裁判員制度の正体 :西野喜一 |
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この本は、いまから22年前の2007年に刊行されたもので、裁判員制度の問題点を指 摘し、その導入を批判したものだ。 まず、この裁判員制度の導入を決定した経緯が、非常に不可解なのだ。 今までの刑事裁判制度に問題があったから導入することになったわけではなく、突然、こ の裁判員制度を導入するということからスタートしているのだ。 本来なら、いままでの刑事裁判制度の問題点について検討し、その問題点を解決するため には裁判員制度を導入するしかないということで導入が決まることになると思うのだが、 いままでの刑事裁判制度の問題点について検討したという形跡はどこにもない。 また、刑事裁判に一般国民も参加させてほしいという要望が上がっていたということでも ないのだ。 ある日突然、当時の小泉純一郎内閣が司法制度改革審議会を設置し、そこで裁判に「健全 な社会常識」を反映させるためとして裁判員制度を導入が決まったのだ。 この裁判員制度の導入が決まった当時、一部の市民団体や専門家から反対の声が上がった ものの、専門的な問題でもあり、またそもそも裁判制度そのものに対する国民の関心が薄 かったため、大規模な反対運動には発展しなかったようだ。一般の国民の多くが知らない まま、無関心のままに決定されたという状況であった。 しかし、その裁判員制度の内容は、一般国民に過大な負担を強いるものであったのだ。 まず、国民のなかからクジで選抜された者を半ば強制的に裁判員として刑事裁判に参加さ せ、裁判官と共同作業によって、被告人の有罪・無罪、刑の内容をきめようというもので あった。 しかも、その刑事裁判は殺傷人事件などの一定以上の重大裁判についてのみが対象となる のだ。このような裁判では、有罪の有無を判断するために、むごたらしい殺人現場などの 写真も見なければならない。一般の国民のなかからクジで選抜された裁判員が、このよう なことに耐えられるのか。 また、重大事件の裁判の場合、最短でもまる4日間は裁判所に出向かなければならない。 ちょっと難しい裁判の場合はまる10日間ぐらいは裁判所に出向くことになるという。 仕事がある人が、こんなに何日間も裁判に掛かりきりになれるだろうか。 これは一般の国民にとって、あまりにも負担が大きすぎる。 こんな裁判員制度が国民的な議論もなく決められてしまったのだ。 さらに問題なのは、この裁判員制度が、ほとんど反対運動もなく決められたという実績か ら、将来、徴兵制の導入も簡単にできるということが証明されてしまったことだ。 いまは、ある日突然、裁判員候補者になったという通知が届くが、将来は、ある日突然、 赤紙(召集令状)が届く事態になることもじゅうぶんあり得るのだ。 この本には、裁判員から逃れるための方法ものべられている。 この裁判員制度は2009年から始まったが、2024年までに12万人以上の人が裁判 員になったようだ。この数が多いか少ないかは、各個人によって感じ方が違うと思うが、 裁判に関心があって裁判員になってみたいと思う人は別だが、それ以外の人は軽い気持ち 裁判員になったら、とんでもない苦役を背負わされることになるのは確かなようだ。 過去に読んだ関連する本: ・絶望の裁判所 ・なぜ君は絶望と戦えたのか ・淳 |
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まえがき ・この裁判員制度は、何の必要性も必然性もなく生まれた制度です。 国民にも大変な迷惑がかかるうえ、我が国の憲法体制も刑事裁判も根底から揺らいでし まう恐れがある。 ・裁判員制度の背後にある思想は、これまでの裁判のシステムとはまったく異なり、同じ ように行動させようとする国民総動員の思想であり、徴兵制への芽をはらんだものであ る。 ひとたびこのような国民総動員型の制度ができると、立法者の個別的な内心の意思とは 別に、それは客観的には非常に危険な第一歩を踏み出すことになるのだということです。 ・自分たちの国の裁判制度をどのようなものにするかということは、どのような裁判の形 が望ましいのかという見地から、それぞれの国の国民が主体的に決めることです。 我々は憲法において、裁判は専門家(裁判官)に委ねるという政策を選んだのです。 それは選択の問題であって、裁判制度が進んでいるとか遅れているとかということとは 別に関係ないことです。 裁判にとって国民参加が必要なものであるとか、望ましいものであるというその前提が まず誤っているわけです。 ・たとえば陪審制の国では、抽選で集めただけの素人に判断させようとするため、おかし な判決にならないよう、さまざまな技術を盛り込んで訴訟法・証拠法が非常に複雑なも のとなっています。 それくらいなら最初から専門家(裁判官)だけにやらせた方が簡単で、信頼性が高いう えに、費用も手数もかかりません。 ・古代、真実を知る方法がなかった時代、裁判を神意に頼ろうとして、呪術、決闘、ある いは神判という野蛮な制度で結論を出そうとしていました。 しかし、それよりは近隣の者を集めて来て、判断させた方がまだましだろうということ で中世にはじまったのが、陪審の起源です。 ・そう考えてみると、わが国では、抽選で集めただけの素人に被告人の運命を委ねるとい う素朴な段階を脱し、証拠に基づいて専門家に担当させるという合理的な方策を採用し ているので、むしろわが国のやり方こそ進んだ訴訟方式であるという見方もじゅうぶん できるのです。 医療にたとえれば、呪術の民間療法に頼る時代を抜け出し、専門家に任せる段階になっ ているということなのです。 陪審制を採用している諸国でも、陪審に判断を委ねる事項はだんだん減らされ、専門家 のみが判断する傾向が強まっていることはその表れといえるでしょう。 ・一部の国民参加論は、裁判官は法律の専門家ではあっても、事実認定の専門家ではない とよくいいます。 被告人が真犯人かどうかというような事実問題は、法律の問題ではなく、常識で判断で きるのだから素人でも大丈夫だというのです。 しかし、これも意見としては間違いであると言わねばなりません。 ・裁判の対象となっているのは、犯罪という、重大で、そして実際には極めてまれな現象 です。 普通の常識人なら誰でも体験していて、誰でもこれにもとづいて健全な判断ができると いうものではないのです。 これに対して裁判官は、専門的な訓練を受けているだけでなく、職務上膨大な数の事件、 犯罪を見て、これを証拠にもとづいて判断し、その判断過程を合理的に文章で表現する という仕事を何十年もやっています。 また、ある判決が上級審で破棄されれば、その判決を見て、自分の判断の不備を確認す ることもでき、そうやって経験を重ねているのです。 ですから、義務教育終了だけを条件として抽選で集められた素人の一回限りの判断とは 信頼性がまったく違うと言えるでしょう。 ・裁判官も生身の人間ですから、頼りにならない人が混じるのはやむを得ないことで、 そのことは他のすべての職業の場合と同じです。 しかし、大部分の裁判官は、熱心に、そして誠実に事件の山と取り組んでいます。 彼らはみな自分の仕事に誇りをもって、いっそうよい仕事をしたいと切に思っています し、そしてたまたま大事件の担当になったときは、適正妥当な判決を出すため文字どお り命を削る思いで審理に取り組み、訴訟記録と格闘しているのです。 このような彼らの仕事熱心さとモチベーションの高さを生かした訴訟制度を構成するの が一番合理的で賢い政策です。 裁判員制度とはどのようなものか ・裁判員制度は、平成13(2001)年6月に出された司法制度改革審議会の意見書に もとづいてつくられることになったものです。 平成16(2004)年5月には、「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」が制定、 公布されました。 ・このような制度をつくった理由として、審議会の意見書は、裁判に「健全な社会常識」 を反映させるためであると説明しています。 裁判員法の第一条には、国民の中から選任された裁判員が、裁判官とともに刑事裁判を 行うことが、司法に対する国民理解を増進させ、司法に対する国民に信頼を向上させる ことに役に立つからだ、と書いてあります。 ・もっとも、それでは今までの刑事裁判は、「健全な社会常識」に反するものであったの か、国民からあまり理解、信頼されていなかったのか、そして裁判員制度を導入すれば 司法に対する国民の理解と信頼が進むのか、ということはよく考えてみなければならな いところです。 ・この裁判員制度は要するに、一定以上の重大犯罪の刑事裁判については、裁判官だけで なく、国民の中からくじで選抜されたものを裁判員として刑事裁判に参加させ、裁判官 と裁判員の共同作業によって、被告人の有罪・無罪、そして有罪とされた場合の刑の内 容を決めようというものです。 ・裁判員制度の対象範囲を、普通の庶民には最も縁が遠いような事件に限定した意味が問 題となるでしょう。 これからすると、政府は、今までこういう重大刑事事件の裁判では「健全な社会常識」 が反映されなかったと言っていることになりそうですが、はたしてそうでしょうか。 ・裁判に「健全な社会常識を反映させる」というのであれば、一般国民に縁の深い事件で 裁判員制度を始めるほうがよさそうな気がしますが、一般国民に全く縁の内容な重大事 件、つまり心理も長期化し、証拠も多種多様で判断も難しいという事件を選んで裁判員 制度を始めるというところに、誰しも説明のつかないものを感じるでしょう。 そして、重大でない判事事件、民事事件、行政事件、少年事件、家事事件には「健全な 社会常識」が反映しなくてもよいのか、と問われたら、裁判員制度推進論者は何と答え るのでしょうか。 ・この制度の導入によって判決に「健全な社会常識」が反映されるというのであれば、 裁判員が加わって判断した判決は「健全な社会常識」にもとづいていたものになってい るはずです。 それにもかかわらず、そういう裁判員の判断が加わってできた判決を、裁判官だけの上 級審が審査し、場合によってはそれを破棄したりするのはおかしいことになるはずです。 ・そこで、骰婆人が加わって出した判決には上訴を認めないという意見があってもよさそ うですが、この制度をつくる過程でさすがにそういう乱暴な意見が出たことはなく、 一審判決に対して上訴できることが当然の前提となってきました。 それは、裁判員制度推進論者でも、内心ではじつはこの制度に相当の不安を持っている ことをあらわしているものでしょう。 ・他方、政府(法務省・検察庁)や最高裁判所は、裁判官だけの高裁の審理がその後にち ゃんと控えているのだから、裁判員が入った一審でおかしな判決が出ても心配すること はない、と考えている可能性もじゅうぶんにあります。 結局、裁判員制度の理念といっても所詮その程度のものなのだということかもしれませ ん。 そして、もし仮にそうであるなら、どうしても裁判員制度を導入しなければならないと いう必然性はもうこの段階でないも同然なのです。 裁判員制度はどのようにしてできたのか ・平成11(1999)年に、内閣直属の審議会として、司法制度改革審議会という組織 が出来ました。 これは、終戦直後にできた、いまの裁判制度や法律家(裁判官、検察官、弁護士)の制 度を、戦後半世紀を経て、根本的に見直そうとして、その方向付けをするためのもので した。 ・この審議会の特色の一つは、審議会委員13名のうち、法律専門家の数をあて半数以下 の6名とし、法律専門家でない委員のほうを多くしたことです。 訴訟というきわめて専門的、技術的な問題を扱うのに、ずぶの素人の委員を多くすると いうのは、ずいぶん無謀なことであった思われます。 特に、刑事裁判のあり方を大きく変えるようにというのに、委員の中に刑事専門の裁判 官がいなかったということが、裁判員制度などという無理な制度が出てくるひとつの原 因になりました。 ・この審議会で議論されたテーマは、裁判の制度や法律家の制度全般にわたりましたが、 最初から特に重要なテーマとされていたものが二つありました。 そしてその一つが、陪審制または参審制を導入して裁判に国民を参加させるべきかどう かということだったのです。 ・そして、この司法への国民参加というテーマに関する審議会の議論は、陪審制の導入を めぐって激論になりました。 その導入を主張する委員は、裁判官だけの審理では誤判があるから陪審制が必要である と力説し、これに反対する委員は、逆に、英米の陪審審理こそ誤判が多いから陪審制の 導入は危険だと主張して、双方の意見が激突したのです。 あるときの会議では、陪審制への思い入れが強すぎる委員が審議中に興奮のあまり、 反陪審派の委員に口汚い罵声を浴びせるということまであり、審議会の意見は到底まと まりそうにもない状況でした。 ・そこで審議会の会長が、陪審でも参審でもない独自のもっと良い制度を考えようじゃな いか、と言って、いったん双方をなだめてその場を収めました。 そして、こんな制度はどうだろう、というたたき台として出てきたのが後の裁判員制度 のアイデアだったのです。 ですから、裁判員制度というものはこのようにまったくの妥協の産物で、そして議論の 末に、これが審議会の最終答申に盛り込まれたのでした。 ・審議会が、最終的に陪審を捨てて参審を採用した理由は、陪審では賛成派と反対派が激 突していて到底調整の見込みがなかったということが最大だったと思われますが、他に、 陪審では誤判、冤罪が増えることや、わが日本国憲法下では陪審制は参審制以上に無理 があることが法学者にはよくわかっていたせいではないかと想像されます。 ・検討会で、裁判員制度を極力陪審制に近づけようという立場のある委員が、裁判員の人 数はなるべく多いほうがよい、無作為選出ではどうしても偏った意見の持ち主も現れて くるからだ、と述べていたのは注目しておくべきでしょう。 陪審論者のなかにも、くじで選ばれただけの国民一般の判断には偏っていて信頼できな いものがあるということをちゃんとわかっている人がいる、ということを示すものです。 このように、裁判に国民が参加すれば判決に「健全な社会常識」が反映されるというの は、裁判員制度推進論者からも疑われているとみてよいのです。 ・審議会の議論を振り返ってあらためて驚くのは、裁判への国民参加について憑かれたよ うな議論をしていながら、現行の刑事裁判の問題点、その原因、その対策をそもそも議 論していないことです。 いまの刑事裁判のシステムには、どこに、どのような問題点が、どれほどあるのか、 その不都合を克服するにはどのような対応を取ればよいのか、それでどの程度の成果が 予期できるのか、という根本的な問題がまったく議論されておりません。 陪審制導入論者の委員の頭にあったのは、国民の司法参加を当然の前提にしたうえで、 陪審制を強引にでも導入したいということであり、そうすればわが国の刑事裁判はよく なるはずだという彼らの強い思い込みを中心に審議会の議論が回っていたのです。 ・その中で現行の刑事裁判の問題点に多少とも関係があるのは、陪審制導入論者から、 昭和50年代に再審無罪事件があいついだから陪審審理を導入すべきだと主張されたこ とくらいでいした。 ・私の見たところ、裁判官審理を批判、攻撃し、陪審審理を唱導した陪審派の思い込みの 強さは宗教的信念と言えるほどのものでした。 ・一国の刑事司法のこれからのありようを決めようというのに、現状もその原因も対策の 効果のほども全然議論しなかったという、これほど「珍妙」な審議会もないでしょう。 それだけでなく、審議会では、この制度が我が国の法体系全体に無理なく適合するか、 個人主義的思考を基調とする現代の大衆社会の状況に対応できるものであるのか、とい うことについても検討されておりません。 審議会の議事録からうかがうかぎり、そこにあったのはただ「司法への国民参加」に対 する熱に浮かされたような興奮だけだったと言ってよいのです。 ・国民のあいだから、刑事裁判はぜひとも参審制、裁判員制でやりたいという大々的な声 が起こって、それにもとづいて裁判員制度が議論、採用されたというのであれば、その 実施は成功するでしょう。 しかし国民からそういう声がでたことはまったくありません。 国民の大部分はいまの裁判を信頼、支持しているのであって、今これを大々的に変更し て裁判員制度にしなければならないなどと考えていた人はまずいなかったでしょう。 ・それにもかかわらず、司法制度改革審議会では、そういう国民の声を正しく代弁するど ころか、委員たちが国民の参加を当然に前提としたうえで、二つの勢力にわかれて議論 をしていたのです。 二つの勢力とは、 ・どうも今回は陪審は無理のようだから取り敢えず参審でもやむを得ない、後は姑息な 手を辞さずになるべく陪審制に近づけ、陪審的に運用することにして、当分それで我 慢しようという勢力 ・陪審制はともかく、今回は参審制までは防ぎきれないだろうから、ここまではやむな く我慢しようという勢力 結局、この二つの勢力の狭間で仕方なく生まれた陪審制度は最初から望まれないもので あったわけで、その出生段階から不幸な生い立ちであったと評せざるを得ないのです。 ・世論調査の結果、国民の半数以上が、こんな制度は不要だし、自分はかかわりたくない、 と答えているのは、こういう経過から見れば当然のことです。 ・私は正直なところ、熱狂的な陪審制推進論者がそこまで陪審制に入れ込む理由がよくわ かりません。 我が国の今の裁判も普通の人間が動かしているわけですから、いろいろ欠点があるのは 当然です。 そのありようを研究ないし体験した結果、問題点のほうのみが目について、バランスを 欠いた思考に陥り、システムを異にする他国の制度は何でもよく見えるようになったと いうことかもしれません。 あるいは(自国の)現実と(他国の)理想を比較するという単純な誤りに陥った結果、 陪審制が素晴らしい制度のように思えるのかもしれません。 ・司法制度改革審議会が、その最終意見書を内閣に提出したのはへいせい13(2001) 年6月でした。 これを受けた当時の小泉純一郎首相は、その日のうちに「速やかに推進する作業に入る」 と明言し、政府は裁判員制度をつくらねばならないことになりました。 その後、その内容を具体化するために「裁判員制度・刑事検討会」という別の会議体が でき、そこで検討結果に基づいて政府が裁判員制度の内容を法律案の形にしたのです。 この法案が国会に提出されたのが平成16(2004)年3月、衆議院で可決、ついで 参議院での可決を経て、新しい法律として公布されたのが同年5月でした。 わが国の刑事裁判の骨格を大きく変更するという、きわめて重要な法律であるにもかか わらず、国会での審議期間は何と3カ月にも満たなかったのです。 ・この裁判員制度ですが、さっと考えただけでも、つぎのような問題点が思い浮かびます。 ・裁判員制度は、これを実施しなければならない実善性がない無用な制度だということ ・この制度はわが国の骨格を定めた日本国憲法に違反する違法な制度だということ ・この制度は費用が掛かりすぎる浪費の制度だということ ・この制度は裁判員に動員される億民の負担が亜案里にも大きい迷惑な制度だというこ と ・この制度は国民動員につながる思想をはらんだ危険な制度だということ 無用な制度(誰も求めていないのに) ・裁判員制度の最大の問題は、国民の大部分がこう言う制度を最初からまったく求めてい ないということでしょう。 そのことは各種の世論調査で明らかで、裁判員にはなりたくないという人が過半数を大 きく超えていたという世論調査の結果がそのことをよくあらわしています。 ・裁判員制度のもう一つ大きな問題点は、この制度を作るときに、司法制度改革審議会で、 我が国の現行の法体系、特に憲法はもとよりですが、刑法や刑事訴訟の体系と無理なく 整合するかどうかまったく検討しなかったことです。 いずれこの制度を強行すると、刑法や刑事訴訟法の体系と調和せず、あちこちで様々な 不都合が出てくることが予想されます。 ・裁判員制度やその支持者の思想の根底には、裁判官の判断より国民の判断のほうが信用 できる、裁判官の判断は非常識だが国民の判断は常識的だ、国民を裁判に参加させれば 判決に「健全な社会常識」が反映される、という根拠のない信念があるようです。 しかし、およそ人間の営みに完璧なものはありえないという、それこそ常識的な判断に もとづいて平均的なところを見るかぎり、義務教育終了だけを資格要件として九時で無 作為に選ばれた人たちのその場一回かぎりの判断が、専門的な資格と訓練があって、 何年もそういう仕事をやって来ている裁判官の判断より、最終的に、常識的である、信 頼できる、と思う人はいないのではないでしょうか。 裁判官は、日ごろの職務上、膨大な数の人や犯罪を見て、そしてさまざまな職業の世 界に触れているのです。 ・そのうえ、世論調査によれば、裁判員をやりたくないという人の割合が過半数を大きく 超えています。 このことは国民のあいだから抽選で無理矢理裁判員をかき集めても、やりたくなくて、 しぶしぶ出てくる人が大部分だということを意味しています。 ・それでもこの裁判員制度を実施しなければならない必要性、仕方なくしぶしぶ出てきた 人たちに被告人の運命を決めさせなければならないという必然性はどこにあるのでしょ うか。 違法な制度(憲法軽視の恐怖) ・驚くべきことに、この裁判員制度を打ち出した司法制度改革審議会は、この制度が憲法 違反にならないのかという最重要論点について、多少の意見は出たものの、突き詰めた 検討をしておりません。 彼らは、この制度はまあ大丈夫だろうというくらいのつもりで提議し、憲法問題の決着 を無責任にも先送りしたのです。 ・彼らとしては、審議会の意見書にも書いてあるとおり、今から決める制度の詳細を憲法 に適合するようなものにすればよいと思っていたのかもしれません。 しかし、裁判員は裁判官と同等の評決権を持つ、裁判員は有権者名簿からの無作為抽出 とする、被告人はこの裁判を辞退できない、などの本制度の骨格は審議会が決めたこと ですから、その責任を免れることはできません。 ・参審または陪審という裁判への国民参加を実施している国はまずどこでもそうですが、 その国の基本法である憲法で裁判のあり方を規定する際に、参審または陪臣に条文上の 根拠を与え、これらに憲法違反の疑いが生じないようにしています。 ・どうしても裁判員をやりたい人たちのなかには、憲法に規定がなくても、憲法には国民 参加をやってはいけないとも書いていない言う人もいます。 憲法に規定がなくて国民参加をやっている国を探し出してきて、フランスがそうだとい う人もいます。 しかし、フランスと日本とではあまりにも状況が違います。 フランスでの国民参加は実は18世紀のフランス革命時にさかのぼるもので、200年 以上の歴史を持っています。 それほどの伝統があれば、何度目かの憲法改正の際に司法への国民参加に関する条文が 入っていなかったとしても、それは今まで通りとするという意味だ、と誰しもが思うこ とでしょう。 ・実はこれまで、わが国では参審の合憲性はほとんど議論されたことがありませんでした。 熱心な陪審論者はたくさんいたものの、参審論者はほとんどおらず、参審をやろうとい う声もほとんどなかったのです。 ところが、司法制度改革審議会での無理な妥協の結果、突然参審の一種である裁判員制 度をやらざるを得なくなったので、急いで裁判員制度は憲法違反ではないのだというこ とにしなければならなくなって、賛成論者は苦しい論理展開を余儀なくされているので す。 粗雑な制度(粗雑司法の発想) ・抽選ではいったいどんな人が選ばれることになるのでしょうか。 一方では、なみの裁判官ではかなわないほどの立派で有能な人がいる可能性もあります が、他方では、こんな人に裁判をやらせても大丈夫だろうかと思われるような人も必ず 出てきます。 抽選である以上、いちじるしく能力の劣る人や、ひどくマナーの悪い人が混じってくる 可能性は避けられません。 外国で現実にあったように、朝から酒の匂いをさせてくるような人は絶対にいないと断 言できるでしょうか。 まして裁判員の資格要件は義務教育終了ということだけなのです。 ・およそ世の中でくじで決めてよいのは、結果がどちらに転んでもかまわないというもの だけです。 たとえば会社でも役所でも個人の営業でも、人を雇用するのに応募者のなかからくじで 決めようなどということは、いったいどんな人が選ばれることになるのか、恐ろしくて 誰もできないでしょう。 しかし、そうやって被告人の運命を決めようというのがこの裁判員制度なのです。 ・裁判員制度のもとでは、提示された細かい事実から合理的な推理を展開して争点となっ ている事実の有無を判断するのはなかなか難しいと思われます。 裁判員には義務教育終了という以上の格別の資格要件はないのです。 その結果、裁判員の法廷では、直接的に見える証拠が重視され、裁判員の直感だけで被 告人の運命が決まるような事態になるのではないかという危惧があります。 ・文章を丁寧に読んで、そこから自己の意見を形成するということが期待できないような 人を想定し、そういう人たちに被告人の運命を決めさせるというシステムがそもそも無 理、無謀ではないでしょうか。 ・裁判員制度のつぎの不安は、裁判官3名と裁判員6名とでどこまでしっかりした評議が できるのだろうかということです。 裁判員6名は、格別の資格要件もなく抽選で集められた人たちであり、思想、経歴、 推論・言語・意思疎通などの諸能力、誠実さなどは千差万別であると思わなければなり ません。 中には高度な判断にはとても耐えられないという人もいるでしょうし、人格的に問題の ある人も混じっていると思わねばならないでしょう。 これで果たして実のある議論ができるでしょうか。 ・判決の前提となる合議は、事実に関するひとつひとつの争点を丁寧な推理で解決してゆ き、到達した推論を前提としてその次の論点に進むべきものです。 しかし、全部で9人で議論をせよという裁判員制度のもとで果たしてこのような評議が できるかどうか、という心配があるのです。 議論の共通の前提を持たない裁判員が皆それぞれに己の意見を出すばかりでまとまらず、 結局多数決で結論を出すしかないという有様に陥る恐れはないでしょうか。 ・裁判員全員が誠実で有能な人であればともかく、抽選で集めただけの人である以上、 誠実で有能でもないという人が混じってくるのは当然です。 早く帰りたいため、くじ運悪く裁判員を押しつけられた腹いせのため、あるいは、世論 の非難を避けて世論に迎合するため、いい加減な判断をするような人はいない、と言い きれるでしょうか。 ・裁判員制度では、ある論点を巡って意見が対立した場合、関与する全員のうち、裁判員 については、あらためて訴訟記録をよく検討し、その結果に基づいた議論をするという ことが期待できません。 裁判員制度の前提は、裁判員というものは、義務教育終了だけを資格要件とし、文書、 記録をよく読み込んでそこから意見、心証を作り出すということができない人たち、 というものがあるからです。 あいまいな記憶に頼る議論と多数決で出すしかなかった結論というのは、「裁判に対す る国民の信頼を向上させる」どころか、不信を増大させるばかりと思われます。 裁判員制度のもとでは、裁判の質が現行のものより相当低下することはまず確実といっ てよいでしょう。 ・また、裁判官に特定方向の結論への思い込みが強すぎる場合の弊害も考えられます。 すでに一部の模擬裁判のことが大きく報道されている通り、裁判官が裁判員を一定の結 論に誘導しようという雰囲気が裁判員に伝わるほど露骨で、真面目な裁判員が鼻白む思 いになり、馬鹿馬鹿しくてつき合っていられない、それならもうお前たち(裁判官)だ けでやってくれ、という事態になることもじゅうぶんあり得るのです。 ・そしてこの裁判員制度のつぎなる脅怖は、このようにいい加減としか言いようのない審 理、判断を続けているうちに、裁判所、裁判官に、無意識のうちにも、刑事裁判はさほ ど緻密、厳密なものでなくてもよい、ほどほどでよいのだ、仮に誤判があっても、それ は当事者のせいか裁判員のせいだ、というたるんだ雰囲気が蔓延するのではないかとい うことです。 裁判員制度は、仮に誤判、冤罪があっても、裁判員に何らかの責任を取るということを まったく予定していませんし、また、そういうことはそもそも無理です。 どんな大きな間違いをしても、どんな誤判をやってしまっても、いかなる責任も負わな いという前提ではじめた制度に所詮ロクなものはないし、そういうシステムがまともに 機能するはずがないのです。 不安な制度(真相究明は不可能に) ・裁判においては、一方では、被告人の犯行にたくさんの目撃者がいて、被告人は現行犯 で逮捕されたというように、犯罪の立証に何の苦労もないような事件もあるでしょう。 しかし、他方では、直接的な証拠は何もなく、情古湯証拠を積み重ねて細かい事実をひ とつひとつ立証してゆき、その間接事実から合理的な推理を展開して、犯罪事実の有無 を証明しなければならないという事件もたくさんあるのです。 ・こういう推理、判断の技術は、合理的な思考のほか、訓練と経験によって身についてゆ くものです。 裁判官に高給を払っているのは、医師やそのほかの専門界に対する高額の報酬同様、 その思考、訓練、経験のためだといってもよいでしょう。 しかし、裁判員は、特別の資格要件なしで、そして当該事件かぎりで集められた人たち ですから、合理的な思考能力はその人次第とはいえ、訓練や経験とはまったく縁がない のです。 そして何よりも、刑事裁判の問題となっているのは犯罪というきわめて非日常的で、 特殊な現象であることを忘れてはなりません。 過酷な制度(犯罪被害者へのダブルパンチ) ・裁判員制度のもとでは、裁判員も証人を尋問することができるので、尋問という点から いえば、3人の裁判官が9人になったようなものです。 素人で、かつ全く経験のない裁判員なら、証人の立場を考えずに自分が満足するまで聞 こうとするでしょうし、何かの思い込みにとらわれてつい証人と議論する人もいるでし ょう。 また、興味本位で証人からあれこれ聞き出そうとする人がいることも考えられます。 結局、裁判員制度は、証人にならざるを得ない被害者にとっても、困った制度になりや すいのです。 ・また、犯罪の被害者は、証人としての立場とは別に、裁判において、まだに被害者とし ての立場を訴えることができるという意見陳述の制度がへいせい12(2000)年に 設けられました。 しかし、裁判員制度のもとでは、裁判員が審理に飽きたり、疲れたり、法廷から逃げ出 す前に審理を終えようとして審理がむやみに急がれる結果、被害者が法廷で思いのほど を売っているというこの貴重な時間が制約されてしまうという恐れも考えられます。 ・さらに問題となるのは、犯罪のなかには、法廷における被害者の立場が特に困難なもの があるのではないかということです。 裁判員制度の審理の対象となる事件のなかには、私見では強姦致傷がこれに当たります。 強姦致傷事件は、法定刑の上限が無期懲役なので裁判員審理の対象となるのですが、 その被害者は、犯罪の被害者であり、かつ、当該犯罪に最も近い立場にいたものとして、 法廷での証言がまず避けられないでしょう。 単純強姦罪ではその被害者の苦しい立場を考慮して、被害者からの告訴がないと検察官 は起訴ができないのですが、強姦致傷罪は親告罪ではないので、被害者からの告訴の有 無にかかわらず、検察官は犯人と確信した者を起訴することができます。 法は、告訴がなくても、こんな悪いやつは放っておくわけにはいかない、と考えている わけです。 したがって、被害者としては、告訴しないという手を使って法廷に呼び出されるのを防 ぐということはできません。 ・被害者の立場からすれば、犯人が起訴されるのは望むところであるとしても、法廷でそ の時の様子を詳細に証言させられるというのは非情に辛いことでしょう。 それでもこれまでは悪いやつに処罰を与えるため、刑事裁判の協力してもらってきたの でした。 裁判官は黒い法服を着ていて一見無機質に見えますし、また職業柄ポーカーフェイスは 得意ですから、普通の人の前よりはまだましも証言しやすかったと言えましょう。 ・しかし、裁判員制度がはじまると、証言台に立つ被害者の前には、裁判官だけではなく、 どこの誰ともわからない普通のおじさん、おばさんがさらに6人いることになります。 彼らはくじで選ばれた人であり、そして裁判員として強姦致傷事件の裁判をやりたいと 言って、裁判員をあえて辞退しようという努力もしなかった人たちですから、なかには 興味津々という顔をむき出しにしている人もいるかもしれません。 裁判官の前であれば、何とか勇気を奮って証言できるとしても、生身の人間そのもので ある裁判員の前で証言し、そのうえ、彼らからも尋問されるというのは、被害者を非常 に過酷な立場に置くことと考えられます。 ・ひとによっては、このことを理由に、証言を拒むかもしれませんし、拒まないまでも、 自己の立場を守ろうとして、証言に多少の、あるいはかなりの、修飾を加えるかも知れ ません。 法律上、証言拒否や偽証には制裁があるのですが、こういう犯罪の被害を受けたうえに、 証言拒否だ、偽証だといって制裁を受けては、被害者はあまりにも気の毒です。 裁判員制度を導入しなければ、被害者の立場がこんなに過酷なものになることはなかっ たでしょう。 迷惑な制度(裁判員になるとこんな目に遭う) ・何かの事件が発生して裁判員を選ぶ必要が生じ、最初の抽選で「裁判員候補者予定者」 を経て、「災難院候補者」になっていた者が実際に裁判員に選任されるには、裁判所に おける手続きが必要です。 裁判所はまず、その全体の候補者のなかから、その事件の裁判員の候補者として呼び出 すべき者を抽選で選び出します。 そこで選ばれた者は、一定の「質問票」に回答するように求められ、さらにその事件の 裁判長の面接審査があります。 また、この選任手続において、当該事件の検察官、被告人・弁護人は裁判長に、裁判員 候補者への質問を求めることができ、そして検察官、被告人側は、一定人数までは、理 由を示さずにこの人は外してくれ、と言うことができます。 ・「質問票」で尋ねられることは、裁判員法が裁判員の各種の欠格事由を定めていること から、これに当てはまるかどうかを判定するためです。 したがってその内容は、義務教育終了の有無、禁錮以上の前科の有無、心身の故障の有 無、職業・経歴、刑事起訴の有無、事件や被告人の関係などになるものと想像されます。 ・裁判員選任の段階で、その候補者にプライバシーのないことは、裁判員に任命する前に その人の個人情報をみな知っておきたいという発想でできている裁判員法の規定から明 かです。 ・裁判員法上、裁判員選任の期日に(正当な理由なく)これに関する裁判長の質問に答え なければ最大で30万円の過料という制裁の規定があり、裁判長の質問や質問票に虚偽 を回答すると、最大で50万円の罰金になります。 ・憲法には、何人も自己に不利益な供述を強要されない(黙秘権)という規定があり、こ れは刑事裁判の被疑者や被告人にも保障されています。 それなのに、くじ運悪く裁判員候補者として裁判所に引っ張られただけの国民が、思想、 信条、前科、経歴等のプライバシーのなかでも特に重要、微妙な事柄について問われ、 そういう質問には答えたくないという理由で答えない者には制裁を科すというのは、 憲法のこの条項に違反する恐れが大きいと言えましょう。 ・かといって、裁判員法のこの点に関する規定は最初から適用せず、裁判員はもう誰でも よい、能力も経歴も思想もいっさい問わない、ということにしては、裁判員制度は機能 しないでしょう。 結局、裁判員制度はその企画自体に無理があるということがこの点からもわかります。 ・さらに、裁判員候補者として裁判所に呼び出され、長いあいだ待たされ、さんざんプラ イバシーにかかわる不愉快な質問をされたからといって、必ず裁判員に選任されるとは かぎりません。 最終的にはそこでもう一度抽選があるので、そこまでいってから、はい、あなたは結構 です、お引き取り下さい、と言われてまったく無駄足に終わることもじゅうぶんありえ ます。 数の上では、裁判員に選任される人より、この方が多いでしょう。 裁判員などにはなりたくなかったのだから、ちょうどよかった、と思う人もいるでしょ うが、逆に、ぜひ裁判員になりたい、やってみたい、といって、貴重な平日の日中をや りくりして行ったのに、もうあなたには要はありません、帰ってください、と言われる こともじゅうぶんありうるのです。 ・さらに、補充裁判員に選ばれた場合には、より大きな問題があります。 補充裁判員というのは、審理途中で正裁判員が欠けた場合のピンチヒッター要員ですか ら、真面目に全部の公判にずっと立ち会っていても、最後の段階で評議に参加できるか どうかということはその時になってみないとわからないのです。 ・後半の途中で正裁判員がいなくなった場合には、かねて決められている順番で補充裁判 員が正裁判員に昇格してきます。 しかし、最後まで正裁判員が欠けなかった場合には、あるいは正裁判員が欠けても自分 の直前までの順番の補充裁判員で用が足りた場合には、その補充裁判員の出番はないま まに終わることになります。 否認事件の場合であれば、貴重な平日の日中を平均でいっても10回ほども裁判所に引 っ張られていながら、あなたの意見が役立つかどうかは、最後にならないとわからず、 その時になって、来てもらっていたことがまったく無駄になるかもしれない、それでも 公判にはずっと来てもらわねばならない、と言われては、普通の国民なら、人を馬鹿に しているのかと言いたくなるでしょうし、公判に出席し続けるというモチベーションを 維持するのも難しいでしょう。 しかし、補充裁判員を用意しておかないと、正裁判員が欠けたという万一の場合には公 判も評議も成り立ちません。 国民を刑事裁判に参加せるということは、国民にこういう苦労をかけるということです が、こういうことは審議会の議論でもその最終意見書でも触れられていませんでした。 彼らには裁判所に引っ張られる普通の庶民の苦労などは眼中にないのです。 ・いよいよ裁判員に選任されて公判が始まると、ここからが大変なことになります。 普通の刑事公判といえば、午前10時ごろから午後4時過ぎ頃まで、休憩時間を除いて て一日当たり合計5時間くらいが証人尋問で過ぎるのですが、この証人尋問は当事者に よる交互尋問のせいでむやみに時間がかかります。 法廷での証人尋問は、当事者である検察官と弁護人が、主尋問、反対尋問、再主尋問、 と交互に行う部分が中心となっています。 その膨大な証拠、証言のいわば海のなかから、真相を発見するのが裁判官(これからは 裁判員も)の役目であるわけです。 ・裁判員法が予定する「法定刑の重い重大事件」なら、よほど簡単な事件でも、公判全部 を一日や二日で終えることは困難です。 ・裁判所に行くべき回数は、結局、自白事件で平均4回、否認事件で平均10回というこ とになりますから、仮に公判を連続開廷としても、4回ということは1週間の平日がほ とんど全部潰れるということであり、同様に10回ということは丸々2週間かかるとい うことになります。 いずれにしても職業を持っている国民にとっては大変な負担であることに変わりはあり ません。 ・裁判員制度下の審理では極力調書を排し、口頭証拠(証人の証言)を重視することが期 待ないし予定されています。 抽選で選ばれただけの裁判員では調書を読みこなすのは無理だろうから、証人の証言を 直接聞かせるほかはないという考慮です。 その結果、公判は今よりいっそう時間がかかることになるでしょう。 ・裁判員制度推進論者は、公判に要するであろう膨大な時間をなるべく圧縮みせようとす る傾向があります。 公判は何カ月かかるか、何年かかるかわからない、ということでは、裁判員になってこ の制度を支えるはずの国民がおじけづき、裁判員からこぞって逃げ出すことが見ている からでしょう。 裁判員制度の一般向け解説書のなかには、こういう「圧縮」で国民を誤導しようとして いるとしか思えないものがあります。 ・裁判員になったあなたがこのような「圧縮」を真に受けて、裁判員の負担といっても大 したことはないだろうなどと誤解していて、大きな事件に取り込まれると、膨大な時間 と労力が吸い取られて人生が狂ってしまう恐れがあるのです。 ・裁判員の苦労のひとつは、公判に立ち会って、証人尋問を聞くことです。 普通の国民にとっては決して楽しいことではありません。 まして、手洗いの近い人や体調の悪い人には、ただ座っているだけでも相当つらい作業 になります。もちろん、飲食はできません。 また、眼前で展開される証拠調べは、いずれも「重大な刑事事件」のためのものであり、 その大部分は殺人事件、強盗殺人事件、強姦殺人事件などになるでしょうから、証人尋 問や被告人質問中には、何とも悽惨で、聞くに堪えない証言、供述も出てくるでしょう。 また、殺人が絡む事件であれば、これまたむごたらしく、正視に耐えないような死体や 現場の写真が証拠として出てきて、裁判員にトラウマを残すことがあるかもしれません。 しかし、再場人をつとめる以上は、聞きたくない、見たくないといって済ませることは もちろんできず、いずれ評議の場では、そういう証拠を含めた事件の全証拠にもとづい て、被告人の有罪・無罪を決めなければならないのです。 ・会社員であれば、仕事より裁判が大事だといいって業務が大事な時期に休んだままの社 員は要らない、少なくとも枢要な職は任せられない、と判断され、その結果、クビにな る、エリートコースから外される、窓際に回される、次回のリストラのリストに入れら れる、ということは十分あり得るでしょう。 ・自営業者なら、その日は商売ができないわけですから、収入が期待できないだけでなく、 取引先に不興を買ったり、商売上の致命的なチャンスを失って倒産したり、ということ も考えられます。 ・完全歩合制、派遣社員、契約社員、個人的業務請負制など、一日仕事をしなければ、 まったく収入がないという人もいるでしょう。 それだけでなく、いわゆる規制緩和の結果として労働ダンピングと言われるほどに労働 力の使い捨てが進み、今では非正規雇用の労働者が全体の3割を越えるような有様にな りました。 正社員でさえ職が危ない時代に、このように不安定な立場の非正規雇用の労働者が裁判 員として何日も裁判所に引っ張られていては、あっという間に職を失うでしょう。 失業者やフリーターが世の中にあふれているこの時代、代わりはいくらでもいるのです。 ・もっとも、使用者は、労働者が裁判員をつとめたことを理由として解雇などの不利益な 扱いをしてはならないという条文がありますし、それはもちろん、このような非正規労 働者にも適用されます。しかし、その効果は極めて疑わしい。 ・受験生、学生であれば 入学試験、資格試験、就職試験などの重要な時期に裁判人として裁判所に引っ張られて いては、人生が狂うでしょう。 自宅で入学試験や資格試験の勉強をしている浪人生は「学生又は生徒」では意図される 恐れが大です。 ・結局こうして見ると、裁判員制度を強行した場合には、全国でたくさんの国民を裁判員 として裁判所に引っ張り、公判のあいだ、本来の経済活動をせず、他方では旅費、日当 を払おうというわけですから、裁判員になった個別の国民にも、国全体にも、大きな社 会的、経済的損失を及ぼすことは明らかです。 ・この裁判員制度の骨格を作ったのは、要するに、法務省・裁判所の高級官僚や大学教授 たちです。 官僚や大学教授は、一カ月間何もしなくても相当の供与が確保されていて、収入の心配 は全くありません。 これらの人たちは、自分の本来の仕事や収入を捨てて、他人の刑事事件で裁判所に引っ 張られるという普通の庶民の苦労などは全くわかっていないと思われます。 ・裁判員制度の一般向け解説書のなかにも、裁判員制度推進論者が、裁判員として裁判所 に引っ張られる庶民の苦労に対して無知であり、国民の感覚から遠いものであるという ことがうかがわれるものがあります。 ・たしかに、裁判員法には、労働者が休暇を取得したことその他裁判員であることを理由 として、解雇その他不利益な取り扱いをしてはならない、という規定があります。 しかし、ある行為を禁止することと、そのような事象が社会からなくなることとが別の ものであることは明らかです。 禁止される、というのは間違いではないものの、禁止するだけでそのような心配がなく なるのであれば、世の中には犯罪も違法行為もないことになるでしょう。 ・結局、「禁止される」というのはどういう意味でしょうか。 それは要するに、もしクビになったら、裁判所に訴訟を起こして、自分がクビになった のは裁判員となったからだということを立証できれば勝訴するだろう、という意味です。 すなわち、クビになった後、自分で弁護士を捜して訴訟をやりなさい、そして自分がク ビになったのは、再場人となったということが理由であったということを民事裁判で立 証しなさい、一審で勝訴しても二審以降はまたどうなるかわからない、そして首尾よく 最終的に勝訴するまでその裁判のあいだの生活の手段は別途自分で調達しなさい、とい う意味にほかなりません。 その間の膨大な時間、費用、労力、ストレスについて、裁判員制度推進論者は心配して くれないし、考えたこともないでしょう。 ・裁判員制度を運営する裁判所とその関係職員にとって、もっとも重要なことは、要する に、この制度が順調に回ることと何か不都合なことが起きたときに己の責任を問われな いこと、この2点に尽きます。 彼らにとって、その背後にさまざまな事情を抱えた 個々の裁判員のことは念頭にない し、そんなことを考えていては、裁判員制度は回りません。 彼らにとって、裁判員はいちいち面倒なクレームをつけて自分たちを悩ませることなく、 一件分おとなしく務めてくれればそれでじゅうぶんなのであって、裁判員をつとめたた めに彼らの個々の人生が暗転しても、それに対して何らかの責任を負う気もないし、 責任を負う力もありません。 ・推進論者の学者のなかには、驚くべきことに、日本人は働き過ぎだから、自営業者が裁 判員の仕事で何日か仕事を休むこともよいことではないかという人がいます。 家族全員で働き過ぎるほど働いてやっと生計が成り立っている零細自営業者なら、これ を聞いておそらく開いた口がふさがらないでしょう。 ・裁判員制度を推進しようとしている人たちが持っている国民の労働状況に関する認識は、 所詮この程度のものであるということ、こういう人たちが裁判員制度を推進しようとし ているのであるということは、国民の立場として知っておく意味のあることでしょう。 ・今の日本の量刑相場からすると、人を一人殺害しても死刑になることは少ないのですが、 二人以上殺せばまず死刑でしょう。 仮に、裁判員となったあなたの前にある事件が、たとえば子供を含む一家四人の皆殺し 事件であったとします。 有罪なら被告人は当然死刑でしょう。 しかし、仮に有罪であることが明々白々な事件であったとしても、そしてあなたが死刑 廃止論者でないとしても、一人の人を死刑台に送ったということは、普通の人であれば、 その後もずっと大きな精神的負担、心の傷として残るのではないでしょうか。 ・清水の舞台から飛び降りたつもりで有罪票を投じ、そして被告人が死刑になった場合に は、本当にそれでよかったのかどうか、相当なプレッシャーになるものと思われます。 ましてその後に、何かの事情で別に真犯人が現れたりすると、きわめて寝覚めが悪いこ とになるでしょう。 わずかな日当でこういう苦労を引き受けさせられるのは到底割にいません。 ・評議の場であなたと議論することになるほかの裁判員がどういう人たちであるのかとい うことを事前に知る方法はありません。 理性的、温厚、快活で気持ちの良い人たちばかりであればよいのですが、そういう保証 はもちろんありません。 ほかに何人もいるわけですから、中には不愉快な人物も相当混じっていると思わなけれ ばならないでしょう。 熟慮の上でようやく口にしたあなたの誠実な意見を嘲笑、罵倒する人物もいるでしょう し、突然、「何をあんたら」と怒鳴られるかもしれません。 また、一緒にいるだけでも不愉快なほど不潔な人間がいてもおかしくはないのです。 ・判決言い渡しによって、裁判員の任務が終了しても、まだまだ安心はできません。 裁判員は審理に立ち会うことによって、被告人および犯罪被害者の様々なプライバシー に触れるし、また評議の場においては、誰がどんな意見で結局何対何の評決で被告人の 運命が決まったのかという評議の秘密を体験することになりますが、こういう秘密をう っかり漏らすとたいへんなことになります。 「六月以下の懲役又は五十万円以下の罰金」です。 しかも、この秘密維持はいつまでも終わらず、死ぬまでつづきます。 ・裁判員はその候補者時代から、義務教育終了の有無、前科前歴、心身の故障の有無・程 度、当該犯罪や被告人との関係、合理的な思考能力の有無・程度、犯罪やこれに対抗す る国家権力に対しる思考・思想など、場合によっては行動形態や趣味嗜好にいたるまで、 徹底的に調べられると思わなければなりません。 また、裁判員を逃れるために、本当は隠しておきたかった自分の事情や家庭の状況を自 分で説明しなければならなくなることもあり得るのでしょう。 ・つまり、これらの情報が公権力に筒抜けになる結果、政府はその気になれば、国民一人 ひとりに関するこれらの膨大な個人情報を収集、蓄積することができるようになるので す。 この「現代の赤紙」から逃れるには(国民の立場から) ・この裁判員制度は憲法に反しているという問題点を列挙しましたが、その具体的な論点 の一つとして、国民に大きな負担を強いるこの制度は国民の幸福追求権を侵害するので はないか、この制度は国民に「意に反する苦役」を強いることになるのではないか、 というものがありました。 ・裁判員制度を本当に実施するには、これらの疑問を放置したままではやれませんから、 いずれ政府や御用学者によって、裁判員制度は国民の幸福追求権を侵害しないし、裁判 員をやらせることは意に反する苦役を強いることにもならない、という論理武装がなさ れるでしょう。 そして、これらの「理論」は、いずれ徴兵制をやりたいという政治家が現れたときに、 それに反対するものを攻撃するのに有力な武器となることは確実です。 裁判員制度を合憲化しようとして、裁判員制度を施行し広く国民に裁判員の義務を負わ せることは、民主的な国家を確立し擁護するためであるから憲法違反ではない、となり ます。 ・私は、裁判員制度を打ち出した司法制度改革審議会の委員、その具体化を進めた裁判員 制度・刑事検討会の委員、そしてこれを立法化した国会の議員たちに、裁判員制度の立 法と施行をもって、将来の徴兵制実施への足がかりにしたいという下心があったとか、 陰謀があったとかいうつもりはありません。 しかし、事態を客観的に見た場合には、こういう制度ができる前と比較して、制度新設 後は、政府は、国民はもっと国のために働くべきだ、自分は国のために何ができるか考 えるべきだ、と言い易くなるのは当然のことです。 そして何代か先の政府が、いよいよ徴兵制を実施しようと思ったときに、この裁判員法 がこれらを醸成する国家奉仕の雰囲気と精神は、それに大いに寄与することになると思 われます。 ・ここで述べることは、すべて合法的なものではありますが、要するに、国民側の事情を 無視する政府や裁判所に抵抗することですから、権威、権力に弱い人には向いていない かもしれません。 主権者の一人としての堂々たる気概を持ち、誰が何と言おうと憲法違反の曲がったこと には応じられない、という硬派の人向きです。 ・裁判所から、裁判員選任のための期日の呼出状が来てしまったとします。この場合には どうしたらよいでしょうか。 まず、裁判員選任手続の期日へのその「召集令状」を無視して、呼出の日に何もしない という手が考えらえられます。 特に、同居の親族の介護、養育の都合があるとか、他人にはできない重要な要務を抱え ている、という理由での事態通知をすでに送ってある場合には、千人の期日に裁判所に 行ってはおかしいでしょう。 裁判所からの呼出状を無視しるというのは、陪審制の本場アメリカでも普通にあること ですので、裁判所も、この呼出状のうちのそもそも何割かはまったく反応しないという ことを予想しながら発送することになるでしょう。 ・このようにまったく何もしないままでいるというのも国民としてのひとつの意思表示に なりますが、会社員として何らかの任務を負っている人であるならば、呼出の日に合わ せて会社から特に重要な業務または出張の命令を出してもらえばよいし、会社員でない 人でも、その日に合わせて重要な用務を自分で作ればよいわけです。 住宅の購入やリフォームの契約、自治会での打ち合わせ、役所への届出、子どもの学校 との相談、病院への通院、急病の家族の看病など、いくらでも考えられるでしょう。 ・一番簡単なのは自分の病気を理由にすることでしょう。 愚直に裁判所に出かけて行って、裁判長との押し問答の結果として裁判員役をうっかり 押し付けられるより最初から裁判所などにはかかわらないのが一番安全です。 ・裁判員候補者として呼び出されて、「正当な理由が泣く」欠席すると、十万円以下の過 料の制裁があることになっており、呼出状にもそう書いてあるでしょうが、病気成り、 家族の介護・養育なり、仕事なりの「正当な理由」があるのであれば、何ら問題はあり ません。 ・急病で行けない、家族の介護でいけない、仕事でいけないといっている者に対して、 病状が重くなってもかまわないから出て来い、家族がどうなってもかまわないから出て 来い、お前の商売や会社がつぶれてもかまわないから出て来い、などという権利は裁判 所にはありません。 無理して出ていったために運悪く何が不都合なことが起きたとしても、裁判所はそれに 対して何らかの責任を取るつもりもないし、そういう責任を取る力もないことはよく覚 えておかねばなりません。 ・また、自分や家族の病気でいけないという場合、裁判所は、それならその証明に診断書 を出せと言うかもしれませんが、診断書をもらうために病院へ払う「文書料」をあなた が負担する筋合いはまったくないのですから、裁判所から文書料代金とその郵送料が届 いてから送る、といえばよいのです。 それに、その日は動けなかったが病院へ行くほどではなく、一日安政にしていたら具合 がよくなったという程度の病状はいくらでもあることです。 ・十万円云々の条文は、実際には発動されないのではないかと思われます。 まず、「正当な理由」があったのかどうかという認定自体がなかなか面倒です。 「正当な理由」なしで…した者には制裁を加える、というのは、正当な理由があれば問 題としないという意味ですから、この条文は、国民をむやみに苦しませることのないよ う、逃げ道を作っておいた政策の結果であるという考え方もできるのです。 ・そもそも国民をこのような制裁課金で脅して無理やり出席させなければ維持できないよ うな裁判制度、脅されてしぶしぶ出てきたような人にさせる公判や判決に何の意味もな いことがよくわかっているからです。 もし裁判所が本当にこの条文を発動したら、それは制度崩壊の第一歩を意味します。 ・呼出状には、裁判所の担当窓口の電話番号と、都合が悪い場合にはそこへ電話せよとい う旨が書いてあるでしょうから、真面目な人はここで、取り敢えず裁判所に電話して、 自分はいけない、行かない、ということを知らせておこうと思うかもしれませんが、 裁判員選任の期日の呼出状が届いてしまった後は、それは得策とはいえません。 その理由は二つあり、その一つは、それをすると、住所と名前を聞かれて、呼出状が届 いたことがわかってしまうということです。 もっとも、この呼出状は、普通郵便ではなく正規の送達(一種の書留郵便)によること が予定されていますから、本人がいったん送達を受けたうえで、届いていないと頑張る のは本当は難しいかもしれません。 地方裁判所から何かの書類が届いた場合には、封筒の表に何の記載もない場合でも、 それを裁判員選任関係の手続きの呼出状である可能性が高いわけですから、最初から受 け取りを拒否するのが一番よろしい。 ・裁判員選任期日の呼出状の受け取りを拒んでも罰則や過料はありませんし、また、家族 や使用人が受け取った場合には、それを本人に渡すのを忘れていたというのもよくある ことでしょうが、書類の受け渡しを忘れていたことに対する罰則も過料もないのは当然 です。 ・呼出状を受け取っても裁判所に電話をかけないほうがよいもう一つの理由は、そういう 電話の応対をするのは裁判長ではなく、電話番を務める現場の書記官か事務官で、彼ら は、裁判員候補者にどんなに深刻な事情があろうとも、そういう事情があるのならあな たは結構です、という権限を最初から持っていないということです。 彼らが言えるのは、何とか都合をつけて出てきてください、ということか、そういう事 情は裁判所へ来て直截裁判長に言ってください、ということだけです。 彼らはそれ以外のことは、言いたくても言う権限がなく、仮に言えば、勝手なことを言 うなと後で上司から怒られて、自分の失点になるだけです。 ・裁判員候補者となった後、現実の事件が発生して裁判員が必要になると、選任の期日に 先立って、質問状が送られてくるでしょう。 これは、欠格事由、就職禁止事由、辞退事由などの様子を裁判所が事前に把握したがる ためです。 裁判員になりたくない人は、この段階から大番所の一方的な扱いに抵抗すべきですから、 自分はこういう事情があって、裁判員にはならない、なるつもりもない、と書いて返送 するのは一法です。 また、質問票に虚偽の事項を書くのはいけませんが、何も書かない、返送しない、とい うことに対する制裁規定はありません。 従って、そういう筆問表は放っておくという手もあります。 ・そのつぎの手段は、裁判員選任の手続きの日に裁判所に行って、自分は裁判員にはなら ないという事態理由を説明し、裁判長から免除を勝ち取る、つまり辞退を正式に公認し てもらうことです。 一回は裁判所に行かなければなりませんが、首尾よく免除を勝ち取れば、裁判員の義務 から堂々と逃れることができます。 ・裁判員法が国民の個別的な事情、都合を軽視(または蔑視)していることが明らかです。 特に大きな問題は、自分にはそういう重大な仕事をするだけの力量がないことがわかっ ている、被告人にも犯罪被害者にも社会にもそして自分自身に対しても良心に恥じない 存在でいたいからという理由、つまり能力を理由とする誠実な辞退を認めていないとい うことでしょう。 そこには、別に悩む必要はない、裁判などは適当でよいのだ、さっさとすませてくれれ ばよいのだ、という恐るべき思想がはっきり現れているのではありませんか。 ・土の程度の「疾病。傷害」、「介護又は養育を行う必要」、「重要な用務」、「社会生 活上の重要な用務」であれば出席困難という扱いになるのかということにはまだ明らか でない点がありますが、これらの事情を活用して正規に裁判員を免れるには、いくつか の方法が考えられます。 ・その一つは、いわば正攻法で、自分にとってその事情がきわめて重要なもので、他人の 刑事事件どころではなく、誰か何といおうとも自分は裁判員になる気はない、したがっ て、仮に選ばれてもやる気はないし、明日以降会い番所へ来る気もまったくない、今日 はこの時間だけは仕方なく来たけれども、これも非情な無理をした結果なので、この面 接が済んだらすぐに帰らなければならない、他に暇でやりたい人はいくらでもいるだろ うから、そういう人を選んでくれ、と堂々と訴えることです。 そのニは、自分のその大事な事情のために裁判に集中できない、無理に裁判員にさせら れても公判などはうわの空になってしまうだろう、我れながら不安だ、と訴えることで す。 その三は、きわめて「難儀な」人を装い、そもそもこの人は合理的な思考や発言はでき ないようだ、とてもこういう人と一緒に法廷を務めるのは無理だ、と裁判長に思わせる ことです。 一歩も引かず、自分はやれない、やらない、こういう事情を抱えているのに、もし損害 が発生したらどうしてくれるのか、とまくし立てるのが適切です。 裁判官は、日頃、論理と合理性の世界に生きていますから、論理も合理性もまったく通 用しない、そもそも最初から話が通じない、という人には非常に弱いです。 その四は、自分の思想・信条を理由として辞退を申し出ることです。 裁判員選任の段階で正当に裁判員を免れたいと思う者は、私は自分の信念(宗教上の信 念や、ご先祖様の夢枕でも父親の遺言でも)として、誰が何と言おうと人を裁くという ことはしたくありません、しないことにしております、と言うことです。 「信念」ということになれば、もう説得の余地はないので、まともな裁判長なら、当該 候補者を裁判員にすることを断念するでしょう。 そして、信念として人を裁くことはできない以上、仮に自分が無理やり裁判員にされた としても、評議では絶対に意見は述べません、と付け加えておけば、なお確実です。 というのは、もしそういう理由で裁判員を辞退したいと言っていた人を無理に裁判員に 任命した結果、評議段階にいたってその人が自己の信念にもとづいて本当に意見を述べ ない場合、これに対する法律上の制裁はなく、ただ当該裁判員を解任して補充裁判員を 昇格させるしかありませんが、仮にそれまでに補充裁判員を使いきっていれば、証拠調 べが終了した段階になって新たな裁判員の選任というとんでもない事態になってしまう からです。 公判開始の段階では、評議の段階までに補充裁判員を使いきっているかどうかという見 通しを立てるのは無理ですから、人を裁くことはできない、そういうことをする気はな い、という候補者がいれば、これはもう裁判員選任の段階で外しておくほかはありませ ん。 ・結局、はやめに解任してもらうには、病気を理由に公判期日に欠席するのがもっとも簡 単です。 肉体の病気だけでなく、今日は裁判員を務めて被告人の運命を左右するほどには頭が働 かないというものでもよいでしょう。 ・公判期日に酔っぱらって行く、というのは陪審制の国でもあることで、これもじつは解 任確実です。 けっしてお勧めはしませんが、少々ひんしゅくを買ってでも、一刻も早くこのしょうも ない裁判員を解任してもらいたい、そうでないと自分が、仕事が、家族が、家庭が大変 なことになる、というのであれば、これが、誰にでも、そしていつでもできる一番簡単 な手であることは確かです。 素人を裁判に関与させては公判期日に酔っぱらって来る人がいる恐れがあると書きまし たが、自分を守るためにこれを逆手に取るわけです。 裁判長の面接で、裁判長とやり合うことができずに免除を取れなかったという気の弱い 人でも、この手は何の技術も要りませんし、裁判長に帰れと言われるのはむしろ好都合 でしょう。 いま、本当に考えるべきこと ・裁判員制度は、わが国の丁寧な審理と判決を支えてきた諸々の要素を、国民を刑事裁判 に参加させる代償として、みな放棄しようとする制度です。 くじ運が悪くて裁判員となっただけの者に、心血を注げとか、命を削れというわけには いかないので、できる範囲でよい、決して「過重な負担」はかけない、義務教育終了者 に期待できないようなことは最初から求めていない、ほどほどのところで結論を出せば それでじゅうぶんだ、今後の刑事の重大事件についてはその程度の判断でよい、といっ ているわけです。 ・この制度については、とにかくまずやってみて、うまくいかないようだったら、その段 階で考え直せばよいではないか、という意見があるかもしれません。 しかし、それはとんでもない誤りです。 裁判員制度の対象となるのは重大事件ばかりですが、そのような重大事件とそういう重 大事件の被告人の運命を材料にして実験や試行錯誤をするということは、社会全体がめ ざすべき生後という点から見ても、被告人や犯罪被害者の立場という点から見ても、 あまりにも無責任なことであるからです。 ・結局私が訴えたいことは、現行の刑事裁判のシステムにも様々な問題はあるけれども、 それに堅実な対応をしようとせず、また、現行刑事裁判制度には他国の刑事裁判よりは まだずいぶんよいと評価すべき点も多いのにそれにも意を用いず、妥協の産物でしかな くて何のメリットもない裁判員制度などを導入すると、刑事裁判のあり方も社会全体の 様相もいまより悪くなることは確実である、ということなのです。 あとがき ・裁判員制度の問題点がじゅうぶんわかっていただけたことと思います。 こんな制度は一刻も早く廃止しないと、わが国の刑事裁判が根底から破壊されてしまう 恐れが本当にあるのです。 各種のウェブサイトなどで見るように、いま、法律専門家だけでなく、一般国民のあい だから裁判員制度反対の声がつぎつぎに上がっているのも当然といえましょう。 ・ただ手をこまねいて国会が動いてくれるのを待っているだけではだめで、国民の側から どんどん意見表示をしなければなりません。 それこそが主権者である国民の務めです。 訴える相手方としては、国会、地元国会議員、最高裁判所、地元裁判所、地元検察庁、 地元弁護士会、各種マスコミなどが考えられるでしょう。 この粗雑な裁判員制度といえども、国民すべてに、裁判はどうあるべきものかというこ とを真剣に考えさせてくれるという意味では、きわめてよい材料を提供してくれたので した。 |