日本の戦争責任 :若槻泰雄 |
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この本は、いまから29年前の1995年に刊行されたもので、日中・太平洋戦争の戦争 責任は、いったいだれにあるのかについて、著者の持論を展開したものだ。 結論からいうと、日本の戦争責任は、最高責任者である天皇にあり、天皇は退位して責任 を取るべきであり、そして天皇制は廃止すべきというのが著者の主張のようだ。 当時の日本の統治者は天皇であったことは事実であり、最終責任者は天皇であったことは、 否定できない事実であり、この点においての著者の主張はおおむね少なからぬ日本国民に も認められるところであろう。 とはいっても、当時の天皇であった昭和天皇は、この本が刊行される6年前の1989年 にすでに崩御されており、この本の刊行は遅きに失した感は否めない。 敗戦直後だったら、この著者の主張は、その後の日本の体制を考えるうえで、おおいに参 考にすべき主張だと思えるのだが、その善し悪しは別として、日本の国民の多くは天皇の 戦争責任を追求することなく「人間宣言」をした天皇を受け入れ、戦後の44年間も天皇 の在位を認めてきたのである。 昭和天皇がまだ在位のままだったらいざ知らず、すでに時代は平成の時代に移り、さらに 令和の時代に移り変わってしまってからでは、”時すでに遅し”と言われても仕方ないだろ う。 また、戦後の昭和天皇の果たした役割も大きかったといえる。昭和天皇の存在があったか らこそ、日本は敗戦後の混乱をそれほどきたすことなく、世界でも例がないほどの短期間 での復興を成し遂げることができたともいえる。 結局、日本という国にとって、明治時代にも昭和の時代にも、天皇という存在は、なくて はならないものであったのは確かだろう。 昭和天皇の戦争責任は別として、私は個人的には次の四点について、戦争責任を負わなけ ればならない人がいるのではと考えている。 @満州事変のきっかけを作った者の責任 A日中戦争を拡大させた者の責任 B太平洋戦争を開戦させた者の責任 C戦争終結を遅らせた者の責任 @については、関東軍高級参謀「板垣征四郎」大佐と次級参謀「石原莞爾」中佐と言われ ており、この満州事変から日中戦争へとつながっていったことから、この二人の責任は重 いと私は思っている。 Aについては、「広田弘毅」と「近衛文麿」に大きな責任があったと私は思っている。 当時、外相だった広田弘毅は、ドイツが和平を働きかけたにもかかわらず、なぜかそれを 拒絶し、「国民政府を相手にせず」という非常識な近衛声明を発表して、泥沼の長期戦へ 踏み出している。首相の近衛文麿も陸軍が要求していないにもかかわらず、軍費予算を追 加を閣議決定するなど、戦争不拡大とは反対の方向に指導した。 BとCは、なんといっても「東条英機」に一番の責任があると私は思っている。しかし、 戦争末期において、和平の仲介をソ連への依頼にこだわった「東郷茂徳」外相についても、 なんとも腑に落ちないと私には思える。 とはいえ、日本の戦争責任はこの人にあるんだと、なかなかはっきりと断定できないのも 確かだろう。戦争に反対しなかったマスコミにも大きな責任はあるし、一般の国民にも責 任がある。 もちろん、軍部の暴発を抑制できなかった政治家たちの責任も大きいし、軍部に加担した 学者たちや評論家たちにも大きな責任があるだろう。 こう考えると、あのような狂気とも思える戦争に突っ走った真の責任はだれにあるのかと この本に答えを探してみたが、結局のところ、私には答えが出せなかったのがほんとうの ところなのだ。 過去に読んだ関連する本: ・昭和天皇・マッカーサー会見 ・日本人はなぜ戦争へと向かったのか(外交・陸軍編) ・日本人はなぜ戦争へと向かったのか(メディアと民衆・指導者編) ・それでも日本人は「戦争」を選んだ |
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どうして日本軍は銃剣で戦車に勝てると信じたのか ・「日露戦争」では、日本軍は世界一流の陸軍国ロシアとはほぼ対等の装備で戦い、一応 勝利をおさめることができた。 日露戦争の全期間を通じて、機関銃を含む総合火力で、日本軍はむしろロシア軍にまさ っていたとさえいわれる。 日露戦争は英米両国の資金力と、ヨーロッパ諸国の工業力によって、日本は兵器生産の 後進性の制約をけることなく、大国ロシアと戦うことができたのである。 ・日本陸軍が一挙に中古化したのは「第一次世界大戦」の結果であった。 大戦に参加したヨーロッパ各国およびアメリカは、四年間を超える死闘を繰り返すうち に、その装備は格段に進歩した。 ・大戦にはほんの部分的にしか参戦しなかった日本は、各国が戦争に全国力を投入してい る間隙をぬって好景気を謳歌したが、他方、世界の軍事力進歩には決定的に遅れてしま った。 ・日本軍としても、ヨーロッパの戦争が日露戦争とは著しく異なった様相を呈してきたこ とには気づいていた。 しかしながら、第一次大戦後には全世界をおおう平和的風潮、そして日本経済の不況に よる財政逼迫のため、陸軍は装備編成の充実どころか、いわゆる軍縮による師団の削減 を実施しなければならなかった。 ・そのうえ、陸軍当局は四年半におよぶ「シベリア出兵」という名分のない、まったく無 意味な戦争に巨額を投じ、ますます装備の改善を遅らせてしまった。 いくらかの改善はなされたものの、日本陸軍の装備、軍需生産は第一次大戦の総力戦を 経てきた西欧諸国とは比較にならないほど貧弱であった。 ・もともと今次大戦中、日本陸軍の主力である歩兵の訓練の最重点は、射撃・銃剣術・行 軍の三つであった。 射撃は三八式歩兵銃を、ポツン、ポツンと撃つことであり、銃剣術は、その小銃さえ撃 たずに、小銃の先に付けた小さな銃剣を敵に突き刺す”白兵戦”のためのものであり、 行軍は文字通りただ歩くことである。 日露戦争どころか19世紀以前の軍隊と基本的には変わらないことになる。 ・日本の軍隊では車両編成の部隊はわずかしかなかったから、多くの兵隊にとっては列車 に乗ることはあっても、トラックで移動することはかぎられていた。 弾薬や食糧は兵隊の場合よりはトラック輸送が多いが、馬で運んだり、人間がかつぐこ ともめずらしくなかった。 大砲さえ、牽引車で引っ張る機械化砲兵はきわめて少なく、馬で引いたり、分解して馬 にので、ときには兵隊が背負って運んだのである。 おそらく第二次大戦で、多くの参戦国のうち、歩兵や砲兵の移動、弾薬食糧の運搬を主 に馬力人力に頼ったのは日本軍と中国軍だけであったろう。 ・ノモンハンの戦闘において、日本軍には大きな弱点があった。 それは火砲の射程が日本軍の方が短いので、ソ連の砲兵は日本軍の大砲の弾のとどかぬ ところから撃ってくることになる。 もう一つの弱点は、日本軍の後方の輸送力が貧弱なため弾薬の量に大差があったことで ある。 日本の砲兵が一発撃つとその何倍も返ってくるので、歩兵は砲兵に「射撃をしないでく れ」と頼んだこともあったという。 ・にもかかわらず、日本陸軍はノモンハン事件当時の装備からろくに改善されてもいない 1941年6月には、独ソ開戦に乗じてソ連への侵攻を計画したことは周知のどおりで ある。 一般にはこのときの関東軍の戦備が充実していたように思われているが、事実はこれに 反する。 主力戦車はノモンハン自然でソ連軍にひとたまりもなく撃破された八九式中戦車よりは 改造された九七式中戦車がふえてはいたものの、軽装甲・軽装備という日本陸軍の戦車 の基本型式は変わっていなかった。 ・日本陸軍は、彼我の戦力の分析結果による実力の歳差も無視し、ノモンハンの大敗にも まったくこりず、東に西に、あるいは南に戦線を拡大し、1945年、原子爆弾が落と されても、まだ「本土決戦!」を叫び続けていたのである。 これを「無能な集団」と呼ばなくて、他になんと言えようか。 むしろ、「無能な」の上に、「いちじるしく」あるいは「信じられないくらい」という 副詞をつける必要があろう。 ・1940年春、西部戦線でドイツ軍がいわゆる”電撃作戦”により英仏軍に大勝した後、 陸軍はその実態を調査するため、「山下奉文」中将を団長とする軍事視察団を派遣した。 半年にわたり調査を終えた山下中将一行は、独ソ開戦直前にドイツを出発し、1941 年7月帰京した。 ・半年間にもおよび、詳細に現地を視察してきた山下中将らは、ドイツ軍はもとより、 大敗した英仏軍も、日本軍とはケタ外れの近代装備であったことをみてきたはずである。 戦争の様相は、日本軍の対中国戦争とはまったく様変わりしていることを、骨身にしみ て感じてきたことだろう。 ・日本陸軍がいま、しなければならないことは、装備編成の近代化であり、そして、当分 の間、10年や20年は、日本陸軍はとてもまともな戦争ができる状態ではないことを 確認することであったはずだ。 それなのに、対ソ侵攻を即時開始せよと進言するとは、山下は、ノモンハン事件に関し ても、ヨーロッパ戦場の実態については、これをみる能力がまったく欠いているとしか 考えられない。 ・知将として有名な石原莞爾中将の書いているものを読むと、彼は世の中で一般にいわれ ているほど優秀とも有能とも思えないが、かれはさておき彼は次のようにいう。 「軍に用兵術の研究がない。上級者は無能である。参謀総長も陸軍大将も新戦術を知ら ない」 ・マッカーサーも、 「日本の軍人の進級は別に戦争にかかわりなく、規則による封建的なものである。した がって日本の兵は強いが、日本の軍中央部はかならずしも恐れるに足りない」 といったといわれる。 ・ノモンハンで日本軍と戦ったソ連第一集団軍司令官ジューコフ元帥もスターリンの質問 に対し、 「日本軍の下士官・兵は頑強で勇敢であり、青年将校は狂信的頑強さで戦うが、高級将 校は無能である」 と報告した。 ・日本の高級将校たちは、戦場のおける指揮能力以前の問題として、戦争するためには絶 対に必要な条件、敵と味方の戦力の比較を考察する智能が決定的に欠けていると結論づ けるよりほかならないように思われる。 ・軍備を整えるだけの金のない国、装備の悪い軍隊しかもっていない国は、答えはきわめ て簡単であって、戦争をしないことである。 そういう国は少なくとも、みずから積極的に戦争をしかけることは絶対にしない。 そして、戦争になるような外交政策をとらない、ときには屈辱にも耐え、できれば強国 と連合し、もしくはその庇護の下になんとか身の安全を保つことを基本方針とするのは 常識だろう。 世界の大部分の国はそうやって生存してきたのであり、現にそうやって生活しているの だ。 ・海軍は陸軍と同様、日露戦争の勝利に酔い、日本海海戦の再来を夢みて、ミッドウェー 海戦で潰滅的な打撃を受けるまで”大鑑巨砲主義”を捨てきれなかった。 ・攻撃面でも、敵の後方を攻める重要性を無視し、日本海軍の航空機も潜水艦も最後まで 敵主力艦の攻撃に終始して失敗し、みずからは敵に輸送線を遮断され干上がってしまっ た。 「迂回、包囲、突撃、そして白兵戦」を唯一の作戦として、バカの一つ覚えのように同 じことを繰り返し、中国軍と太平洋戦争初期の植民地軍を相手にしたときを別にすれば、 ただの一度も成功しなかった陸軍と同じようなものである。 ・開戦の前年1940年8月、「豊田副武」艦政本部長は「米英から物資が入らぬとすれ ば手も足も出ぬ」と強調した。 その他各責任者から戦勝の見込みがないという報告が次々となされ、最後に吉田海軍大 臣は「日本海軍はアメリカに対して1年しか戦えない。アメリカは持久戦に出るだろう ・・・1年間の持久戦で戦争に飛び込むのは暴虎である」と結論づけた。 ・「吉田善吾」大将に限らず、海軍の中枢部では日米戦争に対する積極論より前途に対す る悲観論、戦争浮華論が多かったことが周知のことであろう。 それにもかかわらず、回文の責任者は、公式に戦争に反対したことは最後までなかった。 ・第三次近衛内閣による日米交渉も大詰めに迫った1941年秋、及川海軍大臣は非公式 にはしばしば「勝利の自信がない」と言明しており、東条陸軍大臣に対しても直接そう 語ったこともある。 しかし、この話は「この場かぎりにしておいてくれ」と口止めし、和戦を協議する正式 の場では、ひたすら「首相一任」と言い続けてきた。 ・海軍側の真意を充分知りながら、海軍大臣に「対米戦争に自信はない」と公式に言明さ せ、それによって内部の主戦論を抑えようという陸軍のやり方も卑怯な態度と言えるし、 及川海相の意向を聞いているにもかかわらず、為すこともなかった近衛首相の無能、無 責任ぶりは指摘するまでもない。 しかし、「海軍の立場や面子にとらわれて」、主張すべきことを主張しなかった及川海 相の責任の重大さはもっとも非難に値しよう。 ・戦後まもない1946年1月、旧海軍の元幹部たちが集まった「特別座談会」で「井上 成美」大将は、「陸海軍相争うも、全陸海軍失うよりは可なり、何故男らしく処置せざ りしや」と及川を面罵した。 ・長い間、”無敵海軍”と誇唱してきた権威が国民の前に崩れることをおそれてか、「そん な役に立たない海軍なら予算を減らせ」といわれるのを心配してか、あるいは右翼のテ ロに脅怖を感じてか、国家民族の運命のかかる大事を前にして、主戦論の前に身を屈し、 真実を述べる勇気がないとは「これが海軍大臣か!」と心底から怒りと軽蔑の念にから れざるを得ない。 ・もう少し海軍と開戦に関しつけ加えると、及川の後任者で、太平洋戦争に突入したとき の海軍大臣「嶋田繁太郎」大将は、東条の意のままに動き、「東条の副官」とまでいわ れ、天下に悪評をさらしたし、及川の前任者の「吉田善吾」大将は、三国同盟締結が日 米開戦につながることおそれながらも、「陸軍を向こうに廻して大喧嘩をやらなければ なりません」と部下の言葉に「困ったなあ」といって頭を抱えてうつぶせになられた。 その晩吉田大臣は苦悩のあまり倒れて入院されたのであった。 ・日本陸軍の精神力の強調は、あきらかに度をこえていた。 日本陸軍の用兵上の基本をしめしているともいうべき「統帥綱領」では、 「近年は物質的進歩は著しいが、勝敗の基礎が精神力にあることに変わりはない。その 精神力とは、将兵の団結、わが身をかえりみない忠誠心である」 と説いている。 ・この「統帥綱領」を受けて、一般の将校兵隊にとってのいわば教科書であり、彼らが常 に携帯する「作戦要務令」にも「攻撃精神が物質的威力を超える」ことが強調されてい る。 ・物質を軽視する精神主義は、たんに兵器だけでなく、弾薬や食糧の補給さえ軽視するこ とになる。 南方戦線で戦没死した130万余名のうち、おそらく半分余は、餓死と、飢餓に由来し た疫病、もしくは医薬品の不足からくる病死であろう。 ・無能といった段階をはるかに超えた、これら常識はずれの将軍の命令のままに戦わされ、 その生命を失った兵士たちの運命は、なんとかわいそうなことであろうか。 ・異様なばかりの精神主義は、戦争末期の断末魔に追い込まれたときの”神頼み”というわ けではなく、戦争開始自体がすでにそうであった。 1941年12月8日の真珠湾攻撃の朝、東条首相は、ラジオを通じて全国民に次のよ うな趣旨の演説をした。 「天皇の下に世界を統一するという神話を信じて、日本国民が天皇に忠節を尽くすなら ば、強大な国力、近代的装備を誇る米英に対しても勝利をおさめることができるのだ」 ・陸軍エリート将校の大部分は陸軍幼年学校の出身で、陸軍幼年学校に入学できたものは 中学校では優等生であった。 そんな彼らが、どうして、かくも無知、無教養になったのであろうか。 いったいなぜ、本来は優秀な頭脳をもっているはずの彼らがこうなってしまったのであ ろうか。 ・その疑問には、簡単に結論だけをいえば次の理由によるにちがいない。 彼ら軍人は思春期から日夜「おそれ多くも畏くも、万邦無比のわが国体」「八紘一宇の 肇国の精神」「決国以来の光輝ある不敗の伝統」「畏れ多き現人神」といったことを、 くり返し、くり返し教え込まれ、それ以降も年中そういう言葉を発し、そういう訓示を 聞き、その都度直立不動の姿勢をとり、しかもいまだかつて、それを批判したことはな いし、批判や疑問の言葉さえ聞いたこともなく、何十年間を過ごしているうちに、ほん とうに、そういう気持ち、 要するに無知、無教養、偏見のかたまりになったのであろう。 ・「勝てない」「負けるかもしれない」というようなことを発言することは、「畏れ多く も天皇陛下の尊厳を冒涜する」ところの、許すべからざる行為になるわけで、だれも口 にするわけにはいかなかったにちがいない。 彼らに同情的に解釈すれば、”畏くも天皇陛下の軍隊”として、そういうことを公式に はいえなかったということであろうか。 ・元首相「若槻礼次郎」は、終戦の頃の陸軍は「半狂乱」だったと書いているが、終戦時 に限らず、陸軍は、そして海軍も、いつも「半狂乱」どころか「全狂乱」、すなわち正 気ではなかったのである。 正気でない内容は、「天皇は神であり、日本は神国である、普通の国とはわけがちがう のであって、負けるなどということはあり得ない」という信念、信仰、要するに迷信で ある。 どうして日本の兵隊は勇戦敢闘したのか ・日本陸軍は戦闘にあたっては攻撃を原則とした。 そして攻撃の華、最後の段階は”突撃”である。 敵が機関銃、小銃、それに各種火砲で射撃してくる真正面から、小銃の先に30センチ 余りの短剣をつけて、多くの場合、喚声をあげながら敵陣に突っこむのである。 これがいわゆる”白兵戦”と称するもので、日本陸軍の得意中の得意とされていた。 近代の陸戦では、「砲兵が耕し歩兵が占領する」のが原則とされていたが、耕すべき大 砲も弾薬も不足する日本軍としては、この白兵戦に頼るほかはなかった。 ・軍隊の精強さは負け戦のときにもっともはっきり現れる。 勝ち戦では、どんな軍隊でも張り切って能力以上の力を発揮するのが普通だからだ。 その意味では、真珠湾攻撃以降、最初の半年間を除いてすべての負け戦を、延々と3年 間にわたり執拗に戦った日本軍は精強な軍隊の名に値しよう。 ・いわゆる”特攻”、特別攻撃隊は魚形水雷を固定した飛行機や快速艇を敵艦にぶっつける もので、”決死隊”あるいは”決死の覚悟”とは次元の異なる、完全な”自殺攻撃”である。 特攻隊も後半には志願というより割当指名ともいうべき実情が多くなったが、それにし ても世界的に”カミカゼ”の名が、半ば奇異の感をもたれながら、一種畏敬の念をもって 知られるようになっただけのことはあろう。 ・日本軍隊の世界の水準以上に思われる精強さはどこから来ているのであろうか。 子供のときから軍隊主義教育をそのまま信じて、はりきって戦場に赴いた若人もめずら しくはなかっただろうが、「軍隊は国民に似せて造られる」といわれるように、それは 日本人そのものの資質から来ているように思われる。 ・日本の文化のもつ一つの側面を「恥の文化」としてとらえる考え方があるようだが、多 くの戦争体験記には、卑怯な行動をして「戦友に笑われまい」「醜態をさらすまいと心 に誓い」といった表現がよく出てくる。 階級別の戦死者の比率は一般的に下級将校がもっとも高いといわれる。 これは兵隊を直接指揮する下級将校は常に最前線に立たねばならないということもなよ るが、敵弾が炸裂しはじめると、あるいは激戦になると、兵隊は必ず指揮官の顔を見る ものであるから、指揮官は部下の手前、勇敢にふるまわざるを得ないのである、と軍人 の著した書物には書いてある。 ・「日本人は死者との強い連帯感のゆえに、西欧文化圏の人びとによりも、生死の境を相 対的に容易に越えられる」という考え方もある。 たしかに戦争体験記には、「多くの戦友を失って、おれ一人おめおめと生きて帰ること はできない」「戦友を弔うために、彼らに殉じて死んでいく」といった記述は少なくな い。 ことに死者が多量に出るようになった戦争末期にはその傾向が強く、一種の「死の陶酔」 「死の美学」が、彼らをして死を恐れぬ勇敢な戦士に仕立てあげているように見受けら れる。 ・兵士の一人一人をとりまく社会環境もまた彼らを精強にする要因になっているようであ る。 日本陸軍は原則として各出身地方ごとに編成されていた。 いわゆる”郷土部隊”といわれるもので、軍隊内の兵士たちの行動は同じ部隊にはいっ ている同村出身者によって確実に郷里の人びとに伝わった。 彼は自分の名誉のためだけでなく、家族、そして郷土の名誉のために奮闘努力しなけれ ばならないのである。 ・太平洋戦争後半は大量動員のため整然とした徴集が困難になり、各地出身者を集めた混 合部隊も多くなった。 そして日本陸軍では”郷土部隊”は強く、”混合部隊”は弱いというのが定評であった。 混合部隊は団結力も、郷土に対する配慮もそれだけ薄くなるからであろう。 ・農村出身部隊と都会出身部隊の強弱についても定評があった。 簡単に、東北、九州の部隊は強く、大阪の部隊は弱いともいわれていた。 ・軍隊の精強さは紀律が厳正で、兵士たちが命令一下死地にも飛びこむ気迫がみなぎって いるか否かに依存する。 この点日本軍の軍紀は厳正であったといえるが、問題は、なにによってその軍紀を維持 したかということである。 日本軍はそれを暴力という手段に訴えた。 ・暴力は日本軍隊の生活のあらゆる面で吹き荒れていた。 暴力をふるおうと思えば材料には事欠かないのであって、掃除した直後でも古い兵舎の 片隅から一片のゴミぐらいをみつけることはやさしい。 どんな大きな声で返事をしても「まだ小さい」ということはできる。 「態度がでかい」という主観的判断なら、いつでもだれに対してでもできる。 ・暴力は軍隊用語としては”私的制裁”といったが、もっとも多いのはビンタ、頬をなぐる のだが、それは平手ではなくてゲンコツが用いられた。 なぐる方も腰を落とし手を大きく後ろに廻して勢いをつけるので、なぐられる者は倒れ てしまう場合が多い。 そのときはすぐに立ち上げって次のビンタを受けられるよう姿勢を整えなければならな い。 ”往復ビンタ”といって左右を代わる代わるなぐられるときは、右に左に体は大きくゆら ぐことになる。 下手に避けたりしたら、その制裁は数倍に増えることになろう。 ・ビンタの他に樫の棒でお尻をなぐられることもあった。 海軍では”精神棒”といってこれがもっとも多く用いられたようだが、なぐられる者は股 を開き両手で足首を押さえお尻を突き出す姿勢をとる。 なぐる方は息をフーフーはきながらバットを振るようにして全力でなぐりつけるので、 いくら構えていても当たった瞬間前に倒れてしまう。 しかしすぐはじめの姿勢にかえって次の一打に備えなければならない。 ・ビンタを20〜30回もとられると頬はふくれあがって数日間はものをかむこともでき にくくなり、棍棒でやられると、お尻は内出血で真っ青になり4、5日はびっこを引か ねば歩けなくなる。 もちろん気を失ってしまう者もいるし、鼻から噴き出した血がそこらに飛び散ることも めずらしくない。 ・戦場にいくと、軍隊内の生活規範、したがって私的制裁もいくらゆるむので、新兵の中 には作戦に出かけることを好む場合さえみられた。 命が危険にさらされる戦場により兵営内の方が耐えがたかったのだ。 「初年兵の彼にとっては敵に対する闘いではなかった。それは日本兵に対する闘いであ った・・・初年兵の敵は、自分達の前方にいる外国兵ではなく、自分達の傍にいる四年 兵、五年兵、下士官、将校であった」という手記もある。 ・直接、新兵に暴力を加えるのは下士官や古年兵なのだが、将校は下士官以下の暴行を止 めようとはまったくしなかったし、ときには「気合いを入れてやれ」とそそのかすこと もあった。 ・将校自身が暴力をふるうこともめずらしくはなかった。 暴力は日本軍の体質なのであり、私的制裁は困苦艱難に耐える精強な軍隊を造るために は必須の手段なのだ、という考え方が軍隊内では強かった。 私的制裁にへこたれるような兵隊は、苦難の連続である戦場ではとても役に立たないと いうわけである。 ・このようなすさまじい軍隊生活は、うすうすではあっても一般社会でも知られていた。 そして、それが青年たちの徴兵忌避の大きな理由であった。 ・絶対的権力が君臨し批判がいっさい許されないところでは、上級者が腐敗するのは当然 の結果であろう。 軍隊内のわいろはめずらしくなかったし、戦場で、あるいは占領地で、すなわち世間の 目はなく、ひたすら隷従するほかない部下と、殺傷与奪の権を握られている住民しかい ない所では、多くの高級将校たちが、いかに酒池肉林にふけっていたかは幾多の戦場体 験記が示すところであり、筆者自身も直接見聞しているところだ。 ・軍隊では、世間の教養や常識はもとより、人間としての最低のあかしも通用しない。 社会とはまったく断絶した異様な空間なのである。 そこは人間どころか動物さえも住めない真空地帯なのだ。 住んでいるのは、”兵隊”という名の奴隷に仕立て上げられた人間の一変種だけである。 ・日本の軍隊は特別ひどい例としても、軍隊生活というものは大なり小なり苦痛を伴うの は普通であるし、戦争ともなれば生命の危険にさらされることになる。 したがって兵隊をどうやって集め、どうやって訓練するかということは国家にとって重 要な課題である。 ・青年をきびしく訓練し献身的努力を要求する軍隊には、人を納得させる目的がなければ ならない。 少数の職業的軍隊ならその必要性はさして大きくないかもしれないが、大量の国民を動 員するためにはそれは必須であろう。 世界中の多くの国では通常それは「祖国の防衛」であり、自由主義国では自由主義、民 主主義の擁護も加わり、共産主義国家では、世界の共産主義革命の理想が掲げられる。 ・だが日本の場合、軍隊が創設され徴兵制が施行された明治初年は、「藩ありて国あるを 知らず」という状況であるから、国家・民族の防衛などといっても青年たちを奮い立た せることができる段階にはなかった。 ・日本の徴兵制度は、一世紀前のフランスのように、愛国の情熱に燃えてみずから集まっ てきた国民兵の伝統に基づくものではなく、封建制度の賦役の性格をもっており、事実 一般には”兵賦”といわれることもあった。 ・自発的精神をもたないこれらの徴集された兵隊たちを、”精強な軍隊”に仕立て上げるた めにはきびしい”軍紀”が必要である。 ・自由主義国では命をかけて守るべき対象である自由主義、民主主義は、日本には存在し ない。 むしろそれは弾圧の対象であったし、実際上の生活、利益という点からいっても、庶民 にとって日本は、「全力を傾注して」守るに値する国ではなかった。 ・明治初期の日本農民が負担すべき地祖は徳川時代と実質上変わらなかったし、特に小作 人は年収穂高の半分近い小作料に苦しめられていた。 農村からあふれた者は「女工哀史」がその一端を示すように、都市の工場で悲惨な生活 にあえいでいた。 あるいは、男は最低の不熟練労働者として、女は娼婦として海外各地に流亡していた。 彼らは血を流してまで守るべき生活や”愛する祖国”はもっていなかったのである。 ・ここに、日本軍隊が遮二無二兵隊に軍紀を押しつけようとした理由がある。 兵隊に自発的意欲がある場合はもとより、日本軍の目的が説明して理解できる内容なら、 静かに話せば済むことだが、その両方とも欠けるときには、暴力をふるっても強制的に 教え込む以外にはないわけだ。 ・しかし、いかに日本軍隊という暴力機構でも、暴力を正当化する錦の御旗がなければ組 織として永続しえない。 また一つの組織・団体にはその存在の目的がなければ団結は期待できないし、ついには 瓦解するに至るだろう。 これら二つは結局一つのことをいっているにすぎないが、この役割を果たしたのが天皇 制なのである。 ・軍人精神の根幹を示したもので、軍人が朝に夕に唱和させられ暗記させられた「軍人に 賜りたる勅論」には「・・・下級のものは上官の命を承ること、実は直ちに朕が命を承 る義なりと心得よ」という文句である。 この句は上官に対する絶対服従を要求する意味と解せられており、上級者が下級者に無 理な命令を発して暴力をふるうときにしばしば引用された。 「おれのいうことは天皇陛下の命令と同じだ。天皇陛下の命令に背くのか」と、ばかの 一つ覚えのようにどなってはビンタをとるわけで、天皇陛下の御命令となれば、なに人 も絶対に従うよりほかになく、反対や批判はけっしてゆるされないことになる。 ・”天皇陛下”と軍隊との関係は、軍隊組織の基本を定めた「軍隊内務令」で、軍隊の本義 は”天皇の事業の基礎をおし広め、国の威光を世界に広くあらわすことだ”とある。 国民生活の擁護とか民主主義の防衛という話はわかりやすい。 しかし、天皇という一人の人間の、国を治める事業をおし広めるため、将兵が誠を尽く して一致団結してあたれ、などということは、十回や百回説明されても理解できないの が普通だろう。 まして、死を賭するほどの情熱がわいてくるはずがない。 ・日本軍隊には暴力が日常的に横行するとともに、やたら訓示が多いのはまさにここに由 来するように思われる。 わけのわからないこと、意味不明なこと、おそらく訓示している方も聞かされる者たち と同様理解不能なのであろうが、教え込もうとすれば、何度も何度も同じことを繰り返 すより他なかったのにちがいない。 日本軍隊における精神教育は、批判はいっさい許されないし、質問さえもはばかれた理 由はよくわかる。 こんなわけのわからない話では批判や質問にも答えられるはずはないからだ。 ・また日本の軍隊では、建て前と本音が見事なばかりに遊離しているのも同じ理由からで あろう。 説明不能、納得不能の、「皇基」だとか、「おそれ多い天皇」だとか「本義」といった ものは、あくまで”建て前”として奉り、必要な公式の場合以外はいっさい触れないま まにしておき、本音の世界で生きていく、というのが兵隊たちの、というよりは日本軍 隊そのものの実態であったろう。 ・しかしウソで固めたこの建て前も、一度天皇制がそういう役割を与えられると、天皇制 はかぎりなく尊いものでなければならない。 もし天皇の尊厳がおかされれば、その虚構の構造があきらかになれば、軍紀は弛緩し日 本軍は内部的に崩壊するからだ。 したがって、軍隊は天皇神聖の神話をかつぎあげ、神話は神話を生み、日本軍隊は”天 皇教を奉ずる異様な集団”、正確にいえば、”天皇教”の信徒集団と化するのである。 ・そして、軍紀を保つための暴力の基礎である天皇制は、天皇制の正統性、合理性を論理 的に説明できないために、ふたたび暴力に頼ることとなり、凶暴な暴力と、わけのわか らぬ訓示は相乗作用をもって兵営内を荒れ狂い、兵隊を”命令のままに動く動物”と化し て目的を達することになる。 かくて日本軍隊はいかなる命令にも服従し、黙々として死地に飛びこむ精兵となるわけ である。 ・日本軍がこんなに肉体的、かつ精神的両面における奴隷的状態の下にありながら、よく 勇戦奮闘し、最後まで一応軍紀を保ち整々として復員したのは不思議なくらいである。 ・この理由の一つとして、”お上”の命のままに唯々諾々と従ってきた日本人の長い習性に よることも大きいであろうが、このことをもう少し煮つめると次のようなことになるだ ろう。 ・日本人の多くは近代的な意味において自我を確立しておらず、無思想、無信念な人間の 集団である。 もともと日本に存在した唯一の思想である国学自体、思想という名に値しない心情的な ものにすぎないのであって、日本人の無思想性はなにも戦前、戦中にさかのぼるまでも なく、今日においても似たようなものだろう。 彼らは子供が生まれると神社に七五三の思い理に行き、親が死ねば僧侶に戒名をつけて もらい、お寺で葬式をあげる。 ”かっこうがよい”からと、キリスト教徒でもないものが教会で結婚式をあげる。 普段でも、神社仏閣、あるいはこれに類する建造物の前では、その内容を確かめること なく頭を下げたり何かを祈願したりする。 ・別に人格的に立派なわけでもなく、なにか社会的貢献、業績をあげたわけでもない、つ まらない人間に対し、ただどこかの家に生まれたからといって、あるいはそこに嫁にい ったからという理由で、皆が頭を下げていることに倣い、自分もそれと同じことをする のになんの疑念も屈辱感も感じない。 不合理なこと、不正なことでも、皆がやっていること、黙っていることには、あえてさ からう勇気も良心もない。 政界に限らず日本社会のあらゆる部門に不正と不合理がうずまいていても、それがいつ になっても改まらないのは日本人のこういった資質からきているにちがいない。 ・真理、正義、人間性、合理性等々といった、人間、少なくとも近代人にとって基本的な ものを守る勇気も良心もない無思想、無信念という地盤の上に、「おそれ多くも万邦無 比のわが国体・・・」「万世一系の天皇陛下のお言葉・・・」と毎日毎日やられれば、 まして、なぐるけるの暴力を伴ってやられれば、それがいかに非合理なこと、バカげた ことであろうと、それを”信じて”しまうことは充分想像のつくことであろう。 ・もともと”信ずるもの”がない者に、なにかを信じこませるのは、”なにかを信じている” 者に、あるいは、”信ずべきものはこの世に存在しない”と確信している者に教えこむよ りははるかに楽であるからだ。 ・日本人、さらには日本軍人というものが、いかに信念のない人間の集まりにすぎないか を明示する事実がある。 それは終戦直後から4年間、一部は11年間にわたり、ソ連邦の手によりシベリアに抑 留された関東軍60万の人びとの行動である。 ・強制労働収容所では、飢餓・重労働・寒さの三重苦に加え”民主運動”という名の精神的 暴力が荒れ狂った。 民主運動とは、初歩的なマルキシズムの教条を唱えさせ、最高の形容詞で”ソ同盟”を賛 美させ、スターリン元帥万歳を叫ばされることである。 さらには、”労働者の祖国ソ同盟”の再興のために昼夜をわかたず働かされ、ソ同盟の敵 である”反動”を摘発するため、連日のように、まさに強烈な”いじめ”そのものともいえ る凄惨な“吊るし上げ”が強行された。 しかも、これらはソ連収容所当局の威力を背景に、アクチーフ(活動家)と称する日本 人が、日本人に対して行ったのである。 ・吊るし上げのすさまじさは、収容所からソ連の監獄に入れられた者が「ほっとした」と 述懐するほどで、この吊し上げに耐えられず、わずか50名なかりを除き60万の日本 兵はすべて”民主化”されたのである。 ・”民主化した”といっても、たんに「ソ同盟万歳」「スターリン万歳」を叫べばすむとい うほど安易なものではない。 民主化の実証として、彼は”反動”を摘発して、真に自分が民主化したことを示すことが 必要である。 そのためには昨日までの友人の前歴をあばき、ときにはうそを並べたててもこれを陥れ、 ソ連当局に気に入られねばならない。 さもないと帰国を遅らされ、あるいは永久にシベリアの凍土に朽ち果てねばならないと 脅されたからである。 ・同じ条件下にあったドイツやイタリアの捕虜には、わずかに”民主化”されたものがいく らか散見された程度で、大部分は毅然として民族の誇りを堅持し、日本人の捕虜のよう に、ソ連側に気に入れられようと労働歌を歌いまくり、労働に狂奔し、友人を吊るし上 げるといった狂態を演じた収容所はただの一つもなかった。 独、伊の捕虜と同じ収容所にいて、日常彼らの言動をみる機会のあった者や、仕事上接 触した日本兵捕虜は、みな彼らの堂々とした態度に感心し、みずからを含めて日本人の 卑屈さ、いくじなさを嘆いている。 ・しかも、この狂態を演じたのは、なにも一般の兵隊だけではなく、”軍人精神”にこりか たまっているはずの陸軍士官学校卒業の正規の陸軍将校もけっして例外ではなかった。 将校たちは「日本帝国主義打倒」「天皇制打倒」を叫び、天皇家の菊花の紋章を靴で踏 みつけて、反天皇の姿勢が真実であることを立証しようと努めたのである。 日夜にわたる民主運動の”教育と脅迫”の前に、彼らはその信条であったはずの主義も思 想もすべて捨てて、ひたすらソ連の権力とスターリンの威光の前にぬかずいたのだ。 彼らの”天皇絶対主義””神国思想”といったものが、いかに浅薄であるかを、これほど明 瞭に示すものはあるまい。 ・日本人というものは、しつこく教えこまれ、脅かされれば、スターリン教であれ、天皇 教であれ、その他のイカサマ宗教であれ、どんな思想でも信じる、信じたようになる、 なさけない民族なのである。 ・日本軍隊の死に対する唯一の公定の定義は、「天皇陛下のために」である。 しかしあれほど連日連夜の注入と強圧にもかかわらず、このことは最後まで兵隊に徹底 しなかった。 「天皇のため」という、もっともらしい押しつけの修飾語は、兵隊は好まなかった。 がまんして聞き流していたか、出世のための手段として同調したのである。 といって、「民族のため」といった大袈裟な表現もなじめない。 ・兵隊たちは、常に「お国のため」という言葉を信条として、非常理な軍隊内務生活に耐 え、また苛酷な戦場を、生き、戦ったのである。 「お国のため」という言葉には覚悟と諦観が同時に存在し、また、この言葉の裏には 「おくふろのため」「好きな穏あのため」という、兵隊各自の解釈による思いが隠され ていたのである。 ・だれでも自分の国に対する素朴な愛国心はもっている。 愛する妻子や親・兄弟、友人・知人、そして自分を育んでいれたなつかしい国土を外敵 から守りたいという情熱はたいていの人の心の中にひそんでいる。 「国のため」でもなく「国家のため」でもなく、まして「天皇陛下のため」などではな く、「お国のため」という含蓄とニュアンスに富んだ言葉こそ不思議に兵隊を酔わせる のだという。 ・「今村均」は今次大戦においてもっとも名将の誉れが高い一人である。 ジャワ攻略軍の司令官として、占領後は寛大な軍政をしいたため、視察に来た杉山参謀 総長い叱責され、また、他の占領地域のように、やたらに記念事業をやったり、神社を 建立することもなかった。 そしてラバウル方面軍司令官としては最後までここを固守したこと、さらに戦犯に問わ れて日本で服役するや、部下と運命を共にしたいと、みずから進んで熱帯直下のマヌス 島の刑務所におもむいた等、彼はたんに勇将としてだけでなく人格的にもすぐれた人物 だといわれる。 どうして日本の軍隊は惨虐行為をしたのか ・1937年12月、中国の首都、南京攻略にあたり、日本軍が何十万の中国人を殺した とか、しなかったとかいうことがいまでもときどき話題になっているが、それがたと5 万であろうと50万であろうと、たいしたいみがあるとは思えない。 ・今次大戦において、日本軍は戦時国際法を蹂躙し、捕虜の虐待、民衆の虐殺、暴行、強 奪、放火、強制労働、婦女暴行等々、多くの惨虐行為をしたことは疑うことのできない 事実である。 ・このことは、従軍した何百万の人びとにとっては常識であって、いまさら説明する必要 もあるまいし、上は大将から下は兵隊にいたるまで、「焼き払い、犯し、奪い、殺した」 ことを立証する戦争体験記には事欠かない。 私自身も直接いくつも見聞きしている。 ・もちろん日本軍の中には、惨虐行為とまったく関係ない部隊や個人もたくさん存在した し、もっとも残虐行為の多かったとされる中国でも、駐屯地からの撤退に際して、県政 府が別離の宴をはってくれたり、感謝状を贈呈されたり、民衆から名残り惜しまれた部 隊も決して例外ではない。 ・それに、国際法違反、惨虐行為は日本軍以外にもドイツ軍はもとより、連合軍側にもあ ったことで、ことにソ連軍が戦争が終わったあとでさえ、その占領地で、戦争中の日本 軍、ドイツ軍に匹敵するほどの、すさまじい暴虐性を発揮したことは指摘しておかねば ならない。 ・だがそのことは、日本軍の非人道的な行為を許容する理由にならないことはいうまでも なく、われわれはみずからの国の軍隊が犯した犯罪行為に目をそむけることなく直視す る必要があろう。 ・戦争中、軍人は一般国民を見下して横暴なふるまいはめずらしくなかったし、日本国内 でも憲兵は容赦なく民間人を逮捕し、場合によっては拷問を加えた。 まして占領地なら勝手放題のことをし、苛酷な弾圧政策をとることは、たいして気にも していなかったであろう。 ・1942年春、フィリピン攻略戦のとき、バターン半島に立てこもった一部民間人を含 むアメリカ・フィリピン軍8万が降伏した。 日本軍は彼らを補給基地サンフェルナンドまで60キロを歩かせ、その結果、途中、疲 労と食糧不足とマラリアのため多くの死者を出した。 これが「バターン 死の行進」といわれるもので、当時のフィリピン方面軍司令官だっ た「本間雅晴」中将は戦後その責任を問われ、マニラで銃殺刑に処せられている。 ・私はもとよりこれを弁護するつもりはないが、自分たちでさえろくに食べられないで戦 闘をしていた日本軍に、いきなりその統制下にはいった8万の捕虜に充分な給食をする ような食糧の余裕があるはずはない。 ましてこれだけの人数を迅速に運ぶトラックやガソリンをもっていることはけっしてあ りえない。 もともと、食うや食わずで、そこらのものを略奪して飢えをしのぎながら、ひたすら歩 くのが、勝っているときも負けているときも、日本軍の姿なのである。 ・日本の軍隊では行軍中脱落すれば、戦争も初期の余裕のあったころは、これを収容する よう努めたが、中期以降は、南方各地はもとより、勝っていたとされる中国戦線でも特 別な場合は別として死ぬよりほかはなかった。 行軍中で落伍して死んだ日本兵は、太平洋戦争の全期間を通じて、おそらく万の単位で はおさまらず10万を超えることは確実ではないかと思われる。 ・戦争が長期間にわたったことも日本軍の無法行為を続発させた一つの理由といえるだろ う。 1937年7月の日中全面戦争から太平洋戦争終了までの期間は8年1ヵ月になる。 今次大戦は日本歴史上、他を引き離して最長の外征なのである。 ・大戦末期は別として、高級将校たちは戦場にはせいぜい1年か1年半しかおらず、適当 に交替して休養を取っているが、現役下士官や下級の予備将校は一度出征すると、延々 と戦場勤務が続くことになる。 一般の兵隊も現役勤務が終わるとそのまま引続き召集され、「現役」から「予備役」に 身分が変わっただけで、与えられた条件は同じである。 数年たつと召集解除となるが、若い兵隊は1、2年を待たずに再召集されるのが常であ った。 ・先の見通しのない泥沼のような戦場をひたすら東に西に戦いつづける歳月を過ごしてい れば、次第に平常の市民感覚を失い、自暴自棄的な心理状態になることは想像されない ではない。 ・日本軍隊の補給能力は兵器弾薬についてはもとより、食糧、医薬品、衣料その他すべて にわたり貧困であったことはよく知られている。 陸軍は海軍に比べてもかなり劣っていた。 ・日本陸軍は肋膜炎や肺結核の患者がきわめて多かった。 これは栄養不足からきているものが大部分だろう。 また、食糧も運べない状態で生水や浄水装置を充分輸送できることはありえないから、 兵隊たちは泥水を飲むより他はなく、これらが多くの戦病(死)を出した原因にちがい ない。 ・日本軍は西太平洋の広大な面積に、補給線を確保する能力を超えて大兵力を展開したた め収拾がつかなくなってしまったものと考えられているが、総体的にはそのとおりとし ても、日本陸軍の補給能力の不足は、なにも対米戦争の中期以降からはじまったわけで はない。 補給の困難は南方各地への海上輸送が敵の潜水艦や航空機によって妨害されるに先立ち、 大陸各地でも早くからおこっていたのである。 ・日米両軍の決戦場となったガダルカナル島も、ニューギニアも、インド・ビルマ国境の インパールの敗戦も補給が続かなかったのが決定的要因で、これらの地域では戦死者よ り、飢餓による死亡のほうが多いことは多くの戦記や体験記が語っているところである。 ニューギニア、ブーゲンビル島、フィリピン等では味方の人肉まで食べたといわれる。 ・食糧さえ補給しないのに、燃料を送ってくれるはずもないから、民家の扉や柱を叩き割 って燃やさなければ飯も食えない。 家の中をひっかき廻しているうちに、ついでにカネメのものは略奪してしまうし、逃げ 遅れた女性を見つければ暴行に及び、そしてさらに、憲兵に訴えられないようにと殺し てしまうことになる。 ・もともと日本軍は攻勢にあたっては「敵に糧を求める」、戦利品によって自軍を養う方 針をとることが多かったし、守勢もしくは駐屯の場合は指揮下の部隊に対し、「自給自 足」「現地自活」を指導することも少なくなかった。 大本営自体が対米戦に主たる努力を傾注するため、支那派遣軍に対し現地自活を指示し ている。 ・自給自足せよといわれても、何万、何十万の大軍が戦闘をしながら、農耕に精を出して ”自活”することは原則として不可能であろう。 それは飢餓への道か、大がかりな略奪の公認意外ににはないことになる。 ・今次の大戦にあたって、日本軍は戦時国際法を無視し、数々の違法行為を行ったわけで あるが、たんに、事実上無視しただけでなく、日本国家は”方針として”国際法を重視 しない姿勢をとっていたと認められる。 いったいこの日本の軍隊の統率者はだれだったのか ・1933年、大坂でいわゆる「ゴー・ストップ事件」というものがおこった。 外出中の兵隊が赤信号を無視したのに対し警察官がこれを制止したことから、大阪府と その兵隊の所属する第四師団とが衝突し、寺内師団長と、大阪府知事の深刻な争いにま で発展した事件である。 ・兵隊の言い分は「憲兵のいうことはきくが、巡査のいうことなんかきく必要があるもの か」ということであり、軍の主張は「陛下の股昿たる軍人の名誉を傷つけ、軍の威信に かかわる」というのだ。 ・結局、検事の和解勧告と兵庫県知事の仲裁によって大阪府知事の遺憾の意の表明という ことで落着したが、この事件は、軍隊には一兵隊にいたるまで、政府の権力を無視する 気風がしみこんでおり、そして軍はこんな些細なできごとまで、”軍の権威”をふりかざ すことを示したともいえよう。 警察はこれ以後、軍人に対する取り締まりを事実上はばかるようになり、軍人はいわば 治外法権となった。 ・日本の「政府機関と統帥機関とはあくまで対立平等の地位」だというのは国際的にも認 知されていたらしい。 今次大戦の連合国への降伏調印式には、”天皇と日本政府を代表して”重光外相が、 ”日本軍を代表して”梅津参謀総長がミズーリ号の甲板に臨み、それぞれ調印している のだが、まことに奇妙な光景といわねばなるまい。 日本の国は二つの組織あるいは三つの権力機構から成る複合国家ということになるので あろうか。 ・日本陸軍は陸大教官だったドイツのメッケル少佐を通じて、「戦争論」の著者として知 られている「クラウセヴィツ」の兵学の伝統をひもとくといわれているが、どうも日本 の高級将校たちはクラウゼウィツを勉強したとは思えない。 クラウゼウィツの有名な定義に、 「戦争は他の手段をもってする政治の継続にほかならない」 「戦争はまったく政治の道具」 「政治的意図は目的、戦争は手段」 等々とあるが、日本陸軍は、「政治は軍の侍女にすぎない」としか考えていなかった ようである。 ・軍隊がかくも過大な自信をもち、尊大にふるまうのは、軍人たちが全員無知蒙昧か、な にかにとりつかれていないかいかぎりありえないことである。 たしかに彼らは”とりつかれている”のである。 あるいは、”とりついている”のである。 天皇教にとりつかれ、天皇制にとりつかれて、これをかつぐことにより、政府や全国民 を睥睨していたのだ。 ・”もっともらしい人”をかついて、その名の下に実権をにぎり万事を思いどおりに処理す ることは、かつぐ客体はなにも天皇にかぎらず、明治初年以来の日本軍、特に日本陸軍 の体質ともいえるものである。 ・戊辰戦争における東征大総督は「有栖川宮熾仁親王」で、東山道先鋒、北陸道先鋒、奥 羽先鋒の各総督は「岩倉具定」以下全員が公卿出身である。 そして彼らの下に西郷とか黒田とかいう有能な武士が参謀として配置され、事実上軍の 指揮をとっていた。 何百年にもわたり京都の御所深くひっそりしていた皇族、公卿たちに、軍事についての 知識や経験があるはずはない。 ただ西郷以下の下級武士の指揮を重々しくするために”かつがれた”だけであることは あきらかであろう。 有栖川はこのとき33歳、岩倉具定はわずかに17歳にすぎなかった。 会津征討総督に任ぜられた嘉彰親王(にちの小松宮彰仁親王)は当時22歳で、12歳 から総督になる前年の12月まで9年間仁和寺で出家していたのである。 ・これほど極端ではないが、こういう例は太平洋戦争のはじまるまでシナ事変中にもしば しばみられた。 皇族に歴戦の栄誉を与えるため、皇族が名前だけの軍司令官などにつき、事実は幕僚た ちがすべてとりしきるというやり方はごく普通のことであった。 ・海軍は指揮官が直接決断し命令することが多いため、皇族がそういう地位についたこと はない。 ただ、もっとも安全な日本国内の軍職の最高位である軍令部総長に「伏見宮博恭王」が 1932年2月から1941年4月まで9年2ヵ月の長きにわたって在職した。 ・陸軍の最高位である参謀総長にも「閑院宮載仁親王」が1931年12月から1940 年10月まで8年10ヵ月その地位にとどまった。 ・二人の皇族が満州事変から太平洋戦争にいたるこの長い期間、軍令の最高の地位を占め つづけたことは偶然ではあるまい。 軍内部の統制と、軍政への優越性、すなわち政府への優越性を確保する手段として二人 の皇族をかついだにちがいない。 ・憲法の条文に反し慣習法として、軍令の、政府から独立、されにその軍令の長に皇族を 置くことによって、それは二重に保証され、軍の意のままに動く政府、政策を実現した わけであろう。 ここでも”皇族”という天皇制の一翼は、戦争への道の役割を充分に果たしたのである。 ・もともと明治維新に際し、下級武士である維新の志士たちは、自分たちよりずっと身分 の高い諸侯や高禄の武士たちを抑えるために、天皇というものをかつぎ上げたのであっ て、「木戸孝允」や「西郷隆盛」が天皇のことを”玉”と呼んでいたことはよく知られて いることだ。 ここでいう玉とは宝玉のことではなく、「手段に使用するもの」「計画のたね」を意味 する。 ・兵営はじめ軍の施設の建物正面には金色の「菊の御紋章」がつけられていた。 菊の御紋章というのは天皇家の家紋で、戦前にはこれに類似したデザインを使うことは きびしく制限されていたものである。 兵営や軍の施設に天皇家の家紋をつけるということは、その建造物が天皇家に属するこ とを示すものといえよう。 ・陸軍の主たる兵器である小銃にも菊の紋章が刻みこまれていた。 小銃を傷つけたり部品をなくしたりしたら、「いやしくも天皇陛下からお預かり申し上 げている小銃を・・・」とビンタをくらうことになる。 南方戦線の末期、餓死寸前の状態で敗走につぐ敗走となってからは、日本軍の軍紀も崩 壊して兵器を捨ててくるようになったが、大戦半ばすぎまでは、どんな敗戦にも小銃を 捨てるようなことはなかった。 あのガダルカナル島からの撤退に際しても、小銃の携行を命じられている。 たとえ、野たれ死にしようといやしくも菊の紋章のついたものをみすみす敵の手に委ね ることはできないという考え方からである。 ・陸軍の”主兵”称された歩兵と、かつては陸軍の”華”であった騎兵の連隊には「軍旗」と いうものが授与された。 軍旗はたんなる”旗”ではなく、天皇の分身であり、天皇の象徴としての絶対的尊厳性を もち、軍隊団結の核心とされていた。 ・軍旗が兵営にあるときは連隊長室に納められ、24時間、衛兵(番兵)が立っており、 衛兵勤務で一番きびしいのは軍旗衛兵といわれ、身動き一つしてはならなかった。 戦場では連隊長と行を共にし「軍旗中隊」が護衛にあたった。 一個連帯の歩兵中隊の数は9〜12個であるから、軍旗護衛のためだけにかなりの兵力 があてられたことになる。 連隊が作戦行動をとるときも、軍旗の安全を考えて作戦計画をたてるのが常であった。 ・「軍旗の下に死ぬ」ことは軍人の名誉と考えられ、逆に軍旗を失うことは最大の恥辱で あり、そういう場合は連隊長は自害するのが通例である。 ノモンハンでは二つの連隊旗が”奉焼”されているが、連隊長の一人は突撃して戦死し、 一人は自決した。 ・1931年の満州事変以後、急速に反動化しつつあった日本の思想界に一つのエポック を画する事件が1935年におこった。 有名な「天皇機関説」問題である。 ・「天皇機関説」というものをもっとも簡単に説明すると、それは「大日本帝国憲法」下 の天皇の地位に関する解釈として、国家は法人であり、天皇はその最高機関である、と する学説である。 ・もともと天皇機関説は、憲法を学問的に説明しようとすれば、天皇も国家を形成する一 機関、組織の一部と考えるのは当然の帰結であり、明治以来、広く学界では認められて いた解釈であった。 ・1935年における「天皇機関説」問題は学会内の学問上の論争ではなく、日本の軍国 主義化を背景に帝国議会で政治問題としてとりあげられた。 貴族院で菊池武夫議員が天皇機関説を「国体を破壊するような学説」と弾劾するにおよ び、問題は一挙に重大化した。 ・”国体”という言葉は、戦前の日本における最重要キーワードで、これが登場すると、 すべての理性も合理的議論も沈黙し、なに人もただ、ただその前にひれ伏すより他なか った。 ・昭和における”国体”という語は、統治権がどうのとか、お国柄などという問題にとどま るのではなく、「日本の”国体”は万世一系の天皇が統治する、世界に比べることもない、 尊いおそれ多い存在である」というような文意を表すときに登場するのを常とする。 したがって「国体に反する」ことは、日本国民としては絶対に許せない行為であり、そ の一言で人を社会的に葬ることも、牢につなぐこともできるといっても過言ではないほ どの字句である。 ・陸海軍、特に陸軍は天皇機関説問題に深くかかわった。 貴族院で最初に美濃部攻撃をはじめた「菊池武夫」議員は予備役の陸軍中将であり、 衆議院でこの問題をはじめてとりあげた「江藤源九郎」議員が予備役の陸軍少将であっ た。 ・議会でこの問題が論議されるようになると、陸軍の教育総監「真崎甚三郎」大将は早速 「国体明徴」の訓示を全陸軍に示達した行なった ・天皇機関説排撃に関する政府の態度を明らかにせよ、という軍の強硬な要求は次第に強 まり、穏健であった岡田首相もついにこれに屈し「国体明徴に関する声明」を発表する ことになった。 ・人間それ自体や、自分たちの種族・民族、さらには統治者の祖先が、天界から地上にや ってきたのだ、というような神話や観念は世界各地にみられることで別にめずらしいこ とではない。 ただ日本が世界的にめずらしいのは、20世紀も半ばにかかっている時代、しかも一応 相当程度の文明に達した国が、こんな幼稚な神話を信じ、あるいは国家が国民に信じる ことを強制した、という点である。 世界の前に日本民族の前近代性、未開性をさらした一大国辱的事件というべきであった ろう。 ・天皇主権を明示した明治憲法下で、どうにか議会政治への道を開くため積み重ねられた 努力を無に帰し、その方途は失われ、ほとんど完全な専制君主制の方向が確立したので ある。 それは明治政府よりもさらに復古的なものといえる。 専制政治以上のもの、軍が愛用した言葉を用いれば、「神聖なるわが国体」、すなわち 神権政治への道を開いたのである。 ・神権政治とは、政治、社会の支配の正当性が支配者の神性に基づいている体制のことを いう。 あらゆる価値が、単一の宗教的価値に従属していた西洋の中世のような時代にも、この 言葉を使うことはあるが、一般には、政治と宗教が未分化の原始社会、未開社会がこれ にあたると考えられている。 日本は20世紀も半ばにかかるころから、再び未開社会へと逆戻りしたのである。 ・日本軍隊の忠節は、国家や民族や政府に対するものではなく、あくまで天皇に対するも のである。 日本軍というのは、要するに古代人の”神話”の上に成立している軍隊である。 その神話の信仰がさめれば、それが合理的精神によって論議されれば、日本軍隊はたち まち崩壊の危機にひんする。 いや、大日本帝国という絶対制国家、天皇制国家自体もゆらいでくる。 その崩壊をくいとめようとする努力が、日本軍隊をおおう精神主義の注入であり、暴力 の圧制なのである。 ・天皇機関説を政府が公式に否定したことは、要するに日本国と天皇との関係は天皇が日 本を統治するという一方的関係しか残らない。 統帥権=軍の統率という面においては、もともと陸軍の参謀総長も海軍の軍令総長もど ちらも参謀であって、天皇の補佐役であり命令の伝達者にすぎない。 すなわち軍の行動はすべて天皇一人の権限であり責任なのである。 それに加えて、天皇機関説が公式に否認された後の日本国家の行動は、政治も外交も全 面的に天皇一人の責任という解釈も充分成り立つであろう。 ・若い将校たちは、軍人勅論をはじめ、軍が教育していたこと、天皇現人神、神国日本、 八紘一宇を頭から信じ込んでいるのに対し、年輩の将軍たちの多くは、さすがにそうい うことが「建て前」にすぎないことはわかっている。しかし若い将校たちに「建て前」 論を掲げられて正面から迫られると、いつもそのような訓示をしている将校たちは、 これを否定することはできなくなってしまう。 ・「二・二六事件」という一大不祥事事件に際して、軍の上層部の大部分が”理解”を示し かけたことはよく知られていることだろう。 青年将校たちの蹶起趣意書に書かれていることは、ほとんど陸軍が公式に主張している ことと同じであり、そしてそれ以後10年間、軍が現実にやったことなのである。 いったい日本の戦争目的はなんだったのか ・1937年7月、盧溝橋事件を契機に、満州事変以来、紛争を続けてきた日中両国は全 面戦争に突入した。 事件当初、「現地解決、不拡大方針」をとっていた日本は、やがてその方針を一擲して 大兵力の出兵に踏み切った。 にほんの海軍機がはじめて中国の首都・南京を爆撃した8月15日、日本政府は「帝国 政府第二次声明」を発表したが、これは対中国戦争の目的を宣明したものとみなすこと ができる。 ・この声明は日本の戦争の目的を「暴支膺懲」と表現している。 膺懲とは「うってこらしめること」を意味し、当時この「暴支膺懲」という言葉はよく 使われたものである。 ・日中戦争が日本の思惑を裏切り長期化してくると、「こらしめる」といった子供をしか りつける程度の目的では、大きな犠牲を強いられている国民の納得を得られなくなる。 そこで登場したのが「東亜新秩序の建設」というスローガンである。 ・1940年8月、第二次近衛内閣の松岡外相がその談話の中で「大東亜共栄圏」という 言葉を公にはじめて使用した。 これ以後1945年の終戦にいたるまで、大東亜共栄圏建設は、日本の基本的対外政策 の公式スローガンであり、”大東亜戦争”の目的ともなったのである。 「大東亜新秩序」と「大東亜共栄圏」とは内容的に同じことを意味するが、後者の方が と使われることが多くなった。 ・もっとも、日本政府の正式の米英に対する宣戦の詔書には「大東亜共栄圏」という文言 はなく、「自存自衛のため」に立ち上がったと書いてある。 ・開戦当初の考え方としては、「自存自衛一本であると強調するもの」「大東亜新秩序建 設を加えた二本立てであると考えるもの」「大東亜共栄圏建設こそが戦争目的であると 理解するもの」があって思想の統一を欠いていた。 ・客観的にいえば、大東亜共栄圏建設という膨張主義が米英の反撃にあい、経済封鎖され たために、それを貫徹しようとすれば国家存亡の危機に陥ったということであろう。 したがって「八紘一宇」「大東亜共栄圏建設」という旗をおろしさえしたら、”自存自 衛”のためという自暴自棄的な戦争などする必要はないのだから、やはり日本の戦争目 的は「大東亜共栄圏建設」ということになる。 ・もともと日本は主観的には侵略行為をしているとは考えていなかったといえるかもしれ ない。 というのは、日本の主権者である天皇は天照大神以来の万世一系の皇統を継ぐ”現人神” であり、日本という国は道徳と正義の権化である。 その日本が侵略などをやるなどということはありえないことであって、諸国民、諸民族 が日本の統治下にはいることは、天皇の御仁政の下に暮らせるようになるわけで、これ 以上の幸せはないからである。 それを理解しないものは教えをさとし、それを妨げるものは膺懲して目を覚まさせてや らねばならない。というのが日本政府の思考である。 ・昭和期における日本の侵略戦争の基礎には”天皇”がかならず存在する。 天皇が神聖である以上、その建国の理想である”八紘一宇の御事業”はぜひ実現しなけれ ばならない。 いやしくも”現人神”のなさる”聖業”が”失敗する”、戦争に負けるなどということはあり えないことである。 すなわち”不敗の確信”がそこに生まれるのだ。 ・なお、日本の、こういった侵略行為の正当化の確信は、じつは世界史上めずらしいこと でもなんでもない。 現代における実例をあげれば、「神聖なる天皇陛下の存在」→「天皇の御先祖のおおせ られた肇国の精神」といったところが、「共産主義の絶対的正しさ」→「それを世界に 及ぼすのがわが国民(たとえばソ連、中国、北朝鮮など)の、世界的、人類的使命」→ 「これを阻止しようとする反動勢力からの人民解放戦争」という正義の確信につながる。 日本の”進歩的文化人”がアメリカの対外干渉は”帝国主義”ときびしく非難しながら、 ソ連の東欧支配や侵略には一言も抗議をしなかったのも、このような考え方にちがいな い。 ・戦争の目的は日本国内ではそれなりに論じられたが、末端の兵士の多くは「大東亜共栄 圏建設」というスローガンも、「東亜新秩序」「八紘一宇」などという文句もあまり聞 かされたわけではない。 兵隊はただ、例の軍人勅論、「我が国の軍隊は世々天皇の統率し給う所にぞある。昔神 武天皇から・・・」といった長たらしい文章を毎日奉唱し、ひたすら天皇の命令のまま に戦っていただけである。 ・朝から晩までたたきこまれる「軍人勅論」や「戦陣訓」でさえなにかわけのわからない お題目なのに、まして「大東亜共栄圏」やら「八紘一宇」が、ひとときのひまもなく走 りまわっている兵隊に理解できるはずはない。 ・今次大戦を検討する場合、日本が侵した条約・協定違反という問題だけではなく、より 根源的に、日本という国家の体質そのものが問われなければならない。 もし日本が”肇国の理想”であるとし、”大東亜共栄圏」という美名において、東アジア地 域をその支配下においたなら、どういう事態が出現したであろうか。 それは、すでに日本の統治と管理の下にはいった朝鮮、台湾、そして満州国の姿をみれ ばはっきりするだろう。 ・人種差別、そして抑圧と干渉政策などは、先進欧米諸国と似たようなもので特に変わっ たことはない。 日本政府・日本軍の指導者たちは、しばしば「今次の戦争は白人の搾取の下からアジア を開放するのが目的だ」と称したが、中国において、日本が軍・官・民をあげて権益獲 得に狂奔し、「シナのために何が残れるやの感を抱かしめ・・・」と嘆いたのは、しな 歯元軍の参謀自身であった。 また中国の場合とはちがい、当初は”解放軍”として迎えられたビルマでも、日本人の利 権あさりを目撃したこの方面の司令官・飯田祥二郎中将が、「これでは大東亜共栄圏も 聖戦もあったものではない」といったほど、日本の搾取は欧米並みか、ときにはそれ以 上であったことはまちがいない。 ・日本政府は明治末年、大韓帝国を併合すると、その王族の独身男性には、それぞれの格 に応じて日本の皇族・華族の娘を嫁がせた。 昭和にはいっても、満州王朝の皇帝・溥儀の弟・溥傑に嵯峨侯爵の娘をめあわせた。 これら政略結婚を通じ、朝鮮や満州の民衆を懐柔しようという発想から出たもので、彼 ら民衆がそんな時代遅れの思考からはとうの昔に、あるいはたちまち抜け出ていたこと にまったく気づいていなかったのである。 ・こういうやり方は二千年もの昔、漢が四周の蛮族を手なづけるため、王族の娘や漢人の 官女をこれら蛮族の首長に嫁にやった政策とまったく同じ発想であって、前近代的どこ ろか、古代的とでもいえようか。 ・解放後半世紀たった今日なお、旧植民地の住民から、日本はいまだの増悪と侮蔑の言葉 を投げかけられている。 イギリスやフランスの植民地では、その期間において、その程度において、日本以上の 圧政がおこなわれたにもかかわらず、その知識人たちは牢獄の中でさえ、旧宗主国がも らたした文明、思想、文学等に敬意と憧憬をもっていたのとは大きなちがいといわなけ ればならない。 ・戦争の目標は第一次大戦を境としてたんなる領土とか資源とかの争いではなく、その国 の制度、目民生活を動かす思想原理等、いわゆる”原理運動”になったといわれる。 今次大戦にあたって連合国は大西洋憲章にみられるように、「人類普遍の原理」「文明 の名において」というような堂々たる戦争目的を掲げたのに対し、日本のそれは、「肇 国の精神」「八紘一宇」「皇道の宣布」などと、歴史の塵を払って、はるか2600年 前とか称する神話から取り出した空疎な字句の羅列だったとは、なんとなさけないこと であろうか。 ・1943年、米英中の三ヵ国の首脳が集まって発表したカイロ宣言には「この野蛮な敵 国に対し仮借なき弾圧を加うるの決意・・・」と書かれているが、中国が文明国の名に 値するかどうかば一応保留して、まさにこの宣言どおり、日本は20世紀における野蛮 国であった。 野蛮国が文明国に太刀打ちできなかったのは当然のことであったというべきであろう。 ・それどころか、万一日本が勝っていたならば、人類文明の逆行であって、”天皇陛下の 臣民”として、あるいはこれに準ずるものとして、大日本帝国の支配下に呻吟しなけれ ばならない東亜各民族はもとより、日本国民にとってもたいへん不幸な結果になったと いわねばならない。 ・日本政府がポツダム宣言受諾にあたって要望したことは、天皇の地位を守ってくれとい う一点だけであった。 焼け出され、飢えに瀕し、路頭に迷っている八千万の国民のことでもなければ、海外で その方途を失った七百万の同胞の安全ことでもなかった。 やしてや”大東亜共栄圏”の民族のことでもあろうはずもなかった。 ・日本政府が高く掲げた”大東亜共栄圏の建設”、そして、しばしば口にした”白人支配か らのアジアの開放”が口先だけのものにすぎなかったことは、ポツダム宣言受諾にあた っての、連合国への申し入れでも明らかだし、いわゆる”終戦の詔勅”においてもそれは 明らかである。 ・もともとこの戦争は。連合国が天皇制を廃止せよと強要し、日本がそれを拒否したこと からはじまったわけではない。 この戦争は日本が先にしかけたのである。 満州事変以来の侵略主義、それが最終的に大東亜共栄圏建設に発展した戦争である。 それなのに、戦争に負けたからといって、「自分たちの地位と命だけは助けてください」 と懇願しているわけだ。 日本の戦争に大義名分がなかったことを、みずから告白しているとしか考えようはある まい。 ・ヒトラーやムッソリーニが連合国に対し、自分の命乞いをしたら世界はなんというだろ うか。残念ながら、日本はそれと同じことをやったのである。 ポツダム宣言に関する連合国への申し入れも、”終戦の詔書”も、まことに不様な醜態を さらしたものといわざるをえない。 ・なお、戦争終結にあたって日本国は、戦争の口実に使っていた大東亜各国の民衆のこと など、きれいさっぱり忘れていただけでなく、自国民の命さえ無視していた。 ポツダム宣言受託も迫った1945年8月13日夜、東郷外相は梅津参謀総長および豊 田軍令部長と会談したが、このとき豊田軍令総長に随行した大西軍令部次長は次のよう に”必勝の信念”を吐露した。 「二千万の日本人を殺す覚悟で、これを特攻として用いれば決して負けはせぬ」 ・しかし”二千万の国民を犠牲にする”ということぐらいで驚いてはおられない。 ソ連軍が侵攻してきた8月9日、宮中で開かれた御前会議で阿南陸相は、ポツダム宣言 受諾は天皇制護持を絶対条件とすべきだとして次のように主張した。 「一億枕を並べて斃れても大義に生くべきなり。あくまで戦争を継続せざるべからず」 ・こういう思考はなにも職業軍人ばかりではない。 元首相、当時の枢密院議長・法学博士「平沼騏一郎」もこの席に同様の趣旨を述べてい る。 「国体の護持は、皇室の御安泰は、国民全部戦死してもこれを守らざるべからず」 ・いったい、国民全部が戦死しても守らねばならない大義とはなんなのか。 国民を一人残らず犠牲にしても護持しなければならない国体とは、皇室とはいったいな んなのか。 ・日本軍が敵からも賞賛されるほど勇戦敢闘した。 彼らは弾丸がつきてもまだ戦い、食糧がなくなっても、なお降伏しなかった。 その狂信を嗤うのは簡単だが、彼らはなんと悲しい兵士たちだったであろうか。 ・彼らは敵国からはもとより全世界から鬼畜の如く誹謗され、侵略者と罵倒され、日本国 民自体からも非難され、あるいは忘れ去られようとしている。 彼らの最大の悲劇は、その青春を捧げ、その生命を犠牲にした長きにわたる苦闘が、名 分なき戦いであり不正な戦争であったことだ。 ・その戦いの目的が、実際はなんであったにしても、アジアの民衆を西欧の植民地支配か ら開放するためと思い込んで、いやせめて、愛する妻子、両親のため、国民を守るため に戦ったと信じていたならば、彼らはまだ救いがあったろう。 しかし彼らは「皇道宣布のため」「肇国の理想・八紘一宇の実現のため」そして「おそ れ多くも万世一系の天皇陛下の御為」と教えこまれ、叩き込まれ、無理にそう信じ、信 じ込まされて戦場をかけめぐり、戦死していったのである。 こんな荒唐無稽な、まともな常識に立ち返れば、苦笑、冷笑の対象でしかないスローガ ンの下に、彼らは死んでいったのである。 ・彼らのもった、あるいはもたされた信念は、世界人類のなんぴとの共感も得ることはで きないであろう。 その信仰は、遠い将来の子孫を待つまでもなく、彼ら自身の子供、孫もすでに理解不能 になっているにちがいない。 彼らの勇戦は、20世紀の現代に咲いた一輪の”古代野蛮な狂信のアダ花”とでもいえよ うか。 ・こう思うと、この戦争に若い命を失った二百数十万の兵士たちと、何年間にもわたり青 春をむなしくした何百万の青年たちは、なんと哀れなことであろうか。 それだけに、この戦争をおこさしめ、絶望的な戦いを続行させた日本国家の体制、そし て、その理念の責任は徹底的に追求されねばならないであろう。 どうして当時のマスコミは戦争に反対しなかったのか ・国家権力に対する国民の最大の武器はいうまでもなく言論である。 テレビはないし、ラジオは半官半民の日本放送協会一本であるから、言論の最大の担い 手は新聞と出版ということになる。 したがってこの二つに対し政府は厳重な規制を実施してきた。 ・昭和初期のこの分野における取締法は1909年から施行されてきた「新聞紙法」と 「出版法」で、これらは戦後の1949年まで有効であった。 ・明治初年、日本に新聞社が創設されたころ、”報道”よりも”反骨精神”を優先したことが 日本の近代ジャーナリズムの発足を飾る特色といわれるが、いまやすべての新聞は政府 の御用新聞と化するよりほかなく、各社は争って戦争を謳歌して軍のお先棒をかつぐこ とになった。 このことに対しては戦後きびしく批判されており、その非難は足らないことはあっても、 おそらく過ぎることはあるまい。 しかし、戦争に反対であったり批判的であることはもとより、すこしでも戦争に消極的 な新聞は、日本に存在しえなかった、という事実も記憶しておく必要があろう。 ・「石川達三」の有名な「生きている兵隊」は、南京攻略作戦をえがいたもので、かなり 生々しく日本軍の惨虐行為を描写した部分はあるが、もちろん反戦的でも反軍的でもな いし、凄惨すぎる実写というほどでもない。 それが禁錮四年、執行猶予三年の判決を受けたのである。 国民に日本軍の実態、”聖戦”の実相を知られることを恐れたからであろう。 ・事後であれ事前であれ、検閲による発売禁止、削除等は政府にとって好ましいことでは なかった。 ある日突然、新聞が配達されなかったり、一部分が黒々と塗りつぶされた新聞をみれば、 読者は政府にとってなにか好ましくないことが報道されたと察するのは当然のことだか らである。 ・そこで”内面指導”と称される政府による編集指導方式が用いられるようになった。 いまでさえ”行政指導”という、法律によらない、しかも事実上強制力をもつ、近代国家 としては奇妙なやり方が日本では横行しているのだから、戦争中ならごくあたりまえの ことであったろう。 ・「情報局」では「雑誌出版懇談会」というのが月に1〜2回開催され、編集者、ときに は社長その他の幹部の参集を命じ、差止事項の通達、編集内容への注文が行われた。 壇上に立って、学生の論文か答案を論評する教師よりも、もっと横柄に一席弁ずるのは、 情報局に出向している陸海軍、特に陸軍の中、少佐クラスで、彼らは検閲関係の重要ポ ストをほとんど独占していた。 ・これらの軍人の影には、各種の情報を提供することを”業”とする文士や評論家や雑誌編 集者がいたといわれる。 軍人たちが大量の、そしてときにはかなり難解な論稿を読みこなして、非難すべき点を 見つけ出して、その論理構成を組み立てることは、彼らの教養と経験をもっては困難と 思われるからである。 ・”指導”が進んでいくと、やがて執筆者の制限がはじまった。 内務省警保局がのちに獄死する「戸坂潤」や「宮本百合子」ら七名の執筆者の名をあげ て、それらの人の論文や作品をいっさい雑誌に掲載しないようにと雑誌社にはじめて示 達したのは、支那事変がはじまった1937年12月だが、掲載禁止の人数はどんどん 増えていった。 ・発売禁止や出版社の統廃合による失職という段階ではなく、例のでっちあげと壮絶な拷 問で有名な「横浜事件」では、朝日新聞関係者1名の外、雑誌編集者17名が逮捕され ている。 ・こうして戦争末期には、日本国中は大本営発表と情報局の指導する”新聞”という名の 虚報と、それが日本語であることだけはわかるが、ほとんど意味不明に近い”雑誌”と いう名の、戦争をあおる「呪文集」だけしか存在しなくなった。 日本中から正気の文字と文章は消えたのである。 ・昭和初期には、新聞はそれなりに抵抗の姿勢を示した。雑誌も同様である。 満州事変勃発に際しては、ほとんどの新聞がこれを非難あるいは批判したが、在郷軍人 会の不売運動などの圧力のため、もっとも強硬に反対していた朝日新聞もおよそ一ヵ月 後には陸軍に対する攻撃の矛をおさめてしまった。 ・しかし全国紙がおとなしくなった後も、福井日報は執拗に満州事変の批判を続け、憲兵 隊から厳重戒告を受けた。 満州事変の翌年、「五・一五事件」に際しては、福岡日日新聞編集局長の菊竹惇は「敢 えて国民の覚悟を促す」と題し、「軍隊と軍人は豺狼より嫌悪すべき存在なり。国軍自 らまず崩壊すべきことは必然である」と論じ、激昂した陸軍軍人や右翼からは脅迫状や 電話が殺到し、同社屋上には軍用機が旋回して威嚇した。 「陛下の軍隊を侮辱するとは許しがたい」というわけだ。 菊竹惇支那事変がおこった年に病没した。 ・満州事変の翌々年、はじめての防空演習に対し、信濃毎日新聞は評論欄で「関東大防空 演習を嗤う」と題し、痛烈にこれを批判した。 12年後に、結末は同紙の予想どおりになったのだが、同紙は敵機が東京上空に達する ような状況になれば、木造家屋の多い帝都は一挙に焼土と化するであろうと書いたので ある。 怒った陸軍の圧力で、主筆の「桐生悠々」はその地位を追われた。 ・戦争も末期に近い1944年2月の「竹槍事件」も忘れてはなるまい。 トラック島において日本海軍が潰滅的打撃を受けたとき、毎日新聞は「竹槍ではまにあ わぬ。飛行機だ。海洋航空機だ」と、当時すでに朝夕刊合わせて4〜6ページに縮小さ れていた紙面に四段抜きの見出しで、精神主義を排し、海軍航空隊の増強を力説した。 ・記事を書いた「新名丈夫」記者は海軍担当の記者であったが、この報道は東条首相を怒 らせ、新聞は発売禁止となり、東条は執筆者の厳罰を毎日新聞に要求した。 同社はこれを拒否し、編集総長の辞任、編集局長等の待命処分にしただけで新名記者を 擁護した。 ・東条は陸軍省に命じ強度の近視のため事実上兵役免除に近い第二国民兵に属し、すでに 38歳にもなっていた新名ただ一人を、丸亀の連隊に召集し、「硫黄島か沖縄方面へ転 属させよ」と内命したという。 当時、大正時代に徴兵検査を受けた”老兵”は一人も召集されていなかったのだ。 こんな常識的すぎる報道さえ、軍の意向にさからうことが、いかに困難であり、いかに おそろしい結果を招いたかという一つの具体例である。 どうして国民は戦争に反対できなかったのか ・国民教化運動は、日中全面戦争の始まる直前の1937年4月、その運動方針を確立し、 6月頃から「林銑十郎」内閣の下に実施に着手した。 ・国民教化運動は日中戦争が始まると、「国民精神総動員運動」(略称:精動)に席を譲 ることになる。 この”精動”というのは、日中開戦一ヵ月くらい前に、近衛内閣が要綱を決定し、9月の 政府主導の「精動大演説会」の開催から発足した。 「挙国一致・尽忠報国・堅忍持久」を三大スローガンとし、内務大臣と文部大臣の指導 の下に「精動中央連盟」が各種団体を糾合して結成された。 ・内務省は、部落会、隣保班、町内会、隣組を整備強化し、精動の末端組織として活用し たが、1940年には、一応民間団体の形式をとっていた精動中央連盟を廃止し、首相 を本部長とする「精動中央本部」を新設し直接政府が乗り出すことになった。 ・内務省の管理の下に事実上警察と町村役場が指導した精動は、国民の自発的意欲を引く 出すに至らず、1940年秋には、第二次近衛内閣の下に創立された「大政翼賛会」の 新体制運動に引き継がれた。 ・しかし精動に始まった国民に対する”指導””干渉”は戦争の進展とともに深まった。 ラジオは年中”偉い人”のお説教を放送し、軟弱な歌は追放され「国民歌謡」や「国民唱 歌」が選定されて毎日ラジオから流された。 国民歌謡の第一回は「日本よい国」であった。国民唱歌は「海ゆかば」である。 ・駅頭ではエプロンにたすきがけの「国防婦人会」を見かけることが多くなったし、男に は”国民服”と称する軍属が軍夫のような不格好な”制服”が場所によっては半ば強制され 始め、女性のモンペ姿はまだ先のことだが「贅沢は敵だ」「パーマネントはやめましょ う」などというポスターがあちこちにはられた。 ・「挙国一致」「一億一心」が国民的スローガンであるから、いやしくも国の政策に反対 したり、批判したりすることが許されるはずはない。 万一、ちょっとでもそれに近いようなことをしたり言ったりしたら、隣り近所から”要 注意人物”として村八分的のけ者にされるであろうし、警察に”非国民”として密告され る危険性も大きい。 密告する者は悪いことをしているつもりは全くなく、立派に”国民としての義務”を果 たしている”愛国者”を自任しているのであって、そういう”愛国者”は非常に多く存 在したのであるから、人々は沈黙を守るより他はなかった。 いったい政治家、官僚は、なにをしていたのか ・戦争は最大の外交なのであるから、軍人に対する非難はほとんどそのまま外交官に向け られねばなるまい。 外交官は戦前には内務省、大蔵省とならんで自他ともに官僚中の骰俊英をもって任じて いたもので、外国に対する情報、国際情勢の分析は彼らの最大の仕事であり、もっとも 得意としたはずである。 ・だが外務省はこの期待を完全に裏切った。 満州事変以来敗戦にいたる14年間に19人の外務大臣がその任にあったが、軍の無法 な行為を阻止するために身を挺した、あるいは職を賭した者はただ一人も存在せず、 「陸軍省外務局」あるいは「害務省」の蔑称に甘んじてきた。 ・「松岡洋右」は、在野中は天皇機関説撲滅有志大会に名をつらね、外相となってからは 三国同盟を推進したり、対ソ攻撃やシンガポール攻略を主張したりした八方破れの行動 で陸軍をさえ当惑させたほどであった。 ・「広田弘毅」が組閣するにあたっては、陸軍省の武藤軍務局長が組閣本部にのりこんで きて閣僚千項も縦横に干渉し、広田は唯々諾々とそれに従った。 そして彼は総理となると、軍部大臣現役性廃止という先人たちの苦心の末の成果をいと も簡単に復活させて、軍の独走に決定的武器を与えてしまった。 また彼は、第一次近衛内閣の外相として、参謀本部の反対にもかかわらず、駐中国ドイ ツ大使トラウトマンのあっせん案を拒絶し、「国民政府を相手にせず」という非常識な 近衛声明を発表して、泥沼の長期戦への第一歩を踏み出している。 ・今次大戦の発端になった満州事変直後、1932年に外務大臣に就任した「内田康哉」 は、当時国際連盟の意向を無視して、日本の傀儡政権である満州国を承認するか否かが、 やかましく論じられていた際、帝国議会におかれ外交演説に対する「森恪」の質問に対 し次のように答えた。 「この問題(満州国の承認)についてはいわゆる挙国一致、国を焦土にしてもこの主張 を徹することにおいては、一歩も譲らないという決心を持っているといわねばならない のであります」 ・平和のうちに、国民、国土の安全をいかに保つかというのが外交官の本務であるべきだ と思うのだが、国土を焦土と化しても敢行しなければならないような外交政策がこの世 に存在するのであろうか。 ・彼は(内田康哉)は駐米大使や本省の総務長官を歴任した、外務省としてもエリート中 のエリートということができる。 だが仕事の上で有能とか無能とかいうのは、ペーパー・テストとはちがい、全人格の動 員によってはじめて判断できることであり、彼は外交官という名に値するのか否か疑問 だといわれてもしかたあるまい。 満州国建設にはじまった日本の国債的孤立は、内田が広言したとおり、それから13年 後、日本を文字どおり焦土と化して終わったのである。 ・戦時内閣の外務大臣・「東郷茂徳」は、なお戦争を続行しようとする軍を相手に、強硬 に和平を主張し、ポツダム宣言受諾にもっていった人物として評価はかなり高いようで ある。 ほとんどまともな”大人の常識も理解力”も有しない軍人、ことに陸軍を向こうにまわし、 和平を実現した彼の努力と不退転の決意は国民の一人として感謝に耐えぬところだし、 深く敬意を表したいが、その東郷にしてもその言動には納得しかねることが少なくない。 ・東郷は開戦時の外務大臣でもあったのであり、かれが就任した10月では、開戦を阻止 することは、もはや万事手遅れであったことは十分同情できるが、次のようなに書いて いるのは弁解にもなるまい。 「戦後は、勝味のない戦争をなぜやったのかというが、・・・戦争につき見通しをつけ 得る唯一の機関であった軍部は、戦争には負けませぬとの見通しを有していたことは忘 れてはならぬ」 ・1937年夏の支那事変勃発に際し、陸軍は三ヵ月でかたづくと言ったが、それ以来、 一つとして陸軍が予定していたことが実現したことがないのを東郷は知らぬわけではあ るまい。 天皇でさえ「軍のいったところはしばしば事実に反し、必勝の算ありといっても信じが たし」と述べている。 東郷の「軍を信用するよりしかたなかった」などという弁明は絶対に成り立たないはず である。 ・さらにいえば、国際情勢を把握するのが任務である外務大臣として、東郷には決定的に 欠けていることがある。それは独ソ戦の推移である。 ・日本の対米英戦争がドイツの勝利を前提にしていたことは、ここであらためて述べるま でもないだろう。 だが肝心の独ソ戦争の戦況は日米交渉の切迫につれて一路ドイツの不利な状況へと展開 していたのである。 アメリカが事実上日米開戦を決意したというべきハル・ノートを日本側に手交した二日 後の11月9日、ハル国務長官はハリファックス英大使に対し、「日本政府が冷静であ ったら、独陸軍が冬までにソビエトから駆逐されるかどうか、もう30日待ってみるで あろうに・・・」と語ったといわれる。 日本の開戦決定にあたって、この点がまったく考慮のほかにあったように見受けられる のは、これまた不思議なことで、同じ言葉ばかりを使わざるを得ないが、軍および外務 省の中枢にいた者の無能を示す一例であろう。 30日間を待たずとも真珠湾攻撃直前の時点でドイツ軍の対ソ攻撃はすでに挫折してい るのである。 日本の開戦は、戦争の大前提が崩れたときからはじまったのであるから、開戦と同時に 敗戦は決まっていたようなものともいえよう。 ・戦争末期に、ソ連に対し米英との仲介を依頼するという東郷の外交手段もずいぶんまが ぬけてみえる。 そでのこの年の2月、ヤルタ会談で対日戦への参戦を約束していたソ連は4月には日ソ 中立条約の不延長を通告し、日本側の要望による広田・マルク(駐日大使)会談をいい 加減にあしらっており、ソ連の対日態度はあきらかなはずであった。 ・遠く幕末からロシアと日本は年来の宿敵であって、1944年11月の革命記念日には、 スターリン書記長は日本を侵略国として非難しており、ソ連は、日本が窮地におちいっ ているいまこそ、東方の問題を解決しておこうと考えるであろうことは素人でも充分予 想がつくことであろう。しかもスターリンは米英中首脳とポツダムで会談している最中 である。 そのときにあたって東郷外相は近衛特使のソ連派遣を計画し、しかもその任務や提案を 具体的に示すことなく、ひたすら特使を受け入れるようソ連政府を説得せよと、在モス クワの「佐藤尚武」大使を督励している。 ・1930年、ロンドン条約調印にあたり、軍備制限に関し政府と海軍との衝突が起こっ たとき、政友会の「犬養毅」や「鳩山一郎」は、筋の通らない統帥部の肩をもって政府 の統帥権の干犯であるとはげしく攻撃した。 その結果、統帥権の範囲を拡大するきっかけを与えるとともに右翼を活気づかせ、リン ドン条約を指示した浜口首相、岡田、鈴木両海軍大将がテロの対象となる結果を招いた。 ・天皇機関説問題では、ほとんどの議員が本来機関説に賛成であったにもかかわらず、強 硬な軍の姿勢を見ると一斉に美濃部批判に転じ、「国体明徴決議案」を可決した。 明治憲法を最大限民主的に解釈することによって議会政治への道を開いた美濃部学説は 葬り去れて、政党は自ら議会政治の墓穴を掘ったのである。 ・とくに政友会は、単独でも機関説排撃の声明を出したり、国体明徴対策委員会をつくり、 煮え切らぬ政府を鞭撻したのである。 当時の内務大臣「後藤文夫」は戦後、政友会の動きは「機関説を倒閣運動に利用したも のだ」と述べており、政友会がこの問題を取り上げさえしなかったら、問題はずっと小 さく終わったともいわれる。 ・1940年春、ドイツのいわゆる電撃作戦によってフランスが降伏したとき、勇みたっ たのは軍部ばかりではなかった。 政友会中島派は「いまや世界の旧秩序は終焉せしめられんとしている。帝国はこの際、 敢然と起ち・・・特に南方問題の根本的解決を期し、新秩序建設に邁進すべきである」 と声明し、それを政府の首脳に手交した。 ・のちに東条をを批判し憲兵隊に逮捕され、釈放後自決した「中野正剛」を会長とする東 方会も「三国同盟の理想を高調して仏印(仏領インドシナ)を保障占領せんことを要望 す」と決議した。 ・戦時中の政治家について語るなら、近衛文麿について触れねばなるまい。 国民を悲惨な敗戦への道へ一路追いこんだ日中全面戦争の開始も、既成政党を解散させ、 軍国主義的国内体制を確立しようとした新体制運動も、日米開戦を不可避にした日独伊 三国同盟の締結も、そして日米開戦の決定にも、近衛はつねに最高指導者、首相の地位 にあった。 彼の無定見、無教養、そして何よりも無節操、無信念はいくら責められてもたりること はないだろう。 ・しかし、近衛に似たような無責任、無節操な政治家はいくらでもいた。 むしろあの時代、何らかの顕職にあった者は全員がそうだったと考えてもいいだろう。 ・1941年6月、ドイツの対ソ侵攻が始まり、日本陸軍も対ソ作戦準備を開始したころ、 枢密院議長・「原嘉道」はだれよりも熱心に対ソ主戦論を強調し、このことは陸軍省、 参謀本部の幹部たちの意をおおいに強くさせたという。 原は弁護士を長い間やり中央大学学長などもつとめ、枢密院にはいった、いわば民間出 身者である。 ・1941年11月の大本営政府連絡会議では、「交渉不成立の場合、開戦の決意をなす」 という重大決定をしたのだが、会議の構成員である大蔵大臣・「賀屋興宣」は会議に先 だち東条首相に対し、「多数者の意見に同意する」旨伝えている。 「自分には格別意見はない」ということをいっているのだ。 彼は大蔵省官僚の俊秀であるが、戦争開始の可否を決定する国家の超重大事に際し、 「意見なし」とは”俊秀”どころか愚鈍というよりほかはあるまい。 ・終戦決定に際しての、若干の文官出身大臣たちの態度もまた記憶しておく必要があろう。 絶望的状況下の8月13日のポツダム宣言の諾否を決定する閣議において、内右大臣・ 「安倍源基」、司法大臣・「松阪広政」は阿南陸軍大臣とともに戦争継続を主張してい るのである。 あの一片の”理性なき陸軍”といっしょになって、継戦を主張する彼ら二人の大臣の頭脳 構造は理解しがたいことである。 ・6月8日の御前会議に出席した石黒農相は、本年度の米は早期出荷をしても現在の配給 量維持は困難、今年は麦作も不良、配給最低量を破ることを一日も早く国民に知らせた いが、民心の動向、戦意の昂揚に注意せねばならぬから、自分だけでは決めかねる、と 事態の深刻さを説明し、「別紙」には、次のように書いている 「生理的必要最小限度の塩分をようやき摂取し得る程度となるを覚悟せざるべからず、 局地的には飢餓状態を現出する恐れあり。治安上楽観を許さず」 ところが、あとの方に出てくる発言要旨はまったく逆なことを述べている。 「我が国土の16%にすぎざる農地は能く我国民の9割を養うております。 国土の84%の未開の山野は之れ実に父祖が今日の為に保存せる資源とも見るべきであ り、吾ら国民は時局下、食糧自給の余地なきを嘆ずる前、すべからく開発進取の意気に 自奮すべきであります」 ・最初の絶望的見通しは、農商務省の担当官が書いたものを読み上げた”実情”であろう。 そしてあとの楽観的な見通しは、文の調子からみても、質疑応答の中で石黒自身がその 場で考えついた意見と思われる。 来年どころか、来月、いや明日の食糧をどうするかという絶望的窮迫を前に、「未開の 原野を開拓するならばなんとかなる」というのは驚きいった発言である。 ”農政の神様”とかいう尊称を奉られていた「石黒忠篤」のこの説明は、戦争を続行しよ うという軍の固い意思に反する発言はするまいという”小役人根性”まるだしのように思 われる。 彼は国家が崩壊することも、大量の国民が餓死に追い込まれることも眼中になかったの であろうか。 彼にはただただ、軍の権力に逆らう発言は控えようとする自己保身の一念しかなかった としか考えられない。 ・軍人は本来、政治、経済、国際問題等にはまったくの素人である。 海軍大将の米内光政が東条首相の後任として打診されたとき、 「元来軍人は片輪の教育を受けているので、それだからこそ強いのだと信じている。し たがって政治には不向きだと思う」 と辞退した。 ・陸軍の最高学府である陸軍大学校について陸上自衛隊幹部学校教官・「浅野祐吾」は 「戦争理論や戦争指導に関する陸大の教育、訓練は全体的に見て、概して低調であった といわざるをえない」 と述懐している。 ・陸大校長、総力戦研究所長、第二方面司令官等を歴任した陸軍中将・「飯村穣」はもっ と手きびしく、 「陸大で教えたものは戦術などという高等なものではなく、たんなる対ソ戦法であった」 「わが国では、私のように陸大を卒業すれば、ただちに(陸大の)兵学教官になれたの である」 と述べている。 ・その軍人たちが、首相以下各省大臣のいくとものポストについただけでなく、企画院、 情報局、興亜院(対中国政策の中枢)その他各省庁に出向して枢要な部署を占め、首相 に次ぐ高い地位の朝鮮、台湾総督を専有し、各種団体、国策会社等にも多数天下ってい た。 政治のみならず行政や経営にまで、専門知識も経験もない軍人たちが進出していたわけ である。 ・政治家がいい加減な態度では、命がけで戦わねばならない軍人はたまったものではない ことはたしかだ。 その軍隊を統括する中枢部にいた軍人たちの多くも、命がけで、少なくともそれに近い 覚悟で政治や行政に当たっているものと想像される。 世の中の苦労を知らぬ近衛や木戸の華族出身者はもとより、生半可な気持ちで政治をや っているものは、軍人の迫力にはとてもかなうまい。 このことはおそらく軍人と官僚の関係についてもいえることであろう。 ・戦時中の外務官僚で今日なお評価に値するのは、例のリトアニア共和国のカウナス領事 館の領事代理・「杉原千畝」が、本省の訓令に反しユダヤ人に査証を発給し、6千人も の人命を救い、職を免ぜられたという”美談”と、あまり一般には知られていないが、 「桑原鶴」という人物くらいのものであろう。 桑原は、1936年、日独防共協定締結に反対し、この協定が対米英戦争に至る恐れあ りとして堀内外務次官に建白書を提出した。 それが軽く無視されると、桑原は勲賞および官等昇進を辞退することにより固い意志を 示し、真珠湾以後もしきりに早期講和論を主張し、ふたたび建白書を松本次官に差し出 して、「一事務官として身分不相応」と叱責された。 しかし彼は、字母の意思を実現すべく、少数だがこれをタイプ印刷して知己に配布し、 それは重臣の手にも渡ったという。 そして、大戦終了とともに、彼はその先見の明と断乎たる姿勢を守りつづけたことを誇 るべきなのに、みずから外務省を去ったのである。 大局をみる目も判断力も欠く時局便乗者ばかりの外務官僚の中では、稀有の存在といえ よう。 ・世の中の態勢が一度そうなってしまうと、もうだれもそれに立ち向かうものはなくなり、 大勢に流される、長いものには巻かれるというのが日本人の、いまも昔も変わらぬ特性 だが、あの時代を説明するのに、それだけではなお少し説得力欠けるように思われる。 おそらく、大勢に反する言動や軍部の意向にそわない自説を主張することは、テロを招 く危険性が非常に大きかったことも、その理由の一つに数えねばなるまい。 ・天皇機関説問題では、美濃部達吉には護衛の警察官がついていたにもかかわらず、自宅 で右翼の青年に襲われて重傷を負った。 貴族院における美濃部の釈明演説に拍手を送っただけでも、右翼方面からの暴力行為の おそれがあるとして、その議員には警察官の護衛がついたという。 衆議院で美濃部を支持するような発言をした「芦田均」の私宅には右翼が押しかけてい る。 ・大正時代にも、”平民宰相”といわれた「原敬」は外交の基礎を対米協調、対中国不干渉 に転換し刺殺されているし、政治家ではないが、外務省政務局長・「阿部守太郎」は中 国不干渉政策をリードし、これも暗殺された。 ・米内海相の暗殺計画は、陸軍が推進する日独伊三国同盟に強く反対していたことによる もので、同じく三国同盟反対の山本五十六次官も、斬奸状を送りつけられ、三国同盟の 推進を叫ぶ右翼の暗殺の対象であったという。 現役の海軍大・中将である米内光政や山本五十六まで命をねらわれるのだから、自説を 堅持しようとする政治家は、つねに生命の危険を覚悟しなければならなかったのである。 ・昭和初期、文相、書記官長、政友会幹事長などを歴任した「鳩山一郎」は戦後行われた 天皇機関説問題に関する座談会に出席した際、「知らない」「知らない」を連発し、あ まり立派な態度とは言えなかったが、彼が強調したことは「軍人と右翼が日本を滅ぼし た」という一点につきる。 ・満州事変以来太平洋戦争にいたる10年間の日本の政治は、表では陸軍の威圧、裏面で は右翼のテロの威迫によって、破局への途を一路たどったといえることは確かであろう。 ・この両者、陸軍と右翼の共通点はなんであろうか。 それは”天皇神聖”の信仰である。 ・美濃部学説が貴族院で問題になったとき、最初のうちは政友会の代議士はみな笑ってい たし、一部では「あんな馬鹿げたことを今ごろ」といっていたという。 それがのちにはみんな美濃部攻撃に転じたのである。 もともと政府の閣僚たちの多くは天皇機関説排撃論に賛成していなかったにかかわらず、 それが”天皇”に関することであるため、排撃論に正面から反対できなかったのである。 いったい学者、評論家たちはなんといっていたのか ・この章で徹底的に糾明するのは、しかるべき教養を持ちながら、ただの人間を”神”だ といいはり、日本は尊厳なる国体を持つ”万邦無比”のありがたい国であり、この戦争 は”聖戦”であって必ず勝つと主張し、日本人は天皇のために生き、天皇のために死ぬ のが使命であると、青年を死に追いやった人びとである。 ・いやしくも知識人の代表をもって任じられているこれらの人たちが、そういう道理がわ からないはずはありえない。 絶対にありうべからざることを平然と書き、しゃべり、なりわいとしてきたことはどん なに追及しても足りることはないだろう。 ・皇道とか国体とかいう言葉が出てくると、「日本は特別な国だ」「神国だ」「天皇はお それ多い現人神だ」というようなことをいおうとしていることだけはわかるが、合理的 近代精神の持ち主にはほとんど理解不能である。 ・「生きている兵隊」は南京攻略作戦に従軍した石川達三が直接見聞きしたことをもとに 書いた小説であるが、発売後に発禁処分となり、彼と関係者が処罰された。 発禁処分になったのは1938年2月の支那事変がはじまって半年ほどしかたっていな いときである。 この小説はかなりリアルに日本軍の惨虐行為を描写しているが、そのことが罪だといわ れては、戦争の実相を書くことはできないということになる。 事実、戦争中に発刊された戦争文学は、程度にいくらかの差はあっても、日本の軍隊は つねに忠勇武烈であり、滅私奉公の精神のみなぎった正義の軍隊であり、他方、敵はお ろかしく悪逆な人間たちの集団として描写されている。 ・谷崎純一郎の「細雪」は緊迫した戦争下に似つかわしくない軟弱で個人主義的な小説と いうことで、中央公論の連載は二ヵ月間で中止させられた。 ・大量の文壇人が軍によって徴用され各方面の戦線に送られた。 戦場や占領地の状況について、新聞記者とはまたちがう目で、”銃後”の国民に知らせる のが目的である。 もちろん現状を書くということはできるはずもなく、二、三人の人が現地の風物などに 叙述を限定するという最低限の良心を示したほかは、大部分の人たちが軍の意向どおり、 現実とはまったく異なる手記や小説を書いて、国民を鼓舞激動したことはいうまでもな い。 ・派遣された地域によって差はあるし、戦闘に巻き込まれて苦労した者もいるが、彼らは 中堅将校の待遇であったから、長剣を左腰にぶらさげ、概していえばふんぞり返って当 番兵を使いまくり、得意気に振舞っていたという。 「地位が人間をかくも変えるものか」というなげきを記している者もいる。 ・もちろん国内においても「文学報国会」の幹部として、あるいは軍と特別の関係を背景 に同業者に威張りちらしていた者も少なくない。 戦後、”進歩的文化人”として知られる「中野好夫」、「中島健蔵」らは、戦時中も、 ”軍のお抱え学者”として、戦後同様おおいに活躍したという。 ・小説家・評論家として知られる「今日出海」は、戦後の初代の文化庁長官や国際交流基 金の理事長もながくやり、社交的な教養人として知られている。 彼には「日本の華族制度」という著書があるが、その著書は、一言にして評すれば、内 容がお粗末であるだけでなく、はなはだ反動的、封建的色彩の濃い著述である。 彼は「日本の家族が少なくとも秩序と美を持っていた時代は封建時代であろう」と、中 世の”家の秩序をたたえ、武士階級のなかの縦の秩序、更には庶民階級を庶民階級たら しめる拘束力の強い道徳を称揚する。 そして、これは「支配階級の圧迫禁令によって作られたのではなく、庶民階級の自然的 義務の要請に基づくものである」と断定している。 この文章からは、家族内における女子の隷属的地位や士農工商の身分差の継続が望まし いと彼は主張しているように認められる。 要するに彼は近代市民社会を否定しているわけで、これがフランスに留学し、フランス 文学を専攻して、近代社会に直接触れてきた人間の著作かと疑いたくなる また、文化国家、民主主義国家を標榜する日本の文化庁長官だというのだから、首をか しげたくなるのは当然だろう。 ・彼の”封建道徳の薦め”は次のように、やはり天皇へと指向する。 「日本人の憧れは皇室の家族制度の小さな一環となることである。日本の家族の純乎と してまた完璧な典型は皇室に於いて見られる」 ・「大宅荘一」が1952年講和条約直後に「こういった面に関する発言が再び失われて しまうことにならぬ前に」と出版した「実録・天皇記」では、 「皇室には骨肉の争いが絶え間なく続き、皇統はしばしば危機に瀕している。五代も六 代も前の皇族をどこからか見つけて来て皇位に就かせようとしたことが何度もあったけ れど、迎えの使者が来てもたいていは逃げ隠れてこれを受けなかった。うっかり皇位に 就くと命が危ないというので敬遠したのである。 皇室の系譜を見ると「生母不詳」というのが随所に出てくる。”腹は借りもの”という男 系中心社会では、えてしてこういうことになるのであるが・・・西暦781年に即位し た第五十代「桓武天皇」には皇后、夫人、女御、侍妾計25人がいて35人の子供が生 まれている。五十五代の「文徳天皇」は最低15人、子供30人、五十八代「光孝天皇」 は侍妾の数は不詳で子供が45人・・・」 ・大宅壮一も指摘しているように、皇帝性というものの「一番大きな使命は皇室そのもの を存続させることである」。 したがって次代に「その”血”を伝えるための器としての女」を多数かかえて、その可能 性を確保しようとするのは、いずれの国の皇帝でも同じであって、中国の”後宮の佳麗 三千人”とかサルタン(イスラム教の王)のハーレムの数百人の女性に比べれば、日本 の天皇はむしろ少ないくらいだろう。彼は「天皇のなかには幾人かの狂人もいた。ごく 最近もいたことは日本人なら誰でも知っている」とも書いている。 ・このような家庭の皇室が、今日出海のいうように「日本の家族制度の純乎として、また 完全な典型」なのであろうか。 私は天皇制を批判するにあたって、こんな卑俗なことに言及するつもりはまったくなか った。 だが今日出海が「皇室は日本の家族制度の純乎として、また完全な典型」などとほとん ど”たわごと”に近い言葉を吐くからには、これを反駁するために最小限のことはかかざ るをえなくなったのである。 議論の行きつくところ ・この戦争の責任はどこにあるのか。誰がいったいこんな馬鹿な戦争を始めたのか。 ・今次大戦における日本国民の犠牲は、戦場に斃れた240万の青年だけではない。 数十万の身体障碍者も戦争のために生じた。 夫を失った100万の若い妻。 父親を奪われた数百万の幼い子供。 我が子を捧げた老いたる数百万の両親は悲しみの底に投じられた。 100万の虚しく老いた老嬢は戦争のために苦難の人生を歩まねばならなかった。 80万の無辜の民が外地や内地で敵の銃弾のため、また爆撃のため殺され、あるいは敵 兵のため凌辱され虐殺された。 350万の海外在留者はその住居を追われ、全財産をリュックサック一つに託して引き 揚げされられた。 1000万をこえる人々は家を焼かれ路頭に迷わされた。 例をあげていけばきりもないが、彼らはみな日本が起こした戦争のためにその生命を失 い、生活を奪われ、塗炭の苦しみを味わされたのである。 ・これらの惨憺たる犠牲の責任はいったいどこにあるのか。 敗戦直後の「東久邇宮」首相 が「一億総ざんげ」などと、戦争の責任をくらますよう なことを言いだして以来、戦争責任の追及はいつしか色あせてしまった。 日本国家の一員として、国民が対外的責任の一端を負わなければならないのはもとより だが、国内的には、加害者と被害者、決定的に重大な責任を負うものと、無知という責 任程度しかない者の差は明白であって、この両者が”一緒になってざんげする”などとい うばかげたことがどこにあろうか。 ・日本における戦争責任論は、せいぜいのところ、すべてを、すでに消失してしまって反 論のできない軍に押しつけ、「戦争を始めたのは軍が悪い」という通俗的見解が一般的 である。 そして真の戦争責任者を追求することは一種のタブーにさえなっているといえよう。 日本における大体のタブーが、天皇あるいは天皇制批判であることを思えば、戦争責任 の追求をあいまい化し、タブー化していること自体、戦争責任の所在がどこであるかを 明示しているともいえるだろう。 ・日本降伏当時、中・英・ソをはじめ、当の米国内の世論を含めて連合国の間には、天皇 の戦争責任を追及し、天皇制廃止の要求が強かったにもかかわらず、占領軍総司令官の マッカーサーが、天皇の存在を占領地統治のために利用したことは周知のことだが、そ れにしても、戦争の最大の責任者たる戦争への追及の声が、日本人の中に少ないのはど うした理由からであろうか。 ・一つには、戦争中と同じく、日本人というものの封建的性格、奴隷根性、未開の段階に あることからくる無思想性、非合理性から来ているのだろう。 そしてこれを批判するべき論客の多くが、批判非難を差し控えているのは、そのような 資格のある論客は、日本にはほとんど存在しなかったからであろう。 天皇批判をうっかりやれば、「戦争中、あなたは何と言っていたのか」と、たちまち反 撃されるおそれがあるからにちがいない。 ・日本人はみずからの歴史を解明する勇気さえ持たず、それをうやむやのうちに葬り去ろ うとしている。 そんないい加減な国民が「自由主義だ」「民主主義だ」、そして「世界の平和」がどう のこうのという資格があるのだろうか。 ・東大総長で戦後一時期、貴族院議員であった「南原繁」は貴族院の本会議場で、言葉は ていねいだが、かなり率直に天皇に対し退位を迫った。 ・東大教授、後の最高裁判所長・「横田喜三郎」も、読売新聞紙上に「天皇退位論」と題 する小論を発表し、天皇の戦争責任を問題にした。 彼は法律上も実際上にも、戦争の最高責任者であった天皇が、民主主義を掲げて再出発 する新日本国家の象徴たるべきでないと主張したのである。 続いて出版した「天皇制」という著書でも、天皇と天皇制をきびしく批判している。 ・元東大教授、戦後は日本放送協会会長にもなった「高野岩三郎」は、敗戦まもないころ、 新憲法議論が盛んな際、天皇制を廃止して共和制憲法を作ることを主張した。 ・横田は満州事変では陸軍を批判したし、彼も南原も高野も、戦争中、軍や皇国思想にお もねることなく沈黙を守ったことが、戦後彼らをして正論をはくことを可能にしたもの と思われる。 ・問題は、あの時代の天皇が、ヒロヒトであろうが、だれであろうがたいして関係はない のであって、責任を問われなければならなにのは、天皇制、厳密に言えば、明治に創設 された近代天皇制そのものなのである。 ・近代天皇制は一言で言えば、てんのうは”現人神”だということ、少なくとも、一般国民 とは、その種を異にするおそれ多き存在だという一点につきる。 明治初期の短期間を除いて、デモクラシーの華開いたとされる大正時代も、自由主義が まだ健在であったと言われる昭和初年にも、日本人は、このことに関して一度もまとも に議論したことがない。 ・”天皇の神聖”という、幼児さえ信ずることのできない迷信について、すべての自由主義 者、あらゆる知識人はこれを批判したことがないのである。 ここに、天皇をかついだ軍と右翼の”信仰”というか、”信念”というか、バカバカしい狂 信の前に昭和の自由主義が簡単に崩壊した理由がある。 ・「天皇現人神」論への批判を一度躊躇すると、そのおそれ多き天皇が親卒し給う陸海軍 を徹底的に批判することはできなくなる。 肇国の精神、八紘一宇の顕現たる”聖戦”には反対できなくなる。 万世一系、万邦無比の神聖なる天皇の御戦が負けるというようなことはありえない。 という”立て前論”に反撃できなくなる。 ・こうして、一億の国民はすべて口をつぐみ、考えることをやめ、あるいは一種の発狂状 態となり戦争に突入し、破滅にいたるまで、これを継続するよりほかはなくなったので ある。 ・日本のようにタブーのある国が、あるいは特権階級のある国が、民主主義国などと称す るのは、言論、思想の自由の存在しない中国そして北朝鮮が、”人民民主主義国”と名乗 るのと同様に滑稽であろう。 ・現在の日本の各方面に見られる封建的残滓は目をおおわしめるものがある。 政治家の30%以上は二代目、三代目だとのことだが、今回の選挙法の改正による小選 挙区となれば、それはより強化されると言われている。 莫大な個人収入を伴う私益団体が公益団体として認められ、その最高権力者の地位は平 然と世襲されていて、しかもほとんど社会の糺弾を受けることもない。 日本という国はこんなに遅れた国なのである。 世襲制こそ封建制度そのものであり、「門閥制度は親の仇でござる」と「福沢諭吉」が もう百年以上も前にいったことが、日本ではむしろ逆行しつつあるのだ。 ・天皇制廃止とともに、同一選挙区からの世襲代議士の立候補の禁止、公的団体はもとよ り、私的事業も公的な存在といえるほどの規模に拡大した企業の役員の世襲も制限され なければならない。 その他、日本のあらゆる部面に残っている封建的なものを、天皇制の廃止とともに徹底 的に一掃し機会均等を常に確保し再生産する社会を実現したならば、天皇制廃止は生々 たる新日本の新しき門出となるであろう。 ・いまの日本では、「天皇制に対する批判」は、投獄や死刑を招くおそれのないことはい うまでもない。 しかし、天皇崇拝という”おとぎ話”に類することに関しての批判や非難が、おおぴら に行われていないことも周知の事実であろうし、言論機関、言論人がこのことに触れる のを避けているのも疑いない。 日本社会の性格は、いまなお大正時代と基本的には変わっていないのである。 ・日本にわけのわからぬ新興宗教がはびこるという社会現象も、天皇制を存続させている 国民の文明度から来ているものと思われる。 というのは、生きている普通の人間を、”尊い”とか”特別の存在”と考える民衆は、新興 宗教の教祖にとっては最上の土壌だからだ。 ・天皇制が廃止された日こそ、日本にはじめて真の自由とデモクラシーが訪れ、合理的精 神が日本国民の中に確率するときなのである。 ・「天皇制は日本民族の文化であり伝統だから」という天皇制擁護論もあるようだ。 しかし「文化であり伝統だから守らなければならない」というのなら、若い娘をいけに えに供することがその民族の文化であることもあった。人肉を食べることが伝統の種族 もあった。それらも「伝統だから、文化だから守らねばならない」というのであろうか。 「伝統だから」とか「文化だから」という擁護論は意味をなさないのであって、普遍的 な価値、客観的論理を以てしなければ議論にならないのである。 ・”皇室外交”というものの有用性について論ずる者もいるようだ。 だが世界中もう王室はいくらも残っていないのであって、まして日本のように仰々しい 王室はタイか中東のイスラム圏にでも行かなければお目にかかれまい。 ・それに、日本の皇室の人を迎える国の関係者にとっては、”常人”ならぬ”貴人”と称する 人を重々しく取り扱わねばならないことは、すべての人間は平等という大前提に立って いる彼らにしてみれば、はなはだ面倒で迷惑なことだし、日本の皇室の随員たちがいん ぎん丁重にふるまっていることも、外国人にとっては、こっけいでしかあるまい。 ・いずれにしても、皇室外交とかいって、日本の皇室関係の人が、世界中を用もないのに、 うろうろすることは、国費の乱費などという段階ではなく、未開野蛮という、あるいは、 ”異様な国・日本”というマイナス・イメージを世界中にふりまいているようなものであ る。 ・皇室制度というものは、何十年間にもわたり、”お芝居”を続けなければならない当の本 人たちにとっても、まことに気の毒だということができる。 ・たしかに明治時代、民族意識も希薄であり、知識水準も低かった日本国民をすみやかに 統合して、帝国主義がもっとも激烈な時代の国際社会に対応するためには、天皇制が必 要であったとしても、現在なおそれが必要だというのは、大正以降の天皇制の、日本国 民、更には外国の民に加えた暴虐な歴史にまったく学ばないものであり、また、日本国 民をはなはだしく侮辱するものである。 民度によって有用ともなり、無価値あるいは有害ともなるのは当然のことであろう。 ・戦後半世紀もたっているのに、日本はいまだに、日本の侵略戦争による被害国から、教 科書の内容まで干渉され、自衛隊の海外派遣にも気をつかい、なにかきっかけさえあれ ば謝罪を要求され、補償を求められている。 ・恨みはなにもアジア諸国だけでなく、昭和天皇がヨーロッパ諸国を旅行したとき、各国 とも新聞は厳しい社説を掲げ、あるいは黙殺し、民衆は罵声をあげ、ビンを投じたこと は、されだけ集めた記録でも、優に一冊の本になっているほどの量だ。 昭和天皇の死去の際における海外の報道のしんらつさも同様である。 ・ナチスを徹底的に糾弾し一掃したドイツでは、もはやそういうことがまったくおこって いないことは対照的で、まして、ドイツと日本のやったことを比較すれば、ドイツの方 がはるかに残虐であったにもかかわらず、である。 ・マスコミは日本の戦争責任によっておこってくる事件をしばしば報道するが、その根本 理由がどこにあるのかを究明しないように見受けられる。 この問題の解答は簡単なはずであって、日本がドイツの場合と異なり、みずから戦争責 任を追及していないからであることはあまりにもあきらかであろう。 ”戦後処理”という言葉もよく聞くが、天皇制の問題を度外視したところで、戦後処理 を論ずることは、ごかまし以外のなにものでもない。 ・日本は戦争の最高責任者である天皇をそのまま在位させてきたし、戦争を推進してきた 天皇制機構を、形は変えながらも残存させている。 天皇に責任がないという論理がまかりとおるなら、あらゆる組織に責任なるものは存在 しなくなるだろう。 ・日本の現状は、戦争被害国の国民からしてみれば、ヒトラーの子供が権力はなくなった とはいえ、国民の象徴とかいう地位に留まり、国民の尊敬を受けているのと同じような 印象であろう。 これでは彼らが、日本は戦争についてなんら反省していないと思うのは当然なことであ る。 ・日本人は自分のしたことも、されたこともすぐ忘れてしまう健忘症の国民である。 たとえば、日ソ中立条約を公然と侵犯し、国際法に違反して日本兵捕虜60万に戦後数 年間、長きは11年間にわたり奴隷労働を強要し、さらには満州、北朝鮮などで百数十 万の一般在留民を殺害、暴行、略奪、餓死、婦女暴行の地獄におとしいれ、その二十数 万人を死にいたらしめた国を、日本の進歩的文化人なるものは「人道と平和の砦」など と何十年間にわたり賛美し続けたわけだが、それを黙って聞いていたほど、日本人とい うのは人のよい、あるいはまのぬけた国民なのである。 ・だが、よその国民も日本人のように忘れっぽいと考えてはならない。 日本が天皇制をそのまま維持していたなら、被害各国のうらみは今後少なくとも数百年 は続くであろう。 場合によっては、発展途上国がもはや日本の援助を必要としなくなったら、すなわち、 日本の機嫌を取る理由が消滅すれば、それはよけいひどくなるかもしれない。 あるいは、これらの国が経済的にだけでなく、政治的にも社会的にも成熟した後には、 酋長制と同類である王制という古い体質を守り続けている日本は、それだけでも彼らの 軽蔑の的になるだろう。 ・天皇の日本国民への謝罪と贖罪は、日本が侵略した被害国に対しても速やかにはたさね ばならない。 それは天皇制を廃止することである。 ・天皇制廃止は、日本の侵略被害国に対し、真に謝罪したことを意味するのであり、戦争 の責任をとったということになるのである。 微々たる補償金などとは次元の異なる根本的問題なのだ。 それによって日本ははじめて国際社会で名誉ある地位を占めることができるだろう。 ・もし今の天皇が賢明であるなら、自ら天皇制の廃止を主導して、おそまきながら天皇制 の掉尾を飾るべきであるし、”忠節の臣”とかいう者が天皇の側近くに存在するなら、 自己の失職をおそれることなく、毎日のように天皇にそれを進言すべきであろう。 いやしくも日本国のこと、日本民族の将来を思う者は、声を大にして天皇制の廃止を叫 ばなければならないはずのものである。 ・日本国民の知識の向上、日本社会の近代化に伴い、早晩天皇制が消え去ることは疑いな い。 世界中で消滅してきた制度、あるいは消失しつつあるものが、日本にだけ残ると考える のは、戦争中の「皇国史観」「日本だけは特別」という考えと同じ迷妄に過ぎない。 ・日本はおおきな混乱が来る前に、また外国の強圧によらないうちに、そして国際社会の もの笑いにならないうちに、あるいは逆に、そのことが国際社会における日本の名誉の 回復に寄与できるあいだに、内外の情勢が比較的安定している今こそ、天皇制の廃止を 一日も早く実現すべきである。 |