それでも日本人は「戦争」を選んだ :加藤陽子

戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗 [ 加藤陽子 ]
価格:1836円(税込、送料無料) (2019/6/2時点)

戦争を読む [ 加藤陽子(日本近代史) ]
価格:2376円(税込、送料無料) (2019/6/2時点)

とめられなかった戦争 (文春文庫) [ 加藤 陽子 ]
価格:594円(税込、送料無料) (2019/6/2時点)

昭和史裁判 (文春文庫) [ 半藤 一利 ]
価格:745円(税込、送料無料) (2019/6/2時点)

国を滅ぼすタカ派の暴論 ストップ!戦争への道 [ 一本松幹雄 ]
価格:1944円(税込、送料無料) (2019/6/2時点)

日本近代史 (ちくま新書) [ 坂野潤治 ]
価格:1188円(税込、送料無料) (2019/6/2時点)

宮中からみる日本近代史 (ちくま新書) [ 茶谷誠一 ]
価格:842円(税込、送料無料) (2019/6/2時点)

国民国家と戦争 挫折の日本近代史 [ 加藤 聖文 ]
価格:1728円(税込、送料無料) (2019/6/2時点)

日本人の明治観をただす [ 中塚明 ]
価格:2376円(税込、送料無料) (2019/6/2時点)

日清戦争 近代日本初の対外戦争の実像 (中公新書) [ 大谷正 ]
価格:928円(税込、送料無料) (2019/6/2時点)

幕末外交と開国 (講談社学術文庫) [ 加藤 祐三 ]
価格:1036円(税込、送料無料) (2019/6/2時点)

明治維新 (岩波ジュニア新書) [ 田中彰 ]
価格:928円(税込、送料無料) (2019/6/2時点)

からゆきさん 海外〈出稼ぎ〉女性の近代 [ 嶽本新奈 ]
価格:1836円(税込、送料無料) (2019/6/2時点)

五日市憲法 (岩波新書) [ 新井勝紘 ]
価格:885円(税込、送料無料) (2019/6/2時点)

これだけは知っておきたい日本と韓国・朝鮮の歴史 [ 中塚明 ]
価格:1404円(税込、送料無料) (2019/6/2時点)

日清・日露戦争 (岩波新書) [ 原田敬一 ]
価格:928円(税込、送料無料) (2019/6/2時点)

日本海軍と政治 (講談社現代新書) [ 手嶋 泰伸 ]
価格:864円(税込、送料無料) (2019/6/2時点)

「靖国」と日本の戦争 [ 岩井忠熊 ]
価格:1944円(税込、送料無料) (2019/6/2時点)

日中戦争は中国の侵略で始まった [ 阿羅健一 ]
価格:993円(税込、送料無料) (2019/6/2時点)

日中戦争の全貌 (河出文庫) [ 太平洋戦争研究会 ]
価格:842円(税込、送料無料) (2019/6/2時点)

日中戦争の真実 (幻冬舎ルネッサンス新書) [ 黒田紘一 ]
価格:864円(税込、送料無料) (2019/6/2時点)

加害の歴史向き合う 日中戦争から80年 [ 『週刊金曜日』 ]
価格:1080円(税込、送料無料) (2019/6/2時点)

日中戦争 前線と銃後 (講談社学術文庫) [ 井上 寿一 ]
価格:1090円(税込、送料無料) (2019/6/2時点)

地平線にー日中戦争の現実ー [ 前田隆平 ]
価格:864円(税込、送料無料) (2019/6/2時点)

日本は支那をみくびりたり 日中戦争とは何だったのか [ 纐纈厚 ]
価格:2052円(税込、送料無料) (2019/6/2時点)

毛沢東 日本軍と共謀した男 (新潮新書) [ 遠藤誉 ]
価格:885円(税込、送料無料) (2019/6/2時点)

石原莞爾の世界戦略構想 (祥伝社新書) [ 川田稔 ]
価格:972円(税込、送料無料) (2019/6/2時点)

従軍慰安婦 (岩波新書) [ 吉見義明 ]
価格:907円(税込、送料無料) (2019/6/2時点)

広田弘毅 「悲劇の宰相」の実像 (中公新書) [ 服部龍二 ]
価格:928円(税込、送料無料) (2019/6/2時点)

南京事件 (岩波新書) [ 笠原十九司 ]
価格:907円(税込、送料無料) (2019/6/2時点)

昭和動乱の真相改版 (中公文庫) [ 安倍源基 ]
価格:1512円(税込、送料無料) (2019/6/2時点)

調印の階段 不屈の外交・重光葵 (PHP文芸文庫) [ 植松三十里 ]
価格:842円(税込、送料無料) (2019/6/2時点)

近衛文麿 「運命」の政治家 (岩波新書) [ 岡義武 ]
価格:928円(税込、送料無料) (2019/6/2時点)

太平洋戦争と新聞 (講談社学術文庫) [ 前坂 俊之 ]
価格:1350円(税込、送料無料) (2019/6/2時点)

昭和天皇 「理性の君主」の孤独 (中公新書) [ 古川隆久 ]
価格:1080円(税込、送料無料) (2019/6/2時点)

日本精神研究 [ 大川周明 ]
価格:1188円(税込、送料無料) (2019/6/2時点)

日本の戦争 歴史認識と戦争責任 [ 山田朗 ]
価格:1728円(税込、送料無料) (2019/6/2時点)

昭和史の決定的瞬間 (ちくま新書) [ 坂野潤治 ]
価格:820円(税込、送料無料) (2019/6/2時点)

日中アヘン戦争 (岩波新書) [ 江口圭一 ]
価格:842円(税込、送料無料) (2019/6/2時点)

満州帝国 (河出文庫) [ 太平洋戦争研究会 ]
価格:777円(税込、送料無料) (2019/6/2時点)

日米開戦の正体 なぜ真珠湾攻撃という道を歩んだのか [ 孫崎享 ]
価格:1890円(税込、送料無料) (2019/6/2時点)

理想だらけの戦時下日本 (ちくま新書) [ 井上寿一 ]
価格:907円(税込、送料無料) (2019/6/2時点)

参謀本部と陸軍大学校 (講談社現代新書) [ 黒野 耐 ]
価格:907円(税込、送料無料) (2019/6/2時点)

日本劣化論 (ちくま新書) [ 笠井潔 ]
価格:907円(税込、送料無料) (2019/6/2時点)

大本営 (読みなおす日本史) [ 森松俊夫 ]
価格:2376円(税込、送料無料) (2019/6/2時点)

大東亜戦争の秘密 近衛文麿とそのブレーンたち [ 森嶋雄仁 ]
価格:1620円(税込、送料無料) (2019/6/2時点)

満州事変はなぜ起きたのか (中公選書) [ 筒井清忠 ]
価格:1944円(税込、送料無料) (2019/6/2時点)

石原莞爾と昭和の夢 地ひらく 上 (文春文庫) [ 福田 和也 ]
価格:799円(税込、送料無料) (2019/6/2時点)

永田鉄山 昭和陸軍「運命の男」 (文春新書) [ 早坂 隆 ]
価格:842円(税込、送料無料) (2019/6/2時点)

大東亜戦争の実相 (PHP文庫) [ 瀬島龍三 ]
価格:668円(税込、送料無料) (2019/6/2時点)

大正デモクラシー (岩波新書) [ 成田龍一 ]
価格:928円(税込、送料無料) (2019/6/2時点)

関東軍 (講談社学術文庫) [ 島田 俊彦 ]
価格:972円(税込、送料無料) (2019/6/2時点)

南京事件増補版 「虐殺」の構造 (中公新書) [ 秦郁彦 ]
価格:1015円(税込、送料無料) (2019/6/2時点)

大東亜戦争「失敗の本質」 優位戦思考に学ぶ [ 日下公人 ]
価格:1620円(税込、送料無料) (2019/6/2時点)

テロと陰謀の昭和史 (文春文庫) [ 文藝春秋 ]
価格:788円(税込、送料無料) (2019/6/2時点)

清朝十四王女 川島芳子の生涯 (ウェッジ文庫) [ 林えり子 ]
価格:802円(税込、送料無料) (2019/6/2時点)

国防婦人会 日の丸とカッポウ着 (岩波新書) [ 藤井忠俊 ]
価格:799円(税込、送料無料) (2019/6/2時点)

軍隊というものが、その物理的な圧力でもって政治に介入する。これはあってはならない
ことである。しかし、そのあってはならないことが、絶対に起こらないとは限らない。い
くらシビリアンコントロールと唱えても、政治に干与してはいけない集団が、政治に干与
してしまう危険性は存在し続ける。それは戦前は特殊の時代だった、今の時代は違うとは
言い切れない。政治がなかなか実現できないような政策、しかも多くの人々の要求にかな
っているように見えた政策を実現しようとした場合はどうなるか。
日本は、敗戦末期の1年半の間に9割の戦死者を出し、そしてその9割の戦死者は、遠い
戦場で亡くなった。日本という国は、こうして死んでいった兵士の家族に、彼がどこでい
つ死んだのか教えることができなかった国だった。
安倍首相は「自衛隊の存在を憲法に明記しないと自衛隊員やその家族がかわいそうだ」と、
憲法改正して自衛隊を憲法に明記することに前のめりであるが、そのことが、将来に大き
な禍根を残すことにならないか。過去の教訓がすっかり薄れてしまってる現代においては、
過去にどのようなことが起こって、戦争へと向かったのかを、自衛隊を憲法に明記する前
に、しっかりと総括する必要があるのではないのか。そうしなければ、先の大戦で、国家
の名の下に、死に追いやられていった膨大な人々は浮かばれない。
 
はじめに
・1930年代の教訓とはなにか。二つの点があげられます。一つには、1937年の日
 中戦争の頃まで、当時の国民は、あくまで政党政治を通じた国内の社会民主主義的な改
 革を求めていたということです。二つには、民意が正当に反映されることによって政権
 交代が可能となるような新しい政治システムの創出を当時の国民もまた強く待望してい
 たということです。しかし戦前の政治システムの下で、国民の生活を豊かにするはずの
 社会民主主義的な改革への要求が、既成政党、貴族院、枢密院など多くの壁に阻まれて
 実現できなかった。その結果いかなる事態が起こったのか。 
・社会民主主義的な改革要求は政治システム下では無理だということで、疑似的な改革推
 進者としての軍部への国民の人気が高まっていったのです。陸軍の改革案のなかには、
 自作農創設、工場法の制定、農村金融機関の改善など、項目それ自体はとてもよい社会
 民主主義的な改革項目が盛られていました。
・つまり陸軍であれ海軍であれ、軍という組織は国家としての安全保障を第一に考える組
 織ですから、ソ連との戦争が避けられない、あるいはアメリカとの戦争が必要となれば、
 国民生活の安定のための改革要求などは最初に放棄される運命にありました。
・国民の正統な要求を実現しうるシステムが機能不全に陥ると、国民に、本来見てはなら
 ない夢を疑似的に見せることで国民の支持を獲得しようとする政治勢力が現れないとも
 限らないとの危惧であり教訓です。
・ならば現代における政治システムの機能不全とはいかなる事態をいうのでしょうか。一
 つに、現在の選挙制度からくる桎梏が挙げられます。衆議院議員選挙においては比例代
 表制も併用してはいますが、議席の6割以上は小選挙区から選ばれます。一選挙区ごと
 に一人の当選者を選ぶ小選挙区下では、与党は、国民に人気がないときには解散総選挙
 を行いません。これは2008年から09年にまさに起こったことでしたが、本来なら
 ば国民の支持を失ったときこそ選挙がなされなければならないはずです。しかいそれは
 なされない。
・政治システムの機能不全の二つ目は、小選挙区下においては、投票に熱意を持ち、かつ
 人口的な集団として多数を占める世代の意見が突出して尊重されうるとの点にあります。
 たとえば郵政民営化を一点突破のテーマとして自民党が大勝した05年の選挙では、
 60歳以上の投票率は8わりを超えました。それに対して20歳代の投票率は4割台と
 低迷しました。そうであれば、小選挙区制下にあっては、確実に票をはじきだしてくれ
 る高齢者世代の世論や意見を為政者は絶対に無視できない構造が出来上がっています。
 そのように考えますと、これからの日本の政治は若年層びいきと批判されるくらいでち
 ょうどよいと腹をくくり、若い人々に光をあてていく覚悟がなければ公正には機能しな
 いのではないかと思われるのです。
・自国民、他国民をともに絶望の淵に追いやる戦争の惨禍が繰り返されながらも、戦争は
 きまじめともいうべき相貌をたたえて起こり続けました。

日本近代史を考える
・2001年9月11日、アメリカで起きた同時多発テロの衝撃に接したとき、人々は、
 テロを「かつてなかった戦争」と呼んで、まず、その新しい戦争の形態上の特質、つま
 り「かたり」に注目しました。その新しい「かたち」というのは、旅客機をハイジャッ
 クしたテロリストたちが、アメリカ人にとって象徴的な建物である、ニューヨークのツ
 インタワービルに突入し、宣戦布告なしに多くの非戦闘員を殺害したというものでした。
 敵とするアメリカの内部に入り込み、普通の市民が毎日でも利用する飛行機を使いなが
 ら、生活や勤労の場を奇襲するというやり方です。ここで、とても重要なことは、内部
 から日常生活に密着した場での攻撃を受けたアメリカにとって、このテロは、相手国が
 国を挙げてアメリカに向けて仕掛けてきた戦争というよりは、国内にいる無法者が、な
 んの罪もない善意の市民を皆殺しにした事件であり、ということは、国内権力によって
 鎮圧されてもよい対象とみなされる。
・国と国の戦争であれば、それぞれどうしても戦争にならなければならなかった経緯があ
 ります。それぞれの国が、戦争に訴えなければならなかった正当性を言い張るのはいつ
 の時代も同じことでしたが、9.11の場合におけるアメリカの感覚は、戦争の相手を
 打ち負かすという感覚よりは、国内社会の法を犯した邪悪な犯罪者を取り締まる、とい
 うスタンスだったように思います。そうなると、戦いの相手を、戦争の相手、当事者と
 して認めないような感覚に陥っていくのではないでしょうか。実は、このアメリカの話
 と似たようなことが、かつての日本でも起きていたのです。
・1930年代後半のことで、このとき日本は中国と戦っていました。ものすごく家柄の
 いい近衛文麿という人が首相であったとき、中国の軍事的にも政治的にもトップであっ
 た蒋介石に対してある声明を出すのですが、このとき日本はなんといったか。「国民政
 府を相手とせず」  
・1939年には、中国と戦争をしていた出先の日本軍、名前は中支那派遣軍といったの
 ですが、その軍の心臓部にあたる司令部が、「今、日本が行っているのは戦争ではなく
 て、「報償」なのだ、だからこの軍事行動は国際慣例でも認められているものなのだ」
 と発言していたのです。報償という考え方をわかりやすく説明しますと、相手国が条約
 など、悪いことをした場合、その不法行為をやめさせるため、今度は自らの側が実力行
 使をしていいですよ、という考え方です。中国が日本との条約を守らなかったから、守
 らせるために戦闘行為を行っている、というのが当時の日本軍の言い分でした。これど
 も、当時の国際慣例で認められた「報償」の例は、もっともっと軽い意味のものでした。
 たとえば相手国が条約を守らないといった場合に容認される対抗的な実力行使とは、相
 手国の貨物や船舶を抑留する、留めてしまって困らせるといったことでした。ですから、
 1937年8月から本格化した日中戦争が、報償の概念で認められる範囲の実力行使で
 あったはずはありません。
・近衛首相のブレインであった人々の中にも、日中戦争をとても不思議な表現で呼んでい
 る例が出てきます。彼らはこの戦争を「一種の討匪戦」と見ていました。匪賊、つまり、
 国内で不法行為を働く悪い人々、ギャングの一団のようなイメージ、こうしたグループ
 を討つ、という意味です。
・日中戦争期の日本が、これは戦争ではないとして、戦いの相手を認めない感覚を持って
 いた。ある意味、2001年時点のアメリカと、1937年時点の日本とが、同じ感覚
 で目の前の戦争を見ている。相手が悪いことをしたのだから武力行使をするのは当然で、
 しかもその武力行使を、あたかも警察が悪い人を取り締まるかのような感覚でとらえて
 いた。1930年代の日本、現代のあまりかという、一見、全く異なるはずの国家に共
 通する底の部分が見えてくる。
・アメリカの第16代大統領の演説「人民の、人民による、人民のための」は有名ですが、
 なぜリンカーンはこのとき「人民の、人民による、人民のため」と演説をしなければな
 らなかったのでしょうか。演説の場所は、南北戦争で、多大の犠牲者を出して、ようや
 く北軍が競り勝った場所でした。競り勝ったとはいえ、犠牲はあまりにも多かった。結
 局、南北戦争では4年間にわたる戦いで、全体では62万5千人もの戦傷者が出るわけ
 です。 生き残った北軍兵士や連邦政府の関係者の前で、戦場に倒れた兵士に対して哀
 悼の意を表するとともに、戦争はもう嫌だ、といった厭戦感を払いのける、生き残った
 者こそ、これからの国家建設に従事しなければならないのだ、という気持ちからだった
 でしょう。ヨーロッパから逃れて、せっかく合衆国を建国した祖父の世代を裏切り、国
 を二分した内戦を続けるためには、戦意発揚だけでは不十分だった。この戦いが、最終
 的にはアメリカを再統合するものでなければならないとの理念、つまり最も大切な目標
 を向って国をまとめるのだという意思が必要になってきたのです。このリンカーンの演
 説の背景を考えるとき、戦死者がいかに多かったか。南北戦争で亡くなったのは北軍が
 約7万4千人、南軍が約11万人、合計で約18万人という数字が出ています。内戦が
 深刻化するとこれだけの犠牲者がでるんですね。太平洋戦争の戦場での米軍の戦死者は、
 約9万人です。つまり、南北戦争では、太平洋戦争の戦場で日本軍と戦ったアメリカ軍
 の戦死者の2倍の死者が出た。
・このリンカーンの演説の「人民の、人民による、人民のための」という表現は、実は現
 行憲法のなかにも見出される表現なのです。「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によ
 るものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、
 その福利は国民がこれを享受する」
・日本国憲法を考える場合も、太平洋戦争における犠牲者の数の多さ、日本社会が負った
 傷の深さを考慮に入れることが絶対に必要です。日本国憲法といえば、GHQがつくっ
 たものだ。押し付け憲法だとの議論がすぐに出てきますが、そういうことはむしろ本筋
 ではない。巨大な数の人が死んだ後には、国家には新たな社会契約、すなわち広い意味
 での憲法が必要となるという真理です。リンカーンの演説も日本国憲法も、大きくいえ
 ば、新しい社会契約、つまり国家を成り立たせる基本的な秩序や考え方という部分を、
 広い意味で憲法というのです。
・日本国憲法の「権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福
 利は国民がこれを享受する」にも、こうした強い理念を打ち出さなくてはならなかった。
 深い深い理由が背景にある。太平洋戦争における日本の犠牲者の数は、軍人・軍属。・
 民間人を合わせて約310万人に達しました。
・第一次世界大戦期のヨーロッパ、第二次世界大戦期の世界、これはすべて総力戦下にお
 かれた社会であったといえるでしょう。成年に達しない青少年を徴兵ではなく志願させ
 るため、教育の分野に国家のリクルート(兵員調達)の仕組みが張りめぐらされる。こ
 のような戦いを国家が遂行するためには、労苦をしのぶ国民に対して、「民主主義の国
 をつくるため」というような国家目標が必要になるのはわかるでしょう。国家は、将来
 に対する希望や補償を国民にアピールしないことには、国民を動員し続けられなくなり
 ます。
・国民を国家につなぎとめるには、国家は新たな国家目標の設定が不可欠となってくる。
 その際、大量動員される国民が、戦争遂行を命ずる国家の正当性に疑念を抱くことがな
 いように、戦争目的がまずは明確にされることが多いのです。たとえば、アメリカが第
 一次世界大戦に参戦する際のスローガンは「デモクラシーが栄える世界にするための戦
 争」、「戦争をなくするための戦争」でしたし、対するドイツ・オーストリア側は「民
 族的存立を防衛するための戦争」と定義づけました。
・戦争は政治手段とは異なる手段をもって継続される政治にほかならない。
・戦争は国家と国家の関係において、主権や社会契約に対する攻撃、つまり、敵対する国
 家の憲法に対する攻撃、というかたちをとるのだ。相手国が最も大切だと思っている社
 会の基本秩序(これを広い意味で憲法と呼んでいる)、これに変容を迫るものこそが戦
 争だ。相手国の社会の基本を成り立たせる秩序=憲法にまで手を突っ込んで、それを書
 き換えるのが戦争だ。
・歴史における数の問題、戦争の目的というところから考えますと、日本国憲法というも
 のは、別に、アメリカが理想主義に燃えていたからつくってしまったというレベルのも
 のではない。結局、どの国が勝利者としてやってきても、第二次世界大戦の後には、勝
 利した国が敗れた国の憲法を書き換えるという事態が起こっただろうと思われるのです。
・戦前期の憲法原理は一言で言えば「国体」でした。「天皇制」といい換えてもかまいま
 せん。1925年に制定された治安維持法には「国体を変革し又は私有財産制度否認す
 ることを目的として結社を組織し又は情を知りて之に加入したる者は十年以下の懲役又
 は禁固に処す」と書かれていましたが、この場合の国体は、天皇制ということです。
 アメリカは戦争に勝利することで、最終的には日本の天皇制を変えたといえます。
・交戦諸国の戦死者数が1千万人を超え、西部戦線に張りめぐらされた塹壕の総延長がほ
 ぼ地球を一周する距離に達した第一次世界大戦。このような戦争の惨禍を二度と繰り返
 さないように組織された国際連盟の試みが、なぜ、たった二十年で破綻してしまったの
 か。
・愚かなために、あるいは邪悪なために、人びとは正しい原理を適用し得なかったという
 のではなく、原理そのものがまちがっていたか、適用できないものであったのだ。「ま
 ちがっていたのは連盟のほうだ!」つまり、敵国であるドイツが悪いのではなくて、そ
 もそも国際連盟がまちがっていたのだと。敗戦国ドイツに対する連盟の処し方がまちが
 っていたのだと。アメリカやフランスやイギリスなどの大国が主導してつくりあげた第
 一次世界大戦後の秩序そのものがまちがっていたのだ。
・イギリスは、連盟の権威をバックにして、単なる言葉や理論によってドイツ、イタリア、
 日本を抑止できると考えるべきではなかった。イギリスがやるべきことは、海軍力の増
 強しかなかったはずだ。第一次世界大戦後の世界を連綿中心にまわしていこうとの考え
 方、あるいは、経済重視の安全保障が大切だとの考え方、こういった考え方は、持てる
 国の現状維持であるとして批判したのは、ドイツやイタリアや日本でした。このような
 主張をしていた現状打破国に対しては、言葉だけの抑止では通用しなかったはずだ。軍
 事力の裏づけなしに現状維持国が現状打破国を抑えることなどできなかったのだ。
・ナポレオンと西郷隆盛に共通しているのは、軍事的なリーダーシップがあった、カリス
 マ性があったということです。同じ政治家でも、大久保利通、岩倉具視、三条実美、伊
 藤博文などには軍事的リーダーシップはなかった。いっぽう西郷は、明治天皇からのあ
 つい信頼など、軍事的リーダーシップのみならず、政治家としての評価も非常に高かっ
 た。西南戦争が起こった年は、火星が大接近した年でもあった。西南戦争で政府軍と戦
 う西郷を慕って、世のなかの人々は、これを「西郷星」と呼んで、錦絵などさかんに刷
 られたのです。この錦絵は、大礼服を着て馬に乗った西郷さんが部下の桐野利秋ととも
 に丸い星のなかに描かれていて、その西郷星を、いろいろな人が拝んでいるという構図
 になっているというものです。拝んでいる人々の多様さが、西郷さんの人気を物語って
 います。どのような種類の人々が拝んでいたか。子供を背負ったおかみさん、女郎、権
 妻、などの市井の普通の人々です。その他士族、百姓、町人、職人、役者に和尚。これ
 もすべて普通の人々です。ここに出てこないのは、政府の役人や軍人や神主くらいでし
 ょうか。つまり、現世において陽のあたる場所にいる人々とは縁のない人々によって西
 郷は拝まれている。政府に反乱を起こした西郷のほうを、市井の人々は愛していたとい
 うことになります。
・政治家としても他を圧する力があり、軍事的リーダーシップも持っていた西郷。この西
 郷は、西南戦争で自刃したからよかったものの、政府としては非常に肝を冷やしました。
 国民的人気があり、文武両方の指導権を持った西郷のような指導者が、これ以降も現れ
 て、再び政府に対して反乱を起こすようなことがあったら困る。このように政府が考え
 たであろうことは予測がつきます。統帥権独立という考え方は、山県有朋が、近衛砲兵
 隊が給料への不満から起こした竹橋騒動を見て、また、当時の自由民権運動が軍隊内へ
 波及しんあいように、政治から軍隊を隔離しておく、との発想でつくったものです。山
 県の動きを見ていると、どうも、自由民権運動に怖れをなして、軍隊への影響を止める
 ようにしたということだけでなく、自らも指揮した西南戦争における、西郷との戦いの
 教訓が大きく影響していると思います。軍事面での指導者と政治面での指導者を分けて
 おいたほうが国家のために安全だ、との発想、これは反乱を防ぐためにも必要なことだ
 ったでしょう。
・この西郷の一件と統帥権独立の関係も、人類の歴史が結果的にこうむってしまった災厄
 の一つといえるかもしれません。日中戦争、太平洋戦争のそれぞれの局面で、外交・政
 治と軍事が緊密な連繋をとれなかったことで、戦争はとどまるところを知らず、自国民
 にも他国民にも多大の惨禍を与えることになったからです。
・政治的に重要な判断をしなければならないとき、人は過去の出来事について、誤った評
 価は教訓を導きだすことがいかに多いか。「なぜこれほどまでにアメリカはベトナムに
 介入し、泥沼にはまってしまったのか」。ベトナム戦争に関する政策を立てていたのは、
 アメリカのなかでも最も頭脳明晰で優秀といわれた人たちだったはずです。その彼らは
 なぜ泥沼にはまるような決断をしてしまったのか。
・人々は重要な決定をしなければならないとき、自らが知っている範囲の過去の出来事を、
 自らが解釈した範囲で「この事件、あの事件、その事件・・・」と参照し、関連付け、
 頭のなかでものすごいスピードで、どれが参照に値するか、どれが今回の問題と「一致」
 しているか、それを無意識に見つけだす作業をやっているものです。そのような作業が
 頭のなかで進行しているとき、いかに広い範囲から、いかに真実に近い解釈で、過去の
 教訓を持ってこられるかが、歴史を正しい教訓として使えるかどうかの分かれ道になる
 はずです。これを逆にいえば、重要な決定を下す際に、決定的に正しい決定を下せる可
 能性が高い人は、広い範囲の過去の出来事が、真実に近い解釈に関連付けられて、より
 多く頭に入っている人、ということになります。
・アメリカは第二次世界大戦の終結方法を選ぶとき、明らかに歴史を誤用した、といいま
 す。それはなにかといいますと、「無条件降伏」の一件です。ルーズベルト大統領は、
 ドイツやイタリアや日本などの枢軸国に対して、なぜ無条件降伏以外の降伏をさせない
 ようと主張したのか、これは第二次世界大戦の終結を遅らせることになりはしなかった
 か。つまり、ドイツ、イタリア、日本の三国の国内を観察してみれば、実のところ戦争
 終結に向けた動きはあった。無条件降伏しか認めない場合と、条件つき降伏交渉を認め
 た場合と、どちらがアメリカ国民の損害を少なくできたか。むしろ、第一次世界大戦ま
 でのすべての戦争においてなされてきたように、降伏条件を戦争の当事国同士で話し合
 うほうがよかったのではないか。 
・対ポツダム宣言についてですが、現在の研究で判明しているところは、鈴木貫太郎首相
 が記者団に「ポツダム宣言黙殺、戦争邁進」と談話を発表していようがいまいが、アメ
 リカ側は原爆投下のゴーサインを、ポツダム宣発出の段階で出していたということです。
 ポツダム宣言受諾の意思を日本側がもっと明確に連合国側に示していれば、広島と長崎
 に原爆は投下されなかったとの仮定は崩れることが史料から明らかになっています。
・大戦末期のソ連の態度、スターリンの発言などを考慮すれば、ドイツが敗北し、日本が
 敗北した後、東欧や東アジアへソ連が影響力を行使するのは十分予測できたはずだ。よ
 って、ソ連の戦後に予想される影響力を牽制するためにも、ドイツや日本の降伏条件を
 緩和すべきであった。
・1950年6月25日に北朝鮮軍が38度線を越えて南に侵攻したとき、アメリカは不
 意打ちをくらったといいます。また、中国から人民解放軍が侵攻してくるときは当初、
 予期していなかった。そのような開戦初頭の見通しの甘さもあり、最後までアメリカは
 戦争のテンポを制御できませんでした。1953年7月に調印されたのも、休戦協定で
 しかなかったわけです。    
・9.11以降の対イラク戦争に関してのアメリカの感覚は、日本の占領を成功例と考え
 る意識からきているといいます。強硬な戦争終結手段でつっぱった結果、アメリカは確
 かにドイツと日本を民主化できた。
・第二次世界大戦が終わった段階では、蒋介石率いる中国国民政府が、アメリカやイギリ
 スととも日本に対して戦い、勝利した国家だったのです。しかし、1945年8月以降、
 1949年10月の中国共産党の勝利にいたる中国における内戦の過程を、アメリカは
 どうすることもできないでいました。満州事変、日中戦争の時期においてアメリカは、
 中国の巨大な市場が日本によって独占されるのではないか、門戸解放政策が守られない
 のではないかと考え、中国国民政府を支持してきたわけです。それが、せっかく敵であ
 った日本が倒れたというのに、また戦中期に大変な額の対中援助を行ったのに、49年
 以降の中国が共産化してしまった。この中国喪失の体験により、アメリカ人のなかに非
 常に大きなトラウマが生まれました。戦争の最後の部分で、内戦がその国を支配しそう
 になったとき、あくまで介入して、自ら望む体制をつくりあげなければならない、この
 ような教訓が導きだされました。ですから、北ベトナムと南ベトナムが対立したとき、
 南ベトナムを傀儡化して間接的に北ベトナムを支配するのに止まるのではなく、北ベト
 ナム自体を倒そうとするわけです。十数億の人々を有する共産国を、ソ連に接して誕生
 するのを指をくわえて見ごした。この中国喪失体験が、ベトナム介入についてのアメリ
 カの態度を強く縛りました。 
 
日清戦争(侵略・被侵略では見えてこないもの)
・1931年9月、関東軍が満州事変を謀略として起こしたとき、蒋介石と張学良は武力
 で日本に対抗するのを避け、国際世論に訴えようとしました。中国共産党などの国内の
 反蒋介石勢力を抑えながら日本に対抗するためには、このような方式は合理的なものだ
 ったのですが、どうしても日本側から見ると、中国側は「弱かった」から連盟に訴えた、
 という解釈になってしまうのですね。当時も今も、そうした解釈は世の中に多いのです。
 でも、弱い中国、強い日本といったコントラストは、日清戦争頃までの明治時代や、辛
 亥革命期以降の大正時代にはあてはまらないのです。
・日本と中国は、東アジアでの日中両国の関係においてどちらがリードするか、そのこと
 をめぐって長いこと競争してきた国であって、そのリーダーシップをめぐる競争という
 点では、軍事衝突などは、文化、経済、社会、そして知識人のイデオロギーをめぐる競
 争の、ほんの一側面にすぎない。日中戦争以降の日本が中国を軍事的に侵略したのはま
 ぎれもない事実なので、おや、と思います。中国の側からも、東アジアにおける日中関
 係のリーダーシップを握ろうとする試みがあったことを自覚的に見なければならない。
・世界、そして文明の中心である中国は、周辺地域に対して、「徳」を及ぼすものであり、
 その感化が人々に及ぶ度合いに応じて形成される俗人的秩序なのだと。そのなかで、中
 国と東アジアとの関係を律する国際秩序を朝貢体制と呼びます。土地を基本とする「属
 地」に対立する属人的秩序とわざわざ説明しているのは、たとえば琉球王国の例がある
 からです。琉球は清国に朝貢していましたので、清国の華夷秩序に取り込まれていたわ
 けです。しかし、同時に琉球は日本の薩摩藩にも朝貢していました。国境という線に囲
 まれた土地をイメージしますとこれは許されないことですが、琉球国ではなく琉球王が
 清国皇帝に対して朝貢儀礼をとっていると考えることで、両属関係(清国にも薩摩藩に
 も属する関係)が可能となるのです。
・列強にとっては、こうした中国を中心とする、交易と礼に基づく東アジアの秩序という
 ものは便利でした。たとえば安南と呼ばれたベトナムであっても、朝鮮半島の李王朝
 (国号は大朝鮮国)であっても、列強がこうした地域・国々と貿易を行いたければ、と
 にかく、まずは清国と話をつけさえすればよくなる。列強にとってみれば、朝貢体制の
 もとで李王朝や安南と話がしやすくなればこれは使わなければ損だということです。そ
 のような意味で朝貢体制は「きわめて安価な安全保障のための装置」だともいえます。
 そもそも、朝貢関係にある国と中国とは、礼儀上の手続きをきちんと行っている限り、
 中国側が朝貢国の内政や外交に干渉することはありませんでした。定められた儀礼の体
 系を守っている限り、緊張が必要以上に高まることはなかったわけです。中国と朝貢国
 との関係は、双方にとって軍事的に必要以上に負担がかからず、また、中国と朝貢関係
 にある国々と列強の間も、同じく必要以上に負担がかからない関係でした。
・1990年代の日本の帝国議会衆議院において、立憲自由党と立憲改革党に属する議員
 は民党に分類され、これらの人数は171名に達していました。定数300議席中の過
 半数を民党の人たちが占めていたわけです。地主であれば、地租という税金が安くなる
 にこしたことがないので、立憲自由党の大部分を占めた地主層は、政府の進める富国強
 兵などよりも、とにかく民力休養=地租を安くする、という考えを持っていました。今
 の常識を考えると、地主=お金持ちであれば政府を支持しそうなものですが、このとき
 は、地主たちは民党の立場をとって、地租軽減、反政府を掲げていたわけです。
・日本の民権派の自由民権思想とヨーロッパのデモクラシーの理論を比較すると、日本の
 民権派の考え方は、どうも個人主義や自由主義などについての理解が薄いように思われ
 る。この点はヨーロッパとは非常に違っていると思います。どうも明治のはじめから、
 民権派は国権を優先していたような気がする。国家か個人かといったとき、自由主義的
 なバックボーンがないと、時代状況によって、人々は、国家のなすことすべてを是認し
 てしまうのではないか。日本の場合、不平等条約のもとで明治国家をスタートさせまし
 たから、自由だ民主だとの理想をいう前に、まずは国権の確立だ、という合理主義全
 面に出てしまう。
・福沢諭吉が日清戦争がはじまった後に、清国人は古い考えに囚われ、普通の道理を理解
 しない。朝鮮の改革に同意をしないばかりかそれを妨害するので、日本はやむをえず、
 文明開化のために兵力に訴えるのだ、日本軍は文明を中国に知らしめるための軍隊なん
 だ、という論理の記事を書いています。
・日清戦争へと引っ張っていった、外相の陸奥宗光は、列強と条約改正を達成するために
 は、日本の発展ぶりを鹿鳴館などで見せようと思ってもだめである。最終的には日本の
 進歩や日本の開花を欧米にわからせるには、日本がアジアのなかでも特別な文明、軍事
 力を備わった国であるとの実証を列強の目に具体的に見せなければななめなのだと、帝
 国議会で演説した。  
・日清戦争は、近代日本にとって初めての大国との戦争でした。この戦争による陸軍の戦
 死者は約1万3千人、傷病者総数は約28万5千人でした。死者自体は少ないといえま
 すが、傷病者が実に多いですね。海軍では、戦死者が90人、負傷者が197人との記
 録があるので、陸海軍合わせて約1万4千人くらいの犠牲者が出た。清国側が約3万人、
 朝鮮側もまた約3万人以上の犠牲が出たであろうと見積もられています。
・日本では日清戦争という戦を経て、さまざまなことが変わりました。日英通商航海条約
 では、領事裁判権が廃止され、関税自主権の原則回復がなされました。また清国からの
 賠償金2億両(約3.6億円)は巨額なものでした。日清戦争時点の日本の国家予算が
 約1億でしたから、国家予算の3倍もの賠償金が手に入ったのです。
・清国は大国で強い、怖い国でした。そして近世期までは文化の中心でした。文人といえ
 ば清国や朝鮮の知識人だったわけです。日本の兵士たちは、中国の弁髪の兵士が、全然
 規格の統一されていない兵器で戦っているところを見て、ちょっと侮蔑感を抱く。中国
 に対する蔑視の感情が現れてくる。
・日本は、日清戦争に勝ったはずなのに、ロシア、ドイツ、フランスが文句をつけたから
 といって中国に遼東半島を返さなければならなくなった。これは戦争には強くても、外
 交が弱かったせいだ。政府が弱腰なために、国民が血を流して得たものを勝手に返して
 しまった。政府がそういう勝手なことをできてしまうのは、国民に選挙権が十分にない
 からだ、との考えを抱いたというわけです。
 
日露戦争(朝鮮か満州か、それが問題)
・ロシアを相手に戦争をした日本は、この戦争に、ぎりぎりのところで勝ちました。その
 結果、日本は、欧米をはじめとする大国に、大使館を置ける国になったのです。当時の
 ような時代では、大国に対して不平等な地位にある国は大使館を置くことはできず、公
 使館どまりです。イギリスとの関係を例にすれば、日本の公使館が大使館に格上げされ
 たのは、1905年12月のことでした。日露戦争の講和条約が結ばれたのはこの年の
 9月でしたから、目に見えるかたちで、国の格がすぐに上がったということです。この
 時代の国際関係といえば、実にシビアな上下関係があったということです。  
・日清戦争の結果、アジアからの独立がまず達成され、日露戦争の結果、西欧からの独立
 も達成された、ということができるかもしれません。日清戦争が1894年から始まり、
 日露戦争が1904年から始まったのですから、その間、ちょうど10年ということに
 なります。10年の間に2回の戦争を行なって、一つひとつ、独立という目標を達成し
 ていったというイメージでしょうか。
・日露戦争によって不平等条約の改正などが達成されるわけですが、戦争の結果としてい
 ちばん大きいのは、戦争の5年後の1910年、日本が韓国を併合し、植民地としてし
 まったことです。このことは、島国であった日本が、中国やロシアと直接接する韓半島
 (朝鮮半島)を国土に編入し、ユーラシア大陸に地続きの土地を持ってしまったことを
 意味します。日清戦争で日本が清国から奪った土地は台湾と澎湖諸島でしたから、獲得
 した植民地自体、どちらも島だったわけですので、この点、大きな変化といえるでしょう。
・日露戦争はどのくらい大きな戦争だったかというと、ほぼ1年半の間に、日本側もロシ
 ア側も約20万人以上の戦死傷者を出しました。
・日清戦争後に、ロシア・ドイツ・フランス三国による三国干渉がなされ、日本側は下関
 条約で獲得した遼東半島を清国に返すという事態になった。三国干渉は日本にとってメ
 ンツがつぶれたというだけでなく、朝鮮と清、二つの国家が日本に対して、今後どうい
 う態度をとるかという点について、大きな意味を持ちました。簡単にいえば、「日本は
 弱いんじゃないか。ロシアのいいなりじゃないか」ということです。朝鮮の朝廷内では、
 日本側に不満を持っていた勢力が閔妃(明成皇后)のもとに集まるようになります。ま
 た、朝鮮政府内にもロシアに接近しようとする親露派が多くなりました。これに驚いた
 日本側が行った行為はひどいものでした。公使館守備兵などに景福宮に侵入させ、なん
 と閔妃暗殺事件を起こしたのです。これは、なんといっても弁明のしようのない蛮行で
 あり、クーデターです。日本側としては、親露派の中心人物である閔妃を殺して、日本
 側とともに改革を行なおうとする朝鮮政府内の人々を、再び政権につけたのです。しか
 し、国母にあたる閔妃を暗殺されて、朝鮮側が黙って見過ごすはずがありません。閔妃
 のもとで親露派だった人々は、国王である高宗をロシア公使館に避難させ、ロシアの威
 力を背景にしつつ、再び、親露派を政権に戻すことをしました。
・1897年10月、朝鮮は大朝鮮国だった国号を大韓帝国に変え、種々の近代化をめざ
 した改革を行います。
・朝鮮が国号を大韓帝国としたとき、最初に「承認しますよ」といったのはロシアでした。
 日清戦争の勝利で、朝鮮国内に日本の圧倒的な優位が確立されたかに見えたのは、一瞬
 で、その後に続いた事態は、韓国の、近代国家への模索と、日本とロシアが韓国をめぐ
 って均衡しているという状態です。 
・1896年6月、中国とロシアは「露清防敵相互援助条約」という秘密条約を結びます。
 ロシアと中国が一致して日本にあたるという、れっきとした対日攻守同盟でした。これ
 は世の中に公にされない密約でした。
・1900年、北清事変が起こります。これは「扶清減洋」をスローガンとした排外的な
 団体である義和団が中国各地で勢力を得て引き起こした農民闘争です。ロシアはこの事
 変をチャンスと見ました。北満州に広がるロシアの権益を義和団から守るのだと称して、
 黒龍江沿岸地域の一時占領に着手します。このあたりから、中国とロシアの協調的な関
 係は変わってきます。ロシアは中国の首都である北京にもたくさん兵を出していました。
・イギリスは日本に同盟を提案するのです。1902年に日英同盟協約が調印されました。
 日露戦争が起こるのは、日英同盟から2年経った後です。日本では「日英同盟ができた。
 これはロシアに対する自制を求める同盟だ」と冷静に考えていました。当時は議会で圧
 倒的多数を占めていた政友会と憲政本党という二つの政党は、ロシアとの戦争準備のた
 めに政府が海軍増強を続けようとの説得には応じませんでした。政党としては、日英同
 盟があるのだから、ロシアに対する海軍増強はいらないだろうと主張しました。日本国
 民のかなりの部分と支配層の一部は、日露戦争の直前までは、むしろ厭戦的であったよ
 うです。
・ロシアに態度に中国が疑問を持ちはじめた1902年あたりから日露戦争後までは、中
 国において日本留学ブームが到来しました。どうしてかといえば、同じ漢字を用いる文
 化圏ですから、安価に早く留学の成果が出やすいということがありました。「故郷」で
 名高い魯迅も1902年に東京にやってきました。
・日本軍の参謀本部が、シベリア鉄道の完成前に開戦すべき、「早い開戦のほうが有利だ」
 と慎重の桂内閣のお尻を叩きはじめたのが開戦4カ月前です。一部の人々は早期開戦を
 唱えていたけれど、桂首相や元老のほとんどは、戦争の前にまずは外交交渉だ、と日露
 交渉に期待をかけていた。この頃、最長老の元老は二人いました。伊藤博文と山県有朋
 です。この二人が最も重要な、明治天皇の相談役でした。この二人の元老、そして桂首
 相をはじめとする閣僚、議会の政党勢力は実のところ、開戦には非常に慎重でした。
・山県などが最後まで外交交渉に期待をかけていた理由の一つは、日本もお金がないけれ
 ど、ロシアにもお金がないと知っていたから、そして当時、ロシア帝国の支配下にあっ
 た周辺国家おポーランド、エストニア、フィンランドなどがかなり本国ロシアに対して
 反抗していた。ロシアはとても戦争する力がないのではないか、足もとが危ないのでは
 ないか、と日本側は見ていました。
・ロシアは当時、経済的にも困っていたし、帝国下の地方反乱にも困らされていました。
 ニコライ二世のもとでは、立憲君主制度は導入されていませんでした。閣議というもの
 がないわけです。皇帝のもとで、それぞれの問題別に関係ある大臣たちが、それぞれ話
 をするということです。ですから、戦争を始めるかどうかの最終的な決定をするとき、
 ロシア側は極東問題をよく知っている閣僚は皇帝の側にすでにいなかった。こうした人
 々は失脚していた。皇帝のお気に入りの一人が極東総督に任命されてしまうのです。こ
 の極東総督が、実は、困ったことに日本が一番大切だと思っている韓国について、ロシ
 アのなかでも最も積極的な意見と野望を持っていた人でした。
・極東総督はうまいことをいって皇帝を説得しました。お金をかけずに旅順・大連を安全
 に保つためには、海の方向から、つまり、朝鮮半島を押さえることのほうが安上がり。
 日本は戦争など本気でできやしませんよ、と。
・1970年代までは、日本という国は、帝国主義国家として成長してきたのだから、中
 国東北部、つまり満州ですが、そこに市場を求め、ロシアに門戸解放をせまるために戦
 争をに訴えたのだ、との解釈が有力でした。しかし、ロシア側の史料や日本側の史料、
 これが公開されて明らかになったところでは、どうも、やはり朝鮮半島、その戦略的な
 安全保障の観点から、日本ではロシアと戦ったという説明ができそうです。日露戦争に
 関しては、どちらが戦争をやる気であったかという点では、ロシア側により積極性があ
 ったのではないか。戦争を避けようとしていたのはむしろ日本で、戦争を、より積極的
 に誘ったのはロシアだという結論になりそうです。
・日本がロシアから言質をとりたかったのは、明らかに韓国における日本の優越権でした。
 ロシアは、韓国については日本が勢力圏に入れてしまうのを認めなさい、と日本は主張
 していました。その代わり、確かにロシアの満州占領はまずいけれども、しかし、満州
 における鉄道の沿線はロシアが勢力圏としていいと日本側は認めます、との主張です。
 これに対してロシア側は「そもそも日本は、満州について論じる資格がない」と。そし
 て韓国については、日本の優越権など認められないという。でも、ある条件を日本が認
 めるなら、韓国における優勢なる利益を認めてもよい。その条件とは、ロシアが朝鮮海
 峡を自由に航行できる権利を日本が認めること。つまり、朝鮮半島、の南側と日本の間
 に広がる朝鮮海峡をロシアが自由航行する権利を認めるなら、まあ日本の「優越なる利
 益」を認めていい。さらに北韓39度以北の韓国を中立化して、日本が韓国領土の軍略
 的使用をしないなら認めてもよいと。
・この、韓国に関するロシア側の提議は、日本側にとっては絶対に認められなかった要求
 でした。元老や首相、閣僚はみな、大国ロシアに対する戦争に慎重でしたが、ロシアか
 ら返ってきたのはかなり厳しい条件だった。朝鮮半島の軍略的使用をしちゃいけないと
 いうのは、かなり強い縛りです。
・韓国問題は日本にとっては絶対に譲れない問題でした。ロシアも本当は戦争をしてくな
 いならば、どうして、この点で、日本側にもう少し妥協的な話ができなかったのでしょ
 うか。ロシアは、日本がこれほど韓国問題を重要視していることに気づいていなかった
 ふしがあります。ロシアは、日本が先制攻撃をしかけるまで、日本側が戦争に踏み切る
 とは思っていなかった。ロシア皇帝や極東総督は、日本が韓国問題のために最終的に戦
 争に訴えてでも戦うと考えていたのをなぜ、理解できなかったのでしょうか。ロシアは
 日本の考えを正確に理解していなかったと思われます。
・日本は日露戦争を準備する段階で、ロシアを非難するために、つまり戦争の正当化を日
 本が大々的に宣伝するときにできたことは、満州についての門戸解放、このスローガン
 だけだったのですね。アメリカやイギリスが本気になって日本を応援し、お金を貸し、
 軍艦の購入に便宜をはかってくれるためには、大義がなければならない。アメリカ、イ
 ギリスにとって、韓国問題というのは、もう過去の話でした。日本はアメリカとイギリ
 スに、日露戦争のためにお金を借ります。そのとき、「韓国問題で戦争するので貸して
 ください」と言ったとしたら、「あれ?韓国問題は日清戦争のときのテーマではなかっ
 たですか」ということで、相手方の反応が悪いのは予測できます。
・日清戦争は帝国主義時代の代理戦争でしたが、日露戦争もやはり代理戦争です。ロシア
 に対する財政的援助を与えるのがドイツ・フランス、日本に財政的援助を与えるのがイ
 ギリス・アメリカです。日清戦争が始まる直前、イギリスは、日英通商航海条約で不平
 等条約の一部改訂を約束して日本の背中を押しました。面白いことに日露戦争の前には、
 それと同じことをアメリカがやっています。
・日露戦争は、8万4千人という、ものすごい死者を出したうえでの勝利ですが、その勝
 利のおかげで日本は日露交渉で要求したものを獲得できたわけです。ロシアが黒竜江省、
 吉林省、遼寧省という三つの省を占領していたことで排除されていた国々が平等に満州
 に入れるようになった。アメリカやイギリス、そして戦争中ロシアを援助していたドイ
 ツやフランスも含まれます。「さあ、帝国主義国のみなさん、いらっしゃい」と中国東
 北部を開いた。これが日露戦争でした。
・山県内閣というのはあまり注目されないのですが、いろいろ意味のあることをやってい
 たんです。実は日清戦争後の産業の発達を担う、商工業者や実業家に頑張ってほしい、
 そのためにも彼らに議会での地位を与えなきゃと、いろいろ操作しました。戦後の軍費
 拡張を支える予算は、地主議員がいると反対が多くてできない。商工業者を大切にすべ
 きだということで、被選挙権も広げました。山県はいろいろ悪口をいわれた人でした。
 キリギリスというあだ名もあったらしい。顔が細いからでしょうか。大正天皇は、山県
 と一緒にご飯を食べるのは嫌だと言ったそうです。大正天皇は鉄道オタクだったので、
 鉄道をたくさん敷設するために頑張った原敬のことは大好きだったのですが、山県は嫌
 われちゃうんですね。その山県が商工業者、産業家、実業家たちが議会に登場してくる
 基盤をつくっていたというのはとても面白い。
 
第一次世界大戦(日本が抱いた主観的な挫折)
・第一次世界大戦は、セルビア、イギリス、フランス、ロシアなどの連合国とオーストリ
 ア、ドイツ、トルコなどの同盟国が戦った世界規模の戦争で、世界全体で戦死者が約1
 千万人、戦傷者が約2千万人がでましたが、日本の場合は青島攻略戦での戦傷者が約1
 千2百名でした。あまりに犠牲が多かった戦争だったので、戦争が二度と起こらなうよ
 うな国際協調の仕組みをつくろうとしたことで、国際連盟が設立されました。戦争の影
 響の二つ目は、帝国主義の時代には当たり前だった植民地というものに対して批判的な
 考え方が生まれたことです。植民地獲得競争が大戦の原因の一つとなったとの深い反省
 からです。
・日本は、日清戦争で台湾と澎湖諸島を、日露戦争で関東州(旅順、大連の租借地)と中
 東鉄道南支線(長春・旅順間)、 その他の付属の炭坑、沿線の土地を獲得し、さらに
 日露戦争の5年後に韓国を併合しました。そして第一次世界大戦では、山東半島の旧ド
 イツ権益と、赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島を得たのです。
・日本とアメリカでは、太平洋の反対側の国を恐ろしいと思うかどうかという点で、アメ
 リカのほうが日本よりも早くそう思った可能性があります。アメリカでは日露戦争が終
 わった後、1907年「ウォー・スケア」というものが起こりました。ウォー・スケア
 とは、日本人が海を越えて襲ってくるのではないか、戦争が始まるのではないか、との
 根拠のない怖れです。どうしてこのような怖れが広がったかといえば、その根には、サ
 ンフランシスコで起こった大地震がありました。サンフランシスコにはチャイナタウン
 (中国人街)がたくさんあって、大勢の中国人がいました。そして中国からアメリカへ
 渡った移民たちはアメリカ人労働者より低賃金で喜んで働くという点でアメリカ社会か
 ら敵視されていて、差別的な状況下で暮らしていました。大地震が起こったとき、アメ
 リカ人は大きな恐怖に襲われて、チャイナタウンの中国人が襲ってくるのではないかと
 考えるのです。このような雰囲気のなかで大地震が起こりました。そして同じ現象が日
 本でも生じる。1923年9月1日に起きた関東大震災の際、中国人や朝鮮人に対する
 虐殺事件が起きました。その背景には「ふだん虐げられている朝鮮人が日本人を襲って
 くるかもしれない」との根拠のない流言がありました。数千人の朝鮮人と約2百人の中
 国人が犠牲になったといいます。アメリカと日本はともにウォー・スケアを体験した国
 だったのです。
・カルフォルニア州の白人から見れば、中国人も日本人も同じ東洋人です。1891年か
 ら1906年の間に数千人の日本人移民がカリフォルニアに渡っていました。カリフォ
 ルニアでは、日本人移民に対して、低賃金で働き、アメリカ社会の一体性を混乱させる
 者と決めつけ、日本人学童の公立学校への入学拒否や日本人移民を排斥する条項も可決
 されています。ロシアを打ち負かした好戦的な国家というイメージが、急速にアメリカ
 社会のなかで膨らんていったことがわかります。
・日米関係がぎくしゃくしているとき、西太平洋の島々を持っているのがドイツであるこ
 との重要性に日本が気づきました。たとえば、マリアナ、パラオ、カロリン、マーシャ
 ルなどのミクロネシアは、アメリカが太平洋を横断してくる際のルート上にある島々で
 す。そこで第一次世界大戦が始まった。すると日本はイギリスと日英同盟協約を結んで
 いるから、それを理由に参戦しようとしますが、イギリスは警戒的でした。イギリスが
 「いや、まだ日本の協力はいらないかも」といって消極的な反応を示しているうちに、
 日本は「日英同盟協約の予期せる全般の利益を防護する」というまわりくどい表現をし
 ながらも参戦してしまう。   
・日本海軍は、非常に短期間の戦闘でドイツ領の島々を占領してしまいます。南洋諸島、
 つまりマーシャル諸島のヤルート、カロリン諸島のポナベ、トラック、ヤップ、マリア
 ナ諸島のサイパンなどにドイツは海軍基地を持っていたのですが、これを日本が占領す
 るのです。 
・第一次世界大戦における日本の戦争は、事実上三ヵ月間ぐらいで終わってしまいました。
 ただ、とにかく全体の死者は驚くほど少ない。ですがこの戦争の結果、日本国内におい
 てはたくさんの「国家改造論」が登場して、とにかく日本は変わらなければ国が亡ぶ、
 とまでの危機感を社会に訴える人々や集団がたくさんうまれました。戦争の損害はわず
 かであっても、第一次世界大戦のヨーロッパでの惨状を我が事のように見たということ
 です。日露戦争のときに、戦争の全期間で使用した弾薬の量を、第一次世界大戦の激戦
 地では1、2週間で使い果たしたわけです。日露戦争で日本側は8万人を超える死者を
 出している。とすれば、将来の総力戦に向けて大変が不安がよぎる。日本側が感じた恐
 ろしい予感は、1923年に日本を襲った関東大震災の際の児湯譜などによってもリア
 ルに感じられたはずです。日本人は痛切に「総力戦というのはこういうことかもしれな
 い」とビジュアルに感じだのは大震災の光景だった。地震とその後に起こった火災によ
 って、死者や行方不明者は10万人を超えたといいます。
・基本的に人間の頭で考えますと、やはり歴史はらせん状に変化してゆくイメージがある
 でしょう。日清戦争では8千人ぐらい死んだ。日露戦争では8万人が死んだ。第一次世
 界大戦では日本は免れたけれど、ヨーロッパでは市民も含めて1千万人が死んだといわ
 れている。次の戦争ではどれほどのものになるのだろうか。おそらく豊かな資源が残さ
 れている中国という柔らかい美味しい部分に、戦争を終えたヨーロッパの国々が国内の
 痛手を早く回復しようとして殺到するだろう。中国の資源と経済をめぐる戦が1920
 年代以降の戦だと予測しているのです。これは、日本の中長期的な戦略をまとめた文書
 「帝が終わった段階で日本の将来的な国防の設計をどうしようかということで、のちに
 原敬内閣期に陸相となった田中義一が案文を書き、山県有朋が手を加えてつくったもの
 です。最初は想定敵国としてロシア・アメリカ・中国の三国が同列で書かれていました。
 しかし、1923年の改定時には、想定敵国の第一に陸海軍共通としてアメリカが上げ
 られている点に特徴があります。
・日本の主観的な危機感を抱かせた要因が三つありました。一つ目は、日本が第一次世界
 大戦に参戦する際にイギリス・アメリカとの応酬があったのですが、その事実が帝国議
 会で暴露されたとき、激しい政府批判が社会に捲き起こったということ。次に、戦争が
 終わった後、パリ講和会議で日本が直面した、中国とアメリカからの対日批判に、深く
 日本側が衝撃を受けたということ。そして最後に、日本統治下の朝鮮で独立運動がパリ
 講和会議の最中に起こってしまう。この脅威です。それによって大きな主観的危機感に
 迫られるのです。
・日本が第一次世界大戦に参戦するときの内閣は、第二次大隈内閣で外相は加藤高明でし
 た。加藤が大正天皇のところに押しかけて、元老の山県の躊躇を押し切って開戦しまし
 た。加藤外相は東京帝大法学部を卒業し、まず三菱に入り、その後に大蔵省を経て外務
 官僚となった人間です。妻に迎えた女性は三菱創業家である岩崎家の出身でした。駐英
 大使を努めたこともある加藤ですから、加藤が「日英同盟協約の予期せぬ全般の利益を
 防護する」との名目をドイツに対する最後通牒に書き入れ、ドイツとの戦争に飛び込ん
 でいったとき、人々は、英国病の加藤だから仕方がない、と思ったのです。なんでもか
 んでもイギリスのいうことを聞く人物という意味で、英国病と呼んでいたのですが。し
 かし、二国間の外交というのは、そのような単純なものではなかったはずです。実は日
 英同盟の名目で日本が参戦することに、イギリス側がまず反対するのです。イギリスは
 はじめ、日英同盟との名目で日本が第一次世界大戦に参戦をするのはやめてくれとこと
 わったのです一度断ったのですが、イギリスは加藤から迫られて、「まあ、日英同盟の
 よしみから参戦する点については対外的に説明することまでは了解しました」と、認め
 ます。ただ日本側に条件を出す。軍事行動の範囲を「シナ海の西及び南、ドイツの租借
 地である膠州湾以外には広げない。太平洋には及ぼさない」と声明することを日本側に
 要求したのです。
・なぜイギリスは、同盟を結んでいる最も重要な国である日本に対して、軍事行動の範囲
 を限定する声明を出すことを要求したのか。その答えの一つはイギリス連邦や自治領側
 が日本に対して抱いていた警戒感から説明できます。太平洋のずっと南には、オースト
 ラリアやニュージランドがあるわけですが、これらの国々は、日本の南下を怖れていた。
 日本が日英同盟を理由に参戦したとなれば、歯止めがきかなくなって、日本は戦闘領域
 の制限を超えてドイツ領を占領するだけでなく、自分たちの国にも迫ってきやしないか
 と怖がる。
・イギリスにとって最も嫌なのは、対中貿易の利益が減ることです。日本が旧ドイツ領を
 を占領するのは嫌ではない。イギリスの対外貿易のうち、中国市場は一割だったでしょ
 うか。日本が中国に対してなんらかの措置をとることで、中国に擾乱が起こることをイ
 ギリスは警戒した。
・パリ講和会議には、日本からは吉田茂もパリに行っています。サンフランシスコ講和条
 約を締結したのですが、この条約に全権として署名した人物が吉田でした。パリに参集
 した人々のなかで最も重要な人物はケインズでした。ケインズはイギリスの経済学者で
 す。当時、ケインズはイギリスの全権団のうち、大蔵省の主席代表を務めていました。
 ところがケインズは、役職を辞してパリから勝手に帰国してしまいます。ケインズがな
 ぜ帰国してしまったかというと、連合国側、とくにアメリカのドイツへの政策にひどく
 憤慨したからです。パリ講和会議で、連合国などの戦勝国が熱中していたのは、どうす
 れば第一次世界大戦の賠償金をドイツから効率的に奪えるかということです。ケインズ
 は、ドイツから取り立てるべき賠償金の額をできるだけ少なくするとともに、アメリカ
 に対して英仏が負っている戦債の支払い条件を緩和するよう求めたのです。しかしアメ
 リカ側は、このような経済学が支持する妥当な計画に背を向け、とにかく英仏からの戦
 債返済を第一とする計画を、パリ講和会議において主張したのです。
 
満州事変と日中戦争(日本切腹、中国介錯論)
・満州事変は、関東軍参謀の石原莞爾らによって、しっかりと事前に準備された計画でし
 た。関東軍というのは、日露戦争後、ロシアから日本が獲得した関東州の防備と、これ
 またロシアから譲渡された中東鉄道南支線、日本側はこの鉄道に南満州鉄道と名前をつ
 けましたが、この鉄道保護を任務として置かれた軍隊のことです。その鉄道線路の一部
 を自ら爆破し、それを中国側のしわざだとしたのです。石原は、自らが参謀本部の作戦
 部長であったときに起きた日中戦争に関しては拡大に反対して、さっさと作戦部長を辞
 して、関東軍の参謀部長として満州に行ってしまったという変った経歴の持ち主なので、
 当時も人気がありましたし、今もなお人気があります。
・石原は陸軍中央を罵ることが多かったために、反体制的な落ちこぼれの軍人であったと
 受け取られがちのですが、大変なエリートです。12歳で陸軍幼年学校に入り、そこ
 を主席で卒業し、陸軍士官学校、陸軍大学校をすいすいと通過し、陸大では2番だった
 といいます。のちの太平洋戦争中、石原は東条英機陸相からその言論に対して睨まれ、
 「戦争史大観」という著書を事実上発禁にされてしまうなど不遇な環境にも置かれます。
・1931年、東京帝国大学の学生たちに行った意識調査の記録がある。満州事変の2カ
 月前です。満蒙のために武力行使は正当かという問いに対して、88%の東大生が「然
 り」と答えている。「然り」と答えたうちの残りの学生は「外交手段を尽くした後に武
 力行使すべき」と答えています。また武力行使してはだめだと答えた学生も12%いる。 
 ただ、戦争になってもいいと考えている人が9割弱を占めていることに変わりはありま
 せん。一般的に、知的訓練を受け、社会科学的な知識を持っている人間は、外国への偏
 見が少なく外国に対する見方が寛容になる傾向があります。「中国にだっていろいろ事
 情があるのだ。日本側にもあるように」と思える人間には、やはり知性、インテリジェ
 ンスがあるだろうと。たくさん勉強していたでしょうし、いろいろな知識を持っていた
 と思われる東大生の88%が武力行使を「是」としていたということに、驚きました。
・満州事変の前と後で、あまり調査結果が変わっていないということです。満州事変が起
 こる前には、すでに国民のなかで、少なくとも国家が行う行為に対する批判精神がある
 と思われるような集団のなかでも、ちょっと釘でつつけば暴発する空気はあった。
・戦争というのは、相手国の主権にかかわるような大きな問題、あるいは相手国の社会を
 成り立たせている基本原理に対して挑戦や攻撃がなされたときに起こるものだ。ある国
 の国民が、ある相手国に対して、「あの国は我々の国に対して、我々の過去の歴史を否
 定するようなことをしている」といった認識を強く抱くようになっていた場合、戦争が
 起こる傾向がある。満州事変前、東京帝大の学生の9割弱が、満蒙問題について武力行
 使賛成だったという事実。9割弱の人々が武力行使すべきたと考えていたということは、
 満蒙問題は、日本人が自らの主権を脅かされた、あるいは自らの社会を成り立たせてき
 た基本原理に対する挑戦だ、と考える雰囲気が広がっていたことを意味していたのでは
 ないでしょうか。  
・当時、中国では清朝が倒れ、新国家が誕生しようとしていた頃でした。この新中国に対
 して、今度どのように金を貸して、資本を投下するか、イギリスは米独仏の三カ国を誘
 いつつ、自らの強力なリーダーシップを維持しようとはかっていました。そのイギリス
 の動きに対して、日本とロシアは反発していたわけです。日本とロシアは中国に最も近
 い国でありながら、イギリスをはじめとする英独仏などの強力な資本主義国家とは違い、
 資本力という点でも技術力という点でも遅れていた。そのような共通点があったために、
 日本とロシアは日露戦争後から第一次世界大戦にかけて、中国問題に関してはお互いに
 勢力範囲を認めあうことで共闘を組んでいたといえます。ところが、1917年にロシ
 アでは革命が起きて、なんなんと、政治体制が帝政から共産主義に変わってしまう。さ
 らに清朝が倒壊して、中華民国が成立します。ロシアのみならず中国も、政治体制が変
 わってしまう。
・満鉄とその関連及び日本政府の占める対満蒙投資への割合は、実に85%ほどになるは
 ずです。このように国家関連の投資が大部分を占めるという状況により、満蒙について
 は国民からの批判が起きにくい構造ができていました。イギリスやアメリカのように、
 私企業がたくさん投資していれば、批判精神のある企業家などが政治のトップを抑えら
 れる。85%相当が満鉄や日本政府など国家関連であったとすれば、なにか事が起これ
 ば、国家の望む方向に人々が動くことは 予想できることです。
・石原莞爾は約2年半、ドイツに滞在しています。石原は、明治の日本陸軍がお手本にし
 たドイツがなぜ大戦に敗れてしまったか、真面目に研究を重ねました。当時、ドイツの
 敗戦は、敵の全主力を短期決戦によって包囲殲滅する方法を徹底してとらなかったこと
 に起因すると見られていました。しかし石原は、そうではなく、この大戦が短期決戦の
 殲滅型の戦争ではなく、長期持久型の消耗戦争であったことをドイツ側が認識していな
 かった点に求めます。そして、大切なのは、敵の消耗戦略に負けないようにすることで
 あるとして、経済封鎖を生きる延びる態勢で戦争を続けることの重要性に目覚めました。
・石原の報告は二つの主張からなっています。一つは、日本とアメリカがそれぞれの陣営に
 分かれて、航空機決戦を行うのが世界最終戦争であると、そして二つ目は対ソ戦のため
 には、中国を根拠地として中国の資源を利用すれば、20年でも30年でも持久戦争が
 できる、このような考えを主張しています。さすがに永田だけは「戦争は必ずしも必要
 なし。戦争なき満蒙をとる必要がありや」と冷静な反応をみせていた。
・軍人たちの主眼は、来るべき対ソ戦争に備える基地として満蒙を中国国民政府の支配下
 から分離させること、そして、対ソ戦争を遂行中と予想されるアメリカの干渉に対抗す
 るため、対米戦争にも持久できるような資源獲得基地として満蒙を獲得する、というも
 のでした。軍人たちにとって最も大切な問題は、対ソ戦と対米戦を戦う基地としての満
 蒙の位置づけだったのです。このずれを一挙に突破して、国民の不満に最後に火をつけ
 る役割を果たしたのが、1929年のニューヨークの株式市場の大暴落に端を発した世
 界恐慌でしょう。このときの農家の年平均所得は半分以下に減ってしまいました。
・満州事変が起こされたときの内閣は、第二次若槻内閣でした。若槻は当時、東京帝大法
 学部を首席で卒業して大蔵省に入った。若槻内閣は、関東軍の暴走を抑えるには最も理
 想的な内閣だったのです。本来、関東軍は、司令部条例という規定によって、この規定
 が定めている任務の範囲内の行動については独断専行が認められていました。ですが、
 規定に入っていない行動は、閣僚の了解をとらなければならない。たとえば、関東軍を
 満鉄線からはるか離れた場所に活動させるためには、閣議の了解を必要でした。ここと
 はとにかく、すべて中国の主権下にある、日本にとっては外国の地域だからです。その
 閣議が関東軍の行動を止める。だったら、これで事件は終息するはずでした。ところが
 関東軍の参謀たちは強い決意を持って事件を起こし、そのためには三年の前から計画を
 綿密に立てていたのですから、これで収まるはずはありません。
・その最たる行為が、朝鮮軍の独断越境でした。日本の主権下にある朝鮮から、中国の主
 権下にある東三省へ移動するわけですから、もちろん国境を越えることになる。当時、
 軍隊を国境を越えて動かすには、天皇の命令、奉勅命令が必要だった。奉勅命令を出す
 には、外国の地にある軍隊の任務以外の行動を認める場合と同じく、閣議の同意が必須
 となっていました。もちろん、最初は現地軍側も、南陸相を通じた閣議での同意を獲得
 すべく頑張ります。しかし幣原外相と井上蔵相が反対したために、この越境に関する了
 解も閣議で認められないことになりました。ところが、なんなんと、このとき朝鮮軍司
 令官だった林銑十郎は、閣議の結果を聞いて憤り、軍隊を越境させてしまう。越境とい
 う既成事実がつくられてしまった翌日、閣議が開かれ、この閣議では、国際連盟の問題
 にもなるだろうから、出兵、つまり朝鮮軍の越境は認めない、しかし増派のための経費
 については支出を認める、このような曖昧な決定がされてしまいました。つまり、出兵
 の事実は承認しない、しかし、出兵に伴う経費は認めるといってしまったのです。この
 閣議決定を聞いて、天皇の命令を得ずに軍隊を動かした当の責任者である参謀総長は、
 実のところ大いに安堵しました。というのは、もし閣議が、出兵に事実も認めず経費も
 認めなかったならば、参謀総長は責任をとって辞任しなければならなかった。
・なぜ内閣は腰が引けたのか。軍や右翼からのテロに政党内閣が屈しないためには、民政
 党単独よりも、当時野党であった政友会とも提携する必要がある。安達のこの提携論は、
 民政党内から反対がありました。井上蔵相がそうでした。若槻首相としては、安達と井
 上の間に挟まれて、閣内きちんとまとめられなかったのです。
・今の世の中は、特定の思想信条を持っているからといって、国家や国家機関によって危
 害を加えられたり拘束されたりすることは、まず、ないと言ってよいでしょう。現在
 「その筋」と言えば、暴力団のことを指しますが、当時は、軍、その中でも海軍ではな
 く陸軍と警察を指すのが一般的でした。つまり、戦前においては、「その筋」の人々が
 なにをやらかすのかわからない、怖い存在であると思われていた。井上蔵相は、右翼団
 体であ血盟団員によって殺害されます。内閣を組織した犬養首相も、5.15事件で命
 を落としました。 
・リットン調査団による報告書は、日本の経済的権益が擁護されるよう配慮していた。つ
 まり、中国は日本の経済上の利益を満足させるべきだ、と述べられていました。日本の
 要求が経済的なものに留まっているならば、リットン調査団が用意した処方箋は効果的
 だったことでしょう。しかし、軍人たちの考えは違うわけです。日本軍の軍事行動は、
 合法的な自衛の措置とは認められないと書かれていました。また、「満州国」という国
 家は、これは独立を求める住民の要求から、つまり民族自決の結果、生み出されたもの
 ではないと。日本の関東軍の力を背景に生み出された国家であるとも書かれていました。
 そして、日本は満州地域における「中国的特性」を容認しなければならないと求めてい
 ました。簡単に言えば、日本は満州が中国の主権下にあることを認めなさいということ
 です。
・前評判よりも日本側に厳しい内容がリットン報告書には書いてあったので、新聞の論調
 は報告書に対して手厳しいものとなっている。しかし、公平に見て、報告書が日本側を
 あそこに書いた以上に好意的に描いては、日本に肩入れしているといわれていまっても
 仕方がなかろう。ヨーロッパ的な正義の常識としては、あれは立派にできているという
 べきである。
・政党も大新聞も、戦争開始の前には必ず戦争をすすめようとする政府への非難をたくさ
 ん書いた。しかし、なぜこれが今おこらないのか、それ不思議でならない。土地や資源
 の過不足の調整は、「強力なる国際組織の統制」によってなされるべきだ、「渇しても
 盗泉の水は飲むな」と子供の頃から日本人は教えられてきたはずではなかったか。
・この時点で政党が戦争反対の声を挙げられなかった理由は、大きく二つの流れで説明で
 きると思います。一つには、中国に対する日本の侵略や干渉に最も早くから反対してい
 た日本共産党員やその周辺の人々が、一斉に検挙されるという3.15事件が起こり、
 その翌年には3.15事件の時点で逃亡できた共産党のいいもの党員などの検挙がなさ
 れた。つまり、戦争に反対する勢力が治安維持法違反ということで、すべて監獄に入れ
 られてしまっていたことです。二つには、共産党に次いで、おそらく戦争に最も反対す
 ると思われた合法無産政党の内部事情が関係しています。利益を上げるために出征中や
 在営中の兵士を解雇したり賃金を払わなかったりした雇用主に、当時、最も強く圧力を
 かけて、雇用主から保障を勝ち取っていたのは、当時の陸軍省だったのです。つまり、
 全国労農大衆党は、「帝国主義戦争反対」をスローガンに掲げて選挙を戦ったのですが、
 兵士の待遇改善問題を考えると、どうしても陸軍側を怒らせるスローガンは通りにくい。
 よって戦争の後押しにもなる兵士家族の保障を、ともにスローガンとしてしまうのです。
 不況下の生活苦の前に、無産政党も支持者も苦しい選択を迫られていたといえるでしょ
 う。
・1932年の時点で、日本社会のなかに、どれほど苦しくとも不正はするまいといった
 古き良き時代の常識や余裕がなくなっていて、しかも日本側には、日露戦争に際して日
 本が世界に向かって正々堂々と主張できたような、戦争を説明するための正当性がどう
 も欠けている、そんな状態にあったということです。ただ、当時の日本人が、世界が日
 本の主張を認めないならば、国際連盟を脱退してしまうぞ、というような二つに一つと
 いう選択肢だけを考えていたかというと、実はそうではない。当時の人々が、一見、勇
 ましいことを述べているときには注意が必要で、軍部の力を怖れて、表だけは強そうな
 ことを言ったりすることがありました。
・1932年6月、衆議院本会議で、当時の有力な二大政党である政友会と民政党が共同
 提案で、満州国承認決議を全会一致で可決させた。この時はまだ、リットン卿たちが汗
 水たらして報告書を書いていたときです。満州国承認を議会が決議するのは、ずいぶん
 大それた振舞いです。9月には日本政府が満州国を国家として承認した。これはもちろ
 ん、関東軍がつくった傀儡国家だったわけですが。
・国際連盟が日本の主張を無視して、満州国は承認できない、という報告書を出したとし
 て、その報告書を日本が認めなかったとしても、これは二言が連盟規約に違反したこと
 にはならない、と主張もあった。日本は脱退脱退と騒ぐことなく、単に「勧告に応じな
 い」というだけの態度をとればよい、との主張でした。満州国に関する問題で日本が強
 く出れば、おそらく中国の国民政府の中にいる対日宥和派の人々が日本と直接交渉に乗
 りだしてくるだろう、そういうもくろみがあったようです。事実、中国政府は秘密会議
 を開いて、まずは国内で共産党を敗北させ、その後日本にあたるとの方針を決定し、蒋
 介石は駐日公使をわざわざ呼んで、「日本に対しては提携主義をとる」こと、日中両国
 の宥和を少しずつ進めてゆくことを伝えたのです。
・昭和天皇としては、強硬姿勢をとりつつ中国側を交渉の場に引き出そうとするやり方に
 強い不安と不満を感じていたのです。あの松岡その一人でした。松岡が内田外相にたい
 して、そろそろ強硬姿勢をとるのをやめないと、イギリスなどが日本をなんとか連盟に
 留まらせるように頑張っている妥協策もうなくいかないですよ、どこかで妥協点を見出
 すか、よく自覚されたほうがよいですよと、書いて送った。
・物事はなにごとも八分目くらいで我慢すべきで、連盟が満州問題にかかわるのをすべて
 拒否できないのは、日本政府自身、よくわかっているはず。日本人の悪いところは何事
 も潔癖すぎることで、一つのことにこだわって、結局、脱退などに至るのは自分として
 は反対である。国家の将来を考えて、率直に意見を申し上げます。このように松岡は内
 田外相に書いている。しかし内田外相は断乎反対します。
・松岡だけが妥協しろと言っていたのではなく、陸軍の随員までもが、妥協しろと書き送
 っていた。 
・内田外相の作戦をダメにしたのは、もちろん、昭和戦前期においていつも問題を起こす
 問題児・陸軍でありました。中国の熱河省に、軍隊を侵攻させたのです。満州地域の一
 部である熱河省に、張学良の軍隊が依然として入り込んでいて満州国に反抗する運動を
 起こしている、よって、満州国のために、日本側は張学良軍を追い払うのだ、というこ
 とで軍隊を動かす。  
・日本と満州国双方は、一方の領土や治安に対する脅威を、もう一方の国に対する安寧や
 存立の脅威と見なして共同で防衛にあたるのだから、「所要の日本国軍は満州国内に駐
 屯するものとする」日満議定書には書いてある。つまり、陸軍の頭では、満州国内にあ
 る日本の軍隊が、治安維持のために満州国内の一地域である熱河省に軍隊を動かすだけ
 だ、と理解していた。天皇としてもそのように説明されれば、なんの疑念も生じなかっ
 たでしょう。ただ、そこはさすがに海軍の誇る大秀才であった齊藤首相が、とんでもな
 いことを陸軍はやってしまったのかもしれないと気づくわけです。齊藤首相は、大変な
 事態になったと気づく。陸軍は、満州事変の連続したもの「が熱河作戦にすぎないと考
 えているけれど、そうではない。連盟が和協案を提議して、日本側の最後の妥協を迫っ
 ているときでした。その連盟の努力中に、れっきとした中国の土地である熱河地域に日
 本軍が侵攻するとは、つまり、連盟が努力している最中に新しい戦争を始めた行為その
 ものに該当してしまう。そうなれば、日本はすべての連盟国の敵となってしまう。
・齊藤首相は天皇のところに駆け込み、熱河作戦を決定した閣議決定を取り消し、また、
 天皇の裁可も取り消してほしいと頼みます。天皇は侍従武官に向かって、前に天皇自身
 が参謀総長に向かって作戦の許可を与えた熱河作戦を中止したいと、求めたのでした。
 しかし、侍従武官や元老の考えは、消極的なものでした。もしここで天皇が一度出した
 許可を撤回したとなれば、天皇の権威が決定的に失われる。そしてもっとも困ったこと
 には、おそらく、陸軍などの勢力は天皇に対して公然と反抗し始めるだろう、こう考え
 るのです。そして、侍従武官や元老は天皇に対して、齊藤首相の要望を許可してはいけ
 ないとアドバイスする。 
・齊藤首相の申し出を聞いてはいけない、止めた侍従武官に対して天皇は、「統帥最高命
 令により、これ「熱河攻撃」を中止せしめえざるや、と、やや興奮あそばれて」、いま
 一度尋ねていたことがわかります。どうか自分の命令で止められないか、と興奮しつつ
 話された。
・クーデターを怖れる元老や宮中側近に阻まれた齊藤首相は、やむなく、閣議で、このま
 までは連盟から経済制裁を受ける怖れが出てくること、また除名という日本の名誉にと
 ってもっとも避けたい事態も考えられるとして、連盟の準備していた日本への勧告案が
 総会で採択された場合には自ら連盟を脱退してしまう、という方策を選択することにな
 りました。
・強硬に見せておいて相手が妥協してくるのを待って、脱退せずにうまくやろうとしてい
 た内田外相だったわけですが、熱河侵攻計画という、最初はたいした影響はないと考え
 られていた作戦が、実のところ、連盟からは、新しい戦争を起こした国として認定され
 てしまう危険をはらんでいた作戦であったことが、衝撃的に明らかにされてゆく。天皇
 も首相も苦しみますが、除名や経済制裁を受けるよりは、先に自ら連盟を脱退してしま
 え、このような考えの連鎖で、日本の態度が決定されたのです。
・軍隊というものが、その物理的な圧力でもって政治に介入することは、立憲制がとられ
 た世の中では不当なこと、正しくないことです。しかし、ここが悩ましいところで、本
 来、政治に干与してはいけない集団が、政治がなかなか実現できないような政策、しか
 も多くの人々の要求にかなっているように見えた政策を実現しようとした場合はどうな
 るか。満州事変から日中戦争の間の6年間に起こっていたのは、そのような悩ましい事
 態でした。
・1930年代は国民の約半分が農民だったのです。その農民が望んでいた政策は、選挙
 を通じてもなかなか実現されなかった。たとえば小作人の権利を保障する小作法などの
 法律は、すべての農民が望んでいたにもかかわらず、帝国議会を通過しない。しかも、
 1929年から始まった世界恐慌をきっかけとした恐慌は日本にも波及し、その最も過
 酷な影響は農村に出たのです。そうしたとき、政友会も民政党も、農民の負債、借金に
 冷淡なのです。農民に低利で金を貸す銀行や金融機関をつくれという要求は、政友会や
 民政党などの既成政党からは出てこない。このようなときに、「農山漁村の疲弊の救済
 はもっとも重要な政策」と断言してくれる集団が軍部だったわけです。さらに、当時の
 農村が、運隊に入る兵士たちの最も重要な供給源だった。当時は、いまだ徴集猶予とい
 う制度があって、旧制の中等学校、高等学校、大学などで学んでいる男子に対しては、
 徴兵検は施しても、実際には軍隊に徴集しない仕組みがあった。また、大企業や重化学
 工業などの工場で働く熟練労働者などは徴集されなかった。となると、どうしても、兵
 士になるのは上級の学校に進学できない階層、しかも都会ではなく農村部の人々が多か
 ったのです。
・陸軍には皇道派と統制派という二つの派閥があった。皇道派は隊付将校と呼ばれる人々
 が多かった。連隊に入営していた農民出身の兵士たちと兵舎で寝起きをともにしている
 ような人たちです。一方、統制派は、陸軍士官学校や陸軍大学校を卒業し、陸軍省や参
 謀本部などの中央官庁の中堅として働く人々が多かった。
・最も典型的な統制派軍人が永田鉄山でした。永田らが作成した陸軍パンフレットには、  
 いままでの統制派は、どちらかというと軍備増強のことばかり言っていて、帝国議会で
 軍事予算が通ればそれでいいという態度をとってきました。けれども、ここでちょっと
 スタンスを変えてくる。国防とは軍備増強だけではないと言いはじめる。国防は「国家
 生成発展の基本的活力」だと定義するんです。そして、いちばん大事なのは国民生活。
 「国民生活の安定を図るを要し、なかんずく、勤労民の生活保障、農山漁村の疲弊の救
 済は最も重要」と書かれていました。
・戦争が始まれば、もちろん、こうした陸軍の描いた一見美しいスローガンは絵に描いた
 餅になるわけですし、農民や労働者の生活がまっさきに苦しくなるわけですが、政治や
 社会を変革してくれる主体として陸軍に期待せざるを得ない国民の目線は、確かにあっ
 たと思います。   
・陸軍の統制派が、このように、国民の生活の保護などを積極的に言い出した理由は、第
 一には、来るべき戦争に対して国民はどうすればよいかを軍部なりに分析した結果でし
 た。ドイツが第一次世界大戦でどうして負けてしまったか、それについての分析があり
 ます。武力戦という面では、ドイツは連合国を最後まで圧倒していたという分析です。
 ならば、なぜ負けたのか。その理由については、「列強の経済封鎖に堪え得ず、国民は
 栄養不足に陥り、抗争力戦の気力衰え」たこと、それ以外にも、「思想戦による国民の
 戦意喪失、革命思想の台頭」などで国民が内部的に自壊してしまったからだと分析して
 います。そのうえで、今後の戦争の勝敗を決するのは「国民の組織」だと結論づける。
 国民を組織するためには政党を主とした議会政治ではダメだ、との軍部の考えは、この
 ような考えの延長線上にくる。
・陸軍の統制派がこのような陸軍パンフレットを作成した背景には、ソ連が、産業の重化
 学工業化である五カ年計画をどんどん成功させ、極東に関する軍備増強に成功しはじめ
 たことが挙げられます。1934年の頃の日本とソ連の航空機数の比較を見ると、日本
 の飛行機はソ連の3分の1以下というお寒い状況でした。満州国という傀儡国家をつく
 り、北満州もこの国家のなかに入れてしまった陸軍が満州国だけで安心できなくなる理
 由が、こうしたソ連の復活でした。満州国と国境を接するソ連軍を効率よく撃退すれば
 よいと考えたわけです。満州国の西側の場所、ここに安全な場所をつくりあげようとす
 る。中国の完全な主権下にあり華北地域を日本の影響下に置き、この地域にある飛行場
 に、日本軍の飛行機を配備しておこうと考えます。
・陸軍は、華北地方を中国の国民政府の支配から切り離し、日本の傀儡となりうる人物を
 表に立て、中国の首都である南京などの経済圏とは切り離した経済圏や政治圏をつくろ
 うとする。これによって、日本は中国と決定的に対立を深めてゆく。中国政府内には対
 日宥和派もいましたが、ソ連の復活に対してなりふり構わず華北を特殊地域にしようと
 はかる日本軍のやり方を見ては絶望せざるを得ない。日本は安全保障上の利益のために
 植民地を獲得し続けた特異な国だったが、ここでも同じ発想で動いている。華北分離工
 作も軍事的な方策を優先させた決定だった。
・中国の政府内の議論を見て感心するのは、「政治」がきちんとあるということです。日
 本のように軍の課長級の若手の人々が考えた作戦計画が、これも若手の各省庁の課長級
 の人々と会議形式で整えられ、ひょいっと閣議にかけられて、そこではあまり実質的な
 議論もなく、御前会議でも形式的な問答で終わる。こういう日本的な形式主義ではない
・日本の全民族主義は自滅の道を歩んでいる。中国がそれを介錯するのだ。介錯する犠牲
 なのだということです。けれども、そのように三年、四年にわたる激しい戦争を日本と
 やっている間に、中国はソビエト化してしまう。とにかく、中国は日本と決定的に争っ
 てはダメなのだ。争っていては国民党は敗北して中国共産党の天下になってしまう。そ
 のような見込みを持って日本と妥協する道を選択します。「蒋介石は英米を選んだ、毛
 沢東はソ連を選んだ、自分の夫・汪兆銘は日本を選んだ、そこにどのような違いがある
 のか」      
・日本軍によって中国は武漢を陥落させられ、重慶を爆撃され、海岸線を封鎖されていま
 した。普通、こうなればほとんどの国は手を上げるはずです。常識的には降伏する状態
 なのです。しかし、中国は戦争を止めようとはいいません。胡適などの深い決意、そし
 て汪兆銘のもう一つの深い決意、こうした思想が国を支えたのだと思います。
 
太平洋戦争(戦死者の死に場所を教えられなかった国)
・「人間の常識を超え、学識を超えて起これり、日本、世界と戦う」日本は世界を敵とし
 てしまったとの嘆きです。英米を相手として日本が開戦したのは驚きだった。学識、つ
 まり学問から得られる知見からすれば、アメリカと日本の国力の差は当時においても自
 覚されていました。たとえば、開戦時の国民総生産でいえば、アメリカは日本の12倍、
 すべての重化学工業・軍需産業の基礎となる鋼材は日本の17倍、自動車保有台数にい
 たっては日本の160倍、石油は日本の721倍もあった。こうした絶対的な差を、日
 本の当局はとくに国民に隠そうとはしなかった。むしろ、物的な国力の差を克服するの
 が大和魂なのだということで、精神力を強調するために国力の差異を強調すらしていま
 した。国民をまとめるためには、危機を煽動するほうが近道だったのでしょう。ですか
 ら、絶対的な国力差を自覚していることと、国力差のある戦争に絶対に反対することは
 分けて考えないといけない。少なくとも、知識人にとって開戦が正気の沙汰ではなかっ
 たと認識されていたのは確かです。
・日中戦争は気がすすまない戦争だったけれども、太平洋戦争は強い英米を相手としてい
 るのだから、弱いものいじめの戦争ではなく明るい戦争なのだといった感慨を、当時の
 中国通の一人であったはずの竹内が述べている。
・「今日は人々みな喜色ありて明るい。昨日とはまるで違う」イギリスの根拠地の一つで
 あったシンガポールが陥落したに日は「この戦争は明るい。平均に幸福と不幸とを国民
 が分かち合っているという気持ちは、支那事変よりも国内を確かに明るくしている。大
 東亜戦争直前の重苦しさもなくなっている。実のこの戦争はいい。明るい」と小説家の
 伊藤整が書き留めている。
・山形県大泉村(現在は鶴岡市)の小作農は、開戦の日の日記に「いよいよ始まる、キリ
 リと身のしまるを覚える」と書き、真珠湾攻撃の戦果が出た後には、午後から農作業を
 休んで、反日「新聞を見てしまった」と書きました。華々しい戦果に心を奪われている
 様子がわかります。
・横浜市内にある高島駅で駅員をしていた者の日記「駅長からこの報告を受けた瞬間、既
 に我等の気持ちはもはや昨日までの安閑たる気持ちから抜け出した。落ちつくところに
 落ちついたような気持ちだ」  
・これほどの国力の差がある国と戦争をして、日本は、たとえばドイツがソ連を打ち負か
 すためにモスクワの30キロ手前まで進撃したのと同じように、アメリカのワシントン、
 あるいはイギリスのロンドンまで攻めてゆくつもりであったかと問われれば、それはな
 んぼ無謀な陸軍でも考えていなかったといわざるを得ない。とにかく相手国の国民に戦
 争継続を嫌だと思わせる、このような方法によって戦争終結に持ち込めると考えていた。
 冷静な判断というよりは希望的な観測だったわけです。
・戦争をいったいどうやったら終わらせることができるか、いちばん心配していたのは昭
 和天皇だったはずです。日中戦争が勃発したとき、この戦争は三ヵ月で終わるなどと天
 皇の前で豪語した軍部でしたが、太平洋戦争が始まるまで4年間戦っても終わらない。
 天皇は、近衛文麿首相、杉山参謀総長、永野軍令部総長の三人を前にして、開戦ととも
 に展開されるはずの「南方作戦は予定どおりできると思うか」、「上陸作戦はそんなに
 楽々できると思うか」と繰り返し確認しています。    
・陸軍が御前会議のために準備した文書には、こう書かれています。来るべき戦争は英米
 蘭(イギリス、アメリカ、オランダ)に対するものであって、その戦争の目的は、東亜、
 つまり東南アジアにおける米英蘭の勢力を駆逐、追い払って、帝国の自立自衛を確立し、
 あわせて大東亜の親秩序を建設することにある、と。
・日本は他のアジア諸国と軍事的、経済的、政治的に緊密な関係を樹立しようとしたのに
 米英蘭は日本の計画に反対している。日本がこの時期にあって後退すれば、アメリカの
 軍事的地位は時の経過とともに優位となり、日本の石油の備蓄量は日ごとに減ってゆく。
 この時期、開戦を一年、二年と延ばすのは、かえって、歴史が教えているように不利に
 なるだけだ。
・さてこの後、軍部は歴史を突然持ち出すのですが、いきなり、豊臣秀吉、徳川家康の時
 代の歴史を引き出してくるのです。なにがなんでも戦争しろといっているのではないが、
 大阪冬の陣の翌年の夏、大阪夏の陣が起こったとき、もう絶対に勝てないような状態に
 置かれてしまった豊臣のようになっては日本の将来のためにならないと思う、と永野は
 述べるのです。
・開戦の決意をせずに戦争をしないまま、いたずらに豊臣氏のように徳川氏に滅ぼされて
 崩壊するか、あるいは、七割から八割は勝利の可能性のある、緒戦の大勝に賭けるかの
 二者択一であれば、おれは開戦に賭けるほうがよい、との判断です。このような歴史的
 な話をされると、天皇もぐらりとする。アメリカとしている外交交渉で日本は騙されて
 いるのではないかと不安になって、軍の判断にだんだんと近づいてゆく。
・東条英機が首相になると、東條は「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」という文書
 を陸海軍につくるように命ずる。これが戦争を終わらせる計画ですよ、と天皇の前で説
 明するためのものだった。ただ、この腹案の内容というのは、他力本願の極致でした。
 このときすでに戦争をしていたドイツとソ連の間を日本が仲介して独ソ和平を実現させ、
 ソ連との戦争を中止したドイツの戦力を対イギリス戦に集中させることで、まずはイギ
 リスを屈服させることができる、イギリスが屈服すれば、アメリカの継戦への意欲が薄
 れるだろうから、戦争は終わると。すべてがドイツ頼みなのです。
・独ソ線を、なぜ日本が仲介で止めさせることができると考えていたのか。当時の日本は、
 イギリス、アメリカ、オランダ、中国、これらの国々が悪いのは自由主義を信奉する資
 本主義国だからで、有産階級や資本家が労働者や農民を搾取している悪い国だと、さか
 んに国民に説明していた。その点でいえば、ソ連は社会主義国であって資本主義国とは
 違う、とくに経済政策の点で国家による計画経済体制をとっているのだから、反自由主
 義、反資本主義ということで、日本やドイツと一致点があるのだ、こう日本側は考えよ
 うとしていたのだと思います。 
・参謀本部の第二課は陸軍の作戦計画を立てる部署ですが、彼らも天皇説得のための書類
 をつくっていました。開戦当初は、通商破壊戦と航空機で相当の被害が出るものと予想
 されるが、事態はしだいに回復して、終局においては「戦いつつ自己の力を培養するこ
 と可能」と判断されている。物資を運ぶ輸送船や海軍軍艦艇の建造可能なペース、飛行
 機の製造可能なペースと、沈没させられる予想トン数、消耗数する予想機数を挙げて、
 結論としては大丈夫、と太鼓判を押すのです。しかし、これは見込み違いの数値だった。
・現実に起こったことのレベルが日本側にとって予想外のすごさだったということは見な
 ければなりません。アメリカは総動員体制に入った後、兵器の大量生産という点でもす
 ごかった。1939年の時点では、アメリカは飛行機を年間で2141機しか造れませ
 んでした。それに対して日本は2倍以上、年間で4467機を製造する力があった。し
 かし、この日本側の優位は、アメリカが本気になったとき、あっという間に崩れるので
 す。1941年時点でのアメリカの製造能力は1万9千機、日本は5千機で、アメリカ
 は日本の4倍もの生産能力を獲得している。そして、この比率は1945年まで変わり
 ません。アメリカという民主主義国が売られたケンカを買ったとき、いかに強くなるか
 がわかります。日本側の予想をはるかに超える事態でした。
・1937年7月に北京郊外の華北地域で勃発した日中戦争は、華中地域に飛び火し、上
 海という国際的大都市を巻き込んで、激しい航空戦が展開され、戦闘は1937年8月
 半ばに本格化します。この三ヵ月弱の戦闘による日本側の陸軍の死者は約9千人、海軍
 については、8日間だけで戦傷者は465人に達していました。つまり、中国軍は日本
 軍にこれだけの損害を与えるほど強かった。
・中国側が強かった理由は、もちろん、1931年以来、日本側のやり方に我慢ならなか
 ったという抗日意識が高まりがまずはあります。また、ドイツは日本と三国同盟を調印
 することになる国ですが、満州国を承認して明確に日本側と手を組むまでは、中国側に
 最も大量の武器を売り込んでいた国でした。兵器・軍需品を売り込むでけでなく、軍事
 顧問団も蒋介石にもとに送っていた。ドイツ人軍事顧問団に率いられた中国軍は、ベン
 ツのトラックで運ばれて戦場に赴いていたのですから、日本軍の持っていた国産の軍用
 トラックなどよりずっと性能がよかったはずです。
・このような中国とドイツの関係は、経済的な商売関係です。しかし中国とソ連の場合は、
 軍事的な関係がつくられ、中ソ不可侵条約を結んでいた。ソ連は、日本側との軍事的な
 対立は早晩けられないと考えてはいましたが、自らの国家が対日戦争の準備ができる
 まで、その時間かせぎを中国にやってもらえるならば、このくらいの軍事援助はお安い
 御用という感じだったと思います。この、ソ連の軍事援助と同じ、あるいはもう少し道
 義的な意味の濃い援助を始めたのがアメリカとイギリスでした。英米は中国の各都市に
 巨額の経済的権益を持っている列強ですから、日本側に中国との貿易を独占されること
 は我慢ならないことでした。
・アメリカは日本に対し、航空機とその部品の対日輸出を禁止し、日米通商航海条約の廃
 棄を通告しました。 
・日本軍は、上海、南京、武漢を陥落させ、日本の実質的な占領地は、中国の産業文化の
 中心である長江下流域、中流域まで拡大します。イギリスは武漢が陥落した1938年
 10月頃から、中国は日本との戦争に負けるのではないか、国土をこれだけ侵略されれ
 ば、日本のいいなりになってしまうのではないかと怖れます。そしてイギリスも中国の
 貨幣価値が下がって中国が経済的に困窮しないように、通過を安定させるための借款を
 行いました。  
・日本軍の南進の理由の二つ目は、東南アジアの資源を見本自らが獲得しようという意図
 がありました。日中戦争がなかなか終わらないのであれば、戦争継続のための資源を自
 力で南方に求める必要がある、こう考えたわけです。しかも、ドイツ軍に制圧されヨー
 ロッパのほとんどの国が敗退したのなら、そうした国々を本国とする植民地、東南アジ
 アの植民地は、ドイツがとらない限り主人のいない地域となる。ならば、この地に進出
 して自給自足圏をつくろう、との発想でしょう。
・米英ソなどの国々が中国を援助したから日中戦争は太平洋戦争に拡大してしまったとい
 ったような、非常に他律的な見方、つまり、他国が日本を経済的にも政治的にも圧迫し
 たから日本は戦争に追い込まれた、日本は戦争に巻き込まれたのだ、という考え方です。
 しかしそれは違います。日本における国内政治の決定過程を見れば、あくまで日本側の
 選択の結果だとわかるはずです。
・米内光政内閣においては、ヨーロッパの戦争には介入しないことにしていました。ヨー
 ロッパの戦争にずっと不介入でいればよかったのですが、ドイツ軍の快進撃を前に日本
 側に欲が出てくる。東南アジアにはヨーロッパの植民地がごろごろしている、植民地の
 母国がドイツに降伏した以上、日本の東南アジアへの進出をドイツに了解してもらわな
 ければならない、こう考えるのです。また、ドイツ流の、一国一党のナチス党による全
 体主義的な国家支配に対する憧れが日本にも生まれてくる。衆議院では相変わらず政友
 会や民政党などの既成政党が多数を占め、貴族院では生まれた家柄がよいだけの無能な
 貴族が多数を占めている、これではダメだというのです。こうした国民の気運を背景に、
 日中戦争勃発時の首相であった近衛文麿が新体制運動に着手し、再び首相の座につきま
 す。そしてこの二カ月後、三国軍事同盟が締結される。
・戦争への道を一つひとつ確認してみると、どうしてこのような重要な決定がやすやすと
 行われてしまったのだろうかと思われる瞬間があります。たとえば、1941年7月の
 御前会議決定がそうです。ポイントは南部仏印進駐が決定されたことにあります。日米
 交渉による道を選択していた陸軍省軍務局はどうして反対しなかったのでしょうか。当
 時の日本は、松岡外相がモスクワに飛んで、ソ連との中立条約を結んでいた。松岡にし
 てみれば、ソ連の対中国武器援助だけでも止めらせることができ、これはとてもよい条
 約ができたものだと喜んでいたわけです。一方日本は、ドイツとすでに三国同盟を結ん
 でいる。日独伊ソというような、いわば四国同盟に近いものができて、やれやれ、これ
 で英米などの資本主義国と対抗できるかな、と考えていた。ところが、松岡のプランは
 独ソ戦勃発で崩れてしまう。松岡はそれまでの態度を一変して、ならばドイツがソ連を
 攻撃している間に、日本もソ連の背後からドイツと一緒ににあって攻撃してしまおうと
 いいだす。つまり、「北に進め」との大号令をかける。その松岡の北進論に強く賛成し
 たのが、参謀本部の作戦課でした。参謀本部作戦課は、自給自足圏を獲得するための南
 進を掲げていたグループですが、これも考えれば、もともと対ソ戦を悲願としていたグ
 ループですから、松岡外相の意見に乗ってしまう。そこで、このような急激な北進論の
 とまどったのが、陸軍省軍務局と海軍でした。このグループは、今、ソ連を攻撃されて
 は困る、日米交渉の線もまだ可能性はあるということで、陸軍省と海軍が中心となって、
 北方戦争論を牽制するように動く。
・彼ら、陸軍省と海軍の考えでは、南部仏印進駐をしたからといって、アメリカがなにか
 強い報復措置に出るとはまったく考えていなかったのです。どうでここはフランス領で
 あると。アメリカの権益と関係ないだろうと。彼らは、日本の南部仏印進駐が実行され
 たのをみたアメリカが、すぐさま、在米日本資産の凍結を断行し、石油の対日全面禁輸
 を実行するとは予想していませんでした。
・アメリカは、とにかく、ドイツ軍300万人によって侵攻されたソ連が10月まで戦線
 を維持して敗北しなければ、翌年の春まで安泰だと考えました。というのは、ソ連には
 冬将軍という強烈な味方があったからです。
・アメリカとイギリスは、ソ連に対して軍需物質を送る協定をソ連と結びましたが、これ
 もとにかく1942年春までソ連戦線が持ちこたえてくれればよいとの考え方でした。
 ソ連を元気づけられることがあればなんでもやったわけです。つまりアメリカは、日本
 の南進に対して強く報復することで、ソ連が日本を心配しないで済むように、そのため
 に強い反応をしましたといえます。
・1941年の御前会議の際、天皇を説得するときに、軍令部総長が、しなしの間の平和
 の後、手も足も出なくなるよりは、七割から八割は勝利の可能性のある緒戦の大勝に賭
 けたほうがよいと軍令総長は述べていました。今から考えれば日米の国力差からして非
 合理的に見えるこの考え方に、どうして当時の政府の政策決定にあたった人々は、すっ
 かり囚われてしまったのでしょうか。この点を考えるには、軍部が、1937年から始
 まっていた日中戦争の長い戦いの期間を利用して、こっそり太平洋戦争、つまり英米を
 相手とする戦争のためにしっかりと資金を貯め、軍需品を確保していた実体を見なけれ
 ばなりません。
・日中戦争を始めて、蒋介石相手に全力で戦うこともしていたけれども、裏で、太平洋戦
 争向けの軍需への対応を準備できるようにしておく。1940年の1年分を例にとって
 どれだけが日中戦争に使われ、どれだけが太平洋戦争への準備として使われたかをいえ
 ば、なんと三割しか日中戦争に使われていない。残りの七割は、海軍は米英との戦争の
 ために、陸軍はソ連との戦争を準備するために使っている。つまり、日本側は、表向き
 は日中戦争。ですよ、いいながら、太平洋戦争にむけて、必死に軍需品を貯めていたこと
 になる。よって、戦いの最初の場面で、いまだ準備の整っていないアメリカを不意打ち
 にして勝利をおさめれば、そのまま勝てるかもしれないとの考えが浮かぶ。
・日本は、12月8日、まずは陸軍が英領マレー半島のコタバルに上陸を開始し、ついで
 海軍がハワイの真珠湾でアメリカの主力艦隊に攻撃を開始します。陸軍が対英作戦を、
 海軍が対米作戦を発動させますが、ワシントンにおいて野村駐米大使がハル国務長官に
 対米最後通牒を手渡したのは、攻撃がすでに始まってからほぼ1時間が経過した後でし
 たから、日本は宣戦布告より前に奇襲作戦で英米に打って出たことになります。
・天皇に対して、この山本の作戦が説明され承認を得たのは、1941年11月でした。
 真珠湾攻撃を含んだ全作戦計画を天皇に説明し、とくに真珠湾攻撃に関しては「桶狭間
 の戦にも比すべき」奇襲作戦であるとの説明がなされ、艦隊同士の主力決戦になっても
 「充分なる勝算」があり、持久戦になっても「海上交通線の保護は可能」だから、対米
 武力戦は可能だとされたのです。「桶狭間の戦」というのは、大軍率いる今川義元の本
 陣を10分の1ほどの軍勢しかない織田信長が急襲し、見事、勝利した戦をいいます。
・なぜアメリカは戦艦を無防備な状態で真珠湾にずっと置いていたのでしょうか。という
 のは、日本側は必ず奇襲先制攻撃をしかけてくる国であることは、英米側によく理解さ
 れていました。日本との戦争は、日本からの先制攻撃によって始まるということは予想
 されていた。先制攻撃があるとずれば、ハワイはうってつけです。それなのに、なぜア
 メリカは、航空機から落とされる魚雷に対抗するための魚雷ネットとか、そのような適
 切な防備を設置していなかったのか。
・魚雷は高度100メートルぐらいで飛ぶ飛行機から落とされると、60メートルくらい、
 海面から沈む。この沈んだときの衝撃で機械が動き、魚雷についたスクリューが回り出
 して海面近くまで浮上し、あとは定深度6メートルを保って目標に向かってぐんぐん進
 む。
・真珠湾の水深は12メートルの浅い湾でした。戦艦は水面から船底まで7メートルあれ
 ば停泊させられますから、ここに停泊させるのは合理的です。そしてもっとも合理的だ
 ったのは、水深が12メートルしかありませんから、投下されたときに60メートル沈
 むのが魚雷だとすると、これは無敵な湾だったことになります。深い湾でしたら、魚雷
 がきちんと沈んでも余裕があることになる。しかし、真珠湾は浅いので、魚雷が落とさ
 れれば、すべて湾の底に杭を打ったように突き刺さって、全然役に立たないはずだ、こ
 うアメリカ側は考えていました。つまり、アメリカ側も、日本の技術に対して、侮って
 いた部分がある。海底擦れ擦れまでしか沈まないように、そっと魚雷を落とす技術など
 ありえないと思っていた。   
・海軍航空隊の訓練は、休みもなく激しく厳しいものでした。地形の似た鹿児島湾を真珠
 湾に見立てて、魚雷の落とし方を訓練していた。つまり、60メートル沈まないように
 魚雷を投下する訓練です。もちろん、そういった訓練だけでなく魚雷自体にも様々な改
 良がなされます。 
・アメリカ側も、よもや日本側がこのような攻撃をしかけるとは思いませんから水深12
 メートルの浅さに安心し、魚雷ネットなどの十分な防備をしていなかった。こうした浅
 い海での魚雷攻撃の例は、日本人お独創だったのではありません。真珠湾攻撃の約1年
 前、イギリス海軍の水上攻撃機がイタリアのタラント軍港を急襲し、停泊中のイタリア
 戦艦2隻を魚雷による攻撃で撃沈した例がある。タラント港の水深は14メートルでし
 た。 
・速戦即決以外で日本が戦争を行うプランをつくれただろうか。短期決戦以外につくれた
 だろうか。国土が広大で人的資源が豊かなソ連、アメリカ、中国、そして七つの海に植
 民地帝国を築いていたイギリス。これら以外の国は、総力戦となったときに、おそらく
 持久戦はできないのではないでしょうか。それでは、持久戦を避けたい国、電撃戦をや
 りたい国はいかなる行動に出るか。   
・ナチスというと反ユダヤ政策にすぐ目が行きますが、反共という側面を見落としてはい
 けません。共産主義への防波堤をつくらなければドイツは生存できないといいはじめる。
 そこで、ヒトラーは中国支持の政策を劇的に転換して、日本支持の政策をとるようにな
 る。 
・ドイツの国防軍などは日本軍を馬鹿にしていました。第一次世界大戦で総力戦の血の洗
 礼を受けてこなかったわけですので。けれども、その態度を劇的変える。日本はやはり
 地政的的に見てソ連に対する天然の要害(要塞)だったからです。ソ連が太平洋に出て
 いくためには、日本の海峡が三つもある。津軽、宗谷、対馬海峡です。ドイツは経済合
 理的な中国政策を捨て、日本を選択することになるのです。
・日本は持久戦ができないのなら、そもそも戦いのエントリーができない国なのだと自ら
 認めてしまえばよいのだと考えた人がいました。水野廣徳です。現代の戦争は必ず持久
 戦、経済戦となるが、物資の貧弱、技術の低劣、主要輸出品目が生活必需品でない生糸
 である点で、日本は致命的な弱点を負っている。よって日本は武力戦には勝てても、持
 久戦、経済戦には絶対に勝てない。ということは、日本は戦争する資格がない、と。し
 かし、水野の議論は弾圧されます。また国民もこのような議論を真剣に受け止めない。
 つまり、持久戦はできない、ならば地政学的にソ連を挟撃しようか、あるいはいかに先
 制攻撃を行うか、といった二者択一となってしまう。
・アメリカと日本の戦争は、マリアナ沖決戦で、もう絶対に決着がついてしまっていたの
 です。この海戦で日米の空母の機動部隊同士が戦い、日本側は決定的に負ける。ここで
 日本側は空母、航空機の大半を失います。戦争の勝敗の分かれ目ということであれば、
 ミッドウェー海戦が有名ですが、まだ1942年の時点では、日本陸軍による香港、フ
 ィリピン、シンガポール、ジャワ、ビルマなどへの侵攻の成功から、日本軍の不敗神話
 はいまだ健在でした。 
・たくさんの戦死者が出ているのに、その被害が日本全国に伝わらなかったのはどうして
 か。ある地域に限っては、新聞には戦死者の名前と人数は出る。地域にとってお葬式は
 大事ですから。でも、日本のそれ以外の地域には情報が伝わらない。地方紙の地方版に
 載った戦死者の情報全体を合計することはできないようになっていた。だからそれこそ
 自動車で走り回って、すべての件の新聞の地方版の1カ月単位の戦死者を合せれば、全
 国規模のその年の戦死者数の合計がわかるはずです。しかし、そういうことをやれた人
 はいないでしょう。国民全体が敗戦を悟らないように、情報の集積できないようなかた
 ちで戦争を続けていた。それが1944年の状況でした。
・それでは、当時の日本人がどのように情報を得ていたかというと、ラジオがありますね。
 国民の五割がラジオの景や記者でしたから、隣近所で大きくラジオをかけていれば、国
 が知らせたいことはだいたいバッと伝わる。 
・日本人はドイツ人にくらべて、第二次世界大戦に対する反省が少ない、とはよく言われ
 ることです。真珠湾攻撃などの奇襲によって、日曜日の朝、まだ寝床にいたアメリカの
 若者を3千人規模で殺害したことになるのですから、これ一つとっても大変な加害であ
 ることは明白です。日中戦争、太平洋戦争にいける中国の犠牲者は、中国が作成した統
 計では、軍人の戦死傷者を約330万人、民間人の死傷者を約800万人としています。
 さらに台湾、朝鮮、南洋諸島など、日本の植民地や委任と統治領になった地域の人々の
 労苦も、決して忘れてはならないものです。1938年に制定された国家総動員法に基
 づいてつくられた国民徴用令によって植民地からも日本国内の炭坑、飛行場建設などに
 多くの労働者が動員されました。朝鮮を例にとれば、1944年までに、朝鮮の人口の
 16%が、朝鮮半島の外へと動員されていた計算になるといいます。
・しかし、太平洋戦争が、日本の場合、受け身のかたちで語られることはなぜ多いのか。
 つまり「被害者」ということですが、そういう言い方を国民が選択できたのには、それ
 なりの理由があるはずだと思います。1944年から敗戦までの1年半の間に9割の戦
 死者を出して、そしてその9割の戦死者は、遠い戦場で亡くなったわけです。日本とい
 う国は、こうして死んでいった兵士の家族に、彼がどこでいつ死んだのか教えることが
 できなかった国でした。この感覚は、現代の我々からすれば、ほとんど理解しがたい慰
 霊についての考え方であります。
・太平洋戦争が「被害」の諸相として国民に語られる背景の二つ目には、満州にからむ国
 民的記憶を挙げる必要があるでしょう。1935年8月8日、それまで日本と中立条約
 を締結していたことから、中立状態を保っているソ連が、ドイツが降伏してから三カ月
 後に対日参戦するとの連合国側への約束どおり、日本に参戦、侵攻を開始します。ただ、
 アメリカは8月6日、広島へ原爆を投下しておりましたので、日本の敗戦は時間の問題
 であった。そこにソ連からの侵攻があり、満州に開拓団移民として多数入植していた人
 々が、ソ連軍の侵攻の矢面に立たされたこともあり、ソ連に対する憎しみの感情は戦後
 の日本で長く生きていたと思います。
・満州と呼ばれた地域には、敗戦時、150万人の民間人がいました。それに加えて50
 万人の関東軍兵士がいた。つまり終戦時には200万人の日本人が満州にいたわけです。
 侵攻してきたソ連軍のよって、ソ連のシベリア地域やモンゴルなどの地域に抑留された
 日本人は約63万人。抑留された63万人のうち、過酷な環境により死亡した人は6万
 6千人以上に及びます。
・終戦時、海外にいた民間の日本人は321万人でした。陸海軍軍人が約367万人です
 ので合計788万人が海外にいました。そのうち200万人が満州にいた。その200
 万人のうち、抑留者を含め、ソ連の侵攻後に亡くなった人の総数が24万5千人以上と
 いわれています。この数にはやはり圧倒されます。
・敗戦時の人口の8.7%の国民が引き揚げを体験している。
・満州からの引揚げといったとき、我々はすぐに、ソ連侵攻の苛酷さ、開拓移民に通告す
 ることなく撤退した関東軍を批判しがちですが、その前に思い出さなければならないこ
 とは、分村移民をすすめる際に国や県がなにをしたかということです。特別助成や別途
 助成という金で、分村移民送出を買おうとした施策は、やはり、大きな問題をはらんで
 いたというべきでしょう。今で国や県がやることはだいたい同じですが、これこれの期
 日までに、何人の分村移民を集められれば、これこれの予算をつけてやる、というその
 ようなやり方で、村々に競争をさせたわけです。
・日本人の中には、過去を正しく見つめるドイツ人、そうはならない日本人、といった単
 純な対比はもういい加減にしてくれ、という人も多いと思います。ただ、やはり日本人
 が戦争というものに直面した際の特殊性というのでしょうか、そのようなものがデータ
 として正確に示されるのであれば、正視したいと常に思っています。その一つが捕虜の
 扱いのデータです。そのデータからは日本とドイツの差がわかります。ドイツ軍の捕虜
 となったアメリカ兵の死亡率は1.2%にすぎません。ところが、日本軍の捕虜となっ
 たアメリカ兵の死亡率は37.3%にのぼりました。これはやはり大きい。日本軍の捕
 虜の扱いのひどさはやはり突出していたのではないか。もちろん、捕虜になる文化がな
 かった日本兵自身の気持ちが、投降してくる敵国軍人を人間と認めない気持ちを生じさ
 せた側面もあったでしょう。しかしそれだけではない。自国の軍人さえ大切にしない日
 本軍の性格が、どうしても、そのまま捕虜への虐待につながっている。
・戦争には食糧がいる。ニューギニア北部のジャングルなどには自動車道はない。兵士の
 1日の主食は600グラムです。最前線で5千人の兵士を動かそうとすると、基地から
 前線までの距離にもよりますが、主食だけ担いで運ぶと想定すると、なんと、そのため
 だけに人員が3万人くらい必要になるのです。しかし、このような計算にしたがって食
 糧補給をした前線など一つもなかった。この前線では戦死者ではなく餓死者がほとんど
 だったといわれるゆえんです。そして、このような日本軍の体質は、国民の生活にも通
 底していまいた。戦時中の日本は国民の食糧を最も軽視した国の一つだと思います。敗
 戦間近の頃の国民の摂取カロリーは、1933年時点の6割に落ちていました。
 1940年段階で農民が41%もいた日本で、なぜこのようなことが起きたのでしょう
 か。日本の農業は労働集約型です。そのような国なのに、農民には徴集猶予がほとんど
 ありませんでした。肥料の使い方や害虫の防ぎ方など農業生産を支えるノウハウを持つ
 農学校出の人たちも、国は全部兵隊にしてしまった。すると、技術も知識もない人たち
 によって農業が担われるので、1944年、45年と農業生産は落ちまくる。政府が、
 農民の中にも技術者はいるのだと気づいて、徴集猶予を始めるのは1944年です。こ
 れでは遅い。 
・それに比べるとドイツは違っていました。ドイツの国土は日本にもまして破壊されまし
 たが、降伏する2カ月前までのエネルギー消費量は、なんと1933年の1,2割増し
 でした。むしろ戦前よりもよかったのです。国民に配給する食糧だけは絶対に減らさな
 いようにしていた。国民が不満を持たないようにするためにはまず食糧確保というわけ
 です。 
・やはり兵士にとっても国民にとっても太平洋戦争は悲惨な戦争でした。日本の炭鉱では、
 たくさんの中国側の捕虜や朝鮮半島から連れてこられた労働者が働かされていました。
 本来は捕虜に労働させるには十分な食糧と給料を出し、将校は労働させてはいけないな
 どのルールがあったはずですが、そのようなことはもちろん守られなかった。そして膨
 大な死傷者が出ました。