韓国併合への道 :呉善花

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この本は、今から22年前の2000年に刊行されたものだ。
著者は韓国の出身で、1983年に来日し1988年に日本に帰化したようだ。
著者は、2007年に母の葬儀で韓国に入国しようとした時や、2013年に親戚に結婚
式への出席で韓国に入国しようとした時、日本での「反韓的な活動」を理由に韓国か入国
を拒否されたという過去があるようだ。
この本は、朝鮮半島の古代(高句麗、新羅、百済時代)から李朝時代を経て日本へ併合さ
れまでの歴史を、日本との関係を交えながら、わかりやすく解説している。朝鮮半島の歴
史に疎い私にとっては、なかなか興味深い内容が多かった。
その内容は、かなり日本の立場を擁護したところが多く、韓国の反日主義者にとっては、
許されない内容なのかもしれない。
著者の主張では、韓国が日本に併合されるに至った原因は、李朝時代から綿々と続いてき
た極端な官僚制度にあったとしている。強大な中国の明や清の勢力圏に入り、それに頼っ
てほとんど武力を持たない文治政治を行なってきたため、政治や官僚組織内の権力争いに
終始し、独立国家としての意識が薄かったというのだ。
さらには、李朝も日本の徳川時代と同じように鎖国政策をとっており、その鎖国政策が、
日本以上に強かったため、海外の状況にはまったく疎かったという。李朝にとって世界と
は、中国がすべであったようだ。
李朝時代においても、日本の徳川末期の「黒船」のように、西洋諸国やロシアからの開国
の圧力がかかったが、日本の「明治維新」のような改革は起こらなかったという。そのこ
とが、さらに朝鮮半島を世界情勢から孤立させることになったという。
宗主国である中国がまだ健在の時代は、それでもよかったが、頼りの中国が西洋列強に敗
れて衰退してしまうと、朝鮮半島は西洋列強諸国の植民地支配を受けるか、ロシアの植民
地となるかしかなかったようだ。そういうことを考えると、日本に併合されたことは、朝
鮮半島にとっては、むしろ幸運だったのだというのが著者の主張のようだ。
日本のやったことが、すべて良かったとは言えないにしても、朝鮮半島の歴史を冷静に見
たとき、朝鮮半島の日本への併合というのは、歴史の必然だったのかもしれないと感じた。
もっとも、韓国にとっては、それは屈辱の歴史であり、日本のおこなった行為は決して許
せないことなのだろう。しかし、そうなってしまった原因の一因には、自分たちの国にも
あったのだということを、再度確認してみるべきではないだろうかと、この本を読んで私
には思えた。

しかし、よく考えて見ると、李朝時代の状況と、今の日本の状況には、よく似ているとこ
ろがあるような気がする。アメリカの勢力圏にいることに安住して、日本の政治腐敗が深
く進行している。これはまさに李朝時代そのものではないのかと思えるのだがどうだろう
か。


はじめに
・韓国併合へといたる道は朝鮮近代の敗北の歴史を意味する。なぜ敗北したのか。その自
 らの側の要因と責任の所在を真摯に抉りだす作業が、韓国ではいまだになされていない。
 戦後の韓国で徹底的になされてきたことは、「日帝36年」の支配をもたらした「加害
 者」としての日本糾弾以外にはなかったのである。
・日本人といえば「過去を反省しようとしない人たち」と教えられ、そう思い込み続けて
 きた。しかしそれはどうやら、韓国人のほうにあてはまる言葉だと知ったのは、日本に
 来てから数年ほどした頃である。

李朝末期の衰亡と恐怖政治
・日本は1910年(明治43)に併合した「韓国」とは、1392年の建国以来500
 年間続いて王朝国家「朝鮮」の後身「大韓帝国」のことを言う。
・朝鮮は初代の李成桂以来、代々李氏によって王位が継承されてきたことから、「李氏朝
 鮮
」、あるいは李氏による王朝ということから「李朝」とも呼ばれてきた。
・李朝は1895年(明治28)に日清戦争の日本の勝利によって中国から独立を獲得し、
 1897年に国名を「大韓帝国」と改めた。
・大韓帝国は部分的に近代的な国家の法やシステムを取り入れてはいたものの、本質的に
 は王朝国家としての李朝をそのまま引き継いだものであった。   
・朝鮮半島には、日本やヨーロッパのように武人が支配する封建制国家の歴史がない。中
 国と同じように、古代以来の文人官僚が政治を行なう王朝国家が、延々と近代に至るま
 で続いたのである。
・李朝国家の政治システムは、高麗朝の儒教的な官僚体制を踏襲したものだった。ただ、
 文治主義と中央集権制が極度に徹底されていた点に大きな特徴があった。
・実質的な政治権力はわずかな高級官僚たちの手に集中して握られていた。官僚には文官
 (文班)と武官が(武班)あり、合わせて両班と呼ばれた。しかし李朝は極端な文治主
 義をとっており、武官は文官に対してはるかに劣位な状態におかれていた。全軍の指揮
 権を司る責任機関の長にも、地域方面軍の指揮将官たちにも高級文官が就任し、その他
 の高位の武官職もことごとく高級文官によって兼任されていた。
・こうした官僚体制を維持するために、李朝では中国式の官吏登用試験である科挙が実施
 された。 
・科挙では徹底した成績主義がとられる一方、受験資格には厳しい身分的な制約があり、
 とくに文科は両班階級の者しか受験できないようになっていた。
・李朝は高麗朝に拡大された私田を没収して王室・王族・官僚群に再分配するという方法
 をとった。官僚には官級にしたがって国家から田地が支給され、これを科田といった。
 科田は本人一代限りのものだったが、実際にはさまざまな方法による相続が認められて
 おり、実質的には世襲田と何ら変わらなかった。
・こうしたすべての耕作地を国家所有とする公田の制度は、世襲による実質的な私有が拡
 大するとともにしだいに崩れていったが、地域の経済成長を促進したり、個人的財産を
 蓄積したり、交易によって利益を得ようとするなどの経済活動は厳しく統制され、中央
 に対して一定の自立的な力を持った地方勢力を商業勢力もついに育つことがなかった。

・古代、朝鮮半島の三つの王国、高句麗、新羅、百済はいずれも中国の冊封を受けて臣下
 の礼をとっていた。新羅は朝鮮半島を統一すると、援軍に来たまま駐留を続けようとす
 る唐軍を追い出したが、すぐに唐に謝罪し、唐の冊封を受けて臣下となっている。この
 関係は唐が新羅末期の907年に滅亡するまで続いた。
・高麗は993年から1019までたびたび北方の契丹の侵入を受けたが、屈することな
 く戦い続けて自立を守った。が、1231年からは蒙古軍の侵入を受けるようになり、
 1259年にはついて蒙古に降伏して臣下となった。
 そして蒙古(元)の支配が、1359年まで約100年間続いた。が、やがて元は衰亡
 から崩壊への道をたどり、新王朝の李氏朝鮮は明の冊封を受けて臣下となった。
・李朝国家は五百年余年の間に二回の大きな侵略を受けている。
 最初は1592年と1597年の二度にわたる日本軍(豊臣秀吉軍)の侵略であり、
 二回目は、1636年の満州族建てた王朝清の侵略である。
 李朝国家は明軍の来援を得て日本軍の支配は避けることができたものの、清には降服し
 てその臣下に入った。 
 清は、1895年に日清戦争で日本に敗れるまで、李朝に対する宗主国であり続けた。
  
・日本は聖徳太子以来、中国に遣使を送りはしても冊封を受けて臣下になることはなかっ
 たし、外国の支配を受けることもなかった。
・朝鮮半島の諸国は古代以来2000年間に、北方諸民族や倭寇による小規模な侵入を含
 めると、正史に記録されただけでもおよそ1000回の侵略を受けている。
・李朝国家の軍事力は驚くほど脆弱なものだった。日本の侵略軍はたったの三週間で首都
 漢城を陥落させ、まるで無人の地を行くかのように進軍して全土を荒廃させた。
 また、満州族の清もわずか一カ月で半島を制圧して国土を蹂躙した。
・李朝国家では軍事を司る要職のほとんどが文官によって占められており、武官には事実
 上政府要人への道が閉ざされていた。
 そして儒教的な文治主義の立場から、外国との間に生じる諸問題の解決は、可能な限り
 政治的な外交によって処理することがよしとされ、国土の防衛は宗主国である中国に頼
 る方向で考える傾向を強めた。
・こうした極端な文官独裁の文治主義政治によって軍事が軽視され続けた結果、無残なば
 かりの軍部弱体化を招来させてしまったのである。
・兵役は常民階級に課せられていたが、賄賂による兵役逃れが広がり、また兵農分離がう
 まく進行しなかった。しかも財政難のために志願兵を集めることもままならず、兵員確
 保にこと欠く状態が長らく続き、兵力は急速に下降線をたどっていった。
・アメリカの朝鮮史家ヘンダーソンは、李朝が近代と触れるようになる1860年前後の
 政治と社会に触れて、次のように述べている。
 「李朝はもはや経済的破産と崩壊の寸前であった。すでに軍事力はほとんどなく、政権
 の分裂と内紛で行政は麻痺状態となり、慢性的百姓一揆の機運に脅かされていた」
・李朝衰亡の根本は、李朝の政治が何百年もの間、中国をまねながら、中国以上に「統一
 性の威厳」を強化し続けてきたことに求められる、つまり、広大な領土を治めるために
 行使された中国式の中央集権制を、狭小な朝鮮半島内で本家の中国以上に徹底させたた
 めに、世界に類例をみないほど硬直した官僚国家体制ができあがってしまったことであ
 る。 
・李朝の統一は、社会とか民族とか、大集団の利益の大局的な一致によって維持されたの
 ではなかった。その逆に、バラバラに分散した個が一様に中央に一点を目指す、「周縁
 から中心へ」と向かう一極集中のダイナミズムによって保たれていたのである。
 別な言葉で言えば、横のつながりを失った無数の極小集団が、それぞれの自己の利益を
 目指し、中心の権威という甘い蜜に向かって猛然と突き進む、という力学によって維持
 されたのである。
・両班たちの「不毛な争い」が李朝末期にいっそう激しいものとなった第一の理由は、両
 班人口の増大である。官職を得られなくても両班身分は世襲されたから、金で両班の地
 位を買ったり、ニセの資格証を売ったりということが、十数世代も繰り返されてきた結
 果、あやしげな自称両班が膨大に増加したのである。
・人口の半分が支配階級の身分などという国がどこにあっただろうか。彼らは職分は官僚
 であり、官僚以外の職につけば両班の資格はなくなる。しかし官職は限られている。と
 いうわけで、彼らの多くはなんら働くことなく、ただ官職獲得のための運動を日夜展開
 した。当然のようにあらゆる不正が蔓延し、両班という身分を利用して庶民から強奪ま
 がいの搾取をすることが日常的に行われたのである。
・高級官僚としての両班同士の争いにも凄まじいものがあった。この闘争が何百年間にも
 わたって繰り返されてきた。
・しかも、こうした増悪の関係は父から子へと世襲されたから、果てしない闘争の繰り返
 しとなるしかなかった。李朝では、先祖が受けた屈辱を子孫が晴らすことは、子孫にと
 っては最も大きな道徳的行為だった。
・李朝末期の政治は、支配者たちの紛争の明け暮れでまったくの麻痺状態にあった。まと
 もな軍事力はなく、国家財政も社会の経済も破綻し、慢性的な農民一揆が頻発していた。
・李朝が建国以来最大の危機を迎えていた1863年、第25第朝鮮王国哲宗が後嗣のな
 いまま亡くなった。日本に明治維新が起きる5年前のことである。
  
・大院君は、ほとんど黙認状態にあったキリスト教(天主教)を徹底して弾圧する政策を
 とった。その結果、9名のフランス人神父が処刑され、8000名以上の信者たちが惨
 殺されたのである。
・戦後韓国では、反共の名のもとに、北朝鮮では反帝の名のもとに、大量の人々が虐殺さ
 れている。これも李朝以来の伝統と言うべきだろう。
・大院君の行った復古的な諸政策は、キリスト教への弾圧が物語るように、すべてにわた
 って恐怖政治を伴う絶対王権の行使として敢行された。こうした王権の行使は、とりた
 てて政治勢力の支持もなしに独断専行として行われたが、両班階層からは単なる不平以
 上の反対を受けることはなかった。
・大院君はさらに横の繋がりを執拗に断ち切って諸勢力の分散をはかる一方、自らへの縦
 の忠誠を徹底して強化し、10年にわたる個人的独裁を可能にしたのである。この方法
 は、ずっと後に、李承晩や金日成がとったやり方とまったく同じものである。

朝鮮の門戸を押し開けた日本
大院君が政権の座についた当時の李朝には、日本の徳川幕府が欧米五カ国に対して開港
 したこと、英仏連合軍が北京に侵入して北京条約が結ばれたことなどが伝わっていた。
 また朝鮮半島沿岸には西洋諸国の船舶がしきりに出没するようになっており、国民の間
 には、外国からいつ侵略を受けるかもしれないという危機意識が高まっていた。
 こうして状況に対して大院君がとった政策は、あらためて徹底的な鎖国攘夷の貫徹を確
 認する、というものであった。
・1865年にはロシアの船舶が来航し、1866年にはドイツの船舶が二度にわたって
 来航して通商を求めてきたが、いずれも断固拒否の態度をもって追い返した。
・1866年にはアメリカの商船ゼネラル・ジャーマン号もやって来た。強引に大同江を
 さかのぼって平壌市内に侵入して通商を求め、退去命令を伝えると、沿岸に砲撃を加え
 た。平壌側はこれに火矢などをもって応じたが、まるで効果はなく、多くの軍民が犠牲
 となった。しかし平壌の軍民たちは、やがてシャーマン号が浅瀬に乗り上げた機会をと
 らえ、硫黄と火薬を積んだ小舟をぶつけて船を炎上・沈没させ、逃げまどう乗組員のこ
 とごとくを殺害したのである。   
・1871年(明治4)には、アメリカのアジア艦隊司令官ロジャースが、軍艦5隻を率
 いて江華島にやって来た。日本を開国させたのと同じ威嚇によって、朝鮮を開国させよ
 うとしたのである。アメリカ海軍は江華島近海で測量を行ない、これに対して江華
 島守備兵が砲撃を加えて交戦状態となった。アメリカ海軍は江華島を攻撃して三カ所の
 鎮台を陥落させ、江華島を占領してしまった。この戦闘で朝鮮軍は77名の死傷者を出
 したが、アメリカ軍も13名の死傷者を出すことになった。アメリカ軍はこれ以上の死
 傷者を出してまで開国を強要することを見合わせ、艦隊を引き揚げさせた。
・日本は「黒船」を一目見て、世界情勢の大きな流れを察知した。そのために頑強な抵抗
 を試みることなく、長い目でみれば開港が得策であると判断をしたのだろう。
・しかしながら、李朝にあっては、世界秩序とは、いまだ中国の宗主とする中華世界の秩
 序でしかなく、欧米を含めて世界を考えることなど、およびもつかないことであった。
・1868年(明治元年)、日本の使節・対馬藩家老樋口鉄四郎らが朝鮮半島の釜山浦に
 入港した。明治政府の樹立を通告するためである。しかし李朝は、日本使節が持参した
 国書の受け取りを拒否した。その理由は第一に、文面に「皇上」「奉勅」の文字が使わ
 れていること、第二に、署名・印章ともこれまでのものと異なっていること、であった。
 李朝からすれば「皇」は中国皇帝にのみ許される称号であり、「勅」は中国皇帝の詔勅
 を意味した。朝鮮王は中国皇帝の臣下ではあるが、日本王の臣下ではない、このように
 傲慢かつ無礼な文書を受け取ることはできない、というのが李朝側の考えだった。
・日本の新政府は、それ以後もたびたび使節を贈って釜山での交渉を一年余り続けたが、
 李朝は一貫して、日本国書の受け取りを拒否し続けた。
・こうした情勢を受けて、日本政府内に「征韓論」が起こるのである。
・建国以来、中華帝国に臣従する一藩属国だった李朝は、依然としてこうした古代的な世
 界秩序の内部での眠りから覚めようとはしなかったのである。こうして李朝にとって日
 本は、中華帝国への礼をつくさない周辺の野蛮なる夷族に過ぎなかった。
・すでに日本では、欧米列強に対抗するためには、国家社会の近代化と富国強兵を早急に
 進める以外にない、との自覚をもっていた。そのときから日本にとって、あくまで華夷
 秩序を頑迷に守ろうとする隣国の李朝は、日本の安全を根本から揺るがしかねない存在
 となってしまったのである。   
・李朝もまた、日本のように早急に開国して近代化と富国強兵を推し進めなくては、また
 たくまに西欧列強の支配下におかれることになってしまうだろう。そうなれば隣国日本
 は窮地に立たされることになる。そのためには、武力をもってしても強引に李朝を開国
 させるべきだ、という考えが出て来たのである。それが明治初期の征韓論なのであった。
・江戸時代の日本は、将軍の代りがわりに訪れる総勢500名の朝鮮通信使一行を、はる
 ばる江戸城まで迎え入れていた。それに対して李朝は、日本からの使者を釜山の草梁に
 設けた倭館に留めたまま、それ以上は一歩も国内に入れようとはしなかった。
・しばしば、江戸時代の日本と李朝は友好的な交隣外交を行っていたと言われるが、相互
 に対等に行き来したわけではなかったのである。
朝鮮通信使一行は、壱岐・対馬・九州から瀬戸内海の各港に立ち寄り、陸路で大阪・京
 都・名古屋を経て江戸へ向かった。通信史一行500名を対馬藩士800名が護衛し、
 さまざまな日本人随伴者が千数百名、総勢3000名の大行列であった。日本国内の往
 復にかけた約六カ月の間、一行は道々で多数の日本の民衆に迎えられたのである。
・それに対して日本側は、使節となった対馬藩士が対馬と釜山・草梁の倭館との間を往復
 するだけであった。 
・倭館は日本の使者を接待するために李朝が設けた施設で、対馬藩だけがその使用を許さ
 れた。   
・日本の鎖国は、清やオランダと交易するなど、完全に諸外国に門戸を閉ざすという性格
 のものではなかった。それに対して李朝の鎖国は、文字どおり完璧な鎖国だったのであ
 る。
・李朝側は、日本が「皇上」と書いたことは、日本の国主が単に王ではなく皇帝であるこ
 とを示すもので、「奉勅」は皇帝の命を受けたことを意味する、と理解して傲慢とみな
 した。皇帝の称号を用いる者は、華夷秩序に君臨する中国皇帝以外にはるはずもなかっ
 たのである。しかし日本側からすれば、それはなんら傲慢と言われる筋合いのものでは
 なかった。皇帝とは臣従先をもたない独立した国主の称号として用いられ、臣従先をも
 つ者は単に王と称するのが世界の通例だったからである。
・李朝の国主は中国皇帝に臣従する朝鮮王であるのに対して、日本の天皇はどこにも臣従
 先をもたない皇帝であった。この皇帝と王の区別は世界的に行われていたものである。
・李朝にとっては、中華帝国を盟主として周辺の諸国が臣従する朝貢体制こそが世界にほ
 かならず、この世界の外にあるものはいまだに順化をとげない蔑視すべき夷族であった。
・欧米列強と日本の通商要求をはねつけた大院君は、清国に対しては伝統的な臣下の礼を
 とり続けた。欧米列強の来航など、さまざまな事件が起こるたびに、清国に報告しては
 その意見を求めた。  
・しかし清国のほうがいっそう欧米列強の侵犯を受け、諸港の開港を進めざるを得ない状
 況にあり、とても李朝問題に力を割いている余裕はなかった。そのため、鎖国攘夷を徹
 底した大院君治政下の李朝としては、唯一通交のある清国を通しても、国際情勢の適切
 な認識につながる情報を手に入れることができなかった。
・こうして李朝は、当時の国際社会からまったく孤立してしまったのである。その意味か
 ら、大院君の10年にわたる復古主義に基づいた治政は、朝鮮近代化の遅れを決定的な
 ものにしてしまったと言ってもよい。   
・大院君失脚後、新たに政治の実権を握ったのは、大院君が高宗の妃に迎え入れた閔氏の
 一族だった。大院君が閔妃を高宗の妃に選んだのは、閔妃が大院君の妃の実家の近縁の
 娘で、幼い時に両親を失くしていたため、外威の専横を招く気遣いはないと考えられた
 からである。ところが、閔妃は旺盛な権力欲の持ち主であった。
・閔氏一派が大院君への対抗勢力として台頭することになったきっかけは、閔妃の産んだ
 子が亡くなり、高宗が宮廷の女官に生ませた子を、大院君が世子に指名したことにあっ
 た。これによって閔氏一派は、大院君の排斥へと積極的に動き出したのである。
・1873年末、大院君政権に代わって成立した閔氏政権は、それまで大院君がとってい
 た強固な復古主義政策、鎖国攘夷政策を改めた。しかしそれは、閔氏政権が自らが主体
 的に新たな展望をもったためではなく、政権が反大院君勢力と大院君の復古主義を快く
 思わない開化派官僚たちの連合に支えられて成立したものだったからであった。
・閔氏政権は、ともかくも日本の新政権と外交交渉を行なうことにした。これは、清国か
 ら示唆を受けて、「日本との武力衝突を避けるため交渉に臨むことが得策」と判断した
 ためだったと言われる。
・閔氏政権は、まず両国の外交担当官である東菜府使と森山理事官との接見を行ない、そ
 の上で、日本の書契の格式が外交形式上ふさわしくないことをただす、という方針をと
 ることにした。 
・李朝政府は、江戸時代からの伝統的な形式にのっとって宴饗を執り行う旨を森山理事官
 に伝えた。しかしながら、森山理事官はそれに異を唱えた。森山理事官は洋式大礼服の
 着用と宴饗大庁門の通行を、接見の条件として主張したのである。
・森山理事官が洋式大礼服を主張したのは、明治政府がそれを正式の儀礼服として採用し
 ていたからである。また宴饗大庁門は正式の外交使節の迎え入れる門だったが、中国使
 節だけが通行を許可されていた。
・宴饗大庁門の通行を接見の条件としたのは、日本は華夷秩序とは関係のない独立国であ
 り、中国との差別を拒否する、という意味だったろう。
・こうした日朝間の交渉のやり取りについては、二つの見方がある。一つは李朝のこだわ
 りを固陋・傲慢とする見方、もう一つは日本のこだわりを頑迷・傲慢とする見方、ある
 いは李朝のほうに日本への理解・配慮が足りなかったとする見方、日本のほうに李朝へ
 の理解・配慮が足りなかったとする見方、である。
・李朝の態度に業を煮やした日本政府は、打開策として李朝を威圧し国論を揺さぶろうと
 の政策に出るようになる。
・1875年(明治8)日本政府は雲揚と小砲艦を釜山に派遣して、一方的な発砲演習を
 行わせる示威行動をとった。続いて日本政府は、沿海調査の名目で雲陽を朝鮮半島の江
 華島に向かわせる。雲揚は江華島と半島の間の江華水道の河口付近で停泊し、その先は
 兵士らがボートに乗って江華水道を遡行した。江華島事件
・この内国河川への無断侵入は明らかな挑発行為である。草芝鎮台から砲撃が開始される
 と、雲揚も水道に入り応戦する。砲台からの弾丸は船に届かず、草芝鎮台は雲揚の砲撃
 を受けて甚大な被害を受けた。
・雲揚は次に、江華島のすぐ南にある永宗島の永宗鎮台を急襲した。次から次へと砲撃を
 受けて永宗鎮台は陥落。600名の守備兵はほとんど戦うことなく逃走してしまった。
 上陸した日本の将兵たちは城内と付近の民家を焼き払い、大砲38門をはじめ、残され
 た兵器類を押収して帰船した。
・さらに日本は、大型軍艦春日と軍艦孟春を釜山に入港させ、双方から礼砲を放つなど
 の示威行動を行なっている。   
・1876年、外務小輔森有礼が特命全権公使として清国北洋大臣の李鴻章と会談した。
 李鴻章は仲介を引き受けるとは言わなかったが、清国政府から朝鮮国王に対して日本の
 書契を受け入れるように勧告する、という形をとったのである。
・参議・陸軍中将の黒田清隆が全権特派大使となり、艦隊を率いて江華島に上陸した。そ
 して一斉に礼砲を発して示威行動をとる。
・こうした情勢を受けて、朝鮮半島の慶州方面に「武力行使によって日本を退けるべきだ」
 とする大院君・攘夷派儒生たちの煽動による暴動が発生した。また攘夷派の者たちは、
 農民や一般市民を多数駆り出して、日本全権の宿舎を取り囲ませた。これに日本軍が
 400名の兵士と4門の大砲で対峙する形となり、江華島は一触即発の大きな緊張に包
 まれた。     
・ようやく日朝修好条規が発行することとなった。合意項目には、李朝政府の近代的な国
 際関係への無知、無理解によるものがいくつか含まれている。朝鮮政府がこれらへのこ
 だわりをまったくみせなかったことからすれば、何のことかわからず、これが不平等条
 約だとすら認識していなかったのではないだろうか。

清国の軍事制圧と国家腐敗の惨状
・1876年(明治9)、日朝修好条約が締結されて開国となると、李朝は日本と清国へ
 使節・留学生・視察団などを活発に派遣し始める。
・閔氏政権は、なんらの政策も展望もなしに、時代の流れにただ押されるようにして開国
 したのだが、修信使たちの報告や「朝鮮策略」によって、ようやく方向性を与えられた
 と言ってよかった。
・閔氏政権は「朝鮮策略」を複写して、全国の儒学徒に配布した。彼らに時代の趨勢を知
 らせ、開国・開化策を推進する必要性を訴えようとしたのだろう。ところが、逆に彼ら
 から猛烈な反発を受けることになってしまった。
・彼らの主張は、外国との通商は外国への依存を招く、したがって、外国の学術を入れる
 ことなく自力で富国強兵を行なうべきだというものだった。しかし、その内実は、時代
 の流れを見ようとしない頑固な衛正斥邪論そのものであった。こうした状況下で閔氏政
 権は、国論不統一のまま、開国・開化策を進めるよりほかなかった。
・さらに、その頃には、反開化を唱える儒学徒と、大院君派の政治家とが手を結んだクー
 デター未遂事件が起きている。それは高宗を廃して、大院君の庶長子である李載先を国
 王にかつぎだそうというものであった。閔氏政権はその関係者30余人を死刑に処した
 ため、開国に反対する儒学徒や大院君派の閔氏政権に反対する反発は、いっそう強まっ
 ていった。 
・閔氏政権は、近代的な軍隊の設置のために、日本人教官を雇って訓練を開始し、軍営の
 統廃合を推し進めて軍制の改革にも着手した。
・閔氏政権は官制の近代化を行なったが、統理機務衛門のポストはことごとく閔氏一族に
 よって、あるいはその影響下にある者たちによって占められていた。乏しい国家財政下
 での王室と閔氏一族の浪費、租税など国家収入の横領、中央から地方までいきわたった
 汚職など、政権はまったく腐敗しきっていたと言ってよい。しかも、貧窮生活に苦しむ
 一般民衆からは、相変わらず厳しい税の取り立てが行われていた。
・1881年(明治14)に紳士遊覧団が日本を視察している頃、日本は李朝政府に対し
 て、日本が献納した新式小銃で武装する近代的な小銃部隊の編制を進めた。李朝政府は
 それを受けて、各軍営から80名の志願者を選抜した。それを別技軍と名づけ、王直属
 の親衛隊である武衛営に所属させ、五本軍人の堀本礼造少尉を教官に雇って訓練を開始
 した。 
・従来からの軍卒二千数百名は旧式の火縄銃で装備した旧軍兵士たちで、大半は小部隊に
 分けられ各州に配属されていた。
・当時の朝鮮の人口1300万人に対して、軍隊がわずか二千数百名しかいなかったこと
 には驚かされる。
・軍営の統廃合と別技軍の新設は、旧軍兵士たちには、突然訪れた災厄以外の何ものでも
 なかった。それは、近い将来、近代的な訓練を受けた軍人たちが彼らにとって代わるこ
 とを意味したからである。
・1882年(明治15)に、この旧軍兵士たちが漢城(現・ソウル)で反乱を起こした。
 運動はしだいに激しさを増し、閔氏政権に不満を抱く下層市民を巻き込んでの大暴動へ
 と発展していった。こうして壬午の軍乱が勃発した。
・途中から別技軍までが暴動に加わり、軍兵たちは官庁、閔氏一族の屋敷、日本公使館な
 どを襲撃して王宮に乱入した。このとき閔妃は王宮から脱出したが、数名の閔氏系の高
 級官僚が殺されている。また、王宮内にいた日本人教官の堀本礼造少尉も殺害された。
 その他、語学留学性、巡査など数名の日本人が暴徒に殺害されている。
・軍兵たちは王宮を占拠し、国王からの要請という形をとって大院君を王宮に迎え、再び
 彼を政権の座につけたのである。
・帰国した花房公使から軍乱の報告を受けた日本政府は、居留民保護と朝鮮政府に軍乱の
 責任を問いただすために、花房公使に軍艦と兵士を率いさせて朝鮮に派遣した。
・「これは政府の開国策に反対する大院君勢力の反政府クーデターにまちがいない。日本
 軍が出動して反乱軍と衝突する可能性がある」として清国に朝廷のための派兵を要請し
 た。   
・清国軍は漢城へ進駐して日本軍を圧倒する兵力を配置した。
・日本が清国の調停を受けたのは、それを蹴れば次には清国軍との衝突を覚悟しなくては
 ならなかったからである。
・清国軍はその日のうちに大院君を捕らえ、南陽湾に停泊中の清国軍艦に乗せて天津へ連
 行してしまう。同時に大院君一派を政権から除いて、拘留、流罪、死刑などに処す一方、
 清国軍が軍乱を起こした兵士たちの討伐を展開し、軍乱は完全に鎮圧された。
・こうして、清国の宗主国としての権威がフルに発揮され、忠洲に隠れ避難していた閔妃
 も王宮へ戻り、政権は再び閔氏一族の手に握られることになったのである。
・閔氏一族の支配下で政府はいっそう弱体化し、相変わらずの政争に明け暮れるという伝
 統的な官僚体質が改善されることはなかった。改革のためのリーダーシップが当時の李
 朝にはまったく欠如していたと言うほかない。
・清国の干渉に対して、李朝は、まったく自主性をもった内外政策を示すことがなかった。
 それまでは、曲がりなりにも国内の開化派官僚の提議を受けて開国・近代化政策を推し
 進めてきたが、ここに至って、そうした主体性を生み出すわずかな手がかりすら投げ捨
 ててしまったのである。それどころか、清国の力で復活した政権は、これまで以上に清
 国への依存を強めていったのである。
・しかしながら、李朝は中国軍の首都駐留という、これまでになかった新たな事態を受け
 入れなくてはならなかった。駐留清国軍は、漢城各所で略奪、暴行を働き、多くの漢城
 市民がその被害いあうことになってしまったのである。清国の軍兵たちが集団で富豪の
 家を襲い、女性を凌辱し、酒肴の相手をさせ、あげくの果ては金銭財貨を奪うなどの乱
 暴狼藉が日常のごとく行われたのである。
・清国兵士たちの暴状は際限なくエスカレートしていくばかりだった。さすがの清国軍総
 司令官の呉長慶もそれを放っておくことができなくなり、ついに特別風紀隊を編制して
 自国軍兵士たちの取り締まりを行なうほどである。 
・清国は最初日本を軽視していたが、1879年(明治12)、日本が琉球を領土へ組み
 入れると、日本の朝鮮への独占的進出お牽制するようになる。旧来の伝統を破って朝鮮
 への干渉強化へと本格的に乗り出したのである。
・そうした新たな清国の対朝鮮政策に対して、日本の政策もまた大きな変化を要求される
 ことになっていく。 
・日本は明治維新以来富国強兵策をとり、飛躍的な発展をみせながらも、その経済力も軍
 事力もいまだ世界の強大国に比肩できるものではなかった。しかも、欧米列強とは不平
 等条約を結ばされていた。いかに清国の朝鮮への干渉を排除したくとも、清国と戦争す
 るまでの考えを持つことはできなかった。
・閔妃は壬牛軍乱時に、忠洲の閔氏一族の屋敷にかくまわれていた。閔妃は閔氏政権の復
 活とともに王宮へ戻ったが、その際に一人の巫女を伴っていた。彼女は閔妃がかくまわ
 れていた家の召使身分の女だったが、「閔妃は無事王宮に戻る」と預言し、それが「適
 中」したことで、閔妃は彼女を大いに気に入り、王宮まで連れて帰ると宮中に祭壇を設
 け、自らの安泰のために祈祷させるようになった。
・閔妃はこの王妃安泰を祈祷する巫女を宮廷の賓客として優遇したため、宮中では彼女を
 あたかも王妃の守護神であるかのように崇敬するようになっていった。やがて閔妃は、
 北廟に王家直属の祭壇と祈祷所を設け、彼女を祭主として王家の福運を祈祷する祭祀を
 行なわせるようになった。
・祭祀のために、北廟には毎日、山海の珍味や各地の名産品が山のように運び込まれ、祈
 祷所は常にそれらの品々であふれかえっていた。国家財政は窮乏の一途をたどっていた
 にもかかわらず、この祭祀のために、国費は惜しみなく費やされたのである。

独立・開化を目指した青年官僚たちの活躍
朴珪寿は当時の李朝政界きっての開国論者だった。
・朴珪寿は平安道監司だった1866年、平壌に侵入したアメリカの商船シャーマン号を、
 周辺の軍民を指揮して沈没させるという体験をもっている。
・朴珪寿は、日本の李朝への国書のなかに「皇」の字があることについて、日本は隋や唐
 の時代から朝廷、天応を称しており、「皇」の字を用いることは、いまに始まったこと
 ではない、他国の者が干渉すべきことではないと、御前会議の席上で説いたと言われる。
・私は彼らが開化独立を旗印に結束したところに、新羅時代の花郎精神の伝統を感じるの
 である。花郎は戦場では常に先頭に立って戦い、けっしてひるむことがなかったという。
 義のため国家のためには自らの命を捧げることをいとわず、友のために命を捧げること
 も清く美しい行為とされた。日本の武士道精神に近いものと言える。
魚允中は遊覧団のなかで主として大蔵・財務関連の調査を担当したが、日本財閥の巨頭
 渋沢栄一から資本主義経済についてのさまざまな知識を得ている。また彼は福沢諭吉
 も会い、福沢の広汎な識見に感じ入ったという。
・そうした日本体験に比して、上海・天津での体験には失望が多かったようである。清国
 官僚の時局に関する談話からはなんら刺激を受けることもなく、彼らは威を張り尊大か
 つ荘重な態度に終始した、と記している。日本人とは異なり、中国人は魚允中を属国朝
 鮮の官僚だからと臣下の扱いをしたことがわかる。
金玉均が釜山をたって日本に到着したのは、1882年(明治15)のことだった。
 金玉均は長崎に一カ月ほど滞在している。それから博多、下関、神戸、大阪としばし滞
 在しながら京都に入り、京都に10日余り滞在したあと神戸から汽船で横浜へ、そして
 横浜から汽車で東京へ、と順路をたどっている。
・東京へ着くや、時をおかずに三田の福沢邸を訪ねている。福沢の紹介による政界の井上
 肇・大隈重信・財界の渋沢栄一・大倉喜八郎らをはじめ、榎本武揚、副島種臣、内田良
 平など、民間人を含む多数の人々と、ほとんど連日連夜の会合をもっている。

一大政変の画策へ乗り出した金玉均
・欧米は日本とは比較にならないほどの文明を進展させていたが、諸国はロシアの強大な
 軍事力に大きな脅威を感じていた。ロシアの陸軍力・海軍力を前にしては、清国や日本
 はもはや敵ではないと誰もが感じただろう。そしてロシアの南下は、時間の問題とみら
 れた。
・金玉均は、クーデターの直前まで、アメリカの公使フート、イギリス領事アストンの二
 人と頻繁に会合を重ねている。アストンもフートも、金玉均らの朝鮮独立と改革への意
 志を評価しながらも、実力行使に出るのは時期尚早との態度を示した。そして、自国が
 直接に支援のために動くことはないと述べている。
・彼らは当時、すでに近代化を強力に推し進める日本を高く評価していたから、朝鮮の近
 代化のためには、清国より日本のほうがふさわしいと考えていたと思う。しかしながら、
 当時の日本の国力では清国と戦って勝てる展望はないとみるのが常識である。
・もう一つ、金玉均にはクーデターを挙行するにあたって、大きな必要条件があった。金
 玉均が目指したのは、日本のような伝統的な国主を中心にいただく近代民族国家だった
 から、国王を擁しての革命でなくてはならなかったのである。
・もし日清が激突して日本が勝利した場合、朝鮮はその時点で日本の支配下に入ることに
 なったとする見方があるが、それはまちがっている。当時の日本には、朝鮮に支配権を
 及ぼして、ロシアや欧米列強の干渉を排除するだけの力はなかった。日清戦争の勝利後
 ですら、三国干渉に抵抗てきなかったことからも明らかだ。
・日本が勝利した場合、欧米列強は必ず日本に干渉して撤兵を要求し、朝鮮を独立中立国
 とするため、日本を含めた列強による共同保護を提案する可能性が最も高かった。

夢と果てた厳冬のクーデター
・1884年(明治17)、郵政局開局の祝宴が開かれた。出席者は18名。政府要人数
 名と各国代表のほか、独立党からは洪英植、朴泳孝、金玉均、徐光範、尹致昊が参加し
 た。なお、竹添公使は欠席し、島村書記官が代理で出席した。
・李圭完らが別宮に放火したが警護兵に消し止められてしまった。
・宴会中にその報告を受けた金玉均は近くの民家へ放火を命じたが、思うように火がつか
 ない。 
・アメリカ公使のフートが立ち上がって話をはじめた。フートの話が終わるとすぐに、閔
 泳翊が悲鳴をあげながら宴会場に駆け込んできた。一同が総立ちとなって彼を見ると、
 顔面から肩にかけて鮮血が激しく流れている。来客は驚いて右往左往し、窓から飛び出
 したり、慌しく走り去ったりする者があり、場内は混乱状態に包まれた。
・閔泳翊は宴会場から外へ出たところで、待機中の日本人抜刀要員総島和作に斬りつけら
 れて耳を落とされ、再び宴会場へ戻ったのである。
・朴泳孝、金玉均、徐光範の三名は、王宮に向かった。道の要所に待機していた同志40
 数名も王宮に向かう。
・金玉均が大声で「国家の大事が発生した。宦官などに言う言葉はない」と叫ぶと、国王
 はその声を聞きつけ、「何事が起きたのか」と言って金玉均の名を呼ぶ。
・三人はすぐさま国王の寝室に入り、郵政局に変乱が起き暴徒らが王宮に向かっているた
 め、至急、正殿から景祐宮へ移るべきことを奏上する。
・閔妃が「事変は清によるものか日本によるものか」と金玉均に問うと、そのとき大爆音
 が殿中に響きわたった。そのため、高宗は即刻遷座を承諾した。
 
・金玉均らを乗せた千歳丸が、長崎に着いた直後の1884年(明治17)、仁川にイギ
 リス軍艦2隻、アメリカ軍艦1隻が入港した。英米ともに居留民保護を名目に、軍艦を
 急派したのである。同時に清国軍艦も3隻入港した。
・ところが、日本はまったく動こうとしなかった。しかも、日本政府が政変の詳細を知っ
 たのも遅く、報告を受けるや、明らかにあわてふためいていたるのである。
・なぜ日本政府は、クーデター計画を差し止めようとしなかったのだろうか。そして、報
 告を受けるまで、公使館が加担したクーデターの発生を知らなかったとしか思えない日
 本政府の対応ぶりは、何を物語っているのだろうか。
・日本政府、具体的には井上外務卿は、竹添公使に指示を与え、秘密裏には福沢諭吉を通
 して、金玉均らのクーデター支援へと積極的に動いていたことは明らかである。事態が
 日本公使館と独立党とのいわば「共同謀議」によって、急ぎクーデター決行へと突き進

国内自主改革の放棄
・1885年の甲申クーデターの翌月、日本と李朝との間に漢城(日朝講和)条約が結ば
 れた。
・この交渉のために井上外務卿は、軍艦7隻、護衛兵二個大隊に巡査隊を率いて、漢城に
 乗り込んだ。
・李朝政府は金玉均・朴泳孝らの引き渡しを再三日本政府に要請したが、日本政府は一貫
 して「彼らは政治亡命者である」として拒否し続けた。
伊藤博文李鴻章が天津で会談し、日本と清国の間に天津条約が結ばれた。
・政変時の清兵と朝鮮暴徒による略奪・暴行には、すさまじいものがあった。鍾路付近の
 商店のほとんどが破壊・略奪の被害を受け、日本人家屋から略奪が相次いだ。また、各
 地にまとまって避難していた日本人集団が襲われ、あちこちで婦女暴行や、殺戮の惨劇
 が惹き起こされた。
・しかし日本政府には、後ろめたさがあったためか、この暴行・虐殺事件について、李朝
 政府や清国政府に声を大にして抗議することをしなかった。李朝に対しては、比較的軽
 い賠償金をもって、清国にいたっては、李鴻章から一片の紙切れを受取っただけで事を
 すませてしまったのである。そのために日本では、政府の「軟弱外交」への激しい抗議
 とともに、猛烈な勢いで、反清・反朝鮮の声がわき上がることになってしまった。
・こうして、事件の真相は歴史の闇へ葬り去られ、甲申クーデターをめぐる政治的決着が
 つけられた。天津条約に基づいて日清両国軍が朝鮮半島から撤収したのはその年の七月
 であった。  

・ロシアは、東では中国と各地で国境紛争を起こしつつ、すでに朝鮮と国境を接するとこ
 ろまで南下を遂げていた。一方、西ではアフガニスタンでイギリスと対峙するところま
 で勢力を拡大していた。
・1885年(明治18)、イギリスが突然、朝鮮半島の多島海諸島の一つ巨文島を占領
 した。アフガニスタンでの交渉が決裂し、ロシアの太平洋艦隊が朝鮮半島の永興湾一帯
 の占領へ動こうとする機先を制したのである。巨文島を基地にすれば、ウラジオストッ
 ク封鎖を狙うこともできる。イギリス・アジア艦隊のほとんどが巨文島に終結した。
・この問題も、李朝のいかんともしがたい国家衰亡と、人々の国家意識の欠如があらわに
 なっている。巨文島からも、周辺の沿岸一帯からも、政府への報告がまったくなかった
 のである。 
・イギリスは巨文島占領を李朝に通告することなく、イギリス駐在中国大使の曾紀澤に伝
 えた。李朝をあくまで清国の属国とみなす立場からである。しかも曾紀澤は、李朝政府
 にはもちろんのこと、清国政府にすら連絡もせず、簡単に占領を了承してしまっている。
 もはや、李朝の主体など、どこにもなかったと言ってよい。
・清国がイギリスとロシアの双方に働きかけたことによって、巨文島からイギリス軍が撤
 退したのは、2年後の1887年(明治20)のことだった。
・清国は朝鮮への干渉強化と対日軍備拡充を同時並行的に推し進め、ロシアは1891年
 にシベリア鉄道建設に着手して、東アジアへの本格的な進出の地歩を固めようとしてい
 る。事態がこのまま推移すれば、遠からず日本の勢力が朝鮮半島から駆逐される日がや
 ってくることはあきらかだった。   
・日本は表面的には清国と李朝を刺激しないようにしながら、しだいに対清戦争を準備し
 て兵力増強へと向かっていった。
・1894年(明治27)、亡命先の日本から上海に渡った金玉均が上海のホテルで、
 李朝の差し向けた刺客によって暗殺された。翌年、実父の金炳台が絞首刑に処せられた。
・その年の5月、甲牛農民武装蜂起(東学党の乱)が起こり、それをきっかけに、日清両
 国が朝鮮半島に出兵して日清戦争が勃発する。
日清戦争は、平壌の戦い・黄海海戦で清国軍が敗退し、日本軍の旅順攻略、清国北洋艦
 隊の降伏と続いて、日本の勝利が決定的となる。
・1895年に日清講和条約(下関条約)が結ばれる。しかし、その直後にロシア・ドイ
 ツ・フランスが、日本が戦利として得た遼東半島の清国への返還を要求し、日本はこれ
 に屈して遼東半島の領有を放棄する(三国干渉)。後に三国が日本への干渉の代償とし
 て、それぞれ清国から、遼東半島をはじめとする各地の利権を得たことは言うまでも
 ない。
・ただし、下関条約で、中国と朝鮮の宗属関係を廃棄して朝鮮を「独立自主の国」とし、
 それに伴って旧来の「貢献典礼」を廃止すると宣言されたことは、まさしく朝鮮半島の
 歴史にとって一大画期をなす出来事であった。

新たなる事大主義
・1895年、日本軍守備隊450名、朝鮮訓練隊兵士、日本人荘士たち(領事館員・居
 留日本人など)が合流して王宮に侵入した。彼らは王宮を警備していた第一訓練隊と銃
 撃戦を交えて敗退させ、さらに近衛の侍衛隊を打ち破って王宮を占拠した。
・その間、日本人荘士らは閔妃を探し回り、常殿にいた閔妃を惨殺すると遺体を王室の外
 に運び出して焼き捨ててしまった。これを乙末事件という。
・日本としては、なんとしても王妃を中心とした外威勢道政治の悪弊を排除したかったの
 である。これによって、閔氏一族が国政に優先的に参与し得る道が絶たれたことはたし
 かだった。  
・この政変は三浦公使が主導して日本人によって敢行されたものであることはあまりにも
 明白だった。日本人による王宮侵入から閔妃虐殺に至るまでのなりゆきは、王宮内にい
 たアメリカ人侍衛隊教官ダイーとロシア人技術者サバティンに目撃されており、彼らは
 見たままを証言したのである。
・苦境に立たされた日本政府は、急遽三浦公使を解任召還し、閔妃殺害に関与した軍人8
 名を軍法会議にかけ、48名を広島刑務所に収容予審に付したが、いずれも無罪・証拠
 不十分として釈放された。

・断髪令をきっかけに、1896年(明治29)から農民層を巻き込んでの武装蜂起が各
 地で発生し、急速に全国へと拡大していった。新日政権に対する明らかな武力闘争のは
 じまりであった。  
・政府が義兵闘争鎮圧のために親衛隊の主力を地方へ派遣すると、王宮警護が手薄になっ
 たスキをついて、ロシアの手を借りた親露派クーデターが起きるのである。
・親露派の保護のもとに宮中から脱出した国王と世子がロシア公使館に入り、各国公使館
 の守備兵たちがロシア公使館を取り巻いて警護を固めた。そのため、日本はまったく手
 出しをすることができなかった。 
・こうして親露派官僚たちは、ロシア公使館内で国王に国王新政を宣言させ、断髪令の中
 止、政権首脳者5名を逆賊として彼らの逮捕殺令を布告させたのである。
・金弘集と鄭秉夏は光化門を出たところで群衆に打ち殺され、魚允中は故郷へ逃げる途中
 で民衆に殺害された。
・ここに、旧独立党派も穏健開化派も完全に壊滅させられ、日本が精力を傾け続けてきた
 朝鮮内政改革への流れが終焉するのである。
・ロシア公使館内の新政府は言うまでもなくロシア一辺倒へと傾斜していった。
・李朝政府は日本の影響力を完全に遮断することに成功した。李朝政府は、ロシアの固い
 防壁に守ってもらうために、自らロシアの手中に入ることを望んだのである。自主独立
 国家とは名ばかりの、ロシア傀儡政権へと身を落としていったのである。
・1897年(明治30)、国王高宗はロシア公使館を出て、欧米諸国の公使館が近くに
 ある慶運宮(現在の徳寿宮)へ還御した。続いて国王は、皇帝即位式を挙行して、国号
 を「大韓」と改めて大韓帝国の成立を宣布したのである。
   
・1900年、清国に義和団事件(北清事変)が勃発する。
・日英露独仏伊墺の連合軍が中国へ軍事出動して暴動は鎮圧されたが、ロシアは義和団の
 乱が終始してもなお、4千の兵力を満州に駐留させたまま撤兵せず、事実上の占領状態
 続けたのである。
・これに対して日本とイギリスは、1902年に日英同盟を結んでロシアに対抗するが、
 ロシアはフランスと同盟を結んであくまで南進策を推進する。
・ロシアは第一次撤兵を行なったが、第二次撤廃は行わず、韓国との国境に防御線を構築
 しはじめたのである。その間にシベリア鉄道が完成し、ロシアの南進に万全の態勢が整
 えられた。    
・1903年、日露協商会議が開かれ、日本は満州からの撤兵をロシアに要求するがロシ
 アは拒否。ロシアは日本に対して、北緯39度線で韓国を分割しそれぞれの勢力下に置
 くことを提案するが日本は拒否。こうしてロシアが満州占領を宣言する。
・韓国と満州をめぐって、もはや一切の妥協の余地のなくなった日露がついに衝突する。
 1904年、日本軍が仁川に上陸し、旅順港外でロシア艦隊を攻撃して日露戦争が勃発
 したのである。
・1905年(明治38)に旅順が陥落し、奉天会戦、日本海海戦と続き、日本が日露戦
 争の勝利を確定し、アメリカの斡旋で日露講和条約(ポーツマス条約)が調印される。
・日本は、韓国保護国化についての列強諸国の承認取り付けに動いている。日本はまずア
 メリカとの間に桂・タフト協定を結ぶ。この協定は、アメリカがフィリピンを支配しる
 こと。日本が韓国を支配することの実質的な相互承認であった。
・続いて、日英の間で日本の韓国に対する指導・監理・保護の権利が承認される。日本は
 その見返りとして、イギリスのインド支配への暗黙の承認を与えたといってよいだろう。
・第二次日韓協約が結ばれる。これは日露のポーツマス条約に基づいての協約だった。   
 韓国統監に伊藤博文が任命され、韓国総監府が設置されて韓国は完璧に日本の保護国と
 なったのだった。

民族独立運動と日韓合邦運動の挫折
・反日義兵運動は、1907年(明治40)に韓国軍隊の解散命令が出されて以降とくに
 活発化し、全国各地で徹底した抗日ゲリラ戦を繰り広げた。
・駐留日本軍の組織的な討伐戦の展開で、各地の義兵集団はことごとく撃破され、併合ま
 でにほとんど鎮圧されている。 
・日本は、上からの近代化によって社会にもたらされる混乱を自力で乗り越えることがで
 きた。しかしだれが考えても、当時の韓国では、近代化がもたらすであろう社会的な混
 乱を、自力で乗り越えることなどできるはずもなかった。
・「衛正斥邪」の主張をもって韓国が独立し、再び王朝国家を運営していくことなどでき
 るわけもなかったのはいうまでもない。当時の世界情勢下では、韓国が近代化をなしと
 げる以外への道はなかった。にもかかわらず、韓国が独自に上からの行政改革をもって
 近代化を成し遂げ、かつ自力をもって社会秩序を維持していくことはほとんど不可能だ
 った。当時の韓国はそういう状況下におかれていたのである。
・現在のように、自力で近代国家を建設する力のない国が、国連の保護下に入って近代化
 を進めていくようなシステムは当時はなかった。したがって、当時の韓国はいったん外
 国の保護下に入り、そこで近代化を進めて力をつけ、独立へと向かうしか現実的にはと
 るべき道はなかったのである。  
・日本の保護国のままでは、韓国の側には反日・抗日を軸にした民族自立の動きしか生み
 出すことはできない。しかし日本の保護を失えば、民族の自立は一層脅かされることに
 なる。西欧列強の力をあてにする者たちもいたが、たとえそれで日本を排除できたとし
 ても、西欧諸国がこぞって韓国の中立維持のために力を尽くす理由はどこにもなかった。
 かえって中国のように、列強諸国による利権切り取り合戦がさらにすさまじく展開され
 る可能性のほうが大きかった。しかも、日本が満州を確保したとはいえ、ロシアの脅威
 はまったく去ったわけではなかった。

韓国併合を決定づけたもの
・1909年、伊藤博文が統監を辞職。副統監の曾禰荒助が第二代統監に就任する。
 同年、安重根が伊藤博文をハルビンで暗殺。日本は反日義兵討伐作戦を展開
 同年、日韓併合条約調印
・1911年(明治44)、辛亥革命が勃発する。 

・戦後歴代の韓国政府および韓国を代表する知識人たちは、「親日派」ならびに「併合推
 進派」の人々に「売国奴」の烙印を押したまま、いまなお許そうとはしていない。
・ただ金玉均については、北朝鮮の方が早かったが、韓国でも大分前から高く評価するよ
 うになっている。 
・もちろん韓国でも、当時の李朝−韓国政府のあまりに無残な頽廃ぶりへの批判がないわ
 けではない。しかしがなら、李朝−韓国の側の「併合への道をもたらした原因」を徹底
 して解明していこうとする動きは、少なくとも韓国内部からは現在に至るまで出てきて
 はいない。
・私にいわせれば、李朝−韓国の積極的な改革を推進しようとしなかった政治指導者たち
 は、一貫して日本の統治下に入らざるを得ない道を自ら大きく開いていったのである。
 彼らは国内の自主独立への動きを自ら摘み取り、独自に独立国家への道を切り開こうと
 する理念もなければ指導力もなかった。
・韓国の知識人中枢は、併合後10年の体験を通してようやく、近代民族国家の成立のほ
 かに民族自立を確保することが不可能であることを自覚したのである。
・解放後の朝鮮半島に成立した近代民族国家は、北朝鮮にしろ韓国にしろ、実に対外的な
 民族自決による形式的なものに過ぎなかった。そこから実質的な対内へ向けての「民主
 共和主義」の体裁を形づくっていくには、さらに50年を要したのである。
・韓国が自らの側の問題解明に着手し、さらに反日思想を乗り超え、小中華主義の残存を
 切り捨てたうえで、日本統治時代についての徹底的な分析に着手したとき、韓国によう
 やく「李朝の亡霊の呪縛」から脱出したといえる状況が生まれるだろう。
・李朝は次のような政治的伝統をもっていた。
 ・世界に類例を見ない硬直した文治官僚国家体制
 ・中華主義に基づく華夷秩序の世界観
 ・大国に頼ろうとする事大主義
 ・儒教国家を守ろうとする衛正斥邪の思想
・李朝の統一が、「横のつながりを失った無数の極小集団がそれぞれ自己の利益を目指し、
 中心へ向かって猛然と突き進む力学の統一性」によって維持されていた伝統と、けっし
 て無縁ではなかった。また、「すべての非正当的活動を執拗に排除しようとする嫉妬深
 い中央集権主義」の伝統とも無縁ではなかった。
・日本の保護国となってから併合されるまで、最も強固な抵抗を示したのは、儒生や旧将
 兵らが農民を組織した義兵闘争だった。それ以前には、伝統的な農民一揆があり、大院
 君派の儒生らが農民を糾合して起こした初期義兵闘争があり、また東学が指導した甲牛
 農民武装蜂起であった。
・農民蜂起の根本にあるのは生活の疲弊である。だからこそ時の権力に対して命を賭けた
 武装闘争を展開した。政権が親清だろうと親日だろうと親露だろうと、あるいはそれら
 の国が政治の実権を握っていようとも、農民たちが疲弊していることには何らの代わり
 もなかった。油が注がれればいつでも爆発した。
・守旧派から改革派に至るまで、農民たちの命を賭けた蜂起を全国的に組織することがで
 きない知識人たちがいた。また呼応しようとすらしない知識人たちがいた。
・抗日闘争をした、独立運動をしたということで愛国者とされてきた人々については、そ
 うした意味からの責任が強く問われなければならないだろう。なぜなら、それもまた日
 本に併合される事態を招いた李朝−韓国側の大きな要因だからである。

日本の統治は悪だったのか?
・1910年(明治43)の日韓併合条約調印によって、大韓帝国という国家は消滅し、
 朝鮮半島は日本の統治下に入った。これをもって一般に、朝鮮半島は日本の植民地にな
 ったといわれる。しかし、日本による朝鮮統治は、西洋列強の植民地当時とは大きく性
 格が異なるものであった。
 それは主として次の四点で示すことができる。
 ・収奪によって内地を潤すという政策が執られなかったこと
 ・武力的に威圧をもっての統治政策を全般的に執らなかったこと
 ・文化・社会・教育の近代化を強力に推し進めたこと
 ・本土人の同化(一体化)を目指したこと
・特筆すべきは人口が増えたことである。併合時の朝鮮半島の人口は1312万人だった
 が、併合後には最終的に2512万人(1944年)と2倍近くまでに増加している。
 それほど経済力が成長したのである。
・西洋列強によるインドや東アジアの植民地経営は、東インド会社などの株式会社の経営
 を通じて進められたところに特色がある。いずれも国王によって東洋貿易の独占権が与
 えられ、植民地経営を中心的に担ってきた。国策株式会社であるから国益の追求が最大
 目的であり、日本のように現地人の生活向上や福祉などを図る政策はとられることはな
 かった。  
・イギリスをはじめとする西洋列強は、日本のように大量の資本を直接投入して工場を建
 設し、各種の製品を輸出して現地の産業を起こすことをしなかった。西洋列強のやり方
 は、基本的に現地からの原料収奪であった。
・西洋列強が植民地で主として展開したのは、プランテーションと呼ばれる前近代的な大
 農場で、ほとんど無料の土地で極端に安価な労働力(奴隷労働)を大量に使い、莫大な
 収益をあげていったのである。これによって現地の経済は、ゴムや綿花などの特定の一
 次産品を宗主国に輸出し、宗主国から完成された消費財を輸入するという構造へと大変
 質をとげた。これによって、インドでは飢饉のたびに数百万人規模の死者を出すように
 だった。 
・またイギリスは、茶の輸入で清国へ大量に流出した銀を取り戻すため、インドにケシ栽
 培を強制して大量のアヘンを中国に密輸し、膨大な利益を得た。さらにイギリスは、ア
 ヘンの密輸を取り締まる清国に対して戦争(アヘン戦争)を仕掛け、その結果、香港を
 割譲・租借したのである。
 
・日本は統治9年で三・一独立運動を招いたことを反省し、それまでの武断的な統治を大
 きく改め、文治統治へと重点を移していった。三・一独立運動以降、日本統治に対する
 抵抗といえる抵抗がまったくみられなくなったのは主としてそのためである。
・1919年3月1日に起きた三・一独立運動は、朝鮮全土で200万人が参加したとい
 われ、暴動へと発展したため憲兵・警察のほか正規軍をも投入した鎮圧作戦にいって終
 熄した。死者553名、負傷者1409名を出している。
・直民地統治など異民族の統治で最も重要なことは、統治者が一般の生活者の生活圏や文
 化圏を侵したか、侵さなかったのかということである。それ以外のことはすべて第二次
 的なことにすぎない。つまり、統治者や統治国の人々が、勝手に現地人の生活圏に入り
 込んで略奪を働いたり、暴行を加えたり、女性を強姦したり、無法な人殺しをしたり、
 文化を破壊したりなどのことが、頻繁にあったのかどうかが、大多数の人々にとっては
 一番肝心なことだということである。  
・西洋列強統治下の植民地では、そうした直接的な生活圏侵犯はたびたび起きていたが、
 日本統治下でそうした事件は基本的に起きることはなかった。
・植民地化にもいい面があったと思えるための必須の条件は、自分たちの日々の生活が植
 民地化によって著しく犯されたり乱されたりはしなかった。悲しいことも辛いこともあ
 ったけれど、そういうことならいつだってあったというような、大多数の人々の生活総
 体に対する実感である。 
・率直に言えば、統治する者が同国人だろうと外国人だろうと、日本の生活圏さえ侵され
 なければそれでいいと考えるのが生活者というものである。
・すべてが善政だったとはいわないが、少なくとも日本統治の35年間は、全般的に武力
 的な威圧をもっての武断統治ではなかった。日本は朝鮮全域に強力な軍事支配を布いて
 の徹底した弾圧政治によって、人々の抵抗を封殺し続けたにちがいないと思っている人
 も少なくないようだが、事実をまったく知らないというしかない。事実は逆に、早くか
 ら武から文への転換がはかられていったのである。
・韓国や北朝鮮が現在用いているハングルは、日本の仮名よりもはるか後の1443年に
 李朝の第四代王・世宗の発議によって、朝鮮語の音を完璧に表記するために創出された
 純粋な表音文字で、漢字からはまったく独立した文字である。
・李朝では、ハングルを作り出しても、ハングルをもって漢字の訓とする日本のような発
 想が生まれることがなかった。あくまで漢字は漢字、ハングルはハングルという、互い
 に自立した別個の文字としてあったことが、日本語の漢字と仮名の関係とは根本的に異
 なっている。  
・西洋列強は、キリスト教の普及には力を入れたが、日本のように現地にたくさんの公立・
 私立の学校を建設することはなかった。フィリピンで近代的な教育普及政策をとったア
 メリカでも、日本と比較すると雲泥の差がある。
・オランダの場合は、上層部子弟を除き現地人にいっさい近代教育を与えなかったばかり
 か、オランダ語を教えることすら禁止していた。
・西洋列強の植民地主義にとって植民地とは、本国に収益をもたらすことを役割とする地
 域にほかならなかった。 
・日本の朝鮮統治は西洋列強の植民地支配とは異なり、基本的に朝鮮人を日本人に同化し
 ていこうとする政策をとった。しかしそれは同時に、時間をかけて日本人と朝鮮人との
 間の差別・区別・格差をなくして同じにしていこうとする流れであった。

反日政策と従軍慰安婦
・今日のインド、パキスタン、バングラデシュに強固な反英主義は見られないし、東南ア
 ジア諸国に強固な反仏主義や反オランダ主義は見られず、台湾に強固は反日主義を見る
 ことはできない。しかし韓国には、今なお強固な反日主義が見られるのである。なぜな
 のだろうか。
・韓国の反日主義では、日本の朝鮮統治は「不当な政治支配」に止まるものではない。そ
 れは、日本民族に固有な歴史的性格に由来する「反韓民族的犯罪」にほかならない。つ
 まり、反日主義の根拠は「植民地支配をしたこと」それ自体にあるのではなく、そうし
 た事態を招くまでに至った日本人の「侵略的かつ野蛮な民族的資質」にある、のである。
・豊臣秀吉の「朝鮮侵略」という事実、江戸時代から明治へかけての「征韓論」、そして
 「韓国併合」という植民地支配に至る歴史が、日本民族が一貫して韓国に対する侵略的
 で野蛮な性格を持ち続けてきたことを物語っている。
 これが、韓国での一般的な「歴史認識」だといってよい。
・そこでは、日本の朝鮮統治の問題は、古代以来の日本民族の野蛮で侵略的な性格とそれ
 に基づく朝鮮劣等視・蔑視を背景としている、というように、「日本民族に固有な資質」
 の問題にまで還元されてしまうのである。
・韓国の反日民族主義の目的は、「植民地化をもたらした日本民族の資質」を、「日本人
 に自覚させ直させる」ことにある。「植民地化という悪」をもたらしたのは、そもそも
 日本民族の資質である。それは古代、中世、近世、近代を通じて、現在に至るまで延々
 と生きつづけてきた侵略的で野蛮な資質であり、歴史的に根深い朝鮮劣等視・蔑視の民
 族意識である。これが韓国の正統的な反日民族主義の考えである。
・戦後韓国の李承晩政権にとっては、日本の「植民地支配」に甘んじてきた「屈辱の歴史」
 を精神的に清算し、民族の誇りを回復する政策が是非とも必要だった。李承晩にとって
 それは、日本民族に対する朝鮮民族の優位性を回復することに等しかった。これが反日
 民族主義の出発点となった。 
・日本の敗戦によって、日本および日本人の私有財産・投資資金・工場設備やインフラな
 ど、いっさいの在朝鮮財産は米軍が没収して韓国に委譲した。北朝鮮地域については、
 大規模工場群などを含めて、いうまでもなく金正日らの勢力によって一方的に占有され
 たのである。
・1899年制定のハーグ条約では、占領軍が占領地の私有財産を没収することはできな
 いとされているが、日本はこの主張を1957年に取り下げている。こうして日本は、
 在朝鮮財産を事実上放棄したのだが、イギリスはインドから引き揚げるに際して、在イ
 ンド財産に対する対価をインド政府に支払わせている。
・日本と韓国は戦争をしたわけではないので、日本に戦後賠償責任は生じない。しかし日
 韓は、日本による「補償」の観点から交渉を進め、1965年に日韓経済協力協定を締
 結して国交正常化をなしとげた。
・歴代韓国政府は、反日主義政策をとってきたために、一貫して日本からの経済援助の実
 態を国民に告知してこなかった。韓国の経済成長に果たした日本の貢献度は、他国とは
 比較にならないほど高いものだったにもかかわらず、大多数の国民がそのことを知らさ
 れてこなかったのである。  
・韓国は、朝鮮戦争後の1950年代には一人当たりのGDPはわずか60ドルという、
 経済最貧国の状態にあった。主としてアメリカのODAにたよっていたが、1965年
 の日韓国交正常化に伴う日本の資金協力がはじまったことによって、以後の韓国は急速
 な経済成長をとげていった。
・1965年の国交正常化時に締結された日韓経済協力協定に基づいた援助の内訳は、
 ・有償2億ドル(720億円)
 ・無償3奥ドル(1080億円)
 ・民間の経済協力3億ドル(1080億円)
 以上合計8億ドル(2880億円)
・1965年の日本の外貨準備高は18億ドルにすぎなかった。  
・1965年の韓国の国家予算は3億5千万ドル
・当時の両国にとって、8億ドルという金額がいかに大きなものだったかがわかる。
・なおこのほかに、民間人に対する補償として1975年に、「軍人、軍属または労務者
 として召集され死亡した者」を対象に、その直系遺族約9500人にそれぞれ30万ウ
 ォンが日本から支払われている。
・また同時に、日本の金融機関への預金、債権など財産関係の補償として9満3685件
 について総計66億4100万ウォンが日本から支払われている。
・1966〜75年の韓国経済成長に対するこの日本の援助資金の寄与率は、20パーセ
 ントと高い数字を示している。
・1997年11月の韓国通貨危機は、韓国建国以来はじめて「自己責任」を痛感させら
 れた事態であった。  
・韓国が通貨危機に陥る少し前に、韓国のデパートの建物が崩壊する、戦後に漢江に架け
 た橋が崩落するという事態が起きた。そのときに、日本統治時代に日本が建てた建物や
 橋がきわめて頑丈に造られていたこと、それに対して戦後の韓国の建築物には脆弱なも
 のが多く、いつ崩落してもおかしくない橋が多数あることが大きな問題となった。
・通貨危機以後の「韓国人自身の過去の清算」という言葉が登場すうりょうになったもの
 の、いっこうに進むことなく、「国内親日派一掃のための過去清算」だけが強力に推進
 された。