裁判員制度は本当に必要ですか? :織田信夫
            (司法の「国民」参加がもたらしたもの)


この本は、いまから5年前の2020年に刊行されたもので、裁判員制度の廃止を主張す
る内容となっている。
この本の著者は、仙台出身で東北大学法学部卒業後判事補を経験後に弁護士となり、仙台
弁護士会会長や東北弁護士会連合会会長などを務めたようだ。

裁判員制度は、一般の国民のなかからクジで選抜された者を半ば強制的に裁判員として刑
事裁判に参加させ、裁判官と共同作業によって、被告人の有罪・無罪、刑の内容を決める
というものである。
しかし、これは一般国民に過大な負担を強いるものであった。
そのため、裁判員の辞退率は年々増加して2023年度では76%余りと過去最高を記録
したようだ。
そもそも、この裁判員制度は、本当に必要な制度であったのか。制度導入の経緯を見ても、
まず制度導入ありきで、その理由は後づけされたという見方がされている。
さらにこの本を読むと、この制度は憲法違反ではないかという見方をしている専門家も、
少なからずいるようだ。
また、この裁判員制度により半ば強制的に裁判員に選任され刑事裁判に参加した女性が、
急性ストレス障害となり、国家賠償請求裁判を起こしたが、その判決では、
「自分の体調のことも考えずにまじめに裁判員の仕事に取り組んだのが悪い。仕事が大変
と思ったら、なぜ途中で辞任の申し立てをしなかったのか。辞任の申し立てもしないで具
合が悪くなったのは、悪くなった本人が悪い」というような理由で、国側勝訴となったと
いう。
正当な理由なく裁判所に出頭しない裁判員候補者は、10万円以下の過料に処される可能
性があると半ば強制しておきながら、裁判員の仕事に真面目に取り組んだために急性スト
レス障害になると、それは「自己責任」と切り捨てたのである。
これは、昭和の戦争期において、”赤紙”で一般庶民を兵隊に召集しておいて、戦死したら
「自己責任」としたやり方と重なって見えると言えるのではないか。

さらに根本的な問題として、法律的素養のない一般人の中からくじで選ばれた裁判員に被
告人の生殺与奪を決定させることが適切かということである。
憲法第37条第1項では、「すべて刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速
な公開裁判を受ける権利を有する」とあるが、法律的素養のない一般人の中からくじで選
ばれた裁判員に被告人の生殺与奪を決定させる裁判が、はたして公平な裁判と言えるのだ
ろうか。
もし、自分が被告人となった場合を考えると、こんな理不尽な裁判に耐えられる自信はな
い。
この裁判員制度を実施するために、日当・旅費や広報・普及活動費として年間40〜50
億円の税金が投入されているようである。
これだけの税金を投入して、それが一般庶民にために、なにかメリットをもたらしている
のだろうか。
単にこの制度を推進したい一部の人の思想・信条を満足させているだけではないだろうか。
この制度をすみやかに廃止する政策を掲げる政党が出現することを期待したい。

過去に読んだ関連する本:
裁判員制度の正体
絶望の裁判所
なぜ君は絶望と戦えたのか


はしがき
・裁判員制度は、司法制度改革審議会2001年6月12付意見書によって提案され、
 2004年5月28日に法律として公布され、その5年後の2009年5月21日に施
 行された。
 その後、2011年11月16日、最高裁判所大法廷によって合憲のお墨付きばかりで
 なく、推薦のお言葉まで頂戴したものであれば、改革審提言以来19年も大切に育てて
 きた制度を「捨」することは、なかなか難しいことではあろう。
・裁判員制度については、裁判員辞退者が増えて、ますますなり手が少なくなった、裁判
 員が一生懸命出した結論があっさり上級審で破られ、何のためにこの制度があるのかそ
 の 存在意義が問われるなどとマスコミで取り上げられても、政府も国会も一向に腰を
 あげ ようとしない。
 裁判所も検察庁も、法律があるから仕方なくかどうかはわからないが、その制度を無く
 せとは言わず、だらだらと続けさせている。
・しかし、私は、こんな制度は元々作るべきではなかったし、作ったからといってこの国
 に残しておくべきではない、断捨離すべきだとの信念の持ち主である。
  
<裁判員制度の現在>
改めて一般市民の裁判関与を考える(裁判員制度の落とし物)

・昨年11月、殺人未遂で起訴された女性にかかる大阪地裁の裁判員裁判において、裁判
 員が毎公判期日に1人ずつ事態の申出をして結局3人が解任され、また補充裁判員が2
 人しか選任されていなかったため、三日目に予定されていた公判を開くことができない
 事態が発生したと報じられた。
 地裁は事態の理由を明らかにしていないという。
・2016年に、福岡地裁小倉支部における暴力団に関係する事件に関連して、傍聴して
 いた暴力団員が裁判員に声掛けをしたという傍聴者が裁判員法違反に問われる事件が発
 生した。
 その声掛けをした二人の被告人に対する裁判で、裁判長は「裁判員制度の根幹を揺るが
 しかねない結果を引き起こした」と指摘したと報じられた。
・制度導入を目論んだ側からすれば、国民の裁判参加は多くの国民の主体的参加によって
 成り立つべきものとは言っても、一部の好奇心旺盛な者は別として、もともと決して好
 まれる性質の仕事ではないから、国民参加とは言っても、罰則付きで出頭を強制させざ
 るを得ないという矛盾を孕んで船出させた制度である以上は、このような問題の発生は
 想定内との見方もあるかもしれない。
・しかし、そもそもそのような無理をし、矛盾を孕んだままで、最高裁判所大法廷判決に
 言わせれば「義務」を「権限」と言い替えざるを得ない形で、一般国民を参加させなけ
 れば成り立たない制度を発足させるに至ったことは、はじめから制度制定自体に無理が
 あったことは否定し得ないであろう。
・2001年6月に公表された司法制度改革審議会の中間広告、意見書、最高裁判決に見
 られる司法への国民参加というキーワードには、国民に対し、国民は国家に甘えてばか
 りいてはいけない、国家の仕事に関与し責任を持つという意識を醸成し、国家に奉仕し
 なければならないという、「個人主義から国家主義へ」の変貌の構図が透けて見える。
 それはまさに、自由民主党が2012年4月に決定した日本憲法草案13条の先取りで
 ある。
・改めて審議会の中間報告、意見書、最高裁判大法廷判決を読み直してみれば、個人の尊
 厳という民主主義にとって最も重要な価値に対する配慮を疎かにし、いわば落とし物と
 して、「国民の健全な社会常識を反映させるため」とか、「国民の視点や改革と法曹の
 専門性との交流」などと国民を尊重するような表現を巧妙に使いながら、実体は国民に
 対してその自由な意思に反しても国家権力の行使を加担させようとする姿勢を実に露骨
 に示している。
・その典型が、意見書の中の「裁判所から召喚を受けた裁判員候補者は出頭義務を負うこ
 ととすべきである」「被告人は裁判官と裁判員とで構成される裁判体による裁判を辞退
 することは認めないこととすべきである」という、つまり裁判員の強制と、被告人の選
 択権の否定の提言である。
・何より注目されなければならないことは、かかる司法への国民参加制度は、多くの国民
 が現行の司法の在り方に対し強烈な不満を持ち、そのため、その改革を求めて湧き出し
 た情熱によって発案されたものではなく、審議会の誰が発案したものかは定かではない
 が、国民はこれまで国家に対し「過度の依存体質」を持っている、つまり甘えっ子にな
 りすぎているから、もっと国家社会のために積極的に役立つ姿勢を強めなさいと諭し、
 手っ取り早く権力行使を自覚させ得る裁判員に就くことを強制するものとして、上から
 の力のよって形成されたということである。
・いわゆる先進国と称される国には、陪審又は参審という裁判に市民が関与する制度ある。
 その制度は「持ち込まれた」ものではなく「克ち取られた」ものであることに注意しな
 くてはならないと言われる。
・しかし、その制度は、冤罪のあまりにも多いことなどから、今や問題山積に「遅れた裁
 判方式」の一つと断定されるありさまである。
・フランスでは、硬直化した難解な技術をふりまわす職業裁判官への不信の現れとして番
 審制は存在した。
 その後、度々制度は変更されたが、伝統的な職業裁判官への不信があり、陪審を維持す
 ることが司法の理想により適していると信じられているからであろうとされる。
・ドイツにおいても当初陪臣が導入されたのは、フランス同様、官僚裁判官に対する不信
 感があったけれども、その後、官僚裁判官に対する信頼が強まり、参審制へと移行して
 いったと言われる。 
・陪参審制を採用しているいわゆる先進国が、現在の裁判への市民参加制度を採用し、
 今なおそれが継続しているのは、官僚裁判官に対する不信感、既存権力に対する反発が
 根強く存在しているところに、国民の湧き上がるエネルギーとして克ち取られたという
 歴史があるからである。
 
・一般市民が同じ市民を対象として、死刑を宣告し、自由を奪うなどの行為に加担するこ
 とは人として道義的にいかに評価され得る行為であろうか。
・聖書の姦通の女のエピソードでは、石打ちの刑を説くファリサイ派らの主張に対し、
 イエス・キリストが「まず罪なき者石をもて打て」と話したのは有名なことである。
 人が人を裁くことの戒め、厳しさを説く話である。
・国家の制度として法を実現する目的の司法において、法によらずに人が人を裁くこと、
 さらに裁判の本質をせまることの問題の提示である。
・仮に一般市民がかかる裁判への関与を望んだとしても、本来、人として許されないと考
 えられる性質の行為を、国家の制度として容認することは、きわめて疑問のあることで
 ある。 
・人が裁くのではない、事実を証拠にもとづいて認定し、法律に従って刑罰を科すだけだ
 から人倫に反することはないと反論する者がいるかもしれない。
 しかし、法を知らない者の裁きは、自分の感覚、感情以外に裁く基準を持てない。
 まさに人が人を裁くことになる。
 この点からしても、一般市民の裁判関与は決して望ましいことではない。
 制度設計以前の問題である。
・私は、現官僚裁判官制度を必ずしも良しとしない。
 より良い司法の実現には、現司法制度の問題点をそれこそ国民目線で洗いだす必要があ
 る。 
 その上で、今後、専門的裁判担当者をどのように育てるか、法曹一元化の採用、適切な
 一般市民・諸種の専門家の裁判担当者としての確保、そのための非常勤裁判官制の採用
 等裁判担当者をどのように定めるか、最高裁判所裁判官の具体的人選方法をどうするか、
 裁判官の人事のあるべき形は何か、現行の中央集権的な司法行政に問題はないかなど、
 公平・適正・独立を全うし得る裁判の実現に向けて、根本から望ましい司法制度の研究
 ・実現に努力すべきである。
・思い付きの妥協の産物である裁判員制度は、即刻廃止されるべきである。

「司法の国民的基盤の確立」とは
・2001年6月に内閣に提出された、裁判員制度の制定を提言する司法制度改革審議会
 の意見書には、その提言を、「国民的基盤の確立」と題する項目の中で示している。
 「国民が法曹とともに司法の運営に広く関与するようになれば、司法と国民との接地面
 が太く広くなり、司法に対する国民の理解が進み、司法ないし裁判の過程が国民に分か
 りやすくなる。その結果、司法の国民的基盤はより強固なものとして確立されることに
 なる」
 「司法がその機能を十全に果たすためには、国民からの幅広い支持と理解を得て、その
 国民的基盤が確立されることが不可欠であり、国民の司法参加の拡充による国民的基盤
 の確立は今般の司法制度改革の三本柱の一つとして位置付けることができる」
 「訴訟手続はし号の中核をなすものであり、訴訟手続きへの一般の国民の参加は、司法
 の国民的基盤を確立するための方策として、とりわけ重要な意義を有する。
 「一般の国民が、裁判の過程に参加し、裁判内容に国民の健全な社会常識がより反映さ
 れるようになることによって、国民の司法に対する理解と支持が深まり、司法はより強
 固な国民的基盤を得ることができるようになる」
・標題を除いて、その項目の中で「国民的基盤の確立」という言葉が実に六回も出てくる。
・司法の国民的基盤と表現されることの具体的な意味は何なのか、はぜそれが裁判員制度
 制定の根拠になりあるいは目的としょうされるものになったのかについて改めて考えて
 みたい。 
・中間報告においては、国民的基盤の確立という用語にカッコ書きで「民主的正統性」と
 表現されている。
・国民的基盤とは何なのか。
 @司法審意見書では「司法に対する理解が進み裁判過程がわかりやすくなることによっ
  て得られる状態」と解しているようである。
 A中間報告では、「民主的正統性」と解している。
 B柳瀬昇教授は、国家権力、社会の既成権力に逆らって司法が法の理念を押し出してい
  くのに必要な、国民とともに考え、国民の支持を得てあるべき社会を先取っていくき
  っかけを与えるものであり、司法が法の管理を託された専門家によってのみなし得る
  ならば不必要、むしろ有害なものと解している。
 C最高裁は、裁判員制度の目的そのものであり、国民の視点や感覚と法曹の専門性との
  交流による相互理解を深めることによって得られる刑事裁判の実現を目指すものに役
  立つものと捉えているようである。
・いずれにしろ。この司法の国民的基盤の確立という言葉は、わかったようでわからない、
 いかようにも解し得るきわめて曖昧な概念であり、立法事実として制度制定の根拠とな
 りえるものではない。
・四方に国民的基盤の確立が必要だというのであれば、現在の裁判がそれをどの程度充足
 し、あるいは不足しているのか、その具体的根拠はいかなる事実によって指摘し得るの
 かが明かにされねばなるまい。
 しかし、それは不可能である。
 何せ、それはその言葉の曖昧さによって裁判員裁判の運用実態の評価の物差しとしての
 役割をはたしてはいないからである。
・裁判員制度発案の経緯については、それが英米の陪審・参審制にならって、まず裁判に
 国民を参加させることを当然の前提として、陪審論に熱心な委員とこれに反する委員
 との間で意見が激突し、これをとりなした審議会の会長らの提案した実質参審制の制度
 として発案され、それに落ち着いた形で出されたものであることは、審議の経緯から明
 らかである。 
・つまり、まずアイバンへの国民参加あるき、裁判員制度ありきで議論が推移し、それで
 はその必要性は何かを後づけで議論する中で、この司法の国民的基盤の確立という用語
 がもちいられるようになったということである。
・「司法ウォッチ」編集長の河野真樹氏は、「国民的基盤」論の危うい匂いを嗅ぎ立てて
 いる。
 その国民的基盤の言葉のなかに国民の意思がどこまで汲みとられているのか見えないこ
 との危うさの指摘である。 
 「国民」を冠した政策決定や主張には疑ってかかった方がよいようなものが存在すると
 いう。
 この裁判員制度について言われる「国民的基盤」は、その疑ってかかった方がよい典型
 である。
 国会は、この怪しげな言葉にまんまと引っ掛けられ、ほぼ全会一致で裁判員法を成立さ
 せてしまった。
 施行張前になってその怪しげさを気がついたのか、与野党の一部議員が施行に待ったを
 かけようとしたが、時すでに遅しであった。
・この制度については、最高裁もマスコミも、今になって、裁判員候補者の出頭率が低下
 している、辞退率が上がっている、これでは裁判員を参加させる意義が失われると慌て
 ているのが現状である。 
 国民的基盤の確立などというわけのわからない言葉に踊らされて成立した制度であり、
 惨禍を義務づけられる多くの国民の拒否反応を無視して施行されたものであれば、
 うまくいかないのはむしろ当然である。
 騙しのテクニックは結局通用しなかったのである。
・私は以前、外1名の弁護士とともに、福島地裁での裁判員の職務を担当して急性ストレ
 ス障害になった女性の国家賠償請求事件を担当した際、違憲論の一つの根拠として、
 再場人法には立法事実がないと主張した。
 要するに、そのような制度がこの国の司法において要求される状況にはまったくないと
 主張した。
 国民という名の素人が数人参加すれば、その裁判は国民参加になり基盤の確立となるな
 どという非論理的な制度に、立法事実はないというものである。
 
東電元役員に対する強制起訴事件無罪判決について
・東京地裁は、2019年9月、東京電力元会長ら三人の業務上過失致死事件について、
 被告人全員に対し、いずれも無罪の判決を言い渡した。
・その無罪判決の理由は、要するに被告人ら三人は、10mを超える津波が襲来する可能
 性に触れる長期評価について、信頼性、具体性のある根拠を伴っているものとは認識せ
 ず、その認識がなかったとしても不合理とはいえない事実がある、運転停止すべき法律
 上の義務があったと認めることは困難というべきであり、発電所の運転停止を講じる結
 果、回避義務を課すにふさわしい予見可能性があったと認めることはできない。
 仮に予見し得たとしても結果を回避することは可能だったとは認められないというもの
 であると解される。
・この事件を考察する上で見逃してはならないことは、その裁判の対象は、事故原因の特
 定、被害の内容、原発の安全性という歴史的事実の確定あるいは科学的検証ではなく、
 公訴事実記載の訴因の存否とその法律的評価、そして起訴された自然人たる被告人だと
 いうことである。  
・確かに被告人らは、この危険装置を設置し稼働し、それによって利益を受けていた団体
 の最高経営責任者たちであり、その責任者としての最高度の安全確保の注意義務を有す
 ることは間違いない。
・しかし、人間の能力には限界があり、本刑が認定された状況において仮にこの3.11
 の段階で被告人ら以外の者が被告人らと同じ立場にあったら果たして今回の重大な結果
 を招じさせる事態を避けることができたか問うたときに、明確に可能だったと答え得る
 状況ではなかったのではないかと思われる。
・本件の被告人らについては、本件事故時点で関係法令に違反し安全配慮義務を尽くさな
 かったとか、監督官庁からの原子炉運転停止等の明確な指示が出されていなのにこれに
 従わなかったなどの特段の違反があったとの公訴事実はなかったと刑されるところから
 すれば、これら被告人らの刑事責任を問うことはきわめて困難なことと考えられる。
・朝日新聞2019年9月の社説には、
 「未曽有の大災害を引き起こしながら、しかるべき立場にあった者が誰一人として責任
 を問われない」  
 との一文がある。
 その主張が判決批判の一論拠とすれば、それは題再癌が発生したら、誰かが人身御供に
 ならなければならないという前近代的論理といえるものであり疑問である。
・この事件は、いわゆる強制起訴事件である。
 「検察審査会」という組織は、検察官の起訴独占の例外としてのその不起訴処分に対し、
 いわゆる民意によるチェック機能を果させようとして考案されたわが国独特の組織であ
 る。
 実質的には行政組織でありながら監督官庁なるものは全くなく、その職務は裁判所の組
 織の一部ではないかと誤解され得る何とも曖昧な組織である。
・私はその弊害を説き、新たな検察監視、不服審査機関創設の提言をした。
 国の組織に市民たる素人が入れば、それは民意を反映し得る民主的な組織だと捉えがち
 であるけれども、起訴される国民の立場に立てば、通常の公訴官によれば公訴されずに
 済むもの、本件ではたまたま東京地裁の検察審査会による議決であったために起訴され
 たということであり、きわめて不平等なことである。
・朝日新聞社説の表現のような、被害がとてつもなく大きい、それでいて刑事責任を問え
 る者がどこにもいない、それはおかしいとか、それに類するいわゆる民意によって、
 通常の公訴官によっては公訴されることはなかった国民が被告人の立場に立たされると
 いうことは、行政の平等性からしても許されないことではなかろうか。
・政府事故調の委員長代理を務めた「柳田邦男」氏は、朝日新聞への寄稿文の中で、
 「法律論からはかかる判断を仮に是としても、深刻な被害の実態の観点から考察するな
 ら、たとえ刑事裁判であっても、刑事罰の対象にならないと結論を出すだけでよいので
 はないかと思う」
 「問われるべきは、これだけの深刻な被害を生じさせながら責任の所在をあいまにされ
 てしまう原発事業の不可解な巨大さではないか」
 と述べている。
・「失敗学」を提唱する東京大学名誉教授の「畑村洋太郎」氏は朝日新聞のオピニオン欄
 で、「最近は原子力政策を進めた政府がおかしい、業界がおかしいという前に、自分の
 目で見て、自分でちゃんと考える国民がいなかったのが最大の要因だと思うようにな
 りました」と述べている。
・民主主義国家においては、悪政の責任は究極的には国民にある。
 しかし、それを言えば、太平洋戦争の一億総懺悔論に通じ、結果的に誰も責任を負えな
 くなる。   
 やはり、代議制民主主義の下では国民から政治を委ねられた者の国民に対する責任を曖
 昧にすることは許されない。
 単に東電の元幹部三人に刑事責任を押し付けることは、この原発事故の真犯人を野に放
 しておくのと同じことである。
・「小泉純一郎」元総理は、在任中の己の不明を告白し、今は熱心に反原発を説いている。
 原発の設置を容認してきた為政者、学者、マスコミなどは、最低限、小泉氏のように潔
 く己の非を認め、即刻全原発廃止に舵を切り、二度と過ちを繰り返さないことを誓い、
 国民に謝罪すべきであろう。
・司法が民意と称される一部の素人の意見に左右されることは、裁判員制度を含め、決し
 て正しいこととは考えらえない。 


<裁判員制度と国民>
最高裁による裁判員出席率・辞退率の調査について

・2016年6月、NHKの「視点・論点」という番組で、国学院大学「四宮啓」教授が、
 辞退率が年々上昇して65%を超え、欠席率も40%に達しているとの現実を紹介した
 うえ、国民参加を促す改善策として、裁判員経験者の良い体験を共有させることが必要
 であり、そのためには裁判員の守秘義務のあり方を変える必要があると独自の説を展開
 している。
・例の大法廷判決は言う。
 「わが国の刑事裁判は裁判官をはじめとする法曹のみによって担われ、詳細な事実認定
 などを特徴とする高度に専門化した運用が行われてきた。司法の役割を実現するために、
 法曹のみのよって実現される高度の専門性は時に国民の理解を困難にし、その感覚から
 乖離したものにもなりかねない側面を持つ」と。
・その判事は要するに、裁判員制度は高度に専門的であることによる法曹のみによる司法
 の問題であるところの国民の理解の困難性、国民の感覚からの乖離の解消に役立つとい
 うことのようである。  
・理解の困難性の解消については、なぜ素人を裁判に参加させなければ実現できないのか、
 裁判員となったわずかばかりの素人に理解させたところで司法を国民に理解しやすくで
 きるとどうしていえるのかの説明もない。
 国民が裁判の理解に困難さを感じるというのであれば、法曹辞退の努力・工夫でいくら
 でも理解しやすいように説明できるのではないか、その努力をまずすべきではないかと
 いうことになろう。
・また、国民の感覚から乖離しているというけれども、本来、司法というものは、多数の
 民意に従えばよいというものではなく、仮にそれが少数派に属する意見であったとして
 も、その正当性の認められるべき分野である。
 それ故に、国民の代表が制定した法令をも違憲と判断し得る権限が憲法によって与えら
 れている。
 国民の感覚と乖離したからといってそれをなぜ改めなければならないのか。
 
裁判員の職務の苦役性について
(柳瀬昇教授の「続:裁判員制度の憲法適合性」の論点に関連して)
・最高裁判決は「参政権と同様の権限を国民に付与するもの」と表現し、道義的とか法律
 的とかには関係なく、「国民に義務を課すもの」とはまったく述べていない。
 それは国が国民に対して与えた恩恵だと言わんばかりのことを言っている。
・つまり大法廷判決の示す「参政権と同様の権限の付与」との表現は、国民を裁判員に強
 制することはしません、なりたい人だけなってくださいという意味以外のものではない。
・最高裁判所は、
 「裁判員となること は国民の権限であるから本人の意思に反してまで担当していただ
 かなくてもよいですよ」  
 とこの国民の司法参加を解しているから、裁判員の職務は義務ではないし従って苦役で
 もないとの結論になるのは論理の必然である。
 裁判員の職務を担当して急性ストレス障害になるのは参加したのが悪い、具合が悪くな
 っても辞退しなかったのが悪い、断ってくれればよかったまでのことであり、その職務
 内容そのものは苦役ではない、これが最高裁の裁判員の職務と苦役に対する基本的スタ
 ンスだということである。
 
裁判員経験者の「よかった」感想について
・裁判員の裁判関与は、「知識のないのに人の人生を左右する判断」を下すことである。
 「よかった」などと評し得るような経験であってはならず、むしろ苦しみ悩むべき経験
 であり、現に福島国賠訴訟の原告のように深刻に悩み苦しむようになってしまうことも
 あるのであって、他人の「よかった」とか「とてもよかった」などという経験談に踊ら
 されて参加するようなことではない。
 あるいは、「よかった」経験と感じた人々は、裁判員としては好ましい人ではないのか
 もしれない。
・有名な新約聖書のエピソードがある。
 律法学者やファリサイ派の人々が姦通の女を連れてきて真ん中に立たせ、イエスに言っ
 た。
 「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で撃ち殺せと、
 モーゼは律法の中で命じています。ところであなたはどうお考えになりますか」と。
 これに対するイエスの答えは、
 「あなたたちの中で罪を犯したことのない者がまず、この女に石を投げなさい」であっ
 た。
 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と立ち去ってしまい、イエス一
 人と真ん中にいた女が残ったというものである。
・国家には司法権があり、社会の秩序の維持に貢献する裁判官がいて、その職務を担当す
 る。 
 罪のない者だけが人を裁き得るということになれば、裁判官も罪ある人間だから、国家
 は裁判ができないことになる。
 しかし、だからこそ、憲法76条3項がある。
 そこに定められている、裁判官の個人的視点や感覚でさばいてはならない、良心に従っ
 て憲法と法律にのみ拘束されて裁判をしなければならないという命令が生きることにな
 る。
 
裁判員の守秘義務に関連して思うこと
・裁判員が職業裁判官と本質的に異なる点は、その職業に従事するのは、自分の自由な意
 思によるのではなく、強制によるものだということである。
 辞退・拒否が事実上自由にできる現状からすれば、裁判員となった人は自由意思によっ
 てその職についたものとも解され、その点からすれば職業裁判官と変わりないかもしれ
 ないが、制度上は義務として裁判員の職務を担当するものであり、裁判員は日常他の職
 務に従事しる一般社会人であるから、そのプライバシーは守られなければならない。
・しかし、自らそのプライバシー権を放棄して多数意見と異なる意見を表明したいと思う
 場合には、表明する権利が与えられなければなるまい。
 また、国民もその意見表明に接する権利があるといってよい。
・裁判員法が裁判員の守秘義務について広く職務上知り得た秘密、評議の秘密という抽象
 的・包括的表現で秘密を規定することは、裁判員の表現の自由および国民の主権者とし
 ての国家意思決定過程についての知る権利の確保の観点からすれば、看過し得ない問題
 があるといえる。  
・ところで、裁判員経験者らが主張する秘密義務緩和の主張というのは、このような裁判
 の評議の秘密の本質または国民の知る権利、再場人の表現の自由という視点からのもの
 ではなく、裁判員が終生秘密を抱えることになる心の負担の軽減と、裁判員としての経
 験、その多くは「よかった」経験の一般人との共有によって裁判員になってみたいと思
 う人が増えることに通ずるという広報効果の視点からのものである。
 
教育勅語と裁判員制度(二人の研究者の見解に接して)
・森友学園問題に端を発して、教育勅語が大きく取り上げられるようになった。
 森友学園が運営する塚本幼稚園が園児に教育勅語を暗記させていたことが明るみに出、
 さらに安倍内閣が教育勅語を憲法や教育基本法に反しない形で教材として使うことを認
 める答弁書を閣議決定するまでに発展したことなどが関係している。
・東京大学名誉教授「三谷太一郎」氏は、「教育勅語の本質は、天皇が国民に対し守るべ
 き道徳上の命令を下したところにあります。そうした勅語のあり方全体が、日本国憲法
 第19条の「思想及び良心の自由」に反します」と述べ、「安倍内閣はそれをまったく
 念頭に置かず、教材として使えるという閣議決定をしました」と安倍内閣の決定を批判
 する。
・日本大学教授先崎彰容氏は、戦前の教育勅語をめぐる経緯の現代に与える示唆として、
 「どちらの時代も、確かな価値観や倫理規範がなくなった「底の抜けた時代」というこ
 とです」と述べ、教育勅語をめぐる騒ぎは「それ自体大したことではない」けれども、
 「現代の日本社会が抱える、より本質的かつ大きな問題に突き当たる」「かつてのよう
 に国民が『画一化』されてしまうかもしれない危険性に気づくためにこそ、今回の教育
 勅語騒動は掘り下げて考えるべき」と述べている
・戦中育ちの私には、裁判員制度に見られるように、国民をその思想・信条を顧慮するこ
 となく罰則をちらつかせて裁判員にさせるなどということは、戦前・戦中の徴兵徴用の
 恐ろしさ、何もものが言えない時代の怖さが身に着いているからであろうか、何として
 も受け入れられないのである。
・裁判員制度が日本国憲法の容認し得ないものであること、容認し得るものだという大法
 廷判決のいかさまぶりについては、これまで私ばかりでなく多くの人びとが指摘してき
 た。
 その指摘は絶対に正しいことだと私は考えている。
 しかし、私にとっては、理論より先に、この肌がこのような制度に対し拒絶反応を起こ
 してしまう。  
 裁判員制度は国民の人権を侵害するものであるばかりでなく、司法制度そのものに危機
 を呼び込むであろう、それ故に国家を危殆に瀕しさせるであろうと感じ、構えてしまう
 のである。
・それは、教育勅語問題についての現政権の驚くほど甘い対応同様、私には、裁判員制度
 をマスコミを含め、容認するのみならず何ら批判の声を発しない風潮に、この国の大き
 な危険を見る。
   
<裁判員制度の違憲性>
裁判官の独立と裁判員制度

・最高裁大法廷2011年11月16日裁判員制度判決(「大法廷判決」)は、
 「憲法が一般的に国民の司法参加を許容しており、裁判員法が憲法に適合するように法
 制化したものである以上、裁判員法が規定する評決制度の下で、裁判官が時に自らの意
 見と異なる結論に従わざるを得ない場合があるとしても、それは憲法に適合する法律に
 拘束される結果であるから、同項違反との評価を受ける余地はない」
 と判示する。
・しかし、そこで論じられなければならないことは、そのような形式論ではなく、裁判員
 法によって、くじで選ばれた一般市民の直感的判断によって内閣任命にかかる裁判官の
 判断が左右されることがあっても良いのかという、精度の根幹にかかわる憲法問題であ
 る。 
 その判断を経ずに、裁判員法は合憲だなどと判断し得るはずがない。
・「国民」とは何かについての考察もない。
 憲法が定める国民には、
 @国家の構成員としての国民
 A主権の保持者としての国民
 B憲法上の期間としての国民
 の三種があると追われる。
・大法廷は漠然と「国民」の司法参加と表現しているけれども、この国民とは、この三種
 のうちいずれのものを念頭においたものであろうか。
・国民という言葉は、種々の場面でしばしば用いられるけれども、少なくとも裁判所が用
 いるときには曖昧な使用は許されない。
 衆議院議員選挙権を有する者の中からたまたま、くじで無作為に抽出された人間は、
 憲法における主権を有する国民ではない。単なる一般市民である。
 裁判員制度について司法への国民参加と称することはきわめて不適切であり、強いて言
 えば「素人市民参加」
 というべきである。
・何よりも、参加する国民の参加強制性を含む基本的人権や被告人の裁判を受ける権利な
 どその人権についての詳察がない。
・さらに、裁判官を刑事裁判の基本的担い手と考えていることのみ結びつけ、
 「くじで選ばれた一般市民の直感的判断によって内閣が任命した裁判官の判断が左右さ
 れることがあっても良いのか」
 という憲法解釈上の根本的問いにはまったく触れていない。
・要するに、その大法廷判決の掲記することは、裁判員法に定める国民の司法参加は合憲
 だという結論を得るために、それに都合の悪い論題はすべて検討課題から除外し、合憲
 と判断し得る都合のよい論題のみを取り上げて、司法への国民参加は合憲だ、合憲の法
 律による評決制度に裁判官が従うのは違憲ではないと結論付けているものとしか解し得
 ない。  
・裁判員法に定める裁判員は、実質的に裁判官の職務は行うけれども、憲法が定める裁判
 官ではない。単なる素人たり一市民に過ぎない。
 しかも憲法と法律に(通常は)疎い者であり、その意見に裁判官の判断が影響されるこ
 とは、憲法76条3項の到底容認し得ないところである。
 
<裁判員制度が招く司法倒壊>
裁判員制度に見る司法の危機

・私ほか1名の弁護士が原告代理人を務めた、裁判員経験者を原告とする福島地裁での国
 賠訴訟の2014年9月の判決は、結論として、裁判員としての職務を誠実に務め、
 その結果、眠れない夜が続き体調不良になっても、それは合理的範囲の国民の負担であ
 る。
 裁判員制度が悪いのではない、自分の体調のことも考えずにまじめに裁判員の仕事に取
 り組んだのが悪い。
 仕事が大変と思ったら、なぜ途中で辞任の申し立てをしなかったのか、辞任の申し立て
 もしないで具合が悪くなったのは、悪くなった本人が悪い。
 この福島国賠訴訟とその一連の上訴審判決の結論は、表現は異なるけれども要するにこ
 ういうことである
・裁判員となることは、制度上原則強制であって、国民が好き好んでやる仕事とは定めら
 れていない。 
 この障害を受けた裁判員も、10万円の過料の制裁をちらつかせられなかったら、
 裁判員は御免被りたいという方だった。
 それなのに、裁判員になったのが悪い、途中でやめなかったのが悪いと言われては、
 立つ瀬がないではないか。
・国家が権力をむき出しにする場面では、裁判所は、国家権力の強力な味方になりこそす
 れ、その相手方に手を貸すようなことはしない。
 その意味では実に冷酷非情である。
  
裁判員制度の必要性(費用対効果も考えて)
・最高裁判所の裁判員制度に関する統計資料のなかに、裁判員経験者に対するアンケート
 結果があり、多くの人が「貴重な経験でやりがいがあった」などと肯定的な意見を述べ
 ている。
・その一方で、
 「何も知識がない時分が、人の人生を判断してよいのか、決めて良いのか、とても考え
 させられた・ストレスを感じた」
 「社会見学レベルでは良い経験と感じるが、『裁判』としては良いとは思えない。・・
 ・真剣に取り組んだ分だけ無駄な時間を過ごした気がする」
 「裁判員をする意味が見いだせなかった」
 「などの批判的・否定的意見も述べられている。
・また、制度自体を評価する意見もあるが、裁判員制度は非常にコストがかかっていると
 思うのですが、ここまでかけてもやらなくてはいけない制度なのでしょうか。ニュース
 等で控訴審で裁判員裁判の一審の判決が覆っている場合が多いということを聞くことも
 あり、そう感じます」との厳しい意見もある。
・裁判員制度の存在意義は何か。その制度がこの国にはどうしても必要なのか。
 真剣にその疑問に向き合うべきではないか。
・裁判に市民感覚を取り入れるためなどとマスコミは言うけれども、制度を定める法律は、
 そんなことはどこにも書いていない。
 司法というのは、本来、一般国民を集めて市民感覚なるものを取り入れる場ではない。
・裁判員経験者の制度に批判的な言葉にもあるように、存在意義の分からない制度である
 ことを施行後はっきりと見せつけられているのに、制度開始に使った広報費などの国家
 予算のほかに、毎年30送縁余という税金がつぎ込まれている。
・国家が一度制度を作ってしまうと、損をしても、ほかに被害を与えても、絶対に無くそ
 うとはしないのは、原発の例を引くまでもない。
 民主政治というのは、国民から選ばれた為政者は国民に対してその行なった政治につい
 て責任を負う政治でなければならないけれども、わが国ではその責任を負う者はいない。
・毎年30億円もの金があったら、国家本来の使命である福祉、教育、防災、文化等々、
 国民の生活の向上にどれだけ役に立ったであろう。
・国家が個人にかかる負担を強いようとするならば、余人によっては替えられない特別な
 必要性がなければならない。
 しかし、裁判員制度にはそのような必要性はまったくない。
・国は国民の血税を無駄に使っているばかりではなく、その血税によって国民の福祉を害
 しているのである。    
・裁判員制度は、国民が求めたものではない。
 それどころか、制定時から現在に至るまで多くの国民から嫌われている制度である。
 一刻も早く制度を廃止し、現裁判制度の抱える問題点を、時間をかけても明らかにし、
 衆知を集めて改善の道を見出すべきである。
・大法廷判決の最大の問題は、国家司法権の最高の地位に立つ最高裁が、司法権を行使す
 るものとして絶対に侵してはならない司法権の独立、立法・行政からの独立の理念に背
 いて、これに迎合したということである。