昭和天皇・マッカーサー会見 :豊下楢彦

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昭和天皇というと、先の大戦において「聖断」によって戦争を終わらせた天皇という良い
イメージがとても強い。そして、終戦後は政治にはまったく口出しせず、「象徴」として
の天皇に務めてきたように、一般的には思われているはずである。しかし、この本を読む
と、実際の昭和天皇は、そういうイメージとはかなり異なっていることが見えてくる。
戦前においても、国の元首として、そしてまた陸海軍の大元帥としての立場にありながら、
政治や軍の戦略には、あまり口出しはしていなかったというイメージもあったが、実際に
は、そうではなかったようだ。「平和主義者」としての天皇のイメージは、ある面におい
ては、後で作られたイメージであったとも言えなくもない。そのようなイメージを作り出
したのは、昭和天皇自身の「天皇制の護持」という使命と、マッカーサー元帥の占領政策
への天皇の権威利用という思惑の一致からきていたようだ。
終戦とその直後の混乱期という特異な時期だから、天皇が政治的に動いたことについては、
仕方がなかったという面もあるだろうが、現憲法をはじめ、沖縄が長きにわたって米国の
占領下におかれてきたことや、今なお米軍が日本に駐留していることに、昭和天皇が深く
関わっていたという事実を知ると、それがいいか悪いかは別として、少なからず戸惑いを
感じる。
時代は、そんな昭和の時代から平成の時代と移り、そしてその平成の時代もまもなく終わ
ろうとしている。平成の天皇は、昭和天皇とは異なり、現憲法下において初めて誕生した
「象徴天皇」である。そういう意味では、「昭和天皇」とはまったく異なると言ってもい
いだろう。「平成天皇」は、災害などが発生するといち早く駆けつけ、被災者と寄り添う、
まさに国民の「象徴」としての天皇であり、誠にご立派な天皇であったと思う。新しく始
まる時代の新天皇においても、この「平成天皇」の「ただただ国民に寄り添う」姿勢を承
継していっていただくことを、切に願ってやまない。


はじめに
・そもそも昭和天皇は東京裁判をいかに評価していたのか、処刑されたA級戦犯にいかな
 る「思い」を抱いていたか、あるいは、なぜ靖国神社への参拝を中止することになった
 のか。
・こうした「靖国問題」は詰まるところ、アジア・太平洋戦争をいかに”総括”するかとい
 う問題であり、かくして戦争と昭和天皇との関わりが改めて根本的に問い直されようと
 している。
・戦後史、なかでも日本が米国の占領下におかれていた時代に昭和天皇が果たした「政治
 的役割」に問題関心が注がれている。なぜなら、この”特異な環境”のもとにおける昭和
 天皇の言動を具体的に明らかにすることによって初めて、天皇と憲法との関係は言うま
 でもなく、昭和天皇にかかわる本質的な問題が鮮明に浮き彫りになってくるからである。 

「昭和天皇・マッカーサー会見」の歴史的位置
・「マッカーサー回想記」の次の有名な一節がある。「私は米国製のタバコを差し出すと、
 天皇は礼をいって受け取られた。そのタバコに火をつけてさしあげた時、私は天皇の手
 がふるえているのに気がついた。天皇の感じている屈辱の苦しみが、いかに深いもので
 あるかが、私にはよくわかっていた」
・天皇の口から出たのは、次のような言葉だった。「私は、国民が戦争遂行にあたって政
 治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあ
 なたの代表する諸国の裁決にゆだねるためおたずねした」
・死をともなうほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実に照らして、明らかに天
 皇に帰すべきではない責任を引き受けようとしている、この勇気に満ちた態度は、私の
 骨のズイまでもゆり動かした、とマッカーサーは述べている。
・天皇が筆頭に記された戦犯リストなどは、当時もその後も、エイソ両国はもちろん他の
 連合国からも提出されていない。また百万の将兵が必要となる旨のワシントンへの警告
 は、会見から4カ月後の46年1月下旬のことであって、時間的な関係が逆転している。
 同じく、天皇が最後的に一切のリストからはずされた(つまりは、不訴追が決定された)
 のは46年4月のことである。 
・タバコ嫌いで有名な天皇は本当にタバコを吸ったのであろうか。吸ったとすれば、それ
 は文字通り「屈辱の苦しみ」であったろう。時間的な前後関係も含め、”虚実ないまぜ”
 といった感を免れないのである。
・天皇は米紙「ニューヨーク・タイムズ」の新聞記者からの「日本の将来について如何な
 るお考えをいだいておられるか」という質問に対して、「イギリスのような立憲君主制
 がよい」と回答がなされた。つまりは、それまでの天皇制は「イギリスのような立憲君
 主制」ではなかった、ということであろうか。また、「宣戦の詔書が、アメリカの参戦
 をもたらした真珠湾への攻撃を開始するために東条大将が使用した如くに使用される、
 というのは陛下の御意思でありましたか」という問いに対して天皇は「宣戦の詔書を、
 東条大将が使用した如くに使用する意図はなかった」と回答した。
・この単純ともいえる回答は、しかし政治的にはきわめて重要な意味を持っていた。当時、
 天皇の戦争責任を追及する海外の声はきびしさを増しており、とりわけ米世論は真珠湾
 への「奇襲」を激しく批判していた。そこで天皇の側近たちにとってはまず何よりも、
 「宣戦の証書」と「奇襲」との関係について、天皇に「責任なき根拠」を具体的に示す
 ことが求められていたのである。 
・天皇が詔書に署名したのが攻撃開始から8時間以上も後のおとであったという事実があ
 る。 
・戦争の戦略上の詳細に関しては、ほとんど専ら参謀本部によって決定され、天皇は一般
 に諮問に預からない。とにもかくも、交戦の開始以前に正式の宣戦布告を発することが
 陛下の御意思であった。 
・天皇がいかなる人物も決して個人的に非難しない、というのが慣例である。天皇はその
 ような非難を超越しているのである。日本の国民は天皇自身が東条を非難した受け取っ
 たなら、その場合は大きな騒動がおきるかもしれない。 
・天皇はこの機会にあたり個人として、マッカーサーが「一件の事件」もなく占領を遂行
 したことに感謝の意を表明した。これに対してマッカーサーは、「円滑な占領は天皇の
 リーダーシップのおかげである」と答え、占領が「いかなる流血ももたらさなかった」
 ことについて心からの感謝を述べた。両者は、もし米軍の本土侵攻が行われていれば、
 双方の多大な人的損失と日本の完全な破壊がもたらされていたであろうという点で、意
 見が完全に一致した。 
・天皇は、だれが戦争に責任を負うべきかについてマッカーサー元帥が何ら言及しなかっ
 たことに、とりわけ感動した。天皇は個人的な見解として、最終的な判断は後世の歴史
 家に委ねざるを得ないであろうとの考えを表明したが、マッカーサー元帥は何ひとつ意
 見を述べなかった。 
・内務省がこのように会談内容をあえて明らかにした重要な動機は、自ら皇居を出て外国
 人を訪問したという天皇の”権威失墜”を回復させるところにあったと思われる。
・マッカーサーのねらいは、天皇の戦争責任問題は事実上”タナ上げ”にしつつ、むしろ
 天皇の「政治的利用」と両者の相互協力関係の重要性を鮮明に打ち出すところにあった。
・マッカーサーの軍事秘書フェラーズ准将メモでは、「天皇は、そこに日本人の先祖の徳
 が宿る民族の生ける象徴である」「天皇を戦争犯罪人として裁くことは不敬であるばか
 りではなく、精神の自由の否定である」「1941年12月8日の宣戦の詔書は、当時の
 君主国の首長としてそれを発する法的権限を有していた天皇の免れ得ない責任であった。
 しかし、最も高度の信頼しうる筋によれば、戦争は天皇自身から起こされたものではな
 いということが立証されうる。天皇が直接語ったところによれば、彼には宣戦の詔書を、
 東条が使用した如くに使用する意図はなかった」「もし天皇が裁判にかけられるならば
 全国的蜂起は避けられず、何万人もの行政官を伴った大規模な派遣軍を必要とし、占領
 は長期化するであろう」と指摘している。 
・マッカーサーは「天皇の終戦時までの国務との関わりは主として行政上のことであり、
 彼の輔弼者たちの助言に機械的に応じたものであった、という明確な印象をうけた。仮
 に天皇が積極的な考えを持っていたとしても、支配的な軍閥によってあやつられ、その
 意向を代弁している世論の流れに反対しようものなら、そのような彼の努力は、実際上
 危険な状況に彼を立たせたであろうと信じている人たちがいる」と指摘し、天皇は日本
 人を統合する象徴であり、もし彼が裁判にかけられるならば全国的に抵抗運動が広がり、
 百万の軍隊と数十万の行政官が必要となり、占領の長期化は避けられないと、”警告”を
 発したのである。
・「なぜあなたは戦争を許可したのか」とのマッカーサーの問いに天皇は、「もし私が許
 さなかったら新しい天皇がたてられていたであろう。戦争は日本国民の意思であった。
 誰が天皇であれ事ここに至っては、国民の望みにさからうことはできなかった」と答え
 た。  
・以上の経緯から推察されるおとは、東京裁判をひかえてマッカーサーは様々なパイプ、
 メディアを駆使して、戦争は軍閥と国民の意思であった、それに抗したならば天皇自身
 の立場が危うかったであろう、という”演出効果”満点のイメージを「天皇発言」とい
 う形で内外に広め、それによって天皇免訴の正当性を印象づけようとしたのではないか、
 ということである。
・マッカーサーは東京裁判が開始された46年5月頃、キーナン首席検察官に対して「自
 分は昨年9月末に日本の天皇に面会した。天皇はこの戦争は私の命令で行ったものであ
 るから、戦犯者はみな釈放して、私だけ処罰してもらいたいと言っていた。もし、天皇
 を裁判に付せば、裁判の法廷で天皇はそのように主張するであろう。そうなれば、この
 裁判は成立しなくなるから、日本の天皇は裁判に出廷させてはならぬ」と語った。
・当時の皇太子の家庭教師であったヴァイニング夫人の日記では、「戦争責任はお取りに
 なるのか」とのマッカーサーの質問に対し天皇は「私をどのようにしようともかまわな
 い。私はそれを受け入れる。私を絞首刑にしてもかまわない」と答えたと記述されてい
 るとのことである。  
・まず見過ぎしてならないのは、「絞首刑」発言に続いて日記には、「しかし私は戦争を
 望んだことはなかった。なぜならば、私は戦争で勝てるとは思わなかったからだ。私は
 軍部に不信感を持っていた。そして私は戦争にならないようにできる限りのことをした」
 との発言が記されていることである。つまりここには、「戦争は私の命令」という言葉
 はなく、逆に軍閥への非難と、自分としては戦争に反対であったという”弁明”が明確に
 語られているのである。この「天皇発言」が記された日記の日付は47年12月となっ
 ている。ところが、彼女がマッカーサーからこの発言を直接聞いたのは、同年5月の米
 大使館における昼食会の席上であったという。それでは彼女は、これほど”感動的スト
 ーリー”をなぜ7カ月も経ってから日記に記したのであろうか。 
・問題の核心は、日本の占領管理体制の特異性そのものにある。その特異性とは、ポツダ
 ム宣言にも降伏文書にも、占領管理体制については何ひとつ具体的に規定されていない、
 ということなのである。当時米英中ソの四大国間で確認されていたのは、マッカーサー
 の最高司令官就任だけであった。これに対しヨーロッパにあっては、イタリア、ルーマ
 ニアなど東欧諸国、ドイツの占領管理体制の枠組みは、英米ソ三大国との休戦協定や議
 定書において、降伏時あるいは降伏以前に明確に規定されていた。
・日本の占領管理体制のあり方が問題とされる場合、実はその背景には、そもそもマッカ
 ーサーはいかなる権限を有しているのか、という基本的な問題があった。というのも、
 当時四大国が署名ないし合意した文書で連合国最高司令官の権限について明確に述べら
 れているのは、1945年8月の「バーンズ回答文」における、「降伏条項を実施する
 ために必要と認める措置をとる連合国最高司令官」という一節しかなかったからである。
 これでいけばマッカーサーの権限は、降伏にかかわる純軍事的なレベルに限定されてい
 た、と解するのが妥当ということになるだろう。
・何よりも連合諸国が同意したのは「日本の突然の降伏によって生み出された情勢の緊急
 性に鑑みて、日本軍隊の降伏を受理し、それを達成するという限定された目的のための
 最高司令官としてのマッカーサー元帥を承認する」ということであった。  
トルーマンがマッカーサーに二度目の帰国命令を送った当時、会見に挑んだ天皇の立場
 がきわめてきびしいものであったと同様に、実はマッカーサーの立場もまたまことに不
 安定きわまりないものであったのである。そうであればこそ、マッカーサーにあっては
 天皇の態度に「感動」するか否かといった個人的感情のレベルを超えて、外からの一切
 の干渉を排し、国内での”絶対権力”を維持しつつ自らの占領遂行の基盤を固めていく
 上で、「政治的道具」としての天皇の重要性が改めて強く認識されざるを得なかったの
 である。とすれば、この会見の歴史的な意義は、天皇によるマッカーサーの「占領権力」
 への全面協力とマッカーサーによる天皇の「権威」の利用という、両者の波長が見事に
 一致し、相互確認が交わされたところに求められるべきであろう。
・46年10月、新憲法発布の3週間ばかり前に行われた第三回の会見ですでに、天皇が
 「戦争放棄を決意実行する日本が危険にさらされる事のないような世界の到来を、一日
 も早く観られるように念願せずにおれません」と第九条に懸念する表明をしたのに対し、
 マッカーサーが「戦争を無くするには、戦争を放棄する以外には方法はありませぬ」と、
 第九条の意義を強調する議論を交わしていたのである。以来およそ半年を経て天皇は、
 事実上第九条に代わる日本の安全保障のあり方、つまり米軍による防衛の保障をマッカ
 ーサーに求めた訳であった。  
・それにしても、わずか1年9カ月前まではアジア・太平洋諸国を「危険にさらしていた」
 国の「象徴」が、その償いも何ら果たしていない段階で、しかも戦争放棄の第九条がな
 ぜ求められることになったのかという歴史的な経緯もほとんど認識されていないかのよ
 うに、ひたすら自らの国が「危険にさらされる」ことのみを考え、アジアや世界に眼を
 向けることもなく、もっぱら占領者のアメリカに「安全保障」を求めるという発想方法
 には、ただ驚かされるばかりである。否、むしろ天皇のこのような発想こそが、戦後日
 本の歩みをそれこそ”象徴”しているのかもしれないのである。
・47年には、沖縄における米軍の占領が「25年から50年、あるいはそれ以上にわた
 る長期の貸与というフィクション」のもとで継続されることを望む、という有名な天皇
 の「沖縄メッセージ」がマッカーサーの政治顧問シーボルトによって覚書にまとめられ
 た。
・それにしても、2年数カ月前に壮絶な”本土決戦”を体験したばかりの沖縄の人達にとっ
 て、当時「沖縄の安全」に対する最大の軍事的脅威が米軍の占領そのものであったとい
 うことは、天皇のおよそ考え及ばないところだったのだろうか。
・マッカーサーとの第四回会見における「発言」から「沖縄メッセージ」に至るまでの天
 皇の言動は、どのようにとらえられるべきであろうか。言うまでもなくこれらは明白な
 「政治的行為」であり、憲法の規定に基づく本来の外交主体の”頭越し”になされた典型
 的な”二重外交”そのものであろう。 
・1945年9月の最初の天皇・マッカーサー会見は、天皇によるマッカーサーの「占領
 権力への全面協力とマッカーサーによる天皇の「権威」の利用を相互確認する、という
 歴史的な意味を持っていた。として、これを契機に形成された両者の提携・協力関係は、
 戦後日本の枠組み形成においてきわめて重要な政治的役割を果たしたと考えられる。
   
昭和天皇と「東条非難」
・昭和天皇が75年11月を最後に靖国神社への参拝を行ってこなかった理由が、東条英
 機らA級戦犯の靖国合祀にあることが明らかになった。 
・昭和天皇は自らが連合国側の裁判を免れて”生き残る”ことが、長い伝統を誇る皇室を守
 りぬく唯一の道であり、それを獲得するためには、なりふり構わずあらゆる手段を講ず
 る、という方向に踏み切ったのであろう。つまりそれは、戦争責任問題についていえば、
 「すべての責任を東条にしょっかぶせるのがよいと思うのだ」という路線に徹するとい
 うことであった。  
・かくして昭和天皇の「東条非難」は、皇室を守り抜くための天皇の徹底したリアリズム
 の表現であった、と捉えることができるのである。

「松井文書」の会見録を読み解く
・恒常的な米軍駐留に反対し、サンフランシスコ講和会議では吉田の演説草稿が英語で書
 かれ、しかも「国民の悲願であるべき沖縄返還については、一言も触れられていない」
 ことに激高した白洲と、無条件的な米軍駐留を求め、50年以上にもわたる米軍の沖縄
 支配を認めるメッセージを出した天皇とは、文字通り”水と油の関係”にあったと言える
 だろう。さらにそもそも白洲は、講和会議を機会に「朕戦いを宣す」の終わりをつける
 べきこと、つまりは天皇が責任をとって退位すべきことを強く主張し、それが実現され
 なかった理由として、「じいさん連中はみな、陛下が悪いんじゃない、周りが悪いんだ
 という意識でしょう」と述べるような天皇に対する評価を持っていたのである。この点
 で白洲は、吉田ともマッカーサーとも立場を異にして臆することはなかった。
・天皇からすれば、こういう「白洲三百人力」とも言われた強烈な信念と行動力をもった
 白洲に吉田が引っ張られることを危惧していたのではなかろうか。 
・そもそも言うまでもなく、独立後の日本の安全保障の問題であれ沖縄の問題であれ、吉
 田も政府も外務省もまだ何ひとつ政策決定をしていないのである。それが、天皇とマッ
 カーサーの「トップ会談」で”頭越し”に議論され「漏洩」され世に出るということは、
 当時の日本の「外交権」がどこに存在するのか、根本的な疑問を生じさせる問題である。
・49年11月の第九回会見は、二カ月前にソ連が原爆保有を発表し、10月には中国で
 共産政権が成立したことを受けて、対日講和への両国の参加問題などをめぐって英米交
 渉が行われたり、国内でも「単独講和か全面講和か」の議論が戦わされていたように、
 いよいよ講和問題が焦点になりつつあった時期に行われた。会見の冒頭でマッカーサー
 は以上の情勢を背景に、「なるべく速やかに講和条約お締結を見ることが望ましいと思
 います」と述べたが、これに対し天皇は、「ソ連による共産主義思想の浸透と朝鮮に対
 する侵略等がありますと国民が甚だしく動揺するが如き事態となることを惧れます。ソ
 連が早期講和を称えるのも共産主義に対する国民の歓心を買わんとする意図にほかなら
 ないものと思います」との答えを返した。ここには、あたかも朝鮮戦争の勃発を予測し、
 「早期講和」論をソ連の策略とみるような、共産主義への強い警戒心が示されている。
 つまり天皇は、共産主義から日本を防衛する体制を確保することが講和にすすむ前提条
 件と主張しようとしたのである。 
・これを受けてマッカーサーも、「主権回復すると同時に日本の安全を確保する何らかの
 方法を考えなければならないと思います」と述べたうえで、「日本が完全中立を守るこ
 とによってその安全を確保し得るならそれに越したことはありません、ただし米国とし
 ては空白状態に置かれた日本を侵略に任せておくわけにはいきません。日本が不完全な
 武装をしても、それは侵略から守ることはできないでしょう。それはかえってら避雷針
 の役割をなし侵略を招くでしょう」と米国の”責任”と日本の再軍備がもたらす危険性を
 説いた。
・この発言を受けて天皇は、「ロイヤル国防長官の日本放棄説はその後の否定にも拘わら
 ず日本の朝野においてなお懸念を抱くものがあります。日本として千島がソ連に占領さ
 れもし台湾が中共の手に落ちたならば米国は日本を放棄するのではないかと心配する向
 きがあります」と、日本からの米軍撤退を唱えた同年2月のロイヤル発言に言及した。 
・マッカーサーが戦争の指揮をめぐって解任され来米する前日が、両者にとって最後の会
 見となった。別れを惜しむ挨拶交わされた後、ここでも天皇はすぎに朝鮮戦争の戦況に
 話題を移し、マッカーサーが交代しても米国の戦争政策が変わらないか否かを問いただ
 している。これに続いて天皇は、「戦争裁判に対して貴司令官が執られた態度につき、
 此機会に謝意を表したいと思います」と述べたのである。
・これに対するマッカーサーの応答は、「私はワシントンから天皇裁判について意見を求
 められましたが勿論反対致しました。英ソ両国は裁判を主張していたが、米国はその間
 違いを主張し、ついに裁判問題は提起されなかった。現在なお天皇裁判を主張している
 のはソ連と中共のみであります。世界中の国が反対しているのにソ連は法的根拠も示さ
 ずこれを主張しているのであります」というものであった。 
・「東京裁判史観」の名で非難が浴びせられてきた東京裁判について、天皇自らの発言と
 して「謝意」を表していたことは誠に興味深いものがある。さらに、それに応えてマッ
 カーサーが自らの”尽力”を語ったことについて、はしなくも東京裁判が、東条らに全
 責任を負わせる一方で天皇の不訴追をはかるという「日米合作の政治裁判」であったこ
 とが当事者同士の会話によって確認されることとなった。
・天皇は朝鮮戦争を、「天皇制打倒」をめざして日本にも進撃してくるであろう国際共産
 主義の攻撃の始まりと見ていた。この点で、「大陸の政治動乱がわが島国を直接に脅か
 さなかったことは歴史の事実」であり、「ソ連は断じて日本に侵入しない」と確信して、
 「日本有事」と「朝鮮有事」を峻別していた吉田の情勢認識とは明らかい食い違うもの
 であった。 
・天皇は、戦後の新憲法の施行後も、「象徴天皇」という憲法上の規定に何ら縛られてい
 ないかのように「政治的行為」を展開した。
・天皇は開戦を決定した41年12月の御前会議について、「政府と統帥部との一致した
 意見は認めなければならぬ」「その時は反対しても無駄だと思ったから、一言も云わな
 かった」「東条内閣の決定を私が裁可したのは立憲政治下における立憲君主としてやむ
 を得ぬことである。もしこれが好む所は裁可し、好まざる所は裁可しないとすれば、こ
 れは専制君主と何ら異なる所はない」と述べ、あくまで「立憲君主」としての立場を貫
 いた旨を強調した。
・御前会議前日に、高松宮が海軍の”厭戦気分”を伝えたため海軍大臣らを呼んで事情を聞
 いた天皇は、「相当の確信」を持った返答を確認したうえで、「予定の通り進むよう首
 相(東条)に伝えよとの御下命あり」との決断に踏み切り、木戸は、直ちに首相に電話
 を以って伝達したのであった。予定の通り進むるよう」とは、翌日の御前会議で開戦を
 決定せよということであり、「彼ほど、朕の意見を直ちに実行に移した者はない」と天
 皇自ら評価するような東条が、こうした「御下命」に忠実に従ったことは言うまでもな
 い。
・つまり、御前会議では「一言も云わなかった」と述べているように「立憲君主」として
 振る舞った天皇は”裏舞台”では、東条に強制されたのではなく、逆に天皇が東条に
 「下命」して御前会議の最終方針を事実上決めていたのである。ここには、いわゆる
 「専制君主」と「立憲君主」との間を巧みに行き来する天皇の姿が象徴的に示されてい
 る。
・こうした天皇の言動における建前と実態との乖離は、戦争責任問題を考える際の国民レ
 ベルの議論に大きな”ねじれ”をもたらすことになった。その典型例が「靖国問題」であ
 ろう。本来靖国神社には「聖戦」で倒れた「英霊」の御霊が祀られるのであり、「聖戦」
 とは「天皇の意に体した戦争」を意味する。他方、「独白録」で展開された天皇の立場
 は戦争に反対した平和主義者としてのそれであり、その逝去の際もメディアの大半はそ
 うした基調で戦前の天皇像を描き出した。とまり、「宣戦の詔書」の問題はともかくと
 して、実態においてあの戦争は「天皇の意に反した戦争」であった、ということである。
・ところが、天皇は平和主義者であったと主張する立場と、あの戦争は「自存自衛の戦争
 であり、そこで倒れた「英霊」のために首相は靖国神社に公式参拝すべきであると主張
 する立場とが、何ら自己矛盾を惹き起こすこともなく”共存”するという、まことに奇妙
 な”ねじれ”現象が長く続いてきたのである。そして、戦後の日本は今日に至るまで、
 この”ねじれ”の問題を正面から突き詰めてこなかった。その背景としては、人間個人と
 しては退位問題などで苦悩したであろうが、結果的には法的にも道徳的にも戦争責任を
 明示的にとることのなかった天皇がその在位を継続したことで重大な”タブー”が形成さ
 れた、という問題を挙げることができるであろう。
・天皇制にとって最も重大な脅威とは内外からの共産主義の侵略であると認識されていた。
 結果として天皇の行った「外交」は、米軍駐留問題でも沖縄問題でも講和問題でも、政
 府外務省の政策決定を見事に”先取り”するものであった。そこには、共産主義の脅威か
 ら天皇制を守り切るためには無条件的に米軍に依存する外はなく、それを確実にするた
 めには吉田であれマッカーサーであれ、”バイパス”し、侵略に対してはあらゆる手段の
 行使を米国に求めるという、”天皇リアリズム”とも言うべき冷徹さが見られる。
 要するに、天皇にとって安保体制こそが戦後の「国体」として位置づけられはずである。
・マッカーサーとリッジウェイとの全会見記録を通して、日本の戦争がアジアの国々や民
 衆に及ぼしたであろう多大な犠牲や惨禍について天皇からただ一言も発せられていない、
 という事実である。民衆レベルへの言及は、日本の国民の食糧問題やシベリア抑留者の
 問題など”被害者”としての日本人(沖縄は含まれていない)についてであり、それ以外
 には、共産主義の侵略や抑圧にさらされている地域の民衆についてのみである。
・天皇の「外交」については、その”先見の明”を評価する見方も出てくるであろう。とは
 いえ、政治的責任を負えないもの、公に説明責任を果たし得ないのものが政治過程に介
 入し影響力を発揮するということは、日本の政治と民主主義の根幹を突き崩すことを意
 味している。仮に、この状況を評価せざるを得ないとすれば、日本の政治の持つ病根は
 限りなく深く、日本の民主主義は救いがたく未成熟である、と言わざるを得ないであろ
 う。
 
戦後体制の形成と昭和天皇
・マッカーサーによる憲法の”押し付け”により、昭和天皇は憲法という根本法において
 天皇制が消滅する危機を脱することができた訳であるが、さらに、東京裁判において戦
 犯として裁かれる危機も、マッカーサーの強力なイニシアティヴによって逃れることが
 できたのである。つまり昭和天皇は、「帝国日本」の行った戦争の戦後処理における深
 刻きわまりない重大危機を突破することに成功したのである。
・日本をめぐるこうした国際情勢の激動は、共産主義を天皇制の最大の脅威とみなす天皇
 と側近グループにあっては、文字通り未曽有の危機と認識されたはずである。言うまで
 もなく天皇にとって、日本の防衛と天皇制の防衛は同義であった。従って、天皇制が生
 き残るためには米軍による日本の防衛は至上の課題であった。ところが、肝心のマッカ
 ーサーは「極東のスイス」論を唱え、吉田は基地提供を外交ガードのように扱う状況に
 おいて、天皇の側は直接米国側に訴えることによって、日本の防衛を確保する方向が動
 かざるを得なかったのであろう。それが、一連のメッセージを始めとした「天皇外交」
 であった。 
・よく考えてみると、天皇という要因を考慮せずに占領期の日本の政治外交を語ることが
 できないのは明らかである。たとえば憲法の成立に天皇が関係ないとは誰も言わない。
 それならば、安保条約の成立に天皇の意向が何らかの影響を及ぼしたのではないかと問
 いかけるのはある意味で当然のことかもしれない。 
・第四回会見において、日本の防衛に関し「アングロサクソンの代表者である米国のイニ
 シアティヴ」を求めるような昭和天皇の発言は、第三会見での発言に比すならば、文字
 通り「高高度の政治的判断」と言わざるを得ないであろう。しかもこの会見は、新憲法
 の施行から3日を経過した47年5月6日に行われている。つまり、すでに「現実の政
 治から、まったく離れられる」べき「象徴天皇」となっていたにもかかわらず昭和天皇
 は、あたかも「国家元首」からような発言をなしていたのである。 
・これらは明らかに「国家元首」としての発言であるばかりではなく、むしろ発言のレベ
 ルをこえた政策指針の提起であり、まさに「外交」と言わざるを得ないであろう。とす
 れば、これらの行為は、明々白々の憲法違反という以外にない。
・このように見てくるならば、そもそも昭和天皇は憲法という基本法をどのようなものと
 認識していたのか、という根本的な疑問を抱かざるを得ない。およそ政治的責任を植え
 ない立場にありながら、かくも「高高度の政治的行為」に踏み出すことを昭和天皇はい
 かに考えていたのであろうか。  
・近代の天皇制に関する近年の研究において有力な見解は、天皇が恣意的に行動できる個
 人専制体制ではないが、制度的には「最終決裁者は天皇である」という矛盾を孕んだ枠
 組みを背景に、「近代の天皇とは、基本的には輔弼に基づいて行動する受動的君主だが、
 限定的あ自らの意思で親政的権力を行使する能動的君主としても現れる存在」というも
 のである。
・昭和天皇がこの「独白録」で触れていない憲法上の重要な問題がある。それは、天皇が
 統帥権を掌握している、ということである。いかに参謀総長や軍令部総長の補佐を受け
 るとしても、天皇は統帥命令を発する大元帥であり、この点が、英国の立憲君主との決
 定的な違いであろう。もちろん国務大臣の輔弼を受ける国務との比較において、この統
 帥権の実際の運用にあたって、両総長は天皇の命令の単なる伝達者であったか、あるい
 は国務に順ずるような手続きがなされていたのかについては、様々な議論がある。しか
 し、国務大臣が閣議決定権を持っていたのに対し、両総長は決定権も決定の執行権も有
 していなかった点が重要であろう。だからこそ、この「独白録」においても、昭和天皇
 はかなり率直に、軍事作戦への”介入”を語っているのである。
・「独白録」での発言に依らずとも、昭和天皇の意向が実際の作戦指導に重大な影響を与
 えた例は、軍関係者が残した数々の資料によって、例えばフィリピンのバターン要塞へ
 の攻略やガダルカナル攻防戦における航空隊の出動、あるいはガダルカナル撤退後のニ
 ューギニアへの新たな攻勢の命令等など、いくつも挙げることができる。
・国策の根本方針の変更に昭和天皇が自ら介入した重大な事例がある。それは1945年
 6月に開かれた最高戦争指導会議(大本営政府連絡会議に代わって44年8月に設置さ
 れた戦争指導の最高機関)である。首相、外相、陸軍・海軍大臣、参謀総長、軍令部総
 長が参集したこの会議については、昭和天皇自らが召集したものであることはすでに明
 らかになっていたが、最近発掘された当時の天皇の侍従・小倉庫次による当日付日記で、
 「本日の会議は特に天皇の御召に依り、開催せられたものと拝す」と記述されているこ
 とによっても、改めて確認することができる。
・最高戦争指導会議の構成員による懇談会を自ら召集して御前会議とした昭和天皇は冒頭
 から発言し、「戦争指導についていえば、先の御前会議で決定しているが、他面、戦争
 の終結についても、この際従来の観念にとらわれることなく、速に具体的研究をとげ、
 これを実現するように努力せよ」と、「戦争終結」方針を打ち出したのである。天皇自
 らも述べているように、わずか2週間前の御前会議では、「あくまで戦争を完遂し、も
 って国体を護持し、皇土を保護し、征戦の目的の完成を期す」と徹底抗戦・本土決戦の
 方針が決定されていたのであったが、この根本方針が事実上軌道修正され、ソ連を介し
 て連合国側と和平の交渉に入るという「大転換」が、天皇自らのイニシアティヴによっ
 てはかられたのである。
・昭和天皇は御前会議から5日目に急に体調を崩し翌日には病床に伏して、戦争の勃発以
 来初めて政務を休んだが、この間に全国の軍事情報を改めて収集し、現実の軍事体制が
 およそ本土決戦に耐えうるものでないことを確認するに至ったのである。ちなみに、最
 高戦争指導会議が開かれた22日から23日にかけて、熾烈な地上戦が展開されていた
 沖縄から守備隊の壊滅が伝えられた。  
・昭和天皇は「独白録」においても、「支那事変」の場合と比較しつつ、「満州は田舎で
 あるから事件が起つでも大したことはない」と、あきれるほど率直に語っているのであ
 る。 「支那事変」を論ずるなかで、「自分の得ている情報では、始めれば支那は容易
 のことでは行かぬ。満州事変のやうには行かぬ」と述べているのである。
・つまり、満州事変に対処するにあたり昭和天皇の行動を律した”判断基準”は、「統帥権
 千犯」という憲法上の根本問題ではなく、ひとえに満州をめぐる情勢認識にあった。
 だからこそ、大権を侵した朝鮮軍や関東軍に撤収を命じることはなかったのである。そ
 の後関東軍が戦線拡大という”既成事実”を積み重ねることによって日本が泥沼の日中戦
 争にはまり込んでいった歴史を見るとき、この事変に際しての昭和天皇と政府の対応は
、決定的とも言える転換点を画したと言える。
・以上の”判断基準”に照らすならば、第一次上海事変では参謀総長を通すことなく直接に
 現地司令官に「不拡大」を命じ、逆に第二次上海事変では首相の方針にも反して「兵力
 の増加」を求めたのも、昭和天皇にとっては”一貫した論理”に依っていたことが理解さ
 れる。それは言うまでもなく、憲法の規定ではなく、自らの情勢判断であった。
・国策の基本方針にかかわって昭和天皇が自ら「勇断」をもってイニシアティヴをとる際
 の”判断基準”となる「事態の重要さ”の内実とは何であったのか、ということである。
 端的に言って、昭和天皇にとっての「事態の重要さ」の認識において核心に位置してい
 たのは、「三種の神器」をいかに守り抜くか、ということであった。
・「独白録」においても昭和天皇は、終戦の「聖断」に踏み切るにあたって彼の「決心」
 を左右した要件として、「敵が伊勢湾附近に上陸すれば、伊勢熱田両神宮は直ちに敵の
 制圧下に入り、神器の移動の余裕はなく、その確保の見込みが立たない、これでは国体
 護持は難しい、故にこの際、私の一身は犠牲にしても講和をせねばならぬと思つた」と
 述べて、「国体の護持」とは「三種の神器」の確保に他ならないことを明らかにしてい
 るのである。    
・昭和天皇は、政府がポツダム宣言の「黙殺」を声明した三日後に木戸に対し、「伊勢と
 熱田の神器は結局自分の身近に御移して御守りするのが一番良いと思ふ。万一の場合に
 は自分が御守りして運命を共にする外ないと思う」と悲壮な決意を語っていたのである。
・「三種の神器」とは、「日本書紀」によれば、鏡、剣、玉の三種の宝物のことであるが、
 昭和天皇にとっては「皇祖皇宗よりお預かりしている」この神器は、「皇統二千六百年」
 の象徴であり、それを失い奪われることは、皇室と国体の消滅を意味するものと認識さ
 れていたのである。
・つまり、この「三種の神器」を守り抜くことこそが「事態の重要さ」の認識の核心にあ
 り、昭和天皇にとっては、この至上課題は”憲法を超越する”ものと捉えられていたので
 ある。かくして、問題のありかを以上のように整理することによって、なぜ昭和天皇は
 「象徴天皇」を規定した憲法が施行された後にあっても「高度に政治的な行為」を展開
 したのかという、根本的な問いへの答えが初めて明らかになってくるのである。
・敗戦から米軍による占領という、文字通り国家の最大の危機に直面した昭和天皇は、占
 領協力に徹することによって、戦犯としての訴追を免れ、皇室を守り抜くことに成功し
 たのであった。
・戦後直後の危機を切りぬけた昭和天皇にとって、次に直面した最大の危機は、天皇制の
 打倒を掲げる内外の共産主義の脅威であった。この脅威に対処するために昭和天皇が踏
 み切った道は、「外国軍」のよって天皇制を防衛するという安全保障の枠組みを構築す
 ることであった。
・「皇統二千六百年」の歴史に照らすならば、およそ夢想だにもできないこうした方向に
 昭和天皇をかりたてたものは、彼が現実政治に対処するにあたっての”透徹したリアリズ
 ム”であったろう。
・朝鮮戦争の休戦を3カ月後に控えた1953年4月、離任するロバート・マーフィー駐
 日大使と会見した昭和天皇は朝鮮半島と休戦をめぐる情勢について数多く質問を行い、
 戦争捕虜の交換をめぐる交渉が動き始めたような事態の展開が「日本の将来にいかなる
 インパクトを及ぼすかを危惧と当惑を持って見ている」と危機感を募らせた。天皇は、
 「朝鮮戦争の休戦や国際的な緊張緩和が、日本における米軍のプレゼンスにかかわる日
 本人の世論にどのような影響をもたらすのかを憂慮している」と述べ、より具体的に、
 「日本の一部からは、日本の領土から米軍の撤退を求める圧力が高まるであろうが、こ
 うしたことは不孝なことであり、日本の安全保障にとって米軍が引き続き駐留すること
 は絶対に必要なものと確信している」と、朝鮮半島情勢と日本の安全保障を直結させつ
 つ、米軍駐留の継続を訴えたのである。
・昭和天皇がここまで米軍駐留にこだわる背景には、彼が「ソヴィエトと共産中国の指導
 者達に対する不信」を明確に抱いており、「現在の脆弱な日本が共産主義者の策謀のタ
 ーゲットである」という情勢認識があったのである。
・昭和天皇が何よりも危惧したことは、こうした共産側の「平和攻勢」が国内世論を刺激
 し、当時各地で展開されていた「反基地闘争」などと結合して米軍撤退を求める政治的
 圧力が一気に高まるのではないか、ということであった。仮にそういう事態になれば、
 天皇制を防衛する最大の橋頭堡が崩壊し、昭和天皇は深刻な危機に直面することになる
 のである。だからこそ天皇はマーフィー駐日大使に、米軍駐留の”絶対的必要性”を訴え
 たのである。皮肉なことに、こうした昭和天皇の論理にたてば、米ソ間の緊張緩和は歓
 迎されざる事態であり、米軍の日本駐留を確保するためには緊張状態に持続が何よりも
 望ましい、という結論にならざるを得ないのである。   
・共産側の「平和攻勢」を深刻に危惧していた昭和天皇にとって、54年末に日本民主党
 の総裁鳩山一郎が政権の座についたことは、新たな危機の到来と感じられたことだろう。
 なぜなら、同党は憲法改正や「自衛軍の整備」を唱える一方で、「逐次駐留軍の撤退を
 可能ならしめること」を目指し、さらにソ連や中国を念頭においた「積極的自主外交」
 を推進することを中心課題として掲げてきたからである。
・こうして、翌55年6月から国交回復をめざした日ソ交渉が開始される一方で、8月に
 は重光葵外相が訪米してダレス国務長官との会談に臨むこととなった。この会談に向け
 て重光は、安保改定を企画した「日米相互防衛条約(試案)」を準備したが、その第五
 条では、「日本国内に配備されたアメリカが合衆国の軍隊は、この条約の効力の発生と
 ともに、撤退を開始するものとする」「アメリカ合衆国の陸軍及び海軍の一切の地上部
 隊は、日本国の防衛6箇年計画の完遂年度の終了後おそくも90日以内に、日本国より
 の撤退を完了するものとする」と明記されていたのである。まさに対米交渉に向けた重
 光の眼目は、米軍の全面撤退にあったのである。  
・ところで重光は、訪米する3日前に昭和天皇に「内奏」したが、彼の日記には、「渡米
 の使命について縷々内奏、陛下より日米協力反共の必要、駐屯軍の撤退は不可なり」と
 記されているのである。 
・いずれにせよ、昭和天皇はいかなる政治的責任において、「駐屯軍の撤退は不可なり」
 とった「高度に政治的判断」にたった発言を行ったのであろうか。この天皇発言が新憲
 法の規定に照らしていかに重大な意味を持っているのかということは、仮に天皇が所轄
 の大臣に対して全く逆に、「米軍の撤退を推進せよ」とか「安保条約を改定せよ」とか、
 あるいは「共産中国と直ちに国交回復せよ」と言明した場合を想定するならば、きわめ
 て明瞭であろう。
・とはいえ、天皇制の打倒をはかる内外の共産主義の脅威に危機感を募らせる昭和天皇の
 感覚からすれば、米軍の全面撤退の可能性を阻むということは、”超憲法的”な課題に他
 ならなかったはずなのである。
・58年10月に来日したニール・マケルロイ国防長官と昭和天皇が会見したときに、天
 皇は真っ先に、「強力のソ連の軍事力に鑑みて、北海道の脆弱性に懸念を持っている」
 と述べて意見を求めた。これに対し国防長官は「アメリカ政府は、アジア太平洋地域の
 平和と安定のために日米協力がとくに重要だと考えている」と答えた。天皇は直ちに、
 「日米協力が極めて重要だということに同意」し、「軍民両方の領域におけるアメリカ
 の日本に対する心からの援助に深く感謝」を示したという。 
・昭和天皇が「深い感謝」を表明した背景には、57年10月のソ連による人工衛星スプ
 ートニク1号の打ち上げ成功が米ソの軍事バランスを及ぼした「スプートニク・ショッ
 ク」や、57年には約12万人であった在日米軍が58年には約半数の6万8千人にま
 で削減されたという在日米軍をめぐる情勢変化もあった。いずれにせよ、強力がソ連軍
 が脆弱な北海道に侵攻するのではないかという昭和天皇の危機感は、80年代の「ソ連
 侵攻論」を”先取り”するかのようにである。
・1951年に安保条約が調印されて以降も昭和天皇は、安保体制や日本の防衛体制の枠
 組みがいささかなりとも揺らぐことに強い危機感を抱き、然るべきタイミングに然るべ
 き場を使って”チェック”を入れていた、と言って間違いないであろう。
・1973年5月に、「内奏」した増原防衛長官に対し昭和天皇が、「近隣諸国に比べ自
 衛隊がそんなに大きいとは思えない。国会でなぜ問題になっているのか」「防衛問題は
 むずかしいだろうが、国の守りは大事なので、旧軍の悪いところは真似せず、いいとこ
 ろを取り入れてしっかりやってほしい」と発言し、「政治的行為」ではないかと大問題
 になった例は、いわば ”氷山の一角”と言うべきであろう。
・97年に統一地方選挙が行われ、東京では美濃部亮吉が、大阪では黒田了一がそれぞれ
 知事に当選し、さらに横浜市長選挙では飛鳥田一雄が選ばれ、革新勢力の躍進という結
 果に終わった。そのときのことを元侍従のト部は、「東京。京都・大阪の三府を革新に
 奪われしは政府ショックならん」と感想を述べているのであるが、それに続いて「政変
 があるかと御下問あり」と、昭和天皇の反応を書き残している。
・昭和天皇には常に「内乱への恐怖」というものがあったと思う。戦後、象徴としての地
 位が安定した後もなお、革命が起こるかもしれないという恐怖を、ずっと持ち続けてい
 たのではないか。   
・議会制民主主義の枠組みがそれとして定着している中で行われている選挙、しかも地方
 選挙の結果について、いかに革新勢力が躍進したとはいえ、それを「政変」と結びつけ
 て危惧を表明するとは、尋常な感覚ではないと言わざるを得ない。まさに「内乱への恐
 怖」「革命が起きるかもしれないという恐怖」というものが、若い時代の体験を背景に、
 昭和天皇の考え方を呪縛し続けていたのであろう。
・天皇の認識からすれば、戦後政治における最大の「事態の重要さ」は共産主義の脅威で
 あり、この脅威に対して「皇祖皇宗よりお預かりしている三種の神器」を守り天皇制を
 防衛することこそが最上位に位置づけられるべき使命であり、そこにおいて憲法は自ら
 の「政治的行為」に伴うはずの政治責任を免れさせてくれる”ヴェール”であった。天
 皇がしばしば、自らは戦前も戦後も変わることなく立憲君主であったと自己規定する内
 実は、「事態の重要さ」に立ち向かうべく”超憲法的”に自らがイニシアティヴをとっ
 た場合を除いては、という意味に他ならないのである。  
・天皇の憲法認識を把握するためには、「独白録」が提示している二・二六事件と終戦の
 「聖断」という戦前・戦中の”二つの例外論”の周辺を論じているだけでは本質に迫れな
 いのであって、戦後の新憲法下における天皇の「政治的行為」を正面から分析すること
 が不可欠の作業なのである。
・昭和天皇は離任するマッカーサーに対し、「戦争裁判に対して貴司令官が執られた態度
 に付、此機会に謝意を表したいと思います」と述べたのである。つまり、自らは免訴さ
 れたが、東条英機を始めA級戦犯7名が処刑された東京裁判に関して、天皇は明確に
 「謝意」を表したのである。ここにも、個人感情を排した昭和天皇の”リアリズム”を
 見ることができるであろう。
・周知のように昭和天皇は、75年8月の三木武夫首相が靖国神社に参拝してから3カ月
 後の同11月21日に参拝して以来、一度たりとも参拝することはなく、その理由をめ
 ぐって様々な議論がなされてきた。
・88年4月、昭和天皇が、「私は、或る時に、A級戦犯が合祀され、その上、松岡、白
 取までもが。筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが、松平の子の今の宮司がどう考え
 たのか、易々と。松平は平和に強い考えがあったと思うのに、親の心子知らずと思って
 いる。だから、あれ以来参拝をしていない。それが私の心だ」と述べていたことが明ら
 かになった。ここでの「松岡」「白取」とは、共にA級戦犯で合祀された松岡洋右元外
 相と白鳥俊夫元駐伊大使を、また「筑波」とは、66年に厚生省からA級戦犯の祭神名
 票を受け取りながら合祀しなかった靖国神社宮司の筑波藤麿のことであろう。さらに
 「松平」とは、昭和天皇の「独白」にも立ち会った当時の宮内大臣の松平慶民であり、
 「松平の子」とは、78年10月にA級戦犯の合祀に踏み切った靖国神社宮司の松平永
 芳を指すとみられる。
・つまり、昭和天皇がA級戦犯の合祀に慎重な姿勢を崩さなかった筑波宮司を高く評価し、
 合祀に踏み切った松平宮司を厳しく非難し、「私の心」として、このA級戦犯合祀問題
 こそが、靖国神社への参拝を中止した理由であることを自ら語っていたことが示された
 のである。
・故松平宮司は遺族の了解をとらず、天皇の内意も確かめず、密かにA級戦犯を合祀して
 しまった。東京裁判を全否定する松平宮司の信念はともかく、必要な手続きを踏まずに
 まつるべきではなかった。
・敗戦直後からの戦犯訴追の危機を、「すべての責任を東条にしょっかぶせるがよい」と
 いう基本路線にたって”日米合作”で東京裁判を切り抜け、その後の共産主義の脅威に対
 しては、沖縄の米軍支配と安保条約による日本の防衛という体制を築きあげるために、
 昭和天皇は全力を傾注したのである。こうした天皇にとっては、東京裁判と安保体制は、
 「三種の神器」に象徴される天皇制を防衛するという歴史的な使命を果たすうえで、不
 可分離の関係に立つものであった。
・こうして「御意」を成就すべく昭和天皇の側近として文字通り奔走した”忠臣”の一人が
 宮内大臣の松平慶民であった。ところが、その「子」の松平永芳は、親の苦労も知らぬ
 げに、「東京裁判史観を否定しないかぎり、日本の精神復興はできない」といった「信
 念」を掲げてA級戦犯の合祀に踏み切ったのである。
・しかし、この合祀は、東京裁判の受諾と安保体制の構築を不可分離とする昭和天皇の構
 図の根幹を揺るがすものであった。つまり、A級戦犯の合祀は「御意」に反する行為に
 他ならないのである。だからこそ天皇は、「親の心子知らず」と松平永芳を文字通り叱
 責したのであった。
・この々松平永芳が、近年の右派の議論では、「東京裁判史観の否定」という「信念」を
 貫いた存在として”英雄視”されているのである。かくして、昭和天皇が「親の心子知ら
 ず」と叱責し、天皇の側近中の側近が「大馬鹿」と決め付ける人物が、右派の”英雄”
 に祭り上げられているという、異様な”ねじれ”現象が生じているのである。
・靖国問題をめぐっては、こうした”ねじれ”が様々なレベルで錯綜して現れている。例え
 ば、同じ右派の議論においては、東京裁判を厳しく非難する一方で、その裁判そのもの
 を”演出”した米国が日本に”押し付けた”ところの安保条約については、いたすらこれを
 支持する、という奇妙な”ねじれ”現象が見られるのである。
・かつて「無条件降伏」論争を提起した作家の江藤淳は、東京裁判史観が戦後日本の思想
 空間を支配してきたと断じ、安保条約をも批判の俎上にのせた、いわく、安保条約にお
 いて米国が日本に求めているのは「アメリカの世界戦略の一部分としての機能を果たす
 ことのみ」であり、従って安保条約のもとでの平和は「家畜の平和」に他ならないと。
 つまり、東京裁判史観が安保条約そのものばかりではなく、同条約をめぐる日本の政治
 と世論状況をも”呪縛”している、と主張したのである。
・靖国神社は明治2年に「明治天皇の思し召しによって建てられた東京招魂社が始まり」
 であって、明治12年に「靖国神社」と改称され今日に至っているのであるが、その
 「靖国」という社号も明治天皇の命名による、とのことである。また、戦前においては
 同神社への合祀は、陸軍・海軍で審査・内定され、天皇の勅許を経て決定される、とい
 う手続きが定められていた。さらに同神社では、「陛下親しく参拝の礼を尽くさせ賜う」
 ことによって重要な祭典が執り行われてきた。このように靖国神社は、伝統的な神社神
 道を皇室神道によって改変して国家神道を創出した”シンブル”として、当然のことなが
 ら、天皇という”存在”なしにはそのアイデンティティを維持し得ない神社なのである。
・靖国神社は右派にとっては”存在証明”そのものとも言える最大の精神的支柱なのである。
 ここでも、天皇の”不存在”が際立つ靖国神社が同時に右派の精神的支柱である、という
 奇妙な”ねじれ”が生まれている。しかも、右派が「東京裁判史観」の否定」を掲げA級
 戦犯合祀の正当性を叫べば叫ぶほど、いよいよ天皇の靖国参拝は遠のき、靖国神社にお
 ける天皇の”存在”は限りなく希薄になっていくという、救いがたいジレンマにはまり込
 んでいるのである。
・複雑な背景を持った靖国問題に一層の混乱を持ち込んだのが、自民党総裁選挙での票を
 獲得するために靖国参拝を政治的に利用しようとした小泉元首相であり、問題は国内ば
 かりでなく、何より近隣諸国との軋轢を激化させる事態を招いた。 
・饒舌な小泉も靖国問題の核心についてはあえて避けて通り、全く触れようとはしなかっ
 た。それは、平和を祈念し国のために殉じた戦没者の御霊に「哀悼の誠を捧げる」とい
 うきわめて「自然なこと」を、なぜ長期にわたって天皇が行ってこなかったのか、とい
 う問題である。この重大な問題への問いかけを小泉が忌避したのは、この問題を振り下
 げれば掘り下げるほど、自らの参拝が文字通りの政治的パフォーマンスに過ぎず、およ
 そ「哀悼の誠」とは無縁な行動であることが明らかとなるからであった。靖国問題にお
 いて首相のなすべき職責は、天皇が参拝できる環境をつくり上げることではないか、と
 いう当然の疑問に正面から向き合いたくなかったからである。
・あるいは小泉は、自らの参拝が内外に大きな波紋を引き起こすことによって天皇の参拝
 がいよいよあり得ない事態となるであろうことを読み込んだうえで、靖国神社にかかわ
 って本来なら天皇が果たすべき役割を、政治家としての首相が取って代わって遂行すべ
 し、とった”構想”を抱いていたのであろうか。つまりは、「天皇なき靖国神社」という
 ”構想”である。しかしこれは、言うまでもなく靖国神社のあり方そのものを根柢から覆
 すものである。ただ、いずれにせよ明らかなことは、そもそも靖国神社の歴史も知らず、
 ただ日本遺族会への「公約」を果たすという”狭隘な視野”しか持ち合わせていない小泉
 にあっては、問題のありかを突き詰めるならばこうした”構想”にまで至るといったこと
 は頭に片鱗にも思い浮かばなかったのであろう、ということである。
・そもそも太平洋戦争は昭和天皇の「意を体した」戦争であったのであろうか。改めて、
 天皇の「肉声を記録」した「独白録」を見直すと対英米蘭戦争の開始を決した1941
 年12月の御前会議について天皇は、「閣僚と統帥部との合同の御前会議が開かれ、戦
 争に決定した、その時は反対しても無駄だと思つたから、一言も云わなかつた」と述べ
 ている。つまり昭和天皇は、あの戦争については「反対」であった、自らの「意に反し
 た」戦争であった、と述懷しているのである。
・仮にこの「肉声」に従うならば、そもそも天皇の「意に反した戦争」に赴いて犠牲とな
 った戦没者達は、いかなる意味で「英霊」なのであろうか。おちろん、天皇の意思に関
 係なく、御前会議という天皇が臨席した会議による”機関決定”さえあれば「聖戦」とな
 り得るのだ、という議論もあるであろう。
・問題は、昭和天皇の「独白」にあるだけではない。昭和天皇が逝去して以来今日に至る
 まで、主要なメディアはもちろん、「自存自衛の戦争」を掲げる「靖国イデオロギー」
 の担い手たちにも、「昭和天皇は平和主義者であった」「昭和天皇は戦争に反対であっ
 た」との主張が多々見られるのである。つまり、「天皇の意を体した戦争」に殉じたは
 ずの「英霊」たちは今や、実はあの戦争は「天皇の意に反した戦争であった」と宣告さ
 れているのである。これほどの欺瞞と悲劇性があるであろうか。
・戦後の日本は、根本的な”ねじれ”の問題を正面から問い詰めることなく、60年以上も
 の年月を過ごしてきたのである。ここの、靖国問題に象徴される歴史認識に関わる諸問
 題をめぐって、今日に至るまで国内においても、諸外国との関係においても、たえず軋
 轢を繰り返してきた根源を見ることができるであろう。 
・もちろん、戦後日本において戦争の問題を根本的に問い詰めることを困難にしてきた重
 大な背景は、”戦争のシンボル”であった昭和天皇が”平和と民主主義のシンボル”として
 天皇の地位を維持し、かくて戦前と戦後の”継続性”が確保されたところにあった。
 たしかに昭和天皇は、例えばマッカーサーが厚木に乗り込んでくる前日に木戸に対し、
 「自分が一人ひき受けて退位でもして納める訳には行かないだろうか」と漏らしたよう
 に、退位をすることによって”全責任をとる”覚悟を持っていたであろう。しかし、マッ
 カーサーや吉田茂の強い反対によって、それは実現しなかった
・ただ、単に周辺の反対があっただけではなく昭和天皇自らが退位に抵抗したことが明ら
 かになってきた。その大きな理由は、当時の皇太子が天皇に即位した場合には、その年
 齢からして当然のことながら摂政がおかれる必要があったが、その最有力の候補者が弟
 宮の高松宮であった、ということである。 
・自分の地位がおびやかされるんじゃないかという不安にたえず苛まれていた昭和天皇が
 高松宮に警戒心を抱き、両者の根深い確執が、戦前・戦中ばかりではなく戦後において
 も長期にわたって続いていたことを詳細に論じている。
・旧憲法から新憲法へ、戦争の時代から戦後の平和の時代への大きな転換点において、昭
 和天皇が退位することなくその地位を引き続き維持したことによって、時代を画する
 ”けじめ”が失われることになった。とはいえこの問題は、昭和天皇の”責任”だけを問う
 て済む問題ではないであろう。敗戦の前後から、当時の指導者層が「東条一派」に全て
 の責任をかぶせて”生き残り”をはかった。  
・報道の自由と天皇制批判の自由が付与されたにもかかわらず、当時の主要新聞において
 は、昭和天皇に関する報道表現は、敗戦を経ても何ひとつ変わるところはなかったので
 ある。こうして新聞の報道姿勢が世論にいかに大きな影響を及びしたか、想像に難くな
 い。
・他方で主要新聞は、戦争責任問題については、「知れ軍国主義者の罪」とか「最も侵略
 的、冒険的な要素、東条閥」といった表現を駆使して、「東条一派」とそれに連なる一
 部の軍閥、財閥に全ての責任を被せる一方で、戦争を煽り世論を動員した自らの責任を
 何一つ問い詰めることはなかった。
・たしかに、戦争に反対して獄中にあったり追放に処されたり沈黙を呼びなくされていた
 「民主勢力」「革新勢力」「社会主義勢力」などが復活を果たすに伴って、本格的な戦
 争責任の追及や天皇制への批判が展開され始めた。しかし、これら諸勢力にあっても、
 アジアへの加害責任や沖縄の戦後処理といった重大な諸問題への意識は概して希薄なも
 のであった。
・昭和の時代を引き継いだ現在の明仁天皇の立ち位置を考えてみよう。まず彼が1989
 年の即位の礼において述べた「お言葉」を振り返ってみると、そこで明仁天皇は、「常
 に国民の幸福を願いつつ、日本国民統合の象徴としての務めを果たすことを誓い、国民
 の叡智とたゆみない努力によって、我が国が一層の発展を遂げ、国際社会の友好と平和、
 人類の福祉と繁栄に寄与することを切に希望いたします」と国民に語りかけた。
・自ら「憲法の子」と任ずると言われるように、「日本国憲法の遵守」を明確に掲げたと
 ころがきわめて印象的であるが、その前提として、明仁天皇の言動には、悲惨な戦争の
 過去への痛切な反省の気持ちを見ることができる。 
・かつて、8月6日(広島原爆忌)、8月9日(長崎原爆忌)8月15日(終戦の日)に
 加えて、「沖縄慰霊の日」である6月23日をも「忘れることのできない日付」と述べ
 たことがあったが、現に天皇一家は毎年6月23日に祈りを捧げっていると言われる。
 明仁天皇にとって沖縄は、父親の戦争責任とのかかわりにおいて、文字通り”贖罪の島”
 とみなされているのであろう。翻って、およそ本土において、どれだけの政治家が「沖
 縄慰霊の日」に同様の祈りを捧げているであろうか。
・明仁天皇にあっては戦争への反省は決して”内向き”のものではなく、例えば1990年
 5月に韓国の盧泰愚大統領が来日した際には、「我が国によってもたらされたこの不幸
 な時期に、貴国の人々が味わされた苦しみを思い、私は痛惜の念を禁じえません」と語
 った。さらに92年10月に中国を訪問した時には、「我が国が中国国民に対し多大の
 苦難を与えた不幸な一時期がありました。これは私の深く悲しみとするところでありま
 す」と、踏み込んだ「お言葉」を読み上げた。
・また天皇は、靖国神社への参拝は全く行わない一方で、「慰霊の旅」として各地の激戦
 地に赴いて戦没者への慰霊を続けている。しかも、例えば2005年6月に訪れたサイ
 パン島では、韓国人戦没者の「追悼平和塔」をも訪ねて黙祷を捧げた。
・憲法をひたすら遵守し、戦争の過去を痛切に反省し、「アジアの中の日本」を何よりも
 重視し、さらには「国際社会の友好と平和、人類の福祉と繁栄に寄与する」ことを切望
 する明仁天皇の基本的立場は、戦後の日本が歩むべき道であったばかりではなく、今後
 の日本が進むべき方向性をも示す文字通りの「象徴」であり、皮肉な表現の使うならば、
 昭和天皇が残した”最も重要な遺産”と言うべきではなかろうか。