本土決戦 :土門周平

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この本は、今から22年前の2001年に刊行されたものだ。
太平洋戦争末期というと、「沖縄戦」「東京大空襲」「広島・長崎への原子爆弾投下」が
クローズアップして語られることが多い。そのため、この「本土決戦」に関しては、あま
り語られることがない。
しかし、実際には、アメリカは「オリンピック作戦」と「コロネット作戦」とに呼称され
た日本本土への上陸作戦を計画しており、これに対して日本側も「本土決戦」の準備をし
ていたのである。
日本の本土決戦の目的は、この本土決戦によって連合国軍に勝つことではなく、決戦態勢
をとって連合国軍に上陸が容易ではないことを悟らせることであったという。そして無条
件降伏ではなく、いくらかでも有利な条件で講和することができないかと、日本の戦争指
導者は考えていたようだ。
しかし、そのための日本側には壊滅的な犠牲が出ることになる。そのことを日本の指導者
は、単なる数字ではなく現実感を持ってイメージできていたのだろうか。
実際には、広島・長崎の原子爆弾投下とソ連の参戦により、日本はポツダム宣言を受諾し、
無条件降伏することにより、本土決戦は避けられた。もし、この本土決戦が実際に行われ
たら、日本はどうなってしまっていたのか。考えただけでもゾッとする。
よく、戦争を始めるのは簡単だが、戦争を終われせるのは非常に難しいと言われる。どち
らか一方の国が壊滅状態にまで追い込まれないと、戦争はなかなか終わることができない
のだ。

過去の読んだ関連する本:
島の果て
出孤島記
雲の墓標
証言・南樺太 最後の十七日間


海軍の本土決戦準備 (元海軍省人事局局員・海軍大佐 末國正雄)
・大東亜戦争の末期、帝国陸軍の強硬な主張によって、「本土決戦」と称される作戦指導
 の方針が採択され、その準備が行われた。
・この長大な日本国土の海岸線のどこを選んで進攻して来るのか、その地点と時機の予測
 は至難であり、来攻を阻止することも至難である。
 ひとたび米軍が国土のいずれかに来攻上陸すれば、住民、国民を戦闘に巻き込み、狭い
 国土内はたちまち戦場と化し、荒れ果てるだろう。
 しかし、国民ひとり残らず、協同一体となって戦う素地態勢が整っているかどうかが、
 重要な課題となる。
・二十年三月、米軍は日本本土の一角、小笠原諸島の硫黄島を占領し、マリアナ基地から
 日本本土を攻撃する大型機の行動を安全にした。
 その当時、同島にあった住民は日本本土へ移り、不在であったため、戦争は彼我両軍の
 軍人だけで行われた。  
・二十年四月、米軍は日本本土の一角、沖縄本島に来攻上陸し、たちまち同島飛行場を占
 領した。このときには、日本本土から航空特攻を行うほかに、来攻敵軍を攻撃する方策
 はなかった。
・連合艦隊の水上兵力としてわずかに残存し、行動可能であった戦艦「大和」と軽巡一隻、
 駆逐艦八隻をもって水上特攻隊を編成し、沖縄に向けて出撃させた。
 しかし、沖縄に到着以前の四月七日に、敵機動部隊艦上機の集中攻撃を受け、「大和」
 をはじめ軽巡、駆逐艦四隻が沈没し、目的達成ならず潰滅した。
・この当時、日本本土と南方との交通は完全に杜絶し、南方からの石油も物資もいっさい
 入手できなくなった。そのうえ、日本海、黄海の海上交通も逼塞し、満州、中国方面か
 らの物資も入らなくなった。
・三月初旬にはじまった米軍大型機多数による本格的本土空襲は、連日におとび、損害も
 漸増した。しかも戦力造成生産は著しく減少し、物資、資材は窮乏に向かいつつあった。
 とくに国民の食糧は窮乏し、配給も意のごとくならない実情にあった。
天合作戦ではまず航空兵力の大挙特攻攻撃をもって敵機機動部隊に痛撃を加え、次いで
 来攻する敵船団を洋上および水際で補足し、各種特攻兵力の集中攻撃によりその大部を
 撃破するをもって目途とし上陸せる敵に対しては強靭な地上作戦をもってあくまで敵の
 航空基地占得を阻止する。
決号作戦では、各種特攻攻撃をもって敵船団の洋上および水際撃破を重視する。 
・秋水とは、日本ではじめて開発したロケット・エンジンの飛行機で、米軍のB29を撃
 墜することをめざした特攻機であった。
・海軍は決号作戦に備え、全海軍部隊を統一指揮する権限を持つ海軍総司令長官を、四月
 二十五日付で設置し、豊田副武連合艦隊司令長官に兼務を命じた。
・マリアナ方面における敵大型機の重要基地奇襲のため、烈作戦と剣作戦が計画された。
 この剣作戦には、陸軍から第一挺進団の約三百名が参加することになり、松島基地およ
 び三沢基地で訓練を行っていた。 
・烈作戦は、多銃装備の攻撃機群で敵航空基地を低空で制圧し、その機に乗じて剣作戦部
 隊が敵飛行場に強行着陸して、所在の敵大型機や基地設備を破壊するという、決死的な
 作戦であった。
・六月八日、宮中で御前会議が開かれた。会議の冒頭に総合計画局長官は、
 「・・・・民心の動向また深く注意を要するものあり。軍部および政府に対する批判は、
 逐次盛んとなり、指導層に対する信頼感に動揺をきたしつつあり、国民道義は頽廃の兆
 しあり」
豊田軍令部総長の戦後における回想によれば、
 「戦争継続一本槍の会議は、真意とは背馳したことを議決したものであった。今更変な
 ことを言うようであるが、その内容について真剣な論議をする気持ちにはなれなかった」
 ともらしている。
・昭和十九年八月には、特攻用航空機「桜花」の設計試作が開始された。
 各特攻兵器や特攻機が緒につき、量産が進むと、震洋隊、回天隊、海龍隊、神風桜花特
 別攻撃隊が編成され、それぞれの部署についた。
回天の配備地点は、房総の九十九里浜、鹿島灘沿岸、浦賀水道、相模湾、伊勢湾、四国
 南部、豊後水道、有明湾、鹿児島湾、九州南部、九州西部の諸要地港湾となっている。
震洋は、五十数隻をもって一隊を編成する。水上速力約四十ノット(時速約八十キロ)
 の高速で敵防御砲火をおかして集団で敵上陸船団に突進、これに体当たりして撃沈し、
 敵の上陸を阻止しようとしたものである。   
甲標的蚊龍は、潜航して敵艦船に接近する。そして数隻で共同しつつ魚雷を発射、敵
 艦船を撃沈しようとするものであった。
伏龍隊というのがある。伏龍隊の隊員はアクアラングを着け、棒機雷(特殊の小型機械
 水雷)を携えて海中に戦没する。こうして、来攻して泊地に進入する敵の上陸輸送船の
 船底下に潜り込み、嫌いを船底外側に当てて、撃沈しようとするものであった。  
・回天は、数基が共同で魚雷として敵艦船に体当たりするもので、必死必殺の戦法をとる
 ものであった。
・本土に対する敵空襲の激化に備え、施設や工場などの被害軽減を企図して、各地、各方
 面で地下壕の建設がはじまった。
 その件数は枚挙できないほど多数にのぼり、その規模も大小さまざまである。簡単な避
 難豪程度の穴から大規模な地下工場、あるいは事務所、作戦指揮所などにいたるまであ
 る。
・長野県松代に準備した大本営移転予定先の地下壕(現在、地震研究所が跡地地下壕を利
 用している)
・海軍省が疎開先として準備し使用した神奈川県日吉台慶応大学用地内の地下壕
・東京都霞ヶ関の地下壕(現在は地下鉄霞ヶ関駅、東西線ホームに改造利用している)
・これらの地下豪建設のため、トンネル造設専門技術の設営隊が多数編成され、昼夜兼行
 で作業を推進、造成したのである。
 現在のように作業能率のすぐれた機械がなく、技術研究面でも劣っていた時代のことで
 ある。しかも資材も欠乏し、入手困難であった。食料も不足がちであった。
 こうした状況下にあって、作業責任者および作業者の労苦は並大抵のものではなく、ま
 さに筆舌につくしがたいものがあった。
・米軍機による本土空襲の激化、および米潜水艦の跳梁によって、液体燃料の入手が杜絶
 した。当然、艦船用燃料の在庫量が払底し、その行動がまったく不可能に陥った。
・戦艦「長門」は横須賀軍港付近に繋泊して、防空砲台としての役についていた。
  
・海軍は教育に関して緊急措置をとり、各種の術科学校は、特定指定のものをのぞいて、
 学生、練習生の繰り上げ卒業を行ない、教育を中止する。そして、その人員を本土決戦
 配備に充当する。
・全国民をあげて国民義勇隊を組織し、その挺進総出動を強力に指導実施しようとした。
 国民義勇隊を参加させる者は、老幼者、病弱者、妊産婦をのぞき、なるべく広汎におよ
 ぶものとした。国民学校初等科卒業以上のもので、男子は六十五歳以下、女子は四十五
 歳以下の者とした。
・義勇戦闘隊は、主として、作戦が要望する生産輸送、築城、復旧、救護等の兵站的諸業
 務に服し、作戦警備を容易にすることを主眼とした。  
 義勇戦闘隊は一種の軍隊であって、要員の服役勤務は帝国憲法の兵役義務と基礎とした。
・昭和二十年六月、義勇兵役法が公布された。義勇兵役は、男子にあっては年齢十五歳か
 ら六十歳に達する者、女子にあっては十七歳から四十歳に達するものがこれに服する。
・政府は府県の権限施行能力が交通、通信の破壊分断により著しく低下、麻痺する場合に
 備えて、昭和二十年六月、地方総監府制をとった。
 設置された地方総監府は、北海、東北、関東、信越、北陸、近畿、中国、四国、九州の
 各地方総監府であった。
・連合国の首脳会議によって、日本の降伏を要求するポツダム宣言が発せられた。
 八月六日には広島に原子爆弾が投下され、ついで九日には長崎へも投下された。
・八月九日には、ソ連は対日宣戦布告を発して、満州、朝鮮、樺太、千島へ雪崩のごとく
 進攻を開始した。
・八月九日、宮中で御前において最高戦争指導会議が開かれ、大筋の原則において、ポツ
 ダム宣言受諾に意見が一致した。しかし、保留条件をめぐっては、議論は紛糾した。
 同日夜に開かれた閣議においても、意見の一致は見られなかった。引き続き同日深夜か
 ら十日朝まで、御前会議が開かれた。
・本会議において、外相、米内海相はポツダム宣言受諾に即座に同意し、陸相、参謀総長
 は反対を表明し、本土決戦に自信ありとして継戦抗戦を主張した。軍令総長は、本土決
 戦には必ずしも自信ありとは断言しないが、陸軍首脳の反対意見におおむね同意と答え
 た。平沼枢密院議長は、意志表明に先立ち質問し、賛否いずれとも明瞭でない発言をし
 た。 
 そこで、鈴木総理は、聖慮をもって会議の決定としたい旨を宣して、天皇の御意向をう
 かがった。
・天皇は、外相の意見と同じ考えである、皇室と人民と国土が残っておれば国家生存の根
 基は残る、これ以上望みなき戦争を続けることは元も子もなくなる、われには勝算はな
 い、という主旨を述べ、ポツダム宣言受諾のご意向を明示された。
 これで同夜、閣議で正式に終戦が決定された。
・八月十四日午後十一時、終戦の詔書が発布され、十五日正午、天皇のラジオ放送が行わ
 れた。 
・八月十五日、米機動部隊はふたたび関東地区に来襲し、空襲を行った。
 海軍総司令長官は、作戦警戒を下令したが、積極進攻作戦は行わなかった。
・八月十六日、軍令総長は、即時戦闘行動の停止、さらにいっさいの戦闘行為停止を命じ
 た。かくして、連合軍の本土進攻もなく、大東亜戦争は終わった。
  
陸軍の本土決戦準備 (元大本営陸軍参謀・陸軍中佐 和田盛哉)
・陸・海軍がもっとも力を入れていたレイテ決戦は不調に終わり、昭和二十年を迎えた。
 大本営は外地防衛地域における戦面を収縮し、かつ、仏印、中国東南沿岸、台湾、沖縄、
 硫黄島の戦備を補強し、さらに本腰を入れて本土決戦準備に邁進することとした。
・また、従来、対支作戦を遂行しつつ、ソ連に備えていたわが陸軍は、朝鮮軍および支那
 派遣軍に対しても、その任務、主戦面を対米に転換させた。
・昭和十九年七月、サイパン陥落に伴い、大本営は本土における重要正面の防衛強化を命
 じ、第三一六軍を編成した。しかし、国軍の大部は外地に展開しており、本土防衛は甚
 だ寒心すべき状況にあった。
・総兵力四百万中、内地所在兵力は約八十六万八千、また、ほかに航空、船舶等約四十五
 万三千で、それ以外の大部は外地に展開していた。したがって、本土作戦兵力は総兵力
 の約十一パーセント程度である。
・しかし、陸軍統帥部は、本土防衛のため新設すべき兵団として一般師団四十、混成旅団
 二十二およびこれに付随する群直轄部隊等、総計約百五十万に達する膨大な兵力を要望
 した。  
・硫黄島守備兵団は、絶対優勢な海空軍に支援された米上陸軍と死闘を演じていたが、三
 月十七日、ついに玉砕した。
 玉砕した日本軍は約二万であったが、米軍の損害は戦死傷合わせて約二万八千に達した。
 これは米軍の今後の作戦に対し、心理的圧力を加えることになったのである。
・三月中・下旬になると、米機動隊の来襲が九州、南西諸島方面において活発となり、米
 軍の新作戦を思わしめるものがあった。
・大正時代末期の軍備縮小によって、将校補充を著しく縮減したため、陸軍は日支事変以
 降、幹部の充足に困難をきわめていた。
 当局は陸士生徒を大量に採用し、短期速成教育に努め、また幹部候補生制度や、その他
 の方策を講じて、幹部を第一線に送り出した。しかし、長期にわたる戦争の継続と、大
 兵力編成のため、幹部の充足は困難の度を加えていた。
・戦争末期の大動員となっては、規定どおりにはいかなかった。このころ、大部の在郷軍
 人はすでに召集されているので、このたびの動員には多数の未教育兵や老兵が含まれて
 いた。 
・歩兵部隊を見ると、小銃を持っていない兵隊がかなりいる。また、銃剣を下げていない
 者もおり、かわりに竹ベラを下げているという状況。 
・兵隊の小銃をとって見ると、銃口の照門がない。そして、かなり錆びついている。これ
 は学校教練用のものを持ってきたのではないかと思われた。
 このようにまったくお粗末の状態であったが、あと数ヵ月たったら、ある程度改善され
 るかどうか心配であった。 

・昭和20年5月の米国総合幕僚会議において、九州上陸作戦を1945年11月1日実
 施を予定し、これに関する準備指令を出した。この作戦計画において、九州進攻作戦を
 「オリンピック作戦」、関東進攻作戦を「コロネット作戦」と命名した。
・この進攻先戦の全般的責任はマッカーサー将軍がとり、全海軍部隊最高指揮官はミニッ
 ツ提督。作戦部隊は、ルソン島において休養中のグルーガー将軍の指揮する第六軍があ
 たる。
・作戦構想としては、1945年11月1日を期し、南部九州の東・西の三地区に対し四
 コ軍団(一コ軍団は予備)を同時に上陸させる。
 これで橋頭堡を強化し、南九州を占領確保し、関東進攻作戦のための一大空海基地を設
 定する。
・上陸前75日〜上陸後8日の間は、日本本土全域、ついで四国、九州周辺において残存
 艦船、航空機を攻撃し、本州と九州との遮断作戦を行なう。
 上陸日が近づくにしたがい、目標地域と北九州との遮断のため南北連絡路、鉄道の破壊
 を行なう。また、上陸前数日間は強力な海・空軍をもって軍事施設、防備施設の徹底的
 破壊を行なう。

・この計画が示すように上陸の75日前、すなわち2・5ヵ月前の8月15日ごろから猛
 烈な爆撃を行うことになっていることは、注目すべき点である。
 さらに大本営および総軍等の敵の侵攻判断が、米軍の計画とピタリ一致していたことも、
 特記すべきことであろう。
・陸・海軍の関係をいかに律するかは、わが国軍制上の根本問題であった。
 日清戦争のときは、大本営の幕僚長は一人(参謀総長)であった。
 しかし、日露戦争以来、大本営は陸海軍部に分かれ、それぞれ参謀総長と軍令部長が幕
 僚長となり、総帥部は陸、海併立することになった。それが、そのまま今日に至ったの
 である。 
・陸軍側としては、戦争指導を渾然一体のものとする強い希望を持ち、三月はじめ以来、
 この超非常の事態ののぞみ、その実現を期して海軍側と折衝を重ねてきた。
 しかし、妥協に至らず、さらにこの問題は天聴に達し、皇族方も仲に入って、その推進
 に当たられた。それでも海軍側、とくい米内海軍大臣の否定的見解は強く、ついに実現
 するに至らなかった。
 このような経過をへた後、陸軍側としては、陸・海の間の業務の円滑化をはかるため、
 同所勤務を提案したが、これさえも海軍側の拒否するところとなった。
・敵の侵攻を目前にして国家総力戦体制をとり、また陸軍は軍令、軍政の一体化をはかっ
 たが、ときすでに遅かった。従来からの懸案であった陸海軍の統合はついにならず、統
 帥部の同所勤務さえも実現しなかった。
・洋上における陸・海軍の航空、水中、水上特攻の攻撃により敵に四十パーセントぐらい
 の損害を与えるという算定がなされているが、実際は、十五パーセントぐらいの損害に
 止まるのではないか。  
 しかし、わが方もそのぐらいの損害を受けるので、戦力差は依然として縮まらないと思
 う。しかも、兵器。弾薬等の物量は比較にならないほど米軍が優勢である。
・このように両軍の戦力比から観察すると、上陸軍の侵攻を挫折させたり大打撃を与え
 ることは、非常に困難ではないか。
 結局、わが方は決死敢闘、玉砕戦法あるのみ、それで敵にある程度の打撃を与えること
 ができるであろう。 
・本土に展開した五十四コ師団の約二十二パーセントの十二コ師団が既設師団で、大部は
 昭和二十年三月以降に臨時動員された新設師団である。その人員の素質、装備の充実、
 練度等は、いわゆる大衆軍的な存在であり、また沿岸陣地も薄弱な点が多かった。それ
 でも米軍上陸までの数ヵ月の間には、訓練、陣地ともにかなり強化されたものと考えら
 れる。
・”こちらが苦しいときは敵もまた苦しい”という言葉は、戦場の教訓として耳底に残っ
 ている。米軍としても、硫黄島・沖縄はじめ各地の戦闘で大損害を出し、補充、再編成
 された部隊で、精鋭無比といえるかどうか。
 戦後、米側の記録によると、本土進攻に際しては日本軍の死に物狂いの抵抗に遭い、大
 損害を出すであろうと、上層部は心痛したという。それがゆえにソ連の参戦を促し、原
 爆投下を急いだということになったと言われている。
・日本軍の末期においては、不備不足が多く、軍隊は、かつてのような精鋭ではなかった
 かもしれないが、”エリート、必ずしも戦争に強くない”といういわれもあり、多くの
 将兵たちは殉国の精神に燃えて決死敢闘し、敵の相当の打撃を与えたのではないかと思
 う。 

米軍の対日進攻計画 (作家 土門周平)
・1945年春の大事件は、二つあった。一つは、4月12日のアメリカ大統領ルーズベ
 ルトの死、一つは5月8日のドイツの降伏である。
 だが、これらの事件は、対日進攻のための戦略計画に、大きな影響を与えるということ
 はなかった。
 ヨーロッパ戦争の終結は、ヨーロッパ戦域から兵力を太平洋に移動させて、長い戦争の
 最終段階を援助できることを意味した。
 アメリカ大統領の交代は、すでに敷かれていた路線について、新大統領がサインをする
 ことを意味するだけであった。
・元来、日本列島は、ニミッツ提督指揮下の太平洋区域にあった。
 ところが、これらの島々に大々的な上陸作戦を実施するため、南西太平洋方面区域から
 大兵力を集中することになった場合、その指揮関係は、どうなるのか、という問題があ
 った。 
・このとき、マーシャル将軍の提案した代案は、マッカーサー将軍およびニミッツ提督を、
 全太平洋区域の、それぞれ、陸、海軍最高司令官に任命する。彼らは緊密に協力して、
 「全体的目標の達成を狙った太平洋区域における作戦を実施する」。
 前者は、通常陸上作戦に関する緒機能に対して責任を負う、というのである。
 結局、陸軍のマーシャル将軍は、日本進攻に対する海軍の指揮を避けることに熱意を有
 し、太平洋の全陸軍兵力は、単一指揮下にあるべきという主張である。
・これに対し、海軍のキング提督は、陸軍の方式は、琉球作戦および中国におけるいかな
 る作戦にも、統帥権を太平洋区域最高指揮官から取り去る結果になることを懸念した。
 彼は、引き続いて、日本進攻に関して、作戦そのものはもちろん、基地防衛、兵力の割
 当て、船舶、補給およびその他の後方支援の諸事項を統制する「地域指揮権」を主張し
 た。 
 陸海軍の対立は、どこの国でも、根強いものがあったのである。
・5月25日、対日進攻作戦計画の大綱が示達された。この作戦計画は、二つの上陸作戦
 からなり成り立っていた。
 一つは、「オリンピック作戦」という呼称で、南九州に上陸して、その地区を拠点化し
 た後、次の作戦を準備するものであり、他の一つは、「コロネット作戦」という名称で、
 オリンピック作戦の成果を利用し、ヨーロッパ戦線から転用する兵力と合流し、東京を
 最終目標とする関東地域上陸作戦が考えられていた。
・4月3日の指令の段階では、米軍首脳部の思想が、必ずしも一致していたわけではない。
 海軍側の計画者たちは、事前に中国本土東岸、朝鮮、台湾各地に上陸作戦を展開し、日
 本本土を孤立化させることが先決だ、と考えていた。
 これに対し、陸軍側は、周辺の状況にとらわれることなく、早期に日本本土に直進すべ
 きだ、という思想であり、空軍関係者は、進攻はなるべく控えて、日本を完全封鎖し、
 空襲を続行することによって、日本は降伏するという判断が根底にあった。
・マッカーサー将軍の意見は、次のようなものであった。
 周辺地域の攻略に戦力を分散する結果、本当の日本本土攻撃にあたって、当初からヨー
 ロッパ戦線からの兵力転用を仰ぐ必要が生じる。また中国方面で作戦が予想以上の困難
 な事態になったとき、必然的に日本本土決戦の遅延をまねく公算が多分にある。これは
 まったく危険な作戦思想である。
 また
・マッカーサー将軍は、かなりの反撃力を残すとみられる日本軍と直接対決することを避
 けて、空襲および艦砲射撃によって降伏に持ち込むという構想にも反対であった。
 空軍力だけで日本軍を降伏に導くことは、絶対に不可能という立場に立っていた。封鎖
 や空襲だけでは、戦争そのものを長期化してしまう、というのも理由の一つであった。
 マッカーサー将軍は、結論として、二大上陸作戦による日本本土進攻案を強く主張した。
・マッカーサー将軍の説は、軍事戦略思想としては確かに説得力があった。だが、その作
 戦構想の泣き所は、それを実施するアメリカ軍の損害が、どのくらい出るか、の判断で
 あった。参謀総長としてマーシャル将軍は、7月の末にトルーマン大統領に対して、米
 軍の兵力消耗は、少なくとも25万人、最悪の場合は100万人台になる、という見解
 を明らかにした。
・オリンピック作戦は、この段階では大統領をはじめ、多くの首脳陣の支持を得ていたが、
 進攻作戦のみによる最終的勝利といった図式に懐疑的なスタッフもいた。
 大統領特別補佐官のレーヒー提督、陸軍長官スティムソン、元駐日大使グレー国務長官
 代理などがそれである。これらのメンバーは、日本を降伏させるには、武力のほかに政
 治および国民思潮を一体とした、総合的な対策が必要である、と考えていた。
 日本の国民は、武力だけで攻撃しても、ただ精神的結束を固くするだけで、抵抗を強化
 するという逆の面を助長する、と彼等は判断していたのであった。
・この時期、併行してもう一つの重大な案件が進行していた。それは、核兵器を完成し、
 それを戦争に実際に使用しようとする「マンハッタン計画」である。
 マンハッタン計画は、最高の国家機密として、きわめて極秘裏に仕事が進められていた。
 そこで戦争指導の中枢である軍人たちはもとより、政界指導層も、大半の人たちは、計
 画の存在すら気づいていなかった。
・この時点では、核爆発が成功するかどうか、という保証は、誰にもできない状態であっ
 た。技術陣の見通しとしては、爆発実験は、1946年夏以降のことと考えられていた。
・もう一つの重大な戦略条件としては、ソ連軍の対日参戦の問題があった。
 ある時期、日本を降伏させるため「さそい水」として、ソ連参戦が検討されたことは事
 実で、1945年中期のこの段階では、連合軍側の戦況が極めて順調であったので、こ
 の問題はほとんど無視されていた。
・朝鮮半島、中国本土等における日本軍兵力は、関東軍百万人を入れて、ほぼ二百万人と
 見積もられていた。  
 そこで、これらの地域から、日本本土へ、部隊と物資を移動させない、という意味で、
 ソ連の参戦は期待されていたことは事実である。
・だが、戦況の推移は、しだいにソ連参戦の効果を削減する方向に進んでいた。
 日本軍の地上部隊は残存していたが、海軍および空軍は消耗して、制海権および制空権
 は、連合軍側の手中に移行していた。日本列島は完全に孤立しはじめていたのである。
・このような状況になると、米国首脳の大半は、ソ連の参戦に反対する意見を持つように
 なった。七月に開かれたポツダムでの会議では、連合国側の多数意見としてソ連参戦が
 認められた。 
 このときスターリンは、大きな獲物が手に入ることを期待して、できるだけ早い機会に
 参戦するつもりであったことは確かである。
・このソ連の参戦と、九州進攻がほぼ同時に行われれば、日本に対する心理的効果は、計
 り知れないものがある、と一部の者は考えた。
・七月二十六日夜、トルーマン大統領は、ベルリンからポツダム宣言を発表した。連合国
 として、日本政府および国民に対して、その要求と意図を公式に明らかにしたのである。
 しかし、連合国による占領が要求されているが、天皇および天皇制には、いっさい触れ
 ていない。
・このことが日本の指導者の間で、意見の分裂を招き、終戦への対応が混乱したことは明
 白な事実である。 
・アメリカ側にしてみれば、天皇の将来に関して言及すると、かえって日本側に足もと
 をみられる、といった判断があった。それにアメリカ国内に対しても、日本の天皇に関
 する発言は、控えた方が得策であるという意見があった。
・無条件降伏以外に対日戦を終結させることは、米国民に対して裏切り行為として解釈さ
 れるほど、アメリカ国内の戦意は高揚していた。
・マンハッタン計画に投ぜられた二十憶ドルの支出経費を正当化したいという要望が、原
 子爆弾の使用に対する判断に影響を与え始めた。七月四日には、英国側も日本に対して
 原子爆弾を使用することに同意を与えた。
 こうなると、原子爆弾使用についての警告の条件と、その時期の選定を決定するだけが
 残った。
・米国大統領は、彼の最高顧問たちを召集した。バーンズ国務長官、スティムソン陸軍長
 官、レーヒー特別顧問、マーシャル陸軍参謀総長、キング海軍作戦部長、アーノルド陸
 軍航空総司令官が出席し、全員が原子爆弾の使用に同意した。
・ただ、この原子爆弾問題は、軍事計画とまったく切り離されていたので、ポツダム会談
 最終報告としては、連合軍の戦争遂行の主努力として日本本土進攻を容認し、1946
 年11月15日を、対日戦終結予定日として認めた。  
・日本の無条件降伏を目標として、戦争の終結を狙った、戦争の終結を狙った連合国側の
 戦争指導は、オリンピック作戦準備と原爆投下が同時併行的に推進され、七月末から八
 月上旬にかけて、軍事政策としての後者が、追い越したかたちとなる。
 
本土決戦の実状
・大本営は「連続不断の攻勢」と称した。つまり、ガダルカナルやレイテの「間歇的攻撃」
 を反省し、水際の上陸地点に車懸りに殺到する戦法を採用したのである。
・これに対しては批判もあった。これは一種の玉砕戦法ではないか。アメリカ軍も今度は
 必死の上陸作戦であり、従来に倍する威力をひっさげて水際に突進して来るのであろう。
 沖縄戦の近例から推算しても、掩護艦艇一千隻、戦術空軍一万五千機、B29の一千機
 も容易に動員し得る態勢にある。決戦に赴くわが兵団は、肉弾戦以前に壊滅するおそれ
 はないか、というのである。
・ここにおいて「内陸迎撃戦法」の思想が、担当有力な将星たちによって唱えられたのも、
 決して不自然ではなかった。
 すなわち、米軍の上陸戦における艦砲射撃の威力と、水際以降における火焔戦車群の殺
 傷力とにかんがみ、兵を水際に徒死させる危険を避けようというのだ。そうして決戦兵
 団を奥地に保持し、敵に橋頭堡を許したのち、決戦方面を判定して出撃する作戦であっ
 た。  
・なお、ついでに第十二方面軍司令官・田中静壱大将について触れておく。
 終戦時に、八・一五事件という、近衛第一、第二連隊の若手将校が森尾上第一師団長を
 射殺、偽りの師団命令を出し、さらに陛下の玉音放送のレコードを宮内省から盗み出そ
 うとした事件が起きた。
 このとき、宮城を占領した反乱軍を身をもって説得し、事なきを得さしめたのが田中大
 将で、その後に割腹自殺をどけている。
 
・昭和十九年十一月、東京杉並区・大宮陣地内のバラック兵舎の下士官室にいた私は、突
 然、戦闘命令のベルの音を耳にした。
 対空監視兵の指す方向を見上げると、晴天をバックに一機の飛行機が飛んでいた。
 その飛行機は、飛行雲をひきながら、一万一千メートルの高度で侵入してきた。しかし、
 われわれの持っている七十五ミリ野戦高射砲では、最大射高といっても、八千メートル
 が限度である。そのため、この高度では指をくわえて見ているより、他に手はなかった。
・そのとき一瞬、頭のなかをよぎったのは、こんな高々度の敵機を射撃できる砲がはたし
 ていまの日本にあるだろうか、ということであった。
 ところが、昭和二十年四月になって、十五センチ高射砲が開発された。 
・八月一日早朝、私は戦闘指揮所に立っていた。今日は敵機は来襲するだろうか、と思い
 ながら上空を見上げると、雲が多かった。しかも、断雲なので、これでは初の電探射撃
 になるか、それとも目視射撃ができるのか、と気になった。
・「敵機発見約三十機」と対空監視兵が叫ぶ。
 しかし、断雲が非常に多い。そのとき、中隊長の「目標、西方の敵機!」の号令が飛ぶ
 と同時に、目標を補足したという合図の手が上がっていた。  
・私は高度と雲高を交互にはかれ、と命じ、観測手の読む声に耳をかたむけた。
 二号算定具手は、私の声を聞きながら計器の目盛を合わせていた。十五高は算定具の指
 針どおりに伝わるので、砲は敵機に対して砲口を向けて、回転し始めている。
 しかし、敵機はまだ射程外なので、照準したままもう少し待つことにする。
 その間にも、敵機はまっすぐこっちへ向かって来るが、断雲のなかを出たかと思うと、
 またすぐ雲のなかに入ってしまう。
・中隊長は私に、「電探射撃はどうか」と聞いたが、「電探諸元が入りません」と答えた。
 電探諸元が入れば、雲中と目視の二通りの射撃ができるのに、と残念だった。
 そこで、やむを得ず目視射撃に切りかえることにした。 
・そのとき、中隊長の手が、六十五度付近を指しているので、射撃角度がわかった。
 私は上空を見つめたまま、「撃つぞ」とみんなに聞こえるように言った。
 連隊本部や大隊本部はもとより、各隊が注目していると思うと、日本陸軍初の十五高射
 撃の照準の責務の重さを感じた。
・しかし、敵機が雲中にあってはどうすることもできず、晴れ間に出現するまでの時間の
 長さを思った。 
 そのとき、ついに敵機が晴れ間に姿を現した。私はただちに、「照準より」と報告した。
 砲は確実の敵機に向けられている。そこへ中隊長から待ちに待った「発射」の号令がか
 かった。つづいて各分隊長の号令が飛んだかと思うと、「ズシーン」と腹にひびく発射
 音がひびいた。
・私はすかさず、「高度はかれ、爆煙はかれ、算定具そのまま照準せよ」と命じながら、
 測高高度に耳をかたむけると、中隊長の「撃破」という声が聞こえた。
 思わず上空に目を向けると、三機が白煙をふいている・
 「命中だ!」
 と叫んだが、敵機の下の断雲がさきほどより広がってきた。十五高の場合、次弾の射撃
 には八秒かかるが、敵機はその間に雲中に姿を消してしまった。しかし、三機は洋上に
 墜落したことを、私はいまでも確信している。
・しかし、この日の戦闘から終戦までというもの、敵機は一機たりともわが陣地上空を飛
 ぶことがなかった。 

・昭和十九年二月、マーシャル諸島が失陥、続いてトラック島が空襲され、絶対国防圏も
 いよいよ米軍の攻撃を受ける情勢となってきた。
 このような中部太平洋方面の戦況悪化に伴い、陸軍省軍事課予算班の井田正孝少佐は、
 米軍の本土空襲に対処するため、大本営を八王子か浅川付近の安全な場所へ移転するべ
 きであるとの意見書を、陸軍次官冨永恭次中将に提出した。
・富永次官は、昭和十九年五月、その後の戦況を考え、大本営の移転場所として信州あた
 りにその適地を求めるよう、井田少佐に極秘調査を命じた。
・当時、陸軍は、まだ米軍の本格的本土進攻を予測しておらず、したがって本土決戦につ
 いてはまったく考えていなかった。
 この大本営移転問題も、本土決戦を想定したものではなく、あくまで本土空襲に対処す
 るものであった。  
・調査を命ぜられた井田少佐は、陸軍省防衛課の黒崎貞明少佐および同省建築課の鎌田隆
 男中佐とともに、私服の隠密行動で長野県一帯を偵察し、松代盆地が大本営の移転地と
 して最適であると、冨永次官に報告した。
・陸軍首脳は、松代盆地を大本営移転地として決定した。その概略設計を内閣総理大臣兼
 陸軍大臣の東条英機大将に報告した。
・そのころ、絶対国防圏の要地サイパン島を失い、いよいよ本格的な本土空襲を考慮しな
 ければならない段階となり、陸軍首脳は、大本営・政府機関の松代移転を真剣に考え始
 めていたのである。   
・陸軍は、このような移転計画を、政府および海軍にも内密にして独自で進めて行ってい
 たのである。陸軍内でも、陸軍省を中心とした軍政系統で進められ、しかもごく一部の
 関係者しか知らさなかった。
阿南惟幾陸軍大臣は、二度にわたって松代の現地を視察した。最初は昭和二十年六月で
 あり、二度目は八月のはじめであった。
 阿南陸軍大臣は、万一の場合、松代の諸施設を使用する事態も起こり得ると考え、その
 準備状況を自分の目で確認しておきたかったのであろう。
・海軍は、その性格上、本土決戦には基本的に反対であり、大本営の松代移転についても、
 陸軍の独走に反発し、最後まで反対して同意しなかった、と一般にいわれている。
 しかし、実際には、昭和二十年六月に海軍設営隊を長野に派遣し、地下壕工事に着手し
 ていたのである。 
・地下豪は、約千人を収容できる規模のものを計画したが、約百メートル掘った段階で終
 戦になった。

松代大本営等は、本土決戦において最後まで戦うために準備されたと一般にいわれてい
 る。すなわち、松代大本営等の地下壕を最後の砦として、内陸の山岳地帯を利用し、徹
 底抗戦するために準備されたと言われているのである。
・しかしこの説は、当時の大本営の作戦方針の不認識に起因する誤った俗説である。
 当時の戦力・国際情勢からいって、政府・大本営とも、内陸においてまで戦おうとは考
 えていなかったのである。沿岸地帯において決戦するというのが当時の作戦方針であっ
 た。「最後の一兵まで戦う」「一億総玉砕」などというのは、士気を鼓舞するためのス
 ローガンであり、当時の政府や軍の指導者が、本気でこんなことをしようとは考えてい
 なかったのである。 
・ただ、陸海軍の中堅将校以下においては、本気に考えていた者もいた。
 大本営陸軍の本土決戦方針および実際の作戦部隊の配置・陣地の構築準備等をみても、
 沿岸地域における決戦のみを想定し、内陸における作戦は想定されていないのである。
・松代大本営等の地下壕は、政府・統帥部の中枢を安全ならしめるための非難豪であり、
 防空壕なのである。空襲が激化し、戦況が悪化して東京では指揮できない場合に、はじ
 めてそこに移ろうというものであった。
・もし、松代付近を最後の砦とするというのであれば、長野分地周辺には作戦部隊が少し
 でも配置され、陣地も築かれていなければならない。
 しかし、実際には、作戦部隊の配備もなく、陣地も築かれていない。ただ警備部隊が配
 置されていただけであった。 
・終戦後、松代大本営等に使われた資材・建造物等は、長野県および地元町村・関係会社
 等に払い下げられ、買収された土地・建物は、それぞれ元の所有者に払い下げられた。
・現在、イ号倉庫の北側の豪は、信州大学宇宙線観測豪として利用され、ロ号倉庫および
 T・U・V号舎は、気象庁地震観測所として利用されている。
 またニ号倉庫の中央豪は、京都大学防災研究所の観測豪として利用されている。
 ハ・ト号倉庫は、入口が崩れ落ちて、埋まった状態のまま放置されている。
 賢所の豪は、土砂採集のためその形跡もなくなっている。
 海軍豪は、二十メートルほど入ったところで崩れ、そのまま放置されている。
  
解説
・ドイツ軍の崩壊が迫っていた1945年2月4日から黒海沿岸のヤルタで、米英ソ三巨
 頭の会議が行われた。ドイツの戦後処理と対日戦の今後について議論するためである。
 このときソ連のスターリンは、アメリカのルーズベルト大統領が病気で判断力が低下し
 ているのにつけ込んで、ソ連が対日参戦したときの分け前についてルーズベルトに約束
 させた。
 イギリス首相のチャーチルは、ソ連がヨーロッパで勢力を拡大することに警戒していた
 が、ソ連が対日参戦を始めることについてはあまり口出ししなかった。
・このときの約束にしたがってソ連は昭和20年8月9日、満州に攻め込んだ。
 満州で日露戦争以前に、帝政ロシアが手に入れていた権益を回復するという名目をつけ
 てである。
 その二日後には南北樺太の日ソ国境を突破して南下し、千島にも上陸した。 
・ソ連軍侵入当時の満州の日本陸軍関東軍は、兵員数が五十数万人で、ソ連軍の三分の一
 以下、それも未訓練兵が多かったので、実勢力は三十五万人というところであったろう。
 飛行機や戦車はソ連軍の十分の一しか持っていない。
・かつて精鋭を誇っていた関東軍は、昭和十八年から南方作戦のために兵力を転用され、
 さらに本土防衛準備のために戦車師団や飛行機を引き抜かれ、見かけ倒しになっていた。
 そのためソ連軍をくい止めることができず、朝鮮に近い後方にさがって持久陣地をつく
 るほかなかった。
・樺太でも状況は同じであり、日本軍はあっという間に南部に追い詰められていた。
 北海道の師団の一部を米軍の上陸が予想される関東、九州の防衛に回しているので樺太
 は孤立無援であるうえに、航空機も千島などに移動させていた。
・千島には米軍がアリューシャン方面から来攻する可能性があったので、日本軍の戦力は
 それほど低下していない。そのため千島占領のために来襲したソ連軍は、どこの島でも
 大きな抵抗を受けた。ソ連海軍は数隻に旧式艦のほかは小艦艇しか持たず、上陸作戦を
 するにしても船舶が少ないので、一回に一個師団を輸送するのがせいぜいであった。
 日本は知らなかったが米軍は、できれば千島は自分たちが占領したいと思っており、
 ソ連の行動に手を貸すつもりはない。
・昭和二十年三月末になると、米潜水艦や米機により輸送船が撃沈されて、船腹量が開戦
 時の四分の一に減っていたので、海外からの食糧輸入が難しくなっていた。海上輸送が
 できないため、関東軍や支那派遣軍に兵器弾薬が補給されないことも問題だが、それ以
 上に内地日本国民が飢えはじめたことが、戦争を続けるうえで大きな問題になった。
 さらに輸入分がなくなっただけでなく、国内生産量も農村の人出不足や化学肥料不足な
 どのため、開戦時の六割に落ち込んでいた。青年が出征したあとの人手不足を助けてく
 れる馬も、すべて軍馬として徴発されていたので、やむを得ず老人や婦人だけが食糧生
 産にあたっていたのだから、どうにもならない。
・それでも農家は、何とか自分のうちの飯米の最低限度を確保できたが、非農家は配給食
 糧に頼らなければならなかった。そのためかれらは、必要量の半分しか口に入れること
 ができなかった。   
・これでは、机の上で仕事をするのもやっとである。肉体労働者は仕事をするどころでは
 ない。そのうえ本土決戦のための陣地構築作業や竹槍訓練にも参加せねばならない。
 それでも、まだ、為政者に反抗する人は少なく、「鬼畜米英の撃滅」のために「神洲不
 滅」を信じて、黙々と努力している人が多かった。
・食糧のほかで最も困っていたのが燃料である。軍寒や飛行機などの近代兵器は、燃料に
 なる石油なしには動かない。その輸入を米英蘭各国から止められたことが、開戦の直接
 原因になったが、この時期には、特攻兵器を動かすための最小限のものさえ底をついて
 いた。もちろん、民生用の車を走らせる石油はどこにもない。
・そこで考えたのが、トラックやバスの車体にガスを発生させる燃焼釜を取り付け、その
 ガスでエンジンを動かす装置であった。ガスのもとになるのは”薪”である。
 ところが、これは出力が小さく、坂道にかかるとバスから乗客が降りて、後押しをせね
 ばならない始末であった。
 そのようなバスやトラックでも、あればありがたい。多くの国民は、どこへ行くのも二
 本の足が頼りということが多かった。
・それだけではない。ガスのもとになる薪の原料の木さえ山から姿を消し、人々は、食事
 の準備のための薪を見つけるために、空襲を受けた焼け跡で、焼け残りの材木を探し回
 らなければならなくなった。 
・国内で生産できるエネルギー源として頼みの綱であった石炭の多くは、電気や軍需産業
 の原料として工場で使われていたが、その工場も多くが爆撃を受けて焼け落ちたので、
 終戦直前には、兵器や弾薬の生産はほとんど不可能になっていた。
・軍需産業に動員されて働いている人々は、このような状態を知っていたので、いつまで
 も戦い続けることはできないことを感じとっていた。
・アメリカの総合参謀長会議で、海軍は太平洋の制海権を握るために、マーシャル群島か
 らマリアナ諸島を経由し、台湾・琉球から中国大陸に向けてお進撃を主張していた。
 海上で日本を封じ込めれば、日本は屈服するというのである。
 一方の陸軍は現地指揮官のマッカーサー将軍が主張しているように、フィリピンから台
 湾、琉球、九州をへて東京にいたる進撃を主張した。
 事実上の空軍である陸軍航空部隊は、マリアナ方面などからの戦略爆撃で日本を屈服さ
 せることができると主張していた。  
・どの主張にも一理あるが、最終的には、陸軍が日本本土を占領してしまわなければ、完
 全に反抗力を奪うことにはならないことは、常識的にわかるであろう。ただ海上封鎖や
 戦略爆撃などで日本の力を弱めてからでないと、上陸軍が大きな損害を出すであろうこ
 とは、マッカーサーもよく認識していた。
・オリンピック作戦は、日本の工業を無力化し東京方面の主力軍を封じ込めるための基地
 を南九州に獲得する目的で行うものである。具体的にはB29の基地や海上封鎖をする
 海軍の基地を獲得するためであった。
・その後、連合軍はここで足場を固めてから、本州方面の空襲や海上封鎖で日本を弱体化
 する行動をする。そうしておいて、いよいよ関東上陸のコロネット作戦を行なうのであ
 る。
・攻勢の三倍の原則というのがある。米軍は守備日本軍の地上兵力量を見積もり、その三
 倍以上を上陸作戦用に準備した。オーストラリア兵なども含まれているが、ほとんどは
 米兵である。
 日本側も連合軍上陸地と予測した地点に、少なくとも同数の兵力を集めたかったのであ
 るが、予測地域以外の防御準備を、まったくしないわけにはいかない。細長日本列島に
 は他にも、師団単位で上陸することが可能な地域が多くある。
 そこで、相手の三割の数を海岸守備兵で上陸部隊を拘束し、その間に後方に待機させて
 いた打撃部隊を上陸地に移動させて攻撃をすることになった。その後も予備隊や多方面
 の兵力を移動させて、ひっきりなしに上陸軍を水際で攻撃する作戦をするのである。
・昭和二十年六月八日の天皇の御前会議で、「今後とるべき戦争指導の大綱」が決定され、
 これに基づいて決号作戦を行なう本土決戦準備に弾みがついていた。
 航空部隊だけでなく、軍も国民も一丸になって行う「一億総特攻」の掛け声の中で、義
 勇兵役法が施行されて、軍や軍需産業に動員されずに家庭に残っているものは、男女を
 問わず国民義勇隊として郷土の警備に当たることになった。
 東京や関東地方沿岸部の学童たちおよび老人は、すべて東北地方や山梨方面などに疎開
 させていた。その他の地方も同様である。
・その一方では、政府周辺の地下で、和平を探る動きも出ていたが、国民の士気の低下を
 恐れてそのようなことは表だった動きにはならなかった。決戦場に近いところに住む働
 ける人々は、それ以前から続いていた決戦のための地下陣地作りや、敵の上陸作戦間に
 特攻機を発進させる、秘匿飛行場作りに追われていた。本土決戦のために動員された年
 輩の兵士も民間人も、空腹を抱えながら作業をするのだからはかどらない。六月にはほ
 ぼできあがる予定だった陣地の完成は、八月から九月にずれ込んだ。
・ただ米軍は、十一月をオリンピック作戦の開始予定にしていたのだから、終戦時に中途
 半端になっていた工事状況を見て、上陸作戦が実際に行われたとしたら、ひとたまりも
 なかっただろうとする批判は鵜呑みにするわけにはいかない。
 大本営は、なけなしの兵力を総動員して一応の抵抗ができる作戦を準備していた。特に
 関東地方でいうと、九十九里浜と相模湾という上陸予想地もその兵力量も、米国の計画
 そのままであったのであり、そこに可能な限りの兵力を集め、防御施設をつくりつつあ
 った。計画は幻ではなかった。戦車や重砲も関東軍から抜いたものを集めていたのであ
 る。
・また特攻器は、海上の輸送船団に大きな打撃を与えた可能性がある。全軍特攻を行なう
 と、関東方面に来襲すると考えられる連合軍輸送船約千隻のうち三分の一を撃破できる
 見積もりがあった。 
・敵輸送船千隻の三分の一を撃破する見積もりは、特攻機の突入成功率を、出撃機の十パ
 ーセントとして計算したものである。沖縄戦の実績では、初期の成功率は十五パーセン
 ト以上であったが、出撃機数が減り、それに速度が遅い練習機の割合が増えた作戦末期
 は、五パーセントぐらいまで低下していた。平均の成功率は十四パーセントという計算
 があった。
・空中から発見され難くした秘匿飛行場を、関東地方だけで何十も準備しており、幅が十
 メートル、長さが二百メートルぐらいの特攻機の発進だけに使用する”牧場”と通称され
 るものもある。上陸戦闘中に使用できるように準備されていたので、海岸近くのものは、
 ミサイルのように、洞窟内から滑走をはじめてすぐに飛び上がれるものがある。
・また陸海軍ともモーターボート特攻を持っており、総数四千隻のうち、関東地方で合計
 千五百隻を使用できるように、海岸洞窟を掘って隠していた。この突入成功率を低くみ
 て五パーセントとしても、敵七十五隻に打撃を与えることができる。
・もちろん、すでに東京は焼け野原になり、軍需生産が不可能になっているのだから、い
 つまでも戦い続けるわけにはいかない。防空は高射砲まかせなので、特攻機の活動にも
 地上軍の活動にも制約がある。
 大本営を松代に移すことも一応は考えられていたが、移ったとしても、このような状態
 で戦い続けることはできない。
・本土決戦の目的として、決戦態勢をとって連合軍に上陸が容易でないことを悟らせ、無
 条件降伏ではなく、いくらかでも有利な条件で講和することができかいかが、日本の戦
 争指導者の頭の中にあったといってよかろう。それでも本土決戦になれば、ある程度の
 打撃を連合軍に与えることはできたと思われる。