覚悟の人 小栗上野介忠順伝 :佐藤雅美

覚悟の人 小栗上野介忠順伝 (角川文庫) [ 佐藤 雅美 ]
価格:836円(税込、送料無料) (2021/6/8時点)

町医 北村宗哲 (角川文庫) [ 佐藤 雅美 ]
価格:792円(税込、送料無料) (2021/6/8時点)

老博奕打ち 物書同心居眠り紋蔵 (講談社文庫) [ 佐藤 雅美 ]
価格:792円(税込、送料無料) (2021/6/8時点)

悪足掻きの跡始末 厄介弥三郎 (講談社文庫) [ 佐藤 雅美 ]
価格:726円(税込、送料無料) (2021/6/8時点)

侍の本分 (角川文庫) [ 佐藤 雅美 ]
価格:704円(税込、送料無料) (2021/6/8時点)

幕末「円ドル」戦争 大君の通貨 (文春文庫) [ 佐藤 雅美 ]
価格:704円(税込、送料無料) (2021/6/8時点)

やる気のない刺客 町医北村宗哲 (角川文庫) [ 佐藤 雅美 ]
価格:748円(税込、送料無料) (2021/6/8時点)

男嫌いの姉と妹 町医北村宗哲 (角川文庫) [ 佐藤 雅美 ]
価格:660円(税込、送料無料) (2021/6/8時点)

敵討ちか主殺しか 物書同心居眠り紋蔵 [ 佐藤 雅美 ]
価格:1870円(税込、送料無料) (2021/6/8時点)

恵比寿屋喜兵衛手控え (講談社文庫) [ 佐藤 雅美 ]
価格:712円(税込、送料無料) (2021/6/8時点)

口は禍いの門 町医北村宗哲 (角川文庫) [ 佐藤 雅美 ]
価格:660円(税込、送料無料) (2021/6/8時点)

知の巨人 荻生徂徠伝 (角川文庫) [ 佐藤 雅美 ]
価格:748円(税込、送料無料) (2021/6/8時点)

万波を翔る [ 木内 昇 ]
価格:2200円(税込、送料無料) (2021/6/8時点)

消された「徳川近代」明治日本の欺瞞 [ 原田 伊織 ]
価格:1430円(税込、送料無料) (2021/6/8時点)

「明治」という国家新装版 (NHKブックス) [ 司馬遼太郎 ]
価格:1760円(税込、送料無料) (2021/6/8時点)

慶喜と隆盛 美しい国の革命 [ 福井孝典 ]
価格:1540円(税込、送料無料) (2021/6/8時点)

謎とき徳川慶喜 なぜ大坂城を脱出したのか [ 河合重子 ]
価格:2420円(税込、送料無料) (2021/6/8時点)

微笑む慶喜 写真で読みとく晩年の慶喜 [ 戸張裕子 ]
価格:2090円(税込、送料無料) (2021/6/8時点)

明治維新の正体 徳川慶喜の魁、西郷隆盛のテロ [ 鈴木荘一 ]
価格:1210円(税込、送料無料) (2021/6/8時点)

最後の将軍徳川慶喜の苦悩 [ 松原隆文 ]
価格:880円(税込、送料無料) (2021/6/9時点)

徳川慶喜 最後の将軍 (文春文庫) [ 司馬 遼太郎 ]
価格:671円(税込、送料無料) (2021/6/9時点)

五箇条の御誓文の真実 [ 伊藤哲夫(政治アナリスト) ]
価格:1650円(税込、送料無料) (2021/6/9時点)

「幕末維新」の不都合な真実 (PHP文庫) [ 安藤優一郎 ]
価格:814円(税込、送料無料) (2021/6/9時点)

幕末の会津藩 運命を決めた上洛 (中公新書) [ 星亮一 ]
価格:814円(税込、送料無料) (2021/6/9時点)

明治維新の舞台裏第2版 (岩波新書) [ 石井孝 ]
価格:902円(税込、送料無料) (2021/6/9時点)

それからの海舟 (ちくま文庫) [ 半藤一利 ]
価格:858円(税込、送料無料) (2021/6/9時点)

殿様は明治をどう生きたのか (扶桑社文庫) [ 河合敦 ]
価格:880円(税込、送料無料) (2021/6/9時点)

幕末愚連隊 叛逆の戊辰戦争 (実業之日本社文庫) [ 幡大介 ]
価格:753円(税込、送料無料) (2021/6/9時点)

ビジネスマンのための歴史失敗学講義 [ 瀧澤中 ]
価格:1980円(税込、送料無料) (2021/6/9時点)

女系図でみる日本争乱史 (新潮新書) [ 大塚 ひかり ]
価格:792円(税込、送料無料) (2021/6/9時点)

江戸幕末滞在記 (講談社学術文庫) [ スエンソン,E. ]
価格:1155円(税込、送料無料) (2021/6/9時点)

徳川将軍家十五代のカルテ (新潮新書) [ 篠田 達明 ]
価格:792円(税込、送料無料) (2021/6/9時点)

日本の歴代権力者 (幻冬舎新書) [ 小谷野敦 ]
価格:924円(税込、送料無料) (2021/6/9時点)

青い眼が見た幕末・明治 12人の日本見聞記を読む [ 緒方 修 ]
価格:2420円(税込、送料無料) (2021/6/9時点)

唐人お吉物語 [ 竹岡範男 ]
価格:1320円(税込、送料無料) (2021/6/9時点)

幕末江戸と外国人 (江戸時代史叢書) [ 吉崎 雅規 ]
価格:2420円(税込、送料無料) (2021/6/9時点)

北海道建築さんぽー札幌・小樽・函館
価格:1980円(税込、送料無料) (2021/6/9時点)

幕末維新を動かした8人の外国人 [ 小島英記 ]
価格:1870円(税込、送料無料) (2021/6/9時点)

安政維新 阿部正弘の生涯 [ 穂高健一 ]
価格:1760円(税込、送料無料) (2021/6/9時点)

幕末政治家 (岩波文庫) [ 福地桜痴 ]
価格:1111円(税込、送料無料) (2021/6/9時点)

国賊か、英傑か 大老井伊直弼の生涯 [ 田原 総一朗 ]
価格:1760円(税込、送料無料) (2021/6/9時点)

「幕末」に殺された女たち (ちくま文庫) [ 菊地明 ]
価格:880円(税込、送料無料) (2021/6/9時点)

士魂 福澤諭吉の真実 [ 渡辺利夫 ]
価格:1980円(税込、送料無料) (2021/6/9時点)

現代語訳学問のすすめ (ちくま新書) [ 福沢諭吉 ]
価格:902円(税込、送料無料) (2021/6/9時点)

長崎グラバー邸父子二代 (集英社新書) [ 山口由美 ]
価格:770円(税込、送料無料) (2021/6/9時点)

それからの海舟 (ちくま文庫) [ 半藤一利 ]
価格:858円(税込、送料無料) (2021/6/9時点)

咸臨丸、サンフランシスコにて (角川文庫) [ 植松 三十里 ]
価格:704円(税込、送料無料) (2021/6/9時点)

この作品は、幕末の黒船来航以来、瓦解寸前状態になった徳川幕府を懸命に支えた幕臣の
ひとりである小栗忠順を描いたものである。
小栗忠順は、若くして、日米修好通商条約批准のためアメリカに渡ったという、当時とし
ては非常に数少ない渡航経験者のひとりであったようだ。そのときアメリカにおいては、
当時の幕府内ではあまり理解できる者が少なかったという、対ドル為替レートの不均衡問
題を交渉したという。
その後も幕府内において、勘定奉行や外国奉行などの重要な役職に就き、幕府の財政再建
や洋式軍隊の整備、さらには横須賀製鉄所の建設なども行ったようだ。
しかし、率直にものを言う性格に人物であったらしく、それが災いして、上役に煙たがら
れ、幾度となく役職をクビになったようだ。
徳川慶喜大政奉還して京から江戸城に戻ったとき、小栗は榎本武揚大鳥圭介水野忠
らと徹底抗戦を主張したという。しかし、慶喜から嫌がられて罷免されてしまったよう
だ。
無役になった小栗は、今後の江戸の混乱を予想して、一家ともども群馬へ移住するのだが、
そこでは、とんでもない理不尽が待ち受けていた。高崎藩安中藩吉井藩の三藩の者た
ちに、家臣ともども捕らえられ、取り調べを受けることもなく、烏川の河川敷において問
答無用で斬首されたのである。小栗が、なぜ斬首されなければならなかったのか。理由は
不明である。しかしこれは、まさにドサクサに紛れての私刑殺人と言っていいだろう。
この処刑を指揮したのは東山道総督随行の上野国巡察使兼軍監・原保太郎と言われている
ようだ。原保太郎は岩倉具視の食客であったこともあり、官軍に対する徹底抗戦を主張し
たということが唯一処刑の理由のようにも見えるが、それでもあまりも理不尽な処刑では
なかろうか。
このことからもわかるように、真っ直ぐに正論を主張する人物は、煙たがられ、敵をつく
り、いい仕事をしてもあまり評価されないというような傾向があるようだ。小栗忠順もそ
のような一人だったような気がする。逆に、真っ直ぐ正論を主張するというようなことは
せず、できるだけ核心に触れないように、のらりくらりと嵐らしの遠ざかるのを待つよう
な人物が、最後まで生き残るようだ。
このことは、昔も今もあまり変わらないらしく、昨今の新型コロナ禍におけるオリンピッ
ク開催是非の騒動の中における政府やオリンピック関係の要人の振る舞いを見ていると、
つくづくそのように感じてしまう。おそらくそれが政治家や官僚たちの生き残るための共
通した処世術なのだろう。
それにしても、この作品における最後の将軍と言われた徳川慶喜は、ずいぶんと情ない人
物として描かれている。徳川慶喜の評価、は大きく二分されるようであるが、どうもその
実像はどうであったのか、いまだによくわかっていないようで、なかなか興味深い人物で
ある。


築後の密命
・安政六年(1859)九月、日米修好通商条約の批准書の交換はワシントンでおこなわ
 れることになっており、幕府 は派遣する正使に新見豊前守正興を、副使に村垣淡路守
 範正
を任命した。条約にもとづき、神奈川(横浜)、長崎、箱館の三港が開港したのは
 およそ三カ月余後のことである。
・幕府役人の行動は何事につけ監察ともいった目付の立ち会いを必要とし、任務の軽重に
 応じて、御目付、御徒目付、御小人目付を添えた。アメリカへの使節団にも当然監察を
 同行させなければならない。御使番の小栗又一忠順を御目付に登用して使節団の監察と
 した。
・御目付に登用された数日後、小栗は水野築後守からお呼びがかかった。水野築後忠徳
 ついこの前、横浜でロシア人士官ら殺傷事件があり、その不手際を外交団が激しく非難
 するということがあって、責任をとらされ、外国奉行兼神奈川奉行から軍艦奉行に左遷
 されていた。
・水野は「アメリカへ行かれたら、日本の通貨事情について、アメリカ本国政府の役人を
 説得していただきたい。」と小栗に言った。
・嘉永七年(1854)三月、ペリーは横浜で幕府と日米和親条約付録を協議し、ついで
 に日米双方の通貨をどう交換するかという問題についても話し合った。日米の主要通貨
 はともに銀貨の、アメリカ側はメキシコドル、日本側は一分銀だが、一分銀は三倍の価
 値を付与されている金貨一分(四分の一両)の補助貨幣、つまり紙幣のような通貨だっ
 た。重さはメキシコドルのほぼ三分の一。
・したがって日本側は、一分銀は三倍の重さのメキシコドルと価値は同じであると主張し
 た。アメリカ側にとっては思いがけない主張である。眉に唾し、日本側はいいかげんな
 嘘をついていると考えた。そんな貨幣を発行するのは不可能と彼らは考えたのだが、幕
 府は金地金や銀地金の管理をきわめて厳重におこなっており、贋造通貨ははびこらなか
 った。一分銀は日本側が主張するとおりの通貨だった。
・ペリーの一行を相手に交渉した日本側の役人は実のところ、一分銀の本質、一分銀はそ
 のときまでおよそ四十年かけ、幕府が出目を取るために少しずつ実質価値を減らしてい
 き、実質価値がついに三分の一になっていた、金貨(小判)の補助貨幣、紙幣のような
 通貨ということをよく理解していなかった。
・理解していないのはハリスに対応した下田奉行井上信濃守聞清直らも同様で、ハリスか
 ら通貨問題を持ち出され、とりあえず、ペリー一行に対応した日本側の役人がいったよ
 うに「一分銀は紙幣のような通貨でござる云々」と主張したものの、ハリスに「そんな
 馬鹿なことはない。銀貨に三倍もの価値を持たせることなどできることではない。そん
 なことをすればたちまち贋造通貨がはびこる。通貨は重さどおり、正しく交換されなけ
 ればならない」と手厳しく責めたてられると反駁することができず、「どういたしまし
 ょうか」と江戸に問い合わせた。
・驚くべきことに、このとき実質総理の任にあった阿部伊勢守正弘も、老中首座の堀田備
 中守正睦
も、勘定奉行の川路左衛門尉聖謨も、おなじく当時勘定奉行だった水野築後守
 忠徳自身も一分銀の本質、一分銀は紙幣のような通貨であるというのを理解していなか
 った。
・とうとうハリスの主張、「ドルと一分銀との重さでの交換」というのを認めてしまった。
 一分銀は金貨(小判)の補助貨幣である。紙幣のような通貨である。それをメキシコド
 ルと重さで交換するとどういうことになるのか。
・ペリーとの和親条約は、和親が主たる目的としていて、それで貿易はできない。ペリー
 との和親条約を引き写したオランダとの和親条約もそれは同じ。そこで水野は、長崎の
 出島にいるオランダ人を相手に、それで貿易ができる和親条約の追加条約を結ぼうと動
 きはじめて、やがて追加条約を調印するのだが、その過程で一分銀の本質を知る。
・長崎ではオランダ人や中国人を相手に物々交換のような貿易だったとはいえ貿易をおこ
 なっており、業務に携わっていた地役人は当然のことながら一分銀の本質を知っていた。
 知らなければ貿易などできない。長崎の地役人からそれらのこと、一分銀は三倍の価値
 を与えられている紙幣のような通貨であるというのを水野は教えられて知った。
・実質総理の阿部正弘は鎖国体制を断固堅持しなければならないと考えていた。老中首座
 の堀田正睦は、日本は進んで開国しなければならないと考えていた。対外問題について
 の二人の考えは真っ向から対立していたのだが、水野と岩瀬が長崎にでかけてすぐ、阿
 部は癌を患ったようで、みるみる痩せ衰え、あっという間に死去した。堀田を牽制する
 者はいなくなった。
・イギリスは当時世界に冠たる海洋帝国であり、中国沿岸で阿片を売りつけるなど、悪魔
 も仰天する無法を働いていた。堀田はそのイギリスのことを獰猛な狐狼の国と恐れてい
 た。
・イギリスへの盾にするために、日本にとってより有利な通商条約をハリスととり結ぼう
 と、強引にハリスを下田から江戸へ呼び寄せた。オランダと追加条約を調印し、おりし
 も長崎に入港したロシアのプチャーチンともおなじ内容の条約を調印して、水野が長崎
 から江戸へ帰ってきたのはちょうどそのころのことである。
・水野には、堀田が突っ走りすぎているように思えた。とりあえずいまの日本は、オラン
 ダとロシアを相手に調印した。ハリスとのあらたな通商条約の交渉など必要ないと、堀
 田を相手に主張した。アメリカやイギリスとの和親条約には、他の国に与えられた権益
 は当然アメリカやイギリスにも与えられるという最恵国待遇条項が入っている。だから、
 アメリカやイギリスとも、オランダやロシアと調印した追加条約で貿易できる。なにも
 わざわざあらたに条約を調印する必要はないといって、水野はハリスとの通商条約の交
 渉に入ることに反対した。
・堀田は猛反対する水野を罷免し、同じく長崎から帰ってきたばかりの岩瀬忠震と下田奉
 行の井上清直を交渉担当者に命じて、ハリスと交渉に入らせた。
・岩瀬は水野とともに長崎にでかけ、一分銀の本質、一分銀は三倍の価値を与えられてい
 る紙幣のような貨幣であるというのを知った。一分銀とメキシコドルを重さで交換する
 と、日本側が恐ろしく損をしてしまうということもだ。堀田にその旨をつげた。
・ハリスは、小判やアメリカ人などが下田で支払っていた金貨を、銀貨の重さでの交換と
 いうからくりで、つまり三分の一の値で、こっそり引き取ったり購入したりしていた。
 だから、その小判や金貨についても余分に二倍支払わせるか、売り戻さなければならな
 い。すると、条約交渉どころではなくなる。
・ハリスとの条約交渉を急いでいる堀田はそんなふうに取り越し苦労のような心配をして、
 岩瀬にこう指示した。「ハリスの原案どおり、条約に重さどおりの交換という条項を盛
 り込もう」 
・問題を解決する方法を思いついた。いま通用している一分銀の銀の量を元通りに、つま
 り三倍に増やせば、それは本来あるべき一分銀ということになる。それを開港地に限っ
 て流通させる」と堀田は言った。
・「いま、イギリスはまたまた清国を攻めている。イギリスは清国を叩くと余勢を駆って、
 わが国に押し寄せてこよう。だから、なにがなんでもハリスとの条約調印を急がねばな
 らぬのだ」堀田はそういってゆずらず、岩瀬は押し切られて堀田の指図に従わされ、ハ
 リスとの条約、日米修好通商条約に「通貨の同種同量交換」という条項が盛り込まれた。
・ハリスとの通商条約が調印寸前までこぎつけて、堀田は安政四年の暮れも押しせまった
 日、江戸城中に在府の諸大名を集めて条約内容を説明するとともに、御三家に”御相談
 の御使”という名目の使者を送って、条約内容を説明させた。
・水戸徳川家の、御老公こと水戸の隠居徳川斉昭もまた阿部正弘と同様こちこちの鎖国体
 制堅持主義者で、条約締結には断固反対という立場をとっていた。
 「備中(堀田)、伊賀(老中松平忠固)は腹を切らせ、ハリスは首を刎ねてしかるべし」
 と斉昭は暴言を吐いた。
・この暴言は老中の堀田や松平忠固に対してはいうまでもなく、将軍に対しても吐かれた
 ことになる。徳川斉昭の七男で御三卿の一橋家に養子に入った一橋刑部卿慶喜が間に入
 り、斉昭に怠状(詫び状)を提出させた。
・またそのころ、一橋慶喜を将軍継嗣にしようという運動が起きていて、慶喜を担ぐ派の
 大将、越前福井の松平越前慶永を、堀田が将軍補佐にと提言したのを十三代将軍家定
 快く思わず、提言を拒否するだけでなく、かわりの彦根の井伊掃部頭直弼を大老に任じ
 た。
・そのころ、香港から北上した英仏連合軍は首都北京への入口白河を扼している天津の大
 沽砲台を叩いた。北京とは指呼の距離である。清国政府は恐れおののいて折れてでて、
 天津で、あらたな条約の交渉に入らされた。
・このころのアメリカやロシアの中国沿岸での行動は火事場泥棒のそれである。英仏両国
 は本国から、しかじかの内容の条件を盛り込んだあらたな条約を清国から獲得するよう
 にという訓令を授けられており、交渉にてこずった。アメリカやロシアはこの戦争に参
 加していないうえに、難しい訓令も授けられていない。横合いから割り込んで清国から
 あらたな条約をさっさととりつけ、英仏両国がつぎに向かうであろう日本に向かった。
・アメリカン旗艦ポーハタン号の艦長タットノールはハリスに天津での状況を教えた。
 ハリスはタットノールにポーハタン号を江戸近くまで進めてくれるよう要請し、タット
 ノールは応じ、下田を出港して江戸湾に入った。
・ハリスは「イギリスもフランスも頭に血がのぼっております。条約締結を拒めば江戸の
 町など一叩き。一瞬にして焼き払われるでしょう。両国がやってくる前に、わたしと条
 約を調印しましょう」とせまった。
・岩瀬と井上はポーハタン号からいったん江戸に戻って井伊ら幕閣の指示を仰いだ。井伊
 は「「天朝に御伺いを建てるから、朝旨を得るまで調印を引き延ばすように」と指示し
 た。「されども万一やむを得ないときは致し方ない。調印するがよい」とも答えた。
・二人に調印を引き延ばすつもりなど毛頭なかった。ポーハタン号に引き返した二人は、
 交渉に立ち会う書役や御徒目付の手前、あれこれぐずって見せたものの、端からそのつ
 もりでいたとおり、条約に調印した。
・結果として違勅、天皇の許可を得ずに条約を調印したことになり、そのことで朝野は縺
 れに縺れて、一年以上が経つまさにこの時期、「安政の大獄」といわれている。井伊の
 よる、朝廷と朝廷を支援した側に大弾圧がおこなわれていたのだが、条約調印直後に、
 堀田は罷免された。
・井伊が大老に任ぜられた日、岩瀬や永井らは老中の執務室である御用部屋に押しかけ、
 「井伊は然るべからず。井伊派大老になる器ではござらぬ」と声高に井伊登用の人事を
 非難し、井伊はそれを深く根に持っていた。くわえて岩瀬も永井も一橋党で、「将軍継
 嗣には慶喜を」という慶喜擁立運動に積極的に関与していた。 
・井伊はというと、もともと水戸の隠居斉昭と反りが合わず、反水戸党の盟主ともいうべ
 き存在で、将軍継嗣には慶喜より、将軍家に血の近いお方(紀州の徳川慶福(家茂)
 こそという立場をとっており、諸外国との条約調印が終わると、もうお前たちの力を借
 りなくともすむといわんばかりに、間髪を容れずに岩瀬と永井を罷免した。
・横浜には開港に合わせて外国商人が貿易船に乗ってやってきた。彼らにも、同様に一時
 的な処置として、通貨の同種同量交換を認めた。オールコックやハリスにとってもそう
 だが、外国商人にとっても日本の物価は三分の一になった。日本の金貨(小判)の価格
 も三分の一になった。小判は商品と違ってかさばらない。上海に持っていけばすぐに売
 りさばける。これほどぼろい儲けはない。彼らは下田時代にハリスがこっそり小判をか
 き集めたように、血眼になって小判を漁りはじめた。
・条約記載されているとおり、批准書の交換に誰かがワシントンに赴かなければならない。
 岩瀬が左遷されて、外国奉行筆頭の座に就いた水野がワシントンに赴くことになった。
 だが、その水野もまた外交団から横槍を入れられて外国奉行の座から引きずりおろされ、
 ワシントンにでかけられなくなった。 
・戦国の世、大名や武将は、屈強の兵であるかどうかを採用の基準におくようになった。
 おなじように、井伊は外国に送るにふさわしい容姿がどうかを基準に、養父も本人も小
 姓あがりで見た目がいい新見正興を正使とした。
村垣範正は御庭番の御家筋で、御庭番御家筋の者は役目柄将軍にじかに接することが多
 く、実力以上に取り立てられることがあった。村垣範正は筆まめだけが取り柄の、実力
 以上に取り立てられた男の一人である。
・つまりところ二人とも通貨問題の解決を託せる人物ではなかった。
・「昌平黌(学問所)の「安積艮斎」先生をご存じでございますか?」と小栗は言った。
 「安積艮斎先生は昌平黌の教授に抜擢されるまで、駿河台のそれがしの屋敷内お長屋に
 いて、私塾を開いておられました」
・安積艮斎は陸奥国安積郡郡山の旧家でかつ神主の家に生まれ、十六歳のとき、二本松丹
 羽家
の藩需今泉徳輔の生家として隣村の名主今泉家の婿養子になったのだが、容貌魁偉
 だったのを新妻に嫌われ、発奮して江戸にでて、苦学して大成したという学者で、小栗
 の屋敷内の長屋で儒学を教えていた嘉永三年(1850)四月に昌平黌の教授に迎えら
 れている。
・開港の二月半ほど前、ハリスと日本側は、東海道五十三次の宿場町神奈川で、神奈川の
 開港場をどこにするかという問題で話し合った。日本側は「横浜を」と主張した。ハリ
 スは、日本側は「横浜」を長崎の「出島」のようにして、そこに外国人を閉じ込めてし
 まおうとしていると疑い、職場町である「神奈川を」と主張した。
・このときもまたハリスはいつものように傲岸不遜、居丈高に振る舞って話し合いがつか
 ず、急遽水野が神奈川に派遣され、ハリスと話し合った。ハリスは水野にも傲岸不遜、
 居丈高に振る舞う。だが、水野は一歩も引かない。
 「こいつは手強い」ハリスはそう見て交渉を打ち切り、開港場をどこにするかの決定は
 後日ということにして神奈川を去った。
・水野はこの時期、外国人の威嚇を恐れない、外国人と堂々と渡り合えるたった一人とい
 っていい外務官僚だった。だから、オールコックとハリスは、ロシア人士官ら殺傷事件
 が起きるとこれ幸いとばかりに外国事務宰相間部に迫って、水野を外交の表舞台から追
 放させた。
・小栗がアメリカへ派遣される使節団の監察にと命ぜられたとき、真っ先に気にかかった
 のは 自分の跡継ぎ、小栗家の跡取りをどうすればいいのかという問題だった。二千百
 石の小栗家は三河以来の槍一筋の名門である。小栗には母がいた。妻もいた。だが、結
 婚して十一年になるというのに子がない。
・武家は跡継ぎがいなければ家が絶え、絶えたら一家が路頭に迷う。だから、子がいなけ
 れば養子をもらえばいいのだが、できたら血を分けた我が子に跡を継がせたいのが人情
 で、小栗も妾を持った。小栗は播州林田一万石建部家から嫁いできた七つ歳下の道子と
 いう機転が利くかわいい妻を愛していた。だがそのことと、子ができるということは
 また別で妾を持ったのだが、妾も子を生まない。このまま長の旅にでて命を落とすとど
 うなるか。名門の小栗家は御家断絶になり、母も妻も路頭に迷う。
・小栗の母邦子は安政六年のこのときで五十四歳。小栗は三十三歳、母が二十一のとき生
 まれている。母邦子が父又一忠高を婿養子に迎えたのは幾つのときだったのだろうか。
 この時代の女子の平均結婚年齢は、十七、八歳だからそのくらいだとして、母邦子が父
 又一忠高を養子に迎えた後、小栗の祖父忠清に男子庄次郎が生まれた。
・家を維持するためには早々に跡取りを決めておかねばならなかったから、この時代にこ
 のような、婿養子を迎えたあとに嫡男が生まれるというようなことはしょっちゅうあっ
 た。といっていまさら、婿(又一忠高)を追い出し、生まれた男子、庄次郎の生長を待
 って小栗家を継がせるというわけにもいかない。このような場合、ふつうは祖父忠清も
 しくは父又一忠高が、生まれた男子にしかるべき養子の口を探した。それに、ときには
 四百両、五百両とかかることもあった。
・七百石取りの旗本日下家に養子の口を探してきて、庄次郎は日下家に入り、日下家の先
 祖が代々名乗っていた数馬に名を変えた。
・数馬にやがて娘鉞子が生まれて、この安政六年の時点で六歳になっていた。小栗に子は
 ない。小栗の血を引く、本来なら小栗家の跡を継いで不思議のなかった日下数馬には娘
 鉞子がいる。鉞子を養女に迎え、鉞子に婿を迎えて、いわゆる”取子取嫁”にして小栗
 の家を継がそう。小栗はそう考え、腹を固めた。
・小栗の言いだしたら聞かない性格を数馬はよく知っている。執拗に粘られて、鉞子を小
 栗家に養女にだすことを承諾した。
・永田町に、千八百石取りの駒井左京朝温なる旗本の屋敷があった。駒井朝温は小栗が武
 芸百般を習ったときの朋輩で、小栗とおなじように骨っぽくて気性がさっぱりしていた。
 その駒井に十二歳になる次男がいた。小栗は永田町に駒井朝温を訪ね、次男の養子話を
 持ち出した。話はまとまった。
・もとより二人ともすぐに小栗の屋敷に住めというのではない。まして鉞子は六つ。父数
 馬と母の許を離れるには早すぎる。ただ、縁組をまとめて広義にその旨届けておけば、
 小栗になにかがあったとき、二人は小栗家を相続することができ、母邦子も妻道子も路
 頭に迷わなくてすむ。小栗はワシントンにでかけるにあたって、家族が困らないように
 そういう縁組をまとめて後顧に憂いをなからしめた。
 
ポーハタン号
・アメリカ東印度艦隊の旗艦ポーハタン号が、批准書の交換にワシントンに赴く日本の使
 節を便乗させるため、横浜へやってきた。ポーハタン号の艦長であり、アメリカ東印度
 艦隊の司令官でもある准将タットノールは、江戸の麻生山善福寺におかれたアメリカ公
 使館にハリスを訪ねて、使節を迎えにきた旨をつげた。
・井伊直弼は「安政の大獄」といわれている、自分に逆らった者に対する大量処分、誰に
 どんな処分をくだすのかにこの時期、病的なほど熱中していた。使節をアメリカに送る
 なんの準備もしていなかった。あわてて人選に入り、新見を正使、村垣を副使、小栗を
 監察とした。
・ポーハタン号はその後、水野が営中で小栗を捕まえて密命を授けていたまさにそのころ、
 横浜を後にして上海に向かっていた。
・二か月半ほど前のこと、横浜に、アメリカの測量船フェニモア・クーパー号が入港した。
 クーパー号はその後、台風に遭って座礁。老朽船だったので、修理不可能ということが
 分かって競売に付され、足を失った乗組員二十一人は、幕府が、来航する外国人の一時
 的な宿舎として用意していた外国人仮止宿所に住み着いていた。ブルックはクーパー号
 の艦長であり、測量隊の隊長であり、かつアメリカ海軍の士官でもあった。
・東海道は日本橋から順に川崎宿、神奈川宿、保土ヶ谷宿となっているが、神奈川宿から
 新しく開かれた港の横浜へは中間に野辺山が断崖をなして海に迫っており、道がない。
 横浜へは保土ヶ谷宿までいって、古道を迂回することになる。
・横浜へは保土ヶ谷宿から迂回しなければならない。ということは、言い直すと横浜は陸
 の孤島のようになっているということでもあり、開港前にハリスが、開港後はハリスと
 オールコックが、横浜の開港に断固反対し、いまでも反対しつづけているのは、日本側
 が横浜を長崎の出島のようにして、そこへ外国人を閉じ込めてしまおうとしていると疑
 っているからだ。
・横浜だと、神奈川宿界隈の日本人や東海道を往来する日本人がいたずらに外国人と接触
 して摩擦をおこさずにすむ。日本側にはたしかに、ハリスやオールコックが疑っている
 ように、横浜を長崎のようにして、そこに外国人を閉じ込めてしまおうという意図があ
 った。だが、そのこととは別に、神奈川宿は狭隘だった。そこを開港地とするには難が
 あった。また、横浜のほうが水深もあった。横浜なら大きな船も寄港することができた。
 開港地としては横浜のほうがだんぜんすぐれていた。
・横浜は以前は家数百軒ばかり。雑木が生い繁り、昼間でも狐が我が物顔で跋扈していた
 寒村だったのだが、開港地として日に日に変貌している。
・水野忠徳は自分が正使としてポーハタン号に便乗してワシントンに向かうに当たり、国
 威発揚と日本人の軍艦操練技術向上を目的に、早くから”別船”を仕立ててアメリカへ派
 遣したいと幕閣に提案した。紆余曲折があって翌年一月に、オランダから買い入れた咸
 臨丸が派遣されるおとになり、これに測量船フェニモア・クーパー号という足をなくし
 た艦長ブルックら乗組員二十一人のうち一人欠けて二十人が便乗することになった。
 これに、日本人乗組員が、日本人だけで太平洋を渡り切ったという”名誉”が汚される、
 国威発揚にならないとして反撥し、日本人乗組員はブルックらの同乗に顔をしかめた。
 だが、いざ太平洋に乗り出すと、咸臨丸はたちまち大しけ・大嵐に遭い、なんのことは
 ない、ブルックらに助けられて命からがらサンフランシスコに辿り着くという有り様だ
 った。ブルックは人格者であり、サンフランシスコに上陸してからもなにくれと日本人
 乗組員の面倒を見てかつ世話を焼いた。それゆえ、サンフランシスコでブルックと別れ
 るとき、日本人乗組員は全員心からブルックに感謝し、深く謝辞をのべた。
・小栗は、そんな男、ブルックと会見して、サンフランシスコ・パナマ経由でワシントン
 に向かう航路等についてあれこれ質した。ブルックはこれに手懇丁寧に答えかつ教えた。
・ハリスの外交同僚オールコックはこのあと、賜暇休暇を得て本国イギリスに帰国する。
 そのとき、水野忠徳はどさくさに紛れてオールコックに、通貨に関する一件書類を託す。
 オールコックは水野の意図が分からず、帰国後、一件書類をどさっと大蔵省に預ける。
 大蔵省にはアーバスナットという”通貨問題に関する権威”がいて、一件書類をおよそ半
 年かけて精査した。そして、オールコックとハリスが誤った主張を日本側に押し付け、
 結果としてそのことが日本の利益を大幅に損ない、日本経済を大混乱に陥れたと結論を
 くだし、オールコックにそう指摘する。
・オールコックには寝耳に水の驚天動地の指摘だったがそのときようやく、自分たちがと
 んでもない間違いを おかしていたことに気づかされる。オールコックはそのあとすぐ
 に「大君の都」という日本に関する大部の著をロンドンとニューヨークで同時刊行し、
 同書で、深い悔恨を込めて、日本側の主張が正しかった、自分たちは間違っていたと明
 らかにする。
・本丸で火災が発生した。水野忠徳はこの火災を奇貨とした。ハリス、オールコックら麻
 布や高輪にいる外交代表、横浜にいり領事らの圧力により、横浜では、水野が軍艦奉行
 遂われたあとのどさくさに、外国事務宰相の間部詮勝が許可して、一日一分銀一万枚の
 両替を認めた。
・「火災を口実に一分銀の両替を停止されたい」水野が間部に迫って、横浜での一分銀両
 替を停止させた。これにオールコックが怒った。曲がりなりにも動きはじめた貿易が頓
 挫してしまうというのだ。間部は、どう対応したらいいのか分からない。水野に相談し
 た。
・そのころ、大老井伊直弼には横浜での一連の騒動がなにゆえ怒っているのかが理解でき
 ず、すべてを任せていた水野の不手際に原因があると決めつけ、水野を西丸留守居とい
 う閑職に遂った。
・相談した相手水野を井伊に左遷されて、間部は臍を曲げた。オールコックへの返事を放
 ったらかしにした。
・オールコックはこれに激怒し、事と次第によっては戦争になるぞと、起こりもしない戦
 争を口にして日本側を震えあがらせた。
・かつては背後に水野がいて、あれこれ耳打ちしてくれた。軍艦奉行に遂われて外交の表
 舞台にでられなくなってからは屏風の後ろに隠れてあれこれと示唆した。それで水野は
 ”屏風水野”という異名もとった。いまは屏風の後ろにもいない。水野は外交団の横槍で
 同席を拒まれ、あまつさえ井伊にまで忌避されて西丸留守居という閑職に遂われている。
 水野にかわる者は、ほかにいない。間部は独自に判断して回答しなければならないが、
 独自に回答する能力を持ち合わせていない。「はあ、はあ」と聞いていて、オールコッ
 クの要求のほとんどを受け入れた。
・ただ間部も、オールコックに押し切られたことに忸怩たるものがある。また井伊が、た
 よろうとした水野を左遷してしまったことにも釈然としない思いでいる。このあと、病
 と称して引き籠った。
・外交団はつづいて、ハリスが会見を申し入れてきた。間部は引き籠っている。外国事務
 宰相次席の脇坂淡路守安宅がハリスを迎えた。安宅もまた凡庸だった。間部といい、脇
 坂といい、開国という非常時に、井伊はろくでもない人物を外相に任じて外交を任せて
 いたことでもあるが(もっとも老中の任に就けるのは譜代大名でごくかぎられており、
 そもそも有能な人材がいなかった)。
・間部も脇坂もおかしな対応をしている。小栗にそれは分かる。しかし小栗は監察、立会
 人である。その場で「お待ちください」と異議を挟むことはできない。悔しいが、黙っ
 て聞いているしかなかった。
・小栗は水野を訪ね、このことを水野の耳に入れた。これを聞いた水野は「なんとしても
 阻止する。身体を張ってでも。でなければ御国は大混乱に陥る」と、そのあと渾身の力
 を振り絞って上申書を書き上げた。
 「日本は小判(金小判)本位制をとっております。したがって小判の価格を引き上げる
 とその分、およそ三倍、物価が暴騰します。商人は物価の上昇に応じて便乗値上げでき
 るからよろしい。価格転嫁の手段を持たない武家や町人は窮迫し、国そのものが立ち行
 かなくなり、疲弊してしまいます。なにとぞ思い止まってください」
・事実こののち、小判の価格を引き上げると、水野のいうとおりに、日本の物価は唸りを
 あげて上昇し、価格転嫁の手段を持たない武家や町人だけでなく外国人までもがなにゆ
 えにこんなに物価が暴騰するのかと、事あるごとに嘆いて、外国人はそのことを日記風
 の著書に書き留めている。ちなみに日本の歴史では、外国人が資本力に物をいわせて日
 本の商品等を買い漁ったから物価が暴騰したのだという見当違いもはなはだしい見解を
 とっているのだが、井伊をはじめとする幕閣はこのときの、水野の進言に耳を傾けなか
 った。というより、耳を傾ける能力を持たなかった。経済に弱く、というより理解でき
 ず、国家を危機に陥れる国家指導者がいる。井伊はその最たる男だった。
・横浜を出たポーハタン号は、ハワイのホノルルに着いた。ハワイはこのときまだアメリ
 カに併合されていない。国王カメハメハ四世が統治する王国で、日本はハワイと和親条
 約を取り交わしていなかった。
・馬車という物を見るのははじめてである。横浜でもまだ馬車は走っていない。二人乗り
 の馬車に、新見、村垣、小栗、森田の四人は分乗して、フレンチ・ホテルに投宿した。
 江戸の気候は真冬というのに、ホテルの庭には朝顔、鳳仙花が咲き乱れていて、いまさ
 らながらに、異国の土を踏んでいるというのを、小栗らは思い知らされた。
・サンフランシスコへは別船咸臨丸が一足早く向かった。ホノルルには立ち寄っていない。
 どこに停泊しているのか。調べてくれたポーハタン号の士官によると、湾の北の奥深く
 に入ったメイ・アイランドという軍港で補修しているのだという。ポーハタン号も石炭
 を補給しなければならない。ならばと、その足でポーハタン号もメイ・アイランドに向
 かった。
咸臨丸のいわば提督は村垣と同格の副使、軍艦奉行の木村摂津守喜毅。木村は金銭の淡
 白な身綺麗な人物で、それもあってだろう、木村の家来という身分で同行した福沢諭吉
 は、以後木村に好意を寄せている。
勝麟太郎(海舟)はわずか四十俵という小給者の御家人の倅で、長崎に海軍伝習所がで
 きたとき、伝習生として長崎に送られた。勝は才能・能力ともに抜きんでていて、みる
 みる頭角をあらわし、教授するオランダ側からも、長崎海軍伝習所取締木村摂津守らか
 らも一目おかれる存在になった。
・水野忠徳が貿易筋の取り調べのために長崎に派遣されたことがあり、勝はそのとき、水
 野と縁故をつくっていた。水野の推薦が利いて、勝は船将として咸臨丸に乗り込んだ。
・小栗らは何段階も上に位置する。地位は小栗らと格段に離れていたのだが、勝は、人は
 能力によって評価されるべきで、自分にはその能力があると自負しており、かた気位も
 人一倍高く、ことさらにそう振る舞った。
・ただし航海中の勝は船酔いと風邪に苦しみ、寝てばかりいた。なのに、サンフランシス
 コに到着するや俄然元気をとり戻し、なにかとでしゃばった。咸臨丸の乗組員らはそれ
 ゆえ全員が勝のことを快く思っていず、ことに福澤諭吉などは勝に反感と嫌悪さえ抱く
 にいたった。

失意の帰国
・ペリーが用意してきた土産物の一つに蒸気機関車の模型があり、横浜で動かし、日本の
 役人を乗せて驚かせたり楽しませたりしたが、ポーハタン号に乗り組んだ小栗ら七十六
 人のほとんどはその光景を目にしていない。
・パナマの波止場からもおびただしい群衆が行く手を塞いだが、すぐに横断鉄道のプラッ
 トホームに着き、その目で蒸気機関車を見ると、小栗らにはすぐに仕掛けを理解するこ
 とができた。
・日本側の七十六人はすぐさま車両に乗り込み、パナマの役人、パナマ在住の英仏領事、
 ポーハタン号の准将タットノールや世話役の士官らも同乗した。蒸気機関車の先頭の左
 右には日章旗と星条旗が立てられた。日本里数で二十五里。およそ日本橋から箱根まで
 の距離。三時間かけて、大西洋側のアスピンウォール港に着いた。
・アスピンウォールにもポーハタン号と同じクラスのフリゲート艦、ロアノーク号が出迎
 えにきていて、小栗らはすぐさまロアノーク号に乗り移った。ロアノーク号の母校はニ
 ューヨークで、小栗らはいったんニューヨークに上陸、ワシントンへはそこから蒸気車
 で南下することになっていた。しかし、「ニューヨーク上陸は見合わせてワシントンへ
 回航するように」とワシントンから指示があり、ロアノーク号はUターンするようにワ
 シントンに向かい、郊外のハンプトン・ローズ港に横付けした。
・小栗らはサンフランシスコでも目撃していたが、新聞の存在とその重要性というものを
 とっくに理解していた。 
・将軍が謁見したはじめての外交官はハリスで、三年前のことだが、幕府はハリスを将軍
 の謁見時間の二時間前に登城させた。拝礼の予行演習をさせるためである。掛りの下田
 奉行井上清直はおそるおそるハリスに、予行演習をしてもらえませんかと頼んだ。ハリ
 スは、なんでそんな芝居じみたことをやらなければならないのかといって無視した。
・小栗ら日本側はこのときも式次第が気に気でならない。籠をおりるのは、江戸城の、勅
 使はどこ、御三家はどこ、大名はどこと場所が決まっていた。おなじように車をおりる
 場所が気になって聞いたのだが、デュボンドらは質問の意味が分からない。
 「謁見の礼式があると思うのです。謁見の前に一通り習礼することはありませんか」
 「習礼などという仕来りはありません」
 「当方は敬礼を重んじ、大事な礼式には必ず習礼することになっております」
・行列の次第も打ち合わせがなされていた。二十人ばかりの歩兵小隊が先導し、その後ろ
 に三十人ばかりの軍楽隊、さらにサーバルを抜いた数人の捧げ銃の儀仗騎兵。その後ろ
 に長持ちを担いだ二人の小者。長持ちには御書簡が納められている。さらにその後ろに、
 歩行する、いずれも下っ端役人の外国奉行支配定役、御小者目付、通詞見習。外国奉行
 支配組頭成瀬善四郎は御書簡を持参して謁見に同席する。だからというので、先頭の馬
 車に乗り、成瀬の家来である侍二人、槍持ち一人が馬車の横を歩く。成瀬の後ろに、こ
 れまた馬車に乗った正使新見、副使村垣、監察小栗、彼ら三使それぞれの家来、侍三人、
 槍持ち一人、徒歩二人が馬車の横を歩くのは成瀬とおなじ。おなじく馬車に乗った御勘
 定組頭森田岡太郎はその後ろ。森田の家来は成瀬お家来と同人数で、馬車の横を歩くの
 もこれまたおなじ。さらにその後ろをその他大勢組が馬車に乗ってつづき、そのまた左
 右を歩兵小隊、最後にいま一団の軍楽隊。その仕立ての行列が立錐の余地もない群衆に
 見守られてホワイト・ハウスに向かった。
・式次第は前日打ち合わせたとおりに進行し、御書簡。つまり国書は成瀬から新見、新見
 から大統領と打ち合わせどおり渡された。
・この時の国書は、実質総理の大老井伊直弼が国学を齧っていたことから、それにならっ
 た文言となったが、たとえ国学を齧っていたにしろ和文が国交に相応しい文章であるか
 ないかくらいの常識は持ち合わせるべきで、国書は噴飯物といってよく、このような男
 がこのような時期に総理として君臨していたこと自体に大いに問題はあったのだが、井
 伊は小栗らが江戸を離れてすぐ、三月三日の上巳の節句に日に桜田門外で、江戸・薩摩
 の浪士十八人に惨殺されていた。むろん小栗らはまたそれを知らない。
・批准書を交換したあとすぐ、小栗は国務長官ルイス・カスに「貨幣について話し合いた
 いことがあります。時間をいただけませんか」と申し入れた。
・当日の朝、歓迎委員のデュポンド大佐が「国務長官にあらましを聞いてこいと仰せつか
 ってまいりました」とやってきた。小栗は一分銀の問題についてあらまし説明した。
・「お話の趣旨はよく分かりました。国務長官にその旨申し述べます」デュポンドはそう
 いって国務省に向かい、新見、村垣、小栗、森田、成瀬、御勘定格徒士目付刑部鉄太郎
 の六人がデュポンドの後に続いた。
・デュポンドは小栗が語った一部終始を国務長官ルイス・カスに伝えた。カスや立場上、
 国益を守らなければならない。なにやらハリスが日本でおかしげなことをやっていると
 は感じるが、小栗に同調してその問題に立ち入るわけにはいかない。
 「おしゃられたことはよく分かりました。詳しくはデュポンドにおっしゃってください。
 貨幣は国家経済の基本です。じっくり交渉して取り決めましょう」
・カスの秘書でもある、婿レドヤードが通訳ポートマンを伴ってきて言った。「貨幣のこ
 とは日本政府とハリスとの間で交渉されるのが筋だと思います」
・小栗は、「書状を持って申し入れます」
 第一、ヒラドリアで一分判は八十九セント二十五分と鑑定された。だから若干の金をく
 わえて九十セントの通用とし、日本政府は一分判を九十セントで外国の金銀貨幣と交換
 する。 
 第二、新銀貨を作るまでの間、一分銀はただ日本人の間に通用する楮弊とする。日本政
 府は一分銀を外国の銀貨と交換しない。
 この証書を得ることができるなら、小栗は水野の密命である訪米の目的を果たしたこと
 になる。懸案の通貨問題は解決できる。
・小栗が認めた書状に、新見、村垣、小栗の三人が連署して印をつき、レドヤードに渡し
 た。レドヤードは持ち帰り、カスの回答は翌日にもたらされた。
 「江戸(通商)条約の五条には、通貨の同種同量交換ということがうたってある」
 「正しい金貨を不正な貨幣と同量で交換してはならない」
 「貨幣の価値を政府の刻印で定めてはならない」
 紙幣のような通貨を発行してはならない。
・紙幣のような通貨を発行するかどうかは国家の権限だ。内政干渉といっていい文言であ
 る。 
・小栗の顔はみるみる青ざめた。半月におよぶ努力はなんら報われなかった。国務長官カ
 スは小栗の申し入れをことごとく無視した。
・カスはむろん小栗のいわんとするところを理解した。しかし認めれば、アメリカが日本
 の国益を大いに侵害したことを認めることになり、下手をすると巨額の賠償金支払いと
 いう問題が生じる。日本側に賠償請求などという発想はなかったが、それらを懸念して
 カスは無視した。
・新聞記者は、カスはいうまでもなく、デュポンド、レドヤード、ポートマンらからなん
 ら適切な情報を得ていなかった。というよりむしろ虚偽の情報を与えられていた。そし
 て、ここが日本人にとって実に情ないところなのだが、このときのことを報じる日本側
 のこれまでの記述はおおむねこの見当違いの新聞記事にもとづき、文明のおくれている
 日本人が天秤ばかりや十露盤を持ち出したりして、文明の発達しているアメリカ人を驚
 かせ鼻をあかしたといわんばかりの内容になっていることだ。天秤ばかりで量ったり、
 十露盤を弾いたりは、どうでもいい枝葉末節のことで、そのようなことをやって見せる
 ために小栗はこのときフィラデルフィアに立ち寄ったのではない。
・小栗は、ハリスやオールコックら在日外交団が耳を傾けなかった通貨に関する諸問題を
 アメリカ本国政府と話し合い、理解させて問題を解決するという密命を遂行しようとし
 ておよそ半月、懸命に国務長官カスに掛け合い、カスに問題の本質を理解させていなが
 ら無視され、ほとんど途方に暮れて、心ここにあらずで天秤ばかりを持ち出したり、十
 露盤玉を弾いたりしていたのである。とかく歴史上のこのように複雑な問題になると、
 日本人は問題の本質を理解しようとせずに、お人好しにも記述の内容は能天気にも明後
 日の方向を向いてしまう。
・ニューヨークで一行が受けた大歓迎は空前絶後といってよかった。アメリカ一の大都会
 ニューヨークの市民は市を挙げて歓迎し、かつ歓迎することに酔いしれた。それほどま
 でにニューヨークっ子を興奮させ、感激させた一大イベントのプロモーターであり演出
 者はほかならぬハリスである。ハリスが駐日公使という職を離任して故郷のニューヨー
 クに帰るのはこの二年半後だが、本来ならばハリスもまた、記憶に新しい一大イベント
 プロモーターであり演出者として、ニューヨークっ子に大歓迎されなければならなかっ
 た。
・だが、無視された。一人としてハリスを歓迎する者はいなかった。時代は南北戦争の真
 っ只中にあり、それに埋もれてしまったとする解説もある。しかしそれは逆だ。南北戦
 争の真っ只中、アメリカ人同士が憎み合い、いがみ合い、殺し合った、彼らの心が荒み
 きっていたまさにそのときだからこそ、ハリスはいっそうニューヨークっ子に大歓迎さ
 れなければならなかった。にもかかわらず、ハリスは無視された。
・ハリスは小判による利殖をはじめとする不正蓄財を、敬虔なプロテスタントが建国した
 アメリカ人の源流たるアメリカ人が蔑み、もっとも恥ずべきとしている行為を陰でごそ
 ごそやっていた。横浜在住合衆国市民からはハリスの解任を願う請願書も本国政府に送
 られていた。
・貴族でもないのに、貴族であるかのように振る舞い、横浜在住合衆国市民を一段も二段
 も見下して相手にしなかったハリスは、彼らにとっては鼻つまみ者だった。南北戦争の
 ごたごたで結局ハリスには処分らしい処分はなされなかったが、ワシントンの国務省の
 役人はハリスの不始末を知っていた。彼らはハリスを冷笑して迎えた。ハリスは離任の
 挨拶もそこそこにワシントンを発つと故郷のニューヨークに戻り、まるで身を隠すよう
 に四番街に居を見つけ、息を殺してひっそりと住んだ。
・小栗らはフィラデルフィアにいたとき、現地の新聞に”日本の皇帝”が暗殺されるという
 記事が載っているのを耳にした。”日本の皇帝”というと、帝(孝明天皇)か、将軍(
 四代将軍家茂
)ということになる。なにやら日本で異変があったらしいと思われたが、
 いたずらに随行員を動揺させてはならないということで、内密にしておいた。

武力には武力で
・対馬は朝鮮半島と九州のほぼ中間に位置する。島は北と南に真っ二つに分かれており、
 分かれているところが浅茅湾という内海になっていた。ただし、東はもともと繋がって
 いたのを船が通えるように堀を掘っただけだから大型船は西からしか湾内に入ることは
 できない。
・その湾内を西から入ったところすぐ、島の南側に下県郡尾崎という村があって、沖に黒
 船が錨を下ろした。小栗忠順らがアメリカから日本に帰ってきて五カ月ほど経った万延
 二年二月のことである。
・対馬を支配していたのは大名の宗氏で、城は湾を南に抱えた府中(対馬市厳原町)にあ
 り、黒船あらわるの報はすぐさま陸路府中に伝えられた。
・問情使の戸田惣右衛門は陸路浅茅湾の赴き、番船に乗って黒船に近づき、どこの国の船
 でなにゆえの来航かと質した。
 「ポザドニックというロシア船で、私は艦長のビリレフ。箱館から長崎にでかける途中
 だが船が破損したので修理に立ち寄った。木材と修理所を提供してもらいたい」
・浅茅湾には二年前の四月に、イギリスのアクチオン号という艦船が姿を見せ、食料と薪
 水の提供を要求するだけでなく、端船(ボート)三艘をおろして湾内を測量するという
 ことがあり、宗対馬守家は外国船に対する取り扱いを幕府に伺った。幕府が横浜、長崎、
 箱館の三港を開港して実質開国したのはその年の六月。幕府は「穏便に処置し、長崎奉
 行に届出るよう」と回答してきた。
・穏便にというおとならビリレフの要望を認めなければならないのだが、ざっと見るかぎ
 り ポザドニック号は破損しているように見えない。またロシアが長崎を自国の軍港の
 ようにして、そこで修理・石炭の補給等をおこなっているのを、問情使らは知っている。
 修理なら長崎にいけばいい。不審である。
・対馬は島国のこととて検地がおこなわれておらず、十万石以上の格とされていたにすぎ
 なかったが、当主は代々従四位下侍従に任ぜられ、江戸城では国主として大広間に詰め
 た。家中の気位は高かった。一方、どこの家中にもあったように宗家にも御家騒動とい
 う派閥争いがあって、穏便派が過激派を押さえ込んでいたのだが、時おりしも過激派が
 巻き返した直後だった。
・”修理のための繋留”を認めるかどうかで、はしなくも穏便派と過激派はまた対立し、と
 りあえず穏便派の主張がとおり繋留を認めようということになり、引き換えに過激派の
 仁位孫一郎が家老に復職した。
・それから二十六日後、ロシアの艦船ナエセニック号が浅茅湾に姿をあらわし、ポサドニ
 ック号に横付けして食料や資材をおろし、翌日に出航した。すると、それが合図である
 かのようにポサドニック号は態度を豹変させ、翌々日、錨をあげてさらに内海に乗り入
 れ、小船越村西の漕手に繋船した。
・宗家の警護の役人が番船に乗ってポサドニック号を取り囲むと、乗組員はボートをおろ
 し、水鉄砲の仕掛けになっているホースで番船に海水を吹きかけた。一方で七十人ほど
 が上陸し、松や杉を十四、五本伐って船に積み込んだ。
・その翌々日、ポサドニック号は夜明けに漕手を出航。北の島の貝鮒村玉崎にしばらく繋
 留したあと、昼ヶ浦村芋崎の古里浦に停泊、数十人が上陸して小屋掛けをはじめた。宗
 家の番船は終始追っかけていって抗議をしたが、無視した。
・さらに翌々日、番船にのった郷士百姓ら十四、五人が様子を窺っていると、ボート三艘
 が漕ぎ寄せてきて取り囲み、積んでいた武器を押収、郷士五人をポサドニック号に連行
 した。
・だが、さすがにこれはやりすぎたと思ってか、翌日の早朝、押収した武器と人質を返し、
 所持していた日本通貨の三両二分を紙と砂糖を添えて受け取らせた。
・ポサドニック号は乗組員三百人、二十門の砲を持つ二千トンを超す巨艦だ。火縄銃に手
 漕ぎの番船では相手にならない。事実を追認させられたうえに、なおかつ食料の供給と
 小屋掛けの地所の貸与を約束させられた。
・ロシアはここ十年ばかりの間に、干戈を交えることなく、最後には「愛琿条約」という
 たった一片の紙片で清国から満州の広大な領土を獲得し、沿海州から東アジアに臨むよ
 うになった。そこで、上海や香港への足場として、また軍事拠点として、沿海州と黄海
 の中間にある対馬に目をつけた。
・ロシアは日本と通商条約を締結したものの、首都江戸に近い横浜に外交代表をおかず、
 箱館にゴシケビッチという領事をおいて外交にあたらせていたが、そのゴシケビッチが
 この二月、ポサドニック号が尾崎沖に姿をあらわしたころ、江戸に姿をあらわして、外
 国掛老中(外相)に、イギリスは対馬に領土的野心を抱いていると耳に入れ、警戒され
 るようにと忠告した。
・対馬はロシアにとっては重要であるが、通商を最優先にさせているイギリスにとっては
 重要でない。自分たちの領土的野心を糊塗するために、イギリスこそ領土的野心を抱い
 ているとゴシケビッチはが外国掛老中に虚偽の通告をしていたのだが、ビリレフも同様
 に対馬の問情使筆談役に虚偽の報告をして、なおかつ「イギリスに備えて、大砲七十二
 門を据えつけてさしあげよう」といった。
・大砲七十二門はむろん対馬を軍事拠点化するためで、イギリスに備えてのロシアのため
 の据えつけだ。
・ビリレフが古里浦に構築しようと企画しているのは軍事基地である。兵営、哨戒所、将
 校集会場、病院、食堂、煉瓦焼窯、穀物倉、風呂、牛小屋、埠頭、埠頭までの道路等の
 建造、井戸、水道までが構想されており、とりあえず作業場や木材置場を作り、礎石な
 どのための大石小石を方々から集めはじめた。
・ビリレフは、芋崎の永久租借、宗対馬守への会見、大砲の提供を繰り返し申し出てゆず
 らない。 
・南北の島がそこで繋がっていた所を切って落とし、船が通えるようにした大船越瀬戸に
 は関所と番所が設けられていて番人がおり、そこを通過するには番人の許可を得なけれ
 ばならなかった。
・ポサドニック号が浅茅湾に姿をあらわしてほほ二か月になるころ、乗組員十八人ばかり
 がボートで、番人が制するのも聞かずに関所を乗り切り、東海に出て浦々の測量をはじ
 めた。
・江戸では外国奉行小栗忠順と御目付の溝口八十五郎が城内に呼ばれて、外国掛老中の安
 藤対馬守信正から「対州へロシア船渡来、見廻りとしてとして差し遣さるべく候、用意
 致すべく候」と申し渡された。
・対馬では、大船越瀬戸の関所をあっさり破られ、番人は、二度と通すものかと守りを堅
 くした。そこへ七日後、またまた乗組員十八人ほどのボートが乗り入れてきた。乗組員
 は櫂を振り上げて打ちかかる。番人は手近にあった杭や薪を手に渡り合ったが多勢に無
 勢、郷士二人が搦め捕られて、無理やりボートに乗せられた。安五郎という小者が石礫
 を投げた。乗組員四人ばかりが振り返って銃を構えてズドン。弾が胸に当たって、安五
 郎は即死した。ほかにもいた番人が火縄銃を放ったが、ボートはとうに番所を離れてい
 て、一発も当たらなかった。
・一件はすぐさま府中に報じられ、家老仁位孫一郎をはじめ家中の面々は激高した。だが
 決死の闘争を仕掛けても蟷螂の斧。むしろロシアに戦端を開かせて対馬を公然と占領す
 る口実を与えてしまう。
・翌日、今度は乗組員百人ばかりが数艘のボートに分乗し、またまた大船越瀬戸に押し寄
 せて上陸、番所にいた番人二人と足軽一人をこれまた搦め捕り、番所にあった武器や諸
 品を奪い、さらに大船越村の民家に乱入、有り合わせの金銀銭、米穀、諸品はいうまで
 もなく、小屋小屋に繋いでいた牛七頭を略奪した。傍若無人もきわまれりの乱暴狼藉を
 働いた。
・アメリカをその目で見て小栗にはいろいろ感ずるところがあったが、とりわけ感心・感
 嘆したことの一つに石造建築物がある。江戸の悩みの一つに火事がある。ほとんどが安
 普請の木造建築物だから、ひとたび失火なり放火があってお誂え向きの風が吹くと、炎
 はたちまち江戸の町を舐めつくす。江戸の人は火事に悩まされつづけてきた。それだけ
 になおいっそう、小栗の目は石造建築物に吸い寄せられた。試しに建ててみて、満足が
 いくようなら、一般にも普及させよう。江戸に帰り、時間がとれるようになると、小栗
 は石屋と仕事師を呼び、図面を引かせて、石も注文した。
・そんなある日、外国奉行の堀織部正利熈が自決したという報せが入った。
・井伊が暗殺団の手にかかって斃れたあと、政権を担ったのは幕閣にいたたった一人の逸
 材安藤信正だが、安藤は若年寄から老中に昇格したばかりの新参者だった。それで、重
 しをつけるため、また井伊色を払拭する狙いもあって、井伊と対立して引いていた古参
 の前老中久世広周を幕閣に迎えた。この時期は久世と安藤の二人が連立内閣を構成して、
 安藤が外国掛老中もかねていた。
・この久世・安藤内閣が政権を担うに当たってとった政治路線は、当然のことながら井伊
 路線の変更および修正、大弾圧によってこじれきった朝幕関係の修復、それによる世論
 の沈静である。政治スローガンでいうなら「公武合体」「公武一和」で、その手段とし
 て浮上したのが、井伊の時代から話のあった十四代将軍家茂への皇妹和宮の降嫁だ。
・孝明天皇は攘夷を断行すれば和宮を降嫁させてもいいととれるような回答をした。とい
 って、幕府には攘夷を断行する力はない。そこでその代償として「両港両都開港開市延
 期
」というものを考えだした。両港とは新潟と兵庫、両都とは江戸と大坂。通商条約に
 盛り込まれていて間近に迫っている両港両都の開港開市を延期することによって、攘夷
 の志をみせようというわけだ。
・プロシヤの全権公使オイレンブルグが通商条約の締結をもとめて日本にやってきたのは
 ちょうどそのころのことで、安藤は「新たなる条約の調印など、如何なる条件の下でも
 結ぶことはできない」と断固拒絶した。
・ハリスはオイレンブルグに協力した。プロシヤにも通商条約を認めてやってもらいたい
 と、安藤に口添えした。ゆずって、堀利熈を全権交渉者に任命し、堀がオイレンブルグ
 と通商条約の交渉に入った。交渉は双方がゆずってほぼ妥協点に達し、草案もでき、堀
 は安藤にその旨報告した。 
・しかし草案を見て安藤は激怒した。条約締結相手国はプロシヤだけだと思ったら、三十
 カ国も国名が列挙されていたのだ。
 プロシヤはそれら関税同盟国、付属国、ハンザ自由都市の盟主であり、当たり前のよう
 にそれらの国というより年を列挙したのだが、安藤は事情を知らない。なんたる失態と、
 堀を責め立てた。
・堀は言葉を返した。しばらく二人は言い争っていたが、やがて堀は外国奉行の部屋に戻
 り、荷物をまとめてさがった。顔面蒼白だった。堀は、夜中に腹を掻き切った。
・小栗は堀利熈の公認として外国奉行に任ぜられた。当分は見習いみたいなものだから、
 プロシヤとの交渉は享け継がなかった。
・ポサドニック号が浅茅湾をうろうろして古里沖に停泊位置を変えて上陸したという騒動
 は「急飛」で江戸に報じた。それが外国奉行小栗と溝口への、対馬にでかけるようにと
 の訓令となった。
・小栗らが咸臨丸に乗って品川沖を発ったのは、対馬にでかけるようにと訓令を受けてか
 ら実に二十一日。それにしてものんびりしすぎている。小栗はこうまでずるずる日を延
 ばす性格ではない。おそらく咸臨丸の整備やなにかに手間取っていたのだろう。
・下関にはアクチオン号というイギリスの艦船が船繋りしていた。かつて二度にわたって
 対馬の沿岸を測量したことのある艦船だ。アクチオン号はたまたまやってきた僚艦とと
 もに浅茅湾に入った。そこには、ポザドニック号のほか、乗組員が三百人というロシア
 の艦船もいた。ポサドニック号は僚艦から常時食料や資材の供給を受けるだけでなく、
 そのつど提督リハチョフからの指示を受けていた。
・アクチオン号の艦長ワードは、ロシアの意図が対馬の軍事拠点化にあるというのをとう
 に見てとっている。ビリレフに会見を申し入れると、ビリレフはロシアにとっての対馬
 の重要性と占領の必要性を語った。 
・イギリスの駐日外交代表オールコックは公用での香港からの帰途、下関に着いてワード
 と落ち合った。そこへたまたま咸臨丸がやってきた。ワードはロシアの意図や対馬での
 騒ぎなど最新情報を得ている。会見をもとめて、知っておられるのかと小栗に質した。
 小栗はロシアの意図などまるで知らず、ただ目を白黒させて聞いた。
・この時代の蒸気船は恐ろしく石炭を食う。咸臨丸はとうに石炭を使い果たしていた。長
 崎はこのころ近郊で炭鉱が開発されており、東洋で最大の石炭補給港となっていた。咸
 臨丸は対馬に直行せず、長崎に向かった。
・長崎奉行岡部長常は、長らく長崎にあって外交の衝に当たっていたのだが、彼もまた小
 栗を迎えて対馬の事情を語って聞かせた。アクチオン号の艦長ワードの話ではいま一つ
 要領を得なかったロシア人らの乱暴狼藉の詳細をも小栗は知った。
・岡部長常はビリレフに当てて退去されるようにという趣旨の書簡を送ったが、ビリレフ
 は受け取ったものの開こうとしなかった。そこであらためて支配組頭永持享次郎を対馬
 に送った。永持は百俵という小禄の御家人だが、学問に励み、学力を買われて順次登用
 され、この時期は副長崎奉行ともいうべき支配組頭に抜擢されていた。
・小栗の任務は”見廻り”である。退去勧告することくらいだろうと任務を軽く考えていた。
 非常に備えての訓令も受けていない。しかるべき軍事力も、対馬当局に対する指揮権も
 与えられていない。といって、いまさら引き返すわけにもいかない。
・白兵戦にでも持っていけるのならともなく、敵は砲を二十門も持っている。艦船を湾に
 寄せられ、ドガン、ドカンとやられたら城下はひとたまりもない。対馬守義和をはじめ
 家来一同はなす術もなく手を拱いていた。それを恥じる気持ちもある。
・長崎奉行支配頭の永持享次郎は三度にわたってビリレフに掛け合った。ビリレフは長崎
 奉行支配組頭がいわば副長崎奉行というのを知っている。対馬の役人に対するときより
 も慎重だった。人一人を殺しておいて、そんな事実はないとビリレフは開き直った。
・ビリレフはポサドニック号の修理を口実に対馬の占拠と軍事拠点化を謀っている。また
 無法を働き、それをきっかけに戦端を開いて、対馬の占拠を正当化しようとしている。
 これはもはや疑い余地はない。小栗はかるにも外国奉行である。”見廻り”として派遣さ
 れたのだが、訓令の範囲を超えるといって回避するわけにはいかない。事情を詳しく聴
 取したえで、会見したいとビリレフに申し入れた。
・しかし、結局のところ、小栗は肩透かしを食わされ、ビリレフの要求を飲まされただけ
 で、いいたいことの一つもいえなかった。
・小栗はいった。「そこもとらには戦う気がおありなのか」家老仁位孫一郎は沈黙する。
 「いざとなれば戦うのです」「戦えば負ける」「負けるでしょう。しかし、海上からい
 くら撃ちかけられても、弾はやがてはつきる。たとえ対馬が焦土と化そうとも、陸戦に
 なれば地の利はこちらにある五分か五分以上には戦える」
 仁位孫一郎は過激派を代表する一人だ。顔を紅潮させていった。「いいでしょう。戦い
 ましょう」
・長崎から帰途陸路をとったイギリスの駐日外交代表オールコックは、公使館にしていた
 高輪の東禅寺に帰り着いた。その翌日の深夜、あろうことかイギリス公使館が多数の暴
 漢に襲われた。死者はでなかったが何人かの重軽傷者がでて、幕府は、とりもなおさず
 外国掛老中安藤信正は対応に追いまくられた。その安藤に小栗は面会を申し入れた。
 「ビリレフは宗対馬守に面会したいと申しております。認めてください。また、黒田、
 鍋島、細川、島津ら諸侯の家来数千人の対馬への派兵をも認めてください」
 「こちらがいくら誠意を以て談判してもやつらは武力を背景に居丈高に振る舞い、聞く
 耳を持ちません。このうえの談判は無意味で、談判すればするほど国威を落とすことに
 なるからです」
 安藤は、馬鹿は休み休みにいえといわんばかりに首を振って取り合わなかった。
・むろん安藤には安藤の秘策があった。オールコックはこのとき独身で、本国イギリスに
 帰って妻を迎えたい。また日本に関する詳しい著述の一番乗りをしたいなどといういく
 つかの理由があって帰国を望んでいた。安藤が対朝廷融和工作のために「両港両都開港
 開市延期」を持ち出したときには、全権公使をイギリスに送るように誘導した。その機
 に乗じて帰国しとうとしたのだ。
・これまた天皇に約束した”攘夷”をおこなう”振り”をしている安藤の立場からいえば難し
 い。踏ん切りをつけられないでいるうちに時が経ち、なんとイギリス公使館が深夜に暴
 漢に襲われてしまった。
・ロシアの対対馬占拠はロシアのためであって、イギリスのためではない。むしろイギリ
 スに抗するためのもの。だからイギリスはむしろロシアの対対馬占拠を苦々しく思って
 いるはず。「両港両都開港開市延期」問題を話し合うついでに「ロシアの対対馬占拠問
 題」を持ち出そうと安藤は考えていた。
・安藤は思案して、小栗、溝口八十五郎の二人に箱館への派遣を命じた。箱館にはロシア
 の領事ゴシケビッチがおり、対馬に腰を据えているポサドニック号の退去をゴシケビッ
 チに掛け合ってこいというのが派遣の趣旨だが、箱館には奉行の村垣範正がいる。村垣
 で用は十分足りうる。小栗を当分箱館に厄介払いにしておこうというのが安藤の腹。小
 栗にはすかすかに見通せる。畏まって命を受けたが、もとより箱館になどでかける気は
 ない。辞職したいときには誰もがそうするように、翌日から小栗も病と称して引き籠っ
 た。
・井伊直弼が暗殺されて老中に久世広周が復帰したように、一人また人地と幕閣や諸役に
 復帰していた。閑職に遂われていた水野忠徳も外国奉行に再任された。
イギリス公使館襲撃事件から一か月経ったころ、イギリス東印度艦隊の司令長官ホープ
 が香港総督ロビンソンをともなって横浜にやってきた。そして安藤と、全権公使の派遣
 やイギリス公使館襲撃の賠償金支払い等について話し合った。そのときロシアの対馬占
 拠も話題にのぼり、ホープは対馬からのロシアの排除を約束した。
・ホープは、旗艦エンカウンター号に搭乗して対馬に向かい、長崎経由で府中に到着。仁
 位孫一郎らと会談したあと、提督リハチョフ宛の警告書をビリレフに手交した。
・六年前、ロシアは英・仏とクリミア戦争を戦って敗れた。そのとき、東アジアにいたロ
 シアの艦船は、東アジアの海上を、イギリスの艦船に出会わないようにこそこそ逃げ回
 っていた。
・ビリレフはホープにそれなりに抵抗したが、軍事力はイギリスの比ではない。押し切ら
 れて、完成しつつあった古里浦の軍事拠点をそのままに対馬を去った。対馬は平穏無事
 を取り戻した。
・だが、幕末もこの時点ではまだ幕府に威があった。九州の諸侯に動員をかけてかけられ
 ぬことはなかった。そのうえでロシアと戦えば、府中をはじめとする町は焦土と化した
 としても、陸地でのゲリラ戦に持ち込めば五分以上に戦えたろうし、文永・弘安の役の
 ときのように幕府を中心に国は一本にまとまることができた。無傷ですんだということ
 では安藤の対応・対策のほうがよかったということになるが、結果は、どう見てもその
 場しのぎであり、幕府からいえば絶好の機会を失したことになる。

因循姑息
・文久元年十一月に、公武一和の象徴である皇妹和宮が江戸に到着した。十二月には、
 「両港両都開港開市延期」交渉に、正使竹内下野守保徳らが、ヨーロッパ各国へ向けて
 横浜を旅立った。
・文久二年一月、安藤が坂下門外で水戸の浪士ら六人に襲われた。安藤らは警戒していた。
 また刺客が六人と少なかった。護衛の家臣は六人を返り討ちにし、安藤は怪我をするだ
 けですんだが、またまたの政府要人襲撃事件は当然のように政治問題となった。
・安藤は国際情勢を理解する、したがって日本はどう行動しなければならないかについて
 の判断力を有する稀有な老中だった。ただ安藤は井伊の下で難問処理に当たったため、
 おのずと水戸や禁裏を敵にまわすことになり、水戸や、このころ澎湃として起こりつつ
 あった朝廷崇拝者、つまり尊皇派の反感を買っていた。
・水戸や尊皇派をこれ以上刺激しないためにも、安藤に退いてもらったほうがいい。久世
 を中心とする幕閣は安藤に退任を迫り、しかし決して不名誉な退任ではないと内外に公
 示するために安藤を溜間詰とした。
長井雅楽は京で”航海遠略策”を説いてまわったが、時勢はもう公武一和などという生ぬ
 るい対応策を許さない。過激派の公家、浪人、薩州人、なかんずく足許の長州人らが寄
 ってたかって”航海遠略策”を叩き潰した。
・長井雅楽にかわって歴史に登場するのが薩摩の島津三郎久光だ。幕末の名君とされてい
 る島津薩摩守斉彬の腹違いの弟である。
・将軍家上洛を推し進めようとしていた久世が老中を辞す。長井雅樂の公武合体・航海遠
 略策が京で叩き潰されたのに嫌気がさして、職を投げだしたのだ。残った老中は松平信
 義、新任の水野忠清と板倉勝静、帰り新参の脇坂安宅の四人。久光がやってきてこれか
 らごり押しをはじめようというのに、安藤、久世と退いて幕閣の弱体ぶりは目に覆うば
 かりだった。
・当時京でも、一橋刑部卿(慶喜)殿は英邁だから将軍継嗣にしようという運動が起きて
 いた。そこで天皇は、英邁な一橋刑部卿が将軍になれば戦争になってもなんとか対応し
 てくれるという屁理屈を吹き込まれていた。しかしその後、一橋慶喜は将軍になること
 ができず、紀州から慶福が入り、家茂と名乗って、十三代将軍家定の死後将軍になった。
 天皇も待望した慶喜を将軍にという構想が将軍後見職にと形を変えてここに実現したの
 だが、実のところ慶喜は彼らの待望に応えられる人物ではなかった。たしかに才はあっ
 た。あり余っていた。また果断な人物であるかのようにも見えた。だが肝心なところで
 はいつもするりするりと逃げまわって責任を回避する。唾棄すべき卑劣漢だった。
松平春嶽は、ペリー来航以来、できもしない政治スローガンを掲げて騒ぎまわり、人か
 らできる男と認められたいと思っていた、上辺を飾るだけの、政治好きの父っちゃん小
 僧だった。自分の指示がきっかけで、家来の、橋本左内というこの時代では屈指の人材
 を死に追いやって、そのことになんの痛みを感じないでいる情のない男でもあった。
・徳川幕府は自力で政権を樹立したが、形態としては律令制の枠内にいる。官位なども京
 から叙任してもらっている。しかも厄介なことに、創業者の家康は朱子学を官学とし、
 この時代をリードしたいわゆる水戸学は朱子学の歴史観、とくに名文論を基本においた。
 そういう立場から幕府という政体を見ると、政権を朝廷から委任されていることになる。
・水野も学問を齧っていた。だからおのずと朝廷を中心に世界はまわっているという、相
 手の立場に立っての議論を余儀なくされたのだが、それでもそもそも将軍が京にでかけ
 る必要などないのだといって猛反対した。
・おなじころ幕閣は水野に箱館へ奉行として赴任するようにと命じた。箱館に赴くと、水
 野は政治に口を挟めなくなる。体よく箱館に追い払おうとしたのだ。この重要な時期に
 箱館などという僻地で手をこまねいているわけにはいかない。水野は辞表を提出し、つ
 いでに隠居を願った。表舞台に立っての発言力はなくなるが、それでも僻地にいてなに
 も物申せないよりいいと判断してのことだ。幕閣はあっさり受理した。
・一橋慶喜も松平春嶽もあるときは明快な開国論を説くが、状況次第で簡単に引っ繰り返
 る。ご都合主義も極まれりといった手合いだったが、このとき春嶽は京の攘夷論に迎合
 してこういった。「諸外国との条約は、姑息にも一時逃れで取り結んだもので、国家永
 遠の計を考えてのことではない」
・条約は堀田正睦が国家永遠の計をと熟慮し、岩瀬忠震らに交渉させて出来上がったもの
 で、勅許を得られなかったのは天皇の側に、許可を与えないことによって幕府を窮地に
 追いやろうという明白な意図があったからだ。あからさまにいうなら、将軍から政治権
 力を奪回しようという意図があったからで、国益を座標軸において考えるなら、出さな
 かった天皇側に大いに問題があった。
・開国してまる三年を過ぎている。攘夷と同様、条約の破棄などできることではない。破
 棄するといっても諸外国が許さない。清国は南京条約を無視したがために、イギリスか
 ら破落戸の言い掛かりとしかいえない言い掛かりをつけられ、戦い(アロー戦争)を仕
 かけられて敗れ、南京条約よりいっそう不都合な天津条約を結ばされている。
・一橋慶喜が、冷静に判断するなら日本には開国しかとる道はないという目の覚めるよう
 な開国論を展開する。慶喜が上京し、開国の趣意を奏上しようということに幕議は一決
 した。このときの幕府にとってはそうするのが最善の策で、その線で突っ走るしかなか
 ったのだが、慶喜は口ばかりで、もたもたしていると、京からまた横槍が入った。
・三条実美は京に先着して着任準備をしていた松平容保の家来を呼んで、先の勅使大原重
 徳に対する幕府の待遇が礼を失していたと非を鳴らした。
・これを聞いて春嶽が「朝廷尊崇の誠意を欠く」とごね、またも辞意を表明した。ついで
 に、一橋慶喜の開国論に同調したのは間違っていた、自分はやはり叡慮を尊奉して破約
 攘夷説に復するともいった。
・そこへ元土佐の国主、山内容堂が割って入って、慶喜、老中、諸有司に叡慮の尊奉を説
 いた。これに、目の覚める開国論を展開したばかりというのに、慶喜もころりと節を変
 じた。
・このあと、慶喜は奇怪なことに幕議が攘夷と一決したのは自分の本意ではないと辞任を
 請う。一方、春嶽は機嫌を直して辞意を撤回。
・この間にも京の反幕勢力の動きはますます激しくなった。
・海軍は長崎に海軍伝習所が設けられてオランダ人から初歩を習得して以来、細々ながら 
 も内容をととのえつつあった。咸臨丸アメリカ行のいわば総督である木村摂津守喜毅ら
 十人が、海軍の充実だけでなく、陸軍も設けるようにと指示がくだれた。
・船が蒸気で動くという不思議は日本人を敏感に反応させた。日本人はその目で見た黒船
 を自分たちも動かしてみたいと思った。だから、海軍というと飲み込みやすいが陸軍と
 なるとピンとこない。戦国時代の鎧兜をかぶった将兵が鉄砲、槍、弓矢を持っての闘い
 とどう違うのかがいま一つピンとこない。こちらのほうの対応が遅れた。
・孝明天皇の腹は幕府からの政治権力の奪回にある。日本全土をこぞって焦土となすとも
 構わないと幕府に広言している。 
・この年の八月、島津久光は勅使大原重徳を擁しての京への帰途、神奈川宿の手前生麦
 婦人一人を含む馬上四人のイギリス人に行き会った。久光らは幕府に外国人に出会った
 ら切り捨てると広言していた。共頭の奈良原喜左衛門らがタタッと走り寄り、抜く手を
 見せずに斬りつけた。男一人が即死、二人が大怪我をしてアメリカ領事館に逃げ込み、
 夫人は髪の毛を切られた。
イギリスの代理公使ジョン・ニールは幕府に犯人引き渡しを要求し、幕府は薩摩に同じ
 く引き渡しをもとめたが薩摩はとぼける。幕府に薩摩領内に踏み込んで犯人を捕まえる
 力はない。イギリスの要求に応えられずにいた。
・そのころ、多少であれ幕府によかれと考えて行動する者を公武合体派というようになり、
 幕府を困らせ、ひいては幕府を倒してしまおうと考えて行動する者を尊王攘夷は(尊攘
 派)というようになった。長州の久坂玄瑞寺島忠三郎、肥後の轟武兵衛河上彦斎
 が尊攘派の頭目で、彼らは三条実美姉小路公知ら過激公家をそそのかして策謀をほし
 いままにし、朝議をも左右するようになった。ちなみに土佐の武市半平太らは、文久三
 年に入ってすぐに上京し隠居山内容堂の怒りに触れて検束され、行動の自由を失ってい
 た。
・生麦事件のイギリス政府の訓令は代理公使ニールの許に到着し、対幕府関係で十万ポン
 ド、対薩摩関係では二万五千ポンドの賠償金を支払わせること、となっていた。小判の
 価値は偶然だがポンドとおなじ。一両は一ポンドだった。そのころの一両はいまの貨幣
 価値に換算すると十五万延はくだらない。二万五千両は三十七億五千万円にもなる。い
 くらなんでもこれは法外だ。ぼったくりといってもいいのだが、イギリス政府はさらに
 条約に違反したのだから云々といって十万ポンド(十万両)を幕府からふんだくれと訓
 令した。
・その昔、幕府が緊縮財政で遣り繰りしていたころの幕府の歳入は米もひっくるめて年間
 百七、八万両。現金だけだと百二十万両前後。幕府という国家の歳入のおよそ二十分の
 一以上を、別途賞金として幕府から取り立てようというのだ。戦争をすれば、後で戦費
 だけでなく賞金をも相手国から容赦なく取り立てるというのがこの時代のイギリスの常
 套手段だったが、イギリスと馴染みが深い海賊だってここまで破廉恥ではない。
・将軍家茂が京に入ったが、案の定、尊攘派の餌食となってしまった。まず、長州が提案
 した攘夷祈願のための加茂社行幸ということがとりおこなわれ、これに供奉させられた。
 馬乗とされた将軍家茂は馬をおりて鳳輦(天皇の乗った乗物)を路頭に拝する。鳳輦に
 供奉する関白・大臣らは将軍の前を輿に乗ったまま通り過ぎる。将軍は関白・大臣にま
 で拝するような格好になり、またはなはだ威を落とすことになってしまった。
・これに味をしめ、長州はまたまた石清水社への行幸を言い立てる。先の屈辱に懲りて、
 将軍は病を理由に供奉をサボタージュした。
・英仏両国から軍事援助の申し出があったが、尊攘派や朝廷の猛威の前に青菜に塩の将軍
 以下にとって申し出を受け入れるなど想像を絶することで、回答はもちろん否である。
 その指示を受けて外国奉行竹本正雅は横浜に出かけ、婉曲に断ったのだが、申し出を素
 直に受ければいいではないかと主張したのが歩兵奉行も兼ねている小栗忠順だった。
・小栗は、かき集めの旗本・御家人、またはその家来や厄介を相手に、手探りするように
 軍事訓練をしていて、それにつけても毎日のように憤慨させられたのが禁裏や尊攘派の
 幕府を屁とも思わぬ傍若無人ぶりだった。もはや力で押さえつけるしか、やつらをひれ
 伏させることはできない。そう考えていた小栗にとって、英仏両国からの軍事援助の申
 し出は渡りに船だった。
竹本正雅が京からの指示で、英仏両国の軍事援助の申し出を婉曲に断ることになったの
 は、小栗にはそれゆえなんとも残念でならなかった。
・政府(幕府)が英仏両国の陸海上からの軍事援助を受け入れるなら、代償として賞金の
 支払いを検討してもいい。ただしその場合も額が適正であるかどうかをイギリスと話し
 合わなければならない。
・結局のところ、軍事援助は受け入れないことになった。だったら、賞金の支払いについ
 ては根本から考え直さなければならない。
・小栗は通貨問題でアメリカを相手に渡り合った。国務長官ルイス・カスは小栗のいわん
 とするところを理解したが、国益を優先させ、小栗の主張を認めなかった。対対馬占領
 問題ではロシアの艦長ビリレフと渡り合った。ビリレフは武力を背景に理屈にならぬ理
 屈を言い立てて、強引に対対馬占領の既成事実化を図ろうとした。
・小栗が尊敬する水野癡雲は信義礼節を失わないがためにも賞金を支払うべきだというが、
 諸外国に信義礼節なるものがあると思えない。それは二度の外交交渉を通じて嫌という
 ほど痛感させられており、このときもイギリスの要求に、小栗はむしろ破落戸の言い掛
 かりのような胡散臭いを嗅ぎとっていた。
・軍事援助を受け入れないと決めた以上、そもそも償金を支払わなければならいのかどう
 か、また支払わなければならないとして額が適正かどうかをはっきりさせておかなけれ
 ばならない。
・イギリスの償金支払い要求が、そもそも筋の通ったものであるかどうかを議すべきとい
 う小栗の主張は脇に追いやられているうちに、幕議は償金を「支払う」ことに決した。
 連日、御用部屋に押しかけ、口を酸っぱくして、小栗は老中小笠原長行らを説得した。
 悲しいことに小栗らは、たとえ無能であろうとも老中に人事権を握られている。「かく
 なるうえは罷めてもらうしかない」老中小笠原長行はそういい、小栗に免職を申し渡し
 た。
・京にいた松平春嶽は、自分の主張する薩摩をも巻き込んだ公武合体が思惑どおりにすす
 まず、ことごとく尊攘派に押し切られるのに嫌気がさし、辞意を表明して、許可を得ず
 に領国の越前福井に帰ってしまった。幕府は春嶽の政事総裁職を免ずるとともに逼塞を
 命じた。春嶽は口先だけで、本気で幕府や日本の難局を乗り切ろうとする気概や覚悟が
 端からなかったからそんな投げやりな態度をとって恥じるところがなかったのだが、そ
 れはいま一人の一橋慶喜もおなじだった。

横須賀製鉄所
・文久三年五月、長州は下関沖を通過するアメリカの商船を砲撃。その後、フランス艦、
 オランダ艦を相次いで砲撃、”攘夷”を決行した。これに英仏米蘭四カ国が報復攻撃した。
 承久の変の再現は失敗したが、小笠原らが京に迫ったことによって将軍が虎口を脱する
 ことができ、大坂を出航することができた。
・七月には、償金の支払いを拒否した薩摩をイギリスが攻めた(薩英戦争)。
・将軍が京に閉じ込められるということはそれだけ長州藩士を中心とする尊王攘夷派が勢
 力を張ったということで、尊攘派の増長はますますつのり、討幕をも辞さずとする攘夷
 親征を主張し、大和行幸の詔がくだされた。この尊攘派の横暴を面白く思っていなかっ
 たのがライバルの薩摩で、会津と手を組み、長州藩士や彼らに与していた三条実美らの
 過激公卿を京から追っ払った(八月十八の政変)。
・元治元年七月、長州追討の勅命がくだり、幕府は西南二十一藩に出兵を命じた(第一次
 長州戦争
)。
・将軍みずからの親征となると金がかかり、金をどう捻出するかということになり、小栗
 は勝手方勘定奉行に任ぜられた。
・からくりはいたって単純でこうだ。横浜で手に入れた一ドル貨を江戸に運んで二分金に
 鋳直すと、ほぼ二個をつくることができる。そのころの横浜の市中両替相場は一ドル=
 0.五両(二分)。原価は半値だから二倍が儲かる。こんなからくりで幕府は貨幣改鋳
 益金を得ていた。
・”小栗の二分金”といわれていた二分金も銭もすべて”相場もの”だった。大量に発行する
 と相場が崩れた。小栗は市場の相場を睨みながら二分金を放出していた。
・小栗は正論を吐いても誰も反論できないほど身辺を身綺麗にしていた。もとより賄賂の
 受け取りなども率先して拒み、経費の節減にもきびしくとり組んだ。それやこれやで財
 政担当として、小栗ほどの適任者はいず、金の捻出ということになると、誰の頭に も真
 っ先に小栗の顔が浮かんだのである。
咸臨丸はオランダに発注して新造船。蟠竜丸はイギリス女王から送られたおなじく新造
 船(といってもヨットだ)。この二艘以外の、幕府がこの時期までに所有していた二、
 三艘の艦船と十六、七艘の商船はいずれも中古の、値段を吹っかけられて買わされた紛
 い物同然のボロ船だから故障がたえず、さりとて修理をするドックなどというものは、
 長崎にちゃちなのができていた程度で、部品の外注、海外からの取り寄せなどに多大の
 費用をかけさせられていた。
・反射炉を建設したりと、鍋島直正の指導のもとに工業化に熱心だった佐賀鍋島家は早く
 にオランダから蒸気動力の船舶修理機械一式を購入していた。だが建造費がおそろしく
 かかりそうなのと、技術者がいないのとで据え付けをあきらめ、これを幕府に献納した。
・小栗はアメリカとアメリカ人をまるで信用していなかった。もっともこのころのアメリ
 カは南北戦争の真っ最中にあり、頼ろうにも頼れなかった。イギリスは世界の最強国と
 いうのをむしろ小栗も百も承知していた。だがイギリスは生麦事件が起きたとき、追剥
 同然の振る舞いにおよんだ。オランダは一時期は隆盛だったがいまはただの一小国。ロ
 シアは狐狼の国。小栗は対馬占領事件の当事者だ。狐狼の国というのを肌で実感させら
 れた。差し引きするとフランスが残る唯一の国。
・小栗は終始「徳川家の復権」というのを座標軸において行動した。その点で、松平春嶽
 や徳川慶喜のように、右に左にと御都合次第で考えがふらつく男ではなかった。横須賀
 製鉄所の建設プラントも新生ニッポンのためなんかではなく、新生徳川家のため、徳川
 家を中心とする新生ニッポンのために立てたのである。
・素人ができもしない法螺を吹いてみずからを慰めたところではじまらない。もっと足許
 を見つめ、一歩一歩前へ進まなければ海軍の充実など期せない。勝(海舟)はイギリス
 の歴史を引き合いに出してそういい、進言を覆されて小栗は面目をなくした。
・佐賀から献納された機械一式の据え付けという問題を持ち出し、やがて艦船を建造でき
 る製鉄所の建設というプランが出来上がったのだが、なんとなく成り行きでそうなった
 のではない。小栗の腹は当初から、最後は艦船をも建造できる製鉄所の建設へと話を持
 っていくことであった。
・ならばこれまで幕府は、艦船の建造にまったく無関心だったかというとさにあらず。豆
 州韮山の代官で、ペリーの来航後、江川太郎左衛門という傑物がいて、韮山で砲術等を
 教えていた。その弟子に常州笠間牧野家の家来小野友五郎、豆州八幡野村の村医者の倅
 肥田浜五郎などがいて、いずれも勝海舟と同じように長崎海軍伝習生となり、またいず
 れも築地に設けられた軍艦操練所お教授方となり、おなじくいずれも勝海舟とともに咸
 臨丸に乗ってサンフランシスコにでかけた。いわば勝海舟とともに海軍の草創期を歩ん
 でいた男たちだが、小野と肥田は四年前の万延元年十一月に、蒸気式軍艦の建造を自力
 でおこないたいと進言、認められて石川島で建造することになり、文久二年五月にキー
 ル釘〆の式をおこなった。勝海舟の進言は小野や肥田といった仲間をも愚弄していたこ
 とになる。
・勝海舟は将軍家茂のお墨付きを得て神戸海軍操練所を設立し、幕府は毎年同操練所に三
 千両を支出することにした。勝は、門下生の坂本龍馬を越前福井に送り、松平春嶽から
 も五千両という大金を寄付してもらった。神戸海軍操練所は順調に歩みはじめたかのよ
 うだったが、内実は坂本龍馬など浮浪の徒が群がる梁山泊のような様相を呈していた。
 訓練生のなかには長州と気脈を通じている者もいると噂され、まるで幕府が費用を持っ
 て反幕府、討幕の勢力を育てているかのようでもあった。事実、勝はそのような状況を
 知っていながら黙殺し、むしろ煽るようなところがあった。
・小栗と栗本が動いて、フランスの技師を招いて云々と具体的な話が出来上がった。しか
 もそれにフランス公使の全面的な協力を得られるのだという。ついでにフランスの援護
 を得て海軍をまとめかつ充実させればいということになって、公使ロッシュに正式に横
 浜製鉄所建設の技師の派遣を依頼し、幕閣は勝海舟を罷免した。
・幕府の海軍は長崎でオランダ人から、第一次、第二次と技術を習ってはじまっているが、
 早い話が操縦のイロハを習っただけで、海軍の組織のなんたるかを習っていない。乗組
 員は、てんでばらばらに行動していた。それゆえにといっていい。清潔第一モットーと
 しなければならない艦内は不潔で、いつも汚臭がただよい、寄生虫を湧かし、とりわけ
 ”アンドロス”という害虫に悩まされていた。逆にいうと勝海舟の指導する海軍の実態は
 その程度のものだった。
・横須賀製鉄所は維新後、明治政府のおさめるところとなり、名を横須賀造船所と改めら
 れた。明治四年二月にドックを完工、つづけて製鋼所、錬鉄所、鋳造所、製罐所を落成、
 日本最大の総合工場となった。
・イギリスへの十一万ポンドの償金支払いのときの慶喜の不審な行動は閣老や諸有司のあ
 まねく知るところである。とりわけ当時勘定奉行格神奈川奉行でいまは罷免されて閑職
 にある浅野氏祐は、償金支払印お前日には神奈川で当の慶喜に対面して激論を交わして
 いるだけに、卑怯未練な慶喜をその目でつぶさに目撃している。
・浅野は小栗の数少ない同志で、そのときの慶喜の一連の卑怯未練な振る舞いを、浅野か
 ら逐一聞いている。小栗にとって慶喜は唾棄すべき男である。

大蔵大臣
・日本という立場からいうと、屋台骨もなにもすべて腐りきっている幕府など倒れてしま
 ったほうがいい。新生ニッポンが生まれなければならなうとする勝海舟の主張は正しい。
  しかし、かりにも徳川の家来であるなら、二百数十年来の恩顧を考えるなら、なんと
  してでも報わなければならないと、この時代のまっとうな倫理感覚の持ち主なら考え
  なければならない。新生ニッポンはそのうえでのことだ。
・徳川家を飛び越えていきなり新生ニッポンに飛躍するのは、徳川家にとってかわるのが
 薩摩や長州など西南の雄藩であるのが目に見えているだけに、倫理感覚が欠如している
 だけでなく、露骨な裏切り行為といえる。勝海舟の場合はくわえて行為の背後に、自分
 は実力どおりに遇されていないという不平不満があって、それがついつい勝を反幕運動
 に駆り立てている。さもしい。許しがたい卑劣漢。小栗はそう見ていた。
・将軍家茂は四月ごろから胸痛を訴え、一時は快方に向かったものの、六月に入って再発
 し、下旬には脚気を併発した。江戸から医者を呼び寄せたり、禁裏からも医者が送られ
 たりしたが病状は日に日に悪化し、七月に死去した。わずか二十一歳。
・後継者は衆目の見るところ慶喜しかない。慶喜は家茂の死後、”兵制改革”を条件に徳川
 宗家の相続を承諾した。ただし将軍宣下は「思ふ子細あれば」として受けなかった。
 そのうえで、みずから征長軍の陣頭に立つと決意を表明した。
・明日はいよいよ出陣という日に、大坂に「小倉口瓦解」という報が届いた。
・京に取り込まれてしまった将軍家茂を奪回するため、”大将格”となって京に迫った小笠
 原長行は、事が失敗に終わって「罷免・差控」とされた。その後、小笠原はまた老中に
 復帰し、このとき小倉にいて、小倉口からの”征長”を指揮していたのだが、なんと小笠
 原が本拠をおく小倉城が長州に攻め込まれて陥落したというのである。
・慶喜はまだ京にいた。老中板倉勝静はすぐさま京に馳せのぼって、慶喜に事態を報告し
 た。すると、慶喜の輿はへなへなと崩れた。
・実際、幕府が小倉口だけでなく、芸州口、大島口、石州口の四方面すべてで惨敗したの
 は長州側が性能のいいライフル銃で装備したのに、幕府が動員した諸大名の部隊は旧態
 依然の鎧、兜に槍、刀、弓などで、戦国時代さながらに装備に身をかためていたからだ。
 ”兵制改革”を条件に徳川宗家を継いだ慶喜にとって、武器・装備・軍艦の充実は急務の
 課題だったのである。
・慶喜が将軍職を辞退して受けなかったのは、寄ってたかってすすめられ、やむなく就い
 たという形を とりたかったからだが、さすがにこの時代は将軍がいなければ政府は体
 をなさず、禁裏は慶喜に再三にわたってすすめた。慶喜はこれを待っていた。
・十二月に将軍宣下がとりおこなわれた。慶喜は京にいる。歴代の将軍と違って、京にい
 て将軍宣下された。であれば、天皇に挨拶しなければならない。参内の前日、孝明天皇
 はにわかに発熱。痘瘡の兆候があらわれ悪化、ついに崩御された。齢わずか三十六。
・孝明天皇は公武合体派で、すこぶる将軍家茂を贔屓されたということになっている。公
 武合体派ゆえ、討幕派に毒殺されたという噂も当時からしきりにささやかれた。だが、
 孝明天皇ほど討幕に力を尽くしたお人はいない。
・イギリス公使パークスは、「日本の大君は完全な主権を持っていない。大君はより高い
 地位にある人物(天皇)から任命によって職務を得ている。したがって大君はヨーロッ
 パ各国の君主と同じ地位にあるとはみなされない」問うた。
・家康は日本全土を掌握したとき、全権は家康にあった。ただ形式上とはいいながら、天
 皇から征夷大将軍という役職を与えられた。天皇と将軍は任じると任じられるとの関係
 にあり、その矛盾が幕末のこのとき露呈したのだ。

破綻
・パリでこのところ博覧会が開かれていたのだが、それに先立ち、単独で参加した薩摩が
 幕府は正当な政府ではないと喧伝していた。
・中国においてもそうだが、欧米の外交団がつねに問題にしたのは自由貿易の保証を最大
 の眼目とする条約の遵守で、徳川慶喜はパークスを相手に条約を遵守すると宣言した。
 具体的には、兵庫を開港し、大坂も開市するといった。パークスは大いに満足した。
・パークスが反幕府、親薩長寄りの姿勢をとり続けていたのは、幕府が条約をないがしろ 
 にし続けていたからで、前日の様式会食による歓待にくわえての、この日の条約遵守宣
 言で、パークスの慶喜に対する態度はがらりと変わった。
・我々はこの時代を多分に、坂本龍馬、中岡慎太郎、西郷隆盛、大久保一蔵、桂小五郎、
 高杉晋作、また勝海舟、新選組の近藤勇、土方歳三らが活躍したり暗躍したりした時代
 という風に理解し認識している。そんな時代に、経済や財政という異質なものに真っ正
 面から取り組んでいたのが小栗忠順で、その小栗の実像を我々は建白書ではっきりと知
 ることができる。
・小栗は横浜の貿易の実態をこう把握していた。
 資金力のない日本商人が、資本力のある外国商人にいいようにしてやられて、利益はこ
 とごとく外国商人に吸い取られている。
・商人が儲かるということはとりもなおさず、国が儲かるということ。国益になるという
 ことである。だから、兵庫を開港するに当たっては、なにがなんでも資金力のある外国
 商人と伍していける、むしろ外国商人を凌駕する商人団体を作りあげなければならない。
 その団体が「商社」で、「西洋名コンペニー(カンパニー)の法」にもとづいて設立さ
 れないければならないとする。このようなことを小栗は考えていた。
・小栗はワシントン、フィラデルフィア、ニューヨークの町をその目で見ている。数少な
 い外遊経験者である。”外気燈””書信館”のほかに江戸ー横浜間の鉄道敷設をも構想して
 いた。
・慶喜はロッシュの進言を容れて、内政改革を行った。大坂城での外交団の引見といい、
 慶喜の一連の動きは、討幕を策する者たちの目をそばただせた。
 岩倉具視は「将軍慶喜の動向を見るに、果断・勇決、志小ならず、軽視すべからざる勁
 敵なり」といった。
 坂本龍馬は「将軍家はよほどの奮発にて、これまでの将軍とは異なれること多く、決し
 て油断ならず」といった。
・だがこれらの動きの裏で、幕府は歩一歩と崩壊への道を歩みはじめていた。その最大の
 要因は小栗主導の許におこなわれていた借款の破綻である。
・万国博覧会は1851年(嘉永四年)にロンドンではじめて開催され、二度目がパリ、
 三度目がロンドン、四度目がおなじくまたパリで1867年(慶応三年)におこなわれ
 ることになった。この四度目のパリ博覧会に、ロッシュは日本も出展されてはどうかと
 すすめ、将軍徳川慶喜は、されば博覧会に出展するだけでなく、出展を機に、幕府が日
 本の正当な統治者であるというのをヨーロッパの国際社会に知らしめるため、フランス
 とイギリスに公使を駐箚させるだけでなく、大君(将軍)の名代を送ろうということに
 なった。
・慶喜の父である水戸の徳川斉昭の十八男に徳川民部大輔昭武という少年がいた。慶喜は
 昭武を御三卿清水家の相続者とし、自分(大君)の名代として博覧会に参加させるだけ
 でなく、ヨーロッパ各国の王室と親交を結ばせ、かつ条約締結国を歴訪させ、そのあと
 パリで留学させようと考えた。慶喜は昭武をつぎの将軍にと考えており、昭武に英才教
 育をほどこそうとしたのだ。
・慶喜の構想のもとに徳川昭武は慶応三年一月、フランスの郵便船アルヘー号に乗って横
 浜からパリへ向かった。昭武の一行がマルセイユに着いたのは三月の上旬。パリに着い
 てみると、薩摩が、幕府に対抗するかのように琉球国王の名で博覧会場の一画を仮受け
 て産物を展示したため、一行と悶着を起こすという一幕があった。
・小栗や栗本瀬兵衛はロッシュの勧めで、横浜にフランス語を教える学校「フランス語伝
 習所
」を設立した。慶応元年三月のことで、かなり大きな建物である。フランス語のほ
 かに、世界史、地理、数学、幾何なども教えたとかで、又一はこの学校の伝習生でもあ
 った。
・小栗の以来で来日したフランスの陸軍大尉シャノワンら軍事教官はこの慶応三年一月に
 来日した。シャノワンらの指導で、この六月ごろから、外国人居留地に近い横浜郊外に
 「陸軍訓練所」が設けられ、幕府の歩兵千人、砲兵六百五十人、騎兵参百五十人が訓練
 を受けることになる。
・ちなみにシャノワンは帰国後陸軍大臣になっている。

御直の罷免
・慶喜は慶応三年十月に大政を奉還した。鎌倉幕府以来の、武家が掌握していた政権をそ
 っくる公家(禁裏)に返上した。この大政奉還が坂本龍馬の献策にもとづくものである
 ことは世にあまねく知られている。
・明治の元勲の一人岩倉具は皇妹和宮を将軍家茂に降嫁させることに尽力し、文久元年十
 月の和宮東下に随従したところから公武合体派、幕府に追従する側の者とみなされ、激
 派ともいわれる尊王攘夷派(討幕派)の廷臣や志士らから非難の声を浴びせられ、帰京
 後間もなく文久二年八月に辞官・蟄居・落飾を命ぜられ、剃髪して洛北岩倉村に蟄居し
 た。
・孝明天皇が崩御されたとき、岩倉はなおも岩倉村で蟄居中であったが、この時期は討幕
 派に立場をおきかえて、天皇崩御を機に、新帝(明治天皇)の外祖父である中山前大納
 言忠能の幽閉を解いて、中山を太傅に任ずるようにと運動をはじめた。狙いは激派の中
 山を太傅にして禁裏に送り込むだけでなく、幽閉されている激派の公卿を赦免し、岩倉
 みずからも同志の公卿とともに禁裏に入って、禁裏を思うがままに動かすことにあった。
・薩摩の西郷隆盛、大久保利通はこの動きを見逃さず、京での政治運動の主導権を握ろう
 と、薩摩の島津久光、土佐の山内容堂、越前福井の松平春嶽、伊予宇和島の伊達宗城の
 上京を企画した。慶喜が兵庫開港の勅許のとりつけに腐心していた真っ最中のことであ
 る。
・多くの激派が幽閉を解かれた。彼らをどれだけ多く議奏・伝奏に送り込んで禁裏の主導
 権を握るかが、西郷や大久保にとって最重要課題となっており、上京してきた久光に、
 そのようにとりはからってくださいといった。
・大政を禁裏に奉還する。禁裏が外交を含めた政治をおこなう。禁裏に当事者能力はない。
 なにより権力を維持する武力がない。ならば一足飛びに薩摩にということになるか。そ
 れでは幕府や諸侯許すところではない。すると、新政府は天皇の下に慶喜が首班となっ
 て組織されることになる。それしか方法はない。政権をいったんは返すものの、すぐに
 戻ってくる。しかも天皇を後ろ盾にする。薩摩や激派はこれまでのように粗探ししたり、
 けちをつけたりはできない。慶喜はそう考えた。
・慶喜が大政奉還に動いている間にも、大久保利通、岩倉具視らは討幕にむけてまっしぐ
 らに突き進んでいた。大久保は、岩倉村の山荘に討幕派の公卿中御門中納言、岩倉、品
 川弥二郎らを招き、討幕について協議した。ちなみにこのとき、討幕派の公卿の出てあ
 る国学者玉松操が、討幕征討時にもちいり日月章の錦旗の菊花章の紅白旗の政策を提案
 した。
・幕府が全権を握ってはいたが、朝廷は独自に摂政・関白を頂点とする政治体制を敷いて
 いた。その摂関と幕府の両政治体制を廃絶する。
・岩倉は摂政二条、前関白近衛ら二十人以上もの公武合体派の参朝を停め、会桑(会津と
 桑名)二藩の禁門守衛を免じ、帰国を命じた。 
・夜におよんで、天皇は総裁有栖川帥宮をはじめ、議定、参与が居並ぶ小御所に出御して、
 いわゆる「小御所会議」が開かれた大久保利通らもまだ正式に参与に選ばれたわけでは
 ないが、とくに命を承けてという形をとって御三の間の敷居際に詰めた。この日、徳川
 の御大将たる慶喜は、間近の二条城にいるにもかかわらず呼ばれていない。無視されて
 いる。おのずと欠席裁判のようになり、内府(慶喜)は政権を返上はしたけれど、なん
 ら実績を示していない、本当は領地を返上すべきなのであるといった、慶喜が大政を奉
 還したとき、禁裏がそれとなくちらつけせた問題が主題にあがった。
・二度にわたる長州征伐もとうとう幕府が一方的に悪いということにされてしまった。
 一歩引くと一歩押してくる。大政を奉還するなら土地・人民も返上しろという。退けば
 そうなるだろうという、いたって単純なことに慶喜は無頓着だった。
・ついこの前まで大久保など陪臣は将軍に御目見さえかなわなかった。それが、このよう
 な席で内府などと呼び捨てにする。そこまで慶喜、とりもなおさず幕府の権威は失墜し
 ていた。
・慶喜に大政を奉還させた土佐の後藤象二郎もこの席にいる。後藤はこの王政復古の号令
 があるというのを  あらかじめ大久保と西郷から聞かされていたが、慶喜も参朝させ
 てのことと当然のように思っていただけに、逆にいうと大久保と西郷に騙されていたこ
 とが分かって、憤懣やるかたない。
・慶喜の耳にもうすうす昨夜の出来事は入っていた。だがやはり驚天動地の申し入れで、
 うろたえてしどろもどろにとなった。
・これらの成り行きに旗本の将士はいうまでもなく、解職された会桑(会津・桑名)二藩、
 在京の彦根、津、大垣などの諸藩の兵は激怒した。実力行動に訴えようとしたのだが、
 慶喜の腰は事ここにいたっても定まらない。会桑二藩ら諸藩の兵のほとばしるエネルギ
 ーを押さえつけ、騒動の目を摘むためにというとう大坂城に難を避けることになり、ま
 るで落武者のように大坂に下った。
・老中格松平乗謨、老中格稲葉正巳らが呼応して軍艦順動丸に乗って上坂し、京に入ると
 慶喜を捕まえ、「なにがゆえに政権を奉還されたのですか。政権を奉還するということ
 は徳川家を潰すということで、潰して、東照宮(家康)に対してどう申し開きをなさる
 のです」と迫った。
・薩摩の陰謀は止まるところを知らない。西郷隆盛と大久保利通は武力によって倒幕する
 しかないと腹を固めており、そのためには幕府と矛を交わす以外になく、幕府を挑発す
 るために策をめぐらした。西郷は薩摩藩士益満休之助を呼んで「浪人を糾合して関東各
 地を騒げせるように」と命じた。
・益満らは、江戸に下り、浪人をおよそ五百人ばかりもかき集め、江戸市中はいうまでも
 なく、関東各地を荒らしまわった。幕府は当初何者の仕業と気づかなかったが、やがて
 薩摩の扇動によるものと分かった。 
・隠忍自重論が制していたところへ、佐土原の一隊が、芝の屋敷の近くにあった、新徴組
 を率いて府内の取り締まりに当たっていた出羽庄内境左衛門尉忠篤の屯所に発砲し、詰
 め合わせていた数人が死傷した。 
・翌日酒井忠篤は、前橋、西尾、上ノ山などの諸藩、新徴組、陸軍などの応援をえて、薩
 摩藩邸、佐土原藩邸を包囲して、砲撃・焼失させた。この報が大坂に達すると、爆発寸
 前にあった旗本の諸隊および会桑二藩の兵に火がついた。我らも奸賊薩摩を討たざるべ
 からず、討ちましょう、討たせてくださいと慶喜に迫った。事ここにいたればやむなし。
 これ以上彼らを押さえつけることはできない。慶喜ももはや流れに逆らうことなく、分
 かった、討とうといった。
・だが、押されて押されて押されまくられたうえでのことで、決断はあまりにも遅すぎた。
 また勢いにかかせるのはいいが、「彼を知り、己を知らば百戦殆うからず」という孫子
 の兵法を口にしていながら戦略戦術もなさすぎた。
・幕府軍は本営を淀本宮において、鳥羽、伏見の両道より京にはいろうとした。両道とも
 に薩摩は入京をこばむ。鳥羽道の薩摩陣営から砲撃をしかけたのが発端で戦闘は開始さ
 れ、両道ともに幕府軍はなす術もなく敗れた。
・とはいえ、大坂湾には最新鋭艦の軍艦開陽丸と富士山丸、小型だが蟠竜丸、輸送船の翔
 鶴丸がいて、大坂湾をがっちり押さえている。たまたま湾内に薩摩の汽船春日丸、平運
 丸、翔鳳丸の三艦がいたが、開戦すると三艦は尻尾を巻いて逃げた。
・兵力で劣っていたわけではない。大坂にしばし踏みとどまって江戸からの海陸からの応
 援を待てば、薩摩や長州とても長征してのこと、補給等の問題も抱えており、挽回の余
 地は十分にあった。 
・だが、またしても慶喜の腰はへなへなとくずれる。
・その日、いかにも唐をくくったとばかりに慶喜はいった。「出馬する。みなも支度をせ
 よ」諸有司・諸隊長らは勇んで、持ち場持ち場に向かった。その隙に慶喜は許守護職会
 津の松平容保、元所司代の桑名の松平定敬、老中姫路の酒井忠惇、老中板倉勝静、大目
 付戸川安愛、外国総奉行山口直毅、目付榎本道章、外国奉行高畑五郎、医師戸塚文海ら
 を従えて、ひそかに城の裏門より出た。
・慶喜は最新鋭艦の二十六門の大砲を持つ開陽丸で東帰するつもりでいるが真夜中だ。船
 の明かりは見えるものの、どの船がそうなのか分からない。明かりを頼りに、ある船に
 向かった。アメリカ艦だった。交戦中の片方の大将だ。びっくりしたが諸外国は中立を
 守ることにしており、艦長室にまねいて一夜をもてなした。夜が明けて開陽丸の所在が
 分かり、慶喜は開陽丸に乗り移った。
・開陽丸の艦長榎本武揚はこれからどう戦うのかの打ち合わせに上陸していて、副艦長の
 沢太郎左衛門以下が迎えた。慶喜は将軍の威を利かせて、艦長榎本武揚を置き去りにし
 たまま、開陽丸を出航させた。ちなみに慶喜は、侠客というよりみしろごろつきの親分
 といっていい。江戸の新門辰五郎の娘お芳を妾にして大坂へ連れてきており、お芳そこ
 っそり艦長室に忍ばせての逃避行だった。
・今度のことはどう考えても理不尽である。薩摩の陰謀にしてやられている。恭順するわ
 けにはいかない。将軍家はましてや武家の棟梁。断固、迎え討つべきである、戦うべし、
 とした主戦派は、老中小笠原長行、海軍副総裁榎本武揚、歩兵奉行大島圭介らで、頂点
 に立って主戦派をリードしたのが勘定奉行でかつこのとき陸軍奉行並を兼務していた小
 栗忠順である。
・慶喜が朝敵の汚名を着せられるのを恐れているのは、水戸学の申し子だったからではな
 い。戦えば負けるかもしれない。負ければ梟首されるというのを恐れていた。命が惜し
 かったのだ。
静寛院宮は先帝孝明天皇の妹で十四代将軍家茂の室。十三代将軍家定の室天璋院は薩摩
 の先代島津斉彬の養女でさらに近衛家の養女となって嫁入りしている。慶喜によって静
 寛院宮は姑で、天璋院は大姑。しかもいずれも敵方。それでもなお朝廷になにかといい
 顔をしてみせたい慶喜は静寛院宮に面会をことわられて天璋院をたよった。
・天璋院に面会を願って、東帰の事情をのべたあと、宮に取り次いでもらえないでしょう
 かといった。気持ちは宮に弁解して、なにかがあったとき宮から助命を願ってもらうこ
 とになる。
・小栗はまた一から説明をはじめる。慶喜は納得する。しばし休憩する。再開するとまた
 弱気になっている。それが丸二日つづいて慶喜は決断せず、「されば、いま一晩考えて」
 と奥に引き下がろうとする。その袴の裾をむんずと捕まえて小栗はいった。「これ以上
 は待てません。これ以上待つと、作戦が手遅れになります。ご決断を」
 「無礼者!」慶喜は裾を払って奥に消えた。
・「芙蓉間に」と言われて小栗が待機していると、老中の酒井忠惇がやってきて「そのほ
 う、お役御免禁仕並仰せつけられる」といった。
・小栗だけを槍玉にあげた罷免人事で、人はこの人事をかつて将軍が公使したことのない
 ”御直の罷免”とささやいた。小栗のような罷免例は過去にないでもなかったが、めった
 にないことで、営中の目をそばだたせた。

烏川の露
・慶喜は、徳川義宜、松平春嶽、浅野長勲、細川護久、山内容堂らに書を送って、鳥羽伏
 見の戦いについてあれこれ弁明したあと、跡式(後継者)を選んで退隠する旨、表明し
 た。そのあとは、ただひたすら恭順へとまっしぐらに突き進むのだが、総大将がこうだ
 ととても戦いにならない。戦わずして敗れたも同然。江戸城にはほどなく、薩長を主力
 とする”官軍”なるものが乗り込んでくる。
・座してそれを見るか。見たくない。どさくさに紛れて屋敷が襲われ、金目の物が略奪さ
 れるだけでなく、一家が殺戮されないともかぎらない。江戸にいるのは危ない。しばら
 く田舎へ引き籠ろう。小栗はこう考えた。
・小栗は権田村に引き籠もり地に選んだ。ただし権田村に永住するつもりはなかった。
・小栗が烏川の露と消えたあと、懐妊していた小栗の夫人は会津若松へ必死の逃避行をこ
 ころみて、小栗の遺児(娘)を出産したあと、江戸に戻る。
・権田村の東善寺とは古くから懇意にしている。新居は東善寺から十町ばかり下手にある
 観音山に構えるつもりでいるが、出来上がるまでは東善寺に仮住いすることにしており、
 東善寺に旅装を解いた。
・従う者は、小栗の母邦子、妻道子、後嗣の養子又一、それに鉞子の家族五人。又一はこ
 のとき二十歳になっていた。鉞子は十四歳。女になったかならぬかという年頃だから取
 子取嫁とはいえ、二人はまだ正式に夫婦にはなっていなかったろう。ほかに用人塚本真
 彦ら家来八人。塚本真彦は、道子が小栗に嫁いだときに、実家の建部家から付けられた
 乳母まきの子で、小栗家の家来に直り、小栗のアメリカ行きにも同行している。ほかに
 塚本真彦の家族六人、権田村の出身の若者など、総勢三十七人。箪笥、長持、行李など
 の所帯道具に漬物樽までも携行しながら三泊四日の旅をしたのだ。嫌でも目につく。
・小栗上野介というと、何度も勘定奉行を経験したことのある幕府のお偉いさんだ。名前
 はよく知られている。幕府は瓦解した。西から薩摩や長州が攻めのぼってくるらしい、
 という噂はとうに街道筋に広まっている。ひょっとしたら、あの荷の中には、在任中に
 私腹を肥やして溜めた小判や、幕府再興にそなえての軍用金が隠されているのではない
 か。こう思う者が少なからずいた。
・世はしばらく無政府状態におちいる。このようなときには必ず暴徒・凶徒が蜂起して富
 商・豪農を襲い、金品を略奪する。それでなくても、上州は国定忠次大前田英五郎
 どが跋扈した、悪党者や無法者がのさばる土地柄である。暴徒・凶徒が徒党を組んで、
 各地の富商・豪農を襲いはじめた。
・関八州の治安に当たっていたのは俗に八州廻りといわれていた関東取締出役だが、幕府
 という公権力の後ろ盾がない。彼らは侮られて、暴徒・凶徒に手も足もでない。暴徒・
 凶徒は好き放題に略奪してまわった。
・鬼定という悪党者がいた。これを首領とする一味が野州(栃木県)の足利辺りから動き
 はじめ、東毛(群馬県東部)、前橋、高崎と略奪しながら西へ移動して、小栗が大金を
 携行して権田村に向かったという報に接した。鬼定とその一味は後を追うように、小栗
 が昼休をとった下室田村を目指した。
・西郷隆盛の謀計により、益満休之介は浪人およそ五百人ばかりもかき集め、前年の十月
 下旬から、江戸市中はいうまでもなく、関東各地を荒らしまわった。そのかき集められ
 た浪人の一人、家内壮介首領とする一味もまた秩父辺りから藤岡、富岡、安中と略奪し
 ながら北へ移動していて、これまた小栗が大金を携行して権田村に向かったという報に
 接し、おなじく下室田村を目指した。
・鬼定一味と家内壮介一味は期せずして下室田で合流した。狙いは小栗の所持金の奪取だ。
 ともに手を携えて奪い取り、山分けしようではないかということに話は落ち着いた。鬼
 定と金井壮介との混成隊は大挙して、もっともらしく「小栗征伐」と称して筵旗をひる
 がえし、権田村の手前、三ノ倉村に集合し、全透院に本拠をかまえた。
・鬼定・金井壮介を両首領とする混成隊は、権田村をのぞく三ノ倉、水沼、岩永、川浦の
 四カ村にこんな廻状をまわした。
 「一軒につき、一人ずつ人をだせ。手向かった村は一軒残らず焼き払う。鉄砲を所持し
 ている者は持参せよ」 
・四カ村は仕方なく応じた、ということになっている。だが、さて、どうだろう。四カ村
 の者に”落人狩り”根性はなかったろうか。
・小栗は落人同然に権田村に姿をあわらした。権田村の村役人が東善寺にやってきて小栗
 につげる。「当村にはなにもいってこないのです。心配でなりません」
 小栗も徒党の腹はとうに読めている。自分の金が狙いだと。小栗は五、六千両を所持し
 たいたとのことである。
・小栗は権田村出身の若者の一人、大井磯十郎を呼んで、「三の倉村にでかけ、徒党の者
 に、なにゆえに敵対かと糺せ。話し合いながら、十分に敵情を探れ」といった。
・大井磯十郎ら権田村の若者十六人は小栗から江戸に呼ばれ、小栗の屋敷内の長屋で寝起
 きしながら幕府歩兵としての訓練を受けた。とりわけ磯十郎は丈高く、身体もがっしり
 していて、なにより胆がすわっていた。
・話し合いは噛み合うはずもなく、そういうことなら、すきにするがいい。ただし、こっ
 ちも手を拱いてはいない。迎え討つ。腹を括ってかかってこい。こちらにはフランス渡
 りの新式銃と弾薬も豊富にある。一歩も引けをとるものではない。力を合わせればなん
 なく撃退できる。
・一味は示し合わせてそれぞれ、夜明けとともに動きはじめて配置についた。人数はおよ
 そ二千。   
・小栗は母邦子、妻道子、養子又一の許婚鉞子、用人塚本真彦の母まき、妻みつ、長女、
 次女、三女、乳のみ子の長男、まだ幼く戦闘要員としては用をなさない家来武笠銀之助
 らを名主の佐藤勘兵衛に託して、榛名山西麓の山中に避難させた。一行には権田村の老
 人や婦女子も同行した。
・又一はフランスからやってきたシャノワンから直接指導を受け、幕府歩兵指図役頭取に
 まですすんでいる。又一が号令をかけ、又一・小栗の一隊二十余陣は鎮守椿名神社に布
 陣する脇本陣に総攻撃をかけた。 
・一味が手にするのは火縄銃。弾込めに時間がかかる。又一・小栗隊が手にするのはフラ
 ンス渡りの新式銃。矢継ぎ早に撃ち放つことができる。
・一味は暴徒・凶徒に百姓が入り交じった烏合の衆。三人目が撃ち取られ、一人が槍で突
 き伏せられると、恐怖心が先に立ち、算を乱し、蜘蛛の子を散らすようにちりぢりに逃
 げた。小栗勢は勢いにまかせて、本陣に向かった。これまた一味はあっけなく潰走した。
・問題は戦後処理だ。小栗からすれば、これほど不埒な話はなく、四カ村の者にいいよう
 のない憤りを抱いている。だが、これ以上、問題を大きくして得なことは一つもない。
 追い討ちをかけずに、四カ村の者の出方を待った。
・四カ村の者は戦々恐々だ。四カ村の村役人は打ち寄って鳩首し、とにもかくにも詫びに
 いこうと、夜になって東善寺に小栗を訪ねていった。
・小栗は言葉少なに「詫書を寄こせば事をおさめよう」「五カ村の者はこれから仲よく、
 何事もよく話し合って事を処するがいい」
 ただし、油断はならない。一村一人ずつ人質をとった。
・江戸時代の支配者であり領主(大名)・地頭(旗本)と、被支配者であるとりわけ農民
 との関係は単純ではない。領主・地頭は支配者であり、年貢の徴収権は有しているが、
 土地の実質的な支配権は有していない。実質的支配権ということでいうなら、それは農
 民にある。
・封建時代のヨーロッパ諸国の領主は土地を実質的に所有するのみならず、ことによって
 は農民そのものをも私有財産として所有していた。そこら辺りが彼我では大いに異なっ
 ており、江戸時代の農民には、土地を実質的に所有しているという意識のみならず、そ
 のことから生じる自意識・自立意識というものが濃厚にあった。大方の歴史書が教えて
 いるように、農民はひ弱で、支配者からなず術もなく虐げられていたのではない。
・小栗と知行所農民も土地所有に関しては同じ関係にあった。小栗は支配者で年貢を徴収
 してはいたが、土地の所有権は農民にあった。そんな地頭である小栗が、あるとき、山
 深き権田村の農民の目にも幕府が瓦解しようとしているのが明かなときに、ひょこたん
 と、しばらくここに住むといって家財道具を携行し、一族郎党を連れてやってきた。そ
 れは、まあいい。だが、小栗が村にあらわれるや否や、暴徒・凶徒に近隣の百姓がくわ
 わった一味に村を襲われ、結果として、村の十一戸と十王堂と阿弥陀堂の二堂が焼かれ
 た。権田村にとってはこれほど迷惑な話はない。
・小栗にもそれはわかる。暴徒・凶徒らの一味に村を焼かれたその日、小栗は村への迷惑
 料や家を焼かれた十四戸への見舞い金と、ほかにも村へのいわば挨拶料として、合計六
 百二十五両を拠出した。よそ者として権田村にやってきた小栗としては、そうやって村
 の者に気を使わなければならなかったということでもある。
・小栗は、あらかじめ名主の佐藤勘兵衛や権田村出身の大井磯十郎らから観音山の地形を
 聞き、人の住めない観音山の頂上に屋敷を構えるつもりでいた。山の頂きに、自分の屋
 敷だけでなく、塚本真彦ら家来の家も建て、小至沢の水源近くから水を観音山台地まで
 引けば、住むになんの支障もないと構想してのことだ。
・権田村のずっと北方に位置する中之条村の村役人がやってきて、暴徒・凶徒の一味が押
 し寄せてまいりました、撃退したいので、力を藉してくださいという。小栗が暴徒・凶
 徒一味を見事に撃退したのが中之条村にまで伝わっていてのことで、「相分かった」と
 小栗は、大井磯十郎、池田伝三郎、多田金之助の三人に歩兵二人を遣わした。小栗勢来
 るの報に、一味は仰天し、大井らが中之条村に着いたときにはすでに逃げ散っていた。
・江戸では、有栖川帥宮熾仁親王が東征大総督に任ぜられた。慶喜は寛永寺に塀居。勝海
 舟と西郷隆盛は会談して、江戸城無血開城に合意。
・小栗夫婦には子ができなかった。ために又一と鉞子を、将来妻合わせで跡をとらせるこ
 とにして、取子取嫁にした。そのなかなか孕まなかった妻道子が昨年のあわただしい時
 期に妊娠して五カ月目を迎えた。
・平穏な日がいつまでもつづくように思われた。しかし、村の者がこう報せる。
  「高崎、安中、吉井のお侍さんたちが大勢、八百人ばかりが、お殿様(小栗)に談判
  があるとのことで、こちらを目指している由にございます」
・いずれも譜代の大名で、彼らがおなじく譜代の小栗に、多人数を差し向けなければなら
 ない理由はない。  
・小栗は江戸を目指しているいわゆる官軍なるものの動静を知らない。だが、官軍なるも
 のが江戸を目指しているというのは、もとより途中で迎え討とうと強硬に主張した一人
 だ。よく知っている。だから、高崎、安中、吉井の侍、多人数が権田村に向かっている
 のは、官軍なるものの示唆によるものではないかという推測はとうについている。
・高崎の家来が三人、安中の家来が三人、吉井の家来が二人。高崎の家来宮部八三郎が代
 表だという。
・証人、つまり人質と口にこそだしていわないが、要は証人として又一を貰い受けたいと
 いった。宮部八三郎らには宮部八三郎らの立場がある。大砲を引き渡し、又一を証人と
 して同行させれば、あるいは総督府の心情も和らぐかもしれない。ここらが小栗も甘か
 ったのだがそう考えた。
・宮部八三郎らが引き揚げ、一段落ついたところで、小栗は母邦子らに迎えの使いを送っ
 た。だが、一段落ついたと思ったのも束の間、翌日、塚本真彦を三ノ倉村まで様子を探
 りにやらせると、真彦は帰ってこず、真彦についていった供の者が帰って、「又一様は
 高崎城下へ連れていかれ、それより高崎松平家の方が同道して総督がおられる行田まで
 向かわれるとか」といった。
・このとき総督は館林に移動していたのだが、又一は証人というより、むしろ罪人扱いの
 ように思える。これはまずい。小栗はそう直感した。
・妥協の余地はない。逃げるしか手はない。高崎、安中、吉井の三藩の兵は引き揚げた。
 逃げるならいまだ。しかし、又一やその跡を追って様子を見にやらせた塚本真彦らが証
 人(人質)として囚われての身となっている。彼らを見捨てていいのか。
・会津には何人か知人がいる。会津に好意的だった人物として、小栗に好意を持っていた
 者も少なくない。会津に落とさせるという手があるが、落とさせるとしたら自分が先頭
 に立ち、万端指揮するのが最善だ。道筋の諸侯にはまだまだ顔が利く。
・会津へ向かうにはとにもかくにも、国定忠次の関所破りで有名な、北方にある大戸の関
 所を目指さなければならない。小栗の一行はたしかに大戸の関所を目指したのだが、追
 っ手がかかるのが気になる。わざと脇道をとり、その日は亀沢という集落にある大井彦
 八家に泊った。 
・名主の佐藤勘兵衛が馬で駆けつけてきて、「お殿様がこのまま立ち退かれますと、なに
 ゆえ見過ごしておったと村の者が総督府に責められ、難儀いたします。どうか村にお戻
 りになって、他意のないところを総督府のお役人様にお伝えなされますよう、お願い申
 しあげます」といった。
・これをいわれるのがこのときの小栗には一番こたえる。会津に無事落ちのびれば道はい
 かようにも開ける。かりに官軍と戦うことになって敗れたとしても、むざと殺されたり
 はしない。切り死にしたとしても武士としての意地を晴らすことができる。村に戻って
 問答無用とやられると犬死にも同然。
・だが、こんなとき、小栗がとる態度は決まっている。逃げない。逃げるような卑怯な真
 似はしない。してはならない。小栗はそういう覚悟のある生き方をしてきた。小栗はい
 った。「止むを得ない。母上らを頼む」
・ならば我らもと荒川祐蔵、渡辺多三郎、大井磯十郎の三人も残ることにした。 
・小栗を呼び戻した名主の佐藤勘兵衛は、小栗のアメリカ行きへも同行した一人だが、こ
 のときの行動はのちに疑惑をもって語られるようになる。
・勘兵衛は小栗から計四百両を月一割の利息で借りていた。勘兵衛は村の小さな造り酒屋
 の主人だ。小栗が死ねば元利ともに帳消しになる。小栗が処刑されるのを期待して呼び
 戻したのではないかというのが、かけられた疑惑だ。
・東山道先鋒総督府副巡察使の原安太郎(長州)、と豊永寛一郎(土州)が高崎にやって
 きて、小栗の処置について質した。「小栗を即座に出頭させ、高崎、安中、吉井の三藩
 で護送してくるよう。抜刀して抵抗するようなら討ち果たして首級を総督府に届け、首
 実検にいれるように」
・参謀の藤井九蔵と宇田栗園がつけくわえた。「手落ちがあったら、三藩の存亡にかかわ
 り申す」三藩の代表は震えあがった。
・小栗が幕府体制を維持しようとした強硬派の一人で、かつ徹底抗戦を主張した幕府側の
 というのを巨魁官軍の一員なら誰でも知っている。彼らは彼らなりに小栗に憎しみを抱
 いている。問答無用で殺したところで、どさくさ紛れだ。咎める者は一人もいない。彼
 らは暗に討ち果たせといった。
・三藩は原、豊永の指揮のもと、東善寺に押し寄せた。小栗と荒川祐蔵、渡辺多三郎の主
 従三人は本堂で端然と迎えた。荒川、渡辺の二人は縄をかけられ、小栗は駕籠に押し込
 められて、三ノ倉の屯所まで連れていかれた。そこへほどなく、大井磯十郎が駆けつけ
 た。大井も縄をかけられた。
・翌朝、主従四人は烏川の水沼河原に連れていかれて引き据えられ、大井、渡辺、荒川の
 順で斬首された。小栗は最後だ。
・御目付としてアメリカへ出かけるというデビューを飾って以来の役人生活の来し方があ
 れこれと脳裡に去来する。だが、振り返る暇もなく、辞世の歌を残す時間も与えられる
 こともなく、小栗は烏川の露と消えた。享年四十二。
・その翌日には高崎に連行されていた又一、塚本真彦、多田金之助、沓掛藤五郎ら四人も
 なんらの取り調べを受けることなく、城内の牢屋の前で斬首された。
・なお、会津へ向かった妻道子らは苦難の逃避行の末、会津に辿り着き、道子は会津で女
 子を出産した。子孫はいまに絶えることなくつづいている。