄いまやかしを感じてしまう。夫の重みが、さらに増した。こころは冷えているの
 に、宗恩のからだがあまい熱をおびた。それがよけいにせつなくやるせない。道具にも、
 愛される歓びはある。くやしいが、女であるとは、そういうことらしい。
・夫に先立たれ、生きていくたつきのない宗恩に、利休は堺の町のしずかなあたりに家を
 買ってくれた。米と銭をたくさん積み上げてくれた。あのときは、ありがたくて涙がで
 た。からだをゆだねたのは、喪が明けてからだ。
・利休には、妻がいたが、そのことは気にならなかった。たとえ側女であれ、大切にされ
 ているのがうれしかった。前妻が亡くなり、嫁として千家にむかえられてから、すでに
 十年余りがすぎた。   
・側女として一軒の家をあたえられたときから、宗恩は懸命に利休につかえた。そのころ、
 まだ宗易とよばれていた利休は、抜き身の刀のようにぎらりと光すぎる男だった。礼節
 は過分なほどにわきまえている。たとえ側女や婢女であれ、横柄なふるまいや物言いに
 およぶということは、けっしてなかった。それでも、同じ部屋にいると、利休の神経が
 いつも剥き出しになっているのを感じて、宗恩は息苦しくなった。
・まだ正式な妻となる前、宗恩は利休の子を二人生んだ。二人とも男の子であった。婢女
 をおいていたが、子ができれば、世話にかまけて、利休を迎えるしたくがゆきとどかぬ
 ことがある。そんなときは、ことのほか利休の顔色が気になった。
・利休の目は、いつも遠くを見ていた。宗恩の肩ごしに、だれかべつの女を見ている気が
 してならなかった。  
・男の子は、二人とも十になる前に病でなくなった。どちらの子が死んだときも、利休は、
 淡々とした顔をしていた。悲しくないのかしら。美をきわめるには、人としての情まで
 踏みにじらなければならないのかと思った。悲しさを感じていないのではなく、じっと
 こらえているのだと知ったのは、閨の闇でひとり泣いているのに気づいたときだ。
・前妻と宗恩のほかに、利休には、もうひとりの女がいるのは知っていた。その女にも子
 を生ませている。それでも、前妻が亡くなったとき、利休は宗恩を正式に妻に迎えると
 いった。 
・夫は、なにかを隠しつづけている。ほんとうに惚れた女は、亡くなった前妻でも、宗恩
 でも、もうひとりの側女でもなく、どこかべつにいるはずだ・・・。女の勘が、宗恩に
 そうささやいている。 
 
こうらいの関白 :利休 (天正十八年十一月七日)
・秀吉は、欧州を平定して天下統一をなしとげた。まだ予断を許さぬとはいえ、文字通り
 の天下人に成りあがったのである。
・高麗の通信使一行五十人は、大徳寺の本坊と塔頭にわかれて止宿している。使節が上洛
 したときは、奇妙ないでたちと管弦をならしてのにぎやかな行列見たさに、都大路に大
 勢の見物人が押し寄せたという。いまはもう、だれも関心をはらわない。
・「高麗の宮廷には、かねてより二派あると聞きおよびます。このたびの使節も、正使は、
 西人派、副使は東人派。たがいに牽制しあっていると聞きました。これを利用せぬ手は
 ございませぬ」と利休がいった。
・利休が初めて逢った高麗の女は、気高く物静かで・・・。いや。あれは夢だったのだ。
 ただのまぼろしに過ぎないのではないか。あんな美しい女が、この世にいるはずがない。
 歳のせいか、このごろ、そう思うことがある。そんなときは、懐に手を入れる。そこに
 は、いつも緑釉の香合がはいっている。握りしめれば、香合の丸みがすべての記憶を鮮
 明によみがえらせる。  
・きょうは、あなたの国の人が来る。わたしは、うんと意地悪く迎えるつもりだよ・・・。
 いつもするように、こころの内で女に語りかけた。あんなに優美で気高い女を不幸の極
 みに追いやった国の男たちである。やさしくなど迎えられるはずがなかった。
・こうらいの関白。秀吉はあちこちでそう喧伝させたが、じつは、高位ではあってもただ
 の官僚にすぎない。居ならんで迎える公家や大名たちは、それを知っている。
・広間の末席にいた利休は、廊下にいる小姓に目配せした。宴席の料理をしたくせよとの
 合図である。料理人には、きのうのうちに膳にのせるものを命じておいた。「ほんとう
 にそれだけでよろしいのですか」けげんな顔で料理人がたずねた。膳にはなんの変哲も
 ない黒の塗り皿を置き、焼いた餅を五つ盛った。ただ、それっきりである。わくに素焼
 きの杯をひとつ。箸はつけない。「餅の手づかみでは、国の賓客に、あまりに礼を失し
 ませぬか」「そうだ。饗応するのではない。服従させるための食だ。牢獄につながれた
 気分を味わせてやるがよい」料理人がうめくようにうなずいた。その宴席の意味の重大
 さを、ようやく悟ったらしかった。
・通信使たちは、当然あるべき秀吉との杯のやりとりがないことに驚き、とまどっている。
 棒を呑まされるような顔で、それでも儒教の礼法通り、手で杯を隠しながら酒を飲んだ。
・大徳寺山門の甍が向うに見えたとき、利休は、わざとすこし歩みを遅くした。かたわら
 の屋敷を手で示して、馬上の金に話かけた。「ここは私の屋敷です。本日の宴席の真意
 をご説明いたしたい。金閣下にお立ち寄りいただくようお願いいたします」金は眉をひ
 そめた。正使の黄は、すでに馬を進めて行ってしまった。その間合いで話しかけたのだ。
 「およばずながら、高麗風の料理を用意してみました。ご賞味くださればさいわいです」
・ 金誠一が腰をおろした。片膝を立ててすわっている。「じぶんの家に帰ったようだ」
 利休は、若いころ、あの女の故郷の家のしつらえを知りたいと思って学んだことがあっ
 た。堺には、高麗の商人がいる。その者たちをたずね、絵や図をたくさん描いてもらっ
 たのだ。
・「本日は、まことにご無礼いたしました」利休は、あらためて手をついて、畳に額を擦
 るほど頭を下げた。礼法はちがっても、敬意をあらわす気持ちはすぐさで伝わる。「関
 白殿下は、日本を統一したとはいえ、まだ人心は安定しておりません。隙あらばと、謀
 叛や政権の奪取を狙う大名たちが多いのでござます」「そこで、貴国にはたいへん失礼
 なことながら、貴国が関白殿下の威光に服属したことにしておけば、日本国内の者たち
 はみな、関白殿下に従います。そのために、諸侯の前であのように傍若無人な振る舞い
 をさせていただきました。どうか、お許しくださいますように」
・「まずはお茶をさしあげとう存じます」茶色い液体が、独特の香りを放っていた。いぶ
 かしげに茶碗を手にした金誠一が、深々と息を吸い込んだ。「生姜茶か」一口すすった
 金が、ほっとなごんだ顔をして利休にたずねた。「そのほうは、朝鮮に行ったことがあ
 るのか」「いえ、ございません。ただ、まねて高麗渡りの文物を愛玩しております。高
 麗は麗しい国だと思い憧れております」金が生姜茶をすすって、うなずいた。
・杉板を一枚敷いて、土鍋を置いた。蓋を取ると湯気とともによい薫りがふうっと漂った。
 「オリトゥルゲタンだ」通事が声をあげた。鴨一羽をまるまる使い、高麗人参、甘草、
 クコの実などの官報や、銀杏、ナツメや栗、糯米をいれて、味噌で煮込んである。「こ
 の家に、朝鮮の者がおるのか」「いえ、わたくしはもともと堺の商人ですので、高麗の
 ことなら、なんでも知っております。こんなものも渡来しております」
・利休は、白い口細の壺を手にした。白磁の盃を置いて、そこにそそいだ。黄金色に済ん
 だ酒である。盃を見つめていた金は、鼻もとで匂いをかぎ、一口舐めた。「法酒ではな
 いか」利休は大きくうなずいた。それから利休は、つぎつぎに朝鮮の料理をならべた。
 どれも、堺にいる高麗人に教わってきた料理だ。法酒くらいは、金さえ出せば手にはい
 る。それから時折、金は利休屋敷を訪れ、高麗の味を愉しんだ。
・翌年早々、秀吉からの返書をたずさえて漢陽に帰った一行は、すぐに倭国の情勢を復命
 したが、国宝が正使の黄允吉と副使の金誠一を呼んだとき、二人はまったく逆の具申を
 した。朝鮮王朝が正使黄允吉の報告をとりあげて沿岸の防衛をかためていれば、秀吉は
 簡単に半島に攻め込むことはできなかっただろう。それは利休が腹を切ったのちの話で
 ある。  
  
野菊 :秀吉 (天正十八年九月二十三日)
・この春から秋にかけて、小田原の城を攻め落とした。奥州の仕置きも目処が立った。も
 はや、日本は思いのままだ。あと、思いのままにならぬのはあの男だけである。
・一段落して、秀吉は思った。世の中、存外おもしろいことは少ない。なにか、痛快なこ
 とはあるまいか。胸がすかっとして、こころの底から愉快になることはあるまいか・・。
 考えて、思いあたった。利休に泡を吹かせてやろう。それは、とても愉快なことにちが
 いない。いつもとり澄まし、落ち着き払った利休が、慌てて狼狽する顔を見れば、腹の
 底から笑いがこみ上げてくるだろう。
・あの男、この世の美しいものすべてを知り尽くしたといわんばかりの顔をしている。秀
 吉の家来のなかでも、何人もの武者たちが、利休を美の権化のように崇拝している。神
 や仏を崇めるように、だ。
・秀吉は、それが気にくわない。人々から崇められる男は天下にただ一人、この関白秀吉
 だけでよいのである。
・軍師黒田官兵衛は、茶の湯が嫌いである。秀吉はそのことをよく知っている。「あらた
 めて訊いたこともなかったが、そのほう、なぜ、茶の湯を嫌っておる。悪いものではな
 かろう」「そのこと、茶の湯の数奇者の上様に、いちどは申し上げたいと思うておりま
 した」「まず第一は、用心のことでございます。治乱見定めがたきいまの世におきまし
 て、主格が無刀で狭い席に集まり座るなど、不用心この上ないことです」「無刀といい
 ながら、逆心ある者なら、懐に短刀を隠しておりましょう。危ういことかぎりなし」
 「第二は、道具のことにございます。ただ茶を飲むばかりの茶入れに、千金の値を払う
 など、笑止千万。一文でも余計な銭があれば蔵にたくわえ、有為の者を召し抱えるとき
 こそ、惜しげなく使うべきでございます」「第三は時間でございます。ただ座して書画
 を愛で、茶を喫するならば、さほどの時間はいりますまい。二刻(四時間)の時間があ
 りましたら、武を練ることも書を学ぶことも、いや、国家百年の経略を練ることもかな
 いましょう。公家ならともなく、武家がさような遊興に耽れば、いたずらに気がゆるみ、
 放蕩が習い性となりもうす。いつかは隣国が攻め込んでくること必定」
・「ここに茶道具と花がなかったら、まわりのものはさだめし気を揉むことであろうな。
 官兵衛は、いったいなんの用で召されたのか。三成あたりは、いまごろたいそう気にし
 ておるだろう。なんの話をしていたか、あとで同朋衆にたずねるかもしれぬ」「道具が
 あって湯が沸いていれば、茶の湯の話だ。信じる信じぬはさておいても、人の口には、
 わしがおまえに、茶の湯を教えていたと伝わる。密議を交わしていたと伝わるのと、ど
 ちらがよい」と秀吉はいった。官兵衛は大きくうなずいた。
・「おぬしは、あの男を、どう見るか」「さて・・・、利休居士のことでございますか」
 「そうだ。なにゆえ、あの男は、あれほどまで大勢の者どもに慕われるのか」「利休居
 士には、ほかの茶人にない理がありますな」「あのご老人の点前を見ておりますと、ま
 ことに油断なく、動きに滞りがありません。ふつうは、静かにしようと思えば油断がう
 まれ、滞らぬようにと思えばせわしなくなりましょう。人体の動きの理をこころえてい
 ればこそ、道具の持ち方、あしらい方に、まことに無駄がなく自然なのだと存じます」
 「さらに、大勢の者が感服するのは、利休の侘び数寄に秘められた清らかな艶ゆえでご
 ざいましょう」「侘び茶と称しながら、利休居士の茶はまるで枯れておりません。むし
 ろ、うちになにか熱いものでも秘めておるような」「その点は上様と似ております。お
 なごを恋する力が、お二人ともことのほか強うござろう」
 
西ヲ東ト :山上宗二 (天正十八年四月十一日:利休切腹の一年前)
・茶頭として秀吉に仕えていた宗二が、秀吉の怒りをかって大阪城を放逐されてから、す
 でに七年の月日がながれた。流浪の日々は指のあいだから砂がこぼれ落ちるように味気
 なく過ぎていく。茶の席をしつらえても、荒んでいるのが自分でもわかる。
・放逐された日のことは、はっきり覚えている。大阪城内の三畳の席であった。亭主の利
 休が、茶碗のつぎに、蛸壺を持ってあらわれた。それを見て、秀吉が眉をひそめた。
 次客としてつらなっていた宗二は、秀吉のことばを受けて、つい、つぶやいてしまった。
 「あの興が、おわかりなりませぬか」けっして、避難したわけではない。宗二は、その
 とき、蛸壺を翻につかう利休の創意に、猛烈に心を揺さぶられていたのだ。その興趣を
 理解せぬ天下人に、ただ無心に問いかけたにすぎなかった。それが、秀吉の逆鱗にふれ
 て、摂河泉三国から追い出されたのである。
・いまにして思えば、はなはだ不用意なひとことであった。狭い茶室は、壺中の天。浮き
 世の娑婆世界とはまったくの別天地・・・などということがあるものか。茶の席は、茶
 人にとって見過ぎ世過ぎの娑婆世界である。それを忘れた自分が愚かだっただけの話だ。
・秀吉に詫びをいれ、墨俣での茶会に招いてもらった。秀吉の機嫌をなんとか取り結び、
 いったんは大坂に帰ることができた。しかし、ふたた茶の席で、思ったままを口にして
 しまった。秀吉が自慢げに見せた茶壷に、感じたままの感想を口にしたのである。「土
 はよろしいが、形が悪うございますな」秀吉はそのひとことにへそを曲げ、宗二はまた
 もや追放されてしまった。 
・秀吉が茶を飲み終えたあとで、利休が宗二の話をもちだしているのが水屋で聞こえた。
 声をかけられたので、茶頭口で平伏してから席に入った。ひさしぶりに見た秀吉は、ず
 いぶんと老いて小さくなっていた。・・・こんな男だったのか。装束だけは派手で立派
 だが、顔つきは品無くみすぼらしい。こんな老人を怖れて長年流浪していたのかと思う
 と、宗二は、自分の気弱さが苦々しかった。「北条の様子はどうじゃ」いまのところ意
 気軒昂。氏真殿のあのお顔付では、十年ばかりも踏ん張りそうでございます」秀吉が眉
 をひそめた。宗二は、まずい、と思った。「いえ、しかし、それは関白殿下の大軍をま
 だ見ぬせいでございましょう。これから大軍勢をもって小田原を囲まれたら、氏直殿の
 顔は青ざめましょう」秀吉が宗二をにらみつけた。「そのほう、どちらの味方だ」宗二
 は、喉をつまらせた。
・「おまえも茶の湯者というなら、身ひとつでここにまいっても、なにか道具を持って来
 たであろうな」「むろんでございます」宗二は、懐から、仕覆を取り出してひろげた。
 なかには、端の反った井戸茶碗である。すこし赤みがかった黄土色が、侘びていながら
 艶やかな印象をかもしている。秀吉が、その茶碗を手に取って眺めた。黙って見つけて
 いる。やがて、薄いくちびるを開いた。「つまらぬ茶碗じゃな」乱暴に置いたので、茶
 碗が畳を転がった。「なにをなさいます」宗二はあわてて手をのばし、茶碗をつかんだ。
 「さような下卑た茶碗、わしは好かぬ。そうだ。割ってから金で接がせよう。おもしろ
 い茶碗になるぞ」「くだらん」宗二が吐き捨てるようにいった。「こらッ!」利休が大
 声で宗二を叱った。「こともあろうに、関白殿下に向かって、なんというご無礼。さが
 れ、とっととさがれ」立ち上がった利休が、宗二の襟首をつかんだ。そのまま茶頭口に
 引きずった。「待て」冷ややかにひびいたのは、秀吉の声だ。「さがることは相成らん。
 庭に引きずり出せ。おい、こいつを庭に連れ出して、耳と鼻を削げ」秀吉の大声が響き
 わたると、たちまち武者たちがあらわれて、宗二を庭に引きずり降ろした。「お許しく
 ださい。お許しください。どうか、お許しください」平伏したのは、利休であった。
 「お師匠さま。いかに天下人といえど、わが茶の好みを愚弄されて、誤る必要はありま
 すまい。この宗二、そこまで人に阿らぬ。やるならやれ。みごと散って見せよう」立ち
 上がると、すぐに取り押さえられた。秀吉の命令そのままに、耳を削がれ、鼻を削がれ
 た。「お許しください。憐れな命ひとつ、お慈悲にてお許しください」利休が、地に頭
 をすりつけて秀吉に懇願した。宗二は、意地でも誤るつもりはない。秀吉としばらくに
 らみ合った。「首を刎ねよ」秀吉がつぶやくと、宗二の頭上で白刃がひるがえった。
 
三毒の焔 :古渓宗陳 (天正十六年八月十九日:利休切腹の三年前)
・秀吉は、なにかにつけて宗陣を表舞台にひきずり出そうとした。宗門の隆盛を思えば、
 それはそれでありがたいことには違いないが、はなはだやっかいなことでもあった。表
 舞台にひきずり出されれば、どうしてもあちこちにしがらみと軋轢が生まれてしまう。
 好むと好まざるとにかかわらず、濁世の争いに巻き込まれることになる。宗陣は、思わ
 ずにいられない。まったく、人の世には、三毒の焔が燃えさかっておる。
・三毒は、仏法が説く害毒で、貪欲、瞋恚、愚痴、すなわち、むさぼり、いかり、おろか
 さの三つである。 
・つらつら思えば、世の中のわざわいや有為転変、人の浮き沈みは、ほとんどこの三つの
 毒で説明がつく。人が道を誤るのは、たいていこの三毒が原因だ。
・宗陣は、明日の朝、京を出ていかなければならない身となった。秀吉のいかりをかって、
 九州に追放になるのである。
・秀吉の本性は、むさぼり、だな。秀吉という男は、貪欲が着物を着て歩いているような
 ところがある。ふつうの人間は、骸骨が皮をまとった生き物だが、秀吉はちがう。むさ
 ぼりのこころが皮をまとい、着物を着ている・・・。そう看破した。だからこそ天下人
 にもなれたに違いないが、では、人として、こころの位がどれほどかといえば、けっし
 て高いとはいえまい。欲深くむさぼりの過ぎる男は、たとえ位人臣をきわめ、天下を掌
 中していようとも、やはり下銭である。
・共についてきた家臣たちのいちばん上座にすわっているのは、石田三成だ。聡明そうな
 顔をしているが、やはり毒に冒されている。三成は、いかりか・・・。
・人が必要以上に欲をもたず、つねに穏やかな平常心と、聡きこころをもっていれば、世
 の中はどれほど住みやすいか・・・。 
・「大徳寺長老たちのなかで、いちばん法力の強い者は誰かな」秀吉がたずねた。長老一
 同が首をかしげた。禅坊主に、法力などあるものか。宗陣は、腹のなかで思っている。
 いや、どの宗派の僧にしたところで、法力などありはすまい。それは、人間のおろかさ
 につけこんだ坊主に偏りの類いである。法力と称して寄進を得るむさぼりにほかならな
 い。   
・秀吉の視線が宗陣の顔で止まった。「そのほうなら、法力強く、母者の病気もすぐに本
 復させてくれような」秀吉のことばに、宗陣はうなずいた。「さようでございますな。
 懸命に努めさせていただきます」いちおう肯定はしたが、ことばに力がこもらなかった。
 「なんだ、歯切れの悪いことをいう。そのほうくらいに行を積んでおれば、鬼神も逃げ
 出すほどの法力があるであろう」「それは関白殿下の買いかぶりでございます。わが法
 力は、はて、ご病気にいかほどお役に立てましょうか」そのくらいで、勘弁してもらい
 たい。秀吉とて、禅坊主が祈祷をせぬことなど百も承知のはずだ。
・秀吉の眉がくもっている。「なんじゃ。では、そのほうの仏法は、なんの役に立つ」
 「禅は、この宇宙の真理を看破するためのもの。濁世に満つる三毒の焔を消すことこそ
 われらが仏道と信じております」秀吉が、さらに不機嫌になった。「わが母者の病気平
 癒には役立たぬというか」「なんたる言いぐさ。どうして即座に病魔を退散させましょ
 うと言えぬのだ」宗陣は押し黙った。「この寺の隆盛をおもえばこそ、あえて禅門に祈
 願所を建立したのだ。なぜ、わしのいうとおりに祈願できぬか」秀吉の声が荒くなった。
 「おまえの顔など見とうない。消えるがよい」深々と礼をして、宗陣は秀吉の御前から
 ひきさがった。
・総見院にもどると、宗陣は、本堂に安置してある信長の木像に拝礼した。その顔は、気
 のせいか、なんとも悔しげで無念そうだ。信長殿も、やはり、むさぼりの焔を燃やして
 おられたか。むさぼる心がないならば、尾張からわざわざ他国に侵攻して、天下に武を
 布く必要はあるまい。軍勢を率いて京に出てきたのは、むさぼりの心があったからにほ
 かなるまい。ただ、同じむさぼりの焔にしても、信長と秀吉ではずいぶん色彩が違う、
 と宗陣は思った。秀吉は、同じ天下の富を収奪するにせよ、どこか賤しさがただよって
 いる。鍋の底までしゃぶり尽くすような品のなさを感じてしまう。
・利休は、一見、なんの欲もこだわりもなさそうな顔をしている。しかし、欲が深いとい
 えば、あの男ほど欲の深い者はおるまい。美をむさぼることに於いて、その執着の凄ま
 じさといったら、信長や秀吉の天下取りへの執着よりはるかに壮絶ではないか。
・人の世は・・・。むさぼり、いかり、おろかさの三毒の焔に満ちあふれている。
   
北野大茶会 :利休 (天正十五年十月一日:利休切腹の四年前)
・「おまえの茶は、艶めいて華やかで、なにか・・・、そう、狂おしい恋でも秘めておる
 ような。どうじゃ。わしの目は誤魔化せまい。おまえは、その歳になってもなお、どこ
 ぞのおなごに恋焦れ、狂い死にでもしそうなほどに想いをつのらせておるのであろう。
 そうでなければ、命を縮めるほどの茶の湯はできまい」いわれて利休は押し黙った。秀
 吉の目が、じっと利休を見すえている。利休は炎に目をむけた。火は同じだ、と思った。
 遠い昔のあの日と、同じ炎が燃えている。
・利休は、身じろぎもせずに炎を見つけていた。遠いむかしに出逢ったあの女が、いまで
 もおれのうちで、息をしているのをはっきり感じた。
  
ふすべ茶の湯 :秀吉 (天正十五年六月十八日:利休切腹の四年前)
・勝ってこそ、いくさだ。勝ったからこそ、満面の笑みをうかべて大勢の人間が集まって
 くる。人生というのは、勝たなければ意味がない。勝てば、世の中すべてが思うままに
 動かせる。世のすべての人々が頭を下げる。どんな美女とて、秀吉の思い通りになる。
 負ければみじめだ。敗残者に待っているのは、死。さもなくば、長く深い屈辱でしかな
 い。
・秀吉は、しばらく海を見ていた。波はいたって静かだ。これから、天下人としてなすべ
 きことが、まだ山のようにある。それをひとつずつ片づけて、この世の頂点に昇りつめ
 るのだ。きっとすべてうまくいくだろう。気配にふりむくと、利休が燃え残りの松葉に
 なにかを入れたところだった。香であろう。利休が手にしている香合が、指のすきまか
 らわずかに見えた。ほんの少ししか見えていないのに、やけに鮮やかな緑色が目に飛び
 込んできた。「見せてくれ」うつむいた利休が、体をこわばらせた。掌を強く握りしめ
 ている。「見せよ」いまいちど命じた。利休の握り拳が開かない。「見せよ」さらに鋭
 く命じた。利休の掌がゆっくりと開いた。
・奪うようにして手に取り、しげしげ眺めると、鮮やかな緑釉がかかった小さな平たい壺
 である。いままで秀吉が目にしたどんな陶器、磁器より瀟洒で繊細だ。「こんなよい品
 をもっていながら、なぜいままでみせなんだか。秀吉は、利休に裏切られた気がした。
 世に伝わる名物についてあれこれ教えてもらったが、こんな美しい香合があるとは、ひ
 とことも聞いたことがなかった。 
・「わしのくれ。望みのままに金をわたそう」黄金五十枚から値を付け、ついには黄金一
 千枚出すとまでつり上げたが、利休は首を縦にふらない。「お許しください、わたしに、
 茶のこころを教えてくれた恩義のある方の形見でございます」利休がめずらしく狼狽え
 た。左手に香合を入れていた袋を握っている。色はすっかり褪せているが、韓紅花の上
 布である。 
・秀吉は、利休を見すえた。利休がずっと隠していた秘密を見た気がした。「女人じゃな。
 女に茶をなろうたか」「隠すな。見通しじゃ。ならば、その女人の物語をせよ。どんな
 おなごであったか。おまえが惚れたなら、さぞ麗しい美形であろう」秀吉がいくら問い
 立てても、利休は膝の上で拳をにぎりしめ、頑なにすわったまま、じっと体をこわばら
 せているばかりであった。
 
黄金の茶室 :利休 (天正十四年一月十六日 :利休切腹の五年前)
・利休は、できぐあいをたしかめるため、黄金の茶室に入って、障子を閉めた。あまりに
 も艶めいた風情に、しばらく声が出なかった。「まったく・・・」おもわず、一人でう
 なってしまった。妖艶、と呼ぶのさえ、下卑た気がする。この黄金の茶の席は、憂き世
 とはまったくへだたった不可思議な異世界である。
・黄金の緋色の空間にすわり、利休は、じぶんの茶の湯をふりかえった。おもえば、遠く
 にまで来た。堺の町で侘び茶をはじめたのは、まだ十代のなかばだった。それから四十
 余年。いろいろな茶の席をしつらえてきたが、ついにこんな席をつくってしまった。堺
 の浜のうらぶれた苫屋とは、なんとへだたった世界であることか。ここにすわれば、い
 っさいの邪念が消え去る。いや、これこそ邪念、邪欲のかたまりではないか。利休は、
 四方の黄金を見まわして、首をすくめた。じぶんを取り囲んでいるのは、ただ剥き出し
 になった現世の欲望ではないか。 
・侘び、寂びの趣をたのしむ草庵をつくってきたが、ただただ鄙びて枯れた風情を愛でた
 のではなかった。命だ。侘びた枯のなかにある燃え立つ命の美しさを愛してきたのだ。
 燃え立つ命の力を、うちに秘めていなければ、侘び、寂びの道具も茶の席も、ただ野暮
 ったくうらぶれただけの下賤な道具に過ぎない。
・利休は、さきほどの秀吉の下卑た笑いを思い出した。大阪城で、ためしに組み立てた黄
 金の茶室で、秀吉は女を抱いたのだ。見ていたわけではない。つぎの間で控えていた利
 休は、女のむぜび泣く声を聴いた。聴きながら、利休は、淫蕩な想念が、勝手に走り出
 すのをどうすることもできなかった。  
・あの女・・・。利休は、またあの女を思い出していた。この茶室にすわらせてみたかっ
 た。あの女なら、白い肌が、黄金と緋色にはえて、さぞや美しかろう。きりりと切れ上
 がった目が、冷ややかで妖しかろう。この黄金の茶室には、あの女の肌こそよく似あう。
 生まれたままの白い肌をすべてあらわにさせてここにすわらせ、緋色の障子越しになが
 めてみれば・・・。あでやかさは、ことなに尽くせまい。
・入れ替わり、立ち替わり、女たちや殿上人があらわれた。高貴にとり澄ました男でも女
 でも、巨大な黄金にかたまりを見ると、みな、目の色が変わった。欲に、貴賤はないか。
 利休は、ひとつ賢くなった気がした。鄙びた苫屋で喫するのも茶であるし、黄金に囲ま
 れて喫するのも、また茶である。どちらがよいも悪いもなかろう。
   
白い手 :あめや長次郎 (天正十三年十一月某日 :利休切腹の六年前)
・長次郎が、あめやの屋号をもつのは、飴色の釉薬をつかって、夕焼けのごとき赤でも、
 玉のごとき碧でも、自在に色をつけられるからである。明国からわたってきた父が、そ
 の調合法を知っていた。しかし、父は、長次郎に製法を教えなかった。なんども失敗を
 くり返し、長次郎はじぶんで新しい釉薬をつくりあげた。長次郎の子も、窯場ではたら
 いているが、釉薬の調合法を教えるつもりはない。一子相伝にあぐらをかいたら、人間
 が甘えたになる。家はそこでおしまいや。父祖伝来の秘伝に安住していては、人間は成
 長しない。代々の一人ひとりが、創業のきびしさを知るべきである。それが父の教えだ
 った。
・「いい色だ」長次郎の背中で、太い声がひびいた。ふり返ると、大柄な老人がのぞき込
 んでいた。宗匠頭巾をかぶり、ゆったりした道服を着ている。「わたしは、千宗易とい
 う茶の湯の数奇者。頼みがあってやってまいりました」ていねいな物腰で、頭をさげて
 いる。「茶碗を焼いてもらおうと思ってたずねてきたのです」「うちは、瓦屋や。茶碗
 やったら、五条坂に行きなはれ」「いや、あなたに頼みたいと思ってやってきた」「茶
 碗を焼けという話やが、わしは轆轤はつかわへん。まん丸の茶碗はよう焼かんけど、そ
 れでええのか」「焼いてもらいたいのは、手のすがた、指のかたちにしっくりなじむ茶
 碗。轆轤をまわしては、とても作れません」
・造作なく作れる。長次郎は、自信があった。世に名高いこの茶人を驚かせてやろうとた
 くらんだ。長次郎は、茶碗を三つ焼いた。釉薬は黒がふたつに、赤がひとつ。茶碗をも
 ちだすとき、長次郎は、宗易がどんな顔をするか楽しみだった。じっと見つめている宗
 易の目は、けっして喜んではいなかった。むしろ、気に喰わぬげである。手に取ろうと
 もしない。「ひとことでいえば、この茶碗はあざとい。こしらえた人間のこころのゆが
 みが、そのまま出てしまった」「あざといというて悪ければ、賢しらだ。こざかしくて、
 見ていて気持ちが悪い」「あなたは、掌に媚びた」「茶碗を掌に寄り添わせようとした。
 掌になじむということと、媚びて寄り添うのはまるでちがう」「それに、重い」「柔ら
 かい茶碗は、割れやすいで」「武家のいかつい手で持っても武骨に見えず、女人の白く
 美しい指で持ってもひ弱に見えぬ茶碗。お願いできますね」わがままな注文ばかり並べ
 て宗易は帰っていった。
・いくつも作っては、壊した。つくっては壊し、焼いては壊した。どうしても、満足でき
 る姿にならなかった。「安請け合いしてしもうだけど、あんたの注文はむずかしい。降
 参や。わしには、とってもでけん」聞いていた宗易が、道服の懐から、色褪せたちいさ
 な袋をとりだした。なかから、緑釉の小壺がでてきた。ふっくらと胴のはったすがたの
 よい壺だった。長次郎は、小壺に見とれた。「こんな気品がほしいのです」たしかに、
 その小壺は、品があって毅然とした存在感がある。「こういうことか・・・」つぶやい
 た長次郎は、宗易の望んている茶碗の姿が見えた気がした。
・軽くしっとりと潤いのある茶碗ができた。やってきた宗易に見せると、とたんに顔をほ
 ころばせた。「これはいい」両手で抱いて茶碗を持ち、茶を飲むしぐさをした。「媚び
 ていないのがいい」褒められて、長次郎は素直に嬉しかった。
・たずねたかったことを、長次郎は、思い切ってきりだした。「あの爪は・・・」長次郎
 は、じっと宗易を見ていた。「想い女の爪です。形見に持っています」「さぞやお美し
 かったんやろうな」「天女かと思いました。それは白くて美しい手をしていました。こ
 の茶碗を持たせたら、とてもよく映えるでしょう」「あの女に茶を飲ませたい。それだ
 け考えて、茶の湯に精進してきました」「しあわせな女人や」宗易は首をふった。「あ
 んな気の毒な女はいません。高貴な生まれなのに、故郷を追われ、海賊に捕らわれ、売
 りとばされ、流れ流れて、日本までつれてこられた」思わぬ話の展開に、長次郎は息を
 のんだ。宗易は、それきり、口を閉ざした。
 
待つ :千宗易 (天正十年十一月七日 :切腹の九年前)
・炉開きの準備に、堺の屋敷から茶道具とともに妻の宗恩を呼び寄せた。五年前に、前の
 妻が亡くなった。先妻のたえは、気働きがゆき届かなかったが、宗恩は、細かいところ
 にまでよく気がまわる。宗易のあとについて、山道を登った宗恩は、高台の茶室を見て、
 つぶやいた。「堺の浜の小屋みたいですこと」「なんだか、浜の小屋で、逢瀬でもする
 みたいですわね」くすり、宗恩が笑った。若い頃から無邪気さが可愛らしい女だった。
 「落ち着きますね」「すわっているだけで、こころがゆるりと蕩けてしまいそうです」
 「でも・・・、へんな言い方ですけど、牢屋みたいが気がいたします」「部屋も入り口
 も狭くて、窓に格子があって・・・」
 
名物狩り :織田信長 (永禄十三年四月二日 :宗易四十九歳)
・宗易は、初めて間近で信長を見た。歳は、三十七だと聞いている。眼光が、鋭い。全身
 が、尊大な空気が張りつめている。なかなかの男。
・畳にならべてある道具をひとつずつ順番に見て、信長は三方にのせる金の量を決めた。
 ぶっくりするくらい多く積むときもあったし、手を払っていらぬというしぐさをするこ
 ともあった。ときどきは、所有者に由来をたずねた。信長は、迷うということがなかっ
 た。道具を観る時間は、ひどく短い。表を見て、裏に返し、それだけでもう値踏みをし
 た。たちまちのうちに、大量の道具を買い取っていく。天下を呑み込む器だ。
・この男なら、ちかづいて損はない。いや、むしろ、早くから信長の真価を見抜けなかっ
 たのが、悔やまれる。
・商売やら茶の湯やらで頭がはち切れそうになると、足はしぜんに宗恩の家に向かった。
 宗恩は、笑顔がやわらない。目と口もとの微笑みを見ているだけで、宗易は癒された。
 「湯浴みをする」「かしこまりました」堺の町では、潮湯が好まれている。簀の子の下
 の釜で海水をぐらぐら沸かし、浴室いっぱいに塩気のある湯気を満たす蒸し風呂である。
・「垢をお掻きいたしましょうか」白い湯帷子の裾からあげた宗恩が入ってきた。力をこ
 めて、丹念にこすった。「大きな背中ですこと」背中の垢を掻くたびに、宗恩はいつも
 同じことばをはく。それが約束の合図のように、宗易は宗恩の手をにぎって抱き寄せた。
 宗恩のしなやかな柳腰が、宗易の腕にたおれこんでくる。湯気で濡れた湯帷子が柔肌に
 はりついている。豊かな胸のふくらみが、春情を刺激する。
・湯気のなかで抱き合えば、閨とはちがってまた興が高まる。抱きしめると、宗恩が目を
 細めた。「極楽でございます」宗易はうなずいて、宗恩の湯帷子の紐を解いた。湯気で
 火照った白い裸体を床に横たえ、肌をすりあわせた。
・「困ったことになった」正客の座にすわった今井宗久が、挨拶ぬきにつぶやいた。薄茶
 を点てるあいだ、宗久も宗及も黙っていた。二人は、宗易と歳がちかい。古くからの顔
 なじみではある。しかし、納屋の商売や茶道具の目利きでは、利害の対立することが多
 く、こころを許してばかりもいられない。正直なところ、妬みの遺恨もある。すんなり
 仲睦まじくつきあえる相手ではない。
・「信長殿が、女をご所望だ」首をちいさく振りながら、宗久がつぶやいた。「困ること
 などあるまい。女などいくらでもいる。白拍子でも遊び女でも・・・。いや、相手が飛
 ぶ鳥を落とす勢いの信長だ。会合衆のなかにも、むすめを夜伽に出したがる者はおるで
 あろう」「ちがうのだ。日本の女ではなく、南蛮の女をご所望だ」
・「法外なことを・・・」宗易は息をつまらせた。堺の町には、ポルトガルの商人や船乗
 り、あるいは切支丹坊主がくることはある。しかし、ポルトガルの女は宗易も見たこと
 がない。「南蛮が無理なら、明か高麗の女を連れて来いとの仰せだ」宗易はあきれた。
 信長に、ではない。宗久と宗及に、である。「それなら、おるであろう。わざわざ、わ
 しのところに話をもってくることはない」
・境には、明や高麗から来た人間がけっこういる。男が多いが、女もいる。遊び女もいる
 はずだ。若い女を一人探すくらいはさして難題ではあるまい。
・「とびきり美しい女をご所望なのだ」「高麗の女はおる。若いのがおる。しかし、とび
 きり美しいというわけにはいかん。十人並み、いや、どちらかといえば、品下がるほう
 だ」「なんとか、女をうまく仕立ててもらいたい。信長殿が、こ満悦で帰られるような」
・床を背負ってすわった信長が、扇子を手に脇息にもたれかかった。「そのほう、南蛮か
 高麗に渡ったことがあるのか」信長が、宗易にたずねた。「ございません。ただ、若い
 ころは、海のむこうの国に憧れ、思いを馳せておりました」うなずいた信長が、髭をな
 でた。昨夜の趣向はまんざら悪くなかったらしい。
・なにしろ、時間がなかった。とにかくありあわせの材料で寝所を飾りつけ、十人並みの
 器量しかない女を、極上の女に仕立てなければならない。障子戸に真紅の紗を貼りつけ
 た。閨の三方に赤い障子を立てまわし隣の部屋に灯明をともした。湯浴みさせた女に、
 韓紅花の高麗の着物を着せた。女は、じっと身を硬くしている。そのまま、褥のよこに、
 高麗式に片膝を立ててすわらせた。じっと見ていると、目隠しされた女の顔に不安と怯
 えがただよい、小刻みに震えはじめた。悪くない風情であった。
・宗易は、ひとつの鮮烈な光景が浮かんでいる。若い日の、堺の浜での話である。夕焼け
 に赤く染まった小部屋で、攫われてきたあの女には、えもいわらぬ命の美しさがあった。
 その記憶は、薄れるどころか、齢を重ねるごとにますますくっきりと宗易のこころのな
 かで艶やかさを増している。 
 
もうひとりの女 :たえ (天文二十四年六月某日 :宗易三十四歳)
・夫には、女が何人かいるが、ちかごろ熱をあげているのは、能楽の小鼓師の若後家であ
 る。名を宗恩という。「謡を習うことにした」三十になったころ、夫は突然そんなこと
 を言いだして、小鼓師の家に通いはじめた。いまにして思えば、謡曲などより、小鼓師
 の妻のほうが目当てだったにちがいない。小鼓師が若死にしたのをいいことに、その女
 に家をもたせ、足繁く通っている。
・女くらい。なんでもないと、自分に言い聞かせて、たえは褥から身をおこした。暮らし
 向きにはなんの不自由もない。宗易とのあいだにできた一男三女の子どもたちは、みん
 な元気に育っている。夫は、放蕩はしても、商売の手を抜く男ではないから、奉公人た
 ちは主人の言いつけを守ってよく働く。日々の暮らしに、思い煩い、難儀をすることは
 なにもない。堺の大店の主人は、たいてい外に妾の一人や二人は囲っている。そのこと
 に文句をいうつもりはない。  
・ただ・・・。あの夫は、愛し方が尋常ではない。いったん気に入ったとなったら、道具
 でも女でも、骨の髄までとことんしゃぶり尽くすように愛でずにおかないのが、夫の性
 癖である。それが耐えられない。夫が若い妾を抱いているときのねっとりとした指の動
 きまでが浮かんで、思わず頭をふった。
・たえは、宗恩の家を一度だけ見に行ったことがある。湊のはずれの魚市場にちかいあた
 りで、町の中心とはちがい、竹で垣を結い、ゆったりとした庭のある家が多い。去年、
 ここに一軒もたせることになったとき、宗恩は今市町の店に挨拶に来た。それきり会っ
 ていないから、これが二度目である。
・小袖の裾をさばいて、宗恩がすわったとき、たえの胸がしめつけられた。宗恩の小袖は、
 白い木槿の花が散らしてある。その可憐なことといったら・・・。負けた。たえは、そ
 う思ってしまった。 
・女人が好きなのは、男の性だからしようがないにしても、夫は、愛し方が尋常ではない。
 いや、じぶん以外の女を愛しむところを見たことはないが、茶の湯の道具を賞翫するよ
 うすを見ていたら、女をどんなに執拗に撫でまわすかは想像がつく。たえだって、祝言
 をあげたばかりのころは・・・。ひとむかし前の閨での熱い迸りを思い出して、たえは
 頬を赤らめた。あれと同じことを、ほかの女にしているはずだ。
・松林に、納屋が三棟建っている。むかしは、干し魚でもしまっていたのだろうが、いま
 は使っていない。端の一棟に、壁から突き出すように、小部屋がついている。小部屋の
 格子窓がついている。障子の破れからなかをのぞくと、夫の背中が見えた。なかにいる
 のは、夫だけだ。女はいなかった。板敷きの間にすわった夫のむこうに、白い木槿の花
 がひと枝置いてある。たえには、その可憐な花が、女の代わりのように見えた。花の前
 に、薄茶を点てた高麗茶碗が置いてある。
  
紹鴎の招き :武野紹鴎 (天文九年六月某日:与四郎(のちの利休)十九歳)
・茶の湯の名人として名高い紹鴎が、新しく茶室をつくったというので、堺の数奇者たち
 のあいだでは、たいへん評判になっている。みな、この席の最初の客になりたがってい
 る。
・建てたばかりのこの茶の席もたいせつだが、いまひとつ、重大な仕事があった。魚屋の
 千与兵衛には、そのことで頼み事をしてある。「まことに申しわけないことです。せが
 れの与四郎が、あの女を連れて逐電いたしました」と千与兵衛がいった。
・「まずいな・・・」与兵衛に預けておいた女は、高麗の貴人の姫である。紹鴎のいちば
 ん大切な顧客三好長慶からの注文で仕入れた大事な商品であった。長慶は、まだ十九の
 若さながら、畿内でいちばん力のある男だ。堺にあらわれた三好長慶から、異国の高貴
 な女を買いたいとの注文があったのは、去年の秋だった。ちょうど湊にいた怪しげな寧
 波船の船長に、女を買いたいと頼んでおいた。高貴で美形な女を連れてくれば、いくら
 でも銀を払うと約束した。
・その船が、半月ばかり前、堺にもどってきた。注文通り、女を積んでいた。すさまじい
 臭気のこもった暗い船底で、女は足を鎖で繋がれ、莚の上にじっとすわっていた。端整
 で優美な顔だちだった。まちがいなく高貴な生まれだろう。眼の光が強く鋭い。恨みと
 も、憎悪とも、侮蔑ともつかぬ光をみなぎらせている。視線を浴びて、紹鴎は、全身に
 鳥肌が立った。世の中にこんなに毅然とした女がいるのか、と、戦慄をおぼえた。その
 女は、特別だった。凄絶な美しさをたたえ、近寄りがたい威厳に満ちていた。そしてな
 お、優雅であった。裾の広がった淡い韓紅花の着物は、仕立てのよい高麗の上布である。
 それもまた身分の高さを語っている。「この女を、どこで手に入れたか」「高麗の李王
 家の姫である」「李王家の血をひいた大地主のむすめだ。両班だよ。血筋はまちがいな
 くいい」紹鴎はうなずいた。
・高麗では、古い時代から両班という官僚制度が発達し、役人たちが貴族化している。両
 班には、二つの閥がある。李王家の縁戚や功臣、地主たちの勲旧派と新興官僚たちの士
 林派である。両派は激しく対立し、大勢の高級官僚が死刑や流罪などさんざんな目にあ
 わされたという。 
・「やつらの仲間割れだ。あいつらは、平気で人を貶め追放する。この女は、宮廷に入る
 ことが決まっていたのだ。それを嫉んだやつらがさらって売りとばした。これは金を払
 って買ってきた。この女が恨むべきなのは、高麗の人間だ」
・重くて持てないほどの銀をわたし、女を買い取った。その女を、千与兵衛の家に預けた
 のは、武野屋敷では、新し茶屋を造るために、奥の土蔵を壊してしまったからだ。あん
 な美貌の女だ。どこかの納屋で男の番人に見晴らせておくのは危険すぎる。千与兵衛の
 まじめな質は、商いを通じて、よく知っていた。与兵衛の土蔵に預けておくなら、誰に
 番をさせるより安心なはずだった。
・与兵衛が干し魚の商売をはじめ、地道に稼いでなんとかここまでやってきた。ところが、
 せがれの与四郎は、与兵衛が苦労して築いた身代を、すべて蕩尽しかねないほどの放蕩
 者だ。若いころからさんざん白拍子遊びほうけ、ちかごろは、勝手に銀を持ちだして茶
 の湯の道具を買ってしまう。 
・与四郎を呼んでやろう。いや、あの男はおもしろい。女をつれて出奔するなど、まこと
 に茶人だ。あの奔放な若者こそ、この座敷の、最初の客にふさわしい。さて、あの男、
 なんとするだろう。あらわれるか、それとも逃げつづけるか。与四郎がまこと茶の湯の
 数奇者ならば、女ごときのことで、わしの招きを断るはずはあるまい。それとも、茶よ
 り女を選ぶか。この新しい四畳半の最初の客になる機会は、生涯でたった一度きり。
     
 :千与四郎 (天文九年六月某日:与四郎(のちの利休十九歳)
・押し殺した人の気配が見世のほうからした。もう夜はずいぶん更けているというのに、
 大きな荷をはこんでいるらしい。手燭を持った父与兵衛が先導して、庭の奥の土蔵にし
 まうのだろう。今日、湊に寧波船が入った。なにか風変りな荷でも買いつけたのだろう
 か。庭のようすをうかがうと、みんな土蔵のなかにいるらしい。厚い扉が小さく開いて
 いる。覗くと、長持ちから人を取り出すところだった。死体かと思ったが、床に置かれ
 ると、片膝を立ててすわった。生きている。手を縛られ、目隠しと猿ぐわをされている。
 たばねた黒髪が長い。女だ。裾の長く広がった着物は、あでやかな韓紅花と白。日本の
 ものではない。 
・父の与兵衛が、女の目隠しをはずした。おもわず身を乗りだしたほど優美な女であった。
 すこし窶れているが、顔のつくりがいたって端正だ。目も鼻も口も耳も頬も顎も、それ
 ぞれがきわめて上品なうえに、美しく調和している。与四郎がさらに驚いたのは、女の
 瞳が、あまりにも黒く冴え冴えとしていたからだ。
・女が、こちらを見ている。目と目が会った。そのとたん、与四郎は、凍りついた。黒い
 瞳が、強烈な光の錐となって、与四郎の網膜を刺し貫いた。女の眼光は、いままでに見
 たことがないほど鮮烈であった。その女は、与四郎がいままでに逢ったどの女とも、は
 っきり違っている。    
・背筋を伸ばしてすわった女は、じぶんが売り物にされているというのに、いささかも卑
 屈なところがなかった。むしろ、そこにいる男たちに、傅かれているかに見えた。
・次の朝、ほとんど一睡もできずに目ざめた与四郎は、自分の胸中の熱いときめきに気づ
 いた。与四郎は昨夜のうつくしい女が気になってしようがなくなってしまったのである。
 女など・・・。くだらぬ生き物だというのが、ちかごろの与四郎の確信であった。町の
 娘にせよ、遊び女にせよ、女にしたしむのが嫌いなのではない。疼くような恋を、初め
 て知ったのは、十二のときだった。十六の水仕女のやわらかい微笑みにほだされて、朝
 も昼も夜も想いつづけた。十四のとき、朋輩とつれだって色里の浮かれ女と遊んだ。女
 の潤いと、和らぎをたっぷり教えてもらった。商家のむすめに文を書き、袖にされて、
 泣き明かした。天真爛漫な女子衆と毎晩たわむれあって、快楽に耽った。遊びのつもり
 だった傀儡女に本気で惚れて、嫉妬に狂った。十六のとき、逢瀬をたのしんでいた白拍
 子が子を孕んだ。あれこれ考え合わせると、どうやら与四郎の子であるらしかった。
・堺の色街はにぎやかだ。いろんな女がいて愉しませてくれる。美しくてもつまらない女
 がいることを知り、醜女の深い情けに感嘆した。いろんな女を好きになったが、与四郎
 は、一夜の遊びを好まない。懸想して、惚れて、恋して・・・。そのはてに結ばれるか
 らこそ、恋はたのしい。いくともいくとも恋をした。
・同門の兄弟子たちと接するうちに、与四郎には、世間の男たちが、どうにも愚かに見え
 はじめていた。おれほど、美の神髄をわきまえている者は、さらにはおらぬ。同陣の同
 門たちは、ほとんどが与四郎より年長だし、何年も修行しているというのに、美のなん
 たるかが、まるで分っていない。 
 境に遊べる。しかし、それだけのことだ。女は、美しい。美しいが、くだらぬ生き物で
 もある。町の娘にせよ遊び女にせよ、すこしつき合いが深くなると、たいていの女はこ
 ころの底が透けて見えてくる。噂好きで、嘘つきで、嫉妬深く、高慢で、計算高いうえ
 に、怒りっぽい。
・ところが・・・。いま、奥の土蔵にいるあの女は、まったく違って見える。おそらくは、
 高麗の王家かなにか、ずいぶん高貴な生まれにちがいない。そう思わせるだけの気高さ、
 優美さがそなわっている。歳のころは、十八か、十九か。
・土蔵は、風を通すために、熱い外扉が開けてあるかわりに、内側の木戸を閉めて海老錠
 がかけてある。なかでは女子衆がひとり、縫い物をしながら、そばについている。与四
 郎が木戸の金網からのぞくと、真っすぐな視線でこちらを見つめていた。目と目があっ
 て、また心の臓が高鳴った。黒い瞳に、新鮮な驚きがあった。
・父と覗いたが、朝の膳が、やはり手つかずのままになっている。米の飯と味噌の汁、干
 した魚、それに香の物の食事だ。「食事のしたくくらい、させてください」だめだと言
 われなかったことを黙認とみなし、与四郎は、堺の町に住む琉球人の家に行った。高麗
 になんどか行ったことがある男である。堺には高麗人も住んでいるが、このたびは訪ね
 て行きにくい。銀を一粒わたして、高麗の料理とことばを教えてくれるように頼んだ。
 男は、台所に入り、与四郎の見ている前で料理してくれた。よい匂いのする鍋を持ち帰
 り、父に見せた。「食べさせますよ」父は、いけないとは言わなかった。
・土蔵の前で、料理を女子衆にわたした。鍋を女の前に置いて、女子衆が木のふたを取る
 と、女の黒い瞳がかがやいた。顔をあげ、金網越しに、与四郎をまっすぐに見つめてい
 る。「チンジ ジャップ スセヨ」召し上がってください、と、教えてもらったとおり
 つぶやいた。女がさらに大きく瞳を見開いた。顔がすこし微笑んでいた。女は、小さく
 うなずいて、朱塗りの膳にそえた匙を手に取った。残さずにすべて食べてくれた。それ
 から、女の食事のしたくは、与四郎の仕事になった。琉球人の家に行き、さらにいくつ
 かの料理を教えてもらった。
・与四郎は、短い時間、金網越しに女を見た。ついている女子衆が、韓紅花の着物を洗い、
 湯浴みもさせている。どう見ても、千家の人々にかしずかれている風情であった。そん
 なふうにして二、三日すごすうちに、与四郎のうちで、女への想いがしだいに大きくふ
 くらんだ。恋か・・・。まさか、と、与四郎は首を振った。
・食事を運んだとき、土蔵の入り口から女をしっかり見つめてたずねた。「コリョエ ト
 ラカゴ シッポヨ?」高麗へ帰りたいか、と、たずねた。「トラカゴ シッポヨ」優雅
 に落ち着き払った顔で、女は帰りたい、とうなずいた。
・侘び茶といえど、艶がなければどうしようもない。いまは、侘び、寂び、枯、そんなく
 すんだ美学ばかりが賞賛されているが、艶を消し去り、鄙めかした野暮ったい道具をそ
 ろえても、こころは浮きたたない。だいじなのは、命の優美な輝きだ。あの女を見てい
 て、そうおもった。命がかがやけば、恋がうまれる。
・助けよう。はっきりとそう腹を決めたのは、女が来て五日目だった。たとえ武野だろう
 が、三好だろうが、あんな優雅な美しい女を、売り買いしてよいはずがない。   
・旅支度を詰めた行李を背負い、腰の脇差をさした。足音をひそめて庭に降り立った。蔵
 の内木戸の海老錠の鍵は、父がいつも持っている。寝るときは、箱枕の抽斗に入れてい
 るが、とっくに持ちだし、堅い黄楊を削って合い鍵を作っておいた。
・錠前をそっと開けた。闇のなかで横になっていた女子衆が気づいてからだを起こした。
 首をくくられては困るので、夜も人がついているのだ。与四郎は低声でつぶやいた。
 「不憫ゆえ、その女を逃がしてやる。おれに刀で脅されたというがよい」腰の脇差しを
 しめすと、女子衆がこくりとうなずいた。寝ている高麗の女の肩に手をかけた。「コリ
 ョエ トマンハジャ」高麗に逃げましょう。そうつぶやいた。起き上がった女が、与四
 郎を見つめている。暗闇のなかでも優雅さはそのままだ。しずかに、うなずいた。
・辻々で警戒して身を隠しつつ、湊に行った。二日前、筑紫の船があっとところに、船は
 なかった。与四郎は愕然とした。沖に停泊しているのかと眼を凝らしたが、船影は見当
 たらない。あっちに行き、こっちでうろたえた。騙されたのだ。
・とにかく、女は人の目につく。早起きの水夫たちの視線が痛い。まずは、ここを離れた
 ほうがよい。そう決めると、与四郎は女の手をつかんで走り出した。浜の松林には、千
 家の干し魚の納屋がある。あのあたりの浜なら、漁師たちが地曳き網をひくときのほか
 は、ほとんど人影がない。見つからずに小舟を盗めるかもしれない。女の手を引いて走
 りながら、そう考えた。ときどき目を見ると、女は黙ってうなずいた。信用してくれて
 いるのだ。
・納屋の外の壁に、へばりつくように建っている番小屋に入った。障子戸を閉めると、与
 四郎は心張り棒をかませ、背にかついだ荷をおろした。板の間のまんなかに小さな囲炉
 裏が切ってある。手でしずめると、女は、炉の前に、背筋をのばし片膝を立ててすわっ
 た。汗もかかず、平然とした顔で優美に微笑んだ。
・与四郎は度胸を決めた。腰には脇差を一本さしている。刀を抜いてでも、この女を高麗
 に逃がしてやる。湯が沸いた。茶碗に湯をそそいで茶筅を通した。菓子として、氷砂糖
 を持ってきた。小さなかたまりを懐紙にのせて女の前に置いた。食べるしぐさをして見
 せると、女が砂糖を口にはこんだ。顔がほころんだ。薄茶を点てた。女の前に置いて、
 両手で飲むしぐさをして見せた。女が茶を飲んだ。顔をしかめるかと思ったが、最後ま
 で飲んで茶碗を置き、あわく微笑んだ。
・自分にも、茶を点てた。飲もうとして、茶碗を手に取ったとき、入り口の障子が音を立
 てて軋んだ。人が来たのだ。
・土間のすみに置いた壺が目についた。壺のなかに、真っ赤な紙の袋が入っている。袋の
 なかに、小さく折りたたんだ薬包がひとつ。鼠退治につかった毒の残りである。耳かき
 にすこし飲んだだけで人が死ぬ。味もせず、匂いもない。もしも途中で見つかって進退
 窮まったら。これを飲んで死ねばいいのだ。そう思えば、気が楽になった。どのみち、
 もはや、武野には顔向けできない。千の家も勘当されるだろう。女だって知らぬ男の妾
 になんぞされたくないだろう。いっそのこと、死ねば気楽だ。恥ではない。
・女が脱いだ高麗の服もいっしょに、荷造りしようとすると、きちんと畳んだ上に、小さ
 な壺が置いてある。緑釉のうつくしい小壺だ。女は、小壺を手に取り、小さな蓋を取っ
 て、与四郎の鼻孔を満たした。「白檀か・・・」女は、いたずらっぽく微笑むと、小壺
 を白い絹布に包み、小袖の胸もとに大切にしまった。
・闇に、女のうごく気配があった。こちらにちかづいてくる。手が、与四郎の膝にふれた。
 女がとなりにすわった。寄りそって、与四郎の肩にもたれた。心細いのだろう。与四郎
 は女の手をにぎった。やわらかくすべすべした手だ。しばらく、寄りそったままじっと
 していた。白檀のやさしい香りがする。女が頬をよせてきた。どちらからともなく、顔
 をちかづけ合った。唇をかさねた。この世のものと思えないほど、やわらかく甘い唇で
 あった。ゆっくりそっと、かさねていた。それから、おそるおそる口を吸った。女も与
 四郎にこたえた。たがいに、むさぼり合った。
・「おっ、おったぞ。ここにおるぞ」何人かの男たちが、走り寄ってきた。髭面の武者が、
 刀をぬいた。「女をわたせ」女は、微塵もうごかずにいる。顔はけわしいが、怖れてい
 る風ではない。「入って来てみろ。女を殺す」女は横座りになって、じっと瞑目してい
 る。奔流となって渦巻くおのが運命を、しっかり噛みしめているようだ。
・与四郎は、なんとか頭をしぼって文を考えた。筆をとって、懐紙に書いた。「汝、蛮王
 の奴婢と成らんと欲するか」読んだ女が、すぐに首をふった。こんどは、こう書いた。
 「以って国に帰るのは難し」「汝生きんと欲するか」「死せんと欲するか」女はうごか
 ない。驚いているのでも、嘆いているのでもない。生を欲するか、死を欲するかを問わ
 れて、わが生の意味を考えているかのごとくである。女が筆を請うた。「槿花一日」
 潔さに、与四郎は頭をさげた。
・与四郎は、膝の前に、道具をならべた。石見銀山の入った赤い袋を女に見せた。女が目
 でうなずいた。なかの薬包を取り出し、茶杓でほんのわずかにすくって茶碗にいれた。
 女の前に茶碗を置くと、じっと緑色の泡を見つけている。飲もうとしない。顔を上げ、
 与四郎をまっすぐに見すえた。なにかが言いたいらしい。口元がとまどっている。与四
 郎は、手を胸に当ててから、小さな戸口をさした。闇に包まれていても、その向こうに
 は海がある。高麗がある。女がうなずいた。両手で茶碗を押しいただいた。しばらく茶
 碗の内側を見つけてから口をつけ、一息に呷った。与四郎にむかって、ちいさく微笑ん
 だ。とたんに女の顔が歪んだ。喉をかきむしって床に倒れた。目を剥いてうめき声をあ
 げた。のたうちまわった。痙攣した。やがてうごかなくなった。
・与四郎は、転がっている茶碗を拾うと、もう一服、毒入りの茶を点てた。点てているう
 ちに手が小刻みに震えてきた。一息で飲むつもりで茶碗を手にした。口の前に持ってく
 ると、手がさらに震えた。なかの薄茶がこぼれた。どうしても、茶碗が口に運べない。
 息が荒くなり、手が激しく震えた。
・わななきがこみあげてくる。涙と嗚咽と恐怖と怒りと不甲斐なさと憎しみと絶望とが渾
 然と混じり合い、与四郎を揺さぶっていた。与四郎は、倒れた女に突っ伏した。女に覆
 いかぶさり、大きな声をあげてはげしく号泣した。
・女の小指は、桜色の爪があまりに美しかったゆえに、与四郎が食い千切った。食い千切
 って、緑釉の小壺にいれ、いまも懐に納めている。

夢のあとさき :宗恩 (天正十九年二月二十八日:利休切腹の日)
・夫には、ずっと想い女がいた。男として、よそに女ができるのはしょうがない。先妻が
 生きていたときは、宗恩だって同じ立場だった。悔しいのは、その相手が、どうやら生
 きた女ではなさそうなことだ。こころの奥で、ずっと想っている女・・・。あの緑釉の
 香合を持っていた女だ。
・廊下を小走りにやってくる足音があった。ふるえた声がかかって、襖が開いた。手伝い
 の小厳だ。宗恩の前で跪いて、小厳が頭を下げた。なにも言わない。うつむいたまま泣
 きはじめた。もう、夫は腹を切って死んだのだ。
・狭い座敷に、三人の侍が立っていた。夫は、血の海に突っ伏している。横顔が、苦悶に
 ゆがんている。苦しかったのだろう。悔しかったのだろう。宗恩は、純白の小袖を夫に
 かけた。たちまち血を吸って、白い絹に鮮血の赤がひろがった。
・床に、木槿の枝と、緑釉の香合が置いてある。宗恩は、香合を手に取った。
 「それは・・・」検視の侍が、なにか言いかけた。宗恩は、まっすぐに侍を見すえた。
 侍はことばを呑み込んだ。   
・悲しさを悲しみだと感じないほどこころが震えていた。なにが起こったのか、よくわか
 らなくなっていた。なぜ、夫は腹を切らなければならなかったのか。なぜ、死を賜らけ
 ればならなかったのか。はっきりと分かっていることがたったひとつある。・・くちお
 しい。  
・廊下に出ると、露地の縁にちかいところに、手水鉢と夫好みの石灯籠がある。宗恩は、
 手を高くあげ、にぎっていた緑釉の香合を勢いよく投げつけた。香合は石灯籠に当たり、
 音を立てて粉々に砕けた。