出孤島記 :島尾敏夫

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この作品は、「島の果て」の姉妹編に当たる内容だ。「島の果て」の方は、水上特攻隊隊
長と島の娘との切ない恋愛に主眼を置いて描がかれているが、この作品は、特攻が目前に
迫った隊長の心情の移り変わりや、隊内の人間感情などについて描かれている。
どんな集団や組織においても、人間関係が複雑に展開される。この特攻隊内においても、
例外ではなかったようだ。特に、隊長がこっそり島の娘と逢引きをするということ自体、
軍隊内においては許されるものではなかったのかもしれない。そんな隊長が部下たちから
批判的な目で見られたのは、当然と言えば当然のことであっただろう。また隊長自身も、
自分が批判の目で見られることは、承知のことであったのだろうと思う。それでも、死を
目の前にして、その恋をやめることはできなかったのではないか。
この「水上特攻(震洋)」は、航空機での特攻と違い、あまり表向きにされず「秘密部隊」
として隠し続けられてきた。その背景には、あまりにもお粗末な乗り物での特攻だけに、
さすがに当時の軍幹部の感覚でも、ベニヤ舟の特攻兵を表に出すことは憚られたのではな
いかと言われている。
この作品を読んでも、そのことがよく書き表されている。特攻艇のことを隊長自身が「自
殺艇」と呼んでいたし、特攻の出たからと言って、戦局にほとんど影響を与えることなど
ないだろうと見ていた。
しかし、この水上特攻による犠牲者の総数は1636名とも言われ、陸軍航空特攻隊の戦
死者1417名よりも多いと言われている。それなのに、この水上特攻については大半の
国民は知らない。あまりにも理不尽なことではなかろうか。
なお余談だが、作者自身は神奈川県横浜市生まてであるが、両親が共に福島県南相馬市の
出身であるためか、作者のお墓は南相馬市の共同墓地になっているようだ。

・三日ばかり一機も敵の飛行機の爆音をきかない。こんなことは此処半年ばかりの間、気
 分の上では珍しいことだ。
・三度の食事時に、定期の巡検のように大編隊でやって来て、爆弾やロケット弾や機銃弾
 を、海峡の両岸地帯にかけてばらまいて行く。言うまでもなく夜は夜で夜間戦闘機がや
 って来た。それで一日のまる二十四時間飛行機の爆音で耳のうらを縫われてしまった。
・我々はもうなすべきどんな仕事もなくなってしまった。戦争の嵐の眼は、我々の頭上を
 通り過ぎてしまったのではないか。そして我々は圏外に取り残されてしまったのではな
 いか。もしそうであるとすれば、孤島に残された我々は食糧の確保の計画を立てなけれ
 ばならない。島民からの食糧の入手が困難であることは明らかであったので、それに我
 々自身の手で作り上げなければならない。
・現実の戦闘がない以上、我々は異常な興奮でいつまで続くかわからぬ毎日を過ごすこと
 はできない。我々は普通の神経でその毎日を飲食し排泄して暮らさねばならない。
・我々は或る一つの仕事を除いては役に立たない戦闘員であった。或る一つの仕事という
 のは、我々が敵から「スイサイド・ボート」呼ばれた緑色小舟艇の乗組員であることに
 よって運命づけられていたものだ。
・長さ5米、幅約1米の大きさを持ったベニヤ板で出来上がっている木っ葉舟がそのボー
 トであった。一人乗りで目的の艦船の傍にもって行って、それに衝突し、その場合、頭
 部に装置してある火薬に電路が通じて爆発することになっていた。衝突場所がうまく選
 ばれた場合には、多分二隻で目標の輸送船一隻を撃沈させることができるであろう。も
 う少し欲を出して軍艦一隻を轟沈させるためには、近接が成功したとして更にもっと多
 数の我々の自殺艇を必要するだろう。そして我々乗組員はそのような戦闘場裡にあって、
 沈着に、突撃の百米程前方で、進路を絶好の射角に保ったまま舵を固定して海中に身を
 投じてもよいことにはなっていた。もしそんなことが出来るとすれば。
・今でこそ不思議に思うのだが、私はそのような目標直前での舟艇離脱という冷静な行動
 がとれそうにないから、いっそのこと自殺艇と一緒に敵の船にぶつかてやろうと、もう
 その他にどんな道も自分に許されていないように思い込んでいたことだ。
・我々が、この特定の狐島に基地が選ばれて移動して来てからも既に九カ月ばかり過ぎ去
 っていて、その間に戦闘準備作業はほとんど完成してしまった。最良の状態ではなかっ
 たけれど、許された手持ちの材料で精いっぱいの準備は完了し終えてしまった。
・本州との輸送連絡は絶たれ、新しい材料で兵器を強化するということは考えられなかっ
 た。ただその時与えられてしまったものだけで、最大の効果をあげなければならない。
・しかし自殺艇の効果も時季ものだ。計画では三十五ノットも四十ノットもあるいはそれ
 以上の高速が出るはずであったものが、我々が受け取った時に既に二十ノット出るかど
 うかがあやしいのであった。機関やその他の部分品の予備品が補充される見込みが失わ
 れてしまえば、艇の性能は次第にやくざなものになって来る。
・そして我々乗組員にしてみたら一層急場の間に合わせ訓練で速成の教育を受けただけの
 者ばかりなので、エンジンのことについてすらトラックの運転手程にも知ってはいなか
 った。 
・エンジンはさびつき、船体はくさりつつあった。そしてその愛すべき自殺艇は、急拵え
 に我々が掘り抜いた洞窟に格納されていたために、常にひどい湿気の中に浸っていた。
・艇の寿命も心配なことながら、間に合わせの格納洞窟の崩壊の時期もそんなに遠くはな
 い。 
・つまり我々の自殺艇がそれを考案した者の予期するような効果をあげるためには、或る
 時期のうちにそれが使用されなければならなかった。
・ああ、その時期も終わりに近い頃、我々は敵にさえ見放されてしまったのではないか。
 その時期は強引に過ぎ去ってしまうのでから、その時期さえ過ぎてしまえば、我々は自
 殺艇の乗組員である運命から解放される訳であったが、我々は、というより私は無理な
 姿勢で精いっぱい自殺艇の光栄ある乗組員であろうと義務に忠実であった。
・私が百八十人もの個性の集団の中で、命令する位置が保てたのは、何はともあれ我々の
 集団の中にあって自殺艇乗組員は総員の四分の一ばかりであり、私はその四分の一の中
 の第一号であったから、同じ乗組員仲間の間においてでさえ奇妙な伝説の中に住み込ん
 でいる結果になっていたからだ。
・私は百八十人が極く悪い状態に堕ち込んだ場合に、彼らがどんな赤裸々な姿を現わし出
 すかを冷静に計算してみたことは一度もない。人々の陥りがちな、いやな傾向を詮索す
 ることにそれほど熱心ではなかったかもしれないし、そのために私は現実を認識するこ
 とに浅く、したがって表面は何事も波立たないで、たとえば私の性格のような隊風が出
 来上がっていたのかもしれない。
・この事実はおそろしいことだ。一つの隊の性格が指揮官の性格次第で色々な色がついて
 いるとは。自分の体臭は消し難く、面も私は毎夜名前のない髪に祈っては体臭の消える
 ことを願った。
・いよいよ我々集団自殺者の祭典の時刻が近づいたように思われた。我々のその行為によ
 って戦局が好転すると考えられなかったが、それでも誰に対してしたかわからない約束
 を義理堅く大事にしていのだ。我々は犠牲者の祭典の時刻が近づいたように思われた。
 我々のその行為によって戦局が好転するとも考えられなかったが、それでも誰に対して
 したか分からぬ約束を義理堅く大事にしていたのだ。我々は犠牲者だと自分に悲劇を仕
 掛けている気分もあっただろうし、また仮構のピラミッドの頂点で、お先真っ暗のまま、
 本能の無数の触角を時間と空間の中で遊ばせて、何とか平衡を保とうとしていたんだろ
 う。
・既に原子爆弾が広島と長崎に投下されてしまったことを我々は無電で受信していた。私
 の世界が、黄昏れていたそのような時に、まず広島の運命を知った。それは新型爆弾と
 報道された。詳しいことはわかる筈もなかったが、その爆弾によれば、山も一部はどろ
 どろに崩れ落ち、人間はその光線を受けただけで消失したと伝わった。そしてそれはま
 た長崎市の運命でもあった。長崎の破滅ということは殊に私を感傷的にした。私はそこ
 で四年間も暮らしていたことがあったのだから。
・自殺乗務員の私にとって、思い出ということの素直な感じはなくなっていたが、それで
 も長崎破滅の報せは、暗い終末を一層確定的に予言されたと思った。私は誰の為に死ん
 で行き、そして私の死んだ後には誰が生き残っているのだろう。
・不思議なことに、原子爆弾のニュースは私を軽い気持ちにした。これで私も楽に死ぬこ
 とができそうだ。それは恥ずべき考えであった。しかし私はこっそりそう感じ、これを
 口外できないという罪の意識を自覚した。
・こんなひよわなぼろボートで子供だましの戦闘をしかけて行く蟷螂の斧の滑稽さが、も
 っとよりがっちりした必然さのローラーの下で果敢なく押しつぶされてしまう奇妙な安
 堵であった。それに対して尚あがいて見せろとは要求して来ないであろう。私は未だ誰
 かの命令に拘り、その命令に忠実であろうとしていた。
・命令を純粋に公式のように自分に課して、未知の世界に対して自分を実験してみようと
 いう気持ちがなくはなかった。ただしその気分と平行として、命令されることにはただ
 憶病であった。命令を出す者への疑いを消すことは出来なかったけれど。
・しかし原子爆弾の前では、どんな命令もおそらくナンセンスに思われた。今度の新型爆
 弾は頗る強力なもので、従来の防空設備では用をなさないから、各隊は速やかにそれに
 対処すべし、という命令が防備隊司令より発せられても、私はそれを一笑に付して去る
 ことができた。 
・我々は沖縄島と本土との間にあって、遂に硫黄島ほどにも歯牙にかけられていないのか。
 そのくせ私はほっとしていた。
・ある時我々はポツダム宣言の要約のビラを天から受け取った。それにつけても、それを
 国際公法の知識でどれほど正確に読み取ることができたろう。それはむしろ滑稽な仕業
 に思えた。
・艇隊員はつまり自殺艇乗務員のことだが、彼等の中に、明らかに我々は生き残るであろ
 うという予言をし始めるような者も出てきた。それはいくらか滑稽味を加えて、そして
 反面狂信的な調子で言い始められた、もっとも彼らは自殺艇の遂行を拒むような要素は
 少しも匂わせず、自分らがその任務に選ばれていることに特権の意識を抱き、他の隊員
 との間に待遇の峻別を期待していた。
・私はひどく末期症的な考え方に陥ってしまう。私は防備隊の司令部に敵状を再三問合わ
 せた。すると敵機の大編隊は、もうこの孤島などは歯牙にもかけずに日本本土の方に向
 かって北上し、そしてひと仕事の後にまた沖縄の方に南下することを繰り返していると
 いうのだ。 
・何かすべてが急転直下の様相を帯びて来たようだ。だがそのような時にこそ我々の隊へ
 の危険は増大して来る。何気なく孤島の近海に近寄った敵艦船に対して我々は突き当た
 る為にいつなんどき出発させられるかもわからない。
・しかしもしものこと、我々の孤島が全然戦略的価値がなくなって、敵は沖縄から素通り
 で、本土の方に行ってしまったら、我々にあるいは新しい生活にはいれる途が開かれる
 かもわからない。 
・私は番兵塔の方に歩いて行った。そこの番兵は、たいてい基地隊の第二国民兵役から補
 充された三十歳から四十歳以上にも及んだ年配の、この隊では最も下の階級の兵が当た
 った。彼等の仲間は総数五十名ばかりで、既にかなりの社会的地位を持った雑多な職業
 経歴を有する者たちの集まりだが、中でも農業者がいちばん多く、それに鉱山監督、役
 場の吏員、巡査、パン製造業者、傘張り、理髪屋、町会議員などの職業を有するものが
 交っていた。
・彼等の服装は一番ぼろで、そして一番下積みの仕事を負担した。彼等はほとんどなんら
 の軍隊教育も受けないで私の隊に配属されて来た。その主要な任務は、自殺艇の艇庫か
 らの搬出入作業で、最後の運命の日に自殺艇が基地を出払ってしまった後は、もうそれ
 らは二度と再び基地に帰っては来ないのだから、基地隊の彼等は小銃と手榴弾だけで陸
 戦隊を編成することになっていた。
・彼等のほとんどは戦闘作業には不向きであると思われた。彼等は規律や訓練を最も嫌っ
 た。 
・私は海峡の中にぐっと突き出た岬の鼻の方に行こうと思った。その岬の鼻をぐるっと向
 こう側に回って行けば、隣の入江はこちらより、広くそして海峡にじかにその全貌を現
 して居り、その入江の奥の部落も大きく、役場や農業会や小学校、駐在所などが置かれ
 ているような場所もあった。私はどうしてもその部落に足が向き勝ちだ。
・私は神経衰弱に陥っていた。私自身はそうは思えなかったが、小胆な私がそうでないわ
 けがない。その為に食欲が減じ、顔色が蒼白くなって来た。他の隊員は連日の屋外作業
 で逞しく陽焼けしているというのに。
・司令部の最高指揮官の早急な判断で無意味な犠牲者になる日が遂に近づいたと私は考え
 た。さもなければ、戦争の終結を見るだろう。しかし自殺艇乗組員にだけは甚しく悲劇
 的な顛末しかやって来ないのではないだろうか。その乗組員にとっては末すぼまりの予
 感がするけれど、一般的情勢は戦争の終末を来すだろう。
・Nは、岬を回った向うの入江の奥の部落に年老いた父親と二人だけで住んでいる娘だ。
 Nはすっかり夜が更けはててから岬を回って、一軒家のあたりまで私に逢うためにやっ
 て来た。 
・初めの頃は、私が岬の屋根筋の小さな峠を越してその部落に出かけて行った。そのころ
 私はその部落のある役場や学校に所用のために明るいうちに度々出かけて行った。しか
 しそのうちそんな用事も少なくなり、部落民は山の中に小屋を作って疎開し、私の方は、
 防備隊司令部の司令官から即時待機の配備につくことを命じられる状態になった。
・それで私はNの所へ真夜中に出かけていくことを始めた。終日私は隊長室で司令官から
 の命令を待っていて、やがて一日の日は暮れ、夕食もすみ、夜にはいり、そして峠の峰
 のあたりに突きが出てくるのを見ていた。
・夜中の十二時も過ぎると私はむくむく起き上がり、靴をはき、懐中電燈と、杖を持って
 峠の道を上って行き、そして、東の空が白み始める頃、峠を下って来て、隊長室のベッ
 ドの中にもぐりこんだ。
・しかし、それももう出来なくなった。情勢が悪化したからだ。もうどちらにしろ決着が
 つけられなければばらない。それで、私は隊を離れることが危険であった。釘づけにな
 って私は隊内の入江のほとりをふらふら歩いて、頬はこけ、色めが悪くなった。
・すると、Nが岬をぐるっと回って隊の端近くまでやって来ることを覚えた。私は何とか
 口実を設けて、入江の折れ首の所の岩の上の番兵塔を出てNと逢った。それにしてもそ
 れは真夜中に行なわれなければならなかった。
・一方私のその夢遊病者のような深夜の行動に対して、非難するものと、何故かわからぬ
 けれども許容するものとの色分けを、タイの中にかもし出すようになった。ことに、本
 部の士官室の「准士官以上」の間に、私はそれをひしひしと感じ始めた。非難は徐々に
 根強く培われた。許容は私に甘いささやきをした。
・和は今戦闘員なのだ。それは何というちぐはぐな感じだろう。この戦争について私は何
 を知ることが出来たろう。
・私は私だけでなく恐ろしいことに私の命令で四十八人もの自殺艇をひきつれて、あの世
 の果ての氷ついた海原の断崖に飛び込む運命にあった。  
・私はとうとう部落の中に迷い込んだ。Nは真昼でも、深夜と同じように私を待っている
 に違いない。Nにとっての生活は、ただ待っていることだけだ。世の中でたった一人の
 孫娘をたよりに生きている年老いた祖父をひとりだけ谷の奥の疎開小屋に移し、Nだけ
 に部落の中の家に寝起きさせるようにしてしまったのは、私ではなかったか。Nは、年
 寄りは部落うちは危ないし、危急の時に逃げ出すことが困難だからという理由で、祖父
 をひとりぼっちにさせてしまった。言うまでもなく、他の部落の人々も大方は山際や谷
 の疎開小屋に移ってしまっていたのではあるけれど、Nがひとりだけ部落うちの家に、
 夜も昼も止まっていることは、どんなに不自然に見えたことだろう。そのことをNは少
 しも気づいてはいない。Nは私とのことが部落の人には少しも知られていないと思って
 いる。
・「司令部から情報であります」私は伝令の持ってきた受信紙を読んだ。それは、各方面
 の見張所の報告を統合すると、有力な敵船団が北上中の模様であり、当方面島嶼に上陸
 する算が大であるから各部隊は一層警戒を厳重にせよ。そして特に水上特攻隊は即時待
 機に万全を期すべし、書かれていた。
・今度こそいよいよやって来たと思えた。しかし恐らくはここの狐島に真向から上陸する
 つもりはないだろう。日本本土への行きがけの駄賃に鎧袖一触の程のつもりで近接しつ
 つあるのだろう。遂に犠牲にならなければならぬことを少しうらみがましい気味合で自
 分に言いきかせた。   
・命令が全艇出動ではなしに、一部分の艇隊のみの出動を言って来た場合に、私はどんな
 処置をとろうか。どういう訳か、この悲劇の破局において、最初のあわてた出動の犠牲
 の後、事態は急転して、残った緒隊は出動を見ることなく、生き延びることが出来るよ
 うな感じを私は消すことが出来ない。
・私は先任将校であるVと特務少尉の第二艇隊を先に出しでしまおうかという考えに捉わ
 れた。彼は私を軽蔑し、私はまた彼をけむたい存在に思えた。このような場合、純粋な
 戦略理由からではなしに決定しうる命令権が私の胸中にゆだねられていることに私は気
 分が参っていた。いやなからくりだと思った。V特務少尉を先に出してしまうやり方が、
 或る快感を伴って誘惑して来る。
・「隊長。信号をお届けします」私は自分の身体が浮き上がりそうになるのを押さえた。
 部屋の調度が遠のく。受信紙には、先般発信した敵の状況に対して特攻戦を発動する旨
 とその方法とがうつしとられてあった。私は機密種類を函から取り出し、下令された特
 攻戦法の区分を確認しようとした。そして私は今下令されたのは、一個艇隊のみ出動す
 る場合に当たることを知った。私の奇妙な予感は敵中した。
・当直将校がとんで来た。私は隊内に総員集合をかけることを命じた。私は六人の「准士
 官以上」が、みな緊張し過ぎて泣き出しそうなあるいは妙にうすら笑いを浮かべた表情
 で私の眼を求めて来ているのを感じた。
・私は三人の艇隊長の顔を見た。{誰を最初の犠牲者にしてやろう)「ところで命令は一
 個艇隊の出動なので、私が先陣をつとめましょう」私は遂にさいころを振ってしまった。
 私は先任将校であるV特務少尉の強い視線をことさらに感じながら、私の性格の弱さを
 認めた。私はその時に六人の者との間に、深い断層のあるおとをはっきり知った。私は
 彼等を憎んでいることも認めなければならない。恐らくは、彼等も私がそういう処置を
 とる傾斜をすべっていることに憎悪を感じているに違いないと思えた。
・「隊長、それはいけないですよ。隊長には最後まで指揮をとって貰わなければ」分隊士
 の兵曹長が先ず口をきった。そして私は次々にそういう抗議を受け取った。
・「何を言っているんだ。この部隊はそういう必要はない。陸戦隊は基地隊長が居ればよ
 いし、残りの三個艇隊は、先任将校が指揮をとれば充分だ」私は自分の言ったことに逆
 説的な皮肉な調子が含まれているのが、少しいやであった。何も悲壮がることはないじ
 ゃないか。ただ私の気まぐれで私と運命を共にしなければならない第一艇隊の十二名の
 自殺艇乗組員に対して抱いた罪の意識を私は消せなかった。
・ちょうどその時、伝令が呼吸を険しくして新しい信令を届けて来た。「司令部から先程
 の発令を訂正して参りました」「何?」私は受信紙を見た。それは、発令された特攻戦
 法の訂正であった。すなわち、一個艇隊だけでなしに、全艇隊出動の準備をなせ、とい
 うのだ。私はなぜかほっとした。「ああ、全艇隊の出動だ。もう問題はないよ。みんな
 一緒に出て行くんだ」 
・私は部屋の中で死装束をつけた。つまり自殺艇に乗り込むための服装になった。今の私
 はNが髪振り乱して狂乱している姿をしか想像できない。何故か発狂して恥知らずの姿
 になったNの姿しか瞼に浮かばない。しかし恐らく兵火の犠牲になって命を落とすこと
 もあるだろう。私はNが死んでしまうことを願った。しかしまた雑草のようにしぶとく
 生きていてくれることも願った。
・自分の直属の第一艇隊の整備状況を見るために、私は第一艇隊所属の洞窟前に行った。
 月の光を浴びて、自殺艇乗組員たちが、整備隊員や掌機雷兵の協力で、この夜月の下の
 南海の果てを乗り行く自分の艇をみがいていた。ベニヤ板の船体に何かがぶつかるにぶ
 い音や、試運転のエンジンの低いぶるぶるしたふるえや、空気をひっかく空転の音響が、
 両岸のあちらこちらから湿っぽく夜気の中に広がり沈んで行った。
・我々の自殺艇に、飛行機のような高速力が与えられておらず、よたよたと木っ葉同然果
 てしない夜の海に編隊をなして暗い突撃の場に出かけて行くことは、誠に残酷だと思え
 た。  
・再び当直室へ引き返そうとして、小さな鼻を回った時、第四艇隊の洞窟の方角で、乾い
 た絶望的な猛烈な音響が突発した。私は腰をかがめ、思わず崖際の方に逃げかかる姿勢
 をとった。てっきり敵機の奇襲だと思った。敵は今夜の我々の行動を探知し、エンジン
 の音響を消して近接し、強烈な炸薬を装備した四十八隻もの自殺艇が点在する入江に数
 個の爆弾を投下しさえすれば、入江中誘爆を生じて、一瞬のうちに壊滅し去ることを知
 っていたのか。
・何か命令しなければならない。私の頭は渦巻き、次の瞬間の、事態の変化を待った。し
 かし、何事も続いては起こってこなかった。ただ四艇隊お洞窟の方向に、むくむくと透
 視のきかない煙幕がもり上がり、強い煙硝のにおいが鼻を打って来た。
・「只今の音は頭部の爆はーつ」「四艇隊長に連絡をとれ。直ちに人員の異常を知らせ」
・伝令が戻って来た。「隊長。人員異常なし」私は安堵の吐息をもらした。それにしても、
 人員に少しも被害を及ぼさなかったということが、私には理解できなかった。私は現場
 を見た。しかしどこから見ても一隻の自殺艇の頭部の船体がわずかにつき破られていた
 だけだ。
・誠に幸運なことに信管だけが点火されて、雷管には火がつかなかった。従って二百三十
 瓩もある強烈な炸薬はただ周囲に散っただけに終わった。それは想像するさえ肌に粟を
 生じた。もし電管や炸薬に点火していたら、というより信管だけ爆発して電管や炸薬に
 点火しないなどという事は殆んど考えられない事だが、もし完全爆発していた場合は、
 近接して置かれた整備中の他の自殺艇は物すごい勢いで誘爆し、それはまた他の艇隊の
 艇にも及んで、出撃の寸前で、ここの入江の機密兵器部隊は自ら全滅し去っていただろ
 う。  
・もう発信の下令を待つばかりだ。不思議にこの世への執着を喪失してしまった。ただ一
 刻きざみに先へ延ばされることが焦燥の種を植えた。即時待機の精神状態を持続するこ
 とは苦痛であった。今がチャンスだ。今が丁度いい。今なら平気で出て行かれる。
・四艇隊長のL候補生は爆発事故について神秘的な気分に支配されているようだ。彼はこ
 の隊の編成当初からいたのではない。最近になって求めてこの隊に志願して来た。何故
 そうしたのか私にはわからない。しかし丁度艇隊長が一名欠員になっていたので喜んで
 来てもらった。それですべてが不馴れで事故を起こし勝ちであった。彼は私と同じく学
 徒兵であった。その為に彼とは学生仲間のような話しぶりで会話をすることも出来た。
・夜が明けてしまえば、制空権が完全に向う側にある現在の状況下で、私たちの海上行
 動が無謀であることは言うまでもない。とすると、夜が明けてからの行動は手遅れにな
 る。行動を起こすなら今のうちなのに。司令部は何を考えているのだろう。
・しかしここの孤島の周辺で海軍の司令部の管下にある見張探知能力は私にもわかってい
 た。また味方の飛行機がどれだけの偵察を為し得たであろう。すると今度は特攻戦発令
 の正体は、何だか非常に子供だましの因子に原因しているのではないか。私はあまりに
 命令をまともに受取り過ぎて、浄化させていたのではないか。
・今度の特攻戦発動の命令が空手形になりそうだという予感が生じ始めた。
・Nが番兵塔の外の一軒家の近くに来ていることを知らせてきた。それは第四艇隊の事故
 のあった直後のことだ。公用でいつも部落へ出ることの多い主計兵が私に一通の封書を
 手渡した。私はそれが誰からの手紙であるかを直ぐに了解した。「誰が部落にやらせた
 んだ」「分隊士が行って来いと言われましたので・・・」私は動揺していた。おせっか
 いなことだ。私は分隊士のやりそうなことだと嫌悪した。
・「俺は海峡の状況を見て来る。当直室から連絡があったら、大声でどなれ」私は番兵に
 そう言い捨てて、さくさく浜辺に走った。そして思わぬ近さに、黒々と人が砂の上にう
 ずくまっている気配を感じた。私はそれがNであることを認めたので、歩度をゆるめて
 ゆっくり近づいた。Nは坐ったまま私を見上げ、私はつっ立ったまま、Nの、涙で顔は
 濡れ、唇がはげしく痙攣しているのを見た。
・「馬鹿だねえ。誰かにおどかされたんだ」Nは煙草のやにのような皮革臭い私の飛行服
 姿の下肢の方をほとんど放心したのろまさで自分の掌でさわって見ることを繰り返した。
 そして私の靴に彼女の頬をすりつけようとさえした。「演習しているんだよ。心配する
 ことはない。お帰り、帰っておやすみ」Nは私の顔を見上げて、ゆっくり首を左右にふ
 った。
・私は両手で抱いて立たせたが、Nの身体から力が抜けていて、私はよろよろした。「い
 いか。これは演習だからね。心配するんじゃない。こんな所にいないですぐに帰るんだ
 よ」私はNの身体をゆすぶるようにして、そう言った。Nはがまんがしきれぬもののよ
 うに嗚咽がこみ上げて来て、「う・・・・」とあふれ出る涙を流した。
・私はNが戦闘には用のなくなった私の短剣を白い風呂敷包にして持っていることに気が
 ついた。Nはまたへなへなと砂の上に坐り込み、私の方にすがりつく視線をよこした。
 Nはそこで石になってしまうのではないか。瞼が涙でふくれ上がっている。私はくるり
 と背を向けると、小走りで、隊内の方に引き返した。
・私は明け方の爽やかさの中で、身体のすみずみが解けて伸びやかになり、充実した肉体
 が、今日も未だ自分のものであったことに、しびれるほどの安堵の中に浸っていること
 を感じていた。恐らくは陽の目のある間は私たちの行動は先に延ばされるであろう。何
 も起こらなかったのだ。
・たとえ運命は今日一日延期であったとしても、昨夜発信していたら、もうしなくてもよ
 かったようなことを、私たちはしなければならないだろう。昼間は自殺艇を洞窟の中に
 かくして置かなければならない。