沖縄密約 :西山太吉

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この本は、いまから16年前の2007年に刊行されたものだ。
先般、この著者の訃報に接し、改めて沖縄密約とはなんであったのかを知りたくなって、
この本を手にした。
沖縄密約というと、沖縄返還時に当時の日本の佐藤政権と米国のニクソン政権の間で取り
交わされた密約なのだが、私はこの密約は「核の持込みに関する密約」との認識しか持っ
ていなかった。しかし、この本を読んでみると、この密約は核の持込みに関するものばか
りでなく、返還後の「米軍基地の自由使用」や、「返還に伴う巨額の費用」を日本が肩代
わりするという他にも重大な内容も含まれていたことをはじめて知った。そしてそれは、
「おもりやり予算」に代表されるように、日本における米軍基地のその後の在り方をも決
定づけるものであったようだ。
沖縄返還は、佐藤栄作首相が政治生命をかけて取り組んだ政治的野望だったといわれる。
もちろん、沖縄返還は、日本国民全体にとっても念願であったのであるが、しかし、自分
の政権で成し遂げたいという期限付きでの返還交渉には、米側に多くの譲歩が必要だった
ようだ。そしてその譲歩の多くは、日本国民にはなかなか受け入れ難いものだったのだ。
佐藤首相は、米側に譲歩する代わりに、そのことを秘密にしてもらうという手法を取った。
しかし、いくら沖縄の返還のためとはいえ、主権者たる国民にウソをつき騙すというやり
方は、果たして民主国家を標榜する国の政府がやることなのだろうか。この著者は一貫し
てこのことを訴えつづけてきたのだと思う。
この著者は自分の人生をかけてその密約の存在を暴露したのだが、密約情報の入手時に外
務省の女性事務官と肉体関係を持って密約文書を持ち出させたことが明らとなり、そのス
キャンダルのほうに国民の関心が集中してしまい、重大な問題をはらんだ密約のほうには
国民の関心は向かなかったのだ。哀しいかな日本国民の民意度は、結局、その程度だった
のだ。
よく言われることだが、日本の民主主義は上から与えられたものであり、形式上は民衆が
主権者ではあるが、実態は統治の被治者であり、主体ではないのだ。戦後から現在にまで
至る日本の政治には、真の民主主義など存在しなかったと言えるだろう。

なお、この沖縄密約の漏洩事件(西山事件)は、「運命の人」(山崎豊子著)という小説
になっている。また、「密約―外務省機密漏洩事件」(澤地久枝著)のノンフィクション
作品も出ている。さらには映画化やテレビドラマ化もされているようだ。


経緯
・1971年月に調印、翌72年5月に発行した沖縄返還協定において、米軍用地復元補
 償費400万ドルは、米側が日本へ「自発的支払を行なう」と記されていた・
 だが、この問題につき、著者は日本側による”肩代わり”の事実を外務省女性事務官から
 入手した極秘電信文により突きとめた。
 著者から受け取った同電信文をもとに、社会党の横路孝弘衆院議員が「密約」の存在に
 ついて政府を追及した。
・著者と女性事務官は国家公務員法違反容疑で逮捕され、「知る権利」を守れとの世論が
 高まったものの、両者の個人的関係が起訴状に記載されたのを契機に、焦点が「沖縄密
 約」から「機密漏洩」へとすり替えられる形となった。
・事務官は一審で有罪、控訴せず確定した。
 著者は一審で無罪、二審で逆転有罪となり、1978年6月に最高裁で確定した。
・だが、2000年5月、2006年6月に「密約」を裏づける米公文書が見つかる。
 2005年4月に著者は謝罪と損害賠償を求めて国を提訴した。
    
はじめに
・東京地裁は2007年3月、私が国を相手に起こした「沖縄密約」をめぐる名誉棄損損
 害賠償請求の裁判で、請求棄却の判決を下した。
・かつての三十数年前の刑事事件でも、この「沖縄密約」の違法性は「機密漏洩」にすり
 替えられることによって、なんら究明されることなく終わった。
 目の前に歴然たる証拠があるにもかかわらず、捜査は意図的に回避され、その真実は政
 府側による広範な”偽証”とそれに基づく検察の裁判妨害により徹底的に陰蔽されたので
 ある。 
・私は、今度の裁判の過程で沖縄密約なるものの全貌をつかむことができた。
 それは、二、三の密約に限定さえるべきものではなく、沖縄返還全体を包み隠す巨大な
 虚構といえるほどのものであった。
 また、この虚構は、単なる一過性のものではなく、現在進行中の日米軍事再編、つまり
 日米軍事一体化の形成につながるその後の日本の外交、安全保障を方向づける起点とい
 えるものであった。

「沖縄返還」問題の登場
・佐藤栄作内閣の七年八ヵ月に及ぶ治政は、まさに「沖縄にはじまり」そして「沖縄で終
 わった」といえる。
 その佐藤首相が、政治生命をかけて沖縄の施政権返還に取り組むに至った事情とは何だ
 ったのか。
・佐藤首相の密使として沖縄返還の裏交渉にあたった若泉敬ですから、その遺著で次のよ
 うに書いている。
 「佐藤栄作が成し遂げた沖縄返還にも、いまだに解明されないまま残されている空白の
 部分が少なからずある。なぜ、佐藤が”沖縄”に踏み切ったのか。これがまず、素朴な疑
 問であるが、それに対する答えはいまだに出ていない」
 しかしながら、この問題については、池田勇人政治から佐藤栄作政治への政権移行の過
 程と佐藤自身の政治的イデオロギーの解明によって、ある程度の回答を引き出すことが
 できる。
・吉田学校の優等生と自任する佐藤にとって”寛容と忍耐”とか”低姿勢”というフレーズ自
 体が気に入らない。
 「池田がやらないのなら、おれがやってやる」という気負いが、佐藤をして沖縄の施政
 権返還を取りあげさせたという面も、あながち否定できないのである。
・佐藤には「池田内閣は、これが作ってやった」という自負があった。佐藤は池田内閣の
 誕生を喜んでいた。裏を返せば、「次はおれの番だ」という自信にあふれていたのであ
 る。 
・問題は、佐藤の去就であった。党には”目の上のコブ”的存在である大野が副総裁として
 にらみをきかせ、一方の内閣には、これまた”犬猿の仲”の河野が幅をきかす。こうした
 状況の急変の際し、佐藤は入閣しないのではないかという観測が流れた。池田とその周
 辺は、結局、「他の実力者より要職の、通産大臣だったら受けるのではないか」という
 ことになり、佐藤通産でなんとか入閣をとりつけた。
・しかし、池田−佐藤の提携は、これで一応ピリオドを打った。当時、政界では、池田は
 近い友人(佐藤)から遠い他人(河野)へ馬を乗り替えたという「たとえ話」が流行っ
 たものである。
 池田にしてみれば基本政策推進のために党結集をはかるのは当然至極ということになる
 が、一方の佐藤は、これを「恩を仇で返す」離反とみなし、こうした両者の激しい対立
 関係が池田へアンチテーゼとしての沖縄問題への傾斜を一掃促すことになる。
・さらにいえば、沖縄問題選択の背景には、総理大臣として後世に名を残すほどの業績を
 あげようとする場合、その選択肢は、自ずと限られるという特殊な事情もあった。
・佐藤が次に打った手は、戦後初の首相による沖縄訪問であった。
 1965年8月に三日間の予定で那覇空港に降り立った佐藤は
 「沖縄の祖国復帰が実現しないかぎり、わが国にとって戦後が終わっていないことをよ
 く承知している」
 という一躍有名になったあのスピーチを、出迎えた多くの沖縄住民に胸を張って告げた
 のである。 
・しかし、この時すでに米国は北爆(北ベトナム爆撃)を本格化し、当時、”死の鳥”と呼
 ばれたB52爆撃機も1965年7月に”台風避難”を理由に沖縄に飛来し、68年から
 の”常駐”への道筋をつけた。
 これに対し佐藤内閣は「ベトナム問題は極東の安全に重大な脅威を与えるものであり、
 B52の沖縄発進は日米安保条約に違反するものではない」と言明し、「常駐でないか
 ら”と配置の重大変更にはあたらない。だから、今後とも飛来中止は申し入れない」と
 言明した。
・1967年になると、沖縄返還はいよいよ予備交渉の段階に入る。
 日本国内では2月に下田武三外務事務次官の「米軍基地の自由使用を認めるかどうかの
 具体策を打ち出すことが返還問題の前提」という趣旨の発言が注目され、論議を呼んだ。
 そして、9月末に、その後の沖縄交渉の進展に決定的ともいえる役割を担うことになる
 極秘のルートがスタートを切る。
 このことは、当の二、三人を除いてメディアのだれ一人知らず、外務省を含む政府内部
 でもおそらく誰一人知っていなかったはずだ。
・ここで、闇の”仕掛人”として関与してくるのが、役人でも民間人でもない、驚くなかれ、
 与党、自民党をあずかる福田赳夫幹事長であった。
 その福田が”隠密”として佐藤に推挙した人物こそが若泉敬であった。 
・福田赳夫は、一高−東大−大蔵省という超エリート・コースをたどった典型的な秀才。
 最高権力をめざして「ロイヤル・ロードをひた走りに走る」という形容は、まさに、こ
 の福田にピッタリの賛辞といっても過言ではなかった。
 しかし、福田は昭電(昭和電工)疑獄(1948年)にひっかかって、一時、挫折する。
・その間に、少し先輩の池田は、吉田首相に目をかけられて、一躍、大蔵大臣の的を射る
 という、まさに”三段飛び”の出世をやってのけた。
 一方、疑獄で無罪となって政界入りし、岸派に身を投じた福田が、この池田の栄達を見
 て快く思わなかったことは、同じ省の出身だけに当然の成り行きでもあった。
 福田にしてみれば、”傍流”の池田の出世は、単に運に恵まれたとしか映らなかった。
・福田で忘れられないの特色の一つは、”ワン・フレーズ”のアピールを駆使したことだ。
 池田政治を”昭和元禄調”と断じたのは、その典型だ。(福田門下の小泉純一郎・前首相
 もワン・フレーズを得意とした)
・福田は池田政治を”無責任、無気力の元禄調と断定し、
 「”寛容と忍耐”に名を借りて当然なさねばならぬ大事なことがほとんど回避されている」
 「物価と国際収支は空前の困難に直面し、また国民各層に格差感が植え付けられつつあ
 る」
 「ここまで日本経済を持ち込んだ原因は国民消費の伸びすぎにあり、消費過剰にある」
 「高度成長思想の清算から出直さなければならない」
 と攻撃の手を緩めなかった。ともかく、福田は佐藤のために奮迅の活躍をする。
・ところで、福田はなぜ、国の正式な外交機関である外務省をはずした別個の秘密外交を
 佐藤に進言し、それを実行させたのであろうか。
・若泉の遺著によると、基本問題についての日米間の考え方の違いは、かなりのものがあ
 り、日本側が希望する返還時期のメドづけに米側が簡単に応じるような情勢ではなかっ
 たという。つまり、ベトナム戦争など極めて困難なアジア情勢を背景に、米側が沖縄基
 地の態様や日本の政治責任についての見解を厳しく問い質したのに対し、日本側は佐藤
 の慎重な方針もあって、それらについてのなんらかの明確な回答を示すことができなか
 ったのである。  
・佐藤が政治生命をかけた沖縄返還が成功するかどうかは、佐藤に直結してポスト佐藤を
 うかがう有力な候補にのし上がった福田にとっても死活の問題であった。
・福田が強く意識していたのは、”反主流”の三木ではなく、ほかならぬ佐藤派最高幹部の
 田中角栄であった。
 福田は池田内閣では徹底的に干されたが、田中は、政調会長のあと最重要ポストの蔵相
 を最後までつとめ上げ、盟友で外相となった大平と田中−大平ラインを形成するなど、
 すでに地位、実績両面で福田を大きく引き離していた。

・佐藤は若泉に対し、「二、三年内に返還時期を決められるよう、なんとか頼み込んでく
 れ」と、この時ばかりは腰を低くして懇願したという。
 しかし、依然、米国を取り囲む情勢はきびしく、それどころか、ますます悪化の一途を
 たどっていった。
 ベトナム反戦の運動は、米国内でも燎原の火のような拡がりを見せていた。 
・ここで救いの手を差し伸べてくれたのが、若泉が唯一、頼りとするロストウ大統領特別
 補佐官であった。
 重大な外交政策について、米国では国務省よりはホワイトハウスが最終的決定権を握り、
 福田も若泉からの情報で、そのことを十分知っていたからこそ、ホワイトハウスに近づ
 くことのできる若泉を選んだのだが、ロストウは、その中で、ジョンソン大統領の最も
 信頼する有能な補佐官であった。

・1968年3月、突如、世界を震撼させる事件が起こった。ジョンソンが米国の一方的
 な北爆停止、北ベトナムに対する和平交渉の呼びかけ、次期大統領選への不出馬を内容
 とする重要演説を行ったのだ。
 このジョンソンの政策転換に対する北ベトナム側の対応が注目されたが、ホーチミンは
 依然、山の如く動かず、南ベトナム解放民族戦線の活動は、なんら衰えることはなかっ
 た。後にニクソン政権は、こうした動きに業を煮やし、一時的であれ、再び強硬路線に
 戻るのだが、北側は南ベトナム政府という”傀儡”政権の存在を前提とした話し合いには
 一切、入ろうとしなかった。
・ホーチミンの指揮するベトミン(ベトナム独立同盟会)は、日本の敗北に伴い無政府状
 態となったのに乗じて、ベトナム全域を支配することができた。
 1945年8月29日、ホーチミンはベトナム民主共和国臨時政府を組織し、9月にハ
 ノイ市でベトナムの独立と民主共和国の樹立を宣言した。つまり、60年余り前、すで
 にベトナムは独立国家として出発しようとしていたのである。
 しかし、この国家はその後、中国とイギリスによる分割占領を経て、フランスの植民地
 奪回のための侵攻、さらにそれに続くアメリカの軍事介入など、ベトナムの歴史的・社
 会的現実をまったく無視した。
 結局、その独立を取り戻すまでに30年もの長い年月を必要としたのであった。その間
 に払われた犠牲は、今のイラク戦争の比ではなく、その後遺症はいまなお続いている。
・私は、1975年4月に南ベトナム政府が崩壊し、アメリカ人がサイゴン空港から最後
 の飛行機に飛び乗って逃げていく、あのあわれな姿を映像で見て、教条主義。一国主義
 にとりつかれたアメリカの政治指導者の無能ぶりを垣間見る思いがした。
 イラクでフセインを裁くなら、ベトナム戦争を指導したアメリカの指導者もまた、裁か
 れて然るべきであった。そして、そのアメリカを沖縄返還の代償を口実にいまのイラク
 戦争同様、全面的にバックアップした日本の指導者たちも歴史における検証の場に立た
 せなくてはならない。   
・1968年11月19日の早朝、突如米軍の嘉手納空軍基地の方角から大音響が轟くわ
 たり、キノコ雲のような炎が立ちのぼった。周囲の民家の何軒かの窓ガラスは粉々に飛
 び散り、住民たちは戦争が起こったのかとばかり、右往左往の大騒ぎとなった。すでに
 2月から編隊規模で常駐するようになっていたB52が、爆弾を積んでベトナムに向け
 発進しようとする寸前、大爆発を起こし、炎上したのである。
・1969年初頭に発足したニクソン政権は、ジョンソン政権によって延期されていた沖
 縄返還について決定を下す必要性に直面していた。
 沖縄問題と日米関係について取り組む必要性は、米国の中で広く認識されていた。また、
 佐藤首相は沖縄問題の解決に彼の政治生命を賭けただけではなく、沖縄の問題はB52
 爆撃機の存在に対するゼネラル・ストライキの可能性を含め、険悪なレベルに達してい
 た。 
・ジョンソンからニクソンへの政権移行にともない、沖縄返還は、いよいよ本格交渉の段
 階に入る。
 その際に、日本側にとって期待の持てる要因の一つは、ニクソンがかなりの知日派とい
 うか日本に縁のある人物であったという点だ。
 佐藤の兄の岸信介は、アイゼンハワー元大統領当時の副大統領だったニクソンとはつき
 合いがあり、またニクソンも大統領選でケネディに敗れた後、たびたび来日し、佐藤と
 も面識があった。
・三木武夫は、沖縄問題について、いわゆる”本土並み”を強く主張した。
 すなわち、沖縄の米軍の行動については日米安保条約の「事前協議」を厳格に適用し、
 米側の求める完全な「自由使用」には歯止めをかけるべきだというのだ。
 これに対し、佐藤は、「認識不足も甚だしい」と気色ばんだ調子で反論した。
・佐藤は米側の厳しい要求を想定して、この時点ではまだ態度を決めかねていたのだ。
 ”核付き自由使用”か、”核抜き自由使用”か、”核抜き本土並み”か。いずれにせよ、白紙
 に墨を入れなければならない時は刻々と近づいてくる。
・ここで、若泉とは別に、もう一人の密使が登場する。しかも、その人物は、よりによっ
 て若泉と同じ京都産業大学教授の高瀬保であった。
・1968年11月、高瀬は佐藤首相の特命を受けて東京を飛び立った。その時の佐藤首
 相の決断は、”日本側が譲歩しよう。核付き、基地の自由使用まで後退しよう。その腹
 づもりで会ってほしい”とのことであったという。
・しかし、その譲歩案を知った賀屋興宣氏が反対した。賀屋の意見は次のとおりであった。
 ”日米安保条約を沖縄にも本土並みで適用しないと、今後日本国内で大変な政治的問題
 になる”
・佐藤は、沖縄返還は”核抜き本土並み”を基本方針とすることを明らかにする。
・米側の系統立った計画的なやり方に比べ、日本側のそれは、まさに対照的だった。
 外務、大蔵、そして密使の三者が相互の意思の疎通もなく、それぞれの思惑の下、バラ
 バラで交渉に臨んだ。
 
核持ち込みと基地自由使用
・1969年11月、沖縄の”72年返還”を決めた日米共同声明発表のあとのワシントン
 での記者会見で、佐藤首相は突然、やや興奮した面持ちで
 「ニクソン大統領との間には、トップ・シークレットがある。ここで、それをいうわけ
 にはいかない」と発言した。よほど嬉しかったのだろうか。ついつい本当のことを口走
 ってしまったのだ。 
・佐藤はすでに、非核三原則を日本の国是とすることを内外に宣言していたが、それはあ
 くまで政権浮揚のための建前であって、実際に考えていることは、そのようなものでは
 なかった。
・2001年に発見された米公文書により、佐藤が米高官に
 「非核なんてナンセンスだ」
 と述べていたことが発覚。
 これを知った歴史家のオイビン・ステネルセンが
 「佐藤にノーベル賞を与えたのはノーベル賞委員会の最大の誤り」と語って、大いに世
 間を騒がせたことがあった。
・米ソを対極とする核兵器による”恐怖の均衡”下にあって、日本は核抑止力を米国に依存
 した。
 にもかかわらず、佐藤は国内情勢に対応する意味で、あえて政策手段として”米国依存”
 とは矛盾しかねない非核三原則を採用した。
 この佐藤の立場からすれば、仮に沖縄交渉でその原則に反するような事態が起きれば、
 当然、退陣を余儀なくされるだろう。
 だから日本側は、なによりもまず”核抜き”を交渉の最優先課題として持ち出してくるだ
 ろうというのが米国の予想だった。
・一方、沖縄の戦術核、とくに「メースB」は、核戦略上は、その重要性をしだいに失い
 つつあった。冷戦下、核弾頭および運搬手段の急速な発達により、大陸間の長距離弾道
 弾あるいは原子力潜水艦からの中距離弾道弾が米ソの核戦略体系の中枢を占めるように
 なっていた。 
・沖縄交渉における米側の最重点目標は、米軍基地が従来通り、自由に使用できる状態を
 維持することにあった。”核抜き”への対応は、この事実上の自由使用を勝ち取るための
 カードの役割を果たしたのである。
・米側が施政権返還に応じたのは、沖縄の基地の価値の相対的減少を見込んだ上でのこと
 ではなく、あくまでも「基地の使用を継続する最善の方法」とみなしていたからにほか
 ならない。
 「沖縄だけでなく、日本本土で利用可能な米国軍施設の使用を最大限にするため、沖縄
 返還への合意が必要である」と述べているように、”本土の沖縄化”と呼ばれているもの
 への強い期待があった。あるいは、この点が沖縄返還の核心だったかもしれない。
・そこで考え出されたのが、形式上は日米安保条約を適用して”本土並み”とするが、日本
 側が共同声明およびその声明と一体となる総理大臣の記者会見を通して、米側が望む特
 定地域への軍事行動の”自由”実質的に保障するというやり方であった。
 日米安保条約の例外として特別の取決めを結ぼうとすれば、おそらく日本の野党勢力は
 それこそ”本土の沖縄化”を具現するものとして猛反対し、第二の安保闘争をもたらしか
 ねない。こうした日本側の事情を読んで、米側は一時”密約”の必要性を説いたという。
・佐藤は、”核抜き”には執着したが、実質”自由使用”を示唆するような生命の文言にはあ
 まりこだわらず、簡単に応じたという。
・佐藤は記者会見で次のように考え方を説明したのである。
 「韓国に対し武力攻撃が発生し、これに対処するため米軍が日本国内の施設区域を戦闘
 作戦行動の発進基地として使用しなければならないような事態が生じた場合には、日本
 政府はこのような認識に立って事前協議に対して前向きかつすみやかに態度を決定する
 方針である」 
 まさに”事前協議”における”イエス”の予約である。
・米側が沖縄の基地の態様を最重要視したのは、そのことがすなわち日本全土の基地の態
 様につながり、これまでかなりの制約を感じていた米軍の軍事行動全体に新たなる機会
 と展望をもたらすことになるとの期待からであった。
 そして、<日米安保共同宣言−周辺事態法−日米軍事再編>といういつ連の安保変質ラ
 インへの連動の基礎を固めるものちなったのである。
 現在、沖縄からイラクなどにもなんらの制約もなく自由に発信しているのは、この連動
 の延長線上の必然的帰結である。
 
財政負担の虚構
・琉球政府予算の赤字は、米国援助の削減や経済成長見通しの誤りなどにより1967年
 から発生した。この赤字は、予算の承認権が米民政府にある上、米国からの援助の削減
 によってもらされた面もあるので、返還にあたって当然、米側が清算の上、引き継ぐの
 が常識であるというのが日本側の言い分だった。
 ところが、これに対してで米側は、またもや米資産買取り問題を持ち出してきた。つま
 り、買取り額算定にあたってガリオア援助分を差し引いたので、その見返りに琉球政府
 の赤字は、すべて日本政府が処理してくれというのである。
 結局、ここでも日本側は”泣き寝入り”し、米側主張をのむことになる。
・福田赳夫は「核」については佐藤に紹介した若泉にまかせ、一方の財政問題は自らが直
 接、指揮することによって解決するという”両面作戦”により、あえて”火中の栗を拾う
 ”挙に出たのである。
 もしこれがうまくいけば、沖縄返還に政治生命をかけている佐藤の福田への信頼は不動
 のものとなる。 
・福田・ケネディ会談では米側は、まず沖縄返還にともない米側が予算上負担することの
 ないよう強く要望すると共に、硬貨交換、米資産への補償、されに米軍の基地移転費用
 の転嫁などの問題について日本側の善処を求め、これら諸懸案を佐藤訪米までにすべて
 解決することが72年返還の前提であると強調した。
 ここで特に重要なのは、米軍基地移転費用を日本側が負担するよう要求したことである。
・祖国復帰のシンボルとして沖縄の玄関たる那覇空港の米軍部隊の他基地へ移転すること
 が、日米の間ではほぼまとまりつつあったが、そのための費用は、日米地位協定上、本
 土では、まだ正式には認められていなかった。すなわち、協定を厳格に適用する以上、
 日本側の義務は施設・区域の提供に限られ、基地の移転や改良については米側負担が常
 識とされていたのである。 
・かくて米側は、返還に伴う支出は一切拒否するという基本方針と合わせて、仮に、この
 基地の移転、さらには改良費などを肩代わりさせることができれば、将来にわたって、
 米側の財政負担は制度上、大幅に緩和されるという思惑から、交渉の最優先課題として
 この問題を突き付けてきたわけである。
 そして、福田赳夫はこの米側要求を原則的に認めたのである。
 これが、後の”思いやり予算”の原型というべきもので、日本の対米軍事支出に転機を画
 するものとなった。
・柏木・ジューリックは、福田・ケネディ会談を継承して実務交渉に入った。
 そこで最初にぶつかったのが、日本側からの財政支出を必要項目に基づく積算方式でい
 くか、それとも、そうではなくて包括的な金額を前提とした”つかみ金”方式でいくか、
 そのいずれを選択するかの問題であった。
 この二つのうち、積算方式については、米側はまったく考えていなかった。彼らの立場
 はただ一つ、”つかみ金”で一挙にことを解決するということだった
・柏木代表は、日本の国会とくに野党は、通常、予算支出に当たっては詳細な積算根拠を
 問い質すことが慣例化しており、特に、こんどのような政治的論争の的となっている支
 出については、積算根拠を厳しく追及してくることは必至という国内事情を説明して、
 米側の同調を求めた。
 しかし、米側の強硬な態度にはなんらの変化もなく、また、この交渉は佐藤・ニクソン
 会談までに大筋合意に達しなければならないというターゲットとの関係上、ついにここ
 でも日本側は折れ、柏木は福田に対し、この際、積算方式は断念し、包括的な案を考え
 ざるを得ないと報告、了解を得た。
・米側は沖縄返還費用として総額6憶9200万ドルに達する金額を日本側に求めた。
 その結果、総額6憶8500万ドルの案で妥協が成立した。
 この額は、当時のわが国の国家予算の規模との対比において、いまに換算すれば、3兆
 円以上に匹敵するほどの巨額である。
 さらに、35年間に及ぶ旧植民地に対する賠償ともいえる対韓国経済協力の無償3億ド
 ルの二倍以上に達する。
 当時としては、まさに沖縄の”買戻し金”と言われても仕方のないような金額だったので
 ある。 
・財政問題については、大筋で完全合意に達したにもかかわらず、佐藤・ニクソン共同声
 明では、真実は隠されてしまった。
 日米両政府とくに日本側は、共同声明という条約・協定に準ずるほどの重要な外交文書
 を”偽造”し、以後、財政問題の日米折衝は、翌70年春から夏にかけての通常国会終了
 後とするという、これまた秘密の合意に基づいた偽りの”スケジュール”を内外に伝達し
 たのであった。
・財政問題で日本側は最初から大幅な譲歩を余儀なくされ、以後、屈服を強いられ続ける。
 そして、柏木・ジューリック秘密合意は、沖縄交渉の財政問題に関する”密約”の原点と
 して成立し、以降の細目折衝における一連の”密約”群は、その随伴的効果として派生し
 てくる。
・米秘密公文書にある6500ドルの”基地施設改善費”こそが、返還時点での一時金では
 なく後年度負担として受け継がれ、それどころか、年々肥大していった現在の”思いや
 り予算”の原型となったものであり、沖縄返還に関する財政問題の中でも最も注目され
 ねばならない性質のものだった。
・日本に駐留する米軍に必要なカネは、最大限日本に肩代わりさせるという沖縄返還にあ
 たっての米側の基本方針は、この6500万ドルによって具体化され、以降、このカネ
 は”安保ただ乗り”論なるものに便乗する形で、増大の一途をたどる。その増え方は、
 まさしく、主権国家のありようを問われかねないほどの猛スピードぶりだった。
・”安保ただ乗り”論の背景には、日米安保における日本の”片務性”に対する批判がからん
 でいる。 
 しかし、この”片務性”自体、もとはと言えば「マッカーサー憲法」とまで呼ばれた日本
 国憲法および対日講和条約とそれに付属する日米安保条約とその関連取決めという一連
 の戦後の日米関係の中で、米側によって提起されたものであった。
 現に、米国は沖縄返還時、自衛隊による沖縄防衛問題について、「自衛隊の規模は、あ
 まり大きくしてはならない。適当に抑えるべきだ」とまでいっていたほどである。
・また、日米安保が、ベトナム戦争に見られるように、多分に米国の一方的な軍事戦略に
 利用されたことも事実であった。
 にもかかわらず、沖縄返還の”申し子”ともいえる”思いやり予算”は、米側からの強い要
 請を受けながら、倍々ゲームのようい進行していった。 
・この”思いやり予算”の特別協定期限は、これまでは五年だったのを2006年から2年
 に短縮した。なぜかといえば、近く実施される日米軍事再編にともない新たに米軍移転
 費を中心に膨大な予算が加わるのは必至の情勢であり、この際、従来の予算をできるだ
 け縮小する必要があり、またその余地もあると見て、弾力的に対応する構えを見せたも
 のと言われている。
 しかし、果たして既成事実として制度化されてしまったものを簡単に削減できるかは、
 これまでの米側の強硬な態度からすれば、きわめて疑わしく、その上、来るべき日米軍
 事再編に要すると言われている日本側負担は、兆単位の巨額なものであるから、少々の
 削減などなんの役にも立つまいというのが専門家の一致した見方である。
・日米軍事関係の”片務性”の見返りとしての”思いやり予算”が、いま進んでいる日米の
 ”双務性”の進展の下にあてもなお存続し続けるということになれば、まさに、米側にし
 てみれば”願ったり、かなったり”の結果をもたらすことになる。
・日本のこれかでの対米軍事支出は、日本の国家予算とはまったく世界を異にする”聖域”
 であり、経済的な”治外法権”下にあったといっても過言ではない。最大の問題は、それ
 が真に日本と世界の平和のために使われてきたのか、そして、これからも使われるのか
 という点である。
  
変質する日米同盟
・私は、沖縄返還を戦後の日米安保変質の第一段階と位置づける。そして、それから四半
 世紀を経た1990年代後半に、安保は第二段階ともいえる、さらなる”変質”の時期に
 入る。日米安保共同宣言とそれに基づく新日米ガイドラインの形成がそれである。
・1997年9月、新たな「日米防衛協力のための指針(ガイドライン)」が発表された。
 このガイドラインの中でとくに注目されたのが
 「日本周辺地域における事態で日本の平和と安全に重要な影響を与える場合(周辺事態)
 の協力」である。
・さらに注目すべきは、新ガイドラインがその中で「周辺事態」の概念を「地理的なもの
 ではなく、事態の性質に着目したもの」とした点である。
 当時、中国政府は、この新ガイドラインによって、中国の内政問題である台湾問題に介
 入するつもりなのかと激しく非難した。
 これに対し、橋本龍太郎首相は
 「いや、これは地理的なものではなく、事態の性質によるもの」  
 と答えるなど釈明に追われていたが、この釈明は、逆に、事態の性質上の判断によって
 は、米軍はなにもアジア・太平洋の近隣地域にとどまらず、世界のどこにでも出撃し、
 それを日本が後方支援することを示唆するものとなった。
 日米安保条約の”極東条項”はおろか、安保共同宣言でいう「アジア・太平洋地域」にも
 制約されない広範な地域への出撃にも道を開くことになったのである。
・安保共同宣言の”見返り”とも言える普天間飛行場の返還問題は、受け入れ先の反対運動
 などのよって、遅々として進まず、2003年1月、辺野古沖合に代替施設を建設する
 ための協議会が設立されるまで、実に七年もの長年月を要した。
 しかし、稲嶺前知事の主張する15年使用期限は米側によって拒否され、辺野古現地で
 は、新基地建設反対あるいは環境保全などを掲げた阻止闘争が間断なく繰り広げられ、
 当局による測量も実施不可能な状態が続いた。
・米海兵隊のグアムへの移転を望む日本側の要請は、実は、米側にとっては”渡りに船”の
 話だったのだ。
 いま、グアムは米国にとって、東南アジアから中東までを対象とした対テロ戦争の最重
 要拠点となっている。そのグアムには、空軍・海軍は布陣しているが、海兵隊は駐留し
 ていない。そこで総合的な即応戦力を整えるには、どうしても海兵隊が必要となる。
 ただし、それには多額のカネがかかる。もし、沖縄の海兵隊の一部を日本側の肩代わり
 によってむしょうでグアムへ移転させることができれば、こんな都合のいい話はないの
 である。  

情報操作から情報犯罪へ
・ベトナム戦争やイラク戦争に見られるように、核抑止力なるものがもはや一種の幻影と
 化しつつある現代においても、依然、核保有超大国としての既得権を維持し続けるため
 には、米国にとって核の”恐怖”は鳴物入りで宣伝しなければならないテーマであり、
 核拡散防止に向けての激しい攻勢も、ある意味では国家エゴの形を変えた表現ともいえ
 る。
 核拡散防止条約に加入していないインドに査察条件なしで原子力燃料を供給する方針を
 示すなど、二重基準と批評されても仕方がないような政策をとるのも、所詮は、この国
 家エゴから来ていると言ってもよい。
・しかし、日本は唯一の核被爆国として、本来なら世界の圧倒的多数の非核保有国家群の
 盟主的存在となって核軍縮に向け全力を上げねばならないはずなのに、あえてそのよう
 な努力を避け、ひたすらに米国の核抑止力に依存し、その範疇においてのみ行動すると
 いう選択を取り続けている。
・これまでの安保にからむ日米交渉は、時の米政権の発想と思惑を前提に進められ、日本
 側がそれをどこまで許容するのかの範囲内で行われてきたのは確かである。
 そして、これまでの実績に照らしてみれば、その結果はすべて”許容”というよりは、
 ”受諾”に近いものであることが判明する。
 こうした交渉だけに、日本側の説明は主として”建前”を強調し、米側がその”実際”つま
 り”真実”を説明するようになりがちである。
・ここに、密約が結ばれ、条約・協定が捏造されるという先進国の間ではあまり例のない
 ような犯罪の発生基盤がある。   
・沖縄の返還は、南方の楽園が戻ってくるということではない。自由に機能する全方位の
 巨大軍事基地が正式に日本の領土内に帰属することになるのだ。
 この交渉結果は一過性のものではなく、後々までつながる起点ともなるのである。
 それを隠蔽したり偽装したりすると、その瞬間から、沖縄返還はもはや国のためのもの
 ではなく、一政権のためのものへと変質する。
 なぜなら後にその結果への対価を払いうのは当時の政権ではなく、主権者たる国民全体
 だからである。
・佐藤−福田ラインが沖縄交渉で密室外交を繰り広げ、主権者を代表する国会の審議を実
 質的になきものにする”見せかけ”の協定案づくりに踏み切った裏には、メディアを含め
 た民間の社会を”被治者大衆”として見下す体質があったのではないかという根深い問題
 がある。
 そして、彼らが、重大な統治上の問題についての責任の追及に甘い民衆の側の弱点を体
 験的に感じとっていた面も、否定できないところであった。
・日本の近代国家は、市民社会の基盤の上にではなく、藩閥、財閥、軍閥などの支配層が
 現人神としての絶対君主の権威を楯に、上意下達により築き上げたものであった。
 もちろん、戦後民主主義もGHQと日本の官僚機構によって上から形成されたものであ
 り、たしかに民衆は形式上は”主権者”ではあるが、実態はあくまで統治の”客体”であり、
 主体ではなかった。  
・沖縄交渉で日本側が”秘密”の厳守を米側に頼み込む場合がしばしばあったが、それなど
 はまさに、日本の権力構造の何たるかを象徴してあまりあるものであった。
 こうした鉄壁に囲まれた権力構造の内部から、いわゆる違法な永久秘密を告発すること
 は、まず至難の業であり、また日本の官僚の意識の面からも、そうした告発は一度たり
 とも行われたことはなかった。
・アジア・太平洋戦争の敗戦に対し、日本の民主は自ら立ち上がって、敗戦の責任を追及
 しようとしたことがあっただろうか。A級戦犯は連合国によって裁かれたが、民衆は、
 ただそれを傍観するだけだった。
・ドイツ人は、1960年代になってからフランクフルトで進んで法廷を立ち上げ、ユダ
 ヤ人迫害の責任を徹底的に追及したが、日本はそのような傾向はほとんど見当たらず、
 ぬるま湯のような環境下、A級戦犯に準ずる戦争当事者ないし協力者が、戦後19年経
 つか経たないかの間に続々と復帰していった。
 その中には、戦後民主主義体制のトップ・リーダーとして再登場した政治家もいた。
・第一の敗戦がそうだったように、”失われた10年”とも呼ばれた第二の”敗戦”、すなわ
 ち平成大不況の責任の所在とそれへの追及もまた、放置されたままだった。
 10年もの長きにわたった平成大不況は、プラザ合意に見られるように、米国から誘発
 された面があり、素人が考えてもミスとわかるようなあの大金融緩和によるバブルの形
 成とその崩壊が、多分に人為的なものであったことを疑う向きはほとんどいないと言っ
 てよかろう。そのことは、同じ米国から圧力を否定したドイツの例を見ても、十分うか
 がうことができる。  
・しかし、この10万人にも及ぶ自殺者を出したとさえ言われている恐怖に満ちた”敗戦”
 の公的責任、とくに政治・金融の分野における責任を継続して追及したメディアは、ま
 るで民衆の無関心に連動するかのように、皆無に等しい状態であった。
 現に、当時の政治の最高責任者の一人は、その責任を問い質されることなく、今日に至
 っている。
・日本と米国を含む欧米諸国との決定的な差は、ここにある。
 イラク戦争に見られたように、欧米諸国の場合、この種の問題であれば、必ず調査を開
 始するはずである。 
・新聞は、時代に即した問題をその都度提起して民衆のエネルギーを引き出そうとするの
 ではなく、どちらかと言えば事実の公正な報道、国家情報の正確な伝達といった「客観
 主義」を行動原理とするようになった。
 これを徹底すれば、民衆の代弁としてではなく、政府の広告的役割を担うことにもなり
 かねず、また時流の中に問題を掘り起こすというよりは、時流そのものへ埋没してしま
 うという危険性をはらむことになる。
・日本の新聞が公的関心事項に対して継続的・系統的なキャンペーンを展開することにあ
 まり熱心ではなく、一時的・断片的報道にとどまるとの批判は、そうした無難な客観報
 道に起因しているともいえる。そして、民衆に刺激を与えるのではなく、逆に民衆に同
 化して、本来の任務に背離する傾向を生む。
・日米安保の枠組みの中で、追随を続ける日本の国際行動には見えてくるものがないもな
 い状況の中で、一挙に到来した平成の大不況は彼らに決定的とも言える経済的ショック
 を与え、それへの対応に追われている間に、その意識の大半は当面の生活関連に限定さ
 れるようになった。
 こうして、外交・安保への関心の弱さは、日本社会に定着した。
・2006年5月の日米軍事再編の「最終報告」での「共同発表」と「ロードマップ」に
 描かれている再編計画なるものは、今後の日本の国際的地位に決定的ともいえるつなが
 りを持つだけでなく、財政面でもこれまでとはケタの違う膨大な負担が追加されるなど
 の甚大な影響を及ぼしかねないという点で、内政諸問題に匹敵するか、あるいはそれ以
 上の関心をもって取り上げられるべき性質のものなのである。
・首相がいう「抑止力の維持と負担軽減」は、この問題の本質からはずれた、レベルの低
 い情報操作でしかない。
 「抑止力の維持」は米国との一体化による「世界戦略への参画」と置き替えられるのが
 正しく、また「負担の軽減」は「新たなる負担の追加」と言い換えられてはじめて真相
 が見えてくる。
・欧米先進諸国の間では、行政の責任ある者が自らが関わる公的関心事項についてウソを
 つけば、即座に罷免される。行政権者といえども、その権限は主権者である市民から委
 託されているに過ぎず、したがって、その市民へのウソが権限の剥奪につながるのは当
 然の帰結という認識である。ウソは最大の政治犯罪なのだ。
 ところが、わが国では、この常識が通用しないのである。
・いかに外交・防衛が国家機密の中枢に位するとはいえ、とくに外交については、30年
 以上も経過すれば、本来の所有権者である主権者に帰属されるべきであり、そのことを
 外務省が阻止することは、国民の基本的な「知る権利」を制限する反民主的行為といわ
 ねばならない。  
   
あとがき
・いま、わが国では、国家への権力集中に拍車をかけながら、他方では特定国との軍事同
 盟関係を一体化するという特異な路線が敷かれようとしている。この路線は、安倍内閣
 に入って従来以上のスピードで推進され、これにともない、メディアの諸活動にも各種
 の規制が加えられようとしているかのようである。
・いまのメディアに要請されるものは、権力に対する監視機能の再構築であり、それは、
 とりもなおさず民衆の側に立って、権力との均衡を回復し、維持することである。