横井小楠       :徳永洋
               (維新の青写真を描いた男)

この本は、いまから20年前の2005年に刊行されたもので、幕末の思想家・横井小楠
の伝記である。
本のサブタイトルとして「明治維新の青写真を描いた男」とあるのだが、私はこの横田小
楠という人物については、この本を読むまではまったく知らなかった。
この本の著者は、大学などに職を得ている研究者ではなく、個人的な横田小楠の研究者の
ようだ。30年以上も個人的にコツコツ横井小楠の研究を続けて、この本を出せるまでに
なったという。そんな人物であるこの本の著者も、なかなか「ただ者ではない」と思えた。

横井小楠の思想は、朱子学が基本になっており、朱子学の道徳観や倫理観を政治に適用し
ようと考えたもののようだ。
小楠の提示した政治は「共和政治」の実現であり、これは文字通り「共に和する」政治と
いうことであり、合議、衆議を尽くす政治、つまり議会政治のイメージに近いものであっ
たという。幕末に、すでにこのような思想を持っていたというのは、すごいことだ。
ただ、朱子学の理論だけでは、現実社会の問題を解決できないと考え、学問を社会に役立
てるために実学の重要性を強調したという。
例えば、農業や商業の振興、軍事力強化など、具体的な政策を提唱していたという。

横井小楠の思想は、勝海舟坂本龍馬それに西郷隆盛に大きな影響を与えたようだが、
一般にあまり知られた存在ではない。
その理由は、横井小楠は思想家であり、実際の改革者ではなかったからではないかという。
幕末で名が知られているのは、坂本龍馬や西郷隆盛や勝海舟などの実際の改革者たちばか
りなのだ。これは、ちょっと寂しい話だ。


はじめに
・幕末維新期に活躍した人物の中で、今日、横井小楠ほど不遇な人間はいない。
 西郷隆盛や勝海舟をはじめ、そうそうたる面々に思想的な影響を与えたにもかかわらず、
 地元の熊本でも彼が果たした役割について語れる人は少ない。
 地元でさえそんな具合だから、全国的な評価は推して知るべし。
 半ば忘れ去られた存在だといっていい。
・だが、横井小楠は決して軽んじられるべき人物ではない。
 むしろ幕末維新史を語る上でのキーパーソンの一人であり、小楠を抜きに維新はあり得
 なかったと言っても過言ではないのだ。
・横井小楠は、欧米列強の開国要求によって幕藩体制が揺らぎ始めようとする前夜の、
 文化六年(1809)、熊本藩士の次男として生まれた。
 勝海舟よりも14歳、西郷隆盛よりも18歳年長で、維新を見ずして亡くなった島津斉
 彬
と同じ歳である。
・湘南の主張は、「今の徳川幕府の政治は、徳川家ご一家の弁理私営のための政治である
 から、これを止めさせ、まず公武合体を実現して、さらに諸大名、諸藩士の有能な人物
 を登用し、それを朝廷で統治する。政治は朝廷から出て日本国中共和一致の平和な国家
 にしなければならない」
 というもの。
 ここでいう「共和一致」とは、いわゆる「共和制」ではなく、議会主義といった意味で
 あり、平たく言えば「天王の下に国家を統一し、人材を広く登用し、議会政治を実現す
 る」というものであった。
 これは維新政府がめざした政体そのものである。
・湘南の唱える富国強兵は、単なる「西洋文明の輸入」ではなかった。
 小楠は「西洋の文明はあくまで技術として優れているのであって、そこには徳はない。
 日本は東洋の徳ある文明をもとに、そこに西洋の科学文明を取り入れるべきだ」
 と考えた。
 西洋の文明の行き先は「覇道」である。
 日本の進むべきは「王道」であり、東洋と西洋の長所を生かした国家をつくり、覇権で
 はなく「仁義」に基づいた「富国強兵を超えた理想国家」となって世界の世話を焼け、
 と説いたのである。
・ちなみに、かつて小渕恵三首相が施政方針演説で唱えた「富国有徳国家」という言葉も、
 その小楠の思想をあらわしたものである。
・私は大学に職を得ている者ではないし、市井の一研究者に過ぎない。
 だが、若い頃にたまたま小楠という存在に出会い、以来30余年にわたって研究を続け
 てきた。
 古書店で新史料が出たと聞いては買い付け、調べれば調べるほどに、小楠の果たした役
 割の大きさ、その思想の奥深さを実感してきた。
・世界は混沌とし、文明の形は揺らぎ、日本も進むべき道を見出だせず、時代は暗中模索
 の中にある。 
 そんな時代だからこそ、幕末という混迷の時期に、こんな未来を描いていた人物がいた
 ことを知って欲しい。

いかにして開国論者になりしか
・文化六年(1809)8月、横井小楠は熊本城か内坪井町に横井時直と員(かず)の次
 男として生まれた。
・父の時直は熊本藩の150石取りの中堅官吏、母の員は永嶺仁右衛門の長女であった。
 小楠には兄と弟がおあり、兄・左平太(時明)は後には各地の郡代を歴任した能吏であ
 った。
 弟・仁十郎(道明)は母の実家(永嶺家)の養子となっている。
・小楠は、実名は時在、通称・平四郎、号は小楠。
 幼い頃の小楠は、実はわんぱくな悪ガキで、近所の子供たちは小楠のために生傷がん絶
 えなかった。
・わんぱくの限りを尽くした小楠だったが、十歳前後に藩校「時習館」に入学すると、
 一心不乱に勉学の道に励んでいくようになる。
 当時、知行(俸給)を与えられるのは一家一人で、普通嫡男に限られていた。
 次男以下は武芸目録が相当そろわなければ他家に養子にも行けず、妻帯もできない一生
 兄の厄介者という運命であった。
 小楠も次男だったので必死であったのだ。
・時習館では、十五、六歳で蒙養斎にすすむ。そこで資源に合格すれば講堂に出席して高
 等の学科を学ぶことができた。 
 また講堂生のうち請願のあった十名程度を選抜し、居寮生(特待生)として藩費をもっ
 て館中に寄宿させた。
 さて小楠であるが、兄の厄介者とならずに一人立ちするためには、この居寮生をめざし
 て文武に精進するほかはなかった。
 時習館に入学した小楠は努力の末、順調に進級し、二十五歳で晴れて居寮生に選ばれた。
・小楠は、この時、時習館で藩学であった朱子学を学び、さらに水戸藩の「会沢正志斎
 が著した「新論」を読み、その現実に直面する政治上、軍事上の諸問題を取り上げて尊
 王攘夷論を主張する内容に感銘を受け、いわゆる水戸学に関する文献をむさぼり読んだ
 のであった。 
・天保八年(1837)には二十九歳で居寮長(塾長)に抜擢される。
 その心付けとして毎年米十俵を藩から受けることができた。
・小楠は、塾生たちに自由討論をさせるとともに、コミュニケーションを良くすることに
 努めた。 
 今風に言うならば、月に一回はコンパを開き、塾生同士の交流を図ったのである。
・実際にこのように良好な状況が長続きすれば問題は生じなかったのだが、結局、一時的
 に塾生たちの交流は盛り上がったものの、回を重ねるうちに飲酒による戯れふざけが過
 ぎるようになっていった。 
 それに加えて、小楠の酒癖の悪さもあったようである。
・好きなものにはいいが、中にはこれを嫌う者や憎む者が現れてきて、塾生の退寮者が続
 出したのだ。 
 趣向をこらして居寮新制度の定着に努めたのだが、塾長就任二年にして失敗した。
・その後、小楠は藩命により江戸遊学に行くことになるが、これには小楠の将来を考えて
 勉学のチャンスを与えるという表向きの理由と、退寮者続出事件のほとぼりをさますた
 めという裏の意味合いもあった。 
・小楠は江戸で見聞きしたことを、「遊学雑志」と題して記録している。
 後年、その内容を聞いた西郷隆盛は小楠の人物鑑定の確かさを称賛している。

・天保十年十二月、「藤田東湖」は同志を招いても忘年会を開催した。
 小楠もそこに招かれた。
 「酒失事件」は、その忘年会の帰りに発生したのである。
 忘年会の帰り道、小楠は会津家中の橋詰介三郎と公儀御徒の相良由七郎と一緒だった。
 だが、その途中で小楠と相良が口論となり、小楠が相良を手で三度ほどなぐってしまっ
 たのである。 
 小楠は泥酔しており、落とした羽織を橋詰が着せるほどだった。
 仕方なく、橋詰が湯島聖堂にいた小楠の同僚・片山喜三郎にしらせて、片山に小楠を愛
 宕山下の宿舎まで送ってもらった。
・この話を小楠と不仲だった沢村宮門が片山から聞くに及んだ。
 そして江戸留守居の父・沢村太兵衛に繰り返し告げ口したのだ。
 これを聞いた筆頭家老松井山城派の沢村太兵衛と江戸詰の溝口蔵人は、自分たちの責任
 回避と対立していた長岡監物派の小楠追い落としのため、藩庁に「小楠は禁酒の見込み
 はなく、相手とは内済したものの報復されるかもしれないので、小楠を帰国させる」と
 報告した。
・報告書を受け取った熊本藩庁の中老と家老から江戸詰の溝口に、小楠に対する見解が手
 紙で送り返されてきた。
 その見解は妥当なものだった。
 沢村太兵衛から報告のあった内容については承知したと前置きしたうえで、「つまらな
 いことで処分しないで小楠の将来のことを考えて、報復のおそれがあるならば、本人の
 希望もあり水戸か奥羽のほうへ視察に行かせたらどうか」と書かれていた。
 しかし、この手紙が江戸につく前に溝口と沢村は、小楠の帰国処分を勝手に決定してし
 まっていたのだった。 
・熊本に帰った小楠を待っていたのは藩庁による七十日逼塞処分であった。
 結局小楠は、松井、長岡両家の政争の犠牲となったわけである。
 しかし小楠は、この逆境にもめげずに門を閉ざした中で、一人楽音と思索に専念したの
 だった。 
・故障が失敗しても自暴自棄とならず、前向きに自分の目的を見失わなかったことに、
 さすが幕末の動乱の中でもオピニオンリーダーとして貫いた芯の強さがうかがえる。
・ところで謹慎中の小楠は、家族に禁酒を誓った。
 しかし守れなかったようである。
 というのも、家の神棚の神酒徳利の酒が毎日なくなるので、兄嫁がおかしいと調べてみ
 ると、深夜に小楠がこっそり飲んでいることがわかった。
 兄嫁は誰にも言わず、神棚に酒を供え続けたので、小楠は表向きは禁酒を守れたのであ
 る。  
・「捨てる神あれば拾う神あり」とはよく言ったもので、小楠は、昔の友人だった沢村宮
 門からは告げ口をされ裏切られたのであるが、支えてくれる多くの仲間がいた。
 帰国の翌年に、小楠のもとに集り研究会を開いてくれるようになった。
 こうして、小楠の研究会グループは、会読や討論を通じて独自の政治理念を持つように
 なっていく。 
・小楠をはじめ研究グループがはっきりと「実学」という理念を自覚したのは、一藩の幸
 い、天下の幸いと自負し、家老・長岡監物を中心として、まず熊本一藩で理想の政治を
 実現して、これを日本全体に及ぼすことは難しいことではないと壮大な夢を持って「実
 学党」としての活躍を始めたのがきっかけであった。
・実学党の動きに対して、筆頭家老・松井山城、佐渡親子を頭目とする派は、「学校党」
 と称し、小楠らの反発を強めていった。
・弘化元年(1844)に長岡監物や小楠を中心とする実学党が尊敬していた水戸藩の藩
 主・徳川斉昭、藤田東湖などが幕府から隠居、蟄居を命ぜられて失脚すると、学校党は、
 ここぞとばかり勢いづいた。
 藩主・細川斉森らを説得し、とうとう長岡監物を家老職辞任に追い込んだのである。
・学校党は、小楠を中傷したが、そんな中傷など意にも介せず、小楠の学識はますます進
 んだ。
 ひとり眼を外国にそそぎ、藩の槍劔隊を廃して火器を用い、和銃を廃して洋銃にし、
 先方も西洋法をもちいることや、当時多数の死者を出していた天然痘の種痘により予防
 すべきだと、熊本藩に提言した。
・小楠は塾生たちへの講義で、書物の単なる暗記や物知りに終わらせるのではなく、日常
 事物に心を用いて考え、道理を会得して、これを日常生活に活かすことが実学であると
 教えた。
 したがって小楠は講義中にメモを取ることを嫌い、塾生がメモを取っているのを見つけ
 ると、そのメモを取り上げ、家中に投じたこともあったという。

・時あたかもペリーが米艦四隻を率いて浦賀に来航し、ロシアの使節プチャーチンも軍艦
 四隻を率いて長崎に来航するなど日本中が騒然となった時代である。
 幕府は驚き諸大名や諸有司に開国の可否を諮問するあわてぶりであった。
・そんな中、小楠はこの年、四十五歳にして藩士小川吉十郎の娘・ひさ子と結婚、翌年の
 安政元年(1854)には、仲の良かった兄・時明(四十八歳)が病死したため家督を
 継ぎ、兄の妻清子をはじめ長女・いつ子、長男・左平太(十歳)、次男・太平(五歳)
 の面倒をみることになり、家族は実母を含め七名となった。
・その年、小楠は長年の盟友長岡監物と絶交した。
 理由は学問上の意見の衝突であり、「大学」の冒頭にある「大学の道は明徳を明らかに
 するにあり、民を新たにするにあり、至善に止まるにあり」の明明徳と新民の優先順位
 についての見解の相違という、ささいなことであった。
・悪いことは続く。親友だった水戸藩の藤田東湖と戸田蓬軒が安政の大地震により死亡し
 たとの悲報が届いたのである。 
 東湖の死は、また小楠の水戸藩との決別となった。
・そして東湖の悲報に続き、小楠四十七歳にして得た長男(生後三か月)が原因不明の病
 気でなくなり、さらに妻のひさ子が、その十日あまり後になくなってしまったのだ。
 しかし、小楠は持ち前の強靭な精神力で頑張り乗り切っている。
・安政三年(1856)に、門下生矢島源助の妹・せつ子(二十六歳)を後妻にむかえ、
 後に長男・時雄と長女・みや子の二人の子供にも恵まれ、横井家にようやく明るさがも
 どったのであった。  
・一方、激しい攘夷論者だった小楠は、「海国図志」の影響により世界に一層目が開かれ、
 世界における日本の立場が理解できたので、安政元年三月の日米和親条約締結の頃から
 考え方が急に変わってきていた。
・変貌の兆しは、前年嘉永六年十月ロシアのプチャーチンの応接について幕府の川路聖謨
 に贈った「夷虜応接大意」の中にも見られた。
・開国論者として「東の佐久間象山、西の横井小楠」と称されるまでになる小楠であった
 が、犠牲も大きかった。
 まず、盟友長岡監物が学問上の意見の衝突に加え、小楠の開国論に同意することができ
 ず、決定的に絶交。
 さらに、尊王攘夷派の人々など多くの同志や友人が小楠から離れて行った。
 また、後年小楠が江戸で暗殺未遂事件に遭遇したり、京都で暗殺される遠因ともなった。

福井藩の賓師に招かれる
・福井藩では天保五年(1834)に、藩校である正義堂が閉鎖されてしまっていた。 
 以来、藩学復興が藩内の宿望であった。
 嘉永二年(1849)八月、同藩士の三寺三作が藩命により「朱子学純粋の儒者」を探
 すため諸国遊歴に出た。
 三寺は京都で勤王詩人の梁川星巌から小楠の名を聞いた。
 それがきっかけとなり熊本を訪れ、小楠堂で二十日間ほど学んだ。
 これが小楠と福井藩とのかかわりのはじまりであった。
・嘉永四年(1851)に小楠が諸国遊歴の際、福井に二十日余り滞在し、賓客として待
 遇を受けた際、たくさんの藩士たちが小楠の講義を聞いて感銘した。
 そして翌五年(1852)に福井の有志たちから学校の制度のあり方について質問され
 ると、小楠は「学校問答書」を書いて答えた。
・その大要は、各藩は競って学校を創立したが章句・文字を学ぶだけの読書所に成り下が
 り、経世済民(世を治め、明の苦しみを救う)の理想に燃える人災を育てるような学校
 になっていない。  
 したがって、学問と政事を一致させ、経世済民の志を持つ人材を育せいするような学校
 を創立しなければならない。
 その基本は藩主が一藩の手本となるような立派な人でなければならない、そう語って
 いる。
・この小楠の考え方に共鳴した福井藩主・「松平春嶽」は、安政二年(1855)に学政
 一致をめざす藩校「明道館」を創立したのであった。
・春嶽は、熊本藩主・尾保川斉護にあてて正式に小楠を藩校の教授に招きたい希望を書面
 で送るとともに、自ら江戸の熊本藩邸に家老溝口蔵人を訪ねた。
 溝口は不在だったので、春嶽は自分の夫人・勇姫の母にあたる細川斉護夫人に面会して
 、小楠を招くことに協力を求めた。
・交渉相手の溝口は、店舗十一年(1840)の酒失事件で小楠に帰国命令を出した人物
 である。  
 溝口は春嶽にこう答えてよこした。
 @小楠は信頼できない人物である。
 A藩学に逆らい異説(実学)により藩政を批判している。
 B門人に城下士が少なく郷士が多い。
 小楠とはそのような人物であり、もとよりそれほど見識があるとは思えないので、熊本
 藩においてさえ登用しない者であるから、福井藩にお招きになり、後日不都合が生じて
 は、お大切の先であるからと、小楠招聘を辞退するとした。
・これに対し、春嶽はあきらめることなく、小楠の癖はわかっており、後日不都合が生じ
 るなどの心配は要らないと、溝口に答えるとともに、再度細川斉護に書面で小楠招聘の
 懇願した。
 ここに至っては、熊本藩としても拒絶することができなくなり、ようやく安政五年三月、
 溝口に命じて小楠招聘応諾の旨を福井藩邸に伝えさせた。
・福井藩における小楠の待遇は五十人扶持を与えられ、雑役を行うものが数名つけられた
 ほか、日常の世話人として平瀬儀作と南部彦助が絶えず来館して親身に世話をした。
・あまりに小楠の評判が良く、明道館での会読に出席する藩士たちが多すぎて入りきれず、
 ついに入館を制限するほどであった。
 小楠の福井での船出は順風満帆で思えた。
 行手に一筋の暗雲がただよっているなどとは露ほども思わずに。
・その頃、江戸では井伊直弼が大老となり、将軍継嗣問題(一橋慶喜か紀州の徳川慶福か
 で両派が対立)に揺れていた。
 また、日米修好通商条約の朝廷より勅許問題を突きつけられるなど、まさに内憂外患
 の状態であった。
 そのような中、春嶽と「橋本左内」は幕政の大変革による全国的統一国家の構想を実践
 に移そうとしていた。 
・その内容は、驚くべき抜本的改革である。
 一橋慶喜を将軍として、親藩、譜代、外様の差別をなくし、有用な藩主たちを事務宰相
 や北海道の防備、開発に当たらせ、その補佐役として全国諸藩の有能な藩士や幕臣を用
 い、近代的な全国的統一国家を成立させようとするものであった。
・しかし、あくまでも将軍継嗣は血統主義でなければならないと主張する井伊大老の猛烈
 な反撃にあい、春嶽は完敗、将軍には現将軍徳川家定の従弟にあたる紀州藩徳川慶福
 (十三歳、後の家茂)がなることに決定した。
 また、井伊は日米修好通商条約も朝廷の勅許を得ずに調印してしまう。
 さらに、一橋派だった春嶽と徳川慶勝(尾張藩主)に隠居・謹慎、斉昭に謹慎、慶喜を
 登城禁止として弾圧したほか、橋本左内をはじめ反井伊派の各藩の志士たち(吉田松陰、
 梅田雲浜、頼三樹三郎など)を処刑した。
 いわゆる「安政の大獄」である。
・左内は伝馬町の獄舎に入れられ取り調べられた。
 しかし主君春嶽の命で国事に奔走しただけなので、まさか死罪に処せられるとは思って
 もいなかった。  
 ところが入牢後間もなく、評定所に呼び出され申し渡されたのは、「藩公の命を受けて
 上京し、いろいろ策動したのは、公儀を憚らざるいたし方である」と、死罪であった。
 非情にも、即日、獄内の刑場で、二十六歳の若すぎる生涯を閉ざされたのである。
・この大事件による福井藩士たちの動揺は大きかった。
 村田氏寿と長谷部甚平の二人は、小楠を居館に訪ねて事変を知らせるとともに、ぜひこ
 のまま福井に止まって指導して欲しいと懇願した。
 これに対し、小楠は福井藩を離れないことを約束し、さっそく、明道館に行き、集まっ
 た藩士たちを心を込めて励ましている。
・そんな中、藩士たちの同様に乗じて、藩内保守派の家老・狛山城や元中老の天方孫八と
 五郎左衛門親子などが中心となって、改革派の家老・本多修理、側用人の中根雪江らの
 引責辞任を要求する事件が発生した。
 小楠は、改革派にテコ入れして、どうにか事態を収拾した。
・これら小楠の働きを江戸の霊岸島の邸で閉居中の春嶽が聞いて感激し、小楠への思慕の
 情がつのり、ぜひ小楠の写真を送ってほしいと申し送っている。
 小楠は裃の正装の写真を送っているが、その写真は今もなお残っており、熊本市横井小
 楠記念館できることができる。
・さて、藩内の動揺をおさめて一安心していた小楠は、国元から寄せられた手紙に驚かさ
 れることになる。 
 弟・永嶺仁十郎がコレラにより死亡したと思いがけない通知であった。
 今度は、小楠はすぐに帰国したい旨を申し出た。
・福井藩士・「由利公正」、榊原幸八、平瀬儀作を伴って帰国の途につくことを許された。
 その道中、福井から大坂までの間、由利公正は、毎日、夜半まで小楠の特別個人講習を
 受けていた。
 小楠の由利に対する期待のほどがうかがえる。
・松庵の帰国に同行した由利公正は、熊本における物産の販売や集散状況を視察したほか、
 下関と長崎に行き福井藩の殖産貿易に関する準備のために、外国貿易の実態や関西方面
 の物資の集散状況、運輸方法などを調査研究したほか、長崎に越前蔵屋敷を建築して、
 オランダ商館との間に生糸、醤油などの交易契約を締結して帰藩した。
・安政六年十二月初めに突然、熊本から弟子の矢島源助が小楠の老母の病気が重いと迎え
 にやってきた。
 小楠は、ぜひ母の存命中に会いたいと、すぐに藩庁に願い出て了解を得るや、福井を出
 発し急いで熊本に自宅に着いた。
 だが母はすでに帰らぬ人となっていた。
・小楠は、父をはじめ兄と弟、さらに母を亡くし、ただ一人生き残った寂しさに、しばら
 くは涙に暮れる日々を過ごした。
 しかし妻・せつ子の慰めの言葉と二歳になる長男・時雄の無邪気な笑顔に励まされて、
 やがて元気を取り戻していった。 
・それらの悲しみを乗り越え、福井へ帰任後の万延元年、小楠は実学思想を根底にして考
 え抜いた「国是三論」(富国・強兵・士道の三論を著している。
 その概要は次のようなものであった。
 1、富国論
  @天地の気運に乗じ世界万国の事情に従い、公共の道をもって天下の政治を行えば万
   事うまくいって、いまの心配事もなくなるだろう。
   また、外国を相手として信義を守って貿易をし、利益をあげて収入を確実にすれば、
   主君は仁政を施すことができるである。
   そのためにはまず、藩内で生産された産物を、民に利益があがり、藩庁も損をしな
   い値段を決めて、藩が買い上げ、さらに生産や増産を欲している民家に対しては、
   藩政府が原材料や資金を無利息で貸付ればよい。
  A藩政府は財源確保のためには産物を海外に売りさばけばよい。
  B徳川幕府は諸侯対策として当初から諸大名の力を弱めようとして、参勤交代を命じ
   たほか、藩の大小に従って土木工事などの労役を課したが、それが各藩の民衆に重
   い負担となっていることを少しも意に介していない。
   また貨幣制度をはじめとする諸制度も、すべて幕府の権力を振り回して徳川御一家
   の利益都合ばかりを考えて、天下庶民のためという気持ちは少しもない。
   したがってアメリカ使節のペリーが「無政事の国」と言ったのも至極当然のことで
   ある。  
  アメリカにおいてはワシントン以来、世界中の戦争を止めさせ、世界万国から知識を
  集めて政治や教育に役立て、大統領は世襲ではなく賢者を選んでこれを護るという三
  大方針により、君臣の関係をなくし、政治は公共和平に努力して法律制度から機械技
  術に至るまで地球上の善いものはことごとく取り入れ、活用するという理想的な政治
  が行われている。
  また、イギリスでは民意に基づく政体で、政府の行うことは大小となく必ず国民には
  かり、その賛成とするところを実施し、反対するところは強行しない。
  その他ロシアをはじめ各国の多くは文武の学校はもちろん病院、幼児院などが設けら
  れ、政治や境域はすへて倫理道徳に従って民衆のために行われており、古代中国の三
  代の理想政治や教育に合致しているといってよいのである。
  このように立派な政治を行っている西洋諸国が日本にやってきて、公共の道をもって
  日本の鎖国を開こうとする時、日本がなお鎖国を固守しつづけ、徳川御一家や各大名
  一家のための私営の政治を求めて、「交易」の原理を知らないとすれば愚と言うべき
  である。
  したがって天徳にのっとり、聖教に拠って、世界万国の実情を知り、大いに利用厚生
  の道を開き、国内の政治や教育を一新して、
  富国強兵の成果をあげ、外国の侮りを受けないように努力しなければならない。
 2.強兵論
  今日のように航海が大いに開けて、海外の諸国をも相手にしなければならない時勢で
  は、孤島の日本を守るには海軍を強くする他に道はない。
  幕府がもし制度一新の令を下して、わが国固有の激しい勇気をふるい立たせ、全国の
  人心を団結させ、その軍政を定め国威を示せば、外国を恐れる必要がないだけでなく、
  機会をみて日本から海外諸国に渡航して、わが義勇をもって諸国の争いを仲裁してや
  れば、数年もたたないうちに諸外国がかえってわが国の仁義の風をしたってくるよう
  になるだろう。 
 3.士道論
  @いまの日本では、学者は武術家が粗雑乱暴で日常の役に立たないと軽蔑し、武術家
   は学者が高慢柔弱で非情の時の役に立たないと嘲笑して、互いに相手を認めない。
   治者の道である文と武がかえって争いの原因となって対立しているが、日本全体の
   通弊である。
   これは、文武両道の根本原理が明らかでないところからきている。
   本来、経書を読むことをもって文といったり武術を習うことをもって武といったの
   ではなく、聖人の徳が自然に外に現れた様子、その仁義剛柔の態度を形容して文武
   といったのである。
   もとより、徳性によるものであり、決して技術などに関することではない。
   後世、この文武を二つに分けて二道、二事としたのは、大いに古意に反するものだ。
  A「柳生但馬守(宗矩)」が徳川家光公に仕えて幕政に参与し、「宮本武蔵」が細川
   家の賓師として藩政に参加したのも、この二人が後世の兵術家、武人と違って当時
   の人材俊傑であったからである。 
   武蔵が武を教えたのをみると、ひたすら心のあり方を問題にして、反求、克己、斉
   家、治国士道の本意を講義、研究していた。
   しかし、坐して議論していただけでは禅家の観法と同じで空理に陥ることになるか
   ら、時に相手を見て剣をとり、学んだところの心術が身についているかどうかをた
   めすのである。
   それで木太刀をもっての練習は月に六回くらいで、あとは武士としての実体を講習、
   研究したといわれている。
   要するに忠孝の道を尽くそうとする天性を、徳性にもとづき道理に従って正しく導
   くのが文の道であり、その心を治め胆を練り、これを武技や政治でためしてみるの
   が武の道である。
   したがって、君臣ともに文武の道を二つに分けずに文武の教えを政治組織によって
   実行していけば、本当の文武の治教を達成することができ、風俗は淳厚質実となり、
   人材もここから生まれるであろうことは疑いない。
・小楠が「国是三論」を著わした万延元年十一月に、維新の風雲児「高杉晋作」が小楠を
 福井に訪ねて会談している。
 この会談を通じて高杉は小楠の人物、見識によほど敬服したのか、「久坂玄瑞」にあて
 た手紙の中で「横井なかなかの英物、一ありて二なしの士と存じ奉り候」と書いている。
・なお、高杉は会談時に小楠の論著「学校問答書」と「兵法問答書」を筆写しているほか、
 小楠が「国是三論」の中で述べている「武士の次男坊などに仕事を与え、海辺に住まわ
 せた者は海軍に役立ち、桑田のなかに住まわせた者はやがて農兵として陸軍に役立つ」
 を参考に「奇兵隊」を結成している。
・万延元年三月、大老・井伊直弼が桜田門外において水戸浪士らに暗殺された。
 井伊の横死は、彼が排斥した人々(松平春嶽、徳川慶勝、一橋慶喜など)の返り咲きを
 招いた。  
 そして老中・「安藤信正」と「久世広周」は抜き差しならないほど関係が悪化していた
 幕府と朝廷の仲を取り戻すために、公武合体政策を推進したのである。
・そのような状況下、福井藩での小楠の努力と手腕に心服した春嶽は、小楠の助言を得て
 公武合体に邁進し、駐豪政界への復帰を果たそうと考え、小楠の上京の承諾を熊本藩に
 申し入れ、承認を得た。
・「勝海舟」は、
 「おれは、今までに天下で恐ろしいものを二人見た。それは、横井小楠と西郷南洲だ。
 横井は、西洋のことも別にたくさんは知らず、俺が教えてやったくらいだが、その思想
 の高調子なことは、おれなどは、とても梯子をかけても、及ばぬと思ったことがしばし
 ばあったヨ」
 「おれが米国から帰った時に、彼が米国の事情を聞くから、いろいろ教えてやったら、
 一を聞いて十を知るというふうで、たちまち彼の国の事情に精通してしまったヨ」
 と語り、さらに小楠が「ハハア、堯舜の政治ですナ」と言ったという。
・小楠と海舟の出会いは、小楠にとっては米国をはじめ海外の事情を海舟から教えてもら
 う絶好の機会となり、海舟には天下で恐ろしく思想の高調子な人物との衝撃的な出会い
 となった。
 海舟が政治判断などに困った時は、必ず小楠に相談するようになったのである。
 
幕政改革の切り札として
・幕府政治の事実上の最高責任者となった春嶽は、将軍をはじめ慶喜、老中などに対して、
 現在の時局に処する道は、天下万民のための政治を行うであると訴え、同意を得た。
 そして春嶽が幕府改革の切り札として提出したものが、小楠の建策である「国是七条」
 であった。
 1、将軍は上洛して朝廷にこれまでの無礼をわびる
 2、大名の参勤をやめて述職とする
 3、大名の妻を国元に帰す
 4、外様、譜代の区別なく有能な人物を登用する
 5、大いに言論の道をひらいて天下とともに公共の政を行う
 6、海軍をおこし兵威を強くする
 7、相対「自由」貿易をやめて官貿易とする
・小楠は一橋慶喜とも会談しているが、会談後、慶喜は春嶽に「昨夜、横井平四郎(小楠)
 と対面したが、非常の人傑に、はなはだ感服した。談話中ずいぶん至難と思われる事柄
 に尾ひれをつけて質問したが、いささかも渋滞することなく返答があり、いずれも拙者
 どもが思っていることよりは数層立ちのぼった意見だった」と話したという。
・慶喜をはじめ閣老一同が小楠の卓見に感服し、小楠を幕府の奥詰に登庸したいと申し出
 たが、小楠は熊本藩士で福井藩の賓師という立場上の問題があったうえに、熊本藩庁が
 「小楠は細川家の家臣であり、恩義をこうむっているので、万一幕府により御扶持など
 いただいては、実に本意を失いことになるほか、小楠の身分では、従来技芸で召し出さ
 れた過去の事例にも反する」といった頑迷固陋な意見だったので、結局、小楠は理想で
 あった「日本の帝師」となる機会を自ら辞退したのであった。
・「坂本龍馬」が初めて横井小楠と出会ったのはちょうどこの頃、文久二年八であった。
 春嶽の紹介で添書を持った龍馬と「岡本健三郎」(土佐藩士)二人が、江戸で小楠と会
 っている。
 龍馬らは最初、小楠を「暴論をなし政治に妨害がある人物」との世論を信じ、また廃帝
 論家との評判も聞いていたので、意気込んで臨んだのであった。
 しかし小楠と会って話してみると、意外にも小楠は尊皇の志厚く廃帝の考えなど少しも
 なく、逆に小楠の忠実さが二人の心に残り、忘れられないものとなった。
 その他、どんなことが会談で語られたのか、記録がないのでわからないが、たぶん「国
 是七条」冒頭の「将軍は上洛して朝廷にこれまでの無礼をわびる」、などの話にはじま
 り、徳川御一家の便利私営のための政治ではなく、天下とともに万民のための政治を行
 わなければならない、といったことに龍馬たちは賛同したことだろう。
・しかしながら、小楠に対する尊攘激派の志士たちや儒者などの悪評はひどかった。
 長州藩の木戸孝允(桂小五郎)は江戸の福井藩邸で中根雪江に会った時「近来世間では、
 小楠のような勤王心とぼしい人物を春嶽の参謀にしておくのは天下のためによくないと
 う噂が流れている。 
 血気の連中は、小楠に出会い次第刺し殺すと言っており、熊本藩士のなかにも他藩の手
 を煩わすまでもなく自分たちが斬ると言っている者がいる。
 小楠に外出させぬがよかろう」と厳しく進言した。
 また、長州藩士、周布正之助も雪江に面会し「江戸では安井息軒や吉野金陵ら儒者連中
 が、熊本の片田舎から小楠ごとき学者を呼び寄せて、大政改革に出しゃばらせるなど以
 てのほかだと言っている。京都での小楠の悪評はさらにひどく、もしも春嶽が小楠を伴
 って上洛するならば、島田左近と同様の暴行を受けるであろう。今のうちに体をよく福
 井に帰してはどうか」と警告した。
・小楠と会談して、世評と違って尊王の志厚く、すぐれた政治・思想家であると知った木
 戸、周布、龍馬らは、その後、小楠暗殺計画を聞くたびに、その情報を小楠に伝えてい
 た。 
・小楠の生涯において最大の汚点とも言えるある事件が起きた。士道忘却事件である。 
 士道忘却事件は、文久二年12月に江戸の熊本藩江戸留守居役・吉田平之助の別宅で起
 こった。
 当時、小楠は、幕府の大老というべき政事総裁職就任した春嶽の顧問として、「国是七
 条」を建白するなど幕政改革と公武合体を懸命に進めていた。
 そのような折も折、お互いに情報交換の相手としていた吉田平之助が藩命により京都へ
 赴任することになった。
・吉田から京都へ行く前に、ぜひ相談したいことがあると連絡を受けた小楠は、吉田の別
 邸を訪ねている。
 そこには熊本藩士の都築四郎と谷内蔵允も同席し、二階座敷で用談の跡に宴会となった。
 谷は途中、急用で帰り、残り小楠、吉田、都築の三人がお酌の女性をまじえて歌や踊り
 と賑やかにやっていた午後九時頃、突然、覆面抜刀の男二人が踊り込んできた。
 一座は大騒ぎとなった。
 しかし、たまたま小楠は梯子段近くにいたので素早く階段を駆け下りた。
 中ほどで、もう一人の刺客とすれ違ったが、何とか無事戸外に逃げおおせ、そのまま走
 って一目散に十町ほど先の福井藩邸に帰ってしまう。
 そして大小を受けより、同藩士など十数名を引き連れて現場に戻った。
 しかし、すでにしきゃくの三人は逃げ去った後で、素手で刺客と格闘した吉田は頭のほ
 か右手と股など計六か所の五十一針を縫う重傷、都築は眉の上から右目にかけて切られ
 たが、幸い軽傷だった。
・一方、小楠は無傷であったが、友人二人を見殺しにして逃げたのは、武士にあるまじき
 振る舞いであり、士道某役であると非難が集中したのである。
 熊本藩邸内では、小楠の身柄を福井藩からはやく引取って、熊本に送り返せという強硬
 意見も聞かれた。 
・小楠は、この事件について「階段を駆け下りて逃げたが、ありあわせの棒でも何でも持
 って、すぐ階段を駆けあがり、二人を助けるのが当然のことだったのに、刀を取りに福
 井藩邸に帰ったことが機に遅れ、士道の処置を失った」と反省し、福井藩に迷惑がかか
 らぬようにと帰国願を提出したのであった。
・事件から二か月後の文久三年二月に、吉田は傷口にばい菌が入ったことが原因で、五十
 三歳で亡くなった。
 吉田は亡くなる前に「刺客と格闘した際、耳たぶに噛みついたので、必ずその傷が残っ
 ているはずだ」と言い残したという。 
・刺客の三人はいったい何者だったのだろうか?
 取り調べの結果は、実に意外なものだった。
 まず熊本藩邸詰めの足軽、黒瀬市郎助と安田喜助の二人が藩邸を出て行方をくらまして
 いることが判明した。
 もう一人の刺客については、まったくわからなかったが、事件翌年の文久三年三月に、
 京都南禅寺山内、滝の山の大日堂で、熊本藩の藩邸を伏し拝むような格好で自殺してい
 る若者が発見された。
 まもなく長州人が来て遺体を東山霊山に運び、手厚く埋葬し「南季二郎」の墓碑を建て
 た。この南季二郎が事件の首謀者、堤松左衛門(熊本藩脱藩浪士)であった。
・さて、非難の集中した小楠であるが、熊本藩へ事件の始末書を提出して処罰を待った。
 藩でははじめ士道忘却として、直ちに小楠の身柄を福井藩荒引き取って、熊本へ送還し
 厳罰に処するつもりであった。
 ところが春嶽が自ら小楠を必死に弁護したため、やや軟化して、小楠が切腹するように
 藩内の友人に説得させるつもりであると伝えた。
 福井藩では、これはたいへんとさらに交渉を重ねた結果、ようやく福井藩が小楠の身柄
 を預かることで決着したのである。 
 これにより、小楠は命は助かったものの政治生命は奪われることとなった。
 文久二年十二月、小楠は江戸を発って福井へ向かった。
・公武合体派の推進役だった小楠が中央政界を去ったことで、尊王攘夷派は勢いづき、
 言動がますます過激となり、調停を動かして、ついに幕府に攘夷決行を認めさせたので
 あった。

秘策「挙藩上洛計画」
・文久三年(1863)三月、春嶽は公武合体に努力したものの、うまくいかなかったこ
 とから、政事総裁職の辞職願いを出すに至る。
 そしてそのまま離京し、許可なく福に帰ってしまった。
 このため幕府から逼塞(門を閉めて昼間の出入りを禁じる)を命じられてしまう。
 これにより福井藩の威信は地に落ち、藩内の動揺は計り知れないものがあった。
・春嶽が京都を去った後の政治情勢は混乱を極めた。
 慶喜はいったん攘夷の方針を受け東帰したのに、一転して、やはりとてもできないと辞
 職願を出すに及ぶ。 
・幕府は貿易を長崎、箱館の二港に限り、横浜港を閉鎖するという「横浜鎖港」問題や、
 文久二年(1862)八月に薩摩藩が起こした「生麦事件」の対応に窮するだけで、
 何ら手を打たず、朝廷に対して将軍・家茂の東帰を願うだけであった。
 だがその一方で東帰のうえで大権返上の内儀もあるというひどい状況であった。
・また、京都でも長州藩を後ろ盾とする尊王攘夷派が在京中の将軍・家茂をはじめ「板倉
 勝静」ら幕府要人を脅迫するなど猛威を振るい、朝廷では「鷹司関白」が辞意、一条左
 大臣と二条右大臣に内命があったものの相次いで拒否し、関白のなり手がないといった
 有様であった。 
・ここに至って小楠は乾坤一擲の策を打ち出す。
 外国艦隊が大坂湾に乗り込んでくる前に、春嶽、茂韶父子を中心に一藩をあげて上京し、
 各国公使を京都に呼び寄せ、将軍、関白など幕府と朝廷の要人、諸藩主や重臣らの列席
 のもとで会議を開き、開鎖か和戦いずれかに決しようと提案したのだ。
 そしてこれを成功させるため藩の精兵四千余、その他農兵を大挙出動させ、一方で加賀、
 熊本、薩摩藩に使者を送り上洛を呼びかけ連合して朝幕双方に健言して目的を達成しよ
 うとした。
 これがいわゆる福井藩の「挙藩上洛計画」である。
 さらに、会議が成功した暁には、政府の任免を朝廷が行い、外様大名からも有能な人を
 挙用し、諸役人を幕府旗本だけでなく諸藩からも人物を選んで、それを朝廷で統治すれ
 ば、政治は朝廷から出ることになり、日本国中共和一致の実があがって平和に治まると、
 小楠は主張した。
・小楠個人も決死の覚悟であったが、この計画は福井藩にとっても死中に活を求める手段
 であった。春嶽、茂韶父子をはじめ藩士たちも必死であった。
・しかし、意外にも将軍家茂が京都を発って江戸に帰るという報告が届くことになる。
 将軍が江戸に帰ることになれば挙藩上洛により朝廷と将軍に藩論を訴えようとする計画
 に大きな支障をきたす。
・実は、この年は藩主・茂韶の江戸参勤(参府)の期にあたっていたが、将軍上洛中であ
 ることから茂韶は参府を見合わせていたのである。
・参府の是非をめぐる会議が開かれ、藩論が二つに割れた。
 中根雪江を中心とする保守派は、挙藩上洛計画に反対であり、将軍を擁して朝廷を奉ず
 るのが親藩家門のとるべき態度で、宗家を軽んじて参府の義務を怠ることは断じて許さ
 れないと主張した。 
 一方、小楠をはじめとする改革派は、藩主・茂韶は春嶽とともに上洛して藩の計画を実
 行すべきだと力説し、高いにゆずらなかった。
 だが結局、改革派の意見が通り、茂韶の参府は延期となった。
・藩では、参府延期の届出を幕府に提出したが、その後、幕府閣老連署の出府をうながす
 書状と催促状が届いた。
 そこで藩論は再び動揺し、中根を支持する保守派から参府延期は親藩としての義理を欠
 くことになるという意見が再燃し、またも会議が幾度か繰り返された。
 そのうち何ということか、藩論が逆転し、藩主茂韶は近く参府することに決定して、
 挙藩上洛は取りやめとなってしまった。
・小楠の挙藩上洛計画に賛成し、推進してきた人々がつぎつぎに処罰されるのをみて、
 もはや自分の居場所がないことを知った小楠は熊本への帰国を春嶽、茂韶父子に願い出
 た。 
・これにより小楠が計画した、もうひとつの維新とも言うべき「挙藩上洛計画」が尻つぼ
 みのまま幕を閉じた。
 そしてその後、福井藩が中央政界でリーダーシップを取ることは二度となかった。
 
日本を同義国家に
・小楠は文久三年(1863)八月に家族の待ちわびる熊本に着いた。
 門下生らは郊外の山伏塚に出迎えたが、彼らは、いずれ小楠が士道忘却の罪により原発
 を受け、横井家の家名に傷がつくだろう、また自分たちも世間に対して顔向けできない
 と考え、小楠を適当な場所に導いて、自発的に切腹させようと示し合わせていたのであ
 った。
・彼らは、てっきり小楠が失意のあまり肩を落とした姿で帰ってくると思っていた。
 ところが、会ってみると意外に元気で、それどころか迎えの者たちに笑顔であいさつし
 たかと思うと、さっさと先頭に立って歩きはじめたではないか。
 小楠は何事もなかったかのごとくすたすたと城下に入ってしまった。
 とても切腹せよなどと、言い出せる様子ではなかった。
・小楠帰国後、四か月ほど経った後、熊本藩庁において小楠の士道忘却事件の処分が決定
 した。それは、知行召し上げと士籍剥奪の厳罰だった。
 これにより小楠は、無収入で六人の家族を養っていかなければならなくなったほか、
 武士の身分もなくしたのである。
 しばらくは門下生や知人、友人の援助により暮らしていたが、すぐに家計が立ちゆかな
 くなった。 
 持っていた刀剣、陶器や諸名士の書、手紙などを抵当に入れて借金をするほどの困窮状
 態となる。
 これを救ったのが、小楠を恩師と仰ぐ春嶽であった。
・勝海舟が長崎にいることを知った小楠は、門下生の「荘村省三(助右衛門)」を長崎に
 行かせて海舟に伝言し、自著「海軍問答書」を贈っている。
 海舟は使命を果たすと陸路熊本に来たが、謹慎中の小楠に会うことができなかったので、
 代わり坂本龍馬を小楠に差し向け、時事問題を伝えると共に援助金を贈ったのである。
・ところで、小楠の使者の荘村は、吉田松陰の日記やジョセフ・ヒコの自伝にも登場する
 異色の人物で、長崎で買い付けた小銃を坂本龍馬に見せて自慢したり、木戸孝允に小銃
 一丁を贈っている。
 また、ジョセフ・ヒコによって日本初の邦字新聞「海外新聞」が横浜で発刊されたが、
 これを定期購読していた全国で四人のうちの一人が荘村であり、幕末に長崎で洗礼を受
 けた第一号でもあった。 
・小楠の思想は最高潮に達したのは、沼山津閑居の元治元年であった。
 この年、藩校「時習館」の居寮生だった「井上毅」(当時二十二歳)との談話を記録し
 た「沼山対話」と、翌慶応元年に友人の元田永孚が小楠の話を筆録した「沼山閑話」、
 この二書に小楠の卓絶した思想がみてとれる。

新政府の参与に就く
・慶応三年九月に小楠は、福井藩で門下生だった「松平正直」あてに手紙を出している。
 手紙の中では、幕府、各藩の動静を踏まえて、事故の意見を次のように述べていた。
 「幕府各藩とも西洋兵制の軍隊育成に努めているが、これは同胞相闘のためのもので、
 外敵から日本を守るものではない」
 「幕府も諸藩もそれぞれ特定の外国と懇親し、応援を求めるようで、幕命が行き届かず
 各藩が割拠ということになれば必ず内戦、流血、生民惨憺の有り様となり、日本が外国
 の植民地となる危険がある」
 と現状を冷静に分析して日本の将来を憂いている。
・また「国是十二条」(慶応三年正月起草)を松平正直を通じて福井藩政府に提出したと
 ころ、それが春嶽、茂韶父子にも回覧されたことを知り、礼を述べている。
 小楠が出した「国是十二条」とは、次の通りである。
 1、天下の治乱に関わらず、一国(一藩)の独立を本となせ
 2、天朝を尊び、幕府を敬え
 3、風俗を正せ
 4、賢才を挙げ、不肖を退けよ
 5、言路を開き、上下の情を通ぜよ
 6、学校を興せ
 7、士民を仁め
 8、信賞必罰
 9、富国
 10、強兵
 11、列藩を親しめ
 12、外国と交われ
・実は坂本龍馬の手による有名な「船中八策」は、小楠のこの「国是十二条」と「国是七
 条」を参考にして作成されたものである。
・また、明治元年(1868)一月、小楠の福井藩での弟子であった「由利公正」が草案
 を作成した、新政府発布の「五か条の御誓文」も小楠の「国是十二条」を参考にしたも
 のと思われる。
・王政復古の大号令直後の慶応三年十二月、新政府から京都熊本藩邸あてに、小楠を登用
 したいと井野通達が届いた。
 これが熊本の藩庁に報告されるや、藩内では、
 「小楠が先年、参勤交代制度を述職として藩主の家族を国元に帰すなどに尽力したこと
 が、幕府の権力を弱める結果となった。ついでは小楠が朝廷に登用されれば、同じよう
 な不都合が生じるのではないか」
 などと、難癖に近い反対論が続出した。
 このため藩庁は、京都留守居を通じて、
 「小楠は病気のため朝廷のご用に差し出すことはできない」
 と、断りの報告書を提出している。
 追い打ちをかけるように、参与を拝命した熊本藩主の弟・長岡護美が、「岩倉具視」に
 小楠の登用を断る手紙を出している。
・だが、これに対して岩倉は、さらなる小楠登用の催促をしたのであった。
 さすがの頑迷固陋の熊本藩も、これ以上断ることはできず、仕方なく小楠を平民から士
 籍に戻し、小楠に上京を命じた。
・小楠の新政府での官職は、はじめは参与、次に制度局判事、さらに官制大改革により全
 員免職となったが、小楠は新たに参与に任命された。

小楠の魂は死なず
・明治二年(1869)小楠は、京都で六十一歳の新春を迎えている。
 今年も新政府のために尽力しようと気持ちも新たに、一月五日午前の小楠は烏帽子直垂
 の正装で太政官に出仕、午後二時過ぎに駕籠に乗り退潮し、寺町御門から御所を出て帰
 途についた。
 小楠警護の供廻りは、駕籠わきには若党の松村金三郎、五、六間離れて上野友次郎がつ
 づき、二十間ほど遅れて横山助之進と下津鹿之助がしたがった。
・小楠の駕籠が寺町御門をでると同時に、刺客の一団があとをつけていたのである。
 駕籠が丸太町の角をすぎたところで、黒覆面の刺客、上田立夫が駕籠をめがけて短銃を
 一発打ち込んだのを合図に、刺客の一同が斬りかけてきた。
 小楠は動ずることなく、駕籠を抜け出して短刀を抜いて身がまえた。
 激しく斬りかかる敵、それを防ぐ小楠と警護の人々、たちまち修羅場となった。
 小楠は駕籠を背にして、斬り込んでくる敵を短刀で何とか防いでいた。
 しかし病後のうえ老体である。
 幾太刀をうけ、さらに横合いから斬られ、やがて地面に倒れた。
・刺客、鹿島又之允が小楠の首級をあげて逃げると、ほかの刺客らもあとにつづいた。
 これを見た横山と下津が追跡する。
 一方、事件を知った小楠の若党で、八町次郎とあだなの足の速い吉尾七五三之助が刺客
 を追い、富小路川辺で鹿島たちに追いつくと、鹿島は小楠の首を投げつけ、吉尾が首を
 拾う間に全員逃げ去った。
・小楠暗殺の知らせは、すぐに太政官にもたらされた。
 そして天皇が聞かれるや、即日、小楠の住居に勅使を差し向られるとともに、犯人逮捕
 と厳重処罰が指示された。
・在京中の大久保利通などの要人たちは、小楠暗殺に驚き、異口同音に暗殺は朝廷の威権
 上からも政体上からしても許されがたく、一日も早く犯人と関係者を逮捕し、厳重に処
 罰しなかればならないと主張した。 
・そんな中、夕方になって夷川通中町北東角の中村屋ムメ方で、自殺を図り、死にきれず
 に苦悶している男が発見された。それが刺客の一人柳田直蔵であった。
 柳田の供述により、その四つに上平主税(十津川郷士)ほか四名などが暗殺関係者とし
 て逮捕され、その後、数日以内に塩川公平(武蔵の神官の子)、大木主水(儒医)、
 谷口豹斎(公卿広幡家の家来)、続いて中瑞雲斎(儒医)、金本顕蔵(儒者)が捕まり、
 逮捕者は総勢三十数名に及んだ。
・逮捕された刺客と暗殺関係者の供述書によると、小楠暗殺の動機は、小楠が外国に通じ、
 あるいは外国の説を信じ廃帝の議などを唱えたほか、キリスト教を国内(神洲)にひろ
 めようとしているから、皇国万世の大害となるので暗殺したというものであった。
 また彼らを扇動し、鼓舞した黒幕の公卿の影が垣間見えてきた。
・その黒幕の公卿が、ついに正体を現したのは、暗殺事件の翌月であった。
 公卿で刑法官知事(司法行政のトップ)であった「大原重徳」が岩倉具視に刺客減刑の
 意見書を提出したのだ。
 その中で、刺客を擁護し、小楠を奸人(悪者)扱いし、刺客の減刑を訴えている。
 刑法官知事である大原が立場もわきまえずに、このような意見書を出したのは、自らが
 黒幕であることを名乗り出たようなものであった。
 また、小楠の暗殺を指示した中瑞雲斎等に、暗殺成功の暁には市客らの罪一等を減じる
 約束をしていたようにも推測された。
・なお、この大原に私淑傾倒する女性である「若江薫子」が暗殺月に、大原あてに刺客た
 ちの減刑嘆願の建白書を提出している。
・改めて横井小楠とは何者であったのかを私なりに考えてみたい。
 まず維新史の因果関係の中で考えれば、何度も触れてきたように「明治維新の青写真を
 描いた男」という称号がふさわしい「。
・小楠の提示した青写真は「共和政治」の実現であった。
 これは現代で言う「共和制」とは違う。
 小楠は決して反天皇制論者ではなかった。
 ここでいう「共和」とは、文字通り「共に和する」ということであり、合議、衆議を尽
 くす、つまり議会政治のイメージに近い。
 徳川幕府の幕府維持目的のだけの便利私営の政治をやめさせ、賢明な藩主たちによる諸
 藩会議をもって、天下公共の国是を立てて政治をする、というものであった。
・この考え方は、幕臣であった勝海舟をも魅了していく。
 海舟は、小楠の考えに触れて以来、「自分は小楠の弟子である」と自称するまでになっ
 ていたという。  
 そしてじつを言えば、小楠の構想を西郷に伝えたのも、ほかならぬその海舟であった。
・これほど影響力のあった小楠であるが、現在の評価が低いのはなぜだろうか。
 小楠はあくまで「青写真を描いた男」であり、”革命家”ではなかった。
 私はそれが最大の要因であると思う。