自分の始末 :曽野綾子

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人は誰もがいつかは死ぬ。年を重ねて、人生の残り時間が少なくなってきたとき、そのこ
とを悟り、自分の人生に始末をつけなければならない。いかに自分の人生に始末をつける
か。自分の人生が意味あるものであったかどうかは、この始末の仕方によるところが多い
気がする。


まえがき
・あるがままに生きることにした。要は人間は適当に自分の心理を始末すればいいのだ。
 そしてひとがめいめいで何とか自分の始末をしてくれれば、世間はほんとうに穏やかに
 なる。
・本来の「始末」は、折り目正しい言葉なのだろう。始めがあれば、終わりもあるのが自
 然でまっとうな推移なのだし、首尾一貫と言えば、それは整った状況を意味すると思わ
 れる。地球の或る時に仮初の生を受け、私はせめて或る程度密かに、自分の始末をし続
 けて死ねれば幸福と思っているのである。
・年を取ったら、最後の目標は、自分のことだけ何とか始末しなければならない、と思っ
 ている人は、私の周囲にたくさんいる。
・人は他人には聞こえないほどの「ため息」を漏らしつつ生きるものなのかもしれない。
・「自分の始末」の意図するところは、実はたった一つ、できるだけあらゆる面で他人に
 迷惑をかけずに静かにこの世を終わることである。私たちは一瞬一瞬を生きる他はない
 のだから、その一瞬一瞬をどう処理するか、私はずっと考えてきた。

定年後を輝かせる「新たな仕事」
・人生には不慮の災害というものがある。しかし死と定年だけは、予期せぬものではない。
 これだけは誰にもいつかは一度来るものだから、別に悲惨だったり、苛酷だったり、不
 運だったりするものとは言えない。定年は、いわゆる自由業と言われる職業の人にもあ
 る。
・定年後の生活がうまく迎えられないとしたら、それは備えが悪かったのである。
・定年は、自分にとっては大きな変化だが、他人はほとんど意に介さない。
・問題にしていいのは、会社や役所などの組織に属していて、予測された定年を迎える人
 のことであろう。わかっているのに、なぜ用意しないのか、ということだ。
・マスコミは軽薄に、多くの定年退職者が、残りの人生を生き生きと暮らしていない、と
 いう書き方が好きだ。しかしそうでもあるまい。何しろ定年はわかっていたことなのだ。
 突然雷に打たれたわけではないのだから。
・冒険をしよう。中年以降の特権は、冒険をしてもいいということだったに違いない。若
 い時には、私たちは親や子供のために生きていてやらねばならない。しかし或る年にな
 れば、もういつ死んでもいいのだ。冒険を若者のものではなく、むしろ老年に贈られた
 輝かしい特権だということを、私は今まであまり聞いたことがない。
・ほんとうは、定年後は自由人になれたはずである。勤めに出る必要もない。気の合わな
 い上役の心理を斟酌する必要もなくなった。しかし現実には、自由人どころか不自由人
 になった人も多い。自分のしたいことがわからない。本も読まない。生活に必要な仕事
 の内容や手順も知らない。自分に必要な身の回りの家事一切ができない。
・心がけ一つなのだ。おもしろがれば、すべてできる。すべて自分が主体となり、その分
 だけ自由になる。 
・どうして人間は、人並な知能と体力に恵まれて生きて来たのに、早々と他人に頼る生き
 方に見切りをつける賢さが完成しないのだろう。ましてや高齢者は、長い人生を生きて
 何より経験が豊富なのだから、他人が自分の思い通りにやってくれない、というような
 単純なことくらい、早々と悟ってもいいと思うのである。
・「おちかけの機能」を止める方法は少しあるように思う。「おちかけの外見」を止める
 方法は知らないが、肉体と精神の機能の低下は少し食い止めることはできるように思う。
 それは生活の第一線から、引退しないことである。食を引かないことはできない。日常
 生活の営みを人任せにしないことである。
・惚けたり気力が失われたりすると、人はもう段取りをつけることができなくなる。そう
 なったら、思いつきで、思いつきの行動に出る他はなくなる。段取りは、医師の力、予
 測能力、外界との調和の認識、そして何より謙虚さ、など総合的な判断が要る上に、た
 えずそのような配慮をすることで心を錆びつかせないことができる。
・料理ほど、この段取りが生きているものはない。同時に幾つものことを、どのような順
 序で行っていくか、頭の中で構築できない人には、料理はとうてい作れない。だから大
 げさにいうと、料理は軍隊の上陸作戦や、南極越冬隊の企画の極小の雛形ほどには、緻
 密な頭の動きが必要なのである。だから男性でも女性でも、料理をばかにしてしないと、
 恐らく頭は早く惚ける。料理は観念ではなく、あくまで実践の仕事だから、場数を踏ん
 でいないと、頭でできると思っていても、実際にはほとんどできないか、失敗の連続に
 なるのである。
・ごく自然に、遊び半分に魂の老化、精神の錆びつきを防ぐ方法は、何ほどのものでもな
 いのだ。毎日料理をすることと、時々旅をすることである。二つとも、考えようによれ
 ば、誰でもがしている暮らしであり遊びである。
・予測し、分類し、不必要なものは捨て、一つずつ片づけて行き、完全に望まない。料理
 と旅はその訓練を人間にしてくれるから、精神が錆びつかないのである。
・人間の壮年期の特徴は、休むということを知らないことである。それは明らかに思い上
 がりなのだが、まだ体に不調がでないうちにいくら言っても、当人がそれを納得して、
 生活を改めるということは、まずしないものである。だから、人間は身をもって、厳し
 い体験をして、自分の限度を知る他はない。
・健康は生きるための一つの条件に過ぎないのだから、健康維持そのものが目的になった
 ら終わりなのである。
・職業には貴賤はない、という言葉は、どんな職種も技能も社会に要らないものはない、
 という意味では、全くそのとおりである。それを認めない人は、想像力に欠けていると
 いう他はない。しかし現実には、誰でもできる仕事と、誰にでもできない仕事とがある
 ことも事実である。だから世間は誰にもできる仕事を軽視し、誰にもできない仕事をす
 る人を尊敬したり、その人に高い報酬を払うのである。
・私が今言いたいのは、老年になったら、私たちは皆、その特殊な人ではなくなる、とい
 うことだ。
・高齢者だからと言って労ることさえせず無視されて末席に捨ておかれるかもしれない。
 しかしその時こそ、末席の楽しさを知るべきだ。末席が一番よくすべてが見える。
・今までの権力や実力の座から離れ、風の中の一本の老木のように、一人で悠々と立つこ
 とを覚えるべきなのだ。今までは、会社や組織という系列で守られていた並木の一本で
 あった。しっかりした木は、材木として価値はあったろう。しかし古い木は薪の値段に
 なる。
・はたの評価はどうでもいいのだ。きれいに戦線を撤収して、後は自分のしたいような時
 間の使い方をする。だれをも頼らず、過去を思わず、自足して静かに生きる。それがで
 きた人は、やはりひとかどの人物なのである。
・制度と、自らが決める規範とは、全く別のものである。制度は平等を物差しにし、自分
 が決める規範は、自分の美学を尺度にする。
・人間は基本的に、たとえ健康な時であっても、一人では何もできないものである。社会
 の仕組みを借りて、眼に見えない人たちの働きによって、私の生活は成り立っている。
 私たちはお世話になりながら、しかしいささかの闘志を持って暮らせばいいのである。
・私が今、一番希求するのは、静かに人生を退場する方法である。それは死ぬことだけで
 はない。どこかこの地球の片隅で、孤独にも耐え、静かに自分自身と向き合って観想の
 日々を送ることだ。それができるかどうかは、個人の才能にかかっている。時間は充分
 にある。選択も自由だ。定年以後のすべての月日がそのために用意されているのだから。

「不純」の大いなる効用
・人生はいい意味で不純だ。一つの事件が起きれば、必ず周囲には誰にもいくらかの非が
 ある。見て見ぬふりをしていた人にも責任がある、という例は多い。しかし周囲の人々
 の責任に、軽重があるのも事実だ。
・私は不純ですから、人生ろくなことはないかも知れないけれど、生きていればおもしろ
 いこともある、というふうに思ってしまうんです。そこが不純な人間と、純粋な人間の
 違いですね。
・人間は穏やかな日常性、家族との日々も好きだが、同時に戦争と戦闘も限りなく好きだ。
 スポーツの原動力は、相手に勝ちたい、相手を打ち負かしたいという情熱で、それもれ
 っきとして人間性の一面の範疇に入っている。 
・この世は、言語に絶した悪いところもないが、いつまでも生きていたいと思うほどいい
 ところでもない。
・人間を信じるか、信じないか、ということになると、私は少なくとも、簡単に信じない
 ことによって、騙されず、大きな事故も出さず、それによって決定的に或る国民を憎む
 というようなことにもならずに済んできた。信じないことが、節度と愛の第一歩だとい
 うことを知ったのはもう二十代の初めからである。この原則を守らないと、相手に一方
 的な想いをかけ、必ずと言っていいほど裏切られて怒らねばならないことになる。
・人を信用しないということが、なんら後ろめたいことではない。人間のやることは正確
 だなどという、非人間的な過大評価もない。人間は間違うものであり、いざとなると力
 しか解決の方法がないことを皆知っている。 
・人を信じない世界は、思いのほか爽やかである。日本人のように人を信じ過ぎると、小
 さなことも裏切りと思え、傷つく。しかし私たちのように人を信じないと、当たり前の
 ことも幸運の兆しとなる。 

どうすれば運命を使いこなせるのか
・人間が何をもって生きていけるのか、ということは、大きな問題です。食べものなどの
 衣食住が十分あって、安全があって、それによって生きるということはあっても、魂で
 生きるというような発想が、日本にはなくなってきたんではないでしょうか。人は何に
 人生を捧げるのか、という視点がなくなってきたような気がします。
・今の日本人は格差のある話だけ好きですが、昔の人は「幸運にも」とよく言ったもんで
 す。だとすれば、いい運を得た人は、それを世界に分かち合えなければいけないんです。
 流通しなければ、という分かち合いの精神をこの頃、日本人は忘れているような気がし
 ます。 
・年取って、別に若い者と張り合うことは必要ないが、人間としての原則的な関係は間違
 いなく平等だ。しかし老年になると、気の緩みからか、もらうことばかり期待して、頑
 張って一人暮らしを続けたり、ごく些細なことでも人に与えようとする気力に欠ける人
 がたくさん出てくる。その時人は初めて老年になるのだ。しかし寝たきり老人でも、感
 謝を忘れなければ、感謝は人に喜びを「与える」のだからやはり壮年なのである。 
・いきいきとした晩年を過ごしている人たちは、どこかで与えることを知っている人たち
 である。与えることを知っている限り、その人は何歳であろうと、どんなに体が不自由
 であろうと、つまり壮年だ。
・「仕える」ということは「与える」ということなんです。日本人は「与える」というこ
 とを「損する」というように受け止めがちですけど。
・得たものは、得た瞬間から失う恐れがある。それは現世の厳しい約束ごとである。しか
 し、ものなど失ってもたかが知れている。人が最も心を痛めるのは、愛する者を失うこ
 とだ。 
・長く生きれば、「得る」こともあるだろうが、それ以上に「失う」ものも多いのだ。そ
 れが中年以後の宿命である。 
・私が比較的のんびりと自然に人生を送れたのは、知っていることと、知らないことを分
 離していたからである。すべてのことを知っているように見せかけると、後がたいへん
 だ。また大きく他人を誤らせる。
・大きな運命の変化に遭った時、人間は決して直ちに重大な決断をしてはいけないという
 ことであった。夫を失うというような補填しがたい喪失を体験した時、人間は慌てて何
 か次のステップを踏み出して、自分を立て直そうとする。しかし、平静を失っている時
 に、正当な判断ができるわけがない。少なくとも、一年くらいは、人は悲しみと疲労で
 傷ついた体と心を休め、その傷の痛みが少し和らいだ時になって、初めてこれから先の
 生涯を、亡くなった人が喜んでくれるような形に編成すべきだ。 
・運命の半分は自ら作るものなのだ。半分の部分でたえず調節し、訓練し続けなければな
 らない。自分は偉大な人物だから、どんなに人に迷惑をかけてもいい、と信じている人
 以外は、他人に迷惑をかけたくなかったら、訓練と節制をすることは、人間としての至
 上命令である。

現実を受け止められないとき、行き悩みとき
・隠すとか、見栄を張らねばならない、という感情はまず第一に未熟なものだ。或る年に
 なれば、隠しても必ず真実は表れるものだ、という現実を知るのが普通である。もし人
 が本当に自分の真実を隠したいのだったら、人のいない森に一人引きこもる以外にない。
 通常の生活をしていれば、その人がどんな暮らしをしているか、何を考えているかは大
 体のところ筒抜けになる。だから隠しても仕方がないのだ。
・見栄を張る人は、人生というところは、何があっても不思議ではない場所だ、という事
 実を自覚していない。用心すれば、自動車事故は起こさなくても済む、というのも一面
 の事実だが、どんなに用心していても、相手の自動車がこちらに向かって飛び込んで来
 たり、自分の車がスリップしたりすることを止めようがない場合もある。だから私たち
 は年を取るに従って心のどこかで覚悟をしているのだ。何ごとも自分の身の上に起こり
 得る、ということを承認しよう、と。だから自分は常にいい状態にいる、とか、自分は
 いい人だ、とかいうことを改めて言わなくてもいい、という気分になるのである。
・アメリカの西部劇ではないが、戦いの基本は自衛なのである。日本国家は、「平和憲法
 なるものを遵守して」アメリカの核の傘の下にいて守ってもらえれば、軍備もいらない、
 という人もいるが、一般的にこの地球上の力関係は自分の身は自分で守るということで
 成り立っているのである。だからいじめっ子に対しては、いじめられる子当人とその家
 族、親しい友人たちが、組んで戦う他はない。マスコミも学校も、昔から卑怯なもので
 あった。
・収入面で下流のレベルでも、精神において高貴な人にはいくらでも会うことができる。
 反面、物質的には「上流社会」でも、精神においてゆすりたかりの生活をしている人も
 いるらしいことは、新聞を見ればすぐにわかることだ。
・もともと人間は他者を理解不能なのだ。これはもう天地開闢以来まちがいのないことな
 のだが、どういうわけか人々はその気になりさえすれば、わかり得ると信じ込んでいる。
・日本人の、実質を見ずに空気でものを言う気質はかなり始末が悪そうだ。首相のKYは
 空気が読めないの略。国民のKYは空気しか読まない略。
・「自分の身に起きたこと」の中には願わしくないものも多い。しかしそれでもそれを無
 駄にせず、そこから学び、それを楽しんで年と共に成長し、苦労も病気も「資本」にす
 る術を覚えるのである。
・病気というものは綿密に付き合っていると、なかなか出て行ってくれないものなのだ。
 少々でたらめに、いい加減にあしらっていると、待遇が悪い人間は嫌いなのか、いつの
 まにかいなくなるような気がする。病気に対するこのような一種のあしらい方など、若
 い時の私は考えることもできなかった。しかしこの年になって自分自身の姿や周囲を見
 回すと、病気に対して「丁寧でない」人の方がはるかに元気に生きていることがわかっ
 たのだ。病気以外にすることがたくさんあって、病気のことなどあまり考えていられな
 いのがいいようだ。病気も一つの人生の出来事と思い、できるだけ軽くやり過ごすとい
 う姿勢が必要なのである。つまり人生で、人間は何度も病気にかかるだろうが、死ぬの
 は一回だけなのだし、その一回さえ済めばそれ以上何度も死ななくていいわけだ、とた
 かをくくることが大切なのである。
・うろたえている時には、決して今すぐ結論を出さないということであった。心が揺れて
 いる時に、将来の方針など決めると、とんでもないことになって来る。とにかく、辛い
 ことがあったら、時間を流すことだ。そのうちに何となくこうした方がいいという道が
 落ち着いて見えるようになるだろう。それまで慎重に、待つのである。

問題は「どう生きたか」
・私たち人間ももしかすると今でも滅びる可能性がある動物だ、ということである。マン
 モスが滅びたように、そしてまたトキが滅びかけたように。人間の知恵はその運命に対
 して全霊を上げて闘うだろう。しかし人間だけが滅びないということを信じるのもまた、
 思い上がりなのだ。
・何歳で死のうと、人間は死ぬ前に、二つのことを点検しているように思われてならない。
 一つは自分がどれだけ深く人を愛し愛されたかということ、もう一つは、どれだけおも
 しろい体験をできたか、である。それが人並み以上に豊かであれば納得して、死にやす
 くなる。 
・愛というものは、相手をよいと思われる方向に、むりやり方向転換させることではない。
 むしろじっと見守ることだ。
・お金は、あり過ぎても無さ過ぎても人を縛る。多くの家庭的な問題で、お金があれば解
 決することも多い。もしもう一部屋あれば、年寄りが同居していても、家の中でもめな
 い、ということもある。長い看病になると、週に一度、誰か手伝いの人に来てもらって、
 昼寝をしたり外出をしたりすれば、気持ちも休まり、看病人の気力お健康も長持ちする。
 だから私はお金を軽く見ることはしたくはない。しかし有り過ぎると、人はまたお金に
 縛られ、お金にお仕えしなければならなくなる。
・外見の若さの基本は、新鮮で安全な食材を使った食事をすることだろう。人間の長寿や
 健康の元は、日々の栄養の接種法の積み重ねの結果だ。もう一つ若々しい魂を保つため
 には、精神の栄養が負けず劣らず必要だ。そのためにはたくさんの尊敬すべき人に会い、
 複雑な人生の機微に触れた会話に加わり、強烈な現世の限界の姿に触れる体験をし、何
 よりもたくさんの読書をしなければならない。しかしそういうことにほとんど時間もお
 金を使わない人たちが、どうして若さを美貌を保てるのか、私は不思議でならないので
 ある。本も読まず、冷凍食品で食事をし続けたら、心身共に早く年老いていることだけ
 は明白だと思う。
・食物さえ、食事という人間的な行為が軽視された結果、ただ空腹を満たすためだけの目
 的で考えられた「カロリーメイトとコカコーラ」で食事をしたつもりのOLは別に珍し
 くない。生活のために努力は人間の宿命なのである。それをしないと魂が酸欠になる。

人生の思いがけない「からくり」を知る
・すべての人間の行為は、力をむしろ合理的に抜いて、必要な方向と時だけに集中できる
 時に有効な結果を生むということも、私は初めて悟った。
・逃げていては事は解決しないというのも本当だし、逃げているうちに何とか解決してい
 るというのも本当なのである。
・人間にできる可能性の限度を思うと、私はすべての歴史に不明な箇所を残すことこそ自
 然だと思うようになっている。それでもなお、明確な部分を知るだけでも、私たちは霧
 の間に、ある悽愴な現場を見るような思いになることもあるものである。いや全貌が見
 えないだけに、かえって恐ろしいこともある。
・昔は、人生では不幸が原型だったが、今は幸福で当たり前になったのである。当然のこ
 とだが、今でも貧乏、病気、不運はある。昔不幸な人は「人生はこんなものなのだろう」
 と考えて黙って耐えていたが、人間は幸福で当たり前、「安心して生れきる」社会を、
 政治家も役人もこぞって標榜するようになると、いささかでも不幸のある人は大きな声
 でその不備を政府だか社会に対してなじるようになる。不幸は沈黙しているが、幸福へ
 の飽くなき要求と権利の追求は、饒舌なのである。
・考えてみれば退屈ということは実に偉大なエネルギーの貯蔵庫である。退屈を感じた時
 に、人間は何をすべきか考える。だから、子供には、退屈をさせなければいけない、と
 いつかどこかで読んだことがある。退屈しきって、体が裏返しになりそうな深いあくび
 をして、それから、「さて、何をするか」と考えることが必要なのである。退屈はテレ
 ビさえなければ、簡単に創り出せる。テレビの偉大さも最悪もそこにあるのだ。テレビ
 によって偉大な人間が出にくくなることも本当なら、テレビによって、社会のことをよ
 く知っている老人が増えたことも忘れてはいけない。
・まわりの老人たちを見てますけど、65歳までは、まあまあ大丈夫。65歳以上は人に
 よります。元気な人はいい。しかし体の弱い人はそろそろ故障が出てきます。体の故障
 は自分でわかるからいいけど、頭の鈍くなるのは、当人はわからない。65歳をすぎた
 ら、責任ある地位につくべきではないですね。自分の頭がどれほどぼけているか、当人
 にはわからないんですから。
・スターリンは巨大な権力を持って人々に臨んだ「強者」だと思われています。しかしこ
 こでは、彼がいかに弱い性格であるが故に、防御的に攻撃的な人物になったかが随所に
 示されている。ほんとうの強者は弱点を隠さない。自然に嘆いたい、うちひしがれたり、
 もっと幸運な人を羨んだりできる、ということなのかもしれない。だからもしかすると
 私たちが用心しなければならないのは、自分の周囲の強い人ではなく、弱い性格であろ
 う。というか、弱い性格のみが、圧力的に強者を装うことができるのである。真の強者
 は、弱者を別に圧迫しなければならない理由がないのだ。
・人はいいことだけをするのではない。いいことだけをしようとしてもむりだ。時には悪
 いこともする、と考えればあまり追い詰められた気分にならなくて済む。 
・人間の優しさもいろいろな形を取る。人間の残酷さも表現はさまざまだ。そのからくり
 を死の前に知って、私は大人になって死にたい。それゆえにこそ、簡単に人を非難せず、
 自分の考えだけが正しいと思わず、短い時間に答えを出そうとは思わず、絶望もせず落
 胆もせず、地球がユートピアになる日があるなどとは決して信じず、ただこの壮大な矛
 盾に満ちた人間の生涯を、実のおもしろかった、と言って死にたいと思う。
・日本人が一番いけないのは、まったく他力本願になったことかもしれません。食べられ
 ない人がいたら、政府が全部面倒を見ればいい、と。海外の多くの国では、個人が助け
 ています。親戚とか友だちとかが。嫌々な人もいるでしょうけど。皮肉なことに、社会
 保障が充実すればするほど、慈悲の心がなくなってしまうのですね。
・どんな階級にもいろいろな人があり。明らかなことは、人間が、悪魔でも神でもないと
 いうことだ。誰もが、時に応じて、似たり寄ったりのちょっといいことをしたり、ちょ
 っとさぼったりして生きている。その点を常に深く心に銘じていないと、他人をその心
 奥までわかったつもりになって裁くという恐ろしい行為をすることになる。
・中年というのは、この世には、神も悪魔もいなくて、ただ人間だけがいるところだとい
 うことがわかってくる年代である。人間には完全な人もいない。誰でもくせや思い込み
 があり、適当ということがない。蛮勇に傾くか、臆病になるか、どちらかである。蛮勇
 がいいか臆病がいいか、これは一概に言えない。ただはっきりしているのは、蛮勇がこ
 との推移や解決に有利に働く場合もあるし、臆病が安全を保ち時間稼ぎをしてくれる時
 もある。すべては使いようだ、と私は思うのである。しかしこの曖昧さに耐えることが、
 実は意外とむずかしい。人間は簡単に白黒をつけたいのだ。
・努力だけで人生が開けると思わない。好きだと思った女と結婚することでいい人生を送
 る人もいるし、それが不運の原因になる人もいる。反対に本当に好きだった人には失恋
 し、対した情熱もなく結婚した相手が、大きな幸運をもたらしてくれることもある。そ
 うした意外性を含めて、運があるから(或いはないから)従う他仕方がないだろう、と
 感じることが、老年の、或いは末期の眼の透明さというものなのだ。
・戦後日本のおかしなことの一つに、物事の始めと終わりがわからなくなってしまったこ
 とがあると思います。この前、知人の車で夜の街を走り抜けながら、日本というのは、
 なんと静かで整然と運営されている国なんだろうと感心しました。敗戦後の何もないと
 ころから、ここまで到達したんですね。でもインフラが整備され、流通機構が発達した
 分、生活の源流が見えなくなった。つまり、生活に必要なものがどこでどうつくられて、
 自分のところにやって来るのかわからない。

遠距離「世間」のすすめ
・延ばすという知恵は大切だ。誰かに抗議したくなったら、明日までメールを送るのを待
 ったらったらいい。誰かを殴りたくなったら、この次に会った時にすればいい。相手を
 なじる手紙を書いたら、封をするのは明朝にして、明日再度読み返してみるのだ。
 すると多分、気持ちはかなり変わっているだろう。
・離れる、という技術も大切なことだ。相手を殺すほどいやになったら、その人が見えな
 い所にさっさと逃げ出すことだ。見えもせず、触ることもできない相手を焼き殺したり
 絞め殺したりすることはできないから、場所を変え、時間を引き延ばすだけで、事情は
 変わってくる。こちらの感情も風化する。その速度はおそろしく早い。
・自分ひとりの行為が何でも許されると思うこと自体が、他者の認識ができていないとい
 うことの証明です。他者の認識がないことが、「愛」の認識に至る道が閉ざされている
 原因だと私は思います。
・本来なら、人間はいかなる状況の中でも、自分が生涯をかけた好みや自分がそこに置か
 れた意味を発見できるはずだと思う。それを可能にするのは、他人とは違った判断をす
 る勇気そのものです。それを教えなかったから、自分自身の評価を失って、評価を大衆
 の眼に合わせようとする日本人が多くなった。学歴主義も、安全な職場志向も、ブラン
 ドものという名の大量生産品を夢中になってほしがる若い人々のファッション性も、そ
 の結果だと思います。
・沈黙は神に直結し、多弁は愚かな人間同士を結ぶ。愚かな者は愚かな者同士、屯するの
 も悪くはないのだが、愚かな者が愚かな者として働けるのは、賢者の有効性を認識し、
 尊敬する場合である。私はせめて死ぬまでに、黙って死ねる人間になりたい。それがで
 きれば私の人生はかなり香りのいいものになるはずだ。

「自分の時間」を管理する知恵
・一日二十四時間しかない。時間が一番やり繰りがきかない。時間が一番残酷だ。時間が
 一番誠実を要求する。誰に、どこに、何を棄てて何のために使うか、をはっきりさせる
 ことを要求する。私は時間が恐ろしい。
・実に中年以降の人生は、選択の連続を生きることになる。あちら立てば、ことら立たず、
 が原則だ。その時、人は自分の中で、否応なく優先順位を決めることになる。きれいご
 とを言っていては済まなくなるのだ。どちらかを選べば、別のものを棄てることになる
 現実を実感する。
・ものの過剰は人間を疲れさせるし、もの一つ一つの存在の意義も失わせる。人間が一つ
 のものを欲しいと思ったら、それを手に入れるまでに、ほんとうはやや長い時間をおく
 べきだ、と私は思う。その時はじめて、そのものがほんとうに私の生活に入ってくるべ
 きかどうかを見極めがつく。 
・お金は使うためにある。そんな分かりきったことを、ほんとうは言わなくてもいいはず
 なのだけれど、なぜか溜めるのが趣味みたいな人があちこちにいる。溜めるということ
 は単純に体によくない。呼吸という運動の中で、空気を吐き出せなくなると、それも一
 つの病気である。食べるものが出なくなると、それは便秘で腸癌の原因になる。お金も
 うまく使うことができなくなると、毒が廻って守銭奴守になり下がる。お金は使うこと
 が健全なのだ。しかし何にどう使うのが健全だと、まともに言えないところがむずかし
 いのである。
・豊かさは、往々にして人の心を狂わせることがあって危険なものだが、貧しさは人間ら
 しい心を失わないための神からの贈り物である。なぜなら、豊かさの中で育つには、厳
 しい自律の精神がいるが、貧しさは例外なく人の心に、思い遣りや忍耐心や謙虚さを与
 えてくれる。
・人は孤独な時間を持たない限り、自分を発見しない。人は二つの場面で自分を見つける
 のである。群れの中にいる時と、自分一人になる時とである。人中にいる時も、辛いこ
 とがある。自分が何気なく言った言葉で相手を傷つけてしまったのではないかと思う時
 や、自分の能力や配慮のなさが相手との対比の中で際立って見える時である。そういう
 時には、自分一人になりたいと思う。一人なら、相手を傷つけないし、比べられること
 もないし、バカ丸出しのような失敗もしなくて済む。
・一口で言えば、老年の仕事はこの孤独に耐えることだ。逃げる方法はないのである。徹
 底してこれに耐え、孤独だけがもたらす時間の中で、雄大な人生の意味を総括的に見つ
 けて現世を去るべきなのである。これは辛くはあっても明快な目的を持ち、それなりに
 勇気の要る仕事でもある。

ささやかだけれど贅沢に生き方
・ごくありふれた、平凡でいつでも代替えがきく仕事。その手のものは若者ではなく、高
 齢者が引き受けるべきものだ。若者の数が減り、高齢者が溢れる時代になったらなおさ
 らのことだ。それを屈辱的な作業だと思うような愚かな姿勢は徐々にではあっても排除
 しなければならない。そしてそのような平凡な仕事の中でこそ、経験も読書も重ねてき
 た高齢者のみが、もしかすると単純労働に携わりながらあらゆることを考える才能を発
 揮できるのではないか、と思うのである。 

自分なりの「始末のつけ方」
・若かろうと年取っていようと死は必ずやって来る。その前に自分が生きている間に得た
 ものを始末していくのは、「帳尻を合わせる」ことである。
・私たちは死んだ後、何一つ持って行くことはできないのだが、自分の死までに自分が人
 生の途中で集め、楽しみもしたものを、すべて始末していくのがすがすがしい。
・私の基本的な不安と贅沢は別のところにあった。私が最も深く迷っていたのは、私のよ
 うな年になった人間を徹底的に「修理する」ために貴重な技術と時間とお金をかけても
 らうことに対するためらいであった。生き続ける意欲が何歳になっても衰えない高齢者
 も多いことも知っている。もし医療機関がこうした人々に冷たいあしらいをしたら、私
 は憤慨し、それはどんでもない非人間的な行為だと言下に言うだろう。しかし私はいつ
 も他人に対するルールや道徳と、自分があしらわれる場合とで、心情に大きな落差があ
 るのを感じていた。私は私個人の場合に限って、手厚く遇されなくてもよかった。老齢
 者がいつまでも生に執着するのは自然に反しているように感じるからだった。
・生きようとしても生きられない場合もある。死にたいと思っている人でも死ねない時が
 ある。私にも人並みな生に向かう本能はあるが、同時にかなり強い諦めが用意されてい
 た。そうでなければ、不運な運命の下に死んだ人たちに対して申しわけがない、と思う
 のである。
・人間はどれかを取ってどれかを諦めれば、許してもらえるような気がする。何もかも、
 という強欲がいけない。しかし人に迷惑をかねない範囲で好きなことをしていれば、そ
 れは世間から「愚かな道楽」という程度で許されることが多いように思う。そのどれか
 をはっきりさせるのが中年以後なのだ。
・昔は、権利があってもしないというのが美徳だった・「遠慮」というすてきな言葉があ
 った。「才覚」というのもいい言葉で、小さいときから「才覚を持ちなさい」と口やか
 ましく言われたものです。何をするにしても、「いちいち他人に聞かないで、どうした
 らうまくできるか自分で考えろ。知恵を働かせなさい」でしたからね。つまり年を重ね
 たら、重ねただけ才覚にあふれた老人がたくさんいたわけですね。
・年とともに、一つ一つ機能が衰えていくのは当然でしょう。でも年をとってもなお、で
 きるだけ自立するためには、知恵を働かせて残された機能を使い続けるよりしょうがな
 いのだ。
・何もかもきれいに跡形もなく消えるのが、死者のこの世に対する最高の折り目正しさだ
 と私は思っている。亡き人の思い出は、その子や孫が自然に覚えている範囲だけでいい。
 その人がこの世に存在したことを、銅像を建てたり記念館を建てて残そうとするのは、
 私の好みではない。
・犯罪を犯して記憶されるよりは、悪いこともせずに済んで、誰からも深く恨まれること
 なくこの世を去っていけるだけで、この上ない成功である。晩年の義務は、後に、その
 人の記憶さえ押しつけがましくは残さないことだと私は考えている。
・多くの日本人の親は、子どもをずっと大人にしない。「受験だから何もしないくていい
 よ」とか言って、家のことは何もさせない。家庭内暴力を振るう子供のほとんどは、家
 で甘やかされ、親から用事を言いつけられることもなく、まるでお客さん扱いで、家族
 とともに生きているという実感や責任感を自覚したことがないのだと思う。だから暴力
 を振るって、自分はこんなに力があるんだぞ、と示すほかはないのでしょう。