島の果て :島尾敏雄

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この作品は、いまから63年前の1957年に発表されたものであり、太平洋戦争末期の
日本の果ての島に駐屯した水上特攻隊将校と現地の娘との切ない恋の物語である。
この作品の舞台となっているカゲロウ島とは、奄美群島内の島、加計呂麻島のことらしい。
そして、この作品で洞窟の中にあるものとは、特攻兵器”震洋”(小型特攻ボート)のこと
だと思われる。
この”震洋”は、小型のベニヤ板製モーターボートの船内艇首部に炸薬を搭載し、搭乗員が
乗り込んで操縦して目標の敵艦艇に体当たり攻撃するものだったようだ。日本本土決戦時
には、日本各地の沿岸にこの”震洋”の基地が作られ、入り江の奥の洞窟などから出撃する
ようになっていたようだ。
”特攻”というと、飛行機による”特攻”が多く語られるが、実際には飛行機のほかに、この
”震洋”のような海上特攻もあったし、人間魚雷と言われた”回天”による特攻などもあった
ようだ。人の命を消耗品のように扱ったこの特攻には、いろいろな種類の特攻ががあった
ことを、我々は決して忘れてはならない。
この作品の作者も実際に、この”震洋”の特攻隊隊長として加計呂麻島に駐屯し、特攻の出
撃直前に終戦となったという。この作品は、その時の経験をもとに書かれているようだ。
そして、この作品に出てくるトエという女性は、後に作者の妻となり、また作家にもなっ
たようだ。
この作品に出てくる隊長は、”ひるあんどん”と陰で言われて、部下から疎んじられていた
ようだが、しかし、そういう人間味のある人物が隊長だった部隊の人たちは、使命感に燃
えた軍人精神一色の人物が隊長だった部隊よりも幸せだったかもしれない。なぜなら、そ
のほうが軍人精神に洗脳された隊長よりも、部下の命を粗末にしない、部下の命を大切に
してくれただろうからだ。
と言うのも、終戦の玉音放送後に配下の部隊に独断で出撃命令を出した人間もいたからだ。
そのような命令に対して「その命令は司令の命令かそれともあなた個人の考えか」と命令
に従わず、他の隊員らにも「無駄死にするな」と論じた、りっぱな隊長もいたからだ。

なお、この作品と、妻の作品「海辺の生と死」が原作となって、2017年に映画化され
ている。この作品を読んで、奄美の加計呂麻島に行ってみたくなった。

・トエは薔薇の中に住んでいたと言ってもよかったのです。と言うのは薔薇垣の葉だらけ
 の、朽葉しきつめたお庭の中に、母屋と離れてぽつんとトエの部屋がありました。ここ
 カゲロウ島では薔薇の花が年がら年中咲きました。
・トエに一日の仕事というのは部落の子供達と遊ぶことでした。部落の子供という子供が
 みんなはだしでトエの庭に集まって来るのです。トエは子供達に歌を教えました。
・トエがいくつになるのか誰も知らなかったのです。たいへん若く見えました。ほかの娘
 たちよりいくらか大きなからだつきをしていました。娘らしく太っていました。それで
 も体重はむやみに軽かったのです。
・部落の人たちは大人でも子供でもトエは自分たちと違うのだと考えている人が多かった
 です。それは昔からトエの家の人たちはそういうふうに、思われてきたので、不思議な
 こととも思わずにトエは部落全体のおかげで毎日遊んでいて暮らしていくことができま
 したが、二、三の年寄りたちは、トエがこの部落の生まれの者ではないことを知ってお
 りました。
・その頃、隣部落のショハーテに軍隊が駐屯してきました。そのためトエのいる部落にも
 何となくあわただしい空気が流れ、世界の戦争がこのカゲロウ島近くまで蔽いかぶさっ
 てくる不吉な予感に人々はおびえました。
・やがていろいろなことがわかりました。ショハーテの軍人は、百八十一人で、その頭目
 の若い中尉は、まるでひるあんどんみたいな人であること。むしろ副頭目の隼人という
 少尉さんの方が、男ざかりであるし経験もつみ万事できぱきとして人の応対も威厳があ
 って軍人らしい。百七十九人の部下は、若い頭目に同情はしているけれども、副頭目の
 きびきびした命令にすっかり服従しているらしい。だから頭目の一日の仕事というのは、
 自分の領分内を廻り歩いて十二の洞窟と八つの合掌造りの兵舎の様子を見てさえいれば
 それでこと足りるのさ、という評判でありました。
・副頭目は心の中で頭目の朔中尉をそんなに好きではなかったのですが、表向き二人は仲
 良くやっているように見えた。お酒を飲んだりしたときは、隼人少尉の言葉はちくりち
 くりと朔中尉をつつきました。時とするぐでんぐでんに酔っぱらたふりをして朔中尉に
 あてつけの、乱暴をすることもありましたが、朔中尉は何も言おうとしませんでした。
・戦雲は拡がってきました。敵の飛行機がカゲロウ島の上空にもぽつぽつ現われるように
 なりました。或る日非常に悪い情報がはいりました。カゲロウ島に大空襲がある。戦局
 は急転直下の変貌を示した。敵は新しい作戦を計画したようだ。大空襲のあと、敵は島
 に上がってくるだろう。  
・この情報は朔中尉の軍隊にもてき面にひびいてきました。空襲にそなえて洞窟の前に爆
 弾の被害をさける柵を構築せよという命令がきたのです。
・朔中尉は胸騒ぎがしました。運命の日があまりにあっけなく眼の前にやってきたことに
 甚だ不満のようでありました。しかし、一方これから起こるかもしれない未知の冒険に
 ふるい立つ心も湧いてきました。ただどうしても心にかかることが一つだけあったので
 す。それはその日がすっかり暮れてしまったら、ショハーテの部落の督督基さんの家を
 訪ねる約束をしていたことでした。
・督基さんのところのヨチという女の子に、若い頭目は心ひかれたのでした。というのは、
 ヨチを背負ってやったときに、やわらかい日本の足と中尉さんの肩をそっと掴んでいる
 ヨチの可愛い掌と、そしてそっと中尉の頬をくすぐったヨチの息遣いが忘れられなかっ
 たのです。ヨチは中尉さんの胸までも背丈はありませんでした。
・中尉さんのおとのうた家は、居間と台所の二間しかなく極く貧しい掘立小屋のような家
 出した。それなのに家の中には沢山の子供が居りました。あるじの督基さんはここ一カ
 月ばかり前にウ島のクニャに行って未だ帰ってこないということでした。小さなヨチは
 その中でお姉さんのように振舞っていました。「ね、中尉さん。トエが、トエがお魚を
 たくさんたくさん買いましたから、ショハーテの中尉さんに、いっしょに食べにおいで
 って」息をはずませて言いました。

・朔中尉の前にもうこの世のことは何もありませんでした。追っつけ命令が下り、あの洞
 窟の中のものを海に浮かべて打乗り、敵の船に体当たりにぶつかって行くこの世とも思
 われぬ非情な自分と五十一人のそれぞれのふう変わりな運命の姿ばかりが先立つのです。
・雨勢はだんだんつのってきて、車軸を流すようになったので、午後はみんな休みにしま
 した。中尉さんは疲れたので自分の部屋で寝ました。夢の中で隣の部屋の人声がやかま
 しくて仕方がない。そして隣室では実際に人声がしていたのです。きくともなくきいて
 いると次のような言葉が耳にはいりました。
 「いつどんな命令が来るかもわからないのに・・・それにみんなが大切な仕事・・・そ
  んなふうだから・・・四号の洞窟・・・眠ってはいられない・・・」
・朔中尉にはその意味がすぐぴんと来たのです。隼人少尉の蛇のように冷たく沈んだ眼の
 色を思い出してびくりととび起きたのです。
・中尉はわざと足音高く隣の部屋にはいって行きました。「隼人少尉、洞窟四号の話は本
 当なの?」「さあ、本当にもなにも、御覧になればわかることでさあ・・・」
・「そう」中尉さんはそう言うと静かにその部屋を出て、自分の部屋に戻り、紺のレイン
 コートを釘からはずし、それを着ながら雨の中に出ていきました。しばらくして、雨の
 中を当番が、洞窟四号の作業受持ちの者集合の命令を伝えて歩きました。 
・洞窟四号の前に十五人ばかりがしぶしぶ集まってきました。折角積み上げた土嚢は無残
 にも崩れてしまっていました。「先任の者は集まった者の数をあたれ」そう中尉が言う
 と、誰かが小さな声で、ちぇっ仕事にならなえと言いました。中尉はそれを聞くとぐっ
 と胸につかえました。突然何とも知れぬ大きな悲しみの底に突き落とされました。やが
 てそれは体じゅう真赤になるような恥ずかしさに変りました。と勃然と憤怒が湧き上が
 ってきました。
・「待てっ!」自分でもびっくりするほど透った大きな声が出ました。「お前たちは・・
 お前たちは只今即刻兵舎に帰ってやすんでよろしい。ぬくぬくとやすんでよろしい」部
 落の方にまで聞こえるように大きな声でした。
・とっさのことに十五名ばかりの者はそこを動きませんでした。すると中尉さんの顔には
 さっと殺気が走ったようでありました。が次の瞬間にはそれはくしゃくしゃに崩れて泣
 き顔になり持っていた竹鞭を振り上げて叫びました。「わかったらやすんでよろしい。
 よろしいと言ったらよろしいのだ」いつにない頭目の剣幕に十五人ばかりの者は白けき
 った気持ちで各々の兵舎に帰っていきました。  
・そのあとに残った中尉さんはたったひとりでその仕事をやり始めたのです。一人で持て
 ばたいへん重い土嚢を一つずつ積んで行きました。その仕事がすっかり終わる頃には、
 夜は深更に及びいつか雨ややんでおりました。その夜は十六夜の月でありました。この
 哀れな中尉さんの頭は熱病のような交響楽で一ぱいでありました。 
・本部の木小屋の方にやって来る途中の峠へのぼる道の分かれている所に出ました。(ト
 エが、お魚沢山沢山買いましたから・・・)その峠は小さな峠でそれを越すとトエの部
 落は眼の下に見えるはずでした。つと誘われるように中尉さんは峠への道を選んでおり
 ました。
・彼がショハーテに駐屯するようになるや否や誰からともなく隣部落にトエがいるという
 ことは既にさだめごとのような気持ちになっていたのでした。しかし中尉さんは未だ一
 ぺんもトエを見たことはなかったのです。
・中尉さんは何故かこっそり足音をしのばせて、人ひとりいない月夜の部落を歩いている
 のでした。そして自分の足音を聞くことに心をときめかせて、とある中庭にまぎれこん
 だのです。中尉さんを導いたのは障子越しにゆらゆらゆらめいている蝋燭のあかりであ
 りました。 
・三方に紙の障子をたてめぐらしたその部屋をすきまから覗いてみたら、豪華な机の上に
 お魚の御馳走が一皿だけのっかっていて、銀製の燭台の蝋燭が大きくゆらめいているの
 が見えるばかり、人かげはありませんでした。もっとよく見るために廊下に手をつこう
 としてびっくりしました。そこに何か寝そべっています。そして百合の蕋の匂いがした
 ような気がしました。 
・ワンピースの簡単衣を着た娘がひとり宿無し犬ころのように寝ていたのでした。中尉さ
 んは、そうだトエだと思いました。中尉さんは手のひらの中にはいってしまうような小
 さな懐中電灯を出してトエの顔を照らしました。大きな丸い顔にびっくりしました。ト
 エはまぶしそうに眼をぱちぱちさせると右手で中尉さんをぶつようなしぐさをしてにっ
 こり笑いました。「お月様かと思ったの」と言いました。そして、つと立ち上げるとば
 ねのような歩き方をして障子を開け放ち、中尉さんを招き入れました。
・燭台をまんなかにして中尉さんとトエは少しななめになって坐り、冷たくなったお魚の
 御馳走を黙って眺めていました。中尉さんはお魚はあんまり好きではありませんでした。
・「トエ」ぽつんと中尉さんが呼びますと、「え」それまで眼を落していたトエは中尉さ
 んの眼を見ました。そして彼女の運命をよみとったのです。「私は誰ですか」「ショハ
 ーテの中尉さんです」「あなたは誰なの」「トエなのです」「お魚はトエが食べてしま
 いなさい」トエは笑いました。
・トエは娘らしく太っていました。いたずら盛りの小娘のように頑丈そうでした。ただ瞳
 がいくらかななめを見ていてたよりな気でありました。その瞳を見たときに中尉さんは
 自分が囚われの身になってしまったことを知りました。
・敵の東の小島での作戦は終わりに近づきました。カゲロウ島では夜中にも敵の飛行機が
 飛んでくるようになりました。     
・或る晩、中尉さんはすが目のトエを見ていました。トエは歌いました。飛行機から明か
 りが見えないように廊下には木の戸をしめ燭台にはトエの着物をかぶせてくらましまし
 た。 
・トエが歌っていると、にぶいけったいな音が耳にまつわりついてきました。それは南の
 方から、だんだんカゲロウ島の方に近づいてくるのです。トエは歌うのをやめると中尉
 さんにしっかりつかまりました。「敵が来る」そう言ってふるえました。そして中尉さ
 んの顔を穴のあくほど見つめて言いました。「行っちゃいや。みんな知ってる。洞窟の
 中に何がはいっているか知ってるの。こわい。トエこわい。五十一人のことも知ってい
 る。トエこわい。行っちゃいやなの」
・しかし、やがてそんな心配はいらなくなりました。戦争の情況は全く行き着く所に来て
 しまったのです。頭目は昼も夜も、隊の外には一歩も出なくなりました。運命の日のそ
 のときのために、頭面の朔中尉は部屋にこもりました。そして五十一人をひとところに
 集まては、最期のときのことについてこまかい打ち合わせをしました。
・昼間は敵の飛行機があぶなくて仕事などすることはとてもできなくなりました。それえ、
 昼間は洞窟の中に寝ていて、夜になると起き出して仕事をしました。しかしそれも大ぴ
 らにはやれなかったのです。夜は夜で夜の眼を持った飛行機が飛んできました。
・トエはどんなにか待っていたのでしょう。トエにとっては夜だけがこの世でありました。
 夕方になるとトエは思うのでした。今夜はきっとおいでになる。そうしてじっと庭の方
 に耳をかたむねるのでした。
・自分がどうなるのか分からなくなるのです。ぼろぼろ涙があふれました。今朝お逢いし
 てさえ夕べとなれば、またお逢いしとうございます。トエはそんな歌を歌っていました。
 するとまたしても胸がこみあげてきました。トエは自分がどうしてこんなになってしま
 ったのかわからないのです。朔中尉の世にも不思議な仕事を知ったときに、トエは気が
 違いそうになりました。    
・トエはただ祈りました。トエの信じている神様に向かって。トエは本当は貰われ子だっ
 たのです。それは年をとった二三の部落びとだけが知っていた秘密でした。トエの母親
 は厳格な戒律の家に生まれた人でしたが、トエを産み落とすとすぐ死んでしまったので
 した。そのことはトエが大きくなるにつれて何時とはなくトエの耳にも入ってきました。
・いつどんなふうにして今の家に来たのかはわかりませんでしたが、物覚えのついたとき
 にトエは一冊の革表紙のブックを持っていたのでした。そのブックはお母さんのもので
 あったのに違いないと思いました。そして自分が知らず知らず信じていた神様はきっと
 お母さんの信じていた戒律の教えの神様に違いないと思いました。その神様にお祈りす
 るときにトエはそっとブックに頬付けをしました。
・中尉さんはだんだん怒りっぽくなってきました。トエはひしと感じました。トエは中尉
 さんがひるあんどんだと、疎んじられているらしいことを知りました。可哀そうな中尉
 さん、トエにばかり威張ってみせて我儘をするのだわ、トエは中尉さんのぴりぴりした
 神経がその胸から伝わってくるのを知っていました。
・新しく涙がぽろぽろ頬を伝わりました。敵が近づいていることは、トエにももううすう
 す感じられました。中尉さんが何故この頃トエの所に来られないかもわかっていました。
 そしていよいよ敵がやってくれば、中尉さんはがどうするかは、それはわかりすぎるほ
 どはっきりわかっていました。    
・或る日、敵の飛行機の合間を縫って中尉さんのお使いの小城従卒があわただしくやって
 来てトエに白い細長い包みを渡すと、また、あわただしく帰っていきました。トエは息
 をとめて白い包みをほどくと一ふりの短剣が出てきました。トエはどきりとしました。
 短剣は銀の飾りのついた鞘に入っていました。そして文が結び付けてありました。
・まだショハーテに朔隊の人たちが駐屯して来ない前には、トエの部落の人たちは潮のひ
 いた頃合いを見計らって磯伝いに岬の鼻を廻ってショハーテに行くこともありました。
 そしてショハーテ寄りの所に塩を焼く小屋が建っていたのです。しかし、この岬廻りは
 たいへん危険でした。潮の一番ひく時のわずかな間だけ浜辺を伝うことができましたが、
 すぎに波が押し寄せてきて、とがった岩にぶつかり岬は硬い表情の立神になってしまい、
 後にも先にも行けなくなるのです。その上、岩の間には時々怖ろしい毒へびがどぐろを
 巻いていて、人に噛みつこうと待っているのです。
・トエは部落がすっかり寝静まった頃合いを見て浜辺にでました。だが中尉さんは潮汐の
 図表の見方をあやまっていました。部落に近い浜辺では何ほどのこともなかったのです
 が、岬の鼻近くなるとだんだん行くては険しくそそり立って潮はみなぎっていました。
・一方中尉は、塩焼小屋の浜辺にやって来ました。トエの来る方向の闇をすかして見ます
 と潮がひたひたと山際まで来ているのを発見しました。しまった!と中尉さんは思いま
 した。でもトエは来る!きっと来る。しかしひどい難渋をしてくるだろう。つと胸が突
 き上げられ、トエが愛しくてたまらなくなりました。じっとしておれないのです。しか
 しじっと立っていました。やがてためらい勝ちに浜辺の砂をふむ足音が近づいてきまし
 た。思わず岩かげに
 かくれました。その足音が岩のところに来て、ぎくりと立ち止まると、中尉さんは静か
 に岩かげから出て、その人かげをしっかり胸に抱きました。トエは黙って抱かれました。
 汗でうむれて髪の毛のにおいがしました。中尉さんはトエの顔を胸から離して闇の中で
 眺めようとしました。ほの白くほつれ毛が汗で額にくっついていました。中尉さんが両
 手でトエの目もとをさぐると指が濡れました。そしてにわかにあついしたたりを指先に
 感じました。何だかズボンのあたりがつめたいので、トエのからだをまさぐると腰から
 下がびっしょり濡れているのを知りました。びっくりしてよく見ると腰のあたりに海草
 がくっついていました。トエがどんなにしてここまで来たのかがよくわかりました。胸
 がしめつけられるように痛みました。足もとを見るとトエは裸足になっていました。そ
 してあちらこちらに血がにじんていました。中尉さんは自分のからだでトエを温めてや
 ろうとしましたが、トエのからだはなかなか温まりませんでした。
・トエは言いました。「あそこなの」顔は中尉さんの方に向けたまま指だけあらぬ闇のの
 岬の方をさしました。「へびがいたの」その晩のトエは冒険をしたのです。中尉さんは
 この裸足の娘の小さな心臓が嘘のようにどきどき大きな鼓動を打ち続けているのがたい
 へん不思議になってきました。彼女はもう全く何も考えていないだろうということが素
 晴らしく奇妙なことに思われたのでした。
・するとまた、あの鈍いけたいな物音が南の方から君にまつわりはじめました。それはま
 たしてもカゲロウ島の方に刻々と近づいてくるのです。生け捕った小鳥のように暖かく
 小さく動いているトエを胸にしながら中尉さんは、眼と耳を物音の方に集中しました。
 それは、近づいて来ました。いつもの音より二倍も三倍も大きいものでありました。耳
 ががんがんひびいて頭が痛くなりような近さまでやって来ました。と眼の前がぱっと紫
 にウ島とカゲロウ島の間の海に真赤な火柱が竜のように立ち昇りました。それは瞬間の
 出来事でした。その火柱はすぐに消え失せてしまい、けたいな物音はだんだん北の方へ
 遠ざかって行きました。
・中尉さんは新しい事態を予知しました。トエを、つき放しました。中尉さんは本部の方
 にかけだしました。さっきみた変な爆発はただ事ではないと思いました。
・その夕方、当番がいきせき切って新しい情報の入ったことを知らせてきました。何故か
 この時、朔中尉はいよいよ来るべき時が来たのだと思いました。本部の自分の部屋に入
 って情報を前にしてその対策につきあれこれ考えをめぐらしていると、当番部屋でけた
 たましい電話のベルが鳴りました。当番がかけ上がって来ました。「只今命令を受取り
 ました」
・「よし、総員集合」当番にそう言ったあとで朔中尉は木小屋の自分の部屋を見渡しまし
 た。飾り気のない部屋がうそのように白く見え、今まで大事にしていた鏡もまるで縁が
 ないものに思われました。その鏡は今までとはまるで違ったものを写すのだと思いまし
 た。するとトエの姿が浮かびました。それは考えるだに悲劇的な場面でありました。
・真空になった気持ちの中で朔中尉は、これから自分と一緒に出発する五十一人の部下に
 もっともっと手を差し伸べた労りの言葉で包んでやらなかったことを唇を噛むほど悔や
 みました。トエにといて言えば彼女はもう朔中尉のからだの隅々にまで住んでいたので
 した。 
・「隼人少尉、行きますよ。あとをたのみます」隣の部屋の隼人少尉に声をかけました。
 隼人少尉はじっとこの若い頭目の顔を見つめました。どうしてか虫が合わずに好きにな
 れなかった頭目ではありましたが、そのこととは別に、別れはやはり無量の感慨を誘う
 のです。そして同時に頭目と五十一人が居なくなったあとの部隊をまとめて行かなけれ
 ばならない新しい事態に興奮しました。
・だが、どうしたことでしょう。洞窟の前の柵もすっかり取り除いてすぐにでも中のもの
 を海に浮かべる用意ができてからも、多くの時が流れました。もう真夜中になろうとし
 ているのです。それでも出発の命令はかかってきません。朔中尉はひとまず五十一人を
 寝かせることにしました。死の出発の服装を着けさせたままで。   
・うしみつどきの頃、従卒の小城が物の怪にとりつかれたような眼つきで朔中尉の前に現
 われました。「頭目、お顔をお貸しください」「なんだ」「トエ様が塩焼小屋の所に来
 ておられます」「なに!」
・「お前あれに何か言いに行ったのか」小城は黙ったままおびえたような眼つきをしまし
 た。そして小さな封筒のようなものを頭目に渡しました。「よしもうそんな心配はする
 な。後は俺が処置する。お前も無理をしてはいけない。早く寝ろ」
・小さな封筒の中の紙片には、走り書きで、シホヤキコヤまで来ています。お目にかかり
 たいの。お目にかからせてください。なんとかしてお目にかからせてください。決して
 取乱しません。トエ、とありました。
・中尉さんは隊内を歩きました。そして北東の端の番小屋まで来ました。そこでその外側
 に出ました。浜辺を少し歩くとすぐ塩焼小屋につきました。トエが浜辺にべったりうつ
 けたように坐っていました。中尉さんがトエの前に立ってもしばらく気がつかない位で
 した。そのくせ番小屋の所に中尉さんの姿が見えたときからトエは気づいていたのです。
 トエは紬の黒っぽい着物を着ていました。
・トエは何か言おうとしましたが、唇がふるえて言えませんでした。そして、突っ立って
 いる出発にいでたちの中尉さんを頭から靴さきまで眺めました。そっと手をさしのべて
 靴にさわってみました。
・「トエ、演習をしているんだよ。小城があわてて何を言ったか知らないけど、演習をし
 ているんだよ」トエは黙って頭を横にふりました。中尉さんはもうそこを離れなければ
 なりません。「トエ、明日の朝のぼくのたよりを待っておいで。心配しないで」中尉さ
 んはこう言えたのがぎりぎりでした。
・トエは中尉さんの足音の遠ざかって行くのを砂地に耳をつけて聞いていました。トエは
 中尉さんに気づかれないようにあの小さな飾りのついた短剣を白い布に包んでしっかり
 持ってきていたのです。すっかり夜があけてしまうまでトエはそこに居ようと思いまし
 た。もし、何かが海に浮かんでそれが五十二の数だけトエの眼の前の入江を外海の方に
 出て行ってしまったときには、そのときもうトエもたくさんの石ころをたもとに入れて
 短剣をしっかり胸に抱いたまま海の中にはいって行こうと思っていましたトエはじっと
 砂の上に坐っていました。からだは熱を持ったように熱く、まわりの一切のものに少し
 も気がつかないのでした。     
・やがて東の方キャンマ山あたり一帯が金色の箭を放ち、星はひとつも見えなくなって、
 嘘のように大きな真赤な太陽が上がってきました。潮がひたひたとさしてきてトエはあ
 やうく濡れてしまうところでした。
・トエはもう一度短剣を抱きかかえました。そしてひとまずは危機が通りすぎたことを知
 ったのでした。