恋の螢 山崎富栄と太宰治 :松本侑子

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この本は、今から13年前の2009年に刊行されたものだ。
山崎富栄という女性は、太宰治と一緒に玉川上水に身を投じて心中した女性である。
彼女は、美容業界では、もし太宰治と出会うことがなかったら、歴史に名を残すかもしれ
ないほどの技能を習得していた女性であったようだ。
しかし、太宰治と出会うことで、彼女の人生の歯車がすっかり狂ってしまった。二十八歳
という若さで命を絶つことになってしまったばかりでなく、死後も謂れのない誹謗中傷を
受け続けたようだ。
山崎富栄は、太宰治と出会うまでは、太宰の作品はまったく読んだことはなかったようだ。
しかし、太宰の作品をひとつ読んで、「このひとは天才だ」と衝撃を受け、太宰に魅了さ
れていったという。
戦後間もない、今日のように男女の恋愛がまだ一般的ではなかった時代、恋に対する純粋
さゆえに、一途に、不器用なまでにひたむきに、富栄は太宰を愛した。
富栄自身は、太宰治が妻子持ちであり、道ならぬ恋であることは、自覚していたようだ。
また、編集者など周囲の人から陰で太宰の”愛人”と思われていることも自覚していたよう
だ。それでも、太宰に心が傾いていくのが止められなかったようだ。
死後、富栄は、「知能も低く、これという魅力のない女だった」「酒場の女」、挙げ句の
果てには、「太宰の首を絞めて殺した」などといった、謂れのない誹謗中傷に晒され続け
た。これは、当時の人気作家だった太宰を失った側から出た、根拠のない感情的な誹謗中
傷だった。世間は人気作家の側につき、名の知れぬ富栄の亡骸に対して一斉に石を投げつ
けたのだ。
そんな富栄に対する誹謗中傷で、いちばん哀れなのは彼女を大切に育てあげた父母、特に
富栄の父親だった。大切な愛娘を突然失っただけでなく、亡娘へのいわれのない非難を、
娘が妻子ある男と道ならぬことをしてしまったとの負い目から、反論することもできず、
ただただ非難を甘んじて受け続けたようだ。富栄の父親がどんなに無念だったことか、そ
の心情を思うと、胸が張り裂けそうになった。

過去に読んだ関連する本:
人間失格


プロローグ
・昭和二十三年六月、日ごろから人食川として人々の恐れる玉川上水に、数え年四十歳を
 一期として身を投じた太宰治であった。しかもそれは妻ならぬ山崎富栄という酒場女の
 抱合心中であった。
・サッチャン(富栄の愛称)は、知能も低く、これという魅力もない女だった。酔った太
 宰のお世辞を真にうけて、たちまち魅入られたかのように、太宰に寄りついてはなれな
 かった。(六人の作家未亡人) 
・引き揚げられた多罪の死体には、首を絞めて殺した荒ナワが巻き付けたままになってい
 て、ナワのあまりを口の中へ押し込んであった。つまり情死の相手の山崎が太宰の首を
 絞めて殺したあとで一緒に入水したものと推定された。(太宰の情死)

・津島修治が、太宰治という筆名を決めたのは、彼が二十四歳になる年、昭和八年一月だ。
・津軽半島にある金木の生家、斜陽館、太宰を育てた叔母キエのいた五所川原、子守のタ
 ケに再開した小泊。中学校時代を過ごした青森市内、旧制高校にかよった弘前、投宿し
 た浅虫温泉、晩年を暮らした東京三鷹。

・太宰治が最初に心中をこころみた相手はカフェの女中で、同棲した内縁の妻は青森の芸
 者、そののち、女学校教師の才媛と結婚して落ち着いた執筆生活に入ったものの、戦後、
 愛人と心中した。
・最期をともにした女性が山崎富栄という名前であることは知っていたが、たぶん水商売
 の人なのだろうと思っていた。
・ところが、世界初の弱酸性パーマ液を開発して、各国で特許をとった美容家、故山崎伊
 久江の自叙伝『真昼を掴んだ女』を読んで、驚いた。
山崎伊久江は、富栄の親戚にあたること、伊久江が指導を受けた美容学校校長の令嬢が
 富栄であり、二人は同じ屋根の下に暮らし、当時の最新の美容術をともに学んだこと、
 女学校に進んだ富栄は外国語が堪能で、日本髪や洋髪の結髪のみならず、戦前の華族に
 十二単の着付け、おすべからしのお支度をしていた、と書かれていたのだ。
・そもそも伊久江自身も、昭和三十四年、明仁皇太子のご成婚に際して、民間から宮中に
 あがり、美智子妃殿下の十二単の着付けの助手をした。昭和二十三年に富栄が亡くなっ
 ていなければ、彼女が御用をつとめていた可能性もある。
・十二単の着付けやおすべらかしは、美容師ならだれでもできるわけではなく、古式装束
 の知識、日本固有の伝統的な結髪を習得した者でなければ、つとまらない。富栄は、そ
 うした高度な技能をもつ特別な職業婦人だったのだ。
・太宰と富栄の関係は、妻子持ちの作家と二十代の愛人といった扇情的な色恋沙汰ではな
 く、不倫という罪の意識を自覚しながらも、夫婦でもかくや、というほどのいたわりあ
 いと思いやり、信頼の通い合う、誠意のこもった情愛だった。
・さらに喀血する晩年の太宰の日々につきそい、結核の感染も恐れず、献身的に看病して、
 代表作『人間失格』の執筆をささえたのは富栄だった。
・それがいつ、どのようにして、「知能も低く」「魅力のない」「酒場女」へと変わった
 のだろうか。  
・ほかにも謎はあった。戦後、太宰と初めて会ったとき、富栄は夫の姓を名乗り、奥名富
 栄だった。配偶者の奥名修一とは、どんな人物だったのか。
・太宰との情死についても、合意ではなく無理心中だ、さらには他殺で、彼女が首を絞め
 てた、青酸カリを飲ませた、とする書物は、いまも出てくる。
・太宰研究家の故長篠康一郎の著作をのぞくと、太宰の編集者や友人、親しかったり敵対
 していた作家の側から書かれているか、それをもとにしていることがわかった。
・太宰の妻子である津島家から見れば、突然、夫であり父である大黒柱を不条理に奪われ
 た。担当編集者は、売れっ子作家を若くして喪った。知人たちは、友を救えなかった無
 念さに臍をかんだ。
 
・昭和二十年春、富栄は、東京大空襲で焼けだされ、叔父の黒川嘉一郎をたよって、滋賀
 県東近江市八日市町に疎開して、一年間暮らしている。 
・「富栄さんが亡くなったとき、町の映画館で、ニュース・フィルム、見ました。当時は、
 テレビなんてありませんやろ、ジュースゆうたら、映画館で見るもんでした。富栄さん
 のお父さんが、娘が身を投げた川を、あの玉川上水の流れを、雨のなか、傘さして、じ
 っと寂しそうに見てはって、あのしょんぼりした姿、目に焼きついて、いまでも忘れら
 れません」(富栄のいとこ) 
・富栄の父、山崎晴弘は、明治の東京市本郷区に生まれ育ち、歯切れのいい東京弁を話す
 江戸っ子であり、六十代半ばまで御茶ノ水界隈に住んでいました。しかし、世間を騒が
 せた娘の没後、ふるさと東京に帰ることはなかった。一人娘が満二十八歳で死んでから
 九年後、失意の父は、疎開先の滋賀県八日市町で亡くなった。

父の愛娘
・山崎晴弘は、富栄が生まれる六年前の大正二年、御茶ノ水駅に近い本郷区東竹町に、日
 本で初めて文部省の認可を受けた美容洋裁学校を創立し、経営していた。
・富栄は、晴弘四十歳、信子三十八歳のもとに生まれ、末っ子娘となった。三人の兄に可
 愛がられ、父母の一人娘として育った富栄は、自分が人から愛される存在だと、なんの
 疑いもなく知っていた。
・富栄が生まれた大正八年、津島修治は十歳。青森県北津軽郡金木村の尋常小学校に無欠
 席でかよう体格のよい健康児であり、学業優秀にして、快活なガキ大将でもあった。
・物心つく前から昼は袂をつかんでよりそい、夜は乳房をつかんで寝たキエは、実母と信
 じて疑わなかったのに、母の妹だった。
・やがて最愛の叔母キエは、分家して津島家を出て五所川原へゆき、修治から離れていっ
 た。
・修治が二歳のころから背におぶってくれ、不器用ながらもひたむきに愛をそそいでくれ
 た子守のタケも、なにもいわずに、突然、去っていった。その朝、修治はタケの名を呼
 び泣きじゃくった。

・山崎晴弘は日本橋の羅紗問屋、雨宮商店にはいり、努力と商才を見込まれて二十代で支
 配人をつとめる。仕事がらおぼえた紳士服の仕立ての腕前をいかして独立、本郷に洋装
 店をひらいた。そして二十七歳になった明治三十九年十二月、黒川信子と結婚した。
・東京で美容師をしていた信子は、明治十四年、滋賀県八日市町に近い横溝村に、黒川勇
 助、ぬいの長女として生まれた。
・所帯を持った晴弘と信子は、洋裁と美容というそれぞれの専門をもとに、大正二年四月、
 「東京婦人美髪美容学校」、のちに通称「お茶の水美容学校」として知られる学校を創
 立する。
・健康な子どもに育つよう、晴弘は、娘にさまざまな運動をさせた。冬はスキー、夏は海
 水浴、仙台の広瀬川で水遊び、十代になると、ハイキングと山登りもはじめた。
・三十四歳で第一号の美容学校をおこした晴弘は、髪結いを社会的地位の高い職業に変え
 ねばならぬ、という情熱とプライドがあった。賤業とみなされることは、学校そのもの
 への軽侮でもあった。彼は、美容師は、人格、医学的知識、技術の三つをそなえたプロ
 の職業人たれ、と指導した。
・この理想家にして熱血漢の校長、先見性があり努力を惜しまない実業家の父のもとで、
 富栄は育ち、美髪、洋裁、学校後継者としての英才教育を受けた。四十歳でもうけた一
 人娘を、晴弘は可愛がったが、盲目的な愛ではなかった。
・一方、信子は、口数は少ないものの、堅実な実際家であり、学校では幹事、厳しい教師
 として脇をかためた。
・二人はよき夫婦であり、最高の経営パートナーだった。晴弘の弟、留吉も副校長として
 ささえてくれた。学校はますます栄えるかに見えた。
・だが大正十二年九月一日、関東大震災がおきる。晴弘が十年かけて築きあげてきた学校
 は壊滅した。炎につつまれていく公舎を、晴弘はなすすべもなく茫然と見ていた。
・地面に力なく腰をおろした晴弘に大きな灰が飛んできて、汗ばみ、すすで汚れた顔に、
 はりついたが、彼はぬぐおうともしなかった。父の涙を、富栄は初めて見た。
  
・富栄は、晴弘とおまさに連れられ、夏休みを利用して青森を旅していた。旧制弘前高校
 の寄宿舎に暮らす年一に会いに行きたいと、富栄は前々からたのんでいたのだ。母の信
 子は幹事として、御茶ノ水の学校に残っていた。
・晴弘、富栄、おまさの三人は、年一とともに弘前城とねぷたを見物してから、青森市、
 浅虫温泉へ、帰りは南へ下って大鰐温泉、十和田湖畔に泊って、お盆には本郷の自宅に
 もどる予定である。 
・関東大震災の火災で、創立十年の学舎は全焼したが、四十四歳の晴弘はくじけなかった。
 むしろふるいたった。早くも震災の翌月の十月には、焼け跡に、仮の木造公舎をたてた。
 さらに、耐震構造の地下二階、地上三階の最新式鉄筋コンクリート校舎を建造していた。
 校舎の一階は結髪美容科、二階は洋裁科、三階は衣紋科と自宅だった。
・ところが、地下二階構造をもつこの頑強な建物は、仮想敵国による空襲を意識しはじめ
 た軍部の目にとまり、逆に学校が衰退していく発端となっていく。
  
・昭和三年三月、年一は、東京帝大の受験勉強のために本郷にもどってきた。富栄の喜び
 ようといったらなかった。ところが年一は、原因不明の高熱をだした。すぐさま自宅前
 の順天堂病院にはこびこんだが、治療の甲斐もなく意識不明となり、四月に年一は急逝
 した。髄膜炎だった。
 
・昭和二年、津島修治は十八歳。この春、県立青森中学を第四席の優秀な成績で卒業し、
 弘前高校に進学。多額納税者の貴族院議員だった父は、すでに東京の病院で他界してい
 た。
・七月下旬、崇敬していた芥川龍之介が「ぼんやりした不安」という言葉をのこし、
 満三十五歳にして服毒自殺する。
・中学時代より、芥川龍之介、菊池寛、井伏鱒二、志賀直哉を愛読して作家をこころざし、
 同人誌「星座」「蜃気楼」を創刊し、精力的に小説を発表していた修治は、衝撃を受け
 る。
・自死への甘い願望をおぼえて下宿に閉じこもり、八月は、金木村に帰省せず、弘前に残
 った。ちょうどその夏、富栄は修治のいる弘前を旅したことになる。
・昭和二年より、修治は中学時代を過ごした青森へ、週末ごとに弘前から汽車で遊びにで
 かけては外泊するようになり、青森港に近い花街で、「玉屋」の芸妓、紅子と知り合う。
 のちに東京で太宰と暮らす小山初代である。この年九月、修治と紅子は結ばれた。
・紅子は、芸妓の一枚鑑札であり、芸妓と娼妓をかねる二枚鑑札ではなかった。三歳年下
 の紅子は生娘であると、大人ぶってはいても無垢な修二は、のちに同棲するまで信じ込
 んでいた。 
・十八歳の修治は、文学と肉欲、死への甘美な誘惑とマルキシズムにゆさぶられていた。
・大地主の家に生まれ、小作人を搾取して、富を享受している修治は、中学までの明るい
 優等生から一転して、自分の存在意義を疑う悩みを抱える。
・二年後の昭和四年十二月、下宿先の藤田宅で鎮静細民剤カルモチンを多量に嚥下。昏睡
 状態となり、自殺未遂さわぎを起こした。

花嫁
・当時、学校には三人の優秀者がいて、晴弘はそれぞれの将来を期待していた。一人は、
 福島県安積の地主の娘遠藤なみ(のちの山崎伊久江)十九歳、もう一人は、仙台にいる
 信子の弟嘉治郎の娘で、富栄のいとこにあたる黒川つた、そして富栄である。年若い三
 人は、腕を競いあっていた。
・つたは、この春、三兄輝三男の妻となり、山崎家に入籍することになっていた。
・父は富栄に、茶道、華道を習わせた。一流の美容師になるには、文学を豊かに味わう知
 性と感受性も大切である。また美とは、目ではなく、心で鑑賞するものであり、心理学
 も必要であろう。娘を慶応義塾大学に聴講生として通わせた。
・富栄は自宅に近い東京神田YWCAで英語を、神田駿河台の外国語専門学校アテネ・フ
 ランセにてフランス語も学んだ。
・だが、この年、昭和十二年七月、日中戦争がはじまる。日本軍と中国軍が盧溝橋にて衝
 突したのが発端である。靖国神社や街角には、千人針をもとめる銃後の妻や母が立ち、
 師走は南京占領を祝う提灯行列にくれていった。
    
・戦時下に、富栄は、銀座の美容師となった。芸能プロダクションと契約を結び、ヘアス
 タイリストとして現在の東映の大泉撮影所、蒲田の松竹撮影所にもかよった。
・銀座時代の富栄は、仕事のかたわら、YWCAで英語とともに聖書も学んでいた。師は、
 高見澤潤子。気鋭の文芸評論家として頭角をあらわしていた小納谷氏秀雄の実妹である。
・のちに二人の仲が深まり、妻子ある太宰との関係が人の道にはずれると苦悩する富栄は、
 十代から読み親しんだ聖書をひもとき、折々の心境にかなった一節を、日記に書き写し
 ていった。富栄は不倫の罪を自覚しながら、それでも断ち切れない修治への恋慕ととも
 にいかに生きるべきか、矛盾した茨の道を、イエスの教えから模索していくことになる。
   
・昭和五年四月、修治は二十歳、弘前高校から東京帝国大学仏文科に入学した。まずは、
 本郷台町に暮らした。下宿も大学も、富栄の家の近くである。二人は、同じ町の空気を
 すっていた。
・修治は、共産党活動のシンパをしながら小説を書いていた十月、青森の紅子を、置屋に
 無断で東京によびよせた。
・兄の文治が跡をついでいた津島家は、修治を除籍して分家させることで、二人の関係と
 同棲を認めた。卒業するまでの仕送りは保障されたものの、財産は分与されなかった。
・予想外の厳しい処置だった。傷ついた修治は、十一月、銀座のカフェで痛飲し、広島の
 女学校を中退して上京していた十七歳の女給、田部あつみ(本名:田部シメ子)と知り
 合う。 
・二人で本所、浅草を遊びまわり、萬世ホテルで宿泊したのち、神奈川県鎌倉西部、腰越
 海岸にある小動崎の畳岩にて、睡眠薬カルモチンを服用して、横になった。翌日、二人
 は発見されるが、あつみは吐いたものをつまらせて窒息、絶命していた。
・修治は、情死事件をもとに、「道化の華」を書く。実際は睡眠薬を服用したが、小説で
 は、二人で海に入り、女は水死したことに変わっている。
・昭和八年、東大の後輩、檀一雄と知り合い、同人誌創刊といった文学の活動、飲酒、売
 春宿通いをともにする。  
・昭和十年、サボって単位をとっていなかった東大を落第、都新聞の入社試験にも落ち、
 知人に自死をほのめかして失踪。鎌倉鶴岡八幡宮の裏山で縊死を試みるもかなわず、新
 聞沙汰になった。 
・「逆行」が第一回芥川賞候補となり、これで新進作家として華々しくデビューできると、
 未来がひらけるように感じたが、「作者、目下の生活に厭な雲あり」とした川端康成の
 選評もあって、落選。
・小説そのものではなく私生活をみる批評に、修治は激高した。
・しばしば自分に絶望するにもかかわらず、自尊心だけは強く、他者からのわずかな批判
 にいきりたち、攻撃を何倍にもして無礼な言葉で斬りかえす。この悪癖は、死の直前に
 もくり返された。
・昭和十一年、第二回芥川賞は、候補に入らなかった。
・今度こそ『晩年』で第三回芥川賞を受賞したいと川端康成に長文の手紙を書いたが、ま
 たのがした。
・パビナール注射の中毒は進み、薬を買うために借金を重ねる。東京武蔵野病院に入院。
 窓は鉄格子がはめられ、ドアは外から鍵がかかる病室だった。肺結核もひどく、血痰を
 吐いていた。
・中毒を治して退院したものの、太宰の入院中に初代が不貞をおかしたことを知り、昭和
 十二年三月、谷川温泉でカルモチン服用による夫婦心中をはかるが、この四度目も未遂。
 ひとりで帰京し、初代との離別を決意する。
 
・昭和十三年、国家総動員法が制定され、翌年には、国家精神総動員本部がパーマネント
 廃止を提言。
・富栄の家は、もはや鉄筋校舎の三階にはなかった。地下二階という防空機能をもつ校舎
 は、昭和十五年、政府の企画院に接収された。
・巨額の資金を投じた鉄筋校舎を失った晴弘は、還暦をすぎていた。時局をかんがみ、贅
 沢視される美容学校の再建には躊躇していた。そんな好調を変えたのは、全土に巣立っ
 ていった教え子たちが組織する「お茶の水会」だった。留吉の息子と結婚して、遠藤な
 みから改名した山崎伊久江が、全国の卒業生に連絡をとり、新校舎建設の寄付金と手紙
 をあつめたのだ。教え子たちの大半は所帯をもち、妻となり母となっていたが、戦時も
 ふるさとで美容師を続けていて、虎の子の蓄えから送金してくれた。
・昭和十六年、晴弘は近くの本郷区一丁目に木造校舎を再建、「お茶の水洋裁整容女学校」
 と開校した。
・十二月八日、日本海軍は、ハワイ、オアフ島真珠湾を攻撃、太平洋戦争がはじまった。
・日米開戦の年、太宰は長女が生まれ、父となっていた。
・昭和十三年、太宰は、東京女子高等師範学校(現:お茶の水女子大学)を卒業して教師
 をしていた石原美知子と見合いをした。デジンのワンピースを着た美知子は、色白の高
 い頬に、深い色の目をした顔だち、ふくよかな体つきで、理知的で、成熟した女らしさ
 が匂っていた。太宰はすぐに心を決めた。
・美知子は、明治四十五年に、島根県西部の浜田に生まれた。父の初太郎は山梨県に生ま
 れ、東京帝国大学を卒えた鉱物学者であり、県立花田第二中学校(現:浜田高校)にて
 校長をつとめ、十四年間にわたって、妻子とともに島根県に暮らしていた。
・大正六年に、美知子は父の転勤にともない山形県米沢へ、大正八年には広島へ移り、大
 正十二年より甲府に暮らし、見合い時は、山梨県東部の大月にあった都留高等女学校に
 て、地理と歴史の教員をしていた。
井伏鱒二は、太宰の暮らしぶりを見てきた経緯から、堅実な美知子との家庭生活は無理
 だろうと危ぶんでいた。 
・新婚生活は、甲府駅の北側、美知子の母くらが暮らす石原家より、歩いてすぐの御崎町
 にてはじまった。
・同年九月には、新婚夫婦は、東京府三鷹村に移り住む。太宰の対の住処となる借家は、
 駅から二十分ほど歩いた畑のなかにあった。
・戦争がはじまると、多くの作家が文士徴用として戦地へ赴いて行った。井伏も一年間、
 報道員としてシンガポールへいった。だが、太宰は胸部浸潤につき、徴用を免除される。
・十代兵士の出陣と戦死は、太宰に負い目をもたらした。
    
・飯田冨美は、六つ年下の富栄に縁談をもちかけた。晴弘は大いに気にいった。なにしろ
 三井財閥に社員である。裸一貫で学校をおこし、事業経営に孤軍奮闘してきた晴弘は、
 大企業の組織力というものを痛感していた。商社員の婿なら、実業と貿易の知識も豊富
 であろう。いずれは商社をしりぞいてもらい、学校の理事長としてむかえよう。男子の
 後継者がいない山崎家において、優秀な婿をむかえることは、家運を決する重大事だっ
 た。
・九段の軍人会館で富栄と修一の結婚式がとりおこなわれた。
・三井物産では、夫婦そろっての海外赴任が通例だったが、戦争激化により、修一は単身、
 軍用機でマニラに向かうことになっていた。
・船舶にしり、民間機にしろ、南方への人員輸送は、敵機および潜水艦のあいつぐ攻撃を
 受けて、多くの日本人が海底に散って行った。

銃後の妻
・一週間はあまりに短かった。いよいよ翌日となった別れを惜しむ切なさを、言葉にはだ
 さず、新婚の二人は、見つめ合う目でわかちあい、手をとって泣いた。
・十二月の挙式から、十二日目だった。笑顔で送り出したいと思っても、富栄はうつむき
 がちだった。
・当初は、結婚から一週間後に出国予定だった。ところが冬型の強風で欠航、翌日はフィ
 リピンへの途次に空中戦、さらに帝都に敵機来襲、といった具合で、今日は飛ぶ、明日
 こそ飛ぶとしたくをして、京浜電車で羽田へ向かいながらも、出国は延期になっていた。
・二人はたがいに明日をも知れぬ命を生きているのだとまざまざと感じて、求めあう気持
 ちが激しく高ぶった。夫の熱い体に抱かれながらも、遠くへいってしまう修一のよすが
 に、彼の子を身ごもりたいと、富栄は切望した。
・修一が出国した日、東京のラジオ局では、帝都爆撃にそなえて、B29のエンジン音の
 放送をはじめた。B29の爆音を耳でおぼえ、飛来を早急に察知して避難し、被害を減
 らすためである。 

・結婚して三鷹に住んでいた太宰の家は、中島飛行機製作所よりわずか数キロ南だった。
 中島飛行機製作所は、大正六年に設立された日本初の飛行機工場である。戦時下には、
 三万人以上が働いて、日本の主力戦闘機「零戦」のエンジンも製造していた。アメリカ
 は、日本の飛行機製造壊滅のために攻撃をつづけ、太宰と妻子はまきこまれていく。
・そのころ太宰は、美知子、長女、長男とともに、三鷹の畑にたつ借家に暮らしていた。
・所帯をもって二児の父となり、地道に執筆していた太宰だが、平穏な家庭だけに飽き足
 らず、新たな恋をもとめる浮いた男心も、三十五歳の胸に揺動していた。
・戦後のベストセラー小説『斜陽』の主人公かず子のモデルとなり、のちに太宰の娘を出
 産する太田静子との出会いは、真珠湾攻撃の年である。
・静子は、大正二年、滋賀県愛知郡にて裕福な医師の一人娘として生まれ、東京の実戦女
 子専門学校に進み、歌集『衣装の冬』を上梓した文学少女である。父が亡くなった昭和
 十三年に結婚するが、長女を生後一か月で亡くしたのち、昭和十四年に離婚。
・愛のない結婚の冷ややかさゆえに、子どもを死なせたのではないか。罪悪感にさいなま
 れていた静子は、太宰だけが生き残り、女を死なせた鎌倉の心中未遂後をえがいた「道
 化の華」の書き出しに、心をわしづかみにされる。
・静子は、太宰こそが自分の理解者であり、同じ悲しみを分かり合えると思った。 
・静子は、女ともだちを連れて、三鷹の太宰をたずねた。
・太宰は、初対面の読者をひと目見るなり、一度は結婚した婦人とは思えない可憐さがあ
 ると思った。そして彼女に、小説ではなく、日記を書くように助言する。
・静子は、母と暮らす日々をつづりはじめ、それが『斜陽』の原型となった。
・そのころ太宰は、一からの創作ではなく、読者や知人の日記を再構築して小説にする手
 法をとりはじめていた。静子の日記も、資料にするつもりだった。
・だが静子は、恋慕にも似たあこがれを、いちずによせてくる。
・真珠湾攻撃の師走、太宰から電報がきて東京駅で会い、新宿でも会った。
・昭和十八年秋、静子が神奈川県下曾我村へ疎開すると、翌年一月、太宰は熱海ゆきの帰
 りに、彼女の暮らす大雄山荘をたずねる。
・母は入院、弟は応召して、静子だけが残る屋敷で、彼女は、八畳間に布団を二つ敷いた。
 それぞれ床についたが、暗い中、女の息づかいが聞こえて、太宰は眠ろうにも眠れない。
 男は寝返りをうち続け、やがて静子の寝床に入ってきて、抱きしめ、キスをした。
・こうした中途半端な関係は、男に気をもたせ、先々に期待をあずけたままにする。太宰
 が疎開して三鷹を去ったのちも、妻に隠れて秘めやかな文通は続いた。
 
・修一は、十九年にルソン島のマニラに赴いた。彼は、微妙なタイミングで、もっとも不
 運な時期に、マニラに転勤していた。サイパン島は玉砕前であり、日本は太平洋の制空
 権をもち、フィリピンに米軍の空襲はなかった。すでにサイパン陥落後だったが、マニ
 ラはまだ組織的な攻撃を受けていたい。ところが、彼が上海を経由して日本へ向かって
 いた海路途中、マニラは米軍による空襲を受ける。九月に帰国。それから暮れの出国ま
 での三か月間に、富栄と見合いをして結婚。そのわずか三カ月に、フィリピンをめぐる
 状況は一変していた。
・武器弾薬の補給はなく、弾がつき食糧もつきた日本軍は、小隊ごとの万歳斬り込みしか、
 残された策はなかった。しかも日本刀をもてたのは将校のみで、ほかは竹槍だった。さ
 らに突撃しても、サーチライトに照らし出され、敵陣につく前に、機関銃の一斉射撃で
 全滅していた。 
・敵軍の銃弾、砲弾が飛び交うなか、修一はどこに身をひそめ、どこで眠り、なにを食べ
 ているのだろう。修一がおかれている境遇を思うと、自分だけが屋根のしたで食事がで
 きる有難さが申し訳なく、食事も喉を通らなかった。
・昭和二十年一月のリンガエン湾上陸と二月の街ら市街戦を、日本の新聞は伝えたが、当
 時の言論統制下では限界があり、日本軍の絶望的な死闘も、日米の戦争に巻き込まれた
 マニラ市民十万人の犠牲も、富栄は知らなかった。
・三月三日、マニラは陥落する。
  
戦争未亡人の美容師
・この夜、帝都の空には、B29が百三十機来襲、銀色の機体は地上の却火を写して、腹
 が紅に染まり、ぎらぎらしていた。富栄は、滋賀県の八日市町へ疎開してきたところだ
 った。
・三月十日未明の東京大空襲で、晴弘が経営する御茶ノ水の学校と自宅は全焼した。銀座
 二丁目のオリンピアも全焼した。わずか数時間の空襲で、富栄は、みずからが校長とな
 るはずの学校、自宅、最新の機器をそろえた銀座の美容院を失った。
・本郷では、婚姻届を出した区役所も焼けた。修一との結婚書類も灰になった。
・フィリピンで現地召集された夫は、相変わらず行方不明だった。
・つたは、自宅もかねていたオリンピアから焼け出され、子どもをつれて仙台の実家へ疎
 開することになった。  

・昭和二十年四月、富栄が八日市へ疎開した同じ月、太宰は三鷹から、美知子の里、甲府
 へ疎開した。
・甲府には、井伏も疎開していた。そこで太宰は、最初の妻初代が、前年に中国青島で死
 んだことを、井伏から初めて聞かされる。
・太宰と別れた初代は、水商売をして大連、青島に流れ、三十三歳で病歿。井伏は一年間、
 太宰に教えなかった。
・美知子との結婚を世話した井伏は、父となった太宰のためを思えばこそ、麻薬中毒に借
 金、深酒の過去につながる女の話を避けたのであり、それは年長者の知恵である、と解
 釈するのは当然であろう。  
・だが、前夫に一年間も黙っているのは無神経であり、情に疎いと解する向きもあるかも
 しれない。太宰がどう受け止めたのか、それはわからない。戦後、太宰は、世話になっ
 た井伏と距離を置くようになり、親密だった二人は疎遠になっていく。
・せっかく疎開した太宰一家だが、昭和二十年七月六日夜半、「甲府たなばた空襲に見舞
 われる。美知子の実家は全焼した。一家は、甲府から上京し、空襲で大混乱する上野駅
 より東北本線を乗り継ぎ、四日がかりで金木へ帰郷。兄津島文治が家長をつとめる家で、
 離れに落ち着き、敗戦日をむかえた。
 
・美容蔑視の風潮は、戦争が終わると一転、女たちはモンペからスカートへ、あざやかに
 変身していた。  
・晴弘が、八日市町ではじめた小さな洋裁教室も盛況であり、大勢の娘たちや家庭婦人に、
 仕立てを教えた。
・修一の消息は、依然不明だった。けれど不明ということは、死んだわけではないんだ。
 富栄は夫の帰還を夢に見ながら、自分のことのように熱心に復員兵の記事を読んだ。ど
 んな小さな引き揚げ写真も、修一が写っていないか、探した。
・山崎洋服店に来客があった。
 「こちらに、奥名修一さんのご家族はお住まいでしょうか」
・「さようでございますが」と店番をしていた信子が立ち上がり、見慣れぬ男にあらたま
 って応じた。  
・「わたくしは、奥名修一君とともに、フィリピン、ルソン島で戦闘についたものであり
 ます。本日は、ご報告に参上いたしました。奥名修一殿は、ルソン島バギオ南方で、壮
 烈なる名誉の戦死を遂げられました」  
・修一が死んだのは、マニラから北へ二百キロあまり、ルソン島北部にひろがる山岳地帯
 だった。修一の最期を、武藤は詳しくは語らなかった。木立から出ると撃たれたため、
 遺体の確認ができなかった。ルソン島の山岳地帯では、薬も包帯もなく、死者はもとよ
 り負傷して歩けない者も、置き去りにするしかなかった。出血多量で死んだり、破傷風
 にかかったり、風土病でも死んだ。武藤は涙ぐみながら語ったという。
・だが富栄は泣かなかった。つたの幼い子どもたち、武士の妻子も同居する家に、未亡人
 が心おきなく泣ける場所はなかった。悲痛な表情のまま、乾いたうつろな目ですわって
 いた。暗くなると、富栄はひとり、冬の闇へ出ていき、近くの神社に向かった。本殿の
 裏にしゃがむなり、涙がふきだした。
・富栄が、本郷区役所に婚姻届を出したのは、一月二十一日。あの喜びの日の四日前に、
 夫は死んでいたのだ。
・富栄は、戦前から、西洋には西洋の美点があると、欧米の言葉と文化を学んできた。自
 分はなにも変わらないのに、戦中は攻撃され、戦後はもとはやされる。
・フィリピンで日本兵を殺した米軍マッカーサー司令官を、あれほどののしった日本人は、
 今になって彼を笑顔で迎え、元帥元帥と、スターのごとく持ち上げる。
・富栄は悔しさに体がふるえた。思えば、この国に裏切られた。世間にだまされたのだ。
 富栄は草をひきちぎり、地面を拳でたたいた。そして冷たい土にたおれ、涙を流した。
 いっそこのまま死んでしまいたかった。なにもかも失って、もうどうでもよかった。
   
・太宰は、戦時中の自分が戦争に反対していなかったことを、はっきりみとめていた。そ
 れだけに、自分は戦争反対論者だったと、戦後になったリベラルな顔つきをする文化人
 の偽善を浅ましく思った。 
・太宰は「無頼派」を名のった。無頼派を周囲に左右されない真の自由主義者として使っ
 た。戦後、広く知られた、既存の道徳を破壊する無法者としての「無頼派」とは、別の
 意味をもたせている。
・だが、太宰にも当時の自由主義者の限界があり、その自由は男だけの領域であり、自由
 なふるまいの足もとで踏みつけにしている女の忍従は見えていない。理知的な妻美知子
 の心にしずむわびしさもわかっていない。
・戦後も、津軽の太宰は、太田静子と手紙をやり取りしていた。
 
・鎌倉駅から、大仏のある長谷まで、由比ガ浜海岸と並行して古い街道が続く。その街道、
 由比ガ浜通りに、山崎つた、山崎富栄、池上静子の三人が経営する美容室「マ・ソアー
 ル」があった。店の名は、私の姉妹という意味のフランス語「マ・スール」をもじった
 ものである。
・昭和二十一年四月、富栄とつたは、疎開先の八日市町から鎌倉へ移ってきた。
・共同経営者の池上静子は、美容院を始めるつもりで、戦前、お茶の水美容洋裁学校に通
 い、晴弘のもとで学んでいたが、美容師の資格を取っていなかった。そこで知人から、
 富栄とつたを紹介される。池上は、長谷に一軒家を借りて美容院の設備をととのえ、つ
 たと富栄が、資格者として働いた。
・この年の春、山崎晴弘は政府が作成した公職追放者名簿にのった。
・公職追放とは、戦後の民主化の一環として、GHQの指示で、軍国主義者、国家主義者
 を追放したもので、二十万人が該当した。もっとも多かったのが、帝国在郷軍人会の地
 方役人、次に、陸海軍の将校、あとは憲兵、特高、大政翼賛会関係者などである。
・晴弘は、帝国在郷軍人会の本郷第六支部長に任命されていた。軍人会の本部である九段
 の軍人会館蛍雪に高額寄付をした功労者であったこと、また鉄筋校舎を政府に供出して
 いたことから、地方役人に任命されたのだろう。
・そのために、晴弘が、追放されるべき「軍国主義」とされ、学校長として復帰すること
 は絶望的になった。学校再建は、富栄の若い肩にのしかかった。
・十一月、富栄は、鎌倉から三鷹へ移った。「マ・ソアール」は軌道にのり、池上も美容
 師の資格をとっていた。富栄は安心して店を離れることができた。むしろ富栄がいない
 ほうが、つたのとり分は、売り上げの六割丸々となり、子ども二人を育てるには都合が
 いいと考えたのである。
・三鷹では、駅南口に、お茶の水美容洋裁学校の卒業生、塚本サキが、ミタカ美容院をひ
 らいていた。三鷹周辺に、地方から戻ってきた人々が集まり、急激に人口が増えていた。
 駅前の美容院は人手がたりず、塚本が、経験ある美容師をもとめていたところへ、恩師
 晴弘校長の娘がきてくれることになり、願ったりかなったりだった。
・富栄は、野川アヤノ宅の二階に下宿した。野川家の下宿をさわしてくれたのも塚本だっ
 た。塚本は、かつて野川家の隣に住み、アヤノをよく知っていた。さらに野川家の娘の
 一人は、このころミタカ美容院で働いていた。
・富栄が三鷹へ移り住んだ昭和二十一年十一月、太宰も青森から三鷹の旧宅へもどってき
 た。  
・三十代後半の太宰には、中年にさしかかった男の色気が漂う。そんな太宰との恋を望む
 大田静子の手紙は、せつなさをましていた。
・太宰の本質は女たらしではない。だからつい、思った通りの虫のいいことを書いてしま
 う。まともな浮気男なら、もう少し策をねる。
・そもそも太宰は根っからの女好きではない。女に性的な興味はあるが、根本的なところ
 で、女に心を許していない。いつか裏切られるのではないかという不安がある。女好き
 は、たいがい女を軽く見くびっていて、それゆえに女を理解しているつもりの安堵があ
 る。だが太宰にとって女は、得体の知れない、いつか自分に予想外の失望や悲哀を突然
 残していく厄介な存在だという普請が根底にある。
・「うちの者どもを大好き」だが、それとは別の憩いの恋もしたいと、太宰は妻子持ちの
 男の本音を、ぬけぬけと書いている。
・赤ちゃんが欲しいと、はやる静子をなだめつつ、といって手を切るでもなく、ときどき
 会える愛人という、都合のよい存在としての残しておきたいのだ。
・仕事を手伝ってもらう秘書であり、楽しい附録として愛人という役割もある。そんな存
 在がほしいという太宰の願望は、結果的には、このあとすぐ身ごもる静子ではなく、富
 栄が命がけで果たすことになる。   
 
・一人きりの仕事場にいると誘われて、昭和二十二年一月、静子は朝早く下曾我をたち、
 三鷹駅へついた。
・太宰は静子を吉祥寺へ連れて行き、二人きりになると、彼女の両手を握りしめ、日記が
 ほしい、次の書く小説に静子の日記がいる、一万円はらう、と語った。
・静子は、下曾我へ来てくれるなら日記を渡すと語る。太宰が一泊して何もなかった中途
 半端な夜は、静子にも悩ましい心のこりとなっていた。
・この頃、美知子は三人目の子どもを妊娠中で、春の産み月をひかえていた。
・二月、太宰はリュックサックに原稿用紙、辞書、聖書を入れて、芳香に包まれた坂を登
 り、静子がひとりで住んでいる大雄山荘をふたたび訪れた。
・その夜、二人は初めて結ばれた。
・借りた日記を読み始めた太宰は、すぐに引き込まれた。自分には決してない都会的でロ
 マンチックな匂いがあった。太宰は膝をうった。これは『斜陽』に使える。
・毎日よく晴れ、梅はますます香った。シモーヌ・シモンのようなコケットリィのある静
 子の愛らしさ、人里離れた桃源郷の安らぎに、太宰は五日間を過ごした。
・大学ノート四冊にわたる日記を借り、リュックにつめて、太宰は、伊豆西海岸の三津浜
 へ行き、海に面した旅館安田屋で『斜陽』を書きはじめる。
・潮騒の聞こえる旅館に泊まって静子の日記を読み、小説を書いていると、夢のようだっ
 た五日間がしきりに思い出される。
・太宰は、三月にも、大雄山荘を訪れた。すると静子は妊娠を告げた。思いもしない告白
 だったが、太宰は顔色ひとつ変えなかった。
  
・閉店後のミタカ美容院でカットの練習をしていた美容師見習いの今野貞子が、クシを洗
 う富栄に、なにげなく話しかけた。
 「この前、面白い小説家さんに会ったの。太宰さんといって、津軽出身で、弘前高校か
 ら東大に入った秀才なのに、酔っておかしな話なかりするんだけど、帰りは下宿まで送
 ってくれて、ちょっと紳士だったな。富栄さん、知ってる?太宰治っていう作家」
・富栄は顔をあげた・十九歳で病死した兄の年一は、弘前高校に学んだ。生きれ入れば、
 三十七歳、歳も近い。もしかするとその小説家は、亡き兄さんを知っているかもしれな
 い。 
・富栄は、今野貞子の手びきで作家に会った。すでに屋台のうどん屋で飲んでいた太宰、
 期待に胸をふくらませて仕事帰りにやって来た富栄。それは、太宰が静子から解任を告
 げられた十日後であり、美知子が出産する三日前だった。

『斜陽』
・「センセ、こちらが奥名富栄さんです」
・「今野貞子さんから、弘前高校のご卒業だってうかがって参りました。高校時代、山崎
 年一をご存知ありませんか?兄なんです」
 気の早い富栄は、せっかちに切り出した。
・山崎年一という名前に、心あたりはなかった。 
・「年一兄さんは、昭和三年に、病気で亡くなったんです。兄さんについて、どんなこと
 でもいいから知りたかったんです。私、兄さんが大好きで、亡くなる前の年、昭和二年
 の夏休みに、父にたのんで、兄のいる弘前に連れて行ってもらったんです。青々とした
 岩木山がきれいだったこと、大鰐温泉と浅虫温泉に泊ったことを覚えています」
・「大鰐と浅虫なら、子どもの時分からちょくちょくいって、ぼくの庭みたいなもんだ」
・「昭和二年と言ったね・・・あの夏休み、ぼくも弘前にいたよ。芥川龍之介が自殺して、
 動揺して、色々荒んでね。そういや、弘前の駅前で、きれいな女の子を見かけたな。汽
 車から降りて来たんだ。無論、君は覚えていないだろうが、江戸弁を小生意気にあやつ
 って、いかにも東京趣味のしゃれたいでたちの、小僧らしいほど可愛い女の子を見た覚
 えがあるよ」
・「本当ですか」と見栄は声を高くした。
・そのはずんだ声、つややかな唇に、太宰はまぶしい若さをおぼえた。
・「もとは、本郷の生まれです」
・「君は本郷か。東大に入ったしょぱなは、本郷の台町に住んでいたよ」
・「まあ、台町なら、実家と目と鼻の先ですわ」
・「奇遇だね」
・ここで富栄はやっと気づいた。この作家は、わざわざ初対面の自分に放しを合わせてい
 るのだ。それは、この人の平素からの気づかいであり優しさなのか、自分という女への
 多少の興味からなのか。 
・「弘前にいた兄さんといい、本郷といい、ぼくらは縁があるわけだ。乾杯しよう」
・富栄の水が入ったコップに、自分のビールグラスをかちりとあわせてきた。
・うどんを食べ終わっても、富栄は帰れなかった。太宰治の本は一冊も読んでいなかった
 が、すらりとして、それでいて骨太の体つきから醸し出される男っぽさに、磁力さなが
 らの不思議な引力があり、せまい屋台で肩先がふれるほど近くに腰かけたまま、富栄は
 魔法にかけられたように、もう席を立てなくなった。
・太宰の向こう隣に座っていた新聞社の青年記者が、身を乗り出した。
 「先生、新年号に載った『トカトントン』、拝読しました。善悪が逆転した戦後の世相
 に放り出された若者の空虚さを軽妙にえがいて、敬服しました」
 「大日本帝国万歳と叫んでいばっていた軍人どもに協力したマスコミが、負けた途端に
 軍国主義をたたき、軍人を悪者扱いにして、アメリカの民主主義が正しいだのと、恥知
 らずに書いている。それじゃあ、お国のために死んだ兵隊は浮かばれないよ。夫が戦死
 した奥さんは、どう納得すりゃいいんだ」
 「もし悪かったというなら、戦争に反対しなかったわれわれ国民も、ひとり残らず悪い
 んだ。ジープの進駐軍に、チョコレートや缶詰をもらってありがたがっている国民も愚
 かしい。おれは民主主義に反対する。軍国主義も共産主義も信じない。もうナニナニ主
 義にはだまされない、ということだ」
 「ところが、日本人ときたら、右むけ右、左むけ左と、言いなりになる有象無象の愚集
 ばかり。おれは、おれの価値観で生きる。もちろん、おれは軟弱だから、暴力主義もま
 っぴらだな」
・最後の言葉に、富栄は、冷水をあびせられる思いがした。
・戦争ですべてを失った絶望も、無念も、悔しさも、無力感も、日本が敗れたのだから仕
 方がないとあきらめ、深くは考えないようにしてきた。長いものには巻かれろ、大きな
 ものにはのまれろ、それが女の知恵だと母に諭され、思い悩むことさえやめた。
・けれどここに、日本人の変わり身の早さ、そのみっともなさ、無節操をなげき、時流に
 染まらず、自分の信じる正しい道に、誠実に生きようと苦悩する人がいる。
・富栄は頭を殴られたような衝撃を受けつつ、ひさしく離れていた知的な話題に、好奇心
 を高ぶらせた。 
・太宰と知り合うとすぐに、富栄は彼の本を探した。太宰治という作家が書いたものを読
 みたい、彼の小説を、思想を知りたい。
・娘時代の富栄は、西洋趣味から翻訳文学を好み、日本の小説は、さほど興味がなかった。
・富栄は雑誌に載っていた『ヴィヨンの妻』を読んだ。
・詩人の夫をささえて、けなげに働くさっちゃんの献身には、雪折れしない柳のような女
 の芯の強さ、どんな時代であろうと生きてさえいればいい、という諦念、ほのかに明る
 い寂しさもよぎってくる。
・透けた絹地が春風にそよいでいるようなしゃれた軽やかさのなかに、幸福というものの
 ささやかさ、はかなさをえがいた小説だった。
・富栄はやがて自分が「さっちゃん」と太宰から呼ばれるようになるとも知らず、作家の
 計り知れない才能に、おそれさえおぼえた。
・富栄はさらに太宰の本を探した。彼の心のなかをのぞきたい、これまでの人生を知りた
 い・・・。とりつかれたように読みふけった。
・「思い出」「走れメロス」「津軽」「道化の華」この人は天才だ。
・三鷹の屋台やおでん屋で酒杯を重ねている太宰のそばへいくだけで、目をうるませ、陶
 酔のおももちになり、彼の話を聞いた。
・座敷にあぐらをかいて着物のすそからちらりとのぞく毛深いふくらはぎも、すべてに男
 の色香が匂って、富栄はときめいた。
 
・日記を借りにいって、大雄山荘に泊まったことは、出産前の美知子にばれ、妻は泣いて
 責めた。以後、妻は冷ややかである。だが浮気どころか、静子が妊娠したと知ったら、
 美知子はどうするのだろう。 
・そもそもこの先、妻子四人に加えて、静子と生まれてくる子どもの計六人を、どうやっ
 て食べさせていくのか。
・生活費を案じて目の前が暗くなりながら、酒好きで、とりまきにおごっていい顔もした
 い男は、文章によって得た収入の大半を飲食遊興に浪費して、妻には必要最低限を渡す
 のみだった。
・日中はひたすら『斜陽』を書く。執筆に没頭しているときだけ、不安を忘れられる。と
 ころが鉛筆をおいて、一服すると、なぜか、出会って間もない富栄の白い横顔が、ふい
 と脳裏に浮かぶ。
・夜、屋台に富栄が現われないと、今夜、あの娘はどこにいるのだろう。誰といるのだろ
 う、なにかあったのだろうかと、満三十七歳の太宰は気になるのだった。
・その晩は、となり町の吉祥寺に暮らす亀井勝一郎も合流した。亀井と太宰は、ともに東
 大を中途退学し、共産主義にかかわった過去を共有している。 
・太宰につきそって世話を焼く富栄を、亀井は、彼の助手と思ったようだった。
・十二歳年上の加盟のおだやかさに好感をもった富栄だが、二人が玉川上水で情死した後、
 亀井は、富栄による太宰絞殺説を展開して注目を集める。亀井が自分たちを、殺人の加
 害者とみじめな被害者にすることを、生前の富栄と太宰は知るよしもなかった。
・この夜、亀井を吉祥寺まで送って行くと、太宰と富栄は、春の闇に包まれた井之頭公園
 を通りぬけて、下連雀までそぞろ歩いた。
・体をゆすって歩く男の姿が、うしろにむき返った。大きな手が、富栄の腕をとらえた。
・先生はずるい
 接吻はつよい花の香りのよう
 唇は唇を求め
 呼吸は呼吸を吸う
 つよい抱擁のあとに残る、涙
 女だけしか、知らない
 おどろきと、歓びと
 愛おしさと、恥ずかしさ
 先生はずるい
・「仕事部屋によらないか」
 「先生、酔っておいででしょう」
 「酔っていたんじゃ、いやか」
・富栄は首を横にふった。
 「それでもいい・・・、いきつくところまでいきたい」
・アパートの四畳半は冷えきっていた。闇に浮かびあがる白い肌に、待ちかねていたよう
 にしがみついた。    
・富栄が太宰の胸に頬をすりよせる。しばらくすると、「困ったなあ」と、彼は思わず正
 直なところを言ってしまう。 
・冷静さをとりもどした男の胸は、たえず逡巡に揺れまどう。だが柔かな肌には、抗しが
 たい。富栄は富栄で、歓びのうちにも、これで最後にしようと涙を浮かべている。
・一夜明けると、道義心の強い富栄は、自己嫌悪と後悔に苦しんだ。
・まだ修一の戦死広報も届かないのに、妻帯者と関係をもった罪悪感、そんな自分への叱
 責、さらには、不徳に自分を誘い込んだ太宰へのうらみがましさ、それでも消えない恋
 心。 
・この先どうすればよいのか、富栄はわからなかった。別れることも、深みにはまること
 もこわい。夫と別れてよりずっと眠っていた歓びが、ひさしぶりに目覚めて、体の奥か
 ら女の自分を溶かしていることも切なく感じていた。
・そのうち太宰は、執筆の疲れと連日の酒宴から、体調をくずして寝ついた。
・『斜陽』の執筆は、中盤から終わりにさしかかっていた。戦後の社会の変化についてい
 けず、麻薬におぼれて自殺する直治の心情を書いては消し、また書いては、むせび泣い
 た。 
・頬がこけ、目はくぼみ、微熱が続いた。しばらくなりをひそめていた肺結核がぶりかえ
 しはじめていた。ついに自宅で寝込み、太宰六月死亡説まで流れた。
・富栄は、太宰に会えなくなった。恋慕はさらにつのり、容態を案じた。
  愛して、しまいました。先生を愛してしまいました。
  どうしたら、とろしいのでございましょうか。
・一週間静養して、太宰は回復した。そして仕事部屋を変えた。新しい部屋へ、富栄を呼
 んだ。
・太宰は、富栄の存在を隠さなかった。編集者にも、初対面の記者にも、隠し立てしなか
 った。それだけ男の心は傾いていた。
・富栄は、かつて結婚していたらしいが、人妻とは思えない。つんとした青い固さがある。
 とりすました細面にも、抜けるように白いきめ細かな肌にも、初々しい清潔ななまめか
 しさがある。そんな富栄が自分をいちずに見つめるまなざし、うやうやしく自分につき
 そう姿を、まわりの者に誇らしげに見せびらかし、小鼻をうごけましたい。
・太宰は、富栄を美人だと思っていた。   

・太宰と富栄の愛欲が深まっていく三鷹へ、妊娠三か月の静子がやってきた。
・静子は、あくまでも謙虚だった。太宰の望む通りにしよう。子どもに父と呼ばせるなと
 言われようと、遠くへ行って隠れて暮らせと命じられようと、従おう。
・大雄山荘で身支度をした静子は、腹部のふくらみが目立たない地味な和服に袖をとおし
 た。三十歳の弟、通もあんじてついてきてくれた。
・太宰は静子に体調を問うたが、その声はよそよそしかった。うちとけない気配に、静子
 も通も、出産の相談を切り出す機会をはかりかねていると、新潮社の野原一夫が顔を出
 した。  
・野原は、隣にいる二人づれが、太宰の客とは気づかなかった。それほど作家は、静子に
 他人行儀だった。
・気をつかう太宰は、二人の演劇人をもてなそうと、野原にたのんだ。
「奥名さんのところに、いいウィスキーがあるんだ。もらってきてくれないか」
・道むかいの二階、富栄が下宿する六畳間へ、野原がむかった。彼は、太宰と富栄の仲も
 知らない。男女の機微に疎い二十四歳の編集者は、静子のいる酒席へ、いそいそとした
 富栄を連れてもどってきたのである。
・バーボンをかかえた富栄が入ってきて、太宰はわずかに顔色を変えた。新旧の愛人が思
 いがけず鉢合わせして、内心では大いに狼狽していた。
・静子の妊娠も、富栄との関係も、今日は、まわりに気どられてはならぬ。まぶたがぴく
 ついたが、平静をよそおった。
・薫り高くうまい洋酒を男たちはありがたがって飲み、座は盛り上がった。その様子に冨
 栄は満足して、浮かれた。 
・みなにさっちゃんと呼ばれて、富栄は、上機嫌で座卓の皿をさげ、板場から料理を運び、
 太宰のウィスキーの炭酸割りを作り、席をあたためる暇もなくはしゃいでたち働く。
・思わず、太宰は目を伏せた。静子がなにか勘づいて、おなかに先生の子どもがいます、
 とでも言って泣きだしたらどうなるだろう。女は妊娠するとやたら勘が鋭くなるのは、
 美知子で経験済みだった。
 富栄は、静子を『斜陽』の日記提供者だと知っていた。話し相手もなく、居心地悪そう
 にして箸もつけない静子を不憫に思い、うどんをとってやり、奥へ移って二人で食べた。
・彼女たちは、ともに太宰と結ばれた女でありながら、夢にも知らず、向かい合わせにな
 って出前を食べている。   
・太宰は、静子にろくに口をきかなかった。窓の外は雨が降り、彼女は泣いていた。
・それは太宰の非常さ、ずるさ、身勝手さであり、一方で富栄への誠意であり、さらには
 何事も深みにはまり、情に溺れやすい自らへの戒めでもあった。
・翌日、静子はひとり下曾我へ去った。

・隠し立てしない二人の関係は、三鷹にひろまっていった。
・ミタカ美容院の店主、塚本サキは、不機嫌に口をまげて、店の富栄を見ていたが、夕方、
 表を閉めると、奥の事務所へくるように言った。
 「太宰さんという作家と付き合っているんですってね。奥さんと子どもがあるというじ
 ゃありませんか。困りますよ。晴弘先生からお嬢さんをお預かりしている私の責任はど
 うなるんです。それにうちは女の客商売ですよ。二号さんの美容師なんて、不潔です。
 噂がたてば、商売にさわりがあります。そもそも小説家なんて、堅気じゃありませんよ。
 夜な夜なとりまきをひきつれて飲んだくれている放蕩者でしょ。あなたの人間が駄目に
 なります」 
・塚本の忠告は、ごく常識的なものだった。 
・だが恋にのぼせている富栄は、塚本を、文学を知らない無教養な経営者だと軽蔑した。
 そもそも富栄は、人に使われたことが一度もなかった。幼少期は校長の娘であり、のち
 には美容院経営者として一段上にいたつもりの富栄は、初めて雇い主を持ち、叱責され
 て、逆恨みさえした。
・滅びゆく世界をえがく『斜陽』は、静子が身ごもってより、方針転換をせまられていた。
 彼女を冷たく追い返したわが身の不実と、傷ついた静子を気にかけてもいた。
   
・七夕は、夫婦だった織姫と彦星が、天帝の機嫌をそこねたために、別れをよぎなくされ、
 年に一夜、天の川をこえて逢瀬をゆるされる。その宵に、修一の戦史公報が届いたこと
 に、富栄は因縁と後ろめたさをおぼえた。
・戦史広報とは、復員してきた兵士と上官の報告のもとに、政府が、兵隊の死亡を公的に
 認定して通知するもので、それを受けて遺族は初めて死亡届と葬儀を出すことができる。
・富栄はやましさに胸がうずいたが、身も心も太宰に惚れて、一日と会わずにはいられな
 い自分を、もうどうすることもできなかった。
 
恋の螢
・太宰が下宿にやってきて、自殺する意志を初めて告げた。
・富栄は、夫の死が確実となり、法的には独身にもどり、自由に再婚できる。十歳年下の
 冨栄は自分から離れ、女のという蜜を求めて、蝶のように飛び去っていくだろう。修一
 の戦死公報を聞いてより、太宰の胸に不安が広がっていった。
・「ぼくは死ぬよ。やることに決めた」
・富栄は不意をつかれて、すぐには二の句がつげない。しばらく顔に沈痛の色を浮かべた。
 「惜しい、太宰さんを死なせるのは、勿体ないわ」
・「今ぼくが生きているのはサッちゃんのためだよ。君がいなかったら、とっくに命を絶
 っているさ」  
・太宰は、仕事部屋を千草の二階へ移した。富栄の下宿の正面である。昼も夜も働く富栄
 が部屋にいるか、留守か、すぐにわかる。富栄をたずねてくる男でもいれば、それもわ
 かるだろう。手のつけようのない独占欲にじっとしていられなかった。
・富栄は言ってくれた。
 「私もご一緒します」
 「太宰さん以外、私の死ぬ本当の意味は判らないわ」
・「愛している証拠だよ」
 「愛って、痛いものね」
・芥川が死んでより、作家はみずから命を絶つものと思っていた。明治の川上眉山は頸動
 脈を切り、三十九歳で自殺した。大正の有島武郎は、四十五歳で人妻と情死した。
・「おさん」という小説で、太宰治は、数え年二十八の富栄との心中を予告したのである。
・太宰は、家庭をかえりみない夫を持つ外間の虚しさも、「おさん」にえがいた。
 今夜、夫は帰るのか、帰らないのか、行き先知れない亭主を持って夜がふけていく妻の
 やるせなさ。乳飲み子をすえに三人の子どもを育てる母の疲れ。それはすなわち、美知
 子の悲嘆である。 
・彼には、富栄が必要だった。育児で手が離せない美知子にかわって、多忙な太宰の細々
 とした実務をこなす秘書にふさわしいのが富栄だった。一緒に死んでくれる相手も、三
 児を育てている美知子ではない。自ら望んで妊婦になった静子でもない。自分を崇敬し
 てくれ言うなりになる富栄しかいない。一人で死ぬ度胸は、太宰にはなかった。
・だが、富栄の若い命を惜しむ良心の呵責もある。
・睡眠薬カルモチンを飲ませ、十七歳で死なせてしまった田部あつみへの懺悔が、今も彼
 を苦しめていた。  
・どちらが先に死ぬのでもない。一緒にこの世を去ろう、富栄にせまった。
・富栄は考えた。二人で死のうという誘いを断ったら、太宰は見捨てられたと感じて、自
 分から離れていくだろう。妻ではなく、この私が、死の旅路をともにする女として選ば
 れた。それだけ私は愛されている。
 
・公園がつきたところで、北から流れてくる玉川上水に突き当たった。夜気に水の匂いが
 する。下流へ目をやると、暗いしげみでは、流れにそって、ぼんやり黄色い光がともり、
 闇のなかを飛びかっていた。
 「螢が、あんなにたくさん」
・「オスとメスが恋をしているんだよ。鳴く蝉より、鳴かぬ螢が身を焦がし、といってね」
・富栄は今、自分の燃えるような恋心も、この体から抜け出して、ぼうと光りながら夜を
 飛んでいるのだと思う。
・音もなく飛ぶ螢の美しさに心うばわれて口をきけないまま、富栄は太宰の手を握りしめ、
 岸にたたずんでいた。
・「蛍は、短い命でね。二週間くらいだ。ほとんど飲まず食わずで、恋をして、死んでい
 くらしい」  
・「死んでもいいから、恋しい人といつも一緒にいたいんだわ」
・この人なら死ぬのはこわくないと、また思いをあらたにする。よりそう女のいじらしさ
 に、太宰は、夏服の富栄に長い腕をまわして抱き寄せ、口づけをした。
・このころの富栄の日記からは、一緒に死のうと誓っては二人で泣き、死の誘惑の甘さと
 恐怖をわかちあってまた泣き、死を語らって切ない恋情をかきたてていた様子がうかが
 える。太宰と夫婦として生きられないなら、夫婦としてともに死ぬことが愛の成就だと、
 彼女は思いつめていた。
・昼はミタカ美容院で、夜は給金のいい進駐軍で働き、マーケットの酒店で竜台もした上
 に、生活を切りつめてきた富栄には、十数十万円の貯金があった。ちなみに当時、国家
 公務員の初任給は二千三百円である。銀座の美容院と学校再建のための資金だが、太宰
 と死ぬことを決意してからは、身を粉にして働いた蓄えを、太宰と編集者たちの飲食接
 待に惜しげもなく使い、一年足らずでなくなった。
・あの人が、やるよ、と言えば、それで終わり、これが最後の夏になる。富栄は、かすか
 な悲しみとともに、これで楽になれるのだと安らいだ心地にも満たされていた。
・地獄は、あの世にはない。この世にあるのだ。
・流行作家の愛人・・・。記者たちが富栄のいないところで酒の肴にして嗤い、あてこす
 っているのはわかっていた。太宰の原稿をもらうために、彼らは、そばにいる富栄にも
 とりいって、表面的にはいい顔をしてみせる。だが陰では、戦争未亡人が空閨の飢えを
 満たすために、男前の人気作家にしがみついて離れない。有名人好き、不道徳な女、と
 軽蔑していることを察していた。察していながら、彼らの前では気づかないふりをして、
 鈍感にふるまうのだった。
  
・富栄は、満二十八歳の誕生日、太宰に誘われて、熱海へ一泊旅行に出かけた。泊まった
 のは、熱海港を見晴らす坂の上の小さな宿「松乃寮」だった。ここは野川家お下宿でも、
 千草の二階でもない。入江をのぞむ二人きりの部屋に、布団をならべた。修一とわずか
 な生活ではわからなかった歓びの果てを、うまれて初めて恋した男にあたえられ、富栄
 はわななき、恍惚とまどろんだ。太宰の愛する女は自分だけと信じきっていた。
 
・富栄の下宿に男が訪ねてきた。
 「太田通とお申します。静子の弟です。姉が無事出産しましたので、その件で参りまし
 た」 
・富栄は今ひとつ用件がつかめないまま、ひとまず二階へあげた。
 「先生、おひさしぶりでございます。姉は下曾我で女の子を出産しました。母子ともに
 健康です。太宰先生にも、姉にも似て、丈夫な可愛い子どもです。本日は、女の子に名
 前をつけていただきたく存じます」   
・お茶をいれようと、火鉢の鉄瓶から湯ざましについでいた富栄の顔がこわばった。体の
 力がぬけて、富栄は熱湯を畳にこぼし、しぶきが指にかかった。あっと小さく声をあげ
 た富栄を、太宰は落ち着かない様子で見やった。
・富栄は上の空でお茶をいれながら、しきりの頭のなかで計算をしている。
・うどん屋で富栄が初めて太宰に会ったのは三月。静子が子供を産んだのは十一月。その
 間は七カ月半・・・。ということは、初めて太宰を知った日、静子はすでに身ごもって
 いた。しかも今日まで、あれほどの愛を語り、心中を誓ながら、隠していたのだ。
・思い返せば、五月の夜、千草で静子に会い、うどんの出前をとって食べた。あの晩、太
 宰は静子を無視して、自分だけに話しかけた。そんな太宰のふるまいに得意になってい
 たが、静子と太宰は、深い仲だったからこそ人目をはばかって、たがいに他人行儀にふ
 るまったのだ。太宰が愛する女は自分だけと思い込んでいた信頼がいっぺんにくずれ、
 富栄は打ちのめされた。
・この日を境に、富栄は変わった。太宰の家庭をこわすつもりは毛頭なく、妻には遠慮し
 ていた富栄が、静子には競争心を燃やした。
・以後、太宰が静子におくる手紙と電報は、富栄が代筆することになった。静子からとど
 く郵便も、富栄が番号をふって管理する。
・さらに富栄は、ミタカ美容院と進駐軍をやめた。多忙をきわめる太宰の補佐役・喀血す
 る彼の看護に専念するためだったが、自分のいない間に、太宰が静子と子どもに会うの
 を警戒していた。  
・翌日から三日続けて太宰は喀血した。妻と三人の子ども、富栄、静子と子ども。自分の
 まいた種とはいえ、前途を思えは暗澹として、背負いきれないと思った。
・あつみが死んだのは睡眠薬だった。こわがりの太宰は、手首を切る、腹を切る血みど
 ろは論外である。睡眠薬が確実だ。つぎは百錠飲んで、酒も飲んで、横たわろう。
・富栄は、八日市町の父母に復籍の手紙を送り、そこに太宰との交際を書いた。太宰との
 関係が誠実なものであること、彼女は言葉をつくして強調している。富栄が太宰を愛し、
 敬う気持は嘘ではない。だが、多くを隠している。彼女もそのころには勘づいていたア
 ルコール依存症ともいえる太宰の連日多量の飲酒癖、自殺心中癖、鬱病気質を書いてい
 ない。愛人に子どもがいることも伏せている。ましてや心中の約束など、おくびにも出
 さない。富栄にとっては、父が承諾することは無理にしろ、せめて黙認してほしかった。
・晴弘はまずあきれ、次に顔を赤くして怒った。一人娘が、妻子持ちの妾として生きて行
 くことなど、認められるわけがない。美容師は立派な人格者でなければならぬ、と指導
 してきた晴弘だけに、娘に裏切られた思いだった。
・そもそも相手の男こそ、いい年をして、二十代の娘が戦争未亡人なのをいいことに、言
 いよって愛人にした挙げ句、この父親が学校の後継者と見込んで指導してきた美容の腕
 を捨てさせるとは、なにごとか。富栄は、手練手管の小説家にだまされているのだ。
・だが、富栄をつれもどすために上京することはなかった。修一と結婚してすぎに離れ、
 未亡人になり、寂しい思いをこらえてきた娘が、初めて好きになった男が太宰なのだろ
 う。むざむざひき離すのも可哀相だった。また娘が泣いてしょげかえるのかと思うだけ
 で、父は不憫だった。まさか死ぬ約束をしているとは、知らなかった。時が経てば、の
 ぼせている娘も冷静になるだろう。父は娘を信じていた。 
  
・『斜陽』が、新潮社から刊行。戦後初のベストセラーとなった。仕上がった本をあらた
 めて読んでみると、富栄は、じぶんの日記と同じ文章を少なくとも四か所見つけた。静
 子だけでなく自分の日記も使われたことに、ひそかな満足をおぼえた。

『人間失格』
・『人間失格』のエピソードの断片は太宰の経験と似通っているが、小説家は虚構をはり
 めぐらせ、より露悪的で、より未熟な愚者へと、作りかえている。だが、その文章の行
 間からは、太宰が若い日の愚かさを悔やみ、とりかえしのつかない過ちに身悶えしてう
 めく声が聞こえるようで、富栄はおそろしいほどだった。
・人はだれしも弱い。ずるくて、未成熟である。自分のだめさ加減を認めたがらない作家
 による作品群の多いなかで、この小説は、自分の弱さと愚行に悩む人々の救いの書物と
 なるだろう。ここに描かれているどうしようもない男の破滅が、逆に、いま破滅への崖
 っぷちを泣きながらさまよう人を地獄から救いあげるだろう。富栄はこの小説をだれよ
 りも先に読める息づまるような幸運に胸のふくれる思いをしながら、これが彼の代表作
 となることを確信した。 
・だが太宰は神経質になり、気が立っていた。原稿がうまくすすまない苛立ちから逃避す
 るように、昼間から富栄を抱きよせる。小説のつづきを考えながら上の空で、柔かな白
 いひざをわる。しかもことがすむと、そそくさとまた机にもどる。
・私は、ほんとうの恋愛をしたことがあるだろうか。冨栄は自問した。まごころから異性
 を愛したことがあるだろうか。
・修一にはつくした。だがそれは妻の務めとしての愛だった。真実に異性を愛すること、
 それも不治の病をかかえ、近づいてくる死期を意識した小説家を愛するとき、なにをす
 べきだ・・・。その答えを考えながら、富栄は、母のように、妹のように、恋人のよう
 に、姉のように、『人間失格』を書きつづける太宰につかえた。

『グッド・バイ』
・静子は太宰の娘を産み、お手伝いと三人で大雄山荘に暮らしている。それにひきかえ富
 栄は、美容院をやめ、蓄えは太宰の飲食に使い果たし、ほしいものも我慢して仕えてい
 る。それなのに彼は、戦争未亡人の美容師と別れる小説を書いた。

スキャンダル
・六月十四日、野川アヤノはお昼近くになっても冨栄がおりてこないのを不審に思い、下
 の台所から声をかけた。細くふすまをあけて顔をのぞかせると、線香の匂いがした。そ
 れはめずらしくなかった。しばしば富栄は、夫の遺影に線香をたてていた。だがその日
 はちがった。富栄と太宰の写真のもとで線香が白い灰になっている。部屋に入ると、室
 内は片づけられ、文机に遺書があった。
・アヤノは、向かいの千草のおかみをつれてひきかえした。パン屋の黒柳夫人も血相をか
 えてあがり、三人は机にならぶ封筒を途方にくれて見下ろした。言い知れない不吉な予
 感が重苦しくとりまいて、三人はおびえた目をかわした。そこへ朝日の末常と吉岡が、
 連載の原稿をとりにきた。
・末常は、美知子あての遺書、セルの着物を仕立て直した太宰の洋服をかかえて、自宅へ
 走った。警察に捜索願が出され、また太宰の遺書にしたがい、版元三社に電報が打たれ
 た。 
・その夜、うなぎの若松屋の小川隆司は、夜通し、三鷹界隈を自転車でかけずりまわり、
 新潮社の野平健一と林聖子、画家の桜井浜江に知らせた。
・野平はすぐひらめいた。
 「玉川上水は人喰い川といってね、はいったら最後、死体は絶対にあがらないんだ」
 何度も語った太宰の声がサイレンのように鋭くよみがえった。
・傘をさした野平と林聖子は、玉川上水ぞいを探すうち、奇妙な痕跡を見つけた。土手の
 クマサザがなぎ倒され、草がちぎれ、土がむき出しになっている。ここから人がずり落
 ちたのではないか。    
・そばに、水の入った茶色のビールの小ボン、小さな青いガラスビン、ガラスの小皿を見
 つけた。青いビンは太宰がウィスキーを小分けしてもち歩くのに使っていた。小皿は、
 富栄がウィスキーを出すときピーナッツをそえたものだった。
・同日の午後、下流の久我山門の鉄さくに、下駄がひっかかっているのがみつかった。太
 宰と富栄のものと確認され、玉川上水に投身したことが、ほぼ確実となった。
・八日市町の晴弘が上京。ちょうど冨栄院お下駄が上水でみつかったところで、父は娘の
 入水を知った。なにかの間違いであってほしいと願っていた父は打ちのめされ、言葉を
 失った。  
・編集者と太宰の知人が集まる千草へ顔を出すと、予想をはるかにこえる冷ややかな視線
 にさらされた。
 「山崎の父でございます。おさわがせをして申し訳ございません」
 土間で頭をさげると、いまいましげな声が、座敷から頭上にふりかかった。
 「困ったことをしてくれましたよ」
 「娘さんには、うんざりだ」
・「娘は、太宰さんが死んだら、あとを追うというようなことを申しておりましたが、こ
 んなことに・・・。奥さんにすまない気持ちいっぱいでございます。馬鹿なやつです。
 お許しください」
 また頭をさげるが、だれも答えなかった。
・晴弘はすぐさま玉川上水へ向かい、川面に目をこらしながら岸にそって下流へたどり、
 鉄さくが流れにかけられている久我山門まで、四キロ、歩きつづけた。朝からの雨で水
 かさを増した川は白濁して、なにも見えなかった。渦をまく深く冷たい流れのどこに、
 娘は沈んでいるのだろう。歩くうちに涙で目がかすんだ。
・夜になると、懐中電灯で川を照らし、富栄、富栄、お父ちゃんがきたぞ、と呼びかけな
 がら、娘を探した。 
・翌十六日、朝日、読売、毎日が大きく情死を報じた。記事は服毒自殺をほのめかして、
 晴弘はおどろいた。
・この記事により、
 「都民の口に入る水に、毒薬を飲んで飛び込むとは、なにごとだ」
 と非難がまきおこり、水道局が水質検査をする事態となった。
・毒物は検出されなかった。おりからの雨で上水の水量は増していて、予測されたことだ
 った。また遺体発見後、検視医が服毒の徴候はないと記者に語り、新聞も書いた。
・では、青酸カリという話は、どこからでてきたのだろうか。
・土手の空瓶を見ただけで、なぜ青酸カリだとわかったのか。青酸カリは、水にとかして
 も無色である。空瓶を見ただけでは、中身が睡眠薬をのんだ水か、あるいは雨水か、区
 別がつかいのではないだろうか。
・野平は間髪をいれず答えた。
 「あれは早とちりでした。太宰さんから、富栄が青酸カリをもっていると言われたこと
 が念頭にあって、とっさにそう思ったんです。でも、冷静になって考えれば、根拠はあ
 りません」  
・だが青酸カリ説は、別の書き手らの憶測によって、富栄による殺害説へ発展し、山崎家
 を苦しめていく。
・三鷹へついた晴弘は、親の責任として、美知子のもとへわびに出かけた。だが表へあら
 われた男の門前ばらいにあい、玄関先で一礼して帰るよりなかった。
・美容院とお茶の水美容学校の再建のために、朝から深夜まで身を粉にして働きつづけた
 娘のつらさ、寂しさが、今さらのように晴弘の胸につたわってきた。娘に、多くを期待
 しずぎたのだろうか・・・。二十代の富栄には背負いきれない重荷を、当然のように負
 わせてしまった間違いが、この結末だろうか。悔恨が、老父の胸に波のようにくりかえ
 しおしおせた。
・新聞は連日、遺体捜索を報じた。ベストセラー『斜陽』の流行作家と戦争未亡人の心中
 という、戦後の日本を象徴する、ある種の社会性と、センセーショナルな情痴性の両面
 から、記事は書かれた。富栄が愛人であるがゆえに太宰を独占したがっていたこと、富
 栄による殺害を暗示させる文章もあった。
・議論をかさねたすえ、富栄への誤解をとくために、やむをえず冨栄の日記をマスコミに
 たくすことになった。『グッド・バイ』の担当者にして、朝日新聞学芸部部長でもあっ
 た末常卓郎である。日記は、大スクープとして、「週刊朝日」の全ページをついやして、
 一挙掲載されることになった。
・父は、久我山門の橋に立ち、激しいしぶきをあげて流れる濁った水を見つけていた。こ
 こは川の中に、鉄さくがかかっている。なにかが流れてくれば、ひっかかるはずだった。
 大きな傘をさし、疲れた顔で玉川上水の流れを見おろす父の姿を、ニュースフィルムの
 映写機撮影していた。それは全国の映画館で上映された。
・死体は、消息を絶ってから六日目の十九日、投身現場から約千メートル下流で発見され
 た。遺体発見の報せに、晴弘と武士は下宿から走った。大学で山岳部にいた武士は、堤
 の桜の幹と自分の腰をロープでしばりつけ、それを力綱にして、土手の斜面から流れの
 早い水辺におり、人夫を指揮して、抱きあっている恋人たちをひきあげた。溺死体はふ
 くれあがっていた。  
・島津家へは、千草のおかみが、ずぶぬれになって走り、報せた。美知子は、とり乱すこ
 ともなく静かに言った。
 「ご苦労さまでした。太宰の遺体は、骨にするまで、家へあげないでください」
・二人の結ぶひもが切られ、抱き合う腕をほどき、別々に寝かされてムシロがかけられた。
 やがて出版社が手配した霊柩車がきて、太宰の亡骸はおさめられ運ばれていった。編集
 者たちも去った。 
・富栄の遺体が土手に残され、冷たい雨にうたれていた。父はレインコートをぬいてムシ
 ロのうえからかけてやり、自分が濡れるのもかまわず傘をさしかけた。
・「親心だねぇ、娘にカッパをかけて、傘までさして、どうせもとから濡れているのに」
 見物人の一人が、なかばあざけるように、なかば哀れむように言った。
・増えていく観衆の物見高い視線をあびながら、晴弘はその前にたちはだかって娘の亡骸
 を人目から守った。泥に汚れたムシロから、ロウソクのように白くなり、傷ついた素足
 がのぞいた。
・富栄の棺もとどいて、検視のために千草へ運ばれ、土間におかれた。まず富栄、つぎに
 太宰の遺体を医師があらため、懐中電灯で瞳孔や口内もしらべた。毒物を飲んだ形跡は
 なく、水死と判断された。犯罪性はみとめられず、そのため解剖はされなかった。
・「二人は一緒に逝ったんだから、同じ火葬場で骨にしてやりましょう」
 と作家・翻訳家の豊島與志雄が言った。
・太宰と富栄は、彼の家を三度訪れ、そのうち二度は泊まっていた。太宰に誠心誠意つく
 す富栄、まんざらでもなさそうな、おもはゆげな微笑でこたえる生前の太宰を見ていた
 豊島の願いだった。当然ながら、津島家が反対した。
・墓をどうするか、葬儀委員長の豊島が言った。
 「太宰と富栄さんは、想いあって死んだんです。相思相愛の死者といえば、比翼塚です
 よ。二人のために、比翼塚をたててやりましょうよ」
・「美容師風情を、太宰先生と一緒に弔うなんて」と鋭いささやき声があがった。
 常識人の井伏が、豊島の感傷的な提案をおだやかにたしなめ、豊島は折れたが、それで
 も言った。  
 「富栄さんは立派な女でした。太宰君が一人で死ぬのでなく、富栄さんがつきそってく
 れてよかった。私はそう思っています」
・太宰の遺骨は、三鷹の禅林寺におさめられた。ちなみに現在、太宰の墓の向かいには、
 偶然にも、富栄に太宰と別れるように説得したミタカ美容院の塚本サキが眠っている。
 塚本家の墓所の隣は、森鴎外の墓である。
・晴弘は、骨になった娘を抱いて、八日市町へもどった。葬儀は、富栄が疎開中に暮らし
 た御代参街道の店でとりおこなわれた。
・晴弘はまた針のむしろを覚悟して、身の縮む思いで、ひたすら頭を下げていた。だが地
 元の八日市町はちがった。
 「富栄さんも、親不孝なことしはりましたなぁ」とひとりが言うと、堰を切ったように
 反論があいついだ。    
 「なにゆうてますの。富栄さんは、被害者ですやろ」
 「そやそや、相手はんは、なんべんも自殺やら心中やらしてはって、前にも若い女給さ
 んが死なはったって、新聞に出てましたで」
 「かわいそになぁ、富栄さん、道づれにされたんどすなぁ。相手のセンセは、結核もち
 で、もう先がないゆうて、悲観しはったんやろなぁ」
 東京人の晴弘をむかえいれてくれた商店街の店主や客たち、大店の番頭たちが富栄をか
 ばった。   
・「週刊朝日」に富栄の日記が掲載され、すさまじい反響をよんだ。朝日新聞が単行本に
 したいから権利を譲ってくれと云うので晴弘は譲渡した。だが朝日新聞は単行本を出さ
 なかった。
・「週刊朝日」には、読者からの批判も殺到した。
・作家の宮本百合子は、唯一、遺族である津島家と山崎家に配慮した発言をして、きわだ
 っていた。
 「私は女として夫人のお気持ちも深く察します。一緒に死んだ女の人の扱われ方に対し
 て、父である人の心中も察します」
・いずれにしても、こうした否定的な反響を受けて、冨栄の日記は、新聞社にふさわしく
 ない、低俗でエロな内容とされ、出版は中止になった。そればかりか、娘への誤解をと
 くために日記を公けにしたはずが、逆に避難の的になった。
・昭和二十三年八月、富栄の日記は、『愛は死と共に』という署名で石狩書房から発行さ
 れた。  
・葬儀を終えた父は、富栄がのこした太宰の本を徹底的に読んだ。娘が死ぬほど愛した男
 は、どんな小説を書いていたのか。文学書など読む習慣のない老父だったが、娘が命を
 絶った理由をさぐりあてたい一心だった。
・太宰は、死ぬ前の一年間に発表した作品で、自死の描写をくり返していた。
・暗いスタンドのもとで、晴弘はがく然とした。死の願望、女との心中、睡眠薬大量服用、
 入水・・・。自殺を妄想しつづけた作家に、娘は惚れこみ命を犠牲にしたというのか。
 あの子は、日なたに咲く花のようなすこやかな心をもっていたはずだ。二人は、死神に
 でもとり憑かれていたのか。娘のことが、父はわからなくなった。
・九月のお彼岸に、信子が富栄の遺骨をたずさえ上京、つたや伊久江など、身内だけで永
 泉寺におさめた。墓石に、富栄の名はきざまれなかった。  

残された謎、遺された人々
・太宰が『斜陽』を書いた西伊豆参津浜の田中英光が、太宰の墓前で、睡眠薬三百錠をの
 み、カミソリで手首を切って自殺した。
・子どもが自ら命を絶ったとき、遺された家族がどれほどつらいか、晴弘は初めて思い知
 らされた。愛するわが子を喪った哀しみもさることながら、それ以上に、自分を責め続
 ける苦しみが重くのしかかる。 
・ひとつには、娘の悩みが、命を捨てるほど深いものだと、生前に気づいてやれなかった
 自分の鈍感さ、迂闊さにたいする悔恨である。苦しんでいた子どもの役にたてなかった
 無力感に、親として絶望さえした。
・ふたつには、死者に見捨てられた孤独である。あの子は、生きている親の助けを求める
 よりも、死の救いを選びとった。親と生きていく未来よりも、太宰と死ぬ地獄を選んだ。
 自分は、娘にあてにもされず、どうせ父は力にはなってくれまいと、見放されたのだ。
 その失望と疎外感も、果てしなかった。自分が、娘が悩みをうち明けるほどには信頼さ
 れていなかったのだと、みじめな気持ちにもなった。
・みっつには、生きているうちに、もっと踏み込んで話を聞いてやり、意志の疎通をはか
 るべきだったという後悔である。娘とはいえ、どこか気がねがあった自分の不甲斐なさ、
 怠慢も、悔やまれた。
・さらに晴弘自身、娘を冥界へ連れ去った太宰に対して、怒りもあった。
・つつましく深慮した晴弘は沈黙を守り、抗議も問い合わせもしなかった。人の夫であり
 人の父である太宰を、津島家からうばい、文学界にも多大な損失をあたえた不肖の子の
 親として、どんな屈辱にもたえる覚悟だった。だが、これにより晴弘は、人殺しの親と
 された。
亀井勝一郎井伏鱒二が書いた絞殺説により、太宰のイメージは、敗戦後の混乱期に文
 学と恋愛に命をささげて殉死した壮絶な文学者から、愚かしい愛人をもったばかりに女
 の独占欲から殺された惨めな頽廃作家へと、微妙は変化が加わった。
・富栄への風当たりはますます強くなった。晴弘は、あれが太宰を殺した芸者の親だと、
 後指をさされた。
・雑誌には、富栄が、島田に髪を結った写真が出回った。学校時代の昭和十二年、二人ひ
 と組の結髪実習で、モデル役として結われたものである。
・島田髷は、日本の未婚女性の髪型であり、そのため婚礼の花嫁は、髪の根を高くした文
 金高島田を結う。武家の令嬢たちも結った正当なものである。
・だが、日本髪の衰退とともに、それを知らない者も増え、富栄の島田髷をみては、芸者、
 玄人すじ、酒場の女という誤解もひろまっていった。   
・娘を中傷する記事はやまず、やがて父は心労のあまり食欲が衰え、仕事を休むようにな
 った。年が明けると衰弱がはなはだしく床についた。
・不徳の娘を恥じて、叩かれるまま頭をさげ続けてきたが、そのために死後の娘を守って
 やれなかった無念さにも苦しめられていた。 
・なにがいけなかったというのか。なにが間違っていたのか・・・。その虚しさを口にす
 る力は、寝ついた晴弘に残っていなかった。晴弘はうすく目をあけて、信子に言った。
 「すまなかった」
 ひとつ深い息をはいて力なくまぶたを閉じた。昭和三十二年一月、八日市町で七十六年
 の生涯を終えた。
・昭和三十四年四月、明仁皇太子と美智子妃のご成婚の日、伊久江は宮中にあがり、宮内
 省掌典職の助手として、妃殿下の十二単衣紋の御用をつとめた。かつて晴弘が衣紋道を
 教えた伊久江が、大役を果たしてくれた。 

エピローグ
・津島美知子は、体の弱かった長男を十代で亡くしたが、二人の娘を育てあげた。夫の死
 については賢明なる沈黙をつらぬきながら、太宰作品の価値を守りつづけ、平成九年に
 亡くなった。
・太田静子は、ときには食事にもことかく苦しい生活のなか治子を養育し、太宰の命日に
 は、毎年、富栄の冥福を祈りつつ、昭和五十七年に他界した。
・山崎つたも、女手ひとつで二人の子どもを育て、鎌倉で元気に美容師を続けて、平成六
 年に亡くなった。ただ、本に書かれた富栄が、実のいとこである富栄の姿とかけ離れて
 いることを、死ぬまでなげいていた。
・山崎伊久江は、昭和三十八年、皮膚と毛髪のペーハーと同じ弱酸性のパーマ液を世界で
 初めて研究開発。厚生省の認可を受けて、全国に指導し、普及させた。