人間の分際 :曽野綾子

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この本は、今から8年前の2015年に刊行されたもので、内容は過去の著書のなかの名
言をかき集めたものだ。
「人間の分際」というのは、神に対しての人間の分際、という意味なのだろう。
人間の分際でありながら「努力すれば必ず報いられる」などと思うのは身の程知らずだと
いうことのようだ。人間には、ほとんどすべてのことに、努力でなしうる限界があるのだ
ということを知るべきだという。それが賢さなのだという。この人間の分際を知らないと、
人間は幸福にはなれないのだということのようだ。
「いや、そんなことはない。努力すれば報われるのだ!」と反感を持つ人もいるかもしれ
ない。しかし、私にはもっともな話だと共感を持てた。
この本の著者も運が75%で努力25%だと述べているように、この「努力すれば報われ
る」という言葉を信じて人生の大半を捧げても、報われる人よりも報われない人の方が多
いというのが現実だと思う。そういう現実では、やはり諦めというのも必要なのだろう。
そういう思いに至るのも、自分が老いた証拠なのかもしれないと思いながらも、それがい
ままでの人生経験で得た私なりの”ふんべつ”なのだとも思った。
やはり、足るを知り、身の丈に合った暮らをするのが、一番幸せな人生と言えるのではな
いだろうか。この本を読んでそう私は思った。

過去に読んだ関連する本:
老いの才覚
自分の始末
人間の基本
酔狂に生きる


まえがき
・私がスポーツ世界の空気に馴染めないのは、努力すれば必ず報いられる、などという美
 談を押しつけるからだ。私の八十余年の体験だけでも、努力してもダメなことは多い。
・「為せば成る」とは正反対の道の歩き方、当り前のことをするのを、人間の分際という
 のである。分際とは「身の程」ということだ。財産でも才能でも、自分に与えられた量
 や質の限度を知りなさいということなのだ。
・ほとんどすべてのことに、人には努力でなしうる限度がある。青年は「大志を抱く」の
 もいいが、「抱かない」のも賢さなのだ。
・「身の丈に合った暮らし方」をするということが、実は最大のぜいたくで、それを私た
 ちは分際というのであり、それを知るのはやはりいささかの才能が要る。分際以上でも
 以下でも、人間はほんとうには幸せにはなれないのだ。
・分際を心得て暮らせば、それはその人にとって最高の生涯の一つの形なのだ。こんな簡
 単な原理さえ見極められずに、「人並み」や「流行」を追い求めて死の愚か者は、多分
 世間に私一人ではないのである。 

人間には「分際」がある
・私は、かねがね、人生は努力半分、運半分と思っています。
 体験から言えば、努力が七十五パーセントで、運が二十五パーセントくらいに感じます。
 人生は、運と自分のささやかな生き方の方向付けというものの相乗作用のような気がし
 ます。
・人間の世界には、どんなになそうとしてもなし得ないことがある。その悲しみを知るの
 が人間の分際であり、賢さだろう。
・人間の生涯の勝ち負けは、そんなに単純なものではないのだ。私たちが体験する人生は、
 何が勝ちで、何が負けなのか、その時はわからないことだらけだ。数年、数十年が経っ
 てみて、やっとその答えが出るものが多い。
・人間はもともと善良なもので、社会の貧困や政治の横暴に苦しめられなければ、「ちゃ
 んとした」行動をとるものだと、決め手かかっている。しかし私は、人間はそのままほ
 っておけば、決してみごとなものではないのだ、と思っている。
 つまり私たちは限りなく普通の人なのである。誰よりも、自分と自分の家族が大切で、
 損をするのはいやで、どこかに得なことがないかといつもハイエナのようにうろいろし
 ており、火事の地震に遭えば人を突き飛ばしても我がちに逃げ出す存在なのである。
・私たちは、誰も彼も、皆卑怯なのだ。その点ではおもしろいくらい同じだ、ということ
 をはっきりと認識しておくべきだと私は思っている。
 ただし、自分はあなたの足許にも及びませんでした、と涙する時だけ、私たちは卑怯者
 も辛うじて動物ではなく、人間の末席に加えられることが許されるかもしれないという
 ことである。   
・失敗した、運が悪かった、とその時は思っても、失敗には意味も教訓も深くこめられて
 いたことが後になってわかることが多い。
 その過程を意識して、人生の流れの半分に作用する自助努力はフルに使い、自分の力の
 及ばない半分の運、つまり神の意志にも耳を傾けて、結果的には深く悩まないことが私
 の楽観主義だと思うようになってきた。
・人間は皆、中途半端なのである。その曖昧さに、私たちは耐えねばならない。いい人か
 と思っていると、卑怯な面が見え、悪い人かと思っていると、思いがけない優しさが覗
 く時もある。 
・人間世界は大体よさも悪さも半分半分だ。半分悪いと自覚している人は、必ず半分の輝
 いた部分を持っている。自分が全部いいという人は、多分全部嘘なのである。
・自ずから人間には、人間としての立場、限界がある、ということです。人間は神と同等
 のことができるように思ったりしたりする時に、無理が出たり、醜くなったりします。
 この限界を知ると、逆に気が楽になります。

人生のほんとうの意味は苦しみの中にある
・人の生き方は外見や能力とはあまり関係ない。運命を受け入れ、そこからそれぞれの道
 を歩き出す気力があるかないかの違いなのだ。
・人間は常にどこかで最悪のことが起こるかもしれないという覚悟をしておくべきだ。
・今、日本人はもっと鍛えねばならない。心身共に逆境に耐えて生き抜く力を養い、もっ
 と人を見抜く勉強をしなくてはならない。
 生き抜く力とは、電気が消え、暖房や冷房がなくなり、水道の供給も止まるといった状
 況の中でも、どうしたら人間が、冷静さ、思考の停止、弱い者を助けるという人間性な
 どを失わないでいられるかということだ。
・この世に完全な平等などありません。だから、むしろ人間社会とはそういうものである
 ということを覚悟しておいて、いちいち傷つかないように精神を鍛えておいたほうがい
 い。せめて小さな不運を楽しめるようになってもらいたい。
・「人間は平等」と日本人は教えられたが、しかしこれはれっきとした嘘でした。およそ
 地球上に存在する総てのものは、決して平等の運命にあずかれるようにはなっていない。
 ただどんなに運命は不平等でも、人間はその運命に挑戦してできるだけの改変を試みて
 平等に近づこうとする。それが人間の楽しさである。
・この世は矛盾だらけだが、その矛盾が人間に考える力を与えてくれている。矛盾がなく
 て、すべてのものが、計算通りに行ったら、人間は、始末の悪いものになったろう。
 人間が人間らしく崇高であることができるのは、この世がいい加減なものだからである。
 正義は行われず、弱肉強食で、誰もが容易に権力や金銭に釣られるから、私たちはそれ
 に抵抗して人間であり続ける余地を残されているのである。
・秀でているところ、などと言うと、また世間はすぐ常識的なプラスの意味でしか考えな
 い。しかし世間は複雑で、秀才でなく凡庸、協調ではく非協調、勤勉でなくずぼら、裕
 福でなく貧困、時には健康でなく病気すら、人間を創り上げる力を持つ。
・辛い目に遭いそうになったら、まず嵐を避ける。縮こまり、逃げまどい、顔を伏せ、聞
 こえないふりや眠ったふりをし、言葉を濁す。
 このように卑怯に逃げまくる姿勢と、正面切って問題にぶつかる勇気と、両方がないと
 人生は自然には生きられない、と私は思うようになりました。
・今日、答えを出そうとすると、どこか姿勢に無理が出る。自分らしくなく、明確に答え
 をだすことは危険である。しかし一晩二晩 ゆっくりと眠り、二日三日折にふれて考え
 るということを繰り返して行くと、決して最善の策でもなく、賢い解決方法でもないの
 だが、結果として自分らしく、どうやら後で自分の愚かさを後悔しない程度には身の丈
 に合った答えが出るのである。   
・人間は普通、俄かに深い知恵を持つことはできない。人は長い年月、時には迷い、時に
 は間違い、時には愚かなことに情熱を燃やし続けて、その果てに最高の選択の時に出会
 う。
・闇がなければ、光がわからない。人生も、それと同じかもしれません。幸福というもの
 は、なかなか実感がわからないけれど、不幸がわかると、幸福がわかるでしょう。だか
 ら不幸というものも、決して悪いものではないんですね。
 幸福を感じる能力は、不幸の中でしか養われない。運命や絶望をしっかりと見据えない
 と、希望というものが本質も輝きもわからないのだろうと思います。
 
人間関係の基本はぎくしゃくしたものである
・人間関係の普遍的な基本形は、ぎくしゃくしたものなのである。齟齬なのである。誤解
 であり、無理解なのである。
・人間は神ではない。神のような正しい判断を誰かに期待してもいけない。私たちは、先
 生、友達、親、上役、同僚、子供、親戚などから、正しく理解されることを期待すべき
 ではないのである。 
・人間関係ほど、難しいものはありません。どんな人でも、必ず誰かに好かれ、誰かに嫌
 われている。できたら誰にも嫌われないほうがいいけれど、現実はどういうものでしょ
 う。 
・実に私たちは、人を傷つけないで生きることなどできない。私たちは、何をしても人を
 傷つけるということを承認し、それゆえに、なまなかなことでは自分も、子供たちも、
 家族も傷つかないような強靭な精神を持つことの方が先決問題である。
・人間は誰でも、何か一つ得意なものを持っていれば、大らかな気分になれるものである。
・人間関係は、深く絡み合ったら、お互いにうっとうしくなる。世間の風が無責任に吹き
 抜け、お互いの存在の罪を薄めるくらいがちょうどいい。
 重い関係になるのは、相手に悪いからできるだけ避けたほうがおいい。風が吹きぬける
 距離を置くというのは、最低の礼儀かと思ったのである。
・距離というものは、どれほど偉大な意味を持つことか。離れてさえいれば、私たちは大
 抵のことから深く傷つかられることはない。
・欠点をさらしさえすれば、不思議と友達はできる。他人は私の美点と同時に欠点に、好
 意を持ってくれる。たとえ私が無類のくちべたでも、私の弱点をさらすことによって、
 相手は慰められるのである。
・ステキな夫婦はどこか危機感がはらんでいる。滑稽な夫婦は安定が。滑稽というのは弱
 点がむき出しにされることで、その弱点を愛してしまったら、他にどんな立派なきれい
 な女、二枚目の男が現われようとも、夫婦はめったなことでは心をうつされないのであ
 る。しかし美しいから、立派だから、働きがあるから愛するのだったら、年老いたり、
 弱みをみせたり、病気になったりすれば夫婦は相手を捨てることになる。それをうすう
 す感じている夫婦は、表面仲よさそうに見えてもどこか暗い。
  
大事なのは「見捨てない」ということ
・本当に平和を通すということは、相手に攻撃されたら殺されていく決意をすることなの
 である。相手も自分に悪をしないだろうからという前提のもとに唱える平和輪など子供
 だましである。
 なぜまら、人間の中には「ばか」「あっちへ行け」「死んじまえ」の三つの情熱が生理
 として組み込まれているからである。
・無関心というのが一番恐ろしいことなんです。無関心だからなんでもできる。相手がど
 ういう人なのか、どういう人生を生きて、どういうつらい思いをしたり、あるいは、恋
 をして幸せだったのか、そういう関心がないから、連続殺人をして、虫けらのように殺
 しても平気なわけでしょう。
・人権では人間の尊厳は守れない。人間を人間たらしめるものは、制度的な保護を整える
 と同時に、我々がどれだけの愛を持てるか、ということにかかっている。その相もおき
 れいごとでは達成できない。必ず死を約束された有限の生である人の生涯の苦しみを十
 分に知り、捨てたいと思うような相手でも理性で捨てることができず、執拗な利己主義
 と戦いつつ得られる人間としての道を確立しなければならない。
  
幸せは凡庸の中にある
・幸福になる道は、理不尽なものだ。自分自身で泥だらけになって探るほかはない。誰に
 も任せられず、誰もその方法を見せつけて教えてくれはしない。その覚悟を持たず、身
 の回りの不幸を、政府や社会や他者のせいにして、怒り嘆いている限り、逆に幸福には
 到達できない。
・幸福は主観の中にしかありえないという原則論が、この頃よく忘れかかっている。
 世間が無責任に思い描く体裁のいい家庭、光栄ある生涯といったものが「客観的幸福」
 としてしばしば個人の生活の目標にされるが、「客観的幸福」などというものは、実は
 ありえない概念である。 
・人間の弱さを認識していれば、弱さを補強してやる幾つかの手段を考えておくことも謙
 虚な方法である。健康もお金もその一つの道具であることはまちがいない。そのための
 経済的独立を考えない人は思いあがっている。義務を怠っている。そして結果的には、
 決して自由になれないのである。
・得をしようとは思わない。それだけで九十五パーセント自由でいられることを、私は発
 見したのである。  
・人間はひとからもらう立場でいる限り、決して満足することもなく、幸福にもなれない。
 人間は病人であろうが、子供であろうが、老人であろうが、他人に与える立場になった
 とき、初めて充ち足りる。
・幸福の秘訣は、受けて与えることだ。私たちは受けることの方が多いが、何か少しでも
 できることを他者に「して差し上げる」生活をすることが私たちを幸福にする。
・明治生まれの私の父母たちは、自分でつましい生活をして貯金をし、老後に備えること
 を常識とした。借金をしなければ買えないものはお金を貯えてから買いなさい、と私た
 ちは教えられたのである。ローンを作れば何でも買える。借金を残せば相続税も安くな
 る、などという悪知恵を教えたのは誰なのか。まともな銀行が、サラリーマン金融の事
 務所に軒先を貸すという現実を、私は初めは信じられなかった。
・人が持っていても、自分にはぜいたくだと思ったら持たない自立精神はどこへ行ったの
 だろう。経済については、最悪の状態を常に想定する。財布は人に頼らない。こんな素
 朴なことは、昔、小学校にさえろくに通えなかった人たちでもわかっていた平衡感覚な
 のだ。 
・心配とか恐怖とかいうものは、人間が不必要なものがたくさん所有している時に起こる
 ものなのだということを、私は知りました。
・日本では、安全が普通で危険は例外だと思っていられる。飽食はあっても飢餓がない。
 押し入れは物でいっぱいで、部屋にあふれた品物が人間の精神をむしばむ。
 もちろん世の中には、お金も家もなくて苦労している人がいるが、それより数において
 多くの人々が、衣食住がとにかく満たされているが故に苦しんでいる。
 人間の生活は、物質的な満足だけでは、決して健全にはならない。むしろ与えられてい
 ない苦労や不足が、たとえようもない健全さを生むこともある。このからくりをもう少
 し正確に認識しないといけない。  
・人が生きる上で幸福だと言えるのは、ささやかな心のつながりが感じられ、いつでも休
 息できる場所を持つことだけなのだ。それと、若い時から執拗な病気の苦しみには遭わ
 ずに済めば、こんな幸福はない。それがわかることが、年を取ることのよさであった。
・諦めはどんな場合にも有効な解決法だ。自分の命にせよ、不運にせよ、最初から少し諦
 めていれば、深く絶望したり恨んだりすることもない。絶望したり恨んだりするという
 ことは、まだ相手や自分の置かれた状況の改善に、かなり期待していたという証拠なの
 である。  
・もし自分の努力が必ず実る、ということになったら、人生は恐ろしく薄っぺらなものに
 なるだろう。うまく行ったら、私は途方もなく思いあがり、失敗したらまさに破滅しそ
 うなほど自分を責めるかもしれない。努力と結果が結びつかない、というところに、救
 いがあるのだし、言い訳もなりたつのである。因果関係は必ずしもはっきりしない、と
 いうところで、世界はようやくふくよなかものになったのだ。
・次第に人生が見えてくると、人間が自分でなしうるのは、多くの場合与えられた偶然に
 乗っかっての結果だということがわかってくる。すると、「あふれるほどの感謝」とい
 うものが、ごく自然にできるようになる。
・老年ばかりでなく、人間の一生が幸せかどうかを決められる最大のものは、感謝ができ
 るかどうかだと思うことがある。不幸な人は、その人の周囲の状況が悪いから不幸にな
 っているのではない。自分が現在程度にでも生かしてもらっているのは、誰のおかげか
 考えられなくなっているから、不満の塊になって不幸になっているのである。
・感謝こそは、最後に残された高貴な人間の魂の表現である。そして感謝すべきことの一
 つもない人生はない。誰の力でここまで生かされてきたかを思えば、誰かに何かを感謝
 できると思う。
  
一度きりの人生をおもしろく生きる
・私の考える「成功した人生」とは、一つは生きがいの発見であり、もう一つは自分以外
 の人間ではなかなか自分の代替えが利かない、という人生でのささやかな地点を見つけ
 ることである。
・勝気で、他人が少しでも自分より秀でていることを許せない人は、自分の足場を持たな
 い人である。だからいちいち自分と他人を比べて、少しでも相手の優位を認めない、と
 いう頑なな姿勢を取ることになる。
・人間は誰でも、自分の専門の分野を持つことである。小さなことでいい。自分はそれに
 よって、社会に貢献できるという実感と自信と楽しさを持つことだ。
・要は人間は、自分の得意で好きなことをするのが成功と幸福に繋がる。これは単純な原
 理だ。まず自分の得意なものを発見すること。次のそれを一生かかってし続けること。
・どんな小さなことでもいい。自分の選択と責任において、背伸びしなければ、自分ので
 きそうな仕事に就くことは、多くの場合可能である。人が生きるということは、働いて
 暮らすことなのだ。   
・忍耐というのは、まことに奥の深い言葉だ。人間はすぐには希望するものが手に入らな
 いことが多い。機運が来ないことも、自分自身が病気に見舞われることもある。自分自
 身が健康でも、家族が倒れてその面倒を見なければならない時もある。
 しかし忍耐さえ続けば、人は必ずそれなりの成功を収める。金は幸せのすべてではない
 が、財産もまた大きな投機や投資でできるものではないということを、私は長い間人生
 を眺めさせてもらって知った。その代わり、成功のたった一つの鍵は、忍耐なのである。
・誰もが苦しみに耐えて、希望に到達する。努力に耐え、失敗に耐え、屈辱に耐えてこそ、
 目標に到達できるのだ。
 誰も苦しみになど耐えたくない。順調に日々を送りたい。しかし人生というものは、決
 してそうはいかないものなのだ。 
 さらに皮肉なことに、人生で避けたい苦しみの中にこそ、その人間を育てる要素もある。
 人を創るのは幸福でもあるが、不幸でもあるのだ。
・人並みなことをしていては、人並みかそれ以下にしかならない。もちろんそれでよけれ
 ば、努力などという野暮なこともしない自由も残されている。しかしその場合には運命
 に不平を言わないことだ。それだけの努力しかしなかったのだから、それだけの結果し
 かもらえなかったのだ。日本は公平な国なのである。
・考えてみると、人生で「好み」を持つということは実に大切だ。他人の評判を気にして
 いる人は、自分の好みではなく、あてがいぶちの人生を生きることになる。したことが
 ない人ほど、つまらなく、危険な存在はない。彼らはたやすく他人に動かされて、暴徒
 になる素質を持っているからだ。
・人間はいつだって、何か一つを捨てなければ、一つを得られないのです。
・私は日本人は、自分の人生に夢を描きすぎるのだと思う。「青年よ、大志を抱け」とい
 うのは悪くないが、大風呂敷を広げ過ぎれば満たされない不満ばかりが残る。どんな学
 者も、芸術家も、実業家も、一生にできる仕事の量は限られている。小さく守って、そ
 こを充実させることの方が私は好きである。   
・日本人の人生や職業に対する評価は、自分が満たされるかどうかより、他人がそれをど
 う思うかで決められる場合が多いから、一向に自足しないのである。
・人と比べることをやめると、ずいぶん自由になる。限りなく自然に伸び伸びと自分を育
 てることができるようになる。
・会社や組織は深く愛さないほうがいい。愛し始めると、人はものが見えなくなります。
 執着して悪女の深情けになる。私の実感では、愛しすぎると、余計な人事に口を出した
 り、辞めた後も影響力を持ちたがったり、人に迷惑をかけるようなことをしがちです。
 会社を愛していないと、こんなはずじゃなかったと思うこともありません。リストラさ
 れても、絶望しないでしょう。嫌な組織にしがみつくこともない。そもそも、あらゆる
 瞬間に、今の生き方以外に「逃げ道」だか「退路」だかを考えておかないというほうが、
 私は間違っているような気がします。 
 贅沢を言わなければ、逃げ道はたくさんあります。今の生活のレベルを保持しようと思
 うから、ほかにないのです。基本は、素朴な衣食住を確保する、それだけ。暮らせる条
 件は、どうにか死なないことだと自分にも言い聞かせ、日頃から妻にも子供たちにも吹
 く込んでおくことです。
・妻に対して、あるいは夫に対して、この人と結婚してよかったと思わせることは、多分
 「ささやかな大事業」である。私は社会的に大きな仕事をしながら、妻に憎まれて生涯
 を終えた人を少なからず知っているから、なおのことそう思うかもしれない。たった一
 人の生涯の伴侶さえ幸福にできなくて、政治も事業もお笑い草だと私は思っている。
・自然に流されること。それが私の美意識なのである。人間は死ぬ以上、流されることが
 自然なのだ。けちな抵抗をするより、堂々として黙々と周囲の人間や、時勢に流されな
 ければならない。 
 
老年ほど勇気を必要とする時はない
・何もしないのに、人間は徐々に体の諸機能を奪われ病気に苦しむことが多くなり、知的
 であった人もその能力を失い、美しい人は醜くなり、判断力は狂い、若い世代に厄介者
 と思われるようになる。
 昔の人々は老いと死を人間の罪の結果と考えたが、それもまた間違いなのであった。何
 ら悪いことをしなくても、それどころか、徳の高い人も同じようにこの理不尽な現実に
 直面した。
 老いと死は理不尽そのものなのである。しかし現世に理不尽である部分が残されていな
 ければ、人間は決して謙虚にもならないし、哲学的になることもない。
・老年はすべて私たち人間の浅はかな予定を裏切る。時間ができたら、ゆっくりと本を読
 もうとすれば、視力に支障が出る人も多い。老年になって山歩きをしたい人など、内臓
 が健康でも、膝に故障が出れば、それも叶わないだろう。
・老年は、中年、壮年とは違った生き方をしなくてはいけない。このことをはっきりと認
 識することが、自律のスタートです。
 若さを保ちたいという意欲はけっこうですが、体型は三十代と同じであっても、体内の
 ほうは確実に変わっていきます。それを受け入れて、年相応の健康を目指すほうが自然
 じゃないでしょうか。  
 つまり壮年、中年時代は、目もよく見え、耳もよく聞こえ、免疫力も高かったかもしれ
 ませんが、そうではなくなった今の自分に合う生き方を創出する。それが晩年の知恵だ
 と思うのです。
・年をとって人間できるようになることは、見栄を張らないようになることである。
 人は誰にでも、危機というものがある。お金がなくて困った。もう離婚しようかと思っ
 た。子供と心中を考えた。さまざまな危機的状況が人間の生涯には必ず訪れる。
 若い時には、それを隠したくなるものだ。自分だけが、そのような屈辱的な、悲惨な状
 況を過ごしているのだから、人にはとうてい恥ずかしくて言えない、と思うのである。
 しかし次第に「人生には何でもありだ」ということがわかってくる。
・隠す、とか、見栄を張らねばならない、という感情はまず第一に未熟なものだ。ある年
 になれば、隠しても必ず真実は表れるものだ、という現実を知るのが普通である。もし
 人が本当に自分の真実を隠したいのだったら、人のいない森に一人で引きこもるいがい
 にない。 
・人間が高齢になって死ぬのは、多分あらゆる関係を絶つということなのである。もちろ
 ん一度に絶つのではない。分を知って、少しずつ無理がない程度に、狭め、軽くして行
 く。身辺整理もその一つだろう。使ってもらえるものは一刻も早く人に上げ、自分が生
 きるのに基本的に必要なものだけを残す。
・人間がどんなに一人ずつか、ということを、若いうちは誰も考えないものである。身の
 まわりには活気のある仲間がいっぱいいる。死ぬ人よりも、生まれる話の方が多い。
 しかし、どんな仲のよい友人であろうと、長年つれそった夫婦であろうと、死ぬ時は一
 人なのである。このことを思うと、私は慄然とする。人間は一人で生まれてきて、一人
 で死ぬ。 
・よく生き、よく暮らし、みごとに死ぬためには、限りなく、自分らしくあらねばならな
 い。それには他人の生き方を、同時に大切に認めなければならない。その苦しい孤独な
 戦いの一生が、生涯、というものなのである。
・少年期、青年期は身体の発育期、壮年と老年は精神の完成期であり、とりわけ壮年期の
 比重は大変重い。 
・私は、孤独と絶望こそ、人生の最後に充分味わうべき境地なのだと思う時があります。
 この二つの究極の感情を体験しない人は、たぶん人間として完成しない。孤独と絶望は、
 勇気ある老人に対して「最後にもう一段階、立派な人間になって来いよ」と言われるに
 等しい。神の贈り物だと思います。
・中年から老年にかけて人間はさまざまなものを失って行くが、そこに実はほんとうの人
 間としての闘いがあるのではないだろうか、と私はこの頃考えるようになった。
 老化と病気は、どこで切り離したらいいか私にはわからないが、うまく年をとっている
 人はそれほど多くない。老年というものほど勇気のいる時代はない。しかもその勇気も
 外に向かって闘争的に働きかけるものではなく、自分の中に沈潜する勇気である。
・走れなくなったり、噛めなくなったりすることも、死ぬべき運命に向かっているのだと
 いうことを、ちゃんと自覚したほうがいい。自分がそうなる前から、そうなった時のこ
 とを考えるのが、人間と動物を分ける根本的な能力の差であることを思えば、私はやは
 り前々から、老いにも死にも、慣れ親しむほうがいいように思います。
・死はむしろ生き方を教えてくれるものなのである。死ぬ予感がないから、人の心は彷徨
 する。他人の境遇を羨んだり、名誉や地位に執着したりする。
 死を近く思うと、人は時間を自分のためにだけ使うようになるだろう。人の噂に係わる
 ことは、所詮は人に時間をやってしまうことなのである。私が人より少し時間を有効に
 使って来たとしたら、それは、市の観念がいつも遠くからだが、私を追い立てていたか
 らだろうと思う。 
・私たちは死を意識するからこそ限りある時間の生を濃縮して生き尽くそうとするし、ま
 た死があるからこそ人間のできるうることの限界を知り、今持っているもののはかなさ
 というものを知ることができるのです。そのとき初めて、われわれは現世を過不足なく
 判断することができると思うのです。
・死を前にした時だけ人間は、何が大切で何がそうでないかがわかる。
・もう長く苦労しなくて済む。もう長くお金を溜めて置いて何かに備えなければならない、
 と思わなくても済む。もう長く痛みに耐えなくて済む。晩年はいいことずくめだ。
 晩年には、人生に風が吹き、通るように身軽になる。晩年には人の世の枷が取れて次第
 に光もさしてくる。
・自分はどういう人間で、どういうふうに生きて、それにどういう意味があったのか。
 それを発見して死ぬのが、人生の目的のような気もします。
・ほとんどの人は、「ささやかな人生」を生きる。その凡庸さの偉大な意味を見つけられ
 るかどうか。それが人生を成功させられるかどうかの分かれ目なのだろうと思います。
・自分はしたいように生きた、満足だ、と言い切れる人はごく稀であろう。普通は誰でも
 思いを残して死ぬものだ。諦めという技術を体得した人以外は・・・。
・しかしそれにしても人生の意味の発見というものほど、私には楽しく、眩しく思われる
 ものはない。その発見は義務教育でも有名大学でも、学ぶことを教えてもらえない。
 強いて言えば、読書、悲しみと感謝を知ること、利己的でないこと、すべてを楽しむこ
 と、が、そこに到達することに役立つだろう。