影の権力者 内閣官房長官 菅義偉 :松田賢弥

この本は、いまから8年前の2016年に刊行されたものだ。
この本は、「菅義偉」氏がいかにして「影の総理」とまで噂される地位までのぼりつめた
のかを記したものだ。
私はこの本を読んで、菅氏の両親が「満州の開拓民」だったことを知って驚いた。
菅氏の父親は満州鉄道に勤めていたようである。菅氏の二人の姉は満州の地で終戦を迎え
たということである。菅氏の両親は二人の娘を背負いながら、命からがら満州から秋田に
引き揚げてきたということだ。菅氏自身が生まれたのは、引き揚げから2年後だったとい
うことのようだ。
とはいっても、菅義偉氏自身の話題はそれほど多くはなく、「小沢一郎」氏の話題や「
山静六
」氏、「野中広務」氏、「小渕優子」氏などの話題が多く盛り込まれている。
どれも、なかなか興味深い内容なのだが、私が一番興味深かったのは、小渕優子氏の「政
治とカネ」の問題だ。今も同じように「政治とカネ」の問題で、世論はすっかり政治不信
に陥っており、いまの安倍派幹部たちの釈明が当時の小渕優子の釈明と重なり、いつにな
っても政治家は秘書にすべての責任を押し付けて、自分では責任を取らない人種なのだと
改めて確認できた。

なお、森友学園問題は2013年頃から水面下でうごめていたようだが、表面化したのは
2016年ころからであり、加計学園問題も表面化したのは2017年、桜を見る会問題
も2019年に開催された会のもので表面化したのも2019年なので、どれもこの本が
刊行された後のことで、この本の中には出てこない。

ただ、菅氏は自分の最初の選挙で、「主義・主張を持たずにただ長いものに巻かれ、異端
者を排除し、既得権益を守るため自分らだけの狭い世界に安住する保身体質」の自民党の
しがらみや悪い面のすべてを見てしまったと語っていたという。
しかし、やがて菅氏自身が官房長官という権力の座についたとき、自分自身が、その自民
党の悪い面にすっかり染まってしまっていたのではないのかと、問うてみたくなる。

過去の読んだ関連する本:
伏魔殿 菅義偉と官邸の支配者たち
学問と政治
同調圧力
人間を幸福にする経済

血涙の歴史の落とし子
・戦後の分岐点となる安全保障関連(安保)法案が混乱を極める国会で成立した。
 その三日後2015年9月、「安倍晋三」総理は母・洋子を伴って静岡県駿東郡小山町
 の富士霊園を訪れ、1960年に安保条約改定を遂行した祖父・「岸信介」元総理と父・
 「安倍晋太郎」元外務大臣の墓前で、同法案の成立を報告した。
 87歳の洋子は岸の長女である。
・岸の終生の念願は憲法改正だった。
 しかし、それは並大抵の事業ではないことも岸は知っていた。
 岸が企図したのは「解釈改憲」だった。
 岸の言う解釈改憲こそが、今回の集団的自衛権の行使をめぐる安保法案の底流にある。
・岸から孫・晋三へと改憲の意志は受け継がれ、二人は「安保」に手をつけ、その大きな
 改革をやりとげた。  
 安保法案の成立は、岸を頂点とする一族にすれば溜飲が下がる思いだろう。
 安倍と洋子は、岸の見果てぬ夢をかなえようと、「次の憲法改正です」と墓前に誓った
 のかもしれない。
・しかし実は、安保法案をめぐる自民党の主役は安倍ではない。
 もちろん、同法案の最高責任者は安倍だが、60年安保を改定した岸に連なる一族を、
 導いた影の主役がいる。内閣官房長官・「菅義偉」、その人である。
 菅が傍らにいたからこそ、安倍は総理であり続けることができたと言っても過言ではな
 い。
・菅は早くから安倍が持つ独自の強みを見抜いていたと言うしかない。
 それは菅が、安倍が岸信介に連なる家系の子だということと、自民党を作ってきたのが
 岸だということの意味を知悉していたからだ。
・菅は、秋田の豪雪地帯にある高校を卒業し、上京してから二年、そして大学を出てから
 も二年、計四年のブランクの間、板橋の段ボール工場や新宿の雑居ビルの飲食店での皿
 洗いなどに従事し、また電気設備会社に身を置いて働いた。
 横浜の「小此木彦三郎」衆議院議員の秘書として仕えたのは26歳の時である。 
・菅の生まれ育った故郷は、秋田県雄勝郡秋ノ宮村である。1955年、秋ノ宮村・院内
 町・横堀町の三町村が合併して雄勝町になり、さらに2005年、同町は湯沢市に編入
 されている。
・1941年のことである。秋ノ宮村を含む雄勝郡を中心とした地域一帯から、海を越え
 て満州へ渡った「哈達湾雄勝郷開拓団」があった。
 しかし終戦の1945年8月、その開拓団の約250名が集団自決などにより命を落と
 さざるを得なくなるという不幸な歴史があったことは、秋田県内でもほとんど知られて
 いない。闇の中に埋もれた不幸な歴史である。
・菅の両親と二人の幼い姉は満州の地で終戦を迎えた。
 父・和三郎が戦前の満鉄(南満州鉄道)に勤めていたためで、11人兄弟だった和三郎
 の妹も渡満していた。
 
・1989年の夏、秋田県雄勝郡羽後町の明治(現・羽後明成)小学校六年で12歳だっ
 た佐藤智子(旧姓・小野)が夏休みの自由研究で母方に連なる祖先の家系を調べて書い
 た「母の家系図」と題する作文には戦時中の満州に渡った祖父の家族の多くが1945
 年の終戦直後、満州で命を落とさざるを得ないかった悲劇が書かれている。
・秋田県雄勝郡羽後町は、県南の湯沢市に隣接し、田園が畑、西瓜などの果樹園が広がる
 穀倉地帯だ。 
 羽後町の中心地・西馬音内は、夏ともなれば、布の切れ端を縫い付けた独特の衣装をま
 とい、編み笠や黒い頭巾で顔を覆った女らが囃子に合わせて舞う郷土芸能「西馬音内盆
 踊り」の地として、古くから親しまれてきた。
・西馬音内から、さらに車で10分ほど西に行ったところに、旧明治村払体という地区が
 ある。
 小高い丘に、その集落で祀る墓地がある。坂道を登ったところに、「高山家之墓」があ
 る。高山家は、佐藤智子の母の実家である。
 その高山家は1941年、四世代の大所帯で満州に渡ったのだった。
・智子は作文でこう記す。
 「第二次世界大戦の頃、日本の政策によって満州国に開拓民として家族で渡り、戦争が
 日本にとってきびしい状態になった時、開拓民の男たちは、皆戦争に行ってしまい、開
 拓村には女・子どもだけになってしまいました。そこにソ連が攻めてきたのでした。
 その時、開拓団の団長だった人もいなかったたけに、どうすることもできないで、8月
 15日に戦争が終わったにもかかわらず、その四日後に、生まれて間もない子どもまで、
 集団自決をしなければならなかったそうです」
・智子がこんな悲劇を聞いたのは、母と一緒に訪ねた実家の菩提寺の住職からだった。
 生還した祖父が、集団自決を含めて満州で亡くなった高山家14人の遺骨を寺に持ち込
 んだことで住職の知るところになった。
 だが、住職自身は、祖父の孫の彼女が訪ねてくるまで、集団自決の出来事を長い歳月、
 口にすることはなかった。  
 満州の地で死亡したのは15人だが、寺に持ち込む遺骨が14人になったのは、当時の
 状況から遺骨を現地で拾えないなどの事情があったためと察せられる。
・高山家が、祖父ら四世帯の大所帯で哈達湾雄勝郷開拓団に参加し、渡満したのはアジア
 太平洋戦争の始まった1941年のことだ。
 雄勝郷開拓団が哈達湾に入植したのは1940年からで、雄勝郡の明治村・秋ノ宮村・
 田代村・西馬音内町・山田村・西成瀬村・弁天村・三関村などに加え、平鹿郡、仙北郡
 などの村出身者約360人が在籍していた。
・そして、高山家が渡満してから4年後の1945年8月9日未明、突如、ソ連の満州侵
 攻が始まる。  
 その混乱の中を命からがら秋田に生還したのは祖父と、祖父の弟妹合わせてわずか4人
 だった。
・智子の作文は教師により両親の了解を得たうえで、太平洋戦争を知るための教材に取り
 上げられ、「雄勝郷開拓団の悲劇」は同級生や村の人々の知るところになった。
・智子の作文が書かれた一年後のことだ。
 祖父は八人兄弟の長男、満州から生還した祖父ら四人のうち祖父の七番目の兄弟にあた
 る弟を訪ね、哈達湾の体験を従妹とその両親がいた。
 従妹は、祖父の弟が重い口を開いた語った内容を、智子に次いで聞き書きの形で夏休み
 の自由研究の作文に綴った。
 「昭和19年6月、日本が負けるというデマが飛び、満人(中国人)の反乱が起こるよ
 うになった。2020年7月、男たちは手榴弾を一つずつ持たされて召集され、さまざ
 まな辛い思いや体験をした。
 2020年8月10日頃の夜中に開拓団に戻ると、ロシア人を満人の反乱が起きていた。
 開拓団のあるところは見渡す限りの平坦地だったので、三角点というところから襲撃が
 があって『助けて!』という声が聞こえてもどうすることもできなかった。
 8月19日には家族一人残らず、小さな子どももみんな殺された。そして残った者は自
 決したり、家族の手で殺したりした。
 私の祖父の家族13人は、こうしてここで亡くなっている。
 その人たちや村を焼いて逃げた。冬は零下50度にもなる満州の地を裸足、裸同様の姿
 でとにかく逃げるしかなかった。最初は一日五里も歩いたが、だんだん一日一里も歩け
 なくなった。
 ハルビンから汽車で三日かかるシンキョウまで逃げて日本人収容所に入った」
・満州開拓は当時の国策として推し進められた。
 全国の農村の隅々まで「開拓民になって20町歩の地主になろう」と喧伝され、貧しい
 農村から脱する夢を煽った。
 家族で渡満すると土地が与えられ、日本国内の食糧不足からすると夢のような土地で懸
 命に鍬をふるった。
・しかし、それらの土地は本来、古くからそこに居住してきた中国人のものだった。
 「満州国」を建国し、満州を支配した兵力70万人の日本陸軍・関東軍がその威力で奪
 った土地だった。
・土地を奪われた中国人の多くは関東軍に隷属し「苦力」と呼ばれる労働力として生き延
 びるしかなかった。
・1945年8月14日、天皇がポツダム宣言を最終受諾し、日本の敗戦は決した。
 一方、満州では8月9日未明、ソ連軍が国境を越えて侵攻。
 敗軍となった関東軍は大本営の命により満州から撤退する。
 それは満州で生活している多数の移留民・開拓民らの置き去りを意味していたのである。
・満州の地で逃げまわる開拓民らは、8月15日に天皇の「玉音放送」があり、国民に終
 戦が告げられたことを知る由もなかった。
・終戦によりソ連軍ばかりか、中国人、なかでも「匪賊」「土賊」と呼ばれていた「満人」 
 の反乱軍が開拓民に襲いかかることは火を見るより明らかなことだった。
 ここに、今もって歴史の暗部としてその全貌が明らかになっていない。
 8月15日の終戦を境にした未曽有の悲劇が満州各地で起こったのである。
・満州開拓団の全在籍者は27万人。うち、青壮年層を中心とした4万7千人が終戦前に
 した「根こそぎ動員」で軍隊に召集され、女・子ども・老人だけが取り残された。
・「満州開拓史」の「事件別開拓団死亡者一覧表」によると、日ソ開戦後開拓団から避難
 の途次、あるいは現地に踏みとどまって越冬中、ソ連・満軍・暴民の襲撃などにより自
 決・戦闘死した者のうち、ほとんど全滅、あるいは犠牲者15人以上を出した開拓団は
 77を数える。犠牲者は約9600人だ。
 一覧表に記された以外の15人未満の自決・戦死者を入れると約1万1千人におよぶ。
 さらに、満州開拓団の全在籍者は27万人だが、日本帰国までのその後の過酷な生活の
 よる病没と行方不明者を入れると、開拓者の人々の死亡者は7万8千5百人に達した。
・満州の雄勝郷開拓団の悲劇を見聞きし、命からがら秋田の地へ帰ってきた人々は、
 「俺だけ満州から無事に帰って来て・・・」
 と罪悪感に苛まれた。だから、口を閉ざしたのである。 
 今もって日本全土で、満州に渡った開拓民の悲惨な体験が埋もれたまま十分に知られて
 いない理由はそこにある。
・菅の父親・和三郎の満州体験を生前の彼に取材した「秋田魁新報」(2007年8月)
 はこう記している。
 「昭和20年の暮れだった。終戦直後の混乱期、旧満州の奉天(瀋陽)にいた菅和三郎
 さんは、厳冬の街中で故郷・秋ノ宮村の隣人の男性に出くわした。遠く哈達湾から避難
 してきた雄勝郡郷開拓団の入植者だった。
 男性は感染症を患っていた。寝泊まりする倉庫に行ってみると、日本人が大勢おり、
 凍った遺体も転がっていた。
 『ここにいては死んでしまう』。菅さんは男性を家に招き、数人いた他の雄勝郷団員に
 も住む部屋と仕事の世話をした。
 男性は召集で開拓団を離れていた。終戦で哈達湾に戻ろうとしたが、途中で団員に会い、
 『もう自爆した。行ってもだめだ』と告げられたという。
 和三郎さんは家族とともに、暴動が起きる寸前の通化から奉天に逃れた。
・ソ連軍が1945年8月9日、満州に侵攻してくるまで、和三郎の一家は満州の満鉄宿
 舎で現地人のお手伝いを雇うほど、内地とは異なる恵まれた生活をしていた。
 ソ連軍侵攻後、日本の敗戦を満州の地で迎え、それからしばらしくして、和三郎夫婦は
 満州で育った幼い娘二人を背負って手を引きながら、命からがら秋ノ宮に戻ってきた。
 菅が生まれたのは、引き揚げから二年後のことだ。
 
集団就職の時代
・菅は、秋田県南の湯沢市秋ノ宮の農家に姉二人、弟一人の長男として育った。
 中学の同級生120人のうち、高校に進学できたのはわずか30人。大半が中卒で東京
 などの工場や商店などに就職する集団就職組で、彼らは15歳で「金の卵」と呼ばれた。
・菅は、秋ノ宮の中学を出て、湯沢市の高校に入った。
 菅は集団就職組には入らず高校に進学したが、それを一概に望んでいたわけではない。
 それよりむしろ、早く東京に出て稼ぐことを望んでいた。
 彼は「鉛色の空に覆われた村が嫌いだった」と語っている。
 菅の選択肢は東京へ行くか、秋田に留まるかの二つしかなかったのである。
・菅が高校一年の時、(父親の)和三郎は雄勝町の町会議員になった。町議を四期務め、
 副議長も経験している。
 しかし、上京を念願していた菅にとっては無縁のことだったろう。
・菅にとって秋田は、脱け出したくても脱け出せない土地だった。
 子どもの時から、農家の長男として家を継ぐことを背負わされて育ったからである。
 その境遇は、後に神奈川・横浜出身で通産、建設大臣などを歴任した自民党の重鎮・
 小此木彦三郎の秘書になってからも、郷里へ帰るべきか否かで菅を逡巡させる。
・「東京へ出て稼ぐ」
 高校を卒業した菅の予期せぬ言葉に、ゆくゆくは家を継がせようと願っていた和三郎は
 激怒した。
 しかし、菅は和三郎の反対を押し切って上京する。
 父子の不和はしばらく解消されなかった。
・上京した菅はいったん、地元の高校の紹介で東京・板橋区の段ボール工場に住み込みで
 就職する。 
 しかし、労働環境は想像以上に厳しいものだった。
・その後、菅は昼は築地市場の台車運び、夜は新宿の喧噪の中で飲食店の皿荒いなどのア
 ルバイトを重ねる。
 東京で働くようになってからも、田舎の仲間にはたまに会った。
 そこで菅は、中卒で働く彼ら下積みの苦労を聞かされる。
 手許にいくらも残らぬ給料をもらい、彼らは働いていた。
 ひたすら東京に憧れ、高卒で単身東京に出てきた菅にとっては少なからぬショックだっ
 た。
・「このまま一生終わるのは嫌だ」。
 漠然とした不安と焦りを感じるようになった菅は、アルバイトの傍ら大学への受験勉強
 を始めた。
 そして、通常より二年遅れて法政大学法学部に入学した。
 そこを選んだのは学費が私立大学の中では安いこともあった。
 下宿は弟と一緒だった。
 菅は空手に打ち込み、一方で学費を稼ぐために皿洗い、ガードマン、新聞社の雑用係、
 カレー店の盛り付けなどのアルバイト生活を続けた。
・菅の入学した1969年当時の法政大学は、東京大学や早稲田大学などと並ぶ学生運動
 の拠点だった。 
・中核派による革マル派活動家(東京教育大学生)のリンチ殺害事件が1970年8月に
 起こったが、その場所が法政大学構内だった。
 この殺人事件は学生運動が退潮していく一つの原因と言える「内ゲバ」の起点にもなっ
 た。
・世間を震撼させる事件もあった。
 1974年8月に三菱重工爆破事件を起こし、死者8名と多数の負傷者を出した東アジ
 ア反日武装戦線「狼」部隊のリーダー・「大道寺将司」は奇しくも1969年、法政大
 学に籍を置いていた。
・菅は昼夜を分けたがぬアルバイトで学費を稼いでいた。
 アルバイトに疲れ、一時は学生課に夜間部への転部を申し出たりもしている。
 ロックアウト状態の法政大学に入学した菅は、学歴とは別に自分の手足だけけを頼りに
 この社会に立つにはどんな生き方があるのかを、アルバイト帰りの夜更けの下宿で考え
 ていたのではないのか。 
 もし四年間打ち込んだ空手がなければ、あるいは菅は法政に見切りをつけていたかもし
 れない。
・アルバイトづけの菅は、学生時代に何を感じたのだろうか。
 菅はノンポリ学生だったが、一般の学生とは異なり、秋田の寒村出身で実家に頼らず自
 力で大学生活を送る彼が、校内の情勢に全く鈍感だったとは思えない。
 当時、学生運動の中では「権力」「反権力」という言葉がよく使われていた。
 彼らの言う権力とは体制全般であり、不正と腐敗の象徴だった。
 しかし、すべての事象を権力の反動的行為のあらわれとだけ認識して、いったい何が解
 決するのだろうか。
 体制自体を変えていくプロセスを描けなかったら、この社会は何も変わらずに終わるの
 ではないか。
 菅だけでなく当時の学生にはそんな問題意識を抱く者もいたように思う。
・菅は後に政治家になった理由を、「社会は政治が動かしているから」と語っている。
 必竟、菅は政治にこそ権力が、社会を動かす力が存在しているということを法政大学の
 四年間で自分なりに感じ取ったのではないのか。
 その政治を現実に生きた形で知らされたのは、卒業後にいったん籍を置く防災関係事業
 や電気設備工事を営む企業、健電設備(現・ケーネス)でわずかな期間、働いてからで
 ある。当時、同社は建設省の天下りを受け入れていたという。
・卒業を前に菅は「社会を動かしているのは政治じゃないか。政治の世界に身を置いてみ
 たい」と思うようになった。
 一時は都内の電気設備会社に勤めたものの、政治の賭ける気持ちはつのるばかりだった。
 しかし、秋田から身一つで飛び出してきた彼に政治家とのつながりなどあろうはずがな
 い。  
・そこで菅は、大学の学生課に掛け合う。学生課でも政治家への紹介の依頼など前代未聞
 のことだった。
 結局、法政OB会を経て紹介されたのは法政OBで法務、建設大臣、衆院議長などを歴
 任した「中村梅吉」の事務所だった。
 事務所で駆け出しの菅は元参議院議長・「安井謙」の選挙の手伝いに回されもしたが、
 何も言わず懸命に働いた。
 「朝早く事務所の鍵をあけ、夜遅くまで働いた。若い者を育てようとする気風もあった」
 と菅は述懐する。
・しかし、その中村は1975年に政界を引退。それを前に菅は、中村と同じ中曽根派の
 「小此木彦三郎」衆議院議員のもとへ身を寄せることになる。
 小此木の門を叩いて秘書になったのは1975年、26歳の時だった。
・菅は、秋田とちがって、地縁・血縁など何もない横浜で11年、秘書家業を務めた後、
 横浜市議会議員(二期)を経て、一直線に衆院議員をめざしていく。
・菅にとって東京は、思い出したくない暗い記憶で埋められていた都会だった。
 郷里に帰ろうかと、思い悩んだ時は一度ならずあっただろう。
 しかし、父・和三郎に反発して出ていた手前、つきせぬ望郷の念は一人、じっと抑え込
 まなくてはならない。その葛藤は、集団就職で東京で働く同級生らと何ら変わるもので
 はなかった。
・秘書なった菅は、小此木の自宅の隣に書生のように住み込んだ。
 朝食を共にし、小此木に四六時中仕える。
 小此木は菅を一から鍛えた。
 ある時、車の後部座席にいた小此木が「おまえなんか出て行け!」と菅を怒鳴り、座席
 を足でけることがあった。
 しかし、菅は秘書を辞めて出て行くわけにはいかなかった。
 辞めることは秋田に帰ることを意味したからである。
・しかし、長男として郷里に帰らず、このまま横浜にいていいのだろうか、と気持ちの揺
 らぐことはあった。
 その逡巡する気持ちが定まったのは、秋ノ宮に来た小此木が和三郎とタツに「もう少し
 私の事務所に置かせてください。ちゃんと育てますから」と、かしこまって頭を下げた
 からだった。和三郎が義偉との父子の長い不和を解いたのはこの時だった。
・菅が47歳で衆院議員に初当選するのは1996年のことである。
 
小沢一郎と菅義偉
・2014年の師走、安倍晋三政権(第二次)の総選挙。
 もはや少数政党となった「生活の党」代表の小沢は必死だった。
 聴衆は、小沢の顔に目を奪われた。
 無理もない。小沢は岩手県選出の国会議員でありながら、「これまで一度も、小沢一郎
 の顔を直に見たことがない」と言う岩手県民が少なからずいたからだ。
 小沢はおそらく、沢内村が自身の選挙区であっても、1969年の台32回衆議院選挙
 で初当選以来、ほとんど足を運んだことがなかったろう。
・小沢は選挙戦序盤の12月6、7日だけでも県内30ヵ所をこまめに回り、ビールケー
 スの上に立って演説を続けた。
 これだけ地元を回るのは、新人議員時代を除けば初めてのことだ。
 オサワの地元・水沢市(現・奥州市水沢区)の近郊ですら、聴衆の一人、70代の男性
 は「初めて生で一郎の姿を見た」と驚きの表情を見せた。
 小沢自身、対抗馬で西和賀町出身、「藤原崇」候補(当時31歳・自民)の足音に、そ
 れだけ危機感を覚えていたのである。 
・その小沢への追い打ちをかけるかのように、選挙戦の最終盤に奥州市に入り藤原の応援
 に立ったのが菅だった。
 菅は奥州市の目抜き通りに響くように声を張り上げた。
 「私は、ここ(奥州市)から山を一つ越えた(秋田県)湯沢市の出身です。湯沢は私を
 高校まで育ててくれた故郷です。小沢さんはこの20年、政界の中心にいたが、なんと
 してももう退場させましょう」
・結局、この総選挙で小沢はかろうじて当選したとはいえ、その凋落は目を覆うべくもな
 かった。
 小沢の後退と対照的に政権中枢へのし上がってきた実力者が菅義偉である。
 
・自民党結成60年の歴史の中で、「田中角栄」の登場は異彩を放っていた。
 角栄が「日本列島改造論」を引っ下げて、安倍総理の祖父・岸信介の系譜に連なる大蔵
 官僚出身の「福田赳夫」を総選挙(1972年)で破ってから、日本の政治は角栄の独
 壇場だった。
・その角栄の演説は、学歴とて尋常高等小学校という彼のたぐいまれな人間性を物語るも
 のとして、つとに知られる。
 菅自身、角栄を自分の境遇と重ね合わせたことが何度もあったのではないだろうか。
・その角栄は、総理を失脚し、ロッキード事件で自民党籍を失った後も、「闇将軍」とし
 て政界に君臨する。
 「人は誰しもできそこないだ。しかしそのできそこないを愛せなければ政治家は務まら
 ない。そこに原点があるんだ」
 人の世の裏も暗さも舐めつくした言葉を発する角栄に、あまたの政治家が引きつけられ
 た。角栄政治は彼の持って生まれた人間性に負うところが多分にあった。
・その角栄に背き、派中派・「創政会」を立ち上げたのは竹下登、金丸信、小沢一郎と菅
 の師・梶山静六らの若手だった。
 小沢と梶山は角栄への反旗を翻す立役者となり、弓を引かれたことに怒った角栄は脳梗
 塞に倒れて、その政治生命が断たれる。
 その後、竹下は「経世会」を結成し、小沢が自民党幹事長に就いたのは1989年だっ
 た。  
・小沢が徹底したのは数の政治だ。
 1991年の総裁選で出馬表明していた自民党の実力者だった宮沢喜一、渡辺美智雄、
 三塚博と小沢が、自身の永田町の個人事務所で面談するという場面は、数の政治に驕る
 小沢の傲岸ぶりを如実に物語った。
・小沢を増長させたのは経世会の派閥政治だった。
 主流派派閥・経世会に逆らえばポストにありつけないという恐怖政治が続く。
 その経世会が金丸信の失脚に伴う会長の座の跡目争いで分裂。
 「小渕恵三」が後継会長に就くと、経世会は平成政治研究会と名を変え、一方の小沢は
 政党の合従連衡を繰り返すことになる。
・その経世会の分裂劇の中で、梶山は小沢の独断専行に耐えかね対立。それは「一六戦争」
 と呼ばれた。
・その梶山自身が、菅を引き連れて旧態依然の派閥政治を繰り返す平成研に造反し、総裁
 選に出馬したのは1998年のことだった。
・一方、「野中広務」を中心に小沢への追撃は続く。
 小沢が関わる権力闘争が終焉するのは「、民主党の分裂と、その狭間で世に出た小沢夫
 人・和子による「離縁状」が引き起こした小沢自身の信用失墜によってだった。
・菅はかねてより雑誌で「(民主党は)最高権力意思決定者は小沢一郎民主党幹事長であ
 る。きわめていびつな政権というべきだろう」と、小沢民主党を攻撃していた。
 その菅が立役者となって、安倍自民党政権に返り咲くのは2012年12月である。
・菅義偉という政治家は、角栄政治と小沢時代の延長線の「その先」に輩出されたように
 思う。
 平成に入って自民党幹事長に就いてからの小沢は徹底した「数の信奉者」として権力中
 枢に居座る。
 そこには角栄が皆を魅了したような、苦労に裏打ちされた人間性は感じられなかった。
 小沢の人間性と派閥支配には必ずや限界が訪れるということを菅は早くから見抜いてい
 たのではないだろうか。
 角栄と小沢は、今の菅を築くうえでの、政治の「反面教師」だったのかもしれない。

・小沢一郎は1942(昭和17)年5月、東京・下谷区御徒町で生まれた。
 その時、父の佐重喜はすでに東京府議会議員で43歳、母・みちは41歳。
 二人にとってはなかば孫のような長男だった。
・1945年3月、みちは二人の姉、そして小沢を連れて佐重喜の故郷である岩手県水沢
 市(奥州市)に疎開している。東京大空襲から逃れてきたのだ。
 みちは途中から、石ころや雑草だらけの田舎道を難儀しながらリヤカーを引いて来たと
 いう。佐重喜が水沢に来たのは、終戦を迎えた後の秋だった。
・その翌1946年4月、佐重喜は衆院選挙に出馬して当然。
 そして二年後の1948年には第二次吉田茂内閣で運輸大臣に就任しているのだから、
 小沢は物心ついた時には、すでに「代議士の子」、もしくは「大臣の子」だったことに
 なる。
・小沢は中学二年の三学期を最後に水沢を離れ、佐重喜の住む東京・湯島から子どもの足
 で20分程かかる第六中学校(文京区)に転校。
 いわば岩手の優等生だった小沢は、都立小石川高校に進学する。
・その三年生の時だ。佐重喜が岸信介内閣の安保特別委員長だったことから、小沢は戦後
 最大の騒擾と言われる60年安保に遭遇する。
 言うまでもなく、岸は安倍総理の祖父だ。
・湯島の小沢邸にデモ隊が押しかけた。
 赤坂のホテルに避難を求める警察に対し、高校生の小沢は敢然と猛反対した。 
 その時の小沢の弁はこうだ。
 「安保条約は、日本の安全保障のため是非必要である。そのためにこそ、父は生命をか
 けてこの条約の改正は成し遂げなければならないと決意を固め、特別委員長としてやっ
 ているのだ。国のために正しいことをやっているのに、無謀なデモの暴力から、一時と
 はいえ逃げるような行為は納得できない」
・佐重喜が、心不全で死去したのは1968年だった。
 佐重喜の死後、紆余曲折の末、結局、後継候補は息子の小沢に決まる、小沢27歳の時
 だった。 
・しかし、水沢と中心とした旧岩手二区で小沢と対立する相手は、戦前の満州時代から
 岸信介と盟友のエリート官僚で、戦後は佐藤栄作政権のもとで外務大臣と通産大臣を歴
 任してきた自民党切っての大物・「椎名悦三郎」だった。
 いくら佐重喜の地盤があるとはいえ、生半可な覚悟では勝てない相手だった。
・そこで佐重喜の後援会員らはバス四台で上京して目白に行き、角栄との直談判に及んだ。
 角栄は後援会員らを前に「ヨッシャ、一郎は俺が預かる」と約束する。
 この時の角栄との出会いが、小沢の運命を決定づける。
 角栄を背にすることで、小沢は世襲候補に欠かせない「地盤」「看板」「カバン」の三
 つを手に入れたも同然だったからである。 
・総選挙の結果は、小沢が七万票以上を取ってトップ当選。
 父の弔い選挙で同情を誘ったこともあるが、角栄の応援を受けて、小沢自らが選挙区を
 駆け回り、ただ唯一の利点である若さを訴えたことが大きかった。
・小沢にとって郷里は、何より母親・みちが住んでいるからこそのものだった。
 小沢は常にみち一人の身を案じていたからだ。
 ところが初当選から四年後の1973年、新潟の中堅ゼネコン・福田組社長(当時)・
 福田正の長女・和子と結婚し、水沢にみちと住まわせるようになってからは、小沢は当
 選二回目として郷里を顧みることがなくなっていく。
・さすがに、本人に諌言したほうがいいと考えた後援会幹部が、
 「一郎、水沢に帰ってきて、皆に顔見せねば駄目だ」
 と言ったところ、小沢は一言も返さずに、不機嫌な顔をしてプイッと横を向いてしまっ
 たという。  
・私は、ここに小沢という人間の未熟さを見てしまう。
 世襲議員として最初から敷かれたレールに乗ることへのある意味、羞恥の感覚を何ら感
 じさせないばかりか、気に入らないと自分を育ててくれた郷里の人々でもすげなく切り
 捨てる。
 郷里の人々は小沢の選挙マシーンではない。
 中学三年から東京育ちという来歴が小沢を甘やかしたかもしれないが、後に小沢が瓦解
 する理由もその傲岸不遜に潜んでいたのではないか。

・田中角栄は、小沢を引き立てた。
 小沢は、1975年の科学技術政務次官を皮切りに、76年に建設政務次官、80年に
 は木曜クラブ(田中派)の事務局長、82年には自民党総務局長に就任し、権力の階段
 を上っていった。
・小沢に初入閣は85年、第二次中曽根内閣の自治大臣・国家公安委員長だ。
 当選六回、43歳の大臣だから、決して遅くはないだろう。
 むしろ、小沢本人が自分を「岩手の故郷と永田町、社会としてはその二つしか知らない
 で来た」と吐露しているように、ここで社会からまったく揉まれる経験なくして大臣に
 就いたことで自分を顧みる機会を失いつつあることを気づくべき時だったのかもしれな
 い。しかし、そんな虚心坦懐は、当時の小沢に望むべくもなかった。
・しかし、角栄の総理の絶頂期は長くは続かなかった。
 ファミリー企業を操った「金脈」が明るみに出て世間の指弾を浴び二年五ヵ月で失脚、
 さらに角栄の運命は暗転していく。
 総理の辞任表明から一年八ヵ月後の1976年7月、角栄はロッキード事件の発覚によ
 り外為法違反容疑で逮捕される。そして83年10月、東京地裁は角栄に懲役四年・追
 徴金5億円の実刑判決を下した。
・だが、角栄の真価が発揮されたのは総理に就いていた時ではない。
 ロッキード事件で逮捕されて、自民党籍を失いながら100人以上の最大派閥(軍団)
 を率いる闇将軍よして君臨している間だ。
 角栄はキングメーカーとして政権を裏から支配した。
 まさに数は力だった。
 田中派の意向なくして政権を担うことは、事実上不可能だったのである。
・同時に、それは小沢の不幸でもあった。
 闇将軍・角栄が握る権力は決して正統なものではない「裏支配」であったにもかかわら
 ず、それが必然であるかのような派閥支配の揺り籠のなかで、小沢は角栄の秘蔵っ子と
 して頭角を現し、その角栄の背中越しに権力を操る術を覚えていったからだ。
・その一方で、長年にわたり田中派から綜理候補を出していないことに、若手を中心に不
 満が鬱積していた。 
 裏から権力を掌握しているといっても、やはり閣僚ポストは少なかった。
・そして、ついに1985年2月、金丸信と竹下登らによって派中派「創政会」が結成さ
 れた。
 角栄は激昂する。ただの勉強会と思っていた創政会が、実質的に派閥乗っ取りのクーデ
 ターであることを知ったからだ。
 角栄にとって、創政会旗揚げは裏切り行為以外の何ものでもなかった。
・小沢はこう語った。
 「田中のおやじは、たしかに苦労人かもしれない。苦労人というのは最終的に人を信用
 しなかったと思う。他人を信用していたらのし上がることなんかできっこない。田中の
 おやじには、限りなく魅力があるけれど、最終的には人を信用しなかった。うちの死ん
 だおやじも同じです。苦労しすぎているからそうなってしまうんですね」
・角栄の政治生命が事実上絶たれてしまうのは創政会結成から20日後のことだった。
 脳梗塞で倒れて東京逓信病院に緊急入院し、言葉を失ってしまったのである。
 その直前まで角栄は朝からオールドパーをあおり、秘書の「佐藤昭子」にだけは本心を
 隠さずに語っていた。  
 「竹下の反旗はどうでもいい。そんなものは潰せばいい。一郎だ。一郎は目白に来ない
 のか」
・角栄にとっては創政会が結成されたことよりも、小沢が自身の懐から飛び出したことが
 痛恨事だった。
 しかし、小沢が角栄のもとへ帰ることは二度となかった。
・その後、角栄が倒れたことによって創政会は解散。
 新たに経世会が結成されて、後継者は竹下に決まった。
 そして、中曽根総理の裁定により、後継総理の座に竹下が指名された。
・竹下は任期が一年七ヵ月で終わった総理辞任後も、金丸、小沢と共に、裏で時の綜理を
 操る権力の二重構造を敷く。院政支配だった。
 その支配下で生まれた海部俊樹政権の1989年、小沢は47歳にしてついに幹事長に
 就いた。  
 この幹事長就任時こそ小沢の絶頂期だったのだろう。
 小沢にとって政治とは、数の力で権力を奪い取ることがすべてだった。
 「数の信奉者」として権力闘争で相手を倒すか否か、それが政治だった。
・1992年に発覚した金丸信の東京佐川五億円ヤミ献金事件をきっかけに、経世会の会
 長跡目争いが起こる。
 派内からは「小沢は佐川急便事件に乗じて、経世会長の座を乗っ取るためのクーデター
 を仕掛けた」という小沢批判が湧きおこった。
・結局、経世会は分裂し、飛び出した小沢は新生党を結成(93年)、「細川護熙」非自
 民連立政権を樹立する。
 以後、新進党、自由党など政党を作っては壊しを繰り返す。
 そして、2006年4月、民主党の代表に就くが、「西松事件」(2009年)で公設
 秘書が政治資金規正法違反の疑いで東京地検特捜部により逮捕。
・その一方で2009年8月の総選挙で民主党が圧勝。
 小沢は政権交代の立役者となるが2012年、消費増税をめぐって「野田佳彦」政権と
 対立。小沢グループが飛び出す形で民主党は分裂する。
・ところが、その分裂劇の狭間で、小沢の妻・和子が地元の支援者らに宛てた「離縁状」
 とも言える手紙が世に出たのである。
 手紙は、自民党幹事長に就いてから、二十余年にわたり最高権力者として常に権力の中
 枢に君臨してきた小沢の実像を白日のもとに晒した。
 当選二回目頃から地元に帰らない小沢の代理として、水沢の後援会を支えたのは三人の
 男の子を抱えた和子だった。
 小沢といえば、東京で古くからの愛人である料亭の女将のもとへ通いつめていた。
・しかも小沢は、料亭の女将とは別の女性に男の子を生ませ、その男の子を養子として女
 将に預けて育てていたのである。   
・和子は何よりも、東日本大震災の被災地となった郷土の岩手に駆けつけようとしない小
 沢を批判し、こう綴る。
 「お世話になった方々のご不幸を悼む気も、郷里の復興を手助けする気もなく、自分の
 保身のために国政を動かそうとするこんな男を国政に送る手伝いをしたことを深く恥じ
 ています」
・この手紙が、小沢の凋落への致命傷になった。
 何より、郷土の人々が震災でいちばん大変な時に政治家として被災地に向き合わない小
 沢という男を恥じる、と和子が綴った時、郷土の人々も小沢を見放したのである。
 郷土に見放されて政治家が成り立つはずはない。
 
・菅が横浜市議会議員に立候補したのは37歳の時だった。
 秋田で高校を出てから出稼ぎのように東京へ出て来て、横浜で小此木衆院議員の秘書に
 なってから11年などと、かれこれ20年の歳月が流れていた。
・「県議も市議も雲の上の人だった。政治を変えなければと思ったが、市議にすらなれる
 とは思っていなかった」 
 しかし、菅には、果たして自分は勝てるかなどと逡巡している悠長な暇はなかった。
・菅が標準を定めたのは定数二の横浜西区。
 そこには77歳になる長老の自民党現職がいた。
 その長老はいったん引退を決めながら出馬に転ずる。
 それを受け、自民党横浜市連は市議選の混乱を理由に「菅おろし」に出た。
 小此木も長老を支援していたことから、「今回は止めておけ」と菅に促した。
 しかし、菅は拒んだ。初志に従い、事務所に辞表を提出。
 そもそも地盤・看板・カバンの三つの”バン”がない、孤立無援の闘いが始まる。
・朝六時の街頭演説は最初、夫人と二人で始めた。
 一日数百件の戸別訪問、夜九時までの街頭演説と身を粉にして駆けずり回った。
 そのうち長老は、定数一の県議に転出。
 当時、菅は夫人と六歳、三歳、六ヵ月と三人の息子を抱えていた。
 負ければその日から失業である。
 その退路を絶った闘いが実を結び、菅はぎりぎり二位で当選した。
・菅は自分の初の選挙戦のことをこう語っている。
 「自民党のしがらみや悪い面を最初の選挙ですべて見てしまった」
 それは、主義・主張を持たずにただ長いものに巻かれ、異端者を排除し、既得権益を守
 るため自分らだけの狭い世界に安住する保身体質と言い換えてもいいだろう。
    
・初めて小選挙区比例代表制が導入された1996年、横浜の選挙区が、中選挙区時代の
 二選挙区から八選挙区に増えたことを受け、菅は二区、「小此木八郎」が三区から立候
 補する。
 小此木の秘書と息子が、骨肉の争いをすることなく住み分けて選挙に臨んだ。
・菅の応援のために横浜まで駆けつけたのが、橋本龍太郎内閣の官房長官だった梶山であ
 る。横浜市議から国政へと駒は進められた。
・菅は総選挙(1996年10月)で当選した後、小渕派(平成研究会)に入った。
 橋本龍太郎や梶山静六らの誘いもあった。

・菅が当選一回生の時だ。ある新聞記者が橋本内閣の幹事長代理・「野中広務」に「生き
 のいい新人は誰がいますか」尋ねたところ、野中はすかさず、「そりゃあ菅義偉や」と
 菅の名前をあげたという。
・野中は反小沢の一方で、1995年に起きたオウム真理教による地下鉄サリン事件や、
 「国松孝次警察庁長官狙撃事件では、自治大臣・国家公安委員長として陣頭指揮を執
 った。  
 「決して、怯むな。警察を朝笑い、国民生活をドン底に落とした奴らは許すことができ
 ない。責任は俺が取るから徹底的にやれ」
・1997年には、沖縄米軍の基地用地使用を継続するための駐留軍用地特別措置法(特
 措法)改正案を可決する際、衆院本会議で声を震わせた。
 「この法律が軍靴で沖縄をふみにじる結果にならないように、私たち古い苦しい時代を
 生きてきた人間は、国会の審議が再び大政翼賛会にならないように、若い皆さんにお願
 いしたい」
 議場は騒然となる。
 飛ぶ鳥を落とす勢いの野中の政治家としての原風景を物語る場面だった。
・「第二の野中広務さんのような政治家になりたい」
 第二の野中。菅は早くも、野中を政治家の目標に据えていたのである。
・「野中を見たくば小沢を見よ。小沢を見たくば野中を見よ」という言葉があるほど、
 小沢は野中の「宿敵」だった。
 角栄の庇護を受けて育ち、陰に陽に最高実力者として長きにわたって政権の中枢にいた
 小沢に対し、57歳で中央政界に転身した野中は遅咲きの政治家だった。
 しかし、小沢を徹底攻撃することで、自身の名を際立たせ、瞬く間に政界中枢にのし上
 がってきた。
・野中は、他人から理解されない矛盾を抱え込むようにして膝を崩さない。
 派閥にあっても、群れようとしないで、一人屹立している。
 流れがいったん変われば、孤立無援になりかねない。
 野中は地方議員から中央政界に出て以来、異例の大出世を遂げた。
 しかし、政治の政界はジェラシー(嫉妬)が渦巻いている。
 野中の存在を快く思わない議員は決して少なくない、と思った。
 
・初当選後、平成研に入った菅は、秘書時代から慕う梶山からこう聞かされていた。
 「日本経済はデフレの傾向に向かうだろう。これからは国民に厳しいことを説明してい
 かなければならなくなる。政治家は国民の食い扶持を守っていくのが一番の仕事だ。
 厳しいことを言って支持を貰うには政策がしっかりしていなければならない。派閥で動
 いても国民は理解してくれない。群れるな」
・群れるな、とは派閥政治を頼るよりはむしろ、「自らの政策の旗を掲げろ」という意味
 でもあった。 
 梶山は「役人の言うことは聞くな」といつも口癖のように口にしていたという。
 「役人は説明の天才。自分が疑問に思ったことは自分で調べろ」
 
権力闘争の渦中で
・その野中が激怒したのは、梶山支持を表明して菅と「佐藤信二」元通産大臣の二人が派
 閥を離脱し、佐藤が梶山陣営の事務局長、わずか当選一回生の菅が事務局次長に就いた
 ことである。
 さらに、宮沢派に所属していた「麻生太郎」が梶山陣営の選対責任者に名を連ねていた。
・菅は派閥の存在についてこう語っている。
 「派閥について、私には明確な考え方があります。派閥というのは、そこの会長を総裁、
 大臣にするために動く政策集団です。98年に平成研を飛び出したのは、会長の小渕さ
 んではなく、派閥を抜けてでも総裁選に立候補した梶山さんの主張のほうが正しいと思
 ったから。会長と違う人を推す以上、自分も派閥を辞めるのは当然です」
 
・佐藤信二は佐藤栄作元総理の次男で、私に会うといつも大きな眼に笑みを浮かべて訥々  
 と語る含羞の政治家だった。
 その信二がなぜ、総裁派閥を脱藩し、起ったのだろうか。
・古い話になるが、自民党が誕生する前の1955年のことだ。
 鳩山一郎政権初の総選挙は、岸信介幹事長の下で日本民主党が185議席と躍進する。
 その頃の岸には勢いがあった。
 一方、佐藤栄作はもともと吉田茂の自由党直系、岸と栄作は血を分けた兄弟だが、二人
 の選挙区(山口二区)は同じで、その総選挙はいままでより激しい骨肉の争いにならざ
 るを得なかった。 
・信二は、政治は非常なるものでたとえ血を分けた兄弟でも争うことがあることを身をも
 ってわかっていたのだ。
 ましてや、派閥は政治集団に過ぎない。
 信二は大義に殉じようとする梶山に政治家であるべき姿を見たにちがいない。
・岸の孫が安倍晋三である。
 信二を通じ、後の菅がどう安倍との関係を深めていったのかはわからないが、それは得
 がたい一本の糸だったかもしれない。   
・吉田茂元総理の秘書から岸・佐藤栄作政権で労働大臣、防衛庁長官を歴任した自民党の
 重鎮・「松野頼三」は私にこう打ち明けたことがある。
 「田中角栄は俺に、『人間は欲の塊だ。だから、その人間を引き込もうとするなら人間
 の欲の好きなところを突けばいい。地位、名誉、カネなどの欲があるのが政治家。感情
 と欲で動いているんだ。欲のない奴はつがみようがない』と言ったことがある。だから、
 角栄は怖かった」
・思うに、野中は「国家とは何か」「権力とは何か」といった理念が先にあって行動する
 政治家ではない。
 ある時、そもそも小沢一郎という政治家の器をどう思いますかと水を向けると、野中は
 こう漏らした。
 「小沢一郎という男は原理・原則から離れられない。かわいそうやなあ」
・理念と論理が先行し、時に自家中毒を引き起こしかねない小沢とは、野中は正反対の位
 置にいる。
 野中は相手を「論」ではなく、「人」で見る。
 小沢に対して、「かわいそうやなあ」と、哀れむように吐露したのは、その一端だ。
・では野中は、誰のため、何のために政治をするのか。
 自民党の「数(派閥)の強権支配」を主導しているではないかという批判に、正面から
 答える言葉を持っているのだろうか。
 野中はある日、私に漏らした。
 「いつも、いつも俺はその時の風を見てやってきた。確たるものがあってやって来たん
 ではない」 
・菅が野中と、梶山の総裁選立候補以来再び全面対決するのは2000年11月の「加藤
 の乱」の時だった。
・「加藤の乱」が火を噴く導火線は、2000年4月2日未明、小渕総理が脳梗塞で順天
 堂大学医学部付属順天堂病院に緊急入院したことに発していた。
・小渕の後継総裁には、自民党幹事長だった「森喜朗」が選ばれた。
 それは同2日深夜から3日未明にかけて、東京・赤坂プリンスホテルに密かに集まった
 当時の幹事長代理・野中公務、官房長官・青木幹雄、政調会長・亀井静香、参院議員会
 長・村上正邦の四人に森を加えた「五人組」による密室協議によって決定された。
・怖るべきことに森の後見人・青木は小渕の病状についてウソをつき続けた。
 小渕緊急入院から22時間にわたって国民の目を欺き、病状を偽って陰蔽したばかりか、
 何食わぬ顔で首相臨時代理の椅子に座ったのである。
 青木は国民に対して、小渕が集中治療室に入っているという事実はおろか、病名さえ一
 言も発することはなかった。
・青木は4月3日午前、臨時閣議の前に首相臨時代理に就く、森内閣が発足したのは同月
 5日のことだった。
 青木は暫定とはいえ、首相という最高権力を手にする。
 その根拠として青木は、3日の会見で「小渕の指示」の内容をこう明言する。
 「(小渕)総理から『有珠山噴火対策など一刻もゆるがせにできないので、検査の結果
 によっては、青木官房長官が(首相)臨時代理の任に就くように』との指示を受けてお
 りました」  
・しかし、青木は「小渕の指示」をめぐる発言の一週間後、国会答弁で前言を翻し、
 「何かあれば万事よろしくとの指示を受けた」と修正。
 その日の会見では「病人相手の話だから、正確に記憶しているわけではない」4月20
 日の答弁になると、「総理と話した時に、臨時代理という言葉は全然聞いていない。当
 時の私の判断」と迷走したのだった。
 官房長官の任にある者が、自ら発言を撤回・修正し、開き直ってさえいたのである。
・いずれにせよ、官房長官の青木が、虚偽情報をそのまま放置した意図は、森を総理につ
 けて、経世会(旧竹下派)支配によって権力を掌握していくためだったからに他ならな
 い。 
・言うまでもなく、主権在民の精神を無視し、密室談合で誕生した森政権が国民の信用を
 得られるはずはない。
・「加藤紘一」が、「山崎拓」と組んで、森内閣不信任決議案を提出しる動きを見せたの
 は同年11月だった。いわゆる「加藤の乱」である。
 「国民の七割が支持していない内閣を支持するわけにはいかない」
・加藤は倒閣ののろしを上げる。
 森政権の否定は事実上、野中ら「平成研支配」の否定を意味した。
・菅は加藤に共鳴し、共に立ち上げることを決意する。
 急きょ、横浜に帰った菅は後援会の人たちに集まってもらう。
 そこで菅は頭を下げ、こう語った。
 「総理の森さんに正面から異議を唱えたわけですから自民党を辞めて、飛び出さざるを
 得ないことになるでしょう」
 菅は自分自身が「党籍離脱」というリスクを背負う肚を決めなければ、とても相手に勝
 てないと見越していたのである。
・一方、案の定、野永は激高し、すごんだ。
 「私の政治生命と命を賭けて許しておかない。(加藤は)政治家の道でも人の道でもな
 い」 
 野中は幹事長という権力を最大限に使い、加藤らを締め上げた。
 それは文字通り「強権支配」そのものだった。
・梶山は森について、こう語っていた。
 「政治は結果責任なんだが、誰も責任を取らなくなっている。そういう点では森さんは
 天下一品だ。彼はいままで責任を取ったことがない。いつもこれから全力を尽くすとい
 うばかりだ」
・自民党政治に沈殿していた悪弊が露出した時こそ、その自民党を変える転機だったので
 はないかかと私は思う。
 青木幹雄を中心とした「五人組」は、国民の前に小渕総理の正確な病状を伏せて「権力
 の空白」を招き、後継総理の選任を仕切ることに腐心した。
 極論すれば、小渕は生きているのか、死んでいるのかすら国民は把握できない密室政治
 だった。 
・密室で決められた権力に大義などあろうはずはない。
 政権や党内の力関係が優先された権力は腐敗しているというべきだった。
・野中は恫喝の牙を剥く、森総理の不信任決議案に賛成した場合、選挙の公認を剥奪する、
 対立候補を擁立する、衆院小選挙区の支部長を外す、公明党・創価学会の支援を止める
 こともありうるなどというものだった。
・結局、加藤・山崎派は不信任案同調を取り止め、同案採決の本会議を欠席する、欠席者
 について党の処罰は一切なしということで折り合いがついていた。ここで勝負はついた。
・野中が嘲笑した二世議員たちの政治。官僚出身の世襲議員には、たとえば田中角栄が、
 「子どもの頃、俺はお袋の寝顔を見たことがなかった。夏は朝五時、冬は六時に起きた
 けれども母親はもう働いていた」と言うような、世間の人々の人知れぬ苦労がわからな
 いだろうと野中は言うのだ。
 「ぬくぬくと育ってきた奴」という言葉は、裏返せば政治というものは誰が主人公であ
 るべきか、その本質を突いている。

安倍政権の中枢で
・安倍を擁立した2006年9月の総裁選。派閥・清和会(当時、森派)会長の森喜朗元
 総理は、安倍よりも同じ派閥の福田康夫元官房長官の擁立を先行させ、安倍に立候補を
 思いとどまるように求めたという。
・しかし、これに反発した安倍は、菅に安倍の事実上の支援団体になるグループ「再チャ
 レンジ支援議員連盟」を立ち上げさせた。
 菅にとって森は「加藤の乱」以来の因縁の相手だった。
 同議員連盟には派閥横断的に国会議員94人が参加。菅はその事務局長を務め結局、
 福田は出馬断念に追い込まれる。
 安倍は464票を獲得し、一挙に安倍へ傾斜したこの総裁選は、「真夏の雪崩」と呼ば
 れたという。 
・菅は1996年からわずか六回の当選にして一気に官房長官まで駆けのぼった。
 その経歴は、わずか10年余りで小渕政権の官房長官に就いた野中広務の経歴に似てい
 る。
・小沢一郎と加藤紘一の二人を「情というものがない」と評した野中広務。
 故郷を思い、平和を愛し、沖縄の痛みに心を寄せ続けた梶山静六。
 権力闘争を生き抜いた二人の官房長官経験者に通底するのは、情の政治家だったという
 点だろう。

・「小泉純一郎」元総理は、2014年2月の東京都知事選で「細川護熙」元総理を担ぎ
 出した。
 自民・公明の推す候補は「舛添要一」元厚生労働大臣。
 小泉は、「我々はいつ死んでもいい。でも、もっといい国を残して死のうじゃないか」
 と脱原発を訴え、それに呼応するように小泉の次男「小泉進次郎」復興担当政務官(当
 時)は舛添をこう切って捨てた。
 「党を除名された方を支援することも、支援を受けることもよくわからない。私に応援
 する大義はない」
・事実上、細川、舛添、日弁連会長・「宇都宮健児」(共産・社民推薦)の三人の争いに
 なった都知事選は、いきおい脱原発が争点の一つに浮上しヒートアップ。
・陰で陣頭指揮を執っていた菅は私のインタビューに緊張した面持ちでこう語った。
 「だいたい、細川さんはある日、宿泊先のホテルオークラから午後三時頃出て来て、
 二ヵ所ほど回り、あとは任せたというような遊説のやり方らしい。これじゃ、人はつい
 てこない」 
・細川のバックに控えている小泉純一郎の存在をどう見ていますか。
 「あれほどカリスマを持っておられる人が、細川さんと一緒に演説に立ち懸命に応援し
 ている。そのぐらい、小泉さんは大きな勝負に出たんだ。それで、細川さんが負けるよ
 うになれば、小泉さんは普通の政治家になるだけだ。これで、終わりになるだろうな。
 誰も相手にしなくなるんじゃないか」
 菅は表情を変えることなく、「小泉さんは終わりだ」と突き放す。
・小泉は自らの引退表明と次男・進次郎(当時27歳)の「襲名披露」を兼ねた横須賀で
 の会合(2008年)で、こう発してはばからなかった。
 「私が27歳だった頃よりも(進次郎は)しっかりしている。政治家になる気があるか、
 と訊いたら『なりたい』と言った。でき得れば、親バカをご容赦いただき、ご厚情を進
 次郎にいただければと思います」  
・進次郎は、政治を家業とした小泉一族の四代目を父から襲名した。
 しかし、自ら「聖域なき改革」を謳いながら、自分自身は旧態依然とした世襲政治に拘
 泥する小泉に、当時「世襲禁止」を持論とした菅は釈然としなかった。
 
・安倍晋三は遮二無二、集団的自衛権の行使容認を通そうとした。
 安倍からすれば、そもそも立憲主義の立場からの批判は馬耳東風だったのかもしれない。
 2014年2月の衆院予算委員会で、集団的自衛権行使をめぐる憲法解釈に関連した安
 倍の次の発言は物議を醸した。
 「最高の責任者は私です。私が責任者であって、政府の答弁に対しても私が責任を持っ
 て、その上において、私たちは選挙で国民から審判を受けるんですよ。審判を受けるの
 は、(内閣)法制局長官ではないんです。私なんですよ」
 
・消費税の10%への引き上げについて、菅は「俺は消費税増税の『消極論者』だ。日本
 経済がデフレから脱却しないと」と前置きしたうえで、こう語る。
 「いままで、官僚主導で景気がよくなってきましたか。そうはならなかったじゃないで
 すか。彼らには責任がない。責任を取らないからね」
・一つの逸話がある。
 日本郵政社長が、それまでの「坂篤郎」から「西室泰三」に交代したのは2013年6
 月だった。 
 坂は社長就任わずか半年で退任に追い込まれたのだったが、その突然の交代劇に采配を
 振ったのが菅だった。
・そもそも坂の日本郵政社長就任は、元大蔵事務次官・齋藤次郎前社長の後を継いだもの
 で、しかも自民党に何ら相談がなく、政権が野田から安倍に変わる時期のドサクセ紛れ
 で行われたものだった。
・菅は「坂続投」の阻止に動く。
 「自民党政権になることがわかっていた時にこうした人事をやることは、私は非常識だ
 と思っていた」  
・一方で、坂と日本郵政は巻き返しに出る。
 社長を指名する権限を持つ指名委員長・「奥田碩」(当時、経団連会長)に頼り、官邸
 で会った菅を前に奥田は、「指名委員会としては今の体制で行こうと思います」と語っ
 た。
 奥田は政財界にわたる実力者だった。
 しかし、菅の回答はそれをしげなく否定、坂のクビはあえなく飛んだのである。
・菅が官僚統治に長けていることは今さら言うまでもない。
 それは、菅自身が「影の横浜市長」と呼ばれた高秀威小浜市長の横浜市議時代に習得し
 ていた。 

・集団的自衛権の行使容認をめぐる憲法解釈の変更の基本方針が、2014年7月に閣議
 決定された。
 閣議後、菅はこのように語った。
 「やはり、アメリカとの関係だ。何があってもいいようにアメリカとの関係は大事。
 総理が前から集団的自衛権の行使にこだわってきたのはそのためだ。だからといって、
 アメリカから何らかの要請があったわけではない」
・集団的自衛権行使をめぐり、安倍政権は台頭する大国・中国を想定している。
 確かに、中国の防衛予算は毎年二ケタのペースで増加している。
 しかし、安保法制懇の想定にリアリティはあるのか。
 たとえば中国はどのようにして、なぜ、漁民を装った武装集団「武装漁民」として離島
 に上陸するのか。日本の領海を潜航する潜水艦が退去要請に応じない場合が起こりうる
 のか。それらはあくまでも想定であって、現実に即したシナリオが見てこないのである。
・だいたい、オバマ大統領が来日した際の2014年4月の日米共同声明は、ウクライナ、
 イラン、中東和平、アフガニスタン、シリアなどの問題をあげた後、こう謳っていた
 のである。 
 「日米両国は、これら全ての課題に対処するに当たって、中国は重要な役割を果たし得
 ることを認識し、中国との間で生産的かつ建設的な関係を築くことへの両国の関心を再
 確認する」 
・つまり、オバマ大統領は、中国を「生産的かつ建設的な関係を築く」国家だと認識し、
 安倍総理もこれに同意していた。
 しかも、オバマ大統領は来日直前、読売新聞との書面インタビューに応じ、「私の指揮
 の下、米国は(アジア太平洋で)日本のような同盟国と緊密に連携し、再び主導的な役
 割を果たしている」と、米国主導の日米同盟だということを改めて釘を刺した。
 その米国が、流れに逆行するような日本の独善的外交政策を容認するはずはない。
・集団的自衛権の行使は安倍にとって、祖父の岸信介以来の筋金入りの執念といっても過
 言ではない。

・一方、第二次安倍改造内閣の焦点は、石破の去就にあった。
 官邸関係者は言う。
 「石破は相当悩んでいる。もはや留任はなく、(石破)幹事長交代の流れになっている。
 安倍は『(入閣が)嫌なら、石破さんはいいや』と消極的なのに対し、菅は『いや、取
 り込んでおいたほうがいい』と安倍を諫め、閣内に入れたがっている。石破に対し、菅
 が『次はあなたなんだから、閣内に入ったほうがあなたのためだ』と説得したという説
 もある。いずれにせよ、安倍にできる芸当ではない」
・一方で、別の官邸関係者はこう言う。
 「菅の石破説得の件は「萩生田光一」、「衛藤征士郎」ら古くからの『安倍グループ』 
 にとっては、『菅がそこまでやっていいのか』という反発となっている」
 しかし、菅は意に介さない。
・第二次安倍改造内閣は2014年9月に発足した。
 焦点の石破は結局、地方創生担当大臣として入閣した。
・入閣するか否か、迷った末の大臣ポストだった。
 さらにその一年後、第三次安倍改造内閣(2015年10月)の成立を前にして、20
 人の参加で派閥・水月会(石破派)を結成。
 それは安保法案が国会を通過して約一週間後のことだった。   
・今回の派閥・水月会の結成は、三年後のポスト安倍の総裁選を睨んだ態度を鮮明にした
 ものだった。
 この石破に姿勢を、菅に質するとただ一言、かすかに不機嫌な面持ちを浮かべ、「わか
 らない。石破さんに聞けばいいでしょう」と突き放すのだった。
・官邸周辺からは、「菅さんは、安保法案を通したこのタイミングで派閥結成をした石破
 について、『政治のセンスがない』と、不満を露にしていた。
 菅さんにすれば、これまで”安倍さんの次はあなたなんだから”という形で何とか目を
 かけてきたのにという気持ちがある。『いったい、石破さんは何を考えているのか』と
 周囲に漏らした」という声が聞こえる。
・たしかに石破の政治センスには首をかしげざるを得ない。
 安保法案が国会を通過した第三次安倍改造内閣の発足後の派閥結成は、安保法案を最重
 要課題としてきた安倍政権に異議を申し立てるも同然と見られるのではないか。
 ならば、閣僚の一人として安保法案に反対すべきではなかったのか。嵐の過ぎるのを待
 って事を成すのは姑息ではないか。
  
・安倍の「女性の積極活用」の指示で一挙に増やしたと言われる女性閣僚の中でも、第二
 次姉改造内閣で、「小渕優子」元少子化対策担当大臣が経済産業大臣で入閣したことは
 脚光を浴びた。
 それが後に姉政権を揺るがす「政治とカネ」の問題という悲劇を生んでいく。
 第三次安倍改造内閣の発足からそう日をおかずして、小渕優子の政治資金収支報告書に
 記載された収支のズレが明るみに出たのである。
・優子は「週刊新潮」の報道直後、官邸に大臣の辞意を表明。イタリアの外遊から帰国し
 た安倍総理と協議し辞表を提出・
・さらに、かねてから公選法違反の疑いをもたれていた「松島みどり」法務大臣も辞表を
 提出した。
・官邸周辺では二人セットで辞任に持ち込むという異例の早さで仕切る荒技ができるのは
 菅の真骨頂だという声がささやかれた。
 しかし、菅は語った。
 「なんでも俺が仕切っているように言われるが、そんなことができるわけがない」

権力を体現する政治家
・菅と安倍の関係がどう築かれたか。
 「いつ出馬しても、あの辞め方は批判されるでしょう。今回の総裁選は、ただの野党の
 党首選ではありません。事実上、次ぎの総理を決めるもので、マスコミも大きく報道し
 ます。政治家・安倍晋三を国民にもう一度見てもらう最高の舞台じゃないですか」
 2012年8月の終戦記念日、安倍を前にした菅は都心のレストランで三時間にわたり
 総裁選出馬を口説いていた。
 菅の「俺が、安倍さんを総理総裁に引っ張った」という言葉は誇張でも何でもなく、
 具体的な事実としては、この場面を指している。
・菅は月一回のペースで安倍に会い総裁選出馬を促していた。
 新聞各紙の世論調査では、石破茂がトップを走り、安倍は「石原伸晃」にも後れを取る
 三番手だった。
・総裁選が一ヵ月後に迫った8月になっても迷っていた安倍だが、この日、菅はようやく
 安倍から「それでは準備を進めてください」との言葉を引き出した。
・安倍が逡巡したのは、言うまでもなく2007年、第一次政権をわずか一年で放り投げ
 たことで批判を浴びた記憶が、自らにも国民にも鮮烈に残っていたからである。
・第一次安倍政権で菅は初入閣し総務大臣に就いていた。
 ところが第一次政権には、暗雲が一気に垂れ込める。
 多額の光熱費計上などが追及された「松岡利勝」農林水産大臣の自殺から、その後任の
 「赤城徳彦」の政治団体が実家を「主たる事務所」にし多賀の経費を計上、さらに参院
 選の自民党惨敗と持病の「潰瘍性大腸炎」の悪化が続いたからである。
・菅は、官房長官の会見の場を除いて、大仰な天下国家論を口にしない。
 その意味で菅はむしろ、怜悧な現実主義者なのかもしれない。
 たとえ負けるとわかっていても、菅は常に権力闘争、別の言葉で言えば菅自身が好んで
 使う「喧嘩」を張る場に身を置いてきた。
 その菅を見出し、わずか当選四回の菅を総務大臣に抜擢したのが安倍だった。
 そのことを菅は恩義に感じていたという。
・安倍にしてみれば菅は頼れる唯一の存在だろう。
 官僚上がりや世襲議員が自分の周りにあまたいるなかにあって、菅は異色だ。
 秋田の寒村に育ち、高校を出て単身上京、集団就職の同級生らと苦楽を共にした青春を
 送った遍歴を持つ類稀な土着の政治家だ。
・安倍にとって菅は自らを再び生き返らせてくれた存在であり、一方の菅にとって安倍は
 自分を見出してくれた人であり、肝心なところで互いを必要とする存在なのだろう。

・人事については、霞が関の官僚を含め、菅さんの意向が強いと評されています。
 「官僚の人事について言えば、大臣と一緒にだいたいの方向性を決めて、それで官僚に
 指示を出すというやり方です。とにかく、省庁から出てくる人事は、この人で行きたい
 という形で来る。だから、決め打ちは駄目よと。そこには政治家が決めるんです」
・政治家として、菅さん自身が総理を目指すということは考えないのでしょうか。
 「まったくない。人にはそれぞれ持ち分というものがあるんじゃないですかね。私は総
 理を助けて物事を進めていければいい」
・ナンバーツーのままでいいのですか。
 「だって大きいことは、たとえ総理でも一人ではできないでしょう。それを支える人が
 いないと物事は進まない」  
・菅は、安倍とは肝胆相照らす仲で、ナンバーツーとして支えることこそ本望だという。
 しかしこれは菅の本心のすべてだろうか。
 その言葉を訝しく思っているわけではない。
 しかし、果たして菅は安倍と心中する運命を歩むのかという疑念は拭えない。
・第一、安倍と菅では育った境遇が違いすぎる。
 菅は安倍をも乗り越える権力を握ることをじっと胸の奥でたぎらせているのではないだ
 ろうか。
 そうでなければ、豪雪の秋田から上京し紆余曲折の末、政治の世界に飛び込んだ菅自身
 の這い上がってきた人生は完結しないように思えるのである。
・もちろん、菅は安倍にただ唯々諾々と従ってきたわけではない。
 「総理、この内閣がつまずくとしたら歴史認識ですよ」
 それに対し安倍は、「私もそう思います」とうなずく。
 それから一年経った2013年12月、安倍は靖国神社を参拝した。
 靖国参拝について菅は当初言葉少なだったが、官邸詰めの記者らは誰しも「菅さんは反
 対した」と語ってやまない。
 「(菅は)大事に安倍政権の役割は『経済再生最優先』と繰り返し、安倍首相の靖国神
 社参拝にも『政権の最大の仕事は経済の再生、靖国参拝は経済再生のメドがついてから
 でも遅くはない』と主張して、反対した。それでも安倍首相が参拝に踏み切ると、対外
 的に不満を口にすることはなかった」
・靖国参拝は安倍の念願だった。
 安倍が菅を内閣の要の存在としていかに頼りにしているかがうかがえる局面だったよう
 に思う。  
・さらに、安倍の「盟友」としてつとに知られる「衛藤晟一」首相補佐官が2014年2
 月、「首相の靖国神社参拝に米国は失望したと表明したが、そういう米国に我々が失望
 した。米国はちゃんと中国にものがいえないようになっている」という趣旨のことを発
 言した。
 菅はすぐに不快感を露にし、衛藤に発言を撤回させた。
 菅の胆力は誰にも引けをとらないかのように見える。
・菅の眼は霞が関の官僚たちにも向けられる。
 菅は2012年に著した『政治家の覚悟 官僚を動かせ』のなかで、師・梶山が、常々
 「官僚は説明の天才であるから、政治家はすぐに丸め込まれる。おまえには、俺が学者、
 経済人、マスコミを紹介してやる。その人たちの意見を聞いたうえで、官僚の説明を聞
 き、自分で判断できるようにしろ」と言っていたと語り、「政治家が官僚とあい対峙し
 た時、政治家の能力が問われます」としたうえで、このように持論を説く。
 「政治家は政策決定に際して、官僚から過去の経緯や知見、現状について説明を受けま
 す。そのときに気をつけなければならないのは、自身の信念と国民の声をいかに反映さ
 せるかということです。
 官僚はしばしば説明の中に自分たちの希望を忍び込ませるため、政治家は政策の方向性
 が正しいかどうかを見抜く力が必要です。
 官僚は本能的に政治家を注意深く観察し、信頼できるかどうかを観ています。政治家が
 自ら指示したことについて責任回避するようでは、官僚はやる気を失くし、機能しなく
 なります。 
 責任は政治家が全て負うという姿勢を強く示すことが重要なのです。それによって官僚
 から信頼を得て、仕事を前に進めることができるのです」
・梶山静六が仕えた田中角栄が、池田勇人内閣で大蔵大臣に就いた1962年、大蔵官僚
 らを前に「できることはやる。できないことはやらない。しかし、すべての責任をこの
 ワシが負う。以上!」と述べたスピーチはつと知られる。
・小渕優子の「政治とカネ」の問題が噴出した当時、官邸は相当慌てた」という確かな説
 もある。  
 「政治とカネ」の問題は優子だけでなく法務大臣・松島みどり、防衛大臣・「江渡聡徳
 環境大臣・「望月義夫」など地続きのように噴き出し、国会はその問題を巡る与野党の
 攻防に埋め尽くされた観があった。
・「政治とカネ」の問題を甘くみてはならないことは、誰よりも安倍自身が知悉していた
 はずだ。 
 赤城元農水大臣の事務所費問題では、安倍は赤城をかばい続け、更迭処分をしたのは、
 約一ヵ月後の参院選で自民党が惨敗した後だった。
 そして安倍は9月に辞任する。
 当時、「塩崎恭久」官房長官ら安倍の「お友達内閣」の面々が、「もし思い詰めて万一
 のことがあったら・・・」と赤城の身を案じるのに対し、菅はめずらしく「もう(赤城
 は)どうなってもいいんじゃないか」と一人気色ばんでいたという。
・小渕優子の問題で、何よりも問題なのは依然、最高責任者の優子がおおやけの場に顔を
 出してなぜ、こうなったのかをキチンと釈明しなかったことだった。
 東京地裁は2015年10月、「政治資金に対する国民の監視と批判の機会をないがし
 ろにする悪質な犯行だ」として元秘書の折田謙一郎に禁錮二年(執行猶予三年)、加辺
 守善に禁錮一年(執行猶予三年)の判決を言い渡した。
・その判決を待っていたかのようにして優子がようやく顔をあらわしたのは半月後。
 経産大臣を辞任して以来のことだった。
 しかし、群馬・前橋の会見場に立った優子は、虚偽記載の原因となった一億円の簿外支
 出の内容について「資料がなく調査に限界がある」、さらに記者から今後も調査するか
 と問われると、「現段階ではするつもりはない」と述べた。
 しかも、議員辞職はしない意向だとし、ただ開き直りに終始したとしか言いようがない
 会見だった。
・不慮の死を遂げた小渕恵三の遺志を継ぐも、何のために政治家になったのかという自分
 の言葉を持たない、典型的な二世議員の見苦しい姿がそこにあった。   
 秘書にすべてを押しつけて終わらせるのはバッジを付けた者としても、してはならない
 選択ではないか。
・政治家・菅義偉の人生を一言で言うなら、権力とはいったい何か、を追い求めてきたこ
 とではなかったか。