日本人はなぜ戦争へと向かったのか  
         (メディアと民衆・指導者編)  :NHKスペシャル取材班

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この本によると、日本が戦争へ突き進んだ原因の一つに、当時の新聞やラジオが国民の熱
狂を作り出し、煽ったことがあげられるという。当時の日本人には、それまで敗戦の経験
がなかった。そのため、戦争の悲惨さ、敗戦の悲惨さを知らないまま、まるで今でいうオ
リンピックやサッカーのワールドカップの国際試合でも観戦するような熱狂感を持って、
戦争を見ていたのではないのかと想像してしまう。
そしてまた、日本人はメディア等に煽られやすい、熱狂しやすい国民性があるのではとも
思える。これは、日本には真の個人主義というものが定着していないからなのではと、私
は個人的に考えている。そのため、周囲に流れやすい国民性となっているのではないにか
と。そして、その国民性は今も変っていないような気がする。
また、当時の国のリーダーたちは、幾度か戦争を回避できるチャンスがあったにもかかわ
らず、そのチャンスを活かすような決断をすることができなかった。その大きな原因とな
ったのは、自分の組織や国民に対するメンツばかりを気にする内向き思考と内向きな視野
だったのでは思われる。国のリーダーたちのほとんどが、アメリカとの戦争には勝ち目が
ないとわかっていながら、自分たちのメンツばかり気にして、後退することができなかっ
た。
このような特性は現代にも通じるものがある。現代においても、一度決めたことを、合理
性がないと分かってからでも、なかなか撤回できない国の政策が見られるからだ。昔も今
も、日本という国は、まるでバックギアのない車のようだとも言える。
いずれにしても、これは時の政府が、絶対に戦争はしてはいけないと分かっていながら、
正しい決定を下せなかったことを物語っている。政府が正しい判断ができるというのは、
幻想でしかないのだ。再び戦争を行わないためには、軍事力に頼らない国家てあることを
貫くしかないと思う。


はじめに
・日本人はなぜ戦争へと向かったのか。当時の軍部までもが負けると予感していたアメリ
 カとの戦争になぜ踏み込むことになったのか。太平洋戦争が終わってから70年が経つ
 今、日中・日韓関係や日米集団安全保障の枠組みの変容、沖縄基地など、議論が分かれ
 る問題の根底には先の戦争をどう総括するか、が定まっていないことがあると言われて
 います。
・大正から昭和にかけて戦争へと向かう時代、それまでの時代と大きく変わったことのひ
 とつは、大衆の存在感が増し、世論という名の一大勢力が登場したことです。軍部も政
 治家も世論を強く意識して行動していくようになり、それを作り出すメディアの論調が
 政治に影響を与えていく。そして国民の側も新聞やラジオに接しては、政治に対してそ
 れまで以上に反応し意見を表明するようになります。
・そして、心構えや分析が十分でないまま、政治家とエリート軍官僚、そしてメディアや
 大衆が作り出す世論があいまって国策決定が行われていくようになります。この構造が
 権力の偏在や不安定な熱狂を生み、国際分析や将来の見通しを甘いものにした、という
 事実は今日、論をまたないところです。

メディアと民衆 :”世論”と”国益”のための報道
・日米開戦前夜、日本社会は異様な空気に包まれていた。「作られた熱狂」である。この
 熱狂を作り出したのは、新聞・ラジオなどのメディアだったといわれている。そのなか
 で、日本は戦争への道を歩んでいった。
・どの新聞も、戦争になると発行部数が増える。息子や夫がみんな戦場に行くものだから、
 戦争がどうなっているのかを知ろうと、新しい読者が増える。だから、戦争になれば、
 新聞にとっては経営面でマイナスじゃなかった。 
・新聞が民衆を煽った面は否定できない。勝った、勝ったといって、実際にそういう紙面
 を作ったんだから。そして、それに乗って民衆は勝った、勝ったと思ったんじゃないか。
 そして、何か将来もっといいことになるだろうと思った。
・メディアが戦争に対する姿勢を転換したのは、満州事変が契機になったといわれている。
・新聞の販売上最も影響があるのは、号外の発行だった。新聞各社は血みどろの号外競争
 をやった。だから競って戦地に人を出した。戦争があるたびごとに新聞の販売部数に影
 響した。
・日本軍の快進撃は、1929年に始まった世界恐慌による経済の疲弊に苦しんでいた国
 民を熱狂させた。販売部数が落ち込んでいた新聞業界も、一気に沸き返った。   
・新聞は、満州事変といういわばイベントによって販売部数を拡大し、スクープ合戦、速
 報合戦をして大衆の新聞として売り上げ部数を伸ばした。それが満州事変の拡大を煽る
 原因にもなった。 
・当時の第二次若槻内閣は、満州事変をこれ以上拡大しないという方針を採択した。しか
 し、関東軍は独断で全満州へ兵を進めた。この軍の行動を支持すべきかどうか。新聞社
 にとって重大問題が発生した。満州事変後、すでにほとんどの新聞が関東軍支持へと舵
 を切っていた。 
・創刊以来、新聞は、どちらかといえば政府に批判的な論調が多かった。そのため、時の
 政府は1909年に新聞紙法を制定し、新聞界に言論統制を加えた。にもかかわらず、
 大正デモクラシーの洗礼を受けた新聞界には、民主主義の思想が深く根を下ろしていた。 
 新聞各社は統制を恐れず、軍の拡大を批判していた。しかし、恐慌による部数低迷が長
 引く中で新聞は、読者の関心を引く派手な見出しと強硬な論調という商業路線へと向か
 っていった。
・新聞各社が、いっせいに満州事変を支持するなかで、大手新聞社では朝日新聞一社だけ
 が慎重論を唱えていた。この論調に対して、全国各地で朝日新聞に対する不買運動が発
 生する。当時の不買運動は在郷軍人会などによる大規模なもので、新聞社経営の屋台骨
 を揺るがすほどであった。その動きを受けて、やがて朝日新聞社内でも軍部支持やむな
 しとの声が出始め、社論を転換して軍部支持を打ち出した。
・新聞各社が満州事変で軍を支持したのは、販売部数を伸ばすためだったのか。それとも、
 満州権益という国益を考えてのことだったのか。いずれにせよ新聞社は、情報源である
 軍に急接近していった。そうしたなか、記者たちは決定的な事実を知らされる。南満州
 鉄道の爆破は、関東軍が仕掛けた謀略だったというのだ。しかし、いずれのメディアも、
 太平洋戦争が終結するまでこの事実を報道しなかった。その結果、満州事変は日本の正
 当防衛だと国民に信じ込ませることになった。日中戦争、太平洋戦争への道を進む発端
 に、新聞各社の軍への迎合があった。
・これは現在の報道倫理からすれば批判されるべきだ。ただ一方で、当時のジャーナリズ
 ムにおいては、”国益論”が非常に強い論理的な正当性を持っていたことも間違いない。
 国益論からみてやはり是とされるべきことだ、と多くの記者が思っていたのだ。
・満州事変建国が発表されると、国際世論に配慮した政府が独立を認めないとする一方で、
 マスコミは全面的に支持にまわった。紙面を読んだ国民も、大きな喝采を送った。この
 メディアと民衆の熱狂が、やがてひとり歩きを始めた。  
・新聞は満州国堅持を掲げ、日本の外交方針を自らリードするという姿勢を打ち出した。
 ジャーナリズムの一つの社会的使命、当時だと国家的な使命、を果たそうと多くの記者
 たちが考えていた。そうすることで自分たちは国家に貢献していることになり、正当化
 される、あるいは自分自身の活動が意味づけられるという考え方になっていったのだ。
・軍、メディア、国民というトライアングルによって生み出された当時の世論は、しばし
 ば熱狂を伴った。「そんな弱腰でどうする」「そんなことで国益を守れるか」。政府の
 方針に対してメディアが声高に批判した。国際問題が起きたとき、理由のいかんを問わ
 ず正義は日本にあると絶叫する。一つのメディアが強硬論を唱えると、ほかのメディア
 も一斉に同じことをいい募った。そして多くの国民がそれを見て、一斉に同調した。こ
 うした熱狂のなかで、次第に「言論の自由」は失われていった。
・満州事変を契機にして、メディアが軍へ接近する一方で、軍に対する批判的な態度を取
 り続ける新聞もわずかながら存在していた。1873年に「長野新聞」として創刊され
 た老舗「信濃毎日新聞」である。しかし、権力の監視という新聞社の使命を堅持してい
 た信濃毎日新聞にも、やがて言論弾圧が忍び寄っていった。言論弾圧に対して無力な経
 営者と、新聞記者としての使命を忘れてしまったかのような社内の記者たちの冷めた空
 気。こうした状況は、東京の大手新聞社にも同じように存在していた。 
・軍への批判を続けると、自分自身はもちろんのこと、自分が所属している新聞社の存続
 が危うくなる。軍部への批判を控えて無難な国益への同調が繰り返され、論じる幅はや
 がて狭められていった。自分で自分の首を絞めるような自己規制が全国各地で行われ、
 その空気が、軍による言論統制をさらに呼び込むこととなったのである。
・日本放送協会総裁でもあった近衛首相は、メディアのなかでもラジオを巧みに活用し、
 国民を熱狂へと駆り立てるようとした。近衛の勇ましい言葉に観客の喝采が起こり、そ
 の興奮がラジオ中継によってそのまま全国の聴取者に届けられた。演説会場からの拍手
 と歓声を電波に乗せ、聴き手に国家としての一体感を感じさせようとしたのは、ナチス
 の手法である。彼らが掲げたスローガンは「ラジオは国家の意志を運ぶ」だった。当時、
 政府の監督統制下にあった日本放送協会は、ナチスの手法を長年にわたって研究してい
 た。
・ラジオから流れてくる会場の聴衆たちの歓声や拍手を聞いて、茶の間の人たちの気持ち
 も高ぶってくる。戦意高揚という点からいえば、ラジオは大変に大きな役割を担ったメ
 ディアだったといっていい。日本のプロパガンダ(宣伝)というのは、すべてナチス・
 ドイツを手本にしていた。   
・日中戦争が始まると、ラジオ放送は、日本軍の勝利をいち早く国民に伝えた。ラジオを
 通じて首都南京の陥落が伝わると、国民の熱狂は加速した。デパートでは南京陥落セー
 ルが行われ、東京では戦勝祝賀の提灯行列に40万人が参加した。
・一方、海外では、日本軍による南京での非戦闘員の殺害などが伝えられ、強い非難が巻
 き起こる。日本国民にはこうした現実はまったく知らされず、日本の世論と世界の認識
 はますますかけ離れていくこととなった。 
・首都南京が陥落しても、日中戦争は終結しなかった。戦争が長期化する様相を見せるな
 か、国民の戦意を保つために、ラジオの戦争報道は熱狂を作り続けた。戦意高揚になら
 なければだめだから、とにかく勝った、勝ったの放送しかできない、負けたなんてこと
 は、うっかりいえたものではなかった。そして、この前線中継が放送された直後、靖国
 神社には多くの人々が詰めかけ、社前にぬかずく人の姿が深夜まで続いたという。戦争
 の実態を知らされず、日本の力を過信する世論は、ラジオなどのメディアが作り出して
 いったのである。
・日本軍の勝利に沸きたっていた国民の間に、やがて戦争の長期化とともに不満が生まれ
 てきた。それは中国を支援するアメリカとイギリスに向かっていった。日本のイギリス
 の対立が表面化するなか、アメリカは日米通商航海条約の廃棄を通告し、対日経済制裁
 の強化に踏み切った。当時の日本は、資源の供給をアメリカからの輸入に頼っていた。
 アメリカの是非もない行動に、世論は一段と反発した。
・新聞各紙は陸軍と連携して、連日のように日独伊三国同盟締結を主張し、与論に訴えた。
 アメリカ、イギリスに対して不満を募らせていた国民は、ドイツとの同盟締結を熱狂的
 に支持した。当初、政府内で三国同盟に反対していた外務省や海軍首脳部は、徐々に劣
 勢に立たされていった。   
・メディアは自分たちが世論を作っていて、しかも自分たちの作った世論に自分たち自身
 も巻き込まれてしまった。そこで一種の雪だるま的な状況になっていって、自分たちで
 はもう止められなくなっていった。誰が引っ張っているという意識はどこにもなくなっ
 てしまって、お互いに無責任になっていった。
・戦争へと向かう熱狂は、おそらく多数存在したと思われる。戦争を望まない人々の声を
 見事にかき消していった。ドイツとくんで戦をやれという空気が覆い尽くしていった。
 陸軍などは、もうドイツの勝利は間違いないと。一般の空気は戦争論で日本は湧いてい
 た。 
・日本の舵取りを任された指導者たちは、自分の行動に自信が持てなかった。そのため世
 論を利用しようと考え、世論の動向に一喜一憂した。その世論は、メディアによって熱
 狂と化し、やがてその熱狂は、最後の段階で日本人を戦争へと向かわせる一つの要因と
 なってしまったのである。 
・ジャーナリズムの役割は本来、世の中に起きている森羅万象を的確に把握し、それをチ
 ェックして、国民が冷静な判断を下すための材料を提供することにある。しかし、戦争
 を迎える時代のメディアの在りようを見ると、メディアの変節は国家の変節に直結する
 ということがよくわかる。わずかな期間のうちに、国家の運命は狂わされてしまうのだ。
 メディアはそうした力があることを、私たちは改めて思い知らなければならない。 
・戦争は、始めさせてはだめだということです。始めてしまってから、「ああ、こりゃひ
 どい」。こんなことになるなら」といってやめさせようとしてもやまないんです。やら
 せないためには何が必要か。簡単なことです。現実の世界で何が起こっているのか。ア
 メリカが、あるいはロシアが、その他の国々が何を思って何をやっているのかという現
 実を、これを正直にお互いに知らせ合うことです。
・現実のジャーナリズムは、複雑な権力関係のなかで行われている。今日、私たちはメデ
 ィアも相互依存的な権力システムの構成要素だという前提に立ってメディアを批判的に
 見ています。そのうえで、現在のメディアと戦前のメディアの状況は全く違うと言える
 でしょうか。確かに現在は新聞紙法も出版法もありませんから、戦前に比べれば法規上
 は比較的に自由であるということは言えるでしょう。しかし、経済的により自由となっ
 たと言えるでしょうか。今日とは全く異なるメディアの状況が戦前に存在していたと考
 えることは大いに問題だと私は思います。 
・国際的協調から国際的孤立へ大きく転換していく路線をメディアが追認する姿勢は、
 戦後60年以上経った現在の解釈では、「メディアの転向だ」と批判できます。しかし、
 当時の記者たちの多くは、軍縮問題も満州事変も「自分たちは国益論から一貫した議論
 を展開した」と考えていたのだと思います。実際に、当時の新聞論調の変化を見ても、
 満州事変の時点で「これまでは間違っていた」という反省はほとんどありません。それ
 は、海軍軍縮の実施と満州権益の保護がともに国益にそった主張であり、相対立するテ
 ーマだと考えられていなかったことを示していると思います。
・人々の戦争観を規定するのは、決してイデオロギーなどの理念やナショナリズムなど
 の情緒的要素だけではありません。人々の所得や生活水準を含む全体状況の変動から
 見ていく必要性があります。 
・戦争が非常に暗く貧しい状況を招くということが確実だとわかっていれば、もっと多く
 の人が戦争に反対したでしょう。つまり、少なくとも短期的には、開戦が明るく豊かな
 生活への高揚感をもたらしたという側面を無視してはいけないのです。まして当時の日
 本人には敗戦の経験がありませんでした。 
・権力とメディアの間で、国家の理想や目的(それを「国益」という言葉に置き換えても
 いいかもしれませんが)における理解に差がなく、ある種の同盟関係が成り立っていた
 状況ともいえるでしょう。 
・「言論統制」といわれるものは新聞社やその社員であるジャーナリストの利害に必ずし
 も反するものではなかった。新聞業界や新聞人の社会的ステータスが高められたと感じ
 た人が当時は多かった。 
・そもそも世論調査の「世論」には実態がない。「世論」とはそれがあることで得をする
 人のために作られたものだとの考え方がある。確かに、実際の世論調査の多くでは、事
 前見込み、私たちが「空気」としてある程度予想できる結果しか出てきません。それで
 もなぜ調査が行われるかというと、その数字を欲しがる人がいるからだということにな
 る。 
・世論は「それがあることで得をする人々が作り上げた意見」なのです。この世論を彼ら
 は「民意」と置き換えているわけです。民意の支持がなければ戦争は継続できませんか
 ら、総力戦体制にとって世論は最も重要なバロメータと言えます。ですから、政治家や
 軍人にとって、そういった世論は、もしなければ作る必要があったものだったはずです。
・日中戦争の頃から、政府や軍部はメディアを使って国民の戦意を高揚させてきました。
 そして日米開戦の頃になると、そうして盛り上げた国民の期待に応えるためにも「日米
 戦争はできない」とか、「中国から撤兵する」などとは言えないということになった。
 自らがメディアを使って盛り上げた世論によって最後は首を絞められたと言えるのでは
 ないか。
・情報が溢れた現在、私たちは当時よりも「空気」に流されない判断をしていると言える
 でしょうか。先の戦争から政治的教訓を引出すのであれば、例えば私たち一人ひとりが
 外交について本当に自分の「意見」を持っているかどうか、それは「空気」とどう違い
 のか、と絶えず問い直していくことが重要だと思います。
・戦後、メディアは、戦時体制のもとで厳しく弾圧されて、「大本営発表」だけを強制さ
 れたのだ、と言い続けてきた。しかし、全体としてメディアは戦争の被害者だったかど
 うか。満州事変後、日本のメディアは急成長を遂げて、新聞社や出版社の収益は日米開
 戦の1941年に戦前のピークに達します。こうした戦時経済のバブル的好況を前提と
 して見た場合、これまでの「言論弾圧」といわれてきたものの多くも、メディアと国家
 権力の間の共犯関係があって初めて成り立つ「言論統制」なのではなかったか。
・新聞が企業化していって、それぞれの新聞の個性によって紙面を作っていくという時代
 が終わり、できるだけ大量の読者を獲得するために大量生産、大量販売の時代になって
 いく。こうした企業の論理が働くと、どうしても各社の横並びの報道ということが起こ
 ってくる。横並びの競争になると、隣の新聞を見て、それよりも少しでも先に報道しよ
 うというかたちの競争になります。どの新聞も同じような論調になり、同じようなとこ
 ろで報道競争をしている。そうなってくると、ほかの新聞よりも少しでも早く、少しで
 も派手にといったかたちの競争、同調的競争になっていったのです。     
・新聞社には、できるだけ大量の読者を獲得して販売収入と広告収入を得ようとするとい
 う企業の論理が働いていきます。新聞の主張も、不偏不党、できるだけ多くの人の最大
 公約数的な意見を載せる内容になっていく。以前は、それぞれの新聞が明確な意見や報
 道姿勢をもって、多様性を生み出していたのが、一方向のみの競争になって、そこから
 均質な世論しか形成されない状況にむかっていったのだと思います。
・昭和の時代になると、世論がジャーナリストたちを正当化するキーワードのようなもの
 になってしまった。そして、その世論は実は自分たちが作り出し、自己増殖し、再生産
 したものですから、反省や相対化という視点も生まれてこなかった。
・明治時代末期までは、新聞社間で意見の相違があり、さまざまな問題について議論も行
 われ、論争を繰り返していた。しかし、大正中期頃にはどの新聞も「不偏不党」「中立」
 の横並び状態になり、さらに企業化が進んでいく。新聞社はお互いを眺めながら自分の
 意見を決めているような状態になり、ついには国際連盟脱退支持の共同宣言を発表する
 までに至ってしまった。  
・いわゆる挙国一致という状況になって、新聞社が「国益」を代弁する、あるいは先走り
 して、「国益」を主唱するという状況になった。当時のジャーナリズムが当時の政府や
 軍部が主張する「国益」をそのまま受け入れてしまったことが問題だったと思う。本来
 であれば、「国益」の内実というものを改めて考えて報道していく、くしろ「国益」に
 ついて追究するという方向があってしかるべきだった。 
・当時の新聞社が「国益」に従順だったというのは、実は本当の「国益」を追究しなかっ
 たからだと思います。本当に「国益」を追究していけば、軍部や政府が主張している以
 外のかたちの「国益」もあるというように、新たな局面を開く、「国益」を追究するこ
 とによって「国益」を乗り越える展開もあったかもしれません。 
・メディア側には自分たちが大きな曲がり角で重大な選択をしたという意識はほとんどな
 く、日常的な活動のなかで小さな選択を繰り返していた。しかし、気が付いてみると、
 自分たち自身が身動きが取れなくなってしまい、考え直す契機を見出すことができない
 ということになったのです。どこかの悪い人間が策略をめぐらして大きな方向に変えて
 いったということではありませんから、これは、メディアの構造的な問題として考える
 べきことだとお思います。 
・日中戦争前後に朝日新聞社のカメラマンが撮影した写真が朝日新聞大阪本社に膨大に残
 っているが、数年前にその写真を見て驚いたのは、戦争の写真なのに死体が写っていな
 いことでした。日本軍がどこかを占領して万歳三唱している写真、あるいは、日本軍が
 勇ましく突撃している写真、あとは中国の田舎を日本軍がひたすら行軍している写真と
 いったものしかないのです。それはカメラマンたちが死体を写したら報道できない、あ
 るいは撮影すべきでないと考えたからだと思います。結果的に報道されたのは、死体の
 ない戦争なのです。 
・メディアのなかには、どこかで講和条約のようなものを結ぶ機会が訪れる、もしくは勝
 っているうちに戦争を止めることができるのではないかといった考えもあったのだと思
 います。それは当時の国際関係からすれば非常に楽観的な考えだった。
・当時の新聞紙法では事前の検閲はできないことになっていましたから、政府の側は報道
 禁止事項を事前にメディアに通告するわけです。そうするとメディアはそれに従う。こ
 ういったかたちでの検閲だった。ゲラや原稿を提出させて政府が事前にそれを検閲した
 わけではなくて、一種共犯的関係が成立していて、政府側の取締り担当者が報道禁止事
 項を通告し、メディアはそれを受け取って忠実に紙面を作っていったということです。  
・戦後におけるジャーナリズムの戦争責任の議論でも、ジャーナリスト一人ひとりは真実
 を探求する精神を内心では持っていたが、組織を守ろうとして本心を発揮することがで
 きなかったという反省になる。本来はそこから「ではジャーナリズムにおける組織はど
 うあるべきか」といったことが議論されるべきなのですが、それが十分されないままに、
 新聞社は戦前と同じように存続するという形になっていった。
・戦後、新聞社が自らの戦争責任を曖昧にしてしまっていることは、非常に大きな問題だ
 と思います。やはり自分たちは決して被害者ではなく、むしろ戦争に積極的に協力して
 いたということをきちんと見つけていくことが、現在のジャーナリズムを考えるうえで
 も非常に重要だと思います。  
・毎年、8月になると、戦争に関する記事や番組を登場させるのを慣例にしてきましたが、
 いつでも他人事のように取り扱って、自分たちの問題として考えようとしてこなかった。
 自分自身を正視しないでジャーナリズムの報道や言論が大きな説得力を持つとは思えま
 せん。 
・国民の戦意高揚において、人間の感性や感情、情緒といった部分に訴えかける役割をラ
 ジオというメディアは確かに持っていたといっていいと思います。 
・戦中の政府指導者たちの演説では、「天皇」に関するキー・シンボルが多く使われてい
 ました。そして、日本軍の連戦連勝は「御稜威」(天皇の威光)ゆえであると力説して
 いました。 
・ラジオから流れてくる会場の聴衆たちの歓声や拍手を聞いて、茶の間の人たちの気持ち
 も高ぶってくる。戦意高揚という点から言えば、ラジオは大変に大きな役割を担ったメ
 ディアだったといっていいと思います。 
・第二次大戦中、ナチス・ドイツのヒトラーや宣伝相のゲッペルスが、ラジヲ演説は常に
 党大会など聴衆を前での演説を中継するよう命令したのも、聴衆の拍手や歓声の効果を
 計算したものと言えます。
・新聞・放送も含めて、ジャーナリズムはどういう役割を担うべきかというと、事実とし
 ての情報を伝える「報道」と、いま一つは「論評」などで批判的な見方・評価を示すこ
 とです。この報道と論評の二つの役割を持つのがジャーナリズムであるとするなら、戦
 中の日本の放送は情報機関ではあったけれども、論評のような批判的なものは皆無でし
 た。そういった意味で、戦争中の放送は、ジャーナリズムとは言えないものだったと断
 言していいのではと思います。
・放送の検閲方針は「放送は単なる文化機関ではなく政治機関である」として、「検閲は
 国家の要請に合致しているか否かで判定する」と指示しました。つまり、放送は政治宣
 伝のメディアであることを認識しなさい、というものでした。  
・戦時の放送が「高い所から大声で号令していた」のは、政府・軍部という権威に迎合し、
 その声を伝えていたからです。このことを反省し現在の状況を続けるならば、大衆に迎
 合するのではなく、いま何を伝えるべきか、放送人は自ら考え、主体性を持って番組を
 作るべきということではないでしょうか。 

指導者”非決定”が導いた戦争
・日中戦争の泥沼から抜け出せないまま、日本は太平洋戦争への道を選んだ。当時の日本
 のリーダーたちは、アメリカとの圧倒的な国力差を顧みずに開戦へと突き進んだと、こ
 れまでは考えられてきた。しかし、事態はもっと複雑だった。
・強硬派と目されてきた陸軍の中枢も、対アメリカ戦の不利を認識していた。全陸軍の資
 材計画・調達を一手に引き受けていた陸軍省戦備課長は、日米双方の国力を徹底的に行
 った。算出された数値から「勝算なし」と結論づけた。
・当時の日本とアメリカの国力差には甚だしい開きがあった。アメリカの総合的な国力は、
 日本の80倍だったとも言われている。リーダーたちはこの事実を認識し、アメリカと
 戦争しても歯が立たないと考えていた。この段階で、日本がアメリカと戦争をしなけれ
 ばならないという本気で考えたリーダーは、ほとんどいなかった。   
・当時の日本の国策を決定していた大本営政府連絡会議は、政府側からは総理大臣、外務
 大臣らが出席、軍部からは陸軍大臣、海軍大臣、陸海軍統帥部の両総長、次長などが顔
 を揃える実質的な日本の最高意思決定機関だった。重要な国家方針は天皇が参加する御
 前会議にかけられるが、そこでは、天皇の承認を受けるのみだった。
・連絡会議にあがってくる国策案は、多くの関係者の根回しが済んでいるものだった。と
 はいえ、必ずしも連絡会議の出席者全員に了解を得ているわけではない。反対者が一人
 でも出れば、御前会議に謀ることはできなかった。御前会議にあげるには、連絡会議の
 全会一致の決定を得ることが原則だったのである。  
・連絡会議では、各代表が対等であり、議論が割れても総理大臣には閣僚や統帥部の意見
 を裁定する権限がなかった。会議が決裂すれば、その収拾手段はなく、内閣は辞職する
 以外に選択肢を持たなかった。そのためこの連絡会議は、各組織の要望を均等に反映さ
 せることが重要だった。その結果、決定は曖昧で実体のないものとなった。
・日本は物資が欠乏していく一方で、アメリカは日ごとに強大になっていく。いたずらに
 時間ばかりかけていると、日本は足腰が立たなくなるほど逼迫した状況に追い込まれる。
 焦りを感じた軍統統帥部は、日米交渉に期限を切ることを主張し始めた。
・本当にアメリカと戦うのか。まず深刻な動揺が広がったのは海軍だった。海軍の最高首
 脳部は、もう絶対やっちゃいかん。やっちゃいかん。そういう力はない。そんなことを
 目標にして日本の陸海軍の戦備はせきでいるわけではないと。   
・まもなく陸軍も、アメリカとの戦争に慎重を望む声が上がり始めた。日中戦争もいまだ
 終わっていない状況のなか、疲弊した戦力でアメリカに挑むことの無謀さを、現場の指
 揮官たちは訴えた。 
・こうした声があっても、いざ戦争回避を決断するとなると、リーダーの覚悟は揺れた。
 アメリカと戦う力がないことを認め、中国から撤兵するなら、これまで失われた20万
 あまりの兵たちの命、毎年の国家予算の7割にも達した陸海軍費はいったい何のためだ
 ったのか。国民が失望し、国家も軍もメンツを失うことを恐れた。
・結局、リーダーたちは、軍の部下や国民を説き伏せるだけの言葉がなかった。人が死ね
 ば死ぬほど、兵は引けなくなります。リーダーは、決して死者を見捨てることが許され
 ないからです。この「死者への負債」は、あらゆる時代に起きていることです。犠牲者
 に背を向けて、「我々は間違えた」とは言えないのです。  
・リーダーたちの本音は、戦争を避けたいという点で一致していた。しかし、多くの恨み
 を買うその決断を誰が口にするか、水面下でのなすり合いが始まった。 
・近衛首相は、戦争回避の交渉継続を主張していた。交渉妥結の肝は中国からの撤兵にあ
 るという立場だった。しかし、当時の陸軍大臣東条英機は、国民に負担を強いながら莫
 大な国費をかけ、数多の国民を犠牲にして遂行した日中戦争を、何の戦果もないまま終
 結させることはできないと訴えた。 
・事態の収拾を途中で投げ出した近衛首相に代わってあとを継いだのは、対米強硬論者と
 見られていた東条英機だった。強硬な陸軍勢力を取りまとめてきた東条が首相に就任す
 ると、いよいよ「開戦内閣」誕生かという反応が国民や諸外国から沸き起こった。
・英国を自ら訪れ、英米の実状を目の当たりにしていた昭和天皇は、戦争への道をひた走
 る事態に、強い危機感を持っていたという。
・日本は、独裁的な政治体制ではなかった。だから戦争回避できなかった。逆に戦争に
 は入れた。戦争に入るようになったのであると思う。こうした日本人の弱さ、ことに国
 家を支配する首脳、東条をはじめ我々の自主独往の気力が足りなかったことが、この戦
 争に入った最大の理由だと思う。  
・ある意味、烏合の衆が寄り集まって綱引きをしながら、いつの間にか変なところに行っ
 てしまった。「船頭多くして船山に登る」というような状況だった。
・大本営政府連絡会議は、誰も強力は反対ができないような玉虫色の決着を、延々と続け
 てきた機関だった。だから、強力な意思決定はできなかった。確固としたことをやろう
 とすると、必ずどこかが反対した。だから、ことら側からはこう読めるし、あちら側か
 らはそれと違うように読めるというような、曖昧な決定にならざるを得ない。 
・明治以降、大陸進出することで日本の一等国まで導いたことが、陸軍の存在基盤です。
 それが、下手をすれば構築したシステムすべてを潰されるかもしれない。海軍も「アメ
 リカと戦えるんだ」といい続けて多くの予算を獲得し、軍艦を造り、飛行機を造ってき
 ました。なのに、「結局戦えませんでした」となれば、存在意義が問われることになり
 ます。彼らは、自らの組織的利害に非常に忠実であったと言えます。そしてまたそれが、
 彼らの頭のなかでは、日本全体の利害と一致していたのです。
・日本は余裕がないうえに焦ってしまった。つまり「禁輸をしたからには、次は戦争を仕
 掛けてくるに違いない」、「日本を弱らせたあとで料理してくるに違いない」という思
 い込みがあり、「動けるうちになんとかしなければ」と考えてしまったわけです。一方、
 余裕のある国は間違えても修正できますから。
・アメリカ人の一般的に日本観を代表する言葉に、「西洋の合理性から、日本人の思考を
 理解することはできない」という言葉がある。真珠湾攻撃は、戦術としてはすばらしか
 ったが、戦略的には愚かだった。こんなことは歴史上にないことだ。これほど愚かな戦
 略を見たことがない。  
・イラク戦争におけるアメリカの泥沼を目の当たりにした私たちは、日本のしたことが日
 本特有のものでないことがわかります。こうしたことは多くの他の社会でも見つかるこ
 とで、日本の文化とは無関係なのです。 
・アメリカによる「愚行」であったイラク戦争。イラク攻撃に至るブッシュ政権の意思決
 定過程を調べると、それは、真珠湾攻撃に至る日本の意思決定プロセスと非常によく似
 ていることがわかります。どちらも、理性ある人間と見られるメンバーがとんでもなく
 不合理な決定を下しています。一同が、「国家の安全保障を守るため」、「我々の大義
 は正当だ」と主張します。また、「我々がやっていることは、中国に(アメリカは中東
 に)平和をもたらすためなのだ」と。異議を唱えるものには、「愛国心が欠落している」
 と糾弾する。「ちょっと待て、これは無茶苦茶だ」などといえば、その人たちは排除さ
 れました。こうしたことが、ほとんどの社会の意思決定レベルで起きるのです。
・日本が中国に侵攻したとき、日本の軍部は「この戦いは6ヵ月で終わる」と考えていま
 した。「中国は混乱しているし、我々は強力である」と。しかしそれは、致命的な「想
 像力の欠如」でした。実際には、日本は泥沼に引きずり込まれます。軍部は中国側の抵
 抗を過小評価していたのです。  
・これはイラクやアブガニスタンにおけるアメリカに非常によく似ています。何かに関わ
 り始めるときはいつも、「手短に乗り込み、手短に引き上げよう」としますが、実際に
 はそうはいきません。事を起こす側は相手の国の実情を理解しておらず、自らの軍事力
 を過信して、侵攻した地域の民族主義の強さや原始的な軍事的抵抗を予測できないので
 す。 
・日本が中国で泥沼にはまり込むと、いわゆる「血債」を背負い込んでしまいます。中国
 で戦死した日本人が、遺骨となって祖国へ戻ってくる姿を絶えず目の当たりにするよう
 になると、「中国から引き上げよう」とは言えなくなります。「なぜ、そんなことがで
 きるのか」と指弾されるからです。そして、人が死ねば死ぬほど、兵や退けなくなりま
 す。リーダーは決して死者を見捨てることが許されないからです。この「死者への負債」
 は、あらゆる時代に起きていることです。犠牲者に背を向けて、「我々は間違えた」と
 は言えないのです。 
・アメリカのリーダーたちは、日本がいらだち、追い込まれて動き出すことがわかってい
 ました。「日本の軍部が準備を整えている。攻撃しそうだ。日本は東南アジアを攻撃す
 るだろう」と。ワシントンは、真珠湾ではなく、東南アジアへの攻撃を想定していたの
 です。そこには、アメリカの日本人に対する軽視が存在しました。日本を、近代化しつ
 つある手ごわい国家として捉えていなかったのです。 
・アメリカは中国に対する親近感を持っていました。日本に対しては「中国に弱い者いじ
 めをしている国」というイメージがあったと思います。 
・日本は日独伊三国同盟を結んだわけですが、ドイツとも仲良くし、アメリカとも仲良く
 できると思っていた。日本人のメンタリティーでは、誰とも仲良くするという発想がい
 いと思われるかもしれませんが、外交に大きなマイナスを及ぼすということです。三国
 同盟の問題点がここにもあったということを忘れてはならないでしょう。 
・当時のアメリカ海軍とルーズベルト大統領は、ヒトラーがヨーロッパ全域を制圧するこ
 とを非常に恐れていたと思います。驚くことに、ルーズベルトは日本の悪口や日本への
 警戒感をほとんど口にしていなかったのです。 
・アメリカのリーダーたちは日本との戦争を避けたかった。なぜならアメリカはドイツと
 の戦争を想定していたのですから、日本との戦争は無益なのです。にもかかわらず石油
 を止め、そのことが日本への挑発になってしまった。日本を追い込み、日本に引き金を
 引かせたのです。
・石油ひとつをとっても、アメリカによる日本の窮状認知の欠如という「見誤り」が戦争
 を引き起こした一因になったことがわかります。それに端を発する外交でも、アメリカ
 にも見誤りがあったし、イギリスにも見誤りがあった。ただ、結果的に最も多くの代償
 を払ったのは日本です。それは、やはり政治が軍事をコントロールできなかったところ
 に起因するでしょう。 
・日本の場合、軍人が暴走しました。開戦に反対であった昭和天皇のいうことすら聞かな
 かったわけですから。そして、敗戦後の東京裁判では東条英機がすべて責任をかぶるこ
 とになった。 

日米開戦史を再考する
・海鮮を不可避とした要因は何だったのか。第一は1930年代の日本外交の国際的な孤
 立、第二は満州事変をきっかけとする陸軍の暴走のメカニズム、第三は戦争支持の国民
 世論を煽ったメディア(新聞だけでなく、とくにラジオ)の役割、第四が政治的なリー
 ダーシップの問題である。 
・東条英機首相には、開戦をためらう理由があった。第一に、開戦後の戦局の見通しが立
 たなかった。第二に、対米開戦に伴うソ連参戦の恐れがあった。第三に、前年に締結し
 た日独伊三国同盟が当てにならなかった。勝てる見込みはなく、さらにソ連と戦争にな
 るかもしれない。それなのに三国同盟は頼りにならない。これでは勝てるはずがなかっ
 た。 
・アメリカ側にも対日戦争を回避したい理由があった。第一に、大西洋第一主義の軍事戦
 略である。アメリカの戦略的な関心は太平洋ではなく、大西洋にあった。枢軸国との関
 係が悪化し、対独伊開戦は時間の問題となっていた。太平洋と大西洋の二正面戦争のリ
 スクを回避し、欧州戦争に専念するためには、対日戦争は避けなくてはならなかった。
 第二に、強固な同盟関係を結んでいるかにみえた米英の戦略的不一致である。第三に、
 国内の孤立主義のムードである。強い結びつきと死活的利益がある欧州諸国の民主主義
 を守るためならば、ファシズム国家との戦いに立ち上がる。孤立主義のなかにあっても、
 アメリカ国民はそう決意するようになった。しかしアジアでなぜ血を流さなくてはいけ
 ないのか。日中戦争では中国に同情するアメリカ国民であっても、具体的な関与はため
 らった。
・日本のアメリカ化は日米の経済的相互依存関係とともに進行した。アメリカは日本に
 とってもっとも重要は輸出市場だった。他方では日本はアメリカにとって、非欧米の市
 場において、もっとも安全・有利・確実な投資先となっていった。日本の経済的なアメ
 リカ化は大衆消費社会をもたらした。日本の大衆文化がアメリカ化する。戦前昭和の社
 会はアメリカ化の影響を受けた大衆消費社会だった。  
・戦前昭和の大衆社会を象徴する建物がアパートである。東京を中心として、つぎつぎと
 姿を現した。これらのアパートはアメリカ化の影響を受けている。同時代のアメリカで
 は、文化的な設備と中庭付きの中層集合住宅が田園都市構想の一部を形成するものとし
 て、具体化していた。震災復興事業である同潤会アパートは、このアメリカの都市計画
 にヒントを得ている。当時おいて最先端の鉄筋コンクリート造りの集合住宅は、豊か
 なアメリカの集合住宅がモデルだった。
・1920年代における日本社会のアメリカ化によって、1930年代に入っても反米感
 情は抑制的だった。世界恐慌から脱却するために、日本は高橋是清蔵相の経済政策に基
 づいて、通商貿易の拡大に努めていた。日本にとっての最大の貿易相手国はアメリカだ
 った。そのアメリカとの外交関係に特別の注意を払ったのは当然だったのである。
・「鬼畜米英」という言葉は、軍人や右翼イデオローグたちの造語に過ぎないだろう。一
 般の日本人には、アメリカ人を鬼畜として憎む気持ちはなかったのではないか。戦前か
 ら私たちは、むしろアメリカ文化に対する羨望の気持ちの方が強かった。  
・当時の近衛首相は、日中戦争の早期終結の意志を変えていなかった。ところが国民世論
 が黙っていなかった。新聞やラジオの戦争熱を煽る報道によって、国民の間に戦勝気分
 が高まっていたからである。それまで国民は戦争に勝った経験しかなかった。日清・日
 露戦争、第一次世界大戦、いずれも日本は戦勝国だった。戦争に勝てば領土や賠償金を
 取るのは当たり前だった。 
・当時の日本の社会大衆党は、ナチス・ドイツに接近した。政友会の鳩山一郎もヒトラー
 のドイツに傾倒していた。国家社会主義のヒトラーおドイツは、日本にとって模範国と
 なった。
・東条首相は対米開戦をためらった。開戦後の見通しが立たず、対米戦争の目的の明確化
 が困難だったからである。それでも東条首相は開戦を決断した。対米開戦は東条首相に
 挙国一致体制をもたらす。国民は真珠湾攻撃に沸き立った。対米開戦によって、国民は
 緊張感と開放感に包まれた。戦争を支持する国民は東条首相を支持した。国民は「東条
 首相こそ英雄だ」と賞賛した。対する東条首相は「大衆は自分の見方なり」と自信を深
 めた。東条首相は対米開戦によって国民との一体感を手に入れた。
・しかし、その代償は大きかった。開戦時の戦争目的は「自存自衛」というわかりにく
 いものだった。なぜアメリカと戦わなくてはならないのか。本当のところはわからなか
 った。それでも日本はアメリカと戦い続けた。

太平洋戦争開戦前の「日本と日本人」
・第一次世界大戦の講和会議のときに欧米側は日本を、「遅れてきた帝国主義を今になっ
 て発揮しようとしている危うい国家」だと考えはじめ、一方で日本側には欧米列強い阻
 害され、抑え込まれているという思いが残った。  
・国際連盟を脱退する前、当時の斎藤内閣はどちらかというと穏健派だから、脱退回避の
 ために討議を重ねていた。昭和天皇は「脱退してはいけない」と言っていた。ところが
 メディアが、内閣が外交の方針を決めていないうちから、「早く脱退しろ、すぎに脱退
 しろ」と焚きつけたのです。あの頃あった日本の新聞社は130あまりでしたが、それ
 らすべてが連記して「日本は国際連盟から脱退せよ」という声明を出しました。 
・恐ろしいことに、メディアが国民を焚きつけると、世論という名の力がどんどん強固に
 なっていった。結果的にはメディアが世論に引きずられる。互いが互いを推し進めるか
 たちで「国際連盟を脱退せよ」という空気が強くなっていった。
・当時は関東大震災のあとですから、東京だけでなく日本全体と言ってもいいかもしれま
 せんが、貧困であった。そして先行きが見えない不安と無力感が国民の感情を支配して
 いました。そういうときに、外交上のそういったことが起きると、日本人の心のなかに、
 強いものに対する誘惑といいますか、強力なものによって国家を引っ張ってもらいたい
 という感情が湧いてきた。その流れが昭和の初めにはあったのです。中国の日本に対す
 る反日排日抗日の活動も不安の原因になりました。さらには1929年には、ウォール
 街の暴落が世界大恐慌を呼び、日本はさらに不景気になった。それらが重なっていたの
 です。  
・「歴代陸軍大将全覧」という書物があって、そこには明治から昭和初めの頃までの陸軍
 大将の名前と出自が記録されていますが、ほとんどが長州閥です。見事なくらいに。そ
 ういう派閥が牛耳るような陸軍はいかんと、陸軍の将来を憂慮した若手将校が集まった。
 第一次世界大戦では、戦車が出てくる、機関銃は出てくる、飛行機は活躍しはじめたと
 いう様相ですから、日本も早急に軍備を近代化しなければならないと考えたわけです。
 ところが我が日本陸軍はと見れば、功績もないただ長州閥だからという人が大きな顔を
 している。そのうえ、日本は世界列強から孤立しつつある。自主外交のためにも軍備を
 強くしなければならない。そのためには旧態依然とした長州の連中を追い出さなければ
 軍の近代化はできないという流れが起きてきました。
・陸軍のリーダーは、いわば国家のリーダーでもあったわけです。しかしそれが、陸軍と
 いう組織内の、皇道派や統制派という自分たちがいる組織の分派といいますか、その世
 界が彼らにとって全宇宙になってしまう。天下国家よりも、自分が属する組織の事情を
 最優先するというは、我々の病理のようなものでしょうか。 
・当時の首相は近衛文麿、外相は松岡ですが、彼らは英米よりもドイツのほうが強いと思
 っていたのかもしれません。またアメリカはその頃、モンロー主義、いわゆる中立主義
 をとっていたので、それも日本の首脳部の「アメリカは出てこないだろう」という誤算
 の一因となりました。山本五十六などの英米不可分論者は、ドイツと手を結んだ瞬間か
 ら必ずアメリカと戦争になると考えて猛反対していました。ところが軍中央の首脳部は
 そういう連中の意見は聞かなかったわけです。冷静に国力を比較すれば無謀であること
 はわかるはずなのに、そうはならなかった。 
・大雑把に戦力を比較しますと、当時の国民総生産は、日本はアメリカの10分の1なん
 です。日露戦争のとき、日本は帝政ロシアの同じく10分の1だった。その帝政ロシア
 と戦争して勝ったんだから、という論理は当時もあったんです。「その時代の戦争と今
 度の戦争は全然様相が違う」という人がたくさんいたと思いますが、駄目なんですね。
 過去の栄光というのは大きいんです。
吉田茂は対中国強硬派でしたが、米英に対しては「戦争すべからず」という立場ですか
 ら、睨まれていました。ですから、東条の意を汲んだ憲兵に引っ張られて留置場入りで
 しょう。東条その人は気の小さい律儀な人で、その律儀なところが昭和天皇に気に入ら
 れたわけですが、天皇という虎の威を借りて好き放題やった部分もありました。
・海鮮の直前まで、「戦争するべきではない」と考えていた人がたくさんいたと思います。
 しかし、市井の日本人の間には、戦争を望む空気も広がっていました。開戦の日の日記
 をダーッと並べたことがありますが、みな「快哉」です。昭和に入った頃からずっと、
 漠然とした不安感や無力感、国家を率いる人たちへの懐疑など、国民のなかに鬱積して
 いたものが、こうした行動につながったものといえるでしょう。
・あれだけの多くの、もうほとんどといっていいほどの日本人が戦争は愚かなものだとい
 うことに気づいていながら、結果として戦争への道をとってしまったという事実の重さ
 を、改めて思います。そしてそれは、「軍部の暴走」という理由だけでは説明できない
 複合的な要因が重なったためだった。それはたとえば、戦略をもたなかった外交。国益
 よりも自分の今いる組織の利益を優先して考える人間の病理の典型例と陸軍という巨大
 組織。大衆に迎合したり、軍部のなかに入り込むことで情報を得、結果として軍部の宣
 伝をすることで大衆を煽ってしまったメディア。期限付きの懸案事項が山とあるのに何
 も決定できずに先送りする、国家観を持たないリーダーたち。