黒い雨 :井伏鱒二

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この本は、いまから57年前の1966年に刊行されたものだ。原爆に関するニュースな
どで、この「黒い雨」という言葉がよく使われるが、そのためか、なんだが恐ろしさが先
になって、なかなかこの本を読んでみる気にはならなかった。しかし、世界で唯一、原爆
を落とされた国の人間として、一度は読んでおくべきと思い今回思い切って読んでみた。
私は、この「黒い雨」という本は、戦後すぐに書かれたものなのかと思っていたのだが、
刊行されたのが、敗戦から26年後の1966年であったと知って、ちょっと意外な気が
した。1966年と言えば、1964年に開催された日本で最初の東京オリンピックの2
年後だ。世界で唯一原爆を経験した国でありながら、どうして戦後26年もの間、こうい
う小説が世に出てこなかったのだろうか。なんだか不思議な気がしたのだ。
他に広島での被爆体験をもとにした作品がないかと探してみたが意外と少ない。見つかっ
たのは1947年に出版された「夏の花」(原民喜著)ぐらいだった。これはいったい、
どういうことを意味しているのだろうか。原爆体験をした人のほとんどが亡くなってしま
って、語れる人がいなかったのか。GHQからの圧力で語ることができなかったのか。それ
とも世間が原爆体験を語れる空気ではなかったのか。原爆体験そのものを思い出したくな
かったのか。とにかく尋常ではない体験であったことは確かだろう。

この作品のなかに「わしらは、国家のない国に生まれたかった」というフレーズが出てく
る。これは原爆で死亡した、たくさんの死者の屍を掘った穴に放り込みながら焼いていた
兵士が発した言葉であった。まさに、当時の人々の心の奥底から出た言葉であったのでは
なかろうか。
昨年2月に、突然ウクライナに軍事侵攻したロシアは、いまだ撤退せずにウクライナとの
侵略戦争を続けている。そして時々、核の使用をチラつかせてNATO諸国に脅しをかけ
ている。中国とアメリカの覇権争うもますます激しさを増している。北朝鮮のミサイル発
射実験も止むことがない。そんな世界情勢に引きずられて日本も、”防衛費倍増だ!”、”敵
基地攻撃能力の保有だ!”と、戦争に向って前のめりだ。
「核のない平和な世界を」と高々に叫ぶのもいいだろう。「核の傘」うんぬんを主張する
のもいいだろう。「核による抑止力」を主張するのもいいだろう。しかしその前に、広島
の原爆のキノコ雲の下で、市井の人々がどんなふうに死んでいき、どんなふうに生き延び
たのか、そのことをまずしっかり見つめ直すべきなのではないのかと私は思った。

この作品は、実際に広島で被爆した重松静馬氏の『重松日記』を原資料にして書かれたと
言われている。つまり、この作品は一応小説の形をとっているが、その多くの部分が実際
に被爆を体験した人の日記という個人的な記録なのだ。そう考えると、この重松静馬氏と
いう人は大変貴重な記録を残したことになる。
ネットで調べてみると、この重松静馬氏の『重松日記』は2001年に本として刊行され
ているようだ。重松静馬氏とはどういう人だったのだろうか。重松静馬氏は、この「黒い
雨」の作者である井伏鱒二氏と友人関係にあったようだ。重松氏は1962年に自分の日
記を井伏氏に送って小説化を依頼したとされてる。重松氏は1980年まで生きたようだ。

ところで、私はこのことを知って、どういうわけか井伏鱒二氏と太宰治氏との関係を思い
出した。先般読んだ「恋の螢 山崎富栄と太宰治」(松本侑子著)という本の中に、奇妙
なことが書かれたあった。井伏氏は太宰治氏が師と仰ぐ人だったらしく、井伏氏の世話で
太宰治氏は結婚もしている。しかし、戦後のある時から太宰治氏は井伏氏と距離を置くよ
うになったという。そして太宰治氏の遺書の中に「井伏さんは悪人です」と書き残こされ
ていたという。これはいったいどういうことなのか。いまだに謎とされているようなのだ。

この「黒い雨」は、「Black Rain 」として英訳本も出ているようだが、世界でどの程度
読まれているのだろうか。少なくても核保有国の言語に翻訳したものを核保有国の各図書
館に寄贈したり、今年広島で開かれるG7の各国の首脳に寄贈してはどうだろうかと私は
思った。

過去に読んだ関連する本:
日本原爆開発秘録
アメリカの戦争責任
原爆 私たちは何も知らなかった



・この数年来、小畠村の閑間重松は姪の矢須子のことで心に負担を感じてきた。理由は、
 戦争末期、矢須子は女子徴用で広島市の第二中学校奉仕隊の炊事部に勤務していたとい
 う噂を立てられて、小畠村の人たちは、矢須子が原爆病患者だと云っている。患者であ
 ることを重松夫婦が秘し隠していると云っている。だから縁遠い。近所へ縁談の聞き合
 わせに来る人も、この噂を聞いては一も二もなく逃げ腰になって話を切りあげてしまう。
・広島の第二中学校奉仕隊は、あの八月六日の朝、天満橋がどこか広島市西部の或る橋の
 上で訓辞を受けているときに被爆した。
 その瞬間、生徒たちは全身に火傷をしたが、引率教官は生徒一同に「海ゆかば・・・」
 の歌をピアニシモで合唱させ、歌い終わったところで「解散」を命じ、教官は率先して
 折からの満潮の川に身を投げた。
 生徒たち一同もそれを見習った。たった一人、辛くも逃げ帰った生徒からその事実が伝
 わった。やがてその生徒も亡くなったという。
・これは小畠村出身の報国艇身隊員が広島から逃げ帰って伝えた話だと思われる。けれど
 も矢須子が広島の第二中学校の奉仕隊に勤務していたというのは事実無根である。
 矢須子は広島市外古市町の日本繊維株式会社古市工場に勤務して、富士田工場長の伝達
 係と受付係に任ぜられていた。日本繊維株式会社と第二中学とは何のつながりもないの
 である。  
・戦争中には軍の言論統制令で流言蜚語が禁じられ、回覧板組織その他で人の話の種も統
 制されている観があったが、それが戦後になると、追剥の噂、強盗の噂、賭博の話、軍
 の貯蔵物資の話、一夜成金の話、進駐軍の噂、その他いろいろな噂が氾濫し、そのうち
 月日が経つにつれて噂も話も忘れられて行った。
 矢須子に関する噂もその命脈通りに行けばいいのだが、そうは行かないで、矢須子の縁
 談で聞き合わせに来る人があるたびに、広島第二中学校奉仕隊の炊事部にいたという噂
 が蒸し返される。
・報国艇身隊員というのは、広島市街の方か準備で家屋強制疎開の労役を勤めるため、県
 内の各郡から徴用した青年で組織され、小畠村の青年は神石郡と甲奴郡の混成部隊であ
 る甲神部隊と名づける隊に編入されていた。この人たちは民家を倒壊させるのが任務で
 あった。
・ところが、甲神部隊のものも奉仕隊員も広島に到着して二日目に、ようやく仕事に取り
 かかった矢先のところで被爆した。即死したものの他は、みんな焼けただれた身を広島
 周辺の三次、庄原、東城などに収容された。
・東城町の収容所は間に合わせの古い建物で二人の監視人がいたが、どうしていいか誰も
 手のつけようがなかった。被爆者たちは畳の上にごろごろ転がって、みんな顔が焼けた
 だれているから誰彼の区別もつかないのだ。なかにはあたまの髪のあるべき部分がつる
 つるに禿げ、ねじり鉢巻きをしていたと見える跡だけ皮膚が正常に残って、両の頬が老
 婆の乳房のように垂れ下げっているのもある。
・医者も治療法のわからない病人だから滅多なことはできないと手を控えていた。怪我人
 の火傷の苦しみ以外の苦痛も何に原因しているのか知れないので、ともかくパントポン
 という薬を注射して六人だけの苦痛を一時的に和らげた。医者はその薬をもうそれきり
 しかもっていなかったそうだ。 
・これは後日、重松が広島を引き揚げて来てから勤労奉仕団員の一人が聞かせてくれた話
 だが、もうその頃には重松自身に原爆症状が現れていた。少し野良仕事に精を出すと体
 がだるくなって頭にちいさなぶつぶつができてくる。髪の毛を引張ると少しの痛みもな
 く抜けてくる。
・一般被爆者の症状は、何ということこなく体がだるく重くなって、数日にして頭の毛が
 痛みもなくすっかり脱落し、歯もぐらぐら動きだして抜けてしまう。体がぐったりとな
 って死んでしまう。 
・もし発病初期に体のだるさを感じたら、何よりも先ず休養して栄養を摂ることが肝腎で
 ある。無理を押して仕事をするものは、下手な植木屋が移植した松の木のように、次第
 に気力を失って生命を断っていく。
 発病が体の一局部に現れると、この病気特有の痛みを感じ、肩や腰の痛みも他の病気と
 は比較しがたい病状である。 
・重松は巡回診断の医師からはっきり原爆病だと診断された。福山の藤田医師からも同様
 の診断を云い渡された。
 しかし矢須子は決して病気ではない。しかるべき医師の健康診断を受け、また保健所で
 も被爆者定期健康診断を受け、ことごとく異常なしと診断された。これは終戦後四年十
 ヵ月目のことで、矢須子にとってはもったいないほど喜ばしい縁談話が持ち上がってい
 るときであった。
・仲人は矢須子の健康について、小畠村のどこかの家へ聞き合わせて来たと見え、原爆投
 下の日から小畠村に帰るまでの広島における矢須子の足どりを知りたいと手紙で云って
 きた。 
・矢須子はそろそろと立って、箪笥の抽斗から取出した当用日誌を無言のまま重松に手渡
 した。昭和二十年度の矢須子の日記である。
・警戒警報解除のサイレンが聞こえてきた。時計を見ると八時であった。いつもこの時刻
 になると、アメリカの気象観測機がやって来て広島市街の上空を素通りする。例によっ
 てそれだろうと私たちは別に気にもとめなかった。
・お父さんは煮たぎる釜の蓋を取った。そのとき戸外で青白い光が凄く閃いた。東から西
 に向け、つまり広島市街から古江の裏山に向かって飛び去ったようであった。太陽の何
 百倍もの大きさを持った流れ星のようであった。
 間髪を入れず大きな音が轟いた。
 「や、光が手走った」とお父さんが口走ったのを私は耳にした。
・日理島市街の方向に空高く煙が立ちのぼった。火山の噴煙のようにも見え、輪郭のはき
 りした入道雲のようにも見え、とにかく只ならぬ煙であることだけは確かであった。
・煙は上空高く昇って、上になるほど大きく広がっていた。私はいつか写真で見たシンガ
 ポールの石油タンクの燃える光景を思い出した。日本軍がシンガポールを陥落させた直
 後に写した写真だが、こんなことをしてもいいのだろうかと疑いを持ったほど恐ろしい
 光景であった。煙が空高く、あくまでも高く昇り、横にたなびく雲を突き抜けて、傘の
 形をしたお化けのような大きな煙であった。
・私はお化けのような雲を見て、あの雲の下に帰ることができるだろうかと疑った。冒険
 的すぎる行動ではないかと思った。 
・九時ごろ出発、往還を出ると、広島市の上空に黒雲が湧き起こって雷鳴が聞こえていた。
・船は京橋川右岸の御幸橋のたもとのところに着いた。橋から川上の方は黒煙に覆われて、
 火焔が至るところに見えながらも市役所付近はどうなっているのかわからない。もう日
 が暮れかけているように薄暗がりになっていた。千田町は焼けないで残っていたので私
 たちは上陸したが、憲兵が非常線を張っていて通行を許されなかった。
 

・この村には十人あまりの原爆病患者がいたが、今では生き残りの軽症の原爆病患者が重
 松を含めて三人いる。その三人とも、栄養と休養に気をつけて病気の進行を喰い止めて
 いるが、休養すると云っても臥たきりでは駄目である。また臥たきりにしていられるも
 のでもない。軽い用使いなどをする他には散歩をするのがいいと医者も云っている。
 しかし外見丈夫そうな一家の主人が、村道をぶらぶら歩くわけにはいかないのである。
 この村では昔から散歩をする者などいた話を聞いたことがない。原則として散歩などと
 いうことはあり得ないのだ。伝統的な風習の上から云ってそうである。
・妻のシゲ子は庭の筵を納屋の土間に取り込んでいたが、戸口のところに来て重松に云っ
 た。 
 「矢須子さんのあの日記、あそこのところ、省略した方がよろしいのじゃないでしょう
 か。あの頃なら、黒い雨のことを人に話しても、毒素があることは誰も知らんので、誤
 解されなんだでしょう。でも、今じゃ毒素があったこと、誰でも知っています。あそこ
 のところを清書して出すと、先方も誤解するんじゃないでしょうか」
・家内の云う通り、黒い雨に打たれた記述の部分は省略するに越したことはない。しかし
 省略して清書した日記を結婚の世話人に渡してから、もし矢須子の日記の現物を見せて
 くれと云いだされたとすればどんなことになるだろう。どうしたものか。これについて
 は考えを保留しておきたいものである。
・重松の「被爆日記」
 僕は朝の出勤で、いつもの通り可部行きの電車に乗るため横川駅の構内に入った。ちょ
 うど発車間際であった。
 発車寸前の電車の左側三メートルぐらいのところに、目もくらむほど強烈な光の球が見
 えた。同時に、真暗闇になって何も見えなくなった。瞬間に黒い幕が何かに包み込まれ
 たようであった。
 「出ろ出ろ」「退け退け」「降りろ」「痛い」「きゃあ」という叫び声、怒鳴る声、悲
 鳴、それと共に、どっと車内から乗客が押し出してきた。
 僕は乗降台からプラットフォームと反対側の線路上に押し飛ばされて、誰か女の人らし
 い柔らかい体の上に被さった。僕の上にも重い人体が被さった。右側にも左側にも人が
 重なり合った。僕に被さっている人を振り落として辛うじて起き上がった。
 B29が落としたのは人間の目をつぶす有毒爆弾であって、しかも電車は直撃されたと
 いうのが僕のその場の自家判断であった。
 やがて、辺りが静かになったので、怖る怖る目を開けてみた。視界に入る何もかも薄茶
 色の靄に霞んでいるように見え、空から胡粉のようなものが降ってきた。プラットフォ
 ームには人が一人もいなかった。今まで、あれほどの騒ぎでありながら、構内には駅員
 の影ひとつ見つからない。 
 

・「閑間さん、顔をどこかで打たれましたね。皮が剥げて色が変わっております。痛いで
 しょう。痛そうです」
 両手で顔を撫でると、左の手がぬらぬらする。両の掌を見ると、左の掌いちめんに青紫
 色の紙縒状のものが着いている。また撫でると、またべっとり付着する。
・僕は顔をぶつけて覚えはなかったので不思議でならなかった。灰か埃が、垢のように縒
 れるのではないかと思った。また撫でようとすると、夫人が僕の手首を抑えた。
 「駄目、撫でちゃいけません。薬をつけるまで、そっとしておきなさい。撫でると、手
 から黴菌が入ります」 
・べつに痛みはなかったが、薄気味悪くて首筋のところがぞくぞくした。左の頬に、何か
 が無数に着いているようで不快な気持ちである。口を大きく開閉して頬の皮膚に動きを
 与えると、ますます何か付着しているような反応がある。夫人が僕の左の手首を掴んで
 放さぬので、そっと右手で左の頬を撫でてみた。掌に、また縒れ縒れの滓が着いた。そ
 れを左手の甲にこすりつけてみると、消しゴムの消し滓のようで、それよりも少しぬら
 ぬらする感触である。五体に悪寒が感じられた。 
・往来の人はずっとまばらになっていたが、さっきよりもひどく怪我をした人ばかりが僕
 らと同じ方角へ辿っていた。右腕を握った左の手の指の間から、どす黒い血を噴出させ、
 滅入るような恰好で道ばたにじっと立っている婦人がいた。僕は直視できなくて顔を反
 らした。
・僕が腹這いになっている身を起こすと、目に映ったのは大きな大きな入道雲であった。
 それは写真で見た関東大震災のときの積乱雲に肌が似て、しかし、この入道雲は太い脚
 を垂らして天空高く伸びあがっている。その頂点をてべして、傘を開きかけの茸型にむ
 くむくと太っていく。
・「あれは、あの下に見えるのは、夕立らしいですのう」
 ふと僕に声をかける者がいた。
 見ると、気の良さそうな中年の婦人と、健康そうな顔の娘である。
 僕は目を凝らして空を見たが、何か粒状のものが密集しているような感じで夕立雲とは
 思われなかった。竜巻かもしれないと思った。今まで見たこともない一種異様なもので
 ある。あれが襲ってきて、もしあの粒に打たれたら、どうなることかと竦む思いがした。
・茸型の雲は、茸よりもクラゲに似た形であった。しかし、クラゲよりもまだ動物的な活
 力があるかのように脚を震わせて、赤、藍、緑と、クラゲの頭の色を変えながら、東南
 に向けてはびこって行く。ぐらぐらと煮えくり返る湯のように、中から中から湧き出し
 ながら、猛り狂って今にも襲いかぶさって来るようである。さながら地獄から来た使者
 ではないか。今までのこの宇宙のなかに、こんな怪しいものを湧き出せる権利を誰が持
 っているのだろうか。
 これでも自分は逃げのびられるのだろうか。これでも家族は助かるだろうか。今、自分
 は家族を助けに帰っていることになるのだろうか。一人避難していることになるのだろ
 うか。足がぐらぐらして歩が運べない。身震いが止まらない。
  
・僕を追い越していく一組の避難者の一人が「落下傘だ、落下傘だ」と叫んで駆け出した
 が、すぐにまたとぼとぼと力のない足どりになった。それは確かに落下傘に違いなかっ
 た。雲の遥か上空に白い落下傘が一つ見えた。それが極めてゆるやかに北へ向けて流れ
 ていた。
・落下傘というものは、日本軍では第一種兵器としているのではなかったか。敵軍のもの
 か日本軍のものか知らないが、妖しい落下傘だと気にしながら歩いていると、突然、
 大音響が轟いた。黒煙の柱が立ちのぼった。線路の上を行く避難者たちは、いっせいに
 走り出した。しかし、すぐまた精も根も尽き果てたというような足どりになった。 
 また一つ爆発音が轟いて、また一つ轟いた。地を震わせる大音響と共に、黒煙の柱を百
 メートル余も噴き上げた。誰かが「油のドラム缶の爆発じゃ、ドラム缶じゃ」と呼ばれ
 ると、みんな足泥を一層のろくした。
・僕は予定通り広島駅へ出るためには、山の方へ行く人たちと斜交いに練兵場の端寄りに
 歩いて行った。むろん、行きずりに見る何千人、何万人とも知れない人たちの風姿様相
 は種々さまざまであった。
 頭から流れる血が、顔から肩へ、背中へ、胸から腹へ伝わって、どす黒い血痕をつけて
 いる者は数知れぬ。まだ出血している者もあるが、どうする気力もないらしい。
 両手をだらりと垂れて、人波に押されるまま、よろめきながら歩いている者。
 目を閉じたまま、人波に押されてふらふらしながら歩いている者
 我が子の手を引いていて、人波に押されて手を放した親爺
 老人を背負った中年の男。病人らしい娘を背負った父親らしい男。
 泣きじゃくりながら両手で眉庇をして行く跣足の女。
 顔、胸、腕が血だらけの女の腋を抱き、引きずるようにして連れて行く中老の男。足を
 運ぶにつれ、女は頭をがくりがくり前後左右に動かして、二人とも、いつ息が絶えると
 も知れぬ様子であった。これも人波で揉みくたにされていた。
 顔じゅう血だらけにした裸の赤児を、後ろ向きにして負ぶい紐で負って、ほとんど裸体
 で歩いて行く若い女。
 

・広島にて戦時下における食生活を以下に記します。
 そのことは統制令のもと、主食品も魚も野菜物も配給売りになっておりました。
 配給の知らせ、またはその他の通達は、町内の掲示板や隣組の回覧板でみんなに行き渡
 る組織になって、ことに回覧板は各種の指令通達の動脈であり毛細血管であるような役
 目を果しておりました。
 配給日には定刻前から配給所の前に人の行列ができました。
 当時は紙幣の価値が下落しておりました。たまたま郊外の農家へ野菜を買いに出かけて
 も、金では売り渋って衣類をよこせば売ってもいいと云うのがありました。ですから統
 制の目をかすめる仲買人や小売人暗躍し、これは蔑称的に闇屋と云われておりました。
 主食の米麦の配給について申しますと、初めのころは一人あたり一日量三合一勺ぐらい
 だったと記憶いたします。まもなく米麦の代わりに大豆が相当多く配給されるようにな
 りまして、次いで外米や因果な大豆のしぼり滓が配給されるようになり、次第に減量さ
 れて大豆のしぼり滓が一日量二合七勺になっておりました。
 その他にも、きわめて粗末な乾パンが、一戸当たり三四グラムぐらいあったこともあり
 ました。うどんは月に三回ないし四回ずつ、一人一玉ぐらいの配給でしたが、その代わ
 り主食の配給を減らされておりました。
 空地には野菜を少し栽培いたしまして「何が何でも、かぼちゃを植えよう」という当局
 の標語に従って、かぼちゃを庭に植えました。茎が伸びますと剪って皮を剥いたのを煮
 つけにして頂ました。
 飯は一日ぶんを朝炊いて、朝飯の残りと夕食にまわす一部を必ず握り飯にして、布目の
 荒い風呂敷に包んで風通しの良いところに吊るして置きました。
 なお、炭も炭団も入手困難のため、私のうちでは冬期防寒のため、平たい石または瓦を
 煮物などするとき竈で焼いて古新聞に包みまして、それを布で巻いて背中に入れました。
 座っているときは股の間に挟み、長椅子に腰をかけているときには足で踏んで暖をとっ
 ておりました。石の熱が次第に薄れて参りますと、古新聞を一枚一枚と取り除いてまだ
 熱のあるところで暖をとり、中身まですっかり冷えてしまいますと、また焼いて使って
 おりました。


・火災のことは気になった。どこがどんな風に燃えていることか、どの方面に燃え拡がっ
 ているのかわからない。自分のうちはどうなっているかわからない。もし千田町が燃え
 ているとしたら、妻のシゲ子は大学のグランドに避難しているはずである。これは万一
 の場合を思って前々から打ち合わせをしていたところである。姪の矢須子は隣組の奥さ
 んたちと古江町へ出かけているから心配ない。
・僕らは被服支廠前から地方専売局の方に向かって歩いて行った。破壊され尽くした屋敷
 街である。 
 人通りは、僕ら二人のほかには一人もなくて、物音のしないなかに瓦を踏み割る音が異
 様に大きく響く。大きな箪笥が一つ、瓦の波の上にころがっていた。その箪笥に一人の
 若い女が湯巻ひとつでよりかかり足を投げ出して、乳房を片方もぎとられていた。死ん
 でいるのかもしれなかった。
・市内の中心部あたりから、ものすごい火焔の竜巻が天を突いていた。大きな大きな火柱
 である。それが市街各所から湧き出る煙と火焔を一つに吸い寄せて、火と煙を混ぜ合っ
 て渦巻きにして見せながら、煙をたなびく雲に変化させている。その横雲を突き抜けて
 いる火焔の竜巻の周囲には、小さい火の塊や、火を噴いている何かが幻のように散らば
 って降っている。家の柱や梁や敷居など、竜巻に巻き上げられたのが燃えながら落ちて
 来ているのだとわかった。
・風向きが変わったとも見えないのに、ときどき火焔が建物の屋根の上を這うことがある。
 火の大きな縄を捻るように燃え延びて行くかと思うと、炎を大波の形にうねらせて行く。
 その炎尖った先で、大きな建物の窓を叩くのだ。
・専売局の正門前まで来ると、川向うのまだ焼けていない家並の間に僕のうちの棟が見え
 た。煙はずっと遠くにしか出ていない。家は残ったのだ。僕は急に力が抜けて、地面に
 坐りこんでしまった。
・僕は御幸橋を中ほどまで渡って気がついた。欄干が一本もない。北側の欄干は橋の上に
 倒れて並んでいるが、南側の欄干は川の中へ吹き飛ばされてしまったらしい。一尺角の
 御影石で高さは四尺ぐらいであったろう。それが一間あまりの間隔で建てられ、頂に倍
 角ほどの笠石が置いてあった。そんな堂々たる欄干が幾十本も立っていたが、みんな吹
 き飛ばされて、吹き倒されている。
・グランドは避難者でごった返していた。その人たちを通りぬけてプールのほとりに行く
 と、向岸に背負袋を負ぶって毛布を膝に乗せて地面に坐っている妻が見つかった。
 かねがね僕は、鞄は人混みのなかでは他人に引っかかるので、避難するときは必ず背負
 袋ということを云い含めて置いた。プールのほとりなら、火に襲われてもすぐ水に飛び
 込める。だからプールのほとりに行けと話して置いたのを、妻は忠実に守っていた。妻
 の膝元には、釜と小鍋が置いてあった。
・松の木の火は消えていたが、電信柱の添木の根元が燃えていた。
 家は十五度ぐらい南南東に傾いて、二階の雨戸や障子は吹き飛ばされて一枚もない。座
 敷へ上がってみると、硝子の破片が一面に散らばって、襖は菱形になっている。どの部
 屋も襖が菱形になっていて動かない。


・それにしても、僕は横川駅の構内で電車のデッキにいたとはいえ、僕の体は光の玉と爆
 風のほかには何も感じなかった。水の中の魚が死んで、大きな御影石の柱が飛び、壁が
 突き抜けるのに、地上の人間が息災であるのは不可解でならなかった。魚は音響に対し
 て人間よりも感度の強い皮膚を持っていることは確かだが、今度の火の玉は、どんな種
 類の爆弾か、どんな科学的作用があったのか、得体が知れぬ不安があった。
・家に引き返して、貼紙にする紙を捜していると、ひょっこりそこへ矢須子が帰って来た。
 シゲ子は障子の破片の散った畳の上にうずくまって泣き出した。矢須子は廊下の框に腰
 かけて、リュックサックも卸さないで、防空頭巾を被ったままぽろぽろと嬉し涙をこぼ
 した。 
・僕は矢須子を娘ぶんとして預かっている以上、この子に万一のことがあっては、シゲ子
 の両親に対して顔向けができないのだ。矢須子を広島へ出て来させたのも僕に責任があ
 る。若い女は田舎にいても都会にいても徴用で軍需工場の女工にされ、ハンマーを振り
 あげたり砲弾を削ったりする労働をさせられる。それで僕が古市工場に勤めているのを
 幸いに、ずるく立ち回って矢須子を工場長の伝達係にするように工作したわけだ。
 
・僕とシゲ子と矢須子の三人で電車通りを帰って来た。負傷者の列は少しも減っていなか
 った。午前中よりも重傷者が幾らか増して、肩の骨が見えはしないかと思われるもの、
 片方の足に添木をして、竹の杖にすがりながら片足でやっと歩くもの、戸板に血まみれ
 の子供の死体を寝かせて運ぶ男と女、髪が血で固まって、顔も肩も手も血だらけで、目
 と歯だけが白い女などが目についた。
 そのつど矢須子が気を奪われて、「おじさん、あの人を見なさい、おばさん、あの人を
 見なさい」と云う。「見世物ではない、どうしようにも、どうしてあげることもできな
 いんだから、黙って歩け。下を見て歩け」と何度も云い聞かせた。
・御幸橋まで戻って来ると、もはや僕のうちの方角には家が一軒もない。煙が地面を撫で
 るように東へ向けて流れていた。宇品に退避していたことは無意味でなかった。余熱を
 避けて、大学のグランドから名のない小橋を渡り、大学の農園に入って自宅の裏手に出
 た。シゲ子と矢須子は黙って後ろからついて来た。
・僕らの家はない。にぶく流れているけむりの向こうに、遠く楠の林が、いつものように
 鬱蒼とした姿を見せていた。  
 「おばさん、今夜はどこへ寝るの」と矢須子が云った。
 シゲ子は答えなかった。
 「会社へ行くよりほか仕方がない。会社へ行けなかったら、川岸かどこかで夜を明かす
 んだ。それよりほか仕方がない」と僕が云った。
・煙に包まれると危険で進めない。もし誤って、焼け落ちた炭火に踏み込んだら大火傷を
 する。「動くな、あぶない」と大声で制止して立止まり、煙が散って行くのを待って、
 見通しをつけると足ばやに歩いて行く。歩く時間より立止まっている時間が長かったか
 もしれなかった。 
・矢須子が「おじさん」と叫んで、何かにつまずいて前のめりになった。煙が散るのを待
 って見ると、その障害物は死んだ赤ん坊を抱きしめた死体であった。僕は先頭に立って、
 黒いものには細心の注意を払いながら進んだ。それでも何回か死人につまずいたり、熱
 いアスファルトに手をついたりした。一度、半焼死体に僕の靴が引っかかって、足の骨
 や腰骨などが三尺四方にも四尺四方にも散ったとき、僕は不覚にも「きゃあっ」と悲鳴
 をあげた。立ちすくんでしまった。
・この熱気のなかに妻と姪を連れ込んだのは、無謀化もしれなかった。逃げ出せる確信は
 なかったが、ときどき向こうから歩いて来る人もあったので、向こうへ行きつけるだろ
 うと半ば自信が持てた。せめて矢須子だけでも逃げのびさせてやりたい気持ちがあった。
 徴用を逃れさせるため、矢須子を広島へ来させたのは僕の浅知恵からしたことだ。矢須
 子のことは、妻と同一視はできないのだ。煙に包まれて立止まると煙と熱気が身にこた
 え、風向きが変わらないと息苦しくしてたまらない。矢須子が息苦しげな金切り声をあ
 げたので、「動くな。動けば火の中へころげるぞ。一寸さきは地獄だぞ。焼け死ぬぞ」
 と僕は怒鳴りつけた。
・鷹野橋までと辿り着くと、そこから北東一帯は早く焼けたので煙が薄らいでいた。双葉
 の山が右手にぼんやり見えた。クラゲ雲はもう見えなかった・
 「おい、助かったぞ。生きられるぞ。生きられるぞ」と僕は、活気づけに声をかけた。
 相手は弱り切っていて返事もしない。二人とも目が血走って、血を噴いたように真赤に
 なっている。しかし休むことはできないので僕は先に立って歩いて行った。
・道に転がる死体は、この辺りでは幾分少なくなっていた。死体の恰好は千差万別だが、
 共通している一点は、俯伏せの姿が多すぎることである。それが八割以上を占めていた。
 ただ一つの例外は、白島停留所の安全地帯のすぐ傍に、仰向けになって両足を引きつけ
 膝を立て、手を斜めに伸ばしている男女であった。身に一糸もまとわず黒こげの死体と
 なって、一升枡に二杯ほどもあろうと思われる脱糞を二人とも尻の下に敷いていた。
 これは他では見られない光景であった。頭髪もその他の毛も焼け失せて、乳房の形状な
 どで男女を区別することができるだけだ。どうしてこんな奇形な姿勢で死んだのか腑に
 落ちぬ。シゲ子と矢須子はその死骸のそばを、脇目もふらずに通りすぎた。
 俯伏せの死人は次から次にまだ目についた。熱気に追われ煙に包まれて、苦しまぎれに
 俯伏せて、そのまま気力を失って窒息死に至ったことは、僕の逃避行の体験を通して考
 えても間違いない。僕らもその寸前のところで彷徨していたのである。


・紙屋町の停留所に辿り着いた。ここは電車の交叉点であるだけに、切れた架線や電線が
 入り乱れて垂れさがり、そのどれかに電流が流れていそうな気がして怖かった。
 僕は道の左の端を行って相生橋から左官町に出ようとしたが、とても余燼の火照が熱く
 て進めそうもない。
 道の真ん中を通るよりほかはない。架線はそこかしこ断たれているから電流が来ている
 はずはないのだが、線が交叉接触しているので電気の怪しさを発揮しそうに思われる。
 ある一本の垂れた線の下に、黒焦げになっている男女の屍が三体あった。僕らも男女の
 三人連れである。
・このあたりは爆弾の投下された地点に近かったので、広島城の西角にも、出前持ちらし
 い青年が岡持ちを掲げて、自転車に乗ったまま石崖に寄りかかって死んでいた。これは、
 きりぎりすのように痩せこけた若者である。
・かねがね僕は防空演習の訓練で、爆弾が落ちて来るときには息を吐き続けているように
 と教えられた。歩哨や出前持ちの青年は、爆弾が炸裂した瞬間に息を吸い込んだのだろ
 うか。生理的なことはわからないが、息を吸い込む極限のとき爆風に当てられると、肺
 臓や心臓を圧迫されて突如死に至るのだろうか。 
・堤防に出る手前のところで小休止していると、巡査部長の佐藤進さんに声をかけられた。
 今日の佐藤さんの話では、最近に及んで敵の攻勢が激しくなったので、日本は本土決戦
 にそなえ、もし本土が敵軍のために分断されても各地方で独立して戦闘が続行できるよ
 うに、地方総監府という地方政府がつくられていた。
・それを聞いて、「戦争はまだこれからだという標語は、それだったんですか」と僕が云
 うと、佐藤さんは「つまり、半世紀以上も前からの、富国強兵の大方針を推進するとい
 うわけですな。しかし、これが富国強兵策の末路と云っちゃ語弊があるのですぞ。僕ら
 は、こうなるように育てられてきたんです。宿命です」と云った。
・堤防に出ると、三條橋は中ほどが無くなっていた。僕は計画を変更して、相生橋を渡る
 ため堤防を川下に向かって行った。右手の堤防下の草むらに無数の死体が転がっていた。
 川の中にも、次から次に流れていた。岸の川端柳の根にかかったのが流れに押され、ぐ
 るりと一回りして、むっくり顔をあげるもの、水に揺さぶられ、あるいは上半身を、あ
 るいは下半身を、ふんわりと水面に現すもの、川端柳の下でぐるりと回り、枝につかま
 ろうとするかのように両手を挙げて、生きているのではないかと思われるものもあった。
・堤防の上の道の真ん中に、一人の女が横に伸びて死んでいるのが遠くから見えた。先に
 立って歩いていた矢須子が「おじさん、おじさん」と後戻りして泣き出した。近づいて
 見ると、三歳くらいの女の児が、死体のワンピースの胸を開いて乳房をいじっている。
 僕らが近寄るので、両の乳をしっかり握り、僕らの方を見て不安そうな顔つきをした。
 どうしてやるすべもないではないか。そう思うよりほかに手がなかった。とにかく女の
 児を驚かさないように、僕は死体の足の方をそっと越え、すたすたと十メートルほど下
 って行った。そこにも四五人の女の死体が草むらの一つところに転がって、その死体に
 はさまれた恰好で五六歳の男の児がうずくまっていた。 
 「おうい、早く来い。勇気を出して、そっと跨いで来るんだ」
 僕が両手をあげて叫ぶと、シゲ子も矢須子も跨いで来た。
・相生橋のたもとに来ると、牛に前びきさせた荷車ひきが、牛と共に電車道にどっかり坐
 ったまま死んでいた。荷車の荷縄が解けて荷物が抜きとられていた。
 ここでも続々と川面を死体が流れ、橋脚に頭を打ちつけて、ぐらりと向きを変える有様
 は二た目と見られるものではなかった。この橋は、真ん中あたりが一メートルなかり突
 起して、その波頭のように高まったところに、金髪の白人青年が俯伏せて、両手で頭を
 抱いて死んでいた。橋の上は変形して波状になっている。
・左官町、空鞘町あたりに来ると、火焔が街をひと舐めしたことがわかる。上半身だけ白
 骨になったもの、片手片足のほかは、みんな白骨になったもの、俯伏せになって膝から
 下が白骨になったもの、両足だけ白骨になったものなど、千差万別の死体が散乱し、異
 様な臭気を発している。嘔吐を催しそうであった。
・稲田のほとりに出た。電車道に出ようとして畦道を行くと、女学生や中学生たちが、そ
 こかしこに倒れて死んでいた。作業場からばらばらと逃げて来たものらしい。一般人も
 倒れていた。  
・竹藪の奥の方から煙が流れて来た。青竹や枝で小屋がけをしている避難者の一団が飯盒
 炊爨をやっていた。焼け出されて夜のねぐらに備えていたらしい。
 僕は耳をすましてその人たちの声を聞いた。それによると国道沿いの人家では、どの家
 でも雨戸を締めて避難者の立ち入りを避けている。可部線の三滝駅の手前のある雑貨屋
 では、いつの間にか避難民の女が入って来て押入の中で死んでいた。雑貨屋の主人がそ
 の死体を引きずり出すと、纏っている着物はその家の娘の夏の晴着であった。ひどいや
 つだとその晴着を剥ぎ取ると、死体は腰巻もパンツもしていなかった。焼け出されて全
 裸でそこまで逃げて来たものの、さすがに若い女のことで水や食物よりも裸形を隠す着
 物をまず狙ったのだ。
 今日のような爆弾は広島以外の市街にも落ちるのだろうか。日本の軍艦や軍隊は何をし
 ているのだろう。内乱にならなければいいなどと話し合っていた。
・国道には避難者がまばらに歩いていた。竹藪の中で立ち聞きした通り、沿道の人家は
 みんな土間口の戸も縁側の雨戸もしめていた。門のある家は門をしめ、なかには扉をし
 めた門の外に半ば焼け焦げになった藁束を置いているものもあった。通行の避難民が焼
 いたのかもわからない。行っても云っても、沿道の人家は戸をしめていた。

・やっと山本駅に辿り着いた。ここから先は電車が動いている。車輛は満員になっていた
 が、どうにか割り込んで行って我々もデッキに立つことができた。
 三十前後の端麗な顔つきの夫人が担いでいる白い布包み、どうも荷物らしくは思われな
 い。そっと手で触ってみると、人間の耳を撫でる手応えを受けた。布包みのなかは子供
 らしいが、こんなおんぶの仕方はない。この人混みのなかでは窒息するにきまっている。
 言語道断である。
 「失礼ですが、奥さん。お子さんですか」
 「そうです。死んでいるんです」
 僕はぎくりとした。
 「爆発のときでした」と婦人は、泣きじゃくりながら云った。「ハンモックの吊手が切
 れまして、壁に叩きつけられて死にました。家が焼けて来るので、蒲団の覆いに包んで
 背負って逃げました。飯森の実家に行って、墓地に埋めてやろうと思います」
 

・車内の人たちの意見を総合すると、閃光が煌いた瞬間にドガンという音がしたという説
 と、ザアとかドワァッという音がしたという説に分けられる。僕としては、ドガンとい
 う音がしたとは云いかねる。ドワァッという音であった。
・爆発地点は大体において丁字橋付近だろう。それを中心に、二キロ以内、またはそれ以
 上に近い圏内にいた人たちは、ドガンという音を聞かなかったようだと云っている。
 四キロも五キロも離れたところにいた人たちも、一様にピカリの閃光を見て数秒後に、
 ドワァッという音を聞いたと云っている。風圧の音か爆発音ではなかったかと思う。こ
 の音と同時に、窓硝子が吹き飛ばされ、家がぐらりと揺れ動いたそうだ。
  

・八月七日 僕は寝床に起き上がろうと思って身を動かしたが、肩や足腰が引きちぎられ
 るように痛かった。疲れのためとはいえ痛さが普通とは違っている。仰向けから横にな
 るのが辛いのだ。
 便所に行って来ると、下腹の痛みが直った。肩や腰の痛みもかなり薄らいだが、歩くと
 足の指が痛くて飛び上がるようだ。

・何かの用事で外出していた守衛が帰って来て、川原のいたるところに火葬の煙が上がっ
 ていると云った。火葬場が立てこんで、順番をまつ余地がないのだそうだ。
・むろん、非常時中の大非常時のこの際である。死亡診断書だの火葬届だの、とても間に
 合うものではない。 
・庶務課の者が帰って来ての話では、死体を川原で焼くのは警察でもやむを得ないと認め
 ている。その理由は、衛生上からそれを選ばしているという点に絞られる。即ち、死人
 があっても死亡届を書いてくれる人がいない。よしんば死亡届ができていても、それを
 受取ってくれるところがない。死体はこの暑さですぐに腐爛する。火葬場は満員で使え
 ない。だから善は急げで、川原だろうが山だろうが人家を離れたところで焼くべきだろ
 う。


・故充田タカの亭主は満州事変で戦病死、たった一人の倅は、山口県柳井町付近の軍関係
 の特殊学校のようなところに入っている。それが如何なる種類の機関であるかタカは日
 ごろ説明を避けていたが、倅がそこに入ることを母親として唯一無二の誇りにしている
 ようであった。
・タカの所有する金はタカの倅に送ってやるのが順当だが、タカの家は焼け失せたとのこ
 とだから、山口県柳井町の近くにいる倅に連絡してみる必要がある。
 「柳井町の近くの学校のようなところというのは人間魚雷を養成するところじゃないの
 かね。軍の機密に属する機関だろう。あそこの兵舎は、何という名前かね」と工場長が
 云った。
 この死人は生前、倅が人間魚雷の学校に志願するのを引き留めなかったのだろうか。
 戦争は人間の判断力を麻痺させてしまう。
・シゲ子と矢須子は、着たきり雀でいるのだから、シャツや下の物を洗って干すまでどう
 するかと、ひそひそ相談をはじめていた。
 川原へ行って身ぐるみ脱いで洗い、乾くまで水泳していればいいのだと教えてやると、
 二人は手拭いを持って出て行った。
・広島に爆弾が落ちてから、がたがたと急に世相が荒れて来たのではないだろうか。
 いつか人から聞いた話だが、大きな戦禍があった地域では、百年たたないと住民の悪ず
 れが払拭されないと昔は云われていたそうだ。それは本当のことだろうか。
   
十一
・シゲ子と矢須子は川原で人から聞いて来た広島市内の様子を話した。洗濯したモンペや
 シャツやパンツを川原に干して、それが乾くのを待つ間じゅう、同じように川の水につ
 かって待っている三人の女から聞いた話だそうだ。
・広島の県立第一中学校の校庭に防火用水池がある。その池のほとりに何百人もの中学生
 や作業奉仕隊員が死んでいる。シャツが焼き切れているから半裸体当然で、互いに重な
 り合って池のぐるりに並んでいる。だが遠くから見ると、池のまわりのチューリップの
 花壇のようである。近づいて見ると、菊の花のように折り重なっている。
 白島神社前の電車通りには、鉄骨の残骸ばかりになった電車の中に、ハンドルを握って
 立った半焼けの運転手がいる。乗客も四五人、昇降台のところで半焼けになっている。
・八月六日の朝、西練兵場で見習士官の一隊が指揮官の訓辞を受け、終わって体操するた
 めにみんな上着を脱いでいると、強烈な光が閃いた。そのとき列の最後尾にいた一人は、
 茂った木の幹に背中を接して立っていた。その見習士官が、広島城の吹き飛ぶ瞬間の有
 様を目にとめた。天守閣はその姿のまま、さっと東南に飛びながら空中に立っていたそ
 うだ。次の瞬間、その見習士官は視界が利かなくなっていた。しかし五層の天守閣が、
 元の位置から四五メートル東南に飛んで、空中で元の姿のままだったことは、確かにこ
 の目で見たと云っていたという。
 後で現場を見た人の話では、天守閣は裏の川堤にぐしゃぐしゃに崩れ、土や瓦の破片の
 堆積に変じていたそうだ。爆弾が破裂して発する風圧は、作用と反作用を持っているら
 しい。天守閣は何千トンの重さがあったかもしれないが、地中の引力よりも強い力で動
 かされたので、そのままの姿で空中を飛んだのだろう。
・広島市にピカドンが落ちると、郡部各町村からいち早く救護部隊が繰り出された。双見
 郡三次町もそのうちの一つだが、これは徴用で広島市に来ていた三次高女の生徒や三次
 町方面出身の徴用者を救出するのが目的であった。三次高女の三年生以上の生徒の一部
 は陸軍病院の看護婦補助員として広島市に動員され、一部は飛行機制作工務員補助員と
 して呉市の十一空廠に分配動員されていた。三次町の救護部隊は約百名、七日の朝早く
 広島市に入ったが、火に取り囲まれて大半が焼け死んだ。救護部隊第一班の班長で三次
 高女専攻科の教授である田淵実夫という人も、市外の祇園町まで逃げて卒倒した、むろ
 ん、被爆した三次高女の生徒はみんな即死したそうだ。
・田淵さんの話では、八月六日の朝、出勤前に新聞を見ていると、空に淡いスパークが走
 ったような気がした。錯覚ではないかと思ったが、正午ごろ軍の報道がラジオを通じて
 広島が爆撃されたと伝えた。午後三時ごろになると、広島から脱出した負傷者たちが汽
 車で三次町に運ばれて来た。
 三次駅(当時の備後十日市駅)前には、双三郡医師会と三次町消防団で天幕が張られ、
 負傷者に応急手当が施された。
 午後五時ごろ、郡医師会、三次中学、三次高女の職員、消防団員、町村有志が協議の上、
 救援隊を動員することになった。田淵さんは第一班の班長に選ばれて、三次高女教員、
 町村有志等八十名を引率し、七日の朝五時ごろ汽車に乗って下深川に到り、そこから徒
 歩で広島に入った。午前十時半ごろであった。広島の惨状には仰天したが、どんな爆弾
 が落ちたのかまだ知らなかった。あまりのことにうつけのようになって、ただ現状を現
 状のまま受け取るよりほかはなかった。
 広島付近から、稲荷町、紙屋町、大手町、千田町を歩きまわり、火災のあとの熱気と屍
 臭、瀕死者の絶叫に追い立てられ、水筒の水さえすぐになくなって、救援どころか焼跡
 を逃げまわっていたようなものであった。
 かれこれ二時間ぐらい歩きまわっているうちに、隊員ははぐれて二人の連れしかいない
 ことに気がついた。三次高女の教え子は一人も見つけることができなかった。
・後で判明したが、徴用で広島に行っていた三次高女の生徒は全員死亡、三次方面出身の
 者で被爆したものは九割が即死または年内死を遂げた。田淵さんは結局二時間あまり焼
 跡を迷い歩いたことになるが、現在のところ軽い原爆症に冒されているそうだ。
・三次町の場合は、山を隔てているので広島のクラゲ雲は見えなかったろう。三原市は広
 島市から三十里だが、西の山が低いので見えたそうだ。
・広島市内の国泰寺の墓地には、台石と塔身の間に三寸角ぐらいの煉瓦のかけらを噛んで
 いる墓がある。直径三尺五寸ぐらいの筒型の塔身だが、爆風の作用で持ち上がった瞬間、
 煉瓦のかけらが吹き飛ばされて来て挟まったのだろう。すべすべに磨きをかけてある御
 影石の墓は、閃光に当たった面だけざらざらに焼け爛れ、光の当たらなかった方は元の
 まま滑らかになっている。御影石でもそんな具合に焼けている。閃光を浴びた屋根瓦な
 どに至っては、小豆色に変色しているばかりではなく、泡を吹いたように表面にぶつぶ
 つができている。古伊郡の茶入の灰釉のような趣になっている。
・寺町のお寺の焼跡に「猫屋町死体収容所」と木炭で書いた挽割板が立ててあった。そこ
 の土塀の内側を見ると、圧死体と思われるもの、半焼けのもの、白骨などが、土塀の隅
 に六尺あまりの高さにして積みあげてある。土塀が崩れ落ちているのだから、見まいと
 しても眼をあけている限り視界に入って来る。その死体の山を真黒にみせるほど蠅が群
 がって、風のせいか何か知らないが「わあん」という声を立てて飛びたって、すぐまた
 死体へ群がって行った。同時に、息づまるような、または嚔を催させるような刺激的な
 臭気が襲ってきた。僕は息をひそめて小走りに逃げた。次に、並足になって手拭いて鼻
 を覆って歩いたが、臭気がまだ追いかけて来て頭がぐらつくようであった。
・橋のたもとのところに、人が仰向けに倒れて大手をひろげていた。顔が黒く変色してい
 るにもかかわらず、時折頬を膨らませて大きく息をしているように見える。目蓋も動か
 しているようだ。僕は自分の目を疑った。荷物を欄干に載せかけて、怖る怖るその屍に
 近づいて見ると、口や鼻から蛆虫がぽろぽろ転がり落ちている。眼球にもどっさりたか
 っている。蛆が動きまわるので、目蓋が動いているように見えるのだ。  
・紙屋町の近くまで行くと、マスクをした兵隊らしい男たちが三四箇所に別れて火を焚い
 ていた。近づいて見ると、六尺四方ぐらいの穴ぼこに、鉄道の古枕木を入れて燃やしな
 がら、運んできた死体を投げ込んで焼いている。枕木の燃えるぱちぱちという音は、炎
 天のもと焚に一層の凄みを出している。死体の胴から出る焔は藍白色で細めだが、周囲
 の赤い強力な焔に巻き込まれて高く立ちのぼっていた。
・兵隊たちは次から次へと戸板やトタン板で死体を運んできて、顔を背けてぽんと穴の中
 に放り込む。それからまた黙々としてどこかへ去って行く。兵隊はトタン板の四つの角
 をぐるぐるに曲げて持っている。上官からの命令で動いているのだろうが、どんな感慨
 を催しているものか、その表情ではわからない。重圧感のある兵隊靴だけが感情を表に
 出しているようだ。穴ぼこに死体が多すぎて焔が下火になると、穴のほとりへどしりと
 死人が転がって行く。その弾みに、死体の口から蛆のかたまりが腐爛汁と共に、どろり
 と流れ出るものがある。穴のそばにちかづけすぎた死体からは、焚火の熱気に堪えきれ
 ぬ蛆が前身からうようよ這い出して来る。なかには転がした弾みに、関節部に異変が起
 きたものがある。
・「この屍、どうにも手に負えなんだのう」
 トタン板をかついて来た先棒の兵がそう云うと、
 「わしらは、国家のない国に生まれたかったのう」
 と相棒が云った。
 
十二
・ユーカリの葉は蚊取線香の代用品である。これを掩蓋式の防空壕の中で燻べると、昼間
 でも猖獗を極めている藪蚊を追い散らすのに役に立つ。焼跡の掛小屋に住んでいる人た
 ちは、昼間は防空壕の奥まったところで手洗の用をたしている。蚊の襲来がひどいので、
 日が暮れるのを待ちかねることがあるそうだ。
 
十三
・広島市内の長寿園は以前の川岸公園である。去年の夏ごろから空地利用の国策にしたが
 って、ほとんど全面的に畑に仕立てられ、茄子や胡瓜やトマトやズイキ芋など植えてあ
 った。空襲の際、このあたりにいた人たちは、勤労作業していた第一高女、市立高女の
 生徒などを含めて全滅したと云われている。
・二人の義兄は郷里の人たちに驚きようを、ぽつりぽつりと話だした。
 広島に高性能特殊爆弾という非常に強力な爆弾が落ち、兵隊や勤労奉仕隊のものも含め
 て全市民の三分の一が一瞬の間に死んでしまった。残りの三分の一は重傷で、あとの三
 分の一も傷を負わないものは一人もいない。家は一見残らず焼けてしまった。これは決
 して流言蜚語でなくて真相である。そういう情報が人の口伝てに六日の夕方ごろから小
 畠村へ入り、七日八日と次々に伝わって来る。その噂は、最初の情報よりもずっと深刻
 である。広島での負傷者は次から次へと近隣の村々へ帰って来る。家に辿り着くとすぐ
 死ぬものもある。七転八倒の苦しみをするものもある。広瀬村には神戸から疎開して来
 た小児科専門の医学博士がいるが、診察に来ても「病名不明の病気、或いは治療法のな
 い病気としか診断できない」と云った。火傷の手当には塗薬を与え、猛烈な苦痛を訴え
 る患者にはパントポンの注射をしていたが、博士はパントポンのアンプルを一ダースし
 か確保していなかったので、何人もの患者だから一日で薬品不足になってしまった。
・福山城も空襲されたそうだ。五層の天守閣は、三層目の窓から焼夷弾が入って燃え上り、
 大きな火柱をあげて崩れ落ちた。京都の伏見城から移してきた淀君の湯殿櫓も焼け、そ
 れに続く涼櫓も月見櫓も焼け、石崖も白っぽく焼けただれている。残ったのは伏見櫓と
 いう三層の櫓と、くろがね御門という城門だけである。
 「味方の高射砲陣地は、お城にもあるし、蘆田川の鉄橋のわきにもあるんですがね。そ
 れでいて、敵機が上空に乱舞しても、こちらは一発も弾丸を撃たないんです。実際、
 B29がどんなに低く飛んで来ても、一発も撃たなかったな。静かなること林のごとく
 でした。動かざること山のごとくでした。とにかく、能ある鷹は爪を隠すと云いますか
 らね」
 皮肉か軍人びいきか知らないが、その立ちん坊のような男はそう云った。
・広島市は陸軍の町、呉市は海軍の町と云われるが、呉は六月二十二日に空襲を受けて、
 七月一日には焼夷弾の大空襲を受け、平坦部の街があらかた焼けてしまった。
 七月二十四にも空襲された。このときには、島かげかどこかに隠れていた日本の戦艦が、
 重油不足のため艦を定着させたまま高射砲で応戦した。重油代わりにするらしい松根油
 の製産が間に合わなくて、せっかくの戦闘力を持ちながら停泊したきりになっていたそ
 うだ。七月二十四日には、敵機は宇品の上空にも来て爆弾を落とした。その次が、得体
 の知れぬ爆弾を落とした八月六日の広島の空襲である。全市街を焦土にした。
・こんな怖るべき爆弾がこの世にあろうとは、我々は話に聞いたこともなく思ってもみた
 ことがない。たいていの人がそうであろう。子供は正直だからその素振りを見ればいい。
 被爆でほとんど全滅した勤労奉仕の中学生たちは、八月五日の日まで毎日のように家屋
 疎開の作業を手伝っていた。どの顔を見ても、ずらかったり逃げ隠れしたりするような
 色は見せていなかった。勤労奉仕の女学生たちは白鉢巻をして「学徒挺身隊」の腕章を
 巻き、往きも帰りも「動員学徒の歌」を合唱しながら団体行進で製鋼所へ通っていた。
 製鋼所でこの女学生たちは、旋盤工として高射砲の玉を削っていた。二交代制で、遅い
 組は夜の十時まで玉を削っていたそうだ。
   
十四
・玄関の石段のところには、端の方に小さく二人の女が腰かけてしきりに話し込んでいた。
 話の具合では、一人はこの病院に収容されている被爆患者の女房である。
 それによると、ソ連軍の大部隊がソ満国境を突破して怒涛のように満州国になだれこん
 でいる。
 これに対して満州駐屯の日本軍は、B29が広島に落としたのと同じようなピカドンを
 ソ連軍に落とすことに意を決した。米軍の占領している南方諸島にも、その爆弾を落と
 すことにしたらしい。報復攻撃というのをするわけで、現在、竹原市の沖にある島で密
 かにピカドンを製造しているということだ。日本には陸軍のほかに、無敵海軍があると
 を敵に思い知らせなくてはいけないのだ。
 
十五
・僕は幼馴染の藤田テイ子さんから、福山近郊における戦時下の風潮についていろいろの
 話を聞かされた。いろんな情報も聞かされた。旅館のお客たちからそういう内容の話を
 聞かされるのだ。
 あるお客さんの話では、ビルマ戦線でイギリス兵が搭乗しているアメリカ製の中戦車が
 日本軍の中戦車を撃つと弾丸が貫通し、日本軍の戦車が撃った弾丸は敵戦車の塗装を落
 とすだけだ。「処置ないです。もしも、あんな戦車が英軍のマレー戦線に二台でも間に
 合ったとしたら、日本軍はどうなっていたろうか」と、そのお客が云ったそうだ。これ
 はもし本当だとしても歴然たる流言蜚語である。
・足の痛みを防ぐには三里に灸をすえると云われている。シゲ子や矢須子はもちろんのこ
 と、僕も三里とはどこだか正確なことを知らないので、シゲ子が家主の隠居さんに聞い
 て来て、「三里というのは、膝頭の下の外側の凹んだところ。ここだそうです」
 そう云いざま、モンペをはいていない裾を必要以上にまくって見せた。あられもない姿
 に見えた。
 ふと僕は、昨日収容所で保さんが云っていたことを思い出した。ピカドンの被爆者たち
 は軽傷の者でも一様に性的関心が無くなっていると云っていた。僕は被爆者としても片
 頬に火傷しているに過ぎないが、いま性的関心を持ったろうかどうだろうと顧みた。結
 果は、自分もピカドンの毒気を受けているのではないかという不安に行き当たった。
・小畠村の保健所には八月六日の夜、所長宛て「被害雄々し、すぐ来い」という電報が来
 た。所長の佐竹博士が出発すると、次に医務課長の加納さんに、神石郡内の保健婦を連
 れてすぐ救護に出広せよと電話命令があった。加納さんは郡内の保健婦十二名を連れて
 八月十日に徒歩で出発したが、水害のため福塩線の上下駅から乗車できなくて、三次町
 まで歩いて行って一泊した。翌朝、汽車で矢賀町まで行って市内に入り、救護本部に着
 いた。救護本部は陸粉被服支廠構内にある煉瓦づくりの倉庫内の一隅に移されて、保健
 婦たちは主に負傷者の治療に当たった。
 加納さんは事務長に命じられた。患者は言葉通り殺到して来たが、発熱下痢する被爆病
 の治療法は、所長にも他の医者にもわからない。ただ栄養剤を与えるのは悪くないとい
 う判断のもとに、加納さんの連れて行った保健婦たちは、出動のときに携行したビタミ
 ン剤や葡萄糖の注射薬を使った。それがすっかりになった十何日目かに、上司の命令で
 余所の郡から薬を持って来た保健婦たちと交代して引き揚げた。加納さんも解放されて
 村に帰った。
・帰郷後の保健婦たちは、なかには被爆患者と同じように下痢したり、少しは頭髪が抜け
 たりするようになる者がいた。しかし治療法もなければ薬もない。何としたものかと狼
 狽えまわり、その挙句、お灸で気休めをしているのもある。白血球を減らさないように
 するために、太陽に照らされるのをなるべく避けて、トマトをしきりに食べているのも
 ある。鉢植えのアロエの葉を食うものもある。藁にもすがりたい気持ちは僕にもわかる。
・保健婦たちと違って焼跡を歩きまわった救護班員は、高蓋村では二十一人のうち現地で
 一人死んで、帰って来て原爆病で十一人が死んだ。焼跡を歩きまわったというだけでこ
 の有様だ。来見村では十六人のうち、十五人が死んで一人生きている。仙養村では全部
 のものが亡くなった。 
・先日まで姪の矢須子の縁談が加速度的にはかどりかけていたが、不意に先方から断って
 来て、おまけに矢須子が原爆症の症状を現し始めた。事ここに及んでは隠し通せるもの
 でもなく、隠して置く必要もなくなった。矢須子は先方宛て、自分にその症状が現れは
 じめたことを泣きの涙の手紙で知らせたらしい。先方に対する愛情から打ちあける決心
 をしたのだろうか。絶望感から衝動的にそれをしたのだろうか。
・矢須子は次第に視力が弱ってきて、絶えず耳鳴りがするようになったと云っている。
 はじめ僕は茶の間でそれを打ち明けられたとき、瞬間、茶の間そのものが消えて青空に
 大きなクラゲ雲が出たのを見た。はっきりとそれを見た。
 
十六
・矢須子の病気は急速に悪くなって行った。原因は、初めのうち重松夫婦が矢須子の挙措
 について迂闊であったことと、矢須子が重松夫婦に対して遠慮しすぎたことになる。先
 方から話を断ってくる前だから、ちょうど婚約がまとまりかけて、嬉しさ恥ずかしさで
 血の道が起こったようになっていたこともあり、女同士のシゲ子に打ち明けることさえ
 もはばかっていた。こっそり医者の診察を受けることもしなかった。みんな後になって
 わかった話である。シゲ子が小畠村の合同病院へ矢須子を連れて行き、初めて診察を受
 けさせたときには容易ならぬ症状になっていた。いくら繰り返して云っても云い足りな
 いが、矢須子は重松夫婦に遠慮しすぎたのだ。婚約がまとまりかけていたとは云え、恥
 ずかしがるにも程がある。
・重松はABCCというものの存在を知らなかった。終戦の年の秋ごろアメリカ進駐軍の
 調査班が東京大学の医者と一緒に広島の焼跡に来て、その任務遂行にあたっているうち
 に発展して行って調査委員会ができた。
 これが米国原子爆弾災害調査委員会、つまりABCCと云うもので、原爆被害者を対象
 に遠大な理想をもって研究調査している施設である。しかしABCCは被爆患者の発症
 経緯は調査するが、患者の治療をしてくれる施設ではないそうだ・
 
十七
・看病疲れのためシゲ子が立ちくらみするようになったので、入院中の矢須子には付添婦
 をつけて、重松が奇数の日に病院へ見舞に行くことにした。偶数の日には、矢須子の実
 父が見舞に出かけていた。シゲ子は心臓に障害をきたしている。
・八月中旬になると、矢須子の容態は素人目にもほとんど絶望的になってきた。耳鳴りが
 すると云うし、食欲もなく、頭の毛を梳くとかなりの脱毛が認められ、歯茎の発赤腫瘍
 が顕著になった。 
・付添婦の話では、矢須子は一日に一回必ず激痛に襲われ、このときばかりは苦しくてた
 まらなくなるらしい。七転八倒の苦しみをする。からだ全体が疼痛の塊のようになるの
 である。主に夜ふけてこの発作が起るそうだ。矢須子は痛々しく痩せ細り、かさかさの
 唇は皮膚と同じく蒼白で爪は土色である。
 門歯はいつの間にか欠けて無くなっているが根は残っている。数日前までは、ぐらぐら
 と根ごと揺れていたにもかかわらず、中途からぽろりと折れたらしい。腫れた歯茎から
 堪えず血が滲み出て、硼酸でうがいしたぐらいでは血が止まらない。口をつぐんでしば
 らくすると、唇の合せ目に赤い糸のような細い筋が浮いてくる。
 お尻にまた新しい腫物が二つ殖え、それが隣り合って瓢型にはびこりかけている。今ま
 での六つ古い腫物はみんな切開手術され、しかし傷口が治癒しないで肉が赤く盛り上が
 って水瓜が敗れたようになっている。その周囲の皮膚は青黒く腐色を帯びている。
・矢須子が原爆症にかかったのは、黒い雨に打たれたためばかりでなく、まだ熱気のある
 焼跡の灰のなかを歩きまわったためもあるだろう。相生橋から左官町に出る途中、匍匐
 前進するとき矢須子は左の肘を擦りむいた。その傷も死の灰の作用を受けなかったとは
 思われない。 
 
・広島彼被爆軍医予備員・岩竹博の手記
 八月六日、朝六時半ごろ空襲警報が出て、B29二機か三機が一弾も落とさず南に去っ
 た。こんなのは今までにたびたび経験したことで珍しくなかった。七時すぎに警報解除
 となって、警報中の七時五十分、病院長以下、軍医、衛生兵、予備員など、全員が営庭
 に整列して東方を遥拝し、勅論発布記念日として奉読式が行われた。
 式が終わると、次に副官が訓辞を始めたが、そこへB29が爆弾を落とした。 
 聞きなれたB29一機の爆音が聞こえた。南から来て真上に来たなと、思わず空を見上
 げた途端、繋留気球のようなものが、ふわりと落ちて来るのを兵舎の屋根越しに認めた。
 次の瞬間、稲妻のような白い光、あるいは大量のマグネシウムを一時に燃やしたような
 閃光を感じ、体中に強烈な灼熱感を覚えた。同時に、物凄い地響きを聞いたまでは覚え
 ている。その後どんなになったか、どのくらい時間が経過したのはわからない。生気を
 取り戻したのは、軍靴で私の首と肩を踏台にして誰かが動き出したためである。
 私の軍服も右半分は煙を出しながら燻り、右の懐中にあった財布も、左腕のロンジンも
 眼鏡も失わわれていた。ようやくにして軍服の火を揉み消した。右手背は皮膚が灰白色
 にべろりと剥げて、
 赤肌に黒い土が一面についていた。顔全体も灼熱感が強く、左手背と指は剥げてはいな
 いが焼きごてを当てたように白くなっている。腰から下は歩いても痛くはない。木材で
 打ったのか背中が馬鹿に痛い。
 空襲警報で兵営の倉庫から持出した毛布を野積みにしてあったので、勝手にそれを一枚
 とってぐったり坐り込んだ。緊張が一時にほぐれ、気抜けがして呆然となった。人数は
 五六人になってが、この出来事に対して適切な判断を下す人がいなかった。狐につまま
 れたようなものだ。凄い破壊力である。私は兵舎が至近弾でやられたものと判断したが、
 気が落ち着くにつれて対岸の家並みも無くなっていることに気がついた。
 爆弾と焼夷弾が同時に落ちたにしては、空襲警報発令中のことでもなかったし不思議で
 ならぬ。予備員の同僚も三四人どこからともなく集まってきた。
 みんな口もきけそうにない。前列にいた人たちのうちには、家の下敷きになって出られ
 ない者もたくさんいるに違いない。いかんせん負傷した体で、しかも素手で、すでに火
 を噴いている倒壊家屋の下から救助することは不可能である。誰云うともなく、ここは
 危険だからというので三滝分院に避難することになった。
・岩竹さんのいた兵営は爆心地に近いところにあった関係で、たまたま茸雲の真下から見
 る位置をとりながら逃げていたのではなかろうか。だから「雲った空」と簡単に書いて
 いるのだろう。それにしても大火傷をした身で逃げきって、よくも命びろいしたものだ。
 隊員百三十何名のうち、生き残った三人のなかの一人である。
・毛布を頭に載せて胸のあたりまで水に浸かりながら中の洲に着いた。そのとき三滝の方
 には、湧きあがる黒煙のなかに火焔がちらちら見えていた。三滝も駄目だと云うので、
 気を取り直して上流に川岸に上がった。
・幾台もの軍用トラックが忙しげに広島方面に向かっていた。その一台のトラックの運転
 兵が、へたばっている岩竹さんを見て、
 「この山の北側に戸坂というところがある。収容所の準備をしているから、元気をだせ。
 医療品もどっさりあるそうだ。すぐこの山の北側だ」と怒鳴って通り過ぎた。
・戸坂では国民学校が収容所に当てられて、別に救護所というようなものはなかった。
 校舎にも天幕にもたくさんの負傷者が詰めかけて、もう日が暮れかけているのに長蛇の
 列をつくって順番を待っていた。廊下には、倒れたきりで呻き声を出している者もあり、
 せっかくここまで来ながら息絶えて布きれを顔に被せられているものもある。子供の名
 を呼んだり母親の名を呼んだりしているものもある。
 しかも治療と云っては、マーキュロクロームを塗る役と、チンク油に代用にメリケン粉
 を油で溶かしたのを塗る役の者がいるだけで、繃帯の材料もなければ注射もない様子で
 ある。
  
十八
・八月八日の朝、突然に発表があった。患者の員数が多すぎるため、この仮収容所では手
 が届きかねるによって、備後の北部にある庄原の陸軍病院分院に一部患者を転送する。
 ついては、事故の体力において汽車に乗り得る自信のある者は申し出るように、そうい
 う内容であった。
・岩竹さんは庄原へ辿りつくまで生きていたいと思った。仮に最悪のことになったとして
 も、汽車のなかで息を引き取りたくないものだと思った。なぜかと云うに、庄原は岩竹
 さんの生まれ故郷である。
・備後十日市駅(今の三次駅)に停車した。三次は私(岩竹)の出身中学のある町だ。
 窓のすぐ近く、ホームに立っている見覚えのある少女が目についた。思わず「あっ」と
 声に出した。庄原の伯母のところで幼いときから育てていた子供である。先方は私の変
 わりはてた姿を見てわかる筈もなかったが、私が声をかけたのでやっと気がついた。
 聞けば、女学校を卒業して勤労動員で駅に出ていたそうだ。私は身も心もまさしく敗残
 兵である自分の立場をかいつまんで話した。すると彼女は直ちに駅の電話で庄原駅に連
 絡し、庄原と備後十日市の駅長の許可を得て同乗同行してくれた。それにしてもまった
 く奇遇である。おかげで親類縁者に早く連絡がつくこととなったので、どのくらい心強
 かったかわからない。庄原駅に着くと、親類のうちの少女は私の伯母のうちへ連絡しに
 行った。 
・岩竹さんの負傷はほとんど全部が火傷によるもので、頭、顔、くび、背中、双方の上膊
 部、手背、手首、手指のほか、耳朶にも火傷を受けていた。手首は皮膚が剥げ、背中は
 牛肉のようになって肋骨が見えそうになっていたそうだ。
・この日の午後、不意に「おい、岩竹軍医予備員はどこか、岩竹はどこか」と云う声を聞
 いた。つづいて「岩竹、おりませんか。岩竹、おりませんか」と金切声を出す女の声を
 聞いた。これは妻の声だと分かった。 
・岩竹の妻の回想録
 主人は被爆してから十日間ぐらい便秘しておりました。おしっこも少しずつしか出なく
 なっておりました。あれは透過光線と云うのだそうで、体の外側ばかりでなくて内臓に
 も作用することがわかりました。主人の場合は膀胱の内側の粘膜がすっかり剥げて、そ
 の粘膜が尿道かどこかに詰まって、おしっこが出なくなりました。ちょうど、竹の筒を
 割ると中に竹紙がありますね。あんな大きなものではないのですが、膀胱の内側のあの
 ような皮が剥げて、おしっこが詰まります。原爆の透過光線のために粘膜が剥離するわ
 けです。被爆後三週間くらいたってからではないかと思います。でも、下腹に力を入れ
 て、おしっこが膀胱から尿道に出るとき、括約筋あたりを上から押しだせば出るのです。
 両手で力を入れて下腹を押せばいいのです。主人はそのたびにコップに入れて検査して、
 どのくらい竹紙のようなものが出たか私に見せておりました。かなり出ておりました。
 それは膀胱だけのことではないでしょう。胃でも腸でも肝臓でも、あらゆる器官が大な
 り小なり影響を受けますでしょう。歯と歯ぐきの接触面も影響を受けますでしょう。で
 すから、歯がぐらぐらして来るのではないでしょうか。人によっては血便が出たとも云
 い、下痢に悩んだということも聞きました。主人は便秘でした。
 あのころ、私どもの甥は広島一中の一年生でございました。私が広島へ行ったのは、主
 人と甥の安否を尋ねるためでしたが、広島について駅前の天幕のなかで兵隊さんに聞き
 まして、広島一中の生徒は全滅したことがわかりました。私は胸が引き裂ける思いでし
 た。
 それにしましても、老いは無残な最期を遂げました。広島空襲があった翌日ごろ、湯田
 村から出発した特設救護班は、広島一中の焼跡を片付けたそうですが、その人たちが細
 川のところへ様子を知らせてくださったという話です。私どもの甥は勤労作業に行って
 いましたが、一人だけ教室に坐ったままの姿で焼け死んでいたということです。閃光で
 やられましたのでしょう。
・「広島被爆軍医予備員・岩竹博の手記」を総合すると、原爆病の適当な治療法はまだ発
 見されていないらしい。ただ岩竹の選んだ処置は、輸血とビタミンCの大量補給と桃と
 生卵を食べることであった。それから、もう一つ云い得ることは、怠けるという言葉の
 善悪は別として、怠けるのも悪くないことであるらしい。労働には白血球が必要だから、
 それが欠乏して来ると抵抗力が減退して過重な負担がかかってくる。だから怠けるに限
 るといっては人聞きがよくないが、達観することにきめたと云いなおしてはどうだろう。
 それから旺盛な闘病精神と。

十九
・重松は岩竹さんの手記を読んで、何をおいても矢須子に気力を失わせてはいけないと思
 った。必ず生きるという自信を持たせなくてはいけないのだ。一日ごとに衰弱していく
 うえに治療法がないのだから、食餌と気力で生きてもらうよりほかはない。今が瀬戸際
 だ。
・妻のシゲ子の話では、矢須子は九一色病院へ入院する日に、小畠村の医者のところを午
 前中に二軒も回って診察を受けていた。むろん、二軒ともで薬をもらっているが、その
 薬にはどちらにも手をつけないで溝に棄てている。坂下の雑貨屋の小母はんがその薬袋
 に書いてある名前と日付を見て、それから中身も調べ、矢須子が一つも手をつけずに棄
 てたに違いないとシゲ子に云ったそうだ。矢須子がどんなに迷いぬいているかわかるの
 だ。岩竹さんの旺盛な闘病精神をお手本にさせなくてはならぬ。
・シゲ子は矢須子の病状を詳しく話した。矢須子は夕食後に時間あまりたって、院長から
 輸血とリンゲルの注射をしてもらい。すやすや眠ったということだ。
・八月十三日 広島行の電車に乗った。車中、僕の隣の座席にいた中年の男は情報に通じ
 ていた。その人の話では、ソ連軍がソ満国境を突破したばかりでなく、怒涛のごとく南
 下して満鮮国境も突破したとのこと。ソ連も同じような爆弾を持っているかもしれない
 とのこと。米軍が日本の本土を占領すると、日本人の男はみんな去勢されるかもしれな
 いとのこと。ピカドン以後、広島へ来ていた丈夫な者が死ぬようになったのは、ピカド
 ン爆弾に毒ガスが仕込まれてあったためである。落下傘の一つに毒ガス、一つに爆弾が
 仕込まれていたという話は真相であるとのこと。ピカドン以前には広島市内に百九十名
 あまりの医者がいたが、このうち百に十名あまり死亡したとのこと。
・「ピカドンは、原子爆弾というのが正しいそうだ。ものすごい輻射エネルギーを発する
 らしいな。僕も焼跡を見たが、焼け落ちた棟瓦に泡粒が立っていた。瓦の色も、焔の舌
 のように赤くなっているね。すごいものができたもんだ。今後七十五年間、広島と長崎
 には草も生えぬそうだ」
 と工場長が云った。
・ピカドンの名称は、初めが新兵器で、次に新型爆弾、秘密兵器、新型特殊爆弾、強性能
 特殊爆弾という順に変わり、今日に至って僕は原子爆弾と呼ぶことを知った。しかし今
 後七十五年間も草が生えぬというのは嘘だろう。僕は焼跡で徒長している草を随所に見
 た。 

二十
・「明日の正午を期して重大放送があるとラジオで云うのでね。みんなで憶測していると
 ころだよ」
 と工場長が云った。
 僕は舌の先が微かにしびれるのを覚えた。どんな重大放送か見当がつかなかったが、講
 和か降伏か休戦か、そのいずれかであるだろうと思った。本土決戦はもう以前から云い
 古されている。
・今日も敵機群がこの上空を悠々と通っていたが、爆撃もしなかったし味方も砲撃もしな
 かった。ここ一二日は様子が違う。中央の為政者はもう敵と話をつけて、一般への公表
 が明日の正午だと云うのだろう。
 それにしても、敵機が我が物顔に飛んで睨みを利かして回っているのだから、講和や休
 戦は考えられない。残るは降伏だけということになる。そうだとすると日本軍が外地の
 占領地区で工作したように、敵軍は本土上陸して江湾を占領し、日本軍の武装解除をす
 るだろうか。それとも、ソ連に対して宣戦布告をするという重大放送だろうか。そうな
 ると世界中の国を敵にすることになる。外地に出征している日本兵はどうなるか。一般
 国民はどうなるか。今日までは、現在以上の悪い暮らしはないと思っていたが、国が滅
 亡するのだとなると我々にも覚悟がある。しかし、どんな覚悟かまだ自分でもわからな
 い。敵には武力がある。日本人の男はみんな去勢されるのではなかろうか。それにして
 もピカドンが落ちる前に降伏することはできなかったか。いや、ピカドンが落ちたから
 降伏することになったのだ。しかし、もう負けていることは敵にもわかっていた筈だ。
 ピカドンを落とす必要はなかったろう。