なぜ君は絶望と戦えたのか :門田隆将
               (本村洋の3300日)

この本は、今から16年前の2008年に刊行されたもので、1999年4月に発生した
光市母子殺害事件」を扱ったものだ。
この事件は、母親と、まだ生まれて11ヶ月の女児が殺害された事件で、母親は首を絞め
られて殺害された後に屍姦されていた。母親のそばで激しく泣き続ける女児は床に叩きつ
けられ、紐で首を絞められて殺害されるという凄惨な殺人事件だった。
だが、犯人が18歳の少年だったということから、一審、二審ともに無期懲役という判決
が下りた。
当然ながら被害者遺族は、この無期懲役という判決には納得がいかなかった。
どんなに凄惨な殺人を犯しても、2人なら無期懲役、4人以上でないと死刑にはならない
という「永山基準」が慣例的に適用される刑事裁判の判決に、被害者遺族は裁判所への不
信感が強まっていった。
それだけではなかった。被害者の遺影を持って公判を傍聴しようとすると、裁判所から傍
聴席への遺影の持ち込みを拒否された。理由を聞いても回答してもらえなかった。
そもそも、公判での被害者遺族へ傍聴席の優先的な確保もまったく考慮されていなかった。
被害者遺族が公判で意見を述べることなど論外であったのだ。
マスコミも、加害者の人権だけが配慮され、被害者および被害者遺族の人権はまったく無
視された。そして、それについてだれも疑問を呈する者はいなかった。
そのような旧態依然の硬直した法曹界に挑んだのが、殺害された母親の夫であった。
とにかく、事件の内容は、涙なしでは読めない。
裁判は加害者の人権ばかりが考慮され、被害者遺族への配慮はまったくされない。
社会正義はどこにあるのか。
この国の社会はどこかおかしいのではないのか。
そんな疑問を持たざるを得ない日本の司法をとりまく矛盾を強く感じた。
なお、この犯人は、現在も広島拘置所で死刑執行を待っている状態のままのようだ。


プロローグ
・大きく息を吐いて、その青年は、こう言った。
 「僕は・・・、僕は、絶対に殺します」
 不気味に握力のある声だった。
・1999年8月、北九州市・小倉北区の薄暗い喫茶店で、私と青年は向かい合っていた。
 まだ23歳で、学生の雰囲気を残している青年の名は、本村洋(ひろし)。
 のちに日本の司法を大変革させていくことになる人物である。
・「殺す」と言った相手は、彼の最愛の妻と娘を殺めた18歳の少年・Fである。
・この日、妻・弥生(当時23歳)と、一人娘・夕夏(11ヶ月)が惨殺された「光市母
 子殺害事件」の初公判が山口地裁で開かれた。
 本村は、検察官が朗読した冒頭陳述によって、初めて事件の詳細を知った。
 冒頭陳述では、母親のもとに必死ではっていく夕夏が床に叩きつけられ、弥生が死後レ
 イプされる事件のありようが細かく描写されていたった。  
・傍聴席で泣き崩れる弥生の母親を慰め、悔しさと無念さに自らも涙があふれ出た木村は、
 初公判が終わった後、故郷・小倉に戻ってきた。
・「僕は、ひどい男です。僕は自分自身を許せない。絶対に許せない!」
 「どういうこと?なんで自分が許せないの?」
 怪訝に思った私が問うと、本村はふたたび感情を昂らせた。
 「僕は弥生を抱きしめることができなかった。死ぬその時まで、ぼくの名前を呼んだに
 違いない弥生を、僕は抱きしめることもできなかったんですよ」
・目の前の青年が、妻の遺体を抱きしめることができなかった自分を許せない、と泣いて
 いる。 
 あまりに変わり果てた無残な遺体。
 絞殺され、汚物にまみれた下半身を犯人がふき取ってまで死後レイプに及んだ詳細を、
 青年は冒頭陳述によって、初めて知った。
・あの遺体。美しかった生前の弥生。
 それが苦悶の形相で目を薄く開き、ところどころ青紫に変色したまま息絶えていた。
 それは、自分の知っている妻の姿ではなかった。
 そして、そんな変わり果てた妻を見て、彼は抱きしめることができなかったのだ。
・「この男なら本当に犯人を殺すかもしれない。いやたぶんやるだろう」
 私は、青年の涙を見ながら、この時、そんなことを漠然と考えていた。
・被害者は二人で、犯人は18歳になったばかりの少年。
 判決は、無期懲役だろう。
 相場主義に支配された日本の司法で、それ以上、つまり「死刑」を望むのは無理だ。
・私は「負け」という結果のわかっている闘いに、目の前の青年がこれから立ち向かって
 いくことが哀れでならなかった。  
 だが、それよりも、この青年は、少年が刑務所から出てきたら、これを探し出し、本当
 に殺すのではないか、と思った。
 そうなったら、この青年も不幸だ。
 家族もなく、執念と憎しみだけで人生を過ごし、その上、自らも殺人者として獄につな
 がれる。
・本来なら、殺人など考えるべきではない。
 君は何を言っているんだ・・・そう叱るのが、大人である。
 しかし、私はこの若者の迫力に圧倒され、そう諭すことが憚れた。
 不思議な感覚だった。
・なんの飾りも、曇りもないその叫びは、日本の司法の”常識”を当たり前と捉えていた
 笑死の心を揺さぶった。  
 そして、その説得力は、のちに日本全国の人々を共感させ、最後には、山のように動か
 なかった司法の世界そのものを突き動かすことになる。
・それから9年。一審の山口地裁、二審の広島高裁とも無期懲役。
 だが、最高裁での差し戻し判決。
 その末に青年は、ふたたび広島高裁での差し戻し控訴審に臨んだ。
・2008年4月、あの9年前の夏、山口地裁での初公判の時に、この事態を想像した人
 が誰かいただろうか。 
 何度も挫折を繰り返し、司法の厚い壁に跳ね返され、絶望の淵に立ちながらも、青年は
 この日、ついに犯人の「死刑判決」を勝ち取った。
・人は、これを9年にわたる青年の「孤高の闘い」だったという。
 巨大な弁護団を一人で敵にまわして、今は亡き妻と娘のために、若者が愛と信念の闘い
 を最後まで貫いた・・・と。
 だが、その裏には、この9年間、青年を支え続けた、これまた信念の人たちがいた。
 闘いに疲れ、自殺をも考えたこの青年を、その度に「闘いの場」に引き戻し、正義の力
 を説き続けた人たちがいた。
  
驚愕の光景
・1999年4月午後10時前。家族団らんのわが家は、”音”というものが完全に消え失
 せた奇妙な空間と化していた。
 沖田アパートと呼ばれる新日本製鐵の社宅は、団地群を成している。
 全20棟がおよそ四方平方メートルの敷地内に建つ。
 古ぼけたその社宅の第7棟の4階が本村の自宅だった。
・本村は、広島大学工学部を卒業して新日本製鐵に入社した2年目の若手エンジニアだ。
 同社の光製鉄所に配属されて、まだ1年も経っていない。
 この時、本村は連日、残業に追われていた。
・本村には、持病がある。「ネフローゼ症候群」(腎臓疾患)である。
 光製鉄所に配属が決まったのが前年の7月。
 そのわずか数カ月後に持病が悪化し、秋から年明けまで光市立病院で入院生活をおくっ
 ている。
 職場に復帰したのは、年が明けてからだ。
 「職場に迷惑をかけてしまった」
 そんな思いと生来の真面目な性格が、残業に余計、拍車をかけていた。
・学生結婚した妻・弥生との間には、入社直後の5月、夕夏が生まれていた。
 まだ愛知で研修中だった本村は、門司の産科医院に駆けつけ、目がくりくりっとした、
 自分にそっくりの可愛い女の赤ちゃんと対面している。
・その二人がいない。
 こんな時間になんだろう。
 公園やゴミ捨て場のほうを見に行ってみた。
 しかし、どこにも二人の姿はなかった。
 「実家のお義母さんが何か知っているかもしれない」
 そう思った本村は門司に住んでいる弥生の母に電話を入れてみた。
 「弥生と夕夏の姿が見えないんでけど、なにかご存知ですか?」
 「何も聞いてないわよ。夕夏をおんぶする抱っこひもや出かけるときのバッグはどうな
 っているの?」 
・抱っこひもやバッグは、いつも押し入れの中にある。
 本村は、居間の押し入れの左の襖を開けた。
 その瞬間。
 本村の視界に異様なものが映った。
 押し入れの下の段に、座布団の隙間から靴下を履いたままの人間の足首が見えたのだ。
・息を呑んだ本村は、ものすごい勢いで、今度は右側の襖を開けた。
 そこにはむこう向きに人間の形をしたものが押し込められ、手前から座布団が4、5枚
 かけられていた。
 本村は、座布団をはねのけた。
 恐ろしい光景だった。
 口をガムテープで塞がれた最愛の妻・弥生が、いていたカーディガンを腕に巻きつけた
 まま、むこう向きで手を頭の上で縛られ、全裸の状態で息絶えていた。
 本村には、妻が何をされたか、ひと目でわかった。
・「どうしたの?何があったの?」
 受話器の向こうで由利子が叫んでいた。
 本村は義母との電話のまま、弥生の遺体を発見したのである。
 「ダメです。弥生が・・・。もうダメです。死んでいます・・・」
 本村は、そう繰り返した。
・茫然と、本村は、ただ茫然と、妻を見下ろしていた。
 身体が固まってしまった夫は、この時、死ぬ寸前まで助けを求めて自分の名を呼んだで
 あろう妻を、抱きしめることができなかった。
 それどころか、妻の代わり果てた姿に恐怖すら感じていた。
 のちに、本村は、そのことで得体の知れない罪悪感を抱くようになる。
 だが、この時、本村には、そんな感情すら湧いてこなかった。
 動転した本村は、行方のわからない夕夏を探す行動すらとっていない。
・本村は、やっとのことで110番をした。
 「妻が殺されています・・・」
 蚊の鳴くような声で、本村はそれだけを告げるのが精一杯だった。
 その後、何を警察と話したか、全く覚えていない。
・本村は、一報を受けてやってきた光警察署の署員たちに、身柄を確保された。
 本村は、この時、第一発見者であり、同時に容疑者だったのである。
 光署の刑事が、本村からさまざまなことを聴いていた。
 発見したときの状況、それまで何をしていたのか。この日の職場ではどんなことをして
 いたのか。それを証明できる人は誰か・・・。
 一時間ほど聴取したあと、本村は光署に連れて行かれた。
 そこでは、本格的案取り調べが待っていた。
・夕夏はどうしているんだ。生きているのか。誰か夕夏の居場所を教えてくれ。
 本村の目は、狂気におびたような光をたたえていた。
・「これから本村さんの聴取を担当します山口県警捜査一課の奥村です」
 男は、部屋に入ってくるなり、そう名乗った。
 丁寧な口調だが、有無を言わせぬ迫力があった。
 「本村さん、まず発見の状況から教えてください」
・発見の状況?その話は、光署の刑事についさっきしたばかりだ。
 また同じことを言わなければならないのか。
 そんな時間があったら、早く夕夏を探してくれ。
 本村の胸に怒りがふつふつと湧いてきた。
 しかし、奥村はそんな本村の気持ちなど一向に気にする様子もない。
 淡々と、かつ容赦なく質問を重ねた。
 「ところで、娘さんはいくつですか?
 「11ヶ月です」
 「その娘さんはどうしたの?」
 本村は、わかりません、としか答えようがない。
 「君は、娘さんが見つからないのに、探してもいないのか」
 「妻の状況を見て、(動揺して)とても探せませんでした・・・」
・朝5時頃のことだった。
 「検視の結果を持ってこい」
 「今の”検視の結果”というのはどういう意味ですか。死んだということなんですか」
 「残念ながら、娘さんは遺体で発見されました・・・」
・自分には何もない。もう何も残っていない。
 家族の命を守れなかった。
 助けを呼ぶ家族を救うことができなかった。
 いや、生きるためのすべてが自分にはなくなってしまった。
   
死に化粧
・現場に駆けつけた光署の署員は、押し入れの中で変わり果てた弥生を確認した後、すぐ
 に天袋の中から、夕夏の遺体を発見した。
・悪夢は現実となった。由利子は、溢れる涙をどうすることもできなかった。
 生まれてからの弥生の姿が次々と浮かんだ。
 赤ちゃんの頃、おしゃまだった幼稚園の頃、母を助けて家事を手伝ってくれた思春期の
 頃・・・。
 弥生が小学六年になったときに夫と離婚した由利子は、母子家庭の中で、弥生と、五つ
 下の妹を育てた。
 経済的に苦労をかけた。贅沢させたことは一度もなかった。
 しかし、弥生は不満ひとつ言わず、この母を支えてくれた。
・その弥生が死んだ。由利子は、ただ泣いた。
 そして、幸せ薄かった夕夏が不憫でならなかった。
 むせび泣く由利子に誰も声をかけることはできなかった。
・上司の日高良一が、本村を迎えに光署に入ったのは、午後5時半のことである。
 日高は、本村がどれだけ家族を大事に思っている男かを知っている。
 疑いはすぐ晴れる、と思った。
 それより葬儀の段取りに入らなければならない。
 出社した日高は、ただちに動きはじめた。
・本村の新日鐵の同期生をはじめ、およそ30名に通夜参加を要請し、さらに両親からは、
 「葬儀は静かに行いたい」との要請があり、マスコミを規制する通夜会場整理のために
 数十名の追加の手伝いを会社側は決定した。
・仮通夜は、午後7時から始まった。
 司法解剖のため、二人の遺体はまだない。遺影だけの仮通夜だった。
 会場にポツンと立つ若い夫の姿は、参列者の涙を誘った。
・弥生と夕夏の棺が大学病院からおおすみ会館に到着したのは、翌日、本通夜が始まる直
 前である。 
 司法解剖のために、まる一昼夜以上、二人の遺体は、家族から引き離されていた。
 夕夏の棺は、ひときわ小さく、それを見た参列者はハンカチで目頭を押さえた。
・「弥生ちゃん!」
 声を発して駆け寄ったのは、弥生の母・由利子である。
 由利子は、事件後、まだ娘との対面を果たしていなかった。
 運ばれてきた棺が目に入ると、由利子は、われを忘れて駆け寄ったのだ。
・家族も、葬儀の関係者も、その光景に息を呑んだ。
 棺にとりすがって慟哭する由利子は、やがて弥生の遺体に化粧を施し始めたのである。
 最初は、いとおしそうに額や頬を撫でていた由利子は、自分のファンデーションを取り
 出し、わが娘の死に顔をととのえ始めたのだ。
・「弥生ちゃん・・・つらかったね・・・痛かったね・・・」
 泣きながら、母は娘にそう語りかけた。
 そこには、母と娘、ふたりだけの空間だった。
 誰も近づけなかった。我が子に対する母親の鬼気迫る愛情が、誰一人寄せつけなかった
 のである。
・弥生の残された司法解剖の傷は痛々しかった。
 頭頂部には、解剖用の太い糸で縫合した跡が残されていた。
 母は、その傷を見えないようにし、少しでも生前のきれいな娘に近づけようと、必死で
 化粧を施していたのだ。 
・夫の本村でさえ、近づくことはできなかった。
 棺にとりすがって泣きたい衝動にかられた本村も、母と娘との貴重な時間と空間を犯し
 てはならないと思った。
・本村が、棺の中で眠る白装束を着た弥生と夕夏にやっと再会したのは、本通夜が始まる
 寸前である。この時、義母の手によって紅をさされた妻を見た。
 化粧をしても隠しきれない傷跡は痛々しかった。
 しかし、弥生の顔が少し安らかに見えた。義母のおかげだった。
 本村は、強烈な母親の愛情を弥生の死に化粧に垣間見た。
・おおすみ会館は、葬儀場のすぐ横に、畳の広間がある。
 ここで、通夜がおわったあと、家族は故人と最後の夜を過ごすことができるようになっ
 ている。 
・翌日の葬儀には、多くの人が参列した。
 はるばる九州からも本村と弥生、二人の共通の友人が足を運んでくれた。
 「犯人を絶対に許すことはできません」
 出棺に際して、父・敏は会葬の御礼の挨拶の中でそう語った。
 こらえきれず、参列者の間からすすり泣きが漏れた。
・二人は、荼毘にふされた。
 まだ11ヵ月に過ぎない夕夏は、骨というより粉となっていた。
  
難病と授かった命
・福岡県はテニスが盛んな土地柄である。
 テニスにのめり込んでいった本村少年は、次第に「高校に入ったら、さらに本格的にテ
 ニスをやる」という望みを持つようになった。
 だが、この中学生の夢がかなうことはなかった。
・本村は、中学生活の総決算を迎えた3年生の夏、突如、病魔に襲われたのである。
 「身体がだるい。喉が渇く・・・」
 本村が身体の異変に気づいたのは、1990年7月に入ってからである。
 「どこかおかしい」
 そう思いながらも、本村は7月のある日、体調不良を押して、北九州の大会にダブルス
 で出場した。 
 朝起きた時から、めまいがした。
 それでもなんとかベスト16まで進んだ本村が、ついにポールがかすんで見えなくなっ
 てしまった。
 自分の身体の近くに来るボールさえ見えない。
 そのうち試合中なのに立ちくらみまでしてきた。
・「おまえ、何やってんだ!」
 顧問の先生の苛立ちが頂点に達した。
 ゴツン
 テニスのラケットのへりで、本村は頭を叩かれた。
 「痛っ!」
 本村は、頭をさわった。
 「へこんでる・・・」
 ラケットのへりの形のまま、くっきりと頭にくぼみができていた。
 しかも、そのへこみが元にもどらない。
 すでにこの時、本村の頭には腎臓疾患であるネフローゼ症候群特有の「浮腫」の症状が
 出ていたのだ。
・本村は、そのまま近くの病院へ連れて行かれた。
 尿検査をした医者は、あわてて総合病院を紹介した。
・およそ2カ月間の入院で9月にようやく退院を果たした本村少年は、その年の12月、
 再入院することになる。
 再発が多いネフローゼ症候群では、なにも珍しいことではない。
 だが、本村にとって再入院のショックは大きかった。
 夏に2ヵ月余にわたって闘病生活を送ったのに、いざ公購入した目前に迫っていた12
 月、さらに病院での生活が再スタートするのである。
 それもいつ終わるかわからない入院だった。
・彼のいる病棟は、小児科病棟である。
 一片、どこも悪くないように見える本村は、それから病院内をあちこち出歩くようにな
 る。 
・本村は、病院内の養護学校に通うようになった。
 さまざまな病状の子供たちが、ひとつの教室で学んでいた。
 学年も病気も、それぞれ違う子供たちが、同じ教室に集うのである・
 そこは、さながら戦場だった。本村は、自らの運命と闘う自分より年下の子供たちの姿
 にさまざまな思いを抱くようになった。
・やがて、本村は、病院内の養護学校の運動会にも参加する機会を得た。
 いくつかの病院の養護学校の生徒が集まって、体育館のようなところで運動会は開かれ
 た。  
 行き帰りは、病院の救急車だった。
 比較的、元気な子が選ばれて、運動会に参加したのだ。
・それは、これ下で経験してきたどの運動会よりも本村に強烈な印象を与えた。
 さまざまな病状の患者たちが運動会に参加していた。
 顔だけは大人で、身体は小さな子供のような患者が歯を食いしばって競技に参加してい
 た。 
 手が不自由な子は、口で輪を咥えて輪投げに挑戦していた。
 そこには、「助けてあげたい」という言葉さえ軽はずみに言えない雰囲気があった。
・四肢が不自由だったり、内臓に重度の疾患を抱える子どもたちが必死で競技や演技を姿
 を本村は感慨をもって見つけた。 
・好転しない病状に将来を悲観し、自暴自棄になっていた自分が恥ずかしくなった。
 本村にとって、次第に高校受験とは、「受験する」ではなく、「受験できる」に変わっ
 ていった。
 なんて自分は恵まれているのだろう、と。
 生と死、そして人生をいやでも考えるようになっていた。
・主治医の佐藤克子は、いつもよく笑う明るい先生である。
 深刻なことをあっけらかんと言うので、患者は暗くならなくてすんだ。
 「あなたの病気は長く続くんだから、あなたは病気と結婚しなさい。それ、覚悟するの
 よ!」 
 そんな深刻なことを、佐藤は本村にあっさりと言った。
 患者は先生を尊敬し、全幅の信頼を置いていた。
・病院からの受験で、北九州高専に合格した本村は、そのまま病室から学校に通うことに
 なる。 
 病院で同世代の生と死を見た本村は、いつの間にか、「僕は太く短く生きるんだ」
 と考えるようになっていた。
・本村は、高専一年の夏、ひとつの挑戦をおこなった。
 免疫抑制剤治療への挑戦である。 
 本村の病状は、ステロイド投与でもなかなか好転しなかった。
 ネフローゼ症候群への免疫抑制剤投与、それは、当時、究極の治療法だった。
 本村の治療は、すでにこれ以上、ステロイド剤の量を増やせないところまで来ていたの
 である。
 だが、この治療には強い副作用が伴った。
・主治医の佐藤は、本村に治療の選択を委ねた。
 「髪の毛が抜けます。ひょっとしたら、子供ができなくなるかもしれない。でも、あな
 たがやる意思があれば、やるしかないと思うわ。よく考えてみて」
 本村にとって、それは過酷な選択だった。
 「子供ができなくなるかもしれない」
 頭の中で、本村は何度もその言葉を反芻した。
 さすがにその言葉は、ショックだった。
 しかし、入院仲間の生と死を見てきた本村には迷いはなかった。
 ”太く短く生きる”ことをこころに誓った本村には、むしろ望むべき治療だった。 
・高専は、夏休みが長い。大学と同じだ。その休みを利用して、八週間連続投与という木
 村の免疫抑制剤治療が始まった。
 だが、その治療は、本村の身体を容赦なく痛めつけた。
・6週間目、ついに本村の肝臓が、これ以上の免疫抑制剤投与を拒否した。
 肝不全に陥る危険性を示しはじめたのだ。
 治療は中止された。
 だが、本村には後悔はなかった。
 免疫抑制剤治療は中止されたが、ネフローゼには一定の効果があった。
 小康を得て退院した本村は、さっそく「太く短く生きる」を実践しはじめた。
・そんな本村の前に現われたのが弥生だった。
 高千四年の時に、明るくきれいな同じ年の短大生・弥生とコンパで知り合った本村は、
 たちまち恋に落ちた。
・母子家庭の二人姉妹の長女として育った弥生は、経済的には決して恵まれていなかった。
 母・由利子は、弥生が小学六年になったばかりの時に離婚し、弥生と五つ下の妹の二人
 を連れて、家を出ている。
 以後、由利子は女手ひとつでふたりの娘を育てた。
 弥生は、福岡市の福興工業短期大学の情報処理コース電子情報学科に進んだ。
・本村は、弥生の住子ぬけの明るさと女性らしさに魅かれ、高専卒業後に広島大学工学部
 に進んでからも遠距離交際をつづけた。弥生も休みのたびに広島へ通った。 
・「妊娠したかもしれん。どうしよう・・・」
 短大を卒業して福岡市内の株式会社クボタに就職していた弥生から本村のもとにそんな
 電話が入ったのは、1997年9月末のことだった。
 「そうか、きゃ、産もうか」
 即答した本村に、弥生は、
 「本当にいいの?」
 と聞き返した。
 二人はまだ結婚もしていないし、本村は経済的に自立を果たしていない。
 翌年の就職こそ決まっていたものの、本村が学生の身分であることを弥生が気づかった
 のだ。
・だが、本村の喜びは大きかった。
 自分の子供ができる。
 免疫抑制剤の治療までおこなった自分には、わが子を抱ける日は来ないかもしれない、
 と思った時期があった。
 しかし、その幸せが現実にやってきたのである。
・愛する女性との間に子供ができたことに本村は感慨深かった。
 二人は入籍することを決めた。
・弥生は、もちろん本村のネフローゼという持病を知っている。
 母の由利子にも、
 「洋はね、大病を患ったのよ」
 と打ち明けたこともある。
 「大丈夫なの?」
 と心配する由利子に、
 「大丈夫よ」笑顔で答え、それ以上は話さなかった。
 再発の不安にさらされた洋は、いつまで生きられるかわからない。
 そんな本村をいたわって、
 「洋、一緒に生きよ」と弥生は言った。
 若い二人にとって、命とは、かけがえのないものだった。
・「おめでとうございます。産まれましたよ」
 看護婦にそう告げられて、分娩室に行くと、弥生の胸に産着にくるまれた赤ん坊がいた。
 「がんばったね、弥生」
 本村は声をかけた。
 「洋と私の子供よ。抱いてあげて」
 と、弥生は言った。
 不器用な手つきで初めてわが子を抱いた本村は、あふれる涙をこらえることができなか
 った。
 本村は、わが子に「「夕夏」という名前をつけた。
・本村が学生時代によく行った場所に、山口県の北西、日本海に浮かぶ「角島」がある。
 北長門海岸国定公園に指定されている。
 中でも角島の白い砂浜とエメラルドグリーンの海が本村は好きだった。
 高専時代、夏が来ると、この島で何度もキャンプを張っている。
 門島の水平線に沈む夕陽の美しさが忘れられない本村は、夏の夕陽のように人を暖かく
 包む優しい人になってほしいという思いからこの名をつけた。
 本村には夢があった。
 夕夏が大きくなったら家族で角島にキャンプに行き、「夕夏の名前(の由来)は、これ
 だよ」と、水平線に沈むその夕陽をさすことだった。
 だが、それは夢のまま終わった。
・本村が、山口県光市の光製鉄所に配属が決まったのは2ヵ月後の7月だ。
 短かったが、幸せだった家族三人の生活が営まれたのは、光市の新日鐵「沖田アパート」
 である。  
・しかし、本村はその年の秋から持病のネフローゼを再発させ、光市立病院で入院生活を
 送っている。過労が原因だった。
 
逮捕された少年
・「被疑者を逮捕しました」
 「18歳です。同じ社宅に住む男です」
 本村の父・敏は押し黙った。
 犯人は、少年法の保護を受ける。まともな罰は受けさせられない。
 そういう思いが、敏の頭をよぎった。
 隣りにいた本村は、意味がわからなかった。
 この若い夫は、少年法について考えたこともなかったのだ。
 「犯人が逮捕された。捕まってよかった」
 本村は、ただその思いに支配されていたのである。
・犯行4日後の逮捕。それは山口県警捜査一課と光署の徹底的な聞き込みによるものだっ
 た。  
 事件当日、沖田アパートの各戸をまわっていた水道設備会社の制服を着た男の姿は早く
 から浮かび上がっていた。
・犯人のFは、その春、地元の高校を卒業して配管工事などを請け負う光市の設備会社に
 就職したばかりだった。
・Fの父親は、光市に生まれたが、両親は幼少時に離婚。光市の高校を卒業すると、新日
 鐵に就職し、子会社に出向後は、管理職になっていた。
 住居は、本村一家が住んでいた沖田アパートの11棟、本村は7棟だった。
 両者の住居の距離は、直線にしてわずか200メートルほどである。
・本村とFとの面識は全くなかった。
 Fの家族は複雑だ。
 父親と母親は、見合い結婚。
 その翌年にFが生まれた。2年後には、弟も生まれている。
 外から見たら平凡に見えるこの一家は、父親の暴力が支配する家庭だった。
 沖田アパートに引っ越す前、Fが12歳の時、母親は自宅のガレージで首吊り自殺をし
 て、家庭は瓦解した。母はまだ38歳の若さだった。
 原因は、夫の暴力だったと推察される。
・タンスに紐をかけて首を吊ろうとするなどの自殺未遂をおこない、それを発見したFや
 弟が「お母さん、死んだら嫌や」と、止めたこともあった。
 Fが中学一年の9月、母は自殺した。
 第一発見者である父親が台所の板の間に横たえた母の遺体を呆然と見ていた。
 「おまえが勉強せんから、お母さんや自殺したんや」
 Fは、父親からそう聞かされた。
・そのわずか3年後、父親は、フィリピン女性と再婚。
 事件の3カ月前には、父と義母の間に赤ちゃんが生まれたばかりだった。
・Fは、高校入学後には、家出や不登校を起こし、事件の前年(高校3年)の4月、同級
 生宅に侵入し、ゲーム機などを盗んだとして高校から自宅謹慎処分を受けている。
・また、中学3年生の頃から性行為に強い興味を持つようになり、分で親雑誌を見て自慰
 行為にふけったり、友人とセックスの話をしたりしていた。
 Fは、次第に性衝動の鬱積をさせていったと見られる。
・竣工してまだ間もない真新しい山口地方検察庁舎に、Fが光警察署から送検されてきた
 のは、タオ干された翌日の1999年4月のことである。
 髪はボサボサで、不貞腐れたような態度も逮捕直後から変わっていない。
 三階の一番奥の左に三席検事室がある。
 三席とは山口地検で検事正、次席につぐ三番目の地位の検察官を表している。
・この時、山口地検の三席検事は、吉池浩嗣(37)である。
 光市母子殺害事件の主任検事となる吉池は、この日、初めて送検されてきたFと向かい
 あった。
 腰縄をつけられて部屋に入ってきたFには、自分の行為を反省している気配はまるでな
 い。
・送検前、警察の取り調べに対して、Fは、こう供述していた。
 玄関で呼び鈴を押したら、きれいな奥さんが出てきた。
 水道の検査で来たと言ったら、中に入れてくれた。
 かわいい赤ちゃんがいたので、抱っこさせてもらった。
 でも、うっかりして落としてしまった。
 奥さんが「わざと落としたのだろう、警察に通報する」と言って、電話のほうに行こう
 としたので、これを阻止しようと奥さんと揉み合いになった。
 その時、作業服に入れていたカッターナイフが床に落ち、それを彼女がとったので、
 ”やられるかもわからん”と思って、奥さんの首を絞めた。
 奥さんは息をしなくなった・・・
・吉池、そしてこれを引き継いだ尾関利一検事に、Fは、これ以降、詳細に犯行を供述し
 ていく。
 それは、反省という言葉とは無縁のものだった。
・のちに本村は、この時のFと吉池とのやりとりを知ることになる。
 本村は、検事の前でFが本当に真実を語っていたのか、どうしても確認したかったのだ。
 本村は、吉池から聞いたこの緊迫のやりとりから、捜査段階のFの供述こそ「最も真実
 に近い」ものだと思った。
 それと共に、Fが吉池に示したふてぶてしい態度が強烈な印象として残った。
 のちに、その生々しい供述の内容は、裁判でも事実として認定されていく。
 Fの供述は、卑劣な犯行の模様を映し出していた。
・Fは、4月から配管設備会社に出勤し、先輩の社員らに連れられて現場についていくな
 ど見習社員として働いていた。 
 しかし、早くも9日、13日には欠勤し、友人とゲームセンターでゲームに興じている。
 4月14日、Fは、会社の作業服で家を出た。
 家族に会社をズル休みしているのがバレないように、会社支給の作業服で毎朝出勤して
 いるように装っていたのだ。
・Fは、漠然と、セックスをしたいと思うようになった。
 業務用に持ち歩いているカッターナイフで新日鐵社宅に住む女性を脅し、ガムテープで
 手足を縛ってしまえば、セックスできる・・・。
 「美人の奥さんと無理矢理でもセックスをしたい」
 「作業服を着ていれば排水等の工事に来たと思って怪しまれないだろう」
 そう考えたFは、排水検査を装い、社宅の中を一軒一軒訪ねて、”獲物”を物色すること
 にした。
 好みの女性と会えば、そのままセックスしようと思ったのだ。
 順番に呼び鈴を押してまわり始めると、実際、誰にも怪しまれなかった。
 「本当に強姦出来るかも知れない」
 Fは、そう思うようになった。
 しかし、なかなかきれいな女性には出会えなかった。
・やがて、Fは起きたアパートの7棟にやって来た。
 きれいな奥さんが応対した。
 水道設備会社の作業服姿だったFを、彼女は「検査」という言葉を信じて部屋の中に招
 き入れた。 
・トイレに入って、中に閉じこもったFは水を流して下水の検査のふりをした。
 次に風呂場に行く。Fは、ここでも検査のふりをした。
 そのあと、Fは奥さんに「ペンチを貸してください」と頼んだ。
 もう一度トイレに入ったFは、ここでトイレマジックリンを発見する。
 これを顔に吹きつけて目つぶしにして、それから襲おうと決めた。
 トイレから出たら、ちょうど廊下を赤ん坊がハイハイしていた。
 Fは赤ん坊を抱きあげた。
 六畳間近くの床の家に赤ん坊を下ろすと、お母さんが赤ん坊を抱きあげるために前屈み
 になった。
 Fは、背後から抱きついた。仰向けに引き倒して馬乗りになった。
 彼女は大声で叫び、両足をナタつかせて激しく抵抗した。
 そこに赤ん坊がハイハイしてしがみついて泣きはじめた。
 Fは、「殺してからヤレば簡単だ」
 と、手で喉仏を強く、全体重を乗せて押さえつけた。
 指が喉仏にめり込んだ。
 彼女の表情が怖くて、Fは顔も見ず締め続けた。
 やがて彼女の両手がバタッと開いて床に落ちた。
 彼女が死んだと思った。
 生き返るのが怖くなり、ガムテープで手を縛って口をふさいだ。
 それから彼女のジーパンを脱がし、パンティを引っ張り、真ん中をカッターナイフで切
 って脱がした。
 汚物が股間についていた。
 これを拭き取って、Fはセックスした。
 時間は2分間くらいだった。
 セックスを終えたあとも、赤ん坊は母親の肩にすがって泣いていた。
 最初は、あやしたが、泣き止まない。
 風呂桶に入れてみたが、泣き止まなかった。
 押し入れの天袋にも入れてみたが、それでも泣き止まなかった。
 苛立ったFは、赤ん坊を両手で抱え上げて絨毯に頭から叩きつけた。
 一瞬、なき声がやむ。
 だが、息を吹き返した赤ん坊は、ハイハイして、また死んだ母親の肩のところに行った。
 そして、ますます大きな声で泣いた。
 赤ん坊を静かにさせなくちゃまずい。
 近所に聞かれたら人がやって来る、とFは思った。
 両手で首を絞めた。
 だが、赤ん坊の首が細すぎてうまく絞まらない。
 Fは、ポケットに入っていた県道の小手紐と取り出した。
 これを首に二重に巻いて両手で絞めた。赤ん坊は、やっと泣き止んだ。
 Fは、母親の死体を押し入れに運び込み、座布団で隠した。
 赤ん坊は体重が軽かったので両手で抱えて、押し入れの天袋に放り込んだ。 
 それからテーブルの上にあった財布を盗んだ。
 その後、急に逃げ出さなくては、と思い、外に出た。
 友だちと待ち合わせていたゲームセンターに行き、財布に会った地域振興券でカードゲ
 ーム用のカード等を購入して遊んだ・・・
・これが、Fが供述し、のちに裁判で認定された”事実”である。
 浅ましく、救いようのない、短絡的な犯行だった。
 生命や人間に対する憐憫の情がまるでない。
 欲望の赴きままの無惨な犯罪だった。

渡された一冊の本
・俺は、これから何をして生きていくのか。
 なんのために生きるのか。
 それさえわからない。
 あまりに大きな喪失感は、人間を抜け殻にしてしまう。
 一種の廃人である。
 葬儀を終え、犯人が逮捕されると、今度は、本村の身体全体を表現しようのない虚しさ
 が覆った。
・そこには、生きるためのエネルギーが貯まらない。
 先にあるのは「死」である。
 生きる気力を喪った人間は、時に自殺という手段を取ることさえある。
・奥村刑事は、一見、普段と変わらぬように見える本村の態度に、ある種の危険性を感じ
 ていた。 
 それは、刑事としての勘だったのかもしれない。
・Fが18歳であるため、20日間の勾留機関が終わるとFは家庭裁判所に送致される。
 万一、家裁での審理で、「保護処分が相当」との判断が下されれば、Fは、そのまま少
 年院に送られてしまう可能性がある。 
 そうなれば、遺族さえ何も知ることなく非公開のまま事件は闇から闇に消えてしまうの
 だ。それだけは、なんとしても阻止しなければならなかった。
・「犯行の動機や詳しい内容は教えられないんだ」
 「どういう家庭環境で育った少年かも言えない」
 「事件の真相は裁判を傍聴するしかない。しかし、もしかしたら、裁判はないかもしれ
 ない」 
・奥村の口から出てくる言葉は、どれも信じられないものばかりだった。
 それが少年事件というものである。
 本村に初めて「少年法」という壁が立ちはだかってきた。
 迂闊に犯人の名前を出せば、最悪の場合、犯人から名誉毀損で訴えられることもある、
 という。
 どんな家庭環境かも、反省してるのか否か、また、謝罪の意思があるのかどうかさえ、
 本村にはわからなかった。
 
破り捨てられた辞表
・なぜ俺は仕事をしなければならないのか。
 俺は遅くまで働き、会社で頑張ることこそ家族を守ることだ、と思ってきた。
 そのことに微塵の疑いを抱いたことがなかった。
・仕事を通じて、家族を守ることが、男の役目ではなかったのか。
 でも、俺は何だ。
 仕事で家族を守るどころか、家族を喪ってしまった。
 残業、残業と自分だけが仕事の達成感に浸っている時、愛する家族はいなくなってしま
 った。
 仕事で家を留守にしている間に、自分にとって一番大切な家族を殺されてしまった。
・ひょっとして仕事をしていなかったら、残業をしていなかったら、あの日、会社を休ん
 でいたら、愛する家族を喪うこともなかったのではないか。
 いったい俺は、何のために仕事をやっているんだろう。
 そもそも俺にとって、仕事って何だ・・・。
 本村は自問自答を繰り返していた。
・本村が職場に復帰したのは、事件発生から約1ヵ月後の5月半ばである。
 最愛の家族を喪った本村への周囲の目は温かかった。
 誰もが、この青年の立ち直りに力を貸したいと思っていた。
 しかし、本村自身は一見、明るく、気丈に振る舞っていたものの、内面は葛藤を繰り返
 していた。何をやっても、すべてが虚しかったのだ。
 本村の苦悩は日が経つにつれ、深くなっていった。
・6月、山口家庭裁判所は、Fを山口地検に逆走した。
 山口地検は、Fを殺人罪等で起訴し、刑事裁判が開かれることが決定した。
 事件が闇から闇に「消える」ことはなくなったのである。
 18歳以上には、最高刑の「死刑」適用も可能である。
 死刑も視野に入れた激しい攻防が予想される裁判である。
・だが、本村は、初公判が近づくにつれ、日々の生活への集中力や意欲というものを失っ
 ていった。 
 どうしても、家族がいなくなった今、仕事をすることの意味を見出だせなくなっていっ
 たのである。
・「ちょっとお話があるんですか・・・」
 製鋼工場長の日高良一のもとに、思い詰めた表情の本村がやってきたのは、初公判が間
 近に迫った1999年7月末のことである。
 「実は、辞めさせていただきたいと思いまして・・・」
 「会社に来るのがつらいのか」
 「はい・・・」
 「毎朝来てたじゃないか」
 「これ以上会社に迷惑をかけられないと思いまして・・・」
 「辞めてどうするんだ?」
 「しばらくは何も・・・」
 「君は、この職場にいる限り、私の部下だ。
 その間は、私は君を守ることができる。
 裁判は、いつか終わる。一生かかるわけじゃない。
 その先をどうやって生きていくんだ。
 君が辞めた瞬間から、私は君を守れなくなる。
 新日鐵という会社には、君を置いておくだけのキャパシティはある。
 勤務先もいろいろある。
 亡くなった奥さんも、御両親も、君が仕事をつづけながら裁判を見守っていくことを望
 んでおられるんじゃないのか」
 会社を辞めてから何をするかも決めていない本村に対して、なにもかもお見通しの上で
 の言葉だった。
・「本村君」
 「この職場で働くのが嫌なのであれば、辞めてもいい。
 君は特別な経験をした。
 社会に対して訴えたいこともあるだろう。
 でも、君は社会人として発言していってくれ。
 労働も納税もしない人間が社会に訴えても、それはただの負け犬の遠吠えだ。
 君は、社会人たりなさい」
・日高は、この辞表は預かっておく、と言って、ポケットに入れた。
 「わかりました・・・・」
 本村は、そう答えた。
・本村は、あの時、人生を踏み外す寸前だったと、今も思っている。
 もしあの時、あの苦しみに負けて会社を辞めていたら、どうなっていただろうか。
 仕事もなく、ただ裁判で自分は自分の言いたいことだけ吠えつづけていたのだろうか、
 と思う。
 それをストップしてくれたのは、日高の「社会人たれ」というひと言だった。
・会社とは給料をもらうだけのところではない。
 人と人の繋がりがあり、人は会社に守られ、社会に守られ、そして、人として多くのも
 のに貢献していくものだと悟った。 
・のちに本村は、仕事を通じて社会に関わることで、自尊心を取り戻し、社会人としての
 自覚も芽生え、その自負心から少しずつ「被害から回復していく」ことを実際に体験し
 ていく。
 もし、会社という媒体を通じての社会との繋がりがなくなり、一人孤立していたら、そ
 の後の自分はなかった。
 それを痛烈なひと言で日高は本村に教えたのである。
 日高が、預かっていた本村の辞表を「これ、もういいな」と言って、本村の目の前で破
 り捨てたのは、それから一年以上のちのことである。

・1999年8月、司法の歴史にのちに記録されることになる「光市母子殺人事件」の公
 判は、山口地裁で始まった。
 山口地裁の中でも一番大きな法廷だが、それでも傍聴席は、33席しかない。
 その傍聴券を求めて、地裁横の駐車場に希望者が列をつくった。
・Fあ、改定後まもなく右側の被告人専用の中廊下を通って、4人の廷吏に囲まれて姿を
 現わした。
 本村、弥生の母・由利子ら遺族が初めて犯人を見た瞬間だった。
 短く刈った髪と細い目、白いちぇんくの半袖シャツ、太腿が隠れるだけのグレーの半ズ
 ボンに、サンダル履きである。
 サンダルをペタペタさせながら、Fは、頭ひとつ下げることもなく遺族たちの前を通り
 過ぎた。
・「こいつか・・・。こいつが弥生と夕夏を」
 本村は、ぐっと拳を握りしめた。
 隣りの席では、由利子がハンカチを強く握っていた。
 無表情で、妙に細い目だけが目立つ。
 今から仲間とゲームセンターにでも遊びに行くような気楽な格好だった。
 まったく反省している様子はない。
 平然と、Fは被告人席についた。
・弁護人がFに目配せした。
 Fは、一瞬怪訝そうな顔をする。
 そして、はっ、とした。慌ててFはこう言った。
 「遺族の方には、申し訳ないことをしました」
 それは、取ってつけたような”謝罪”の言葉だった。
 Fは、この時、まったくの無表情のままだった。
 罪の重さも、自分が何をしたのかも、いや、なぜここに自分がいるのかもわからないよ
 うな態度だった。 
・遺族は、形だけの謝罪がかえって悔しかった。
 由利子は、弥生の無念を思った。
 こんな男の手にかかったことが不憫でならなかった。
・弥生が死後レイプされたことを本村は由利子に告げていなかった。 
 いきなり裁判でその事実を知ることに義母は耐えられるだろうか。
 思い悩んだ本村は、初公判が近づいたある日、意を決して由利子にそのことを話した。
 その時、泣き崩れた由利子が
 「娘は二度殺されました」
 と絞り出した声を、本村は忘れることができない。
・その死後レイプという事実を知った上で、検察官が朗読した冒頭陳述の凄まじいまでの
 凶行の中身は、遺族の心に深い衝撃を与えたのである。
  
生きるための闘い
・初公判が終わり、本村は、「週刊新潮」に手記を発表した。
 神戸・「酒鬼薔薇事件」の遺族・土師守の勧めによるものだった。
・本村は、マスコミのタブーに挑戦した。
 「告発手記 山口・光市母子殺し事件被害者の夫・本村洋氏
  妻と娘を奪った18歳の少年をなぜ実名報道しない」
・東京法務局は、この実名報道を問題視し、「週刊新潮」に人権侵害であることの勧告を
 おこなった。
 しかし、なぜか手記を書いた本人である本村には、勧告はおろか、ひと言の抗議もおこ
 なわなかった。
・手記の中身は強烈で、かつ説得力に富んでいた。
 それまで西日本を中心に報道されていた母子殺害事件が全国的な関心を呼ぶきっかけと
 もなる報道だった。
・捕まった犯人が少年だったというだけで、名前も絶対に秘密で、迂闊に名前を出すと、
 最悪のケースでは、犯人から名誉毀損で訴えられる危険性もあった。
 マスコミは思考停止したかのように、犯人だけの人権を守り始めた。
 Fの名前も顔も一切出ることはなかった。
・一方、本村本人の勤務先や住所、名前、殺された妻と子の名前は、なんの了承もなくす
 べて公表され、マスコミは家族の写真を求めて、会社の同僚や友人宅まで押しかけてき
 た。 
・Fは少年法によって二重三重に守られ、ほとんどの情報を遺族である自分さえ知ること
 ができなかった。
 犯人が果たして罪を認めているのか、反省しているのか、謝罪の意思はあるのか、なぜ
 犯行に及んだのか、どういう家庭環境に育ったのか、そんなことも少年法の壁によって
 封じられていたのである。
・また、Fには、逮捕後すぐに国選弁護士が駆けつけ、法的、精神的なアドバイスを行い、
 Fの人権を守るためと称して警察やマスコミを監視したり警告を発したりしていたが、
 本村には、法的なアドバイスや精神的ケアをする人は誰もいなかった。
 「何かがおかしい」
 本村は、そう思いながら悶々と日々を過ごした。
・「人を二人も殺害し、謝罪すらしない人間を守る”人権”とは何なのか」
 本村には、マスコミの誤ったヒューマニズムに侵され、公開されるべき情報を勝手に自
 主規制し、国民の前から隠しているように映った。
・しかし、取材にきたテレビ局の記者は本村に向かって、こう言った。
 「”強姦”ということがわからないように報道しますので安心してください」
 本村は、ショックを受けた。
 マスコミがうわべだけのヒューマニズムに毒されている証拠だと思った。
 真実が報道されなければ、つまり、どんなひどいことが行われたのかが報道されなけれ
 ば、死んだ人間は浮かばれない。
 犯行の罪人性を和らげて、どうして二人が味わった苦しみや怒り、残忍さが理解される
 のか。  
 強姦の事実を隠すことがヒューマニズムだと勘違いしているレベルでは、ジャーナリズ
 ムの存在意義はない。
 本村はそう思った。
 たとえ少年であっても、これほどの残虐な重大犯罪を犯し、公開の法廷で裁かれている
 人間は実名報道されるべきだと本村は思った。
・本村は、そのことをマスコミに訴えた。
 しかし、どのメディアも思考停止したかのように、犯人の名前はおろか、本村の名前す
 ら、匿名にしたのである。 
・本村の意見に賛同したのが「週刊新潮」だった。
 本村は、犯人の名前を実名で報道することを条件に「週刊新潮」に手記を発表したので
 ある。
・初公判から2カ月経った1999年10月このとである。木村を新たな闘いへ導く一本
 の電話が入った。
 電話の主は、林良平、1998年夏、大阪で、「犯罪被害者の権利を確立する当事者の
 会」(全国犯罪被害者の会)である。
・林の妻は、その3年前の95年1月、看護婦として勤務する病院前で、見知らぬ男に包
 丁で刺され、重い後遺症を負っていた。
 医療費の負担や、病状が固定したとして労災支給が打ち切られるなど、犯罪被害者を徹
 底的に軽んじる国に対して怒りを抱いた林は、後遺症に苦しむ妻と2人の息子を抱えな
 がら、被害者救済活動を展開していた。
・林が木村に電話したのには理由があった。
 前年の12月に、読売新聞の「論点」という欄に弁護士の岡村勲が犯罪被害者の権利拡
 充と刑事裁判の問題点を訴えた論文を発表した。
 犯罪被害者が司法の世界で無視されているか、そして婚儀どうすればいいか、法律の専
 門家として、そして犯罪被害の当事者として、初めて訴えていたのだ。
・林はその論文を読み、自分が出している犯罪被害者のパンフレットへの掲載の許可を求
 めると共に、なんとか岡村弁護士と一緒に犯罪被害者のための救済活動を展開できない
 ものか、と考えていたのである。
・岡本弁護士は、山一證券の顧問弁護士を務めていた1997年10月、山一證券を逆恨
 みした男によって留守宅を襲われ、家にいた婦人が殺害されるという痛ましい事件に遭
 遇した犯罪被害者遺族だった。
・本村は、岡村弁護士のことを聞いて、にわかに興味を抱いた。
 岡村が読売新聞に書いた論文こそ読んでいなかったが、犯罪被害者の置かれている現状
 を法律家としての専門の立場から痛烈に問題提起しているという事実が、本村の関心を
 呼んだのだ。  
・10月、のちに「全国犯罪被害者の会(あすの会)」に発展していく歴史的な会合が、
 岡村綜合法律事務所で始まった。
 集まったのは、5人の犯罪被害者だ。
 ・岡村勲
 ・林良平
 ・本村洋
 ・宮園誠也(池風通り魔殺人事件被害者遺族)
 ・渋谷登美子(埼玉県嵐山ボートピア誘致をめぐる暴力団襲撃事件被害者)
・「僕は、家族を守ってあげられなかっただけじゃない。妻を発見した時、妻を抱くこと
 もできなかったんです。情けない、本当にひどい人間なんです」
 木村は涙ぐみながら、そう語った。木村はさらにこう続けた。
 「事件が報道されても、犯人の実名さえ報じてくれません。今では、妻が死んだあと強
 姦されたという事実さえどこも報じてくれません。事件の悲惨さが伏せられて、どうし
 て妻と子供の苦しみやつらさがわかるんですか。少年は、どこまでも守られている。
 せめて実名で報じてほしい。父として、夫として、僕は、家族に何もしてあげられない
 んです」
・その時、岡村が発した言葉を、本村は忘れられない。
 いや、その言葉にとって、本村の前に新たな道が現われたといってもいいだろう。
 「本村君。それは、法律がおかしんだ。そんな法律は変えなければいけない」
 岡村は、そうきっぱりと言ったのである。
・法律を変える。それは、本村にとって、考えてみたこともなかったことだった。
 発想の中にまるでなかったと言っていいだろう。
 法律は「変える」ことができる。市民が「法律を変える」ことができるのか?
 それは、本村にとって新鮮な驚きだった。
・おかしいのは法律だ。この国の制度が間違っている。それを変えなければいけない。
 法律の専門家である岡村が、そう言い切ったのである。
 本村に新たな希望が湧いてきたのは、この岡村の言葉を聞いた時からだった。
・仲間ができた。本村はそう思った。無性に嬉しくなった。
 本村にとって、それは事件後、初めて見出だした”希望の光”だった。
 自分は一人ではない、という思いが、本村の心の中に広がっていった。
 岡本のひと言は、絶望と孤独だけの中で喘いでいたこの青年に、大きな勇気をもたらし
 たのだ。
・戦後、「人権」といえば、犯罪者の管理であると誤解される風潮が蔓延した。
 二重三重に守られるのは、加害者の側であって、フィル人な犯罪によって命を絶たれた
 り、後遺症で将来を奪われた被害者の声はほとんど無視されてきた。
・日本弁護士連合会(日弁連)とそれを支持する大マスコミによっていつの間にか犯罪者
 の「利益」を過剰に擁護し、その心の中までおもんばかることが、人権を尊ぶこととさ
 れるようになっていたのである。 
・平穏に暮らす人々の本当の「人権」が軽んじられ、犯罪者が「人権」という言葉を盾に
 する社会となった。
 犯罪を犯す少年たちは、自分たちが少年法によって守られることを当たり前だと思い、
 たとえ人を殺しても、早ければ、二、三年で少年院から舞い戻ってきた。
・そんな風潮に敢然と「ノー」を突きつけた。それは、待ちに待ったものだった。
 その意味で、この会は、犯罪被害者の権利を訴えるだけのものではなかったかもしれな
 い。
 戦後の民主主義そのものに対する痛烈なアンチテーゼを示したという見方もできた。
 
正義を捨てた裁判官
・本村が、遺影の持ち込みをめぐって裁判所と激突するのは、岡村と出会ってわずか半月
 後のことだった。
 1999年11月、光市母子殺害事件の第三回公判が山口地裁で開かれた。
・本村が遺影を持ったまま入ろうとすると、裁判所の職員が本村に声をかけた。
 「荷物は預けてください」
 「これは荷物ではありません。遺影です。妻と娘の入廷を許可してください」
 本村は、拒否し、そのまま法廷に入ろうとした。
 本村には、信念があった。岡村の言葉が信念の源だった。
・本村には自信があった。
 二人の遺影を抱いたまま、ぐっと本村が歩を前に進めたことで、緊張が走った。
 職員三人が、本村の前に立ちはだかって、手をひろげたのである。
 「これは規則だ。持ち込みは許さない」
 「そんな法律があるんですか。いったい誰の裁判をやっているんですか!」  
 「ダメなものはダメだ!」
 「裁判官の指示だ。理由は必要ない」
 「では、裁判長に会わせてください!私が直接、話をします!」
 「そんなことはオマエにはできない。こじゃごじゃぬかすな!預ければいいんだ!」
 職員が言い放った。
 さすがに、成り行きを見守っていた十人ほどのマスコミの人間たちから、
 「そんな言い方はおかしいだろう」
 と、声が上がる。
・「遺影を入れないなら、私は裁判を傍聴しません」
 「じゃあ、骰満潮が会うかどうか、聞いてこよう」
 と、法廷に入っていく。
 しかし、もどってきた職員は、信じられない言葉を発した。
 「裁判官は、あなたたち被害者に会い義務もないし、あなた方が裁判官に会う権利もな
 い」 
 それが答えだった。
・「なんでそうなんですか。おかしいじゃないですか!」
 本村は愕然とした。
 「裁判というのは、裁判官と検事と被告人の三者でやるもので、被害者には特別なこと
 は認められていない」 
 職員はそうつけ加えた。
・被害者には特別なことは認められない。職員は、そう言うのである。
 では、いったい裁判というのは、誰のために、何を目的としてやっているんだ。
 そんな素朴な疑問が本村の頭の中をぐるぐると駆け巡った。
・本村は、廊下の反対側にある部屋に入るように促された。
 吉池検事が入ってきた。困った職員が、検事に助けを求めたのだ。
 「君の言っていることは正しいと思うし、裁判所の言っていることはおかしいと思う。
 いずれこういうことを治していかなければいけないと思う。
 でも、今は君の奥さんと娘さんの裁判をつづけることが大事なんだ。
 ここは裁判所の意向に従ってほしい」
 吉池は、怒りに震える青年の目を見ながら、そう言った。
・職員は、遺影に巻く黒い布を持ってきた。
 「これを巻くなら、遺影が入ってもいいそうだ」
・「ごめんね。パパを許してね」
 本村は、弥生と夕夏に向かってそう言いながら、黒い布で遺影を覆った。
 本村が傍聴席に座ると、裁判は、15分遅れて、何事もなかったように始まった。
・たとえ自分に会わなくても、理由を説明することぐらいはできるはずである。
 なぜ遺影を持ち込むことがだめなのか、どうして黒い布をまいて傍聴させるのか、その
 説明を裁判官はすべきである。
 しかし、裁判官は「説明して欲しい」という本村の要求にまったく応えようとしなかっ
 た。
 公判後、記者たちがこの理由を渡邉裁判長に求めたが、「コメントできない」と、渡邉
 に拒否された。
・裁判官にじゃ説明する義務もなければ、法廷でのことは一切自分に従えという意識しか
 ないことを本村は知った。恐ろしい傲慢さというしかない。
 裁判官というのは、本当に国民の奉仕者である「公務員」なんだろうか。
 それは、素朴な疑問だった。
・いまどきこんなことが許される世界が現に存在している。
 そのことが不思議だった。
 公務員でありながら、それは独裁者なのである。
 そんな公務員がいていいのだろうか。
 それが国民の奉仕者と言えるのか。
・本村は、渡邉をにらみつけた。
 すべての公判を通じて、渡邉に鋭い視線を送った。
 だが、狭い法廷で、渡邉は一度も本村を見ることはなかった。
 本村は、次第に裁判官への信頼を失っていった。
 誰しも裁判官のことは、”頭脳明晰にして人格優秀”だと思っているはずだ。
 だが、実際はまったく違う。
 恐ろしいほど傲慢であっても、トラブルになった相手と視線をあわせることもできない
 ような気の弱い人間なのである。  
 遺影をめぐる一件があってから、本村の中に、裁判官への不信感が増幅されていった。
・本村には、忘れられないシーンがある。
 1999年12月、第五回公判で、検察の論告求刑がおこなわれた。
 「何の罪もない被害者の遺体を欲望の赴くままに辱め、その上、傍らで泣き叫ぶ被害児
 を頭の上から床に叩きつけた」
 「その犯行は卑劣極まりなく、自己中心的で、酌量の余地はまったくない」
 「遺族の処罰感情は峻烈で、社会的な影響等の重大性や一般予防の見地からも極刑をも
 って臨むほかない・・・」 
・そこにはFの鬼畜のような犯罪を糾弾する激しい文言が並んでいた。
 Fは、検察側の朗読の途中、何度も検事をにらみつけた。
 そして最後に、検察は、Fに「死刑」を求めた。
 朗読したのは、吉池検事である。
・「死刑を求刑する」
 吉池の声には、力がこもっていた。
 その瞬間だった。
 Fの背中がぴくっと震え、Fの耳から下がみるみる赤くなっていったのである。
 傍聴席からFのうしろ姿を見据えていた木村は、その異変を見逃さなかった。
・自分の罪の重さ、やってしまったことの意味さえわかっていない。
 反省や謝罪などとは無縁の態度をとっていたF。
 だが、検事の口から「死刑を求刑する」という言葉が出た瞬間、Fにそんな変化が起こ
 ったのだ。 

・判決が近づいてきた。
 桜の季節がやってきた。
 あれから一年近くが経つ。
 家族三人で美しい桜を見てから、まもなく一年だ。
・本村は、そわそわと落ち着かなくなった。 
 もし、死刑判決が出なかったらどうすればいいのか。
 弥生と夕夏に自分はどう報告すればいいのか。
・遺影に黒い布まで巻いて、屈辱の中で見つづけた法廷。
 その結果が、「死刑」でなかったら、自分はいったいどうすればいいんだろう。
 そう考えると、木村は何もかも手につかなかった。
・司法の専門家は、「死刑は無理」「無期懲役だ」という。
 しかし、あれほどの犯罪をしでかした人間が、死刑判決を受けないということがあるだ
 ろうか。
 そんなはずはない。
 絶対にそんなはずはない。
 本村は自分自身に何度も言い聞かせていた。
・もし、判決が死刑でなかったら、命を断とう。
 本村はそこまで思い詰めていた。
 公判は、すべて見た。
 Fに心からの謝罪や反省はまるでない。
 罪の大きさを自覚していないことは、公判を傍聴していればわかった。
・しかし、被害者が二人なら判決は「無期懲役」だろう、と専門家は言う。
 本村は「被害者が二人なら」という司法の常識が許せなかった。
 一人であろうと二人であろうと、人を殺めた者が、自らの命でそれを償うのは当たり前
 のことである。  
 なぜ「二人なら」という条件がつくのだ。
・三人上にならなければ、いや、少年事件では、過去に死刑となった永山則夫が殺した
 「四人」という数さえ死刑の条件のように語られていた。
 本村には、それが納得いかなかった。
 もし本当に司法がそこまで数字にこだわるなら、抗議のために命を断とう、と思ったの
 である。 
 自分が死ねば、事件に関連して死んだ人間は「三人」になる。
 そうすれば、社会も声をあげてくれるかもしれない。
 そうだ、社会に訴える手段として、自分が命を断とう。
 24歳になったばかりの本村は、そんなことを考えたのだ。
・どうせ生きていても、弥生や夕夏は戻ってこない。
 自分の目の前にあるのは絶望だけだ。
 それなら、控訴した後の次の判決に希望をつないで、自分はそのために自らの命を断と
 う、と思ったのである。 
・被害者遺族にとって、判決というものは、そこまで重いものなのである。
 判決直前に居ても立ってもいられなくなった本村は、気持ちが昂って、ぎりぎりまで自
 分を追い込んでしまったのだ。
・2000年3月、光市母子殺害事件は、六回の公判を経て判決の日を迎えていた。
 法廷は、午前10時に始まった。
 冒頭、主文はあとまわしにすることが渡邉裁判長から告げられた。
 主文があとの場合は、死刑判決の可能性がある。
 「ひょっとしたら・・・・」という緊張感が法廷に張りつめた。
・Fが法廷で強姦と殺害について「計画性がなかった」と主張した点について、判決は、
 犯行前にわざわざ布テープを取りに行ったことなどから強姦の計画性を認めたものの、
 殺害の計画性までは認定しなかった。
 また、犯行態様は極めて冷酷かつ残忍で、非人間的だが、18歳だったという年齢から、
 「内面の未熟さが顕著であってなお発育過程の途上にある」
 「これまで顕著な非行行動は認められず、不良文化の親和性は深化していない。
 人格の偏りもあるが総じて未熟な段階にあり、可塑性を残している。
 矯正教育は不可能ではないであろう」
 「被告人質問や最終陳述の際に、被害者らに思いを致し涙を浮かべた様子等を併せ考慮
 すると、当初は内面の未熟さゆえに必ずしも事の重大性を認識できていなかったと解さ
 れるものの、公判審理を経るにしたがって被告人なりの一応の反省の情が芽生えるに至
 ったものと評価できる・・・」
・渡邉裁判長は、法廷でFが謝罪したところを重く見たのである。
 「被告人の中にはなお人間性の一端が残っているものと評価することができ、矯正教育
 による改善更生の可能性がないとは言い難い・・・」
・そこからは、過去の事例紹介のオンパレードである。
 ・永山則夫事件
 ・名古屋のアベック殺人事件
 ・市川の一家四人殺害事件
 などを例により、被害者が「二人」の場合、無期懲役が妥当であることを判例文は示唆
 していく。 
・本村は聞きながら、「この判決は無期懲役判決を下すための口実ばかりを探している」
 と思った。 
 本村にとって、無期懲役というのは、あれほど残酷な手口で、なんの罪もない妻と娘を
 殺した男が、「わずか七年で仮出獄の権利を得ることができる」ことを意味している。
・「主文。被告人を無期懲役に処する」
 渡邉裁判長は、そう言い渡した。
 その瞬間、弥生の母・由利子は泣き崩れた。本村も滂沱の涙だった。
・渡邉裁判長は、主文を言い渡したあと、Fに向かって、
 「わかりましたか」
 と声をかけた。するとFは、
 「ハイ、わかりました」
 と、元気に答えた。
・法廷は異様な空気につつまれた。   
 傍聴席で遺族が泣き崩れるなか、裁判長と被告人の間で、そんなやりとりが交わされた
 のである。
 「やった!」というFの心の叫びが聞こえてくるかのようだった。
・対照的な両者の姿。
 報道席にいた記者たちの心に、その光景が焼きついた。
 涙を流しながら義母の背中をさするこの青年の言っていることのほうが正しいのではな
 いか、と初めて感じた記者も少なくなかった。
・由利子のすすり泣きは法廷に響いていた。
 「裁判とは、被害者に配慮する場所ではない」
 その言葉が証明された。
 本村には、それが無性に腹立たしかった。
 配慮されるのは、被害者ではない。加害者だけだ。
 日本の裁判は狂っている。そう思った。
・弥生と夕夏は誰にも迷惑をかけず、慎ましく生きていた。
 そして、18歳の少年の欲望の赴くままに惨殺された。
 しかし、渡邉裁判長は、生きていれば必ず傍聴に来たであろう、その二人の遺影の持ち
 込みさえ認めず、その理由も説明せず、さらには、加害者へかける言葉はあっても、
 ついに夷族にはいたわりの言葉ひとつなかったのである。
 そして、出した判決は、個別の事情には何の関係もない、過去の判例に縛られた単なる
 「相場主義」に基づいたものだった。
・裁判官は被害者の味方ではない。むしろ敵だ。
 裁判の結果に加害者ではなく、被害者の側が泣く。
 それが日本の裁判だと、本村はこの時、思い知ったのである。
  
凄まじい検事の執念
・「司法に絶望しました。控訴、上告は望みません。早く被告を社会に出して、私の手の
 届くところに置いてほしい。私がこの手で殺します」
 それは殺人予告だった。
 司法に絶望した。
 自分の手で犯人を殺す。
 唇を震わして、そう言ってのけた青年の迫力に居並ぶ報道陣は、声を失った。
 さすがに、いかに被害者遺族といえども、記者会見という公の場で、「報復殺人」の予
 告をやってのけるとは、誰も予想していなかった。
 ニュースを通じて、初めて本村の凄まじい怒りが全国の人々の目に映った。
 それは、見たものをたじろがせるに十分な迫力だった。
・そして、本村はこう語った。 
 「判決の瞬間、僕は司法にも、犯人にも負けたと思いました。
 僕は、妻と子を守ることもできず、仇を取ることもできない。
 今は二人の遺影を見るのも辛いです。
 妻と娘に何も報告してあげることができません。
 司法にこれほどまでに裏切られると、もう何を信じていいのかわからなくなりました。
 結局、敵は、被告人だけじゃなくて、司法だったように思います」
・「遺族だって回復しないといけないんです、被害から。
 人を恨む、憎む、そういう気持ちを乗り越えて、また優しさを取り戻すためには・・・
 死ぬほどの努力をしないといけないんです」
 涙をこらえながら、木村がそう声をしぼり出した時、記者たちの中に、涙を浮かべる者
 も出た。 
 取材する側にも家族はいる。妻や子供がいる。本村の気持ちは痛いほどわかった。
・痛烈な記者会見だった。
 木村の姿は、そのまま全国にニュースとして放映された。
 その衝撃的な映像は、多くの国民にインパクトを与えた。
・遺族たちは、判決の結果に肩を落として吉池の三席検事室に入って行った。
 その時である。
 「僕にも、小さな娘がいます。母親のもとに必死で這っていく赤ん坊を床に叩きつけて
 殺すような人間を司法が罰せられないなら、司法は要らない。
 こんな判決は認めるわけにはいきません」
 銀縁の眼鏡をかけ、普段、穏やかでクールな吉池検事が、突然、怒りに声を震わせたの
 である。
 目が真っ赤だった。本村たちは息を呑んだ。
・「このまま判決を認めたら、今度はこれが基準になってしまう。
 そんなことは許されない。
 たとえ上司が反対しても私は控訴する。
 百回負けても百一回目をやります。
 これはやらなければならない。
 本村さん、司法を変えるために一緒に闘ってくれませんか」
 涙を浮かべた吉池の言葉に、遺族のほうが圧倒された。
 言葉が出なかった。凄まじい正義感だった。
・吉池には、小学1年になる娘がいた。   
 24歳になったばかりの目の前の青年が、妻と幼い娘を斬殺されて、これだけ闘ってい
 るのに、自分はそれに何も報いることがでなかった。
 検察は、公益の代表者であると同時に、被害者遺族の代弁者でもある。
 吉池は、自分の無力さを痛感した。
 しかし、あきらめてはいけない。
 負けたからといって、すべてをあきらめるわけにはいかないのだ。
 挫けそうになる気持ちを振りはらうかのように、吉池がそう言った時、遺族は、その姿
 に感激した。
・揺るぎない信念と正義感で訴えてくる目の前の吉池の姿に、本村は突き動かされた。
 「こんな判決を残してはいけない」
 吉池は、そう訴えている。
 そのために自分に協力してくれ、と頼んでいる。
 この時、本村の頭に初めて「使命」という言葉が浮かんだ。
 吉池の涙が、その言葉を思い起こさせた。
 単なる自分の「応報感情」を満足させるだけではない。
 司法にとって、そして社会にとって、今日の判決がなぜいけなかったのか、どうしてこ
 れを許してはならないのか、自分も訴えるべきではないのか、と思った。
 それが、ひょっとしたら、自分に課せられた「使命」ではないのか。
 それこそが弥生と夕夏の死を本当に「無駄にしない」ことではないのか。
 吉池の姿を見ながら、本村はそんなことを考えていた。
・本村には、この時、ある航空チケットが渡されていた。
 テレビ朝日の「ニュースステーション」が、今日の判決に関して、生出演してくれない
 か、と要請してきたのである。
 人生で、これは最初で最後になるかもしれない。
 自分の主張を社会に理解してもらおう。
 それが犯罪被害者たちのためである。弥生、夕夏のためでもある。
 このチャンスを生かさなければならない。
・その日、30分遅れの夜10時半からスタートしたテレビ朝日「ニュースステーション」
 に、本村は出演した。
 キャスターの「久米宏」に促されて、本村は、こう判決の感想を語り始めた。
 「遺族として一番悔しいのは、過去の判例を、二つも三つもあげて、過去にこういった
 少年事件があったけど、無期になっています。だから無期ですと、今までの判例と整合
 性をとっていることです。
 裁判官としても、これで突かれることはないだろうというところが見えるし、あと、
 家庭環境の不遇というのも挙げている。
 誰だって不遇なことがあって、その不遇な中で罪だけは犯さないように生きてる。
 私だって、持病もあるし、妻も、離婚されたお母さんと母子家庭の中で育っています。
 そういった中でもみんなそれぞれ罪だけは犯さないように、人間として前向きに生きて
 いるわけです。  
 それを家庭環境が不遇だから情状酌量しましょうと言えば、ほとんどの犯罪が情状酌量
 になってしまうんじゃないかと思います。
 少年の無期懲役というのは、少年法で読む限り、最短で7年で仮出獄できます。
 ということは、いま19歳の少年は26歳で社会復帰できるわけです。
 また同じ犯罪を犯すかもしれない。
 その時に、こういった判決を出した裁判官、もしくは弁護人というのは責任を取るのか。
 無期懲役を出すのは自由ですが、その判決についてきちんと責任が取れるのかどうかと
 いうことを、私は裁判官に問いたいと思います」
・事件報道に関しても、かなりおかしいと思っている点が多いですか?
 「まず、実名の件から言いますと、事件直後、私たち家族の名前というのは、何ら許可
 なく実名で報道されました。 
 ただ、犯人が捕まって、犯人が少年だったということで、まず、犯人側が匿名になりま
 す。
 で、犯人が匿名になったから、被害者側も不公平じゃないかということになって、被害
 者側も匿名になった局が何社かあります。
 で、その後に、事件の内容が、どうも性的虐待があったようだということが徐々にわか
 ってくると、私たち家族が、すべて匿名に変わったんです。
 事件の内容によって実名・匿名を変えるんであれば、事件の内容がわかるまでは報道す
 べきじゃないんですよね。
 とうして少年の場合は匿名報道するんですかと、取材に来られた記者の方に聞くと、
 少年の人権を侵害してしまうからですと言われるんです。
 じゃあ、あなたたちは、被害者の名前というのは、なんら許可なく報道していますが、
 それは人権の侵害にならないんですか、と聞くと、誰も答えられない。
 実名報道で、本当に人権が犯されるのかとか、本当に少年の将来の更生に支障をきたす
 のかとかは、実は一切考えていなくて、思考停止しているだけです。
 少年は匿名だ、被害者は実名でいいんだという、慣例的にやっていることに、おかしい
 なと思いました」
・「妻は強姦されています。最初、事件報道は、強姦という事実が明らかになると、
 ”奥様の名誉が傷つけられますから”ということで、乱暴目的だとか、そういう言い方を
 されていました。
 しかし、事実が伝わらなければ、どれだけ事件が悲惨だったかわかりません。
 どれだけ犯人が酷いことをしたかということが伝わらなければ、妻と娘は浮かばれない
 と、私は思いました」
・この国では、被害者側はほんとに無力なんですね、と久米がため息を漏らすと、本村は
 こう応えた。
 「今の刑事訴訟法の中には、私が読む限りでは、被害者の権利という言葉は、ひと言も
 なくて、被害者ができることは、なにも書かれていないんですよね。
 結局、国家が刑罰権を独占しているんで、強い国家が弱い被告人を裁くという、で弱い
 被告人には権利をたくさん保障してあげましょうという構図が見えて、そこから被害者
 が、ポツンと置き去りにされているんですね。
 ですから、例えば遺影を持ち込むことにしても、駄目です、と言われる。
 で、駄目なのには、何か理由があるでしょう?と、その理由を聞くと教えてもらえない。
 私を止めるのは、衛視なんで、誰の命令ですか?と聞くと、裁判長です、と答える。
 あなたは理由を知らないんですね?と聞くと、そうです、と言う。
 じゃあ、私が、裁判長に直接会いから、裁判長に会わせてください、と言っても、裁判
 長は、あなたに会う義務もないし、あなたは、裁判長に会う権利もない、と言われて、
 結局、四面楚歌なわけです」
 「でも私は、事件の真実を知る手段は裁判しかないんで、裁判を傍聴するしかないんで
 すよ。しかし、遺影を持っていれば、入廷できません。
 そして、”布をまけばいいですよ”って言われる。
 でも理由は説明してもらえない。
 どうして布を巻けばいいのか、よくわからないですけど、私は、毎回、遺影に向かって
 謝って布を巻き、裁判を傍聴しています。
 事件の真相が知りたいんで、そうやって傍聴しているということです」
・昼間の記者会見と、夜の生出演。
 それは、子供を持つ全国の親たちの魂を揺さぶるものとなった。
 反応はすぐ現われた。
・「無辜の被害者への法律的な救済が、このままでいいのか。本村さんの気持ちに政治家
 として応えなければならない」
 記者団に囲まれた「小渕恵三」総理が、突然、本村の名前を挙げて犯罪被害者問題に言
 及したのは、判決が出たその日のことである。
 一国の総理が、特定の犯罪被害者遺族の名前を挙げて「その気持ちに答えなければなら
 ない」と発言するのは、稀有なことだった。
 総理を取り囲んでいた官邸クラブの記者たちもその言葉に驚いた。
・この11日後、小渕は脳梗塞で倒れ、順天堂大学病院に入院。
 退院することなく、そのまま亡くなった。
 小渕が息を引き取る2日前、内閣が提出した「犯罪被害者保護法」と「改正刑事訴訟法」
 「改正検察審査会法」が国会を通過した。
 これによって、刑事裁判を傍聴することしかできなかった犯罪被害者に、法廷での意見
 陳述が認められることになる。

明るみに出たFの本音
・2000年9月、広島高裁で、光市母子殺害事件の控訴審は始まった。
 この時、本村は、山口地裁であれだけ拒否された弥生と夕夏の遺影の持ち込みを許可さ
 れている。
 ただし、「被告人には見えないように」という条件つきである。
 布を巻かない二人の遺影を法廷に持ち込むことができたのは、初めてのことである。
 確実に司法が変わりつつあることを本村は感じた。
・あっという間に全国に支援の輪が広がり、この年の5月には、遺族傍聴席の確保、公判
 記録を閲覧・コピーする権利などを定めた犯罪被害者保護法などが成立、被害者には、
 公判での意見陳述権も認められ、これまで、承認として出廷し、質問に答えることしか
 できなかった被害者が、自らの医師で心情を述べることができるようになっていた。
・第一回公判冒頭から、検察は激しい闘志をむき出しにしている。
 「原判決は、被告人に反省する情が芽生えているとして、厚生可能性に結びつけている
 が、被告人は、捜査段階においては、反省を促す取調官に軽蔑した態度をとり、留置場
 内でテレビゲームをしたいと述べたり、父親に漫画本の差し入れを要求するなどし、
 また、原審段階でも遺族に対する真摯な謝罪の態度示していないなど、今日まで反省悔
 悟の情は認められない」
 「原判決は、前科がないことなどから被告人に犯罪的傾向が顕著ではないとして、これ
 も前同様の厚生可能性に結びつけているが、本件は、被告人の人格に深く根ざした自己
 的、攻撃的な危険性が発言した犯行であり、本件のような特異な凶悪重大犯においては、
 犯罪的傾向の有無・程度を判断するに当たり、前科前歴の有無以前にこのような被告人
 の危険性を重視すべきであり、原判決の判断はあまりに皮相かつ形式的である・・・」
・過去の判例にだけとらわれて、つまり被害者の「数」だけにとらわれて個別の事情を見
 ようともせず、国民の法感情から遊離していくことを司法は許容するのか、それは、
 事なかれ主義、相場主義に終始する裁判官への痛烈な批判でもあった。
・第二回公判では、早くも検察側証人として本村本人が登場している。
 「うしろにいるFをこの手で殺してもいいと思っています。遺族一同、Fの死刑を切望
 しています」  
 「不幸な環境で、必死に生きている人はたくさんいます。
  それが減刑の理由にはなりません。
  (一審の無期懲役は)Fの反省を根拠にしているが、反省など認められません。
  事件後一年半経つ今も、弁護士を通じてすら、Fから謝罪は何ひとつありません」
・Fに、犯した罪に対する反省の情などあるはずがない。
 捜査にあたった警察や検察の人間には、そのことがわかっていた。
 18歳少年への死刑判決を回避するためだけに、裁判長が「反省の情あり」と無理やり
 持ってきたことを捜査のプロたちは知っている。
・しかし、そのFの本当の心情を裁判の場で立証しなければならない。
 山口県警と山口地検の捜査官は、Fと文通している人間を一人ひとり訪ねていった。
 そして、手紙の中身を教えてほしいと頼んだ。
 ある者は見せ、ある者は拒否した。
 頭をさげて、何通か見せてもらった。拘置監の中でやりとりされていた手紙も見せても
 らった。執念の捜査だった。
 そこには、Fの本音が凝縮されている部分がいくつもあった。
・「これを提供してください」
 熱心な捜査官の願いに、首を縦に振ったのは、わずか2人だけだった。
 2人から提供された計27通のFの手紙。うち23通が証拠として採用された。
・最初にこれが法廷に出たのは、2000年12月の第三回公判である。
 これに対する弁護側の抵抗は激しかった。
 「これは、本人が裁判に証拠として用いられることを承知しないまま出した手紙だ。
 本人の同意なしに証拠採用するのは通信の秘密を侵している。憲法違反だ」
 弁護側は、異議を申し立て、徹底抗戦に入った。
・手紙が証拠採用され、法廷で朗読されたのは、翌年4月の第五回公判でのことである。
 それを検事が法廷で読み上げた時のFの驚愕、そして傍聴席の仰天は、尋常なものでは
 なかった。 
 「まず、殺しについてだが、私は二人を絞殺した。もし惨殺とか刀で切るなら「スッキ
 リ」「ためになる」とか言える。もし射殺とかピストルなどの飛び道具なら「快感」
 「自慢」になる。二点共、ヒーローになれるからな、一刻でも一秒でもテレビの中のス
 ーパーマンもしくは敵キャラ。だけど、紋殺やバラバラ殺人などは後味が悪く、寝ると
 くりかえされる禁断なのよ」
 「残酷は一種の変態であるからして、私は異常性欲、だが、よく言えば赤ん坊、そして
 興味心が人一番だった。
 知ある者、表に出過ぎる者は、嫌われる。本村さんは出過ぎてしまった。私よりかしこ
 い。だが、もう勝った。終止笑うは悪なのが今の世だ。ヤクザはツラで逃げ、馬鹿は精
 神病で逃げ、私は環境のせいにして逃げるのだよアケチ君」
 「誰がゆるし、誰が私を裁くのか・・・そんな人物はこの世にいないのだ。神になりか
 わりし、法廷の守護者たち・・・裁判官、サツ、弁護士、検事たち・・・。
 私を裁ける者は、この世におらず・・・二人は帰ってこないのだから・・・」
 「犬がある日かわいい犬と出合った。・・・そのまま「やっちゃった」、・・・これは
 つみでしょうか」
 「無期はほぼキマリでして、7年そこそこで地上にひょっこり芽を出す」
・検察はこれらの手紙を手に、「Fは、本件犯行を犬の交尾にたとえている」と、厳しく
 糾弾した。 
・この裁判にかける当局の執念を、本村は垣間見た。
 「検察は交易の代表者であると同時に、被害者遺族の代弁者」という吉池検事の言葉を、
 本村は思い出した。
 検察も警察も、このまま正義が負けてたまるか、というすさまじい闘志でこの裁判に立
 ち向かっていたのである。
・マスコミの報道は、この新たな証拠に、ふたたび過熱した。
 手紙の中身は、テレビで、そして雑誌で、ひとつひとつ紹介されていった。
・2001年12月、控訴審では、広島高裁での被害者遺族の意見陳述という大きな舞台
 を迎えた。広島高裁で初めて意見陳述権を行使する人間となった。 
 紺色のスーツ姿の本村は、感情の昂りを抑え、冷静に、そして淡々と陳述していった。
 「妻と娘の最期を知っているのは、F君、君だけです。
 妻と娘の最期の表情や最期に残した言葉を知っているのは君だけです。
 妻は君に首を絞められ、息絶えるまでの間、どんな表情をしていたか、どんな言葉を残
 したか、母親を目の前で殺された娘は、どんな泣き声だったのか、必死にハイハイして
 君から逃れ、息絶えた母親に少しでも近づこうとした娘の姿はどんなだったのか、君は
 それを忘れてはいけない。妻と娘の姿。それが、君の犯した罪だからです」
・傍聴席から由利子のすすり泣きだけが聞こえてきた。 
 「君がどんな家庭環境で育ち、どのような経験を経て犯罪に至ったかが罪ではない。
 君が殺した人の夢や希望、人生そのものを奪ったことが罪なのだから。
 そして、君は妻と娘のことについて何ひとつ知らない。
 だからこそ反省も出来ないし、己の犯した罪の大きさを知ることすらできない。
 ただ、唯一君が妻と娘の人生を知る術として、妻と娘の最期の姿である。
 きっと、妻と娘は最後まで懸命に生きようとしたと思う。生きたいと願ったと思う。
 その姿を君は見ている。
 妻と娘の最期の表情や言葉を君は忘れてはならない。
 毎日思い出し、そして己の犯した罪の大きさを悟る努力をしなければならない」
・Fは背中を丸め、頭を垂れて聞き入っている。
 「君が犯した罪は万死に値します。いかなる判決が下されようとも、このことだけは忘
 れないでほしい」
 
「死刑」との格闘
・殺された妻と子への愛を胸に、死刑の意味を問いつづけるこの青年の語る言葉に、多く
 の日本人が足を止め、耳を傾けるようになっていた。
 同時に、では、本当に「死刑」は必要か、なぜ必要なのかという根本的な問いが繰り返
 し本村にぶつけられるようになっていった。
・人を殺した人間は、どれだけ更生しても「死刑」という罰を受けるべきだ、という木村
 の考えに変わりはない。
 立派に構成した人間でも死刑からは逃れられない。
 その事実をから、社会が多くのことを学ばなければならない、と木村は思っている。
 なぜなら、被害者は二度と帰ってこないし、被害者の無念や断ち切られた夢や希望は、
 どんなものをもってしても償えないほど大きなものだからだ。
 たとえ、少年であっても、結局は必要だという本村の核心は揺るぎなかった。
 
敗北からの道
・2002年3月、広島高裁での皇祖神判決の日、本村は、いつも胸に抱いていた弥生と
 夕夏の遺影を持ってこなかった。
 理由を聞かれた本村は、こう答えている。
 「これまでは、一人で判決を聞く勇気がなく、妻と娘の力を借りてきてました。
 でも、今日は一人で判決を聞こうと思いました」
 だが、たった一人で聞くというその本村の勇気は、報われることなく終わった。
・主文は冒頭に告げられた。控訴棄却、すなわち無期懲役である。
 本村は、「Fに死刑を下す」という闘いに、またしても敗れ去ったのである。
・だが、朗読された判決理由の中身は、想像以上に厳しかった。
 「本件強姦致死及び殺人の各犯行は、その結果が誠に重大であるところ、犯行の動機に
 酌量の余地はまったくない。
 すなわち、早く性行為を経験したいとの気持ちを強めていた被告人は、強姦によってで
 も性行為をしたいと考え、被害者に対し、強姦の目的で暴行を加えた上、被害者から激
 しく抵抗されると、殺害してまで姦淫し、さらに、殺害された母親の傍らで被害児が泣
 き続けるのに対し、付近住民が泣き声を聞きつけて上記犯行が発覚することを恐れると
 ともに、被害児が泣き止まないことに腹を立て、理不尽にも被害児の殺害にまで及んだ
 ものであり、その犯行動機は、極めて短絡的かつ自己中心的で卑劣というほかない」
・重吉孝一郎裁判長は、時折、Fに目をやりながら、朗読をつづける。
 「犯行の態様は、冷酷で残虐なものである。
 すなわち、被告人は、上記会社の作業服を着用し、排水検査を装って言判示の沖田アパ
 ートの呼び鈴を鳴らし、被害者がこれを信用したのに乗じて室内に入り、被害者の背後
 から抱きつき、被害者がおどろいて悲鳴をあげて手をばたつかせるのに対し、肩をつか
 んで後ろに引き倒し、仰向けになった被害者の身体に馬乗りになった上、激しく抵抗す
 る被害者の首に両手を掛けて、その喉仏を両手の親指で思い切り押さえつけるようにし
 て首を絞めた」 
 「被害者が被告人を振り落とそうとして、さらに激しく体を動かし、また、被害児が被
 害者の顔の辺りに這って来て、激しく泣き叫んでいるにもかかわらず、何らためらうこ
 となく、全体重をかけて被害者の首を締め続け、被害者が動かなくなった後には、その
 口の布テープを貼り付けた上、手首を縛って、姦淫の目的を遂げた。
 さらに、被告人は、泣き止まない被害児を床に叩きつけた上、両手で被害児の首を絞め
 て殺害しようとしたが、うまくいかなかったので、被害児の首に所携の紐を二重に巻き、
 これを思いきり引っ張って首を絞め、被害児を殺害した。
 上記一連の犯行において、被害者及び被害児に対する殺意を生じた後は、被告人は、
 被害者らに対する憐憫の情やその生命を奪うことに多雨するためらいといった感情をう
 かがうことはできず、被告人は、強姦と殺人の強固な犯意のもとに、凶悪な暴力によっ
 て、被害者らの生命と尊厳を踏みにじったものであり、残虐な犯行というべきである」
 「被告人は、本件当日、自宅で昼食をとって再び外出した後、”美人の奥さんと無理や
 りでもセックスをしたい”などと考え、排水検査を装って、沖田アパートを十棟から七
 棟にかけて順番に回って女性を物色し、被害者を強姦するに至ったものであり、本件各
 犯行のうち強姦は、計画的な犯行であると認められる。
 これに対し、弁護人は、強姦の点についても計画性はなかったと主張するが、原判決が
 「量刑の理由」の項において説示する上記計画性を肯定する旨の判断は、供述の信用性
 の判断を含めて正当なものとして是認することができ、弁護人の上記主張は失当である」
 「しかし、被害者らの殺害は、原判決が正当に説示するとおり、事前に計画されたもの
 とは認め難く、ことに、被害児の関係では、被告人は、付近の住民が被害児の泣き声を
 聞きつけて、被害者殺害の犯行が発覚することを恐れ、被害者の傍らで泣き叫ぶ被害児
 を泣き止まそうと抱いてあやしたり、風呂場の風呂桶の中に入れたり、押し入れの上の
 段に入れたりしたものの、被害児が泣き止まなかったため、激高し、被害児を殺害する
 ことを決意してこれを実行したというものであり、被告人の行動は場当たり的であって、
 被害児の殺害は偶発的なものであることが顕著である。
 そして、上記強姦が計画的なものであってからといって、殺害行為を含めた犯行全体が
 計画的なものであるということはできない。
 なるほど、本件各犯行は、これを全体としてみれば、一回の機会に犯されたものではあ
 るものではあるけれども、このことは、殺害行為を含めた犯行全体が計画的なものであ
 ることとは別問題である」
 「被告人は、遺族に対しては、謝罪の手紙すら一度も書いたことがない上、当審におけ
 る事実取調べの結果によれば、被告人は、原審での被告人質問が行われた平静11年
 11月から原判決の言渡しや控訴申立ての後にわたって、知人に対し、わいせつな話題
 や遺族を中傷するかのごとき表現をも含む手紙を書き送っていることが認められ、その
 記載内容や書き送った時期等から判断すると、被告人は、本件各犯行の重大性や遺族ら
 の心情等を真に理解しているものか疑問を抱かざるを得ない」
 「被告人の上記の手紙の内容には、相手から来た手紙のふざけた内容に触発されて、こ
 とさらに不謹慎な表現がとられている面もみられることともに、本件各犯行に対する被
 告人なりの悔悟の気持ちをつづる文面もあり、これに原審及び当審各公判廷における被
 告人の供述内容や供述態度等を併せかんがみると、鑑別結果通知書や少年調査票中で指
 摘されているように、被告人は、自分の犯した罪の深さを受け止めきれず、それに向き
 合いたくない気持ちの方が強く、考えまいとしている時間の方が長いようであるけれど
 も、公判廷で質問をされたという余儀ない場合のみならず、知人に対して手紙を書き送
 るという任意の場合でも、時折は、介護の気持ちを抱いているものと認めるのが相当で
 ある。
 したがって、被告人の反省の情が不十分であることはもとよりいうまでもないが、被告
 人なりの一応の反省の情が芽生えるに至っていると評価した原判決の判断が誤りとまで
 はいえない・・・」 
・焦点となったFの手紙に対して、不十分ながらも反省の情が芽生えていると、重吉は判
 断したのである。
 犯行の重大性や遺族らの心情を理解しているのか疑問だが、一部の手紙や法廷での供述
 態度などから、悔悟の気持ちは抱いていると思える、というのだ。
・そして、それをもとに、「被告が更生する可能性がないとは言い難い」とした。
 そんなバカな。
 それは、根拠もなにもない。ただFを無期懲役にするために引っ張り出してきた理由と
 しか遺族には思えなかった。
・結局、一審と同じだ。
 個別の事情に目を向けようとしない。
 先に結論ありきの判決であることに、なんの変りもなかった。
 あのFの手紙を読んで、悔悟の気持ちを抱いているなどと思う人がいるはずがない。
 捜査当局の執念も、司法の「相場主義」の前では無力だった。
 本村は無性に虚しかった。
・最初から結論が決まっているなら、審理など必要がない。
 いや、そもそも裁判官なんて必要ないではないか、と本村は思った。
 なにも人が裁判官をやる必要がなく、コンピューターにやらせればいい。
 その方が誤差もなくなり、確実に判例や相場に基づいた判決が下せるはずである。
 日本の司法では、少年がどんなにひどい殺し方をしても、被害者が「二人」では死刑に
 ならないという。
 どんな証拠を出しても、「相場主義」には勝てないのである。
・本村は、日本の司法が”法の下の平等”や、”裁判官の独立という大原則を、まったく
 捨て去っている、と思った。 
 職業裁判官の世界やルールにとらわれるあまり、人間個人としての良識の上で各々の裁
 判官が立っていないのではないか、と思ったのだ。
・裁判官にも、立派な見識を持ち、すぐれた人間性の人はたくさんいるに違いない。
 しかし、あの黒い法衣をまとった瞬間から、真実を解明し、罪を裁くという本来の使命
 ではなく、裁判官として、エリートとして生き抜くことが、最大の目的になり、個々の
 事例を詳細に検討し、新たな判断を下す勇気を失ってしまったのではないか、と思った。
・裁判官には、刑罰権は裁判所しか持っていないことを思い出してほしい。
 検察には、捜査権や逮捕権はあっても、刑罰権はない。遺族も同じだ。
 本来あってしかるべき刑罰権が、遺族にも与えられていない。
 それを行使できるのは、裁判官だけである。
 その責務をきちんと果たしてほしい。
 本村は、裁判官にそのことを言いたかった。
・閉廷した時、記者たちは、不思議な光景を見た。
 Fや弁護人、検察官たちが法廷から出ていったのに、重吉裁判長は、なぜか退廷しなか
 ったのである。
 すすり泣く弥生の母・由利子のかたわらにいた本村は、ふと重吉裁判長の視線に気づい
 た。重吉は、本村をじっと見ていたのである。
 二人は、閉廷後の法廷で目を合わせた。
 本村は、立ち上がった。そして、重吉にむかって深々と頭を下げた。
 重吉も本村に頭を下げた。
 重吉は、一礼し終わると、やっと満足したように立ち上がった。
 そして、法廷から出ていった。
 それは、裁判を長く取材してきた記者たちも見たことのないシーンだった。
 たった一人の傍聴人に頭を下げるために、裁判長がずっと待っていた。
 ありえない光景だった。
 記者たちも、そして本村本人も、重吉のその姿に裁判官というものの苦渋を見た気がし
 た。
 重吉の目が、遺族に対して、この不本意な判決をわびているように思えたのだ。
 最高裁が動かなければ、どうしようもない。
 罪刑の均衡の面からも、いわゆる「永山基準」と言われる死刑適用の基準の面からも、
 自分には、どうしようもない。
 重吉の目がそう訴えているように見えた。
・記者会見に臨んだ本村は、二年前の一審判決の時とは、雰囲気がまるで変わっていた。
 時折、涙こそ浮かべるものの、あの激しい怒りの言葉はついに出てこなかったのである。
 「裁判官も人間です。われわれ遺族の気持ちを十分にわかった上で、あの判決を出され
 たのだと思います。 
 おそらく何日も何日も悩まれたんだろうと思います。
 判決には納得していませんが、裁判官の方たちには不満はありません」
 「結局、私は家族を守ることができず、自分の手で仇を討つこともできなかった。
 そして司法にその気持ちを受け入れてもらうこともできなかった。
 私は、なんと無力な人間だと感じています」
 「妻と娘の命は、この判決のように軽いものではありません。
 被害者にとっては、加害者が成人であるか少年であるかは関係ないんです。
 被告は、やはり少年法に守られました。
 少年法、あるいは古い判例に裁判所がいつまでもしがみついているのではおかしい。
 時代に合った新しい価値基準を取り入れていくのが司法の役割だと私は思います」
・日本の国の価値基準を決めるのは司法である。
 その司法の中で、重要な役割を負っている裁判官たちが、出世であったり、保身であっ
 たり、とても狭い世界の中で、自分の思いを達成しようとしているとしたら、これほど
 空しいことはない。
・正義とは何か。日本の正義の価値基準とは何か。
 そういう大原則に、裁判官は立ち向かってほしい。
 そして、法が国民のためにあるという根本を、裁判官は思い出してほしい。
・日本の法律というのは、量刑の範囲が広い。
 人を殺しても、懲役五年から死刑まで選択できる。
 つまり、裁判官は、それだけ大きい権力を与えられているのである。
 だからこそ、真実を解明して、社会正義に添った判決を下して欲しいし、裁判官にはそ
 れを下す勇気を持ってほしかった。 
 本村は、新たな加害者も新たな被害者も出さない理想社会への第一歩は、この裁判官の
 勇気からこそ始まると信じている。
 裁判所は社会に対して、こういうことをすればこうなるんだ、という”正義の価値”を
 示してほしかった。
 裁判所はそういう基準を示すことができる唯一の場所なのだ。
・2003年7月、全国犯罪被害者の会を代表して、岡村勲代表、林良平幹事、宮園誠也
 幹事三名と共に、本村は、首相官邸で「小泉純一郎」総理と面会した。
 この時、全国犯罪被害者の会が犯罪被害者の権利を訴えて全国で展開した署名運動によ
 って、39万63人もの署名が集まっていた。
 その数は、加害者なかりに向いていた日本の刑事司法のあり方に対する国民の怒りを表
 していた。
 政府もその声を無視できなくなっていたのである。
・小泉も光市母子殺害事件のことは知っている。
 家族を惨殺された哀しみのどん底から這い上がってきたこの青年の話に恋地味は熱心に
 耳を傾けた。 
 「だめ!こりゃいかん!今すぐやろう!」
 「今すぐチームを立ち上げて。今すぐだ!」
 「その通りだ!そうじゃなかったのか?日本は」
・小泉は、最も手を差し伸べなければならない犯罪被害者が蔑ろにされ、加害者だけ手厚
 く遇される現状を初めて知ったようだった。

現われた新しい敵
・2005年11月末、一本の電話が本村の携帯電話にかかってきた。
 広島高裁の控訴審判決から、3年8カ月が経過していた。
 「最高裁が弁論を開くことになったようです。検察の上告を認めて、死刑の公算が高く
 なります。コメントをいただけますか」
 読売新聞記者からの電話だった。
 事件の時に23歳だった本村も、もう29歳となっていた。
・本村は、これが本当なのか、まだ半信半疑だった。
 最高裁に検察が上告して一年が経過した時、最高裁があっさり棄却しなかったことで期
 待を抱くようになったのは事実だった。 
 最高裁への上告では、ある日突然、上告棄却の知らせがくるのが通例である。
・上告棄却の通知は1年以内に来るものだと聞いた。
 しかし、1年半になり、2年になっても、その通知は来なかった。
 記者の話を聞きながら、本村はこれが事実であってほしい、と願った。
・30分後、正式連絡がきた。今度は、検察からだった。
 最高裁が弁論を開く、そのことが正式に告げられた。
 最高裁が、ついに被害者の声に耳を傾けてくれたのである。
 事件から6年が経ち、やっと新たな展開が見えてきたのだ。
 長かった。本当に長かった。
 弥生と夕夏が亡くなってすでに6年7ヵ月もの年月が経過していた。
 いつの間にか、青年の頭には、事件当時には1本もなかった白髪が何本も見えるように
 なっていた。  
・日本の法曹史上、信じられない出来事が起こるのは、その2006年3月のことだった。
 最高裁法廷で開かれる上告審弁論。遺族にとって、この日の法廷は大きな意味を持って
 いた。
 妻と娘の無念を訴え、「被害者の声を司法に」と運動しつづけた本村が、最高裁の重い
 扉をこじ開けたことは、誰よりも遺族たちが知っている。
 妻と娘への愛をどこまでも貫く本村が揺り動かした最高裁判所で、最高裁判事の真実の
 声をこの耳で聞かなければならなかった。
 そして、ひと言、お疲れさん、よく頑張ったね、と本村に声をかけてあげたかった。
・だが、その法廷は異様なものとなった。
 弁護人が法廷を欠席したのだ。
 日本の司法の最高の権威である最高裁法廷を欠席したのは、「安田好弘」と「足立修一
 である。
・安田はオウム真理教事件麻原彰晃の一審の主任弁護人を務めた。”死刑反対派”弁護士
 である。   
 麻原裁判の最中、98年には、強制執行妨害容疑で逮捕されるが、自ら明らかにした証
 拠をもとに上げしく抗戦。一審で無罪判決を受けた(二審は逆転有罪)・説得力のある
 語り口と、徹底した資料分析に定評がある。
・足立も、死刑反対派の弁護士として数々の刑事事件で被告人の弁護を引き受けてきた。
・二人がFと初めて面会したのは、わずか2週間前だった。
 非利須磨拘置所を一、二審の弁護人と共に訪れたのである。
 二人は、ここでFの衝撃の言葉を聞いた、という。
 「強姦するつもりはなかった」
 そう語ったFが、次の接見でも、
 「(ふたりを)殺すつもりはなかった」
 と、二人に告げたという。
 Fのこの言葉に、安田と足立は「覚悟を決めた」のである。
・欠席と言いながら、最後には出廷するだろう。それが記者たちの見方だった。
 しかし、安田も足立も、法廷には姿を現わさなかった。
 本村は、憮然とした「濱田邦夫」裁判長の顔を見た。
 記者たちも濱田の怒りを見てとった。
 前代未聞の事態である。
 司法の最高峰・最高裁判所の法廷に弁護人が欠席して、法廷が開けないというのだ。
 ここまで最高裁が愚弄された例は、もちろん過去にない。
・「弁護人は裁判を遅らせる目的であることは明らかである。結審を求めます」
 検察は、濱田にそう求めた。
 だが、殺人など法定刑が言って以上の罪について、刑事訴訟法は弁護人不在のまま開廷
 できないことを規定している。
 検察は、その規定の例外として、検察側だけの弁論をおこなって結審すべきだと求めた
 のである。
・浜田は他の裁判官との合議のために一度、法廷を出た。
 合議を終えて再び戻ってきた濱田は、検察の要求こそ認めなかったものの、異例の見解
 を表明する。
 「弁護人は出頭すべき職責を負っているにもかかわらず、正当な理由に基づかず出頭し
 なかったと認めざるを得ず、極めて遺憾と考える」
・濱田はこの5月一杯で最高裁判事の退任が決まっていた。
 弁論を6月まで延ばせば、この事案は濱田の後任が担当になる。濱田が退任すれば、
 新たな合議が始まる。
 弁護人の意図は透けて見えていた。
・結局、小倉と倉敷から上京してきた両親たちは、最高裁の弁論を見ることができないま
 ま、帰路についた。
 「今までの裁判を七年間にわたって傍聴してきましたが、これほどの屈辱を受けたのは
 今回が初めてです」
 司法記者クラブでの会見で、本村は怒りを隠さなかった。
 「弁護士は、法廷で弁論をおこなうことが職務のはずです。最高裁の法廷に出席できな
 いような弁護士はいらない。弁論の期日は、前からわかっていたはずなのに準備不足と
 いうのは、遺族を侮辱する以外のなにものでもない」
・本村は、この翌日に安田、足立の両弁護士が所属する弁護士会へ懲罰請求を申し立てて
 いる。 
 裁判欠席騒動で、社会の批判は、安田、足立の個人へ向けられたが、問題の本質はそこ
 ではないと感じたからだ。
・彼らが裁判を欠席したのは、このような行為をもってしても弁護士資格は剥奪されない
 という安心感があるからであり、弁護士資格を会が得ている弁護士会がこれを正当化し、
 容認する限り、この手の横暴が繰り返されることは火を見るより明らかだった
 本村は、安田、足立個人の責任を問うというより、「被告人の利益のためには、どんな
 ことをしてもいい」という弁護士会への痛烈なアンチテーゼを提示したかったのである。
 だが、結局、この懲戒請求は退けられ、弁護士会の意識革命が起こることはなかった。
・2006年4月、異例の出頭在廷命令を出されて翌日の最高裁弁論に臨まざるを得なく
 なった二人の弁護士は、司法記者クラブで、驚くべき記者会見をおこなった。
 そこで両弁護士が披露した”事件の真相”は、その後、日本中を驚愕させた第一声だった。
 これまで一度も主張したことのない「新事実」を彼らは語り始めた。
・「これはFに殺意はなく、弥生の口を塞ごうとしたら、たまたま喉に手が入って死んで
 しまった傷害致死事件である。
 また夕夏に対しても、これをあやそうとしてヒモを蝶々結びにしたら死んでしまったの
 であり、これも殺人ではなく傷害致死であり、共に殺意は存在しなかった」
 安田は自信満々にそう語っていた。
 およそ1時間にわたるパフォーマンスだった。
 途中、安田は、実際に逆手で足立の喉に手をあて、彼らが主張するその時の状況を再現
 した。 
 「検察官は、両手の親指で指先が真っ白になって食いこむまで強く押さえつけたと主張
 していますが、被害者の喉仏のあたりには、ちいさな皮下出血と表皮剥奪が一つずつし
 かない。親指によって強く圧迫されたことによる表皮剥奪及び皮下出血は一切存在して
 いないんです。
 その上、喉仏ではなく、首に手で圧迫された痕が存在しており、その長さと位置関係か
 ら(被害者を絞めたのは)、右手の逆手であることは明らかです・・・」
 「私たち弁護人は、被告人と第一回目の接見の時に、”強姦目的で抱きついたのではない。
 寂しくて、つい家の中に入れてもらって、優しくしてもらいたいという甘えの気持ちか
 ら、抱きついてしまった”ということを告げられました。
 そして次には、”(弥生に)抵抗されて、パニック状態に陥り、もうその後に、無我夢中
 で、なにがなんだかわからないまま結局、二人を死に至らしめ、また(弥生を)姦淫し
 てしまったのです”と訴えられました。
 それ以来、私たちが、彼がほとんど持っていなかった刑事記録を差し入れ、被告人と一
 緒になって一つ一つの記憶をたどり、他の証拠と突き合わせをしていくとともに、元東
 京都監察医務院院長の「上野正彦」博士に意見を聞くという作業をやってきたのです」
・安田の根拠は、残された弥生の遺体写真である。
 被害者の遺体は比較的きれいで、首について痕がどうしても検察側の立証結果と合致し
 ない。 
 そして、暴行を受けたのはコタツやストーブがあった場所なのに、手足に打撲痕跡さえな
 いのである。
 暴れいて抵抗したというのも事実と違うのではないか。
 そもそも被告人が被害者に馬乗りになるという行為自体がなかったのではないか。
 安田はそう考えたというのである。
・「事件の真相は、被害者が声を上げるのを押さえ込もうとして下顎部を右手の逆手で押
 さえ込んだものの、その手が頸部にずれてそのまま頸部圧迫となり、その結果として、
 被害者を窒息死に至らしめたのです。
 つまり、被告人は、大声を出されるのを止めようとしただけであって、およそ殺害する
 目的ではなかったわけです」 
 「被告人は、記録を読んで、現在、記憶を喚起しています。彼が新たに思い出したとこ
 ろによると、座椅子に座ってテレビを見ていた被害者の背後から、そっと抱きついた際、
 抵抗にあって一緒に後方に仰向けになり、そのまま左腕を背後から首付近に巻きつけて
 スリーパーホ−ルド(プロレスの技の一つ)のような形で押さえつけたところ、被害者
 は、いったん失神したというのです。
 これはたいへんなことになったと、呆然としていたところ、気がついた被害者に背後か
 ら光るもので腰あたりを不意に殴られた。
 それでびっくりして被害者に覆いかぶさり、そのまま、押さえつけたというのです」
・光るものを持った弥生がFに襲いかかる様子のイラストまで掲げて安田が説明を始めた
 時、さすがに居並ぶ記者たちに、戸惑いが広がった。
 これは殺人事件ではない。だから無期懲役でも重すぎる。
 二人は「たまたま死んだ」のだから、これは傷害致死事件である。
 安田はそう主張したのである。
・1時間にわたった会見は、記者たちを驚かせた。
 弥生が襲いかかってきたので、それで押さえつけた。
 あたかもその行為が正当防衛であったともとれる主張である。
 これまで数々の刑事裁判で名を馳せてきた安田のことだ。
 記者たちも、はたしてどんな主張をしてくるのか注目していたが、その奇抜さは彼らの
 予想をはるかに超えたものだった。 
・たしかに最高裁が弁論を開いたのだから、普通の戦い方では「死刑」を回避できないの
 は、衆目の一致するところである。
 しかし、情状に訴えるのではなく、ここまで”新事実”を披露するとは、誰も予想してい
 なかった。
・安田の狙いは、死刑を回避するだけでなく有期刑まで持っていくことだ、と司法記者た
 ちは感じていた。
 そのためには、被害者「二人」の死因をいずれも「傷害致死」に持っていくしか方法は
 ない。
・「仮に差し戻し控訴審で死刑判決を受けても、明白な事実誤認ということを徹底的に主
 張して、再審請求することまで視野に入れているのだろう。
 どんなことをしても死刑執行を阻止してみせる、という彼らしい考えだ」
 記者たちは、そう話し合った。
・翌日、最高裁の弁論は開かれ、前日の記者会見通り、安田は、足立両弁護人は、こう主
 張した。 
 「殺人及び強姦は成立しない」
 「少年が寂しさのあまり被害者にやさしくしてもらいたいと思って、そっと抱きついた
 こときっかけであって、強姦の意思はなかった」
  「驚愕のあまり誤って被害者を死亡させたものであって、殺意はなく、被害児に対し
 ても、床に叩きつけてたり、首を絞めたりしたことはなく、泣き止ませようとして首を
 紐でゆるく巻いて蝶々結びをしたものであって殺意はなく、いずれも傷害致死にとどま
 る」
・一、二審ではまったく言及されたこともないこの主張を初めてわが耳を聞いた本村は、
 言葉を失った。

熾烈な攻防
・「主文。原判決を破棄する。本件を広島高等裁判所に差し戻す」
 2006年6月、最高裁判所法廷で、退官した濱田邦夫裁判長に代わって、「上田豊三
 裁判官が判決主文を読み上げた。
 最前列傍聴席に陣取っていた本村は、万感の思いが込み上げた。
 それは、本村にとって三度目の判決である。
 Fに死刑判決を、と叫びつづけた本村に、ついに最高裁が応えたのである。
・判決の中身は、痛烈なものだった。
 「白昼、ごく普通の家庭の母子が自らに何の責められるべき点もないのに自宅で惨殺さ
 れた事件として社会に大きな衝撃を与えた点も軽視できない。
 被告人の罪責は誠に重大であって、特に酌量すべき事情がない限り、死刑の選択をする
 ほかないものと言わざるを得ない」 
 「被告人は、強姦という凶悪事犯を計画し、その実行に際し、犯行抑圧の手段ないし犯
 行発覚防止のために被害者自らの殺害を決意して次々と実行し、それぞれ所期の目的も
 達しているのであり、角殺害が偶発的なものと言えないことはもとより、冷徹にこれを
 利用したものであることが明かである。
 してみると、本件において殺害についての計画性がないことは、死刑回避を相当とする
 ような特に有利酌むべき事情と評価するには足りないものと言うべきである」
 「被告人は、捜査のごく初期を除き、基本的に犯罪事実を認めているものの、少年審判
 段階を含む原判決までの言動、態度等を見る限り、本件の罪の深さと向き合って内省を
 深め得ていると認めることは困難であり、被告人の反省の程度は、原判決も不十分であ
 ると評しているところである」
 「原判決は、量刑に当たって考慮すべき事実の評価を誤った結果、死刑の選択を回避す
 るに足りる特に酌量すべき事情の存否について審理を尽くすことなく、被告人を無期懲
 役に処した第一審判決の量刑を是認したものであって、その刑の量定は甚だしく不当で
 あり、これを破棄しなければ著しく正義に反するものと認められる」
 「本件において死刑の選択を回避することに足りる特に酌量すべき事情があるかどうか
 につきさらに慎重な審理を尽くさせるため、本刑を原裁判所に差し戻すこととし、裁判
 官全員一致の意見で、主文のとおり判決する」
・破棄しなければ著しく正義に反する。
 それは、本村が待ちに待った言葉だった。
 やっとたどり着いた最高裁判決。
 この日のために頑張ってきた本村に大きな希望を与えるものとなった。
 なかでも注目されるのは、
 「(Fの)犯罪的傾向には軽視することができないものがある」
 と、強姦目的ではなかったとする弁護団の主張を切り捨て、あわせて、安田、足立を痛
 烈に批判した点である。 
・安田、足立の”新事実”は一蹴された。
 弁護側の新戦略は、敗北を喫したのだ。
 だが、その年の10月、全国から集まった21名の弁護士によって、差し戻し控訴審弁
 護団が結成された。
・2007年5月、差し戻し控訴審の初公判が、広島高裁の法廷で始まった。
 二人の青年は、本村が31歳、Fは26歳となっていた。
 Fは、この間に、ふたまわりは大きくなっていた。
 時の経過とは恐ろしいものである。
 もはや、誰も彼を「少年」とは呼ぶまい。
・注目されたのは、弁護団の主張である。
 検察の意見書朗読の後、弁護側の意見書朗読が始まった。
 安アを筆頭に、ずらりと並んだ弁護士が次々と立って、主張を展開していった。
 「この事件は、強姦殺人ではなく、失った母への人恋しさに起因した事件であって、
 傷害致死罪にとどまるものである。
 ドアを開けて招き入れてくれた弥生さんを、亡くなった母親ととらえて、抱きついた瞬
 間、上げしく抵抗されるという予想外のできごとが起こった」
 「母親が自分を拒絶するはずがないと必死になって押しとどめたら、弥生さんが気絶し
 てしまった。その後で、目を覚ました弥生さんが殴りかかってきたので、母親が弥生さ
 んという別の人格に変身するのを阻止しようと、弥生さんの口元付近を懸命におさえた
 ら静かになってしまった・・・」
 「被告人は、母親が死亡した時、中学一年生だったため、目の前に横たわる母親の遺体
 を前に何もできなかった。
 しかし、事件当時、18歳となっていた被告人は、死亡した母親である弥生さんを姦淫
 して、死者に生をつぎ込んで死者を復活させる儀式を行った」
 「被告人は、小さい時、父親の凄まじい暴力を受けていた。
 母親はすべてを受け入れてくれた生き甲斐だったが、その母の死によって、被告人の精
 神状態は、母親が亡くなった12歳のまま止まってしまった。
 だから、他者にもたらいた苦痛への認識を持つ能力がないのである。
 反省が十分ではないという批判はあたらない」
 「母親の死を前にして泣いている夕夏ちゃんは、自分の弟だった。
 兄として、弟を慰めようとしたが、泣き声が収まらず、兄としてのせめてもの償いの印
 として、紐を夕夏ちゃんの首に巻いて蝶々結びにしたら死んでしまった・・・」
・事件は、被告人の母親恋しの精神的な未発達が引き起こした「偶発的なもの」であって、
 強姦でもなく殺人でもなく「傷害致死」であるというのだ。
・本村は、新弁護団が、どんな新たな論を展開してくるのか注目していた。
 しかし、最高裁でおこなった主張をさらに進化させ、彼らは一種の開き直りともとれる
 荒唐無稽なストーリーを披露したのである。
・本村には、それは詭弁としか思えなかった。
 驚き、呆れ、怒りを通り越した感情が湧いてきた。
 しかし、その弁護団の主張を「よし」としたのは、Fである。
 彼が、反省などまったくしていないことが、本村にははっきりわかった。
・ヤマ場は、早くも6月の集中審理で現れた。
 被告人に立ったFは、弁護人に答えて驚くべき証言をおこなった。
・遺族には、信じられない光景だった。
 山口地裁でも、差し戻し前の広島高裁でも、Fは検察、弁護人双方の質問に答え、多く
 の証言をおこなっている。 
 それを直接見聞きしていた遺族には、目の前にいるFが、シナリオ通り、役者が舞台で
 演技しているようにしか思えなかった。
・本村は、感情が爆発するのを必死でこらえながら証言を聞いた。
 報道を通じて、Fの主張はすでに知っていた。
 しかし、目の前で語られていく”新事実”とやらの恐ろしいまでのリアリティのなさはい
 ったい何だ。
 この男は、支離滅裂で合理性のないこの話を、本当に聞く者が信じると思っているのだ
 ろうか。
・こんな男に妻と娘の夢と希望が断ち切られたかと思うと、二人が不憫でならなかった。
 隣では、義母の由利子がすすり泣いていた。
・これまで一切出て来なかった主張を始めた安田は、
 「裁判所も検察も、司法全体がこの7年間を痛切に反省しなければならない」 
 とまで述べていた。
 自分たちが言っていることが真実で、これまで審理してきたことはデタラメだというの
 である。
 だが、すべての公判を傍聴してきた本村には、どちらが真実であるかはわかっている。
・本村は、前回の控訴審が終わってからの5年間余を、Fがこんなことを言うためにいた
 ずらに時を過ごしてきたかと思うと、腹立たしさと同時に虚しさがこみ上げてきた。
・二日間に及んだ被告人の質問の最後に、裁判官は、
 「遺体に乱暴した後、脈を確認したりはしたのか」  
 という質問をしている。
 「いいえ」と答えるF。
 裁判官は、「生き返らせようと乱暴したのに、実際に生き返ったか確認しなかったのか」
 と聞くと、Fは、「はい」と答えている。
 「なぜ確認しなかったのですか」
 「わかりません」
 「『魔界転生』を読んだのは、単行本ですか、文庫本ですか」
 「覚えていません」
 「自分で買って読んだのですか」
 「覚えていません」
・3日間の集中審理が終わって、Fが法廷を出る際、傍聴者がハッとするシーンがあった。
 それまで一度も遺族の顔を見たことがなかったFが、この時、初めて本村と視線を合わ
 せたのだ。隣りには由利子がいる。 
 立ち止まったFは、そのまま二人を見た。
 薄い目が、二人を睨みつけていた。
 由利子はぞっとして視線を落とした。
 本村は、Fを睨み返した。
 切っ先を鋭く尖らせた、殺意を感じさせるFの視線だった。
 二人の青年は傍聴席の仕切りを挟んで、二、三メートルの位置で対峙した。
 5秒、6秒、7秒・・・。
 Fは、廷吏に促され、本村から視線をそらし、やっと出口に向かった。
・本村は、この視線は、Fのメッセージだと思った。
 法廷では、あんな証言、そして反省の弁を述べているが、本当の心は違うぞ。
 Fが、そう自分に伝えているような気がした。

弁護団の致命的なミス
・2007年8月、光市から20キロほど南方に浮かぶ祝島に、観光客とは雰囲気が異な
 る、男ばかり11人の集団が降り立った。
 11人の男たちは、光市母子殺害事件の弁護団である。
・すでに差し戻し控訴審は七回を数え、Fの主張が報道される度に、「荒唐無稽な主張だ」
 という反発が全国に広がっていた。
・5月末に「橋下徹」晩越しがテレビで弁護士会への懲罰請求を促す発言をおこなったこ
 とも相まって、弁護団のメンバーそれぞれに抗議が殺到している。
 弁護団の一部の弁護士が橋下に損害賠償を求めて訴えるなど、それは”場外乱闘”にまで
 発展していた。 
・祝島は、24年前、中国電力が対岸にある長島の南端に「上関原子力発電所」を建設す
 る計画を発表して以来、原発反対運動の島として変貌を遂げた。
 島民のほとんどが反対する中、一部島民が誘致に賛成したため、島全体が原発問題の渦
 中に放り込まれたのである。 
・上関原発建設反対運動にかかわっているのが、光市母子殺害事件の本田兆司弁護団長で
 あり、安田と共に最高裁での弁論から参加している足立修一だった。
・ほとんどが死刑廃止に賛同する弁護士たちであり、みな、自腹である。
 世間からの非難をよそに、彼らは彼らなりの信念でこの仕事に取り組んでいた。
 遠方からやって来る弁護士たちは、広島での旅費を含めて、かなりの費用をつぎ込んで
 いた。 
・その安田が徹底してこだわったのが、法医学的な問題だった。
 最高裁でも主張したように、安田には、弥生の遺体写真に、親指によって強く圧迫され
 たことによる表皮剥奪及び皮下出血が写っていないことが解せなかった。
・しかし、一方で、Fの反省をどう引き出すか、裁判長や国民に対して、Fの反省をどう
 響かせるのか、その肝心の部分については、なかなか議論が深まっていかなかった。
 うねるような、想像を超えた国民の反発も弁護団を動揺させていた。
・復活の儀式と母体回帰ストーリー、そしてドラえもんの四次元ポケット・・・この奇想
 天外な主張が、法医学的な論争を挑もうとする弁護団の足枷となり、一方で、法医学に
 弁護団がこだわればこだわれほど、Fの反省を引き出すための障害ともなっていた。
・口にこそ出さないものの、このストーリーがそのまま差し戻し控訴審で受け入れられる
 とは、誰も思えなかった。
 公判が進むにつれて、そして、国民からのバッシングが激しくなるにつれ、どうしよう
 もないジレンマが弁護団を覆うようになっていたのである。
・それでも粘土模型作りと首絞め実験にこだわる弁護団に、大きな亀裂が生じるのは、
 光市と祝島での合宿が終わって以降のことである。
 安田と若手の「今枝仁」弁護士との間に、決定的な衝突が起こるのである。
 きっかけは、東海テレビが開局五十周年番組として制作するドキュメンタリーの密着映
 像に、ある弁護士が協力し、出演したことだった。
 メディアに対する個別の取材応対は、してはいけないという弁護団の原則を侵し、特定
 のメディアを優遇し、他の大多数のメディアの反感を買った行為を今枝が問題視したの
 である。
・その批判は、やがて最高裁の弁論欠席後に開かれた安田の記者会見にまで及び、安田と
 今枝との間で、罵り合いにも近い大喧嘩に発展する。
 今枝には、メディアを通じて十分な説明をすることなく「ドラえもん」「四次元ポケッ
 ト」「復活の儀式」などの主張をしたことが、激しい国民の反発を生んだという認識が
 ある。
 F本人が、こういうことを言い出したからと言って、それをそのまま法廷内で主張する
 べきかどうか、疑問を持っていた。
 このことについては、弁護団の中でも意見が割れていたのだ。
 その思いが、感情的な対立を呼び、安田との決定的な激突となったのである。
・弁護団の亀裂は、第十回公判で、はからずも露呈した。
 それは、最後の最後で犯した弁護団の致命的なミスだった。
・この日は、本村と由利子の意見陳述に加え、それに付随した被告人質問も予定されてい
 た。実質的に検察と弁護団の最後の攻防となる法廷だった。
・証言台に行き、着席を許された由利子は、用意してきた6枚の手書きの紙を証言台に置
 いた。
 落ち着くために小さな息を吸った由利子は、感情を抑えながら陳述を始めた。
 「差し戻し控訴審で、5年ぶりに目にした被告人、どんな気持ちで日々を過ごしていた
 のか、ずいぶん太ったなと思いました。
 法廷での態度は、当時と変わることなく、反省している様子を感じられるものではあり
 ませんでした。それは被告人に差し戻し審が気持ちの上で何か余裕のようなものがあっ
 たのでしょうか?」
・「一審・二審の裁判はいったい何だったのでしょう。7年も8年も経った今になって、 
 信じられません。
 被告人質問においては、変に、取ってつけたような丁寧語で語られても、被告人自身の
 真実感が伝わってきません。
 創作された話の筋を、度重なる練習で覚えさせられたのに違いないと、確認せずにはい
 られません。
 今回の供述で、”倒れて首に手をやったら動かなくなった”とか”首に蝶々結びにしたら死
 んでいた”等、そんなことがある訳がありません。
 人がそんなに簡単に死ぬものではありません。
 私の娘が孫が勝手に死んだとでもいうのですか?
 被告人が自分の目的を達するために、殺意があったから、死に追いやるほどいっぱいの
 力をこめて絞め殺したのです」
・由利子の声は次第に涙で途切れがちになる。
 「ドラえもんが出てきたり、復活の儀式等と、娘と孫の命を粗末な言葉で振り回されて、
 あまりに可哀想でなりません。
 被告人が退廷する時、私たち遺族を鋭い目で睨みつけていきました。
 人を殺害して、二つの尊い命を奪い反省もなく、罪悪感がすこしでもあれば、そんな態
 度はできるはずありません。
 弁護人と、法医鑑定をされた大野教授が、独自に紋殺方法を再現実験されたようですが、
 死にもの狂いの状態まで体験されたのでしょうか?
 私自身、娘が孫がどんなに苦しい思いをさせられたのか自分の手で自分の首を絞めてみ
 ました。
 死の極限までの実験でないと、指の向きがどうなって指の跡がどうなるというか事実奈
 証拠として値しない無意味なものと思います。
 家庭環境の悪さをいつも取り上げられますが、家庭環境が悪ければ、殺人を犯しても仕
 方のないことで、罪はないのですか?
 世間には家庭環境の悪い方、たくさんおられると思います。
 でも、それに負けることなく立派に生きて行かれています。
 娘も母子家庭の中で育ちました。でも明るく元気で素直でお友達もたくさんいて、決し
 て親を困らせるような娘ではありませんでした」
・肩を震わせながら、由利子は必至で陳述した。
 ノートにペンを走らせる記者たちの目にも涙がにじんだ。
 「弥生のささやかな幸福は、一瞬にして被告人によって壊されてしまったのです。
 娘は生き地獄だったでしょう。どんなに苦しかったでしょう。どんなに恐かったでしょ
 う。心の中で必死に愛する夫の名を叫び続けていたでしょう。
 その母親にすがって行く孫の姿を思うと胸が張り裂けんばかりです。
 被告人はこんなむごいかたちで二人の命をうばって、まだ自分の命が惜しいのですか?
 被告人自身にも紋殺される苦しいを存分に味わってほしい。
 死をもっと罪を償うべきです。
 毎回毎回の裁判は聞くに耐えられないことばかりです。
 また、それ以上に許せないのが昨年の最高裁口頭弁論を弁護団が欠席されたことです。
 遺族は必至の思いで裁判に向き合っています。
 時間と経費をかけ、傍聴に行っているのです。
 裁判を遅らせるための究極の技と聞きましたが許せません。
 私たち被害者遺族は、法律が裁いてもらわなければ、この無念の思い、言葉では言い尽
 くせないほどの怒りや悲しみを癒す方法はありません。
 差し戻し控訴審晩誤断22人、被告人の供述が一転して、殺意を否認して傷害致死、
 信じられません。情けなく悔しい思いでいっぱいです」
・由利子は泣きながら、これが自分にとって娘にしてあげられる最後のことかもしれない、
 と声を上げた。
 「真実の裁判をしてください。
 私たち被害者遺族は、一審二審での供述が真実だと思っています。
 被告人に死刑を回避する事情はどこにも見当たりません。
 年齢も18歳と1カ月。十分、成人です。
 被告人は法廷の場においても好き勝手な行動を取り、私たち遺族が見ていて反省してい
 る態度には到底うかがえるものではありません。
 仮に無期懲役で社会に復帰しても再犯する可能性は大いに感じられます。
 更生の可能性は一切考えられません。
 私たち被害者遺族は極刑しかないと信じています。
・嗚咽をハンカチで抑えてこらえながら、由利子は最後まで陳述をおこなった。
 法廷は静まりかえった。
・そして、いよいよ本村の意見陳述の番が来た。
 本村は、由利子と入れ替わりに、証言台に座った。
 「私は、この裁判で意見陳述を行うは二回目となります。
 その時、私は意見陳述の冒頭で、伊かのように述べました。
 ”私がここで発言する内容は、すべてF君、君に聞いて欲しいことです。
 私が発した言葉のうち、ひと言でもふた言でも多くの言葉が君の心に届き、君の犯して
 しまった罪について少しでも考察を深める手助けになればと思います”
 そして、以下のように続けました。
 ”妻と娘の最期を知っているのは、F君、君だけです。
 妻と娘の最期の表情や最期に残した言葉を知っているは君だけです。
 妻は君に首を絞められ、息絶えるまでの間、どんな表情をしていたか、どんな言葉を残
 したか、母親を目の前で殺された娘は、どんな泣き声だったか、必死にハイハイして君
 から逃れ、息絶えた母親に少しでも近づこうとした娘の姿はどんなだったか、君はそれ
 を忘れてはいけない。
 妻と娘の最期の姿。それが、君の犯した罪だからです。
 君がどんな家庭環境で育ち、どのような経験を経て犯罪に至ったかが罪ではない。
 君が殺した人の夢や希望、人生そのものを奪ったことが罪なのだから。
 そして、君は妻と娘のことにつちえ何ひとつ知らない。
 だからこそ反省も出来ないし、己の犯した罪の大きさを知ることすらできない。
 ただ、唯一、君が妻と娘の人生を知る術として、妻と娘の最期の姿である。
 きっと、妻と娘は最後まで懸命に生きようとしたと思う。生きたいと願ったと思う。
 その姿を君は見ている。
 妻と娘の最期の表情や言葉を君は忘れてはならない。
 毎日思い出し、そして己の犯した罪の大きさを悟る努力をしなければならない”
 そして、最後にこう述べました。
 ”君が犯した罪は万死に値します。いかなる判決が下されようとも、このことだけは忘
 れないでほしい”
 私がはじめて意見陳述したときは、過去の判例から推察して死刑判決が下されない可能
 性が高いと思っていました。
 つまり、君が社会に復帰する可能性があるということを考えながら、意見陳述をしてい
 ました。
 だから、今後君が社会復帰した時に、二度と同じ過ちを犯してほしくないと思い、少し
 でも反省を深め、人間としての心を取り戻せるようにと一生懸命話しました。
 だからこそ、最後にこう述べました。
 ”君が犯した罪は万死に値します。いかなる判決が下されようとも、このことだけは忘
 れないないでほしい”
 その時から、5年以上の歳月が流れ、死刑判決が下される可能性が高まり、弁護人が代
 わり、そして、君は主張を一変させました。
 私は、なぜ弁護人が最高裁弁論期日のわずか二週間前に交代したのは理解に苦しみます。
 加えて、最高裁の公判を欠席するなど許されない行為だと思います。
 そして、弁護人が代わった途端に君の主張が大きく変わったことが、私を今、最も苦し
 めています。
 最近では、被告人の主張が一変したことについて、弁護団の方々がインターネット上で
 裁判の資料を公開し、弁護団とF君の新たな主張として、社会に向けて発信しています。
 また、この事件に関する報告会のようなものを弁護士会をあげて開催していると聞きま
 す。
 インターネット上で妻の絞殺された時の状況を図解したか像などが無作為に流布され、
 私の家族の殺され方などが議論されている状況を決して快く思っていません。
 しかしながら言論や表現の自由は保障されるべき権利でありますので、私が異議を唱え
 ることはできないと思ていますが、弁護団の主張やインターネット上で取り交わされる
 議論を沈痛な気持ちで静観しています。
 ただ、自分でもうまく感情を理解できないのですが、そのようなことが掲載されている
 ところを拝見し、殺される状況が図解されている妻の悔しさを思うと涙が溢れてきます。
 怒りなのか、虚しさなのか、この感情をどのような言葉で表せばよいのかわかりません。
 ただ、家族の命を弄ばれているような気持になるのは確かだと思います。
 私は、事件直後に一つの選択をしました。
 ”一切社会に対して発言せず、このまま事件が風化し、人知れず裁判が終結するのを静
 観すべきか、積極的に社会に対して被害者としての立場で発言を行ない、事件が社会の
 目に晒されることで、司法制度や犯罪被害者の置かれる状況の問題点を見出だしてもら
 うべきか”
 そして、私は後者を選択しました。
 家族の命を通じて、私が感じたままを述べることで社会に何か新しい視点や課題を見出
 だして頂けるなら、それこそが家族の命を無駄にしないことにつながると思ったからで
 す。
 しかし、先のように世間の話題となることで、インターネット上で家族の殺害状況の図
 解までが流布される事態を目の当たりにすると、私の判断が間違っていたのではないか
 と悔悟の気持ちが湧いてきます。
 しかし、このような事態になったのは、これまで認めてきた犯行事実を根底から大きく
 一変させ、私の遺族だけでなく、事件に関心を寄せて頂いていた世間の皆様もこの新し
 い主張が理解しがたいことばかりであったことが原因だと考えています。
 なぜ、一審・二審で争点になっていなかったことが、弁護士が代わって以降、唐突に主
 張されるようになったのか、私は理解できませんし、納得し難いのです。
 遺族としては、弁護人が代わることで、ここまで被告人の主張が代わってしまうことが
 非常に不可解でなりません。
 私たち遺族は、いったい何を信じればよいのでしょうか?」
・「F君、私は君に問いたい。君がこれまで、検察側の起訴事実を大筋で認め、反省して
 いるとして情状酌量を求めていたが、それはすべて嘘だと思っていいのですか?
 私がこれまで信じてきた犯行事実は、私が墓前で妻と娘に報告してきた犯行事実は、
 すべて嘘だったと思っていいのですか?
 本当に、本法廷で君が述べていることが真実であると、私は理解していいのですか?
 しかし、私はどうしても納得できない。
 私はずっとこの裁判を傍聴し続けてきましたが、どうしても君の心の底から真実を話し
 ているようには思えない。
 君の言葉は、まったく心に入ってこない。
 たとえ、この裁判で君の新たな主張が認められず、裁判が終結したとしても、私には疑
 心が残ると思う。
 事件の真相は、君しか知らない。
 よって、この法廷で真実を述べているか否かなど、私が君の証言について是非を言うべ
 きことではないかもしれない。
 しかし、私は君がこの法廷で真実を語っているとは、到底思えない。
 今の君の言葉は、まったく信じられない。
 だから今後、君が謝罪の言葉を述べようとも、その言葉は信じられないし、君が謝罪の
 手紙を何通綴ろうとも読むに値しないと思っている。
 少なくとも、この裁判が終結するまでは君の言葉は信じられない」
・水を打ったように静まり返った法廷に、本村の声だけが響いていた。
 報道席では、本村の陳述をひと言も聞き洩らすまいと、記者たちがノートにペンを走ら
 せていた。  
・「私は君に絶望する。君はこの罪に対し、生涯反省できないと思うからだ。
 君は殺意もなく、偶発的に人の家に上がり込み、二人の人間を殺したことになる。
 こんな恐ろしい人間がいるだろうか?
 私は、君が反省するには、妻と娘の最期の姿を毎日でも思い浮かべるしかないと思って
 いた。
 しかし、君には殺意もなく、生きたいと思い、最後の力を振り絞って抵抗したであろう
 妻と娘の最期の姿が記憶にないのだから、反省しようがないと思っている。
 F君。私が君に言葉をかけることは、これが最後だと思う。
 最後に、私が事件後に知った言葉を君に伝えます。
 中国、春秋戦国時代の老子の言葉です。
 ”天網恢恢疎にして漏らさず”
 意味がわからなければ、自分で調べてもらえばと思う。
 そして、この言葉の意味をよく考えてほしい。
 君が、裁判で発言できる機会は残り少ないと思う。
 自分がこの裁判で何を裁かれているか、己の犯した罪が何なのか、自分が何をなさなけ
 ればならないのかをよく考え、発言をしてほしい。
 そして君の犯した罪は、万死に値する。
 君は自らの命をもって罪を償わなければならない」
・この”天網恢恢疎にして漏らさず”は、事件後の取り調べの中で、奥村刑事が少年法に
 絶望していた本村に授けた言葉である。
 天の張る網は、広くて一見目が粗いようだが、悪人を網の目から漏らすことはない。
 悪事を行なえば、必ず天罰を受けるという言葉である。
・本村はこの言葉を胸に、これまで法廷での闘いを続けてきた。
 その大切な言葉を今度は本村がFに伝えたのだった。
・そして本村は、陳述の最後に、”裁判官の皆様”と呼びかけ、こう語った。
 「事件発生から8年以上が経過しました。この間、私は多くの悩みや苦しみがありまし
 た。しかし、くじけずに頑張って前へ進むことで、多くの方々と出会い、支えられて、
 今日まで生きてきました。
 今では、しっかり地に足を着け、前を向いて歩いています。
 今日では、私を支援してくださった方々に深く感謝しています。
 そして、私の行動をいつも遠くから優しく見守ってくれた両親や姉、妻のご家族の皆様
 にも深く感謝しています。
 私は、事件当初のように心が怒りや憎しみだけに満たされていたわけではありません。
 しかし、冷静になればなるほど、やはり妻と娘の命を殺めた罪は、命でもって償うしか
 ないという思いを深くしています。
 そして、私が採りを重ねるごとに多くのすばらしい出会いがあり、感動があり、学ぶこ
 とがあり、人生のすばらしさを噛み締めています。
 私が人生の素晴らしさを感じる度に、妻と娘にも本当に素晴らしい人生が用意されてい
 たはずだと思い、早過ぎる家族の死が可哀想でなりません。
 私たち家族が共に暮らせるようになるまでは、決して順風満帆な道のりではありません
 でした。
 学生結婚だったため、私の経済力がまったくなく娘が産まれても新居がないような状況
 で、妻にはいつも迷惑ばかりかけてしまい何の贅沢もさせてあげることができませんで
 した。娘には、自分の名前の由来すら教えてあげることができませんでした。
 しかし妻は、どんな辛い時もいつも前向きで、明るい笑顔で私を支えてくれました。
 本当に美しく尊敬できる人でした。娘はよく笑う愛嬌のいい、おとなしい子でした。
 私は、妻と出会い、娘を授かったことができたことに感謝しています。
 残念ながら私は、妻と娘にその感謝の気持ちを伝えることができませんでした。
 私は、悔しくて、悔しくてなりません。
 そして、私たち家族の未来を奪った被告の行為に対し、私は怒りを禁じ得ません。
 私は、家族を失って家族の大切さを知りました。命の尊さを知りました。
 妻と娘から命の尊さを教えてもらいました。
 私は、人の人生を奪うこと、人の命を奪うことがいかに卑劣で許されない行為かを痛感
 しました。
 だからこそ、人の命を身勝手に奪った者は、その命をもって償うしかないと思っていま
 す。それが、社会の正義感であり、私の思う社会正義です。
 そして、司法は社会正義を実現し、社会の健全化に寄与しなければ存在意義がないと思
 います。
 私は、妻と娘の命を奪った被告に対し、死刑を望みます。
 そして、正義を実現するために、司法は死刑を科していただきたくお願い申し上げます」
・しばらく誰も声を発することができなかった。
 事件発生から8年余。本村の姿勢は、年月を経ても、いささかも揺らいでいなかった。
・本来ここで終わるはずだった法廷は、最後のFへの被告人質問がもう一度行われること
 になった。  
 Fの反省悔悟のみ持ちを強く印象づけたい弁護団の要請によるものだった。
 法医学的観点から挑んだ論争で、弁護団は思ったような成果をあげられなかったのであ
 る。
・だが、ここで弁護団は致命的な死敗を犯した。
 それは、焦りと内部の亀裂かれ生まれたミスだったかもしれない。
・弁護団の質問が終わり、次は検察だ。最後の被告人質問である。
 検察官は、こう質問を始めた。
 意見陳述の時、傍聴席から嗚咽が漏れていたのに気がつきましたか。
 「いいえ」
 弁護団の中にさえ、(嗚咽を漏らす人が)いましたよ。
 ところで、君は最後まで何か書いていましたね。何ですか?
 「(遺族の)証言を書いていました」
 しかし、あなたは、ペンで縦にスーッと線を入れて、(それを)削除しましたね。
 「していません」
 Fが否定した時、検察官が突然
 「嘘を言うな。縦に線を引いたじゃないか!」
 と声を荒げた。その瞬間、
 「していません!」
 と、Fも声を荒げた。
 証言席のFは、突然、立ち上げり、廷吏の隣の自分が座っていたもとの席につかつかと
 戻ってきた。  
 激昂していた。
 狂気を帯びた目だった。
 Fの顔は傍聴席の側を向いている。
 遺族は、その眼を凝視した。
 Fが激昂した時の目を遺族は確かに見た。
 泣きやまない夕夏に怒り、叩きつけたシーンを、遺族は思い浮かべた。
・Fは、自分の席にあったノートをつかむと、それを検察官のところへ持っていき、
 「ほらっ」と手渡した。
 法廷全体が、呆気にとられていた。声もなく、Fの行動を見ていた。
 ノートの中身をまらまらとめくってみる検察官。
 線らしいものは見当たらない。
 Fは、それをひったくると、今度は裁判官にこれを持って行った。
 そして、線が引かれていないことを確認させると、何事もなかったかのように自分の席
 に戻ってきたのである。 
 Fの目は、もとに戻っていた。
 「謝罪しろ」
 「今のは、(法廷の記録から)削除してください」
 弁護団から声が飛んだ。検察官は、
 「その必要はない」
 と、取り合わない。
・その時、弁護団の今枝が立ち上がった。
 あなたはこれまでも友だちや家族から裏切られてきました。
 今の検察官のように線を縦に引いたとか、こういう誤解や濡れ衣をこれからも着せられ
 るかもしれない。それでも心が折れることなく、生きていくことができますか
 「はい」
 今枝は最後に、「何か言いたいことがありますか」とFに尋ねた。
 その時、Fは、こう言ってのけた。
 「僕から言わせていただければ、検察官には、舐めないでいただきたい」
 小声だった。しかし、確かにFはそう発言した。
 「裁判長!今の言葉の意味を確認してください!舐めないでいただきたいとは、どうい
 う意味ですか?」
 弁護団は叫ぶ。
 「その必要はない!」
 「何を言ってるんだ!」
 「そっちがデタラメを言ったからだろう!」
 法廷は騒然とした中で、閉廷した。
・本村は、1分前まで涙を流し、反省の言葉を呑めていた人間の突然の豹変を落ち着いて
 見ていた。 
 「人を殺す人間とは、こういう人間なんだ」
 そう思った。
 最後にFの本性が露わになるあんなシーンが生まれるのは、確かに誰も予想していなか
 ったはずである。
・慎重に証言を重ね、涙を流させ、反省と償いを強調していた弁護団の方針は最後の最後
 に崩れた。
 しかし、本村は、以前に証拠採用されたFの手紙の一節を忘れていない。
 「誰がゆるし、誰が私を裁くのか・・・そんな人物はこの世にはいないのだ。
 神になりかわりし、法廷の守護者たち・・・裁判官、サツ、弁護士、検事たち・・・。
 私を裁ける者は、この世におらず・・・」
 Fは、留置所ばか間にそんな手紙を書き送っている。
 もともと、「私を裁ける者はこの世にいない」。
 すなわち「検察官には(私を)舐めないでいただきたい」という態度は、以前から一貫
 しているのである。
・本村にとって、あの態度、あの激昂は不思議でも何でもない。
 もともとFは反省しているふりをしているだけで、本当の反省などしていないのだ。
 本村のこれまでの核心は揺るがなかった。
  
辿り着いた法廷
・2008年4月、広島高裁の法廷は、来るべき裁判員制度に備えて改造されていた。
 幾度となく通ったこの法廷も、この日で最後になる。
 ゆとりなのか、それともあきらめなのか、Fは、平然としているように見えた。
 緊張感が漂う中、楢崎康英裁判長が主文を後回しにすることを告げると、一部の記者た
 ちが立ち上がって外に走り出た。
 その瞬間、楢崎は、
 「静かにしなさい!」
 と怒声を発した。
 全局がおこなっているテレビ生中継のため、記者たちは、ひっきりなしに出入りを繰り
 返さなければならなかった。
 「(ドアを)閉めなさい!」
 朗読の途中に楢崎がそんなこえを発したこともあった。
 この日は、法廷の内も外も、騒然としていた。
 朗読される判決理由は、凄まじい内容だった。
 それは、弁護団の主張を完膚なきまでに打ち砕いていた。
 詳細な検証によって、弁護団の訴えは、ことごとく退けられていった。
 「被告人の当審公判供述は、いかに説示するとおり、被害者の死体所見と整合せず、
 不自然な点がある上、旧供述を翻して以降の被告人の供述に変遷がみられるなど、到底
 信用できない。
 逆手にした右手による頸部圧迫という殺害態様は、被害者の死体所見と整合せず・・・」
 「被告人は、当審に至って初めて、被害者に対するスリーパーホールドをし、同女の力
 が抜けた後、呆然としていたところ、背中あたりに強い痛みが走り、同女が光る物を振
 り上げていた旨供述したものである。
 この供述は、被告人が、まず最初に被害者に対し暴行を加えたにせよ、その後同女から
 攻撃されて、なりゆき上、反撃行為としてやむを得ず同樹に対しさらに暴行に及んだと
 主張することも可能な内容であるにもかかわらず、当審公判まで一回もそのような供述
 をした形跡がない。
 このような供述経過は不自然であり、この供述をしんようすることはできない」
・楢崎は、それぞれの争点に対して、証拠を挙げてわかりやすく断を下していく。
 それは、異論を差しはさめないほどの説得力を持っていた。
 遺族席からは、本村の母・恵子のこらきれない嗚咽が洩れ始めた。 
 「被告人は、当審公判で、被害者を姦淫したのは、性欲を満たすためではなく、同女を
 生き返らせるためであった旨供述する。
 しかし、被告人は、被害者の死亡を確認した後、同女の乳房を露出させ弄び、さらに、
 同女の陰部に自己の陰茎を挿入して姦淫行為に及び射精しているところ、これら一連の
 行為をみる限り、被告人が、性的欲求を満たすため姦淫行為に及んだものと推認するの
 が合理的である」
 「しかも、被告人は、捜査段階のごく初期を除いて、姦淫を遂げるために被害者を殺害
 し、姦淫した旨一貫して供述していた上、第一審公判においても、性欲を満たすために
 姦淫行為に及んだ旨明確に供述したほか、屍姦にまで及んだ理由を問われて”怖いとい
 うより、そのときには、欲望の方が上だったと思います”と供述している・・・・」
 「なお、被告人は、被害者が死亡した直後、布テープで同女の両手首を緊縛し、同女の
 鼻口部を布テープで張ってふさぐなどしており、これは、被告人に同女の生き返りを願
 う気持ちがあったということにそぐわない行為であるとの感を免れない。
 このような被告人の一連の行動をみる限り、被害者を姦淫した目的が、同女を生き返ら
 せることにあったとみることはできない」
・楢崎は、Fが挙げた「魔界転生」という小説まで分析して、こう言及している。
 「被告人が挙げた「魔界転生」という小説では、一定の条件を備えた男性が、瀕死の状
 態にあるときに女性と性交することによって、その女性の体内に生まれ変わり、後日、
 その女性の身体を破ってこの世に現れるというのであって、死亡した女性を姦淫して、
 その女性を生き返らせるというものとは、相当異なっている」
 「そして、死者が、女性の体内に生まれ変わってこの世に現れるというのは、「魔界転
 生」という小説の骨格をなす極めて重要な事項であって、繰り返し叙述されており、実
 際に「魔界転生」という小説を読んだ者であれば、それを誤って記憶するはずがなく、
 したがって、その小説を読んだ記憶から、死んだ女性を生き返らせるために、その女性
 を姦淫するという発想が浮かぶこともあり得ないというべきである」
・差し戻し控訴審に現れた新供述についても、楢崎はこう糺弾する。
 「被告人は、上告審において公判期日が指定された後、旧供述を一変させて本件公訴事
 実を全面的に争うに至り、当審公判でも、その旨の供述をしたところ、既に説示したと
 おり、被告人の新供述が到底信用できないことに徴すると、被告人は、死刑に処せられ
 る可能性が高くなったことから、使命を免れることを企図して、旧供述を翻した上、虚
 偽の弁解を弄しているというほかない」
 「被告人は、遺族に対して謝罪文等を送付したり、当審公判において、遺族に対する謝
 罪や反省の弁を述べたりしてはいるものの、それは表面的なものであり、自己の刑事責
 任の軽減を図るための偽りの言動であると見ざるを得ない。
 本件について自己の刑事責任を軽減すべく虚偽の供述を弄しながら、他方では、遺族に
 対する謝罪や反省を口にすること自体、遺族を愚弄するものであり、その神経を逆撫で
 するものであって、反省謝罪の態度とは程遠いというべきである」
・本村は、弥生と夕夏の遺影を胸に抱き、楢崎のひと言ひと言を聞き逃すまいと目をつむ
 ったまま頭に刻みこんでいった。
 小さくうなずきながら本村は朗読を聞いた。
 やがて、判決理由の朗読も終わりに近づいていく。
 「(一審二審)両判決は、犯行時しょうねんであった被告人の可塑性に期待し、その改
 善更生を願ったものであるとみることができる。 
 ところが、被告人は、その期待を裏切り、差戻前控訴審判決の言渡しから上告審までの
 公判期日指定までの約三年九カ月間、反省を深めることなく年月を送り、その後は、
 本件公訴事実について取調べずみの証拠と整合するように虚偽の供述を構築し、それを
 法廷で述べることに勢力を費やしたものである。
 当審公判で述べたような虚偽の供述を考え出すこと自体、被告人の反社性が増進したこ
 とを物語っていると言わざるを得ない」
・反省を深めることなく年月を送り、虚偽の供述を構築し、反社会性を増進させた。
 それは、Fにとってこれ以上はないほど厳しい言葉だった。
 そして、楢崎は、判決理由をこう締めくくった。
 「被告人が、当審公判で、虚偽の弁解を弄し、偽りと見ざるを得ない反省の弁を口にし
 たことにより、死刑の選択を回避するに足りる特に酌量すべき事情を見出だす術もなく
 なったというべきである。 
 今にして思えば、上告審判決が、”第一審、二審判決の認定、説示するとおり揺るぎな
 く認めることができるのであって、指摘のような事実誤認等の違法は認められない”と
 説示し、”死刑の選択を回避するに足りる特に酌量すべき事情があるかどうかにつき更
 に慎重な審理を尽くさせる”と判示したのは、被告人に対し、本件各犯行について虚偽の
 弁解を弄することなく、その罪の深さに真摯に向き合い、反省を深めるとともに、真の
 意味での謝罪と贖罪のためには何をすべきかを考えるようにということをも示唆したも
 のと解されるところ、結局、上告審判決のいう”死刑の選択を回避するに足りる特に酌
 量すべき事情”は、認められなかった・・・」
・「被告人、前へ」
 楢崎は語気を強めてこう言った。
 「主文。第一審判決を破棄する。被告人を死刑に処する」
・ガタガタという音がした。
 飛び出していく飢者、立ち上がってFの様子をみようとする傍聴人たち。
 法廷は再び騒然となった。
・その時である。
 Fは、一度天を仰いだ後、裁判長に向かって丁寧に一礼した。
 次に検察に向かって頭を下げた。次に弁護団。
 そしてFは、最後の傍聴席の本村に向かって一礼した。
・初めてだった。
 それは、Fが9年間で遺族に見せた初めての真摯な態度だった。
 検察に頭を下げたシーンも一度も見たことがない。
 ふたたび、腰縄をつけられたFは、退廷する時、もう一度天を仰いだ。
 そして、ゆっきり法廷から出ていった。
・本村にとって、Fを見るのはこれが最後になるかもしれなかった。
 一部始終を見逃すまいと、本村はFを凝視していた。
・本村は、絶対泣くものか、と思った。
 当然の結果が出ただけなのである。
 人を殺めた者が、自らの命で償うのは、当たり前のことだった。
 その当然の判決が出ただけなのである。
・本村は、死刑制度というのは、人の命を尊いと思えばこそ存在する制度だと思っている。
 残虐な犯罪を人の生命で償うというのは、生命を尊いと考えていなければ出てくるもの
 ではないからだ。
 たとえ少年であっても、残虐な犯罪を許すことはしない。
 Fの死刑判決によって、そのことが社会に示されたのだ。
 弥生や夕夏、そして自分のような思いをする人間を二度と出さないためには、それが必
 要であると本村は思っている。
 
エピローグ
・私は、一人の青年に会おうとしていた。場所は、広島拘置所。 
 日本全国を揺るがした”逆転”の死刑判決。
 その翌日、私は、広島拘置所の面会控え室に一人、座っていた。
 2008年4月、アポを取ったわけではない。
 二週間前に来たときは面会を拒否された。
 その後、また面会に行く旨の手紙を出したが、返事はなかった。
・自分は君の味方ではない。しかし、敵でもない。
 君の心の底、君の本音を聞きたい。
 弁護団に着色されたものではなく、ただ27歳の青年となった君の肉声で、あの事件に
 対する君の本当の気持ちを確かめたい。 
 そんな思いを綴った手紙を私は出していた。
・私は来意をFに告げた。
 判決から一夜あけた今、どんな思いでいるか、判決で断罪されたことをどう受け止めて
 いるか。 
 法廷で主張した事実関係がいっさい認められず、逆にその主張のせいで、反省や贖罪の
 気持ちがまったく認められなかったことをどう思っているのか・・・。
 聞きたいことは、山ほどあった。
・昨日の死刑判決についての思いをまず聞いた。
 「胸のつかえが下りました・・・」
 「僕は(これまで下されていた)無期懲役を軽いと思っていました。終身刑というのなら、
 わかります。無期懲役ではあまりに軽すぎる、と」
 「僕は生きているかぎり、償いをつづけたい。僕は(自分が殺した)二人の命を軽く思っ
 ていました。でも、今は違います」
・どう違うの?
 「被害者が一人でも死刑に値すると思っています」
・なぜ、被害者が一人でも死刑に値するの?
 「死んだ人間がたとえ一人でも、それは”一人だけ”ではありません。
 たとえば夕夏ちゃんには、お父さんとお母さんがいる。そして、それぞれのおじいちゃ
 んとおばあちゃんがいる。   
 僕は、それぞれの思い、それぞれの命を奪ってしまったんです。
 僕が奪った命は夕夏ちゃん一人ではない。
 多くの人の命を奪ってしまったんです」
 「たとえば十人の人間を殺した人がいる。二人を殺した人もいる。
 結果は同じ死刑です。
 では、あとの八人は何ですか。何もないのですか。
 僕はそうではない、と思う。
 一人殺しても、僕はいろんな人の命を奪ったのだから、死刑に値すると思っています」
・それは君が法廷で言ってきたこと、それに弁護団の意見とは違うね。
 「正直、弁護団については僕も複雑な思いを持っています」
 「弁護団もわかれています。一部の人たちとは僕は衝突を繰り返しています。
 弁護団の中には、加害者を守ろうとしている人もいるし、僕自身を守ろうとしてくれて
 いる人もいる。 
 僕は、現実問題として、僕の本当の気持ちが本村さんに伝わっていないことを申し訳な
 く思っています」
 「弁護方針には、正直いって、よいものも悪いものもある。両方がちりばめられている
 と思います。結果的に僕は、僕の償いの思いが伝わらなかったのが残念です」
・私が弁護団の責任を聞こうとしたら、Fは逆に、オオカミ少年の話を知っていますか?
 と私に問うてきた。狼少年?彼は何が言いたいのか。
 「狼が来た、狼が来た、とウソを言ってみんなを驚かせていた少年が、いざ本当に狼が
 来た時、誰にも信じてもらえず、食べられちゃう話です。
 僕は、その狼少年です。
 (この差し戻し控訴審で)僕は本当のことを言いました。
 でも、信じてもらえませんでした。でも、これは僕の責任です」
・「僕は本村さんに、本当にお詫びしたい。(死んだ)二人にも謝りたい。  
 でも、それを本当だと受け取ってもらえない。
 僕には償いが第一なんです。
 僕は過去の過ちを何べんでも何べんでもすみませんと、言いたい。それをお伝えしたい
 んです」
 Fは、法廷でのとってつけたような態度とは別人のように必死でそう訴えるのである。
・「今朝、羅時を聴いていると、昨日の記者会見での本村さんの言葉が流れました。
 ”どうしてあんな供述をしたのか、事実を認めて反省の弁を述べていたら死刑を回避で
 きたかもしれないのに”という言葉でした。
 僕はそれを聞いて、もったいない、とおもいました。
 そして、本村さんが”死刑が回避されたかもしれない”といってくれたその言葉だけで、
 少し救われた気がしました」
・私は、法廷で謝罪を口にするFの姿を何度も見ている。
 しかし、一度としてそれが心の奥底から出ているものと思ったことはなかった。
 だが、目の前にいるFの、この憑きものが落ちたような表情はなんだろうか。
 死刑の重さ。死刑判決が彼をここまで変えたのだろうか。
・Fは最後にこう語った。
 「僕としては何度でも償えるだけ償いたい。
 僕は殺めた命に対して、命をもって償うのは当たり前のことだと思っています。
 僕は死ぬ前に、ご迷惑をおかけした人や、お世話になってきた人に、きちんと恩返しを
 して死刑になりたいと思っています」
 「僕は家族を持ったことがありません。父親という立場になったこともありません。
 ”家族”というものを構築した経験がありません。
 でも、僕がやったことの大きさはわかるようになりました・・・」
・「殺めた命に対して、命をもって償うのは当たり前のこと」
 その言葉は、この9年間、私自身が本村から聞き続けてきたものだった。
 その言葉を、Fが口にしている。
 9年間、制反対の立場で闘った二人の青年。「死刑判決」が出た翌朝、その二人の言葉
 が、まったく一致した。
 Fは「死」と向きあっている。そう思った。
 昨日の死刑判決で、初めて死と向き合ったのか。
 いや、ここ数カ月、彼は本当の意味で罪と向き合ったのではないか、と私は思った。
・昨年の12月の弁論側の最終弁論をもって、長かった裁判は終結した。
 その後、「死刑判決が不可避」というのは、Fにもわかっていたはずでる。
 死刑不可避、死と向き合うというのは、自らの罪と向き合うことである。
 自分の行為が二人の尊い命に「死」をもたらしたという厳然たる事実と向きあうことで
 ある。
・死刑判決の重さ。弥生の母・由利子の言葉が思い出された。
 「この世の中から、”死刑”がなくなったら、どのくらい怖いかわかりません。
 人を殺した人間は、死刑になるしかありません。
 社会にとって死刑はどうしても必要なんです」