陸軍大将 今村均 :秋永芳郎

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この本は、今から7年前の2016年に刊行されたもので、昭和の戦時下に日本陸軍大将
であったった今村均の人生を描いたものだ。
今村均大将は仙台市に出身で、今村家は仙台藩の上級武士の家柄だったようだ。
しかし、裁判官だった父の転勤で、各地を転々としたようだ。

昭和の戦争一色の時代において、軍人には勇ましさだけが求められがちだったが、そんな
時代の中にあって、今村均大将は数少ない人間愛に溢れた軍人だったようだ。
その一つ例として、今村均将軍がジャワ島を攻略した後の軍政に見られる。
今村は、原住民に対しても、かつての支配者であったオランダ人に対しても、当時では他
に例を見ない寛容な軍政を行ったようだ。さらに、オランダによって流刑とされていたイ
ンドネシア独立運動の指導者のスカルノを解放して資金や物資の援助を行ったりしたよう
だ。スカルノは、のちにインドネシア共和国の初代大統領になっている。
二つ目としては、一度は東京の巣鴨刑務所に拘留されたにもかかわらず、旧部下たちが高
温多湿で気候不順な土地のマヌス島で、非常に難儀した刑務所暮らしをしていると知ると、
旧部下たちと苦労を共にしたいと、マヌス島の刑務所への移管を願い出て、マヌス島の刑
務所に移ったことである。このようなことをした軍人は今村大将以外にはなかっただろう。
さらに三つ目として、刑期を終えて出所した今村大将は、自宅の庭の一隅に三畳ひと間の
離れを建てて、それを「謹慎小屋」と称して、戦没した部下の遺族を弔問しながら、余生
をその謹慎小屋で過ごしたことである。
これは、戦後の余生を三浦半島の別荘で隠遁暮らし続けた海軍大将井上成美とどこか似た
ところがある。

そのような今村大将の人格は、どのようにして形成されたのだろうか。
生涯夜尿症に悩まされていたからであろうか。
愛妻に先立たれたからだろうか。
上海事変の際、二人の部下の犠牲的行動によって自分の命が救われたからだろうか。
今村大将は、少年時代から読書家だったようだ。そして聖書には強い関心を持っており、
何度となく愛読していたようだ。聖書だけでなく、禅の本も読んでいたようだ。
そして、親鸞聖人の「歎異抄」なども読んでいたようである。
今村大将は、特定の宗教を信仰していたわけではなかったようだが、信仰心は強く持っ
ていたようだ。

ところで今村均大将は、陸軍大学校では東條英機と同期だったようだ。
今村均は首席で卒業し、東條英機は11番の成績だったという。
しかし、今村均大将はラバウルの最前線で軍司令官として終戦を迎えた。
一方、東條英機は陸軍大臣や総理大臣へと昇りつめたが、日本を亡国へと導いた罪で、
A級戦犯として極刑となった。二人の違いはどこにあったのだろうか。
無責任なリーダーばかりが目立った昭和の日本軍の中にも、今村均大将や井上成美大将
のように、最後まで自分たちの責任と取ろうとした軍人もいたのだ。
なお、今村均大将の墓は仙台市内にある輪王寺にある。

過去に訪れたことのある関連する場所:
春の輪王寺(仙台)
秋の輪王寺(仙台)

過去の読んだ関連する本:
賊軍の昭和史
昭和陸海軍の失敗
かくて昭和史は甦る
撤退戦の研究


薄明の漂流
・今村は、陸士は十九期生で二番で卒業したが、陸軍大学は首席だったので、大正から天
 皇から恩賜の刀として名刀月山をいただいていた。
・出征に当たって、彼はもう一振りの軍刀を持ってきていた。
 それは、正宗門下十哲のひとり志津三郎兼氏のつくった古刀で、いつもはこれを佩く 
・今村は仙台の生まれだが、父が裁判官だったため方々へ転住し、十四歳のとき、山梨県
 の甲府市から新潟県の新発田町に移り住み、彼は町の中学校へ転校した。
・今村は生まれてこのかた、夜中に五、六回尿意をもよおし、眼をさます習慣があった。
 この今村の夜尿症は幼児からのものであった。
・今村は明治十九年(1886)六月、杜の学都として知られる仙台市の外記了に、父
 虎尾、母きよみの二男として生まれた。が、二ヵ月も早く月足らずで生まれたせいか、
 体重も軽く、育ちがおそかった。しかも、生来オシッコが近く、三つになるまでおむつ
 が取れなかった。
・やがておむつがとれても、寝小便のくせはなおらず、母はいろいろ手をつくして薬まで
 のませたが、やはり治らなかった。 
・九歳になった秋、肋膜炎を患って二ヵ月ほど病臥した。その間に、尿意をもよおすと眼
 がさめて便所へ行くようになった。
 やっとこれで、寝小便たれの汚名を返上することができたのだが、一番喜んだのは母だ
 った。そのとき甲府の小学校の四年生になっていた。
・しかし、月足らずの八月児で生まれた彼は、やはりどこか身体に故障があるのか、夜尿
 症は、中学生になっても、青年になっても治らず、夏は四、五回、冬は七、八回、尿意
 で目が覚め、便所に通うので、睡眠不足になり、授業中にもよく居眠りをした。
 そのため痩せすぎのからだは、なかなか肥ることができなかった。
・彼は甲府中学二年のとき、父の転任で新潟県の新発田中学に転校した。
 中学時代の彼は文学書を多く読み、聖書にまで目を通した。
 そして日露戦争の始まった明治三十七年の三月に卒業した。
・彼は一高か高商を受験するつもりで上京した。が、そこには思わぬ不幸が待ち受けてい
 た。
 五月に父が亡くなったのだ。父の死の目にも会えなかった。
 父が死ねば当然、学費に窮することになる。
・折よく越後の富豪五十嵐甚造が高校を通じ、大学までの学費を給与してくれるという厚
 意を伝えてきた。
 彼はありがたかった。そこで初心貫徹のため、ふたたび上京した。
・ところが、しばらくして母から手紙がきた。
 「他人のお情けで学問を続けることは、その方に仕えてしまうことになります。万一、
 その人がなにかのことで学費を出せなくなれば、半端で学校をやめなければならず、か
 りにそのおかげで卒業したとしても、その人に不幸が見舞ったりしたときは、義理にも
 補助していただいたものは返済しなければなりません。
 そうなれば、お父さんが友人の借金の連帯保証人の印を押したばかりに、一生涯、うだ
 つのあがらない貧乏に陥った二の舞を演ずることになります。
 私はかたく反対いたします。
 それにいま、日本のお国はロシアとの戦争でお国が興るか亡びるかの大変なときで、満
 州ではたくさんの兵隊さんが、お国のために命をささげて戦っています。
 現役を志願するなら、士官学校に入って将校になるなりして、どうしても戦場ではたら
 きなさい」 
・今村は、毎日苦悩を続けた。一高に入るべきか、陸士を志願すべきか、なやみになやん
 でも結論は出てこなかった。
・そうしたとき、青山の練兵場で観兵式が挙行された。今村は新聞でそれを知ると、母か
 ら陸士を受験させよとの手紙も来ているので、観兵式とはどういうものか拝観しておく
 ことにした。 
・その日は、朝早くに起きて、小石川から青山まで歩いていった。
 が、もう練兵場周囲の観覧席は、黒山のような人で埋まり、入りきれない幾万の群衆は、
 入り口を中心に青山通りの両側の道端に、十重二十重に立ち並んでいる。
 せめて陛下のお通りだけでも見ようという気持ちからであろう。 
・今村も、ひとめでも見たいと思い、群衆にまじって立ち続けていた。
 一時間ばかりもたったろうか。騎馬巡査が二騎、練兵場から出てきた。
 それを見ると群衆は、
 「おかえりだ。お帰りだ」
 と口々に言ってざわめていた。
・今村はおとなの群衆にもみにもまれて、まったく思いがけず最前列に押し出され、馬車
 から二メートルぐらいのところへ来てしまった。
 今村はそのとき、陛下のお顔を拝し最敬礼したが、チラリとみたお姿は、馬車の窓を通
 して両側の民衆におおどかな挨拶をしておられる。
・両側の群衆はなおも狂えるように万歳を連呼し、中には感泣して涙を流しているものも
 ある。  
・十九歳の今村は、この光景をみて感動した。
 (ああ、これが日本のお国柄なのだ)
 家に帰る途中、郵便局をみると飛び込んで、越後の母へ電報を打った。
 「陸士を受験する。不合格だったら現役兵を志願する」
 今村の軍人としての生涯は、このときの感激から始まったのであった。
 
・明治四十八年四月、今村は陸軍士官候補生の採用試験を受けた。
 応募者は採用人員の六倍にたっしているということであった。
・第二日目から四日間、学科試験が行われたが、この方には自信があった。
 一つの机に二人ずつ並んで、答案を書くことになっていたが、今村と並んで腰かけたの
 は体格のいい青年で、昼食の休み時間に、
 「ぼくは、佐渡中学出身の、本間という者だ」
 とった。
 この本間こそ、のちに比島攻略軍の軍司令官となった悲劇の将軍「本間雅晴」であった。
・仙台の連隊で予備訓練を受け、東京市ヶ谷の陸軍士官学校へ入学したのはその年の十二
 月であった。この日入学した者は千名だった。
・今村は、他の候補生に比べて体力が劣っており、また無器用であった。
 それに入校のとき渡された銃は錆ついていて、いくら磨いても光らず、週番仕官にとが
 められ、幾回か日曜外出の禁止をくらった。
・しかし、今村はもっと深刻ななやみがあった。それは例の居眠りである。一晩に五、
 六回から、六、七回、尿意をもよおして眼をさまし、便所へ行く悪習は、陸士に入って
 からも治ってはいなかった。このため、人よりも寝不足となり、つい居眠りをしてしま
 うのである。
・今村は、明治四十年六月、陸士を卒業した。二十一歳であった。
 成績は千百数十人中、三十番以内であった。
 母隊である仙台の歩兵第四連隊に帰り、第十二中隊付を命ぜられた。
 それから八年後の大正四年十二月、陸軍大学を卒業したが、このときは首席で恩賜の軍
 刀を賜っている。
・ちなみに同期生の本間雅晴は三番で、のちの首相となった「東條英機」は十一番であっ
 た。  
 今村は大学を卒業すると、ふたたび仙台の歩兵第四連隊第十中隊長を命ぜられた。
 三十歳の夏、陸軍省軍務局課員に転任、住み慣れた仙台をあとにして上京し、当時の四
 谷区番衆町に借家した。
 今村は妻帯していたので、妻の銀子と母のきよみと末弟をよびよせて、四人暮らしをは
 じめた。
・今村の居眠りは陸士時代ばかりでなく、陸軍大学に入ってからも治っていなかった。
 いや、一生、夜尿症には悩まされている。
・そうした悪条件にもかかわらず、今村は、首席の地位を勝ち取ったのだ。
 これは、彼が秀才であったばかりでなく、努力の人だったからにほかならない。
  
勝利と栄光の時
・昭和十七年三月、今村の隊はバンダム湾に上陸した。
 そしてセラン市に向け前進した。
・鬱蒼と茂った枝木が道をふさいでいるので難渋する。
 一時間ばかりかかって千メートルくらい進んだ。そのとき意外なことが起こった。
 大きな蛮刀を手にした沿道の原住民が、両側の田畑から、何百人も道路めがけて飛び出
 してきて、いきなりタマリンドの枝を切り払いはじめたのだ。
 これで道がいくらか通りよくなった。それでも、三千メートル進むのに三時間以上をつ
 いやした。 
・ところが、それから先の道路の並木は、一本も倒れていない。
 そこで今村は、大休止することを命じた。
 すると、原住民がゾロゾロと集まってきた。さすがに女の姿は見えないが、老人も子供
 も大勢まじっている。そして、持ってきた椰子の実を汗だくの兵隊に飲ませたり、バナ
 ナやパパオアの実を食べさせて、口々に何かいって話しかかてくる。
・兵隊の中に幾人かがお礼のつもりで、ポケットから、タバコ、乾パン、チョコレートな
 どを渡すと、彼らは笑顔を見せ、
 「トアン、テレマカシー」と連呼する。
・兵隊たちは、乗船時、各人ごとに渡された、日本語とインドネシア語合話の小冊子をポ
 ケットから出して、原住民の大人や子供と、手まねを加えながら、なにか話し合ってい
 る。これは、とても戦場とは思えない風景である。
・首都バタビアはその前日、第二師団主力佐藤支隊によって、ほとんど無血入城にひとし
 いかたちで占領されていた。
・この佐藤支隊が、セランから東方二十八キロの地点まで来たとき、前方から白旗をうち
 ふりながら、二人の男がやってきた。
 一人はオランダ人でバタビア市長の秘書官、一人はインドネシア人とオランダ人の混血
 であるバタビア州参事官の代理であった。
 「すてに、バタビア市内には連合国軍の一兵もいない。そのため、市内は極度に治安が
 乱れ、善良な市民は困惑している。われわれは市民を代表してきた。日本軍は、一刻も
 早く入城し、無警察状態の暗黒から救っていただきたい」
・軍隊の撤退とともに、インドネシア民衆は、これまで過酷をきわめ、怨嗟の的であった
 オランダ人に復讐していることがわかった。   
・佐藤支隊長は、ただちにこれを丸山師団長に報告し、師団長も、
 「無警察状態では暴行、掠奪など治安が乱れる。今夜ただちに入城せよ」
 と命令し、無血入城したのであった。
・しかも、先導撫隊をうれしがらせたことは、いつの間に用意したのか、日の丸の小旗を
 もったインドネシア人が沿道に群れて、歓呼の声をあげて迎えたことであった。

・あらかじめ日本語とオランダ語でつくっておいた降伏書二通を、相手の前の机上に差し
 出した。
 ポールテン中将は、それを取り上げ、読み始めたが、手がふるえて紙がわなわなとゆれ
 ている。やがて、軍服の胸ポケットから万年室を取り出し、署名しようとしたが、手の
 ふるえはいっそうひどくなり、ペンがすべらなかった。
 やっと署名が終わると、今度は今村が日本文字で官職氏名を署名し、花押を記して、一
 通は相手側に渡した。
 しかも、今村は武士の情けとして、各部隊長たる佐官以上と参謀の佩刀とピストルの所
 持を許可したのであった。
・今村の軍政上の方針はあくまで人道主義の立場に立ったもので、オランダ軍の捕虜も兵
 舎に収容はしたが、できるだけ自由を与えていた。
 捕虜ではない一般人は住宅地に住まわせ、外出も自由に認めたのだから、彼らは散歩し
 たり買物に出かけたりして、日常生活をエンジョイしているかに見えた。
・これには当初、少壮者の多くは反対であった。
 今村は決意を述べた。
 「軍政事項は、主として参謀副長と中山大佐とがその事務を分担することになる。軍司
 令官もまた、中央から指令されている通り軍政をやってゆく決心をしている。八紘一宇
 というのが同一家族同胞主義であるのに、なにか侵略主義のように観念されているのは
 遺憾である。一方的に武力を持っている軍は、必要が発生すればいつでも弾圧を加える
 ことができる。だから、できる限り緩和政策をもって、軍政を実行することにする」
 こうして、オランダ人たちにも華僑にも、緩和政策がとられたのであった。
・同じ占領地であるマレーやシンガポールでは、軍政がきびしく、共産党員狩りと称して
 行われた一万人にのぼる「華僑の無差別虐殺事件」なども発生しており、それからみれ
 ば、まさにジャワは天国であった。
・「児玉秀雄」、「林久二郎」、「北島謙次郎」ら三人のジャワ統治政治顧問は、着任し
 た日、今村と夕食をともにしながら、
 「じつは東京でもシンガポールでも、とくにシンガポールでは、ジャワ軍政の方針に対
 して非難の声をあげております。日本国と日本軍の威圧が少しも示されておらない、白
 人どもは、戦争で敗けたという気分なしに振舞っている。やはり、シンガポール軍政の
 ように、日本軍の威力を認識させることが、有色民族をわれらに依信せしめることにな
 る・・・というのが、その言い分です」
 と口をそろえて言った。
・これに対して今村は
 「シンガポールでは、排日運動に徹底した幾千人の華僑が対象だったから、強圧政策も
 必要であったのでしょう。しかし、ジャワではその必要はありません。上陸して以来、
 インドネシア民族は、われわれを同種族の同胞と信じ、大きな好意をもって協力してく
 れたのです。軍の勝利はなかば彼らの協力のたまものです。第二にオランダ人ですが、
 軍人は全部捕虜として収容されてあります。しかし、その家族や無辜の市民を弾圧する
 べきでないことは、戦陣訓がいましており、第三に、この島の華僑は排日運動はやりま
 したが、いまは後悔しており、ジャワの産業には、彼らやオランダ人とて従事しており
 ます。もしもこれらを報復的に弾圧したり、他の作戦地でのように拘禁したら、石油を
 はじめすべての資源は、日本軍のために利用できなくなります」
・三人の政治顧問は、やがて三週間の視察を終わって帰ってきたが、彼らは今村の軍政に
 感心し、口々に言った。 
 「どこを回っても、まるで日本内地を巡っているような気安さで、なんの危険も感じま
 せんでした。原住民はまったく日本人に親しみを寄せており、オランダ人は敵対を断念
 しているように見えます。華僑にいたっては、日本人の気に入るように迎合これつとめ
 ており、産業の回復は、これなら思ったより早くなりましょう。ジャワでは確かに弾圧
 政策の必要はありません。ジャワ軍政を非難する者は、現地の実情を知らない、観念論
 にすぎないことが、はっきりと認識されました」
・今村のジャワ軍政に対する自信は、これでいっそう強まったのであった。
 自由主義と民主主義は、当時の軍が反軍思想として排撃していたものだが、今村の血の
 中には生きていたのだ。バタビアに軍政部が置かれると、まもなくジャワの学生層やそ
 の他の青年から、次のような趣旨の嘆願書が送られてくるようになった。
 「インドネシアの民族にとり、崇拝の的であるスカルノ先生を、どうかマトラの監獄か
 ら救い出してください」
・スカルノは、二十七歳の若いときから、インドネシア民族の独立運動を続け、オランダ
 官憲に捕らえられて、ジャワ、スマトラ、ニューギニアの監獄に入れられ、あらゆる辛
 苦をなめてきた。インドネシア独立の英雄であったが、当時はスマトラ東部山中の監獄
 に入れられていた。
・スカルノは四十を少し過ぎた年輩であった。
 南方総軍司令部の首脳は、
 「スカルノのような熱狂的独立主義者をジャワに引き取ったりして、今村軍はきっとあ
 とで手を焼くだろう」  
 と言っていたが、会ってみると、スカルノは端正な上品な顔立ちで、温厚平静な言葉つ
 きである。だが、さすがに牢獄生活で、ひたいにはその間の苦しみのしわが刻まれてい
 たが、それはかえて彼の志士としてお闘志を物語っていた。
・今村は言った。
 「この大東亜戦争が終わったとき、あなたの念願の、完全なインドネシア独立ができる
 か、日本との同盟、または連邦式独立国になるか、あるいは高度の自治国となり、防衛
 は日本が担当するようになるかなどは、今はなんとも言えません。私にはそのような権
 限がなに一つ与えられていないからです」
 「だが、私が今インドネシア六千万民衆に公然と約束できることは、私の行う軍政によ
 り、蘭印政権時代よりもよい政治と、福祉の招来です。ですから、あなたが日本軍に協
 力するか、中立的立場をとって何もしないで形勢を傍観しているかは、どちらも随意で
 す。後者の場合でも、郡はあなたの生命財産と名誉を完全に保証いたします」
・四日後、スカルノは、ふたたび会いたいと申し入れてきた。
 「あれから同志たちとも相談いたしましたが、閣下が、日本軍政はオランダ政権時代よ
 りも、インドネシアの福祉を増進することを約束されましたので、私どもはこれを信用
 し、私と同志は、日本軍政に協力することにしました」
 「しかし、戦争が終わった後は、自分がどんな行動に出るか、その意志の自由は捨てな
 いでおくことも、はっきり言明いたします」
・「よかろう、戦争が終われば、日本の戦争目的は、東南アジア民族の解放にあるので、
 悪い方には向かいますまい。それでは、運動資金が必要であろうから、遠慮なく申し出
 なさい」  
・今村は、スカルノが協力することは、ジャワの統治上、たいへんなプラスになると思っ
 たので、運動資金も出そうと言ったのだ。
・スカルノはそれ以来、たびたび今村を訪ねてきては話をしていくようになったが、今村
 は、そのころ一つの腹案を持っていた。
 それは第一に、オランダ人が占めていた官公使の地位を、インドネシアの有能人に置き
 かえようという案であった。
・ところが、日本政府は、近く州長官、大都市の市長などに、幾十人かの司政長官、司政
 官などの行政官を日本から派遣するといってきた。
 これは、ジャワだけでなく、全占領地域に対し、敵の奪回作戦に備えるため、軍の行動
 と民政の調和とを考慮することの必要から行われたものであった。
・ある日曜日、スカルノは一人の青年を連れてやってきて、今日は私用できたが会っても
 らえないか、と田中副官に申し出た。
 今村が会ってみると、
 「この青年は、私の甥で、バスキン・アブドラと申しますが、インドネシアでは第一流
 の洋画家です。閣下の肖像を描いてみたいから、ぜひお願いしてくれとせがみます。い
 かがでしょうか」
・今村は絵は好きだったから、
 「私の顔は芸術の対象になる顔ではない。しかし、稽古台に使うのならかまいません。
 だが、じっとモデルになって動かないでいるのは苦痛ですね」
 と言った。
 「いや、私を話し相手にして、お話をしてくださって結構です。ぜひお願いします」
 アブドラが熱っぽく言った。
・そこで今村も承知したが、アブドラは、スカルノと一緒に二日おきにやってきては描い
 ていた。それが、四、五回続いて、もう終わったなと思っていると、立派な大きな額を
 運んできた。絵が完成したのである。
・「本日は、この絵を閣下に進呈しに参りました。アブドラが懸命に描いたので、よくで
 きたと思っております」
 スカルノは言った。
 なるほど、絵は見事に今村の特徴をとらえて立派な作品になっている。
・「もらうわけにはいかないから、買うことにしよう」
 「それはいけません。私たちの好意です。どうかその好意を無にせずに、受け取ってく
 ださい」 
 スカルノはそう言ってきかない。
 今村は、あまり断るのは絵が気に入らないからと思われはしないか、と気づかい、つい
 に寄贈を受けることにして、書斎にかざった。
・スカルノは熱狂的な偉丈夫で、また難弁の人であった。
 ある日、政治顧問の林久二郎が町に出かけたところ、たいへんな人だかりで、車が通れ
 ない。そこは広場の前だったが、だれかが演説をしているのだ。
 林は車を降り、人混みの中に入ってよくみると、壇上にはスカルノが熱弁をふるってい
 た。 
・林はこのことを今村に報告した。と今村は、
 「スカルノ氏は、人間的魅力にもあふれている。彼を味方にしたことは大変によかった」
 と、スカルノとはじめて会見したときの印象がよかったことを物語った。
・一方、スカルノ自身も、今村には心服していた。むしろ敬慕の念を持っていたといった
 方がよいかもしれない。   
・日本が敗戦し、今村も戦犯としてオランド軍の軍事裁判にかけられる身となった。
 そしてバタビアのチビナン監獄に収容された。
 このときのスカルノは、もしオランダが今村に死刑を宣告するようなことがあれば、そ
 の監獄を襲って今村を奪回するか、死刑場を襲って救出する計画を立て、二つの部隊を
 編成したのだった。

青春の光の影と
・四月上旬、参謀総長の「杉山元」大将が、服部、武田亮大佐参謀を連れてジャワへ飛来
 した。
 今村は、杉山大将が軍務局長時代、次官時代、陸軍大臣時代、北支方面軍司令官時代に、
 その部下として勤務していたことがあり、お互いに気心を知り合っている仲なので、胸
 襟を開いて話し合うことができた。
・そのとき、話が比島のバターン半島の戦線のことに及んだ。
 バターン半島は、まだ陥ちて間もなかった。
 はじめ大本営は、バターン半島へ逃げ込んだ米軍(比島兵を含む)を、敗残兵の集団く
 らいにしか考えていなかった。
 それで、「奈良晃」中将の率いる第六十五旅団をもって掃蕩作戦に出た。
 しかし、奈良旅団は老兵からなる治安作戦部隊であったために、最初の敵の要塞ナチブ
 の防御線でバタバタと倒れた。
・それもそのはず、敵は要所要所、鉄条網、機銃座、臨時砲台を築いた堅陣を持っていた
 のだ。  
・その陣容が判明したのは、二月中旬、マニラ政庁の地下倉庫内から偶然に発見された青
 写真によるものであった。
・写真をみた本間軍司令官以下参謀はおどろいて、これを複写し、大本営や南方総軍に送
 った。 
 そして第十六師団の一部隊を奈良旅団に増援させたが、奈良旅団は、三週間かかって十
 キロも進めないありさまであった。
・「山下奉文」軍はシンガポールを電撃作戦によって占領したのに、バターン半島は何を
 しているのだという非難が、「本間雅晴」軍司令官にあびせられた。
・大本営でも、さらに送られてきたバターン半島の要塞図を見て、急遽、増援することを
 決めた。  
・バターン半島強襲の陣容はととのった。が、その間、孤影悄然として軍営を去ってゆく
 一人の将軍があった。参謀長「前田正美」少将であった。バターン戦渋滞の責を課せら
 れたのだ。
 このとき大本営は、本間軍司令官も同時に罷免したかったが、それは、攻略戦の最中で
 外聞も悪いとして、比島戦が一段落するまで延ばしたのであった。
・わが前線は破竹の勢いで進撃した。
 リマイ市付近で敵将キング少将が、幕僚とともに白旗をもって現れ、停戦を申し入れた。
 が、作戦部長中山大佐は、コレヒドール要塞を含む全面停戦でなければ応じないと断る
 と、キング少将はその全権限はコレヒドールにあるウェーライト中将にあるから応じら
 れないと称して、その場で捕虜となった。
・早朝、奈良旅団の先鋒は、要衝マリベレス山頂に日の丸を立てて万歳を三唱した。
 参戦以来の苦闘砂鉄の辱めをみごとに雪いだのだ。
・これにより、敵の兵団は、大ジャングルから滝が流れるように現れて投降し、その数を
 確かめるのにひと苦労したほどであったが、将兵あわせて実に七万五千、日本側が推定
 していた数の二倍に近かった。

・さて、杉山元大将は、今村と会食中、バターン戦の話が出ると、にがりきった表情で、
 「君は本間君と仲がよかったから言うが、中央では、コレヒドール島要塞が片づき次第、
 本間を罷免する方針のようである」
 と言った。
・「それじゃあ、本間君があまりにもかわいそうじゃあありませんか。バターン半島戦の
 詳細は知りませんが、十四軍が苦戦したのは、大本営の作戦指導にも一半の責任があり
 ましょう」
 今村の表情は硬ばっていた。
・奈良旅団をもってしたのは、大本営の作戦指導であり、だいいち、バターン半島にこも
 った米軍を敗残兵と過小評価してみくびったのも、大本営の見通しの悪さに起因してい
 ると思うのだ。
 それを本間に罪を着せて、軍司令官を罷免するとは、聞きずてならないと思うのだ。
 今村は、そんな本間に同情的であった。本間ひとりをなぜ悪者にし、責任をとらせよう
 とするのだ。 

・本間大尉の妻智子は、当時すでに故人になっていた「田村怡与造」中将の末女であった。
 田村家は、智子の姉たちが山梨半造や、シベリア横断で勇名をはせた「福島安正」の息
 子に嫁いでいる名家であった。
・当時、智子は跡見女学校を卒業した十八歳の御令嬢で、これといった問題があったわけ
 ではなかったが、それでいたしばしば悪評をてられた。
 それというのも、美貌で、派手な身なりをし、軽佻な挙動があり、良家の子女とは思わ
 れない色っぽさがあったからであろう。
・本間は、この智子と見合いをして、いっぺんでゾッコン惚れ込んだ。
 今村をはじめ同級生たちは反対であったが、本間は、親や同級生たちの反対を押し切っ
 て、鈴木壮六の仲人で、大正十二年(1913)十一月に結婚した。本間は中尉であっ
 た。 
・新婚時代の本間は、智子に着飾らせて、これみよがしに連れ歩いた。
 本間は佐渡の大地主のひとり息子だったので、金銭には恵まれていた・
・智子は、だんだん派手な生活をするようになり、大正七年、本間が今村とともに英国駐
 在員として渡英するころには、舞台俳優と交際を深め、自分も女優になって舞台に立つ
 というありさまだった。
・三年後の大正十年、陸士の同級生で、新発田連隊でも一緒に勤務したことのある仲の良
 かった藤井貫一は、これをみかねて、ロンドンの本間へ手紙を書いた。  
 「智子夫人の評判が非常に悪い。二人の子供は女中まかせで、着飾っては若い男と出歩
 いている。女優となって舞台に立っているらしく、家にもあやしげな男たちが出入りし
 て、近所の話題になっている」
・が、本間は、友情に感謝は述べたものの、
 「家庭内のことに干渉してくれるな」
 と、妻を信じ切った返事をよこし、余計なおせっかいはしてくれるなといわぬばかりの
 態度であった。 
・大正時代と現代とでは、女優という職業の社会的地位は非常に違っている。
 大正は、一方には”新しい女”の出た時代だが、社会の封建性はまだまだ多く残っていて、
 家庭の主婦は、まして軍人の妻で舞台に立つことを容認する空気などまったくなかった。
・本間は悶々の情をどうすることもできず、親友に心情を打ち明けるつもりで、今村をロ
 ンドンに呼んだのだった。
 今村が、本間の母からの手紙を読んでいたその間にも、本間はウィスキーを幾杯も口に
 した。角瓶はもうあらかた空になっている。
・本間は、
 「ああ、生きていたくない」
 と、急に声をあげて泣き出し、テーブルの上にうつ伏せにまった。
 今村はなぐさめるすべもなく、泣くがままにまかせておいた。
・しばらくして、本間は、急に立ち上がり、うしろのガラス窓を開けた。そして、そこか
 ら飛び降りようとしている。  
 今村は、無意識のうちにまん中の机を飛び越し、本間の足をしっかりつかんだ。
 本間は大柄ないい体格をしているので重い。なかなかひっぱり込めないでいると、ちょ
 うどそこへ”日の出”の主人が、今村の昼食を持ってきた。彼はあっと声をあげて飛びつ
 き、ふたりがかりでやっと室内へ引き入れた。
・今村は、主人が買ってきてくれたアダリンの錠剤を、何粒かむりやり本間の口の中に入
 れ、水を飲ませた。十五、六分して薬が効いたのか、彼は大いびきをかきはじめた。
・この不幸きわまる友人の寝姿をみながら、今村はいいしれぬ同情の想いを寄せた。
 そして、ふと自分たちの結婚と家庭をふりかえってみた。

・今村は大正五年、陸軍大学を卒業すると、仙台の第二師団歩兵第四連隊第十中隊長を命
 じられた。そのころ、母のきみよは東京の四谷番衆町の家に住んでいた。
 その母から手紙がきた。
 母からはこれまでも、何回となく花嫁候補の写真を送ってきて、早く結婚するようにす
 すめてきたが、今村はそのつど断りつづけてきた。
・今村は結婚ばなしをいってこられるくらい気が重いことはなかった。
 今村はもちろん独身主義者ではなかったが、陸大生時代の三年間をのぞき、その大部分
 は営内に居住し、壮丁の間で暮らしてきたので、そののんきな生活が忘れられず、煩雑
 な家庭生活を営む気になれなかったのである。
・すぐ母からまた手紙が来た。
 「人間一生の大事です。今度の話は、参謀本部のお勤めの「中村孝太郎」少佐の奥さま
 の妹さんで、あんたの陸大同期の木村三郎大尉さんの実妹だそうです。兄弟がみんな立
 派なからだの人たちですから、その人もきっと健康はよいと思います」
・そして、仙台に住む亡父の異母妹を動かし、なんとしても見合いをさせようとしたが、
 今村は頑として断りつづけ、ついに写真を見ないばかりか、見合いなしで婚約してしま
 った。そして、結納の士気も母の手だけですませたのであった。
・やがて大正五年十一月、九州で陸軍の大演習が行われた。
 その演習の帰り道に、結婚すれば義兄となる木村三郎大尉が、「ついでだから、金沢の
 実家に寄っていってくれないか」
 と誘った。木村は、婚約者銀子の兄に当たるのだ。
・木村は陸大の同期生でもある。そして、妹銀子と今村の結婚をだれよりも喜んでいるの
 で、断り切れず、二人は金沢に向かった。
・屋敷は古い構えで、庭も広い。今村たちが訪れると大喜びで、二人を座敷へ通した。
 しばらくすると、銀子が静かに現れ、茶菓を運んできた。  
 もちろん、今村は写真を見ていないから初対面である。
 挨拶を交わしながらそっと見ると、美人である。
 そして、立ち居振舞いが物静かで、さすが旧家に育った令嬢と思えた。
 しかし、からだが細身にできており、あんなに母に念をおしていた健康という点からみ
 れば、若干懸念されないでもない。
・今村は、初対面の、これから自分の妻になろうとする銀子に対して、好意こそわいたが、
 恋情に似た、あの婚前のふわふわした楽しい気分などは湧いてこなかった。
・こうしてこの年の十二月中旬、今村は母の選んだ千田家の第三女、十九歳の銀子と結婚
 式をあげ、新家庭を持った。
・銀子はきびしい家庭教育を受けて育ったせいか、立ち振る舞いもしとやかで、心やさし
 く、容姿も美しかったので、今村の母は、自分の目に狂いはなかったと言って、心から
 喜び、銀子を愛した。
・今村と銀子の間には、二男一女が生まれた。長男和男、二男澄男、長女素子である。
・今村は、昭和二年四月、中佐のとき、突然、朝鮮の咸興での歩兵隊付勤務と解かれ、
 「安藤利吉」中佐の後任として、インド駐在武官勤務を命じられた。
・軍人は、命令とあらば、どこへでも赴任しなければならない。
 今村は、一家とまとめて上京し、大久保へ借家を探して、そこへ家族を住まわせ、単身
 で赴任することにした。  
・このとき、妻の銀子は、身ごもっていたうえに、元来あまり丈夫でないからだであり、
 昨年(大正十五年)、ガンで他界した今村の母を看病した疲労が、心身ともに蓄積して
 いたし、虫が知らせるというか、今村は、今度のインド行きは気が重かった。
・今村は六月下旬、神戸出帆の郵船で故国を離れ、七月上旬、インドのカルカッタに上陸
 し、そこで五日間を過ごした。
 七月十七日、海抜二千メートルの山腹にある、インド統治の英人総督府の夏季執務地シ
 ムラに着いた。
・翌朝、かるい頭痛をおぼえたが、インド総督と、英軍司令官の官邸に、挨拶がわりの名
 刺を置き、ついで軍司令部の士官数人と会見し、今後における連絡の打ち合わせを行い、
 宿に帰った。
・夕方からは朝岡総領事の招待で、領事館員二名を加えて会食したが、風邪気味で熱もあ
 るらしいので早目にひきあげ、すぐベッドに横たわった。
 ためしに熱をはかってみると、三十九度もある。
 すぐに内地から持ってきた解熱剤を飲んだが、さっぱり効き目がなく、しかもよく眠れ
 ないのだった。翌朝になっても熱は下がらず、食欲もない。
・カラン・カー勧めで、医者を呼んでもらった。
 まもなく、小肥りしたインド人が、軍医の軍服をつけ、今村のベッドのそばにやってき
 た。 
 「あなたのことは、安藤中佐からよく聞いておりました。まだ挨拶にも参らないうちに
 病気になり、おいでを願い、失礼しました」
 「医者が会う患者は、たいてい初対面ですよ」
 と笑いながら、すぎに診察してくれた。
・「胸部にも腹部にも異常はない。あるいはマラリアかと思われます。血液検査をやって
 みましょう」 
 少佐は今村の耳たぶから、ごく少量の血を取り、やがて司令部に出勤するため、去って
 いった。
・彼は、午後、再び今村を訪れた。
 「まだ、マラリア原虫は血液の中には見えません。何日かたたないと、はっきりしませ
 ん。当分この薬を飲んでいてください」
・それから五日間、高熱は続いた。そしてマラリアとわかったが、熱が下がらず、高い時
 は四十度を越すこともある。
・食欲はありのだが、食物を口へ近づけると、きまって吐き気をもよおし、口の中へ入れ
 られない。だから、からだは衰弱する一方である。
・朝岡総領事は、
 「シムラに白人だけしか入院を許さない半公的な病院があり、そこの好意であなたの入
 院を承諾するといってきました。そこに入院をお勧めします」
 と言った。
・ある日、病院長のウイルソン中佐が回診にきて、
・「あなたのは、インドンの医学界ではダス・フェバーと呼んでいるものです。十数年前、
 インドのダスという王様がかかっとき、その人の血液中から発見された原虫が、はじめ
 て見られた特異のものだったので、そう呼ぶようになったものです。あなたはきっと、
 カルカッタに滞在中、その原虫を持った蚊にやられたのでしょう」
・インドでは、この病気は地獄病といわれていた。地獄の苦しみを味わって死ぬからだが、
 病院長はその話はしなかった。 
・家庭の妻子のことも忘れ、また悲しい気持ちにもなれず、いまは病苦からのがれるため
 に死ぬことだけを待ち望んでいた。
・ある日、しばらく夢心地に眠っていたが、ふと眼がさめた。いつになく頭がはっきりし
 ていた。
・三十分ばかりすると、医者と婦長と看護婦が入ってきて、医者が念入りに脈をとり、と
 くに腹などを診た。
・医者は、婦長となにごとか話し合って出て行った。
 「ドクターは持ちなおせると申しました。危険の線は越えたようです」
 婦長は微笑みながら言った。
・そのときを堺として、ぐんぐん熱がさがり、翌朝には平熱以下になり、俄然はげしい食
 欲におそわれた。
・こうして、今村は九死に一生を得て、二十日間の病院生活を終わり、退院してふたたび
 シルホテルの自室に帰った。
・九月のある日、前夜の不眠の疲れでベッドに横たわっていると、カラン・カーが一通の
 電報を受け取ってきた。妻銀子の兄千田俔次郎大佐が打電してきたものであった。
 「銀子難産、順天堂病院にて世を去る」
・今村はあまりのショックに、無意識のうちにベッドに立ち上がったが、すぐどかっと倒
 れた。名状しがたい混乱が襲ってきた。
・結婚して十一年目、妻銀子は、また三十歳という若さなのだ。
 ああ・・・と、今村は身悶えしながら、涙を流した。
・もともとが頑健でない銀子は、今村の母を看病した過労がもとで肺を病んでいたのだっ
 た。 
・妻の死に悲嘆の涙を流したあと、今度はふたたび今村に不運がおそってきた。
 退院後おぼえ始めた頭痛は、神経衰弱症のものといわれていたが、その後、病状の進行
 から、中耳炎から乳嘴突起炎に進んでいると診断されたのである。
 これは大手術を必要とする大病であった。
・見かねた朝岡総領事は、今村の病状を参謀本部へ通報したので、十一月のある日、参謀
 本部の情報課長建川大佐から、
 「東京にて手術を行うことを許可されたり」
 との電報が来た。
・滞印四ヵ月、その間、病気ばかりしていて、インド研究はなにひとつ手をつけていなか
 った。   
 辱しいことであったが病気には勝てず、十二月、休暇を願い出て東京に帰った。
・さっそく陸軍医学校の耳鼻咽喉科高木大佐の診断を受けた。
 ところが、思ったより病状が悪化しているらしく、至急、手術の要ありといわれ、即時
 入院、右耳後方の頭蓋骨の一部を露出し、患部の膿液を除去することになった。
・「一時間ぐらいで、手術はすむ予定です」と言ったが、手術は一時間半以上かかった。
・毎日、繃帯交換がおこなわれた。十分ぐらいですむのだが、その痛さはうなりたいほど
 だった。しかし、今村は我慢した。
・それから三週間ばかりして今村は退院した。
 繃帯交換のため、自宅から通院してもよいといわれたからだった。
・そこで今村は、気分一新のため、いままで住んでいた大久保から郊外の中野駅近くの新
 築貸家に引っ越した。
 そして、越後生まれの若い女中に家事をみさせた。
・するとある夜、女中が書斎へ来て、
 「とてもこの家では勤まりそうもありませんから、やめさせてくださいませ」
 と言った。
・子供三人とも女中に対して食事やおやつに勝手気ままをいい、いくらなだめてもいうこ
 とをきかないので、やっていけないというのである。
・そこで郷里仙台の親戚の世話で、六十近い農家の寡婦に来てもらい、家政をまかせるこ
 とにした。 
 三ヵ月ほどはぶじのようであったが、ある日、今村が陸軍省から帰ると、素子がわんわ
 ん泣いており、老家政婦も困惑しているようすである。
・その夜、子供を寝かしつけたあと、老家政婦は書斎にやってきた。
 「ときに旦那さまは、あとをおもらいにならないのでございますか」
 何の話かと思ったら、後妻のことである。
・「まま母とまま子の話は、聞くだけでもゾッとする。後妻はもらわない」
 今村ははっきりと言った。
・「でも、お子さんの監督上からも、やっぱり一家の主婦というものはなければなります
 まい。どんな後妻も、まま子いじめをするとは限りません。性質のおとなしい方なら、
 よくおさまっていくものでございます」
・老家政婦が、三人の子に手こずっていることはわかっていたが、どうしても三人の子供
 のために後妻を迎える気にはなれなかった。
・それから間もないある日、「堀吉彦」少将が訪れてきた。
 堀少将は、今村が尉官時代、陸軍省の軍務局で一緒だった。
 今度予備役に編入されて上京したので、今村一家の不幸を弔問かたがた訪問してきたの
 であった。
・ひととおり昔話などしたあと、堀少将は後妻の問題に触れ、
 「やはり家丁には、主婦というものは必要なものだ。二、三、心当たりの人がいる、調
 べてみようかね」
 と切り出してきた。
・今村は困って、
 「二年間に母や家内を亡くし、すっかり気が暗くなっています。このうえ、後妻と子供
 とのいざこざを目にしては、それこそ気が滅入ってしまいます」
・「世の中には、まま母と子うまくいっていないものだけが話題にされ、よくいっている
 例は口にしない。いま僕の知っている人なら、きっとうまくゆくに相違ない」
・一ヵ月ばかりたったある日、また堀少将がたずねてきた。
 「このまえにお邪魔したとき、君は、”子供を生まない人など探すわけにはいかず”とい
 うようなことを口にされたが、そういう人であればもらってもよいという意味にとって
 もいいのだろうか」
 やはり再婚についての話であった。
・「それは話の調子で、そう申しただけです。生まれなければ、まま子を実子のように思
 うことになるかもしれませんが、子を生まない人を迎えることは、その人を、育児のた
 めに犠牲にすることになり、徳義上いけないことと思います。自分の不幸を、何の関係
 もない他人に分担させることなどは、やはり気苦労です」
・「君は、女性の心理を解しないから、そんなことを言うのだ」
 「女というものの天性は、家庭の主婦となり夫を内助し、また子を育てあげたい一事に
 向かいているものなのだ。なにかの関係で子を生むことができないとなれば、他人の生
 んだ子でも育てたいものなのだ。女が一生家庭を営み得ないぐらい不仕合せなことはな
 い。君がいうそういう人を娶ることは、むろん不幸を分担させることにはなるが、同時
 の幸福を与えることにもなる」
・「昨夜、僕の碁相手の加藤主計少将が遊びに来ての話に、”わしの同期生が、その長男
 に娶らせた婦人は、七年間結婚生活をしていて子宝に恵まれず、二回も慶応病院に入院
 させ手術を受けさせたが、ついに妊娠し得なかった。そのうちに夫は世を去り、同期生
 も他界してしまった。先日、その友人の未亡人、嫁にとっては姑にあたる、がやってき
 て、嫁が倅の逝ったあと三年も空閨を守り、家事をやってくれているが、まだ三十にな
 ったばかり、一生を寡婦で過ごさせるには気の毒でなりません。子の生めないことを承
 知で、後妻などを迎えてくれる人はありませんか”と、相談にきたのだ。この話に乗っ
 てくれ」 
・今村もとうとう根負けしてしまい、一つの提案をした。
 「では、その人と半年ほど子供たちだけで交際をつづけ、”この子供たちなら育てられ
 る”とその人が思い、また子供たちも、”この人ならお母さんにしてもよい”という意見
 を出せるようなら、婚約してもよいと思います」
 早く言えば、子供たちが父に代わって見合いをし、婚前交際を続けるというものである。
・こうして新しく母となるべき山本久と和男、澄男、素子の三人は、大久保の家でたびた
 び出会ったが、三人の子供たちは久に無邪気になついていたので今村は昭和三年十二月、
 久と再婚した。
 そして子供たちは立派に成長し、長男和男は大阪大学理学部を出て技術将校に、二男の
 澄男は昭和医大を出て医師に、また素子も軍医と結婚した。

・昭和七年一月、「上海事変」が起こった。
 今村は第一線まで出て視察したが、そのとき敵の放った迫撃砲弾が一発飛んできた。
 あわや今村に命中したかと思われた瞬間、そばにいた二人の下士官がとっさに身を投げ
 て、今村を助けた。
・迫撃砲弾の威力はものすごかった。二人の兵隊は肉を裂かれて無慚な戦死。一方、今村
 は爆風で吹き飛ばされて倒れたが、けが一つしていなかった。
・今村は、この二人の部下の犠牲的行動によって、命びろいしたのだが、その文字通り献
 身的な行動にショックを受けた。
 「ああ、おれは軍人をやめたい。軍人をやめて、坊さんになり、二人の部下の菩提を弔
 うために、日本中を托鉢して歩きたい」
 彼は本気でそう考え、東京へ帰ると参謀次長の「真崎甚三郎」に相談した。
・すると、真崎は言った。
 「一将成りて万骨枯る、という言葉がる。そんなことは戦場のならいではないか。君の
 気持はわからんでもないが、それは感傷にすぎない」
 として今村は、退官を許されなかった。
・今村は人生を真剣に生きていこうとする男であった。そして、その行動は、ヒューマニ
 ズムに貫かれていた。 
 だからこそ、いかに戦場とはいえ、自分のために身を挺して散華した部下のことを思う
 と、やりきれない哀感がわいてきて、坊主になって二人の菩提を弔ってやりたい気持ち
 になったのである。
・しかし、それが上司によって許可されないと、今度はわが子に向かって、世のため人の
 ために奉仕する医者になるように命じたのである。
 この今村の思想の根源は、なにからきているのか。
 
ガダルカナルの非雨
・昭和十七年十一月、突然、今村は杉山参謀総長から、「第八方面司令官に親補せらる」
 という電報を受けた。
・今村には第八方面軍というのは、どの方面に、どんな任務で、作戦をやることになって
 いるのか見当がつかなかった。
・今村は、寺内総司令官をその官邸に訪問し、転任の申告をした。
 そのとき今村は、
 「第八方面軍というのは、どの方面に向けられたものか、ご承知でしょうか」
 ときいてみた。
・「ニューギニアの東にあるラバウル方面に当てられるものらしい。ガダルカナルとかい
 う地図で見てもわからない小さな島で、百武君の軍が、米軍の制空、制海権下で、機械
 化された優良装備の米軍とノモンハン以上の苦戦をやっているとかで、補給がつかず、
 ひどい飢餓におちいっているとのことだ」
・当時は、まだ陸海首脳でさえガダルカナル島の名を知らず、そこで日本軍が飢餓にさら
 されながら、惨憺凄絶なる戦闘を強いられていることは、もちろん知らされていなかっ
 た。 
・海軍敗北の第一ページは、ミッドウェー海戦にあったが、それと相対比する陸軍敗北の
 第一歩はガダルカナル島に刻まれた。
 これを失った以後の日本は、大勢日日に傾き、防衛奔命二ヵ月半をもって最後を遂げる
 に至ったもので、まさに日米勝敗の天王山と称すべき超重大なる半歳の激闘であった。
・一木支隊、川口支隊、第二師団、第三十八師団の兵力が次々に投入せられ、その合計約
 三万二千に達した。そのうち
  戦死  :一万四千五百五十 
  戦病死 :四千三百
  行方不明:二千三百五十
 合わせて二万二千を失い、残る一万は發疾者同様に衰弱して、かろうじて帰還するとい
 う全滅的敗戦に終わったのであった。
・陸軍だけが、ガダルカナル島に墓を掘ったのではなかった。
 犠牲の量をはかれば海軍はさらに多く、前後六回の海戦がガダルカナルの周辺でおこな
 われ、戦艦「霧島」「比叡」以下二十四隻が失われ、これに対して米海軍は二十四隻を
 喪失している。 
・また、海軍航空兵力の犠牲も甚大であった。
 ガ島六か月の間に、八百九十三機が失われ、搭乗員の戦死者は二千三百六十二名にのぼ
 っている。
 ミッドウェー海戦で一大損耗を受けたあとに、二千三百余名を失ったことは、爾後の対
 米航空戦を戦ううえに、再起できない大打撃であったともいえよう。
 
・大本営は川口支隊やぶれるの報を受けて、はじめてガ島の米軍が強大なことを悟った。
 そこで、これまで支隊の寄り合い世帯でしかなかった第十七軍に、第二師団と第三十八
 師団を増強し、さらに大本営から「辻正信」中佐、「杉田一次」中佐、林少佐の三名が
 派遣参謀として参画した。
・司令部は、二個師団を動員すれば、ガ島の攻略はいとも簡単と考えているのである。
 自信も、ここにいたっては狂信に近かった。
・ただ問題は、その戦場に兵を輸送し得るかどうかにかかっていた。  
 敵の潜水艦と航空機は、ほとんど完全といえるほどにソロモン海の航行を封鎖していた。
 日本の海軍航空隊も、連日出撃して戦っていたが、その基地はラバウルであり、敵機の
 数と地理的優位とを制圧することはできなかった。
・そこで、ガ島への補給輸送は、もっぱら駆逐艦を利用した。
 しかし、白昼は敵機に狙われるので、夜間三十ノットの全速力をもって運んでいた。
 それをネズミ輸送と言っていた。
・重砲はどうするか、何万発という砲弾はどうするか、さらに食糧絶無の島へ送る兵隊の
 何十日分の糧食はどうするか。
 それは、とても駆逐艦では扱えない。どうしても大型船舶によらなければならないが、
 それには護衛が必要である。しかし、海軍では出し渋らなければならない実情があった。
・そこで、大本営派遣参謀辻正信中佐は、トラックの司令部に山本五十六連合艦隊司令長
 官をたずね、つぶさに船団輸送の緊要な事情を訴えて、協力を懇願した。
・「よろしい、海軍は全力をあげて輸送を助けよう。そのかわり辻君、こんどこそ、陸軍
 はぜひガダルカナル島を奪ってもらいたい」
 山本司令長官の言葉は、第十七軍にとっては百万の味方を得た思いであった。
・山本司令長官は船団を無事に送り届けるために、船団がガ島へ着く前の日、ラバウルの
 第十一航空艦隊に命じ、ルンガ敵飛行場を急襲させた。
 それは、戦闘機に守られた爆撃機の大編隊であった。
 不意をくらったアメリカ軍は大混乱に陥った。
 ルンガ飛行場は、炎と爆煙が上がり、地上にあった三十数機が燃えた。
・さらにその夜、山本司令長官は、戦艦「金剛」「榛名」に、ルンガ島へ殴り込みをかけ
 させ、約一先発の十四インチ砲弾を飛行場に撃ち込んだのであった。
・六隻に船団は無事にタサファロングへ着いた。
 せんとうの二隻が兵員と積荷を陸揚げしているときである。
 突如現れたのは、アメリカの空母から発進してきた艦爆隊であった。
・すでに護衛艦は、もう無事に着いたと安心して、帰路についたあとだった。
 船団は抵抗するすべもなく、爆撃に身をさらしながら、陸揚げを急いだ。
・たちまち「笹子丸」「南海丸」「九州丸」「吾妻丸」から黒煙が上がった。
 うちに二隻は砲弾に引火して、大火柱をあげて船ごと吹き飛ばされた。
・沖合いで燃え出した「佐渡丸」は、海に沈めるよりはと全速力で海岸へ突っ込み、浜辺
 に横倒しになった。船長も船員も放り出されて負傷したが、しかし、積荷の半分は無事
 に陸揚げされた。   
・しかし、このような苦労の甲斐もなく、武器、弾薬、食糧、衛生材料などは、積荷の三
 分の一に減っていた。
 食糧は、ガ島全将兵の百日分、砲弾は一門につきたった二百発といった心細さで、その
 大砲も八十門が三十八門に減っていた。
 これでは、正面から正々堂々たる攻撃はできない。
・一木支隊、川口支隊、丸山師団、そして佐野師団までが敗北を喫したのだ。
 だが、大本営はまだガ島奪回への執念を燃やし、ここに第八方面軍を編成、その司令官
 として今村均中将を送ろうというのであった。
   
山本五十六の友情
・連合艦隊の基地トラック島に着水、その夜は旗艦「武蔵」の艦上で山本五十六長官と会
 見した。
・山本大将と今村との交友は、山本が中佐、今村が少佐のとき、大正十三年ごろからはじ
 まっている。いわゆるトランプ仲間であった。
・ある日、渡久雄中佐の家で、オークション・ブリッジと呼ばれる、トランプ遊びをやっ
 たとき、それに加わった一人として紹介されたのが山本であった。 
・「海軍では、ゼロ戦一機が米軍機五ないし十機と太刀打ちできるといっていたのは開戦
 当時のことで、ミッドウェー海戦でたくさんの優良な飛行士を亡くしてからは、その補
 充がなかなかできず、現在でも一対二とはいっているが、敵の補充率がこっちの三倍を
 上まわっているので、機数の懸隔が日ましにひどくなり、いつも数倍の敵を相手にしな
 ければならない。率直にいって、難戦の域に入っている。
 一週間前の第三十八師団の輸送船団の運命からみて、君と僕とでやるつぎのガ島奪回作
 戦では、どうしても航空戦力の増強は必須の要件だ。だが海軍だけで増強できる戦力は、
 そう多くを期待し得ない。
 君はラバウルに到着したら、彼我の空中戦の実際を観察し、ガ島作戦遂行のためには中
 央協定にこだわらず、飛行一師団ぐらいではなしに、もっと有力な陸軍航空戦力を、
 ラバウル方面に注入することを、参謀本部に意見具申してもらいたいと希望する」
・「ガ島でもニューギニア方面でも、すべてわが方は飢餓に落ち入っているとのことです
 が、どの程度でしょうか」
・「それはひどいものだ。これも、一つには敵航空戦力のため、輸送船が到着てきないた
 めだ。補給を引き受けている海軍としては、大きな責任を感じている」
・今村はトラック島を出発、ラバウルに着いた。
 今村は、現地に来てしばらく戦況を視察した。
 ことにラバウルを襲ってくる敵機と、それを迎撃する日本海軍機との空中戦は壮烈であ
 ったが、どうもわが方に分が悪い。飛行機が足りないからだ。
・そこで今村は、杉山参謀総長に対し、電報を打った。
 「従来の陸海軍中央協定にかかわらず、陸軍からも有力な航空軍を問う方面へ派遣し、
 海軍に協力することは、焦眉の急と信じられる」
・ところがである。あとでわかったのだが、この電報は杉山参謀総長に届いていなかった
 のである。  
・そのうちに大本営は、昭和十八年一月、ガ島奪回の企図を放棄して、撤退断行を通告し
 てきた。 
・それより先、南西方面艦隊参謀大前敏一は、ガ島の戦線を視察して驚いた。
 そこには、かつて自分が見たことのない日本兵が、塹壕の中にうずくまっていたからだ。
 飢えと病いと栄養失調で、彼らは呼吸するのがやっとといった状態で、戦う意欲などは
 まったく見られなかった。
 大前参謀一行は、ふかい同情を感ずると同時に、この戦いの前途に絶望的なものを感じ、
 帰って山本長官に報告した。
・南東方面艦隊司令長官の草鹿任一もまた、ガ島撤退断行のほか道なしと結論して、ただ
 ちに今村にその意見を求めた。 
 が、今村は東京を出発するとき、司令官に親補せられ、
 「南太平洋方面より敵の反攻は、国家の興廃に、甚大に関係を有する。すみやかに、戦
 勢を挽回し、敵を撃壤せよ」
 との勅語を拝した身である。
・部下たちが生死の境をさまよいつつ戦っていることはわかっても、草鹿長官の意見に、
 すぐに賛成するわけにはいかなかった。
 それをきいた山本五十六長官は、「おれ一人が悪者になって主張してやろう」と決意し、
 率直に意見を大本営に具申した。
・米軍はこの方面に七万の大軍を終結していたのである。
 日本軍が早くこの事実をつかんでいたら、ガ島の悲劇は最小限に食い止め得たであろう。
・最後の決は、十二月、実戦の体験者航空参謀「源田実」が「ガ島の空中戦には勝算なし」
 と断定したときに定まった。
 が、それさえもすでに早く見当はついていたのではなかったか。
・撤退の詔勅が、ラバウルの今村軍司令官に伝達されたのは、昭和十八年一月四日であっ
 た。それと同時に、これはトラック島にある山本長官にも伝えられた。
 また、この詔勅が、ガ島の第十七軍の司令部に伝達されたのは、一月十五日だった
 極秘中の極秘だから、無線を使うわけにはいかない。それで、参謀自身から直接伝える
 必要があり、この大切な使者には、方面軍参謀「井本熊雄」中佐が選ばれた。
・井本参謀がガ島の軍司令部に着いたのは、十五日夜半であった。
 参謀長「宮崎周一」、高級参謀「小沼治夫」が迎えた。
 井本参謀は、ガ島撤退の詔勅が下されたことを伝えた。
 が、意外にも宮崎参謀長、小沼高級参謀は、
 「たとえ大命といえども、ただちに奉従するのは不可能である」
 と言って拒み、
 「すでに一万何千人の部下を殺し、現に残る一万何千も、はたして撤退行動を取り得る
 かどうか、はなはだ疑わしいほど疲労困憊の極限にある。われわれはすでに斬り死にを
 決意しているのだ。いま動けない戦病兵の多くを残して戦場を去るがごときは、武将の
 到底なし難いところであるのみならず、皇軍統帥の今後にどんな影響を及ぼすかわから
 ない」と、口をきわめて撤退に反対した。
・「このうえは百武軍司令官に裁断を一任しよう」
 ということになり、事の顛末を報告した。
・百武軍司令官は黙想しばし、静かに口を開いて、「詔勅奉遵」といった。
 つまり大命にしたがって撤退しようと決断したのだ。
・大本営が、紙上で撤退の方針を決めるのはたやすい。
 しかし、飢えさらばえている一万余の兵隊たちを、現実にはどうしたら撤退させること
 ができるか、これは難問題であった。
・海軍、とくに駆逐艦は、半年にわたる苦闘の最後の大役を担任することになった。
 根こそぎ島から連れ帰るのだ。大変な大仕事である。
 山本司令長官は万全を策し、とくに直属の第十戦隊を派し、第三水雷戦隊と合わせて、
 二十二隻をもって、三日おきに三往復して、陸軍部隊の搬出を計ることにした。
・これは、「ケ号作戦」と呼ばれた未曾有の大撤退作戦であった。
 敵の制空権下から敗兵一万三千を、暗夜、駆逐艦に乗せて、三百マイルも逃げ延びよう
 という超至難のわざをやってのけなければならないからだ。
・陸軍の首脳は、半分撤退できれば上乗であろうとひそかに考え、山本司令長官も、駆逐
 艦が半数は撃沈されることを覚悟していたといわれる。
・一月三十一日午前、ショートランドを出航した二十隻の駆逐艦隊は、橋本隊と小柳隊と
 二列縦陣で、一千メートルの単艦回避運動距離をたもちながら、速力三十ノットで進航
 した。
・ところが、ベララベラ島の北岸で、敵の沿岸スパイに発見されて、午後六時、敵の戦爆
 連合四十一機の攻撃を受けた。
 しかし、この駆逐艦隊は三十機の零戦にまもられていたので、激烈な空中戦の結果、追
 い払うことができた。
・第一の危機を突破した駆逐艦隊は、暗夜ガ島に殺到し、ここで敵の第二陣を撃退して、
 二十一時にエスペランス岬沖に達することができた。
・こうして、五千四百十四名の兵隊を救出した。
 第二回お撤退は二月四日夜、前回とまったく同一方式で行われたが、同じように成功し
 て四千九百九十七名を救出した。
 これは天祐のほかに、百戦錬磨の駆逐艦艦長の功績に帰すべき点が多かった。
・第三回はどうであろう。
 今度こそは、敵も全力をあげて妨害戦に出てくるであろう。
 矢野収容大隊や、松田、山本らの最終残留幹部の乗る番であったが、はたして前二回同
 様、うまく成功するかどうかは疑わしい。
 だが、これも二月七日、成功したのである。
 駆逐艦十八隻を動員して、動ける兵隊の全部をひろって、二千六百三十九名がガダルカ
 ナルの地獄から脱出したのだ。
・今村は、ガ島から撤退した部下たちを見舞うため、海軍の中攻をわずらわし、副官沼田
 大尉と一緒に、ラバウル飛行場を飛び立ち、ブーケンビル島の南端ブインの海軍飛行場
 へ向かった。一時間半ほどすると、はるか南方にブインの飛行場が見えてきた。あと十
 分もしたら飛行場に着くだろうと思ったとき、今村の目に、三十機ばかりの米軍戦闘機
 P38の編隊が映った。
 あっと思ったときは、米軍機は編隊を解いて攻撃体形に移ってきた。乗っている飛行機
 の爆音で、銃弾のひびきは聞こえないが、撃ちはじめたことは、敵機の先端に見える火
 光とうすい煙でわかった。
 味方には戦闘機はついてきていなかった。
 敵は中攻一機をなぶり殺しにでもするつもりか、殺到してくる。
 今村はもう観念した。
・とそのとき、操縦している海軍上等飛行兵曹が叫んだ。
 「退避します」
 すこぶる沈着な態度である。
・なんたる天祐であろうか。快晴の空に、そこにぽっかり置き忘れたように白い雲塊が浮
 かんでいた。  
 操縦者は飛行機を左上方に急旋回させると、その雲の塊の中へ突っ込んだ。そして、
 白雲の中だけを十分ばかり旋回し続けた。
・(ちょっと出てみます)
 操縦員はそういうと、雲の上方へ出た。
 見ると、敵機の編隊はもうブイン飛行場の上を通り、南方に戻りかけている。
 その後を、零戦十機ばかりが急上昇し、敵機を追撃していくのが見えた。
・ガ島から帰還した将兵は、ブイン地区のニッパ椰子葺きのバラックに収容されていた。
 今村は、ただちにそこへ見舞に出かけた。
 だが、そこに見た将兵の姿は、文字通り”生ける屍”であった。
・ガ島引き揚げ前、四週間は食糧を送っていたつもりでいたが、それを陸揚げした海岸と、
 陣地付近までの距離二十キロを、行き来し、糧食をかついて行ける体力の持ち主がなく、
 たとえこれをあてがっても、それから栄養素を吸収する機能を、胃腸は失っており、細
 い細いからだとなってしまい、バラックに入れられると同時に、新しい軍衣衿を着せら
 れはしたが、なんと襟のところから上に出ている首の細いこと、それでいて、顔だけは
 青ぶくれしてむくんでいる。
・九ヵ月前、ジャワで一緒だった私を、見覚えているものと見え、私の転職を知らんでの
 不審から、一人の将校が声をかけた。
 「いつジャワからこっちへお出ででした・・・」
 「ジャワで一緒だった君たちが、こっちで飢えながら戦っていると聞き、飛んできたん
 だ」 
 そう答えたら、幾人かがすすり泣きはじめた。
 体力を失ってしまうと、こんなにも気が弱くなり、涙もろくなるものと見える。
・私は、すぐにそのバラックを出た。
 戦陣では決して見せてはならない涙が、私の目からも、落ちそうになったから・・・。
・次々にバラックを回っていると、いくつめかのところで、
 「閣下、武田中尉も重傷と飢えで戦死しました」
 とひとりが知らせてきた。
 武田義というのは、私の姉の子、陸士を出て間もない童貞の青年尉官、私が強く愛して
 いた甥である。  
・「よく戦ったか」
 「はいよく戦いました」
 こう言った彼の従兵は涙を流した。
・佐野第三十八師団長は、わずかに元気であったが、今村と会うなりボロボロ涙を流し、
 「人間というものは、飢えてはこんなにも気が弱くなるものかと、つくづく情けなくな
 りました」 
 「それはそうです。”いくらでも食べさせるから、武器を棄ててこっちに来い”と敵に
 降伏を勧められても、毎日百人以上が飢え死にしながら、ついに一名も降伏しなかった。
 これは全員が気魄に燃えていたからです。私は米軍のパンを食わずに斃れて逝った万余
 戦友の堅固な道義心に強く感激しています」
 佐野中将はいくどもうなずいたが、なおしばらくは、涙をおさめなかった。
・百武軍司令官は、夜になって今村が泊っている小バラックを訪ねてきた。
 「部下の三分の二を斃し、ついに目的を達せず、他方面戦場から閣下までわずらわし、
 事態を収拾していただいたような戦例は、わが国の戦史上にはないことでしょう。武人
 として、こんな不面目なことはありません。ガ島で自決すべきではありましたが、生存
 者一万名の運命を見届けないで逝くことは、責任上許されないと思い、恥多いこの顔を
 お目にかけた次第です。恐れ入りますが、今後の始末はどうか方面軍でやっていただき、
 私が敗戦の責任をとることをお認め願います」
・百武将軍の表情には、真剣に思いつけたものがあり、眉間に苦悩の色が濃く刻まれてい
 た。今村は、百武の心情に同情したが、自決は思いとどまらせなければならない。
 「お気持ちはよくわかり、自決して罪を詫びることも意義があります。お止めはいたし
 ませんが、ただその時期については、参考のため私の意見を申し出ておきます。
 一つはガ島で戦死した、とくに一万数千の英霊のため、どうしてこんな悲惨なことにな
 ったのか顛末を詳しく記録し、後世の反省に役立たせるのでなければ、英霊は行くべき
 ところへ行かれません。その記録を遺さない前の自決は、部下に対する意義を欠きます」
・「二つには、今度のガ島の敗戦は、戦さによったのではなく、飢餓の自滅だったのです。
 この飢えはあなたがたがつくったものですか。そうではありますまい。まったくわが軍
 中央部の過誤によるものです。
 これは補給と関連なしに戦略戦術だけを研究し教育してきた陸軍多年の弊風が塁をなし、
 すでに制空権を失いかけている時機に、祖国ならこんなに離れた、敵地に近い小島に、
 三万からの第十七軍をつぎ込む過失を、中央は犯したものです。右のあなたの記録は、
 国軍の戦略戦術の研究態度の矯正に、きっと役立ちます」
・「三つに、ここに収容された一万人は、これから先は私が引き受けます。が、白骨とな
 っても鉄帽をかぶり、銃を手にして密林の塹壕を守り続けている二万の戦友のご遺族に、
 はっきり戦死の日と、場所と、その働きを知らせることは、必ずやらなければならない。
 あなたの責任です。右の記録は、やはりその役立ちましょう」
・「四つに、その記録をつくるために死期を遅らすことは、あなたにとって、たしかに、
 死以上の苦しみでありましょう。ですが、乃木将軍はどうでしたか。歩兵第十四連隊長
 として、敵軍に軍旗を奪われるような大不面目にあわれてから、三十五年もの長い間、
 すっかり笑いをその顔から失ってしまったほどの忍辱を通したあとで、自刃しておられ
 ます。どうか自決の時機の選定を、熟考されることを希望します」
 百武将軍の目からは、ついにははらはらと涙がこぼれおちてきた。
・今村は、方面軍司令部の参謀および各部長を集め、つぎのように指令した。
 「諸士も承知のように、中央は方面軍に対し、ガ島奪回攻撃の中止を命ずると同時に、
 ラバウルを中心とし、ニューギニアにわたる地域の要点を確保し、連合軍の北進を阻止
 する新任務を課してきた。彼我の空中戦や毎日の敵機の猛爆撃を見ている諸官は、もは
 や制空権は、敵の方に傾きかけていることを自覚されているだろう。だから早晩、祖国
 からの輸送船が軍需品を運んでくることは、できなくなると覚悟すべきだ。
 参謀部はなるべくすみやかに、防衛陣地と農耕地域の調整、各兵団に対する現地自活命
 令の起案、軍内部業務の横の連繋などを計画のうえ、私に提出してもらいたい」
・ブーゲンビル島に収容されていた第二師団、第三十八師団の将兵は、逐次、ラバウルに
 終結されたが、それらの将兵から、ガ島でいかに飢えに苦しんだかが語られ、ラバウル
 の全将兵は、現地自活を真剣に考えさせられた。わけでも農耕部隊は、懸命に作物の栽
 培に精を出しはじめた。
 農耕はまず原始林の伐採からはじめられたが、毎日のようにやってくる敵機の空襲の間
 をぬってやらなければならないので、その苦労は大変であった。
・開墾した農地は、千古斧鉞を入れたことのない密林だけに、植物性腐蝕土の厚い層をな
 しており、農作物はほとんど肥料なしでみごとに育った。
・今村もまた、率先垂範の気持ちで二百坪ほど耕して、老体にむちうち作物をつくった。
 この間、今村は、輸送船が出入りできなくなって孤立した場合や、米豪連合軍の本格的
 ラバウル攻撃が開始される場合を考えて、ラバウルにある七万将兵の三ヵ月分の食糧は、
 軍貨物廠の倉庫に格納して、これにはいっさい手を付けないようにし、各部隊は、すで
 に軍から配給されている食糧がある間に、自給自足ができるような態勢に持っていった
 のであった。
・山本連合艦隊司令長官が、ラバウルに来たのは、その年の四月であった。
 この日、山本長官は宇垣纒参謀長以下の幕僚をつれて、早朝、南洋のトラック島基地か
 ら大型飛行艇二機に分乗して、一気にラバウルへ飛んできたのである。
・すでに「い号作戦」がはじまっていた。
 「い号作戦」というのは、ニューギニア東部やソロモン群島中北部にある日本軍の輸送
 や連絡を脅かしているアメリカ軍を、一気に叩きつぶそうという、海軍の航空作戦であ
 る。これは、わが海軍が米軍の航空作戦を封じ込むための一大航空撃滅作戦であった。
・山本長官は、この「い号作戦」の指導のため、みずから第一線へ乗り込んできたのであ
 る作戦部隊は、山本長官自身が直接前線にきて指揮をとることに大きな感激をおぼえた
 のか、その意気は日ごとに高まっていった。
・山本長官は、攻撃隊が出撃するときは、かならず飛行場に姿を現した。
 真っ白い第二種軍装に身を固め、戦闘指揮所のひくい階段を登って、飛行場の正面に立
 つのである。そこには各隊の司令官も並んでいた。
・攻撃隊の指揮官が長官の前に進んで敬礼すると、長官はあの大きな眼を見ひらいて、い
 たわるような励ますような眼差しで、じっと見つけて答礼した。白い手袋が印象的であ
 った。 
 それに、連合艦隊司令長官が、戦闘に出る部下の将兵を、みずから見送ったのは、この
 ときがはじめてであった。
・長官が軍帽を右手に持って飛行場に向かって立ち、飛行機が出発すると、それに帽子を
 高く上げて振った。それはゆるやかな小さな円を描いている。
・搭乗員たちは飛行機の風防を開けて、長官に敬礼して、それから出発した。
 百機近い飛行機が出発するには時間がかかる。その間、山本長官は左手の軍刀を床に突
 き、直立不動の姿勢で、じっと立ち続けているのだった。
・上空では、旋回飛行をしていた各隊が、いつの間にか大編隊をつくっていた。
 長官はこの大編隊が、西南方の空に見えなくなるまで見送った。
・今村は山本長官から夕食に招かれた。双方の参謀長、宇垣少将と加藤少将とが同席した。
 山本長官は、
 「ときに、僕は、明日ブインに飛び、あそこの第一線航空部隊を、慰労かたがた激励し
 てくるつもりだ」 
 と言った。
・「あそこは、それこそ最前線の部隊、いつもよい戦果をあげています。長官を迎えて喜
 ぶでしょう」   
 今村はそう言いながら、自分がブインに飛んだとき、敵戦闘機群に襲われて九死に一生
 を得たことを思いだし、
 「実は二ヵ月ちょっと前、海軍の中攻をわずらわし、ブインに飛んだときのことです。
 飛行場のすぐ手前で、三十機ほどの敵戦闘機編隊に出っくわし、”もうこれまでだ”と
 思っていましたが、上等兵曹の沈着機敏の操縦で、付近の雲の中に飛び込み、死線を越
 えました」
 と言い、当時の実況を詳しく物語った。
・いまにして思えば、これが今村と山本の今生の別れだったのである。
 残念なのは、今村軍司令官を襲ったのが、暗号電報の解読によるものであった点に、疑
 問をいだかなかったことである。もしもこの疑問を持っていたなら、長官機の護衛戦闘
 機が増加されるか、ブイン行きが中止され、あの最大の不幸が免れたであろうというこ
 とだ。 
・神ならぬ身の知る由もなく、山本長官は翌日朝、一式陸攻に乗り、ブインへと出発した
 のである。
 一番機には、山本長官、高田軍医少将、樋端航空参謀、副官福崎中佐、
 二番機には、宇垣参謀長、北村主計少将、友野気象長、今中通信参謀、室井航空参謀
 が乗り込んだ。
・その日は快晴で、ラバウル東飛行場には、長官機を守っていく護衛戦闘機の零戦六機も
 勢ぞろいし、まず、その護衛戦闘機が、つぎつぎと離陸して上空で編隊を整え、つづい
 て山本長官の乗った一番機が離陸した。そして宇垣参謀長の二番機が滑走をはじめ、上
 空に舞い上がるとがっちりと編隊を組み、まもなく機種を南に向け、青空の中へその姿
 を消してしまった。 
・ブイン飛行場が目の前に見えるムッピナ岬の上空にさしかかった。
 そのとき、護衛戦闘機の第二小隊長は、
 「あっ!」
 と軽い叫びをあげた。右斜め前方千五百メートルばかり彼方、五百メートルくらい低い
 高度に、敵機の編隊を見つけたからである。
・(だが、あれは南へ行っている。まだこちらに気づいていないようだ)
 そう思うと少し安心したが、よく目をすえてみると、敵機はまさしくロッキードP38
 である。しかも、十数機編隊の二隊である。
 小隊長機はぐっとスピードを増して、長官機の右側へ出て、大きくバンクした。 
 敵機発見の合図である。
・長官機はそれを見て、下げ舵をとり、高度を下げはじめた。 
 そのときである。いままで気づいていないと思っていたP38の二隊は、ふた手に分か
 れて、ぐうんとスピードをあげ、こちらへ迫ってきた。
・一隊は、護衛戦闘機の零戦隊の前へ立ちふさがるようにし、一隊は、まっすぐに、長官
 機と参謀機を撃墜しようと、突進してきた。 
・長官機は全速力で左の方へ回り込み、ブインの方へ向かおうとしたが、そのとき早くも
 敵のP38一機は、右後ろの下方から猛烈に銃弾をあびせてきた。
・その目の前で、P38と零戦一機が撃ち合っていたが、P38一機は火の玉となって墜
 落していった。 
・参謀機は、長官機が急に左へコースを変えたので、少し遅れて、左へまわり、長官機の
 右斜め後方から迫っていった。が、敵の攻撃ははげしく、零戦六機は三倍の敵と戦いな
 がら、長官機を守ろうと必死である。
・長官機は右へ、参謀長機は左へと急旋回して逃れようとしたが、長官機はついに右発動
 機から火を吐きはじめた。
 そして、みるみるうちに速力が落ちたかと思うと、ジャングルすれすれに飛んで、果て
 は炎につつまれたまま突っ込んでしまった。
・一方、参謀長機は、モイラ岬の南方の海上に逃れ不時着したが、すでに機体からは炎が
 噴き出しており、着水と同時に右の主翼は胴体の付け根から折れ、すぐに海中に沈んで
 しまった。  
・長官機は全員戦死だったが、参謀長機は宇垣少将と北村主計長が重傷を負い、林主操縦
 員が軽傷で助かった。
・山本長官の戦死は、前線のラバウル基地はもちろん、そのほかでも絶対秘密にされた。
 それは、日本軍全部の士気に関する重大事件であったからである。
・やがて、その日から一ヵ月以上も過ぎて、大本営は、つぎのように発表したのであった。
 「山本連合艦隊司令長官は、四月、前線において全般作戦指導中、敵と交戦、飛行機に
 て壮烈なる戦死をとげたり」
・ところで、山本長官の前線行きについて、はたして米軍は、その暗号を解読していたの
 だろうか。
 日本海軍は、この事件を甲事件として、秘密裡に、暗号が盗まれ解読されたのか、それ
 とも偶然だったのか、全力をあげて調べたが、結局、詳しいことは何一つつかめなかっ
 た。それがわかったのは、戦後になってからである。
・山本長官の戦死は、日本軍の暗号電報が傍受され解読されたことから起こった悲劇であ
 り、その結果、日本はかけがえのない名提督を失ったのである。
・ラバウルからブインに打電した山本長官の出発とその到着時間の無線電信暗号は、ワシ
 ントンの米海軍機関により解読され、そこからガダルカナル島の米航空部隊長に対し、
 山本長官搭乗機撃墜の電命が発生られた結果とのこと。

ラバウルの落陽
・今村は、昭和十八年五月、陸軍大将に昇進した。
・今村は読書家であった。中学時代から文学書など読んでいたが、とくにバイブル、それ
 も新約聖書には心ひかれるものが多かったせいか、ほとんど座右の書としていた。
 それは中学時代、キリスト教会の日曜学校に通っていた関係で、キリスト教に関心を持
 つようになったものだが、バイブルは軍人になってからも、常に机上において、肝に銘
 じたところは赤線を引いていた。
・バイブルの次は禅の書である。禅に関心を抱くようになったのは、板垣征四郎中尉の影
 響があった。 
 今村は陸士を卒業して仙台の連隊に配属されたが、その同じ中隊の小隊長をしていたの
 が、板垣中尉であった。
 今村は、この板垣の気魄というか、武人かたぎというか、その人格にすっかり敬服して
 しまい、日曜日ごとに新寺小路町の素人下宿にたずねていって、話をきくのを心の糧と
 していた。
・そうしてある日、今村がたずねて行くと、板垣は出かけていて不在であった。
 「留守のときだってすぐ帰ってくるから、昼寝なり、本を読むなりして待っておれ」
 かねがねそういわれていたので、部屋に入ると、机の上に本がひらかれている。
 見ると禅の本であった。禅とは何か、興味がわいて、読みはじめ、いつのまにか二時間
 たった。
・「中尉殿、ご承知のように、私はとかく興奮し、人と争いがちです。この欠点を禅であ
 らためられましょうか」
 今村はきいた。
・「禅は、不意の危機にのぞんだとき、とっさにこれに応ずる処置を取り得るようになる
 鍛錬の道だそうだ」
・今村はその日、その禅書を借りて読んでから、これを契機にして幾冊かの禅書をひもと
 くようになったのだが、禅寺に参禅したことはない。
 それはバイブルを読んでも、教会へ出入りしなかったように、あくまで修養の道のため
 であり、自己の精神形成上の心の糧として、道を求めたからである。
・若いときの今村には、細事に拘泥し、すぐ興奮して、他に対抗しようとする性癖を持っ
 ていた。彼はこの性癖を、なんとかして治そうと、バイブルによったり、禅書によった
 りしたのであそう。

・ラバウルでも一番頑丈につくってあった今村軍司令官の防空壕でさえ、二百五十キロ爆
 弾が命中すれば潰されて、犠牲者を出した。
・制空、制海権をにぎられた今となっては、もう平地上につくったものは、なんの役にも
 たたない。上層を十五メートルくらいにした洞窟防空壕をつくり、陣地と居住地区が一
 致したものにするほかはない。 
・かくして、昭和十九年元日から、軍全体の陣地編成の構想が根本的に改変され、軍司令
 部はラバウル市街から東北二十キロの高地帯に移ることにした。
 約千名分の陣地、事務室、会議室、食堂、居住室兼寝室を、上層土二十メートルぐらい
 の洞窟のなかに設け、全部がトンネル式に連絡できる地下市街のようなものを設計し、
 約五カ月で完成した。
・こんなふうにして、人員、馬、兵器、弾薬、被服、糧食等いっさいは、昭和十九年いっ
 ぱいに地下要塞に入ってしまい、わずかに、高い木の上に設けられた対空監視哨が地上
 にあるだけで、その後は、どんな大編隊の爆撃があっても、びくともせず、一般兵員は
 落ち着いたものであった。だから、昭和二十年に入ってからの米軍航空隊の爆撃は、ま
 ったく無効の大量爆弾を毎日消費していることになった。
・兵隊たちは、これでラバウルの地下要塞は絶対難攻不落と信ずるようになった。
 しかし、すでに、昭和十九年七月にはマリアナ諸島のサイパンが落ち、九月にはグアム
 島、テニアン島が玉砕し、十月にはフィリピンのレイテ島へ米軍が上陸して激戦をまじ
 えていた。その米軍が、ラバウルだけを放棄しておくはずはなく、いずれは大軍をもっ
 て攻撃してくるであろう、と今村はじめ軍首脳部は考え、戦技訓練を怠らなかった。
・まず考えられるのは、落下傘部隊による急襲である。
 だから、それに備えての訓練は、猛烈をきわめた。
・つぎに、米軍戦車団に対する攻撃戦法の精錬であった。
 こちらには戦車はごく少数しかないうえに、対戦車砲もない。
 だから、米軍戦車団に対しては、肉弾攻撃のほかはなかった。
・ラバウル付近には約七万の陸軍がいるといっても、実戦部隊は四万で、他の三万は、い
 わゆる後方部隊とか、非戦闘員の部隊であった。
 しかし、これらの非戦闘員の部隊にも、敵落下傘部隊の降下に対する攻撃や戦車団に対
 する攻撃の訓練を行い、特に、敵戦車粉砕のためには、爆雷を使用することとして、そ
 の使い方や攻撃法の訓練をきびしく行った。
・だが、ラバウルには米軍は上陸してこなかった。
 マッカーサー将軍は、例の飛び石作戦で、ラバウルは素通りし、硫黄島、沖縄に向かい、
 大激戦が行われたのである。
 この理由がわかったのは戦後である。
・ラバウルは、連合軍にとって、目の上のたんこぶであった。
 しかし、これを攻略して除去するには、数万の犠牲が見込まれる。
 そこでこれを避け、飛び石戦で、ラバウルは空襲だけにとどめ、手をつけなかったので
 ある。 
・もしもラバウルに連合軍が上陸していたら、沖縄作戦同様の修羅場が現出していたこと
 であろう。それを思えば、連合軍は賢明な作戦をとったというべきであろう。
   
・やがて終戦の秋がきた。
 昭和二十年八月十四日の夜、ラバウル方面軍将兵に対して、阿南陸軍大臣から、つぎの
 ような電報が発せられた。 
 「明八月十五日正午、天皇陛下御自ら全国民にむかい、勅語を放送あらせらる。同時こ
 れを謹聴すべし」
・今村はこれを見て、日本本土に連合軍の上陸を迎えての決戦態勢確立の必要があり、御
 激励の聖旨が放送されるのであろうと拝察していた。
・明けて昭和十五年正午、今村は服装を整え、防空壕内の無線電信所に入り、数名の幕僚
 とともに、つつしんで詔勅を拝聴しようとした。
 ところが、天候のためか、無線機能の不整によるものか、なんら玉音も伝わらずに終わ
 ってしまった。 
・すると午後三時ごろ、軍参謀の一人が今村の部屋に入ってきて、だまって一連の文書を
 机上に差し出した。南東方面艦隊司令部の受けた、海軍大臣よりの詔書伝達電報を浄書
 した ものであった。それは、終戦の詔勅であった。
・ラバウルは、昭和十九年二月以来、敵の制空、制海により、まったく祖国との交通は断
 たれ、無線による公電のほか、なんにも国内の事情がわかっていなかったので、今村に
 とっては、思いがけないことであった。
 参謀のすすり泣く声が聞こえてきた。と、今村もまた涙があふれ出て止まらなかった。
・祖国敗る。
 心の中でつぶやくと、思いは千々にくだけて、ただ暗澹とし、黒い雲が頭の中いっぱい
 にひろがっていくようであった。
・朝を迎えた。
 いつもの朝と、兵隊たちの様子が違うのである。
 今村の防空壕内宿舎には、副官大田黒哲也大尉以下十名ほどが豪内生活をしており、
 炊事場は豪外の竹林の中に建てられていた。
 いつものように夜明け前から従兵たちは、食事の準備にかかりだしたが、昨日までは、
 ほがらかな声で話し合ったり、冗談を言ったりしていた兵隊たちは、黙々と炊事の作業
 を営んでいる。
・午前十一時、今村は豪外の大竹林の中に建てられている、会議所に入っていった。
 今村は詔書の伝達をする旨を告げると、大きな紙に浄書させておいた詔書をひろげて、
 奉読をはじめた。
 「・・・戦局かならずしも好転せず、敵は新たに惨虐なる爆弾を使用して、頻りに無辜
 を殺傷し・・・わが民族の滅亡を招来するのみならず、延て人類の文明をも破却すべし
 ・・・戦陣に死し、職域に殉じ、非命に斃れたる者、及びその遺族に想いを致せば、五
 内為に裂く・・・堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、万世の為に太平を開かんと欲す」
・中ごろまで読み進むと、あちこちからすすり泣きの声が聞こえてきた。
 なかでも陸軍中将「谷田勇」軍通信隊司令官は、特に悲しみの声が大きく、今村もつい
 それに誘われて涙声になろうとする。そのため、声がのどにつかえて、しばらく奉読が
 とぎれてしまったりした。
 
鉄条網の中の讃美歌
・日本政府は、海外部隊の引き揚げ順序の腹案を発表したが、それによると、船舶の都合
 で、ラバウル部隊の最後尾の引き揚げは昭和二十四年春になる予定だ、とラジオのニュ
 ースで伝わった。
・それでは引き揚げ完了までには三年半もかかることになるので、今村は方面軍各部隊の
 編成を解かず、さらに現地自活の農耕を続ける一方、マラリア対策を強化して、各自健
 康に注意して帰国の日を待つように指示した。
・ところが、ソ連が満州にある部隊を抑留しシベリアへ移送したので、日本政府はその方
 面の引き揚げには手がつけられず、またその一方ではアメリカが約二百隻のLSTを貸
 与して引き揚げを促進するという好意をみせたので、ラバウル方面の引き揚げも早くな
 り、昭和二十一年二月から六月までの間に全員の復員が可能となった。
・今村はほっとした。
 敗戦という気の引け目は持ちながらも、長い者は五年ぶりで故国へ帰ることができるの
 だ。さぞ喜びを心の中でかみしめていることであろう。
 今村にしてもラバウルに来てから三年、死生をともに誓い合った七万の将兵が、健康で
 祖国へ復員できることに、肩の荷がおりる気がしたのである。
・一方、進駐してきた豪軍は、当初、日本軍の白人虐待の宣伝に興奮しており、日本軍の
 将兵を見る目はとかく疑惑と憎悪に包まれていたが、日が経つにつれて、日本軍の軍記
 風紀が厳正に保たれている実状を目撃し、しだいに対日感情は好転していった。

・今村は昭和二十一年には六十歳になっていた。それで労役は免除されていたが、とくに
 願い出て、刑務所のそばの空地に百五十坪ほどの農園を耕し、健康保持につとめた。
 畑のまん中に一坪ほどの休憩所をこしらえ、周囲にカンナや百日草を植えて、外から見
 えないようにした。疲れるとそこへいって休み、想念にふけるのが常であった。
・今村は思った。
 人間という者は、強烈な目的を持っているときは、それこそ命を的にして真剣にぶちあ
 たる。だが、戦いに敗れ、職務上やむを得なかった行為をとがめられても、罪悪を犯し
 たという自覚はない。あっても少ないにちがいない。それを死をもって裁かれ、前途の
 春秋を失う運命があったとき、たとえ信仰に入り得たとしても、なお父母を恋いこがれ
 ることは、これこそ、純真な本能である。敵弾にあたり、万歳を唱え、莞爾として逝く
 あの心の裏側が、この花を叫ぶなげきであろう。
・今村は仏教青年会とキリスト教のラバウル教会を結成し、最年長者というので、その双
 方の顧問になった。
・昭和二十一年春以来、軍事裁判開始直後の当時は、各容疑者の心理状態がきわめて不安
 定で、哀れなものであった。
 裁判官の量刑は、重刑主義であり、昨日も今日も死刑の宣言が相ついでいたからである。 
 その犯行といわれるものが、いかなる戦況、いかなる任務のもとに、どんな心理で行わ
 れたかは一切審理されず、歯には歯、目には目の主義で、ひどい裁判官や検事になると、
 「お前たちは、戦争中、裁判もなにもしないで、どんどん敵を殺したではないか、裁判
 してもらうだけでも慈悲と思え」
 と放言した者さえあった。戦時と平時とを混同し、ただ復讐しているような裁判でさえ
 あった。
・昨日までは君国に生命をささげ、なんの悔いもなかった将兵の目の前は、真っ暗であり、
 ただ理不尽に、無抵抗に殺されていく。収容所の中は混とんとした心理状態の中にあっ
 た。
・自己中心不人情の者が多かった。
 上官の命令と言えば助かると思い、「それはT中将の命令でやりました」と根も葉もな
 いことを供述し、自分は私刑、T中将は無期にした者もいた。
 また、「俺はどうしても早く内地へ帰らなければならない事情がある。気の毒だが、君
 の証言のためには残ってはやれない」と言い、部下を残してさっさと乗船して去ってい
 ったある将官。
 かと思うと、自分と間違われて収容されている同姓の人に、「間違えたのは豪軍で僕の
 責任ではない。君は何もしていないのだから無罪は確実だ。自分な名乗って出ることは
 しない」と、一年も身代わりを務めさせ、おのれは外にいて平気であった者。
 終戦まではたいした人物と思われていたある部隊長が、いかにもみにくい慌て方をした
 事実など、幻滅の悲哀を味わわされることが少なくなかった。
・こうして雰囲気の中にあっては心の平静は得られず、みんな不安にとらわれ、苛立ち、
 混沌となる。
 そこで今村は、なんとかしてみんなの心にやすらぎを与えようと、自分に近づいてくる
 人たちに、宗教というもの、信仰というものに心を向けてみようと思った。
 幸いにも僧籍にあった人、牧師をした人が一人ずつ容疑者の中にいたので、仏教青年会
 と、ラバウル教会を結成したのだった。
・高橋中尉は、盛岡の高等農林学校を卒業したばかりで海軍に召集され、片山大尉と同じ
 アンボンの根拠地司令部で机を並べ、電報班に勤務していた。
 片山大尉と高橋中尉は日ごろから仲がよかったが、ある日、二人で仕事をしていると、
 片山はA参謀に呼ばれ、
 「明日、白水隊に留置している豪軍捕虜四人の死刑を執行する。ついては、うち二人は
 将校なので、儀礼上こちらも将校にやるよう司令から申された。君と高橋とで白水隊を
 援助し、将校を処刑したまえ」
 と命令された。  
・片山はクリスチャンだから、人を処刑することには、大いにためらいをおぼえたが、召
 集将校とはいえ軍人である。命令された以上、これを拒否することは軍律上許されない。
 そこで、高橋と一緒に処刑場へ行って銃殺したのであった」
・その後、片山大尉は軍令部に転勤になり、終戦を迎えたが、まもなく戦犯容疑者として
 巣鴨留置所へ収容された。
・やがてアンボンに送られ、モロタイ島での裁判になった。
 そこでは、処刑に関係した下士官兵が容疑者として捕らえられていたが、彼らは四人の
 豪軍将兵を処刑したのは、片山、高橋の両将校だと証言していた。  
 そこで片山、高橋は、罪が部下におよぶのをおそれ、上官の命令により二人だけで処刑
 したと自白した。
・当時の司令官山県中将はすでに戦死しており、A参謀は他の地域で戦犯として抑留され
 ていた。 
 すると、二人に命令をした者はだれかと追求された。
 戦犯裁判は、命令者と実行者とは同罪に律せられるので、A参謀の名を出したくなかっ
 たが、せめて高橋だけでも助かってくれたらよいと思い、事実の通り陳述したのであっ
 たが、二人とも死刑の判決を受け、ラバウルへ送られてきたのであった。
・高橋大尉にも最後の日が来た。わざわざ内地から呼び寄せられた、K少佐、T少佐の証
 言が取り上げられず、再裁判はついに開かれぬことになったのである。
・片山大尉と高橋中尉が明日死刑執行されると通告を受けた前夜は、満月であった。
 二人に特別好感を持っていた職員のバックハウス中尉の配慮で、ラバウル教会員とその
 他の有志は、死刑囚房に面する鉄条網に接した外側に近づいて、午後九時の消灯まで、
 最後の別れを語り合うことが許された。
・いくつもの祈祷と、賛美歌とが繰り返された。
 月はこうこうとかがやき、その下に別れを惜しむ一団の人々が黒いシェルエットとなっ
 て浮かびあがらせる。   
 そうした光景の中で歌われる讃美歌は、人々の胸にせまって、多情多感の同信者久保大
 尉や佐藤中尉らは、思わずすすり泣くのだった。
 
太陽を射るもの
・第八方面軍司令官今村均大将の裁判は、昭和二十二年五月から五日間開廷された。
 それまでに、ラバウルの豪軍事裁判は、二十九人に死刑、六人に無期懲役、六十九人に
 対して有期刑の判決を下していた。
・今村は、この戦争裁判に対しては一つの批判を持っていた。
 連合軍の行った軍事裁判は、つぎの観点から、合法正当なものとは今村は認めていなか
 った。 
・その第一は、敗者だけを裁き、戦勝者の行為にはいっさい触れようとしないことだった。
 たとえば、帰還復員のため、武器を棄てて日本の復員船の来着を待機している日本軍に
 対し、各種強制労役を課したり、わが将兵にくわえた豪軍人の不法暴虐はいっこうに裁
 こうとしない。
 だいいち、無警告に広島や長崎に原子爆弾を投じて、無辜の老幼婦女子までも殺戮した
 命令者や、それを実行した者は、英雄をもって遇されている。
 連合軍の行った裁判は、まったく勝者の権威を一方的に拡張した、残忍な報復手段であ
 るとしか認められない。
・第二に、この裁判は終戦の年(1945)に戦勝国間だけで決めた、戦争犯罪法を根拠
 としたもので、世界が認めた国際法に基づいたものではない。
・その三は、日本軍首脳部の責任である事項を無視して、下級者を罰している。
 たとえばインド人、中国人等の捕虜を宣誓釈放のうえ、労務部隊として輸送した大本営、
 支那や南方総軍司令部を調査することもしないで、これを捕虜部隊だったと独断し、そ
 れらを取り扱った日本軍人を罰している。
・その四に、一般の裁判、特に証拠を尊ぶ英国法裁判では許していない聞き伝え証言を、
 この軍事裁判は有効として取り上げ、罪状を決定する。
・その五に、激烈な戦況下に行われた行為とか、戦場心理などは、一切これを無視して、
 考慮外におき、平常的観念で裁く。
・その六に、日本軍での命令は絶対の権威であり、ことに、敵前でのものは断じて違反し
 得ないものであることを知っていながら、その責任を命令者だけにとどめず、実行に携
 わった下級者にまでおよぼしている。
・今村は、いよいよ自分の裁判が開始される段になると、死刑を覚悟していた。
 それと同時に、裁判中は見苦しい態度はけっして見せまいと決意した。
 だが、困ったことが一つだけある。それは例の夜尿症からくる居眠り病である。
・そこで今村は、濃いコーヒーをつくってもらって、法廷に入る前や休憩時にそれを飲み、
 また士官学校時代に用いたことのある小唐辛子をポケットにしのばせて、眠気のさした
 ときは、それをひそかに入れて噛むことにした。
・四日目に日本弁護団の弁護が一日中行われ、五日目に判決が出た。
 裁判長は、声高に、
 「被告今村均大将を十年の有期刑に処す」
 と言った。
・死刑を覚悟していた今村は、瞬間、ホッとしたが、しかし、禁固十年ということは、獄
 中で十年間生きろということである。
 今村はすでに六十一歳である。それが獄中で十年生きることが果たしてできるかどうか。
 およそ不可能に近いと思った。
 とすれば、この刑は死刑よりも惨酷であると思わないではおられなかった。
 
・今村の戦争裁判は、ラバウルだけで終わったのではなかった。
 つぎはジャワでの蘭印軍事裁判が待っていたのである。
・今村は昭和二十三年五月、迎えに来たオランダ政府の飛行機に乗せられて、ラバウルを
 離れたのであった。
 そして、バタビア飛行場に着陸し、郊外のストラスウエイク刑務所に収容された。
・九月、今村はチビナン刑務所に移された。
 チビナンでは、一般囚舎にいる既決犯者七百人が、毎月一回、演芸会をもよおしていた
 が、それにも招待されるし、毎週日曜日の午前中に行われる野球見物にも招かれて出か
 けていくので、その際、旧知の誰かと会って懇談できるのも楽しみだった。
 今村はラバウルにいたときよりも、はるかに精神的に平静を保つことができた。
・チビナン刑務所の三千数百人の囚人に対する蘭印当局の処遇は、ラバウルの豪軍当局の
 やり方に比べ、食事がやや劣るだけで、無報酬強制労働はやらせず、少額ながら賃金を
 払う方法をとっていた。だから、囚人はそれを蓄えて、食糧品や日用品を買うことがで
 きた。また、特筆すべきことは、職員、看守、看守助手が、殴打、足蹴などの暴力をふ
 るわないことは、オーストラリア人より進歩していると思った。
・しかも、チビナン刑務所では、ストラスウエイク刑務所と同様、毎夜のように、ムルデ
 カの歌を合唱が聞こえてきた。これは看守も止めることができない。看守助手の大半が
 スカルノの独立政府側の同調者であったからで、はては全インドネシア囚人が団結して
 ストライキを行い、待遇改善をせまり、その目的を達成した。
・ある日、インドネシア独立軍の将校である二人の政治犯囚人が訪ねてきた。
 一人は大尉で、一人は少尉である。
 この二人は今村が散歩しているとき、出会うと丁寧に敬礼していたが、今村の房舎をた
 ずねてきたのははじめてである。
・「ご承知のように、ここの監獄の原住民出身看守、および看守助手の半数以上は、独立
 共和国政府に気脈を通じている者で、この政治犯囚舎係の看守にも三、四人、しっかり
 した共和国側のスパイがおります。これが、ここに入れられているわれわれと政府との
 連絡係をやっております。今日その一人が、私たち二人に、政府の指令を伝えてきまし
 た」
 というのである。
・「それは将軍、あなたについてのことです。軍事裁判が、あなたの部下だった丸山師団
 長と東海林支隊長とに死刑を求刑していることからみて、共和国政府のスパイがさぐっ
 たところでは、今村大将にも同様にされることを探知しました。それで、裁判長がどう
 判決を下すかはまだわかりませんが、もしも丸山、東海林の二人が死刑を受けたら、き
 っとあなたもそうなるだろうとの見込みから、執行日を内偵し、その日、死刑場にいく
 途中、あなたを奪回する計画を立てています。ついてはそのとき、あなたは少しも躊躇
 もせず、共和国軍の自動車に飛び乗るようにしてください。このことをお伝えしておけ
 と指令してきました」 
・熱血児スカルノなら、やりかねないことである。
 今村は蘭印攻略のとき会ったスカルノの風貌と、その熱血漢らしい印象を思い起こし、
 あのときの恩義に報いるために、このような危険をあえておかそうとしているスカルノ
 に、あらためて感謝の念をおぼえたが、今村はそれを伝えてきた独立軍の大尉の人物を
 知っていなかった。
 いい加減なことを言っているとは思えないが、独立軍のスパイもいると同時に、オラン
 ダ側に買収されているスパイもいるので、迂闊なことは言えないのだ。それに奪回する
 というが、そんな目に合うことも不愉快である。
・「独立政府に、つぎのように返事してもらいたい。
 日本の武士道では、そんな奪回により、生き延びることは不名誉なこととされている。
 まして、私を救出するための兵力とオランダ兵との間に銃火がまじえられ、双方に犠牲
 者を生じさせることなど絶対に避けたい。が、私の死刑執行前に、いまやっている独立
 戦争の結果、このチビナン刑務所が、独立軍の手に落ちるようなことがあり、そのとき、
 この場所からどこかに連れて行かれる場合には、拒否などはしない。
 スカルノ政府の厚意には、たいへん感謝はするが、奪回には応じないことを了承してく
 ださい。かように伝えてください」
・二人の将校は、今村の拒否する理由がすぐには納得できないで、不審そうな顔をしてい
 たが、不満そうな表情で、房舎を出ていった。
   
・判決の言い渡し室は三十畳くらいの広さで、法務大尉の軍服をつけた軍事裁判所の判事
 がひとり、大きな机を前にして起立していた。
 彼はまず、今村を呼び、判決文を読みあげた。
 「蘭印軍臨時軍事裁判所は、被告、日本陸軍大将今村均に対する起訴の犯罪事実は、そ
 の証拠なきものと認定し、無罪を判決する」
・ついで、判事は、今村の軍参謀長だった岡村清三郎中将に対しても、今村と同文の判決
 文を読みあげ、第二師団長だった丸山政男中将には、”証拠不充分”を理由として、やは
 り無罪を言い渡した。
・今村ら三人と、ほかの事件で無罪となった山本茂一郎少将が、部屋を出ようとすると、
 判決を言い渡した法務大尉の判事は、
 「しばらくお待ちください」
 と言い、部屋の中央に置かれてあった丸テーブルのまわりに四人を立たせ、給仕の一人
 に、自分の机と四人の前に一個のコップを運ばせ、それにワインを満たさせた。そして、
 「無罪を祝福します」
 そう言って、乾杯するように言った。
・乾杯が終わると、今村は法務大尉に言った。
 「無罪の宣告を受けて私は大変うれしい。しかし、私はオーストラリア軍の戦犯裁判で
 禁固十年の刑を受けているので、日本へ帰さないで、マヌス島へ送ってください」
・「いや、それはむつかしい。あなたを東京の巣鴨留置所へ送ることは、米、英、豪、蘭
 四軍当局の協議により決定されたものであり、そういうことは許されない」
 と、許してはくれなかった。
 
鎮魂の行脚
・昭和二十五年一月、七百人の日本人は、明日は上陸できるというので、部屋を片づけ、
 荷物を整理して、午後はみんな甲板に出て、祖国の方角を眺めはじめた。
 やがてはるかに遠く、あれが日本かと思われる長い陸地が見え出した。
・「富士山だ、富士山だ」
 みんなは叫んでいたが、やがてみんなはだまりこんでしまった。
 五年ないし八年ぶりに見る霊峰である。
 万感こもごも、もう声も出す、だまって手を合わせている者、涙を流したままそれをふ
 こうともしない者たち。それは感動的な光景であった。
・今村もまた、生きてふたたび見ることはあるまいと覚悟していた祖国の地。その象徴で
 ある富士山を見て、息苦しいほどの感情の波におそわれた。
・港内桟橋倉庫前の広場に約四十台並んだ米軍のトラックに乗ったが、まず五十人からい
 る病人が優先され、かれらは担架で運ばれた。
・昨年、中国から巣鴨へ移管された中国観慶戦犯が横浜へ着いたときには、いっさい出迎
 人の港内立ち入りはできなかったそうだが、今回はそれが許可されたらしく、二、三百
 人の人々が、下船場から出口の方に向けて倉庫前に並んでおり、復員局と引揚援護局の
 役員が、その先頭数歩前に立っていた。
・巣鴨では、今村は独房に入れられた。
 が、すぐ面会が許されて、二、三日すると、妻の久と長男の和男、それに末娘素子の子
 供、で、今村にとっては孫にあたる五歳になる美世子の三人が面会にきた。
・「わたしたちは、こうして家族と再会できたが、再会できずに、異国の刑務所で苦役を
 している旧部下が、何百人もいる。私は願い出て、マヌス島へ帰ろうと思っている。み
 んなもそのつもりでいてくれ」 
・今村がオランダ軍事裁判で無罪の宣告を受ける半年前、マヌス島の豪軍刑務所で服役中
 の中佐参謀畠山国登から今村のところに、つぎのような手紙がきた。
 「今村大将がラバウルの豪軍刑務所から蘭印刑務所に移された直後、われわれラバウル
 刑務所の全員四百人は、マヌス島の刑務所に移されました。マヌス島というのは、東ニ
 ューギニアの北方、赤道近くの島、高温多湿、気候不順な土地で、みんな非常に難儀し
 ております。また、どういうわけか、いままでよかった刑務所長の取り扱いが非常に悪
 くなり、一日八時間あった労働時間が九時間になり、食物は極端に粗悪、こんな悪条件
 のもとに毎日働かされては、われわれ四百人のうち半分は日本に帰れないようになって
 しまいましょう」 
・マヌス島戦犯四百人のうち百人以上は、今村の旧部下であった。
 その人々がそんなに苦しんでいるのを見捨てておくわけにはいかない。
 生命のある限り彼らと行動をともにするのが自分の義務であり、運命であると今村は思
 った。
・まず今村は、アメリカ軍の巣鴨刑務所長に対して、マヌス島への転送方を申請してみた。
 が、とりあってくれなかった。
 しかし、今村は熱心に何度も懇願した。
 それでも”一度きまったものは変更は許されない”といって許可にならなかった。
・とある日、面会に来た久が、マッカーサー司令部内には各国軍の連絡班があり、豪州班
 もあることを知らせた。 
 「それはいいことを知らせてくれた。すまぬが、そなたがGHQの豪州班へいって”私の
 主人はアメリカの戦犯者ではなく、オーストラリアの戦犯者である。それでマヌス島で
 服役したいと念願している。なんとかして同島へ送っていただけませんか”とたのんで
 くれまいか」
・今村は妻にたのんだ。
 妻の久は、主人のいいつけどおり豪州連絡班へ請願にいった。
 それも、一度ならず三度も足をはこんだ。
・その熱心さにほだされて、
 「オーストラリア軍の一存では決定できない。米軍と協議してみよう」
 ということになり、GHQの法務部長カーペンターと協議した結果、
 「本人がマヌス島へ行きたいと志願するなら、二月になればさらにオーストラリア軍の
 関係の戦犯容疑者八十人を横浜からマヌス島に送る。そのとき一緒に今村も乗せてやる
 ことにしよう」 
 と回答をしてきた。
・今村が、巣鴨にいること一ヵ月で、ふたたび部下とともに暮らすため、マヌス島で服役
 することが新聞に出た。
 すると、目白と池袋の種苗屋から、カボチャ、ナス、キュウリ、トマト、大根、ワケギ
 などの種を、たくさん寄贈された。
 差し入れは禁じられており、家族には頼めずにいたので、これは神のめぐみであると、
 今村を感激させた。
・今村はわずかの荷物と野菜の種を持って、その年二月、巣鴨から米軍のジープで横浜に
 送られ、かつての日本陸海軍人約八十人の戦犯容疑者と一緒に乗船し、南の島へと出港
 した。 
 ラジオで今村がくることを知っていた四百人の戦犯者たちは、声をあげて今村を迎えた。
 そして、その夜おそくまで語り明かしたのであった。
・囚舎は野営式のバラック、いわゆるカマボコ兵舎で、工場施設はごく小規模である。
 大部分の日常作業は、所外の道路、埠頭、飛行場の補修、豪軍糧秣庫への出し入れなど
 炎天下の仕事が多かったが、今村たち五、六人の老人組は日中八時間、所内で農耕をや
 った。 
・この農耕も今村が来てから、たのんでやらせてもらうようになったもので、刑務所から
 五百メートルくらい離れたよい地質の土地を与えられたのだった。
 高温多湿のため、年に三、四回収穫できた。一人五反歩平均耕したが、今村はワケギと
 トマトの種をまいてみた。
・今村がマヌス島の刑務所から、ふたたび巣鴨刑務所へ移送されたのは、昭和二十八年八
 月であった。マヌス島の豪軍刑務所が閉鎖されたからである。
 閉鎖に追い込んだのは、今村の妻久やマヌス島戦犯家族が結束して、”マヌス島より巣
 鴨で服役させてくれ”と、当時、衆議院にあった在外部隊引き揚げ委員会に熱心に陳情
 したのと、さきに刑期を終えてマヌス島から帰還していた松本寅太郎らが議会に喚問証
 言したため、政府間交渉となり、オーストラリアはマヌス島を閉鎖、巣鴨で服役するよ
 うにしたのである。
・今村は、マヌス島にあること足かけ三年で故国の土を踏んだのだが、ジャワから帰って
 きたときに見た日本の姿とはうってかわって復興し、活気に満ちているのを喜んだ。
 それに、当時、日本は独立国になっており、巣鴨もアメリカ軍から日本政府に管理権が
 移されており、面会も差し入れも自由になっていた。
・昭和二十九年十一月、刑期満了となり、二度目の巣鴨入り以来一年あまりで、世田谷三
 丁目(後、町名変更で宮坂二丁目)の自宅に帰った。
・今村は刑期を終える日が近づくと、自宅の庭の一隅に三畳ひと間のはなれを建てさせ、
 出所すると、みずから謹慎小屋と称してそこにこもった。
 そして暇さえあれば、戦没した部下の遺族を弔問し、世話を続け、その一方では、こつ
 ことと自伝を書き、読書にふけった。
・その無理がたたったのか、昭和三十八年秋には、右眼の眼底出血を起こし、視力を奪わ
 れた。が、彼は片目で、たのまれれば部下の墓碑銘を書いたり、著述を続けたりした。
・謹慎小屋といっても、今村は戦犯の延長として謹慎しているのではなかった。
 戦犯は、戦勝国が敗戦国を裁いた一方的な裁判であるから、不当なものであると思って
 いたが、たとえ不当なものであるにせよ、実際に戦犯として幾人かは死刑になっている。
 彼は、それが不憫でならなかったし、また一方では敗戦の責をも感じ、自省の意味で自
 分の余生を謹慎で終わろうと決心したのであった。
 だからこそ、戦没した部下の遺族を弔問する旅にも出ていたのだ。
・やがて、昭和四十三年十月の夕方、今村は心筋梗塞のために急死した。