人間の基本 :曽野綾子

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この本は今から10年前の2012年に出版されたもので、著者80歳頃のもののようだ。
人間の基本というのは、人生を無駄にしないために必要な足場であるという。末端ばかり
を大切にする現代において、人間の基本がなければ、まわりに流され、やがては自分を見
失い、人生を無駄に過ごしてしまう、というのが著者の基本的な考え方のようだ。
確かに共感するところも多いのだが、なかなか厳しい主張ばかりで、心の弱い私にとって
は、読んでいると心が萎縮してしまい、太宰治ではないが「私のような人間が生まれてき
て、すみません」と思わず言いたくなる気持ちになってしまった。
著者の主張は、確かにそのとおりかもしれないが、その主張どおり正しく生きなさいと言
われても、私にはとてもできそうもない。
しかし、いつもながら、上から目線で決めつけ的かつ説教的な内容が多いのだが、どうも
これは、キリスト教の影響を受けた者が持つ特徴でもあるように私には思える。キリスト
教は性悪説を、仏教や神道は性善説で人間をとらえていると言われているようだが、この
本の著者もカトリック教徒のようなので、性悪説で人間を捕らえているようだ。だから人
間に対してとても厳しいのだと思う。
そのなかでも私が特に驚いたのは、この著者が自殺について「あてつけがましいことは止
めた方がいい」と述べているところだ。自殺する本人は、他人が到底窺い知れないほど悩
み抜いた筈の行動だと思うが、それが「あてつけがましいこと」と言い捨てるのはいかが
なものだろうか。それが自殺者に対するキリスト教の見方なのだろうか。私にすれば、そ
れは非常に冷徹な見方であり、とても違和感を覚えた。


はじめに
・私はある皮肉な外国人が「人は皆、その年齢ほどに見える」と言った言葉が好きなんで
 す。でも「見た目年齢」に狂奔して、本も読まず、美容やおしゃれだけ心がけていると
 足場のない人間がふえて来そうな気がします。
・足場というか、基本というのは、実に大切なものです。それがないと流されます。流さ
 れれば、自分を失いますし、死んでしまうこともあります。でも今の日本は、足場や基
 本は問題ではなくて、末端が大切な時代になりました。
・私たち人間の生き方というのは、風が吹いたり、埃が吹き込んだり、暑かったり寒かっ
 たり、物が散らかったり、不意に客があったり、時には家の中を鼠が駆け回ったり、あ
 くまでそういう現実空間の中にあるものです。そうした現実の流入を拒否したいがため
 に、自分の思い通りになる人工的な空間を頑なに保とうとすると、現実感覚はどんどん
 欠けてしまう。
・そういう生き方を好む人ばかり増えて行くと、いずれは世の中から哲学も消えてなくな
 るにちがいありません。 
・思想というものは、自分自身の生活と体験によってしかがっちり捕まえることはできま
 せんし、知識だけで人生を渡って行くのは無理な話です。それがわからないと、現実感
 覚まで狂い始めるでしょう。
・最大の問題は、携帯電話やパソコンを何時間操作したところで、そこからはっきりした
 目的のあるプロダクティビティ(生産性)はほとんど生まれない、ということです。物
 知りにはなりますが、知識というものは方向性を持たせて集約しないと、あまり役に立
 たないでしょう。
・テレビというのは、見ようとしなくても余計なものまで受け身で見てしまうので、やた
 らと時間を費やします。テレビ自体が悪いというのではなく、そんな生活に浸っていた
 ら、やがては人生の持ち時間が減ってしまう。健康も精神も害される。画面の向こう側
 では大勢の人が死んでいても、こちら側ではそれを見ながら平気でラーメンを食べてい
 られる。
・家族や友人を失えば食欲もなくなるのは当然ですが、どんなに悲しみに打ちのめされて
 も、ある瞬間には空腹を感じるものです。食べないと動けなくなる、そう感じると、人
 間は動物的本能を優先させて食べ始める。そこにはサーモスタットのようにオートマテ
 ィカルに働く、生の継続への執念があるのがおもしろいですね。
・しかし、生への執念の存在さえ感じられないほど餌が補給されるようになると、今度は
 安心しきってその環境に甘えるようになる。それが大きな問題です。
・1972年にチリのアンデス山中で飛行機が墜落し、生き残ったラグビーチームの16
 人は凄絶な飢えと闘う中で、死んだ人の肉を食べることで命をつなぎました。息子を亡
 くした父親は生還者にこう語りかけます。
 「私は医師としてこうあることを知っていた。ありがたいことだ、16人を生かすため
 に、死んだ何人かがいたのだから」
・世の中にこれほど立派な言葉があるでしょうか。自分の息子が死んで食べられたのは事
 実としても、それによって誰かの命を救ったのなら喜ばしいことではないか。この父親
 の言葉こそ、本当の人間だけが発することのできる言葉だと思うのです。
・私がよく「東大法学部は駄目」というのは、高度成長期に作られた、有名大学から一流
 企業に入れば一生安泰、という感覚がどうしようもなく刷り込まれているからでしょう
 ね。人間は学歴だけでは生きて行けない。試験の成績と本質的な生活能力とは違う。そ
 れを認めようとしない。いくら偏差値が高くても、頭でっかちで人間にとって根本的な
 部分を欠いた人間は、社会にとってむしろ害毒となります。
・もともと情報というものは一定のところで歩止まりがあって、そこから思考していくの
 が人間のすることです。もっとはっきり言うと、必ず個人によって受け取るものがちが
 うのが、人間性の存在を示しているんです。
・誰だって目の前で殺人を見る機会などまずないのですから、悪にせよ、善にせよ、想像
 力を働かせるのが人間としての基本的な作業です。一つの事柄から想像して発想するこ
 とが、その人なりの持ち味や個性であるはずなのに、そのイマジネーションが根こそぎ
 奪われている時代です。
・想像力が加速度的に衰えていることは、テレビの天気予報一つでもはっきりしています。
 アナウンサーがいい年をした私たち視聴者に「傘を持っていくことをお薦め」したり、
 「洗濯日和です」とおせっかいを焼いたりするのは日本ぐらいのもので、よその国では
 素っ気ないぐらに気象情報を伝えるだけでしょう。ましてや雨が降るというと、傘の印
 を持ってみせたり、まるで幼稚園児相手で、私は時々思わずテレビを切ってしまう。
・女性アナウンサーがウサギの帽子を被ってみせたり、「ゆるキャラ」と呼ばれる着ぐる
 みが全国的なブームになったりするのは、どうにも理解できないのです。幼児化という
 か、羞恥心というものがないのか、見ていて居心地が悪い。これも言葉だけで情報を伝
 達するという技術がなくなってきたからでしょう。
・いずれにしても、こうした日本特有の現象は、想像力が欠如した人向きではあっても、
 人間性に対する一種に侮辱であると同時に、日本人がそういう教育を受けてきたという
 結果でもあるのです。 
・「貧乏とはその晩に食べる物がないこと」ですから、どうにか食べている、という人は
 本当の貧乏ではないのです。
・かつては天災があると、まず親戚の家へ転がり込んだものです。親戚だからといってい
 つまでも居られるわけではありませんが、行政が用意する体育館の避難所よりは、親戚
 の方がいくらかましなはずです。期限付きの被災者が転がり込んできた間ぐらい、子供
 たちは一部屋で雑魚寝させ、おかずの塩鮭一切れを半切れにして、質素に分け合えば食
 べてはいける。そうやって一週間でも一ヶ月でも置いてあげるのが当り前でした。それ
 なのに、今度の東日本大震災でも、親戚を泊めたという人は、私の周囲にはありました
 が、本当に少なくなりましたね。
・天災に遭うのは本当に気の毒なことですが、さほどの大災害でもない場合でも、最初か
 ら一箇所にまとめられて行政の配給を待っているのが当り前の光景を見ると、日本人は
 そういう助け合う心を失ったのかと心配になります。
・どんな状況でも誰かの支援を待つばかりでなく、自分で考え、自分から動くことも大切
 です。火山灰がひどくても屋根さえあれば、七輪とお釜に塩鮭と昆布の切れ端、お酒と
 だしの素を入れるだけで即席に釜飯がつくれます。
・どんな状況でも自分の頭で考え、想像し、工夫して生きることが人間の基本だと私はず
 っと思ってきました。

「乗り越える力」をつける教育
・戦後、日教組が「人間はみな平等」というおかしな平等意識を作り上げましたが、先生
 と生徒は決して平等ではありません。中にはおかしな先生がいるとしても、知識におい
 て先生は子供より絶対的に卓越した存在ですから、平等ではあり得ない。それと同じよ
 うに、子供は小さい時は親に庇護される者であり、いつかは追い越して親の方が庇護さ
 れる日が来るとしても、絶対に平等ではないのです。
・平等でないのは少しも悲しむべきことではなくて、やがて柔軟で豊で個性的な人間関係
 に変わり得るものだということがわからないから、そういうおかしな論理になるんです
 ね。
・教育が自発的であるべきだというのは異常な感覚で、教育はごく初期の幼児期のもと、
 いくつになっても初めてやることに関しては全部強制の形と取ります。
 けれども話はまるで通じませんでした。とにかく「強制はいけない」の一点張りですか
 ら。私はすぐに引っ込めました。
・若者の命が大事であること、さまざまな可能性を秘めていることは言うまでもありませ
 ん。だからこそ人は、いずれは自分よりよっぽど大物になるかもしれないという畏れを
 持ちながら、いとおしんでその才能を育てればいいのです。ただし、若者には若者の立
 場があるから強制はいけない、という考え方では脆弱な人間しか育ちません。
・アフリカや中近東、草原の遊牧民にとってナイフは、人を刺すためではなく、布を裂い
 てり、薪になる木を作ったり、食料の肉をさばいたり、生きるための必需品です。
・日本は、ナイフは喧嘩すると人を刺すから持ってはいけません、と教える社会です。小
 学生にナイフで鉛筆を削らせなくなり、校内で殺傷事件が起きてからますます厳しくな
 っている。けれど本当に誰かを殺そうと思ったら、突き落とすでも首を締めるでも、ナ
 イフなしでも殺せることでしょう。ナイフ一つ持たせられないのは、人間としての能力
 開発の欠如です。
・私が考える教育とは、多少なりとも悪い情況を与えて、それを乗り越えて行く能力をつ
 けさせることですが、今は良い状況を与えるのが教育とされています。
・クラス全員の事情を知るという状況は、裏を返せば、他人が自分を理解して認めてくれ
 るのを当然のこととして期待することです。しかし、先生が一人一人の生徒に向き合っ
 てくれる、遅れ気味なら補習をしてでも教えてくれる、という考えは「甘ったれ」とい
 ってもいいでしょうね。人間は他者のことなど、そんなに理解するものではないんです。
・そもそも人間は「他人は自分を理解してくれない」という覚悟の上に、長い人生を立て
 て行かなくてはならないのです。 
・確かに頑張れば、運がよければ、一部は認められることもあるが、絶対にわかってもら
 えない部分もある。そこでは過小評価も過大評価もあるとして、その両方の配分で人生
 を見ることを学ぶのです。それが大切であって、全面的に私を認めてほしい、認められ
 て当然だ、というのは大きな勘違いです。
・悪い状況、もっと言えば修羅場を経験する意味というのは、肉体や筋肉と同じように精
 神に負荷をかけることにもあるでしょう。そうでないと、人間として使いものになる強
 靭さが備わらないからです。それは政治の世界でも同じで、田中角栄がすばらしかった
 とはいいませんが、数々の修羅場と権力闘争をくぐり抜けてきた人と、単に成績優秀で
 政策に通じた人とでは、危機における能力が全く違ってきて当然だからです。
・危機というのは、人間的なものもあれば物理的なものもあって本当にさまざまです。い
 ずれにせよ何をどうやって乗り越え、あるいは回避して行くのか、感覚的につかむ必要
 があるのです。
・素朴な喩えとして、ある日突然、戦争のような物理的危機に置かれたらどうするか。穴
 を掘って隠れる、地下壕へ逃げる、あるいは一目散に難民として脱出を図る、いろいろ
 な行動が考えられますが、非常時には、市民の中にも暴行や略奪が当然起こり得ること
 は世界的常識です。
・2011年の東日本大震災でも略奪は起こらず、むしろ互いに助け合う光景が見られた
 のは、日本人として本当に誇れるものです。しかし、略奪なんて思いもよらない、あり
 得ないとはなから考える人が増えてきているとしたら、過保護ゆえの危機管理能力の欠
 如ということになります。
・誰だって戦争は嫌に決まっています。徴兵制は擬似戦争であり、擬似と言うと戦争の真
 似事とか戦意高揚のためとか悪い意味にとる人もいるでしょうが、そうではない。もし
 も戦争になったら自分にはどれぐらいのことが必要とされるのか、あらかじめ知ってお
 くのは決して悪いことではありません。
・もともと人間は弱いものですから、突然追い詰められると途端に略奪したり、人を殺し
 たり、火を放ったり、そういう例は過去にいくらでもあります。そうならないためにど
 うするか。その予備行動なり予備的判断の経験があれば、危機にあっても自分の行動を
 少しはおさえられるでしょう。教育の場にあっては希望を持って、ということがしきり
 に言われますが、希望を持つと同時に、私は人間の弱さ、悪の面の勉強もした方がいい、
 とずっと思っています。
・表面上は世間の便宜的ルールに従うとしても、心の中の哲学的な深い部分で反逆するな
 ら、それはそれでなかなか味のあるいい生き方です。しかし、世の中の約束事を教えな
 いままに子供のやり方を何でも認めるとなるともう滅茶苦茶です。勝手気ままな行動を
 する前に、窓から落ちたら死ぬよ、と言って笑い合えたらそれこそが教育なのであって、
 何でも自由に思った通りをもてはやすのは間違っている。その子の将来にも悪い影響を
 与えます。
・人間の自由には常に義務が伴う。そうでなければ、この世、というか、地球上の生活は
 現実として成り立って行かないんでしょうね。その基本をきちんと教えることが大切で
 す。
・人間は、どんな教えられ方をしたとしても、それに対して反発する強力な免疫力を生ま
 れながらに備えているものです。ですから教育の本質は、教科書の内容が軍国主義批判
 や左翼的自虐史観に影響されていることよりも、子供の中にある免疫力・判断力を充分
 に刺激してしっかり育てられるかどうか、他人の考えや言うことに従順なだけの人間に
 はならないよう、「ほんとかな」と何事も自分で反芻し、考えていける人間に育てられ
 るかどうかなのです。
・物事には両面性があり、一面だけを見て否定したり、教育したりするのは大きな誤りで
 す。戦後の日本では、軍事学などふれてはいけないもののように扱われて来ましたから、
 いまだに満足な戦争博物館一つありません。ロンドンの帝国戦争博物館には第一次大戦
 と第二次大戦をはじめ、ナチスもイギリスの軍隊も隔てなく展示してあり、「あなた自
 身の頭で考えるように」というレリーフが掲げられていると聞きました。
・つまり、戦争というものに人間に共通の悲しみを見出しているのです。相手がなければ
 起こらない戦争は、敵と味方に分かれて殺し合った人間の悲劇そのものです。歴史もそ
 うですね。過去を洗えば、どの民族にも無知と残虐の歴史があります。なぜ戦争が繰り
 返されるかは自分たち各々が考える性質のもので、多分、どちらかだけが悪かったとい
 うものではない。どちらにも、責任はあるんです。他人から、あの戦争はこういうもの
 だった、と押しつけられるものではない。日本の教育は、この「あなた自身の頭で考え
 る」という部分が抜け落ちてしまっているようです。
・現代の教育はそうした人間の基本には関与しない、全く表層的なものになっています。
 もちろん平和がいいことは誰でも知っていますが、平和の裏側にある戦争を知らなけれ
 ば、いざという時に回避することもできません。戦争を知らなければ平和について語れ
 ない、というのは非常に重要なことです。
・しかし結局のところ、考えるのは自分たち一人一人でしかありません。本当の考える力
 とはそういうものなのに、戦後の義務教育は子供たちに自分で考える力を教えてこなか
 った。他人と違うことを考えると試験や出世で減点されることが、さらに拍車をかけま
 した。東大法学部出のお役人の生き方なんて、まさのこの典型ですね。
・それを象徴するのが、広島の原爆死没者慰霊碑に刻まれた「過ちは繰り返しませぬから」
 という、誰が主語なのかわからない文言です。自虐的で画一的は戦後の歴史教育は戦前
 に比べてもずっと深刻だと思います。
 
ルールより人としての常識
・戦前、私は母から「借金をして物を買ってはいけない」と教えられました。「欲しいも
 のがあったら、お金を貯めて買いなさい」というのが大原則で、「泥棒したらもう人間
 ではないから、学問などしなくてもよろしい」とも言われたものです。古い言い方です
 が、「人間としての基本ができていない人は何をやる資格もない」ということだったん
 でしょう。
・今は物を手に入れようとする時、ローンを組むのが当り前になっていますけど、長期ロ
 ーンで買うと倍近いお金を払うことになるそうですね。ローンと言うと聞こえがいいで
 すけど、つまり借金です。しない方がいいに決まっています。
・今は対価など払わなくても何でもできるかのような錯覚がある時代です。何をしようが
 個人の自由でしょう、独善的な考え方です。
・殺すなかれ、盗むなかれ、姦淫するなかれ、で有名な「モーゼの十戒」は、人間にとっ
 て今でも基本的な戒律であることに驚かされますね。人間には、教え込まれると反発す
 る精神が常にありますが、鵜呑みにするのは嫌だから避けて通ろうとするのではなく、
 真っ向からそれにぶち当たること、その反動を自分の身をもって確認すればいいのです。
・人間も世の中も中心となる軸、芯がしっかりしていないと、そこから外れているという
 意識もなくなっていきます。その意味では、絶対多数にはそれなりの価値があるのです。 
・本来「個性」は悪い言葉ではありませんが、私は個性的でしょう、と表面的にアピール
 するのはただの勘違いであって、単に他人のことも考えられない、自分中心で他者が希
 薄ということです。自分はこう考えるんだから構わないでしょう、という姿勢は何かを
 はき違えていて、逆に言うと、自分が他者をそれほど簡単にわかるわけがない、と自覚
 することが必要です。
・世の中の常識というものは、自分があるからこそ認められるのです。自分と常識とが違
 っていることを十分に分かっているからそれに従える。大勢の人が言うことだから価値
 があって正しいと考えるのは間違っています。この二つは似ているようで全く違ってい
 て、自分自身に錘がついていないと、水面に流される浮草と同じになってしまいます。
・人間は、基本の「基」にぶつかった時に、あるエネルギーというか、覚悟ができます。
 そこでは挫折や摩擦や葛藤がつきものですが、それがないと得られる対価もなく、ひた
 すら周りと同じように考える人間になってしまいます。
・私は、いつの間にか、自分の「個」を持っている人たちとだけ付き合うようになってし
 まいました。ですから親しくなるのは一見、素直でも優しくも従順ではない、業突張り
 で「ああ言えばこう言う」タイプの人ばかりですが、言い換えれば、自分で考えている
 おもしろい人たちです。個とは、個人主義だとか大げさな思想めいたものではなく、人
 生を自分の頭で考える、自分の趣味で選ぶという人間としてごく当り前のことです。
・もともと人間は、どこかで自分の好みに従って自らを鍛える存在であるはずですが、現
 実にそれができない人が増えているのは、自分自身の、自分なりの目標も考えも持たな
 いからだと思います。
・少し前までの日本人は人間に対する恐れや疑い、たゆたいのようなものをみな持ってい
 ました。けれど最近は羞恥というものが消え失せてしまい、それが世の中から陰影とい
 うものをなくしたんでしょう。
・近ごろはトイレにこもって昼ごはんを食べる大学生がいると聞いて驚きましたが、他人
 とご飯を食べるのが嫌なら、公園のベンチに座って一人で堂々と食べればいいのです。
 それで警察に突き出されるわけでも罰金を取られるわけでもないし、「僕は人と飯食う
 の、嫌いなんだ」と言えばそれで済むことなのにね。「友達が少ないのは駄目な人間」
 と思われるのを恥じているんだとしたら、二重の意味でなさけない人です。
・自分自身の価値観や好みを隠して他人に迎合することに馴れてしまうと、いつまでたっ
 ても人として芽が出ないばかりでなく、抑圧された欲望が、奇怪な人間の性格を生むこ
 とになります。ナチスドイツも、みんなが周りに追従して同じことを重ねた結果、あれ
 ほどの虐殺に至ったのです。自分というものを大事にしないで、根拠なく他人と同じこ
 とをするというのは、本当に怖いことなんです。
・ルールという表面的なことにとらわれると、自由を失いますし、なぜそういうことをす
 るか、と尋ねられても、人を納得させる返事はできません。常識の大局さえ外さなけれ
 ば、めいめいが、いいと考えたことをすればいいのです。ただし理由を問われた時には、
 その人なりの個性で明確な返事ができなくてはならないということです。
・常識というのは、人間の中に普通に内蔵されているものだと私は思います。
  
すべてのことに両面がある
・人間は平等である、と望んだとしても、現実にはどこまで行っても人間は平等ではあり
 ません。しかし細部で、平等であるように心がける。その二つをごちゃまぜにして、平
 等でないとなるとたちまち不平不満を訴えるのは、現実を見ていないんでしょうね。
・何事にも一面だけでなく、善悪両面があるものです。最近「孤独」が社会問題視されて
 いますが、人とのつき合いが私たちを豊かにするというのも本当なら、孤独が人間を鍛
 えるというのも、試練が人を強くするというのも真実です。人間は、誰もが平等という
 ことはあり得ないし、皆がいい子どころか全員が悪い子の面を持っているし、あらゆる
 人は狭くて悪い性格を持っています。誰もが悪いけれども、誰もが時にはすばらしい面
 を見せる可能性を秘めている、それが人間なのです。
・善か悪か、白か黒かでしか物事を考えられないのは幼稚さの表れだと私は思います。 
・多くの人間は凡庸で、神でもなければ悪魔でもありませんから、完全な善人も、完全な
 悪人もいない。 
・人生のあらゆる要素が、その人にとってプラスとマイナス、どちらに作用するのかはわ
 かりませんが、どちらも要るのだと私は思います。希望もいるし、絶望もいる。孤独だ
 けでもへたばるから、時には大勢でお酒を飲んでいい気分になる時もいるでしょう。両
 面があって両方とも要る、ということです。
・世の中には私と同じように感じる人もいるはずで、良いことは結構だが、良いことだけ
 でもやっていけない、という気がしてしまいます。周りを見渡してみても、自分を含め
 て皆いいかげんで、思いつきで悪いことをしたり、ずるいことをする。でも、いいこと
 もしたいんです。その両方の情熱が矛盾していない。それが人間性だと思うのです。
・昔から私は純粋より不純が好きで、不純だけがリアリズムで実人生だと思っていますし、
 実際それほど図抜けて善い人にも、全く悪い人にも会ったことがありません。
・黄色人種が侮辱されているのは経験上まちがいなく言えることです。欧米での財団の活
 動でも、口に出さないにせよ、陰険な優越論者だなと感じることは幾度もありました。
 しかし、そうだとしても私自身は全然困らないし、傷つきもしません。白人だから黒人
 や黄色人種より優越でなぅてはならないのなら、そのこと自体随分と御不自由なことね、
 としか思いません。
・私自身にアフリカの黒人に対して差別意識が全くないかと訊かれたら、やはりあります
 ね。個人的にはいい人をたくさん知っていますが、筋の通らないことをする人や、迷信
 に固執している人や、怠け者は多いですから。でも理由もはっきり見えています。為政
 者が利己的に国民のことを考えない。日本人のような教育を受けていないし、職もなく
 て、未来に全く希望を持てない場合もあります。独立してもう半世紀近く経っていても、
 まだ植民地支配のせいにするのも、私は納得できない。しかし一方では、彼らの生活能
 力の偉大さには、いつも深い尊敬を抱きます。
・食べて、寝て、セックスして、その見返りとして貧困や病気がついてくるとしても、強
 烈な自然の躍動感と逃げられない人間の営みが毎日れ厳然とありますからね。死を考え
 ているヒマもない。人間には差別も尊敬も両方あって、差別の部分だけを隠そうとする
 のは嘘だと思うし、全く差別意識をなくせと言われても、私にその能力はありません。
 ですから正直言って、アフリカに対する侮辱も尊敬も両方持っていますが、どちらが一
 方で割り切れるようなものではないのです。
・差別は良くないことはもちろんですが、差別が文化を創り出すというのも真実です。の
 っぺらぼうみたいな平等社会の中では文化も芸術も出てこないし、強大な富によるパト
 ロネージ(援助)なくして、レオナルドダヴィンチのような偉大な芸術家は決して現わ
 れません。歴史を振り返ってみても、不法な富の蓄積がない所に文化は生まれない、そ
 れが物事の両面性というものです。
・片方が贅沢三昧の生活で、もう片方が食えないのは悪いことだとしても、どちらの方が
 幸福の総量として多いのははわかりません。そもそも、あらゆる為政者の人生は評伝を
 読むほどに惨憺たるもので、そこにも幸福と不幸の両面性があるんでしょう。
・邸永漢さんは昔、「ほんとうに幸せなのは、小金なる庶民だ」と言いましたが、私を含
 めて多くの日本人がこれにあたてはまります。その日に食べる物、着る物には事欠かず、
 毎日お風呂に入れて、薪集めをしなくても、冬は暖かく暮らせる。近代的な警察組織が
 治安を守り、交通機関が正確に運行されていて安心して外に出かけられる。世界でもご
 く少数の人しかあずかれないこういう暮らしに対して幸せを感じないとしたら、大変な
 人間性の欠落ですね。
・今の日本人は、貧しいという意味がわかっていないようです。健康と自由と、多少のお
 金があって海外にも生けるのに出て行かないから、ますます狭い視野でしか物事の判断
 ができなくなっている。当人も親も冒険はしたくないし、させたくない。何かと言えば
 安心・安全を謳う世の中で、生活全体が手厚く保護さて、底上げされているにも関わら
 ず不平不満が多すぎるのはメディアが煽るせいなのかもしれませんが、「井の中の蛙、
 大海を知らず」の島国根性としかいいようがありません。
・私が考える貧困の条件とは「今晩食べる物がない」ことたった一つです。食べるのに困
 るといっても、どこかに行けばあるのは貧困とは呼びません。
・そもそも混沌のない理詰めの世の中など、蒸留水みたいなもので魚も飼えません。信仰
 も堕落も理性も感情も、あらゆることが混沌とした人間社会の大きな渦の中で、自分に
 とって何が大事なのかをつかまえることで、れっきとした人間が作られる。つまり、混
 沌こそが人生なんでしょうね。
・イタリアでは、入会した修道女たちの卵に、まずどこか有名な大寺院の前などで乞食を
 させる修道院があるそうです。シスターの中には貧しい家の娘さんや、両親のない人も
 いますが、中産階級が上流家庭の生まれで、日々の衣食に困ることもなく、知性も教養
 も学歴もあって、もちろん他人に物乞いした経験などない人がほとんどです。しかし、
 それが当り前の自分だと思うと間違えるから、あえて乞食をさせるというのです。つま
 りあらゆる現世の状況をはぎ取った地点を知って、神に仕えよ、ということなんでしょ
 うね。
・私は、人間を育てるにはそういう発想が必要だと思います。人間の基本から叩いて叩き
 潰してから、人間としてスタートさせる。それこそが教育が与えられる強みだろうと思
 いますし、そうでないと修羅場を乗り越える力も、それより以前に、自分で物事を考え
 る習慣も身につきません。
・どれだけ「格差はいけない」と連呼したところで、格差のない世界など存在しません。
 妙な平等主義で現実まで隠してしまうと、真の友人などできようがありません。逆に、
 親しい仲間であればあるほど何でも筒抜けに話をするものですから、プライバシーだ、
 個人情報の漏洩だと騒ぎ立てるのは間違っています。
・権利があれば義務がある、これもまた両面です。私たち人間には、教育であれ何であれ、
 国民、市民、家族として他から受けたら与える義務があります。生理学的に言っても、
 私たちの体は空気を吸い込んだら吐き、食べ物を摂れば排泄します。あらゆることにお
 いて「受けたら受けっぱなし」はあり得ない。それが権利と義務の関係です。
 
プロの仕事は道楽と酔狂
・人生というものは、王道の脇筋に幾らでも魅力的な物語があるもので、実はそれこそが
 人間の面白さなのです。それを教えてくれるようなことに出会うと、小説家として心の
 中で「ありがとう」と言いたくなります。
・小説家は実に間口が広い職業で、肉体的な資質や特性は何もいらない、厄介な病気も書
 く上では全部が栄養になる、金持ちでも貧乏でもかまわないし、女にもててももてなく
 てもいい、そして維持や根性が悪いのはものすごく便利なんです。およそ他では考えら
 れないぐらい、寛容な職業だと思います。
・労働というのは、プロとアマの二つにはっきり分けられます。アマは労働時間でもって
 労賃を得る人のことで、一時間に幾ら、という具合に、時間単位で自分の労働を売る。
 裏を返せば、その間にできるだけやればいいんです。どこかの国の発掘現場の土運び人
 のように、わざとだらだら動いて時間が過ぎるのを待つような人も出るでしょうね。そ
 ういう労働力は安くてもしかたがないし、高くするには、労働の質も上げて時間当たり
 の労賃を上げるしか方法はありません。
・一方、プロというのは、時間と全く関係がない働き方です。 
・本当のプロの仕事というのは趣味道楽の領域にあるものだ、と私は思っています。それ
 を自ら納得するのか、それとも安定して対価を得られるアマの仕事を取るのか、それは
 自分自身が決めることです。
・私は、いまだに「道楽」という言葉は道を楽しくすることか、道を楽にすることか、ど
 ちらの意味なんだろう、と思います。しかし、楽にもなり楽しくもなる道楽と、命懸け
 の酔狂というのはどこか似ていても違うような感じられ、酔狂こそが人間を生かすので
 はないかと考えています。
・日本郵政は就職先として上位の人気企業かもしれませんが、どうして日本郵政へ行きた
 いのか、社外取締役の一人としては言いにくいですが、理由が思い当たらないのです。
 人間が字を書かなくなった時代ですから、郵便事業が年々赤字続きなのは当然です。い
 つになったら郵便事業を止めるのか、誰も口にしませんが、私は「もう止めた方がいい」
 と思っています。
・誰もが善人でいい人を装っていては、どんどん世の中が平板になっていきます。人間と
 いうものは善悪両面で成り立っていて、善の要素がないのがあくまで、悪の要素がない
 のが神だとすれば、どちらも私たち人間の手に負えるものではないのです。
・以前、「アラブの格言」をまとめた時にしみじみ感じたのは、彼らが人間のいいかげん
 さを拾い上げて、人間性発見とその結果としての笑いの種にしていることでした。
 「他人を信じるな。自分も信じるな」というように、いい意味で、人間の善悪両方をし
 っかり捉えています。
・ありあまる情報が、精神力が脆弱な人間を作り出すようになりました。若いのに外に出
 たがらない、就職してもすぐに異動や転職を言い出す。かと思うと競争相手とさえ、同
 じ意見になりたがる。
・端的に言うなら、修羅場を経てこそ得られる耐性、精神的な強さからどんどん遠ざかろ
 うとしているのだろうと思います。
・同年代の人たちと話をしていると、私たちの世代は「筋金入り」なのかなあ、と思いま
 すよ。それは、お金がなくても生きていられるだろう、と思えるからです。
・修羅場を乗り越えた経験がないと、人間としての脆さがついて廻ります。危険を怖れて
 何も体験させずに安全の中に囲い込むのは、ある意味で実にかわそうですね。
・我が身に困ったことが降りかからなければいい、ということになると、何もしないのが
 一番で、何もしない限りは安泰、という判断になります。人生はいつもある程度の危険
 と引き換えにして、初めて何かを得られると私は思っているんです。もっともこういう
 見方を人に押しつける気持ちは全くありません。これは生き方の趣味の問題ですから。
 ただ、すべてのものには対価を支払わなければならない、というのは私の基本的な考え
 方です。
・人間はどれだけ文明のお世話になるとしても、自力で生きるしかありません。終始それ
 ばかりを考えてはいられないとしても、もともとこの世は危険と煩わしさと抱き合わせ
 ですからね。私は時々それと向き合うことでその都度、何かしら大事なことを教えても
 らいました。でも最近は、いかなるリスクも不便も避けるという人が多くなりましたね。
 そういう人は自分の趣味に通していいんですけど、「虎穴に入らずんば虎子を得ず」と
 いう言葉の通り、何も対価を払わずにこの世では何もおもしろいことはできないという
 のが、私の実感です。
 
ほんとうの教養
・戦争中、特攻によって国が救われるものではないと知りつつも、若い士官たちが捨て身
 になって死んでいきました。彼らの死の上に今の日本があるのは事実なんです。その時
 のことを、その時に戻してどこまで深く他者を思いやれるかどうか。「思いやる」とは
 安っぽい同情の意味ではなく、自分自身が本当に他者の立場になって考える姿勢のこと
 ですが、それができているというケースは、めったにありませんね。
・戦争中、兵役を拒否すれば憲兵に捕まって村八分の目に遭う。ならばどうするか。私も
 当時の状況について詳しくはありませんが、できることならそうした知識をも含めて、
 自分自身の反応を考えられるようでありたいと思っています。人間である以上、妥協も
 あれば裏切りもあり得るはずですが、一方では自分の命を捨てて国に殉じることもでき
 る。正直言って私自身、同じ状況に置かれたらどう行動するか全くわかりません。多分、
 卑怯者の行動を取るでしょうね。それが絶対多数の生き方だったんですから。
・沖縄戦さなかの昭和二十年六月、制空権も軍備も食糧も圧倒的にアメリカが優勢で、日
 本人はボロボロの状態で、負傷者は洞窟の中で半ば捨てられたようになっていました。
 運が良ければ最期には致死量のモルヒネを与えられますが、致死量には個人差があって
 古くなると薬効が薄れるため、死ぬか生きるかも定かでない。死んでしまう人もいれば、
 ぐっすり眠って気がついたらアメリカ軍の病院にいた、という人もいたんです。
・アメリカ兵は食糧も爆薬も充分に持っていますから余裕綽々、日本人は飢え死にを待つ
 しかない、そんな状況下で、その頃には一般人でも手榴弾を持っていました。民間人に
 手榴弾を下さいと言われると、それは多分自決用ですからね。「いかん、絶対に死んで
 はならん」と言って拒む兵士もいたし、女性を哀れんで自爆用の手榴弾を手渡した兵士
 もいました。
・何が何でも生き抜いて戦後の祖国を生きてほしいという願い、「鬼畜米英」の手にかか
 って陵辱されるぐらいなら死んだ方がましだと考え。本当に「愛の形」というのは当時
 さまざまだったんです。
・日本兵は常に二発の手榴弾を身につけていて、一つは自決用、もう一つは敵に向かって
 投げる最後の一撃のためのものです。それで戦局を替えられるというものではないんで
 すけどね。それが日本人というものか、それとも戦いの本質なんでしょうね。
・近年、しっかりした芯を持つ日本人が少なくなりました。芯を常識と置き換えるなら、
 高級なものから低級なものまでさまざまですが、戦後教育は、彼らが国のために死んだ
 のも軍部の暴走への加担であり、これからは他者のために死んではいけない、という利
 己的な考え方だけを植えつけたんです。
・教養とはもしかすると、その人間の肝の据わり方だともいえます。他人にどう思われよ
 うと、自分は自分なのだという強烈な個を備えながら、大切なことを静かに語れる。肝
 の据わったひと言、古今の哲学者の言葉、真を突いて笑わざるを得ないようなユーモア
 など、ふとした時に垣間見せる、人間総体としての教養と魅力というものは確かにあり
 ます。そしてそれは天性の素質と、勉強によって後天的に取り入れられたものとの二つ
 の要素の果実なんです。
・国会での質問や答弁にせよ、会社の中の意見の対立にせよ、分野や年代性別を問わず社
 会全体から個性とユーモアが消えて、つまらない理屈ばかりになって来ましたね。自分
 の考えばかり声高に言うのは無教養というより野暮ですね。今日野暮なんて言葉は、あ
 まり誰も使いませんが、野暮はほんとに野暮で、人が付き合いたくなくなる神経なんで
 す。
・自分に自身がない、という若者の比率は日本人が圧倒的に高いそうですが、過不足ない
 自分を認めるのは、プラスの面だけでなくマイナスの面も認めるということです。過不
 足なく自分を語ることが大切なのにそれができないということは、幽霊が恐らく自分を
 語れないようなものですよ。
・過不足なく自分を語ることは、作文能力とも関係しています。作文は、自分が何をどう
 感じ取ったかを書く訓練ですから、それに対して他人がどう思うかという葛藤なり、衝
 突なりが伴います。それで褒められることもあれば、貶められたり、馬鹿にされたりも
 するわけですが、他者を通した結果を受け止めることで、自分を見つめることができる
 胆力も鍛えられます。作文能力、表現力というのは、一種の武器なんですよ。武道と同
 じように。それをちゃんと教えない教育、教えられない先生たちというのは、困ったも
 のです。
・愛、と言うと日本ではどうも甘ったるい響きがありますが、キリスト教が教える愛は全
 く別物です。聖書に出て来る愛には二つの原語があって、一つは「フィリア」で、人そ
 れぞれの好悪の感情の結果、好きだと思えるもののことです。しかし聖書の言うほんと
 うの愛は、決して感情的に好きになることではない。聖書が使う本当の愛には、別の
 「アガペー」という言葉が使われていて、「汝の敵を愛しなさい」と教えると時の愛で
 す。つまり感情としては憎んでいたとしても、理性によって愛しているのと同じ行動が
 取れることを指します。つまり意志の力で、裏表のある人間として敵を愛しなさい、と
 いうことです。
・教養の本質というのは、かつての旧制高校のように多くの本を読み談論風発することで
 も、芸術や古典の知識に秀でることだけでもありません。人間の営みの総合としての世
 間、人の心の機微を知っていることだと私は思います。機微というのは、あらつる人の
 あらゆる端っこや出っ張りを削除して形作られてきた、ある意味での人間の知恵なので
 す。

老・病・死を見すえる
・人間、幾つになっても緊張感と危機感が必要です。戦争特派員みたいに泊っているホテ
 ルが砲撃されるとか、取材中に銃弾に倒れるとか、そういう絵に描いたような危機の真
 っ只中になど誰もいません。が、生きることへの緊張感と危機感を失ってクラスことは
 ありえないと思います。
・日本では、年をとって病気になったりして口から食べられなくなると、当り前のように
 胃に穴を開ける「胃瘻」で栄養分を流し込みます。けれど、ものを食べなくなってやが
 て死ぬのは人間として自然な死に方ですから、そうまでして「食べさせる」必要はない
 でしょうね。
・胃瘻以外にも延命のための医療技術はさまざまありますが、本人が本当に望んでいるこ
 となのか疑問ですから、普段から自分の希望をよく登録しておくといいですね。入院と
 同時にまだ呆けていない八十歳以上には全員に紙を配って、延命処置を希望するかどう
 かを書かせてはどうかとさえ思います。私自身はそれでかまわないし、変更したくなっ
 たら後で再申請できるようにすればいいだけのことです。
・いずれ日本でも、安楽死が合法かどうかという議論が出てくるだろうと思います。スイ
 スではすでに合法的に認められた組織があって、安楽死を望む人が国境近くで待ってい
 ると、迎えの車が来て、二時間程度で処置を負えて戻してくれるのだそうです。けれど
 その安楽死病院の話を聞いた時、あまりいい気持ちがしなかったのは、組織的に安楽死
 の処置をする前に何かすべきことがあるのでは、という違和感を覚えたからです。
・かつては血の分けた家族や嫁に感謝しながらの大往生には、人間らしい伝統的な看取り
 の文化が色濃くありました。しかし今は自宅での死を望んでも、実際には八割以上の人
 が病院の中で亡くなるという、死が見えづらい社会です。家族みんなが見守る中で祖父
 母が死に逝く姿を見るのは自然なことなんです。
・この国では、十三年連続で自殺者が三万人を超えました。他国もかなり多いようですね。
 統計の取り方はまちまちですが、あるデータによると人口十万人あたりの自殺者数で日
 本は世界で五番目に多く(二十五人)、韓国はそれより高い三十一人で二番目。それが
 多いか少ないかは別として、私が言えることは「この世には、生きたくても生きられな
 い人間が大勢いるのに、自分から命を断つなどというあてつけがましいことはやめた方
 がいい」ということです。
・とはいえ、自殺してしまった人について他人が決して裁いてはいけない。死に方が人に
 迷惑をかけるようなものでないことは最低条件ですが、その人が最後の最後にどういう
 思いでいたのか、他人には到底うかがい知れないことだからです。
・人間には、悲観する、つまり悪い方へ、悪い方へと考える能力が必要です。綺麗な湖、
 美しい入り江を眺めながらも、彼方に見える火山が噴火するかもしれない、津波が来た
 らどこまで水位があがるだろうか、いつでもそう想像してみることです。

「人間の基本」に立ち返る
・まず、安心して暮らせる生活などあり得ない、ということです。この国では選挙のたび
 に政治家が口を揃えて「皆さまに安心して暮らせる、安全な社会をお約束」し、国民は
 それを鵜呑みにして来ました。でも、これほど明瞭な嘘はないんですよ。安心して暮ら
 せる人生だけはどこにもない。
・戦後日本が妄信してきた民主主義は、電気が止まるのと連動して一時停止する、せざる
 を得ないものです。電気が供給されないような非常時の指導者は民主主義的な選挙を経
 て選ばれた首長ではなく、それとは別次元の長老や顔役になります。もちろん、私たち
 には明かりのある間に蓄積された知識や経験があって、それは停電下でもあるていど維
 持されます。
・民主主義が消えると、今まで遣い馴れていた法律や規則の意味がなくなります。恒久的
 な最高法規とされる憲法から会社の就業規則のようなものまで、それまで従っていたル
 ールが失われてしまう。いわば「超法規」の中では、個人一人ひとりが対処する他あり
 ません。
・法律も制度もあくまで人間が作ったものであって、非常時には停止したり、弱体化した
 りもする。やがて状況が落ち着いて常態に戻った時にはルールの世界に戻るとしても、
 非常時にはそれを壊して生きる必要があるのです。
・トリアージとは簡単に言うと、災害や大事故のような医療資源が限られた非常時に、す
 でに手遅れ、急を要する、多少はもちそう、という具合に怪我や病気の人に生きられそ
 うな可能性の順位をつけて選別して行くことです。
・私自身が年を取ってからますますはっきりと、非常時には老いた人間から使い捨てる、
 広い意味でのトリアージがあっていいと思うようになりました。なりましたが、たくさ
 んの高齢者はそれに反対でしょうから、それを他人に適用することはしません。自分の
 心の中で確認しているだけです。
・もともと私は自分も他人も信用していないんです。日本人は、政治家以外は皆、賢くて
 教養がある人がたくさんいて、誰でも平時にはいい人です。しかし政府が自然災害の後
 食料や水やシェルターを与えてくれなかったら、多分日本人もモッブ(集団的暴徒)に
 なるでしょう。真先に私自身がそうなりそうだから、私は個人的に、弱い自分のために
 備えていたんです。暴走する牛の群れみたいにパニック買いに走れば、その中で他人を
 踏み殺したり、自分が踏み殺されたりということにもなる。
・日本では自衛隊と軍国主義を結びつける考え方が根強くありますけど、自衛隊は国家と
 して心身共につり合った制度として考えるべきものです。大人たちが代償なき平和を若
 者に教え込んだために、国家のために死ぬなんてひどい、国民に死を押しつけるのか、
 と甘ったれた若者ばかりになってしまった。
・平和は、口で唱えていても現実にはならないものです。周辺から侵入する国は必ずある。
 平和というものは、時にはそのために死ぬ覚悟さえして守るものです。おきれいごとで
 平和が達成できるような錯覚を与えたのは大人たちの責任で、戦後教育の大きな誤りだ
 ったんです。