絶望の裁判所 :瀬木比呂志

この本は、今から10年前の2014年に刊行されたものだ。
この本の著者は、東京大学法学部在学中に司法試験に合格するという経歴の持ち主であり、
大学卒業後に33年間裁判官を務めた後、大学教授に身を転じた人物のようだ。
この本の内容は、日本の裁判制度や最高裁をはじめとする裁判所組織などの司法界に対す
る痛烈な批判であり、刊行された当時は大きな反響を呼び、多数のメディア・書評に取り
上げられ、ベストセラーになったようだ。
私がこの本を手に取るきっかけとなったのは、自分の身内に裁判員制度の裁判員の候補と
なった者が出たことだった。相談されて裁判員制度について調べているうちに、素朴な疑
問がわいてきたのだ。

それまでは、今までの人生で一度も裁判所に関係したことがなく、裁判員制度にもまった
くの無知・無関心で、私にとって裁判所はまったくの別世界の存在であった。
そのため、少しでも裁判所や裁判官、そして裁判員制度について知りたいと思って、この
本を読んでみたのだが、この本内容には驚愕させられた。
裁判官といえば「正義」の象徴だと、私は純粋に信じていたのであるが、それが単なる、
「事件」を「処理」する官僚だとか公務員だとかと言われると、まるで夢から現実に引き
戻されたときような気持になった。
しかし、夢からさめて、いろいろ考えてみると、確かにいままでに不可解な判決はいくつ
かあったような気がする。特に、憲法判断となるようなものや政治がらみのものは、判決
を出さずに対象外として逃げているような気がしたものだった。
この本を読んで、日本の司法界が抱える問題が、おぼろげなからわかったような気がした。
また日本の司法界の抱える問題は、現在の日本社会が抱える問題の縮図のような気もした。
もっとも、この本を読んだだけでは、裁判員制度については、問題がありそうなことはわ
かったが、なぜこの制度が導入されることになったのか、その背景などについてはわから
ないため、さらに裁判員制度に関する本を読んでみたいと思った。


はしがき
・2000年度に実施された調査によれば、民事裁判を利用した人々が訴訟制度に対して
 満足していると答えた割合は、わずか18.8%にすぎず、それを利用しやすいと答え
 た割合も、わずか22・4%にすぎない。
・裁判の目的とはいったい何だろうか?
 私は一言でいえば、「大きな正義」と「ささやかな正義」の双方を実現することではな
 いかと考える。 
・日本の裁判所では、「ささやかな正義」はしばしば踏みにじられているし、裁判所が、
 行政や立法等の権力や大企業等の社会的な強者から国民、市民を守り、基本的人権の擁
 護と充実、人々の自由の実現を務めるという「大きな正義」については、きわめて不十
 分にしか実現されていない。
・あなたは、つまり一般市民である当事者は、多くの裁判官にとって、訴訟記録やみずか
 らの訴訟手控えの片隅に記されているただの「記号」にすぎない。
 あなたの喜びや悲しみはもちろん、あなたにとってせつじつなものであるあなたの運命
 も、本当をいえば、かれらにとっては、どうでもいいことなのである。
・日本の裁判所、裁判官の関心は、端的にいえば、「事件処理」ということに尽きている。
 とにかく、早く、そつなく、「事件」を『処理』しさえすればそれでよいのだ。
・また、権力や政治家や大企業も、これをよしとする。
 庶民のどうでもいいような事件、紛争などともかく早く終わらせるにこしたことはなく、
 免罪事件などいくらかあっても別にどうということはなく、それよりも、全体としての
 秩序維持、社会防衛のほうが大切であり、また、司法が「大きな正義」などに深い関心
 を示すことは望ましくない、あるいは、そうなったら大変に都合が悪い。
 大国の権力や政治家や大企業は、おおむねそのように考えているに違いない。
 そして、日本の裁判所は、そういう意味、つまり、「民を愚かに保ち続け、支配し続け
 る」という意味では、非情に、「模範的」な裁判所なのである。
・つまり、日本の裁判所は、大局的にみれば、「国民、市民支配のための道具、装置」な
 のであり、また、そうした道具、装置としてみれば、きわめてよくできているのだ。

私が裁判官をやめた理由(自由主義者、学者まで排除する組織の構造)
・私が司法試験を受けた理由は、どう考えても自分が会社に向いているようには思えなか
 ったからである。
 また、当時は合格者は五百名台、留年生をのぞいた純粋な大学生の合格者は全国で数十
 名という狭き門に挑戦してみたいという気持ちもあった。
 幼い頃から自分の能力だけを頼りに生きてきた。
 また、それ以外に頼りなるものは何もないと良心にたたき込まれてきた優等生の、悲し
 き性である。
・しかし、実をいえば、本当にやってみたかったのは、文学部での社会・人文学の研究だ
 った。
 今考えても、本来ならそれが一番自然だったのではないかという気がする。
 私は、およそ宮仕え向きの人間ではなかった。
・一つは、ある国会議員(左翼政党議員ではない)からは入った質問に対しどのように答
 えるかをいくつかの局の裁判官(課長と局付)が集まって協議している時のことである。
 ある局の課長がこう言った。
 「おれ知ってるんだけどさ、こいつ、女のことで問題があるんだ。(端的な質問対策と
 して)そのことを、週刊誌かテレビにリークしてやったらいいんじゃねえか?」
 しばらくの間、会議の席を静寂が支配したことをよく覚えている。
 彼は、後に、出世のピラミッドを昇りつめて、最高裁入りを果たすことになる。
・ある人間がこうしたヒエラルキー、階層制のトップまで昇には、彼の努力だけでは不十
 分であり、多数の人間の推挙と承認が必要である。
 つまり、先のような人物がトップ入りする組織には、それ相応のダークサイドが存在す
 るに違いないということだ。 
・もう一つは、極秘裏に行われたある調査のことである。
 内容は簡単なものであり、特定の期間に全国の裁判所で判決が下された国家賠償請求事
 件について、関与した裁判官の氏名と、判決主文の内容とを一覧表にしたものであった。
 司法行政を通じて裁判官支配、統制を徹底した「矢口洪一」長官体制下のできごとであ
 ったことを考えると、その資料が何らかの形で人事の参考に供された可能性は否定でき
 ないと思う。
・日本の裁判官が、実際にはその本質において裁判官というよりも官僚、役人でありなが
 ら、行政官僚よりは信頼された大きな理由は、平均的な裁判官、中間層が、たとえ保守
 的であり、考え方や視野が狭くとも、少なくとも、日々誠実にこつこつと仕事をし、
 たとえば行政訴訟や憲法訴訟といった類型の事件をのぞいた日常的な事件に関する限り
 は、当事者の言い分にもそれなりに耳を傾けてきたからである。
 つまり、職人タイプの裁判官が日本の裁判の質を支えてきたわけである。
 しかし、上層部の劣化、腐敗に伴い、そのような中間層も、疲労し、やる気を失い、あ
 からさまな事大主義、事なかれ主義に陥っていたのである。
・現在の裁判所の状況は、いわば、官僚、役人タイプが、かつての多数派であった職人タ
 イプを圧倒し、駆逐した状況にあるといってよい。
 言葉を換えれば、多数派、中間層の官僚化・役人化傾向が著しい。
 元々ごくわずかではあったがそれでも常に一定数存在していた学者タイプもほぼ跡を絶
 ち、少なくとも、私の後の世代では、学会にまで広く認められているような人はほとん
 どいない。 
・私が裁判官をやめた理由、学者に転身した理由としては、まず第一に、研究、教育、執
 筆に専念したい、人にはできない代替性のない仕事をしたいという気持ちが非常に強く
 なっていたことがある。
 しかし、第二に、消極的な理由として、裁判所にも、裁判官のマジョリティーにも、
 ほどほど愛想が尽きたということもある。
 はっきりいって、顔も見たくないというタイプが少しずつ増えてきていた。
・そういう状況の中で、私は、2000年代の後半に、再び体調を崩した。
 今回については、前回とは異なり、その原因はあまりにも明らかだった。
 いやあ思いをしながら裁判官生活を続けることへ拒絶反応、そして深夜と週末の研究に
 よる過労である。 
 私は、回復した後にも、本当の意味で精神的な健康を取り戻し、生き生きした人生を送
 るためには、もはや転進を考えるほかないと考えるようになっていた。
・裁判官時代最後の象徴的なエピソードは、2012年初めの事件である。
 わたしの明治大学就任が決まった後に、裁判所は、何を行なったであろうか?
 まず、事務局総局人事局は、地裁所長を通じて、私に対し、承認があるまで、退官の事
 実も、大学に移るという事実も、口外してはならないと告げてきた。
 時期の決まった依願退職、それも大学に移る前提での退官の事実を口外してはならない
 というのはまったく前代未聞であり、明らかな嫌がらせのように思われた。
 これについては、後になって、最高裁の裁判官会議における承認があるまでという趣旨
 であることが告げられたが、なぜ私の退官に限ってそのような形式的な承認の時期まで
 極秘にしておかなければならない必要があるかについては、依然としてまったく説明が
 なかった。
・しかし、驚くべきことはその後に起こった。
 所長は、その朝私が提出していた大学抗議の準備のための年次有給休暇の承認願いにつ
 いて、日にちが多すぎると言い、一度引っ込めろと言った。
 私は、やむなく、そのことには同意した。
 ところが、その後、所長は、私に対して、そんなに有給休暇を取るなら早くやめたらど
 うだと言い始め、その後、私が主張質を出るまでの間、同じことを、表現を変えながら、
 繰り返し、執拗に言いつのったのである。
 言葉自体は、逃げ道を残したあいまいな言い回しであったが、その日は完全に据わって
 おり、超えには激しい怒気がこもっていた。
 要するに、早期退官の事実上の強要であった。
・有給休暇を取るなら早くやめろというのは、労働法の基本的原則違反の言葉であるのみ
 ならず、私に裁判をしないでやめろとも言っているわけであるから、裁判官の身分保障
 の趣旨にももとる行為である。
・所長は、さらに、考えを変える気はないか、判事で退官前にそんなに有給休暇を取る人
 は稀であると思うが、ほんとうにそれでもいいのかと、あたかも、私が、非常識な、
 あるいは裁判官の対面に関わる行為でもしているかのように、私に尋ねた。
・さて、この所長はなぜこのような愚かな行為を行ったのだろうか?
 まず、この所長は、それまでの事務総局人事局とのやりとりから私が何らかの意味でマ
 ークされている裁判官だと思っていたようであり、過去に例のない退官口止めの事実か
 ら、そのことを確信したのではないだろうか。
 そして、そのような私の有給休暇取得の申請をそのまま受理するとみずからの消極評価
 につながると考えたのではないだろうか。
 そのために、事務総局に迎合するつもりで、前期のような愚かな行為に出たのではない
 だろうか。  
・私のように一定の実績とキャリアと司法行政に関する知識を有する裁判官に関して、
 しかもこれから大学に移ることが確定している人間に対して、このような愚かな行為を、
 大胆に、恥ずかしげもなく行う所長が存在するということは、すなわち、全国各地の裁
 判所に、これに類した行為を行う所長が多数存在しうるということであり、また、多く
 の裁判官、ことに若手裁判官はそれに屈している可能性が高いということである。
・しかし、裁判所当局は、私がこの事実をここで公表しても、それが何らかの形で大きく
 取り上げられたりするようなことがない限り、その後高裁長官になっているこの人物に
 ついて、部内における何等の調査も行わず、頬被りを決め込む可能性が極めて高いと私
 は考えている。 
 現在の裁判所はもうそういうところまで落ちてしまっている。
・判事補時代の最後のころに、後に最高裁判事になられた、そして、私の知る限りもっと
 もすぐれた最高裁判事であった「大野正男」弁護士から、次のような言葉を聴いたこと
 がある。 
 「司法は小さいと思うでしょう?全体として、小さな、狭い世界ですよ。でもね、そう
 はいっても、今の日本で、情実や力に関係なく、物事の理非で決着がつけられる世界は、
 もしかしたらここしかないかもしれないんですよ」
 日本の司法においてそれが実現される余地は残念ながら徐々に小さくなりつつあるので
 はないかというのが、私の率直な感想である。
 
最高裁判事の隠された素顔(表の顔と裏の顔を巧みに使い分ける権謀術数の策士たち)
・良識派は上にはいけないというのは官僚組織、あるいは組織一般の常かもしれない。
 しかし、企業であれば、上層部があまりに不敗すれば業績に響くから、一定の自浄作用
 が働く。
 ところが、官僚組織にはこの自浄作用が期待できず、劣化、腐敗は留まるところを知ら
 ないということになりやすい。
 だからこそ、裁判所のような、国民、市民の権利に直接に関わる機関については、こう
 した組織の問題をよく監視しておかなければならないのである。
 また、だからこそ、裁判所の官僚組織からの脱却、人事の客観化と透明化、そして法曹
 一元化制度への移行が必要なのである。
・現在、マジョリティーの裁判官が行っているのは、裁判というよりは「事件」の「処理」
 である。 
 また、彼ら自身、裁判官というよりは、むしろ、「裁判を行っている官僚、役人」、
 「法服を着た役人」というほうがその本質にずっと近い。
・当事者の名前も顔も個性も、その願いも思いも悲しみも、彼らの念頭にはない。
 当事者の名前などは、訴訟記録や手控えの片隅に記された一つの「記号」に過ぎず、
 問題なのは、事件処理の数とスピードだけなのである。
・そのような裁判官の姿勢から、困難な法律判断の回避や和解の強要といった日本の民事
 裁判特有の問題、あるいは、令状、ことに勾留状の甘すぎる発布や検察官追随姿勢が生
 み出す冤罪等の日本の刑事裁判特有の問題が生じてくるのは、あまりにも当然の結果で
 ある。  
・まず、多少なりとも個性的な裁判官、自分の考え方を持ちそれを主張する裁判官、研究
 を行っている裁判官は、高裁長官にはなれない。
 たとえ、上昇志向が強く、大筋では裁判所組織の要請に従い、むしろそれを主導してき
 たような人物であってさえもである。
・それでは、裁判所における上層部人事のあり方全般はどうであったか?
 わたしの知る限り、やはり、良識派は、ほとんどが地家裁所長、高裁裁判長どまりであ
 り、高裁長官になる人はごくわずか、絶対に事務総長にはならないし、最高裁判事にな
 る人は稀有、ということで間違いないと思う。 
・最高裁判事の性格類型はおおまかに四つに分類できると思う。
@ A類型:人間としての味わい、ふくらみや翳りをも含めたそうした個性豊かな人
      物(5%)
 AB類型:イヴァン・イリイチタイプ(45%)
  ・一言でいえば、成功しており、頭がよく、しかしながら価値観や人生観は本当は借
   り物という人々である。
  ・その共通の特質は、たとえば、善意の、無意識的な、自己満足と慢心、少し強い言
   葉を使えば、スマートで切れ目のない自己欺瞞の大計と言ったものである。
  ・官僚、役人とは概ねこのようなものであることが多く、官僚の中ではかなりの上質
   の類型なのである。 
  ・このタイプの人々は、対面だけではなく、良心もある。その良心は、これらの人び
   との、出世のためのいじましい、また、醜い行動を、背後からじっと見つめ続けて
   いる。物言わぬ良心とその視線は、おそらく痛いものであるはずだ。この裁判官に、
   ヒエラルキーを昇り詰める以前にキャリアの半ばで挫折する人やいたましい自殺者
   が出ることがあるのも、同様の理由によるものと思う。
 BC類型:俗物、純粋出世主義者(40%)
 CD類型:分類不能型あるいは「怪物」(10%)
・近年の最高裁判決は民主的になってきているという評価もある。
 しかし、私はそうは思わない。
 社会が変化しているほど最高裁判例は変化しておらず、ことに統治と支配の根幹に触れ
 るような事柄についてはい微動だにしていないし、全体としてみても、せいぜい多少の
 微調整を行なっているにすぎないというほうが正しいと考える。
 また、そのわずかな変化も、実は、無数の裁判官たちの精神的死屍累々の上に築かれた
 ものなのではないだろうか。
・日本の、ヒエラルキー一辺倒の官僚的キャリアシステムの下では、能力、人格、識見、
 広い視野とヴェジョン等のさまざまな面においてすぐれた人材はほとんど育たない。
 また、たとえそのような人物がいたとしても、そうした人物が最高裁判事になるのは、
 新約聖書の言葉を借りるならば、ラクダが針の穴を通るくらいに難しいことなのである。
・裁判員制度の導入については、最初は、裁判官のあいだには消極的意見が非常に強かっ
 た。  
 それが、最高裁判所事務総局賛成の方向に転じてから、まったく変わってしまった。
 最高裁長官の「竹崎博允」氏自身、かつては、陪審制を含めたこのような形の市民の司
 法参加については極めて消極的であったが、裁判員制度については、ある時点で180
 度の方向転換、転向を行なったといわれている。
・そして、現在では、この制度を表立って批判したりしたらとても裁判所にはいられない
 ような雰囲気となっている。
 こうした無言の統制の強力なことについては、弁護士会や大学などまったく比較になら
 ない。 
 全体主義社会における統制と自由主義社会ニッケル統制くらいの大きな違いがある。
・竹崎長官を含む当時の最高裁判所事務総局におけるトップの裁判官たちが一転して裁判
 員制度導入賛成の側に回った理由については、一般的には、主として当時の国会方面か
 らの精度導入に向けての圧力、弁護士会や財界からの同様の突き上げなどを認識し、
 裁判所がこれに抗しきれないと読んだことによるとされている。
・しかし、これについては、別の有力な見方がある。
 その見方とは、「裁判員制度導入の実質的な目的は、トップの刑事系裁判官たちが、
 民事系に対して長らく劣勢にあった刑事系裁判官の基盤を再び強化し、同時に人事権を
 も掌握しようと考えたことにある」というものである。 
 実は、これは有力な見方というより、表立って口にはされない「公然の秘密」というほ
 うが正しい。
・裁判官は、主として担当してきた仕事によって、民事系、刑事系、家裁系に大きく分か
 れる。
 そして、昔は刑事系裁判官の数も多かったのだが、裁判事務の絶対量において民事が圧
 倒的となり、判例についても刑事のそれがごくわずかになるにつれ、昔は民事系に匹敵
 する勢力であった刑事系裁判官の数はどんどん少なくなった。
・刑事系に特化した裁判官には、検察官との心理的距離がなくなりやすく、検察寄りにバ
 イアスがかかる傾向が否定できない。
 公安事件等の担当が多くなることから、ことにそうした事件については予断を抱きやす
 い。 
 被疑者、被告人に対する偏見が強くなりがちであるなど、国民、市民の人権を守るとい
 う観点からするとむしろマイナスの要素が出やすいことも考えておく必要がある。
・また、刑事裁判は、民事裁判に比較すると人気がなく、ことに若手の裁判官にはほとん
 ど希望者がいなという状況であったという事実も考慮する必要がある。
・これにはいくつかの原因がある。
 第一に、日本の刑事司法システムで有罪無罪の別を実質的に決めているのが実際にはま
 ず検察官であって、裁判官はそれを審査する役割に過ぎないということがある。
 このことは、日本の刑事司法の特色として、海外の学者が必ず言及する事柄である。
 第二に、事件の類型がどうしても限られ、比較的単純な交通事故事件や覚せい剤関係事
 件等の、大半は起訴事実の争いのない法廷が一日中続くといったことがままあり、また、
 こうした事件では型にはまった情状証人の取調べが非常に多く、仕事が単調になりやす
 いということがある。
 第三に、被告人が起訴事実を認めても否認の場合と同様に証拠調べを行うなど手続きに
 新鮮味がないということがある。
・裁判員制度導入決定後は、よりはっきりした形で、たとえば、刑事系を人事上有利に取
 り扱う、あるは民事系でやってきた比較的優秀な人の意向も聴かずに刑事系に転進させ
 るなどのことが行われるようになったといわれている。
 裁判員制度導入が、刑事裁判に関する市民の司法参加の実現等の目的とは離れた、どろ
 どろとした権力抗争に一部裁判官が勝利するための手段でもあったりするならば、それ
 によって、裁判員として、また、納税者として、重い負担をかぶることになる国民、
 市民は、つまり、あなたは、利用され、あざむかれたことになるのではないだろうか。
 
「檻」の中の裁判官たち(精神的「収容所群島」の囚人たち)
・日本の裁判所の最も目立った特徴とは何か?
 それは、明らかに、事務総局中心体制であり、それに基づく、上命下服、上意下達の
 ピラミッド型ヒエラルキーである。
・相撲の番付表にも似た裁判官の細やかなヒエラルキーは、裁判所法をみても決してわか
 らない。
 日本の裁判所がおよそ平等を基本とする組織ではなくむしろその逆であることは、
 よくよく頭に入れておいていただきたい。
・事務総局のトップである事務総長は最高裁長官の直属、腹心の部下であり、そのポスト
 は最高裁長官、最高裁判事への最も確実なステップである。
 ほとんどが最高裁判事になっており、歴代裁判官出身最高裁長官の約半分も占める。
 「最高裁長官の言うことなら何でも聴く、その靴の裏でも舐める」といった骨の髄から
 の司法官僚、役人でなければ、絶対に務まらない。
 最高裁長官のいる席では「忠臣」として小さくかしこまっているが、その権力は絶大で
 あり、各局の局長たちに対して長官の命令を具体化して伝えている。
 行政官庁の局長には、かなりの程度の裁量権があるが、事務総局の局長には、そんなも
 のはほとんどない。最高裁長官の意向に黙って従う「組織の大きな歯車」にすぎない。
・最高裁長官、事務総長、そして、その意を受けた最高裁判所事務総局人事局は、人事を
 一手に握っていることにより、いくらでも裁判官の支配、統制を行なうことが可能にな
 っている。
 不本意な、そして、誰が見ても「ああ、これは」と思うような人事を二つ、三つと重ね
 られて辞めていった裁判官を、私は何人も見ている。
・これは若手裁判官に限ったことではない。
 裁判長たちについても、事務総局が望ましいと考える方向と異なった判決や論文を書い
 た者など事務総局の気に入らない者については、所長になる時期を何年も遅らせ、後輩
 の後に赴任させることによって屈辱を噛みしめさせ、あるいは所長にすらしないといっ
 た形で、いたぶり、かつ、みせしめにすることが可能である。
・こうした人事について恐ろしいのは、何を根拠にして行われるかも、いつ行われるかも
 わからないことである。  
 「とにかく事務総局の気に入らない判決」ということなのだから、裁判官たちは、常に、
 ヒラメのようにそちらの方向ばかりうかがうながら裁判をすることになる。
 当然のことながら、結論の適正さや当事者の権利などは二の次になる。
・また、事務総局は、裁判官が犯した、事務総局からみての「間違い」であるような裁判、
 研究、公私にわたる行動については詳細に記録していて、決して忘れない。
 たとえば、その「まちがい」から長い時間が経った後に、地方の所長になっている裁判
 官に対して、「あなたはもう絶対に関東には戻しません。定年まで地方を回っていなさ
 い。でも、公証人ならしてあげますよ」と引導を渡すなどといった形で、いつか必ず報
 復する。
・学者仲間やジャーナリストと話していると、「裁判官になった以上出世のことなど気に
 せず、一生一裁判官で転勤を繰り返していてもかまわないはずじゃないですか?どうし
 て皆そんなに出世にこだわるんですか?」といった言葉を聞くことが時々ある。
 「ああ、外部の人には、そういうことがわからないんだ」と思い知らされるのが、こう
 した発言である。 
 おそらく、こうした発言をする人々だって、裁判官になれば、その大半が、人事に無関
 心ではいられなくなることは、目にみえているからだ。
・なぜだろうか?
 それは、第一に、裁判官の世界が閉ざされ、隔離された小世界、精神的な収容所だから
 であり、第二に、裁判官が、期を中心として切り分けられ、競争させられる集団、しか
 も相撲の番付表にも似た細かなヒエラルキーによって分断される集団の一員だからであ
 り、第三に、全国にまたがる裁判官の転勤システムのためである。
・基本的な上下が期によって決められる官僚組織においては、同時の中で自分よりも明ら
 かに能力の低い者が自分よりも上に行くとか、後輩に先に越されるなどといった事態は、
 非情に屈辱的なものになる。
 また、裁判所当局は、このことを知り尽くしていて、そのような屈辱を感じさせること
 をことさらに意図した人事を行なうことも、理解していただきたい。
・最後に、裁判官の転勤システムが全国にまたがっているところがミソである。
 たとえば中央行政官僚のようにずっと東京から動かないのであれば一生課長でも好きな
 ことができればいいと割り切れるかもしれないが、生活の本拠地から遠いところを転々
 と飛ばされると、よほどに精神力の強い人でないかぎりまいってしまう。
・アメリカでは、多くの裁判官は就任した裁判所を動かない。
 より上位とされるようなポストに移る例もないではないが、稀である。
 また、裁判官の独立は徹底していて、たとえば地裁の裁判官が上級審の裁判官に頭をさ
 げる機会などまずないし、裁判官のあいだの上下差の感覚もきわめて小さい。
 というより、裁判所組織が全体としてピラミッド型ヒエラルキーであるなどとは、おそ
 らく、誰も思っていないだろう。 
・日本型キャリアシステムは、キャリアシステム全体の中でみても、その階層性、閉鎖性、
 中央集権性において際立ったものであり、構成員に熾烈な出世競争を行なわせ、餅と鞭
 を使い分けてコントロールすることによって、裁判官たちから、その独立性を事実上ほ
 ぼ完全に近いといってもよいほど奪い、制度に屈従する精神的奴隷と化しているのであ
 る。
・日本のキャリアシステムは、支配する機関が司法省から最高裁長官、最高裁判所事務総
 長に替わっただけで、戦前のシステムと本質的には変化していないのではないかと感じ
 られるのである。
・2000年代に行われた司法制度改革による裁判所制度の諸改革については、一定低程
 度期待していた部分もあったのだが、それらが実施されてしばらくすると、期待はこと
 ごとく裏切られ、改革に期待したのは判断が甘かったことが判明した。
 むしろ、裁判所当局は、それらの改革を無効化するのみならず、逆手に取り、悪用し始
 めた。
 その一つが、新任判事補の任用と10年ごとに行われる裁判官の再任の審査を行う下級
 裁判所裁判官氏名諮問委員会胃の精度である。
・この委員会のメンバーには現職の高位裁判官や検察官が多数含まれており、また、その
 情報収集方法は、裁判官の評価権者である地家裁所長や高裁長官の非公開報告書が中心
 であって、自ら調査を行う方法、手段は限られると思われる。
 また、再任不適格と判断された裁判官に対するいわゆる告知、聴聞の機会も、不服申し
 立ての制度もなく、このことには大きな疑問を感じる。
・司法研修所は、司法試験に合格した司法研修性の教育と裁判官の生涯教育を担当する機
 関であり、セクションもこの二つに大きく分かれている。
 こう書くと、誰でも、法科大学院に類するような高等教育機関というイメージを抱くで
 あろう。しかし、実際にはそうではない。
・これは、学者を含む法律家の間にさえあまり知られていないことなのだが、司法研修所
 は、事務総局人事局と密接に結びついて最高裁長官や人事局の意向の下に新任判事補を
 選別し、また、裁判官の「キャリアシステム教育」を行なう、実質的な意味での「人事
 局の出先機関」なのである。  
・日本の社会には、それなりに成熟した基本的に民主的な社会であるにもかかわらず、
 非常に息苦しい側面、雰囲気がある。
 その理由の一つに、「法などの明確な規範によってはならないこと」の内側に、
 「してもかまわないことにはなっているものの、本当はしないほうがよいこと」
 の見えないラインがひかれていることがあると思われる。
 デモも、市民運動も、国家や社会のあり方についての考え、論じることも、第一のライ
 ンには触れないが、第二のラインには微妙に触れている。
 反面、その結果、そのラインを超えるのは、イデオロギーによって導かれる集団、いわ
 ゆる左翼や左派、あるいはイデオロギー的な色彩の強い正義派だけということになり、
 普通の国民、市民は、第二のラインを超えること自体に対して、また、そのようなテー
 マに興味を持ち、考え、論じ、行動すること自体に対して、一種のアレルギーを起こす
 ようになってしまう。不幸な事態である。
・そして、日本の裁判所は、第二のラインによって囲まれる領域が極めて狭く限定されて
 いる社会であり、また、第二のラインを超えた場合、あるいはそれに触れた場合の排除、
 懲罰、法服が極めて過酷な社会なのである。 
・日本の裁判所は、実は、「裁判所」などではなく、精神的被拘束者、制度の奴隷・囚人
 たちを収容する「日本列島に点々と散らばったソフトな収容所群島」にすぎないのでは
 ないだろうか?
 その構成員が精神的奴隷に近い境遇にありながら、どうして、人々の権利や自由を守る
 ことができようか?
 自らの基本的人権をほとんど剥奪されている者が、どうして、国民、臣民の基本的人権
 を守ることができようか?
・裁判所がそのような組織となっているために、何らかの困難な法的、価値的問題を含む
 事件について、ことに行政や立法に対する司法のチェック機能が問われるような事件に
 ついて、裁判官がそれなりに自分の考え方によった、つまり、日本の裁判官の裁判とし
 てはかなり「思いきった判断をおこないうる場合は、以下のとおり非常に限られたもの
 になってくる。
 ・第一:頂点、つまり最高裁判事に昇り詰めた人々
     しかし、この人たちの判断が、よくても体裁を繕った限界の大きいものである
     場合が多い。
 ・第二:もう現在のポストから上にはいけないが転勤もないという事実上決まった高裁
     の裁判長
     東京高裁に意外に果敢な判断が出ることが多いのはこれが大きな理由である。
 ・第三:何らかの理由によりやがて退官すると決意板裁判官の判断
 こうした事態は健康的なものではない。
・日本国憲法第76条に輝かしい言葉で記されているとおり、本来、「すべて裁判官は、
 その良心に従い独立してその職権を行ない、この憲法および法律にのみ拘束される」
 ことが必要である。
 しかし、日本の裁判官の実態は、「すべて裁判官は、最高裁と事務総局に従属してその
 職権を行ない、もっぱら組織の掟とガイドラインによって拘束される」ことになってお
 り、憲法の先の条文は、完全に愚弄され、踏みにじられている。
 
誰のため、何のための裁判?(あなたの権利と自由を守らない日本の裁判所)
・日本の裁判の状況をみると、最高裁判決からして、問題が大きいと感じられる。
 たとえば、人権に関する裁判所の感度の高さを示す指標ともいえる違憲判断の数が、
 最高裁判所が憲法判断を行いうる場合をみずから非常に狭く限定してしまったこともあ
 って、戦後70年近くを経てなお微々たるものであり、そもそも、日本に本当の意味で
 の憲法判例があるといえるかどうかさえ疑問といえるくらいわずかである。
・空港騒音について、「空港騒音の民事差し止めは、いかに騒音が大きくても、また夜間
 だけの限定的差し止めであっても許されない。行政訴訟ができるかどうかについては当
 方は関知しない」といって、それこそ神厳を踏みにじる判決を平然と下すことにしても、
 国民、市民の大多数がほんとうに是認していることなのであろうか、疑問を禁じ得ない
 のである。
・一票の格差に関する一連の判例である。
 その流れと理由付けをみれば、本当は乗り気ではないのだが、国民、市民の批判を受け、
 国会議員たちの顔色をおそるおそるうかがいながらやっと重い腰をあげているという傾
 向は明らかというほかない。
 そもそも、衆議院1対2、参議院1対5などといった、最高裁がガイドラインとしてき
 た比率にだまされてはいけない。
 民主制の根幹を成す選挙権の平等は、国会に裁量権が認められるような事柄ではなく、
 日本で都道府県を単位として選挙区を決めることに何らの合理性も必然性もなく、本来、
 違憲のラインは、1対1.1とか1.2といったところに引かれるべきものなのである。
 事実、アメリカでも、イギリスでも、基本的にこうした原則が徹底されている。
 要するに、この点に関する日本の状況は明らかに憲法違反なのであり、一人一票の原則
 が実現されないかぎりそれは変わらないということだ。 
・空港騒音差し止めである。
 確かに、空港は一般国民が利用するものであり、無条件に差し止めが正しいということ
 にはならないかもしれない。
 しかし、逆に、たとえば睡眠を妨げるような深夜の大きな騒音まで空港周辺の住民が甘
 受しなければならないものではなく、両者のバランスを取ったとき切な線引きが必要な
 のである。
 だが、大法廷判決は、およそ差し止めは認めないという乱暴なものであり、空港差し止
 め訴訟は問答無用で切り捨てるという姿勢が明らかである。
 実は、この事件については、第一小法廷において限定的に差し止めを認める方向が決ま
 っていた。
 ところが、なぜかこれが大法廷に回付されることになり、前記のような結論に至ったの
 である。
 その背景に政治的な動きや思惑があったことは想像に難くない。
・この判決は、差し止めを一切認めない理由付けに「航空行政権」にかかわる事柄だから
 という理屈を用いているが、これについても学者からは批判が強い。
 こんな論理を用いれば、国の事業はほとんどが公権力の行使だということになってしま
 い、一理油に民事訴訟の対象から外されてしまうことになるからだ。
 また、「行政訴訟ができるか否かはともかく」という言い方も実に欺瞞的である。
 どのような行政訴訟ができるのかは一切明らかではなく、実際、学者たちも、それは難
 しいと考えており、砕いていえば、「行政訴訟については、さあね、知らないよ(知ら
 ねえよ。知ったこっちゃねえよ)といっているに等しいからだ。
・米軍基地に関する騒音差し止め請求も主張自体失当として棄却した最高裁判決も、大阪
 空港判決と同様、木で鼻をくくったような内容である。  
 米くんの飛行は国の支配の及ばない第三者の行為だから国にさすと目を求めるのは主張
 自体失当であるというのだが、そもそも、アメリカと日米安保条約を締結したのは国で
 ある。
 つまり、国が米軍の飛行を許容したのである。
 また、条約ないしこれに基づく法律の定めがないからできない、というのもおかしい。
 適切な法律がないのであれば国はそれを作る義務があるはずだし、また、日米地位協定
 の規定により、国アメリカに対して飛行の態様に関する協議の申し入れをできないはず
 がないからである。 
 さらに、憲法秩序が条約に対して優位であることは憲法学の通説であり、憲法上の基本
 的人権、人格権の侵害に関わる事柄については、国は一層前記のような行為をおこなう
 べき義務がある。
 アメリカのやることだから国は一切あずかり知らないというのであれば、何のための憲
 法上がるのか?それでは植民地と何ら変わりがないのではないだろうか?
・なお、安保条約については、日本の政治家が、国際情勢に関する明確な展望を欠いたた
 めに、本来であればする必要のない妥協を重ねてきた事実が、やはり機密指定を解かれ
 た米公文書により明らかにされている。
・裁判官は、国民の選出した議員によって構成される立法機関の作る法律を原則としては
 尊重すべきであるということに、異論を唱える学者もいないだろう。
 しかし、たとえば法律についてみても、その実質は官僚が作っているに等しい場合が多
 く、また、その際に政治家、官僚、観慶圧力団体等の権益が第一に考えられている例も
 少なからずあることを考えるならば、つまり、建前上では立法府の充実、成熟を進める
 のが本筋であるとしても、それが早急には果たされず、また、政治家や立法準備作業を
 行う官僚とその関係する世界の癒着的な体質が一向に改善されないのならば、司法のチ
 ェック機能はより先鋭に発揮されるべきであろう。
・私は、原則論はともかく、物心について以来50年間にみてきた日本社会の有様にみる
 かぎり、少なくとも現在では、国民、市民、市民の成熟度に比較して官僚や政治家のそ
 れが低すぎる状況となっており、したがって、司法の積極性は発揮されてしかるべきで
 あると考える。
・微妙な価値判断に関わる困難な法律問題、ことに社会の現状に異議を唱える方向のそれ
 に直面したとき、それに臨む裁判官は、日本には多くない。
 大多数の裁判官は、ただ先例に追随する、棄却、却下の方向を取る、判決を書かなくて
 もよい和解という手段に頼ろうとするなどの道を選ぶ。
・根本的には、裁判官は真摯に事案にコミットしようという心構えが乏しく、また、当事
 者のためにではなく、上級審に見せるために、あるいは、自己満足のために判決を欠い
 ているという側面が大きいことになる。
・和解の強要、押し付けも、日本の民事裁判に特徴的な、大きな問題である。
 日本の裁判所における和解は、当事者が交互に裁判官と面接し、また、かなりの期日を
 重ねることが多いが、これは決して国際標準ではない。
 アメリカをはじめとして多くの国では、和解は必ず当事者双方対席で行なわれるし、
 裁判官が長時間かけて当事者を説得するなどといったこともない。 
 裁判官当事者の一方ずつと和解の話をすること自体が重大な手続保障違背である。
 つまり、手続き上の問題があるとする考え方が普通である。
 相手方はその内容を全く知り得ないからである。
・日本の裁判官には、重要な法律問題や新しい法律問題を含む事件において判決、こと
 に新しい判断を示すことに対する及び腰の姿勢が強く、しかも、この傾向は、近年むし
 ろ強まっているからだ。 
 効率よく事件を「落とす」ことだけを至上目的とする事なかれ主義の事件処理が目立つ
 ようになっている。
・裁判官が和解に固執するのには二つの理由がある。
 一つは要するに早く事件を『処理」したい、終わらせたいからである。
 もう一つの理由は、判決を書きたくないからである。
 判決を書けば、それがうるさい所長や高裁の裁判長によって評価され、場合により失点
 にもつながるので、そのような事態を避けたいなどの、卑近的な動機に基づく場合のほ
 うが一般的である。
・そもそも、現在の最高裁判所、こと最高裁長官や事務総局が、また、裁判官のマジョリ
 ティーが、司法の役割に関する明確で民主的なヴィジョンなどといったものを、果たし
 てどの程度にまで持っているといえるのだろうか?
・もし、前記のようなヴェジョン、司法の役割に関する明確で民主的なヴィジョンが現在
 の裁判所、裁判官にも十分あるとするならば、たとえば、政治家や官僚のあり方、こと
 に利益団体との癒着や「民は愚かに保て」的な政策のあり方をいさめる判決、マジョリ
 ティーに対する圧迫や差別を正す判決、地方自治体の腐敗を剔抉する判決、そして、
 原子力発電所メルトダウンと広域放射能汚染という考えられない事態を事前に抑止する
 に足りるような判決が、あるいは少なくともそのような方向を目指してよく考え抜かれ
 た良心的、良識的な判決が、孤立した稀な判決としてではなく、もっと幅広く力強い流
 れを構成する判例群として、存在し得たはずではないだろうか?
・日本刑事司法には、民事司法よりもさらに大きな問題がある。
 裁判員制度の採用とこれに対するメディアの注目によって、日本の刑事司法全体が問題
 なく民主的に運営されているかのような幻想が社会に生じている傾向はないか、私はそ
 れを心配している。 
・日本の刑事司法の一番の問題点は、それが徹底して社会防衛に重点を置いており、また、
 徹底して検察官主導であって、被疑者、被告人の人権には無関心であり、したがって、
 冤罪を生み出しやすい構造となっていることにある。
・たとえば、軽微な事件に対する必要性に乏しい長期間の勾留、それが、拘置所ではなく
 警察署施設内部の代用刑事施設(いわゆる代用監獄)で行われ、時間に関わりなくいつ
 でも取調べが行われること、しかも、その間に被疑者が弁護士に面会できる時間が極め
 て限られていることといった問題である。
・日本の裁判官の令状処理で一番問題があるのは勾留状である。
 逮捕状についてはまずまずきちんとした審査が行われていると思うが、勾留状について
 は、勾留の必要性に関する審査がなおざりであり、在宅で捜査を行えば十分であると思
 われる微罪についてまで、ほとんどフリーパスで勾留が行われてしまう。
・勾留されれば勤務先や学校にばれるからそれだけで致命的な不利益を被ることになる。
 注意してほしいのは、あなたが本当は「やって」いないのに逮捕された場合であっても、
 否認すれば、同様に長時間の勾留を免れないということだ。
 このように、身柄拘束による精神的な圧迫を利用して自白を得るやり方を「人質司法」
 というが、それは、日本の刑事司法の顕著な特徴であり、冤罪の温床になっている。
・痴漢冤罪については、「それでもボクはやっていない」という映画があったが、実を言
 えば、私には、あの映画は、特にショッキングなものでも興味深いものでもなかった。
 なぜなら、ああいう事態がいつでもおこりうるのが日本の刑事司法の実態であることは、
  まともな法律家なら誰でもわかっていることだからである。
 冤罪事件に巻き込まれた人間の恐怖と屈辱が十分に描かれていない点には、残念ながら
 リアリティーの不足を感じた。
 実際には、突然逮捕、勾留され、裁かれるときに、あの主人公のように堂々と自分を保
 つことのできる人間は稀有である。
・実際、法律家でさえ、逮捕に続く20日間の勾留とその間の厳しい尋問に耐えられる人
 は多くない。
 ある弁護士が、事務所の後輩たちに「もしも痴漢冤罪に巻き込まれそうになったら、
 相手の女性に名刺を渡してともかくその場を立ち去ること(その場を立ち去れば、身柄
 の拘束には逮捕状が必要になる)。現行犯逮捕、勾留されてしまったらおしまいだよ」
 と語ったと聞いたことがあるが、誇張とはいえないと思う。
・日本の刑事司法システムにおいて有罪無罪の別を実質的に決めているのが実際にはまず
 検察官であって、裁判官はそれを審査する役割に過ぎず、したがって無罪が稀有な例外
 となってしまっていることにも、大きな問題がある。
・こういう制度の下では、検察官が恣意的に起訴、不起訴の別を決めることになるために、
 たとえば、強姦や横領等の立証が比較的困難な事案については、検察官は、無罪になる
 可能性が少しでもあると考えると、立件しない。
 無罪は検察官のキャリアの失点、汚点になるからだ。
 被告は泣き寝入りということになる。
・日本の警察は、民事不介入という原則を採っていて、明らかに詐欺、横領、不動産侵奪
 等が行われているような事案についても、民事紛争がらみとみれば一切立ち入らないが、
 このことも、先のような検察官の姿勢に一つの原因があるのではないかと思われる・
・刑事裁判の第一の原則は何だろうか?
 それは、間違いなく、「疑わしきは罰せず」「疑わしきは被告人の利益に」ということ
 である。 
 しかし、日本の刑事裁判は、ややもすればこの原則を外れて「疑わしきは罰す」「疑わ
 しきは被告人の不利益に」という方向に流れていきやすい。
 そこから、たとえば痴漢冤罪の横行、多発といった事態が生じてくるし、また、そのよ
 うな傾向は、そこから、たとえば痴漢冤罪の横行、多発といった事態が生じてくるし、
 また、そのような傾向は、痴漢犯罪に限ったことでもないのである。
・よく、裁判員制度の目的について「市民の司法参加」がいわれる。
 それはもちろん意味のあることだとは思うが、より根本的な目的は「刑事裁判制度の改
 善」であり、ことに、「冤罪防止」であろう。
 また、「国民の法的教育」については、ほかにいくらでも適切かつ安価な方法が考えら
れるのであって、単なる国民の法的教育のために大きな時間的負担、税負担を国民
 に課すことが正当化されるとは考えにくいし、裁判という場を通じて裁判官が国民を教
 育するという発想には「パターナリズム(父権的、家父長制的、干渉主義的後見主義)」
 の疑いが大きいように感じられる。
・ところが、現在の裁判員制度は、「刑事裁判制度の改善」「冤罪の防止」はもちろん、
 「市民の司法参加」という目的のためにも、必ずしも適切な制度とはなっていない。  
 第一:一定範囲の重大事件すべてについて裁判員裁判を行う必要はない。
    被告人が起訴事実を認めている事件について実質的にみればただ量刑を決めるだ
    けのために多数の裁判員を長時間拘束するのは気の毒であり、コスト的にもひき
    あわないという意見は、刑事系裁判官のあいだにも存在する。
    ただ、裁判所当局が裁判員制度批判を押さえ込んでいるために、表に出てこない
    だけである。
    また、被告人が望まない事件について裁判員裁判を行う必要性も乏しいと思われ
    る。
    冤罪事件が、痴漢冤罪等比較的小さな事案により数多く生じやすいのは当然のこ
    とであり、また、そのような事案においてこそ、市民の法的感覚がより生かされ
    るのではないかと思われる。
 第二:合議体に三人もの裁判官が六人の裁判員が入る必要はない。
    ほんとうに市民を信頼しているのなら、なぜ、三人もの裁判官が六人の裁判員と
    ともに合議体に加わる必要があるのか、極めて疑問である。
 第三:裁判員に課せられている守秘義務の範囲が広すぎ、また、違反した場合の刑罰が
    重すぎる。   
    この条文の目的は、裁判官が裁判員を強引に説得したなど裁判所に都合の悪い事
    実が裁判員から漏れるのをふせぐことにあるとみて、まず間違いないと思う。
    なぜこのような問題の大きい条文を国会議員や弁護士が見過ごしたのか、私には
    よくわからない。
・また、裁判員辞退事由についても、精神的なダメージを受ける恐れがある場合を、正面
 から、かつ、ゆるやかに認めるべきであろう。
 刑事裁判、ことに重大事案の証拠には、目を覆うような写真が含まれていることが多く、
 民事系の裁判官であった私自身、逮捕状や勾留状の請求書に添えられている一、二枚の
 写真だけでもしばらくの間、頭にこびりついて離れなかったのである。
 そうしたものに弱い人間にとっては耐えられない場合が十分にありうると思われる。
 そもそも、骰婆人に対して見せることが相当かという問題もあると思われる。
 
・家庭裁判所についても簡潔に触れておきたい。
 日本のキャリアシステムでは、家裁は陽の当らない部署とされてきており、近年は一定
 程度改善傾向があるものの、高齢の裁判官について見ると、やはり窓際的なポストとい
 う傾向は否めない。
 そこから生じる問題点は、企業の場合と変わらない。
 やる気のない裁判官が増えるということである。
 ことに、家事調停は、調停委員委せで、裁判官は実質的にほとんど関与しない場合がま
 まある。
 ところが、この調停委員の質が、必ずしも保障されない。
 年齢の高い、ちょっとした名士的な人々の任命されるポストであるところから、妻の立場
 に対する配慮が足りない。
 当事者の言うことをとろくに聴かずにお説教ばかりしている。
 調停の押し付けは、法律の素人が行うものであるところから、裁判官による和解の押し
 付け以上に問題が大きいものになりやすいのである。
・もう一つの家裁系裁判官の問題点は、訴訟法の大原則である。
 家事事件の当事者には、弁論権、立会権、家庭裁判所調査官による調査報告書の開示を
 求める権利等の、民事訴訟であれば基本中の基本であるような権利すら十分に保障され
 ていなかった。 
 申立書すら相手方に送付されない、その他の提出書類もついても相手方には提出されて
 いること自体を知る機会がないなどといった、常識的にみても問題の大きい手続きが行
 われていたのである。
・これは、日本の裁判官一般、ことに家裁系の裁判官に顕著な、パターリズム的な考え方
 と関係がある。
 「お上」であり裁判官がよきにはからってやるから、当事者である一般国民、市民など
 は黙ってそれに従っていればいいのだ、という考え方である。
・私は、日本の国民、市民は、裁判所が、三権分立の一翼を担って、国会や内閣のあり方
 を常時監視し、憲法上の問題があればすみやかにただし、また、人々の人権を守り、
 強者の力を抑制して弱者や社会的なマイノリティーを助けるという、司法本来のあるべ
 き力を十分に発揮する様、をまだ、ほんとうの意味では、一度としてみたことがないの
 ではないかと考える。 
 これは、私だけの意見ではない。海外の学者や知識人が日本の社会や政治のダイナミク
 スを分析するときには、概ねこのような意見が述べられている。
 
心のゆがんだ人々(裁判官の不祥事とハラスメント、裁判官の精神構造とその病理)
・裁判官の不祥事についてはかなりの数報道されているが、もちろんそれらがすべてでは
 ない。
 おそらく、表に出ないまま処理されている者のほうが多いはずである。
 注意すべきは、その数や種類が、裁判官の母数(現在は三千名足らず)を考えるならば、
 けっして他の職業集団に比べて少なくはないことである。
 高度専門職集団としてはむしろ多いというべきではないかと思われるし、また、その内
 容も、多様であり、単なる出来心では片付けられないものも多い。
 もし、従業員二、三千人の企業でこれだけの不祥事が報道されたら、その企業には何か
 大きな問題があるに違いないとして、大きな社会的非難を焙ることになるのが普通では
 ないだろうか?
 なぜ、裁判所の場合にそれが見過ごされているのだろうか?
・裁判官も人間であることをまず第一に認めるべきであると思うし、人間に過ちや弱さは
 つきものだからである。
 しかし、こうした問題が個人的なものなのか、それとも構造的な根があるのか、もしも
 後者であるとしたら、今後の改善のためにどのようなことを考えていくべきなのか、
 といった冷静な分析は必ず行われる必要があると考える。
 そうでないと、結局は、「あれば個人的な問題だった」ということで片付けられ、根本
 的な問題は放置されることになるからである。
・ハラスメントは、おそらく、全国各地の裁判所にかなりの数存在する可能性が高いとい
 うことである。 
 このようなハラスメントについては、裁判所には、もちろん、ガイドラインも、相談窓
 口や審査機関もなく、野放しの状況となっている。
 ハラスメントに関する限り、裁判所はまさに前近代的な状況にあるといってよいだろう。
・また、骰満干には自殺もかなりある。 
 仕事でノイローゼやうつ状態になって自殺する例のほか、自他ともにエリートと認めて
 きたイヴァン・イリイチタイプの裁判官が道半ばにしてつまずいた結果、痛ましい自殺
 に至るような例もある。 
 そこまではかなくてとも、家を出て何日も放浪していた、あるいは、裁判長の圧迫、
 ハラスメントでおかしくなってしまった右陪席裁判官が事務総局人事局に何度も出向き、
 人事局長に面会を求めて、「いつ私を裁判長にしてきれるのですか?」と尋ねていた、
 などという悲惨は例もある。
 こうした例はもちろん退官に至る。
・裁判官の世界において精神衛生的な側面に対するケアが非常に遅れていたことの一つ原
 因に、「裁判官たる者、精神的な符牒などといったことがあってはならない」という建
 前論が非常に強かったため、不調の発生という否定できない事実が隅のほうに押しやら
 れていたという事実がある。 
 裁判所には、裁判官の精神衛生面の面倒をみ、適宜相談に乗り、治療を受けさせるとい
 ったシステムも、整備されておらず、一般の公務員と異なり、正式な休暇の制度すらな
 いのである(驚くべきことだが、基本的には戦前から変わっていないのである)。
・それでは、なぜ、裁判所、裁判官に、こうした問題が多いのだろうか?
 一つには、閉じられた、息苦しいヒエラルキー構造の組織である。
 もう一つが、裁判官の精神構造の病理である。
 かなりの数の裁判官に、いびつな、ゆがんだ精神構造という問題があることは、私の経
 験からも、否定できないと思う。  
 (1)一枚岩の世界、内面性の欠如、内面のもろさ
   裁判官の世界は、非情の等質性、同質性の高い、一枚岩の世界である。
   多様性はみじんもないといってよい。
 (2)エゴイズム、自己中心性、他者の不在、教官と想像力の欠如
   裁判官の、むき出しの、無邪気ともいえるほどのエゴイズム、天動説的な自己中心
   性には、本当におどろかされることが多かった。
   他者の存在というものが、全くみえていないのである。
 (3)慢心、虚栄
   内心ではじぶんよりえらいものはないと思っている場合が非常に多い。
   自分こそは特別だと思っている例が多い。
 (4)嫉妬
   裁判官の嫉妬深さは尋常ではない。
 (5)人格的な未熟さ、幼児性
   裁判官の場合、ただ単に人格的に幼いのであり、聞きわけのないむら気でエゴイス
   ティックな幼児性なのである。
 (6)建前論、表の顔と裏の顔の使い分け
   何かにつけ建前でものをいい、考える人が多い。
   そういうことを続けているうちに、自分の中の生きた感情を見つめる目をうしなっ
   てしまい、柔らかさ、人間としてのニュアンスや色合い、寛容さやおおらかさ、
   広い意味での人間的なエロスといった微妙な美点についても、同様に失っていくこ
   とになる。
 (7)自己規制、抑圧
   周囲の目や思惑ばかり気にしながら、自分を抑圧して生きている。
   人と異なった判断を下すこと、行動を取ることに何らの痛痒も感じていないアメリ
   カの裁判官とは、完全に対照的である。
 (8)知的怠慢
   昔はともかく、今日の裁判官に、深い教養の持ち主はめったにいない。視野の広い
   人とも少ない。
 (9)家庭の価値意識
   家庭の価値意識は、個人のそれと同じく、本来それぞれの家庭に固有のものである
   ことが望ましい。
   つまり、世間の価値観とは何らかの意味で独立した部分をもっているのが、本来の
   あり方であろう。
   ところが、裁判官の家庭では、親の硬直した価値意識が家庭に直接侵入してくる傾
   向が強い。
   その結果、裁判官の子どもには、一般に知的能力は高いにもかかわらず、さまざま
   な問題が生じることが多いように感じられる。
   登校拒否、ひきこもり、自殺等、私の知っている範囲だけでもかなりの数を数える
   ことができ、問題の根は深いという気がする。
 (10)まとめ
   裁判官の精神構造の病理については、修習生、すなわち一種の学生がすぎに裁判官
   になる、それも、極めて問題の大きい日本型キャリアシステムの裁判官になること
   によって、それも、本来であれば社会生活の中で矯正されていくはずの個人的な欠
   点が、強制されるどころか逆に増幅されていくことによる問題という側面が大きい
   のではないかと考える。

今こそ司法を国民、市民のものに(司法制度改革の悪用と法曹一元制度実現の必要性)
・日本のキャリアシステムは、本当に問題が大きい。
 一言でいえば、非人間的なシステムである。
 その構成員には、本当の意味での基本的人権がない。
 集会結社の自由や表現の自由はもちろん、学問の自由にも、思想および良心の自由にも、
 大きな制約が伴う。
 裁判官は、一握りのトップを除いては、個人としてほとんど全く尊重されていない。
 虚心にその実態を見据えれば、人間というよりも、むしろ制度の奴隷、精神的収容所の
 囚人に近く、抑圧も非常に大きい。
・裁判官の能力低下も大きな問題である。
 日本の裁判システムは、裁判官の能力が高いことを前提にして彼らに大きな裁量を与え
 ているから、裁判官のモラル低下ももちろんだが、平均的能力の相当の低下だけでも、
 惨憺たる結果を生みかねない。
・その原因については、キャリアシステムの疲弊、荒廃ということのほかに、以前よりも
 人事に客観性がなくなってきていることがあると思う。
 特定の高裁長官、高裁の裁判長、あるいは所長が高く評価しただけで、能力に欠ける人
 が抜擢されるといったことが目立つし、特定の裁判官が特定の後輩をえこひいきしてよ
 いポストに就かせ続けるといった、はっきりした情実人事も目立つようになっている。
・私は、「弁護士の中のすぐれた人々」が裁判官になることを可能にするような条件さえ
 整えれば、法曹一元制度の実現は、日本においても難しいことではなく、むしろ十分に
 可能であり、また、望ましいことでもあると考える。
 なぜなら、私は、日本の弁護士層の厚みは、すでに法曹一元制度を支えるに足りるだけ
 のものとなっていると思うからである。  
 また、さまざまな意味で弁護士の中のすぐれた人々が裁判官になるならば、日本の裁判、
 その判断の質や創造性、民主性、また和解の内容と透明性は、最高裁においても下級審
 においても、確実に向上するであろうと考えている。
・法曹一元制度の前提としては、
 @裁判官の執務態勢をなるべく余裕のあるものとすること
 A裁判所に自由な雰囲気を採り入れ、優れた弁護士は一度は、あるいは一生やってみた
  いと思うような環境整備をすること  
 B裁判所システム全体としての判断の厚み、質、多様性が十分に保てるよう、最高裁の
 ほか、出来れば高裁についても、アメリカのロークラーク的な補佐官の制度を構築する
 こと
 といった条件が満たされる必要があると考える。
・日本の司法の質を向上させていくためには、裁判官制度の根本的な改革とともに、憲法
 判断を活性化していくことも必要である。
 裁判官の任命、選出のあり方が適正なものとなるならば、ドイツ型の官報裁判所の設置
 も一つの方向として考慮に値すると考える。
・憲法判断は、価値的な要素が非常に強く、条文解釈を中心とする通常の法的判断とはか
 なり異質なものである。 
 日本の裁判所における憲法判断がきわめて低調なのは、最高裁判所が憲法判断を行いう
 る場合をみずから非常に狭く限定してしまったことにもよるが、裁判官たちが憲法上の
 論点の扱い方に慣れていないためにそれを敬遠しがちであるという事情もまた存在する。
 その意味では、憲法判断を専門的に行う裁判所を通常の裁判所とは別に設けることは、
 憲法判断活性化のための一つの有効な方法である。
 ドイツではこのような制度が採られているし、アメリカの連邦最高裁判所も、実質的に
 みるならば、これに近い機能を果たしている。
・近年、ことに2000年代以降の時期に、日本のキャリアシステムは、そのメリットを
 発揮しにくく、デメリットの方は急速に肥大するという状況になり、裁判官のモラル、
 士気、能力は、地滑り的に低下していった。ことに、平均的な中間層裁判官の疲弊、
 なし崩し的な劣化は顕著である。
・これには、上層部の後輩、腐敗とその裁判官全体への影響、バブル経済の時期以降に始
 まった裁判官の能力水準の低下という事情が関係している。 
 その結果、キャリアシステムを支える基盤であった徒弟制度的教育システムの長所が失
 われ、短所ばかりが目立つ状況となっているのである。
・国民、市民、そして、政治的心情の如何を問わず、心ある政治家やメディアは、こうし
 た事態を直視する必要がある。 
・やがては司法システム全体の機能不全を招く危険性が高いといえよう。
 しかし、残念ならが、現在のキャリアシステムにもはや自浄能力があるとは思われない。
 従って、法曹一元制度へのできる限り速やかな移行を図ることが必要であり、早急にそ
 の基盤整備に着手することが望ましい。 
・司法、裁判所、裁判官制度のトータルなあり方が根本的、抜本的に変わっていかなけれ
 ば、日本の裁判は、本当の意味においてよくはならない。
 つまり、国民、市民のための裁判、当事者のことを第一に考える裁判にはならないし、
 三権分立の要として行政や立法を適切にチェックする機能も果たすことができない。
  
あとがき(不可能を可能にするために)
・日本の裁判官は、一言でいえば、「寂しい人びと」である。
 本当は、何も持っていない、本当は、どこにも属していない、それにもかかわらず、そ
 うではないという現像を抱き、それにしがみついて生きている、その意味で哀れな根無
 し草である。
・彼ら自身の問題としてみるならば、そのような生き方、報復をまとった官僚、役人、
 裁判を行っているというよりもひたすらに「事件」を「処理」し続けている役人という
 生き方、精神的な収容所、見えない檻の中の囚人、制度の奴隷に近い生き方も、御自由
 といえるかもしれない。
 日本は民主国家であり、他人を傷つけないかぎり、どのような生き方も基本的に自由で
 あり、許されるはずだからである。
・しかし、彼らは、現実には、厳然として「裁判官」であり、裁判を行うことによって、
 国民、市民の、つまり、あなたの運命を左右する存在なのである。
・だからこそ、日本国憲法第76条には、裁判官の独立が、「すべての裁判官は、その良
 心に従い独立してその職権を行い、この憲法および法律にのみ拘束される」ことが、
 定められている。
 しかし、この条文は、日本国憲法のほかの数多くの輝かしい条文と同じように、実際に
 は、踏みにじられ、愚弄されている。
・私がこの書物を書いた理由については、偉大なロック音楽家であるボブ・ディランの言
 葉から三つを引用しておきたい。
 「つまり我々のだれからも声が上がらなかったら、何も起こらず、(人々の)期待を裏
 切る結果になってしまう。特に問題なのは、権力を持った者の沈黙による『裏切り』。
 彼らは、何が実際起きてるかを見ることさえ拒否している」
 「俺にとっては右派も左派もない。あるのは真実か真実でないかということだけ」
 「俺は常に個人的見解を持った一個人として生きてきた。もし、自分が存在している意
 味があるとすれば、みんな不可解が可能になるって教えてやることだ」