日本人はなぜ戦争へと向かったのか
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日本が戦争へと向かっていった最大の原因は、日本の政治の未熟さにあったようだ。決め
るべきことを決められず、無責任のまま先送りし続けていった結果、そのツケがどんどん
蓄積されていき、どうにもならない状態にまでなっていった。それが軍部の暴走を招き、
アメリカと戦争をすることによって、積もり積もった問題が一気に解決するんだという幻
想に取り付かれたしまった。このことは現代にも通じる。
「これは戦争の条約ではないんだ。これは戦争を防ぐための条約なんだ」。これは日独伊
三国同盟(1940年)を結んだときの、日本の当時の外務大臣の言葉である。この言葉
には、自分たちの間違った行いを、何とかとり繕ろおうという魂胆が、見え見えである。
そしてこれは、憲法解釈変更という強引な手法により集団的自衛権行使を容認し、日米同
盟強化を進めている現在の安倍政権が、しばしば口にする言葉とまったく同じ言い回しだ。
力による外交を推し進める現在の安倍政権の姿が、戦前の日本の姿に似ていると言われる
が、まさにそのことを裏付ける政府の言い回してある。
今日本が抱える最大の問題は、先送りし続けきた結果積み上がった、とてつもない額の国
の借金である。しかし、現代の日本の政治は、このことに正面から向き合うことを避け、
安全保障の問題に逃げている。今、日本が決断すべきは、安全保障の問題ではなく、巨額
な財政赤字の問題だ。このままいけば、日本は他国から戦争を仕掛けられなくても、近い
将来自ら瓦解していくだろう。

まえがき
・太平洋戦争が終わってから70年が経ちました。信じがたい数の人々が犠牲になった沖
 縄戦や本土空襲、そして原爆。凄まじい戦場での惨劇。アジア各地への侵略の側面。そ
 れらの惨禍の記憶の風化も進み歴史の継承はより重要度が増しています。一方で、歴史
 認識をめぐる日中・日韓関係や集団的自衛権、沖縄の基地問題などについて緊張感が高
 まっています。あの戦争をどう捉えるかが再び根底から問われる機会はむしろ増えてい
 ます。
・戦前の軍部までもが負ける予感していた戦争になぜ踏み込むことになったのか。戦後、
 日本自身が太平洋戦争を総括する機会を逃したと言われている。
・政治的な動きも含めて韓国の反日の気運が高まり、先の戦争の経緯を実感できているわ
 けではない多くの日本人の間に戸惑いが拡がりました。特に戦争を知らない世代は、学
 校でも近現代史に割く時間が少ないと言われ知識が得にくいのでなおさらです。  
・いまの日本人は過去の戦争の歴史について、納得のいく認識を得ることが難しいにもか
 かわらず責任を感じざるを得ない、そんな負荷を課しながら国際社会と接していること
 になります。 
・当事者の肉声が物語っていたのは、ほとんどの日本の指導者たちが、誰しも戦争を前提
 に歴史のコマを進めていたのではなく、むしろアメリカとの戦争は敗色が濃厚であるが
 故に避けたいと考えていながら、結局は戦争への道を進んでしまった、という歴史でし
 た。 
・第一次世界大戦後、日本では、国を大局的に導いてきた明治からの元老が亡くなり、普
 通選挙が行われて政党政治が始まり、マスコミやいわゆる世論が出現しました。世界は
 
 ました。世界世論も細かく変動するようになり、その駆け引きも活発化していました。
 そこに世界大恐慌が起きて列強は保護主義の色彩を強めました。こうした非常に複雑な
 因子が絡み合い、日本の為政者と軍官僚の思惑と対応が次第に世界史のダイナミズムと
 の間にズレを引き起こしていった。
・「世界から孤立していった外交」「暴走するメカニズムを内包していた陸軍の組織」
 「ナショナリズム型世論を加熱させたメディア」「開戦の年に戦争を避ける決断ができ
 なかった指導者」の4つのも問題

外交:世界を読み違えた日本
・第一次世界大戦後、史上初の国際平和機構として誕生した国際連盟だったが、紛争処理
 に関してはきわめて脆弱な力しか持たなかったことはよく知られている。最高決定機関
 は現在の国際連合とは異なって「理事会」ではなく「総会」にあり、また、理事会の議
 決も加盟国へお強制力を持っていなかった。
・第一次世界大戦という惨禍を教訓として誕生した国際連盟に象徴されるように、当時の
 世界は国際問題の平和的解決を求めて、新しい方法を模索しはじめていた。力がモノを
 いう「古い外交」と国際協調に基づく脱帝国主義的な「新しい外交」、いうなれば、利
 権と道義のはざまでその折り合いを探っていたというのが列強各国の実情であった。  
 ところが、世界大恐慌がこの新しい外交の潮流をより複雑にする。経済的打撃を恐れる
 列強各国は次々とブロック経済を形成し、自国の権益を固執する姿勢へと傾斜していっ
 た。
・当時の日本外交を振り返ってみてわかるのだが、当事者たちの共通していた「楽観」で
 ある。その正体は、力による古い外交がなお容認されるという、外交の潮流を見誤った
 認識であった。 
・日本を蝕んていた「病巣」は、情勢認識の甘さ、楽観こそがまさにそれであった。こう
 した希望的な解釈は後の戦争へとつながる国家の判断に大きく影響していくこととなっ
 た。 
・満州事変における「リットン調査報告書」が提示した妥結案は、実は日本に有利な内容
 だった。一見すると、「満州国」を承認せずその宗主権を中国に返還させるとした提言
 は、日本に厳しい対応にも映った。だが、現地経営を「国際管理」とし、そこに日本人
 顧問の起用も盛り込むなど、日本が実質を握ることを容認したその中身は、多分に日本
 に配慮されたものだった。つまり名は中国に、実は日本に。日本はこれ以上、中国で手
 を広げない。それで事変は幕引きとするというのが、リットン調査団が導き出した妥結
 点であった。しかし、国内情勢を優先するあまり、日本政府はイギリスの提案を顧みる
 ことができなかった。 
・日本はイギリスなど列強の政治の潮流を読み誤ったと思います。帝国主義から民主的な
 政策への重心は移りつつありました。日本政府は、まだ列強が古い通念にとどまってい
 ると考えた。 
・満州問題の収拾を目指しながら、結果、連盟脱退というまったく想定外の状況に追い込
 まれたジュネーブ総会。振り返ってみれば、日本にとって有利な条件で妥結する道はあ
 った。それを逃し、外交的に完全なる敗北を喫してしまった要因は、日本側当事者たち
 の甘い体質にほかならなかった。そこから浮かび上がってくるのは、「希望的判断」に
 終始し、その幻想が破れると「急場しのぎ」の策に奔走する、国家としての根本的な戦
 略が欠如した日本の姿であった。 
・1930年代前半の政治状況は、きわめて流動的な様相を呈していた。実際、大恐慌の
 起こった29年からの6年間だけを見ても、7人の首相がめまぐるしく入れ替わった。
 30年代は政党政治の過度期、つまり民政党と政友会という従来の二大政党制から、国
 民を再組織した新たな政治体制への移行が模索された時期であった。だがその実態は、
 くるくる替わる政権に国民は政治への期待を喪失し、民意による支持を得られなくなっ
 た政党やその内閣は求心力を失っていくのだった。 
・政府の統制が効かぬまま、軍部をはじめ各組織は独自の政策や外交を展開し始めた。そ
 うしたなかで、思わぬ形で始まったのが軍による外交への介入、その結果としての外交
 分裂であった。 
・軍と外務省、一つの国家にまったく相容れない外交方針が並存する、二重外交が生じて
 いた。陸軍は中国の犯行姿勢を強調して捉えすぎた。逆に外務省は、弱い中国、日本と
 協力したがっている中国のイメージで情報を読んでしまい、対中観をつくってしまった。
 陸海軍、外務省の縦割りがどんどん進んでしまって、情報の共有はまったくできなくな
 った。
・明治憲法における政府の統治システムは、軍の統帥権や政府の外交権などの様々な「大
 権」並立する、分権的傾向の強いものであった。陸軍、海軍、外務省それぞれの組織が
 収集した対外情報は、枢密院のもとに一元化され、そこで総合的に取りまとめられた判
 断が、元老という強力な指導者のもと国家方針として実現されていた。 
・しかし、大正、昭和と時代が下るにしたがい元老は実質的に消滅した。代わってその役
 割を担うはずだったのが政党内閣であったが、政党の不人気や相次ぐテロなどで内閣は
 弱体化。縦割りの情報を一元化することも、独自の行動を指向する軍を統一した方針に 
 従わせることもできなくなっていた。とりわけ中国大陸では、現地軍の独断行動が顕著
 であった。
・国家と国家の信頼は何に基づくべきなのか。互のどのような行為に信頼は生まれるのか。
 その認識の甘さにおいては、軍と外務省に大きな差はなかったかもしれない。他国との
 信頼関係も長期の展望もない苦し紛れの奇策にとどまる限り、「防共外交」は最初から
 限界をはらんでいた。そしてそれは、自らを統制できない日本外交の前に、かえって日
 本への信頼を喪失させるという現実となって跳ね返ってくることとなった。 
・1936年11月、日独防共協定が成立した。協定の成立は、仮想敵とされたソ連はも
 ちろん、欧米各国にきわめて激しい反発を引き起こした。その強引な手法でヨーロッパ
 の問題児と化したドイツを、対ソ戦略の相手としてしか捉えていなかった日本陸軍は、
 国際社会の反応を完全に読み違えていた。
・国際社会から決定的に孤立した日本は翌年、中国との全面戦争(日中戦争)に突入して
 いった。世界との関係を回復しようとした日本は、気がつけばドイツ以外の、世界中を
 敵に回していた。  
・なぜ日本は孤立化への道を歩んだか。それは、時代の選択の一つひとつが、確とした長
 期計画のもとに行われなかったという点があげられる。むしろ浮かび上がってきたのは、
 定まった国家戦略を持たずに、甘い想定のもと、次々に起こる事態への対応に汲々とす
 る姿であった。いったい誰が情報をとりまとめ、誰が方針を決めるのか。そして、いっ
 たん決まったことがなぜ覆るのか。そうした一連の混乱を自らの手で解決できなかった
 日本は、やがて世界の信用を失っていった。方針も情報も一本化できず、内向きの都合
 のいい現実だけを見続けた果てに、日本はあの太平洋戦争を迎える。「外交敗戦」とも
 いうべき国家の誤算は、開戦にいたるその日まで繰り返えされたのである。 
・欧米との対立が激化した1940年、事態打開の切り札と期待したのは、ドイツとの結
 びつきをさらに強化する日独伊三国同盟であった。「これは戦争の条約ではないんだ。
 これは戦争を防ぐための条約なんだ」と。
・日本には計画的なものはひとつもなかった。その時に起こってくる現象に沿うて、いろ
 いろなことをやっているだけだった。日独同盟を結んで、そして日独同盟の力でアメリ
 カに対抗しなきゃということだったが、それが結局裏目に出たんだ。
・孤立を避けようともがき続けた日本外交は、そのたびにかえって深い闇へと陥っていっ
 た。いくつもの可能性をつぶしながら、それは後戻りできない道へと日本を引き込んで
 いくのであった。   
・満州事変のおけるリットンの調査は、日本にとって悪くない選択だったし、内容もそれ
 なりに受け入れやすいものでした。しかし、軍のみならず外務高官までが国際連盟との
 交渉で「正式承認の名目をとれ」という方向に傾いた。日本の外交官は抵抗しました。
 単独承認がどれほど国際的に悪影響をもたらすのかを熟知しているヨーロッパ在勤の外
 交官たちは、みな異口同音に「やめろ」と言っていました。それが通らなかったのは、
 国内の状況が大きく変わったことに起因します。不況のもと、満州国は新しいフロンテ
 ィアであるという幻想が広がっていった。単独承認による国際関係の悪化を心配するよ
 りも、満州国という「チャンス」にかけた。国内世論は急速に変化しました。外交官た
 ちの現実主義的な考え方が、国内では受け入れられなかったのです。
・体制はとういうかたちであれ統合されたほうがいい。また、独裁者のほうが平和を求め
 るという言い方もできます。独裁者が単独で戦争の合理性を判断するのであれば、下部
 組織の意見の採否も一元的になります。陸軍や海軍が「やれる」といっても、独裁者が
 「やらない」と決めればいい。しかし、体制が分裂傾向にあり、陸軍も海軍も外務省も、
 それぞれが言いたいことを言い、誰が明確な意思主体かわからないうちに戦争をするこ
 とになった。それが日本の特徴でした。
・外交の場面では、譲歩には譲歩で応じるべきで、それが信頼醸成の基本です。それなの
 に、満州事変を前提に、「外務省革新派」と呼ばれる「軍部と連携していかなければ外
 交ができない」という若い人が増えていった。英米協調路線は年寄りの外交路線だと言
 われるような時代状況になっていった。 
・外務省革新派の人たちは、いまから見れば奇想天外な、およそ外交官らしからぬことを
 言っていますが、当時はそれによって新秩序が生まれるような錯覚があった。ヒトラー
 やムッソリーニがイギリスやフランスと対等以上にやっていけるなどと誰も考えていな
 かったのに、世界が急速に動いていて、それが現実のものになっていくように見えた。
 先端的な外交官ほど、「ヒトラーやムソリーニと組んで極東で新秩序をつくるのが、こ
 れからのトレンドだ」と考えた。 
・1930年代は、あらゆる分野で変革が求められた時代でした。そのなかで、ドイツ・
 イタリアのようなファシズム国家に日本はなぜ惹かれたのか。当時、日本には「ドイツ
 ・イタリアは新しいライフスタイルを創出したが国だ」と思う人たちがいた。つまり、
 アメリカやイギリス、フランスは堕落した国であると。お金のことばかり考えて、豊か
 ではあるが精神が堕落し、貧富の差も大きいと。 
・伝統的な外務省の路線で言えば、ドイツとの提携はあり得なかった。学問や文化・芸術
 の分野では、近代日本はドイツの圧倒的な影響を受けましたが、政治外交関係では、第
 一次世界大戦で戦った相手国です。それが、国内の気運などもあって防共協定を結ぶこ
 とになった。 
・客観的に見れば、日独それぞれ極東とヨーロッパのトラブルメーカーですが、同時代に
 おいては両国にそんな意識はなく、ドイツはヨーロッパの、日本は「東亜」の新しい秩
 序をつくるリーダーだと考えていました。 
・日本が軍部に引きずられたように見えてしまうのは、政治体制を統合するはずの政党が、
 半分以上は自分たちの責任で、正しく統合主体になれなかったことが大きい。軍部は軍
 事のプロフェッショナルではあっても政治はできません。既に高度に複雑な国家になっ
 ている日本の運営は政党にしかできない。政党にしかできないはずなのに、その政党が
 責任を果たさなかったのです。
・政治体制や憲法体制の違いを超えて、政党がどう国民の意思を正確に定義し、それを実
 現するためにどう動いていくのか。その問題はいつの時代も同じで、かつてはより劇的
 なかたちで起きて、それが悲劇につながっていった。それはいまも変わらなくて、民主
 党が政権をとりましたが、気がついたら民主党と同じようになっている。 
・変わる余地は限られてはいるけれど、国民の意思をうまくつかんで、変えられるわずか
 なところをうまく変えて見せて、少しずつ民主主義を進めていくのが政権政党の役割で
 す。それは昭和戦前期も今も原理的には同じなのです。
・日本は、誰か特定の人がリーダーシップを発揮するということがありません。これは日
 本の政治文化なのかと思うほどです。政権につけば現実主義化して、誰がやっても同じ
 ように見える。見方によっては「独裁者的なリーダーシップを発揮することは日本には
 ふさわしくない」と時代を超えて日本人は思っているのかもしれません。このような日
 本の政治文化は、大衆民主主義が独裁者を擁護するというリスクを避けられるという点
 ではいいかもしれません。しかし逆に言えば、意思決定せず問題を先送りしてやり過
 ごすことができるのですから、それらが蓄積し、大きなツケを払わされることになる。
 リーダーシップを発揮して短期間に、それぞれの段階で、決断を下していけばよかった
 のに、先送りしていくうちに悪いものがたまって、それを精算する役割を担ったのが日
 米開戦でした。国民が日米開戦によって心理的に開放されたのは、アメリカと戦争すれ
 ばすべて解決がつくと思えるくらいに、困難な問題が積み上がってしまったということ
 でしょう。同じようなことは、時代を超えて起こり得ます。いまの例で言えば財政問題
 がそれで、赤字国債を発行してもそれは自分の責任ではなく、「景気がよくなれば」と
 歴代政権で続けているうちに、とてつもない借金が積み上がってしまった。「いつか精
 算を迫られそうだが、それは自分じゃないからいい」という態度が、日本国家のリスク
 を膨らませている。  
・戦前と同じように先送りする。自分が責任をとらない。それが日本政治の文化であるか
 のように繰り返されている。話し合い民主主義は大切ですが、学級会民主主義はだめで、
 集まって話せば決断できるわけではなく、それを踏まえて誰かが自分の責任で決断を下
 さなければいけないのに、それをみんなが避けている。自己利益は確保したいけれど、返
 り血を浴びてしまうので、決定を下そうという人は、いつの時代もいないのです。 
・戦前の日本は、国家の中枢、大きな戦略を決める組織がありませんでした。では、「ど
 こが日本の国家戦略を考えるんだ」となると、挙げらるのは陸軍、海軍、外務省あたり
 しかない。彼らは自らの組織のルール・倫理にしたがって戦略を組み立てますから、陸
 軍の立てた戦略と海軍の立てた戦略が相反してしまう。それをまとめる人がいない。そ
 の悪循環です。 
・陸軍ひとつとっても、陸軍省と参謀本部の対立がある。さらにそのなかに皇道派と統制
 派の対立がある。これは海軍も一緒です。海軍省側と軍司令部、艦隊派と条約派があり
 ます。外務省も主流派と革新派に分かれているし、組織のなかですら統一するのが大変
 な状況で、仮に自分の組織を統一できたとしても、今度は、省の間の対立がありますか
 ら、これはどこまでいっても縦割りなのです。 
・日本の軍部は作戦重視・情報軽視でした。これは教育の段階から徹底しいて、情報に関
 する教育などやりませんでした。ですから、部隊や組織に入ったあと、情報をどう使っ
 ていいかもわからないし、重要性もわからなかった。 
・「いかに客観的に物事をみるか」、それはどこも苦労している点だと思います。ただ、
 いまの日本では、そういった点すら認識されていないような気がします。情報があって
 から、ものの見方を決めるのではなく、まず自分たちの都合で見方や方針を決めるわけ
 です。ですから、使えそうな情報が来れば、その見方を補強するし、都合の悪い情報が
 あればそれは無視して事を進める。それを陸軍も海軍も外務省もやってしまったのです。
・国際連盟からの脱退を、のけ者国家になっても構わないとする決定とみなすのは間違い
 で、日本が目指したのは、「もっと正直で、現実的なかたちの外交に戻ろう」というこ
 とでした。対アメリカ、イギリス、フランス、さらにソ連をも含めた二国間関係の重視
 です。連盟脱退は孤立への決定打ではなかったのですが、時とともに事態は孤立に向か
 ってしまいました。  
・国際連盟脱退はそれなりに理屈の通った決定だったと思います。日本は戦争を望んだと
 いうより、やり損なって戦争に引きずり込まれた。
・イギリスは日本を「宥和不能な国」と見ていました。イギリスの日本に対する最善の政
 策は封じ込めだという結論になりました。制裁および軍事力強化の背景にあったのは、
 日本は自国の軍事力の限界をわきまえているだろう、という予断でした。日本は勝利を
 得ることなしに中国で、すでに4年も戦っていました。イギリスとアメリカは、中国軍
 が大したものだとは思わなかった。しかし、日本が軍事的勝利を収めることができない
 とすれば、日本の軍事力もそれほど立派なものではないだろう。日本自身もそのことを
 自覚しているだろうから、日本を封じ込めることは不可能ではないと。
   
陸軍:戦略なき人事が国を滅ぼす
・陸軍内部には無軌道な組織の膨張や戦争の危うさを充分認識していた者が少なかった。
 また、陸軍といういわば戦前最大の官僚組織が一枚岩になって突き進んでいったのでは
 なく、いくつかの誤算を重ねながら図らずもあの大戦に至ってしまった。
・永久平和というものは永遠に来ないであろうが、しかしながら人類はそれがあたかも来
 るものであるかのごとく行動せねばならない。平和を理想とするものが、それに憧憬し、
 それを現実にするごとく努力するのは、まさにそのとおりでありましょうが、その達成
 は人が神にならぬ間は、長時間的の問題であろうことを覚悟していなければならぬと思
 うのです。 
・1929年に「一夕会」が発足した。16期生を中心に40人の将校が結集したエリー
 ト集団だった。一夕会のメンバーは「軍人」という枠組みを越え、組織内で政治的な言
 動を繰り返すようになった。普通選挙法が施行されて間もない当時、民政党と政友会の
 二大政党は選挙目当ての政争に明け暮れ、贈収賄事件が相次ぐなど、国民の信頼を失い
 つつあったのだ。
・当時の陸軍は、日本全国に20の師団を持ち、日清・日露の戦争で獲得した海外の植民
 地に4つの駐屯軍(台湾・朝鮮・関東・支那)を置く巨大組織だった。そのすべてを統
 括するのが、皇居に近い東京・三宅坂に置かれた二つの機関。予算を握り、政治と軍を
 つなぐ役割をする陸軍省と、天皇の直属機関で作戦を司る参謀本部である。 
・陸軍士官学校を卒業したエリートであった一夕会のメンバーのほとんどが、この2つの
 機関に勤務していた。その彼らが陸軍改革を実行するために着目したのが「人事」だっ
 た。 
・最近の研究で、人事に、ある大きな仕組みが隠されていたことが明らかなっている。そ
 れは、軍事的な作戦を立案する参謀本部よりも政府に近い陸軍省を人事的に優位に置く
 ことで、軍事の暴走に歯止めをかけるシステムになっていたことだ。純粋に作戦などを
 担当する部署よりも、「事務方」(軍政業務)の権威を人事的に高めることで、ある種
 のシビリアンコントロールが実現されていたというのである。一夕会は、こうした人事
 のルールを的確に把握し、巧みに抑え込んでいったとみられている。
・結成以来、何度も勉強会を開いてきた一夕会だが、重要なポストを押さえると、メンバ
 ー間に意見の相違が目立ちはじめた。「上の世代を取り払う」という目標だけは一致し
 ていたが、改革の具体的な中身は各人バラバラで一本化にはほど遠い状態になってしま
 ったのである。 
・1935年8月、白昼の陸軍省で事件が起きた。永田鉄山が、皇道派の相沢中佐に軍刀
 で斬殺されたのだ。永田の死後、派閥抗争の結果、全体をまとめるリーダーがいなくな
 り、軍は百家争鳴の様相を呈していく。統制の不在が、陸軍を迷走させ、国家を戦争へ
 と近づけていくことになったのである。
・不況などの閉塞感が充満していた当時、世論は中国に「一撃」を食らわせた関東軍を熱
 狂的に支持。陸軍中央も一度は追認してしまった以上、いまさら事変が謀略だったとは、
 表沙汰にできなくなっていた。
・「組織防衛」のために繰り返されるあいまいな人事が、組織の統制を大きく狂わせてい
 くことになった。  
・陸軍というのは、いまの官僚組織とまったく同じことだと思いますが、一つの慣例とか
 慣行が成立してしまうと、それが前例となるので、同じ行動を取っても罰せられないし、
 許されることになってしまう。その前例というのが満州事変でした。
・結果がよければいいということです。結果オーライの話が非常に多くなった。結果的に
 陸軍のためになる、結果的に自分の立身出世にもなるという発想が非常に強くなってく
 る。    
・成果を競い、暴走する出先に、あいまいな対応しかできない中央。その関係が、多大な
 犠牲者を出す戦争へと陸軍を引き込んでいった。   
・「ノモンハン事件」では、戦車や航空機など、ソ連軍の圧倒的な近代兵器を前に大損害
 を出した日本軍は、本来目指すはずだった軍備の近代化がまったく進んでいないことを
 思い知らさていた。   
・何といってもいったん剣を抜いた以上は、トコトンまで剣で敵の継戦意志を破摧するぐ
 らいの決意がなければ、和平というものはできるものじゃない。   
・中国軍は屈服しなかった。抵抗を止めない中国軍に、陸軍はその後も、広東、武漢と同
 様に積極作戦を繰り返し、果てしない消耗戦に突入していた。目論見の外れた積極策だ
 ったが、人事記録を見ると、総括の跡はみられない。当時、現地で不拡大派を押さえて
 強硬策を推進した指導者たちのほとんどが、後の異動で中央の主要ポストに出世してい
 るのだ。
・近衛内閣の閣議で、居並ぶ閣僚たちを前に陸軍大臣・東条英機が突然メモを取り出し、
 演説を始めた。組織の面目にこだわり、妥協を排除した陸軍で内閣は総辞職、一気に対
 米開戦へと舵が切られていった。   
・ドイツの最も大きな弱点は、国民に無理を強いていることでした。国民がどうして耐え
 ていられるのかといえば、それはドイツの忍耐力だ。それには限界があり、食料の不足
 に伴ってその精神ももたなくなっていく。ドイツでは国民の士気が下がっていき、最終
 的には連合国軍に負けてしまいました。また、そうやって国民に大きな負担を強いてい
 るにもかかわらず、軍はひたすら勝利を得るために突き進んだ。いわゆる軍の暴走をと
 められなかった。これもドイトの敗因であった。
・軍の組織におけるよい司令官とは、どっかりと座って何もしない、勝手に動く参謀たち
 に、「おれが全部責任を取るから自由に動け」といってくれるのが立派な司令官だとい
 う考え方がありました。    
・当時の関東軍の役割は、関東州や南満州鉄道沿線を警備する以外になく、兵力も1万人
 程度で、対外的な軍事行動をとるような組織ではありませんでした。
・関東軍があんなことを、あのタイミングでするとは予想していなかった。当時の張学良
 軍が20万、関東軍が1万という状況で、そこへ打って出るとは誰も考えなかった。
・失敗を容易に認めず、それをカバーしようとして、さらなる失敗を重ねる。それが決定
 的に陸軍の大きな負の本質であったと思います。それを克服するには、自分たちの組織
 を徹底的に相対化して改革していくことが必要でしょう。またリーダーの不在というこ
 とも問題でした。リーダーを生み出す組織づくりが必要です。
・日本の陸軍は大きな過ちを繰り返したわけですが、日本を戦争に追いやったことをひた
 すら批判し、陸軍とはどういう組織だったのか、そのどこが問題だったのかという具体
 的な反省をまったくしないまま、戦後何十年と経過してきたことも問題でしょう。現在
 の大組織のトップリーダーたちも、自分たちの組織の不祥事を恐れ、それを罰することを
 忌避し、改革は進まず、人事での能力主義も実質的にはできず、ということを一部繰り
 返している。陸軍の過ちは、かたちを変えて現代でも繰り返されている気がします。
・一般に、非常時には普通とは違ったルールで人事が展開されます。しかし、大改革を求
 められた人物が登場し、実際に改革に着手していくとき、その人物が人気もあり、内部
 に知人や友人があまりにも多いと、大抵、改革は失敗します。 というのも、大変革す
 れば、それまでと大きく違った体制になりますので、知り合いの中には困る人が出てく
 るわけです。とくに、内部に知人が多い人ほど、多く出てくることになります。それゆ
 え、組織のために大改革をするには、そういう知人たちを説得しなければならないので
 す。「泣いてくれ」と。しかし、その説得コストは非常に高いものです。そのコストの
 大きさを瞬時に認識できるのが、内部のことをよく知っている人であり、人気のある人
 なのです。こうして、大改革は難しくなるわけです。したがって、大改革をしなければ
 ならないときは、むしろその組織に属さない人の手に委ねるほうがいいかもしれません。
 組織に関係ない外部の人ならば、組織内に知人もいないし、どういう悲惨なことが起こ
 るかも実はよくわからない。だから、大改革も進む、ということはよくあるケースです。
 しかし、あまりにも組織のことを知らなすぎると、今度は組織全体を無視して個別合理
 性に走ってしまう。大改革は非常に難しいのです。
・実際、細かいことをやること自体がコストがかかることですので、リーダーは基本的に
 核心的なことに集中して判断するほうがより効率的です。人間は完全に合理的ではあり
 ません。人間の合理性には限界がありますので、細かいところまでこだわっていると大
 きなコストがかかりますから、そのようなリーダーの意思決定や行動は必然的に非効率
 的になる可能性が高いと思います。他の人でもできることは他の人に任せて、リーダー
 としてなすべき行動を適切に選択し、効率的に行動する必要があります。
・成果主義の怖いところは、モラルハザードを引き起こすことです。本当は「やってはな
 らない」といわれているのに、結果がよければ許されるということがわかっていますか
 ら、隠れてこっそりやってしまう。ですから、成果主義のもとではモラルハザードが起
 こりやすいのです。  
・満州事変のときも、何となくそういう雰囲気があって、成功すれば、たとえそれがモラ
 ルハザードであっても許されるという雰囲気があったのではないかと思います。だから、
 加速します。このような雰囲気のもとでは、「どんな手段を使ってでも成果を上げれば
 いい」という考え方は、非常に合理的となります。 
・モラルハザードは、一人の代理人の合理性が依頼人をも含めた全体効率性になっていな
 いのです。全体が効率的になっていることが社会全体の効率性につながるのですけど、
 現実は、人間は不完全なので、一人の人間が自分だけの利己的合理性を追究してしまう
 わけです。それは、今日、企業でもよく話題になっている個別効率性と全体効率性が不
 一致になる現象です。それは、偶然に起きているのではなく、起こるべくして起きてい
 るのです。   
・会議を開いて意見をきちんと集約し、民主的に公平に方針を決めるには非常に高いコス
 トを負担しなければなりません。もし時間が無制限にあり、資源も無限にあるならば、
 それは可能かもしれません。しかし、実際には時間も資源も限られています。だとする
 と、そのような民主的で公平で時間のかかる意思決定法は経済的に非効率となります。   
 そうすると、次に恐ろしいことが起こります。あまりにも厳密に公平性や民主性を目指
 していると、周囲の人々は多大なコストが発生することを認識し始めます。そうすると、
 今度は反対に、独裁を求めるようになってきます。公平で民主的な決定方法は非効率で、
 「もっとバッサリとやってくれる人はいないか」という声が上がって、逆側に振れてし
 まうことになるのです。しかし、独裁者はどうしても「やり過ぎ」ますから、今度は独
 裁的に決定した後に、抵抗する人がたくさん現れて、彼らを説得するのに多大な取引コ
 ストが生じます。  
・独裁者が「この方向でいく」といったとき、その方向に進めば組織がダメになるとわか
 っていても、一人ひとり損得計算してみたらそれを言わないほうが得だという結論で一
 致し、沈黙に導かれる。それは、やましい沈黙なのです。それが「空気」なのです。頭
 のいい人たちほど計算が早く、しかもその結果が見事に一致するのです。
・できれば損得計算を徹底的にして、その結果、反対しないほうが得だとしても、その結
 果にとらわれることなくあえて反対する人がいてほしいものです。最後は、損得ではな
 く、正義や勇気です。「これを発言したら絶対に自分は出世しないし、得はしないとわ
 かっている。わかっているけど、やはりことはいわなきゃいけない」という正義感とか
 勇気とか、ある種の哲学が必要なのかもしれません。そういうものを持った人が数名い
 ると、悪い空気に水を差すことができるのです。
・当時、陸軍と海軍にはそれぞれ異なる仮想敵があり、統一された国家的な軍事戦略はあ
 りませんでした。海軍はアメリカに対する戦争に備え、陸軍はソ連に対する戦争に備え
 ていたのです。  
・戦争とはいつも、始めるときより、そこから抜け出すときのほうが難しいものです。ベ
 トナム戦争におけるアメリカは、その典型です。軍隊を送るのは簡単ですが、どうやっ
 て終結させたらいいのかがわからない。イラク戦争も同じようなものです。
・強烈な個性を持った人が過激なビジョンを打ち立てて集団を引っ張ってしまうと、それ
 に対抗できるビジョンやパワーがなかったら、権限だけでは立ち向かえません。それは、
 関東軍だけに限られた傾向ではなかった。もしかすると日本軍が抱えていた宿痾のよう
 なものかもしれません。    
・1930年代の日本の悲劇は、国家の核心がどこにあって、何を考えていたのかわから
 ないことにあるのではないでしょうか。周りの国から日本を見たとき、国家の意思決定
 がどこで、どのように行われたのかよくわからない。
・あえて日本陸軍から学ぶべき点があるとすれば、内向きの思考はやめようということで
 しょうね。組織だけの都合とか、組織だけのつじつま合わせはやめて、できるだけ自分
 たちの動きが外の世界にどう映るかを意識すべきでしょう。もう一つは、戦略性のある
 リーダーをどう育てるか、ということでしょうか。大局観と戦略性のあるリーダーを、
 個々の組織でも国家全体でも、どうやって育てるのかを真剣に考えなければならないだ
 ろうと思います。リーダーも戦略性も偶然出てくるものではありませんから。
・国防が国家にとって必須であることは、同時に戦争が国家にとって必至であることを意
 味する。国家は戦争において形成され、戦争において成育すると言われるが、事実上戦
 争をしない国家などというものは、かつで地上に出現したことはない。